この地位になってから、頭を数え切れないほど下げられてきた。
自分が『その中』を歩けば、誰もが怯え、誰もが恐れおののく。そして、条件反射を仕込まれたパブロフのガーディのように、頭を下げる。
こちらが反応を返せば、熱を籠った視線が背中に突き刺さる。返さなくとも、色の入ったため息の音が聞こえて来る。
奴らにとっては、俺の言うことが全てなのだ。俺の存在こそが、全てなのだ。だから俺の命令には必ず従うし、実行しようとする。
……どんなことでも。
何処かの企業を襲えといえば、彼らはすぐに実行する。ポケモン達を千匹捕って来いといえば、二十四時間以内にそれは成し遂げられる。
いつからか、俺は奴らが皆同じに見え始めた。命令のみに従う、忠実なアンドロイド。
辛うじて区別がつくのは、奴らを纏め上げ、俺に直接報告できる立場である、幹部だ。だが奴らも、俺の命令とあれば何でも行う。返事は『YES』か『はい』だ。俺がそう設定した記憶はない。
いつの間にか、そうなっていたのだ。
そんな奴らに嫌気が差し、俺は表舞台に立つことを止めた。幹部達が持ってくる書類や、警察の動向、そして一日のスケジュールを確認し、たまに息のかかった場所へ赴き、彼らへの『確認』をするだけになった。
以前読んだ物語に、カロス地方で活動する、ある怪盗の話があった。
そいつは何でも盗んで見せる。カロス一高い建物、プリズムタワーだって盗めるし、どんなに厳重に警備されている宝石でも、いとも容易く盗んでしまう。
そんな怪盗の話はどんどん広がり、最終的には数百人の部下を持つことになる。
だが、それでは終わらない。
それだけ部下がいるということは、当然、全員に目が行き届かない。ある者は自分を騙って詐欺を働き、ある者は自分を題材にした本を書き、億万長者になった。
当然、怪盗は頭を悩ませる。だが、自分ではもう止められないほどに、名前が売れてしまっていた。
俺はこれを読んだ時、その怪盗の気持ちが分かったような気がした。ただ、この男と自分が同じだとは考えなかった。
少なくとも、今の所奴らは俺に対して何も迷惑はかけていない。俺の名を騙って別に悪事を働く奴も、この組織の秘密の暴露本を書いて一儲けしようと企む奴もいない。
……まあ、俺の手を煩わせるまいと、発覚した時点で俺には報告せずに幹部の手で制裁が行われているのかもしれないが。
この『組織』を作って、数年が経ったある日のことだった。
幹部の一人が、任務の失敗を報告してきた。
そいつには、カラカラの頭蓋骨の密漁を命じていた。カラカラの頭蓋骨は、骨董や加工製品として国外でも人気が高い。
裏で裁けば、かなりの資金になる。
だから俺は、シオンタウンにあるポケモンタワーに部下達を向かわせ、そこに生息するカラカラ達を一匹残らず密漁し、頭蓋骨を回収させようとした。
初めは順調だった。少なくとも、途中経過を報告しに来る部下の顔色は、健康そのものだった。
……だが。
奴らは失敗した。報告書には、一人の年端もいかないトレーナーの妨害により失敗と書いてあった。
そいつは、シオンタウンに来たその日に、今その街で何が起こっているのかを住民から聞き、単身乗り込んで来たらしい。
……いや、単身ではない。ポケモンも一緒だった。だがそのポケモンも、特別レベルが高いというわけではない。
むしろ、進化していないのがほとんどだったという。
そのトレーナーは下っ端達を退け、上にいた幹部まで倒し、残りのカラカラを救った。そして、こいつらは失敗を確信し逃げて来た。
写真はなかった。だが、幹部や下っ端の証言から、そのトレーナーが女であることが判明した。
年端もいかぬ、小娘だと。
そのトレーナーはその後も、度々組織の邪魔をした。
挙げて行くとキリがない。幹部は何度か顔を合わせ、ついに向こうに顔を覚えられてしまい、会った瞬間、『あ、この前の』と言われてしまったという。
笑顔で。
それでもってあっさり退けるのだから、幹部は情けないやら惨めやらで、良い歳して泣いたらしい。下っ端が話していたことには。
その下っ端達も、ひどくそのトレーナーを怖がっていた。ある者はポケモンバトルしている最中に殴られ、またある者は団員服を剥ぎ取られそうになり、更にある者は所持金を全部持ってかれたという。
ここまで聞いて、俺はそのトレーナーが正義の味方ではないことを理解した。むしろ、俺達の方に近いのではないか、とまで考えていた。
だが、奴は決して俺達と交わることなく、平行線の状態で接触して来た。
そして、その時は訪れる。
次の作戦の計画を練っていた俺は、アジト内に響き渡るサイレンで我に帰った。
――侵入者あり。
俺が設計し、俺が決めたサイレンだ。続いて、部屋内に設置された電話から、幹部の焦った声が聞こえた。
その幹部は、俺が特に信頼を置いていた男だった。頭脳、実技、部下からの信頼性。そして情をかけない冷酷さ。全てにおいて完璧だった。
その男が、別人かと思うくらい焦った声で、俺に報告する。侵入者です。下っ端達が次々と蹴散らされています。このまま行けば、ボスの元へ辿りつきます。
焦ってはいたが、状況をきちんと把握し、どもることなく俺に伝えて来る姿は、部下の鑑と言えるだろう。だが、次に出て来た言葉に苦虫を噛んだような顔になったのは、無理もあるまい。
「私共が食い止めます! ボスは裏から――」
「この俺が負けるというのか」
驚くくらい、冷たい声が出た。受話器の向こうで、そいつが息を呑んだのが分かった。
その音を聞いて、俺は笑った。そうだ。それでいい。俺がどんな人間かは、お前達が一番良く知っているだろう。
数秒後、幹部の声が聞こえた。
「――『もう一つのアジト』に、全てのデータを移させます」
「分かった」
「あの、ボスは――」
この場にそぐわない、明るい声が聞こえた。女の声だ。だが、本物の大人ではない。大人と子供の中間点。どんなに無謀だと周りが叫んでも、決して聞く耳を持たず、そのまま突っ走って行く――。
誰も、止められない。じゃじゃ馬。
まだ何か言っている電話を切り、俺は振り向いた。
白い帽子、袖を大胆に露出した水色のタンクトップ、オレンジ色のミニスカート。足にはルーズソックス……今はレッグなんたらというのだろうか。
一人だけで突き進むことは到底不可能だと思われた。ポケモンに助けられてきたのだと分かった。
そうでなければ、ここに五体満足で来られるわけがない。
「――ここが、最深部」
帽子を脱いだ。濁り一つない目が、俺を真っ直ぐ見据える。怯えは微塵もない。
しばらく睨み合いが続いた。
先に口を開いたのは向こうだったが、そこから漏れた言葉は、俺の予想斜め上を行っていた。
「“――桃李は 言わざれども 自ずから 蹊を成す”」
海外の格言だ。その言葉の意味を思い出そうとして、俺は口を開いた。
「こんな場所まで乗り込んでくるとはな……」
「皆、アンタのことをすごいって言ってた。 アンタの名前を連呼しながら、散って行ったよ」
「……」
「大丈夫。 私にそんな度胸、ない」
相手が笑った。
「サ カ キ」
「――ずっと会ってみたいと、思ってた」
あれだけの人間が傅く人間が、一体どんな人なのか。
『桃李は言わざれども自ずから蹊を成す』
――桃や李は美味しい実を付けるから、何も言わなくても、その木の下には自然と人が寄って来る。
徳のある人間の下には、何も言わずとも人が集まってくることのたとえ。
あの怪盗は、カロスはミアレの小さなカフェで、美しい娘と会話をする。
その娘は、隣に座った青年が、その怪盗だと一発で見破る。今までどんなことにも驚愕しなかった怪盗は、何故分かったのかと彼女に聞く。
彼女は言った。
『だってわたくしは、怪盗ジバゴ様を愛していますもの。 この世界の誰よりも愛していると、自信を持って断言できますわ』
そうして彼女は、怪盗に天使よりも美しく微笑んだ。その微笑みを向けてもらいたいがために、怪盗は無一文、裸一貫で出直すことを決める。
――だが、俺にとってはこのトレーナーの微笑みは、天使なんて可愛らしい物には見えなかった。
「バトル、しようよ」
契約と引き換えに魂を奪おうとする……。
悪魔の微笑みだった。