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  [No.2722] ◆クジラ博士のフィールドノート 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/17(Sat) 20:09:13   138clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
◆クジラ博士のフィールドノート (画像サイズ: 800×1070 439kB)

 ホウエン地方南南東の海に位置する孤島、フゲイ島。その島の海域は、世界最大のポケモン・ホエルオーの一大生息地となっている――うきくじら、そしてうきくじらに魅せられた人々が織りなす、ちょっと不思議なポケモンストーリー。


目次

幻島
海上に浮かぶ町、キナギタウンに伝わる昔話。(豊縁昔語より)

浮鯨島観光案内
ホウエン民すらよく知らない浮鯨島、フゲイタウンの紹介。

うきくじら
どこまでも広がる雲の海で、少年と鯨はただゆっくりと進む。
空飛ぶ鯨の目的地とは、少年の行きたかった場所とは。

メロンパンの恨み
ポッポVSクジラ博士。食べ物の恨みは一生モノだ!

森と海と
ポケモン学会、新説を携えて男はその舞台に挑む。
森と海とを繋ぐ、とある未来の物語。

海上の丘にて
今日は年に一度の仕事の日。男の仕事は荷物の配達。 だが男は憂鬱だった。自分の担当がとんでもない僻地だったからだ。

少年の帰郷
離島にある実家からの突然の電話。トシハルは帰郷を余儀なくされる。 おかしな道連れも加わって、彼の帰郷の旅が始まる。

朝霧
40年前、キナギシティ。カスタニは何故ホエルオーを追いかけるようになったのか。



単行本初出 2011/08/13 コミックマーケット80


  [No.2724] カスタニ博士より 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/17(Sat) 20:16:18   112clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
カスタニ博士より (画像サイズ: 300×500 45kB)




 ほう、こんなところに客とは珍しい。
 暇を持て余した観光客か? 海路に迷ったトレーナーか?
 ま、なんでもいいさ。歓迎しよう。

 ああ、私はカスタニという。この島ではクジラ博士と呼ばれているよ。
 ところでお前さん、もうホエルオーは見たか?
 一番でかいポケモンだよ。ロマンだよな。
 そうだ! これから弟子と一緒に船を出すんだ。お前さんも乗ってくか?
 せっかく来たんだ。ホエルオーを間近で見ていくといいぞ!

 そうだな、今日はうきくじら伝承の講義でもしながら沖に出るとしよう。
 昔話を知ることもまた重要なことだと私は思う。
 我々の生まれるずっとずっと昔から、人とホエルオーは共にあったのだからな。


  [No.2725] 幻島 豊縁昔語より 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/17(Sat) 20:20:24   128clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 昔むかしのことです。
 秋津国(あきつくに)の南、豊縁と呼ばれる土地の西の海には小さな島がいくつも点在しておりました。
 大きな島、小さな島、人が住む島、住まぬ島、海鳥の休む島、おいしい木の実のなる島、様々ございました。
 その島々に数えられるうちの一つに、穏やかな波の豊かな漁場に囲まれた島がありました。
 島の名を喜凪(きなぎ)と言いました。
 その島では人々が暮らしておりました。
 彼らは日々、海の命を頂いて暮らしておりました。

 喜凪の島に住む人々は、優れた漁師でありました。波をかきわけて、島から島まで泳ぐことが出来ました。長く長く息を止め、深く深く潜ることが出来ました。もちろん船を漕がせても非常に速いのです。彼らは海の風が吹く方向を知っておりました。一見粗末に見える船の帆でも彼らが手にすれば巧みに風を捕まえました。彼らの乗る船は生き物のように波間を走りました。そうやって魚や貝を手に入れ、日々の糧としておりました。
 そんな彼らには年に二度ほどの特別な日がございました。その日の満潮になるといつもと違う漁をいたします。島の者が残らず海に出、皆で大きな浮鯨を獲るのです。
 浮鯨はとにかく巨大でした。その大きさといったら人々の乗る船の何倍も何倍もありましたから、その大きな浮鯨が捕れるとしばらくは漁をする必要がありませんでした。彼らは祭りを開き、周辺の島々にその肉を振舞って回りました。絞った油は暖や灯かりといたしましたし、すっかり肉を食べた後は、その骨を家の材料や漁の道具の材料に致しました。
 そうして彼らは海の神様に感謝を捧げました。浮鯨は神様が使わした最もありがたい恵みでした。だから島の人々は浮鯨の肉、油、骨に至るまでそれを粗末にしませんでした。獲られた鯨の一匹一匹は形こそ残りませんでしたが、祭りの最後の日になると向こうの世界に行くための特別な名を与えられて、彼らの手によってねんごろに弔らわれました。
 そんな人々が暮らす喜凪には、いつもゆったりとした時間が流れておりました。


 ところがある日を境にして、だんだんと島の様子はおかしくなっていきました。
 それはこの島に豊縁本土から青い衣を来た商人がやってきてからでした。
 彼は何か儲かるものは無いか、本土に高く売れるものはないか、そんな魅力的な商材を探しにこの島までやってきたのでした。
 そうして彼が目をつけたのが、浮鯨でした。
 その時から彼らの時間は変わってしまいました。
 気がつけば島の人々は毎日のように船を出し、総出で漁に出ています。船を操って、片手に大きな黒い銛を持って、目を皿のようにして、青い海の中に巨大な影の姿を探しているのです。巨大な影を銛で突こうと、船を走らせているのです。皆が皆とても忙しそうな様子なのです。
 それになんだか島が汚れてきました。大きな大きな骨があちらこちらに散乱しております。それは忙しさの余り弔いをされることなく野に晒された浮鯨の骨でした。骨は使われることもなく、綺麗にされることもなく、その周りに腐肉をつけたままでした。ですから、うち捨てられた彼らの墓場からは腐臭がいたしました。
 島の上では獲ってきた浮鯨をせっせと人々が解体しております。そうしてまっさきに頭を裂くと油を絞りました。人々の一番の目当ては浮鯨からとれる油でした。その油を容器に詰めて蓋をし、せっせと船で本土へと運びました。本土では今、油が高く売れるらしいのです。
 それは夜の路や町を照らす照明にもなりましたし、松明にもなりました。さらには鉄製のからくりの部品の間にこの油を差すと大変に動きがいいというのです。
 人々は自分達が食べる分よりも多くの浮鯨をとりました。余った肉は同じように本土に運びましたが、その途中で多くは腐ってしまうものですから、やがて海に棄てるようになりました。しまいには肉を諦めて、油だけを絞って残りの多くを打ち捨てるようになったのです。油だけを絞られたその残骸が、無残に島に転がったのです。
 商人は島に様々なものをもたらしました。鉄製の銛や、島では織ることの出来ない布、島では収穫出来ない穀物、様々なものを持ち込みました。そうしてそれらの品物と引き換えに、鯨の油を所望しました。
 島の暮らしは日に日に豊かになりました。その象徴が灯台でした。灯台では毎夜毎夜、消えることなく鯨油の火が燃えておりました。

 けれどそうしているうちにだんだん浮鯨が獲れなくなりました。たくさんたくさん獲っておりましたから、数が減ったのです。けれども商人や本土は油を求め続けました。けれども日を追うごとに浮鯨はとれなくなりました。
「もう浮鯨はとれん。これ以上とったらいなくなってしまう」
 島に住む人々の中からこんな声が上がりました。とくに年老いた者達はそのように言いました。けれど青い布を纏った商人は答えます。
「今、油を切らすわけにはいかん。我らが長がこの油を求めておいでなのだ。赤との戦に勝つためにはこの油が必要なのだ」
 そうしてこう続けました。
「浮鯨が獲れぬのなら玉鯨(たまくじら)を獲ればよい」
 人々は、お互いの顔を見合わせました。本来、浮鯨は年に何度かだけ獲ることを許された特別な存在でした。玉鯨は浮鯨の子ども。将来の浮鯨です。子どもには手を出さないのが彼らの暗黙の掟だったのです。海の神様に誓った約束だったのです。
 けれど商人が言いました。
 油がとれないのなら、鉄製の銛も、美しい布も、穀物もやらないと、そう言ったのです。
 すっかりモノのある生活に慣れきってしまっていた島の人々はついに禁忌に手を染めてしまいました。何頭もの玉鯨に銛を突き刺して、浮鯨の重さになるまでとったのです。人々は玉鯨の油をしぼって、その屍を島の上に積み上げました。
「なんということだ。今に恐ろしいことになる」
 島の老人の誰かが言いました。けれど誰も耳を貸しませんでした。

 島に異変が起こったのは次の日、島の人々が総出で海に出た時でした。不気味な轟音が響き渡って、喜凪の島が大きく大きく何度も何度も揺れました。島が揺れて津波が起きました。漁に出ていた船が沖に流されました。大洋に流された人々はそこで信じられないものを目にいたしました。
 さきほどまで自分達がいた島が大きく唸って、のけぞりました。灯台がぼきりと折れて、海中に崩れ落ちました。海中から大きな尻尾が出て、海面をばしゃりと叩きました。その巨大な尻尾は浮鯨のそれでした。尻尾は島から生えているように見えました。
 その時、人々は知りました。
 自分達の暮らしていた島がとてつもなく大きな浮鯨だったと知ったのです。
 目を覚ました喜凪島は、大洋に向かって漕ぎ出しました。決して振り返りませんでした。やがて島は水平線の向こうへ消えていきました。
 巨大な浮鯨を誰も仕留められませんでした。今あるところに留めることも出来ませんでした。海にわずかに残った浮鯨、玉鯨も島についていなくなってしまいました。
 こうしてかつて喜凪島があったところは、鯨達が去った後の廃材と、ゆらゆらと揺れる水面ばかりが残されたのでした。
 島がまるごとなくなって、鯨達がいなくなって、油を求める商人はいなくなりました。もう鉄製の銛も、きれいな布も、穀物も手に入りません。それどころか足をつける地面もありません。人々は水面に浮かぶ廃材と自分達の船を繋ぎ合わせて、海草で縄をつくって海底にそれをくくりつけて、海上で暮らしはじめました。

 何もかもを失ってしまいました。
 けれどゆったりと流れる時間だけは戻って参りました。
 人々は昔のように、小さな魚や貝をとって細々と生活を始めました。


 ホウエン地方の西の海。その洋上に浮かぶ町、キナギタウン。
 今になってもキナギの人々は去ってしまった自分達の島を洋上に探すことがあるそうです。けれど、運よく島を見つけても、島は一日も経たないうちに水平線の向こうに姿を消してしまうのだと言います。

 現代の人々はその島を「まぼろしじま」と呼ぶそうです。


  [No.2726] 観光案内(1) 浮鯨島 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/17(Sat) 20:29:26   118clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
観光案内(1) 浮鯨島 (画像サイズ: 600×444 34kB)

●浮鯨島

点在する白い砂浜の美しいビーチ。
海に出ればホエルオー達がお出迎え。

 ホウエン地方南南東に位置する孤島で、ミナモシティから南南東に約700km、サイユウシティから東に約360kmの地点に位置する島。
 ××××年、トクサネからの漂流船によって発見されたと言われる。
 ××××年、サイユウ出身のタマオキイエモンが当時の政府から30年の開拓許可を受け上陸、原生林を切り開き、サトウキビ栽培をはじめた。
 現在の産業もサトウキビ栽培および漁業である。島のサトウキビで作った黒糖から醸造した黒糖焼酎「浮鯨島」、新鮮な魚介をふんだんに使った魚料理が名物となっている。
 また、あまり知られていないが、浮鯨島周辺の海域ではたまくじらポケモンホエルコおよび、うきくじらポケモンホエルオーが多く生息する。島にある浮鯨島水生携帯獣研究所に問い合わせれば洋上観察ツアーを組んでくれることもあるので、興味のある場合は問い合わせてみるとよい。
 島の周囲に白い砂浜が点在し、非常に美しい。海岸や内陸には洞窟群が存在し、珍しい水の石が採掘される。採掘の申請はフゲイタウン役場まで。


〔見られるポケモン〕
 ホエルコ、ホエルオー、キャモメ、ペリッパー、ズバット、ヘイガニ他
 目玉はなんといってもホエルオー。14メートルを越えるその巨体は見るものを圧倒する。巨体から繰り出されるジャンプは大迫力。


〔主要施設〕
・浮鯨灯台
 フゲイタウンのシンボル、夜になると灯りが回 り出し、美しい。
・フゲイタウン役場
 各種観光案内および石の採掘申請はこちら。
・浮鯨島水生携帯獣研究所
 浮鯨島周辺のポケモンを調査する研究機関。
 ホエルオーの洋上観察ツアーを組んでくれる。
・浮鯨島酒造所
 醸造される黒糖焼酎「浮鯨島」は知る人ぞ知る 銘酒。見学もできる。
・浮鯨神社
 島の産土神、島鯨命を祀る神社。
 毎年7月には玉宝祭を行う。

〔アクセス〕
 ミナモシティから、海路でトクサネに渡り、バスでトクサネ南港まで移動。トクサネ南港からはまた海路。ただし、定期便は二週間に一度のみなので、事前にミナモ港などで情報を確認するとよい。時々サイユウからの便もある。
〔問い合わせ〕
 フゲイタウン役場 TEL.×××××−×−××××

〔人口〕769人

〔面積〕30.57平方キロメートル


  [No.2728] 観光案内(2) 沖浮鯨島 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/17(Sat) 20:38:45   128clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
観光案内(2) 沖浮鯨島 (画像サイズ: 600×456 52kB)

●沖浮鯨島

かつて広がっていたサトウキビ畑。
現在は無人島に。

 フゲイタウンが管轄する無人島。浮鯨島から約120km南下した地点にあり、地元ではもっぱら「沖ノ島」と呼ばれている。
 かつてはサトウキビ栽培をしていた農家が存在したが、後継者がおらず廃業。それ以来無人島となっている。アクセスするには浮鯨島から船を出してもらうしかない。
 広い半月型のビーチがあり、シーズンになると地元の人々が海水浴やバーベキューを楽しむ憩いの場となっている。

〔アクセス〕浮鯨島より船をチャーター。約120km南下。
〔人口〕0人
〔面積〕10.02平方キロメートル


  [No.2729] うきくじら 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/17(Sat) 20:53:18   129clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



 ……

 …………

 目を開いた。

 僕の瞳に映し出されたのはグラデーションに彩られた深い空の青とその下にどこまでもどこまでも広がる白い雲。雲の海だった。

 その海にも塩水の海で言うところの水平線が見える。
 太陽のまぶしい光が暖かく僕を包み込んでいた。
 ――ここはどこだ?
 僕が寝そべったまま、目を半開きにして、まだはっきりしない意識の中そんなことを考え始めたそのとき、

 シュゴオオオッ!

 突然に音がして僕の意識を完全に覚醒させた。
 音と共に飛び起きた僕に降り注いだのは水だった。なめてみるとしょっぱい水だった。
 この音の正体を僕はよく知っていた。
「ブローだ、これ」
 と、僕は口にした。寝返りをうってから上半身を起こすと、数十センチ離れた場所に二つの大きな穴が開いていた。
 大きな音とともに大きな穴……否、噴気孔から勢いよく海水が飛び出す。いわゆる潮吹きというやつだ。専門用語ではしばしばブローと呼ばれているが同じことだ。
 そいつの噴気孔――とどのつまりはでかい鼻の穴を目の前にしながら僕は気がついた。僕はこの鼻の穴の主の上に乗っかっているのだ、ということに。
 後ろを振り向けば、なだらかな青い丘にまるで飛び石のように白い楕円の丸が二つ並んでいた。そのはるか向こうで逆三角形の尾ビレが揺れていた。
 まるで飛行船のようなフォルム。その巨体は僕が知るうちで、いや、現在知られているポケモンのうちで最も大きいもので、一般的な大きさは全長14メートルと言われる。14メートルもあっちゃ「ポケット」モンスターじゃないだろうというツッコミもしばしばされるところであるがそれはまぁ置いておこう。そいつの名はうきくじらポケモン、ホエルオー。
 そのホエルオーの頭上で、僕は今まさに目覚めたのだ。
 ホエルオーは僕が頭の上に乗っていることを気にすることもなく、いや、むしろ僕が落ちないように気遣っているのか、ゆっくりとゆっくりと、けれど確実に雲の海を進んでいく。


「それにしても君、でっかいなぁ!」
 僕はその大きさに感嘆の声を上げた。
 ホエルオーは大きい。一番大きなポケモンだ。だからその大きさは誰もが認めるところだが、ぼくが言いたいのはそんなことじゃない。
 僕が乗っているこいつの大きさは、今まで見てきたどんなホエルオーとくらべても別格だった。通常の1.5倍……いや、2倍はあるだろうか……?
「1メートルってこれくらいだよな」
 僕は足を開いてその歩幅をスケール替わりにした。そして、ホエルオーの頭から尾の付け根まで歩ける範囲で歩いてみて長さを測ることを試みた。
「1、2、3……4、5、6」
 慎重に、数え間違えないように、声に出してカウントする。
 青い丘を僕は踏みしめる。
「13、14、15………」
 背中の中心にある白い飛び石の上も渡る。近づいてみれば白い模様の部分も大きい。
「19、20……」
「……26、27、28…………」
 これは驚いた。
 歩けなかった範囲を入れれば30メートルを越えるのではなかろうか。
「すごい! こんなに大きなホエルオーはカスタニ博士だって見たことがないに違いない!」
 僕は興奮して叫んだ。
 カスタニ博士というのは、僕の住んでる島で主にホエルコ、ホエルオーを研究している博士で、携帯獣研究ウン十年のベテランだ。博士がこいつを見たら大声でこう叫ぶに違いない。
『素晴らしい! 私がいままで見た中で最長のホエルオーだよ!』
 僕は小さいころから博士の武勇伝を聞いて育ったクチで、時々博士の研究の手伝いをしている。気がついたらすっかり博士のあれやこれやを叩き込まれてしまっていた。
 だから僕が数字にこだわるのはこういう理由からだ。数字を大切にしなさい、と僕はずっと博士に言われ続けて育った。数字は客観性なのだと。科学の基本なのだと。だから科学者ってのは数字を気にする人種なんだ。
 そして数字を確かめたらまっさきにやらなければならないことがあることを経験的に僕は知っていた。いや習慣付けられていた。
 いつもの癖でポケットに手を突っ込むと、あったあった。小さな縦長のノートが入っていた。僕が引っ張り出したのはフィールドノート。深緑の硬い台紙に挟まれた紙の束だ。
 あれは島の学校に通うようになって初めて迎えたクリスマスだったか。目が覚めたら綺麗な包装紙に包まれたこれが枕元に置いてあった。たぶん博士が母さんあたりに頼んで渡したんだろう。
 今持っているこのノートはたぶん何十代目かになる。三十代目くらいになったところでめんどくさいので数えるのはやめてしまった。これもとにかく記録しろ! 記録は重要だ! いや全てだ! などと口を酸っぱくして事あるごとに言ってきた博士の教育の賜物と言えよう。
 実際、記録は大事だ。うっかり海の中にでも落としてしまおうものならレポートも考察も無い。まさに海の藻屑となってしまう。
 僕は先週になって新調したばかりの、真新しいフィールドノートを開く。
 台紙にしがみついていたシャープペンシルで一番最初にはこう記した。

『雲の海を行くホエルオー 全長約30メートル』

 空の航海で僕にやれることは何もなかった。唯一ある仕事といえば落ちないようにしているということ。
 あんまりに暇なので全長以外にも目測で測ってみた。
 横の幅、背中の白い楕円の大きさ。せっかくだから噴射口も。まったく、スケールを持っていないのをこれほど惜しいと思った日は無い。
 僕はノートの一ページ丸々に大きなうきくじらの図を描くと、事細かに各部位のサイズを記入していった。目測だから数字はだいたいなのだが。


「これで、よし」
 ノートの中に泳ぐうきくじらの図を見て僕は満足した。
 うきくじらにはいろんな方向からいろんな矢印が伸びていて数字が記入してある。
 これを見ればきっと博士も合格をくれるだろう。そして
『くそう! 見たかった! お前だけいいもの見やがって!』
 そう言って歯軋りするに違いない。
 悔しそうな博士の表情を想像して、ふふ、と僕はニヤつく。
 そして、仕上げをせねばなるまい、と僕は気がついた。
 これも博士に仕込まれた大事なことだ。
 いつも博士は言っていた。

『記録には必ず日付をつけろ。場所も入れろ。そうでないと記録は腐る』
『それはお前の頭の中の空想とさして変わらない』

「……えっ」
 僕はフィールドノートを片手にシャープペンシルを持ったまま硬直した。
 最初に頭をもたげたのは次のような疑問だった。
 そういえば、今、何月何日だったろうか……?
 ぞくりと背中に寒気が走って、冷たい海水を全身に掛けられたような気がした。
 瞬間、シュゴウ! と、ホエルオーが潮を吹いた。
 僕は、急に冴えた頭になって、おそるおそる周りの風景を改めて見つめ直した。
 
 雲がつくる水平線。
 暖かく包み込む太陽の光。

 僕の瞳には相変わらず目覚めた時と変わらない風景が映っている。
 深い空の青とその下にどこまでもどこまでも広がる白い雲。
 ――――雲の海。

 雲……?

 おおきなホエルオーは相変わらずゆっくりと、ゆっくりと進む。
 けれど、確実にどこかに進んでいる。
「なぁ、僕達ってどこに行こうとしているんだ?」
 僕はおそるおそる彼に尋ねた。
 ホエルオーは答えない。否、答えられない。
 シュゴッ、とまた小さめの潮を吹き出して、答えでない答えを発した。
 吹き上げられた水の粒子が太陽に照らされてキラキラと光る。
「それってお前なりに答えてるつもりなのか?」
 もちろん、答えはない。
 僕を乗せて雲の海をただ黙々と進むだけだった。
 何かがおかしい。
 雲の海の中に浮かぶ、小さな無人島。そこに一人のちっぽけな人間が焦っている。もしどこか遠くから僕達のことを見ている誰かがいるのなら、僕らはそういう風に見えたかもしれない。
 雲の海はこんなにきれいで太陽だってこんなに暖かいのに、なぜかさびしい。
 そしてどういうわけだろう、事実、僕はだんだん心細くなってきた。
「というか、僕はどうしてここにいるんだろう?」
 心細くなってきたのと同時進行でそんな疑問がふつふつと湧いてきた。
 いや、むしろなぜ今まで疑問に思わなかったのか。
 ホエルオーが雲の海を泳いでいる? 空に浮かんでいる?
 そもそもホエルオーは海水の海に浮かんでいるものじゃないのか?
 それとも知られていないだけで空に浮かぶ種類もいるのか?
 いやそんな馬鹿な!
 いや、仮にそうだとして、どうして僕がそれに乗っている?
 だが、気がついたらすでに雲の海の上、僕はホエルオーに乗っていた。

 その前は?
 その前は何をしていた?

 ――思い出せない。

「ちょっと待ってくれよ! ここはどこなんだ? 今いつなんだ!」
 堪らなくなって僕は叫んだ。
 僕の不安が頂点に達したその時、

 シュゴッ!
 シュゴオオオ!
 シュゴオォォーー!

 いくつものブローの音が響くと同時に、僕と僕を乗せたホエルオーを囲む雲の中から無数の潮が吹き出した。
 そしてそれに応えるように僕を乗せたホエルオーが最大級の潮を噴き上げた。
「うわッ! 冷たッ!」
 まるで夕立のごとく、青い丘の上に降り注ぐ大量の海水。
 ああ、これはブローじゃない! れっきとした技のほうの「潮噴き」だ!
 毎日毎日、海に出て観察していてもめったに見れないんだ。
 それを待っていたかのように雲の中から潮を吹き上げていたものたちが浮かび上がって、その姿を現した。
 それはたくさんのホエルオーだった。ホエルオーたちが僕らを囲んでいる。そのあちらこちらから潮が噴き上がる。
 僕が乗っているホエルオーもそれに答えるように何度も、何度も潮を噴き上げる。それはまるでひさしぶりの再会を喜んでいるように僕には見えた。
 着ていた服と新調したばかりのノートをびしょびしょにされた僕は、でもそれどころではなくて、彼らの潮噴きの競演にすっかり見入っていた。
「こいつら、お前を迎えに来たのかい?」
 少し落ち着いてから、僕はまた僕を乗せているホエルオーに話しかけた。
 ホエルオーは小さく潮を、ブローのほうを吹き上げた。
 ――そうだ。
 そう言っているように思えた。
 挨拶にいったん区切りがついたのか噴かれる潮の数が減り始める。
 それと同時にホエルオー達の巨体が雲から離れはじめた。雲に半分隠れていた身体が徐々にその姿を見せ始める。
 そしてどんどん、どんどん上昇していく。
 ――こっちだよ、はやくおいで。
 そう言っているようだった。
 ホエルオーの巨体がひとつ、またひとつ浮かんでゆく。飛行船の上昇って見たことないんだが、こんな感じじゃないだろうかと僕は思った。
 その光景は太陽の光がつくる逆光で神々しくさえ見えた。きっとこの上にホエルオーの目的地があるに違いない。
 だが、僕を乗せたホエルオーは動かなかった。
「どうした? 行かないのか?」
 ホエルオーは答えなかった。
 そして何か思案しているように見えた。
 こうしている間にも仲間のホエルオーたちは一匹、また一匹と雲の海の海面から離れてゆく。
「もしかして、僕がいるから……」
 なぜだろう直感的に僕はそう思って、そして尋ねた。
 潮が小さく吹き上がった。
「僕の目的地と君の目的地は同じじゃない?」
 今度はブローが返ってこなかった。僕とうきくじらの間に沈黙が続く。
 どうしたものかと空を見上げると、迎えのホエルオーたちがもうずいぶん上に行ってしまっていた。
「そういえば、君には迎えがいるけれど、僕にはいないみたいだ。ここに人間は一人しか居ない」
 僕はそんなことを口にした。ホエルオー達が小さくなっていく。
「あいつらは君を迎えにきた。僕を迎えに来たわけじゃない」
 潮が吹き上がる。
「たぶんだけど……このまま君と一緒に行くべきでは……ないんだろうね?」
 突然のホエルオーたちの出現で忘れていたが、さっきの心細さがよみがえってきていた。
 ここはどこなのか? どうして僕はここにいるのか?
 答えは相変わらず思い出せないし、わからないけれどなんとなくそうだと僕は感じていた。
 ……そうだな、思い出したって言うか最初から覚えていたのはカスタニ博士のことくらいか。主にカスタニ博士の説教についてだけれど……。
 ああ、そういえば博士は今頃どうしているだろう?
 海に出てホエルオーを追いかけているのか、はたまた記録を見返しているのか。
 いや、博士だけじゃない。
 両親は? 島のみんなは?
 ああ、そうか……、自分がどうしてここにいるのかわからないけど、ひとつだけわかったことがある。
「僕は……」
 僕はフィールドノートをズボンのポケットに慎重にしまうと言った。

「僕は帰りたかった。戻りたかったんだ」

 そのときだった。
 突然、僕を乗せたホエルオーが大きく身体をくねらせて、跳ねた。
 それと同時に僕の体も宙に舞い上がった。
 僕は体を宙に舞わせながら、ホエルオーのジャンプ――ブリーチングを見た。それはスローモーションのようにゆっくりに見えて僕の瞳に焼きついた。
 その堂々たる姿は30メートルの大物に相応しいものだった。格が違った。
 ジャンプを終えたホエルオーの巨体が雲の海に突っ込んだ。その瞬間、雲の粒子が大きく巻き上げられて僕の視界をさえぎった。
 何も見えなくなると同時に、僕の意識はシャットダウンした。


 ……

 ………………

 …………


「……ル!」
「トシハル!」

「……ハル、トシハル!」
 ……僕は自分の名前が耳に入っていることに気がついて目を開いた。
 ぼやけた視界の中に誰かが僕を覗き込んでいる。
「目を開けたぞ!」
 聞き覚えのある声、自分にとってなじみのある声だった。
「おおい、トシハル! 私だ! 私が誰だかわかるか?」
 もちろん、わかっている。
 僕は小さい頃から、この人にいやというほど武勇伝を聞かされて育ったのだから。
 たぶん、なんとかしゃべれるかな……? 僕は微弱ながら言葉を口にした。
「そんなに大声出さなくてもわかってますよ……カスタニ博士」
 博士が大きな声で叫んだ。
「バカヤロウ! お前が沖ノ島に行くって船を出したっきり帰ってこなくて島中大騒ぎだったんだぞ! 衰弱しきったお前が見つかったときはもう手遅れかと思ったが……よかった! 本当によかった!」


 僕は当分の間、島の診療所でおとなしくしていることと相成った。
 あれから両親に姉と妹、祖母や祖父、島中の人間が飛んできて、怒鳴られたり泣かれたり。とにかく騒がしかった。
 ここ数日間でそれも落ち着いて、今はゆっくりと過ごしている。
 診療所の窓の外からはしずかに波の音が聞こえてくる。
 ああ、帰ってきたんだ、と僕は思う。

 突然の嵐だった。一人で操縦していた小型船はいとも容易く流された。海を漂流していたときはもうだめかと思った。
 でも……帰ってきたんだ。帰ってきたんだ。この島に。
 毛布を抱きしめる。それを確かめる度に僕は安堵を噛みしめた。

 それにしても……あの夢はなんだったんだろう……と思う。
 僕を乗せて雲の海を泳いでいた大きなホエルオー、そしてたくさんのホエルオー達。
 ああ、もしかしてあれかな。カスタニ博士のホエルオー熱がいよいよ伝染(うつ)ったかな。生死の境であんな夢見て記録取ってるなんてさ。
 そう思って僕は苦笑いした。

 窓のカーテンごしに日の光をあびながらゆったりとした気分になる。そしてまた波の音に耳を澄ます。その音に耳を澄ましているうちに僕はうとうとしはじめた。
 が、今まさに始まろうとしていた眠りは妨げられた。波の音に混じって落ち着きの無い足音がこっちに向かって近づいてきたからだ。この足音を僕はよく知っている。
 乱暴な音とともに病室のドアが開く。
「トシハル! 大変だ!」
 ほうらやっぱり博士だ。僕の予想通りだった。
「診療所では静かにしなくちゃダメですよ。博士」
 どうせ野暮用だと思って、休養中をいいことにろくに目もあわせなかった。
 だが、次の博士の言葉に僕は振り向かされることになった。
「ナギサさん所の船がな、漁に出る途中でホエルオーの死体を発見したそうだ」
 心臓が大きく高鳴った。
 博士は顔を真っ赤にして目を見開きながら早口で続ける。
「私はそれを聞いてすぐに現場に駆けつけたとも! すでに仏様とは言え、実に立派なものだった。素晴らしい! 私がいままでに記録した中じゃあ最長のホエルオーだよ! くわしくは後々調べるが私の見立てでは30メートルは越えているな」
 さんじゅう……メートル……だって?
 心臓の鼓動が早くなっていくのがわかった。
「皆に手伝ってもらってな、なんとか引き上げられないもんかと思って画策してるとこだよ。サメハダーどもが集まらんうちにな。あんな大物には一生に一度会えるか会えないか……たとえそれが死体でもだ! お前も後で見に来るといい」
 汗がにじみ出る。まさか、まさか。
「ではこれで失礼するぞ! 調べるべきことが山ほどできたからな。大仕事になるだろう! お前も早いとこ回復して手伝えよ!」
 そう言った博士はすでに病室のドアノブをつかんでおり、すぐにも部屋を飛び出さんばかりだった。
「待ってください博士!」
「なんだ、私は忙しいんだぞ!」
「死因は? 死因はなんでしょうか」
「くわしくはこれから調べる! が、おそらくは寿命だろうな。大往生だよ。実に惜しい! 生きているうちにお目にかかりたかったものだ!」
 そう答えたとき博士は診療所の廊下を走っていた。いや、廊下を走りながら博士は答えた。博士の足音がだんだん遠くなっていくのがわかった。まったくもってせっかちな人だ。
 ……と、思ったらまた足音が戻ってきた。ふたたび僕の前に現れた博士はズボンのポケットをごそごそとかき回しはじめた。
「……忙しいんじゃなかったんですか」
「ひとつ忘れていた」
 博士はポケットの中からお目当てのものを見つけたようだ。そして、それを僕に差し出した。
 水に濡れて渇いた後の波うったフィールドノートだった。
「お前が発見されたときに預かっておいた。確かに返したぞ」
 そしてノートを押し付けると、顔を近づけてこう言った。
「この老いぼれにはいつお迎えがくるかもわからんがお前は違う。お前はまだ若い。お前はまだまだ生きなくちゃならん。私より先に死ぬんじゃないぞ」
「はい……」
「死ぬときになってお前が迎えに来るなんてシチュエーション、私はごめんだからな」
 そう言うと博士はまた鉄砲玉のように去っていった。
 診療所にはふたたび静けさが戻る。聞こえてくるものといえば窓の外からくる静かな波音だけだ。
 だが僕の心は落ち着かなかった。
 ――30メートルの大物…………
 いつのまにか僕の服は、潮を掛けられたわけでもないのにびしょびしょになっていた。
 着替えよう。そう思い僕は立ち上がった。
 ストン。
 立ち上がった拍子に何かが落ちた。フィールドノートだった。
 僕はハッとして、それを急いで拾い上げ、開く。
 塩分のせいなのかページはばりばりと音を立てたが、かろうじて開くことができた。
 開いたページにはこう記されていた。

『雲の海を行くホエルオー 全長約30メートル』


  [No.2731] メロンパンの恨み 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/17(Sat) 21:27:15   136clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 クチバシティのホテルに戻ると弟子の頭に妙なものが乗っかっていた。
 もさもさとした羽毛の鳥ポケモンだった。頭から尻尾までの大きさは30センチほどで頭部から背中にかけては茶色い。胸と腹はクリーム色。なんとも憎たらしい配色だ。冠羽は老人の眉毛にも似ている。そしてなにより目つきが悪い。
「おい! その頭に乗っているものは何だ!」
 思わず私は弟子のトシハルにツッコミを入れた。
「ポッポです」
「そんなことはわかっとる!」
 しれっと答える我が弟子トシハルに私は怒鳴りつけた。この弟子は飲み込みはいいが、一を聞いて十を知るとでもいうのか、そういう配慮に欠けていると思う。
 とりあえず状況を説明しよう。
 私はカスタニ。人呼んでクジラ博士だ。
 ホウエンの南の孤島、フゲイ島フゲイタウンに在住。船でホエルオーを追いかけている。
 だが、今週はカントーにいる。久々のカントーだ。つまりは学会発表だ。研究の成果は発表する必要があるからな。発表というものは研究者の尻を叩くものであり、また通過点である。正直準備は面倒だし、費用もかかる。だが、たまにはこういうのがないと気が引き締まらん。それに傍から見ると何してるのかわからんのが学者だから、世に研究の存在を知らしめる機会は必要なのだ。いわば学会というのは世界との接点なのだと私は考える。
 今回は勉強の為に、我が弟子も連れてきた。カントーははじめてときてそわそわしとるわ。ポケモンも初めて生で見る種類が多いとあって、トレーナーと一緒に歩くポケモンを見ては振り返っている。ええい、ちょっと落ち着け。
 ……話を戻そう。
 今、我が弟子トシハルがホテルのロビーに座っている。これはまぁ普通のことだ。今は学会の真っ最中で発表の際のスライド係その他雑用でトシハルを連れてきていた。だから、ここクチバシティのホテルに我が弟子の姿があること自体は不思議でもなんでもない。
 問題はやつの頭だ。やつの茶色がかったもさもさしたなぜか天に向かって伸びる髪。その髪の毛が生える頭部。そこに偉そうにどこのポニータの骨かもわからん目つきの悪い鳥ポケモンが居座っている! 我が物顔で居座っている! 私はそのことについて今まさに我が弟子に問うているのだ。
「一体誰のだ!」
「野生です。……たぶん」
「どこから持ってきた!」
「そこの公園で」
 弟子はあいかわらず聞いたことしか答えない。もちろん私の聞きたいことはそんなことじゃない。ええいわからんやつめ!
「なんで頭にのっかってるんだ!」
「パンをあげたらついてきちゃって」
「野生ポケモンにエサをやるんじゃないッ!」
 とぼけた答弁を繰り返す弟子。私は頭にプッツンマークを浮かべて再び怒鳴った。公園の鳥ポケモンにエサをやるとは何事か! 人間と野生ポケモンにはとるべき距離ってもんがあるんだというのが私の教育方針であり、ポリシーだった。
 ポケモンの研究は好きだ。好きでなければこんな酔狂な職業についたりしない。しかしポケモントレーナーとかの類は好かん。ベタベタしすぎなんだやつらは! 私は研究が好きなのであってけしてポケモンとベタベタしたいわけではない。
 弟子がうつむいた。そこで相も変わらず弟子の頭に居座る鳥ポケモンと目が合う。やはり目つきが悪い。ポケモンは進化するとかわいくなくなるとよく言われるが(もちろんホエルオーは例外だ)、この初めにポがつく鳥ポケモンの種族ときたら最初から目つきが悪い。これは一体どうしたことか。
「というか、痛くないのか!」
「……ちょっと痛いです」
 あいかわらず弟子はずれた回答をするばかりだった。
「今すぐ公園に戻して来い!」
 私はそう言ってホテルの出口を指差した。
 トシハルはなぜかものを言いたそうにしていたが、
「わかりました……」
 と、力なく言って、相変わらず鳥ポケモンを頭に乗せたままとぼとぼと出て行った。
 やれやれだ。私はほっと一息ついてロビーの椅子に腰掛けた。

 朝になった。
 昨晩の学会懇親会でたらふく食って飲んだ私は目を閉じたまま、ああ、なんか胸が重いなぁ、などと思っていた。ううむ調子に乗って飲みすぎてしまったか、節制せねば。が、それにしては何かおかしい。違和感があった。私はパチリと目を開ける。
「クルッポゥ」
 どアップの桃色嘴が眼前に迫っていた。
「のわァ!?」
 私は飛び起き、思わず声を上げた。すると胸にとまっていたそいつはバサバサっと飛び立った。羽毛が散る。茶色い小さな羽根がひらひらと目の前に落ちた。私はしばらく状況が飲み込めず呆然としていたがやがて叫んだ。
「おい! 一体どうなってるんだ!」
 ええい、どうなってる! 公園に戻したはずのこいつがなんでホテルの部屋にいるんだ! わけがわからん!
「どうしたんですかぁ? 博士」
 向かいのベッドで寝巻きのバカ弟子が目を擦りながら、起きだした。やつはトシハルのベッドに着陸して、ササッとその後ろに回り、こちらの様子を伺った。
「その後ろに隠れてるのはなんだッ」
「ポッポです」
「そんなことはわかっとるッ!」
 私は再び叫ぶことになった。もちろん私の言わんとしてることはそんなことじゃない。
「どうして公園に戻したはずのそいつがそこにいるんだッ!」
「昨日の夜、窓の外で寒そうにしてて……」
「野生ポケモンを部屋に入れるんじゃないッ!」
 私はまたまた叫んだ。
「公園に戻してこいッ。部屋にも入れるんじゃないッ。いいかわかったな!」
 部屋の扉を指差し、私はバカ弟子にそう指示した。寝ぼけまなこのバカ弟子は何か言いたそうな顔をしていたが、顔を洗って眼鏡をかけると、憎々しいカラーリングのその鳥をむんずと掴んで出て行った。バタンと扉の閉まる音がして、私はほっと一息ついた。
 さあて、学会も終わったし、数日カントー見物でもしてホウエンに帰ろう。早々に帰りたいところだが、今急いでトクサネまで行ったって島行きの船が出るのは一週間後だ。バカ弟子に古巣のタマムシ大学でも行かないかと誘ったが、僕は行きたいところがありますからなどと言って断られた。まったくなっておらん。まぁいい。バカ弟子は放っておいて、ひさしぶりに世話になった人にでも会いに行くことにしよう。

 三日ほどの別行動の後に、私とバカ弟子は空港で落ち合って、カントーを発った。
 飛行機に乗り、ホウエンの土を踏む。ミナモシティから船でトクサネに渡り、フゲイ島行きの船に乗った。しかしまだ油断は出来ん。なぜなら家に帰るまでが学会だからだ。
「ふう、それにしても暑いな」
 私は甲板に立ち、甲板の上を影となって横切ってゆくキャモメを見つめながらそう言った。ホウエンは年中暑いが、今は夏だから余計に暑い。船室にもどって着替えるか。まだ替えがあったはずだ。
 私は船室に戻るとトランクを開け、シャツを一枚引っ張り出した。
 隣に寝ている弟子のトランクは開きっぱなしで、散らかり放題だ。やれやれ、だらしないやつだ。
 が、弟子のトランクに目を移したその直後、私は見た。弟子の積み重なった服の山がもっこりと盛り上がったところを目撃した! 家政婦は……いや、クジラ博士は見た!
「うおおお!?」
 私は思わず奇声を発した。一体全体どうなっている!
 山は移動すると、トランクの端っこまで来てその正体を現した。
 それはカントーで見た憎々しい茶色とクリームのカラーリングだった。
「ポポッ」
 鳥ポケモンは目つきの悪い目で私を見ると、鳴いた。
「トシハルーーーーーッ!!」
 私は大声で叫ぶと甲板にいたバカ弟子の腕を捕まえて、船室に連行した。
「おい!! これは一体なんなんだ!?」
 私は叫ぶ。顔を真っ赤にし、指を震わせて、トランクの上、我がもの顔で座り、冠羽のうしろを足でバリバリと掻く茶色い鳥を指差した。
「ポッポです」
「そんなことはわかっとるッ!!」
 あいかわらずすっとぼけた返事をする弟子に私は怒鳴った。
「なんでトランクの中にいるんだッ」
「ボールに入れてたんですけど、出てきちゃったみたいで」
「誰がゲットしろと言った!」
「だって、公園に置いてもついてくるんです」
「そこは非情になれッ。研究者とはクールなものなんだ」
「つぶらな瞳で見つめてくるんです」
「こいつの瞳はつぶらなどでは無いッ!」
 私は主張した。こいつらの目ときたらいつだって極悪だ! 特性にもあるだろう! するどい眼だ! するどい眼なんだ!
「博士、それは価値観の相違です。つぶらをどう定義するかの問題ですよ」
 ぐぬぬう、と私は唸った。何かが○○であるとする場合、誰にでもわかる定義、すなわち条件を提示する必要がある。たとえば、ある論文で14メートル以上を大きいと定義したなら、14メートル以上は大きいということになる。それが定義というものだ。
 しかし私が教えた概念をこんな形で返すとはけしからん弟子だ。
「だいたいお前は免許持ってないだろうが!」
 私はつぶらの議論を放置して別の方向からツッコミを入れた。
 するとバカ弟子はトランクをごそごそと漁りはじめた。
「はい」
 名刺大のカードを取り出して見せる。
 見るとトシハルの顔写真が印刷されて、妙な番号が振ってあった。
「ポケモン取扱免許です」
「いつの間に取った!?」
「カントーで自由時間が三日もあったんですよ?」
 弟子はしれっと言った。
 バカ弟子いわく昨今の取扱免許は一日も講習を受ければとれてしまう簡素な手続きらしい。そんなに簡単でいいのか。まったくこの国は体制がなっておらん。
「今更公園には戻れませんよ?」
 バカ弟子が追い討ちをかけるように言った。
「なんだそれは! 勝ったつもりかこのヤロー!」
 私は怒鳴った。が、本来の生息地で無いところに放せとも言えないのが弱いところだった。バカ弟子はさらにトランクを漁った。
「見てください〜」
 と、一冊の本を差し出した。
「なんだこれは?」
 私は「やさしいピジョンの育て方」と書かれた本のページをめくる。写真があった。この憎たらしい鳥ポケモンの進化系であるピジョンを一羽、むんずと掴んだ著者らしき眼鏡の女がドヤ顔で写っていた。眼鏡の足元、バックの木の上にも、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン、ピジョン! 抱いてるのを含め全部で17羽も写っている。
 文字欄には「ピジョンの魅力を世界に伝えるのが夢です」と書いている。他にも「なんといっても体型がたまりませんよね」なんてぬかしている。部屋の写真があり、全国から集めたというピジョングッズが所狭しと並んでいた。
 ん? 何? 17人の絵師が描くピジョンがいっぱいのイラスト集が近日発売……?
 ええい! 狂気の沙汰だ! この女はどれだけピジョン狂いなんだ! ホエルオーのほうが十七倍……いや、十七万倍いいわ!!
「ピジョンの世界的ブリーダーで、カントーにピジョン牧場を持ってる難波十七女史の著作なんですよ。これ一冊でポッポからピジョンまで完璧です」
「ピジョットはどうした!」
 思わずツッコミを入れる。
「ピジョンとそんなに変わらないので割愛するそうです」
 何の疑問ももたずに弟子は言った。
 待て! これは作者の陰謀だ! あ、いや、なんでもない! だが、それにしたってピジョット不憫すぎるだろ!? だいたいピジョン牧場ってなんだ。牧場? 今流行の花鳥園ではなく? まったく意味が分からん。
「とにかく僕が育てますから」
 茶色い鳥を掴むとバカ弟子は言った。
「勝手にしろ!」
 私は捨て台詞を吐くとそそくさと船室を出た。
 ああ不快だ! こいつらとは同じ空気を吸いたくない!

 船が到着する。フゲイ島について一夜が明けた。
 私の教育方針はスパルタだから、帰った後だから次の日は休むとかそういうことはしない。
 うおおお、久しぶりの島! こここそが私のフィールド! 今日は朝から海に出るぞー!
 バカ弟子はまだか? 船を出すぞ!
「博士〜」
 船着場から声がする。トシハルが手を振っていた。おお、もう来ていたか我が弟子よ。学会帰りにもかかわらず殊勝な心がけだ。さすがは我が弟子だ。やはりお前もホエルオーが恋しいか。ようし、さっそく船を出すぞ!
 私は意気揚々と船に乗り込む。エンジンキーを回す。まさに舵を取ろうとした。
「クルックー」
「ギャア!」
 私は思わず叫んでしまった。舵の前に憎々しいカラーリングの毛玉がとまっていた。
「トシハルーッ!」
「はい」
「おい! これはなんなんだ!」
「ポッポです」
「そんなことはわかっとるッ!!」
 ええい、前言撤回だこのバカ弟子め! まったく変わっておらん。気のつかんやつだ。
「野生ポケモンを船に乗せるんじゃないッ!」
 私は叫んだ。
「野生じゃないです。僕んです」
「うるせー!」
 弟子の揚げ足取りにさらに叫んだ。そこで弟子があれっ? という顔をした。
「もしかして博士、ポッポお嫌いですか……?」
「今頃気がついたのか!」
 私はまたしても叫ぶことになった。
 やはりこいつはだめだ。さっぱり空気が読めておらん!

 不愉快な日々は続いていった。
 憎々しいことにバカ弟子は毎日毎日、不快な毛玉を連れてきやがった。
「船に乗せるな!」
 と私が言っても
「だってついてくるんです」
 と言って聞かない。
 更に憎々々々しいことに、近所のおばさんやら、はては面倒をみてやったことのあるミズナギまで「あらかわいいわねー」「かわいいポケモンですねー」などと口々に言いやがる。一体どうなってるんだ。こんな目つきの悪いポケモンのどこがいいと言うのだ!
 これは陰謀だ! 皆騙されている! ポッポに騙されている!
 うおお、いかん。ついに忌まわしい種族名を口に出してしまった!
 船が海上を滑る。双眼鏡を覗く我がバカ弟子の頭に今日も毛玉が乗っかっている。ええい、目障りだ。
「博士! イチクニです。こっちに来ます」
 弟子が言った。イチクニとはホエルオーの個体の名前だ。発見したホエルオーには番号をつけて個体識別をしているが、192番は語呂がいいのでそう呼んでいる。好奇心旺盛なやつで船を出しているとよく近寄ってくる。あの憎々しい鳥に比べて瞳だってつぶらでかわいいヤツだ。
 イチクニがゆっくりと海を泳ぎながら近寄ってくる。おお、よく来たな。最近弟子が言うことを聞かなくて。お前からも何か言ってやってくれ。
 するとバサバサとポッポ野郎が飛び立ってちょこんとイチクニの頭に乗った。
「こら! 観察の邪魔をする気か! そこを退け!」
 私は叫ぶ。
「落ち着いてくださいよ博士」
「落ち着いていられるか!」
「でもあんまり嫌がっていないみたいですし」
「何?」
 イチクニをよくよく観察すると、やつはなんでもなさそうな顔をして、ぷかぷかと浮かんでいた。むしろなんか楽しそうに見える。あまり大きな動きをせずに見たことも無い茶色い鳥に気を遣っているようにすら見えた。
「イチクニー! お前だけは信じてたのに!」
 けしからん。ホエルオーをたぶらかすとは何事だ! 我が弟子のみならず島民やうきくじらまで手駒にしおって! さてはポッポ一族は茶色い悪魔か! ポッポが飛び立ったその時にイチクニがまぁまぁという感じで潮を吹いたのが尚更気に食わなかった。

 さて、海から帰ったら、本日のデータ整理だ。
 おやつをつまみながら、データ整理。これが私と弟子の嗜みだ。
「今日は柿ピーです」
 トシハルがそう言って、菓子皿に入れた柿ピーを持ってきた。
 柿ピー。つまり柿&ピーナッツ。柿ピーといえば私と弟子の間には暗黙のルールがある。
 私と弟子、つまり私とトシハルは当然血縁関係には無いのだが、見た目がよく似ていると人に言われる。だが結構食べ物の好みは別々だ。研究所から歩いて十分の食堂「海風」でも、あいつはゴーヤチャンプルを注文し、私は豆腐チャンプルを注文するように、食べ物の好みは分かれるのだ。だから柿ピーにおいても、当然分かれる。トシハルは柿の部分が好きだが、私はピーナッツが大好きだ。このちょっと塩のきいた感じがたまらん。だからトシハルは柿部分ばかり食べるし、私はピーナッツばかり食べる。これが私達の暗黙のルールだった。
 師弟共に腹が減っていた。私達は目当てのものに向かって手を伸ばした。柿とピーの割合はだいたい半々だ。弟子と私の食べるペースはだいたい同じだから、いつもほぼ同タイミングで柿ピーの皿は空になる。だが。
 カカカカッ。
 私と弟子が手を突っ込む菓子皿。そこにポッポ野郎が手を、いや、嘴を出しやがった。
 減っていく柿ピー。しかも狙い澄ましたようにクリーム色だけが減っていくではないか!
「この野郎! 私のピーナッツをとるな!」
 私は叫んだ。
 もう我慢がならん! 私はポッポ野郎をつまみ出してやろうと掴みにかかった。
 だが、さすがは鳥ポケモンと言うべきか。ポッポ野郎は素早く私の手をかわすと飛び立った。バサバサと小うるさい羽音を立て、部屋の隅にある机にとまると、毛を逆立て、生意気にも臨戦態勢を整えた。
「なんだこの野郎! この私とやりあおうというのか!」
 望むところだ! 私は近くにあったノートを丸めると台所の黒き悪魔と戦う主婦と同じ装備になった。さあ、どこからでもかかってきやがれ! この茶色い悪魔め!
「博士! やめてください!」
 弟子が言う。だが私は聞く耳を持ってなどやらない。
「うおおお! 覚悟しやがれ!」
 私はポッポ野郎に「たたきつける」の一撃をくれてやるべく、挑みかかった。
 だが瞬間、強風が吹いて思わず目を覆った。竜巻が起こって、風が研究室をぐるぐると何周もしたようだった。
 風が収まって私は目を開ける。床に、机に、テーブルに。無数の書類が舞っていた。お世辞にもそんなに片付けていない部屋だったが、今度は部屋の惨状に目を覆いたくなった。
「だから言ったのに……」
 今日取ったデータをかろうじて守った弟子が言った。
「かぜおこしですよ博士。ポッポに襲い掛かるからそういうことになるんです」
 砂がなくてよかったですね、もっと悲惨なことになりましたよ。と弟子は言った。そういう問題じゃねぇ! どうするんだよこの部屋!
 結局きれいにするのには三日三晩ほどかかった。やはり悪魔だ! ポッポ一族は茶色い悪魔だ! こいつらはいつだって私の邪魔をするんだ!

 研究室があんなことになっても弟子は懲りなかった。
 毎日毎日毎日毎日、研究室と船にポッポ野郎を連れてきやがる。
「その頭に乗ってるのはなんだ!」
「ポッポです」
「そんなことはわかっとるッ!」
 同じ会話をこの二週間ほど繰り返した気がする。このやりとりもいい加減単調およびマンネリになってきた。
 今日も研究所に弟子がやってくる。頭にはポッポ野郎。あいかわらず目つきが悪い。
「おいトシハル!」
「なんでしょうか」
「その頭に乗ってるのはなんだ!」
 ああ、いかん。マンネリになってるのにまた言ってしまった。習慣とはかくも恐ろしきものだ。
「ダイズです」
「……!? 名前をつけたのかッ!」
「いい加減ポッポもどうかと思って」
 悔しい。なぜか異様に悔しい! なんなのだこの敗北感は!
 ポッポのくせに生意気にニックネームなんぞ貰いおって。ホエルオーですら番号なのに!
「番号で十分だろ!」
「一匹しかいないのに意味ないです」
「うるせー。17番とかにでもしとけばいいんだ!」
「ポッポの図鑑ナンバーは16ですよ? だいたい17とか呼びづらいです。ピーナッツが好きみたいだし、豆の名前がいいかなーと思って」
 弟子が冷静に応答しているのがことさらにムカついた。というかピーナッツの話はするな!
「勝手にしろ!」
 私はバタンとドアを閉めて、部屋を出た。
「最近の博士、機嫌悪いなー」
 と、弟子がつぶやいた。聞こえている。聞こえているぞ。誰の所為だと思ってるんだ!
 私はドアをそっと開けて、隙間から弟子とポッポ野郎の様子を伺った。バカ弟子ときたら、私が一生懸命撮影したホエルオーメモリアルアルバムを広げて、この個体はどうなんだとか説明をはじめている。ちきしょー楽しそうにしやがって! だいたいポッポにそんなこと分かるわけないだろうが! バカ弟子は一通り個体の説明をすると、今度はカメラの説明をはじめた。ポッポ野郎が首を傾げている。
「ここを押すんだよ」
 パチリと弟子がポッポ野郎を撮影する。こらっ! 貴重な容量をポッポ野郎ごときに使うんじゃない! 私は狭いドアの隙間から念力を送る。だが、私はエスパーポケモンではないので当然カメラは動かない。
「あ、そうだ。昨日本で読んだアレ、調べなくちゃ」
 弟子が言った。アレ? アレとはなんだ? 私は何か宿題を出したか?
「ダイズ、ちょっとおいで」
 トシハルはポッポ野郎をテーブルに呼び寄せる。ちょこちょことポッポ野郎は近寄っていく。フン、トシハルの前じゃあ大人しいんだな。鳥のくせにエネコをかぶりやがって。私は知ってるぞ。お前らポッポ一族の本性ってやつをな! 私は忘れていないぞ。私が昔お前らにどんな目に合わされたか! 私は、私は……!
「ちょっとごめんね。すぐ終わるから」
 トシハルはポッポ野郎をむんずと掴んで、ひっくり返した。そうして足を両手で持つと股を開いた。そして、今までにない真剣な表情でそこを覗き込みはじめたではないか。
「んー、もうちょっと開いてみないと」
 トシハルはつうっと指を伸ばし、毛を掻き分けるようにした。
 ちょ、ちょっと待て! お前一体何を!?
「トシハルーッ!!!」
 私は急いでドアを全開にし、部屋に飛び込んだ。
 ポッポ野郎はびっくりして飛び立ち、トシハルはあっけに取られている。
「見損なったぞ! トシハルッ!」
 私は叫んだ。なんということだ! 我が弟子にそんな趣味があったとは! 私はそんな教育をした覚えは無いッ。断じて無いぞ!
「そこへなおれ! 根性叩き直してやる!」
 私は叫んだ。私は悲しいッ。弟子に手をあげなければならないのが悲しいッ。
「博士? 何か勘違いしてませんか」
 弟子はまるで私をなだめるように冷静に言った。
「何が勘違いなんだッ」
「博士、僕はただ生物学的興味から……」
「いかーん!」
「……ダイズの性別を判定しようと思っただけなんです」
「へっ?」
「鳥って生殖器官が中にあるじゃないですか。キャモメは嘴とかでなんとなくわかるんですけど。でもポッポって見分けつきづらいですよねぇ」
「…………、……」
 私は一気にガクっと脱力した。うう情けない。そうだった。そうだった。鳥ポケモンはたしかにそうだ。大きくなれば、さえずる等の行動からだいたい分かるのだが、未熟なうちはこれといった性差がなく、判別しづらい。ポッポ憎さのあまり冷静な判断ができなくなってしまっていたようだ。いかんいかん、これではカゲボウズを島に招きよせてしまう。
 ポッポ野郎は部屋の隅っこで何事もなかったようにクルルッと鳴いて、首をかしげた。いや、野郎かどうかはこれから確認すべきことだが。
 私はのろのろと部屋を後にした。
「あ、博士、どこ行くんですか」
「昼寝」
 なんか、疲れた……。
 ああ、やめよう。もうやめよう。
 何かを恨むには、憎しみをぶつけるにはエネルギーがいる。疲れるからもうやめよう。
 いい加減過去は水に流してやるべきなのかもしれない。
 窓を全開にして風を誘い入れると、ベッドに突っ伏した。


 遠い昔の夢を見た。
 私がまだ学ランの高校生で、カントーに住んでいて貧乏学生だった頃だ。
 当時の私は、新聞配達に、バイト、そして学業と忙しい日々を送っていた。
 私は早く「あそこ」を出たかったから、金が欲しかった。だからいくつものバイトを掛け持ちした。
 だからといって学業をおろそかには出来ない。私はタマムシ大学に行きたかった。あそこは当時(いや今でもだが)、携帯獣研究の最先端だったから。
 だが、大学に行くには金が必要だ。誰の援助も受けられない私は国の奨学金を手にすることにした。成績優秀なやつには返済免除で金をくれるタイプのやつだ。
 そんな金の無い私の学生生活だからして、昼食は元気印のモーモーミルク一本に、パン一個だ。だからパンはなるべく上等のやつを選ぶことにしていた。
 狙いは、高校近くの人気のパン屋「ピッジィベーカリー」。あそこで売っている一日三十個限定のメロン果汁入りメロンパン! あれがコスト換算で一番上等だ!
 四時限目終了のチャイムが鳴ると共に私は教室を飛び出し、駆け出す。全力で走っていけば、焼き上がりちょうどの時間に着くのだ! 五秒、十秒が惜しい。一分も遅れをとったなら、メロンパンはとられてしまう。
 私は大股で道を走り抜け、うまそうな匂いのするピッジィベーカリーの方向へ突っ走る。
 勢いと共に店のドアを開く。チリンチリンと扉のベルが鳴った。
「いらっしゃい! メロンパンかい?」
 エプロンのおばちゃんが言う。店ではすでに何人かがレジに並んで、こっちを見ていた。
「はい! それとモーモーミルクを一本」
 私は答える。
「まだ残ってるよー」
 そう言っておばちゃんは、焼きたてのメロンパンを一つ、紙袋に包んだ。モーモーミルクと紙袋に入ったメロンパンを金と引き換えに受け取った。私はほっとする。メロンパン争奪戦という戦いは終わったのだ。
 袋の中からはかぐわしいメロンパンの香りがする。腹がぎゅうぎゅうと鳴る。よだれが出る。近くの公園でゆっくりと味わいながら食べることにした。
 だが、私はその日、不覚を取った。敵は人間だけでは無かったのだ。
「いっただっきまぁーす」
 公園でメロンパンを両手で掴み、大口をあけていると、突如上空から大きな羽音がした。
「ピジョオオオオ!」
 けたたましい鳥ポケモンの声、鋭い爪が私の腕を掴んだ。
 うわあ! 何しやがるんだこの野郎! 離せ!
 不意に上空から襲われて、私は尻餅をついた。襲ってきたのは中型の鳥ポケモン、ピジョンだった。私は腕を振り回し、なんとかそれを追い払おうとする。ほどなくしてピジョンはどこかに飛んで行った。
 はーはー、ぜー。やっとの思いでピジョンを追い払った私はほっと一息をつく。
 だが、その直後にあることに気がついた。
 無い。メロンパンが無い!
 手に持っていたメロンパンが、無い!
 私の昼飯が、一日三十個限定のメロン果汁入りメロンパンが、無い!!
 私は周りを見渡す。十メートルほど先で、茶色い鳥ポケモン達が何かに群がっているのに気がついた。まさか! 私は駆けつける。そこでは茶色い鳥ポケモン、ポッポ達が見覚えのあるメロンパンに集団で喰らいついていた。
「俺のメロンパーン!!!」
 私は慟哭した。補足説明すると当時の一人称は俺だった。
 私の目の前で無残な姿を晒した一日三十個限定メロンパンはすぐに跡形も無くなって、ポッポ達の胃袋に収まっていった。
「ぐおおおおおおおおっ」
 私は再び慟哭した。私の昼飯を腹に収めたポッポ達は一斉に飛び去っていった。
 それ以来、私はポッポが大嫌いになった。がむしゃらに勉学とバイトに励んだ私は無事にタマムシ大学にストレート合格し、奨学金も手に入れた。だが、携帯獣研究を始めてもポッポが嫌いだった。種族名を口にすることも嫌だった。
 いや、冷静に考えてみれば襲ってきたのはピジョンだったのだが、腹に収めたのはあのポッポ共だ。たぶんあのピジョンの子どもか何かだったんだろう。
 しかしまぁとにかく、食ったのはポッポだ。私の大事なメロンパンを食ったのはポッポなのだ。あの茶色い悪魔なのだ! 食い物の恨みは怖いのだ! 何十年も恨み続ける程度には! 当時の私は貧乏で金が無くて、つねに腹を空かせていたのだから!
 ああ、返せ! 私のメロンパンを返せ! 返せえええええ!!


ハッ。
 そこで私は目覚めた。
 ふむ。おやつの時間だ。私の体内腹時計は非常に正確だ。
 きっと弟子がおやつを用意している。研究室に戻ろうではないか。
 ぱたぱたと廊下を歩き、研究室のドアを開く。
 その向こうでテーブルの上のポッポが……

 ポッポ野郎がメロンパンをつついていた。

「うわぁあああああああああ!」
 私は絶叫した。
「博士! 落ち着いてください! ありますから!! 博士の分はちゃんとありますから!!」
 弟子が私を押さえつけて言った。

 私はメロンパンにかじりつく。
 ふわっとしたパンにクッキー部分の甘み。その味を私はじっくりと味わう。うむこれこそが幸せの形だ。やはりメロンパンは至高だ。誰が何と言おうと至高の味だ。あああ〜、幸せだ。
 まったりとした顔になっていると、ポッポ野郎がこちらを向いた。
「なんだ! 私のメロンパンはやらんぞ!」
 私は守りの体勢をとる。
 だがもうポッポ野郎は腹がいっぱいなのか、そっぽを向き、ぴょこぴょこと向こうに歩いていくと、嘴でカメラの肩掛けストラップを引っ張り始めた。
「なんだお前、カメラに興味があるのか」
 私はポッポ野郎に尋ねた。あるいは単に引っ張りたいだけか。
 バカ弟子が「こうやるんだよ」などと言いながらメロンパンを食う私をパチリと撮った。ああ、また無駄遣いをしおって。ふん、でもまぁおやつをタダを食いされるだけというのも癪だから、何か仕込んでみるのも一興かもしれん。
「だが、メロンパンの恨みは忘れんからな! 許してやってもいいが、忘れんからな!」
 と、私は言った。
 弟子とポッポ野郎は何のことだか分からずに不思議そうな顔をしていた。


  [No.2732] 森と海と 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/18(Sun) 07:30:23   133clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

・ソーナノ
 ソーナンスの進化前。
 手に入れる方法は、ソーナンスに『のんきのおこう』を持たせてタマゴを作ること。

・ルリリ
 マリルの進化前。
 手に入れる方法はマリルに『うしおのおこう』を持たせてタマゴを作ること。

・ゴンベ
 カビゴンの進化前。
 手に入れる方法はカビゴンに『まんぷくおこう』を持たせてタマゴを作ること。

    これらの種の共通点は近年になって発見されたということだ。
    進化系であるソーナンス、マリル、カビゴン。
    これらの種がもっと以前から知られているにもかかわらず、である。

                            ――とある携帯獣の図鑑より
「まずはこれをご覧ください」
 暗く静まり返った部屋の中で男がそう言うと、青年のとなりにあった光る大きな画面が切り替わった。それはどこかの地図を映しているようだ。それらは地区別に色分けされているようだった。
「これは各地域の森林の豊かさを示しています。最大を100として80以上は赤で、79から60はオレンジ、それ以下は黄色となっています」
 地図上の色の分布を見ると赤はほとんどなく、オレンジが4分の1ほど、残りは黄色であった。
「次にこれをご覧ください」
 聴衆が画面に注目すると、地図上に円柱の棒が現れる。円柱の長さはいろいろあったが青と緑の二つがあるようだった。
「青はカビゴン、緑はゴンベです。円柱の長さは生息頭数を示しています。このグラフが示すとおりカビゴンは赤の地域にしか生息していません。オレンジの地域にはゴンベが生息していますが、カビゴンは確認できませんでした。黄色の地域ではカビゴン、ゴンベとも生息は確認できませんでした。つまりこれらのポケモンは森の豊かさの指標となっているのです。では、次にこのグラフをご覧ください」
 画面が切り替わった。
 映し出されたのは黒い折れ線グラフであった。その折れ線グラフの値は年を追うごとに減少しており、回復の様子は見られない。急激に減っている箇所があり、近年では緩やかな減少が見られる。
「これは先ほど映し出した地域の森の面積を年で追ったグラフです。ちょうどこの20年あたりで急激に減っていることがお分かりになるかと思います」
 青年がそう言うと、また別の赤い折れ線グラフが現れた。赤い折れ線グラフは森が急激に減りはじめたあたりで増加しはじめ、黒が勢いよく、低下している20年間の真ん中あたりで徐々に減り始めると、黒グラフの下降の勢いが低下したあたりで消えた。
「赤の折れ線グラフはこの地域のカビゴンによる農作物等の被害届け件数です。これは森林の減少によってカビゴンが人里に下りてきた結果であります」
 男はここで一呼吸置くとまた続ける。
「被害届け件数は、この20年間の大規模な森林の減少に反比例して伸びていきます。そして、10年目でピークを迎え、その後は徐々に下がり続け、ついになくなった。それはなぜか…… その一つとして我々人間によるカビゴンの捕獲、もう一つにカビゴンの頭数そのものの減少が挙げられます」
 男はここまで言うと、被害届け件数がピークとなった10年目を指差した。
 そして、こう言った。
「そしてこの年は、ゴンベがはじめて発見された年であります」
 聴衆内にどよめきが起きた。
 画面に男が指差した点から、新しく緑色の折れ線グラフが現れるとそれは緩やかに上昇し、ある地点で安定し、緩やかに下降しはじめた。
「緑の線はゴンベの生息頭数です。さらに……」
 今度は青い折れ線グラフが現れた。
 それは緑が上昇しているのとは反対に下降した。ある地点で安定し、そして緩やかに下降しはじめた。
「青の線はカビゴンの生息頭数です。減少しているのがお分かりかと思います。とくに見ていただきたいのはこの部分です。生息数がゴンベの増加に従って、減少しています。まるでゴンベと入れ替わるように……」
 聴衆がいよいよ騒ぎ始めた。
 ついに一人が立ち上がってこう叫んだ。
「つまりあれかね! 君はこう言いたいのかね! 森林の減少の結果として、カビゴン内から新しくゴンベが生まれたと!」
「そうです。ゴンベ、という形態は追い込まれたカビゴンという種の苦肉の策なんじゃないでしょうか。体を小さくすればその分、エサは少なくてすむ。従来、カビゴンからはカビゴンしか生まれなかった。ですがこの急激な環境の変化、それがゴンベという新種を生んだのです」
 男がこう答えたとき、会場内はついに収集がつかなくなった。
「まさか! ありえない!」
「いや、何しろ相手はポケモンのやることだからな」
「データの取り方はどうなっているんだ?」
「森の豊かさとはどういう基準か具体的にお教え願いたい!」
「そもそもカビゴンの生態というのはだね……」



「はぁ……、やっぱり発表するんじゃなかったかなぁ」
 青年は、昼食のサインドイッチを握り締めながらため息をついた。
「あの後、質問の嵐でろくにしゃべれなかった……。ああでもないこうでもないって徹底的に突っ込まれるし、昼食買いに行っても、じろじろ見られるし……。俺、この先ポケモン学会でうまくやっていけるのかなぁ」
「そう落ち込まないで。突っ込まれるのは学会の常よ」
 青年のとなりにいた若い女が声をかけた。青年がしゃべる横で画面を操作していたのは彼女であった。
「突っ込まれるのは何回やられても慣れないよ。本当に心臓に悪い……」
「そんなこといいから早く食べなさいよ。昼休み終わっちゃうわよ」
「ああ、そうだよ。あのまま俺の持ち時間はおしまいさ。せめて結論だけはちゃんと言わせて欲しかったなぁ」
 青年はがぶり、とサンドイッチを口にほおばった。
 ぼうっと会場の窓から空を見るとキャモメたちがミャアミャアと鳴きながら、窓から見える風景を横切っていくところだった。ポケモン学会は定期的にいろんな場所で開かれるが今回の会場は海が近いのだ。
 鳥ポケモンはいい。空が飛べるから。飛べるならこの会場からすぐにでも飛んで帰りたい。
 そんなくだらないことを考えながら、サンドイッチを飲みこんでふと横を見るといつのまにか青年の横に、もう一人の男が座っているのに気がついた。
 青年が気が付いたことを察し、男は軽く会釈をした。傍らには一匹の大きな鳥ポケモン、ピジョットが立っている。その視線がどうにも手元のサンドウィッチに注がれている気がして、思わず青年はそれを後ろに隠してしまった。
「ははは。心配しなくてもダイズは大人しいから、人のサンドウィッチやメロンパンをとったりはしないよ。安心しなさい」
 そう言って男はピジョットを撫でた。ピジョットがもう一度ちらりと青年のほうを見る。正直ちょっと信用できないよなぁと、青年は思った。結局サンドウィッチは一気に口にほおばって、飲み込むことにする。
「ああ、それはそうと、お隣お邪魔しますよ」
 そんな青年の挙動と不信を気にする様子もなく男は言った。
「む、あが……はい……どうぞ」
 口をむぐむぐさせながら青年は答えた。ごくりと食べたものを飲み込むとピジョットが諦めたように視線を外した。今度は男が長く伸びた冠羽の後ろを掻いてやる。するとピジョットはうれしそうに目を細めた。
 青年の隣でピジョットに触れるその男は初老とでもいうのか、それなりに年を召している様子だった。顔に刻まれたしわや黒髪にまじった白髪、そして鳥ポケモンを撫でる手。それらがこの男の生きてきた時間を物語っていた。
 初老の男はこの時を待っていたようだった。青年に顔を向け、彼はいよいよ話し始めた。
「貴方、あれでしょう。さっき発表していた方でしょう。ゴンベについて」
「え、あ、ええ……そうですが……」
 今度は何を突っ込まれるのだろう。
 青年は反射的に脳内で理論武装をはじめていた。
「まぁ、そう緊張なさらず……とは言っても無理かな。私もね、若いころはずいぶんと心臓に悪い思いをしたもんだよ」
 どうやらこの初老の男も学会で発表する人間のようだった。この年なら相当な修羅場をくぐってきているのだろうと青年は推測した。
 しかしあれだな。自分のことがせいいっぱいで誰が何を発表するなんてろくに調べてないぞ。誰だろう……この人……。と、青年は焦った。ああ、まずったなぁなどと内心に呟くものの、そんなものは後の祭りだ。
 男は助けを求めるように反対側にいた女に目くばせしてみたが、女は「そんなことまで、知らないわよ?」というようにジェスチャーするだけだった。
「それでね、話の続きだけど……私はなかなかおもしろいと思うよ。貴方の説」
「え! あ、そ、そうですか! ……恐縮です」
 自分の考えていたこととまったく違う言葉がきたもので青年は戸惑った。が、自身の説が評価されたのは単純に嬉しかった。
「会場内をあれだけ騒がせるとは、お若いのにたいしたものだ」
「い、いえ……それほどでもないです。突っ込まれてもほとんど答えられなかったし…… 第一どれくらいの方が支持してくださるか……」
「なぁに、新しい説っていうのはそんなものだよ。今は定説になっているものだって、発表当時は認められなかったものが多いからね」
「……僕のがそうだとは限りませんよ」
「今はまだ認められないかもしれない。なにせまだまだ証拠不足だからね。だが、君の説が正しいのなら後に続く研究がそれを証明してくれるさ」
「いえ、その、あの説は別に否定されてしまったって構わないのです。でもポケモン学会はいろんな分野の方がいらっしゃるから。だから何かのきっかけになればそれでいいと思っています。僕が言いたいのは……彼らの住む世界そのものが失われているということです。近年のデータではカビゴンはもちろん、ゴンベの数まで減ってきている。以前まではゴンベという形をとることでなんとかしてきた。でも、それももう限界でしょう……」
「なるほどね」
 初老の男はそう言うと窓の外の風景を一望した。窓の外では相変わらずキャモメたちがミャアミャアと鳴いている。
 この人になら聞いてもらえるかもしれない。男はさらに自分の考えを話してみることにした。
「ゴンベが発見された年の少し前に、ルリリやソーナノ、いわゆる『進化前』と言われるポケモン達が発見されています。これについてはまだ調査中ですが、もしかしたら関係あるのかもしれません」
「ああ、そうかもしれないね」
「僕は野生のゴンベを見て育った世代でして。だから野生の、大きなカビゴンが見てみたい、そう思っているんです。でも、そのためには僕が生まれる前の豊かな森が必要で。だから僕はそれを証明したいんです」
 青年は言った。それは彼の願望であり、夢だった。
 そんなものポケモンリーグでいくらでも見れるじゃないか。
 まわりの大人達はみんなそう言った。けれど少年が見たいのは野生のカビゴンだった。豊かな森でゆったりと昼寝をするカビゴン。それが少年が夢に見た景色だった。
「うむ、私もね、大きなポケモンは大好きだよ」
 初老の男がうんうんと頷くと自分のバッグをごそごそとかき回しはじめた。
 そして一枚の紙を取り出した。
「私の専門は海のポケモンでね、君の説を後押しできるかどうかはわからないがこんなデータがある」
 初老の男は、その紙を男に渡すと、それが示す内容について説明しはじめた。
「いいかい、これは僕が依頼されてある地域のあるポケモンの生息数を解析したものなんだ。この緑の折れ線グラフがホエルコ、青の折れ線グラフがホエルオーだ。このグラフはここ何十年かの生息数を追っているものなんだが……」
 そう言って初老の男はある部分を指差した。
「ほら、この年からホエルコが増えて、ホエルオーが減り続けているでしょう。誰かさんのデータと似ていると思いませんか」
「…………」
「私の考察ではね、エサの不足でホエルオーに進化できないんじゃないかと思っているんです。ホエルコのままならホエルオーよりは食べないからね。この海域のエサの減った原因は森林の破壊ではないかと私は睨んでいる」
 ここまで初老の男がいうと今度は女が口を開いた。
「あの、それが森林の破壊と関係あるのですか? ホエルコやホエルオーは海のポケモンでしょう?」
 初老の男が答える。
「おおありですよ。地域によって差異があるのですが、この海域のホエルオーのエサは主に海のプランクトンなのです。それを育てているのは海中にある養分だ。その養分はどこから来ると思いますか?」
 初老の男の質問に、こんどは男が答えた。
「森です。木から落ちた葉など養分となって、河に流れて海へ届くんです」
「そのとおり。だが一種だけじゃまだ弱いからね。他の海のポケモンでもデータを集めてみようと思ってるところだよ」
 初老の男はその答えを待っていたかのように言葉を返した。
 そして腕時計を見るとバッグを持って立ち上がった。
「さて、そろそろ昼休みも終わりだな。次は私が発表する番でね。お先に失礼させていただきますよ」
 初老の男は会場に向かって歩き出した。その後ろを鞄をくわえたピジョットが冠羽をたなびかせ、トコトコとついていった。その様子を二人の男女はぼうっと見ていたが、にわかに男の方が立ち上がって初老の男の後を追った。
 男は先ほど立ち去った男に追いつくと同時に話しかける。
「あ、あの、僕はモリノといいます。貴方のお名前は?」
 初老の男はゆっくりとふりむいて、にっこりと笑った。
「継海……ツグミトシハルです」
 どちらかだったか一方が手を差しのべると、二人は握手を交わした。
 直後、会場側から初老の男を呼ぶ声がした。
「ツグミ博士、何やってるんですか! もうすぐ始まっちゃいますよ!」
 どうやら声の主は博士の助手のようだ。
「私はね、かの海でも昔のように大きなホエルオーを見たい、そう思っています。その海を見て育つ子ども達にもそれを見せてあげたいってね。彼らは森からやってきます……また、お会いしましょう」
 博士はそう言うと聴衆が待つ会場へと消えていった。
 男が見送る後ろから、女がやってきて学会のプログラムを開く。二人はその内容について言葉を交わすと、博士が消えていった方向に向かって歩き始めた。


  [No.2733] 海上の丘にて 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/18(Sun) 07:34:13   111clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 ――なあ、『   』を聴いてみたいと思わないかい?

 誰だっただろう。昔俺にそんなことを訊ねた人がいた、と男は思い返していた。
 もうその人が誰だったのか、何を訊かれたのかも覚えていないのだが。


「めずらしいな、雪が降るなんてハジツゲタウンくらいなものかと思っていた」
 すうっと自分の横をかすめた白いものに気が付いて髭(ひげ)の男は呟いた。
 ホウエン地方は亜熱帯の温暖な気候で知られ、この地方で雪が降るのはめずらしい。
 言うまでもないがハジツゲタウンの雪というのはフエン山から降る火山灰のことだ。火山灰を集めて作ったガラスでベルを作ると非常によい音がするとどこかで聞いたことがあった。
 空を見上げると、暗い灰色の雲に覆われた空から白い粉雪がひとつ、またひとつと降ってきて、男の座っているその下に広がる水面に落ちて、ふっと姿を消した。
 波も高くなく、穏やかな夜である。
 雪が舞う海に静かな波の音とシャンシャンシャンという鈴の音だけが響いている。
 男は今、海上を、波で揺れる水面の少しばかり上をソリに乗って滑っているのだった。
 ソリを引いているのは、四頭の、少々ムッツリとした顔をしたポケモンだ。そいつらは四足歩行でヒヅメを持っていて、頭からは立派なニ本のツノが生え、そのツノが左右に枝分かれするところには宝石のような玉がついている。
 常識的に考えると、あきらかに海上を、しかも空中を移動できそうにない風貌だ。だが、彼らはあたかも自分たちが空中を走れるのは当たり前といった顔をして宙を蹴り闇夜を走り続けた。男が「秘密結社」から支給された、そこらの野生種とは違う特別な個体だった。
 さらに彼らの手綱を引く男の隣には、男の着ている服を真似したような、赤と白の羽毛をまとった鳥ポケモンがちょこんと座っていた。首から胸にかけて伸びた白くふさふさした毛は、隣でソリを操る男の髭のようでもある。マスクのように顔を覆う白い羽毛の中から黄色い嘴が伸びて、きょろっとした目がのぞいている。ツノのように伸びた白くて太い冠羽は男の眉のようであった。
 が、その男の髭もまゆげも本物では無く、つけたものだった。「秘密結社」の規則とやらで服装も風貌もきっちり定められているので、男は仕方なくこんな格好をしているだけなのだった。
 シャンシャンと鈴の音が響く。
 雪の降る海上を男と一羽を乗せた四頭は走り続けた。

 ……それにしても。
「なんだってあんな辺鄙(へんぴ)なところに人が住んでいるんだ?」
 男はぼやいた。この問いかけを何度繰り返したことだろう。
 今向かっている目的地の担当になって三年目だ。だが最初一回目でその遠さにうんざりした。ホウエンのミナモ港から船で二十五時間とかそういう距離に目的地があるのである。男の目的地は、ホウエン本土の南をずうっといったところにある小さな島なのだ。人口はたいしたことなく男が「荷物」を届ける家はせいぜい二十、三十。数えるほどしかない。そしてさすがに過疎が進んでいるらしく毎年その数が減っているのである。
 前にここの担当者だった老人は笑顔で男に言った。
 ――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに……
 それに何だ?
 バカみたいに距離がある。そう言いたかったのか? だとしたら笑えない……
 男はハァ……と夜の闇に白い溜め息をついた。
 この距離のせいで男が年一回の「仕事」を終えて戻る頃には、同業者はみんな引き揚げてしまって、船に帰って飲んだくれているのだ。その時に感じる疲れときたら。
 今年で三回目だ。帰ったら結社にかけあって、来年こそ配置転換させてもらおう。
 男はそのように決意していた。
 雪の降る海上を進みながらそんなことを考えていると、男の隣に座っていた赤と白の羽毛のはこびやポケモン、デリバードがふあっとあくびをした。

『おめでとう! あなたを我らが秘密結社の名誉ある社員に採用いたします!』
 そんな怪しげなダイレクトメールをデリバードから受け取ったのは、彼が成人してしばらくしてからのことだった。
 いかにも怪しかったので、すぐに破って捨ててしまったのだが、破いても破いても郵便ポストに同じものが突っ込まれる。ついに郵便ポストが破裂して、近所の目がよそよそしくなったころ、男は業を煮やし、送信元の事務所に殴りこみに行った。
 行ってみれば怪しげなビルの一室だった。
「素晴らしい! 期待通りの行動力! さすが支部長の推薦だけはある!」
 勢いで中に入ると椅子に座ったサングラスの髭が嬉しそうにそう言った。
「さっそく採用します!」
 一体どこにいたのか怪しい髭の一団がポンと出現して、男は瞬く間に取り押さえられた。彼は暴れに暴れて抵抗したが、とどめとしてデリバードのプレゼント――まばゆい光の玉が炸裂した。それを食らって男の目の前はまっくらになったのだ。
 目が覚めると彼は、北の国の新人研修キャンプに送られていた。

 世界中に秘密の荷物を運ぶこと。
 それが男が入った「秘密結社」の目的だった。
 指定された日の指定された時間に、誰にも見られることなく、荷物を待つ人物にそれを送り届ける。それが男の仕事だった。
 あきらかに違法なやり方で引きずり込まれた結社だったが、何せ仕事量のわりに報酬が破格によかったので結局は入社することにしてしまった。
 秘密結社の構成員達を乗せた秘密の黒船は母国を出ると、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海という順番で、世界一広い国土を持つ何とか連邦をぐるっと半周するような形で進み、チュクチ海を南下する。そしてベーリング海をさらに南下すると、ホッポーリョウドという島々があるのでこれを横切る。そこから西へしばらく行くとこの国の北端にたどり着く。シンオウと呼ばれる地域だ。
 そこで黒船は小さな船を出す。シンオウ師団とは一旦ここでお別れとなる。さらに南下する。シンオウ地方の南端に来たあたりで、カントー師団他、いくつかの師団が出発し、さらに南下した後にジョウト師団が、そして最後にホウエンに到着すると、ホウエン師団が出発する。
 問題は黒船がミナモ港付近まで行って、それ以上は南下しないことにある。
 おかげで、海を越えたサイユウシティ方面に行く連中は苦労するのである。
 そしてロケットの街、トクサネで彼らとも別れることになる。サイユウ組は南南西へ向けソリを走らせる。だが、男はたった一組で南南東へ向かうことになる。

 シャンシャンシャン。
 あいもかわらず波の音と、この鈴の音だけが海上に響き渡っている。
「……」
 ソリに少しずつだが雪がつもってきた。未だに目的地は見えない。
 男の横に座ったデリバードはそんなことも気にせずのんきにグーグー昼寝をはじめた。いや、今は夜だから昼寝とは言わないか。それにしても雪の夜に外で寝ても平気とはうらやましい奴だ。
 横の相棒の無神経さに呆れながら、男は去年と同じように自己分析していた。この配属がいやな理由の大きな原因はこの単調さにあるのかもしれない。延々と長い時間ずっとこの退屈に堪えねばならないのだ。
 しかも寒い。ろくに動きもせずずっとソリにすわりっぱなしだから、足とか手の指先とか体の先端部からどんどん冷たくなるのだ。
 都市部配属の連中はいい。配達の家は多いけれど退屈しない。それに入るたびに暖かい。この仕事をはじめたころはまだ都市部の担当だった。実際にやってみてわかったことなのだが、入るたびに配達先の家のいろんな様子がわかって面白い。
 子どもの部屋に入ると、ああ、この子は乗り物が好きなんだとか、ポケモンが好きなんだな。将来の夢はポケモンマスターかなとか、ここの家、今日はいいもの食っているなとか。親がいい酒飲んでいるなとか。そういうのをたくさん見られるから退屈しない。
 見学ついでに、ケーキとシャンパンの残りを失敬したりなんてこともある。もちろんそんなことは結社の規則で禁止されているのだが、みんなやっていることだった。
 だから朝起きてきてみたら高級なシャンパンやワインが微妙に減っているとか、朝に片付けようと思ってテーブルに放置していた皿の数が家族の人数より一つ多かったとか、余ったショートケーキのイチゴだけなくなっているとかいうことがあったらたいてい同業者の仕業だ。うらやましいことに都市部の連中はそういうことが夜通しやり放題なのだ。
「ホウエン師団で一人さびしくソリ走らせているなんて俺くらいのものだ! クソ! 」
 男は悪態をついた。
「おい、スピードが落ちているぞ! 島は遠いんだからな!」
 男はソリを引く四頭のオドシシに向かって怒鳴ると、ぴしゃっと手綱を波打たせた。
 ああ、おもしろくない!
 男は、まだ見えない目的地を睨みつけた。

 シャンシャンシャン。
 雪の降る海上の、男と一羽を乗せた四頭はまだ走り続けていた。
 あと一時間も走ったら目的地が見えてくるはずだった。
 のんきに居眠りをしていたデリバードは、今さっきお目覚めのようで寝ぼけ顔だ。
 やれやれと、男は思いながらまた手綱を波打たせた。
 しかし、男がいくら手綱から合図してもオドシシたちのスピードが一向に上がらない。男に続いて今度はオドシシたちが疲れて、そして飽きてきたのだ。長い距離を走ってきたのだ。もっともな結果である。
 そのやる気のなさを受けてかだんだんソリの高度が海面スレスレに下がってきた。
 バチャッ。
 ソリの足が海面に触れた。
 危なかった。
 ここでバランスをくずして、ソリが転倒でもしたら運んできた荷物がしょっぱくなってしまう。なにより運び屋一同海に落ちでもしたら寒いどころの問題ではないだろう。幸いソリは水にも浮かぶ仕様だから、なんとか全員を引き揚げられたとしても、もう海上から飛び立つのは無理だろう。海の上からでは飛び立つための助走がつけられないからである。
「波に足をとられるな! 高度を上げろ!」
 男はあわてて叫んだ。
「ブモーオ!」
 オドシシたちは体勢を立て直して高度を上げつつも、もういやだとばかりに声を上げた。
「がんばれ! 目的地まで持ちこたえるんだ。あと少しだから」
 男はそういってオドシシたちをせかしたが、なおもオドシシたちは訴える。
「ブモー」
「なんだようるさいな」
「ブモッブモッ、」
「は、なんだって?」
 聞きたくもなかったのだが、秘密結社の新人研修で「誰でもわかるオドシシ語! 二週間徹底リスニングコース」という半ばサブリミナルに近い教育を受けている男には、彼らが何を言ってるかわかってしまったのだった。ちなみにデリバードコースもあったのだがそれは説明を省略しよう。
 とりあえず、男の聞き取りが間違っていなければオドシシ達の訴えは次のような内容だった。
「ブモーーオッ、ブモモ」
「何、スタミナ切れ。またそんなこと言って」
「ブモッ、ブモッ、ブモッ」
「何? 出る前に余裕ぶっこいてたら飯を半分食いそこなった?」
「ブモブモッ」
「だから一休みしたい。ついでに飯を食わせて欲しいだって?」
「ブモー」
「バカッ! 海上で休む場所なんてあるかッ!」
 男は額にプッツンマークを浮かべながら叫んだ。
「せめてトクサネを飛んでる時に言えよ!」
 ついでにそう叫んだがすでに後の祭りだった。

「これがわが秘密結社の誇る電磁浮遊ヘイキューブです!」
 まるでホウエンのポケモン菓子ポロックのように四角くまとまった干草の塊を指でつまみ、白衣の白髭オヤジが得意そうに言った。
 なんでも、世界の子ども達の夢の為に創始者のなんとかニコラス氏が開発したのだが、非常に不味くオドシシの皆さんに大変不評だった為、今日に至るまで改良を続けてきたのだという。
 男は「なぜ電磁浮遊なんですか。素直に浮遊でいいじゃないですか!」と突っ込んだのだが「まぁソリも電磁浮遊式ですから。でも浮いてるだけじゃ進まないのでオドシシっていう推進力を付けました」という答えのような答えでないような返答をされたのだった。きっと創始者なんとかニコラス氏は浮遊のドガースより電磁浮遊のメタグロスが好きだったんだろう。と、男はそのように解釈している。
 とにかくその電磁浮遊ヘイキューブなる魔法の干草でもって、オドシシ達は宙を走ることができるらしい。ただ製作コストが高いとかいう話で、それが振舞われるのはいつだって飛び立つ数時間前だった。
 ん? まてよ。野生個体とは違う特別なオドシシなんじゃあ……という突っ込みが入りかけたが、今の男にそれを考える余裕はなかった。

「ええーと、つまり結論としては、魔法の干草、電磁浮遊ヘイキューブを半分食べ損なった。一生懸命食べていたのだが、甲板への集合をかけられて、それ以上は無理だった」
 男がそのように要約すると
「ブモー」
 と、オドシシが肯定の返事をした。ぐぬぬ、と男は唸った。
 なんたることだ。オイルを入れない車が走るわけないじゃないか。しかも普段地を走るのとはワケが違うのだ。地を離れ宙を走る文字通り離れ業をやるのだからそれ相応のエネルギー補給を要するのだ。
 いや、オイルはあるのだ、と男は思い返した。デリバードの袋にいざというときの非常電磁……以下略をつめてある。だが、この状況下――海上をけっこうなスピードで走っている状況下でどうやって食わせると言うのだ。
 デリバードに飛んでもらって食わせてみようか……そんな考えが男の脳裏をよぎったが、却下された。空中走行中での受け渡しは、不安定な上に、食料の消化も悪そうだったからだ。勢い余ってノドにつまらせるかもしれない。なによりデリバードは飛ぶスピードがソリよりのろい。きっと飛び立った瞬間に海上に置いてきぼりを食らうだろう。ソリのスピードを落とすことも考えたが、そこまで落すとソリが着水しかねない。
 いやそもそもだめだ、と男は思った。草っていうものは厄介でオドシシの消化吸収能力をもってしても消化までに数時間はかかる。そのようにあの白衣の担当者が言っていた。残念ながら、これを男ははっきり覚えていた。
「うあああっ! 根本的にダメじゃねーか!」
 男は暗い海の上で盛大に絶叫した。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。……うん、どうしようもない。
 三回唱えてみたが、どうしようもなかった。
「とりあえず落ち着け。落ち着くんだ俺」
 男は緊急事態を想定した。
 ええと、海上で走れなくなるとすると……まずオドシシが着水する。それにあわせて俺はソリの電磁浮遊スイッチを切る。ソリも着水する。そこでしょっぱくなったオドシシ四頭をソリの上に避難させ、デリバードの袋から救難信号を出す……。
 海に浮かんだソリの上でしょっぱい荷物とこれまたしょっぱいオドシシを乗せて協会の助けを待つということか……男は顔をひきつらせながら想像した。緊急時の食料や防寒具はデリバードが持っている。考えただけでも寒そうで空しそうな時間だった。
 ――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに……
 という前任の言葉が思い出された。
 それに何だ?
 着水、漂流、救助待ちか? だとしたら笑えない……
 かじかんだ手がよけいに冷えて、男はげんなりした。
 そして、ひきつった顔で苦笑いするとこう言った。
「とりあえず走れ! 案外なんとかなるかもしれないし!」
 
 シャンシャンシャン。
 シャンシャンシャラッ……
 そんな一抹どころでは無い不安を抱えつつ、一行は海の上を走り続けた、のだがついに限界が来たようだった。
 男はオドシシたちの消耗が予想以上にはげしいことに気が付いた。
 いつもの年と違って雪がふっているせいかもしれない。めったに雪がふらないホウエン地方で、雪。子どもたちは喜ぶかもしれないが、男にとっては厄介以外の何者でもなかった。
 「なんとかなるかも」は「無理すれば」に、「無理すれば」は「いや無理だろこれ」に変わりつつあった。
 いや、実際どう考えても無理なところを認めようとしなかっただけかもしれなかった。

 ――なあ、『   』を聴いてみたいと思わないかい?

 こんな状況の中、男の脳裏に浮かんだのは、昔誰が言ったのかもわからないあの言葉だった。
 いかんいかん、そんなこと思い出している場合じゃない。男はプルプルと首を振った。

 シャンシャン、シャラッ。
 シャンシャン、シャララ……。
 オドシシたちは鼻息を荒くしながら必死に走っている。男は腕をまくった。腕の中から秘密結社特製現在位置特定機――ようするにGPSが顔を出した。男は島との距離を確認する。無理をさせた甲斐があってか、あと20〜30キロの地点にさしかかっていた。その甲斐あってかとうとう小さくだが灯台の明かりが見えてきた。明かりが回転しながら闇夜を照らしているのが見える。
 男は灯台の明かりが見えたことに一種の安堵を覚えつつも、同時に焦燥感も感じていた。見えるといったってまだ距離があるのだ。
「あと少しだ。頼む! 踏ん張ってくれ」
 男はオドシシにすがるように言った。もうそれ以外頭が回らなかった。
 実は、男はもう一つのミスを犯していた。焦燥感が彼の判断を鈍らせたためだろうか、それともホウエンにはめずらしい雪のせいだろうか、男はその雪が積もって重くなったソリのことなどすっかり忘れていたのである。重量を重くするソリに積もった雪。それをデリバードに払わせるべきだったのにそこまで頭が回っていなかった。
 そして、もちこたえて欲しいという男の願いをよそにいよいよスピードが落ち始めたのだった。
 男は苦い顔をした。手綱の感覚からなんとなくわかる。もうオドシシたちに目的地まで走るだけの力は残されていまい。
 ほうら、まただんだんとソリの高度が下がっている。もうこれは空を走ってるんじゃない、落ちるのに時間をかけていると表現するのが妥当だ。そのように男は思った。
 無理をさせれば、あと何キロかは走るかもしれない……が、それでも島には届かない。どうせ着水するなら体力は温存しておいたほうがいい……。
 男はついに覚悟を決めた……というか諦めた。
 だんだんと近づいてくる暗い海面を見つめながら、男は急激に冷めていくのを感じていた。
 秘密結社の規則なので、こんなときのために自分とポケモン達にはライフジャケットをつけている。溺れることはあるまい。とりあえず、無事ソリが着水できて、それでオドシシたちを引き揚げたらデリバードの袋から救難信号の発信機を取り出して……それで……。
「それで無事に帰れたなら、配置転換を申請しよう。来年は何が何でも絶対に変えてもらおう……」
 海面はもう目の前に迫ってきていた。先頭のオドシシ二頭が意を決してボチャっと海に飛び込むと、崩れるように後ろの二頭が海に入った。男は斜めに傾いたソリに必死にしがみつきながらタイミングを見計らって電磁浮遊スイッチを切る。
 そして、ソリの足が水について……、ソリは海に着水した。
 着水時の勢いで一瞬彼らは海に浸かった。海水がかかって、赤い服はびしょびしょになってしまった。もう鈴の音は響かなかった。
 ――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに…
 それに……? なんだっけ? あの時、前任のじいさんは何て言ったんだっけ?
 なんにしろ、これで救助待ちだ。
 男は波に揺れるソリの上でバランスに気をつけながら立ち上がると、オドシシたちの手綱をたぐりよせはじめた。
 だが、その時、予想もしないことが起こった。
 ガタっとソリが揺れたかと思うと突然海面が盛り上がったのだ。
 バランスをくずした男は、ソリから落ちて海面に突っ込んだ。
 ボチャン!
 海面に顔が突っ込む瞬間、そんな音がするかと思われた。
 だが、代わりに伝わってきたのはブニョッという感触だった。
「ブニョッ?」
 ブニョッとするものに三分の一ほど顔を埋めて、男はいぶかしげに声を上げた。
 さらに、そのブニョッとするものは高度を上げた。
 男が手をついて顔を上げると、海水がザバァーっと音を立てながら下に引いていくところだった。
 そして海水の呪縛から自由になったオドシシたちが、ぶるっと体を震わせ海水を飛ばしてきた。
 盛り上がってきたのは「海面」ではなく「陸地」だった。
「と、とりあえず助かったみたいだが……」
 男が気を取り直し、あたりを確認しようとしたその瞬間、

 シュゴォオオオオオッ!

 男たちの目の前で急に海水が吹き上げられた。
 目を丸くしてあっけにとられる男たちを尻目に海水は数秒ほど吹き上げられてそして収まった。
 男が、突然盛り上がった海面――いや、ブニョブニョする陸地の正体を悟ったのはその直後だった。
 男が、海水が吹き上がった場所までブニョブニョ歩いていってみると、そこには二つの大きな穴が空いていた。この陸地の鼻、である。
「オオオオオオオオオオーーーォウ」
 陸地が唸った。それは海から盛り上がった陸地が――否、ホエルオーが仲間を呼ぶために使う唄であった。
 うきくじらポケモン、ホエルオー。
 現在確認されているうち最大のポケモンであり、その巨体は十数メートルに達するという。男たちが着地したブニョブニョする陸地は、ホエルオーの背中だったのだ。
 そして、すぐ近くから、あるいはずっと遠くから、次々と潮が吹き上がって、返し唄が聞こえてきた。
「…………な」
 男は言葉を詰まらせた。
 本で読んだことがある。話には聞いたことがある。だが、男は今の今まで実物のホエルオーというものを見たことがなかった。百聞は一見にしかず。そのスケールの大きさは男に畏怖の念さえ起こさせた。
「ルォオオオオオオオオ」
 男が乗っているホエルオーがまた声を上げた。
 ああ、思い出した……今、思い出したと、男は回想した。

 ――なあ、『鯨の唄』を聴いてみたいと思わないかい?
 誰だっただろう。
 昔そんなことをいった人がいたのだ。

 ……知らなかった。
 今まで二度までも通っているのに、こんなにも大きな存在に気が付かなかったことを彼は恥じた。今の今まで俺は何を見てきたんだ? いや、そもそも見ようともしなかったのではないか? と。
 男がそんなことを考えているうちにも、一匹、また一匹とホエルオーたちが浮き上がって、海上に姿を現した。近くの海面を見る。進化前のホエルコたちもたくさん顔をのぞかせている。
 男の横では、デリバードが自分の袋から、気前よくヘイキューブを取り出して、オドシシたちに配っていた。海水が引いたばかりのホエルオーの背中の上に置いてしまったものだから、少しばかりしょっぱくなってしまっていたし、改良を加えているとはいえまだ相当にまずいはずだった。けれどオドシシたちはお構いなしだ。空腹が何よりの調味料となっていたのだろう。
「ルォオーーーーーーウ」
 そんなオドシシたちを尻目にホエルオーたちは唄い続ける。
 男はしばし鯨たちの唄に聴き入った。
「オオオオオオオオオオーーーォウ」
「ルオオオオオオオオオオーーー」
「ーーーーーーォオ」
 波音を伴奏にして鯨たちは唄い続けた。
 唄い手はどんどん増えて、そして彼らは唄いながらある方向に向かう。男たちが目指していた島の方向である。乗せて行ってくれるつもりらしい。
 刻々と島が大きくなって、島に建てられた灯台の光りが大きくなってきた。その光に合わせるかのように、合唱が盛り上がっていく。
 チカチカと灯りが光る。チカチカと。
 ――思い出した。思い出したぞ。
 男は遠き日の記憶を蘇らせた。


「なあ、『鯨の唄』を聴いてみたいと思わないか?」

 遠い昔の聖なる夜、異教の少年は罠をしかけた。
 さる宗教の信仰される地方では、その日の夜になると煙突から入ってくる不届き者がいるらしい――砂漠を越えてきた行商人からそんな話を聞いたからだ。
 だからその日に網を仕掛けた。そうしたら案の定、赤い服に白い髭の不審人物とデリバードが引っ掛かったのだった。
「こりゃあまいったなぁ。私達を捕まえたのは君が初めてだよ」
 にっこり笑って髭の不審人物は言った。
「なんで来たの? 俺、異教徒なんだけど」
 少年がそう言うと、髭はにっこりと笑い、答えた。
「私達はね、私達を信じる子どものところだったらどこへだって行くんだよ。ただねぇ、こっちの宗教圏の子が欲しがるプレゼントっていうのがわからなくて。君、何か欲しいものはあるかね?」
「なんでもいいのかい」
 少年は尋ねる。
「ああ、なんでもいいとも」
 と、髭が言った。
 だから答えた。海というものを見てみたい、と。どこまでも広がる水たまりというものが、どんなものか見てみたいのだと。内陸国の首都に住んでいた少年はそのように答えた。
 すると髭の不審人物が言った。
「そんなら、私についておいで」
 
「ホエルオーはあの巨体で唄うんだ。繁殖期には恋の唄を歌う。驚いたことに年によって流行り唄ってのがあるらしい。そして、より巧みな唄い手がいちはやくパートナーを手にするんだ」
 少年をソリに乗せて、髭は異国の海上を走った。
 そうして彼が話したのは、別の国の海で見た大きな生き物の話だった。
 だから彼はそれがずっと見たいと思っていた。


「ああ、そうだ。思い出したぞ。あの髭オヤジめ! 秘密結社の規則だからとか抜かして、あの後俺の記憶に蓋をしやがったんだ!」
 今更思い出すなんて。男は舌打ちした。やり方はワンパターン、結社お得意のデリバードのプレゼントだった。取り出した光の玉がチカチカと星が光って、炸裂した。それ以来ずっと今まで思い出せずにいたのだった。
「記憶の蓋も期限切れってところかな。すっかり忘れてたよ。そんな気持ちさ……」
 男は海上をゆく一団を眺めながらそんなことを呟いた。

 鯨の歌が転調した。
 強弱をつけて、ときに緩やかに、ときに激しく鯨たちは唄った。
 雪が降る中を灯台の明かりがくるくると回る。それはまるで雪の闇夜という舞台で、海上に響くオーケストラを指揮しているかのようだった。
 そして、鯨たちの唄声が長く細く響いて……、何十回目かの灯台の光りがこちらに向けられたとき、ライトを背に鯨たちがいっせいにジャンプ――ブリーチングをした。
 ブリーチング、それは自分の力を誇示するためにすると言われている。
 持ち上げられた巨体が海面に叩きつけられて、あちらこちらで水飛沫が上がった。海上という大舞台のフィナーレに相応しい演出だ。
 ――なんだってあんな辺鄙なところに人が住んでいるんだ?
 今の配属になって以来、男はなんどとなくそんな問いを繰り返していた。
 今夜、海上の丘の上に立って、その理由がやっとわかった気がした。
 ――荷物が少なくていいよ。手当もいいし。それに……それに、君さえその気ならきっといいものが見れるよ。きっとね。
 そうだそうだ。また思い出した。あの時に前の担当はそう言ったんだ。

 楽しい時はあっという間に過ぎ去った。着水から数時間、すぐそこまで迫ってきている目的地を前に「燃料」を補給したオドシシたちは威勢よく嘶(いなな)いた。その横で男は秘密結社から配布された資料に目を通した。
 一番最初のページにはこう記されていた。
『我らが結社の目的はただ一つ。世界中の子ども達に夢を届けることです。我々の仕事はそのデリバリーです』と。
「たしか一番近いのは……この子の家だったな」
 次のページを開く。そこにはリストが載っていた。それは目の前に迫った島で男の運ぶ「荷物」を待つ子どもたち、そしてその品目が書かれたリストだった。
 一番上の項目に Toshiharu Tugumi と書かれていた。
「プレゼントは……双眼鏡、それにフィールドノート」
 ああ、そうか、きっとこの子は……と男は理解した。男はその子の未来を想像し、リストをポケットにしまいこむと、ソリに乗り込み手綱を握った。
そしてこの地に生まれたその子の幸福と、この地に派遣された自分の幸運を思うのであった。
「素敵な時間をありがとう。そろそろ我々は行きます。子どもたちが待っているのでね」
 男は手綱を波打たせた。オドシシたちが走り出す。四頭はホエルオーの背中の上で助走をつける。ちょっとブニョブニョしていて走りづらい滑走路だが、元気を取り戻した今なら大丈夫だ。 そして滑走路の鼻、潮の噴出孔のあたりでふわっと宙に舞い上がった。
 手綱を握る男のかわりに、デリバードがホエルオーたちに手を振った。ホエルオーたちが潮吹きで応えた。
「メリークリスマス!!」
 男は――いや、若きサンタクロースはそう叫んで口笛を吹くと、ぴしゃっと手綱を波打たせた。オドシシたちが中空で勢いづいて全速力で走り出した。
「みなさんお元気で、また来年に!」
 鯨たちからソリが遠ざかる中、サンタクロースは確かにそう言った。
 もう配属を変えて欲しいなんて思わなかった。


 ――なあ、『鯨の唄』を聴いてみたいと思わないかい?

 ある夜のことだった。
 少年に海をプレゼントした髭のおじいさんはそんなことを彼に聞いた。
 そして、語りはじめた。巨体のホエルオーが唄う事、恋も唄うこと、流行り唄があること、昔、遠い異国の地でそれを聴いたことを。
「聴きたい! 俺も聴いてみたい!」
 と、少年は答えた。
「そうかい」
 と、おじいさんは笑った。
「それじゃあ、いつかは君に順番が回ってくるようにしてあげよう」

 ――本当? 約束だよ!
 ――ああ、約束だ。


 シャンシャンシャンシャン。
 シャンシャンシャン。

 雪交じりのライトが照らす海上。
 波音に混じって、鈴の音だけがいつまでも響いていた。


  [No.2737] 少年の帰郷(1)〜(5) 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/20(Tue) 12:27:33   122clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

1.

 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 ああ、これは故郷の音なのだ、と彼は思った。
 少年の頃暮らしていたあの小さな島の。
 その周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。
 空は何者にも占領されておらず、海からの水蒸気を吸い上げてもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていった。
 照りつける射すような日差しに目を細めながら海を見る。水平線の先に陸は見えなかった。遮るものがない。本当にここには空と海しかない。ごくたまに、青と碧の境目から船がやってくることがあるが、それくらいのものだ。
 海面に視線を移す。波の音と鳥の歌に耳を傾けながら、今日の波は穏やかだと彼は思った。
 ふと、海の底から大きな影が現れた。それはゆっくりと浮き上がって、海面に姿を現すと彼の風景に新たな音を加えた。
 音と共に吹き上げられたのはしょっぱい水だった。
 それは空中でキラキラと輝やくと、やがて海へと還っていった――

 プルル……プルル……と、着信を知らせる電子音が響いた。ベンチで昼寝をしていた彼の、シワの入ったスボンのポケットの中からだ。
 耳に届いたその音と衣服から太ももに伝わる振動に促されて、彼はけだるそうに起き上がるとポケットに手を入れる。機械的な感触を探り当てると引っ張り出し、チカチカと点滅で催促する電話をなだめるように通話ボタンを押した。
「……もしもし。ツグミです」
 眠気を残した声で彼は答える。
「ああ、トシハル君かね」
 電話ごしに聞こえたのは聞き慣れた上司の声。ディスプレイに映されていた着信元は彼の勤める事務所からだった。
「昼休みならまだ終わっていないはずですが」
 自由時間を邪魔されるのは嫌いだったから、そう主張する。
「そんなことはわかっているよ」
 そんな答えを想定していたかのように上司は言った。
「それなら何のご用でしょうか」
 急な用件でも出来たのだろうか? 心当たりを想像しながらトシハルは尋ねる。
「それがな、さっき君のお母さんから会社のほうに連絡があって」
「……え、母からですか?」
 彼は少し呆けた声を上げた。てっきりいつもかけてくる取引先だと思っていたのに意外な人物が浮上したものだ。
 実家と不仲……というわけではない。けれどずっと連絡などしていなかった。
「なんでも急ぎの用らしいから、至急折り返して欲しいとのことだ」
「急ぎの用……」
「いや、僕もね、総務から聞いただけだから」
「はぁ……」
「とにかく、早いとこ連絡してあげなさいよ」
「はい」
「それと」
「それと?」
「君、ご両親に携帯の番号くらい教えておいたほうがいいんじゃないかね。会社用とはいえ、緊急のこともあるだろうし」
 いろいろと想像をめぐらせるトシハルに彼の上司は助言する。コンテストの観戦が趣味だという上司は良くも悪くもお節介な男だった。通常、社用携帯というものの使用にはいろいろな制約があるものだが、彼らにそれを支給した会社組織はそれらの私的利用に比較的寛容であったのだ。
「え……ええ。そうしたいのは山々なのですが」
 そんな上司の気質と社内事情を十分に理解した上で、トシハルは答える。
「何か問題あるのかい」と、上司が尋ね、それに答える形で彼は続けた。
「はい、僕の実家なんですけれど、あいにく圏外なものでして」
 皮肉交じりに答えた。
 トシハルの故郷、それはホウエン最大の都市のはるか沖合い、遠い南の海の果てにある。同じホウエン民でもその存在を知る者は非常に少ない。もちろんそんな場所だから携帯の電波など届くはずもなかった。携帯というものが世の中に普及して久しい。それなのに未だにである。
 いや、本当は嘘なのだとトシハルは内心に呟いた。圏外。その一言で何も考えずに聞いているとうっかり騙される。現に上司は騙された。だからメカに疎い彼の両親への説明もそれで一発だった。たしかに携帯同士ならそういうことになる。が、母親が使ったのは固定電話のはずだ。圏外とはいえ、固定電話が圏内携帯にかけることは造作もない。つまり、嘘だ。本当を混ぜて作った、嘘だった。
 トシハルは携帯の電源ボタンを押して電話を切り、元の場所に仕舞い込むと、腰掛けている公園のベンチから空を見上げた。
 ホウエン地方最大の都市、ミナモシティ。
 空には何本もの巨大なビルが伸びて、高さを競い、彼を見下ろしている。電柱を機軸にした電線がまるで空を切り分けるように何本も張り巡らされていた。トシハルは思う。都会の空は狭い空だと。まだ止まぬ晩夏の蝉の合唱に混じって、道路を走る自動車の走行音が交差する。あのころとは違う空、そのころとは違う周囲の音。これが今彼の生きる場所だった。
 とりあえずは携帯で無い電話を会社からかけよう。と、彼は思った。離島の固定電話が圏内携帯にかけることが出来るように、その逆も造作なかったし、母との仲が険悪なわけでもなかった。だが、彼は故郷の島と自分との間に一定の距離を置くこと、それを心掛けてきた。それに則るとするならば、母にかけるのは固定電話からでなくてはならない。おそらくメカに疎い母に「履歴」という概念は無いだろうが、そうしなくてはなるまい。
 彼はベンチから腰を上げると、勤務先のオフィスが入っているビルジャングルに向かって歩き出した。

 ――もしもし、母さん? 僕だけど。
 線が通った電話の、その受話器の向こうから彼は久々に母の声を聞いた。
 ――トシハル? ああ、よかった! アパートの管理人さんに電話したけどいないって言うし、会社のほうにかけちゃったの。ごめんね、忙しかったかしら。元気にしてる?
 大丈夫だ。元気にしている。そんなことを答えた。受話器の向こうから母の声が近況を伺う質問という形で耳に入った。仕事は大変ではないか、部屋は散らかっていないか。そんな質問だ。その声は何か重要なことを切り出すタイミングを伺っているようでもあった。
 トシハルはちらりと会社の時計に目をやった。長い針がもう少し回ったらてっぺんを指しそうな角度だった。
 ――それで? 急用があるって聞いたんだけど。
 ――ええ、それがね………
 そう言って母親は本題を切り出した。
 その話は長いようにも思えたし、短いようにも思えた。
「…………、……」
 二言三言返事をした後に、訪れたのはしばしの沈黙だった。状況を整理しかね、彼は無言になった。昔からそうなのだ。相手の言っていることが理解できないと無言になってしまう。何と返して良いかわからなくて、言葉が出てこないから、無言になってしまうのだ。
 ――…………トシハル? トシハル聞こえているの。
 母の声が聞こえて、聞こえている、と彼は答えた。
 それはあまりにも唐突だったから。うまく咀嚼ができなかった。
「いつ……?」
 ――……昨日よ。突然でね。
「……予定は?」
 ――まだちゃんと決まっていないけれど、三、四日後になるだろうって話だわ。人手もいるっていうし、かといってそう何日もそのままにしておくわけにもいかないしね。だから、残念だけれど……
 そんな内容を母と何度か繰り返した。そのうちに聞いているのが困難になった。頭がぐらんぐらんと軽く揺れている感じだった。
 けれど一度入った言葉は、彼の頭の中でぐるぐるぐるぐると回って、せきたてる。どうするんだ。結論をだせ、と。
 ああ、いけない、冷静になれ。内容を整理しなくては。そう思ってブレーキをかける。けれど大した効き目は無かったようだった。何個かの選択肢を考えた。けれど、行き着く先は結局同じだった。
 ――…………だからね、トシハルには船が出次第でいいから帰って来て欲しいの。お母さんもお父さんも……ううん、みんなあなたを待ってるから。
 最後に彼の母はそう言って電話を切った。
 どれくらい話を聞いていたのかはわからない。ただ、彼が受話器を置いたその時には、もう周りの会社員達が午後の仕事にかかっていて、せっせとキーボードを叩いたり、電話をかけたりしているところだった。
 あれ、そういえば結局何て答えたんだっけ。とトシハルは自問する。頭は混乱したままだった。
 うん、わかった……必ず行く。
 とりあえずそのように答えた気がする。

 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 電話越しからちっともそれは聞こえなかった。それなのに。
 否、聞こえたのではない、再生されたのだ。彼の記憶が響かせたのだ。鼓膜に染み付いたその音を頭はしっかり覚えているのだから。
 その音がまるで何かを訴えかけるかのようにトシハルの中に響き渡って消えなかった。
 ひさしぶりにかけた実家への電話、ひさしぶりに聞いた母の声。
 故郷を出てから十年以上の歳月が流れていた。

「ミナモ港までお願いします」
 改札から飛び出したトシハルがバックミラーに映る運転手の顔にそう告げると、モンスターボール型のランプを点灯させた黒いタクシーが大都会の道路を滑るように走り出した。
 彼が電話を切って、すぐに行ったことはパソコンの電源を落とすこと、そして上司の説得だった。彼が願い出たのは早退と相当数に溜まっていた有給の消化だった。幸い繁忙期ではなかったこともあって、コンテスト好きの上司はそれを了承してくれた。
 まぁ、ポケモンリーグ開催の時なんかみんなサイユウやらバトルカフェに行っちまって、一週間は会社が空になるからな。その点お前はポケモンには興味ないみたいで大助かりだ。他のやつらの隙間をよく埋めてくれているし、助かってる。よくわからんが行ってこいよ――彼の要領を得ない説明を理解したのかしないのか、とにかくそう言って、送り出してくれた。
 ミナモ美術館前、ミナモ美術大学前、ミナモ市役所前――トシハルを乗せたタクシーは様々な交差点を通り過ぎて、しばらくの間海沿いの道を走っていたが、やがて船着場前に止まってドアを開いた。
「ありがとう」
 トシハルは運転手にいくらかの料金を支払うとタクシーから飛び出した。
 とにかく船に乗らなくてはならない。そのことで頭がいっぱいだった。

 フゲイ島。
 それが彼の故郷である島の名だ。ミナモからの距離はおおよそ700キロメートル。
 まずはミナモ港からロケットの島、トクサネ行きの船に乗る。海路を南下してトクサネの北に着いたなら、路線バスに乗って南下。ロケットの発射場を横目に見ながら南の突端を目指す。南端の小さな港に行き着いたなら、そこからはまた海路である。
 この港からは主に南南西の方角にあるサイユウ行きの船が出ているが、ごく少数、南南東行きの船が混じることがある。
 フゲイ島行き。
 これこそがトシハルの乗るべき船だった。
 幸いにも毎年サイユウで開催されるポケモンホウエンリーグのおかげで、このルートでは情報網が整備されていた。サイユウ行きと言えばホウエン北部のカナズミシティからの空路というメジャーな方法がある。だが、ホウエン南部の住民にとっては少々面倒なルートだった。だから南部のシティやタウンの人々はもっぱら船の旅を楽しんだのだ。だから、何日の何時にミナモ港を出れば、何時のバスに乗れ、トクサネの南端で何時の船に乗れるのか。それはミナモ港で調べてもらうことが出来るようになっていた。フゲイ島は相当にマイナーな行き先であるにもかかわらず、リーグの為に整備された海路検索システムの恩恵に預かっていた。
 便利な時代になったものだ。
 お陰でそれがトシハルに非情な現実を突きつけるのには時間がかからなかった。
「フゲイ島行きの便は十二日後でございます」
 笑顔でパソコンのキーをたたくオペレーターの一言にトシハルはさっそく撃沈した。
 行き当たりばったりにも程があった。
 馬鹿かトシハル、お前の実家は携帯も届かないほど過疎で、マイナーな所なんだぞと、彼は今更ながらに思う。
 思い出した。実家への定期便は二週間に一度しかないのだ、ということを。
 ミナモシティはホウエン屈指の大都会だ。すぐにつかまるタクシー、五分に一度は来る電車、そういう感覚こそが当たり前で、十年という歳月が彼の認識を鈍らせていた。
 母が言っていたことを思い出す。
 船が出次第すぐに帰って来て欲しい、とはすなわちそういう意味だった。
 けれど……とトシハルの胸に去来するものがあった。
「……急用なんです。どこかアテはないでしょうか」
 期待などしていない。だが、言うだけは言ってみようと思って彼は言葉を口にした。
「そう言われましても……」
 と、オペレーターは冴えない返事をする。
「そう、ですよね……」
 どうしよう、せっかく休みまでとってきたのに。早くも手詰まりか。
 帰らなくてはいけない。帰らなくてはいけないのに。早くしないと、でないと……。
 トシハルの中で気持ちばかりが焦ってぐるぐると頭の中を駆けずりまわっていた。
「もしかして、あそこの島の方ですか」
 オペレーターは世話話のつもりなのかそんな疑問をぶつけてくる。
「……そうですけど」
「へええ、その割にはオシャレですねぇ」
「は、はぁ。まあ、こっちにきて長いですから……」
 おいおい一体どういうイメージでうちの島を見てるんだよ……とトシハルは内心に突っ込んだ。同時にその一言は彼の中に妙な引っ掛かりを残した。
 もしかすると、ショックだったのかもしれない、と彼は思う。たとえ離れても島民であるという意識が彼の中にあったのかもしれなかった。同時に馬鹿らしいと思った。どの口を開いて自分が島民だと主張するのか、と。
「まぁもはや元島民と言ったほうが適切かもしれませんけど」
 トシハルは歯切れ悪く返事をする。
「それで、本当に何か方法は無いでしょうか。多少料金割り増しになっても構わないです。どうしても二、三日中に島に行きたくて……」
 そうして彼はオペレーター嬢を前に粘り続けた。しかし、無いものは無かった。ここで一人オペレーター嬢を困らせたところで増便が出るはずも無かった。
「おい、にいちゃん、あんまりうちのコを困らせないでもらえないかね」
 とうとう別の部屋からオペレーター嬢の上司らしき男が出てきて、いさめられてしまった。いかにも船乗りといった風貌の恰幅のいい男だった。

「で? その元島民のにいちゃんが一体何しに帰るんだ」
 オペレーター嬢が去って、今度はその上司との面接状態になった。
 接客用カウンターを挟んで、細椅子に腰を下ろした男が二人、向かい合っていた。
 船が出ないのに理由を聞いても仕方ないだろう、とトシハルは思ったのだが、なぜだか男は聞いてくるのだった。
「何しに帰ると聞いてるんだ」
「いや、それはその……」
「はっきりせんかい!」
 トシハルが返事に詰まると、男が喝を入れてくる。何の圧迫面接だろうと彼は思った。
 船のチケットを取りに来ただけで妙な展開になってしまったものだ。
「……大事な用があるんです。うまく言えないけど、大事な用なんです。今すぐに向かいたいんです!」
 まただ、と彼は思った。思考が言葉という媒体になる前にぐるりと方向転換して、結論にストップをかける。具体的な事象を音にすることを拒否した。頭が、口がそれを拒んでいた。
 言わない。言ってはいけない。まだ、言ってはいけない。
「お願いします……十二日後じゃ間に合わなくなるんです。お願いします!」
 まだ言葉にしては、いけない。
「僕は……」
 ……確かめなくちゃ、いけない。
 そう言い掛けて出掛かった言葉を飲み込んだ。
「…………」
 男は神妙な顔をし、トシハルの顔を見た。
 目と目があった。ほんの少しの沈黙が続いた。
「……そうかい」
 と、男は言って、胸元のポケットに刺さった携帯を取った。結局、内容はわからず仕舞いだった。だが、目の前にいるひょろっとした男の中で何かが切迫していることは感じ取ったようだった。
「あー、もしもし、ゲンゴロウさん? 忙しいところ悪いねー。あのね、今こっちにクジラ島に行きたいっていうおにいちゃんが来てるんだけどね……」
 などと話し始めた。
「うん、うん、わかった。じゃあ待ってる。悪いねェ。ああ、そういえばトクサネは最近どうよ。うん、また今度ロケット見に行くからさ、そんとき飲もうよ」
「あの、」
「ちょっと知り合いのツテでだな、トクサネの港から出る漁船で、あっち方面まで行く船がないか探して貰ってる。ただし、これで見つからなかったら船は諦めるんだな」
「……! あ、ありがとうございます!!」
 トシハルは男に深々と頭を下げた。
 確かめる。
 そうだ、とトシハルは思った。それが今言葉に出来る精一杯だった。
 確かめる。そうとも、僕は確かめに行く。その為に島に行くのだ。
 ――そうだ、トシハル。お前は確かめなければならないんだ。
 いつのまにか自分にそう言い聞かせていた。





2.

「にいちゃん、あまりよくない報せだ」
 男は携帯の通話ボタンを電話全体を押すようにして切りながら、トシハルに伝えた。
「ダメ……でしたか」
「ああ、残念ながら向こうに行く漁船はないみたいだな、あそこは遠いしなぁ。漁場は悪くないらしいんだが、皆なかなか行かんのよ」
「……、…………そうですか」
 トシハルは力なく返事をした。
 定期便はアウト。トクサネからの漁船もなし。海路が絶たれるのは意外と早かった。あっけないものだ、と彼は思った。早く島に帰りたい、帰らなくてはいけない。けれどやはり、十二日後を待つしかないのだろうか。それしか方法は無いのだろうか。
 けれど、このときトシハルは、もうひとつの感情が湧き上がってくるのを感じていた。それは安堵と呼ばれる類のものだった。
 不意に自身の声を彼は聞いた。
 ――いいじゃないか、仕方ないじゃないか、お前はやれることはやったさ。
 声が語ったのはそういう言葉だった。
 ――先延ばしにすればいいんだ。よかったじゃないか。お前、本当は見たくないんだろ。対峙するのが怖いんだろ。十二日後に行けばいい。すべてが終わってから行けばいい。そのことで誰もお前を責めたりしない。
 声は耳元で囁いた。すると別の方向から声が聞こえた。
 ――何を考えてるんだトシハル! さっき決心したばかりじゃないか。今行かないでどうするんだ。今行かなければ間に合わない、行かなければお前はもう二度と……
 ――仕方ないじゃないか。船は出ない方法は無い。
 ――考えるんだ。何か方法があるはずだ。考えるんだ。
 彼の中で二人のツグミトシハルが言い争っていた。諦めろ。諦めるな。けれど当の本人に有効な方法は思いつかなかった。
 だが、
「おい! 何ぼけっとしているんだ!」
 一喝。携帯を切った男の一言に、トシハルのぐるぐる回る思考は中断させられた。
「何寝ぼけた顔してんだ。次あたるぞ」
「えっ……?」
「次あたるって言ってるんだ」
「だって、船が見つからなかったら諦めろって」
「船で行くのは、な」
「? それってどういう」
「いいから! ちょっと待ってろよ」
 男はあたりをきょろきょろと何かを探すように一望した。
「ああ、ミサトくん、アレどこにある? アレだよアレ。開くと地図が載ってる縦長のヤツ」
 男は先ほどのオペレーターを呼んだ。ほどなくしてあのオペレーターが男の指定したものを持ってきて、手渡した。男はそれをトシハルに突き出すと「開け」と言った。
「は、はい……」
 トシハルは男に言われるままそれを開く。
 それは遊園地などの施設でよくある地図入りのパンフレットのようなものだった。観光客向けにミナモシティの案内をするのがその主たる目的だった。
「その地図の真ん中に載ってるでかい建物があるだろ」
「はい」
「で、その隣に中くらいの建物がある」
「はい」
 トシハルは地図に描かれた建物に目をやる。
 大きい建物があって、ポケモンコンテスト会場と記述がある。そしてその隣には併設された中くらいの建物が記載されている。トシハルはそこに書いてある小さい文字を読んだ。
「今からそこへ行って俺の言うとおりにしろ」
 と、男が言った。
 ミナモシティ第五ポケモンセンターと書かれていた。

 ――いいか、にいちゃん。海を走るのは船だけじゃない。
 ――世の中にはポケモントレーナーって連中がいて、あいつらはポケモン使って空飛んだり、海渡ったりするんだ。もっともそれなりの使い手だったならの話だがな。
 そうか、その手があったか、とトシハルは合点した。
 そういえば、と彼は記憶の糸を手繰り寄せる。島に住んでいたころ、めったにないことだけれどポケモントレーナーが、鳥ポケモンや水ポケモンに乗って空や海から現れたことがあった。
 たいていは島を目指してきたわけではなく、潮に流されたとか、風が強かったとかそういった類の理由でだが。
 彼は地図と眼前に見える建物とを交互に確認しながら目的のポケモンセンターへと足を進めた。
 ミナモシティ第五ポケモンセンター。隣には大きなコンテスト会場。
 なるほど、コンテスト会場に併設されているこの場所ならば相当数のトレーナーが利用しているに違いない。思ったとおり、センターに近づくごとにポケモンを連れたトレーナーを多く見かけるようになった。
 ふと道端に目をやると免許を取り立ての子どもだろうか。真新しいボールを握った少年らが、初心者用ポケモン同士で野良試合を行っていた。黄色の大きな目のキモリ、赤いエラを突き出したミズゴロウ。生まれ持った属性を生かした技はまだおぼつかないのか、出す技はたいあたりばかりだ。彼らはお互いの体を何度も何度もぶつけ合っていた。
 そこから少し離れた植え込みに腰掛けて、膝に乗せたピンクの猫型ポケモンに丹念にブラシをかけるトレーナーがいた。おそらくはコンテストにでも出すつもりなのだろう。黄筋の通った緑の毛のポケモンに赤いバンダナを巻き、満足そうに微笑む者もいた。
 不意にトシハルの視界が開けた。そこは広場だった。中心に噴水があって、だばだばと水を噴かせていた。ほのかに朱のかかった金魚ポケモン、にゅるりとうねるドジョウのポケモン。噴水の池の中でトレーナー所有と思しき小さな水ポケモン達が泳ぎまわっていた。そうして、噴水池を囲うように、トレーナーを呼び込む露店が立ち並んでいる。ある場所では丸くデフォルメされた色とりどりのポケドールを売り、ある場所では焼きそばや綿菓子を売っていた。そこは訪れたトレーナー達で賑わっていた。
 その向こうにホールと思われる大きな建物が見えた。おそらくあれがコンテスト会場なのだろうとトシハルは見当をつけた。上司がコンテストの大ファンだった。昨日見たマリルちゃんはすごかった。小さい体なのにすごく力持ちなんだ、などと週の初めによく聞かされていたのだが、彼自身はまったくもって見に行ったことがなかった。ミナモシティはホウエンにおけるコンテストのメッカだ。こっちに来てずいぶんと経つのに思えば変な話だ、とトシハルは思った。彼はコンテスト会場右手を見る。そこには地図にある通りの白塗りの建物、ポケモンセンターが建っていた。
 ポケモンセンターの扉前まで歩いていくと、シャーッと自動ドアが開いた。
 ホウエン最大の都市、ミナモシティの名に相応しく、そのポケモンセンターは近代的で、しかも非常に立派な作りだった。
 落ち着いた色の絨毯タイルが敷かれたロビーの至る所に青々と茂った観葉植物が配されている。その下で柔らかそうなソファに腰を下ろした女性トレーナーたちが何やら話し込んでいた。ポケモン回復受付の反対側には最近になってイッシュなる地方から進出したカフェチェーンのテナントが入っている。飲み物を供するカウンターを飾る丸いロゴの中で見たことの無い鳥ポケモンが微笑んでいた。
 トシハルはあたりを見回し、目的のものを探す。恰幅のいい港の男は言っていた。
 ――ポケモンセンターに入ってすぐのロビーに電子掲示板がある。やつらはそこに依頼を書き込んで、ポケモンの交換やバトルの相手を募集してるんだ。そこは俺ら一般人も利用できてな、時々トレーナーにアルバイト募集をかけることがある。
 回復受付の少し離れたところにそれはあった。
 何人かが、掲示板の前に立ち止まりその内容を読んでいる。一人は何か募集ごとがあるらしく、併設された端末コンピューターの机に座り、真剣な表情でキーボードを叩いていた。
 近づいてその内容を見てみる。
「ピカチュウ♀譲ってください」「コンテスト練習相手募集」「ポロック作りませんか」「進化前限定、バトル大会のお知らせ」
 様々な依頼・情報が飛び交っていた。
 ――もうわかっていると思うが、そこでお前さんを乗せて連れて行ってくれるトレーナーを募るんだ。あんな辺鄙な所に連れて行ってくれる物好きがいるかどうかはわからん。が、とにかくやってみるんだな。
 端末に身分証を通すと、パスワードとIDが発行される。トシハルは端末ディスプレイのタッチパネルに触れると、すぐさまキーボードを叩き始めた。入力フォームに従って、名前、年齢、性別、連絡先を記入し、次へボタンをクリックすると画面が切り替わって依頼内容入力フォームになった。
『【急募】フゲイ島(GPS ×××.××.×××-×××.××.×××)に連れて行ってくれる方、探しています。ミナモ港から南に約700キロメートルの地点です。トクサネの南までは船とバスで移動、以降の海路を僕を乗せて進める方のご連絡をお待ちしています』
 ――変わった依頼を頼まれてもらうにはな。金額より品物だ。やつらの欲しがりそうな珍しいものをちらつかせるといい。上級トレーナーほどそういうのに反応する。レアな木の実なんかあるといいんだがな。
『報酬はご相談ください。往復船賃分、宿泊費、実費・諸経費含めた上でお支払いします』
 トシハルは尚もキーボードを叩く。
『島に珍しい石あります。』と、書き込んだ。
 依頼内容を書き込み終わると、登録ボタンを押した。
 直後、ズボンのポケットから振動が伝わってきた。メールの受信を告げるものだった。メールを確認する。中身は次のようなものだった。
『ポケモントレーナーサポートシステムのご利用ありがとうございます。ツグミトシハル様のご依頼を承りました。以下登録内容は○月○日○時まで有効となります』
 これで依頼を請け負うトレーナーが現れれば、携帯に連絡が入る。その手はずが整った。
 メールを閉じる。トシハルは男の言葉を思い出していた。
 ――俺もトレーナーは何人か使ったがな、こういう依頼を受けるやつがいるのか正直わからん。まぁ、可能性は低いと思ったほうがいい。
 ――だがものは試しって言うだろう。トレーナーって人種は変わってるからな。もしかしたら、あるいは……。
3.

 ポケモンセンターの自動扉が再び開く。依頼を終えたトシハルは足早にそこを立ち去った。
 やれることはやった。あとはトレーナーからの連絡待ちだった。
 もっとも、あんな辺鄙な島に連れて行ってくれるトレーナーがいればの話だが……。
 移動ばかりですっかりお腹が空いてしまったトシハルは、噴水の周りを囲う露店でたこやきと焼きそばを買い求めると、ベンチに腰かけかきこみはじめた。
 一心不乱に、焼きそばをかきこむトシハルの目の前で、だばだばと音を立てながら噴水が水を落としていた。一定時間が経つたびに噴水は水を高く吹き上げる。吹き上げられた水は僅かな時間空中でキラキラと輝くと池の中へと還っていった。
 焼きそばを全て胃袋に収め、次にたこやきを手にとったトシハルだったが、気が付くと、それを持ったまま、その様子をぼうっと見つめていた。
 その様子は彼の中でとあるポケモンに重なり、郷愁の念を呼び起こさせた。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。
 空は何者にも占領されておらず、どこまでも広かった。
 海からの水蒸気を吸い上げてもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
 ふと、海から海水が吹き上げられる。
 吹き上げられた海水は空中でキラキラと輝いて、そうして海へと還ってゆく。
 その海水を吹き上げたもの、そいつは巨大な、とても巨大な――
「すみませ〜ん、誰か、誰かぁ〜〜っ!」
 誰かの叫ぶ声で彼の回想はストップした。
 声のする方向を見ると先ほど彼の歩いてきた通りが見えた。
 すると、そこから何やら丸っこい白い色の鳥ポケモンが飛び出してきたのが見えた。
「誰か! そいつを捕まえてください!」
 ペリッパーだった。
 小さなポケモンを運ぶことも出来る黄色い大きなくちばしと身体の大きさがアンバランスなポケモンだ。そいつは小さな翼を羽ばたかせ巧みな低空飛行で人と人の間を通り抜けてくる。進行方向はまさにこっち側だった。
 仕方ないな、と彼は呟いた。
 トシハルは食べかけのたこやきをベンチに置き、重い腰を上げると、飛んでくるペリッパーの前に立ち塞がった。それに気が付いたぺリッパーは巧みに方向転換して彼の脇をすりぬけようとした。だが、その動きをまるで想定していたかのようにトシハルはすばやく方向転換し、腕を伸ばす。首根っこをつかんだかと思うと、翼の動きを両腕で封じこめた。
「グアッ!? グアア!!」
 ペリッパーはトシハルの腕から逃れようと短い足をバタつかせ抵抗したが、もちろんトシハルは離してなんかやらない。バタ足運動は無駄な抵抗に終わった。自分の無力を悟ったのか意外とすぐにペリッパーは大人しくなった。
「すみませ〜ん、ありがとうございます!」
 ペリッパーのトレーナーらしき短パンの少年がぜえぜえと息を切らしながら、駆け込んできた。
「もどれ、ペイクロウ」
 男の子は腰につけていたモンスターボールを取り、コツンとペリッパーの嘴の先に軽く当てた。ペイクロウと呼ばれたペリッパーは赤い光になって、瞬く間にモンスターボールに吸い込まれていった。
「どうもすみません、ペイクロウがご迷惑おかけして……」
 短パンの少年は本当に申し訳なさそうに言った。
「ううん、いいよ」
 と、トシハルは返事をするとベンチに座って、再びたこやきを手にとった。
「それにしてもおにーさんすごいね! 僕のペイクロウをあんなにあっさり捕まえちゃうなんて!」
 少年は本当に感動したとでもいいたげに目を輝かせて言った。
「いや、それほどでも……」
「おにいさんもポケモントレーナー?」
 と、少年は尋ねてくる。
「いや、違うよ」
「本当に? さっきの動きはそういう風には見えなかったけどなぁ」
「本当だって。僕はただのビジネスマン。ポケモンだって持ってない」
「えーそれ本当? まぁいいけど」
 男の子は顔をしかめた。信じられないよ、と言いたげであった。
 また時間になったらしく、噴水の水が高く噴き上げられる。だばだばと一層大きな音で水が池に落ち始める。
「でも、昔――」
 ダバダバ、ザバァ。音を立てて水が落ちる。その音にトシハルの声は掻き消された。
「ん? おにいさん何か言った?」
「ううん、なんでもないよ」
 トシハルは少し寂しそうに笑って少年を見つめた。少年は不思議そうな顔をしていた。

「じゃあね、おにいさん!」
 少年が手を振る。これから行われるコンテストにペイクロウと出るのだと言って去っていった。あんな調子で大丈夫なのかなぁと思いながら、トシハルは手を振り返し、にこやかに彼の背中を見送った。
 子どもっていうのはどこまでも無邪気だ。自分には何でもできる。どんな夢だってきっと叶えられる。そういう風に無条件に信じていて、疑いを持っていない。
 彼は少年の背中にかつてそうだった頃の自分を見た気がした。
 そうだ、僕も昔はそうであった、と。
 いつからだろう、と思う。いつのまにかそういうものを失って、日々を生きるようになっていた。きっと自分だけではないのだろうと思う。このミナモシティで働いているかつての少年達。彼らは皆そうなのではないか――ふと、そんな風に思った。
 そのときだった。不意にブゥウウン、ブゥウウウン、と携帯電話がスーツの中で振動した。
 まさか。
 トシハルはスーツのポケットに手を突っ込んだ。パチリと携帯を開き、振動の正体を確かめた。メールを受信していた。差出人はポケモントレーナーサポートシステムだった。
『ツグミトシハル様の書き込みに一件の返信があります。』
 下段にウェブページのアドレスが沿えてあった。
 淡い期待を込めつつ、トシハルはそれをクリックする。アクセスしたウェブページには短い文が添えられていた。
『書き込みを見ました。今日十七時にミナモ灯台前に来てください。』
 来た! しかもこんなに早く!
 トシハルは親指で素早く返信を打った。
『ご連絡ありがとうございます。では十七時に灯台前で。』

 待ち合わせまでに時間がある。
 携帯で時間を確認すると、彼はショッピングへと繰り出した。
 彼が足を運んだのは海を臨む巨大な施設。老舗であるミナモデパートに対抗して開発された大手資本ショッピングモールだった。一年ほど前に開業したばかりのその巨大な箱にはいくつもの専門テナントが入り、何階層ものショッピングストリートを形成していた。
 まず、大きなキャリーバッグを購入した。車輪がついていて引いて歩けるタイプのものだった。これならなんだって入る。
「すいません、カイロは置いていませんか」
 トシハルの質問にドラッグストアの若い店員は怪訝な顔をした。
 無理もなかった。今の季節は去り行く時期とはいえ夏だ。それがキャリーバッグを持ったスーツの男がいきなりやってきてカイロ出せと言ったのでは、そんな顔にもなるだろう。
 変な人だなぁと思いながら、店員は店長を呼んできた。店長は夏場だから置いてないですよ、と言えと指示した。が、パートの年配女性が倉庫の奥の売れ残りを思い出すに至った。トシハルは中身を数えずにそのまま清算を済ますと、ダンボールは返却して、中身をキャリーバッグに放り込んだ。
 次にセレクトショップで丈夫そうな傘を二、三選びぶち込んだ。黄色いレインコートもぶち込んだ。若者達でごったがえすアウトレットの洋服店で、フードまわりにモココの毛を縫いつけた季節はずれのコートを一着、手に入れる。暖かそうな手袋に帽子も購入した。
 隣にあったネクタイの専門店にも足を運ぶ。店員に自身の望む柄のネクタイは無いかと彼は尋ねた。イメージ通りのものを手に入れると彼は丁寧にそれをしまった。
 アウトドア用の店で電池式ランタンを詰め込み、さらに寝袋を突っ込んで、重くなった頃にキャリーが方向転換した。思い出したようにドラッグストアに戻ると小瓶の栄養ドリンクを一ケース、それとすぐに食べられる固形の栄養食などをかごに詰め込んでレジに持ち込んだ。ピピッとレジのディスプレイが再び値段をはじき出した。
「ありがとうございました!」
 再び現れた晩夏のカイロ男を前にして、パートの女性はあくまでスマイルを絶やさなかった。きっと仕事のアフターで話題になってしまうんだろうなー、などとトシハルは想像し、苦笑いを浮かべた。
 ……とりあえず、こんなもんでいいだろう。
 トシハルは再び携帯電話で時間の確認をする。少し時間がありそうなのでカフェに入って一息ついた。
 ホロホロコーヒー。丸いロゴマークの中心で赤いトサカの鳥ポケモンが微笑んでいる。ポケモンセンターに入っていたのと同じチェーンだ。イッシュ地方から進出したというこのコーヒーチェーンは、二、三年前まではまったく見かけなかったのに、今ではここホウエンでもすっかりお馴染みの存在だ。Mサイズのアイスココアを注文する。中ジョッキ並みのグラスになみなみと注がれたココアにたっぷりのクリームが乗っかって出てきた。トシハルは窓際の席に腰掛けてストローで均等にクリームとココアをすする。ガラス越しに見える通りの向かいはホビーショップだった。天井では飛行機がくるくると輪を描き、人通りに向かってテレビがこうこうと光っていた。
 進化戦隊ブイレンジャー。通りに向けられたテレビに懐かしい題字が踊ってトシハルは少し驚いた。小さい頃、島の画質の悪いテレビで数週間遅れの放送を齧りつくように見ていたから。ああ、きっとリメイクだ、と彼は思った。リメイクされてたなんて知らなかった。ブラッキーの戦士、ブイブラックはやはり今作も秘密を抱えているのだろうか。甘苦いココアを吸い上げながら、彼はしばし思いを巡らせた。
 氷がごろりと転がったグラスをカウンターに返す。携帯画面を操作し、再びメールの画面を見る。今から行けば約束の時間に少し早く到着するだろうと思った。
 残りはこの返信主との交渉だけだった。
 彼はミナモ港の灯台のある埠頭に向かって、パンパンになったキャリーケースをガラガラと引きながら歩き出した。
 ……それにしても、と今更ながらにトシハルは思う。
『書き込みを見ました。今日十七時にミナモ灯台前に来てください。』
 自分の正体は一切語らないで呼び出すだけとは、この返信の主、いい度胸しているというか、なんというか。
 ポケモントレーナーってみんなこんな感じなのだろうかと、トシハルは考える。
 交渉するのならポケモンセンターにでも呼び出せばいいものを、なんでわざわざ人気の少ない埠頭なんかに。あの男の人がトレーナーは変な奴が多いって言っていたけど、きっとこの人も相当変人に違いない。
 そんなことを考えながら歩いているうちにトシハルは再び港に到着した。季節柄、まだ外は明るくてあまり夕方近くには見えなかった。海が波打ちながらキラキラと輝いている。大きな船舶を繋いだ鉄の鎖に何十羽ものキャモメが並んで、羽を休めていた。何羽かがミャアミャアと騒ぎながら彼の視界を横切っていく。
 彼らの行く方向に灯台が見えた。返信の主との待ち合わせ場所だった。
 波が埋め立てのコンクリートに当たって、ぱちゃぱちゃと音を立てている。トシハルはそのコンクリートの上をガラガラと荷物を引きながら、進んで行った。コンクリートの道の先に、灯台がにょっきりと立っている。
 海の方角から風が吹いた。灯台の下で何かが揺れて、トシハルは目を凝らす。
 あそこにいるのがそうなのか……?
 灯台の下に二つの人影が立っていた。二人とも髪の毛がたなびいている。
 一人はとても長身でがっちりとした体格、もう一人はそれにくらべるとだいぶ小柄だった。
 しかし、彼はその二人に近づくにつれてだんだん自分の考えがおかしいことに気が付いた。どうも長身のほうが変なのである。やけに全体的に赤っぽいし、頭の先からツノのようなものが生えている……。
 さらに近づいてトシハルは確信した。あれは人ではない、人型のポケモンなのだと。
 じゃあ、あの小さいほうが。
 ついにトシハルは灯台の影の下にまで入った。そうして一人と一匹に対峙した。
 ……女の子?

 彼が見た二人組は猛火ポケモンバシャーモ。そして赤いバンダナの女の子だった。
 十代半ばくらいだろうか。バンダナの両側から伸びた栗色の髪が風になびいていた。
「あ、あの……」
「おじさんが掲示板の人?」
「………………」
 トシハルは顔を歪ませた。
 競り負けた。女の子がトシハルを押し切った上で早くしゃべった。
 というか、今の言葉はショックだった。確かにそろそろそういう歳ではある。それは紛れも無い事実だったが。
「私はアカリ。ミシロタウンのアカリよ。こっちはバク。バシャーモのバク」
 トシハルが微妙に傷ついているのをわかっているのか、わかっていないのか、アカリと名乗った女の子は一方的に話を続ける。
「まァよろしくね。ツグミトシハルさん?」
 海風がびゅうっと一層強く吹いた。
 前途多難な旅となりそうだった。

4.

「あ、あのさ……」
 海風が吹く灯台の下、自分の前で仁王立ちしている女の子にトシハルは尋ねる。
「何?」
 女の子はぶっきらぼうに聞き返す。
「そ、その、仮にも僕たちはその……」
 正直なところ、彼は動揺していた。
 無理もない。海を渡るトレーナーっていったらこうもっとごっつくてゴーリキーみたいに筋肉隆々の船乗りみたいな男性トレーナーを想像していたからだ。
 まさか、こんな華奢な十代の女の子が来るなんて予想していなかったのだ。
 正直これはまずいことになった。
「き、君さぁ、もっと自分のことを大事にしなくちゃだめだよ?」
「……ハァ?」
「だ、だって」
 あまり年齢のことは考えたくなかった。けれども――
「い、いや、もちろん僕はそんな趣味ないし、そんなことしないけど……」
 トシハルの考えはこうだった。三十代に突入しちゃった「おじさん」の自分と十代の女の子が二人っきりで海を渡るっていうのは、まずいのではなかろうか。こう、その、常識的に考えて、だ。
「あのね、世の中にはやましいことを考えているグラエナがわんさかいるんだよ?」
 一生懸命生きているグラエナに失礼だよなぁと思いながらも、そんな例えを用いる。
 もちろんすぐに後悔が襲ってきた。
 ああ……何言ってんのかな僕は……。
 トシハルは頭を抱えて顔をゆがませた。
「あああ、あのう……?」
 すると今度は女の子のほうが動揺しはじめた。
 いかんいかん……。トシハルは呼吸を整えて、少し落ち着くと改めて言い直した。
「あの、君……アカリちゃんって言ったっけ。今いくつなの?」
「え? 十五、だけど……」
 アカリと呼ばれた女の子は不機嫌そうに答える。
「ねぇ、ちょっと考え直したほうがよくない? この仕事」
 と、トシハルは言った。
「はぁ!? なにそれ!?」
 今度はアカリが眉を吊り上げてあからさまに声を荒げた。聞き捨てならないという風だった。
「何? 若造でしかも女の子の航海技術に不安があるってわけ? 私もなめられたモンね」
 う、うん、正直それもあるんだけど……とトシハルは思ったが、彼女の剣幕に少々びびっていたのもあって、大人の対応をしようと一生懸命努める。
「そ、そうじゃなくて」
 いや、そうなんだけど! と、思いつつ大人の対応を考える。
「だったら何よ!?」
 アカリはますますヒートアップする。
 どうやら余計に怒らせてしまったようだった。
「だってまずいだろ!?」
 と、トシハルは叫んだ。
 さっき決めた大人な対応とやらはどっかにすっ飛んでいってしまった。
「だってまずいだろ! 仮にも見知らぬ男女、しかも三十過ぎたオッサンと十代の女の子が海上に二人っきりっていうシチュエーションは!!」
 顔を真っ赤にしてなかばヤケになって叫んだ。
 勢いも手伝って自分をオッサンよばわりしたついでに、なんだかとってもはずかしいことを口走ってしまった気がした。
 はー、はー、はー、ぜー。
 そこまで言うとトシハルは両膝に手を当てて肩で呼吸した。
 暮れかけた夏の海で何を叫んでいるんだろう、と思った。
 もういいや開き直っちまえ。そう思ってとどめの一言をお見舞いせんとした。
「第一そんなことがバレたら君のお父さんに殴られ」
「パパは関係ないでしょ!!」
 殴られちゃうよ、とトシハルが言う前に今度はアカリが顔を真っ赤にして叫んだ。
「いや、そういう訳にも……」
 いかないだろう、と言いかけると、
「あーあーあー! もう、わかったわよ! とりあえずあなたの言いたいことはわかった!」
 アカリは納得したのかしていないのか、会話を終わらせるように言った。
「わかってくれてうれしいよ……」
 とりあえず好意的に解釈する。が、
「わかったけど、その心配には及ばないわ」
 とアカリは言った。
「へ?」
 マヌケな顔をしてまじまじと少女の顔を見るトシハルに、アカリはほれ私の後ろを見ろというジェスチャーを取ってみせる。彼は言われるがままに少女の後ろを見た。
 アカリの後ろで、腕組みをした鶏頭の赤鬼のようなポケモンがトシハルを睨み付けていた。
 ポケモンホウエンリーグが推奨する初心者用ポケモン、アチャモ。立派に育て上げたあかつきにはこのように人型の屈強な用心棒になるのだ。なるほどこれは心強い。同時に、怖い。
 ツグミトシハル、三十ウン歳。男のプライドに誓ってもちろん「そんなこと」はしない。してはならない。だが、もしも気が狂って海上でおかしな行動をとったとしてもこれなら心配はあるまいと彼は納得した。道を誤ったその先は想像に難くなかった。
 鶏頭が尚も睨み付けてくる。彼は急ぎ目を逸らす。敵意は無い。おかしなことだって考えていない。そういう無言のアピールをトシハルは送った。
 それを見て取ったのかアカリは、
「じゃあ、わかっていただけたところで具体的な話に入りましょうか」
 と、話を強引に進めてきた。
 やっぱり仕事の話に入るんだ……と、トシハルは不安そうな顔を露わにした。
「何? まだ何かあるの?」
 すぐさま表情を読んだのか、すかさずアカリは突っ込んだ。
「いえ、その、ないです……」
 いや、あるけど。
 と、思いつつそういうことを言える空気ではなかった。
 アカリがおっかない。何より彼女の後ろで腕組みしてるポケモンがもっとおっかなかった。
「ねぇ、おじさんってテレビとかあんまり見ないでしょ」
 アカリが聞いてくる。
「う、うん、そうだね」
 なんでそんなこと聞くんだろうと思いつつトシハルはそのように答えた。
 そんなことよりおじさん呼ばわりしないで欲しかった。
「ああ、やっぱりね」
 彼女は何か納得したように言った。
「心配しなくても乗り心地は保障するわよ。私のポケモン大きいし。それより、荷物の中身見せて」
 アカリはそう続けると、いいけど、とトシハルが言う前につかつかと彼の前に進んでくる。
 ばっと彼の手からキャリーバッグを奪って引き寄せ、中を開き物色し始めた。
 「おじさん」に四の五の言わせるつもりはまったくもってないらしかった。
 そうして、防寒着に栄養ドリンク、先ほどショッピングモールでトシハルが買い物したものを次々と引っ張り出しチェックをはじめた。彼女の行動からは遠慮というものが微塵も感じられなかった。トシハルは人生の先輩としてアカリにいろいろ物申したかったのだが、彼女に何を言っても無理な気がした。なんとなくだがそれを察した。
 そのような感じで彼が微妙な表情を浮かべているのをよそにバッグの中身を引っ張り出しながら、アカリは、
「ねぇ、フゲイ島って聞いたことないけど、おじさんのなんなの」
 などと、尋ねてきた。
「実家があるんだ。だけど次の船が十二日後でね」
 と、キャリーバッグの惨状を横目に見ながらトシハルは答える。
「どんなところ?」
 彼女はさらに尋ねてくる。
「何もないところだよ。ここの街はたいていのものがあるけれど、本当にあそこは何もない」
 記憶をたぐりよせるようにしてトシハルは言った。
 海の向こうを見る。当たり前だが故郷の島は見えなかった。遠すぎた。
「そう」
 と、アカリは素っ気無い返事をした。
「そうだな。あえて言うなら、時間の流れがここよりゆっくりしているかな」
 反応の読めない相手に戸惑いながらもトシハルは話を続けようと努力する。
「……掲示板に珍しい石があるって書いてたけど」
「島に洞窟があってね、水の石とかがゴロゴロ出る」
「ゴロゴロ!?」
 アカリの眼光が鋭く光った。どうやら彼女にとってそれは魅力的なアイテムだったようだ。
 ああ、なるほど。それに釣られたのか。港の男のアドバイスにトシハルは感謝した。
「ちょっとした採掘の名人がいるんだ」
「じゃあ、紹介して」
「あ、ああ。うん」
 現金な子だなぁ、と思いつつトシハルは了解する。
「石が手に入るなら渡航の報酬は実費だけでいいわ」
「そうかい、そりゃあ助かるよ」
 会話を進めながらアカリは尚も荷物をひっくり返す。
 一方、トシハルの中ではだんだんと島の記憶が蘇ってきていた。
「それと、そうだな。あの島にはね――」
 碧い海、波の音、白い砂浜。島を囲う砂浜とその波打ち際の風景は他のホウエンのどのそれよりも美しいとトシハルは思っている。空にはもくもくと成長した入道雲。青と白の滑空するキャモメたち。そして……――
「よし、荷物はこれでいいわね」
 さらに語ろうと思ったのに、それ以上はアカリに遮ぎられてしまった。
 本当に四の五の言わせない子だなぁ、とトシハルは思う。
「足りないものがあったら買いに行こうと思ってたんだけど……どうやらその必要もなさそうね」
「……そうかい。そりゃあよかった」
 人の話は最後まで聞くものだよ。
 少し不機嫌になって彼は答えた。
「それにしても、」
 アカリが上目使いにトシハルを観察するようにじっと見る。
「トレーナーに頼んで海を渡りたいなんていう人、珍しいのよね。だからどんな素人かと思ったら、結構詳しいじゃない。防寒着もあるし、ご丁寧にカイロまで。よく見つけたわね」
「そりゃどうも。洋上は寒いからね」
 と、トシハルは返答した。
 先ほど買い込んだもの。コートにカイロ。傘にレインコート。それは主に自らの身を寒さから守るのが目的だった。ポケモンの背の上、そこには冷たい風から身を守ってくれる壁も、降るかもしれない雨をはじいてくれる天井も存在しないのだから。
「そうそう、船の中ならいざ知らず、壁のないポケモンの上だとどうしてもね。……おじさん、前にも乗ったことがあるの?」
「いや」
 トシハルは否定した。
「乗せてもらうのは初めてだよ。でも、船には数え切れないほど乗ってたから。寒いのはよく知ってる」
 そう、海風の寒さをトシハルはよく知っていた。かつてはいつも甲板から海を見ていたのだから。
「そう」
 と、アカリは答えた。
 それはそっけない返事だったが、先ほど会ったときよりはトシハルに興味を示しているようにも見えた。
「そうだ。それより」
 彼女ともどうにか会話が成立するようになったと見てトシハルは切り出した。
「何?」
「その……おじさんって言うの……やめてくれないかな」
 トシハルは視線を逸らしながら言った。
「どうして?」
 真顔で聞き返すアカリに、はぁ、とため息をついた。
「……だって………………なんか傷つくじゃないか」
 わかっている。十五歳の少女からすれば三十の半ばに差し掛かった自分は「おじさん」なのだ。しかし、と思う。せめてもう五歳ほど歳を食ってから言ってもらいたい。それくらいは許されてもいいはずだとも彼は思う。
「……わかった。じゃあ何て呼べばいいの?」
「ツグミでも、トシハルでも、その、おじさんじゃなきゃなんでもいい」
 ああ、またおじさんと言ってしまった……自己嫌悪に陥る自分自身を懸命に励す。
「じゃあ、トシハルさんで」
「うん、それで頼むよ」
 彼はほっと一息ついた。最初っからそう呼んでくれればいいのになどと思いながら。
「で、トシハルさん、」
 今度はなんだ。トシハルが顔をしかめる。
「とりあえず、これはもういいわ。内容はわかったから。合格だから。もうしまっていいよ」
 アカリはしゃがんだまま、広げるだけ広げて中身を出したキャリーバッグを指差し、そう言った。
「…………え」
 僕が片付けるのかよ! 自分で勝手に散らかしておいて! あきらかな不満を表情に出してトシハルはアカリを見下ろし硬直する。が、彼女は何食わぬ顔をしていた。
 これはひどい、と彼は思った。目の前にいるこのポケモントレーナーはこっちの立場をまったく気にかけていない。否、かけようという気が無い。
「き、君さぁ」
 そう言い掛けて、少女の後ろに立つバシャーモ――鶏頭と目があった。
 鶏頭は「なんか文句あるのか」とでも言いたげに黄色と青の瞳でぎろりとトシハルを睨みつけた。
「………………」
 ずるい。これは卑怯だ。畜生、誰だ! この女の子にアチャモを与えた輩は! 責任者出て来い!! 心の中心でトシハルは叫んだ。
 いいのか。いいのか? 僕の帰郷の旅は本当にこんなんでいいのか?
 自問せずにはいられなかった。
「ちょっといいかい」
「何?」
「なんかさっきから君と契約する前提で話が進んでいるみたいなんだけど」
「そうよ」
「いやちょっと待てよ! まだ会っただけだろ!? 決めたって言ってないだろ!?」
 彼は盛大にツッコミを入れた。荷物を放置されたって選ぶ権利はあると主張したかった。
「でもおじさん、他にアテないでしょ」
「おじさんって言うな!」
 ああ、まったくもって疲れる子だと彼は思った。しかしアカリの指摘するように他にアテなど無いことも事実だった。
「じゃあ、せめてポケモン見せてくれないか」
「ポケモン?」
「波乗り用のポケモン。見て納得したら君にお願いするから」
 腹を括った。人選に不満を残しながらトシハルは自分を納得させるようにそう言った。この場合大事なのはトレーナーよりポケモンだ。なんと言ってもそのポケモンには二人分を乗せられるそれなりの大きさが必要なのだ。
「わかった。いいよ」
 アカリはあっさり承諾した。そしてポーチからごそごそとモンスターボールを取り出す。
「ちょっと離れて出すね」
 そう言って、鶏頭とすたすた埠頭の先まで歩いていってしまった。
 やれやれ。何を出してくるのやら。トシハルはほとんど期待せずにその様子を見守った。

 だが、結果として彼は、アカリとの渡航を決定することになった。

 トシハルは目を見開いた。
 アカリが向かった方角からは一斉に海鳥が飛び立った。












5.

 バスのエンジンが小気味よい音を立て、南島の舗装道路を疾走する。
 二階部分がオープンになったバスの席は雲の流れる南国の空と風景を堪能し、トクサネ宇宙センターのロケット発射台を一望するにはよい場所だった。
 鉄骨の建造物にセットされたロケットが天に向かって先端を伸ばしている。待てないとでも言いたげだった。観光バスのガイドによれば次の打ち上げは一週間後だという。
 道の反対側を見れば海。マングローブの自生する海岸に穏やかに波が打ち寄せている。
 バスはまるで残りの距離をカウントするかのように、道路にそって植えられた高い椰子の木を次々に追い越してゆく。
 トクサネ南港につくまでのバスの間、二人の間にそれという会話はなかった。
 少女は相変わらず鶏頭を出したままだった。ピカチュウ程度を抱いて乗せるのならともかくとして、人並みに大きさのあるポケモンをボールから出したまま公共の乗り物に乗せるには追加料金がかかる。だからたいていのトレーナーはポケモンをしまって一人で乗車する。だが、アカリはお構いなしだった。たぶんそれは彼女にとって当たり前のことで、今までもずっとそうしてきたのだろうということが伺えた。
 バスガイドは彼らを見て少し不安そうな表情を浮かべていたが、アカリが何かのケースを開いて見せると納得して、彼女らを席に案内した。トシハルがちらりとケースの中身を覗くと、色とりどりの何かがキラリと光ったのがわかった。
「ねえねえ、あの子ってもしかして……」
「え、マジで」
「だってほら、あのバシャーモ」
 トシハルの後方の席でそんな会話が聞こえた。
 風がびゅうびゅうと遮って全部は聞き取れなかった。ただ彼女らが明らかにアカリのことを話しているのだと彼は理解した。
 まただ、と彼は思った。昨日の夕方からアカリと行動を共にしているが、妙に周りが騒がしい。そのことにトシハルは気が付いていた。

「契約は成立ね」
 灯台の下、なみのり用のポケモンを背に赤バンダナの少女は言った。
 トシハルは十分に納得した上で、彼女との渡航を決めた。
 波乗り用のポケモンを見て彼は納得した。これなら心配無い、と。外見で彼女を見くびりすぎていたと彼は恥じることになった。
 すぐにトクサネに渡ることにした。トクサネで一夜を明かして、朝に出発すれば良い。
 視線に気が付いたのは、夕日に染まる海を見ながら、トクサネ行きの船に揺られていた時だ。
 小さなポケモンを連れた少年、少女、それに船の乗組員、彼らがやけにアカリに視線を向けているのだ。最初トシハルは自分の顔に何かついているのかと思った。が、もちろんそんなことは無かった。
 一度トシハルはトレーナーらしき少女に妙なことを聞かれた。アカリと離れて自販機で飲み物を買っていたときのことだ。
「あの、アカリさんのマネージャーの方ですか」
 トシハルは怪訝な表情を浮かべた。意味がわからなかった。
「違うよ。そんなんじゃないよ」
 揺れる船の中、トシハルがそう答えると、じゃあ貴方はなんなのといった感じの反応を少女は見せた。
「あの……私、アカリさんのファンなんです。その、サインをお願いできないかなと思って」
 持っていた小さなノートを見せて彼女は言った。
 甲板で日の落ちる海を見ていたアカリにそれを伝えると、そういうのはやっていないから、と少し不機嫌そうに言われた。
 ははあなるほど、とトシハルは少しだけ理解した。おそらくコンテストのコーディネーターと同じようにポケモントレーナーにもファンがつくのだと。上司がコーディネーターにサインを貰ったと嬉しそうに話していたのを彼は思い出していた。
 先ほどアカリに見せられた「あのポケモン」を所持しているというだけで、並のトレーナーでないことは想像がついていた。きっとこの界隈じゃそれなりに有名なんだ。トシハルはそう思った。
 だが、それにしても、だ。それにしたって視線が多すぎやしないか、と彼は思う。
 トクサネの温泉宿で食事をしていたときもそうだった。

「そんなに食べるの?」
 トシハルが質問すると、浴衣を着た温泉あがりのアカリが当然だと言うように頷いた。目の前に並べられたのは地魚の船盛り、旬の食材をたっぷり煮込んだ鍋、大きな貝のバター焼き、魚の塩釜焼き、その他いろいろ。座敷部屋だったのをいいことに鶏頭だけでなく、オオスバメ、グラエナやライボルト、サーナイトまでも繰り出して、ずいぶんにぎやかな夕食となった。トシハルの隣で白い肌のサーナイトが上品に正座し、茶をすすっていた。
 だがその時もトシハルは周りの視線が気にかかった。派手にポケモンを出しているからでは無い、と思う。この温泉宿はそういうのに寛容で、だからアカリも選んだのだと話していたから。宿泊客である他のトレーナー達も問題のない範囲で、ポケモン達との食事を楽しんでいた。だから断じてポケモンを出していたからではないと彼は思う。
 アカリが席を立つと宴会場の人々の視線が動く。それどころか、宴会場の外から覗いている野次馬がいたようにも見えた。当のアカリは気に留める様子もなく、並べられた海の幸を白米片手に手当たりしだい口に運んでいたのだが……。
 この子には何かある。トシハルはもうそれに気が付いていた。

 バスが南端の港に到着した。
 終点になります、とガイドが言う。パラパラと客が降りていく。ほとんどの人々はトクサネ宇宙センターが目当てだったから、降車人数は少なかった。トシハル、アカリ、鶏頭は順番に狭い階段を下っていった。
 サイユウ行きの船が出る船着場を通り過ぎ、彼らは適当な場所を探した。人気が無く、適当に深い場所が最適だった。船のある場所でいきなりこれを出したら、波が立って迷惑になりかねなかった。それを知っていたから彼らは適当な場所を探していた。
 結局は一キロほど歩いただろうか。テトラポッドの積みあがった波の寄せる突端で、アカリはモンスターボールを開放した。
 見るのはもう二回目だったから、その中身はわかっていた。
 だが、昨日見たその衝撃がトシハルの中に蘇った。
 大きな何者かが海に飛び込み海面を叩いた音と共に水飛沫が上がって、羽を休めていたキャモメ達が一斉に飛び立った。ばたばたという羽音が周囲を包む。高い高い波が上がる。トシハル達の立つテトラポッドのすぐ下にまでそれは届いて、やがて黒い水跡を残し、引いた。
 シュゴォオオオッ!
 蒸気船が煙を噴くように、海に放たれた者が海水を吹き上げた。

「ホエルオー……!」
 彼女が繰り出したそれを見てトシハルは目を見開いた。
 灯台の後方に、巨大な、それはもう巨大なポケモンが浮かんでいた。
「ホエルオーのシロナガちゃんよ」
 灯台の下でその巨大なポケモンを背にアカリは仁王立ちし、腕を組んだ。フフンどうだ参ったかと言いたげに、不敵に彼女は笑った。
 彼女のボールから放たれたのは、うきくじらポケモン、ホエルオー。
 それはいままで見つかった中で最も大きいポケモン。
 その巨体の背中は人二人が乗るには十分な広さだった。このポケモンほど安定した波乗りポケモンをトシハルは他に思い浮かべることが出来なかった。
 それは彼にとって最も馴染みがあり、郷愁の念を思い起こさせるポケモンでもあった。
 同時に彼は思った。これはあの人から自分への皮肉かあてつけか何かじゃないのか、と。島で待っているであろうあの人の。
「……どうやら少々、君を見くびっていたみたいだ」
 見かけからアカリを判断していたと知ったトシハルは恥じ、そして詫びた。
 そうして正式にアカリに依頼をした。君に頼みたい。僕を島に連れて行って欲しい、と。

「それじゃあさっそく出発しましょうか」
 アカリが確認する。
「ああ、そうしよう」
 と、トシハルは答えた。
 アカリが別のボールを手に取る。
「レイランちゃん、出番よ」
 ボールが赤い光を吐いたかと思うと一匹の鳥ポケモンが現れた。
「レイランちゃん、悪いけどあそこまで連れてってくれるかしら」
 アカリが言う。出てきたのは一匹のオオスバメだった。
 黒と白をベースにした模様に、額や首まわり、しっぽの先を染める赤が美しいポケモンだ。
 レイランと呼ばれたオオスバメはテトラポッドに着地した。トシハルの前にぴょこぴょこと進み出ると、バッと左右の翼を広げて見せた。
「うわっ」
 一瞬驚いたトシハルだったが、レイランをよくよく見ると翼の中に何かがたくさん光っているのを発見した。
「リボン……?」
 会社の上司が語っていたコンテストトークから得た知識から察するにコンテストで貰ったものと思われる。レイランは「どう? すごいでしょ?」とでも言いたげに首を横にひねり、横目にトシハルをチラチラ見る。
「レイランのコレクションなのよ。初対面の人にはそうやって見せびらかすの。褒めてあげると喜ぶわ」
 アカリが解説する。
「そうなの? い、いやー、すごいなー。レイランは」
 トシハルがやや棒読みで褒めたにもかかわらず、レイランは満足したのかフンッと鼻息を荒くして満足げな表情を浮かべた。その表情はホエルオーを背に得意げな顔をしていたアカリにそっくりであった。
「さ、荷物をしっかり掴んで。レイランが乗せてくれるから」
 アカリが言った。
 ホエルオーの平均的体長は14メートル、もちろん高さだって4、5メートルある。うきくじらが浮かぶところまでキャリーバッグを持って泳いでいき、自力で登るのはとても無理だったからだ。
「こう?」
 トシハルは、キャリーバッグを両腕で抱えた。
 するとレイランが肩に飛び乗りぐわっとわしづかみにする。
「うわぁ!」
 トシハルは悲鳴を上げた。ばっさばっさとすぐ上から空を切る羽音が聞こえる。彼の身体が宙に浮いた。波のたゆたう海の上を通過して、青い陸地の上へ彼は下ろされる。ぶよん、という感触が足元から伝わってくる。
「あ、ありがとう、レイラン」
 トシハルはオオスバメに礼を言う。またレイランがフッと笑った。大きさのわりにずいぶんと力があるとトシハルは思った。
「私たちも行くよ」
 続いて、アカリとその荷物を抱えたバシャーモがホエルオーに飛び乗ってきた。
 さすが彼女の相棒とでも言うべきか。彼女が具体的な指示をせずとも、ちゃんと意図を理解しているらしい。
 ぶよんと鯨の背中に着地し、バシャーモはすっくと立った。その肩の上からアカリは遥か水平線を望む。行く先を指差してホエルオーに指示を出した。
「シロナガちゃん! 進路を南南東にとって!」
「オォオオオオーーー!」
 アカリの声に応え、うきくじらが吼えた。
 巨体が前のめりに揺れる。大きな鰭(ひれ)が海水をとらえ、ゆっくりと方向転換をはじめる。ぐるりと向き直り、水平線の向こう、南南東へと進路を定めた。
「フゲイ島へ向け、出発!」
 巨体が大海原へ漕ぎ出した。


  [No.2738] 少年の帰郷(6)〜(10) 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2012/11/20(Tue) 21:10:39   126clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

6.

 ロケットの島トクサネを背にしてうきくじらは進む。
 波を割り、航路を開く。
 なるほど、彼女が自信たっぷりな訳だ。
 うきくじらの背中に立ってその様子を見つめながらトシハルは感心していた。
 彼女のホエルオー、シロナガは自分の乗りやすい潮の流れを作り出し、立ちはだかる波をものともせずにぐんぐんと進んでいく。
 乗り心地は完璧に近い。
 まだ、外洋というほど陸から離れていないところを進んでいるが、そこそこ波が立っている。
 それなのに彼らは揺れというものをほとんど感じないのだ。何より手すりも無しに、彼はこのポケモンの上で立っていられた。前方に開かれる視界、青い水平線を仰ぎながら、これなら船酔いをする人でもいけるかもしれないとさえトシハルは思った。
 後方に立っているアカリをちらりと見る。
 思うに、人を乗せない分にはポケモンにとってこんな配慮は必要ないんだろう。そういう類の技術をシロナガに身に付けさせたのは他でもない、この少女に違いなかった。トシハルは改めてこの子は只者ではない、そう思った。
 一方、アカリは何やら手の平サイズの小さな機械を見つめている。
「現在位置×××.××.×××-×××.××.×××、フゲイ島×××.××.×××-×××.××.×××、到着までには丸一日といったところかしら」
 近くに寄って見てみると、その機械の画面にトクサネからフゲイ島までの進路が映し出されていた。
「へぇ、その機械GPS機能がついてるのか。すごいな」
「ポケナビよ。タウンマップ機能に加えていろいろ付いてるわ。トレーナーにとっては必須アイテムね」
 トシハルが物珍しそうに言ったからか、アカリが解説する。
 近くに立っていた鶏頭にまたぎろりと睨まれたが、とりあえず彼は笑ってごまかした。
 オオスバメのレイランはうきくじらの周りをぐるぐると飛び回り、ときどきそのY字型に伸びる尾鰭にちょっかいを出して、鰭の反応を見ては喜んでいた。
 ああ、この感覚は何か懐かしい。
 気をよくした彼は、シロナガの背中を見物して回った。
 1メートル、2メートル、3メートル……トシハルは自らの歩幅を定規の代わりにして、海におっこちない範囲でもってシロナガの頭から尾鰭のほうまで歩いてみた。
 一歩は1メートルとして、歩ききれなかった分を計算に入れると、だいたい15メートルくらいだろうか。ホエルオーとしてはまぁ平均的な部類だ。
 それより、この個体に特徴的なのは背中の模様だとトシハルは思う。
 乗ったときから気にはなっていた。ホエルオーの背中には白い模様が四つあって、普通、楕円形の形が背骨に沿うような形で並んでいる。
 ところがこの個体はどうだ。四つの白い模様が肋骨に沿って伸びて、まるで縞模様だ。たとえるなら、そこを歩くのは横断歩道を渡っているような感じである。
「……ああ、そうか。シロナガってそういうことなのか!」
 彼は思わず叫んだ。
 白い模様が横にそって長く伸びているから、シロナガなんだ。
 それを聞いたアカリはフンと笑って、
「よくわかったわね」
 と、言った。
「普通のトレーナーでも、ホエルオーの背中の模様なんて注目する人はあんまりいないわ。ましてシロナガちゃんの名前の由来を言い当てる人なんてね」
 そして、トシハルの顔を観察するようにじっと見た。
「昨日から気になっていたんだけど、アナタ一体何者? ただの会社員にしては航海の準備だってバッチリだったし」
 アカリの鋭い一言にトシハルは少しばかり動揺する。
「言ったろ、よく船に乗ってたって。これから向かう離島が僕の実家だからね」
「でも、それだけじゃないでしょ」
 ヘタなごまかしは通用しなかった。なおも彼女に問い詰められた。
 トシハルにあるポケモンと関わる何か。もちろん彼はトレーナーではない。だが何かがある。それをアカリは嗅ぎ取ったのだ。
「何者か聞きたいのは僕のほうだよ。そりゃあ、僕はポケモンバトルにもポケモンコンテストにも疎いけど、今までの君の行動とか君のポケモンを見てれば、君が只者じゃないってことくらいはわかる」
 トシハルも負けじと切り返した。
 彼のほうもずっと疑問だった。彼女は一体、何者なのか。彼女に付きまとう視線、一体彼女の何が彼らにそうさせるのか。
「なるほど、お互いに興味があるってわけね」
 とアカリが言い、瞳を覗き込んできて、彼は少しドキッとした。
 押し負けてはいけないと思った。
「どうしてこの仕事を受けたんだい? 君くらいのトレーナーならバトルの賞金だってそれなりに貰ってるだろう。いくら石が欲しいとは言っても、実費だけで離島を往復なんて手間なだけじゃないの?」
 トシハルは彼女がバスでガイドに掲示していたものを思い出していた。あれはおそらくトレーナーとしてのランクを示す何かだった。
 自分を離島まで送り届けてくれる奇特なトレーナーに何を聞いているんだという思いもあったものの、これは彼の中に浮かんだ確かな疑問だった。
 彼女はナビのスイッチをオフにするとポーチに仕舞い込んだ。
「…………」
 アカリはなんだか怖い、でもちょっと困った顔をしてしばらく黙っていた。
 腕組みをした鶏頭がこいつ海に沈めてやろうかという顔で彼を睨んできたが、目を逸らし、誤魔化す。
「…………よ」
 しばらくしてアカリが口を開いた。
「え、何?」
 彼女にしてははっきりしない小さな声だったので、聞き取れずトシハルは聞き返す。
「……行きたかったのよ」
「……? どこに?」
「どこでもいい、どこか遠くに。私のことなんか知らない人がいる土地に」
「どういうこと?」
「もう、たくさんなのよ」
 そう言って彼女は水平線のほうを向いた。
 そのとき彼女はどんな顔をしていたのか、彼にその表情は見えなかった。見ようと思えば見ることができたけれど、たぶん見ないほうがいい気がした。
「そんなに知りたいなら話すわよ。どうせ島に着くまでヒマなんだしね。そのかわり」
「そのかわり?」
「その後でアナタの話もたっぷり聞かせてもらうから。誤魔化して逃げるんじゃないわよ」
「……わかったよ」
 トシハルは観念して、彼女との取引に応じた。海の上だ。逃げようたってそうはいかない。
 それにトシハルは興味があった。
 この少女が何を考えているのか、どういう理由でこの仕事を引き受けたのか。
 携帯の時計を見る。ゼロの数字が並んで午後になったことを知らせていた。アンテナが一本だけ立ってまだ圏内だったが着信は無い。先は長そうだと彼は思った。

「トレーナーになるきっかけは些細なことだったのよ」
 と、アカリは言った。
「パパの都合でね、十歳のころにミシロタウンに引っ越してきたの。あれは引っ越してきてから三日目くらいだったかなぁ、ミシロの郊外を散歩していたら、男の人がポチエナに吼えられて腰抜かしてて。それがオダマキ博士だったわ。割とホウエンじゃ有名な博士らしいんだけど……知ってる?」
 知ってる、とだけトシハルは答えた。
 オダマキ博士――彼の得意分野はフィールドワークだ。たしかそれに関する様々な論文を発表していたはずだ。そうか彼の研究所はミシロにあったか。彼は記憶を手繰り寄せた。
 そして彼女は続けた。
 近くに博士の鞄が落ちていたこと、その中にモンスターボールが入っていたこと、ポチエナを追い払うために投げたボールの中に入っていたのがあの鶏頭……バクだったことを。
「まぁ今思えば、わざとらしいったらないけどね。フィールドワークの権威がポチエナに吼えられたくらいで腰抜かしたら調査にならないじゃないの。たぶんあれは口実作りね。もしかしたらパパも一枚噛んでいたのかも」
 まったく油断も隙もないんだから、などと言いながら彼女は語りを続ける。
「……あ、うちのパパもね、ポケモントレーナーをやってるの。前々から私をトレーナーの世界に引き込む機会を狙ってたのよ。正直、あのころはトレーナーに興味なかったんだけど、せっかくバクを貰ったんだから少しばかりトレーナーの旅に出てみないかということになって」
 いかにも周りの勧めだったのだ。積極的にやる気はなかったのだ、などと乗り気のなさそうなことを言った彼女だったが、トシハルがその過程を聞くにそれは彼女にとって悪いものではなかったらしい。
 それどころか話を追うごとに彼女はめきめきと頭角を現し、トレーナーとしての才能を開花させていったのがわかった。
「なんだかんだで、一つ目のバッジをとったわ」
 話が始まって、十五分後に彼女はバッジを一つゲットした。
「これよ」
 彼女はポーチからバッジケースを取り出すと開いて見せてくれた。
 ああ、そうかさっきバスでバスガイドに見せていたのはこれか。トシハルは理解する。
 バッジの数はトレーナーとしての実力の証だ。アカリのケースでは八つのバッジが輝いていた。彼女いわく、これを八つ揃えることで晴れてポケモンホウエンリーグの出場資格が与えられるのだという。
 なるほど、八つ揃っていたからバスガイドも黙ったのだ、とトシハルは思った。
「バクがワカシャモに進化したわ」
 そうしてさらに五分の後、彼女は嬉しそうにそう語った。
「赤い装束と青い装束の変な集団に会ったわね」「船に乗せてもらってムロタウンに行った」「洞窟に石マニアがいて」「バッジが二個になった」「すてられ船ってところに行った」
 そうして彼女の冒険は進んでいった。
「草ぼうぼうの道路があってね、そこで捕まえたのが今のライボルト」「三個目はちょっと苦戦したわね」「パパがね、バッジ四つになったら勝負してくれるって」
 彼女の冒険は進んでいく。順調に仲間を増やし、白星を重ねていく。
「バクがバシャーモになった」「パパに勝った。バッジが五つになった」
 と、彼女は得意げに続ける。
「六つ目のバッジの街は遠かったわね」「トクサネには何度か来たわ」「ルネシティになかなか入れなくて」「海に潜った」「古代ポケモンが復活したのよ」
 こういうのをサクセスストーリーというんじゃないだろうか、とトシハルは思う。
 そうして彼女と彼女のポケモン達は様々な困難を乗り越え、とうとうホウエン中のジムを制覇した。そしてついに彼女はホウエンリーグに出場することとなる――
 て……あれれ? それで結局彼女はどういう理由で今日に至ったんだ? と、トシハルは本来の疑問に立ち返った。
 今までの話を総合すると……
「あー……もしかして、予選で惨敗しちゃって落ち込んでいるとか?」
 と、トシハルはズバリ予想した。
 ほら、あんまりものごとが順調に行き過ぎていると、一度失敗しただけでふてくされたりするじゃないか。と、彼は考える。
 が、彼女はトシハルのちっぽけな予想を華麗に裏切ってみせたのだった。
「……優勝したわ」
「ぶっ」
 トシハルは思いっきり脱力したというか、後ろにのけぞったというか、あやうくホエルオーから落ちて海に転落しそうになった。なんとか体勢を立て直し、負けじとツッコミを入れる。
「なんだよそれ、超がつくほど順調そのものじゃないか!」
 というか、サラリとすごいこと言わなかったか今……とトシハルは思った。
 古代ポケモンがどうのって言ったのも気にはなるが、とりあえず彼女の言うことを総合すると、今自分の隣にいるのは、ホウエン地方で一番強いトレーナーということではないか。
 トシハルは自分には縁のない世界の話に首をひねる。が、一方で合点した。船でサインが欲しいと言っていた女の子、宴会場に見に来ていた野次馬達、バスで囁きあっていた乗客達……なぜ彼らが彼女に注目していたのかを。トシハル自身は見ていない。だが、ホウエンリーグといえばこの地方の一番のイベントで、ホウエン民の一番の関心事だ。少なくとも勤務先の会社が空になって、トシハルが一人さびしく留守番をする程度の威力はあるイベントだ。その時の働きのおかげで今、長期休暇を許されているわけだ。
「で、結局何が不満なんだよ」
 トシハルは尋ねる。周りの視線が多いことだろうか? だがそれをアカリがあまり気にしているようには見えなかった。それともそれも見かけだけのことなのだろうか。
「話はここからよ」
 と、アカリが仕切りなおした。
「はぁ……」
 と、トシハルは気のない返事をする。
「ホウエンリーグってね、全試合テレビ中継されるの」
「うん、知ってる。見てはいないけど」
 トシハルは素っ気の無い返事をした。就職が決まって引っ越してきた今のアパートにテレビはない。関心が無い。ポケモンに関わる気が無かった。だから見る気がなかった。
「あなたって本当にテレビ見ないのね」
 アカリが呆れた顔で言う。
「悪かったな。それで?」
「それがまずかったわ」
「どういうこと?」
 トシハルはさらにのめりこむようにして話を聞く。
「ああいうのって試合前に出場選手の経歴なんかを放送するわよね。賞歴とか」
「ああ、まあ、そうだろうね」
 トシハルは相槌を打つ。そうだ、昔は惰性で見ていたんだと彼は思い返した。大学に入った頃までは。時期になるとテレビで流れるのはその話題ばかりだったから。
「あのとき…………、」
 そこで彼女は急に押し黙ってしまった。
 ちょうどさっきまで海水が満ちていた海岸線が引き潮で後ろに引いてしまったように。
 さっきまでの饒舌ぶりが嘘のようだった。
「あのとき……何?」
 トシハルは聞いてはいけないような気がしたけれどやはり聞いてしまった。興味に理性が負けた。
「私あのとき、これといった賞歴もなかったから。だから…………」
「だから?」
 彼はさらに聞いた。
「本当にいい迷惑。いくら他に言うことがないからって」
 アカリの声はあきらかに不機嫌だった。
 やっぱり聞くんじゃなかったかなぁとトシハルは罪悪感を感じる。
「ねぇ、あんまりおおっぴらにしたくないことってあるでしょ?」
 と、彼女は続ける。
「そうだね」と、トシハルが答える。
「あのとき、ポケモンリーグの第一試合の前、たくさん人が会場に集まってた。中継のためのテレビカメラもたくさん並んでて。会場にいなくともホウエン中がテレビ画面に注目してたわ。そんなときに。あろうことかリーグの司会はこう言ったのよ」
 シュゴオオオッ! と、うきくじらが潮を吹いた。
 霧状の海水が空に舞う。彼女の発した言の葉の音を、潮の吹き出る音が遮った。けれどトシハルは、はっきりと彼女の言葉を受け取った。
「私がパパの娘だって言った。トウカシティジムリーダーの娘だって言ったわ」
 その言葉がえぐりこむように胸を突き刺した。
「私がホウエンに引っ越してきたのはね、パパのトウカジム就任が決まったから。強さを追い求める男センリ……それがパパの通り名よ。パパはトレーナーの間ではすごく有名で……あなたは知ってる?」
 知らない、とだけ彼は答えた。
 ただジムリーダーがどんな存在であるかくらいはバトルに疎いトシハルでも知っていた。各地のジムで挑戦者を待ち構えているというジムリーダー、彼らは非常に優秀なポケモントレーナーでトレーナーたちの憧れの的らしいことも。
「一番……言ってほしくないことだったのに」
 アカリはぎゅっと拳を握って、斜め下の海に目線を向ける。
「私はその大会で優勝したけれど、あれから、周囲の私を見る目は変わっちゃった。バトルに勝てば、さすがはジムリーダーの娘。コンテストで勝っても、さすがはセンリさんの娘。ジムリーダーの娘なんだからバトルに勝つのは当然、強いのは当たり前、私が勝てるのはジムリーダーの娘だから。みんながみんなそういうことになっちゃったのよ」
 トシハルは黙ってそれを聞いていた。
 たぶんこれには自分の前に立つ彼女への嫉妬や羨望、様々なものが含まれているのだろうと彼は思った。きっと誰もがトレーナーとして華々しく活躍できるわけではない。若干十五歳で頂点を手にした彼女に対し、人々はわかりやすい理由を求めたのだ。
「昨日だってそう。コンテストにレイランを出して優勝しても、出場者に言わせれば勝ったのは私がジムリーダーの娘だからで、私のポケモンが努力したからじゃないの。みんなね、私を透明にして私の後ろにいるパパを見てるの」
 ジムリーダーの娘。
 それはとてもシンプルで。わかりやすくて。
 だからそれは人々が飛びつきやすい格好の材料だったに違いない。
「対戦相手も、それを見ている観客も私や私のポケモンのことなんか見ちゃいない。私が私のポケモンと出会ってやってきたこれまでの過程なんか見てくれない。みんな私の背後にいるパパの亡霊だけを見ているのよ」
 だって努力するのはめんどくさい。
 けれど人々は嫉妬深くて、自分の努力と比べようともしないで、成功者の上っ面だけを見ようとする。あの人は生まれつきの才能があるから、あの人の子どもだから。
 あるいは、あの人の弟子だから。
 もちろん生まれ持った能力が重要な構成要素なのはトシハルも認めている。人は生まれたときから平等などではない。
 ……けれど、生まれ持った才能だって水をやらなければ育たないのに。
「今まで我慢してきたけど、昨日のでほとほといやになったわ。別に何を考えてたわけじゃないの。ただ、なんとなくポケモンセンターの掲示板を見ていたら」
「……僕の依頼があった、ってわけかい」
「そうよ」
 彼女は答えた。
「書き込みを見て気が付いたの。遠くに行けばいいんだって。誰も私を知らないところに行けば、知らない土地でなら、私はジムリーダーの娘じゃない。ただの私として見てもらえる。そう思ったから」
 一応、僕の実家もホウエンなんだけどね……などと思いつつ、トシハルは彼女の話に耳を傾ける。
 しかし彼の実家は離島だった。テレビ中継くらいは見るだろうが、ポケモンリーグなど、島の人間にとっては外の世界の出来事なのだ。主にサトウキビの栽培と漁業で生計を立てる島民はポケモンバトルとかコンテストの類には相当疎い。そこにジムリーダーの娘だからどうこうという理由付けは存在しないのだ。
 今の彼女が求めているものがあの島にはあるのかもしれない。そうトシハルは思った。
「……贅沢な悩みだと思う?」
 と、アカリは聞いてきた。
「いや……そんなことはないさ」と、トシハルが答える。
「本当に?」彼女が聞き返す。
「ああ」と、また彼は同意する。別に彼女を慰めるために言った訳ではなかった。
「わかるさ。僕の場合は君とはまた違うんだろうけど」
 けして言葉ばかりの慰めではない。これはたぶん彼の本心だった。
「誰でもあることなんじゃないのかな。今いる世界がいやになることってさ」
 そう答えてあとは黙った。
 ホエルオーは洋上を順調に進んでいた。海風がばたばたと当たっている。寒くなってきたな、とトシハルは思った。
 キャリーバッグを開ける。防寒着を取り出し羽織ることにした。さらに中をごそごそと漁るとカイロをいくつか取り出す。いくつかは自分の防寒着のポケットに入れた。残りを海風が当たって寒そうなアカリに差し出す。彼女は黙ってそれを受け取った。
 日没まではだいぶある。だがそれでもいずれ日が落ちるだろう。空が赤くなって、すぐに陰って、青い夜のベールが空を覆い始めるだろう。
 彼女は話した。自分の傷を。自らの弱さを見ず知らずの自分に晒した。
 太陽が水底に沈んだなら、今度は自分のことを告白しなくてはなるまい。
 トシハルはどこまでも続く碧い海原を眺めながらそのように思った。
 潮風が絶えず吹き続けていた。






7.

「ナギサさんちの息子さん、明日島を出ていくんだってよ」
「これで何人目になるかねぇ」
 あれはまだトシハルが幼い頃の記憶。近所の人と母がそんな話をしていたのを幼いながらに覚えている。それはなんともいえない哀愁の響きを含んでいて。あのころの親たちの会話、あれは自分の未来を暗示していたのだろうか。
「ねぇ博士、ナギサのおにいちゃんどこに行っちゃうの」
 親に尋ねるのはなんだか気が引けて、彼は近所の博士にそれをぶつけた。
「さぁな、ミナモかカイナか、それともホウエンでないもっと遠くかもしれないな」
「もう帰ってこないのかな」
「ん……どうだろうな」
「ねぇ、博士はどこかに行ったりしないよね」
「なんだお前、そんなこと心配してたのか?」
 そう言って、博士と呼ばれた初老の男性はまだ幼い彼の頭を撫でた。
「私はどこにもいかない。ずっとここにいる」
 そう、博士は続けた。
 あの頃は、まだ幼かった彼はまさか自分が島を出て行くなんて考えもしなかった。
 あの頃の自分にとってはあの島が世界のすべてだった。

「…………」
 夜のベールが覆う空をトシハルは見上げていた。何千、何万という星がちらちらと揺れる。その中で夏の大三角やさそり座、いて座など数ある星座が輝いていた。こんな夜空を見るのは久しぶりだった。ミナモシティではこんな満天の星空は見られなかったから。島にいたころはこれが当たり前の空だったのに。
「トシハルさん」
 …………。
「トシハルさん!」
 そこでトシハルは過去から現在へと引き戻された。
 ぼうっと暖かい光を放つランプを挟んで、赤いバンダナの少女と鶏頭のポケモンが座り両手にカップ麺をかかえていた。
「あ、」
「あ、じゃないわよ。のびるわよ」
 トシハルが自分の両手でかかえたものを見ると、カップ麺が僅かに開いた蓋の隙間から湯気を吹いていた。
 アカリがどこからか取り出したヤカンを鶏頭が腕の炎で沸騰させた。彼らの連携プレーがホエルオーの背中の上でカップ麺にお湯を注ぐことを可能にしたのだった。ポケモンの背中の上で、こういうものを食べる日がくるとは思わなかった。炎ポケモンってこんな使い道もあったのか、とトシハルは感心していた。
 目の前ではアカリと鶏頭がずるずると夕食をすすっている。アカリはともかく、鶏頭のほうが指が三本しかないくせに器用に箸を使って食べているところにトシハルはちょっと驚いた。
 日が完全に水底に落ちて、星空が輝きを増しはじめた頃、アカリはホエルオーの進行を止めた。今日はここまで。次の日に朝日が昇る時まで、ここで寝かせるとアカリは言った。
「で、どうなのよ」
 カップ麺のスープまで飲み干すとアカリが切り出した。
「どうって?」
「決まってるでしょ。あなたの素性について」
 アカリがそう言うと、トシハルの箸が一瞬止まる。
「…………」
 トシハルは困ったような顔をして少しの間黙っていたが、やがて一気に麺をすすり上げ、細切れの麺と細かい具ごとがーっとスープを飲み干すと、いよいよ口を開いた。
「素性っていっても、君に比べたら大したものじゃないよ」
 空になったカップをそっと足元に置くと、持ってきた固形の菓子を開いた。包装を破りひとかじりするとまた空を見上げる。
「つまらない話だよ。……さて、どこから話したらいいものか」
 満天の星空。その昔、あの島の上から見上げた空もこうだった。
「そうだなぁ、じゃあ島の話からはじめよう。昼間にも少し話したけれど」
 そうして彼は話し始めた。自分が生まれ育った島の話を。巨大なうきくじらの上で語り始めた。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 なにもかもが変わってしまった昔と今の自分。
 見上げた空だけは昔と変わらない。
「あそこは本当に何もないところだ」
 と、トシハルは切り出した。
 島の住民は主に漁業とサトウキビ栽培で生活を営んでおり、船は二週間に一度きり。だから、島に生まれ、島に育った人間にとって島が世界のすべてだった。
「たまに外から人が来るとすれば、空か海から旅のポケモントレーナーがやってくるくらいで。それも道に迷ったとかそういう理由でね。だからトレーナーっていう発想自体希薄だった」
「トレーナーとして旅立った子は?」
「わからない。いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。ただ僕にはそういう発想はなかったなぁ。でもきっとなるっていったら反対されたんじゃないのかな。島の住人にはわからないものだから。自分のポケモンを持って漁の手伝いをさせる人はいたけどね。ただモンスターボールなんて上品なものは使わないよ。放し飼い」
「ふうん」
 トレーナーとして旅立つのが自然な世界であったアカリにとって、それは未知の世界の話だった。素っ気ない返事をしながらも、アカリはトシハルの言葉を聞き逃すまいとしていた。
「……でも」
「でも?」
「バトルって発想はなかったけど、研究をしている人がいた。もともと島の住人ではなかったらしい。僕が生まれるずっと前に移り住んできたのだと聞いた。研究者っていったら、トレーナーとはまた違う次元でポケモンに関わる人たちの憧れだ。けど、ポケモンの研究なんて島の人間には理解できない職業だったからね。最初はいろいろ苦労したらしい」
 トシハルはその後、研究者といえばカントーのマサラタウンに研究所を持ってるオーキド博士はあまりにも有名だなどと、説明した。
 だが、一方でこうも付け加えた。彼のように大きく世に知られる研究者もあるが、一方で多くの仕事をしても世に知られない研究者はもっと多いのだと。
 島に移り住んできたという「彼」はそんな研究者の中の一人だったとトシハルは語った。
「カスタニ博士って言うんだ。世間一般にはあまり名前が知られていないけれどいろんな仕事をした研究者でね。時には命の危険に晒されたこともあったらしい。僕はそんな博士の武勇伝を聞いて育ったんだ。ちょっと偏屈で頑固なところもあるけれど立派な人だよ」
 淡々とトシハルは語った。けれどその言動には博士に対する尊敬の念が含まれている――そういう風にアカリの目には映った。
「各町で旅立つトレーナーの面倒を見るなら、国から多くの援助が得られるらしい。もちろん博士にもそういう話がなかったわけではないらしいけど、どうもそれがいやだったみたいでね。そもそもあまりトレーナーが好きじゃなかったらしい。人がポケモンを飼ったり、使役したりするのは気に入らないと言って。なにより束縛無く自分の研究がしたかったみたいだ」
 と、トシハルは続ける。
「そんな人だから、昔僕がカントーからポッポをお持ち帰りしたときなんかずいぶん怒っちゃってね。野生ポケモンに餌をやるからそうなるんだって」
 トシハルは苦笑いをする。
「そのポッポどうしたの」
 興味ありといった風にアカリが尋ねた。
「しばらくはブツブツ文句を言っていたけど、傍に置くからには躾けなきゃならんとか言って、そのポッポ……名前はダイズって言うんだけど、仕込み始めたんだ。研究をサポートさせるためにね。博士の研究は野生ポケモンの観察がメインだ。鳥ポケモンなら生かせると考えたんだろう」
 しかしまあ、これがなかなかうまいんだ。
 と、トシハルは続けた。
「トレーナーは嫌いだなんて言ってたけど実はそっちの才能もあったんじゃないのかなぁ。ほどなくしてダイズがピジョンに進化してね」
 懐かしそうに語る。
「それで? カスタニ博士は何を研究していたの?」
 アカリが続けざまに尋ねる。いつの間にか会話に夢中になっている彼女がそこにいた。
「ホエルオーだよ」
 と、トシハルは答えた。
 ホエルオー、それは今まで見つかった中で最も大きいポケモン。
 それは、今まさに彼らを背中に乗せ運んでいるポケモンでもあった。
「あるとき129番水道で偶然それを見かけた博士はすっかり虜になってしまったらしい」
 それからトシハルは、博士が水生のポケモンを得意とする研究者であること、島に来てからは研究のほとんどをホエルオーに費やしていたと説明した。
 そしてこうも言った。
 生まれ育った島は何もないところだ。あるのは周りに広がる海だけだと。けれど、ひとつだけ誇れるものがあるのだと言った。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 その周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。空は何者にも占領されず、海からの水蒸気を吸い上げもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
 ふと、そこに海から海水が噴き上げられる。
 その海水を噴き上げたもの、そいつは巨大な、とても巨大な――
「一般にはほとんど知られていないけれど、フゲイ島の周辺海域はホエルオーの一大生息地なんだ。これだけホエルオーを間近に見れる場所は他に無い。奇跡のような場所だと博士は言っていた。そのことを島民に気づかせたのは、生まれたときから島にいる人間ではなく、島の外からやってきた博士だったんだ」
 そうして博士は徐々に島民に受け入れられていった。調査のために漁師に協力してもらったり、島の様々な援助を受けられるようになった。
「僕にとって博士は、三人目の親のような存在だった」
 と、トシハルは言った。
 気が付けば、博士の助手のようなことをしていた。博士と一緒に数え切れないほどの回数船に乗った。いつも洋上からホエルオーを見ていたと彼は語った。
 そうしてアカリは理解した。なぜ彼が航海の準備を整えることができたのか、なぜ自分の持つホエルオーの特徴をすぐに掴むことができたのかを。ジムリーダーの名前を知らない彼が、オダマキ博士だけは知っていたのもおそらくはこのためである、と。
「海の鳥ポケモンもよく観察したなぁ。調査用の発信機をつけるために一時的に捕まえることもあった」
 昨日のコンテスト会場前、ぺリッパーを捕まえたことを思い出しながらトシハルは言う。ずいぶん鈍っていると思っていたのだが案外身体は覚えているものだ。
「あの頃の僕は、自分は研究者になって博士の後を継ぐんだと思って疑わなかった」
 そこまで言うと、トシハルはまた黙ってしまった。
「…………」
 鶏頭が眠そうにあくびをする。それを見て彼女はついにバシャーモをモンスターボールに戻すことにした。アカリは無言でトシハルを見つめる。ホエルオーの背中の上でついに彼らは二人きりになった。こんな場所で無用心な、とトシハルは思ったが、それは彼女が真剣に話を聞くサインのような気がした。
「つまらない話だよ……それでもまだ聞きたい?」
 トシハルがそう尋ねるとアカリは黙って頷いた。
 仕方ないな……トシハルは寂しそうに笑った。
「寝袋出そう。話はそれから」
 トシハルはそう言ってカップ麺のカップをつぶすと、袋にいれて口を縛った。
 夜の海上。彼らの進路には漆黒に染まった海面が広がっている。その漆黒の海はどこまでも暗く、どこまでも深く感じられた。
 トシハルは寝袋に身を包むと、同じように寝袋に身を包んだアカリとのその間にランプを置いた。
 意識を夜の海に潜らせた。
 記憶という名の深い深い海に、夜の海に潜らせた。
 いや、ただ巡って来たこの機会。その場の空気に抵抗することができず、沈んでいるだけなのかもしれないとも彼は思った。本当は思い出したくなんかなかったのだから。

「君がトシハル君かね」
 彼は、誰かがそう言ったのを聞いた。
「あのカスタニ博士の推薦だそうだね。君には期待しているよ」
 島の外の世界を知った。外に出たからこそ見えるものがある。
 知りたくなんかなかったのに、思い知ったことがある。
 自分の存在のなんと小さいことだろう、そして彼の人のなんと大きいことだろう。

「博士、お話があります」
 散らかり放題の博士の部屋に入って、彼は話を切り出した。
 博士の部屋は薄暗かった。電気が付いているものは机にあるスタンドライトだけで、その弱い光からかろうじて部屋の全体像をつかむことができた。

 海に潜る。
 記憶という名の深い深い海に潜る。

 ねえ博士、僕には重いよ。
 僕には重すぎる。
 このまま持っていたら、沈んでしまうよ。

 トシハルは記憶を呼び覚ます。走馬灯のように過去の事象が巡る。彼は過去へ舞い戻る。
「この話をするのは君が初めてだ」
 ランプをはさんでトシハルは少女にそう言った。
 言葉を形作る唇がランプの光に照らされていた。
「島には中学校までしかなくってね。高校は通信制を出たんだ」
 と、トシハルは始めた。
 高校を出てからは特に考えていなかった。ただ、なんとなく親父のサトウキビ農園の仕事や博士の手伝いをするのだろうと思っていた。ところが博士の考えは違っていた。
「トシハル、お前は一度島を出て大学に通え」
 通信の卒業証書を受けた日に唐突に、博士は言った。
 進学は考えていなかった。というかそういう発想が元からなかった。そもそも大学に進むような者が島にはいなかったからだ。
「君のご両親にも許可はとってあるし、入試の手続きは済ませといた。明後日は船が来るだろう。だからその足でカントーに行って来い」
 そう言って、地図とカントー行き飛行機のチケットを渡された。わけがわからなかった。
 博士に言われるがままに飛行機から降り立ち、地図に導かれるまま行った場所はカントーの大都市で、タマムシシティと呼ばれていた。その郊外に立派な大学があった。こんなに大きな学校をトシハルは見たことが無かった。その中で博士と同じくらいの年齢の男の人が何人か待ち構えていて、いくつか質問をされた。
 やったことといえばそれだけだった。それで、彼はその大学に通うことになった。
「最初は島とあまりに環境が違うので戸惑った。ポケモン学の授業は楽しかったけど、ときどき何を言っているのかわからなくて、ずいぶん苦労したんだ。まわりの友達にはさ、お前よくそれでこの大学に入れたなと言われたよ」
 後々になって彼は知った。
 その場所は、通信制高校を出ただけの学生には到底入れない所だったと。
 今自分が通っているこの大学に入るために、周りはみんな猛勉強してきたことを。
 ペーパーテストで何人いや、何十人のライバルを蹴落として、高いハードルを越えてきたのだと。
 ならば、あの「試験」は一体何だったのかと彼は自問した。
 あとで両親に聞いたところによると、博士は両親に進学の許可を取ったのち、すぐに大学に電話をかけて、「実はおたくのとこの大学で面倒を見て欲しいのが一人いるからよろしく」というようなことを言ったらしいのだ。電話の相手は二つ返事でOKしたらしい。これには彼の両親も驚いたそうだ。
「僕はさ、必死に勉強したよ。だいぶかかったけどニ年の中ごろにはなんとか追いついて、あの大学にふさわしい程度の教養も身につけたつもりだ。だから、他と違う方法で大学に入ったことに引け目は感じてないさ。でも……」
 けれど、勉強をすればする程に、新しい段階にステップアップすればする程に僕の中で博士の存在が重荷になっていったんだ、とトシハルは語った。
 勉強して勉強して、理解が進むほどに、それがわかってしまったのだと。
 カントーで一番大きい大学柄、様々な人に会う機会がトシハルにはあった。大学で教鞭を振るう高名な教授達、名誉教授達、そして高名な研究機関の所長達。皆、携帯獣研究における各分野のプロフェッショナル達ばかりだ。
「みんながみんなね、同じように博士のことを話すんだ」

 ――博士は恩人さ。彼のアドバイス一つでぐんぐん研究が進んだもんさ。
 ――あの人はほんとすごい。次元が違うよ。いつ寝てるんだというくらいに画期的な論文をボンボン発表していった。
 ――ちょうどあの時期は、携帯獣研究が大幅に進んだ時期でね、その中で活躍した人はたくさんいるけれど、間違いなく五本の指に入るんじゃないかな。
 ――でも、いつだったかな。急に俺はホエルオーを研究するんだとか言い出して、大学から出ていっちまったんだ。ほぼ完成していたたくさんの研究も全部周りに譲って、金にもならない研究をするために離島に隠居しちまった。
 ――だから私達がね、今こうしてこの椅子に座っていられるのは、あの人のおかげだよ。共同研究の成果を博士が全部譲ってくれたおかげさ。この大学であの人に足を向けて寝られる奴なんてそうそういないね。
 ――オーキド? 俺達の年代じゃ彼も相当だけどなぁ。あのままあの人が大学に残って研究を続けていたら、世間一般にポケモン博士として名を馳せたのは、オーキドじゃなくてカスタニだったかもしれないよ。オーキドは所詮後発の研究者だ。先駆けだよ、あの人は。
 ――とにかくその博士が君を推薦してきたんだ。我々が断れるわけないだろ?

 さて、君はあのカスタニ博士の推薦だ。
 君は、博士の秘蔵っ子の君は、我々に何を見せてくれるんだい?

 なんだこれ。
 トシハルは眩暈がした。
 携帯獣研究が飛躍的に進歩したのは今から約四、五十年ほど前だと言われる。その時に博士は様々なプロジェクトを打ち立てて、若い研究者達に助言を与えながら、同時進行していたのだという。
 これが。これがあの博士の実際なのか。彼にとってカスタニ博士という存在は、小さいころからすぐ近所に住んでいて、ただ当たり前のようにそこにいる人だった。だから、島民が当たり前のように親の家業を継ぐように、僕が博士と同じように研究をするのが、自然な流れだと思っていた。両親もそれには暗黙の了解を出していて、黙ってついていきさえすれば博士のようになれるのかと思っていた。
 だが、今ここに立ちはだかるこの歴然とした違いはなんなのだ、と。
 ――見られている。
 ここには博士はいない。博士は島にいるはずなのに、自身の後ろにはいつも博士が立っている。まるで亡霊のように立っている。
 無論、そんなものを連れてきたつもりはなかった。
「だが、見ていた。あそこにいる人達は見ていた。僕の後ろにいるカスタニ博士を見ていたんだ。だから、博士は立っていたんだろう。僕の後ろに確かに博士は立っていたんだ」
 幼いころから博士の武勇伝を聞いて育った。育ったつもりでいた。
「でもよく考えてみればそれは島に来てからの話ばかりだったんだ」
 博士は島に来る以前の自分ってものを語らなさすぎなんだとトシハルは思う。
 自身の影響力ってものを理解していない。世間一般にはどうだか知らないが、ここでは、あなたが僕を送り込んだこの世界では、みんなが貴方の名を知っているじゃないか。
 みんなが見ている。僕の後ろに立っている貴方を見ている――。
 博士の期待に応えなければ、という気持ちは持っていた。自分は博士に選ばれたのだと。
「けれど勉強すればするほど、新たな知識を得れば得るほどにわかってしまうんだ。あの人の凄さってものが。論文を読めば打ちのめされるんだ。理解すれば理解するほどに遠いんだ」
 そうだったのだ、とトシハルは悟った。
 そもそも僕は貴方に才能を認められて、選ばれてここに来たわけじゃないんだ、と。
 たまたま博士のいる近所に生まれて、たまたま近くにいただけ。自分がここにいるのはたまたま。
 ああ、跡を継ぐなどと、なんとおこがましい愚かな考えだったのだろう。
 絶望した。自分には何も無い。この大きな世界の流れに必死についていくのが精一杯なのだ。
「凡庸な僕は、きっとあなたの劣化コピーにすらなれない」

 ねえ博士、僕には重たいよ。
 僕に貴方の名前は重すぎる。
 このまま持っていたら、僕はその重さで沈んでしまうよ。

 どうして僕を大学に行かせたのですか博士。
 どうして島の外に出してしまったのですか。
 どうして。
 おかげで僕は知ってしまった。知りたくもないことを知ってしまった。
 自分は限りなく平凡でとりえのない人間だと、知ってしまった。

「僕の入学をきっかけに、博士と大学との交流も復活してね。島では何人かの実習生を受け入れることになったんだ。みんな僕なんかよりずっと優秀で、これなら僕はいらないと思った」

 そうさ、僕のかわりはいくらでもいる。
 僕なんかより博士の後継に相応しい人間はいくらでも…………

「博士、お話があります」
 大学最後の春休み、島に帰省中のトシハルはそう切り出した。
「博士、これから部屋の掃除はご自分でやってください」
「なんだいきなり」
「データの整理もご自分でやってください。僕はもうやりません。書類や計測機器がなくなっても僕はもう探しません」
「そんなことか。そもそもお前が大学行ったときから、そんなことは期待しとらんよ。そりゃあ、休み中はまぁ手伝わせたがな…………トシハル?」
 ほの暗いこの月灯りの中では弟子の顔はよく見えなかった。
 だが、弟子が声色の端々から、なんだか妙な空気を漂わせているのを感じて博士は顔をしかめた。
「何か言いたいことがあってここに来たんだろ。論文は結論から書くように、回り道せずにはっきり言え」
 じれったいという様子でそう言う。
「博士、僕は大学を卒業したら、島を出て行こうと思う」
「……なんだって?」
 がたり、と音がした。博士が椅子から立ち上がった音だ。
「もう、就職先も決めてきました」
「なんだそれは。お前、私にはそんな話ちっとも……」
「そりゃそうでしょう。博士にはそんな話しませんでしたから」
「理由を言え」
「もういやなんですよ。別に僕は、研究が好きなわけでも、ホエルオーが好きなわけでもなかった。もう飽き飽きなんですよ。僕はただ、たまたま貴方の近所に生まれて、たまたま貴方の近くに居ただけだ。もう貴方に付き合うのは終わりにしたい」
 彼は言った。これは博士に対する拒絶の言葉だ。
 これでもう、二度と元には戻れない。
「……ずっと、そういう風に思っていたのか」
 しばらくの沈黙を置いてから、静かに博士は言った。
「そうです。毎日毎日、海に出てホエルオー、ホエルオー、ホエルオー……僕はそんなことをしてこの先の人生を浪費したくない」
 これでいい、これでいいのだ。自分は博士にはなれない。
 自分は平凡でとりえの無い人間だ。だから茶番は終わりにしよう。
「博士も知っているでしょう。今年も島から何人も若者が出て行った。このままこの島に居続けて、博士の二番煎じをしながら、お金にもならない研究を続けていたって、僕に将来は無い……」
 トシハルは言い聞かせる。器ではないのだと。
 荷が重すぎる。自分にはできない。博士のように立派には出来ない。僕は決して博士のようにはなれない。
 世界を知らぬ少年の、短く愚かな夢だった。
 そうさ、最初っから器じゃなかったんだ。
「貴方には感謝していますよ博士。あなたが僕に外の世界を教え、いち島民にはとうてい手にいれられない学歴を与えてくれたおかげで、僕は島の外でも十ニ分にやっていける。バカなことをしましたね。僕を島から出さなければあなたは僕を好きなように使えたでしょうに」
 今までありがとうございます。そして、さようなら。
 もう戻らない……戻れない。
 島を出る前日、ピジョンのダイズには博士をよろしくと頼んだ。
 君は替えのいる僕とは違う。空を飛べる君には君にしかできないことがある。僕はもう手伝えないけれど、君は違う。君はこれからも博士の傍にいてやって欲しい、と。
 ダイズは了承したかしないのか、一声悲しそうに鳴いた。

「そうして僕は島を出て行った。博士の下から逃げ出したんだ」
 ランプが弱々しく揺れていた。
 アカリは無言だった。ただランプがまだ目を覚ましている彼女の顔を照らしていた。
「……つまらない話だったろ?」
 トシハルは光り輝く満天の星々を仰ぎ見る。鏡がなくてよかったとトシハルは思った。今自分は一体どんな顔をしているのか。どんな情けない顔を彼女の前に晒しているのか。それを見ることがなくてよかったと思った。
「小さいころから目をかけてくれて、大学にまで行かせてくれたのに、僕は博士を裏切った。それ以来、島には帰っていない。帰れなかった」
 彼は今、あの時のように海を渡っている。
 そして語る。かつて、何を思いどんなことを考えて島を去ったのかを。
「でもあなたは、今こうして帰ってるんでしょう。帰るからには、会うんでしょう。博士に」
 長い間、黙っていたアカリが口を開いてそう言った。
「……そうだね。でも正直どの面下げて会いに行けばいいのか見当もつかないよ」
 トシハルはそう答え、やがてそっと目を閉じた。
 自分と少女がその身を委ねているうきくじらに波が当たる。それがちゃぷんちゃぷんと音を立てていて、それがやけに耳に響いた。
 その音を耳に残しながら、トシハルは眠りに落ちていった。





8.

 意識が戻った。
 まだ瞼は重く閉じられているけれど、瞼を通る光がまぶしかったから、周りはずいぶんと明るくなっており、日はとっくに昇っているのだとわかった。
 だがトシハルの目覚めは悪い。昔から低血圧なのだ。だから覚醒したとわかっていてもなかなか行動に移せない。
 にしても妙に周りが騒がしい。潮騒に混じって何かの鳴く声が響いている。なんだか妙に身体が重い。気持ちとしてはもう少しゆっくり寝ていたかったのだが、どうにも不快感のほうが勝っていたようで、トシハルはしぶしぶと目を開いた。
 すると、なぜか目の前にうつっているのはドアップのキャモメの顔だった。
 キャモメはトシハルの眼前で一声、ミャア、と鳴いた。
「うわあっ!」
 びっくりして、思わず彼が飛び起きると、バサバサっとキャモメ達がトシハルを避けるように飛びのいた。どうやら身体の上に何匹か乗っかっていたらしい。どおりで身体が重かったわけだと彼は理解した。
 見ると自分達が乗っているホエルオーの背中にはたくさんのキャモメ達が止まっていて、青い背中が白い羽毛で染まっているところだった。
「おはようトシハルさん、ずいぶんゆっくりね」
 少し離れたところからアカリが言った。鶏頭も一緒だった。
 彼女の頭の上にキャモメが一匹とまっている。その周りにもキャモメ達がたかっており、バシャーモと彼女の服の赤がよく映えていた。
「……おはよう」
 トシハルは寝ぼけた顔で返事をした。
「で、このキャモメの集団は何?」
「……なんか、朝食がわりにポロック食べてたら集まってきちゃって」
 もぐもぐと口を動かしながら彼女は言った。
 ポケモン用の菓子なんだけど結構いけるのよ、と彼女は言った。自分が納得したものなら手持ちのポケモンたちもよく食べるのだと彼女は続けた。
「もっとも、半分は海上に突如島が現れたもんだから、ていのいい休憩場だと思ってるみたいだけどね、あなたも食べる?」
 そう、アカリが勧めるのでトシハルも食べてみたが、アカリがうまそうに食べている赤い色のそれはものすごく辛くて、騙されたと彼は思った。げえげえ言っていたのを見かねて渡されたピンク色のものは、なかなか甘くておいしかった。それを見たアカリが「あなたってきっと臆病な性格なのね」と、言ったが、トシハルには意味がわからなかった。
 やがて、アカリの持つポロックケースが空になると、キャモメ達も次第に飛び去っていった。
 トシハルは真新しい寝袋をキャリーバッグにしまうと、栄養ドリンクを取り出して一本飲んだ。
 アカリが飲みたそうにこちらを見ていたので一本渡したら、バク用にもう一本欲しいというからさらに追加で一本渡してやった。彼女と一匹は同じようなポーズでごくごくとドリンクを飲むと、同じタイミングでぷはーっと息を吐いた。まったく飼い主に似るとはよく言ったものだ、とトシハルは思った。彼らの息はぴったりだった。
 アカリは他のポケモン達も出して、朝ごはんにした。それが済むとグラエナとライボルトがうきくじらの背中を走り回りはじめた。サーナイトは端のほうに静かに腰掛けると潮騒に耳を澄ませている。オオスバメのレイランはトシハルに再びリボンを見せ付けてから飛び立つと、ぐるぐるとホエルオーの周りを旋回しはじめた。
 ホエルオーの背中に座ってアカリは静かにそれを眺めていた。穏やかな風が彼女の髪を揺らす。リラックスしている様子だった。
 自分がミナモシティに引き篭もっていたその間も、彼女はずっとこうやってホウエン中を旅して回っていたのだろうか。トシハルはその旅路に少しだけ思いを馳せる。ときどき鯨の背中の上をキャモメ達の影が横切っては消えた。
 昨日のことを思い返す。父の存在が重荷だと。誰も私自身を見てくれない、そう彼女は語った。
 決して彼女はポケモンが嫌いじゃない。父親もポケモンバトルも嫌いなわけではないのだろう。ただ、そう。息苦しかったのだと思う。アカリのその心を知ったその時に、トシハルの胸には刺さるものがあった。
 僕達は似ているのかもしれない。形や立場は違うけれど。
 アカリには言わなかったけれど、トシハルはそう感じていた。
 トシハルと少女は一時的な雇用契約を結んだ。だから今この時を共にしている。だが、トシハルを島に送り届けた時に彼女の仕事は終わる。その時彼女はどうするのだろう。ホウエンに戻るのだろうか。
 きっと彼女は強い。ポケモンリーグで優勝するくらいの器だったら、どこでだってやっていける、生きていけるに違いない。けれどトシハルは若きリーグチャンピオンの行く末を密かに案じた。彼女にとっては余計なお世話かもしれなかったが。
 本当にしょうもない。何を考えているんだか。彼女はポケモンを扱う才能にあふれた女性(ひと)だ。凡人に生まれた自分、逃げ出した自分とはそもそも違うのだ。そんなことはわかっていたけれど、それでも彼女に自身をだぶらせていた。
 アカリはポケナビを取り出し、スイッチを入れる。GPSで現在位置を確認した。
「だいぶ進んだわね。このまま何もなければお昼ごろには着きそうよ」
「え? あ、そ……そうかい。順調そうでなによりだ」
 トシハルは答える。
 その返事はあまり歯切れがよくなかったから、アカリは訝しげな目を向けた。
 着く。昼には島に到着する。
 トシハルが何かに身構えているようだった。波が飛沫を立てていた。

 ポケナビの時計が午後を知らせて、彼らは軽い昼食をとった。オオスバメも獣達も飛んだり走ったりするのに飽きて、おなかがいっぱいになると目を細めて日光浴をはじめた。
 うきくじらの背中から見える景色はあいかわらずだったが、島には確実に近づいているはずだった。
「ねえ、知ってる?」
 トシハルはアカリに問いかける。
「何?」
「水平線が見える距離。僕が海岸に立って見渡すことの出来る距離は、3キロちょっとって言われてるんだ。これには計算方法があるのだけど、基本的に視点が高くなればなるほど見える距離が長くなる。僕達の目の高さがホエルオーの上半分を入れて4メートルくらいだから、計算すると……そうだな。約7キロだね。残り7キロメートルになれば島が見えるはずだよ」
「へえ」
「……昔ね、博士に教えてもらったんだ」
 トシハルは懐かしむように言った。
「だからね、そのバシャーモの肩に乗せてもらえば、もっと遠くから見れるはずだ。そうなると……だいたい8キロというところかな。実際の島には高さがあることを考慮すると、残り10キロになればもう見えるかもしれない。残り10キロ地点になったら一度進路を見てみるといい」
 そう言って、彼は遠い昔を回想した。

 博士は少年を肩車すると、問いかけた。
 ――おうい、トシハル、どうだ? 見えるか?
 ――うん、見えるよ! ホエルオーがね、二匹見える。並んで泳いでいるよ。親子かな。兄弟かな。それとも恋人かな?
 ――さあなぁ、お前はどう思う?
 ――うーん、わからないや。
 ――わからない時はな。想像するんだトシハル。想像することもまた訓練なんだぞ。

 結局それにどういった結論を出したのか。今はもう覚えていない。
「ねえ、トシハルさん聞いてもいいかな」
 進路を見つめながらアカリは言った。
「なんだい」
「あなたは島を飛び出したっきり十年以上帰らなかったのよね」
「ああ、そうだよ」
「それならどうして?」
 アカリが聞いた。それは核心をつく質問だった。
「十年以上ずっと帰らなかったのに。それなのにどうして、急に会う気になったの? 船を待たずに私に依頼してまで、どうして海を渡る気になったの?」
「…………」
 トシハルは急にまた押し黙ってしまった。
 聞かないほうがよかったかしら。彼女は一瞬そう思ったが、けれど興味のほうが勝ったから、訂正をしてやっぱりいいわなどとは言わなかった。自分もあと十年経ったのならこのような気持ちになるのだろうか。トシハルの中にひとつの答えを見出そうとしていたのかもしれない。
「確かめなくちゃ、いけないから」
長い沈黙の後にトシハルは重い口を開いた。進行方向から海風が吹き付ける。
「……確かめる?」
「そう。僕は確かめるために海を渡ったんだ」
 アカリの視線が動いた。まじまじとトシハルを見る。
 海風が吹いて彼女の栗色の髪が風に揺れた。
「それは、あなたの気持ち? それとも博士の気持ち?」
「………………」
「別に、そこまでは答えなくてもいいけど」
 再びトシハルから視線をそらし、海を見る。彼女なりの配慮なのかもしれなかった。
 海と空が続く。海を縫うようにしてホエルオーが進んでいく。
「トゥリッ!? トゥリリィ!」
 突如、日光浴をしながら目を細めていたオオスバメのレイランが顔を上げ、鳴いた。何かを察知したらしかった。鶏頭や他のポケモン達も気が付いたらしく、同じ方向を見る。
 その直後、ホエルオーが目指す方向からピューイという高く澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてきて、トシハルとアカリはその方向を見た。
 ほどなくして、空の彼方に小さな影が見えた。影はすぐに大きくなって、やがてホエルオーの上空を輪を描くように旋回しはじめた。
 大きな鳥ポケモンだった。ホウエンに多く生息するオオスバメとは違う姿。尾は短く、代わりに長く立派な冠羽が潮風にたなびいている。レイランはますます興奮した様子で、バサバサと翼を羽ばたかせながら短い鳴き声を頻繁に上げた。
「ダイズ……? お前、もしかしてダイズか!?」
 鳥ポケモンのシルエットを捉えたトシハルが叫んだ。
「ダイズ、あれが……」
 アカリもその姿を凝視する。
 ピューーーーイ。
 トシハルの声に応答するように鳥ポケモンが返事を返した。
 大きく翼を広げたそれは、とりポケモン、ピジョットの姿だった。ピジョンからさらに成長したポッポ系統の最終進化系だ。その大きな鳥影がうきくじらの真上を通過する。
 かと思えばすぐにまた戻ってきて、高度を落とすとその背中に着地した。
「ピュイ! ピュウイイッ!!」
 背中の上の全員が新たな乗員に注目する中、進行方向を見ろ、とでも言いたげにピジョットは冠羽を高く上げ、翼を広げると、鳴いた。
「バク、」
 アカリが思いついたようにバシャーモに言った。鶏頭は少女を担ぎ、肩に乗せる。そうして少女は進行方向に目を凝らした。
「トシハルさん、見えた! 島、見えたよ!」
「…………10キロか」
 トシハルは小さく、けれど感慨深そうに呟いた。














9.

 ダイズは真っ先にレイランの洗礼を受けた。初対面の者の前で自分のコレクションを見せびらかすというあの行動を彼女はダイズにもやりはじめた。両翼を広げ、どうよどうよと横目にちらちらと確かめる。アカリが言うには、どうやら人相手だけでなく、ポケモン相手にもやることがあるらしかった。ダイズは、オオスバメの行動の意味がわからず、目をぱちくりさせて首を傾げた。それでもレイランは満足そうに、フフンっと鼻息を荒くした。
 彼女はこのピジョットのことが随分とお気に召したらしく、日差しが照りつけて相当に暑いというのにダイズにすりよって目を細めている。久しぶりに会ったダイズの顔は困り顔であった。
 アカリもホウエンではなかなか見られないピジョットがものめずらしいのか、ダイズのまわりをぐるぐると不審者のように歩き回り、トシハルさん触ってもいいかしらなどと断りを入れた後に、撫で回してみたり、抱きついてみたり、あげくの果てにほおずりしてみたりして彼を困らせた。アカリはさらに乗ってみてもいいかなどと聞いてきたが、さすがにそういう訓練はしていないと思うから、とトシハルは断った。
 二匹の獣ポケモンがふんふんと匂いを嗅ぎに近づき、サーナイトも遠慮がちに近づいた。
 その一方で、鶏頭だけはそういう趣味はないとでも言いたげに、ピジョットにまとわりつく一人と一羽、そしてその取り巻き達を離れた位置から見守っていた。
 バシャーモは格闘タイプだ。大きな鳥ポケモンは苦手なのかもしれないとトシハルは思った。
「行かないのかい、ダイズはおとなしいから大丈夫だよ」
 などとひやかしを言ってみたが、ぎろりと睨まれたので、それ以上は言わないでおくことにした。
 そんなことをしているうちに、トシハルの目線からも島を確認することが出来るようになる距離までホエルオーが到達した。
 肉眼で確認する約十年ぶりの島だった。
 ああ……!
 トシハルはわずかに口をあけて、そのままその光景に見入っていた。
 心臓がバクバクと鼓動を高鳴らせた。
 上陸の時が近づいている。
 突然、彼らが乗るホエルオー、シロナガの周りに、いくつもの潮が吹き上がった。
 無論、それはシロナガのものではなかった。潮吹きの張本人達が海面に顔を出すのに時間はかからなかった。彼らの周りに何頭ものうきくじら達が集まって、海面から顔を覗かせる。
 シロナガは同族達に潮吹きで答え、しょっぱい水がトシハル達に降り注いだ。炎タイプの鶏頭はちょっと迷惑そうだった。
「すごい……」
 海に落ちそうなほど身を乗り出して、彼らの群れを一望しながらアカリが感嘆の声を上げる。
 彼らの前に広がる碧色の海にはたくさんのうきくじらの影がゆらめいていた。
 オオスバメ、グラエナ、ライボルト、サーナイト。アカリのポケモン達も口をあんぐりとあけて、その様子に見入っている。
 うきくじらは数を増やし、シロナガを中心に艦隊を組み進んでいく。
「すごい。私、ホエルオーがこんなにいるところ見たこと無い。ホウエンにこんなところがあったなんて」
 前から、奥から、横から、碧い海に映る巨大な影の先頭から次々と潮が吹き上がる。その度に彼らは歓声を上げた。トシハルはそんな様子をずっと見守っていた。どうしてか涙が出そうだった。
 ダイズがばさりと翼を広げると、空へ舞い上がる。ニ、三周ほどホエルオー艦隊を一望するように旋回すると、瞬く間に島へと吸い込まれていく。おそらくは島民に来訪者のことを知らせる気なのだろうとトシハルは思った。もう向こうからもこちらが見えるはずだった。
 フゲイ島の集落、フゲイタウンは狭い町だ。ピジョットが知らせた来訪者のことは、瞬く間に島の住人に伝わった。
「博士の鳥ポケモンさ騒がしいぞ」
「さっき海のほうさ飛んでって、戻っできた。誰か来たらしい」
「それにしても、こんな時に、ねえ」
「まぁた迷ったトレーナーじゃながとか」
 様々な憶測が飛び交った。だが。
「ありゃ、あれはもしかしてトシじゃないのかい……!?」
 誰かが双眼鏡を持ち出して、高台から彼らの姿を確認し、言った。
「トシだって!?」
「そりゃあ確かか、お前さんの見間違いじゃあないんかい」
「次の船は十日くらい後じゃろ。トシが来れるわけねぇ」
「いや、間違いない。あれはトシじゃ。トシがホエルオーさ乗っとる。ホエルオーさ乗って帰ってきた」
「ホエルオーさ乗って? あれまー、トシさ、いつのまにホエルオー乗りさなったんじゃい」
「ありゃトシの奴、女の子と一緒に乗っとるなぁ。誰だろか。かわいい子じゃい」
「そんなことより本当にトシさ、間違いないんじゃな」
「ああ、間違いない。トシじゃ」
「おおい! 誰ぞツグミさんちさ知らせでこい! トシさ帰ってきだってな。それと……」
「それと?」
「それと……博士にもな」
「そうだな。博士さ伝えなげればな。トシさ帰ってきたってな」
 何人かが小走りに道を急いだ。
 ほどなくして、ぞろぞろと島民達が海岸へ集まった。もう島からも向かってくるうきくじらを確認できた。うきくじらが島の海岸へと近づいてくる。両者の距離が互いに近づくにつれて、彼らはお互いの姿をはっきりと認識する。
 島民達はそれがたしかにトシハルであると確信した。
 トシハル達は彼らを見る。島民達は口々に何かを叫んでいる。
 それはかつて島を出て行った者に対する拒絶の意味合いは感じられず、むしろ彼の帰郷を歓迎しているようだった。
「よかったじゃない、トシハルさん」
 そんな彼らの様子を見、アカリは言った。
「あなたが深刻そうな顔して話すから、心配してたのよ。でもこの様子なら大丈夫だよね。博士だってきっと…………トシハルさん?」
 アカリは振り返りざまにトシハルを見た。だが、島民達の歓迎ムードにも関わらず、彼はどこか影を落とした深刻そうな顔をしたまま、島民達の様子をじっと見つめていた。それは誰かの姿を探しているようにも見えた。
「ねぇ、もしかしてあの中にいたりするの?」
 と、アカリが続けざまに聞いたが、彼はずっとその方向を向いたまま黙っているだけだった。
 澄んだ鳴き声がまた聞こえてきて、ダイズが島から飛んでくる。またホエルオーの上に着地するとてくてくと歩いてきて、彼の傍らに立つと、嘴で服の袖を引っ張った。
 何をしているんだ、早く行こうとでも言うように。
「あ、ああ……。そうだね」
 と、トシハルはつたない声で言った。
 どうにも様子がおかしい、とアカリは思う。
「トシぃ、よぐ帰っできたなぁ! もうお前は間に合わないだろうって諦めていたんだ。けんど間に合ってよかった。本当によかった!」
 二人は、島民の一人がそう言ったのを聞いた。
「間に合った? 何のこと?」
 と、アカリが尋ねる。
 トシハルはまたしばらく沈黙していたが、今度はかすかに言葉を漏らした。
「間に合った、だって……? 最初から間に合ってなんて……いないんだよ」
 震える声でトシハルは言った。口を閉じてからも唇が震えていた。震え続けていた。
「どういうこと?」
 するとトシハルは自嘲するように、悲しく笑った。
「君が言うようにあの中に、カスタニ博士がいればよかったんだけどなぁ」
「だから、それってどういう……」
 ハッとしてアカリはもう一度島のほうを見る。海岸に立つ島民たちを……。
 その瞬間、彼女は気が付いた。あることに気が付いてしまった。
「トシハルさん、」
 そして、理解した。
「確かめなくちゃいけないことって、これだったの?」
 いつの間にかそう問うていた。
 ああ、どれくらいの時間が経ったろう。どれくらいの時を費やしただろう。
 と、トシハルは回想した。
 どんなに時間をかけたって、結果は同じだった。ただ、認められなかっただけだ。事実は歴然と存在していたのに。頭の中で、受け入れ拒否をしていただけだった。
 短くもあり、長くもある抵抗だった。でももうその時間は終わったのだ。結果は何も変わらない、と。
 島へ連れて行ってください。
 彼はそう依頼した。海を渡ることが出来ないから。
 でも今はこうだったのではないかと思う。
 島へ連れて行ってください。一緒に来てください、だったのではないか、と。
 道連れが欲しかったのだと思う。だって一人で行くのは怖いから。逃げ出してしまいそうだから。一人では立っていられないから。
 そうだったんだ、と彼は気が付いた。本心はそうだったのだ、と。
「会社にさ、母から電話があったんだ…………」
 と、トシハルは言った。
「それは僕にとってあまりにも唐突で、突然過ぎて、受け入れられなかった。信じられなかった。何かの冗談だって思った。だから考えないようにした。自分の目で見るまでは考えないようにしようって僕は決めた」
 トシハルは言った。アカリにそのように言った。けれど目を合わせることは出来なかった。アカリはずっと島の方向を見つめ続けていた。
 島の人々は皆一様に同じ色の服を着ていることに、彼女は気が付いていた。身につけている形はそれぞれ違うのだが、皆一様に同じ色の服を着ているのだということに。
 彼女はもう理解していた。あの日、自分とトシハルが出会ったあの日、この島で何が起こっていたのか。何の準備が進んでいたのか。
 なぜ彼は帰郷したのか。
 トシハルの独白が続いた。
「だから僕は……行かなくちゃいけなかった、確かめなくちゃならなかった」
 潮騒が、波の音が聞こえる。海と陸の狭間で響いている。
「本当はさ、いつこうなってもおかしくはないって知っていたんだ。いつかはくることだったんだ。だってあれから十年以上経っていたんだ。僕の知る博士は僕が幼いころから、僕が少年だったころから、とうに幾十も年を重ねていた人だったんだから」
 南国の太陽が差す。うきくじらの身体に彼らの影を濃く濃く刻みこんだ。ミャアミャアと鳴く海鳥の影が通り過ぎてゆく。
「いつかは来るって頭のどこかでわかっていたのに、ずっと考えないようにしてた。電話を受けたときもそうだった。認めてしまったらすべて終わってしまうような気がして」
 波が、揺らめく。白い砂浜に寄せては返す。繰り返す。
「…………だけどもう認めないといけないんだね。受け入れないといけないんだね」
 海と陸の狭間を挟んで旅人と島民は向き合っている。うきくじらの上に立ち、そこから見る彼らの衣装は黒だった。
 黒。それは悲しみ、悼み、祈りを捧げる色だ。
 島の住人達。彼らは皆、一様に黒の衣装を纏っていた。
 トシハルはくるりと方向を変えると歩いてゆき、うきくじらの背中に置きっぱなしだったキャリーバックを開く。そうして何かを取り出した。
 それはミナモのショッピングセンターで買ったネクタイだった。
 包装を開ける。そのネクタイに模様は無かった。
 トシハルは傍らに立つピジョットに、海岸に降ろしてくれないかと依頼した。
 そうして深くお辞儀をすると、アカリに詫びた。
「ごめん……こんなことにつき合わせて本当にごめん」
 頭を下げるトシハルが片手で握っているネクタイの色は黒。黒一色だった。
 黒。それは去ってしまう誰かを送るための色。
「僕は博士に会ってくるよ」
 トシハルは顔を上げるとそう言った。
「……会って、お別れをしてくるから」
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 島で育った少年は、キャリーバックから取り出した黒い色のネクタイを、締めた。



10.

 その昔、もう何十年も前のある暑い夏の日だった。
 水平線の向こうから、自前の小型船に乗って、見知らぬ男がこの島へとやってきた。
 海の向こうからやってきたその男は島の一員となることを希望した。
 昔から漁業とサトウキビ栽培だけで暮らしを立ててきた島民たちにとって、浜辺に降り立ったその男が口にした職業は聞いたこともない風変わりなものだった。
 そんな男を多くの島民達は冷ややかな目で、遠巻きに観察していた。どうせ内地の者の気まぐれだろう。一ヶ月も持たずに島からいなくなるに違いない。そう彼らは噂した。
 だが男は島に居座り続けた。
 月はやがて年に変わり、一年が過ぎ、二年が過ぎ……そして三年が経った。
 やがて島には男がいる事が、その風景が当たり前になった。
 そうして男は島の一員となった。
 男は輝く碧い海を指差し、言った。私は彼らに魅せられてこの島に来たのだと。
 ここは奇跡のような場所だ。このあたりの海域には通常考えられないほどの密度で私の求める者達が存在しているのだ、と。
 男が指差すエメラルド色の海には、ゆらゆらと揺らめく水面の網に彩られた、それはそれは大きな生き物が悠々と泳いでいた。

 少女はポケモン達を機械球に収めにかかった。足の下のホエルオーと、バシャーモとオオスバメだけを残した。次にピジョットとオオスバメが、それぞれの主を島へと上陸させる。ピジョットのほうが先に、少し遅れる形でオオスバメが続いた。遅れる形で鶏頭が、くじらの上で助走をつけ、大きく跳ねて着地する。少女はそれを確認すると、オオスバメをねぎらってから機械球に収納した。
「こちら、ポケモントレーナーのアカリさん。さっきまで乗っていたのは彼女のポケモンで……彼女のホエルオーに乗せて貰ってここまで連れてきてもらったんです」
 ピジョットのほうの主が、島の人間といくらか言葉を交わすと、そうホエルオーの主を紹介した。そうしてトシハルはアカリがどこかに泊まれるように手配すること、もてなすようにと依頼する。島民達はその依頼を快く承諾した。
 アカリはずっと黙っていた。彼女のことを横目に確かめながら無理もない、とトシハルは思う。
「そうだ。ミズナギさんは」
 と、トシハルが島民に尋ねると
「集会場にいる。博士もそこだ」
 という答えが返ってきた。
「そう、博士はそこにいるんですね」
 トシハルはそれを確認すると、歩き始めた。浜に集まった島民達が同時にぞろぞろと集団で移動しはじめた。黒い服ばかりの集団の中にあって、アカリとバシャーモの赤が一層際立っていた。
 ふと、トシハルが海のほうを振り返るとさっきまで彼らが乗っていたうきくじらが海へと戻っていくのが見えた。
 ボールに戻さなくてよかったのかとトシハルは尋ねたが、ここには仲間もたくさんいることだし、島を出るまでは好きにさせておくつもりだ、と降り立ってはじめて口を開いた。
 彼女のうきくじらは、二、三度潮を吹くと、やがて海へと消えていった。
「トシ、よう間に合った。昨日は準備やらでばたばたしとったからの。今日ちゃんと通夜祭ばして、お別れは明日の昼さやる予定だったんだ」
 集会場に向かう道がてら島民の一人が言う。
「そうでしたか……」
 トシハルは力なく、けど少しほっとしたように答えた。
 集会場はすぐに見えてきた。よくある町内会の会場程度には広い建物だった。縦に長い集会場は突端が海に向かって伸びている。一番奥の窓からは青い水平線が見えた。
 その窓のちょうど下に簡素な、けれど大人一人が足を伸ばしても入る大きな木の箱が、二つの小さな台に支えられる形で置かれていた。
 集会場の入り口に立ったトシハルの視線がそこに釘付けになった。
 傍から見ていたアカリにもそれがはっきりわかった。
 それは待ち人の寝床だった。木の壁に阻まれてその姿は見えない。
 けれどそこに納められ横になっているのはうきくじらの上でトシハルが語ったその人に違いなかった。
「お帰りなさい、トシハルさん」
 と、声がした。
 二人が振り返ってすぐ後ろを見るとその人は立っていた。
 着古された白いワイシャツの痩せた男だった。
「……ミズナギさん」
「よくぞ戻っていらっしゃいました」
 ミズナギと呼ばれた男は微笑む。木の箱のほうをちらりと見て言った。
「さ、顔を見せてあげてください。博士はずっとお待ちでしたよ」
「……ミズナギさん、僕は」
 トシハルはそう言い掛けて言葉を詰まらせる。
「さ、俺達は時間まで暇しよう」
 そう言って島民達は集会場をぞろぞろと出て行った。
 一人去りまた一人去り集会場にはトシハルとダイズ、アカリと鶏頭、ミズナギ、そして棺だけが残される。
「あ、あのミズナギさん、彼女はポケモントレーナーのアカリさんと言って……今回海を渡ってこれたのは彼女のお陰なんです」
 トシハルはたどたどしく言った。
「そうでしたか」ミズナギが答える。
「アカリさん、それは大変お世話になりました。おかげでトシハルさんは間に合いました。貴女にはお礼を言わねばなりませんね」
「いえ、その、報酬をいただいているお仕事ですから……」
 アカリは顔の両サイドに伸ばした髪を指で巻き取ると、少しばかり視線をそらした。
「ミズナギさん、彼女は水の石が欲しいんだそうです。お手空きのときにでも洞窟に案内してあげてくれませんか」
 トシハルが依頼する。「もちろんお安い御用ですよ」と、ミズナギは答えた。
「えっ、じゃあこの人が採掘の名人?」
 と、アカリが尋ねると、
「まぁ、昔いろいろやってたものですから」
 と、ミズナギは言った。
「どうですかアカリさん、なんなら今からでも洞窟に案内しますよ」
「いえ、そんなに急いでるわけでは……」
 気まずい。アカリは奥にある棺をちらりと見た。
「外からのお客様はめったにいらっしゃらないのです。だから歓迎しますよ。島もご案内したいですし」
「……」
「さ、そっちの鶏のお兄さんも一緒に」
 そう言ってミズナギはアカリとバシャーモの背中を押した。
 そういうことか、とアカリは理解する。すぐさま鶏頭に、行こうと目配せした。集会場を出る直前にトシハルのほうを少しだけ見る。黒ネクタイをつけたトシハルは押し黙って棺のほうを向いていた。
「ダイズさん、貴方もです」
 心配そうにトシハルの様子を見守っていたピジョットは、不服だとばかりに冠羽を立てたが、すぐに諦めて羽を下ろし、観念した。そうしてとことこと彼らの後ろについていった。
 途中何度か後ろを振り返ったダイズが最後に見たのはトシハルが棺に一歩二歩と近づいていき、その小さな窓に手をかけるところだった。
 ざざん、ざざん、と窓の向こうで海が鳴っている。
 天気はよく、窓から差し込む光は暖かかった。
 人が去った集会場。トシハルはその光の下で小さな窓をそっと開く。
 開いた窓のその中で痩せた男が眠っていた。痩せている。それが第一の印象だった。
 とにかくなんだか思っていたよりも痩せている。そのようにトシハルは思った。
 それは身体から熱が失われて血の気が引いてそうなったのか、それとも痩せたままにその時を迎えたのか。もはやそれを確認する術はなかった。いや、記憶は鮮やかなようで、あやふやになっているものだ。もともとこんなものだったかもしれないとも思った。けれどもやっぱりもう少しふっくらしていたよなぁ、とも思う。結局のところ結論は出ることがなく、痩せているという印象だけが彼のリアルだった。
 そのままだったのは愛用の眼鏡だった。生前と同じ状態のままかけられた眼鏡。無機物だけはたしかな客観としてそこに存在していた。けれど、違うと思い直した。だって眼鏡は外して眠るものだから、生前通りというのは違うと思った。
 よく人の死に顔は穏やかなものだと言われる。穏やかといえば、穏やかかもしれない。だがもう少し適切な言葉があるように彼は思った。あえて言うならば普通の寝顔、であろうか。行儀の良い普通の寝顔だ。ただし、その眠りは永遠で、決していびきをかくことも、寝返りを打つことも無い。それどころか寝息すら立てない眠りだった。
 指先で撫でるように顔に触れてみる。ああ、本当に冷たいものなんだ、と彼は思った。
 ――ねぇ博士、僕が島を去ってから、貴方は何を想って、何を考えて生きてきたんですか?
 二人だけの集会場。トシハルは声にならぬ問いを投げかけた。無論、返答は無い。キャモメの鳴き声と波の音だけが耳に響いている。
 どれほどの時間その寝顔を見つめていただろうか。やがてトシハルは横になって行儀良く眠る博士の隣に体育座りした。
「……博士、僕の愚かな告白を聞いてくれないでしょうか」
 天井を見上げる。彼はそこで初めて口を開いた。それは十年といくつかの時を隔てた久々の会話だった。返しの無い一方的な会話だった。
「僕はね、博士は死なないって思っていたんです。僕は島を出て、ミナモシティでポケモンとはまったく関係の無い仕事をしていて、その間も貴方は海でホエルオーを追いかけている。そういう時間がずっとずっと続くと思っていた。変わることなく続くと思っていたんです」
 彼はそのように告白した。
「だから信じることが出来なかった。母から貴方が船の上で倒れてそのまま起き上がって来なかったなんて聞いても、まったく信じられなかった。だから僕は確かめに来ました。自分の目で確かめに来ました」
 熱中症だろうと、母は言っていた。ホウエンという地方が今年のポケモンリーグを終えて、その熱は冷めかけて、時期的に夏は終わりに差し掛かっていた。けれど、ずっと暑い日が続いていた。
 空から戻ってきたダイズがけたたましく鳴いた。船を操縦していたミズナギがそれに気が付いて駆けつけた時は既に手遅れだった。だが、それは研究者としては理想的な死に方だったかもしれないとトシハルは思う。最後の最後まで博士は現役だった。現役を貫き通して、博士は死んだ。
「もちろん、知ってはいたんですよ。人はいつか死ぬ。今は永遠に続かない。でも知っていることと理解していることは違う。分かっていることと身に染みていることは違うんです。僕は知っていても理解はしていなかった。分かっていても、身に染みてはいなかった」
 ああ、何を言っているのか! トシハルは心中で叫んだ。
 こんなものは言い訳だ。全部言い訳だ。間に合わなかったことへの言い訳だ。
「僕はいつだってそうだった。子どものころは子ども時代が永遠に続くと思っていたし、貴方を手伝うようになってからは、こういう日々がずっと続くと思っていた。その時ごとにそう信じていたんです。僕は与えられるがままだった。そのままでいればいいと思っていた。いつまで経っても少年のままだった」
 だが世界は変わっていくように出来ていた。島の人々が年々少なくなっていくように。遠くの地方からカフェチェーンが進出するように。新しいショッピングセンターが立つように。古くなった戦隊モノが今にあわせてリメイクされるように。
 変化。それは世界の法則だ。抗いようの無い法則。けれどそれはトシハルの観念と相容れないものだった。ある方向に向かい、伸びる二つの線。理想と現実。はじめは小さな距離だったそれは平行線をたどり、時が経つうちに開いていった。欲するモノがあるならば年相応に変わっていかねばならなかったのに。皺寄せは大学に入った頃にやってきた。
 それで少年は壊れてしまった。耐え切れなくなってしまった。
 だから少年は逃げ出した。いつのまにか開いてしまったその差を直視することが出来なくて。
「博士……貴方はきっと僕を許してはくれないのでしょうね」
 身を丸めて座り込む。その横にある木の箱に彼は言った。
 これは罰だ。変わっていく世界から目を逸らし続けた罰。
 ああ、馬鹿だ。本当に馬鹿で愚かで救いようが無い。そもそも自分なぞお呼びではないのだと彼は思った。死んで口無しになった相手に言い訳だけ撒き散らす自分はどこまでも臆病者で、卑怯者だ。

「ええっ、じゃあトシハルさん、アカリさんに何の説明もしていなかったんですか?」
「ええ、まあ……島に行きたいってことだけでしたね」
 まだ慣れない。鶏頭やダイズと共に舗装されない島の道を進みながらアカリは緊張気味に答えた。
 海沿いの細い道。アカリの歩くすぐ右で海が輝いている。まぶしい日差しに目を細めながら海を見ると遠くに鯨影が小さく見えた。ホエルオーの一大生息地だとトシハルが説明した通りだ。
「それは本当に申し訳ありませんでしたね。島に着いた途端、みんな黒装束だったんじゃあ、さぞ驚かれたでしょう」
「ええ……まあ」
 アカリは歯切れの悪い返事をした。
 博士がいるということは聞いていた。まさかああいう状態だとは思っていなかった。
「本当に、悪いことをしましたね……」
 ミズナギは頭を下げる。
 そんな、いいですから。そういう感じのジェスチャーをとってアカリは首を振った。
「どうか許してあげてください。トシハルさんはきっと混乱されていたんだと思います。なにせいきなりでしたから」
「……はい」
 アカリは静かに返事をした。
 確かにロクな説明もせずこういうことに付き合わせたトシハルに対し不満を感じなかったではなかった。だがそれは何か怒りとは違う感情だったと思う。尤も本来あったはずの不満のようなものもトシハルのあの様子を見ていたら、すぐに失せてしまったというのが本音だった。
 正直、見ていられなかった。
「すでにご存知かと思いますが、ここは定期便の本数が少なくてね。だから、もうお別れには間に合わないだろうってみんな諦めていたところなんです。本当は待っていてあげたいですけれど、いつまでもそのままにしておくことも出来ないし……」
「……はい」
「結構多いんです。本土に渡った親類が死に目に会えなかったり、顔も見れないってことがね。貴女という方の助力を得られたトシハルさんは本当に運がよかった」
「…………」
「昨日は仮通夜……といってもみんな準備でバタバタしていてね。今日ちゃんとした通夜祭を開く予定です」
 ミズナギは行程を説明し、再び歩き始めた。
「お別れは明日の昼からです。この島には火葬場なんてないからみんな水葬になるんですよ。みんなで船で沖へ出て、棺を沈めるのです。この島の人たちは昔からみんなそうしてきた」
 そうして細い道は下りに入ってさらに細い道になった。アカリは木の根っこの階段を踏みしめながら下っていく。ダイズがばさっと飛び立った。行く場所がわかっているのだろう。
 五分ほど行くと、少し開けた小さな砂浜に出た。彼ら以外に人はいなかった。
 わあ、とアカリは小さく声を上げた。岩壁に囲まれたこの小さな砂浜は言うなれば秘密のプライベートビーチといったところだった。先ほど飛び立ったピジョットが一足先に待っていた。白い砂浜に小さな波が打ち寄せては引いていく。こういう島であの人、トシハルは育ったのだな、とアカリは思った。
「アカリさん、こちらです」
 ミズナギが言って、岩壁に口をあけた洞窟を指差した。
 入り口は畳二枚分ほどの大きさだろうか。アカリ達が入っていくと、カサカサと音を立てながら一匹のヘイガニが奥へ退却していった。
「大潮の時になるとここまで海水が入ってくるのですよ」
 ミズナギが言った。
 彼は懐中電灯を取り出す。ゴツゴツとした凹凸のある足元に注意しながら、進んでいくと、カチリとスイッチを入れた。洞窟の壁を照らす。時折、碧いものがキラリと光った。
 ミズナギがピッケルとハンマーを取り出す。
「さあ、アカリさんどれにしましょうか。それともやってみます?」
 アカリが頷いたので、彼女にも同じものを渡すと岩壁を崩しはじめた。カツン、カツンという音が洞窟に響いた。
「前に一度化石が出たことがあってね。壊さないように周りを崩すのには結構気を遣いました」
 ミズナギは壁を崩す。口を動かしても手を動かすことを忘れなかった。
 トシハルが採掘の名人と言っただけあってその手際のよさは格別だった。みるみるうちに周りの不要な岩が削られていき、碧く輝く石が露わになっていった。
 ガキンと最後の一撃を食らわせる。ポロリと彼の手中に石が落ちた。
「一個目です」
 ミズナギが石を掴み得意げに言う。アカリも負けじと岩壁を叩いた。なかなかミズナギのようにはいかない。コツをつかめばなんてことはありませんよ、とミズナギが笑う。
「そうそう化石って言えば、シンオウって地方に行くとこういう場所がたくさんあってね。化石もたくさん出るんですって」
「シンオウ……」
「ホウエン地方がこの国の南端なら、あっちは北端ですね。生息するポケモンもずいぶん違うそうです。アカリさんはトレーナーだから一度行って見るのもおもしろいかもしれませんね」
 そう言って彼は二個目の採掘にかかった。ピッケルを壁に突き立てる。再び洞窟に音が響いた。何が面白いんだという感じで鶏頭は退屈そうに見ていたが、二人はしばしそれに熱中した。
 急いでいないなどと言ってしまったが、来て正解だったかもしれないとアカリは思う。あのまま葬式気分でも気が滅入るばかりだったろうから。ミズナギの心遣いに彼女は感謝していた。
「私にとっても博士は恩人なのです」
 と、ミズナギは言った。
「昔ちょっといろいろありましてね、行く当てもなくて島に流れたついた私の面倒を見てくれたのが博士だった。思えばあの頃からもうトシハルさんは博士にくっついて回っていたな」
 ミズナギは懐かしむように昔を語った。
「だからね、私は嬉しいんです。貴女がトシハルさんを連れてきてくれて」
 ミズナギがアカリを見た。今度は手を動かさず、そう語った。
 アカリが石を二、三採掘したところで、彼らは洞窟から切り上げた。その間にミズナギは十個くらいを余裕で掘り出しており、麻の袋に入れると、アカリに渡してくれた。こんなにいいのだろうかとアカリは思ったのだが、トレーナーさんじゃないと使わないからとミズナギは言った。
 洞窟を出る。鶏頭があまりに暇そうだったので、遊んで来いと言って他のポケモン達と一緒に洞窟の外に出しておいたら、砂浜がバトル場と化していた。ダイズに擦り寄るレイランを尻目に、二対二に分かれた獣組と人型組が互いに技を繰り出していた。目の前で上空から振り下ろしたブレイズキックが炸裂し、砂浜の砂が舞い上がる。見れば砂浜のあちこちが穴だらけになっており、アカリは急いでそれを埋めさせた。
「本土のトレーナーさんはワイルドですねぇ」
 そう言ってミズナギは笑い、アカリは苦笑いした。もう、油断も隙もないんだから、と砂浜を埋め終わると急いでポケモン達をボールに戻す。ダイズがやれやれと言った風に足でばりばりと冠羽の付け根を掻いた。
「……あの……お別れは明日のお昼でしたっけ」
 静けさの戻った砂浜でお茶を飲んでいると、不意にアカリが尋ねた。
「ええ、そうですが」
 ミズナギが答える。
「でもアカリさんはいいんですよ。どこかでゆっくりしていらっしゃったら」
「でももう目的のものは手に入れてしまったんです」
 麻袋に入った水の石をゴロゴロさせてアカリは言った。
「いえ、お邪魔ならいいです。私は部外者だし。……でも、なんか気になってしまって」
「トシハルさんが?」
「……まあ……、そんなところです」
 アカリは麻袋から碧い石を一個取り出す。光の下で透かして見てみた。取り出したのは自身が採掘したものだった。掘り出すのがへたくそだから傷だらけだった。
「お優しいんですね?」
 とミズナギが問いかけるように言った。
「暇なだけです」
 と、アカリは答えた。
「部外者だなんて思ってませんよ。貴女はここまでトシハルさんを連れてきてくれた。だから部外者なんかじゃありません」
 日差しが強い。水筒から冷たい茶をもう一杯注いでミズナギは言った。
 ピジョットがばさりと飛び立った。水平線の方向を見る。小さく、小さくだが二匹のホエルオーが横切っていくのが見えた。

 落ちる日が島から見える水平線を赤く染める頃、集会場に人が再び集まりだした。
 黒い服を着て訪れたその多くは大人、それも四十や五十、それ以上の者達だった。子連れや若者は少なかった。
 この島に寺は無く、代わりに島の神社の神職がやってきて、神道式の通夜祭を執り行った。参列者は神職から島に自生する木の枝の玉串を受け取ると作法に従いそれを回し、玉串(たまぐし)案(のあん)に置いていった。二回礼をし、しのび手で二回、かしわ手を打つ。そうしてさらに一礼。参列者が入れ替わるたびに同じ動きを繰り返した。血縁者のいない博士の遺族席、神職の意向でそこに座ったのはトシハルとピジョットのダイズだった。
 玉串が積み重なってゆく。トシハルは参列者に何度も何度も頭を下げた。
 そうして通夜祭はしめやかに執り行われていった。


  [No.2740] 少年の帰郷(11)〜(13) 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/21(Wed) 18:42:55   160clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

11.

 太陽が南に高く昇っていた。
 立派な体格の男達が博士の棺を運び出す。多くの島民達は船付場に集まると、それぞれが小型の漁船に乗り込んだ。
 エンジンがかかる。最初に博士を乗せたボート大の船が出発すると、後から他の船達が波を切裂きながら走り出した。
 この島では誰かが死ぬと島からしばらく走った沖合いに行き、そこに死者を沈め、水葬を行ってきた。だから島には火葬場が無い。ホウエンの離島やサイユウ付近では珍しいことではなかった。旧い時代、海の信仰の影響下にあった彼らは母なる海に自らの身を還すことを良しとした。今ではだいぶ減ってしまったものの、海を信仰した民族の末裔である彼らの一部はその伝統を受け継いだ。それは資源の限りある島における彼らなりの工夫でもあった。
 今日、海に沈むカスタニは島の生まれではない。だが天涯孤独の身であった彼は、生前からフゲイ島式の葬儀を強く希望していたという。自分には生まれ故郷の縛りは無いから。私の終の棲家はここだから。彼はよくそう言っていたという。島民達もそれをよく知っていたから、手続きはいつもの島式に滞りなく行われた。
 人々は朝食を済ますと、海岸に繰り出した。そこで彼らは花を探した。橙色のユリであるハマカンゾウ、濃いピンクの可憐な花を咲かすハマナデシコ、上品な白のコマツヨイグサ――岸に咲く様々な海岸植物の花を摘み集め、去る者への手向けとした。出棺するその前に、島の住人達は一人、また一人、棺に花を入れていった。トシハルが入れ、ミズナギが入れ、アカリが入れた。ダイズも一輪入れた。棺の中が花で満たされると、彼らは棺に釘を打った。それが終わると、棺が男達によって運び出され、小さな船に乗せられた。
 博士を乗せた船が走っていく。同じ船にトシハル、それに昨日の通夜祭を行った宮司姿の神職など限られた数人が同乗していた。アカリとミズナギはその様子を別の船で追いかけながら見守った。
 島が見えるくらいの、ぎりぎりの沖合いで船は止まった。博士の船の上で神職が御霊の食事である餞を出し、故人に差し上げる儀式を行った。それが終わると祭詞(さいし)奏上(そうじよう)を行った。故人の略歴を神道作法の下に読み上げる行為だった。次に行ったのは誄歌(るいか)奏楽(そうがく)、故人を慰めるしのびうたの奏楽であった。神職が笛を取り出し吹くと、その見習いの出仕が太鼓を叩いた。笛が奏でるのは旧い旋律だ。それは古来より島に伝わる海の音楽だった。その音が鳴っている間、島民達が手を合わせた。
 神職が口から笛を離す。音が止む。男たちが棺を持ち上げる。棺を頭のほうから徐々に水に浸からせた。棺の横に開けられた海水の進入口から海水が入り込み、棺の中へ流れ込んでいく。
 トシハルは押し黙ってそれを見つめていた。
 そうしてかつて博士が言った言葉を思い出していた。

「ねぇ、博士はどこかに行ったりしないよね」
 島から若者が出て行ったあの日、少年は博士にそんなことを聞いたことがあった。
「なんだお前、そんなこと心配してたのか?」
 そう言って、博士と呼ばれた初老の男性はまだ幼いトシハルの頭を撫でた。
「私はどこにもいかない。ずっとここにいる」
 そう、博士は続けた。
「トシハル、私はどこにも行かない。この島に生きて、この海に身体を還すつもりだ。この島の人達が代々そうしてきたように」

 ああ、これは覚悟だったのだ、とトシハルは今更に理解した。
 あの頃からもう博士は自らの生き様を決めていた。死に方を決めていたのだ。
 頭から入れた棺が十分に重くなると、やがて足のほうまで海水に浸からせて、棺は完全に彼らの手から離れる。沈みやすいよう二重構造の下段に石を敷き詰めたその棺はほどなくして水底へ落ちていき、見えなくなった。
 神職は島を出る前に棺を沈める作法を説明していた。海面を鏡に見立てるのです、と彼は説いた。そう考えると海に沈むことは、天に昇ることと同義になります。ですから頭のほうから沈めるのもそういうことです。頭から天に昇っていくという発想がそこにあるのです、と。
 碧の海に沈んだ棺はもう見えない。もう手が届かない空へ昇っていったのかもしれない。そのようにトシハルは思った。
 再び島民達は手を合わした。神職が餞を海に撒く。次いで酒瓶を開ける。島で育ったサトウキビを黒砂糖へと加工し、それらを醸造した黒糖焼酎だった。神職は瓶を振るようにして中身を海へ流し込む。黒糖で出来たその酒は生前の博士が好んでよく飲んでいたものだった。
 シュゴッ!
 突然近くで潮吹きの音がして彼らは振り返った。見ると大きな影が水面に浮かんでいた。
「ホエルオーだ!」と、誰かが叫んだ。
 近い。一匹のホエルオーが船団のすぐ近くまで寄ってきていた。
 海面に半分ほど身体を出し、ホエルオーがじっとこちらの様子を伺っている。
 トシハルはその個体を見る。Y字の尾鰭にサメハダーの仕業と思しき噛み傷がついていた。
 あっ、こいつは192(イチク)番(二)じゃないか。
 とっさにトシハルはそのホエルオーを個体レベルで判別した。この傷は間違い無い。博士は見つけたホエルオーに番号で名前をつけ、個体識別をしていた。そのうちの何頭かは分かりやすい目印があるから、ぱっと見て分かるのだ。船を走らせていると時々近づいてくる好奇心の強い個体だったから尚更だった。
 そんなイチクニだからしてきっと博士の顔だって覚えていたに違いない。だから気が付いていたのかもしれない。ここ数日博士が船に乗って海に出なかったことを。そして生物的な何かでもってこの状況を悟ったのかもしれなかった。
 トシハルはなんだか情けなくなった。自分にはイチクニに向き合う資格が無い。かける言葉がない。そう感じてずっと下を向いていた。
 ホエルオーはしばらくじっと船団を見ていたが、やがて方向を転換する。その余波で少しばかり漁船が揺れた。彼は沖合いへゆったりと泳いでいった。そうして何十メートルか離れたところまで行くと身体をひねり、巨体を中空に出すとブリーチングをした。海面が巨体に叩かれる。大きく高く水が上がって、おおっと人々が歓声を上げた。
 もしかしたらイチクニなりに博士を弔っているのかもしれない、とトシハルは思った。
「……さすがはクジラ博士の葬儀でございますなぁ」
 トシハルの隣で神職が感慨深そうに呟く。その上空でダイズが輪を描き、飛んでいた。
 船が再び島へ戻り、人々は散っていった。だが、それで終わりというわけではなかった。彼らは各家庭に戻ると仕込んでいた料理を温めたり、仕上げたりした。そうして日の落ちる頃になってまたぞろぞろと集まりだした。
 ある家庭は鍋物を持ち込んだし、ある家庭はご飯ものを持ち込んだ。また、ある家庭は魚料理だった。バイクに乗って、黒糖焼酎を持ち込んだのは島の酒造所の息子だった。彼らは通夜祭を行った集会場に御座を敷き、小さな低いテーブルをいくつも並べた。各家で用意してきた料理を持ち込んで、そこは直(なお)会(らい)の場となった。
「さあさあ、どうぞ一杯」
「これはどうも」
 島民達は酒を酌み交わす。そうして故人の思い出話に花を咲かせた。
「博士は結局いくづだったん」
「たしが九十だったと思ったがね」
「九十! そんりゃあ大したもんじゃ。大往生じゃなあ」
「学者ゆーんは好きなことさしとるけんの。長生きだって聞いたこどあるべ」
「そーいやあ、あん人がやってきた時も夏頃だったわ。えれー暑っちい日だったの」
「ああ、そうじゃった。あん頃ァ随分ウワサになっとったわ」
「アンタじゃなかったが? 一ヶ月もしたら帰るだろうっつったんは」
「そんなごとば言っとらん」
 思い出話は自然と進んでいく。酒も手伝って会話は大いに盛りあがった。
 元来博士は島の人間ではなかった。だが、島の人々に愛されていた。その光景を見てトシハルは少しだけ救われた気持ちになった。
 酒の勢いは止まらない。トシハルやアカリに飛び火するのにも時間はかからなかった。
「おい、トシい! ちょっとこっち来いや」
 と、いうような感じでトシハルは真っ先に巻き込まれたし、
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ。いくづなん」
「どこから来たん?」
「トシとはいつ知りあったん?」
 などとアカリは質問攻めにあった。
 さらに人波を掻き分けてやってきたのは島の子ども達だった。
「あっ、いたいた! このおねえちゃんだ!」
 などと一人が叫び、それにつられて何人かが集まってきた。アカリは袖を引っ張られせがまれた。
「ねー、おねえちゃん、トレーナーなんでしょ!?」
「ポケモン見せて!」
「見せてー」
 島の噂の広がりは早かった。うきくじらに乗ってポケモントレーナーがやってきたという噂はすでに島中に伝わっていたらしい。子ども達にせがまれてポケモンを出したのがさらにまずかった。
「おうおうにいちゃん、いけるクチだねぇ」
 などと言われ鶏頭は絡まれて、酒を飲ませられた。
「お姉さん、美人じゃの。うちの息子とどうだね」
 などとサーナイトが縁談を迫られる始末だ。
 オオスバメのレイランはあっちこっちで翼を広げリボンを見せびらかしているし、ライボルトとグラエナの獣コンビが酒ですっかり出来上がってしまい気持ちよさそうにひっくり返った。失敗した、とアカリは思った。
 さらに、島の老女がアカリに追い討ちをかけた。
「トシが連れてきたっつー嫁さんはあんだか? んでー、式はいつかねェ」
 などと尋ねてきたものだからアカリは参ってしまった。
 そのような関係ではないと説明したものの、島の老人にはそのあたりのニュアンスがちっとも伝わらない。酒が入っていた所為もあるのだろうが。
「むがし使った衣装もあるでなァ、貸してやってもええぞい」
 などと言われ、アカリはただただ苦い愛想笑いを浮かべた。
 アカリが島の老女に手を焼いているその向かい側にはトシハルが座っている。時々島民達が、話しかけるが、心ここにあらずといった感じで生返事をするばかりだった。皿に盛り付けた精進落としの料理にはほとんど箸がつけられていない。置かれたグラスにも注がれるだけ注がれたままの黒糖焼酎がそのままになっていた。島の者が注いでもトシハルが飲まないから、いつまで経っても変わらなかった。
 神道の考えでは死は「穢(けが)れ」だ。それは表面的な不潔、不浄を意味しない。生命力が損なわれた状態、すなわち「気枯れ」と同義だ。死は悲しみによって人を気枯(けが)す。だからそれは穢れと呼ばれる。
 明らかに気を枯らしているトシハルは空を空しく見つめ、語らない。向かいに座るアカリは、ときどきそれをちらちらと見ていたが、彼女もかける言葉が見つからなかった。トシハルの隣でピジョットのダイズが心配そうに主の顔を覗き込んでいる。
 するとそこへ割って入る者があった。白髪の、けれどしっかりとした体格の老人だった。老人がトシハルの横へすっと座った。
「よおトシ、久しぶりじゃの」
 赤い顔をした男はやはり焼酎のグラスを片手に持っていた。
「あ、町長さん」
 トシハルは我に返ると向き直り、少しかしこまって挨拶をした。
 どうやらフゲイ島の集落、フゲイタウンを取り仕切る人物であるらしかった。
「これはどうも……ご無沙汰しております。昨日はろくにご挨拶も致しませんで」
 彼は急に日常に戻されたように言葉を発した。
「気にすることはなか。みんなおめェは来れんだろと諦めてたとこだったからよ。ほんまに帰ってこれていがったわ。母ちゃんと父ちゃんもひさびさに会ったから安心したべ」
「ええ、博士に顔を見せてから……結局ちゃんと顔を合わせたのは通夜祭の終わった後でしたけれど」
 トシハルはうつむき気味に言った。
「ん……そうか、そうか」
 町長はうんうんと何度も頷いた。
「んで、本題だがなぁ。実はお前に博士からの預かりモンがあってよ」
「え……。僕にですか」
 トシハルはにわかに顔を上げた。向かいからその様子を伺っていたアカリは料理をつつきつつ、彼らから注意を逸らさぬようにする。
「ニ、三年か前に渡されてたねん。ま、博士もだいぶ歳だったからの。いろいろ考えてたんだと思うわ」
 町長が続ける。トシハルに差し出されたのは丈夫そうな厚い紙で出来た小さな封筒だった。
 封筒には博士の印鑑で封がしてあった。表面に手書きで「継海俊晴殿」と書かれている。見覚えのある字。間違いなく博士の字だった。
「博士は預かれとだけ言ってきたが……まぁ、いわゆる遺言ってぇヤツだな。中身は知らん。わしは預かっただけだけん」
「博士が、僕に……?」
「まあ、博士の研究つってえも、扱いがわかるんはおめーだけだしの」
「……」
 トシハルは封筒を見つめたまま再びうつむいた。
 そんなことは無い、という気持ちがあった。島の人間は知らないのだ。この広く大きな世界には優秀な人間などいくらでもいるのだ。自分は特別などではない。あそこに自分が立っていたのはたまたまだ。
 何より自分は逃げ出した。博士の下から逃げ出した人間なのだ、と。
「そらおめーが島出て何年かはカントーやらジョウトやらの大学生ば受け入れとったがの。数年前にそれもやめちまった。ま、だいぶ歳だったしの」
 町長は続ける。ここ何年かはミズナギに頼んで船を出していたらしい。博士はたった一人で船の甲板に立ち、うきくじらを追っていたらしかった。
「まあ、とにかく渡すもんは渡したからよ」
 と、町長は言った。近いうちに開けて確認してくれ。あとはお前に任せるから、と。
 そうしてしばらくの間、世話話をすると町長は去っていった。
 トシハルはずいぶんの間、封筒に書かれていた名前を無言で見つめていた。が、やがてふらりと立ち上がりそっと直会の場を後にした。次いでピジョットが集まった黒い服の人々の間を縫うようにし、とことことくっついていくのが見えた。
「バク、あんたは適当に飲んでていいわ」
 アカリはテーブルに突っ伏してぐったりとしている鶏頭に告げる。この夏、激戦のリーグを勝ち抜き、駿足の猛火と恐れられたバシャーモと同じポケモンとは思えぬ泥酔ぶりだった。元々顔が赤いのでどの段階で酔いが回ったかもよくわからない。ただあまり強くはなさそうだと「おや」であるアカリは思った。
「悪いけどお守りをよろしく」
 情けない姿の鶏頭とは反対に、一升瓶二本を空にしてケロリとしているサーナイトにそう告げるとアカリも直会の場を後にする。集会場を出てそっと彼らの後をつけることにした。







12.

 終わりに近づいた夏の夜の下、チリチリと虫が鳴き始めていた。
 街灯の灯らない暗い道をトシハルが歩いていき、ピジョットがとことことついて行く。夜空を見上げると、島の突端で灯台の光が回転しているのが見えた。
 何を目指して歩いているかもよくわからなかった。ただあの場で封を切ることが躊躇(ためら)われ、人気の無いところに行きたいと彼は思った。道行く間、トシハルは手に握る封筒の所在を何度も何度も確認した。
 石垣の並んだ道を通り過ぎ、海を横目に見ながら緩やかな坂道を上った。何十メートルか後ろからアカリがついてゆく。見失いそうになりながら一人と一羽を追いかける。
 バサバサッと何かが横を通り過ぎた。
「なんだ。ズバットか」
 彼女は少し驚いたが、すぐにその正体を知ってほっとした。ポケモン達を集会場に置いてきてしまっていた。尤もこういった離島に強力なポケモンがいるとも思えなかったのだが。
 翼の音が通り過ぎて、再び虫の音だけになる。アカリは再びトシハルの姿を追った。
 結局、三十分あまり歩いただろうか。一人と一羽、そしてそれを追う一人が辿り着いたのは島の小高い丘の上にある神社だった。浮鯨(ふげい)神社。この島の産(うぶ)砂(すな)神(がみ)、島(しま)鯨(くじらの)命(みこと)を祀る社だ。あたりはすっかり暗かったが、神社の拝殿に続く石の階段を一対の灯篭が照らしていた。
 丘の緩やかな石段をトシハルが上がってくる。ダイズがぴょんぴょんと後に続いた。トシハルは右脇にある手水(ちようず)舎(や)に立ち寄ると、封筒をダイズに預け、柄杓(ひしやく)を持ち、左手からかけはじめた。普段は神社に行っても手水などしもしなかったが、さすがに葬儀の後だからという気持ちが働いたようだった。
「あ、アカリちゃん」
 そこまできてやっと後ろをつけてきた存在に彼は気が付いた。アカリが緩やかな石段を上り、神域の入り口である神明鳥居をくぐって姿を現したからだった。
「ごめんなさい……何か気になっちゃって。その」
 神社までは一本道だ。なんとなく内緒でつけてきてしまったもののここまでだろうと、さすがにアカリも観念した様子だった。
「邪魔だったら戻るけど」
「いや、いいよ」
 アカリが来た方向をちらりと見つつ伺いを立てると、トシハルはそう答えた。あの場で開きたくなかっただけなのだ、と。
 手水を終えると、拝殿に登る。からんからんと鈴を鳴らして、トシハルは手を合わせた。
「願い事?」
 アカリが尋ねる。
「特に無い。ただなんとなくだよ。……でもそうだな、導いて欲しいのかもしれない」
 と、トシハルは答えた。
 電気式の灯篭がブブブ、と点滅しながら淡い光を放っている。トシハルの影が大きく、点滅しながら拝殿の平入りに映し出された。
 この社で祭祀されている産砂神、島鯨命は遠い昔、うきくじら、たまくじら達を引き連れ、この地に降り立ったのだと伝えられている。うきくじら達はその昔、もっと内地に近い海に暮らしていた。けれど人間達が本来約束された数以上にくじら達を獲るようになった。見かねた島鯨命はくじら達を引き連れて、新天地を探す旅に出た。旅路の果てにたどり着いた場所がここ、フゲイ島の海域であるのだという。
 だからこの社の神様は導きの神様なのだ、と島の神職はよく言っていた。産砂神はその土地の守り神で、島に生まれた人々を誕生の瞬間から見守ってくれている。人生で岐路に立った時はその力を貸してくださる。生を全うした時には祖霊の世界へと導いてくれるのだ、と。
 ふざけた話だと彼は思う。自分は島を出た。神様が選んだこの土地で生きる未来。それに希望を抱くことが出来なくて、逃げ出した。その自分が導きを求めて、神頼みをしているのだ。情けない話ではないか。なんとも愚かで滑稽ではないか。
 それにしてもまた減ったのではないか、とトシハルは思う。思えば昔からその兆候はあった。そして自分が島を出た約十年前も、今も、人の流出は止まっていないようだった。若い者はみんな島の外に飛び出していってしまう。昨日の通夜祭に出席した人々、今日の水葬や直会に参加した人々に手や顔に皺を刻んだ白髪交じりの者のなんと多いことだろうか。
 変わっていく。望む望まざるに関わらず移り変わっていく。ずっと同じでいることは、出来ない。
 トシハルは二礼をするとパンパンと二回手を打った。さらに一礼をする。
「すみません。少しばかりこの場をお借りします」
 ぼそりとそう呟いた。
 そうして彼らは拝殿に続く階段に腰掛けた。灯篭の光を効率よく受け取るにはそこがよい場所だったからだ。
「博士からの手紙なんですって?」
 アカリが確認をする。
「どうやらそうらしい」
 と、トシハルは答えた。
 二人と一羽はトシハルを中心にして座り、封筒に注目した。
 トシハルが慎重に封を切る。丈夫な紙で出来た封筒はきれいに破くのに少々難儀した。結局、上部の封ごと切り離したその切り口はジグザグマがあっちこっち歩いたような形になった。細い封筒のその口に指を突っ込んで中身を引き出す。それはまるで神社でおみくじを引く感覚に似ていた。
 取り出したのは一枚の紙だった。端と端を合わせて折りたたまれたそれをトシハルは開く。紙の面積の割りに中の文は簡素だった。

 継海俊晴へ
 封筒に入ってるキーをお前にやる。
 そいつで開いたところに入ってるものもお前にやる。
 お前の好きなようにするがいい。
                           □□□□年○月×日 糟峪忠俊

「…………?」
 おみくじの結果より少ない文章量、はっきりとしない文面。名前に少し被さるようにして小さな判が押されていた。二人と一羽が顔を見合わせる。
「キー?」
 トシハルは封筒を逆さにして、口を地の方向に向ける。ポトリと何かが落ちた。
 そうして彼は自らの右手の平でそれを受けとめた。小さな鍵だった。
「何の鍵?」
「わからない」
 アカリが尋ねると、トシハルはそう答えた。
 馴染みのある鍵というのはいくつか思い当たる。たとえば実家の鍵、博士の研究所の鍵、それに博士所有の小型船の鍵――しかし封筒から転がり落ちてきたこれはそれのどれにも当たらないように思われた。
「本当に心当たりはないの?」
「ないな。見たことも無い鍵だよ。ダイズ、お前知ってるか?」
 トシハルは念のため聞いてみたが、ピジョットはクルルゥ、と鳴いて首を傾げるだけだった。
 親指と人差し指でつまみあげたそれを、灯篭の逆光に晒す。えらく不可解な遺言(メツセージ)だと思った。
「知りたければ、探すしかない……か」
 トシハルは呟く。そうしておそらく何かがあるとすれば差し当たり研究所だろうとも考えた。
 博士の意図がよく分からなかった。だが、入っていたものが研究所の鍵でないとすればそういうことなのだろう、とも彼は思った。期待などしていなかった。していなかったはずだ。逃げ出した自分、裏切った自分に資格などないのだから。
 けれど知りたいとも思った。鍵で開いたその先にあるもの。それが自分に何をもたらすのかを。
 博士はもういない。旅立ってしまった。行き先は海の底か、はたまた鏡写しの天界か。
 情けない話だ。それでもまだ、博士に与えられることを望んでいる。博士が道筋を示してくれると期待している。
 もと来た方角を見ると、行きも見えた灯台が回転しながら光っていた。自分の居場所はここだと告げる灯台。行くべき方向を告げる灯台――。
 導きが必要なのだと彼は思う。船に灯台の灯りが必要なように、導きが要るのだと。










13.

 少年の家にあるテレビは旧式だった。音が悪いし、よくノイズが走った。
 尤も少年は幼い頃はそれが当たり前だと思っていたので、気にも留めなかったのだが。
 あの頃の日曜朝は楽しみな時間だった。時間になると少年はテレビの前に正座待機した。毎週楽しみにしている番組があったから。
 進化戦隊ブイレンジャー。
 五人の男女が五色の戦士に変身し戦う戦隊活劇、特撮モノだ。数ある戦隊モノの中でも爆発的な人気になったシリーズで今はリメイク版が放送されている。
 炎を操る熱きブイレッド、水を操る麗しきブイシャワー、雷の戦士高速のブイサンダー――中でも少年が特に好きなのは漆黒の戦士ブイブラックだった。イーブイの進化系、ブラッキーをモチーフにしたブイブラックのクールな戦いに彼は夢中になった。

 むしゃ。
 アカリは朝食に出されたナスの漬物にかじりついた。出された味噌汁をすすり、白いご飯にパクつく。海風の心地よい畳敷きの和室、突然の来客にあてがわれた民宿の一室で彼女は朝食を摂っていた。
 同時に彼女は朝のテレビ番組を見る。トレーナーになってからというもの、彼女の曜日感覚は薄れていった。だが、それはテレビ番組によって補正されるようになっていた。朝に戦隊モノといえば日曜日に決まっている。それは地方によって異なるのだろうが、少なくともアカリの中ではそうだった。
 進化戦隊ブイレンジャー エボリューション。
 バックの激しい爆発と共にテレビに踊った題字にはそう書かれていた。アカリ自身はよく知らないが、かつての人気シリーズ、そのリメイクらしい。新たな戦士を二人加えて臨む意欲作だ。テーマソングが流れ、各色の戦士が決めポーズをとる。今日も悪の組織が何かを企み、怪人を送り込む。戦士達は協力しながらそれをやっつけるのが毎回のパターンだ。
 今週の敵はフーディンモチーフの怪人、フーディーニだ。化学教師に化けたフーディーニは頭をよくしてあげよう、ポケモンバトルも勝てるようになるなどと言い、体液から作った怪しげな薬と自作マシンで少年少女とそのポケモン達を洗脳していく、というものだった。強力な念力に苦戦する戦士達。だがそこにブイブラックが切り込んでフーディーニを真っ二つにした。ブラッキーの力を宿すブラックにエスパータイプの技は通用しない。炸裂する必殺技。激しい爆発音。怪人は跡形もなく消し飛んだ。エンディングのクレジットが流れ、次回予告。今週の放送はここで終わった。
 彼女はチャンネルを変更する。局番の若いチャンネルでは国営放送が天気予報を流していた。
「ホウエン地方は本日は朝昼共に晴れ模様でしょう……」
 と、国営放送は告げていた。続きがあったようだが、アカリはそこでテレビを切った。
「ごちそうさまでした」
 彼女は台所に食器を下げると、一旦部屋に戻りトレードマークの赤いバンダナを締めた。黄色いポーチを腰につけ、古ぼけたタイルを敷き詰めた玄関で靴にかかとを入れていると
「あら、アカリちゃんお出かけ?」
 と、声がかかる。旅館の女将だった。
「ええ。ちょっとそこまで」
 アカリは返事をする。
 島では色々な意味ですっかり有名人になってしまったアカリは島民達の注目の的だった。
 足を靴に押し込んでかかとを入れる。コンコンと地面を靴で叩いた。女将がにこにこしながらその様子を見守っていた。
「私にもねぇ、娘がいるのよ」と、白髪交じりの女将は言った。
「今は結婚してカイナシティにいるの。元気にしているかしらねぇ」
 そう言って女将は少し寂しそうに笑った。

 トシハルとの集合場所は港の船着場だった。
 日光が降り注ぐ民家の石垣の塀に囲まれた道を歩きながら、アカリは海の方向を目指す。五分ほど歩くと申し訳程度に舗装された道路があり、すぐ下は急な斜面、そして海だった。浅瀬にマングローブが自生しており、気根(きこん)を天に向け、伸ばしていた。
 道路を下るように歩く。ほどなくして船着場が見えてくる。待ち合わせの人物は、降り注ぐ太陽の下、大きな鳥ポケモンと共に、海の向こうを眺めていた。
「何か見えるの」
 アカリは尋ねる。
「300メートルくらい先かな。ホエルオーが一匹。それと50メートルくらい先にホエルコが二匹」
 と、トシハルは答えた。
「あ、今潮を吹いた」と、続けざまに彼は言った。
「…………」
 アカリはじっとその表情を観察していた。
 集合した彼らは海沿いに歩いて目的の場所を目指す。場所は言わずもがな、研究所だ。博士が何かを隠すとしたらまず真っ先に疑ってかかるべき場所はそこだった。鍵の先にあるものの正体を確かめるべく、彼らはその場所で、鍵に合う鍵穴を探すことになっていた。
 フゲイ島水生携帯獣研究所。蔓性の植物が繁茂し、花を咲かせている研究所の石垣の壁にはそう彫り込んだ看板が埋め込まれていた。建物自体はそう大きく無い。島の平均的な家庭くらいの大きさの建物だ。その昔、人が住んでいた民家を改造して作ったのだとトシハルは説明した。
 じゃらり、とトシハルはポケットから研究所の鍵を取り出す。博士が亡くなって以来、研究所はフゲイタウンで管理をしていたが、町長に事情を話すと快く研究所の鍵を貸してくれた。
 がちゃりと鍵が回った。扉を開く。もう踏み入れることが無いだろうと思っていたそこに、トシハルは足を踏み入れた。
「――…………」
 何か言いかけてトシハルは口をつぐんだ。
 暗い、それに蒸し暑い。雨戸までも閉め切っていたから中は蒸し暑く、暗かった。だから彼らが始めにやったことは雨戸を開き、窓を開いて、風と光を通すことだった。
 アカリはデスクのある研究室の窓を開いたし、トシハルは博士の寝室の窓を開けた。
 暑かったのか、毛布は仕舞われ、枕だけが無造作に転がっていた。もう一週間前ならば博士はここで寝息を立てていたはずだった。
 中に風が通り、光が満ち溢れたころに彼らは研究室に集合した。部屋の中心には大きなテーブルがあった。周辺海域の海図が広げられている。かつては毎日のように海から戻っては、データを整理したその部屋だ。隅にパソコンを置いたデスクとプリンターが並んでいた。
 トシハルが最初に驚いたのは研究室、そして隣のデータ置き場の整然とした整理のされ具合だった。トシハルが出入りしていた頃にあれほどあっちこっちに積み上がっていた書類や本は日付やテーマごとに皆フォルダや箱に収まり、ラックにきれいに並んでいる。床には紙の一枚だって落ちていなかった。あの乱雑で整理されていないかつての部屋とは思えない整頓のされ具合だ。
 ――博士、これから部屋の掃除はご自分でやってください。
 ――データの整理もご自分でやってください。僕はもうやりません。書類や計測機器がなくなっても僕はもう探しません。
 十年前の言葉が今更に突き刺さった。だが、博士は立派にやってみせていた。
 ああ、やっぱり僕など必要は無かったのだ。博士は元来一人でなんだって出来るのだ。トシハルは整頓された研究室を見ながらそう思った。
 天井にホエルオーのミニチュアモデルがぶら下がっている点は昔と変わらなかった。壁には島周辺の海図、そして船で海に出、撮影した何十枚ものホエルオー、ホエルコの写真が貼られ、個体番号がついていた。お別れの時に海から現れた192(イチク)番(ニ)の写真もそこにはあった。歯型がついた特徴的な尾鰭がはっきりと写し出されていた。
「これ、全部博士が?」
 アカリが尋ねる。
「三分の二はダイズかな。残りを博士と僕と半々ってところだったと思う」
 と、トシハルは答えた。
 そうして部屋の中をきょろきょろ見回すと、紐のついたカメラを持ってきた。
「ほら、ここを引っ張るとさ、ダイズが嘴で引っ張ってシャッター切れるんだ。揺れに強いカメラでね、飛んでてもブレないようになってる。だからいい写真はみんなダイズだよ。こいつ空飛べるからさ、反則アングルだろ?」
 首を傾げるピジョットを見ながらトシハルは説明した。博士が特注のカメラを頼んで、ダイズを訓練したのだと。カメラが重かったものだからポッポのうちはかなり苦労した。ピジョンに進化してからは苦にもしなかったけど、などとも説明した。
「こっちは?」
 今度はどこから引っ張り出したのか。アカリが大量の細長い濃い緑色のノートの箱を出し、テーブルに置いた。
「それはフィールドノート。海に出て、記録をとったり気が付いたことを書き留めるんだ」
 トシハルは答える。一冊を手にとってぱらぱらとめくった。様々な記録が博士の字で書き連ねてあった。定点観察の記録が記され、日付が添えられていた。さらに何冊かを手に取りページをめくる。見事に日付順に並んでいた。本来のデータに加え、その日に受けた印象やアイディアなどが事細かに書かれている。気が付くと夢中になってそれを読んでいた。来る日も来る日も碧い海にホエルオーを探す博士の姿が浮かんだ。
「トシハルさんのもあるのかしら」
 不意にアカリが尋ねてきて、彼はドキリとした。
「……どうだろう。もしかしたらデータ置き場の奥にあるかもしれない。博士が捨てていなければ、だけれど」
 トシハルは目を合わさない。自信がなさそうにそう答えた。
「……」
 アカリはしばしトシハルの横顔を見つめていたが、やがて
「まあいいわ。鍵の穴、探しましょう」
 と、言った。
 トシハルとアカリ、それにダイズ。アカリがモンスターボールから出した人型の二匹も加えて、彼らは鍵穴を捜索した。鶏頭が指を指したのは庭に放置された納屋、サーナイトが持ってきたのは錆びた工具を詰めた箱、ダイズが真っ先に確認したのは壁に掛けられた船のキーボックスだった。けれど、そのどれにも鍵はあてはまらなかった。机の引き出しにも鍵はあったけれど、そもそも鍵がかかってはいなかった。
 探してみれば鍵穴は意外と少ない。箪笥やロッカーを開け、隠された秘密の引き出しは無いかと書類の詰まったフォルダを下ろし、壁を見る。もちろんそんなものなど存在しなかった。
 ベッドの布団をひっくりかえし、下に潜って裏を覗いたし、風呂場やトイレなども見てみたが、そんなものはやっぱり無かった。
 まるで火事場泥棒の二人組とその手下達だった。きっと事情を知らない人が見たら、どこかの組織の工作員だと思われるのではないかとトシハルは思った。
 暑い。太陽が南に昇って窓から照りつける。この建物にある穴という穴を確認したが、鍵に合う穴はどこにもない。
「おちょくられてるんじゃないかしら……」
 汗をぬぐってアカリが言う。
「僕もそんな気がしてきたよ」
 下ろしたフォルダをラックに戻しながら、トシハルは同意した。額に汗が滲んでいた。
 そういえば、とパソコンをつける。パスワードは変わっていなかった。デスクトップ壁紙は案の定、ホエルオーの写真でダイズが撮影したベストショットだった。博士が何かの拍子で生き返ったならすぐに研究を再開できるくらいにファイルはよく整理されていた。けれど鍵穴に繋がるヒントは見られない。
「お昼にしようか」
 電源を落とし、汗をぬぐう。眼鏡を拭きながらトシハルは提案した。
「おいしいとこ、知ってるよ」

 研究所から徒歩十分。
 「大衆食堂 海風」という看板がかかった島の小さな食堂に彼らの姿はあった。
 座敷に上がり、二人と三匹がテーブルを囲った。
「ゴーヤチャンプルセット三つ。あと豆腐チャンプルのセットを二つ。それとサイコソーダ五つください。食前に」
 かつて馴染みの客だったトシハルをオーナーはよく覚えていた。はいはいと気前良く返事をすると、すぐによく冷えたサイコソーダを運んできてくれた。
 我先にとアカリとそのポケモン達が手を伸ばす。トシハルは別に渡された銀色のボールにソーダを注ぐ。ダイズがそこに顔を突っ込みごくごくと飲み始めた。多くの鳥ポケモンは水をすくって、顔を上げて飲み込むのだが、なぜかピジョットの系統はそれをしない。頭を突っ込んだまま文字通りごくごくと飲んでいく。トシハルは昔からそれが不思議だった。けれどもトシハルが大人になった今でも、そのメカニズムはよくわかっていない。
 携帯獣研究において何かの成果がある。それが文字やニュースになった時、研究が進んだという表現がしばしば使われる。たしかに研究は進んだ。けれどそれは昔よりはある部分が分かったということに過ぎない。ポケモンはわからないことが多い。調べることは尽きず、無くならない。
 ほどなくして皿に盛り付けたゴーヤチャンプルと豆腐チャンプルが運ばれてきた。バシャーモは器用に箸を使った。サーナイトはスプーンでそれをすくった。ダイズはそのまま皿をつつき始めた。
 懐かしい記憶が蘇る。船を乗り回し、海から戻ってきて、博士とよくこの店に通った。ダイズとトシハル、それに博士。二人と一羽はここでよく食事を摂った。博士はゴーヤより豆腐が入っているほうが好みで、よく注文していた。
 あれから時は流れ、自分は今ここでアカリたちと食事をとっている。ここの匂いも、涼しげな店の雰囲気も変わらないのに。いつからこんなに違ってしまったのだろうと思う。
 ゴーヤを一口、口に運んだ。ほのかな苦味だけは昔と変わらなかった。その正面で、アカリが白いご飯の茶碗を片手にパクパクと口に運んでいる。初めて食事を共にした時もその食欲に驚いたが、本当によく食べる子だと彼は思う。ポケモンリーグチャンピオンというものはエネルギーがいるのかもしれない。
「ねえトシハルさん、食べた後はどうするの」
 皿の上でわずかに残った卵のかかったゴーヤをつつきながら、アカリが言った。
「もうあそこに調べるところなんてなさそうだけれど」
「ううん、そうだなぁ」
 トシハルは手詰まり感たっぷりに口を濁した。
 調べていないといえば、船くらいか。ホエルオー程度の長さの博士所有の船。ミナモかカイナか、もう場所は忘れてしまったのだが、そこで売られていた中古のものを買い取ったと博士は言っていた。今のものは二代目だった。トシハルはもちろんその所在を確認している。朝に港で様子だけ見てきていたから。所有者はいなくなってしまったけれど、船そのものはまだしばらく現役で動きそうだった。
 だが……いいのだろうか、と思う。
「ねえ、博士は船持っていたのよね」
 ミズナギから聞いたのか。あるいはそう当たりをつけたのか、アカリが目ざとくそう言った。
「あ、ああ。持ってる」
 とっさにトシハルはそう返事をした。正直あまり気乗りしなかった。研究所もそうだったが、聖域を侵しているという気持ちがあった。自分は博士から研究所も、船も譲られなかった。それらの資産に関する言及は無く、それは自動的に町の管轄になった。譲られたのはよくわからない鍵、そして鍵で開けられるその中に入っているという本当にあるかどうかもわからないものだけだ。
 その自分が果たして、船にまで乗り込む資格があるのだろうか。トシハルは自問した。
「ね、トシハルさん、船は動かせるの」
 アカリはそんなトシハルの心持ちを察する様子も無く、無邪気に聞いてくる。本当に空気を読まない子だと彼は思った。
「……出来るけど。ここ十年以上触ってもいないよ」
「出来るのね?」
 アカリが追い討ちをかけるように言ってくる。
「まあ、」
 と、トシハルは苦々しく言った。
「じゃあ次は船ね。せっかくだからさ、クルージングしよ。私近くでホエルオー見たいな。島に来たときみたいに」
「…………」
 君はいつだって見れるじゃないか。持っているんだから。そう言いかけてトシハルはますます苦々しい雰囲気を醸し出した。
 けれど嫌だとは言えなかった。この少女にろくな説明もせずに島へ連れてきたことを思い出したからだった。本来の仕事とは関係の無いところに巻き込んでいる。たぶん少女は言ってるのだ。埋め合わせをしろ、と。
「そうだね……そうしようか」
 とトシハルは答えた。
 自分はこんなことをしてはいけないんだという気持ち。それを事情だからで誤魔化すことにした。いつだって流されている。自分で何一つ決断できやしない。するも、しないも、貫けない。
 研究所に戻る。町長から借りた研究所の鍵。それがかかる輪に引っ掛かっていたもう一つの鍵。それが研究所内にある船のキーボックスの鍵だった。かちりと開く。中には船のエンジンキーがかかっていた。
 研究所からエンジンキーを持ち出し、港に降りたったトシハルとダイズ、アカリとそのポケモン達は博士の船に乗り込んだ。
 まず彼らが行ったのは船内の捜索だった。鍵に見あう穴は無いかどうか。それを彼らは捜索した。甲板、デッキからは下に降りていき、寝室、シンク、配電盤……収納。けれども結局それは徒労に終わってしまった。狭い船内はさほど探す場所が見当たらなかった。
 ここもダメか。トシハルはますます訝しげに博士の遺した鍵を見つめた。
「トシハルさん」
 と、アカリが声を掛ける。
「何だい」
 と、不機嫌そうに返すトシハルにアカリは畳み掛ける。
「約束よ。クルージング」
 ふう、とため息をつくとトシハルは航海灯のスイッチを入れた。オイルの量を確認する。十分に入っているようだった。ギヤオイルも確認する。そうやっていくつかの航海前確認をすると、船をつないでいたロープを港から切り離した。エンジンキーを鍵穴に突っ込む。レバーを前に倒す。ブロロ……とエンジンが唸りを上げはじめた。
「アカリちゃん、危ないからきちんとつかまってて!」
 トシハルが叫んだ。
 揺れる水面を切り裂いて船が出発した。船が海水を跳ね上げる。操縦室の上に止まったダイズが目を細めた。船側面の手すりにつかまるアカリとバシャーモの髪が激しくなびき、サーナイトのスカートが風で大きくはためき、思わず彼女はそれを押さえた。
 船はみるみる速度を上げる。船着場から、島から遠ざかっていった。


  [No.2741] 少年の帰郷(14)〜(17) 完結 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/22(Thu) 22:26:07   146clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

14.

 ブロロ、とエンジン音が鳴り響き、船は波を切り裂き進んでいく。数日前まで現役だった船は、持ち主が世を去ったことによりよもや引退かと思われた。だから船自体も誰かの手でこうしてまた海を走ることになるとは思ってもいなかったかもしれない。
 天気がいい。波が日光を反射してあちこちでキラキラと輝いている。アカリが後方を見るともう島はかなり小さくなってしまっていた。来るときと逆だ、と彼女は思った。
「アカリちゃん、どう!? 何か見える!?」
 後方の操縦席からトシハルが声をかける。
「ううん、だめ! 海しか見えない」
 と、アカリは返した。見えるのは青い空、流れる雲。そして碧く広がり波を打つ海ばかりだった。
「ふうむ、もう少し進んでみよう」
 トシハルは応える。久しぶりに握る船の舵。それを掴む手の平に汗が滲んだ。心臓が高鳴っている。それをトシハルは感じていた。レバーをさらに前方に倒す。前方に注意しながら、彼は船を滑らせる。
 波を掻き分けしばらく南へ直進する。そして、トシハルは自分の視界の許す限りに注意を向ける。競争意識のようなものが働いた。船に乗って、海を見渡す少女はポケモンを扱うプロだ。だが、リーグで扱うほとんどは陸生のポケモン。彼女がホエルオーを持っているとは言え、水生ポケモン、それも野生ポケモンを見つけることに関する分はこちらにあるという気がしていた。負けない。負けるつもりは無い。そう思った。洋上にポケモンを探す訓練ならば、かつて飽きるほどにやっていたのだから。
 エンジンレバーを前倒しにしたまま船を進ませていく。バクバクと心臓が鳴り続けていた。まるで何かに目覚めるように。鳥にでもなったかのように見える視界が開いてゆく。それは劇的な感覚だった。ばたばたと身体に当たる風が血となり全身を駆け巡るように。
 十年の封印を破るように。
 波で船が揺れる、そのたびにトシハルの体が揺れる。船が揺れるその度に腹の底に沈めていた何かが浮かび上がってくるようだった。

「おい、ボウズ。何してる」
 かつて炎天下の港に佇む少年に初老の男が声をかけた。
「おじさん、誰?」
 島の少年はそう返した。彼は半分べそをかいている。今となっては友達と喧嘩をしたのか、はたまた母親に怒られたのかは定かではない。ただよく覚えているのは、逆光を背負うその男がえらく大きく見えたこと。それと声がなんだか怖いなぁと思ったことか。
 そうして「おじさん、誰?」という少年のその質問に男はこう答えたのだった。
「私か? 私はな、クジラ博士だ!」

「……」
 その男が近所に住んでいるカスタニという変人だと知ったのは家に帰ってからのことだ。なぜ変人なのかというと母親が変人だと言っていたからだ。「近所に住んでるカスタニって人、変わった人なのよ」と、言っていたからだ。だからトシハルの中でカスタニは変人だった。理由もなく変人だった。今は理由のある変人だと思う。
 それにしたってずいぶんな自己紹介だ。カスタニ博士は、カスタニとは名乗らず、クジラ博士と自ら言った。たぶん、島にやってきたときからそう言っていたんじゃないかと思う。カスタニ博士は決めていた。自らはクジラ博士である。そのように決めていたのではないか。今になってそう思う。

 大きな初老の男はしゃがみ、少年に目線を合わせると言った。
「ボウズ、お前名前は?」
「……トシハル」
「トシハルか。奇遇だな。私の下の名前にもなトシって文字がついているんだ。もしかしたら同じ漢字かもしれないな」
 そう言って博士は少年の頭を撫でた。
 そうしてクジラ博士は次に言ったのだ。
「トシハル、船に乗っていかないか。いいもの見せてやるよ」

 今トシハルは少女を乗せ、海を走っている。
 あの時に見た「いいもの」を少女と一緒に探している。

 クジラ博士に会って、船に乗せてもらった。
 そう夕食の席で告白したところ、母親は味噌汁を吹き出して、父親は喉に芋を詰まらせた。
 その場で「あの人おかしいのよ。近づいちゃダメよ!」などと言われた気がするのだが、少年は言うことを聞かなかった。博士のところに足茂く通うようになった。そうしているうちに母親は何も言わなくなった。
 何年か経って父が言うところによると「あの頃お前は友達いなかったからな。だから母さん、実は博士に感謝してんだよ」ということだった。
 そうだったろうか、と彼は首をかしげた。博士といる時間があまりに楽しかったから、そういうことはどうでもよくなった。忘れてしまったのかもしれなかった。

「ほう! もう見つけたか。お前は筋がいいぞ!」
 途端に博士の声が聞こえたような気がした。

 波影に混じって浮かんだ影をトシハルは見逃さなかった。
「アカリちゃん、いた! 南西方向! 350メートル! ホエルオー、ホエルコの混合群だ」
 とっさにトシハルは叫ぶ。東ばかりを向いていたアカリは反対の甲板に移った。トシハルがスピードを落とし、南西方向に船を傾ける。
 くじら達を脅かさないよう、ゆっくりと船は近寄っていき、50メートルほどまで距離が近づいた時点で、船を停めた。
「これ以上はね、こっちから近寄らないルールなんだ。向こうから近寄ってきた場合は別だけどね」
 操縦室にあった双眼鏡を手にとる。アカリに渡してやった。鶏頭が身を乗り出してその方向に目を凝らす。まるで成人女性のようなサーナイトもゆったりと構え、彼らのブローの様子を眺めていた。
「トシハルさん、あれは何番かしら」
 研究所の写真で見た個体識別のことをアカリが尋ねたので、トシハルは双眼鏡を受け取った。狭い視野から彼らの特徴を確認していく。
「ホエルオーは三匹、ホエルコは五匹いるね。たぶんだけど、一番小さいホエルオーがサンロック――369番じゃないかと思う。15年くらい前に進化したやつだ。一番大きいのは彼女の母親。中くらいのがその妹だよ。それぞれ260番、263番。ホエルコはちょっとわからない。やつら識別が付けづらいんだ。たぶんサンロックの子どもか何かじゃないかと思うんだけど……」
 すると369番が潮を吹き上げた。まるで正解だとでも言っているようだとアカリは思った。
「あ、こっちに来る」
 アカリが言った。バシャーモが髪を立て少しばかり身構える。ホエルオー達はゆったりと泳いで、30メートル程の地点まで近づくと、海に潜った。そうして船の下を潜り、50メートル離れたところでまた浮かび上がると去っていった。ピュイイッとピジョットが声を上げた。
「ダイズのカメラ、持ってくればよかったかな」
 トシハルは呟いた。そういえば、と彼は記録するものを持っていないことに気が付いた。かつて海に出るときはいつも持ち歩いていたのに。
 ポケットを探る。あったのは会社の携帯電話だけだった。これが今の習慣だった。いつかかってくるかもわからないから常に持ち歩いているのだ。無論、この場所は圏外だったのだが、習慣とはそういうものだった。
「…………」
 その瞬間に彼は現実に引き戻された気がした。
 強い海風が吹く。頭を冷やせというように。風に混じって自らの声がしたのを彼は聞いた。
 ――こんな所で何をやってる。お前はもう余所者なんだ。
 ――ここで一回記録をとったから何になる。
 ――さっさと気付け。お前はもうとっくの昔に愛想を尽かされた。見捨てられた。早く気づけ。
 ――お前が捨てたんだ。おまえ自身が選んだのだ。
 びゅうびゅうという音に混じるその声を確かに聞いた。
 あれだけ早くなった鼓動。それがいつの間にか元に戻っている。
「……戻ろうか」
 と、トシハルはアカリに言った。
「もう?」
 アカリは不満そうに声を上げた。せっかくいい感じなのに、と彼女は言いたげだった。
「いや別にもう少し走ってもいいけどさ。日暮れまでは時間があるし」
「じゃあ、もう少し。それに……」
「それに、何?」
「昔はよくこうしてたんでしょう。そうしたら何か思い出すかもしれないじゃない」
「思い出す?」
 トシハルは呆けた返事をする。
 もーう、鈍いわねーという感じで、アカリはつかつかと近寄って来て顔を近づけると言った。
「か・ぎ・よ。鍵穴のヒントよ。元々それを探しに来たんでしょ。何か忘れてることがあるのかも。こうしていれば思い出すかもしれないじゃない」
「……、…………」
 トシハルは一瞬黙りこくった。
 それでは何か。この少女は己の楽しみのためでなく、今、目の前で話している相手の為に、ツグミトシハルの為に船を出させたとでも言うのだろうか。
「……思い出せるわけないじゃないか」
 歯と歯の間から、言葉が漏れた。
「もう僕は昔の習慣も忘れちゃってるんだ。思い出せるわけない。だいたい鍵穴なんてはじめからなかったんじゃないのか。あのとき君だって言ったろ? 博士に担がれてんだよ。鍵穴なんて無いんだよ! 最初から無いんだよ!」
 風が吹きすさんでいた。寒い、とトシハルは思う。寒い。ここから去れと言っている様に海は寒かった。もう海は自分のフィールドじゃあない。自分は海から歓迎されてなどいない。
「諦めるの?」
「諦めるも何も、最初から……」
 船が揺れている。絶えず動き続ける海。揺れているのは波か、船か。それとも。
「……意気地なし」
 アカリが言った。
「貴方はそうやっていつも逃げてるのよ。本当は怖いんだわ。確かめるのが怖いんだわ。博士から絶縁状突きつけられるのが怖いんだわ。博士はもう海の底だっていうのに、いまだに博士の影に怯えてる」
「君に言われたくないよ」
 トシハルが返す。こうなるともう売り言葉に買い言葉だった。
「君に言われたくないよ! 君だって逃げてきたじゃないか! 君達の世界から。トレーナーの世界から! 君のパパがどれだけ有名かなんて僕は知らないがな、君だって逃げてきたじゃないか! 君に言われたくない……君に…………」
 そこまで言って、しまったと彼は思った。頭に血が上った、と。けれどたぶんそれはその言葉が的を得ていたからで。でも返してはいけなかった。同じ言葉を返してはいけなかった。
 目の前で少女がうつむいている。その後ろで、バシャーモとサーナイトが睨み付けていた。
「……ごめん」
 うつむいてトシハルが言う。
 最低な気分だった。あまつさえ年下の女の子に当り散らすなんて。だが、
「……いいわよ。本当のことだもの」
 と、アカリは言った。
「確かにあなたの言うようにしばらくあっちには戻りたくない。でもね、私、トレーナーであることはやめない。やめないわよ」
 自分の手持ちポケモンより小さな体から少女は声を張り上げた。
 まるで自分を奮い立たせるように少女は言った。
「たしかに私は逃げ出したわ。今立っている場所が嫌で嫌で、逃げてきたの。でも、それでも資格が無いとは思わない」
 ずっと考え続けていた。島までの航路の間、ずっと。島についてからもずっと。
 一人のトレーナーとしての、自分の行き先を。
 そうしてたどり着いたのはシンプルな答えだった。
「だって私、ポケモンが好きだもの。バトルだって好きだもの。ドキドキするもの! だから私はトレーナーでいられると思う。どこにいても、どこに行ってもトレーナーであることをやめないと思う」
 叫びが矢になって放たれた。それがトシハルに突き刺さる。
 ああ、この子はなんて瑞々しいのだろう――なんて強いのだろう。トシハルは思う。
「だからトシハルさん、一つだけ聞かせて」
「何だい」
「あなた本当に、島を出て行きたかったの? ホエルオーの研究も嫌々やっていたわけ?」
 ドキリとした。少女の放った無数の矢。その一本が的の中心を射た気がした。
 鈍い痛みが胸を刺した。深く深く突き刺した。
 それはたぶん向き合う恐怖に抗う痛みだ。本当の気持ちと向き合う恐怖。矢を放ち追ってきた狩人を目の前にして彼は寒気を覚えた。
 捕まる。捕まえられて、毛皮をはがれ、丸裸にされてしまう。
「どうしてそんなこと聞くんだい」
 トシハルは尋ねる。声は震えていたように思う。
 はぐらかそうとした。刺さった矢を抜かなくては。けれど矢を抜いたなら、きっと傷口からは血が吹き出すだろう。
「どうなの?」
「……そうだよ。僕はもう研究なんてしたくなかった。こんな島早く逃げ出したかった」
 そう言って矢を抜こうとした。
 けれど抜く前に矢がぼきりと折れ、矢は抜けなかった。矢じりは体に埋まったまま残された。
「嘘つき」
 アカリの声が聞こえた。言葉という水が堤防を破って溢れ出す。
「嘘つき。嘘つき……嘘つき!! 貴方って本当に嘘つきだわ。それが本当なら、待ち合わせ場所でホエルオーを探したりなんかしない。研究室でノートを読み返したりしない。私より早くホエルオーを見つけて、それが誰か見分けたりしない!」
 洋上に声が響き渡った。誰も見ていないなら耳を塞ぎたかった。痛い。胸に残った矢じりからじりじりと痛みがこみ上げてきた。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
 半ば投げやりな言葉を返すのがせいぜいだった。
 見えぬ傷口を押さえる。血が滲んでいる。
「僕は博士から、研究所も、船も譲られなかった。とどのつまりはそういうことだろ。それが答えだろ」
「それは違う。研究所が無いなら作ればいい。船だって手に入れればいいじゃない」
 少女は反論する。
「博士は僕を許さないだろう」
「許してくれなくたっていいじゃない」
「僕には資格なんて無い」
「そんなもの、初めからないじゃない!」
「…………」
 トシハルはそこでしばし押し黙った。
 痛む胸に去来したのは博士のことだった。
 ああ、そうだ。資格など初めから無かったのだ。そもそもカスタニ博士が島に来た時からそんなものは無かったのだと。別に博士は誰かに資格を与えられたわけではなかった。ただホエルオーが知りたい。それだけの為にこんな辺鄙なところにやってきて、自らをクジラ博士と名乗った。船を買い、研究所を建てた。変人と言われて、嘲笑と好奇の目を向けられても、クジラ博士であり続けた。
 強い人だ。本当に強い人だと、そう思う。
「……僕は強くない」
 トシハルは続けた。
「……僕は博士のようにはなれない」
 博士のようにはなれない。あの人のように立派には出来ない。僕には出来ない。
 かつて少年は博士のようになれると思っていた。このままこうしていれば博士になれる、と。そう信じて疑わなかった。けれど少年は知ってしまった。
「僕は博士には、なれない」
 繰り返すように。強調するように言った。アカリは言えない。博士になればいいじゃない、とは言えないはずだ。
「そんなの、当たり前じゃない」
「……え」
「だってあなたは博士じゃないもの」
 今更何を言ってるのよ、とアカリは言った。
「………………」
 トシハルは目を見開いて、まじまじとアカリの顔を見る。
 言葉の綾にひっかかったような、揚げ足をとられたような、ヴェニスの商人に出てくるという金貸しを演じているような気分になった。
「そう、か……」
 と、それだけトシハルは言って、そして黙った。
 海を見る。心を落ち着かせて、言葉を咀嚼した。
 悩みに悩んでいると突然に天から啓示があることがある。わからなかった数式の解法が突如降ってきたような感覚、あるいは絡まった糸がほどけたような感覚。解いてみればなんでもない。複雑なように見えたそれはただの一本の糸だった。
「…………うん、そうだな……」
 ぼそりと呟いた。君の言う通りかもしれない、と。
「いや、初めからだ。初めからそうだったんだ」
 そうだ、そうなのだ。と、トシハルは妙な感覚に捉われた。
 何をこだわっていたのだろう、と。そんなこと前からわかっていたことのはずだ。今更だ。本当に今更だった。
 いや、待っていたのかもしれない。
 もう船は出されていて。自分の気持ちはとうに向こう岸についていて。
 ずっとずっと、誰かがそう言ってくれるのを待っていたのかもしれない。
 貴方はもう立っているじゃない。望む場所に立っているじゃない、と。
「それに私ね、トシハルさんが弱い人だとは思わない」
「どうして?」
「誰かから離れるってことは、自由になるってことはさ、もうその誰かには助けてもらえないってことだから」
「…………」
「貴方にとって、博士がどれだけ大きいか、わかってるつもりよ。私にとってはたぶんパパがそうだから。だから、たぶん……だからこそ貴方は、博士から自由になろうとしたんだと思う。博士の名前のしがらみから。それで島を出ていった。私がそうしたように」
 一呼吸を置く。雲の流れる空をニ、三の大きな海鳥が通り過ぎてゆく。あの独特のフォルムはペリッパーだろうか。
「トシハルさん貴方、バカだわ」
 ばっさりと切り捨てるようにアカリは言った。
「極端とも言うわね。博士から逃れるために好きだったことまで何もかも全部仕舞い込んじゃった。そんな必要なかったのに」
 トシハルは十年を振り返る。
 思えばポケモンとは関わらぬ職業につき、コンテストにもリーグにも関心を向けなかった。否、向けないようにしていた。感情に蓋をした。
 触れる資格が無い。逃げ出した自分には資格が無い、そう思って。
 ……思い込んで?
「僕は……」
 トシハルは洋上の船の上でつたない声を発した。
 彼の視界いっぱいに水平線が広がっている。空と海。青と碧。
 それらに彼は問いかけた。

 僕は。
 僕は、望んでもいいんだろうか。

 やり直してもいいのだろうか。
 それは許されることなのだろうか。
 無いものは手に入れていけばいいだろうか。
 それでいいのだろうか。

 青と碧は答えない。
 空はただ淡々と雲を流していく。海はただ波を起こして、船を揺らし、船体を叩いている。眠っている子どもを起こすように、太鼓のように叩いている。
 空と海は答えない。けれども決して否定もしない。
 胸に刺さった矢じりは抜けないままで、まだ痛みがあるけれど、いつの間にか風は穏やかになっていた。
「そういえば朝見たテレビでね、戦隊ヒーローが言ってたわ」
 しばし黙っていたアカリが口を開き、言った。
「何て?」
「望むものは与えられるものじゃない。自分の力で手に入れろって。黒いのがカッコつけて言ってた」
 子ども番組って意外と侮れないわよね、と続ける。
「もしかしてそれ、ブイブラック?」
 トシハルは咄嗟にピンときて、尋ねる。
「そう、それよ。トシハルさんも見てたの?」
 意外だわ、と言いたげにアカリは返した。
「いや、今朝は見てはいないけど、昔見てたから。君と会った日にリメイクされてるってたまたま知って。だからそれかな、と」
 そうだ、たしか昔の放送にそんなものがあった、とトシハルは思い出していた。
 いつもバトルに負けてばかりの男の子は、怪人フーディーニの薬で頭脳明晰なトレーナーになる。けれどかわりに洗脳され、悪さばかりするようになってしまった。町中に洗脳を広げる怪人をブラックがやっつける。そうして洗脳が解け、我に返った少年少女達にブラックは言ったのだ。
 望むものは自ら手に入れろ、と。
「ブイブラックかっこいいよな。クールでさ。僕はブイレンジャーの中じゃブラックが一番好きだったんだ。でもね……ごめんアカリちゃん」
 トシハルは申し訳なさそうに言った。
「へ?」
「そいつ、裏切り者。最終回の五回くらい前で敵のスパイだってわかるんだ」
「…………え。ええ!?」
「僕ァ、ショックだったな。一週間くらいは立ち直れなかったよ」
 そう、ブラックには秘密があった。ブラックは敵の送り込んだスパイだった。ブラックの暗躍によって、戦士達の組織は壊滅的な打撃を受けたのだ。
 懐かしい日のことをトシハルは笑いながら語った。今だからこそ笑って言えるけれど、当時は大真面目だった。最終回でブラックと仲のよかったブイパープルが彼を許すけれど、トシハルはどうしても納得がいかなかった。
 なんであんな奴を許すの? 裏切り者なんだよ。奴は裏切り者なんだ、悪い奴なんだ。
 許しちゃいけないんだ。絶対に許しちゃいけないんだ。
 そんなことを一生懸命に博士に訴えた気がする。思いの丈をぶつけた気がする。ブラックが好きだったからこそショックでショックで仕方なかった。
「博士に言われたよ。お前は変なところで真面目だよなぁって」
 トシハルは苦笑いを浮かべた。
「続き、行こうか」
 トシハルは再び操縦席に立つ。再びエンジンレバーを握り、前後左右を確認しようとした。
「ん?」
 そこでトシハルは声を上げた。アカリのバシャーモにサーナイト、そしてダイズまでもが皆同じ方向を向いて、視線を集中させていたからだった。そうして気が付いた。進行方向の右側。南西の方向に巨大な影が浮かんでいることに。
 どくん、と心臓が高鳴った。
 近い。しかも大きい。相当に大きい。
 それは、ざばぁと音を立て水面に姿を現した。横半身を見せて、頭から始まり上半身、下半身を見せて反ってみせる。最後に巨大な尾鰭が見えて飛沫を上げ、海に潜った。
「アカリちゃん!」
「わかってる」
 エンジンを前に倒すのをやめ、トシハルは急ぎ、船の先端へ走った。
 双眼鏡を受け取る。時間を経て再び浮かんできたうきくじら。その特徴をくまなく確認する。
「何番?」
 とアカリが尋ねた。
「……わからない」
「わからない?」
 トシハルの答えに彼女は訝しげな声を上げた。
「見たことが無い個体だよ。普段はもっと外洋にいるのかも……」
「大きいわね」
「ああ、大きい。何メートルくらいだろう」
 観察個体が去っていく様子は無い。うきくじらはまた、海面にわずかにその姿を見せた。頭から潮を吹く。今度はぷかりと浮かび上がり、その上半身が姿を現す。まるで島が姿を現したようだ。くじらの背中から水が落ちて引いてゆく。
「22、23…………いや……25メートルはあるんじゃないか?」
 トシハルは船から落ちそうなほどに身を乗り出して、その姿を目で追った。
「すごい! こいつは大物だよ。下手すれば記録上一ば…………」
 そう言い掛けて、彼は言葉を飲み込んだ。
 身体の中でカチリ、と音がした気がした。
「……いや……違う。こいつは二番目だ。だって一番は………」
 次いで、ドボンと海に何かが落ちるような鈍い音がした気がした。頑丈な南京錠がはずれて水の中に落ちたような音だった。
 双眼鏡を目から外す。アカリと目があった。トシハルは突如冷水をかけられたかのような顔をしていた。
「どうしたの?」
「……思い出した」
「何を」
「博士縁(ゆかり)の場所だよ。……もう一つ。もう一つだけある」
 トシハルの中に遠い日の、暑い日の記憶が蘇った。鮮やかに、鮮やかに蘇った。
 まるでタイミングを待っていたかのようだった。
 島を出たあの時に思いを封じてしまったからだろうか。だから、いつのまにか仕舞いこんで鍵をかけてしまったのかもしれなかった。
 馬鹿な話だとトシハルは思った。
 どうして忘れていたんだろう。あれほど強烈なことを、どうして忘れてたんだろう。
 不意にホエルオーと目があった。その巨大なホエルオーはもう一度体を反らすと海に入り、ゆっくりと去っていった。まるで用事は済んだ、と云わんばかりに尾鰭で海面を叩くと、悠々と泳ぎ去っていった。
 
「おうい、ミズナギさん」
 海がオレンジ色に染まりかけていた。所用で港にやってきたミズナギに、体格のいい老人が声をかける。
「あ、これはどうも」
 振り向いてミズナギが挨拶をすると
「トシば見かけんがったか」
 と、町長は尋ねた。
「さあ、今日はお会いしていないですね。たぶんアカリさんと一緒なのかと思いますが」
「いやそれがな、研究所で探し物があるからっつうんで鍵貸してやったんだが、戻らんのだわ。研究所にもおらんしのー」
 ふーむ、困ったというように顎を指で挟み、町長は首をかしげる。
 そんな町長の様子をミズナギはしばらく見ていたがやがて思いついたように言った。
「ああもしかしたらその鍵、もう一つ別の鍵がついていませんでしたか」
「おう、ついてたぞ」
「じゃあきっとそれです」
 ミズナギは町長を連れ、小型船舶の並ぶ船着場を歩いていく。そうして一つだけ船の抜けた箇所を発見した。
「ほら。博士の船がなくなってる」
 ミズナギが言った。ぽっかりと空いたその場所で、海面がゆらゆらと揺れている。
「はーそういうことか」
 町長もやっと状況を把握したらしく、納得したように声を上げた。
「アカリさんも一緒かな。彼女も今日見ていませんし」
 ミズナギが付け加える。
「何。てーと、トシはあのめんこい子とクルージングか。やりおるの」
 ふむふむと町長は唸った。
「まあ別にそういうのではないと思いますけど」
 ミズナギはフォローを入れたが、町長が聞いているかどうかはわからなかった。
「しかしちょっと困ったことになりましたね」
「困る? 何がだ」
「町長、天気予報見なかったんですか。今日の天気、昼間は晴れですけれど、夜から降るって言ってましたよ。風も強いって言うし海が荒れないといいのですが」
「いぐらなんでもそれまでには戻るべ」
「まあ、それはそうですけれど。でもトシハル君って島育ちのわりに天気に疎いから。昔遭難したことあったじゃないですか。台風に巻き込まれて」
 それに運転だって久しぶりだろうに。
 ミズナギは心配そうに水平線に目をやった。

 エンジンが最大の唸りを上げる。波を切り裂き飛沫を上げながら船は一直線に走っていく。
 エンジンレバーを最大に傾けて、トシハルは南へ急いだ。
「どこに行くの!?」
 操縦席の横で船の揺れと格闘しながら、アカリが尋ねる。
「沖ノ島だよ」
「沖ノ島?」
「フゲイタウン管轄の離れ小島でね、南にあるんだ。無人島だから島の人間もめったに行かないけれど」
 興奮した様子でトシハルは言った。
「そこに何かあるの」
 アカリは続けざまに尋ねる。懸命に髪を抑えていた。船のスピードによる強風。両脇に伸ばした前髪が激しくたなびいている。
「そうだ。あそこにはヤツがいる」
「ヤツ?」
「ホエルオーだよ。フゲイ島周辺海域の観察史上最も巨大なホエルオーだ」
 トシハルは前方に目を凝らしながら、続けた。
 ホエルオーの名は、島(しま)鯨(くじら)。
 番号でない、特別な個体。
 浮鯨神社の神様の名にちなんで僕達はその個体をそう呼んでいる、と。
 波を裂きながら船は走り続ける。
 やがて、太陽が西に沈み始め、海が、空が、水平線がオレンジに染まり始めた。同時に海を漂う空気が湿気を帯びてくる。
 だが、船は引き返す様子が無い。ただ真っ直ぐ一直線に南へ向かい走っていった。











15.

 沖ノ島。
 フゲイタウンのあるフゲイ島よりさらに南下した場所にある孤島。
 トシハルの生まれるもっと昔にはサトウキビや木の実を栽培していたこともあるらしい。が、島の畑の後継者がいなくなってからは住む者がいなくなってしまったのだと聞いていた。
 沖ノ島が見えてきたのは、水平線から日の赤が消えかけて、夜になろうという頃だった。
 フゲイ島に比べても簡素な船着場だ。数えるほどの船しか泊まれそうに無い。
 トシハルはエンジンレバーを後ろに引き、減速を始める。きれいに着岸するとロープを巻いた。真っ先に鶏頭とアカリが降り、ついでサーナイトが降りた。最後にトシハルとダイズが続く。
「バク、あなた顔色悪いわよ」
 アカリが言った。顔が赤いのと暗かったせいで顔色といわれてもトシハルにはさっぱりわからなかったが、まぁトレーナーの彼女が言うからそうなのだろうと彼は思った。
「船酔いかしらね。ずいぶん揺れたもの」
 彼女は続ける。酒に弱い。船にも弱い。この子、本当にパーティの要なのかしら、とアカリは勘ぐりだす。酒の席と同様にケロリとしているサーナイトとは対照的だった。
「モンスターボール、入る?」
 ボールをちらつかせると鶏頭はぶんぶんと首を振った。
「そういうところがかわいいのよね」
 少女は満足そうにニヤニヤすると、ボールをしまった。そうして新たに二個のボールを取り出すとグラエナとライボルトを繰り出した。
「いいこと。宝探しよ」
 アカリはふんふんと鼻を鳴らす黒と青の獣コンビにそう言った。

 島鯨。一番大きなホエルオー。
 沖ノ島までの航路を走る間、トシハルはアカリに語った。
 十数年前、島の漁師が巨大なホエルオーを発見したのだ、と。
 全長約30メートル。記録された中では最大の個体だった。
「けど、一つだけ残念な点があった」
「残念?」
「そいつはすでに仏様だったのさ」
 島の漁師が発見した巨大ホエルオー。
 それはすでに息絶えた後だった。
「まぁそれでも運がいいよ。ホエルオーは死んで間もなく沈んでいってしまうんだ」
 もちろんカスタニ博士は大いに興奮していた。
 言うまでも無く博士は陸に上げてそれを調べようとしたのだが、何せ大きい。解体して調べようにも時間がかかるし、腐臭がしてはまずいというので、フゲイ島ではなく沖ノ島でそれは行われることになった。この場所ならば誰にも迷惑をかけることはなかったから。
 沖ノ島の一番広い海岸。島民の協力も得て、巨大ホエルオーの亡骸をそこに引っ張り上げた。全長を測り、分厚い皮膚を苦労して裂いた。中のものもいろいろ調べて、満足いくまで記録をとった。
 そうして記録をとった後にその巨体は砂浜に埋められた。
「埋葬したってこと?」
「いや。骨格標本にするためさ」
 生物の骨格標本を作るにはいくつかの方法がある。薬品で煮る方法、虫に食わせる方法……だがホエルオーは大きすぎてそれらの方法は使えない。だから埋めて、自然分解を待つ。肉を腐らせ、微生物による分解を待つのだ。
 そうして骨だけになった時を見計らい、堀り出す。たしかそういう手はずになっていた。
「あの時は賑やかだったな。カイナの海の博物館もそうだけれど、カントーやジョウトの博物館からも研究員が何人も来た。カイナの館長なんか標本が出来たらぜひ譲って欲しいって直々に交渉しに来たくらいだった」
「結局、どうなったの?」
「わからない。確認していないんだ。あれだけの大きいホエルオーを埋めて、完全に骨にするには何年もかかるから。僕は掘り出したところまで確認していない」
 トシハルは知らない。掘ったのか、それとも未だ砂の中なのか。
「どこかの博物館に巨大な骨が寄贈されたという話も聞かない。僕が知らないだけかもしれないけれど」
「ということはつまり」
「ヤツはまだ島にいる。その可能性が高い」
 トシハルの舵を握る手に力が入った。
 正直なところ鍵との関連はよくわからなかったが、そんなことはこの際どうでもよくなっていた。
 自身の目で見届けていないそれをこの目で確かめてみたい。そう彼は思ったのだ。

「こっちの大きい道はサトウキビ道。道なりに歩いていくと昔のサトウキビ畑に出る。今は草が生えてるだけで何も無いけどね」
 陸側に続く道を指差してトシハルは説明した。
「砂浜はこっちの細い道」
 人気の無い島を彼らは海沿いに歩く。元来たほうには海があり、陸側には林が鬱蒼と茂っている。そうしている間に日は落ちる。虫や小さな蛙の合唱で島は騒がしいけれど、すっかりあたりは暗くなってしまった。
「エリーゼ、ラーイ。フラッシュ」
 と、アカリが指示を出した。一瞬何かの呪文かとトシハルは勘違いしたが、ポケモンのニックネームと技名だったらしい。サーナイト、それにライボルトがまばゆく光るエネルギー体を作り出した。
 便利なものだとトシハルは感心した。こちらの位置を知らせることによって下手に危険な野生ポケモンとも遭遇しまい。
 光球を連れた二匹を前と後ろに配置して、彼らは隊列を組み、歩いてゆく。後ろのサーナイトが光球を手の上で浮かせるようにし、先頭のライボルトはそれを口でくわえた。それに質量があるのかは定かでない。不思議な技だとトシハルは思う。ライボルトが空気中を嗅ぐようにしきりにふんふんと鼻を鳴らしている。落ち着きの無い様子だった。
「ここだ。この砂浜だよ」
 しばらくの行進の後にトシハルは言った。
 ゴツゴツとした岩の転がる緩やかな坂を慎重に下りる。砂浜に足を下ろすと、彼は駆けた。急きすぎて途中で一度転んだが気にする様子は無い。砂浜のその中心に向かい、走っていく。
 半月の形をした砂浜の真ん中。それが巨大ホエルオー、島鯨の身体を埋ずめた場所だった。
 砂を一掴み手に握った。指と指の間から砂がこぼれてゆく。
 あたりを見回す。比較的大きな流木を見つけ、それを浜に突き刺した。
「掘るの?」
 と、後から追いついてきたアカリが尋ねる。
「道具が要るな」
 と、トシハルは答えた。記憶を手繰り寄せる。陸側にしばし歩いた先に調査時に建てたプレハブがあるはずだった。そこに行けばスコップなどの道具が残っているかもしれない。
「一応、ロボが覚えているけれど。穴を掘る」
 隣で尻尾を振る黒と灰のポケモンを見て、彼女は言った。
 ハッハッと息を吐きながら、ロボと呼ばれたグラエナはアカリを見上げる。目は爛々と輝き、尻尾を千切れるほどに振り続けている。
「そうかい。それなら……」
 お願いするよと、トシハルは言いかけた。
 が、彼がそう言葉を発する前にポツリと冷たい何かが頬を打った。
「雨?」
 彼がそう問いかけると同時に一気に雨粒が降り出した。
 頬に、腕に粒が当たる。時を待たずして周囲がザアザアという音に包まれる。小雨などという曖昧な状態を経ずに、天気は一挙に大雨に転じた。
「うわッ……ラーイが落ち着かないと思ったら!」
 手の平で雨から顔を守るようにし、アカリは空を見た。そうなのだ。さっきからやけに暗いと思っていた。空には星も無いし、月もない。
「向こうにプレハブがあるはずだ」
 と、トシハルが言った。一行は慌ててトシハルを先頭に走っていく。雨水を吸い込んだ砂浜がざくざくと音を立てた。
 雨の勢いがますます加速する。暗い空からもたらされる雨はたちまちに彼らの衣服を濡らし、陣地をとるように侵攻した。ほどなくして、衣服に乾いた部分はなくなって、濡れた生地がしわを作りながらぴったりと体に密着した。靴の中もぐしょぐしょになり、一歩を踏み出すごとにぐちゅぐちゅと嫌な音を立てる。
 雨粒はトシハルのかける眼鏡も水滴だらけにする。やがてそれは雨の日の窓のように流れ出す。眼鏡だけではない。やがてぐっしょり濡れた髪からも水滴が流れるようになり、トシハルの顔に、目にとめどなく流れた。こうなると視界が悪い。
 海岸をぬけて、林の中の荒れた道をゆく。まるでシャワーを浴びているかのように木々の肌からも水滴が流れ続けている。
 流れ込む雨粒と戦いながらトシハルは少女と共に建物を探す。
 最初に声を上げたのは、アカリのライボルトだった。光球を口にくわえたまま、低い唸り声を上げた。
「あった。プレハブだ」
 とトシハルが視界の悪いその先を見て言った。
 一同は走る。鍵はついていない。初めにその扉を開いたのはアカリだった。だが、中に入ってすぐに彼女は言った。
「トシハルさん、これはダメだわ」
「どういうこと?」
 そう尋ねてトシハルも中を見る。そうしてすぐに理解した。
 サーナイトの光球が照らした部屋の中に大量の雨粒が降り注いでいた。あちこち雨漏りをしている程度ならまだよかった。が、その惨状はそんな生易しいものではなく、風雨がそのまま上から吹き込んでいると言ったほうが適切だった。
 放っておかれた十数年の間、南国につきものの台風にくれてやってしまったのだろうか。屋根には大きな穴が空いていて、原生林と暗い空がその上にあった。かろうじてくっつき残っている屋根も地面に向かってお辞儀をし、今や床に水を運ぶだけの雨どいとなってしまっている。
「船に戻る?」
「いや、それは危険だと思う。かといって他に雨宿りできるとこなんて……参ったな」
 ダバダバと雨に晒されるだけの朽ちた床を見てトシハルは言った。下手に踏み込めばめりめりと音を立てて底が抜けるかもしれなかった。
 雨が降り続いている。穴が開いたぽっかりと空いたプレハブの屋根を呆然と二人は見つめた。
 彼らの意識が他へ向いたのは、グラエナとライボルトの二匹が少し離れた所からけたたましく吼えたのを聞いてからだった。
「ワンワン、ワン!」
「バウ、バウゥッ!」
 声に気が付いてトシハルとアカリはプレハブの外へ飛び出した。
 林の荒れた道の、さらにその先。灯りが一つ揺れている。ライボルトのフラッシュだった。
 灯りに誘われるように走っていく。細い道を抜けると林が開けた。
 舗装されぬ荒れた道ではあったが、ずいぶん広い。かつての島の住人が開いたサトウキビを運ぶ道路だった。船着場で別れた二つの道。ここがその合流地点だった。
「あれ?」
 開けた視界の先を見て、トシハルは声を上げる。
 道の先に広がるかつてのトウキビ畑。今は草が生え放題のその草原。そこにミナモの港にいくつも並んでいそうな大きな倉庫のような建物がひとつだけ、ポツリと雨の風景の中に溶け込んで、建っていた。グラエナ、ライボルトが交互に吼え続けている。トシハル達が走り寄り、二人とポケモン達は合流する。
「なんだこれ……昔はこんなものなかったはずだけど」
 トシハルは呟いた。だが、一方で安堵した。これほどに堅牢な建物ならば雨宿りくらいわけはないはずだ。
「入り口は……」
 道の前にあるシャッターは硬く閉ざされていて、開きそうに無い。彼らは倉庫をぐるりと回って入れる場所を探した。建物をぐるりと一周するように歩くと裏に小さな通用口を見つけた。
「鍵、閉まってる……」
 ドアノブをガチャガチャと回してアカリは言った。
「……壊そうか」
「いやそれはちょっと」
「ブレイズキックなら一発よ」
 びしょびしょになった頼りなさそうな鶏頭を指してアカリは物騒なことを言い始める。鶏頭がぶるぶると全身を震わせて、水を払うと手首から炎を出して構える。雨の中にも関わらず、炎がほとばしるのはさすがチャンピオンのポケモンか、などとトシハルは思ったが、
「いやちょっと、待てよ!」
 と、考え直し彼らを制止する。
「雨宿りにはかえられないわ」と、即座にアカリは言った。
「一晩もこんな状態なんて私いやよ。トシハルさんが開けられるなら別だけど」
「いや、それは……鍵なんて持ってないし」
 トシハルは言葉に詰まった。建物の存在も知らなかった自分が通用口の鍵なんて持っているわけも無いと思った。だが、
「……鍵?」
 トシハルとアカリは顔を見合わせた。
「まさか」
「それで開かなきゃ、破るだけだわ」
「……わかった」
 トシハルは濡れたポケットの底にある封筒を取り出した。丈夫な紙で作られたその封筒は水をたっぷりと吸っていたが破けてはいない。折りたたんだ封筒を開き、中から鍵を取り出す。ドアノブにそれを差し込み、回した。
「……回った」
 キイ、と内側にドアは開き、彼らを中に招き入れた。水滴を床に垂らしながら彼らはなだれ込んでいく。
 が、倉庫に入った次の瞬間に、二、三歩を踏み出してトシハルは立ち止まった。
 続くようにして入ったライボルトのフラッシュが倉庫の中を照らした時に。
「どうしたの?」
 と、アカリが尋ねる。が、すぐに理解した。
 中には既に先客がいることに気が付いたからだった。
 それはあまりにも大きすぎて、何であるか理解するのに数秒をアカリは要した。そうして理解した。見えていたのは先客の一部。尻尾だった。
「…………島鯨だ。間違いない」
 トシハルが言った。
 あまりに巨大なので、頭のほうまでその光は届かなかった。
 フラッシュが闇を照らす。それが闇の中に横たわる巨大な骨を照らしていた。





16.

「びえーっくしょん!」
 トシハルが巨大うきくじらの肋骨の下、盛大にくしゃみをした。
 寒い。だが濡れた身体を乾かさなくてはならないのでそこは我慢した。
 彼らは今、二手に分かれて濡れた体と服を乾かす最中だった。

「トシハルさん、私が出てくるまでこっちきちゃだめだからね!」
 広い倉庫に少女の声が響き渡る。倉庫の端に積まれたコンテナの影に隠れてのアカリの台詞だった。コンテナの後ろで光が漏れ、その前で鶏頭が腕組みをしている。
「何言ってんだよ! 言われなくても見たりしないよ! こっちも服絞るからしばらく出てこないでくれよ」
 トシハルが反対側の端で、服を絞りながら言った。ダバダバと水が落ちる。
 その傍らにはアカリから貸してもらったライボルトが光球を口にくわえながらものすごく嫌そうな目を向けていた。目つきの悪いライボルトだったが、アカリいわく女の子とのことだった。
「あーあ。靴もズボンもかわかさなきゃだめだな。これは」
 トシハルはズボンを脱ぐ。トランクス一丁の情けない姿になり絞る。また水が落ちる。
「ダイズ、かぜおこし頼む。軽くな」
 そのように依頼すると、ピジョットが片翼を使ってうちわを仰ぐようなしぐさをした。びゅうっと風が吹く。彼はそこで盛大にくしゃみをした。
「ダイズ、もう少し弱く。そうそうそれくらい」
 ピジョットにそんな贅沢を言いながら、今度は髪を乾かす。冷たい風だからなかなか乾かない。またくしゃみをする。
「すいません。ちょっと借ります」
 そういって巨大ホエルオーの前鰭に上着を引っ掛け、靴を引っ掛けた。ぽた、ぽたと靴の先から雫が落ちる。ズボンを干せないのは無念だが仕方あるまい。これ以上水が出ない程度によく絞った後にトシハルはそのまま履くことにした。上半身は許してもらうにしろ、この状況で履かない選択肢はない、と判断した。
 ライボルトと共に歩く。倉庫から数少ない資材を探したところ、ダンボールのようなものは見つかった。もう少しまともなものが残っていてもいいのに、などと思いながら、二、三枚下に敷き、座る。
「まぁ、コンクリート直寝よりはいくぶんかいいか」
 トシハルは呟いた。少なくとも雨が上がるまではここで過ごさなくてはならない。天井から雨打つ音、ガタガタと風の鳴る音が響いてくる。ダイズがぴょこぴょことトシハルに近寄り、隣に座った。
「ダイズ、お前本当は知ってたんじゃないのか。鍵のこと」
 トシハルがそう言うとピジョットは彼を見、首をかしげた。
「とぼけてるのか? 本当に知らないのか? まあ、いいけどさ……」
 そこまで言うとトシハルはもう追求しなかった。
 おそらくは骨を掘り出したことは知っていたのだろう。だが、それの学術的価値や意味はダイズに理解できなかったに違いない。博士が骨を掘り出して、この場所に収めた。それを言葉にして表現する力を彼は持っていない。博士がダイズが知らない間に鍵を作った可能性もあった。
 ミズナギは知っていたのだろうかとも考えを巡らせた。彼のことだから骨を掘り出す手伝いくらいはしたのだろう。だがそこまで考えてもういいや、とトシハルは思った。
 知りたかったのは鍵を開けたその先だ。それがわかったなら、それらはすべて些細なことなのだ。
 伏せていたライボルトが顔を上げ、立ち上がった。コンテナの裏からアカリが出てきたからだった。バンダナはしていなかったが、赤い服はしっかりと身につけていた。
「もう乾いたの?」
 ポケモンをぞろぞろ引き連れてやってくるアカリにトシハルが尋ねると、
「速乾性なのよ。最近のトレーナー用品ってよく出来てるの」
 と、返された。トレーナーの旅の大きな悩みのひとつが洗濯だ。だから衣服は日々進化しているのだと彼女は言う。リーグの賞金を使って、以前着ていたものと同じデザインでオーダーメイドしたのだと説明した。
「そりゃあ研究者にも喜ばれそうだな」
 トシハルが返す。
 アカリはポーチから、モンスターボール程度のカプセルを出すと、中身を取り出して栓を抜いた。するとそれはみるみるうちに膨らんで寝袋になった。さすがは野山を歩き回るトレーナーである。準備の仕方が違っていた。ぼすん、とアカリがその上に座る。ポケモン達が隣に座ったり、足元に擦り寄ったりした。よしよし、とアカリがグラエナを撫でてやる。
 海の上で少女は言った。ポケモンが好きなら、バトルが好きなら、自分はトレーナーでいられる、と。トシハルはその言葉を思い出していた。
 いずれ島を発つであろう彼女がどこへ行くのか。それをトシハルは知らない。けれどその言葉の通りに彼女はトレーナーであり続けるのだろう。
 トシハルは後方に手をつくと、再び巨大ホエルオー、島鯨の骨格を見上げた。同じようにダイズやアカリ達もそれを見上げた。暗い倉庫の中、光に照らされた巨大な顔の骨。それを短い首が支えてる。それはやがて背骨となり尾まで続いてゆく。その間に巨大な肋骨が半円を描くように、何かを掬い上げるように伸びている。
 博士の手により既に掘り出されていた全身骨格。まるでそれ自体がひとつの建造物だった。その中に収まってしまう自分達はまるでホエルオーの血肉か内臓になってしまったかのように思われた。
「大きいな」と、トシハルが言う。
「うん、大きい」と、アカリが答えた。
 トシハルは思う。いつの頃からか人は数字という概念を発明し、使い続けてきた。それは自分達がポケモンという生物を認識する為にもしばしば用いられてきた、と。図鑑で名前の次に挙げられるのは、ポケモンの高さ、そして重さなのだから。
 一匹、十匹、百匹、千匹。10メートル、20メートル、30メートル。1キログラム、10キログラム、100キログラム。数や長さ、重さを言葉だけで言うのは簡単だ。だがそれだけでは、単に口に出すだけでは実感を伴わない。だから数字を知っているだけでは、大きさを知っているとは言い難いのだとトシハルは思う。
 実際に対峙して、ちっぽけな自らと比較したときに、人は数字の実際を理解する。その数の多さ、大きさ、重さを理解する。ちょうど傍らの鳥ポケモンに触れたその時、はじめてその暖かさ、感触、匂いがわかるのと同じように。
 一番大きなポケモン、ホエルオー。
 けれどそれが大きいと知っている者は少ない。
 皆、14メートルという数字だけは知っている。けれどその大きさまでは、知らない。
「トシハルさん、これからどうするつもり?」
 不意にアカリが尋ねた。
「君こそ、どうするんだい」
 トシハルが返す。
「もう決めてるくせに」
「そっちこそ」
 鼓膜に響く雨の音。ポケモン達のフラッシュが消えたのが先か、トシハルかアカリが瞼を閉じたのが先か、それは両者とも覚えていない。
 雨が降り続いている。いつ止むだろうか。もし明日が晴れならば、シャッターを開けてみよう、そんなことを考えながらトシハルは眠りに落ちていった。

 …………。

 ……。

 はっと彼は目を開く。
 エンジン音に気が付いて、目を開いた。
 気が付くとトシハルは船の甲板に立っていた。博士の船の甲板に。ああ、たぶんこれは夢だな、とトシハルは思った。昔はよくあった。明日船に乗るぞと博士に言われると博士の船に乗っている夢を見る。
 けれど洋上になかなかホエルオーが見つからなくて。うまくいかなくて。焦っていると、起こされる。朝を迎えているのだ。
 海風が吹く。船は猛スピードで洋上を進む。
 デッキのほうから誰かと誰かが話す声が聞こえて、トシハルは近づいていく。
 覗いてみると二人の人物がそこにはいた。一人は船の舵をとり、一人は双眼鏡を持って、海を覗いていた。
「どうだトシハル見えるかー」
 舵を持つ男が、双眼鏡の少年に尋ねる。
「見えないですねぇ」
 そこにいたのはカスタニ博士、そしてかつての自分だった。
「うーむ、今日は不漁だなぁ」
「そうですねぇ」
「飯にするか」
「そうしましょう」
 師弟は軽妙なノリと共に、提案と同意を交わし、船は停まった。彼らは洋上で昼食を摂り始めた。今日の昼食はトシハルの母が持たせた弁当だった。師弟のそれぞれが島自生の植物の葉の包みを取ると、海の幸の詰まった具の入ったおにぎりが、三つほど並んでいた。
「ダイズ、おいで」
 と、クジラ博士の弟子が言う。
 デッキから一匹のピジョンが降りてきて、弟子のおにぎりを一つ、つつきはじめた。
 彼らはしばしの間、食事に集中した。
「トシハル、ホエルオーとは、何だと思う」
 不意に博士が、口をもごもごさせながら弟子に問うた。
「…………何なんでしょう」
 口にご飯粒をつけた頼りない弟子は返して、ピジョンのダイズが首をかしげる。少しくらい考えろよともトシハルは思ったが、いかんせん博士の問いかけも抽象的過ぎる。
「ホエルオーとは……」
 と博士は続けた。
「ホエルオーとは?」
 弟子がオウムがえしする。
「ホエルオーとは、…………ロマンだ」
「……はい?」
 弟子とトシハルは同時に突っ込んだ。
 だが、大真面目な顔で博士は続けた。
「なあ、トシハル。私はなんであの日、129番水道でホエルオーなんて見てしまったんだろうなぁ」
 と、彼は続けた。
「おかげで私は知ってしまった。自分はひどく小さく、弱い生き物だと知ってしまった」
 どこかで聞いたような台詞だとトシハルは思った。
「狭い世界の中でつまらんことにこだわって、虚勢を張って生きていたんだと知ってしまった。自分が一生懸命追いかけてきたものが急に馬鹿らしくなってしまったんだ」
 博士はおにぎりをすべて口に入れると、葉を丸め、海に投げ捨てた。
「ホエルオーはデカい。バカみたくデカい。そのデカさは人の価値観を変えちまう。人間のどんな業績も名誉も、こいつの前にはかすんじまう。実にくだらん。俺はこいつに出会ったとき、自分のいる世界が、自分の抱えているものがどうでもよくなっちまった。私は決めた。私は、私の残りの人生をかけて、とことんこのホエルオーってやつに付き合おうと決めた」
 トシハルはどきりとした。博士がトシハルを見た。
 傍らでおにぎりをほおばるクジラ博士の弟子でなく、トシハルのほうを。
「忘れるなトシハル。この島に生まれたお前にとってホエルオーはただの隣人で、当たり前に存在している者で、ただの近所に生息している生物、すなわちそれはお前にとって単なる日常でしかないのかもしれないが、ホエルオーの大きさを知っているお前は、そうでない者達よりはるかに多くを知っているのだということを」
「博士、」
 と、トシハルは口に出した。

「博士、僕は――――」


 …………。

 ……。

 トシハルは再び目覚める。
 ああ、そうか夢だったのか、と彼は思った。いや、夢だとわかっていたのだがいつのまにか前提を忘れていたのだ、と。
 隣を見るとアカリとそのポケモン達、そしてピジョットのダイズが立っていた。
「おはよう。トシハルさん」
 と、赤バンダナの少女が言った。
「もう寝てるのは貴方だけよ」
「ああ、ああ。ごめん」
 と、トシハルは返事をした。まだほの暗い。朝焼けには遠い時間なのだろうか。
「ところで、ちょっと思い出せないんだけど」
 と、アカリは続けざまに言う。
「何がだい」
「私達、沖ノ島に来て、雨に降られたのよね」
「ああ、そうだよ」
 トシハルが答える。
「倉庫を見つけて、その中で眠った。島鯨の骨の下で」
「君の言う通りだ」
 トシハルは尚も答える。
「それなら私達、どうしちゃったのかしら」
 と、アカリは問いかけた。
「ここはどこかしら」
「え?」
 トシハルはアカリの問いに気が付いた。不意に周囲の音が、空気が変わったのがわかった。
 彼らの上に広がっていたのは一面の夜空だった。数え切れない数の星が瞬き、星座が見下ろしていた。それは雨雲に隠されていたはずの、星屑のちりばめられた夜空だった。
 そうしてトシハルは感触に気が付く。自分が今、腰を下ろし座っているものの感触に。
 ぶよんとした感触の青い身体。知っている。これはホエルオーだ。ホエルオーの背中の上に自分はいる。自分達はいる。
 トシハルは立ち上がった。視線の先で大きな尾鰭が揺れていた。
 おかしいのはホエルオーの浮いている場所だった。どうも海水の色が変だし、もやもやしているように見える。まるでドライアイスの煙のように掴めない、煙のような何かにそれは見えた。
「雲よ」
 と、アカリが言った。
「雲?」
「そうよ。今、私達の下で雨が降ってるの。雲の上だからここは晴れてるのよ。どうも私達は島鯨の背中にのって空の旅に出てしまったらしい」
 まるで何かの舞台の台詞みたいにアカリが言った。
「なんだよそれ。ムチャクチャな設定だな」
「そんなことは無いわよ。博士を乗せて海に出る前、神職さんが言っていたじゃない。海面を鏡に海に見立てた時、頭から海に沈むことは空に昇ることと同じだって」
「いや確かにそうは言ってたけれど」
 トシハルは混乱する。ホエルオーは海に浮かぶもので、雲に浮かぶものではないのだ。確かに彼らは死ねば海に沈んでいく。だから海面を鏡とするならば、ホエルオーは空を飛んでいるのかもしれないが。
「それにね、あの人も同じことを言ってるの」
 アカリが前方を指差した。
「あの人?」
 トシハルが問いかける。さっきからアカリの言葉によって、視界がだんだんと開けているように思われた。そうしてアカリが前方を指差した。トシハルは初めて前を向いた。ホエルオーの進行方向に顔と身体を向けた。
 そうして見つけた。
 巨大なホエルオーの背の、白い四つの模様のその先、うきくじらの頭の上に誰かが立っているのを。
 腕組みをしている人物の背は高い。
「何を今更驚いてんだトシハル。お前はこの風景を知っているだろう?」
 聞き覚えのある声だった。
 白い半袖のポロシャツを着たその人が、彼らの側に振り向いた。
「今私達を乗せてるこいつが――島鯨が教えてくれたぞ。昔雲の上でお前を乗せたってな」
 高身長の老人が装着しているのは愛用の眼鏡。
「トシハル、お前昔、沖ノ島に行こうとして遭難したな。死にかけて雲の上まで行ったはいいが、こいつに振り落とされた。そんなことまで忘れちまったのか?」
 それはかつてホエルオーを求め島にやってきた人。自らをクジラ博士と名乗った人。
 それは一昨日、海に沈んだその人。
「カスタニ博士……!」
 トシハルが声を上げた。
「よお、久しぶりだなあトシハル。その様子だとまぁまぁ元気みたいだな」
 取り乱す弟子を尻目に、老人はあくまで調子を崩さない。まるでかつての思い出の写真のようにうっすらと笑みを浮かべながら淡々と語った。
「お前の意識がぶっ飛んでる間、そこの赤い子からいろいろ聞いたぞ。お前、ホエルオーに乗って帰ってきたんだって?」
 博士は続ける。
 トシハルは何かを言おうとするがうまく声として出てこない。
「トレーナーサポートシステムだったか。あれは便利だよな。掘り出したこいつの骨をどうやって運び出そうかと思ってたんだが、試しに募集かけたらよ、バトルガールやらサイキッカーやらいろいろ集まってくれて助かった。あの時はバッジ五個くらいの奴らに集まってもらったが、まさかお前がリーグチャンピオン引っ張り出してくるたぁなぁ。大したヤツだよ、本当に。昔っから人に迷惑かけてばかりでさ……」
 ああ、言わなくては。
 とトシハルは焦る。けれど積もる話がたくさんありすぎて、つっかえてどれも出てこない。
 言わなくては。言わなくてはいけないのに。
 聞きたいことだってたくさんあるのに。
「知ってるかトシハル。島の誰かが死ぬとな。島の祖霊ってのがこっちに迎えをよこすそうだ」
 島の神職が言ってたんだがな、と付け加える。
「私は余所者だからな。正直、受け入れられるのか心配していたが、一日ばかり待ってたら、こいつが迎えにきてくれた。神職さんがちゃんと葬儀をやってくれたお陰かも知れないな。あとでお前から礼を言っといてくれ」
 弟子が何か言いたそうなのを博士は知ってか知らずか、一方的にしゃべり続けた。
 星が瞬く。星座が煌く。
 強く強く風が吹いて、雲が流されていく。
 隣に立つアカリの髪がばたばたとたなびいている。
 博士、博士。博士!
 声が出ない。少年は焦る。うきくじらの背の上で少年は焦る。
「あれだろ、お前さ、私にいろいろ聞きたいことがあるんだろ?」
 わかってるよ、とでも言いたげに、博士は笑った。
「島を出たことがどうとか、本当はどうして欲しかったんだとか、こいつのバカでかい骨を押し付けてどうするのか、とかさ。お前はそういうことが聞きたいんだろ? そういうくだらないことをさ」
 お見通しなんだよ、そう博士は続ける。
「すごかったろ? あれ。カイナの館長が未だに欲しがってるんだ。まあ、私はあいつ嫌いだからさ、頼まれたってやらないけどな?」
 そう言って博士は「がはは、」と笑った。
 トシハルは尚も何かを声に出そうとするけれど、風のようにひゅうひゅうと空気が漏れるだけで、博士には届かない。走り寄って行きたいのに足も動かない。
 全長約30メートル。島鯨の背中の距離は長く、遠い。
 ああ、きっとこれも夢。夢なんだと彼は思った。
 夢っていうのはいつだってそうだ。いつだって思い通りに運ばない。
「トシハル、」
 言い聞かせるように博士は言った。
「お前達の世界における私の役割は終わってしまったんだ。だからこれ以上は言わないし、言うことは出来ないんだ」
 博士は続けた。人は言葉で生きているから。言葉で世界を、自分を定義するから。だから去る者がむやみに言葉で縛ってはいけないのだ、と。
「本当はな、こうしてるのだってルール違反なんだ。ついしゃべり過ぎちまったがな」
 星が輝いている。夜空の雲の上をホエルオーは進んでゆく。
 腕にはめた時計を見て、そろそろタイムリミットだ、と博士は呟いた。
 瞬間、彼らの乗る島鯨の前方、後方、そして左右のあちこちから、無数の潮が吹き上がった。そうして、いくばくかもしないうちに潮吹きの主達はその巨体を雲から出し、島鯨と併走し始めた。
 ああ、迎えだ。彼らは迎えだ。
 トシハルにはそれが分かってしまった。
 知っている。昼と夜、空の色はあの時と違うけれど、この風景を知っている。
 吹きすさぶ風の中、博士を見た。博士もまたトシハルを見た。博士はふっと笑った。そうして再び進行方向に向き直った。前を向いたままもう二度と振り返らなかった。
「トシハル」
 風の中で博士は呟いた。
 耳の横でびゅうびゅうと風が鳴る。
 だからバカ弟子には聞こえまいと思った。
「トシハル。こいつの骨の行き先も、自らの行き先も、お前自身が決めるんだ。誰でもない、お前自身が」
 前を向いたまま博士は呟いた。
「お前はもう、少年ではないのだから」
 じゃあな。
 博士は手を軽く上げる。
 瞬間、島鯨が最大級の「潮噴き」をした。勢いよく吹き上げられたそれが濃い霧のようになって前方の視界を塞ぐ。博士が消えた。霧に隠されるようにその姿は見えなくなった。
「……はか、せ……はかせ! 博士!」
 トシハルは叫んだ。
「カスタニ博士ッ!!」
 だが声が戻った時にはもうすべてが遅かった。
 金縛りが解かれたように、急に身体が動くようになって、彼は島鯨の頭まで全速力で走ったけれど、博士の腕を掴むことも、その姿を捉えることも出来なかった。忽然と消えてしまったように、最初からいなかったように、そこにもう博士はいなかった。
 霧が晴れていく。すべてが風に流されて、また星空が覗いた時、トシハルはたくさんのホエルオー達がぐんぐん空へ昇ってゆく光景を目の当たりにした。
 ああ、同じだ。と、彼は思った。あの時と同じだと。
 きっと博士はあのくじら達のどれかの上にいて、手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
 届かない。もう、届かない。博士には届かないのだ。
 ふと、誰かが手を掴んだのがわかった。振り返るとアカリだった。
「トシハルさん、戻ろう」
 と、彼女は言った。
「戻る?」
「そうよ。私達は、私達の世界に戻るの。見て」
 雲の向こうを指差す。小さな影が雲の海に見え隠れした。ホエルオーが一匹、蛇行しながら雲の中を泳いでくる。ある地点まで来ると雲の中に潜るように消えてしまった。
「シロナガちゃんが迎えに来てくれたのよ。乗り換えよう」
「乗り換えるって、どうやって」
「もちろん、飛び降りるのよ。あなた昔、そうやって戻ったんでしょ? 大丈夫よ。あとでシロナガちゃんが拾ってくれるって。じゃ、先に行ってるわよ」
 そう言ってアカリは島鯨の横幅ぎりぎりまで後ずさると、助走をつけてジャンプした。雲の中へのダイビング。彼女の身体は一瞬で雲の海に消え、見えなくなってしまった。その後を追うようにして、アカリのポケモン達が続いていった。
 まるで水泳選手のように真っ先に鶏頭が飛び込んで、続いて獣の二匹が一緒になって飛び込んだ。はためくスカートを押さえながらサーナイトも落ちていく。そして、不意に上空でトゥリリーィと声がしたのをトシハルは聞いた。いつの間にボールから出されたのだろうか。オオスバメのレイランが星空を旋回して飛んでおり、まるで水中の獲物を狙う海鳥のように雲の海に突っ込んでいった。
 びゅうびゅうと風の走る足元を、トシハルは呆然と見つめている。雲の中、アカリとそのポケモン達は既に見えない。まるで当たり前だというように落ちていったトレーナーとそのポケモン達の気が知れなかった。やつらには恐怖心が無いのかと彼は本気で疑った。ジョウト地方のなんとかって寺の舞台から飛び降りるとかそういうレベルではない。
 が、次の瞬間、ドン、とトシハルは背中を押され、島鯨から真っ逆さまに落っこちた。
 ダイズの体当たり、あるいは捨て身タックルだった。
「……」
 島鯨の背の上。風に冠羽をたなびかせたピジョットは下を見つめる。しっかりと主人が落ちたことを確認すると、翼を広げた。空中で体勢を変える。そうして彼は雲の海にダイビングし、消えていった。
 空に昇ってゆく島鯨。その姿を一瞬だけ目に焼き付けて。



 トシハルが気が付いた時にはもう朝だった。
 彼はうきくじらの骨の下で仰向けになっていた。
 倉庫のいくつかの窓からは眩しい朝日が差していて、中の埃が舞っているのがよくわかった。
 横になったまま、隣を見るとアカリとポケモン達はまだ眠っていた。おはよう、とでも言うように朝日の逆光を背負い島鯨の背骨にとまったピジョットがピュイと鳴いた。
 ああ、眩しい。とても眩しい。
 トシハルは腕で目を覆い光を遮る。
 つうっと一筋、涙が流れた。

 ただいま。
 僕は今、帰ったよ。

 そうだ。自分は今、初めて帰ってきたのだ。
 そのようにトシハルは思った。









エピローグ

 昨日、トシハルが干した上着は湿り気が気にならない程度に乾いていた。靴はまだ湿気があったけれどとりあえず履くことにした。多少の湿り気があったって歩けないことはあるまい、とそう思う。
 きょろきょろとあたりを見回す。目的のものはすぐに見つかった。
 手をかけた。だいぶ固くなっていたが、体重をかけるとそれを回すことが出来た。閉ざされていたシャッターがガラガラと開き始め、一挙に光が差し込んだ。
 音につられてアカリ達が目を覚ます。見れば、レバーを懸命に回すトシハルの姿があった。彼女は寝袋から這い出してゆき、ガラガラと開いてゆくシャッターの下を潜る。倉庫を出て、見上げた空はからりと晴れていた。
 がちゃん、といって音が消えた。倉庫のシャッターが全開になる。雨の夜は暗く、部分部分しか見えなかった島鯨。その全貌をようやく彼らは目の当たりにした。
「カイナの館長が欲しがるはずだよなぁ」
 ぐるりと囲うように歩き回りながら、彼らは改めてその大きさを体感した。
 大きい。四枚の鰭といい、背骨のひとつとったって、パーツパーツの大きさが半端ではないのだ。頭部だけでも圧巻だった。小さな船一隻程度ならば余裕で丸飲みに出来そうである。
 もしかしたら博士はこれを一人でこれを眺めてはニヤついていたのかも分からないと、トシハルは想像した。まぁダイズくらいは連れていたかもしれないが。
 これに乗っかっていたのか。博士はこれに乗って、そしていってしまったのか。
 トシハルは空の上に思いを馳せる。
「ねえ、アカリちゃんってバンジージャンプ好きだったりする?」
 何の躊躇もなく雲に飛び込んだアカリを思い出し、気まぐれにトシハルは尋ねたが、アカリに変な顔をされたので、いやなんでもないよ、と彼ははぐらかした。
「戻ろうか」
 彼が言うと、アカリは同意した。
「お腹がすいたわ」
 と、彼女は言った。
 昨日の昼から何も食べていない。早く何か食べたい、と。
 晴れた空の下、かつてのサトウキビ道を獣達が駆けていく。昨日は出さなかったからと、運動に出されたオオスバメの影が彼らを追い越していった。
 道路を道なりに進み船着場に到着する。船は無事だった。
 驚いたのはどこで嗅ぎつけたのか。あるいは何かを予感したのか。島に着いたその日に放しておいたアカリのホエルオーがすぐ近くで潮を吹いていたことだった。
 彼女は驚き、なんでここにいるの、どうしてわかったのなどと言っていたが、手持ち全員揃ったとも喜んで無邪気にはしゃいでいた。
 そうしてトシハルとダイズは船に、アカリ達はホエルオーに乗ってフゲイ島に戻っていった。

 島に戻るとずいぶんとトシハルは怒られた。
 心配したじゃないか、また遭難したのかと思ったという声が大半だった。中には昨晩はお楽しみでしたね、などととんでもないことをぬかす輩がいたが、彼は断固として否定した。ダイズがやれやれとでも言いたげに足で冠羽の後ろを掻いていた。

 アカリは二日ほど島をぶらつくと、ついに島を発つとトシハルに告げた。
 北上すると彼女は説明した。まずはシロナガに乗って西へ移動し、リーグ本部のあるサイユウシティに渡る。野暮用を済ませた後に、飛行機に乗り、さらにカナズミの飛行場からカントーへ飛ぶという。
「カントーでしばらくぶらぶらするつもりだけれど、シンオウに行こうと思ってる」
 と、彼女は語った。化石をたくさん掘るのだという。
「もうホウエンには帰らないつもりなのかい」
「今は、わからない。あなたこそどうするのよトシハルさん」
 アカリが返した。結論などもうわかっていたけれど、はっきりと言葉で聞いておきたかった。
「……そうだな。今度の定期便で一旦本土に戻るよ。いろいろ片付けなくちゃいけないこともあるし、でもすぐに戻る。今度は十年とかじゃなくて……」
「そう」
 アカリはいつものように素っ気無く返事をしたが、口は笑っていた。
 そうしてアカリは再びホエルオーに乗ると島を去った。レイランがダイズとの別れを惜しんでいた。終始島のほうを振り返っては名残惜しそうにしていたが、ダイズはほっとした様子だった。

 時はあっと言う間に流れていった。
 島に戻ったトシハルは、町長に許可を受け、研究所の土地と施設を借り受けた。今は事実上住み込みで、そこから毎日海へ出ている。
 すぐに秋が終わり、師走が駆け抜けて、正月になる。彼は十年以上の間を経て久々に浮鯨神社に初詣をした。そうして元旦から三週間くらい過ぎた頃に見慣れない消印がついた便りが届いた。
 ダイズの嘴に挟まれたそれを見るとアカリからで、シンオウのポストカードに最近のことが少しばかり綴られていた。
 それによると、ここから遥か北にあるシンオウはよく雪の降るところであるらしい。化石堀りを思う存分にやった後のブームは犬ぞりなのだそうだ。グラエナのロボ、ライボルトのラーイのコンビにそりを引かせ、大会に出るのだという。
 はるかに続く白一色の大地。グラエナとライボルトにそりを引かせ、犬ぞり遊びに興じる彼女の後ろを、置いてけぼりを食らって、懸命に追いかける鶏頭を想像し、トシハルは少し愉快になった。今日もあのバシャーモは彼女に引っ張りまわされているに違いない。そうに違いない。
 追伸に妙なことが書かれていて、トシハルはしばしダイズを見つめていたが、ピジョットは首を傾げるばかり。決定的な証拠も無いので、あまり気にしないことにトシハルは決めた。
 当分はこの地方にいるつもりだと彼女は続けていた。ホウエンに帰るつもりは今のところないらしい。
 でも、いつか。と、彼は思う。
 いつか、いつの日か、それが何年後になるか、あるいは何十年後になるのかはわからないけれど、うきくじらの背中に乗ってきっと彼女は帰ってくる。そんな風にトシハルは思うのだ。
 トシハルはしばしの間、ポストカードを眺めていたが、やがてそっとそれを机の上に置いた。
 そうして代わりに手に取ったのはフィールドノート。ポケットにその小さなノートを突っ込むと、傍らのピジョットに行くよ、と告げる。海に出る時間だった。
 誰もいなくなった研究所の一室は静かだった。
 ポストカードの置かれた机。その前で開かれた窓の向こうに、青い空と碧い海が覗いている。
 碧い海の上にある青い空は何者にも占領されず、水蒸気を吸い上げもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
 ふと、その風景に海から吹き上げられた海水が混じる。
 それはこの付近の海域に棲む巨大な生物の仕業だった。
 吹き上げられた海水。それは空中でキラキラと輝いて、ほどなくして海へと還ってゆく。


 波の音が、聞こえる。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す、波の音、海の音色が。
 少年はもういない。
 耳の鼓膜に残った故郷の音。それを探す少年はもういない。

 海が鳴っている。
 かつての少年は噛み締める。
 自分はここにいる。自分の居場所はここ。ここにあるのだと。

 海が鳴っている。
 息をしている。脈を打っている。

 波の音が、聞こえる。









少年の帰郷「了」





























アカリちゃんからの葉書

少年の帰郷(14)〜(17) 完結 (画像サイズ: 1356×1455 365kB)


  [No.2742] 朝霧 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/22(Thu) 22:29:33   97clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 真っ白だ。
 頭が真っ白なわけではなく、視界が真っ白なのだ。
 航路が見えない。進む先が見えない。
 道の半ばで男は問う。自問する。

 私はどこに行く?
 どこに向かって走っている?


 出張でジョウト地方に行ったことは数え切れぬほどあったのだが、ホウエンは初めてだった。
 ホウエン地方キナギタウン、海に浮かぶ町。アクセスはカイナシティから船で南下、あるいはミナモシティから北上が一般的だ。
 どの民家も海上に浮かび、波でゆらゆらと揺れている。移動もまた海に浮かぶ筏(いかだ)のようなものを渡り歩く。歩くたびに少し海に沈むから、足がよく海水に浸かった。だからこの町ではビーチサンダルが必携だった。
「お前さん、道に迷っているね」
 海に浮かぶ町の一角に木造、茅葺(かやぶき)屋根の家があり、そこに二人の男女の姿があった。よく言えば、風情があり、悪く言えばオンボロの建物――いや、浮かび物。いかにも近代化の波に取り残されたという風のその小さな家の中で、占い師の老婆が言った。
 視線の先には一人の男。白髪まじりの髪の男は洒落っ気の無い眼鏡をかけており、背はそこそこ高かった。男は不服そうな顔をして老婆をじっと見つめていた。
 お世辞にも美人とは言えないその老婆の後ろの窓からは、碧い碧い海が見えた。その先に続くのは131番水道。船の通り道、海の道だった。南下してミナモに近づく度に、水道は130、129と名前を変える。
 老婆は男に背を向けると、窓の外を見て、言った。
「ふうむ、今日も見えないねぇ」
 何のことを言っているのかさっぱり分からなかった。
 いや、この町の人間、それにこの町そのものが男には理解できなかった。
 この町は特殊だ、と男は思う。
 船着場はれっきとした陸地である隣の島にあり、町に入るには、隣の島から筏を飛ぶようにして渡って来なければならない。しかも南国にありがちな台風で、よくそれらは流されるという。そのたびに性懲りも無く、町の人々は筏の道を渡し直すのだという。
 誠に不合理じゃないか、と男は思う。なぜそうまでして、その場所にこだわるのか。隣の島ではだめなのかと思う。けれど彼らは先祖代々この場所を守り続け、住み続けているのだった。尤も今はそういったもの珍しさもあり、その存在自体が、観光資源足りうるから単純に不合理とは言えない側面もあるのだが……。
 さらに、この男がこの風変わりな町に来たのは、言うなればたまたまだった。大学の学生が講堂に放置していた旅行会社のパンフレットを拾ったのだ。「南国を満喫! ホウエン四泊五日の旅!」というキャッチコピーであったと彼は記憶している。
 春休みが近かった。男の勤めるその場所はこの国の最高学府、優秀な学生達は非常に研究熱心だった――……とはいえ、相手はやはり大学生だ。しかも時間のある一、二年生。夏より長いその長期休暇を前にして大学生達は浮かれていたのだろう。
 普段なら見向きもせずゴミ箱に放り込まれたであろうそのパンフレットだったが、その表紙に載っていた写真が妙に男の心を捉えた。写真に写っていたのは今、男が立つこの場所、海に浮かぶ町、キナギタウンだった。
 後になって男は言う。気まぐれだったのだ、と。
 が、春休みに入り学生が減ったこともあって、時間をとるのは割合容易かった。研究室に残る学生や研究生達にしばらくの不在を告げ、教授職の男はホウエンへと旅立った。

 海に浮かぶ町キナギは、豊富な海産物に恵まれる海女の町であり、人気観光地でもあった。
 海産物の料理を食べ歩き、海女が案内するダイビングツアー等々にかまけるうちにすっかり日が沈み、男は宿舎に戻ることにした。
 町の先端には宿泊用の宿舎がいくつも浮いていて、そこは洋上ホテルとなっている。空を闇が包み星が瞬きだした頃、各々の宿舎に灯りが灯りだした。そのオレンジの灯が揺れる海に投影されてゆらゆらと揺れる。それはまさに幻想的という言葉がぴったりであり、非日常の演出であった。
 灯りに照らされた筏の道を男は渡っていく。両手には町の海女達が採った貝の、その串焼きやバター焼きをたっぷりと盛った皿を持っていた。落とさないように、慎重に一歩一歩渡っていく。男はやがて「321」と番号の書かれた宿舎へ入っていった。
「あ、博士、お帰りなさい」
 ほのかに灯りの灯った宿舎に入ると、ルームメイトが待っていた。彼はベッドに横になり、するりと長い獣のポケモンと戯れていた。十歳に二、三を加えた年齢だろうか。白いシャツからよく焼けた小麦色の腕が伸びている。男の相部屋になったのはポケモントレーナーだと言う少年だった。名はヨウヘイと言うらしい。
 男はカタンと部屋の中心にあるテーブルに皿を置く。ヨウヘイとじゃれていた縦縞のポケモン、マッスグマが顔を上げ、ふんふんと鼻を鳴らした。
「やらんぞ」
 男は素っ気無く言うと、貝の串にかぶりついた。
「わ、わかってますよー」
 ヨウヘイはマッスグマを抱いたまま言った。
 男はもりもりと貝の料理を口に運んでいく。カントーで食べたそれより味が濃く、美味しかった。
「昨日も食べてましたね、それ」
 ヨウヘイが笑う。うるさいな、と男はつぶやいた。
 やがて皿は空になって、貝殻と串だけが残された。殻だけになった貝殻は窓から捨ててしまった。貝を食べた後の殻は捨ててもいいということになっていたからだった。
 ちゃぽん、とぽんと小さな音を立てて、それは暗い海に沈んでいった。
「貝を海に捨てるのって、シンオウの昔話みたいですよね」
 ヨウヘイが言う。
「なんだそれは」
「え、知らないんですか? カスタニさんって、本当にタマムシ大学の博士?」
 ヨウヘイは意外だという目を向けてきた。少年は言う。ポケモントレーナーになる前、まだ学校に通っていた頃に、国語の教科書に載っていたのを見たのだと。それは食べたポケモンの骨をきれいにきれいにして水の中に戻してやると、また肉体をつけて戻ってくる、というものだった。
 カスタニは言った。博士ってのは何でも知ってるわけじゃあない。専門以外はからっきしだったりするものさ、と。
「残念ながらそっちの方面は専門じゃないからな。詳しくないんだ。携帯獣文学史のオリベ君あたりだったらわからんがな」
 男は言った。自分の専門はポケモンの医療だの、医療機器だの、栄養学だのそっちのほうの研究だと。だから伝説だの昔話の類には弱いのだと。
 この町に来て二日が経っていた。初日の夜にルームメイトの少年といろいろ話してしまったものだから、かなり素性がバレてしまった。こんなに饒舌になったのは久しぶりだ。旅先だからかもしれない、と男は思う。あるいは……
 あるいは誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分の人生のこと。何を思い生きてきたのか。その片鱗を聞いて欲しかったのかもしれなかった。旅先にいる、自分の地位や利害関係とは関係ない誰か。そういう人物を彼は求めていたのかもしれなかった。
 ――そうか。私が旅に出たいと思ったのはそういう理由だったのか。
 ふと天から降ってきた答えに男は頷いた。
 だから、男は――カスタニは、少年に徐々に話していった。自分の生い立ち、今日に至った過程、時にくわしく、時に端折りながら、話して聞かせていった。
「私はね、孤児だったんだ」
 部屋の上で揺れるオレンジの灯を見ながら彼は言った。海に浮かび波に揺られる宿舎。テーブルを挟む形で、それぞれのベッドに横になる。カスタニの独白が始まった。

 思い出せる最初の記憶というのが親戚達の囁きあう声だった。
 どうするのよ。どうするって。誰が引き取るのよ。俺はいやだよ。私だって嫌よ。
 誰が何を言っていたのかなどの詳細はともかく思い出せないが、幼かったカスタニにも概要だけは伝わった。ようするに彼らが話しているのは自分に関してのことで、この人たちは自分をよく思っていないし、存在を望んではいない。邪魔者、厄介者だと思っていて、できることなら知らないふりをしたい。関心が無い。あの時はうまく言葉にして表現できなかったけれど、それはともかくそういうことだった。詳細は知らないのだが、自分の親だった人間は両方とも死んでしまったか、行方不明らしかった。
 気がついたらシオンタウンの養護施設に入れられていて、そこで生活していた。そこから学校に通うようになって、より多くの言葉を覚え、字が書けるようになった時、彼は明確にそういう表現が出来るようになった。
 別段いじめられたりした訳ではなかったけれど、なぜか孤独がつきまとっていた。
 自分は「普通の」彼らと違う。存在する場所が違う。まるで自分だけ別の次元に立っているように、クラスメイト達から見えない壁一つで隔てられている感覚をカスタニは覚えていた。
 誰にも言ったりはしなかったけれど、少年は何度も同じ事を思った。
 施設には様々な事情で身を寄せている子ども達がいたけれど、皆多かれ少なかれ同じ思いを抱えていたのではないだろうか。
 カスタニは今、海に浮かぶベッドに横になり、その時をこう表現する。
 いつもいつも同じ事を思っていた。
「俺達は顧(かえり)みられない存在だ。世間ってやつは俺達を世界の隅っこに隔離して、見ないことに決めているらしい」
 施設の寮生活は様々な制約がついていた。毎日何時には帰寮しないといけないと決まっており、十歳になっても自らのポケモンを持つことは許されなかった。学校の学年が上がっていくにしたがって少しずつそれは緩和されていったが、やはり「普通の」子ども達に比べると制約がつきまとっていたように思う。
「だから羨ましかったよ。同級生でポケモン何匹も飼ってる奴らがさ」
 今となっては逆によかったと思う部分もないではない。ようするにカスタニには飢えがあった。自由やポケモンへの飢えというものが。それは爆発的エネルギー足り得るものだった。
 そうして、もう一つ……
「そういえば博士、ミチルさんのところには行ったの?」
 話が遮られた。
 思い出したかのようにヨウヘイが聞いてきた。
「ミチル……ああ、あの町の隅っこに住んでいる婆さんか」
「うん」
「行ったとも。お前がうるさく会ってみろって言うから仕方なくな。まぁ適当なことしか言われなかったよ。お前さん道に迷ってるどうこうってさ。占い師なんてそんなもんだ。当たり障りの無いことしか言わん。ああいう人種は好かん」
「博士にはぴったりだと思ったんだけどなぁ」
「とんだ時間の無駄だった」
「でも凄腕らしいよ? 海の神様の『声』が聞こえるんだって。なんとかって会社の社長さんとか、どっかの地方のジムリーダーとかこっそり彼女のアドバイス聞きにくるらしいよ。だから俺、えらい人も迷うんだなーって思ってさ」
「あんな窓の外ばかり見てる婆さんのどこがいいんだか」
 カスタニは蒸し暑い昼の暗い部屋を思い出し、言った。
「ああ、あれはね、探してるんだよ」
「何をだ?」
「何だと思う?」
 カスタニが尋ねると、ヨウヘイはじらすようにそう返した。
「わからないから聞いてるんじゃないか。しかし婆さんのことだからな、若かりし頃に海の向こうへ旅立ったまま帰らない恋人の船とかそんなもんだろう」
「ハズレ」
「なんだ。つまらん」
 カスタニは残念そうに言った。婆さんが水平線の向こうに探すものときたら絶対そんなもんだと相場が決まっているのに。
「だいたいミチルさんには息子さんがいるし」
「お前、旅行客のくせにずいぶん詳しいんだな」
「何度も来てますから。ここは第二の故郷みたいなもんです。なんか、知らない土地ではない気がするんですよね。来やすいっていうか」
「……来やすいか? 海のど真ん中だぞ?」
「だってベクトルがいますもん。こう見えてもね、ベクトルは泳ぎが得意なんですよ」
 ヨウヘイは寝息を立てるマッスグマ、ベクトルの長い体を撫でた。背中を走る茶色は額まで伸び、先端で矢印のような模様になっている。まるで行き先を示すように。
 少年は言った。ベクトルの得意技は波乗りだ。この大きな長い体にまたがって俺は海を渡ることが出来るのだ、と。
「今回キナギに寄ったのはここで捕まえたいポケモンがいるからなんです。ベクトルもがんばってるんだけど、なかなかうまくいかなくて……ああ、話がそれましたね。何を探してるかはミチルさんに聞いてみるといいですよ」
 続けざまにヨウヘイは言った。
「また行くのか」
「暇なんでしょ?」
「……私は暇などではない」
 カスタニはそのように反論したが、自分の普段の多忙さをいくらこの少年に説明しても無駄だと思い、それ以上弁解するようなことはしなかった。
 いい時間だったので、灯りを消した。穏やかな波がいい具合に彼らのベッドを揺らして、やがて二人は共に眠りに落ちていった。


 ……。

 カスタニ君、カスタニ君。
 どこからか懐かしい声が聞こえた。
 気がつくと、若き日のカスタニはどことも知れない場所に立っていた。
 周りは白い。その白い場所、白い大地にカスタニは一人で立っており、ここがどこなのかもわからない。ただ声だけが聞こえた。
 けれど声は聞こえど、姿が見えなかった。

 少し、寒いな。
 そう思ってカスタニが目を覚ますと海の宿舎の窓からは、ぼんやりとした朝日が差し込んでいた。
 体を起こし、隣を見ると少年、そして少年に抱きつかれたマッスグマはまだ寝息を立てていた。カスタニはビーチサンダルの紐に足の指を通すと、ドアを開き、宿舎を出る。
 ドアの向こうに広がった光景を見て、カスタニは驚いた。
 眼前には夢で見たのに似た白い光景が広がっていた。
「霧か」
 と、カスタニは呟いた。白い霧が発生して海を覆っていた。海に浮かぶたくさんの宿舎群。少し離れた場所にある宿舎はそのシルエットだけが見え、カスタニの立つ位置から遠くになるにつれ、だんだんと白に飲まれ、ぼやけていく。
 そして風景には色が無かった。その世界からは光の三原色が消え失せてしまい、まるで水墨画のようであった。
 どおりで寒いわけだと彼は思う。霧は水蒸気が冷やされて発生する。ようするに成り立ちは雲と同じものだった。その違いは地に接しているかいないかの定義の違いでしかない。
「これじゃあ、水平線は見えないだろうな」
 昨日、窓の外を見ていた老婆を思い出し、カスタニはそう呟いた。
 すっかり目が覚めてしまい、二度寝をする気も起きなかったので、昨日の夕食の皿を持ち、宿舎を出た。とにかく視界が悪いので、方向と足元を確認しながら、慎重に進んでいった。
 まだ人のいない食堂の窓口に皿を返却する。腕時計を見ればまだ短針が「5」を指していた。
 二十代、三十代だった昔と比べるとずいぶん早起きになったものだとカスタニは思う。歳のせいかもしれない。二月ほど前に五十の誕生日を迎えた彼は、日の出と共に起き出し、日の入りと共に眠るという人間本来のサイクルに身体が戻りつつあった。灯りというものが開発されて人間の活動時間は変わってしまったが、本来人はそのように出来ているのだ。
 にわかにどこかでシュゴッという奇妙な音が聞こえた。
「む?」
 と、彼は声を上げた。ポケモンだろうか、と。あたりを見回すが、何せ霧に包まれているからわからない。たぷんという音と共に何かが潜ったような気もしたが、ちゃぷんちゃぷんと波が建物や筏に当たる音とあまり区別がつかなかった。気のせいかもしれない。
 人々が起き出してくるにはまだ時間がありそうだった。カスタニは周囲を散策してみることにした。
 食堂の浮いている大きな筏には案内板が取り付けられていたが、あえてそれは見なかった。
 まだまだ霧は濃い。くれぐれも道を踏み誤って海に落ちないよう、カスタニは足元を確認しながら歩いた。何度かの分岐を選択し、ビーチサンダルと足先を海水で濡らしながら進んでいく。朝の海水は冷たかった。
 そうしてしばらく歩くうちに、霧の向こうから小さな陸地が現れた。海に浮く筏が島に繋がっている。
 おや、船着きの隣島に来てしまったのだろうか。
 一瞬カスタニはそう思ったが、どうも違うようだった。うまく説明できないのだが、なんとなく雰囲気が違う。霧のせいも手伝ってか、島を包む空気は独特なものだった。
 カスタニは上陸を果たす。島の土を踏み、その中へ入っていった。霧の中で大きな葉のクワズイモやトゲの葉を持つアダン、南国の植物が生い茂っていた。
 しばらく歩くと死んだ珊瑚を積み上げた石垣にぶち当たった。カスタニはそれに沿って歩いていく。数十歩ほど歩いただろうかところで石垣が途切れた。カスタニは頭上を見る。まるで招き入れるかのように途切れた場所に鳥居が立っていた。粗末な木の板が石垣にもたれかかっていて、「喜凪神社」と書かれていた。鳥居を潜ってカスタニは進んでいく。
 粗末な神社がそこにはあった。拝殿の前まで近寄ってみる。もうずっと手が入っていないのだろうか、平戸が斜めに傾いて、今にも崩れそうだった。
 突如、頭上でがらがらと鈴が鳴って、カスタニは驚いた。見るといつの間にかカスタニの横で小さな男の子が縄を揺らし、鈴を鳴らしているところだった。男の子は、ぱんぱんとかしわ手を二度叩くと、礼をした。頭を上げた男の子の顔を見て、カスタニはまた驚いた。
「ヨウヘイ?」
 と、カスタニは思わず声を上げた。年齢や身長はあきらかに小さいのだが、男の子の顔はヨウヘイにそっくりだった。無論、男の子は怪訝な表情を浮かべた。
「ヨーヘイ? わいは岬(みさき)丸(まる)さかい」
 今度はカスタニが怪訝な表情を浮かべる番だった。「丸」とはずいぶんと古風な名前である。
「おっさん、見かけない顔やなあ。なんや着てる服もけったいやし」
「観光客なんでね」
 カスタニは答えた。それにしても早起きの子どもがいたものである。それにしたって変な子だと彼は思った。早起きなのはもちろんだが、来ている服も麻と思われる布で出来た粗末なもので昔風だし、履いているのも草鞋(わらじ)だった。
「カンコウキャクっつーのはなんだ」 
「旅をする暇な人種のことだ」
 服装のことには言及せず、カスタニは答えた。
「なんじゃい。おまんも本土の商人(あきんど)かなにかか」
 岬丸はまるで敵を見るように睨み付けてきた。
「いや、旅の途中だよ。ここで商おうとは考えておらん」
「ふん、どうだか」
 岬丸は尚も怪しいやつと言った風な目を向けてきたが、少しばかり気を許したようにも見えた。
「おめー、名は?」
「カスタニだ」
「ふん、やはり本土もんはけったいな名じゃ」
 名前を聞いて、岬丸はそう言った。
「ところでお前、何を願ってたんだ」
 今度は逆にカスタニが問うた。こんな朝霧の出る早朝に神社に詣でるのだから、相当な願いがあったのではないかと考えたからだ。こんな時間に神社周辺をふらつくものがあるとしたら自分か神職あるいは巫女くらいのものであろうとカスタニは考えた。
「喜凪が元に戻るように」
 岬丸はそう答えた。
「元に戻る?」
「でも今日は違う」
「じゃあ、今日はなんだ」
「宝(たから)丸(まる)のおっかあが無事に天に行けるように」
「タカラマル?」
「わしの友達じゃ。この前、あいつのおっかあが死んでしまっての」
「死んで……」
 カスタニは反芻(はんすう)した。その言葉に思い出すものがあった。
「島はここんとこおかしいんじゃあ。誰か死んでも弔おうとせんし、宝丸のおっかあも放っておいてばかりじゃ。ちゃんと弔ってやるんが決まりじゃったのに。だからわし、祈りに来てたねん。タカラマルのおっかあさ、天ばいけるようにとな」
「そうか」
 とカスタニは答えた。
「皆わいのことを頭おかしいと言うねん。けんど、おかしいのはあいつらじゃあ。いっつもいっつも潜りの海女まで連れ出して船ば出しおって、昔はあんなんじゃなかったのに……みんな油でおかしゅうなってしもたんじゃ。なぁカスタニ、おまんはどう思う? 死者ば弔うんはおかしいと思うか」
「いや」
 と、カスタニは答えた。
「死者を弔うというのは、死んだ者はもちろん、残された者にとってこそ必要だと、私はそう思うよ。少し前、旧い知り合いが死んでね……葬式があった。その時になんとなく分かったんだ。お別れは残された者にとってこそ必要だ……とね。だからお前のいう皆という者達がおかしくなってしまったとすれば、弔いをやらなかった所為かもしれん」
「そうだよ。そうだよな? 俺は間違っていないよな?」
 確認するように岬丸は訪ねた。
「ああ、そうとも。お前の信じた道を行くといい」
 カスタニが言う。
「ありがとうカスタニ。何だか元気ば出たわ」
 岬丸の顔がぱあっと明るくなった。
「そんなら俺、戻るばよって」
「ああ」
 岬丸は手を振ると、駆け出した。そうして霧の向こうに消えていった。
「変な子だったな」
 と、カスタニは呟いた。

 カスタニは島を出る。筏の道をしばらく歩いているとその間に少しだが霧が晴れてきた。時計の針が「6」を指して、日の光もだいぶ明るく、暖かくなったのがわかった。
 またシュゴッという謎の音が聞こえた。音の方向に振り返る。たぷんと海の中に何かが沈んだのがわかった。やはりその正体までは掴めなかったものの、ポケモンだな、とカスタニは確信した。
 歩くたびに筏が沈む。カスタニは進んでいく。見覚えのある建物――浮かび物が目に入った。粗末な戸が開く。老婆が出てきたのがわかった。
 なんだ、あの占いの婆さんじゃないか。そうカスタニが気がついたのとほぼ同時に老婆――ミチルもカスタニに気がついたようだった。
「なんじゃ。ずいぶん早いなぁ。お前さんが来ることはわかっていたが」
 とミチルは言った。
「寒くてね、目が覚めてしまったんです」
 カスタニが答える。
「ずいぶん霧が出ていたようだね」
「ええ、ずいぶん出ていました。今はだいぶ晴れたけれど五時ごろはかなり濃くて」
「うむ。お陰で海が見えんでな、難儀しておったところだがようやく見えそうだよ」
 ううむ、と唸って水平線を老婆は望む。海の向こうに目を凝らした。そうして、
「だが今日も期待できそうにないねぇ」
 と、言った。
「何を見ているんですか」
 カスタニが尋ねる。昨日から疑問だったことだ。それにヨウヘイが言っていた。直接聞いてみたらいい、と。
「島だよ」
 と、ミチルは答えた。
「島?」
「そう、島だ。我々キナギの人間は幻(まぼろし)島(じま)と呼んでいる」
「まぼろしじま、ですか」
 ああ、そうだよ。とミチルは答えた。
「めったに見えない島でね。だから幻島と言うんだ。この方角で海を見ると見えることがあるらしい。らしいというのは私は見たことが無いからだ。私の父や祖母は二、三度見たらしいのだが、私自身はからっきしでね。見た者が出たという時に限って、出払っていたり、海が見れない時だったり、そんなんばっかさ。どうやら『声』が聞ける分だけ、そう天分には恵まれていないらしい。死ぬまでに一度くらいは見たいんだがね」
 おしゃべりだな、とカスタニは思った。少し聞いただけでこうもべらべらとしゃべるのは女というものの特性かもしれない、と。が、直後に考えを改めた。それを言うのなら昨晩の夜自分だって頼まれもしないのに語ったではないかと思い出したからだった。人にはある。話を聞いてほしい時、タイミングというものがある。
「あんた、どうして私達が海の上に住んでいるか知っているかい?」
 と、ミチルが言った。
「いいえ」と、カスタニは答える。
「遠い昔ね。ここにはちゃんと陸地があったんだよ」
 ミチルは語り聞かせるように言った。
「キナギに伝わる昔話さ。遠い昔ここには陸地があって、漁をしながら私達のご先祖様は暮らしていたというね」
「じゃあ、なぜ陸地は無くなったのですか」
「海の神様との約束を破ったから、さ」
「約束?」
「そう、約束。玉(たま)宝(だから)には絶対に手を出さない。それがキナギの漁民が海の神様に誓った約束だった。だが、約束は反故にされた。怒った海の神様はキナギの陸地を取り上げてしまったんだ」
「ああ、いかにも昔話ですね」
 カスタニは感想を述べる。玉宝、というのがわからなかったが、欲深い漁民の誰かが海の神様の宝物に手を出したということなのだろう。
「話はもう少し続く。その陸地ってのはね、泳いでいなくなってしまったと言うんだ」
「泳いで?」
「そう。鰭(ひれ)と尾をつけてな。はるか沖合いへ泳いでいなくなってしまった。まるで海のポケモンみたいにな。だけど時々かつて自分のいた場所をそっと見に来ることがあるらしい。だからごく稀にここから海を見るとその島が見えることがあるそうなんだ。だからそれを幻島って言うのさ」
 老婆はそう語りながら再び海を見た。そして、やはり見えないと呟いた。
 正直、荒唐無稽(こうとうむけい)だとカスタニは思う。いや昔話の類にリアリティを求めても仕方ないのだが。
 しかし、なんとなくわかった気がした。キナギの人々が海に住処を浮かべている理由が。ここは彼らの土地なのだ。たとえ、陸地が失われたとしてもここは彼らの土地であるのだ。傍から見れば滑稽かもしれない。けれどキナギの人々はこの洋上こそが自分達の土地だと考えているのだ。
 海の向こうに旅立った恋人を探している――。海を見る老婆に対し、昨晩カスタニはそう発言し、そしてハズレだと言われた。が、それは中(あた)らずとも雖(いえど)も遠からずだったのではないだろうか。
 彼らは期待しているのかもしれない。いつの日か泳ぎ去った陸地が戻ってくると。そうでなくても島が見にきたときに場所がわかるように、と。そう考えているのではないだろうか。
 それは海の向こうに旅立ってしまった恋人を待つ女、それと似てはいないだろうか。
 懸命に水平線を見つめる老婆を見て、彼はそんなことを思ったのだった。


 ジリリ、ジリリ、と黒電話が鳴る。
 男に報らせが届いたのはチョコレートの季節を過ぎた頃だった。あの講師や教授はいくつ貰っただの、あれは義理だ本命だなどという話題が下火になってきたころだ。
 カントー地方、タマムシ大学。
 この国における最高学府と言われるその大学に教授として籍を置くその男宛てに珍しい人物から電話が入ったのはそんな頃だ。電話の主は懐かしい苗字を名乗った。男にとってはもう三十年ほど聞かぬ名だったが、たしかに聞き覚えのある名前だった。
「おお、カスタニ? カスタニか?」
 受話器を取ると聞こえてきたのは、懐かしい声、声質そのものはどっしりとしているのに落ち着きの無いしゃべり方は昔のままで、ああ間違いないと彼は思った。
「おう俺だ。久しぶりだな」
 かつての「同郷」にカスタニは挨拶をする。
「よかった。お前、忙しいってウワサで聞いてたからよ。電話通じないんじゃないかって心配したんだ。受付のおねーちゃんにもかなり怪しまれたしな」
「で、なんだ。三十年ぶりにかけてくるくらいだからよほど重要な話なんだろ?」
 カスタニは問う。彼はいつだって結論を急ぐ男だった。論文は結論から書け。日ごろ面倒を見ている学生達にカスタニがしつこく教えてきたことだ。
「ああ、それがよ」
 と、電話越しの声が曇る。
「一体なんだ」
 急かすようにカスタニは言った。
「おう、あのな、落ち着いて聞けよ。ミヨコさんが亡くなったそうだ」
「…………ミヨコさんが?」
 少しの沈黙の後、彼は確認した。
「ああ。なんでも一年前くらいから入退院繰り返してたらしいんだがな、今朝自宅で亡くなったんだと。喪主は息子さんで、通夜の場所はシオンさくらホール」
「施設の隣のあそこか」
「そう。あそこ。まあ昔はボロっちかったがな。今は改装されててきれいなもんだぜ」
「通夜の日時は?」
「明日夜だ」
「……そうか」
 カスタニは少しばかり思案する様子を見せたが、やがて結論を伝えた。
「すまない。せっかく教えてもらったのに。俺は行けないよ」
「仕事か?」
「ああ、はずせない仕事がある。ジョウトに出張なんだ。二日掛かりでな」
「なんとかならないのか。だってお前……」
「残念だが」
「そうか……」
「本当にすまない。電報を打とう。香典と花を届ける。ご遺族と同期にはよろしく伝えてくれ。ああ、それと」
「それと?」
「伝えてくれて感謝している」
 カスタニはその後、二、三の挨拶をして受話器を置いた。
 本当にいいのか、と彼は聞いた。いいんだ、もういいんだと答えた気がする。
「だってお前、ミヨコさんのこと……」
「いいんだ。昔のことだよ」
 結局、カスタニは出張を選んだ。それは仕事優先の精神だったのか。あるいは意地だったのか。
 今になって思う。あの時、仕事を反故にしても駆けつけるべきだったのだろうか、と。
 しかし彼女とは高校を出て以来会っていなかった。今更と言えば今更だ。
 けれど、霧の朝、彼は言った。お別れは残された者にこそ必要だ、と。それこそが答えだったのではないか。
 結論は、出ない。


「あの婆さんに会ってきた」
 夜になって宿舎に戻り、カスタニはヨウヘイにそう報告した。
 テーブルには昨日と同じ貝料理を置いている。
「なんて言ってた?」
「キナギの漁民は約束を破って、島に逃げられたんだと。玉宝とかいうものに手を出して」
 カスタニは答える。
「おもしろいよね、その話」
「おもしろい? そういう類の話は嫌いだね。昔の人間ならともかく、今もその話にキナギ民が囚われているとしたら少し違うとは思わないか」
「そうかなぁ。俺はロマンがあっていいと思うけどなぁ。俺も見てみたいな、幻島」
「ふん、バカらしい」
 カスタニは吐き捨てるように言った。
「そういえば、今日の朝は霧が出てたんだってね」
 思い出したようにヨウヘイは聞いた。
「ああ、そりゃあ、もくもくと出てたぞ。雲みたいにな」
「俺も見たかったなぁ」
「いつまでも寝ているからだ」
 まったく、最近のガキはとでも言いたげにカスタニは返した。
 今朝のことを思い出す。ヨウヘイはマッスグマを抱き枕にして眠りこけていた。あれなら寒くて目が覚めるということもないかもしれない。寄り添う者がいるということは幸せなことであると思う。
 カスタニは貝を一口、口に運ぶ。バターの風味が口に広がった。
「ねえ博士、昨日の続き話してよ」
 ヨウヘイがせがんだ。
 貝を咀嚼して飲み込む。殻を海に還した後に、今夜もカスタニの独白が始まった。

 できるだけ早く、ここを出よう。
 高校に入った直後だった。若き日のカスタニはそう決心した。どちらにしろ、高校まで出たらそうなる決まりではあったが、出来るだけ早いほうがいいと思った。
 ここには庇護はあるが、自由が無い。自由を手にするためにはさっさと独立したほうがいい。ここにいる限り、世界の隅っこに取り残されたまま、無視され続けることになるのだと。
 幸い高校まで上がったなら門限はずいぶんと緩和される。カスタニはいくつものバイトを掛け持ちした。そうして学年が一つあがるころになって目処がつき、彼は退寮した。
 今までお世話になりました。自分はここを出て行きます。そのように言って。
 カスタニは決めていた。次のステップを。奨学金をとって、大学へ行く。できればそう、学費が安くかつ一番いいところがいい。
「今となってはずいぶん無理したと思う。まぁ若かったから出来たことだな」
 カスタニは語った。
「博士はどうしてそう決心したんだろう」
「そう決心した理由は、主に二つある」
 一つ目は、昨日話した理由からだった。
 カスタニを含む施設の子ども達は世間から隔絶された存在だったから。いや、正確にはカスタニ自身がずっと省みられない存在だったからだろう。だから見返してやりたいという気持ちがあったのだろうと彼は語った。
 それは自分を引き取ろうとしなかった親戚達、空気のように扱ったクラスメート達へのあてつけ、反発のようなものだった。もう会う機会などなかったろうが、後悔させてやりたいという気持ちがあった。あの時はもったいないことをした。逃した魚は大きかった、と。
「だがもう一つあった。どちらかといえばこちらが大きい」
「どういう理由?」
「単純な話だよ。高校に入って、好きな人が出来たんだ」
 するとベッドからヨウヘイが身を乗り出した。
「おお! 青春!」
「うるさいな」
 と、カスタニは牽制する。昔のことだよ、と強調した。
 まったく、人っていうのはどうして恋のことになると急に関心の度合いが上がるのか。
 だが、話をはじめてしまった以上ここでやめるというわけにもいかなかった。
「名前をミヨコと言った。美人かといえば中の少し上くらいだったが、やさしい子でな。誰とも分け隔てなく接するというのか、とにかくことあるごとに声をかけてくれたよ。いや、別に私だけじゃなかったんだけどな」
 いわゆる「普通の」人々に距離感を感じていたカスタニだったが、それで距離が縮まった気がした。なんとなく、だが。
 自分を隅に隔離し、無視していた世界で、彼女は声をかけてくれた。
 たとえば、学校の前で会った時、朝の教室で会った時。
「おはよう、カスタニ君」
 と、彼女は言った。名前までつけて。
 カスタニは世界が開けた気がした。急に朝日が差したように明るくなって、世界に受け入れられたような気がした。
「だからな。彼女と対等になりたかったのさ。世界の片隅に庇護されている私ではなく、この世界の一員としての私として彼女に接したいと、そう思ったんだ」
「彼女に告白するために?」
 ニヤニヤしながらヨウヘイは聞いてくる。
「いちいちうるさい奴だな! ……まぁでも、そんなところだと思ってもらっていい」
 それでカスタニは努力した。なるべくお金を稼ぎ、早く寮を出る。そうして彼女に向き合おうと。あの頃は食べ盛りだったのに、ランチはモーモーミルクの小瓶一本とメロンパン一つだけだった。その大事なメロンパンをピジョンに盗られ、子のポッポ達に食われてしまってからというもの、ポッポが大嫌いになったとも話した。
「それですっかり奴らが嫌いになった私だったが、ポケモンが稼げると知ったのもこの頃だ」
「稼げる?」
「バイト先で困ってるのがいてな」
 と、カスタニは続けた。
 ウインディを飼っている叔母が、腰を悪くしてしばらく入院することになった。その間に運動不足になるといけないからボールから出して散歩するように依頼された。が、頼まれた本人は犬型ポケモン恐怖症だった。だから、バカでかいウインディなどとてもだめだと言って泣きついてきたのだという。
「そこで私が散歩、世話全般を引き受けることにしたのさ」
 幸いその家には数々の飼育書が用意されていたからやりかたは分かった。当初は言うことを聞かなかった巨大な赤犬だったが、カスタニもだんだんと扱い方に慣れてきて、退院してきた依頼主からはお行儀がよくなったと褒められたくらいだった。
「報酬を受け取って、後でこっそり開いた時には驚いたね」
 と、カスタニは語った。それでバイトをそういった方面に切り替えた。依頼主の紹介もあって、いい具合に稼げるようになった。当時はポケモン関係の法整備や支援システムも遅れていたから、そういう穴場でそれなりに稼ぐことが出来たのだ。
 もちろん勉学において手を抜くわけにもいかなかった。仕事の合間合間を縫ってカスタニは必死に勉強した。全国テストで優秀な成績をとれば、奨学金が手に入る。カスタニにはそのお金が必要だった。
 問題は大学に入ったとして、どの分野を選考するかだったが、ポケモン関係だろうとはおぼろげに思っていた。
 そうして彼の進路を決定的にする事件は起きた。
 いや、事件といっても人が死んだり、怪我をしたりしたわけではない。けれどカスタニにとってそれは事件だった。
 ある日、偶然に学食で一緒になったミヨコが言った。
 ひさびさに恋人が帰ってくる。長いトレーナーの旅から帰ってくる、と。
「うわぁ、撃沈」
「うるさいな」
 カスタニは悪態をついた。
 チャンスだ。想いを伝えるために待ち合わせの約束を指定してしまおう。そう考えていたカスタニは見事に撃沈した。
 できることならば今すぐにでもトレーナーになってそいつを打ち負かしてやりたかった。が、カスタニはポケモンを持っていない。施設で育ったカスタニはポケモンを持つことが許されず、トレーナーになる為のことは何もしていない。それにもう自分は適齢期を過ぎている、そう思った。絶対ではないにしろ、小さい頃からやっていたほうがトレーナーの才能は開花しやすい。それは統計的な事実であった。
「そうなんだ。よかったね」
 顔は笑っていたカスタニだったが、腸(はらわた)が煮えくり返っていた。
 その男の素性も何も知らなかったが、対抗意識がめらめらと湧いた。
 トレーナーと言うからにはポケモンバトルの頂点を目指すのが宿命だ。ならば自分は違うポケモン分野から、頂点を目指してやる。決してお前なんかには負けない、と。彼はその時そう決心したのだ。
 ああ、やっと対等になれたと思ったのに。
 この女性(ひと)にとっても、自分はなんでもなかったんだ。
 まだだ。足りないんだ。対等になるだけじゃだめなんだ。
「そのときに、見返したい奴らのその中にミヨコが加わったんだ」
 カスタニは語った。
 その後カスタニは勉強を重ね、この国の最高学府、タマムシ大学の難関区分に合格した。理系で最も難しいといわれる、医者なども目指せる区分だ。カスタニは迷わずポケモン――携帯獣を学べるコースを選択した。成績はすこぶる優秀だった。そして彼は着実に成果を上げ、教授職にまでのし上がることになる。
 まるで、かつて自分を捨てた彼らに見せつけるかのようにカスタニは結果を出していった。
 高校時代のアルバイトからカスタニが学んだ通り、この時期に爆発的な躍進を遂げた携帯獣研究は成果を出せば儲かった。さらには国の支援制度がそれを後押しした。特に医療分野がその筆頭だった。
 カスタニは若き研究者達にアイディアを与えてやり、共同研究という形で面倒を見てやった。そのリターンは後々になって何倍、何十倍にもなって返ってきた。
 様々なプロジェクトを同時進行し、ポケモンに関する技術において数々の特許を取った彼には多額の金が流れ込み、同時にそれは学科を潤すことにも繋がった。今や携帯獣学で名を知らぬものはいまい。挙げた成果からも、影響力からしても、次期学部長の座が確実視されるまでに至った。
「そんな私に電話が入ったのはつい一月ほど前だった」
 カスタニは語りの速さとトーンを落として言った。
「施設の同期が教えてくれた。ミヨコが病死したと」
 カスタニは静かに続ける。
「……私は葬儀に出席しなかった。ジョウトに出張があって行くことができなかった。電報を打って花と香典は送ったがな」
 カスタニはごろりと、向きを変え、ヨウヘイに背を向けた。
「その時から何か分からなくなってしまった。私はどこを目指して、どこを向いて生きてきたのか」
 葬儀に出なかったからなのか、彼女が死んだからなのかは分からなかった。だがそれ以来、妙に生きた心地がしないというのがカスタニの感じるところであった。張り合いがないとでもいうのか。ホウエンの長期旅行なんて気まぐれを起こしたのもそういう為だろうと彼は思う。
 だが、言葉にすることでカスタニの中で散らかっていた何かが少し片付いた気がした。通路に落ちた紙くずを拾い、床から積み上がった蔵書を本棚に戻す。そうやって、人が一人通れる通路を確保した程度には。
 ――お前さん、道に迷っているね。
 今ならばミチルの言っていた事が受け入れられる気がした。
「辛気臭い話をしてしまったな」
 と、カスタニは言った。返事は無かった。
 目を閉じる。ヨウヘイが返事に困っているのか、あるいは眠りについてしまったのかにはあまり興味が無かった。ただ、吐き出したことで少しだけ肩の荷が降りたような気がした。


 一夜が過ぎ、次の日も寒さで目が覚めた。
 テーブルを挟んだ反対のベッドを見ると、やはりヨウヘイはマッスグマを抱き枕にして眠っていた。昨日と違ったのはマッスグマの頭が入り口に向いていたことか。額の矢印がこっちだとでも言うようにドアの方向を指していた。ドアを開く。寒さの為か今日も霧が立ち込めていた。
 今日は一段と濃いな、あたりを見回しながらカスタニは思う。
 カスタニは昨日と同じように筏を渡り、食堂に皿を返却した。時計を見る。昨日と同じで短針が「5」を指している。ふうむ、どうするか。またあの神社にでも行ってみるか。そう思ってカスタニは霧中に身を投じた。
 二回目というものは慣れるもので、さほど時間をかけずに彼は島に到着した。
 まっすぐ歩いていくと珊瑚の石垣があって、今度はそれに沿って歩く。ほどなくして鳥居のシルエットが姿を現した。すると突如、がらがらという鈴の音が耳に響いた。
「岬丸か?」
 霧中でカスタニは声を発す。するとすぐに、声が返ってきた。
「その声、カスタニか」
 霧の中で何かが動いた。ぼんやりとしたシルエットしか見えなかったが、声は確かに岬丸だった。
「久々だの。もう別の場所に旅立ったのかと思っていたが」
 霧の中で岬丸が言う。
「何を言ってる。昨日会ったばかりじゃないか」
 怪訝な表情を浮かべ、カスタニは答えた。だが岬丸は言い張った。
「阿呆なこと抜かすな。わしとおまんが会ったんは一月前じゃろうが」
 意味が分からなかった。
「……? まあそういうことにしておいてもいいが……」
 やはりおかしな子どもだ、とカスタニは思う。
 カスタニは霧中を通り、岬丸に近づいていく。あいかわらず粗末な着物を身に着けた姿だった。だが……
「お前……少しやつれたんじゃないか?」
 と、カスタニは思わず尋ねてしまった。霧中から浮かび上がった岬丸は昨日とはまったく別の顔つきになっていた。一ヶ月だと岬丸は言ったが、どちらかといえばその数字が正しいように感じられた。
「カスタニ……」
 と、岬丸は口を開いた。
「カスタニ、わしの友達が……宝丸が死んだ」
 彼は力なく言った。
「……死んだ?」
「いや違う。殺された。宝丸は漁師達に殺されてしもうた」
「何があったんだ」
「もうこの島はおしまいだ。大人達は善悪の区別がつかなくなっちまった。油欲しさに狂っちまったんだ。そりゃあ、わしだって宝丸のおっかあは仕方ないと思ったさ。宝丸のおっかあはでかくなって玉宝じゃあなくなったんだ」
 声がわなわなと震えていた。
「じゃがあ宝丸は違う! あいつはまだ玉宝なのに、やつら見境無く銛(もり)で突きやがったんだ! 玉宝に手をかけてしもた! この島はもうおしまいだ!」
「落ち着けよ」
 カスタニはしゃがむと視線を合わせるようにした。そうして両腕で岬丸の肩をつかむ。小さな肩はがたがたと震えていた。
「宝丸だけじゃない! 宝丸の兄弟や友達もみんなみんな死んじまった。殺されちまった。玉宝には手を出さないのが約束だったのに、約束を破っちまった。油欲しさに約束を破っちまったんだ!」
「…………」
 カスタニには理解が出来なかった。岬丸が何を言っているのか。理解ができなかった。
 ただ一つだけ引っかかった点がある。「玉宝」だ。
 何かの宝物……文化財的なものかと勘違いしていた。だが、岬丸の言葉から推察するにそれは生き物――おそらくはポケモンだ。玉宝だったという宝丸。その母は大きかったということだから、それはおそらく進化系なのだろう。
 それなりに大きいポケモンで、油の取れるポケモン……カスタニは持てる知識を搾り出した。だが……。
 ああ、いけない。と、彼は恥じた。
 ここはホウエン地方。カントーとではポケモンが違う。何の目的も無いまま、何も考えずにぶらぶらと来てしまったものだから、生息ポケモンなどろくに調べていなかった。滑稽なことだ。何が次期携帯獣学科学部長だ。「専門外」にはことさら弱い。
「カスタニ、」
 岬丸は震えながら声を発した。
「昨晩、わしの夢枕に海神様がお立ちになった。そして海神様が言われたんじゃ」
「何と言った?」
「明日の火(ひの)午(うま)の刻が終わるまでに島を出ろ。海中に振り落とされたくなければ、と」
「海中に振り落とされる?」
「今日、わしがここに来たのは許しを乞うためじゃ。けんどとても許してもらえる気がせん」
 尚も震えながら岬丸は言った。
「だからカスタニ、お前も早く島を出ることじゃ。わしともここで別れじゃ。おまんとは短い間だったが……」
 岬丸は肩に手をやって、それを掴むカスタニの手を握った。小さな手はひどく冷たかった。
「どうか、達者でな」
 そう言って岬丸は、するりとカスタニの手を離れてしまった。そうしてぱたぱたと鳥居に向かって駆け出した。ふっと霧に混じるようにその姿は消えてしまい、追いかけたけれど見つからなかった。
 直後、ぐらりと島が揺れた。
「地震か?」
 カスタニはそう呟いた。そうして途端に、自分は立ち入ってはいけない場所にいるのではないかとふとそんな気がした。そう思った途端に無性に恐ろしくなって、駆け出していた。
 彼は夢中になって海に向かい走っていった。海に行き着くと、飛び石から飛び石へと跳ねるように筏を渡り、なるべく島から離れようとした。海の水を踏みながら、彼は霧中を夢中で走ってゆく。あやうく海に落ちそうになりながら、それでも彼は走ってゆく。
 同時に記憶が駆け巡った。
 自分を見捨てた親戚達の事、疎外するクラスメート達の事、世界の隅に追いやった世間の事、顔も知らぬトレーナー男の事、そしてミヨコの事……駆けるカスタニの頭に走馬灯のようにそれが蘇った。彼らを見返してやりたくて、この道を駆けてきた。一心不乱に駆けてきた。
 彼らは見ていたのだろうか。自分の生き様を。後悔させてやる。見せ付けてやる。そうやって虚勢を張って生きてきたこの五十年を。
 カスタニは駆け足で、時に急ぎ足で筏の道を波打たせ渡っていく。徐々に視界が開けてきた。霧がだんだんと晴れていくのがわかった。
 気がつくとカスタニは、キナギの占い師、ミチルの家の前に立っていた。
「……また来ちまった」
 カスタニは悪態をついた。
 ミチルはまだ起きてはいないのだろうか。粗末な家の粗末なドアは閉ざされていた。
「ふう。まあ、ここまでくれば……」
 訳の分からない恐怖に支配されていたカスタニはほっと一息をついた。情けないものだ、と思う。もう五十になる自分はたいていのことに驚かない自信があったのが、と。
 そうして気が緩んだカスタニであったから、誰であっても追い討ちをかけるのは簡単であった。
 シュゴッ。ブシュウウウウウウウ!
 途端にカスタニのすぐ後ろで海水が吹き上がったものだから、振り返ったカスタニは腰を抜かした。
 吹き上がる謎の水柱。海水は3メートルほど吹き上がると、10秒ほどその高さを保っていたが、次第に勢いを失って、落ちていった。
「な、な、な……」
 何が起こったんだとあっけにとられるカスタニの目の前には揺れる海面があった。直後に海面が盛り上がり、水がざあっと落ちていく。そこから大きな丸い生物が顔を出した。直径にして2メートルはあるだろうか。藍色の肌、クリーム色の腹のポケモンだった。丸い身体の中心からすこし前方に二つの穴があいている。
 シュゴッ! 穴が鳴って、霧状の水が吹き出した。
「これだったのか!」
 カスタニは叫んだ。
 昨日の朝、霧の中で何度か聞いた謎の音。その正体は今自分の目の前に突如現れたこのポケモンの仕業だった。浮かび上がったポケモンがしてやったりという風にずらり並ぶ歯を見せて、口角を上げ、にんまりと笑みを浮かべた。玉のような丸い身体。絵で描いたたら間違いなく点を打って終わりのつぶらな瞳。とりあえずどこまでが顔なのだろう、カスタニは非常に迷ったと後に語る。
 だが、何より最初に思ったのは「でかい」ということだった。直径にして2メートルはある玉の体は、まるで小さな浮島だ。波乗り用のポケモンにしたなら大いに役立つことだろう。
「なんだい、朝っぱらからうるさいねぇ」
 腰を抜かすカスタニの後ろでドアが開く。
「おや、あんたは」
 出てきたのはやはりというかミチルだった。
「お、ホエルコじゃあないか。なんだいお前さん、情けないねぇ。ホエルコに脅かされたのか」
「ホエルコ?」
「そうだよ。このへんじゃあ時たま見かけるね。昔話の玉宝っていうのはこのホエルコのことさ」
 ミチルはしょうがないねぇという風にカスタニを起こして言った。
「しかし男のくせに情けない。こんなんじゃあホエルオーに遭遇した日にゃあ、気絶だよ。気絶」
「ホエルオー? もしかしてこれの進化系か何かですか?」
 カスタニが問う。
「ご名答。進化するとね、これがもっとでかくなるんだよ」
「4メートルくらいですか?」
 とりあえず倍の数字を言ってみる。
「うんにゃ。14メートル」
 がくり、とカスタニは脱力した。それはもはやポケットモンスターではないと思うのだがいかがであろうかとカスタニは問う。いや、そういえば聞いたことがあったかもしれない。ホウエンにはとてつもなく大きなポケモンが生息していると。
 けれど、カントーで、それも一般家庭やトレーナーがよくバトルに出すポケモンを扱っていた所為か海の、しかもホウエンのポケモンはノーマークだった。
 世界の隅から脱出した気になっていた。だが所詮、狭い世界に生きていたのではないか。今更にカスタニは自身の無知を恥じた。
「まぁ尤もこのへんじゃあ見かけないがね。奴らよほど外洋にいるのか、キナギで見かけるのはホエルコばかりだよ。このあたりにもすごく昔はいたらしいけどねぇ。いなくなってしまったんだと。捕り過ぎたのさ、油目当てにね」
 ミチルはそのように説明した。
 そうして、ああ、そうかとカスタニは理解した。岬丸の語った友達――宝丸の正体はホエルコだったのだと。だから宝丸のおっかあというのはおそらくホエルオーだ。岬丸もでかいと言っていたし、間違い無いだろう。
 ホエルオーか、とカスタニは頭の中で反芻した。せっかく来たのだ。ホウエンの土産に見ておくのもいいかもしれない。
「……そのホエルオーとやら、どこに行けば見れますかね」
「さあ、めったに見れないからね。ごくたまに129番水道にいると聞いたが。確証はないよ」
「129番ですか」
 それならミナモシティ行きの船だな。カスタニは検討をつける。いつもミチルが海を見ているその方向そのものだった。
 シュゴッ! ホエルコがまた潮を吹いた。それが別れの挨拶だったのか、満足げに笑うどこまでかわからない顔が海中に沈んでいった。
「ああ、それとミチルさん」
 カスタニは老婆の名を呼んだ。
「なんじゃい」
「この町に神社はありますか。喜凪神社ってところなんですけれど」
 カスタニは尋ねる。
 冷静さを取り戻した彼は、ある確認をしたいと思った。
 岬丸は言っていた。「島」はもうおしまいだ、早く「島」を出ろ、と。
 そしてもし、「島」というのが自分の思っている通りだとすれば――

「ここだよ。ここが喜凪神社だ」
 ミチルに案内されてカスタニが立ったのは、キナギタウンの南端にある、六畳間ほどの小さな筏の上だった。その中心にまだ真新しい小さな社があった。高さはカスタニの身長にも満たない。拝殿と本殿が一体になった簡素なものだった。
「他の町は歴史ある神社が多いのだけどねぇ。なにせ台風の度に飛ばされたり、沈んだりするものだから、その度に立替えさ」
 と、ミチルが言った。
 カスタニは拝殿に近寄ると腰を屈め、パンパンと二度かしわ手を打った。鈴は無かったから鳴らさなかった。

 ――どうか喜凪が元に戻りますように。
 ――どうか宝丸のおっかあが天に行けますように。

 ――どうか海の神様が許してくださいますように。

 ――どうか……

 カスタニは思う。かつて陸があった頃の拝殿にそのように岬丸は祈ったというのだろうか。自分が霧の向こうに見た、ホエルコと友達だと語った男の子は。
 もう行くことも無いのだろうと思った。たぶん島はもうあるまい。すべては晴れた霧の向こうに消えてしまったように思われた。
 カスタニは目を閉じ、ずいぶん長い間頭を下げていた。
 この町は自分に似ているのかもしれない、と彼は思った。
 見返してやろうと走り続けた自分。そして、鰭をつけ、尾を生やして泳ぎ去った島を待ち続ける町。
 ここは報われない場所なのかもしれない。台風の度に流されて、何度直したところで、もう島は帰ってこないのかもしれない。復讐したかった者達に顧みられなかった自分と同じように。だが、それでも町は続いていく。やがて時は移り、観光という新たな価値を生み出して。
 それを否定する気にはなれなかった。自分の歩いた道もまた同じように。
「何を願ったんだい」
「……岬丸と宝丸がもう一度会えるように」
「ミサキ……誰だい? それは」
 ミチルは不思議そうな顔をした。ずいぶん古風な名前だと思ったに違いない。
「昔ここに住んでたらしいです。たぶん」
 カスタニはしれっと答えた。
 直後、二人の後ろからぎしぎしと振動が伝わってきた。
「博士ー! ミチルさーん!」
 二人が振り向くと、ヨウヘイとマッスグマのベクトルが筏を飛び跳ねながら向かってくるところだった。
「こら! あんまり揺らすんじゃないよ。縄に負担がかかるだろ」
 ミチルがたしなめる。
「よお、お前今日はずいぶん早いじゃないか」
 カスタニが言った。
 ヨウヘイとベクトルは社の建つ筏に踏み入ってくる。
「実は、ビッグニュースがあって」
「ビッグニュース?」
 へへへ、とヨウヘイは笑った。小麦色によく焼けた顔が笑っている。岬丸が成長したらこんな感じだろうかとカスタニは思った。岬丸と初めて会った時もそう思ったが、二人の顔はよく似ている。
 そうして、老婆とカスタニの前にヨウヘイは何かを差し出した。
「じゃーん!」
 少年が突き出す両手に丸い丸いボールが輝いていた。
「そのボールがどうしたっていうんだ」
 カスタニは尋ねる。
「ああ、もうテンション低いなぁっ」
 ヨウヘイが察してよと言いたげに声を上げた。
「ホホウ、もしや狙いの獲物をゲットしたか」
 今度はミチルがそう言って、ヨウヘイの目はキラキラと輝いた。
「そーなんですよ! ベクトルが顔しつこく舐めるんで仕方なく起きたんです。それに外に出てみたら、ね!」
 少年は興奮気味に早口で説明した。要約するとマッスグマに起こされて宿舎の外に出たらホエルコが二、三いた。勝負を挑んだところ一匹が乗ってきて、三十分ほどのバトルの末にゲット出来た、とそういうことらしい。
 すでにカスタニは出払っていて、真っ先にミチルに伝えに行ったなら、カスタニと南に行ってしまったとミチルの息子が言うので、筏を渡り歩いて探していたのだという。
 なるほど、狙っていたのはホエルコだったのか。通りで陸生のマッスグマが苦戦するはずだ。カスタニは納得した。
「キュウッ」
 ベクトルが得意そうに声を上げた。あんたが主役、とでも言うように額の矢印がヨウヘイを指していた。


「じゃあね! 博士」
 海上からホエルコに乗ったヨウヘイが手を振り、ベクトルが尻尾を振った。
 ミナモ行きの船がプアーッと鳴って出発を告げている。
「おう、元気でな」
 カスタニもまた船尾から手を振った。
 船が出発し、波を裂いた。ヨウヘイの姿が小さくなる。ついに豆粒大になり、キナギの町も遠ざかって行った。
 海風が身体に当たる。カスタニは昼間を回想した。

「行くのかい」
 出発の前の昼に昼食を共にしながらミチルは言った。
「夕方の便で出るつもりです」
 カチャカチャとフォークとナイフを使って、大きな貝を切り分けながらカスタニが言う。この町の貝料理は大変に気に入っていたので、これと別れるのは少々惜しいと思った。
「……出口は見つかったのかい」
「まだです。けれどここに居るべき時は過ぎた。そんな気がします」
「ふむ。それでいい」
 貝を口に運びながら、頷き、ミチルが言った。
「それは凄腕占い師の勘ですか」
「まぁそんなところだね。時々海の神様からのお告げがあるんだよ。『声』がね、聞こえるんだ」
「海の神様の?」
「そうさ。まぁ、私が勝手にそう思っているだけなんだけどね」
 カッカッカ、とミチルは笑った。よく焼けた顔だったから少し出た白い歯がひときわ目立った。
「で? 海の神様はなんと」
「『南に進め。そしてよく目を凝らせ』」
「……えらく抽象的な」
「まぁまぁいいじゃないか。お前さん、ミナモ行きに乗るんだろ? ならば方角は一緒だ。私はね、『声』が聞こえたときは外したことが無いのが自慢なんだ」
 ミチルは再びカカカッと笑う。
「…………」
 やはり占い師の類は適当だ。信用できないとカスタニは思った。

 日は沈みやがて夜になった。満天の星の空を仰ぎながらミナモ行きの船は進んでゆく。キナギを離れてずいぶん時間が経っていた。
 船内のまずい飯を食べ、もう船室の毛布に包まって寝るかとカスタニは思い始めた。明日は129番水道に入る。ミチルは可能性は低いといっていたが、運がよければホエルオーが見られるかもしれない。
 だが、カスタニはそのように考えを巡らしている時、船内に放送が入った。
「お客様にお知らせいたします。朝方より本便は129番水道に入りますが、霧の発生可能性が高いとの予報。その場合、到着予定時刻より大幅に遅れる場合があります。海上の安全を期する為、何卒ご了承をいただけますようお願いいたします」
「ええー」
「ついてないなぁ」
 船内から失望の声が漏れた。
 また霧か、とカスタニは思う。急ぎの用もなかったから到着時刻など割合どうでもよかった。ただ、それだと海がよく見えないだろうな、ホエルオーは諦めるしかないかもしれない、とも思った。
 カスタニはさっさと船室に戻ると、毛布に包まって寝息を立て始めた。食事は不味かったが、キナギの宿舎よりは上等な毛布で、カスタニは心地よい眠りに誘われていった。


 ……カスタニ君、カスタニ君。
 どこからか優しい声が聞こえた。
 心地よい春の日差しの中、昼食を終えたカスタニは昼休みの机に突っ伏して眠っていた。
 疲れていた。連日のバイト、そして勉強で。
 暖かい。今しばらく寝かせて欲しい。
「カスタニ君、起きて」
 眠い。だが、声は尚も語りかける。
「起きて、カスタニ君。今起きないと見られなくなっちゃう。だから起きて」
 見られなく? カスタニは眠い頭の中にはてなマークを浮かべた。
 何を言っているんだい。なぜそんなことを言うんだい。ミヨ……

 はっとカスタニは目を覚ました。
 ベッドの脇に置いておいた眼鏡を拾い、かける。
 何かにせかされるように起き上がった。
「ミヨコさん……?」
 と、彼は口に出した。まったく、未練がましいものだと思う。
 カスタニは洗面台に立つと顔を洗った。
「そういえば、霧が出てるって話はどうなったのだろうか」
 カスタニは階段を駆けていく。上の階に上がって甲板に出る重い扉を開いた。夜間は出入り禁止の甲板だったが、すでに鍵は外れていた。
 びゅうっと冷たい風がカスタニの身に染みた。やはり朝は冷え込む。
「すごい霧だな……こりゃあ下手に進めないぞ」
 と、カスタニは呟いた。事実、船は様子見をしているのかこの場に留まっていて、視界は白く、進む先はまったくと言っていいほどに見えなかった。カスタニは甲板へ出る。船の先頭へやってきて、真近の海を見た。
 ふむ、とカスタニは声に出した。やはり、ごく近くであればおぼろげに見ることが出来る。
 身に染みる寒さを感じながら、海面を観察する。
 冷やされた水蒸気の漂う中、色の無い波がゆらゆらと揺れている。
「期待しても仕方ないか」
 カスタニはこぼした。
 が、その直後、ざばんという大きな音が耳に入ってカスタニは視線を音の方向に移した。
 黒い海の中、巨大な飛行船フォルムの生物が半分ほど身体を出し、洋上を移動していた。
「もしや」
 霧中に彼は目を凝らす。黒い水面を航行する飛行船は海水という名の雲から身体を持ち上げ、ジャンプした。
 次の瞬間、彼が見たのは大きな音と共に上がる大きな水飛沫であった。
「おお……」
 カスタニは感嘆の声を上げる。
 大きい。何が大きいって、スケールが大きい。
 目測でもその大きさはゆうに10メートルを越すと思われた。
 ――遭遇した日にゃあ、気絶だよ。気絶。
 ミチルの言葉を思い出す。
 キナギで出会ったホエルコは大きかった。だがその大きさもこれの前には霞んでしまう。
 ホエルコが小さな浮島ならば、この生物は島だった。れっきとした一つの島。きっと人が暮らせてしまうほどの。
「間違いない……ホエルオーだ! こいつが、こいつが……そうなんだ!」
 カスタニは叫んだ。それはもういつが最後だったか思い出せないワクワク、ドキドキという胸の高鳴りだった。
 そして、カスタニは気が付いた。海の中にいるのは一匹だけではないということに。一匹を見つけたことで芋蔓式にもう一匹、さらにもう一匹が見つかっていく。Y字の尾があちらこちらに覗いた。玉のようなホエルコには無い特徴。それは霧の中でも分かりやすいシルエットだった。
 群れだ。ホエルオーの群れだとカスタニは確信した。霧中にあってその全貌は掴めない。だが全体に二十や三十はいるのではないかと思われた。
「おや、」
 全体を見通して、カスタニは妙なことに気がついた。霧の向こう、シルエットが見える見えないのぎりぎりのラインに大きな島が見える。……ような気がする。
 だとすると航行ルートは危うくないだろうか、とも思った。今は留まっているようだから構わないが。
 そんなことを考えながら眺めていると、にわかにそのシルエットが動いたような気がした。
 そうして彼は見た。
 白く濃い霧の向こうでホエルオーのそれと同じ巨大なY字が揺れたのを。
「……、…………」
 状況が飲み込めず、カスタニはしばし無言になった。

 かつて、約束を破ったキナギの漁民は土地を取り上げられるという海の神様の罰を受けたという。
 玉宝――ホエルコには手を出さない。その禁を破ってしまって。
 だから島は水平線の彼方に泳ぎ去った。鰭と尾をつけて、泳ぎ去った。

 カスタニは記憶の断片をほじくり返した。
 ミチルは確か、一言も言ってはいなかった。それがホエルオーだった、とは。
 だが……だがしかし……。
「……まぼろし、じま…………」
 ぼんやりと霞む巨大なシルエット。それはやがて霧中へ消えて、もう二度と見えることがなかった。
 カスタニは霧中の甲板に突っ立ったまま呆然としていた。
 いつまでもいつまでも、カスタニはただ立ち尽くしていた。










朝霧 了


  [No.2743] トシハルより 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/22(Thu) 22:32:55   67clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



 やあ、お客さんだね。
 ようこそ、フゲイ島へ。
 最近は尋ねてくれる人が増えてきて嬉しいな。定期便も増えたしね。
 やっぱり君の目的はホエルオー? 最近はね、多いんだ。
 あ、僕の名前は継海(つぐみ)。ツグミトシハル。
 この島でガイドをしながらホエルオーを研究してるんだ。

 そうだ。
 これからツアーで船を出すんだけどよかったら一緒に来ない?


  [No.2744] 謝辞(単行本収録版) 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/23(Fri) 11:37:33   95clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
謝辞(単行本収録版) (画像サイズ: 600×858 229kB)

謝辞

 何の因果かポケモン小説というものを書き始めて八年くらいになるいと思います。小説というものを書き始め、本作「クジラ博士のフィールドノート」が発行に至るまでの過程で、ポケモンおよびポケモン小説に関わるたくさんの方に出会いました。本作品がこのような形になったのも、そういった方々に作品の感想を頂いた事のみならず、様々な機会、きっかけを頂いた結果と考えております。
 末筆ではございますが、ここに感謝の意を記す次第です。

 また、同時発行を目指して共に執筆に励んだ586氏、作品校正に多大なる協力をいただいたきとかげ様、クーウィ様、久方小風夜様、小樽ミオ様、朱雀様、プロフィール文原案を考えていただいた茶色様、そしてポケモン小説コミュニティサイト「マサラのポケモン図書館」の皆様には、改めてお礼を申し上げます。
 そして、最後になってしまいましたが、この本を手にとってくださったみなさまに感謝を申し上げます。

2011年8月13日  No.017


  [No.2745] あとがき 投稿者:No.017   投稿日:2012/11/23(Fri) 14:41:40   126clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

あとがき―クジラ博士のつくりかた


 シリーズ収録話の中で、マサラのポケモン図書館で最初に発表したのは「うきくじら」であったと記憶している。たぶん2004年くらいの事だ。当時、チャットで感想など貰ってしまい、調子に乗ったのもよい思い出だ。
 で、時々思いつくようにトシハル君が出てくる作品を投稿する事になった。
 次に投稿したのが「森と海と」で、これはどっかのポケモンサイトでアニポケにカビゴンが出てきた回の感想を見たのがきっかけだったりする。住処を失ったカビゴンは近所の商業施設だったか植物園だったかのオーナーに引き取られて飼われる事になったんだが、こんなの何の解決にもなってないじゃん! というわりと不満のある感想で、それに触発されて書いたのがこれだったりする。ちなみに「わたほうしのゆくえ」は時系列的にはこれの続編にあたる。
 「海上の丘にて」は当時、学校をサボって書いた。私はダメ人間だった。

 さて、せかっくなのでこの作品のバックグラウンドにてついて語ろう。
 この作品を育てたのはなんと言っても私の大学生活、そしてその後に辿った挫折の繰り返しを抜きには語れない。
 私の出身校および学科をバラすと帝京科学大学のアニマルサイエンス学科である。かいつまんでどんな学科かと説明すると、まぁ動物についていろいろ研究する学科なのだが、獣医学部ではない(動物看護士は勉強して、試験受ければとれるらしいが)。予備校時代に獣医志望だった私はたいして勉強が出来るようにならず、予備校講師の勧めもあってここを受験することと相成った。英語も数学もまったく出来なかった私は生物と国語で受験し、合格する。私は二期生であり、当時は今ほど倍率が無かった為に私は潜り込む事が出来たってわけだ。
 アニマルサイエンスでは野生動物の研究手法を学んだり、動物園に実習に行ったりもした。赤い花と黒い影で主人公のミシマさんがカゲボウズを定点観察しているが、こういった発想は大学で学んだ事に基づいている。「影花」も「クジラ博士」も大学生活抜きには生まれなかった作品と言っていい。
 では、くわしく「うきくじら」について突っこんでみよう。なんでこんな作品が出来たかといえばホエルオーというポケモンが気に入り、こいつ空飛びそうだなーと思った事がひとつ、実習にフィールドノートを使い、数字が大切だと学んだから、そしてある強烈な先生との出会いであった。
 ある強烈な先生とは「リアルカスタニ博士」である。私の大学にはリアルカスタニ博士がいらっしゃった。船に乗り年中鯨類を追っかけ回していた先生である。水生ほ乳類の分野ではかなりの権威であるらしく、どれくらいかというと動物行動学をやってた先生が「尊敬している」と普通におっしゃる。おそらく水生動物を研究している人がこの小説を読んだら、誰がモデルになっているか一発で判るはずだ。正直スマンカッタ。
(ただし、カスタニ博士自身はあくまでフィクションであって実際のご本人とは別人である事は、先生の名誉の為に申し上げておく)
 先生の実習というのは今考えれば豪華だった。イルカの頭部の解剖(イルカ猟でとったイルカの頭部を譲って貰ってきたものと思われる)に、小笠原での観察実習なんかがあった。骨格標本がどうのこうのといった具合の話が出てきたり、死体を調べたいなんて言い出すのもこのへんが影響してるのだろう。
 とにかく、そんな大学生活の影響をもろに受けてつくったのが、「うきくじら」「森と海と」などの前半の作品であった。「メロンパンの恨み」もアイディアだけはあって当時仲良かったマサポケの子に柿ピーがとか喋ってたりしたのだが、単行本収録まで形にはならなかった。トシハル君が実習でサファリゾーンのドードーを調べにいくという話もあったが、これは後が続かなくてボツになっている。
 「少年の帰郷」の執筆をはじめたのが、就職活動をはじめた頃であった。すでに私には予感があった。私は大学で学んだ「動物」というものをおそらく職業には生かさないという予感が。クジラシリーズを書き始めた当初はトシハル君は順当に研究者になる予定であった。それがあんな風になってしまったのは私の人生を反映していたからだ。
 就職活動はいい加減だった。私は将来に何のビジョンも持っていなかった。公務員試験の勉強もしていたが全く身が入らなかった。だからろくに試験も受けなかった。獣医学部受験の時もそうだったが、私は昔から努力する事が出来ず、機会をフイにし続けた。トシハルは正直ヘタレではあるが、少なくとも努力はするし、それなりに能力もある(というかカスタニ博士が超人すぎる)ので、その点彼は筆者よりはるかにマシと言える。
 結局、私は新卒で就職をしなかった。1〜2年ほど実家近くのアパートに住みながらイトーヨーカドーでバイトをして生活していた。だが、ある日どうもいかんと思い立って、就職の支援学校のような所に行き、営業の実習を経て(飛び込みの実習とかやらされた)、8割が集団面接で就職を決めていく所を2度失敗して、3度目でやっと今の会社に潜り込んだのであった。まだ売り手市場の時期だったのが幸いだった。
 まあとにかくそんな感じの経緯が、少年の帰郷の暗さにはもろに反映されている。
 「少年の帰郷」はその後4年程、絶筆状態が続いた。理由は様々考えられるが、当時の私のレベルではそれ以上が書けなかったのだろうというのが今の結論だ。あの後、就職してもまれて、いろいろな事があって、バカやって後悔したり、マサポケ運営とかやってみたりして、それでやっと書けるレベルまで自身が上がってきたのだと思っている。
 連載はじめた当初の私がもし頑張って書いていたら今とは少し違う終わり方になったろうと思う。たぶんカスタニ博士が許して、トシハルが安心して、みたいな形になったんじゃないかな。今回の執筆で拘ったのは(いろんな人が背中を押してはくれるけど)あくまで決めるのはトシハルって所には拘ったつもりでいる。「誰かが許してくれたからやっていい」のではなく、あくまで自分の意志で選び取る形にしたかった。だから師弟対面が出てくるのは、あくまでトシハルが意志を固めてからにする必要があった。

 さて、クジラ博士を構成するもうひとつの軸として「伝承」があるので、それについても語る事にしよう。
 私の論文のテーマが「動物観」で、書くにあたって、参考に動物観に関する書籍を読んだのが、その中に人間と動物が結婚する話が結構ある。正直、論文の役には立たなかったのだが、本自体は非常におもしろかった。
 人と動物の婚姻。実はこれ東洋に特徴的な書かれ方で、西洋にはあまり見られないのだという。西洋にあるのは動物がいて、実は魔法かなんかでそうなっていて元は人間でした、というもの。人間と動物はあくまで区別された存在だ。
 ダイヤモンド・パールの発売もほぼ時期的に重なる。「ひととけっこんした ポケモンがいた」にやられてしまったポケモン二次創作者は多い。私もその一人だった。
 思えば昔から、妖怪やら狐やらみたいのが好きだった。水木しげるの妖怪本を一生懸命読んだりしていた。だからもともと引っ張り込まれる気(け)はあったんだろう。
 帰郷絶筆中に「遅れてきた青年」を書いているけれど、今思えばこれが伝承が出てきた最初だったように思う。
 また、就職をしてこれから小説を書いていくにあたってインプットをしていかないといけないと思っていた。「うきくじら」や「赤い花と黒い影」は経験をもとに書かれた話だ。けれどもう使ってしまった。新しいものを書く為にあたらしいネタを仕入れなきゃいけないという危機感があった。将来的にはカゲボウズシリーズをちゃんとやりたいと思っていたので九州関係の本を買ったりもしていた。そこで出会ったワードが「隠れキリシタン」だったもんだから、じゃあマグマ団とアクア団の対立にかけて、昔に宗教戦争があった事にしようという着想が浮かんではいた。
 で、なぜ伝承やら昔話に傾倒するようになったかというと、そういう気(け)があったのはもちろんだが、大阪の友人宅に遊びに行き、二人で三十三間堂を見ながら妄想したら話が出来てしまったという事だろう。その結果書いたのが「霊鳥の左目」であった。京都の本屋で魔界地図みたいな本を買ったのがさらにマズかった。本に載ってたエピソードのせいで「抜け鴎」が出来「樹になった狐」が出来、豊縁昔語シリーズになってしまった。ルビサファの幻島の正体についての妄想は昔から持っていたのだが、ついにここでリンクする。じゃあクジラシリーズにくっつけてしまえ、という事で、帰郷の続きに妙に信仰が絡んできたり、「朝霧」という作品が出来たという訳。

 そんな大学卒業後の経緯からしても、2004年に作品の最初のが出て、2011年になってようやく完結にこぎ着けたのは必然なのかなと思っている。私の人生経験、そして読書という名の取材。全部のピースが揃うのを待っていたんだと思う。

 ポケモン二次創作小説の世界は9割の連載が完結しない世界と認識している。
 クジラ博士は、途中で放置しながら、寄り道しながら、たまたまタイミングがあってなんとか完結にこぎ着けた。それはなんだか少年の帰郷でトシハルの辿った道にも似ている気がする。
 小説界隈ではよく完結、完結というけれどクジラ博士が8年かかったように、もうすこし長い目で付き合っていく必要があるのかもしれない。完結を迎えられる作品、それは今書いている作品そのものの完結かもしれないし、それを踏み台にした新しい作品かもしれない。 大事なのは何でもいいから書き続ける事なのかな、たぶん。するとある時、すとんと落ちてきて書けるようになる事もあるだろうと振り返ってみて思う。

 最後に、完結を待っていてくださった皆さん、ありがとう。
 大変お待たせしました。クジラ博士、完結です。






2012年11月23日
No.017


  [No.3566] ダイズ、メガシンカする 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2015/01/10(Sat) 13:30:00   84clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
ダイズ、メガシンカする (画像サイズ: 1000×786 179kB)

アカリ、ちゃんへ。
ダイズが進化した。ちまたではメガシンカと呼ばれてるらしいが、手がつけられない。
チャンピオンとしてコツを教えてほしいです・・・


  [No.3567] 懐かしい 投稿者:焼き肉   投稿日:2015/01/10(Sat) 14:43:12   44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 クジラ博士の単行本が届いて読み耽ったあの日を思い出しました。うきくじらの素敵な世界観に、クジラに飲まれたピノキオのごとく呑まれてました。

 トシハルが落ち着こうとダイズちゃんの快進撃は止まらぬのですね。あらぶるハトポッポ。


  [No.3568] Re: 懐かしい 投稿者:No.017   《URL》   投稿日:2015/01/10(Sat) 19:26:58   69clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:メロンパン

おお、クジラ博士をご注文くださっていましたか!
これはどうもありがとうございます。
ルビサファリメイクでピジョットがメガったのも何かの縁だと信じてやみませぬ。