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  [No.3503] 命の選別 投稿者:art_mr   投稿日:2014/11/15(Sat) 11:57:46   115clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

命の選別


 六年生の夏休み、おじいちゃんが入院することになった。お父さんが運転するワゴンに乗って、家族で病院に向かった。普段通らない道を通って、見慣れないビルや家をみて、少しずつ全く知らない景色になっていく。青い空に白く雲が浮かんでいて、その下はしばらくすると、道以外どこまでもどこまでも緑の田んぼになった。お父さんとお母さんはおじいちゃんと難しい話をしていた。大人の話は私にはよくわからなかったけれど、まるで分かっているようなふりをした。そうすればなぜかおじいちゃんが元気になれるような、そんな気がしたからだ。いつの間にか車の中で眠っていたみたいで、気がついたらどこかの駐車場にいた。お母さんにせっつかれ、目を擦りながらドアを開けると、目の前に大きな病院があった。グレーの大きな建物二つが真ん中の通路で一つにつながっていた。建物の入口をくぐると、うっすら消毒液のにおいがした。少し黄味がかかった壁と、薄暗い照明のせいで、自分の色がいつもよりぼんやりしてみえた。

お父さん達が受付で話している間、私は壁に貼ってあるポスターを見ていた。
「予防しよう ○○症 おかしいとおもったらまずは病院へ!」
「ーーは頭痛・肩こりの原因になります! まずは病院へ!」
大きな待合室を奥へ奥へと進みながら、私はまずは病院へ! と勧めるポスターをたくさん眺めていた。その中で、一際目を引くポスターがあった。それはただ大きな画用紙にマジックで、しかも、あんまり上手じゃない字で、
「ポケモンの対戦相手求む!! 僕は伝説は使いません。 六◯二号室 大野元基」
とあった。それをみて、思わずつぶやいていた。
「ポケモン…?」
もう一度読んでそれ以上の意味を読み取ろうとしたけれど、
「あらっ」
「まただわ」
振り返ると、私のすぐ後ろに看護師さんが二人いて、あっさりとポスターをはがしてしまった。急いで読んだ内容を心にしまう。
「……六○二号室。ポケモン。 ……大野 …君」

 暫くすると看護師さんに案内されて、みんなでおじいちゃんが入る病室に向かった。三○四号室から入ってすぐ右が、おじいちゃんの部屋になると説明された。上からぶら下がっているカーテンで部屋を六つに分けているみたいだ。六人部屋なのかも。カーテンの向こうに人がたくさん居る気配がして、耳をすますといろんな声が聞こえてきた。すぐにお医者さんが来て、お父さん達と難しい話をしていた。私も大人しく聞いているふりをしようとしたけれど、
「メイ、ねぇ部屋をちょっと出ていない?」
「えっ?」
「これからお母さん達は大事な話をするの、ちょっと、冒険してらっしゃい」
強制的かつ不自然に部屋を追い出された私の、向かう先はもちろん決まっていた。さっきみた六○二号室、大野君の部屋だ。暫くうろうろするとすぐに階段が見つかって、六階まで上った。六○二号室の前で、入り口の横についていたプレートを確認する。
「あった!」
声が思っていた以上に廊下に響いて、慌てて口を押さえたけれど看護師さんに気づかれてしまった。焦って逃げようとしたけど、足が全然動かない。看護師さんの優しそうな笑顔に、私はぎこちなく頬の端を持ち上げた。あはは。
「こんにちは。お友達のお見舞い?」
「え……はい」
もういっそ、そういうことにしてしまおうと思った。
「相手は? 大野君?」
「……はい」
「クラスメイト? すぐ、案内するね。左手奥に居るからね」
そういうと、さっさと入っていってしまった。私は全身に冷や汗をかいていて、心臓がどうにかなってしまいそうだった。そもそもどうして、こんな事になってしまったのか。あのポスターか。いや、私のせいでしょう。
看護師さんが、
「大野君、お見舞いよ」
とカーテンを開けるのを、私は絶望的な気持ちでみていた。思わずギュッと目を閉じる。
「お見舞い?」
少し低い、かすれた声。恐る恐る目を開けると、流れ星の描かれた黒いバンダナを巻いた同い年位の男の子が、上半身を起こして座っていた。切長で鋭い一重瞼に見据えられて、誰? と言われているような気がしてしまう。この場からいなくなってしまいたい。でも、男の子の両手に小さな最新小型ゲーム機が握られているのをみて、ポスターの人だやっぱり、とひそかに確信した。
「ポスターみたの」
私が早口でそう言った瞬間、大野君の表情が、警戒から驚きへ変わっていくのが分かった。看護師さんは私たちを交互にみると微笑んで、ごゆっくり、とかなんとか言って出て行ってしまった。

「……誰だか、わかんないけど。ポケモンやってんのか? 俺と戦おうぜ」
当たり前だけどそう切り出された。私は更に冷や汗をかきながら、
「私……ポケモン持ってないの」
「え」
「ポスターをみて、つい。どんな人なんだろう、と思っちゃって」
「えー」
「ごめんなさい」
謝ると大野君は、
「べ……別にいいよ。しょーがねーもん。ポケモンやってないならさ」
と拗ねたように言った後、名前は? と聞いてきた。
「私、メイコ」
「メイコか、オレはモトキ。大野元基さ。見ての通り入院してる」
「うん」
「オレ昔からポケモンやってるんだ。病気が見つかる前から、ずっと」
「へえぇ」
「メイコは今、何年生?」
「メイで良いよ。そう呼ばれてるし。私、六年生」
「ってことは、十二歳か」
「うん」
「じゃ、オレと一緒だ」
「大野君も?」
「モトキでいい」
そう言って、モトキは私の方をみた。
「色、黒いんだな」
肌の事を言っているみたいだった。
「夏だから。色々遊んでいたら、いつの間にか黒くなってたんだ、プールとか行ってたし。後はサッカーの練習したりとか、鉄棒とか」
そこまで言って、モトキの透き通るように白い肌が目に入った。慌てて口をつぐむ。
「ご、ごめん」
「なんで謝ってんの」
「え」
「オレには夏休みとかなくて、そういう風にみんなで遊べないからかわいそうとか思ってんの?」
「そんな……」
モトキ、みんなって言った? でもみんな……みんなって誰の事? 反論したくて、でも出来なくて目を逸らしたけれど、モトキの目はさっき初めて会った時と同じように、まっすぐに私を捉えて離さない。
「そもそも何でポケモン出来ないのに、オレのとこ来たの? なんなの? メイ、あんたオレの事哀れみたいの?」
違う、と言いたかった。でも口に出さなくても読み取られたみたいで、
「違うの? じゃあ何? なんでここ来たの?」
「あのポスターを貼っているのはどんな人なんだろうと思って……。ポスターをみて、ポケモンは分からないけれど気になったから来たの、それだけなの!」
殆ど叫ぶようにして、そう答えた時だ。
「そこまでだ、モトキ」
私の後ろから低い声がした。モトキがパッと顔を上の方に向けた。切れ長の一重瞼で睨みつけ、明らかに納得していない表情をしていた。
「だって!」
「男子たる者、言い訳をするな。大体せっかくお前の所に遊びに来てくれたのに、なのに何だお前、そんなかわいい女の子に突っかかって」
「頼んでない」
私も声の主の方を振り向いた。相手は黒いニット帽を被った、優しそうな瞳をしたお兄さんだった。年上の人の年齢は私にはよく分からなかったけれど、高校生くらいかなと思った。
「ごめんね」
お兄さんが大きな手を私の頭にのせて、撫でてくれた。モトキは口を尖らせたままお兄さんを睨んでいる。
「モトキの所へ遊びに来てくれてありがとう」
「いいえ」
「あいつの作ったポスター見て、来てくれたんだってね。こいつすぐ部屋抜け出して、対戦相手募集のポスター貼って来ちゃうの。ポケモンやってる子は少なくはないんだけど、ここは病院だから常に遊べる訳じゃないしね。一緒に遊んでくれる相手が欲しいんだよ、こいつ」
「……」
「さっき、モトキがつっかかって行ったでしょう? こいつね、凄い負けず嫌いなんだ。だからきっと感じたんだろうね。メイちゃんは外で思いっきり遊べるのに、自分は病院の中に居るから君と同じようには遊べない。メイちゃんが悪いと思って黙ったのを、こいつは同情だと思って怒ったんだ。そうだろう?モトキ」
モトキは押し黙ったまま、私を睨んでいる。私は深呼吸した。
「私は、モトキと友達になりたいって思ったんだ。最初からいやな事言っちゃったかなと思ったから、黙ったの。嫌われたくなかったんだよ。だって、そうしたら友達になれないじゃん……」
さっきとは違って、するりと言葉が出てきた。
「……」
「モトキ、こういう時はなんていうのかもう知ってるよな」
「……」
「モトキ」
「友達になってやっても……いいぜ」
「モトキ、違うだろう」
お兄さんが呆れたように呟いた。でも次の瞬間、モトキはごめん、と下を向いて目を伏せた。
「ありがとう」
私も同じ言葉を返すと、モトキはそっぽを向いた。でもお兄さんがモトキの頭を撫でると、なんと、モトキの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。お兄さんが微笑む。
「よしよし」
「オレ……オレも、本当は友達になりたかった」
私は笑った。
「大丈夫、もう、なってるよ」
「本当?」
「うん。あっ、もういかなきゃ。今おじいちゃんが入院しててね。二十分くらいしたら戻りなさいって、お母さんに言われたんだ」
「そっか……また来る?」
「絶対、また行く。おじいちゃんのお見舞いじゃなくっても、絶対絶対また、モトキの所に遊びにいくよ」
「ほんと? じゃあオレ、待ってるから」
モトキはそう言って笑った。初めて見る笑顔だった。
「今度はポケモン見せて」
「まかしとき」
「じゃあね」
そう言って、病室を後にした。その後の帰りの車で私は、外の道を真剣に見つめていた。あの角を曲がる、あのお店の脇をずっとまっすぐにいくとか、そんな風に。自転車も練習しておこう、そうすれば一人でも来れるに違いない。
その晩はベッドの中で、いつまでもいつまでもモトキとポケモンと、あのお兄さんの事を考えていた。


 乾いた風が、優しく少年の頬を撫でていった。少年が歩きながら空を見上げると、突き抜けるような真っ青な空が、紅葉でいっぱいの並木道の上に広がっていた。秋だった。赤。オレンジ。燃え立つような緋色。落ち着いた深紅。それから黄色。綺麗に色づいた葉が風に巻き上げられて重なり合い、地面に新しいグラデーションを描いていく。その葉をゆるく踏みながら、少年は歩いていた。その彼の横を紫色のポケモンが軽快な足取りで追い抜いていった。少し先で立ち止まると、少年の方へ振り返る。
「キュィーッ」
一声鳴いて、二股の尾をゆったりと振る。
「待てよ、エーフィ」
少年が微笑むと、エーフィは額に抱く珠をルビーのように光らせて応答した。はやくしないと、おいてっちゃうよ……まるで、そういっているかのように。
やがて少年とエーフィは、大きな塔にたどり着いた。錫の大きな鳥ポケモンの像が出迎える入り口を通り、穴や壁に阻まれながら、時折どこからともなく現れる坊主のトレーナーに驚かされながら、塔の一番上までたどり着いた。薄暗い塔の屋上で軋んだ扉を開け放ち、外へ飛び出す。荒れ狂うような風に煽られ、体ごと吹き飛ばされそうになる。グッと足に力を入れ、少年は片手で視界を庇いながら、前を見据えた。見なくても、エーフィが隣で刃物のような緊張感をまとっているのが分かる。強い風に押されながらじりじりと進むと、刹那、白い爆発的な閃光に一瞬で視界を塞がれた。思わず少年は両手で顔を覆った。その瞬間に吹き飛ばされたのかは分からなかった。奇妙な、上下が分からない無重力の世界に投げ出されたように、少年の体は急に軽くなった。目を閉じ手で覆っているはずの暗い視界の向こうから、白い光が網膜を破ってくる。暫くすると、一面真っ白い視界の端からうっすらと、ゆるゆると、何かの色が見えた。夕暮れのような薄い紫、早朝の澄んだ空のような薄い青、萌黄のような緑……その変化に、少年の心がカチリと反応した。虹だ、虹の色と同じだ。程なく橙と赤が混じってきた、眩いその色彩の中に大きなシルエットが見えた。虹色の鳥だ、と気づいた瞬間、世界が暗転した。

「モトキ! モトキ!! モトキってばッ」
甲高い声と共にゆさゆさと体を揺さぶられて、我に返った。
「……」
「もう十時だよ! まだ寝てたの?」
「夢……」
夢を見ていた。凄く綺麗な夢を。オレ、エーフィと一緒だった? 一緒に居た場所は、あの鳥のポケモンは、何だっけ……
「夢見てた?」
まだ心臓がドキドキしていた。興奮冷めやらぬあの夢の内容を思い出そうとするのを遮って、ベッドの脇からちょっかいを出してくるのは、アキラだ。同い年でポケモンをやっている、一番の親友。いや、戦友というべきか。
「ああ」
「どんな夢?」
「いや……あんま思い出せない。忘れちゃった」
自分だけの中にしまっておきたかった。
「なぁんだ。ね、じゃあバトルしよ、戦おうよ」
くりくりとした目でこっちを見てくる。目覚めた後の体のだるさで気がついた。自分の体調が、今日はあまりよくないと言う事に。でも、バトルはしたい。バトルをすれば、体調も良くなるかもしれないし……なんて。
「なぁ、オレ横になったままでも良い? ルールはどうする」
軽く言ったつもりだったが、アキラの表情が氷のように固まったのが分かった。早口で言う。
「モトキ体調よくないでしょ」
「体調良かったら十時まで寝てないって……それに売られたバトルは……買うしかないだろ」
「……」
「特に……アキラなんかに、売られた日には……」
そう言ってアキラを見たら、泣きそうな顔をしていたのでぎょっとした。
「おい」
「……」
「アキラってば」
「……売らない」
「……は?」
「バトルは売らない。だからまた今度にしよ」
「……なんだそりゃ」
一瞬よくわからなくて、アキラの方へ捻っていた自分の体を戻して天井を見上げた。十秒くらいたって気がついた。それは、多分優しさなんだろうと思った。
「ごめん」
「ううん。でも今度、モトキが僕の方に売りに来てね、バトル」
「ああ」

暫くぼぉっとしていて、また眠りかけていた頃だ。
「ねぇ」
急にアキラがこちらに身を乗り出して来た。まだ居たのか。眠気が吹き飛ぶ。
「なに」
「あの女の子、またモトキの所来てくれたね」
目配せしながらにこにこ笑っている。オレは一瞬で血の気が引いた。
「……どっから見てた」
「隣のベッドから」
「隣、人いるぞ」
「モトキが知らない間に仲良くなったんだ」
しれっと言う。
「なんでだよ」
ツッコミ所が多すぎてどこから対処したらいいのか分からない。オレが睨んでも、アキラは我関せず、といった体だ。それどころか、変化球をぶん投げて来た。
「モトキ、あの子のこと好きなんでしょ?」
「は?」
「見れば分かるって。モトキ、凄いうれしそうだった」
なんか、関節が痛くなってきた。

昨日の午後の事だ。いつものようにポケモンをしていたオレの元に、来客が有った。
「やっ」
ベッドを間仕切るカーテンを断りもなくあけると、浅黒い肌にタンクトップを着た、短髪の女の子が顔を覗かせた。オレは不意打ちすぎてそのままの姿勢で固まってしまった。
「な……」
そいつは呻いたオレに手を振って、
「約束通り、遊びに来ました」
律儀にそう言って、オレのベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「え」
「あれ、私の事忘れちゃった? 私今日すっごい楽しみにしてたんだから、モトキに会いにいくの。病室抜けるのちょっと大変だったんだよ、怪しまれて。楽しみに……してたのに……」
覚えてないなんて、としょんぼりとうなだれたその姿を見て、さすがに慌てた。
「んな、んなわけねーだろ!!覚えてる、覚えてる。メイコ。メイ、って呼ばれてるんだろ。先月の今頃おじいちゃんが入院して病院に来て、オレの作ったポスター見て遊びに来てくれて、また会おうねって言ったんだ」
「覚えてるじゃん」
「あのな、忘れたなんて言ってない」
オレがちょっと睨みつけると、メイは舌を出して、おかしそうに笑った。ちょっと、あれ、って思った。
「メイって……こんな風に笑うんだな。それに結構喋るのな。前会った時は、すげーおとなしいやつだって思ったのに」
「だってはじめてだったし」
「なにが? オレやお兄さんに初めて会ったからってこと?」
「いや…そうじゃなくて、入院してる人に会ったのが初めてだったから。私が知らないってことで、なんか、失礼なこととか言っちゃったら嫌だし」
それはちょっと、違うんじゃないの。
「別にメイが何言っても、重要なのって、言われたオレやお兄さんが失礼って感じるかどうかなんじゃねえの? 別になんでも良いじゃん。もう、友達なんだから」
「はー……そっか。モトキ頭良いね」
「メイはもっと頭使え」
「ねぇ、ポケモン見せて!」
「話聞いてる?」
そう言いながら、ちょうど遊んでいたポケモンの画面を見せる。
「ここ、どこ?」
なだらかな丘の上を、自転車に乗った主人公が行く。場所は町と町の間、どこかの道路だ。メイに問われて、自分があんまり道や町の名前を覚えていない事に気がついた。ポケモンの種類、技、特性。そう言う事にしか興味がなかったんだ。
「分からない。……あ、いい事思いついた。ちょっと待って」
画面を操作して、初めてポケモンを貰った町へ飛んだ。家が三つしかないね、とメイが言う。
「ここでゲームが始まって、博士からポケモンを貰うんだ。……この施設でね。オレだけじゃなくて、他の幼なじみ二人が居て、そいつらと一緒に選ぶんだ。タイプは三種類から選べた。草・炎・水タイプ」
「どれにしたの?」
「オレは水。草は水に、炎は草に、水は炎に強いってタイプの説明が有って、オレの家でバトルして、そっからめくるめく旅のスタートだ。図鑑を貰って、色んな町に居るジムリーダーを倒して、最終的に四天王とチャンピオンを倒してエンディングだな」
「モトキは今、どの辺?」
「オレはもうクリアしちゃった」
「えっ、クリアしちゃったら終わりじゃないの?」
「クリア後に行ける所とか、イベントもあるんだぜ。終わった後は、四天王やチャンピオンのレベルが上がるから更にレベルアップを目指せるよ」
「ふーん」
オレは最寄りのポケモンセンターに行って手持ちを入れ替えると、バトル用のポケモンを見せた。サザンドラ、ダイケンキ、シャンデラ、エーフィ、ウォーグル、エルフーン。
「この…エルフーン、すっごく可愛いね!!あとエーフィも。シャンデラも可愛い!!」
メイがはしゃいだ声をあげる。女の子はこういうのが好きなんだろうか。
「メイ、ピカチュウ位は知ってる? どっちが可愛い?」
「エルフーン!」
そんなに気に入ったのか。確かに可愛い顔してるけど。
「ポケモンって、六匹しかいないの?」
「いやいや。ポケモンはもっともっとたくさん居るよ。何種類か忘れちゃったけど…その中から、手でもって歩けるのは六匹。他の捕まえたポケモンはパソコンに預けとける」
「ほぉー」
「やってみる?」
「やれるの?!」
「やれる。ちょっと待っとき」
机の中の引き出しからソフトをもう一つ取り出して、さっき自分が遊んでいたソフトと交換した。
「オレ、ポケモン二つ持ってるから。片方、メイにやるよ」
「本当?! モトキってお金持ちなんだね」
「いやいや。オレがずーっとポケモンにしか興味がなくて、そればっかりやってるから。親がソフトの発売日に両方買って来てくれたんだけど、オレは片方しかやらないし」
「そうなんだ。ありがとう」
メイはオレを見て笑った。かわいいと思ってしまった。
「DSはためてたお小遣いで買えるから大丈夫。楽しみっ!! 早くやりたいなぁ」
「楽しみだな」
新しいポケモンゲームを始める時のワクワクは、オレにも良く分かった。

「で? メイちゃんの事、好きなんでしょ?」
「なんで」
「嫌い?」
「嫌いな訳……」
突如、一気に体中に悪寒が走った。このままだとまずい。
「アキラ、帰れ」
「あ……怒った? ごめん、だから……」
「オレ今日、熱ある。うつったらやばい……やばい……はやく……」
「わかった。ごめん」
アキラは短く言うと、さっとオレの病室を離れた。ぼーっとして来た頭でそれだけ確認すると、安心した。アキラの言う「好き」の意味を、自分の心はどうしたいのか考えているうちに、段々、段々、意識が漂うように遠のいていくのが分かった。


 モトキに貰ったゲームソフトを進めるうちに、私と周りの世界が少しずつ変わっていった。
のめりこむようにポケモンをやって、朝起きてから寝るまで、学校でも休みの時でもずっとポケモンのことを考えていた。暫くすると親からクレームがきた。いい加減にしなさい。勉強しなさい。しかたがないから、勉強については休み時間に、図書館で全部終わらせるようにした。帰ってゲームをしたい一心で、ものすごくはかどった。帰ってからはずっとポケモンが出来た。成績はそんなに悪くはないと自分でも思う。それさえちゃんと維持しておけば、親だって何も言わないだろうと思った。
でも遅くまでゲームをやっていたから、朝は凄く眠かった。お昼になっても眠かった。授業中は寝ないように、ノートの脇に捕まえたポケモンを描いた。ミジュマル、シママ、シキジカ……。描いていなければ起きていられなかった。うっかり寝て授業中に目立つのは怖かった。寝たが最後、誰の口から先生に告げ口されるか分からないし、物を隠されたり、ノートが無くなってしまうかも知れない。常に気が抜けなかった。六年生が始まってすぐの五月、女子のリーダーに、彼女が目をつけた男の子と私が仲良くしているのを見られて以来、私はクラス中の人に無視されている。今のところ、蹴られたり叩かれたりした事はない。そういうんじゃなくて、無視されたり、わざと「メイコは居ない」っていう風に扱われている。そのくせ、私と隣の席になると机を露骨に離したりする。見えていないのかいるのかよくわからなかった。クラスの休み時間、皆が思い思いに友達と騒いでいる間、一人で座っているのはそんなに苦痛じゃない。だけど、体育の時間のように、グループを組んで何かをやらなければいけない時は辛かった。いつも一人だけ余った。嫌々入れてくれた班はいつも不機嫌な顔をしていた。私も、自分なんかと組まなければいけなくて、ほんとうにすみませんと思っていた。本当は、心がえぐられるようにいつもキリキリ痛んでいたのに。でもそのうち、何も感じないようになった。何も考えないようにすれば何も感じないでいられるって、気づいたんだ。自分で自分を消せる魔法を使えたら、どんなにいいだろうと思っていた。

モトキに初めてその事を打ち明けたのは、もう夏も終わる頃だった。その頃になると、私は宿題のない日は良く自転車を走らせて病院に通うようになっていた。
「イジメ?」
くりくりした目を見開いて、椅子に座ったアキラがまっすぐに私の瞳を見つめた。場所はモトキの居るベッドの脇。三人それぞれゲームを進めていた。
「しょうがないよ。私一人で何が出来る訳でもなし。もう少しすれば卒業するし」
「オレには分かんないな」
モトキも視線を上げて、まっすぐに私を見つめてきた。
「なんで、皆で寄ってたかってメイに意地悪するんだ。オレ、全然わからない」
「だから、私がリーダーの女の子の気に触れちゃったからだって」
「私が好きな人だから、仲良くならないでって。邪魔しないでって。その子も、直接そう言えば良いんだよね」
アキラがニコッと笑顔を見せた。仲良くならないで、なんておかしいけど、そう言われてみればそうかもしれない。
「そいつ、何様なんだ? 個人的な嫉妬にメイを巻き込むなんて。好きなら自分で直接アタックすりゃあ良いじゃないか。人を使って相手に嫌がらせするなんて、馬鹿だろ」
「……」
「友達とは仲良くするのが普通だろ。ケンカしたって、絶対後で仲直りして、また仲良くなるのが普通だろ! そりゃあ気の合わない人だって出てくるかも知んないけど。だからって、嫌いだからって! 嫌がらせするなんて馬鹿みたいだろ、放っときゃあ良いじゃん。意見、違うんだからさ。メイに意地悪したり、無視したり……そいつらの事、オレは許さない。絶対許さない」
モトキの素朴な疑問は、フタをしていた私の心の奥底の感情と強く共鳴した。
「なんで……」
なんで、二人ともこんな風に言ってくれるんだろう。二人とも病気で、私なんかよりずっとずっと、本当に大変な思いをしているはずなのに。でも私は仕方がない、自分のせいだ、って全部諦めていた。何も感じないようにすれば良いって、嘘で自分を守っていた。こんなに力強い言葉で、全力で私の味方をしてくれる人なんて、今まで誰もいなかった。自分でさえも自分の味方じゃなかったのに、そんな風に肯定されてしまったら、どうしたら良いのか分からない。多分、泣きそうな顔になっていたんだと思う。
「クラスで……誰も、メイちゃんの味方が居ないなら。僕達がなるよ。なっ、モトキ?」
「オレ一号な」
「えーっ、ずるい!! 僕一号が良いーっ」
じゃれあう二人をみて、おかしくて、久しぶりに友達と話せた事も相まって、楽しくて、二人の言葉がうれしくて、体の芯が熱くなった。気づいたら、笑いながら私は泣いていた。

「はじめの一歩はみんなで踏み出そうって」
「せーの!!」
モトキに借りたゲームソフトの中で、幼馴染み三人ではじめの一歩を踏み出すシーンが有った。
友達がゲームの最初からいるんだ。ポケモンも友達。しかも、一緒に旅に出られるなんて。世界が友達で溢れているなんて、すごく羨ましい。私はモトキとアキラの事を思い出した。現実はゲームみたいに三人一緒に旅立てる訳じゃない。二人ともとっくにゲームはクリアしてしまっているし、バトルでは到底勝てそうもない大先輩だ。でも、同じ現実では三人とも同じ「六年生」で、友達だった。

「僕さぁ、抗がん剤入れられて、暫くうわーって具合悪くなって、ちょっとずつ元気になって、またしばらくすると抗がん剤入れられるのね。僕らの胸に入ってるカテーテルから入れられるのね。片方から抗がん剤入れて、もう片方からは必要な時に採血するの。サイクルは1ヶ月くらいでね。治療ってそういうもんなんだけど」
ある日、私が二人にああだこうだ言われながら三人目のジムリーダーを倒して、一息ついた所で、アキラがざっくりと自分の治療の説明をしてくれた。
「強い抗がん剤入れられるとね、もう本当に全然駄目になっちゃって、動けなくなっちゃう。高熱が出たり、吐いたりしてさ。時間が過ぎてくのが遅くって。そう言う時はね、思い出すんだ」
アキラが窓の外を見た。綺麗に手入れされた病院の中庭が見える。
「僕のポケモンが技を喰らった時の事を。強い技を受けて、もうHPがほんのちょっとしか残ってない時の事を。どくどくとか、でんじは受けちゃった時の事を。そうやって、僕だけじゃない、僕の育てたポケモンも一緒に僕と乗り越えてるんだって、そう思い出すんだ」
そういって、物思いに耽るように目を閉じた。隣でモトキがそっと笑みを浮かべていた。多分、同じ事を考えてるんだろうなって思った。だけど、
「そうそう、サザンドラに流星群喰らって、殆ど瀕死になってたりとかさ」
「そうそう……ってそれモトキのサザンドラの事でしょ! 僕のポケモン、そんなに弱くありません」
「そうですか」
「そうです。全く、油断も隙も無い」
口を尖らせたアキラをみて、モトキも私も笑ってしまった。
「はは……でも何となく分かるぜ、その気持ち」
モトキがいたずらっ子のように瞳を輝かせて、アキラに同調した。
「だろ?」
「新しい抗がん剤を試したとき、オレもきつかった。口はやけどで、体は麻痺状態の上に瀕死。食いもんも何も食べられないし、のどから血は出るわで。普通は状態異常って1つしかなんないけど、参ったよ」
「そうそう」
笑っているけれど、そんな状態になったらいったいどういう気持ちになるのか想像もできなかった。辛くて苦しいんだろうなってことしか分からなかった。でも、そんな事をもう笑って話している二人は、とってもかっこいいとも思った。
「まぁ、メイは体は大丈夫なんだからさ。辛かったらオレ達みたいに、ポケモンの事思い出せよ。同じポケモントレーナーなんだからさ」
「でもモトキ、フツーの学校でそんな、まひとかやけど状態になるの? なんないんじゃないの? メイちゃん、どう?」
「うーん……なんないかも」
そりゃあ、可能性としては叩かれたりする事はあるかもしれないけど、瀕死になったりする訳じゃないなぁ、と思った。
「あっ、でも氷状態にはなる……かもしんない」
私は学校の教室を思い出した。挨拶する相手は誰もいない。一緒に何か話す相手も誰もいない。仲良くなりたくても、存在を認めてもらえなければ、そもそものスタート地点にも立てない。多分、凍っている。感覚も常識も、色々全部。
「メイちゃん、大丈夫?」
何でもないように見せていたつもりだけど、アキラに顔を覗き込まれてしまった。
「大丈夫。……ごめん」
「負けんなよ、メイ」
いつの間にかモトキが切れ長の目をしっかりとこちらに向けていて、そう言った。
「負けんな。メイ、もっと強くなれ。オレ達は体力勝負だもん。お前はオレ達より体力有るだろ、心の勝負なんだろ。オレ達はいつも応援してるよ、がんばれ、がんばれって思ってるよ。友達だもん。強くなって、勝ってこいよ!」
そうモトキに言われるその時まで、私は自分の事で頭がいっぱいだった。でも初めて、病気と戦っている二人に比べて、たかが三十五人に存在を無視されている私なんて、なんてお気楽で、ちっぽけなんだろうって思えた。目の前が一気に開けた気がした。
アキラが一足先に病室に戻って、モトキと二人にきりになった時、そっと耳打ちされた。
「辛いかもしんないけどさ、辛い事があれば笑うといいぜ。ニュースで見たんだ。辛くても笑ってれば、脳がそんなに辛いって思わないんだって。アキラだってあんな事言ってたけど、無菌室から出て来た時はやせてがりがりになってて、しばらく口もきけないくらいだったんだ」
「そう、なんだ……」
「喋る体力も残ってなかったんだって。生きるのでいっぱいいっぱいだった。でも、麻痺だのやけどだって今は、笑うだろ」
「そうだね」
「だからメイも大丈夫、きっと、そうやって笑える日が来る」
「ありがとう」
「約束な、約束だ。オレ達は病気と。お前はクラスのやつらと。お互いに勝って、笑おうぜ。絶対、負けるんじゃねぇぞ。でもポケモンはもっと早く強くなって、早くオレ達と戦えるようになれよ」
「うん」
そう頷いた時、何か柔らかい物が頬に触れた。えっ、と思った瞬間、キスをした相手が一重瞼を細めて、照れたようなうれしそうな顔をしているのが見えた。

 キラキラと雪が舞っていた。穏やかな太陽があたりを照らし、積雪の反射で眩しい道を、一人の少年が進んでいた。周りの細々とした木々には殆ど葉もなく、雪の重みだろうか、随所で枝が折れていた。片腕で日差しを遮りながら、少年は雪を踏みしめ、歩を進めた。足下でキュッキュッと音が鳴る。少年の視線のやや先に、紫のシルエットがあった。四肢に二股の尾を持つポケモンが、ゆらゆらと尾を振り合図する。こっちだよ、とでもいうように。
「エーフィ、待って」
少年がそのポケモンの名を呼ぶと、白い息が漏れた。エーフィは立ち止まったまま、少年が追いついてくるのを待った。その時だ。
「寒くても大丈夫ッ!!」
突如、左前方の雪中から男がずぼ、と飛び出して叫んだ。不意うちすぎて、少年は声も出なかった。
「熱い心を持ってるからね!!」
ずいずいっ、と目前まで迫られ、
「……えーっと」
少年は思わず目線をそらす。なんかだか少し、暑苦しい。
「……」
「えっ、なに?バトル?」
うんうん、と男は腕組みしながら激しく頷いた。大人のくせに変な人、と少年は思う。

「エレブー、雷パンチ!!」
ぼってりとした腹の目立つ、黄色い虎模様のポケモンが長い腕にエネルギーを溜め、バチバチと火花を散らす。
「エーフィ、いいね。いつものあれでいく」
少年のエーフィが耳をピクピクと動かし返答する。エレブーがその身体に似合わぬスピードで突っ込んで来た。まだ準備の出来ていないうちに、強烈な一撃を見舞われた。エーフィの顔が苦痛に歪んだのを見て、少年の心臓の鼓動が、寒さのせいでなく加速する。その一方で少年は分かっていた。大丈夫、あいつはこんな一撃で倒れるようなやつじゃない、と。予想通りエーフィは身体を二、三度ふるわせ、すぐに立ち上がった。
「瞑想」
少年の呟きに、エーフィは瞳を閉じた。精神を一つに集中させ、体の外側の力を抜く。足に使っている意識を抜いて、攻撃用の力に昇華する。エレブーはややエーフィから距離を保っていた。様子見と行った所だろうか。いや違う、蓄電だ、と少年は読んだ。身体に蓄えられた青い電気エネルギーが、体の至る所から溢れ出ている。見る間に、両手にその青い電気を寄せ集めていく。もうすぐ来る。
「何をぼやぼやしてんの、少年!」
雪男が叫んだ。
電撃波、命中率100%、と少年の知識が告げていた。ならば、こっちも応戦だ。人差し指を立て、
「ぶつけろ、エーフィ!!」
電気の球に向かって、まっすぐ指を差す。その声に合わせ、紫色のエネルギーが捻り上げられていく。
「サイコキネシス!!!」
練られた膨大なエネルギーごと、エレブーにぶつかる。ガァンとぶつかり合う重い音。

「やるね、あんた」
男が、倒れたエレブーをボールに戻しながら呟いた。
「まぁね」
相応の時間をポケモンに賭けて来ている。謙遜などしていられない。男は面白そうに笑うと、質問を投げかけて来た。
「良いね、少年。名前は?」
「オレの名前は……」

「モトキッ!モトキってばッ!!」
甲高い声と一緒にゆさゆさと体を揺さぶられて、オレは目を覚ました。前にもこんな事があったような気がする。
「あ? なんだよアキラ……」
部屋の中はまだ薄暗い。最近日が短くなって来たとはいえ、すぐにまだ、早朝だって事に気がついた。
「お兄さんが……お兄さんが!!」
泣きそうな、いや、実際アキラは泣いていた。大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼしながら、お兄さんがお兄さんが、とうわ言のように繰り返す。嫌な予感に、全身が鳥肌たった。

お兄さんは二十歳で、遠い所へと旅立った。病院の前で、たくさんのお医者さんと看護師さんがお兄さんを見送った。オレはお兄さんをただ見送る事しか出来なかった。十二のオレ達と、八つ離れたお兄さんの二十という数字が、果てしなく遠いもののように思えた。二十になったらお酒が飲めるんだよ、と嬉しそうにしていたお兄さん。優しかった。お兄さんは本当に優しかった。オレが初めて入院したときに、優しく声をかけてくれた。アキラとお兄さんと三人で折り紙を折った。副作用で殆ど寝たきりになっていた時、お見舞いに来てくれた。メイと初めて会った時、頭を撫でてくれた。オレはお兄さんに、なにができたんだろうか。してもらうばかりで、なにも出来なかったんじゃないだろうか。けれども、そんな感傷に耽る間もなく、アキラも病院を去ることになった……といっても、退院だけど。メイになら、また来いよって何にも考えずに言える。だけどアキラに対しては、また来いよとは言えない。本当はそう思っていたとしても、言っちゃいけないんだ。

病院の前の並木道から、イチョウの黄色い扇がくるくると舞い落ちてきた。薄暗い、クリーム色の病院の待合室の玄関で、洋服に身を包んだアキラは手を振った。
「モトキ、僕、家に帰っていいよって先生に言われたんだ」
そんな事は知っている。遊んでいる時はもちろん、対戦している時にまで、今日まで何回も何回も、自分でそう言っていたじゃないか。オレが黙っていると、アキラは右の方に視線を向けた。先生とアキラの父さんと母さんとが何やら話し込んでいて、こっちには気づいてないみたいだった。ふいにアキラはオレのパジャマの袖を掴んで引き寄せ、オレに耳打ちした。
「僕、がん、治ってないと思う。なんで帰れるのか分からないんだ」
「えっ……」
それ、どういう意味だ。問う間もなく、アキラはパッとオレから手を離し、眩しそうに目を細めて笑った。いや、笑ってない。オレに、じゃあね、と振っている右手が、小刻みに震えていた。意外にアキラの手が大きい事に、初めて気がついた。アキラ……。
イチョウの葉が落ちて、アキラが居なくなっても、オレはポケモンを続けた。アキラと会う前から、ポケモンはずっと日常の一部だったし。同時に、以前から試していた事を、一人で続けてみようと思った。ポケモンのストーリーをクリアして、お互いとのバトルを繰り返したオレ達は、ある準備を始めていたんだ。その方法は、ずっと前に貼紙をした時に対戦した人が教えてくれた。お兄さんより年上だったその人は、ポケモンに関して、オレやアキラとはちょっと違う知識を持っていた。オレ達はどのポケモンを手持ちに入れるか、覚えさせる技や、持たせる道具は何にするか……それだけを考えていた。バトルにおいて大事な事はそれしかないと思っていた。その人は違った。
「シュゾクチ。セイカクのイッチ。フリ。これが重要なの」
「?」
「??」
首を傾げるオレ達に、そのお姉さん……そう、お姉さんだった……は、その内容を丁寧に説明してくれた。育てたいポケモンとメタモンを一緒に預け、卵を孵す。何回も、何度でも、育てたいポケモンにあう性格の子が生まれるまで。そこから能力の高いポケモンを選んで、育てて強くする。ポケモンを「選ぶ」事でバトルに勝つ方法を知っていたんだ。それは、いわゆる「厳選」と呼ばれているものだ。
ちなみに、オレ達ではそのお姉さんには手も足も出なかった。というか、一匹も倒せなかった。そんな事も手伝って、次の日からオレとアキラは、お互いと戦わない時間を使って、卵をたくさん作り始めた。一日に何度も何度も、飽きずに道路を往復して卵を孵した。ひたすら卵を孵した。オレのエルフーンとシャンデラは、この厳選で作った。手塩をかけて作っただけに、強いし、凄く愛着がある。メイがポケモンを初めて手にした頃にすっかり手持ちを入れ替えてしまったせいで、暫くこの「厳選」をやっていなかった事に、アキラが居なくなってから気がついた。よし、サザンドラでまた厳選を始めてみよう、メイにも勧めてみよう、とこの時のオレは思ったんだ。


 何かがおかしかった。言葉では説明しにくくて、私の語彙では足りなかった。夏休みが終わってから学校の行事が増えて忙しくなって、一ヶ月と少しの間病院に来られなかった。しかも、おじいちゃんが退院しちゃった。退院しちゃったって言い方は良くないか。中々前みたいにお見舞いに行った後に、モトキ達と遊ぶってことが出来なくなってしまった。お菓子を買って、やっと懐かしい六◯二号室に顔を出したときのことだった。いつもみたいにモトキのカーテンを開けた。久しぶりだからきっと、モトキは喜んでくれると思った。今まで何してたんだって怒られるかも知れない。怒られたかったっていうのは変だけど、やっぱり、モトキに会いたかった。もちろん、アキラにも。カーテンを開けたら、モトキはやっぱりいつもと同じように、ゲームをしていた。
「モトキ」
「メイ」
画面から目線を上げて、モトキは薄く微笑んだ。元々あんまりモトキは、アキラみたいに感情表現が豊かじゃない。だけど、何かが違った。何かがおかしかった。まるで何かを諦めてしまったような、何かを我慢しているような、そんな表情をしていた。視線は私に向けられているけれど、どこか私を突き抜けてその先を見据えるように虚ろだった。何が有ったのかすぐにでも聞いてみたかったけど、とりあえずいつも通りで居ようと思った。
「久しぶり。ごめんね、なかなか来れなくて」
「……」
モトキは少し間を置くと、
「……いや」
と言ったきり、黙ってしまった。
「何かあったの?」
「……」
「なんか、今日のモトキ……今日しか最近、知らないけどさ……おかしいよ。ねぇ、何が有ったの」
「退院した」
「……」
「退院した。……アキラが」
「え」
不意打ちを喰らった。もう、アキラはいないんだ。でも病気が治って退院したんだ、そう思った。だから、
「そっか……寂しいな……でも良かったね、治ったんでしょ?」
「……」
モトキは唇を噛んだ。その時とっさに、”オレはまだ退院できない”って思ってしまったかと思って、ごめん、って謝った。モトキはかぶりを振った。
「治ってない。……アキラは、あいつは治ってないって言った。言ったんだ……なんで帰れるのか分からない、僕は治ってないと思うって、そう言ったんだ……」
私は言葉が出なかった。その意味している事が良くわからなくて。モトキは俯いて、言葉を絞り出すように紡いだ。
「治ってないのに帰れるっておかしくないか。なんで……まさか、あいつもしかして……って、思うんだ……でもそれ以外の理由が考えられないんだ……ずっとその事ばっかり考えるんだ。ポケモンをやってるとき以外は、その事しか考えられなくてさ……」
「……ねぇ、モトキ」
モトキが私の方を見た。
「でもモトキがそうやって、落ち込んでもさ、色々考えてもさ……」
「言われなくても分かってるよ。意味ないんだろ」
「いや、そうじゃなくってさ、なんでそれを反動に出来ないの……いつもみたいに」
「反動?」
私はモトキとアキラから、強さを学んだと思っていた。
「”そう言う時はね、思い出すんだ”って……アキラはそう言ってたよ、そうでしょう? ”辛い時は僕だけじゃない、僕の育てたポケモンも一緒に僕と乗り越えてるんだ”って……」
「アキラは別に、今具合悪くないだろ。それと何の関係があるんだよ?」
何だか話が噛み合ない。
「人だって同じでしょ、ポケモンだけじゃないよ。アキラがモトキの側に居たみたいに、モトキだってアキラの側に居るんだよ。私だって……。苦しくても、辛くても、離れてても側に居るって分かってるから、頑張ろうって思えるんでしょ」
「アキラはオレの事なんか、今忘れてるさ……メイには分からん」
「なんで」
「家に帰れるってことがどんなに嬉しい事か、分からないだろ? いつも自分の親が近くにいて、好きな食べ物でいっぱいの食事が出て、好きに兄弟と遊べる。思い出す訳ないだろ、病院の事なんて」
「……そうかなぁ」
「それにオレ、今厳選ばっかやっててバトルしてないし」
「厳選?」
「そう」
そういって、モトキは持っていたゲーム機の画面を見せてくれた。元々の手持ちのポケモンは、”シャンデラ”しか居ない。残りは全部、”タマゴ”ってなってた。
「他のポケモンは? エーフィとか、エルフーンは?」
「今はボックスに預けてある。このタマゴの中身は、全部モノズだ」
見た事も聞いた事もないポケモンだった。思わず首を傾げると、モトキはああ、と頷くと、
「モノズはジムリーダーを全員倒して、チャンピオンロードに行かないと捕まえられない。オレのサザンドラは、もともとこいつから二回進化してる」
「へえぇ……」
「いっぱいいるから、やるよ。どれが良い?」
そう言ってモトキは、ポケモンセンターのパソコンを開けた。
「どうしていっぱい、モノズがいるの? モトキにはもうサザンドラがいるじゃん」
「厳選をやると沢山タマゴを孵さなきゃいけないんだ」
「さっきから言ってるその厳選って……何?」
「厳選ってのは、生まれつき強いポケモンを探すこと。その後は上手く育てて強くするんだ。ポケモンにはみんな個体値があるから、この値が良いポケモンを探して、そいつを親にしてタマゴを孵すんだ。良い親からは良い子が生まれる確率が高いから」
「……」
良くわからない。
「良い値と同じ位大事なのが、そのポケモンの性格だ。それなら分かるだろ」
「うん、私のフタチマルは”おだやか”だし、メブキジカは”むじゃき”だよ」
「性格で能力の上がりやすさも決まるんだ。ポケモンの強さを見る画面で攻撃力とか、防御力が出てる所、あるだろ。上がりやすい能力は赤く、上がりにくい能力は青くなってるだろ。分かる? 例えばフタチマルなら、特防が赤く、攻撃が青くなってるはずだ」
私は慌てて自分のソフトをつけて確認した。モトキの言う通りだった。全然気づかなかった。
「サザンドラで欲しい性格は”ひかえめ”なんだ。特攻が上がりやすくて、攻撃が上がりにくい。メイのフタチマルとちょうど逆でさ。特攻の技しか入れないから、攻撃の能力は必要ない」
「ふーん」
サザンドラはいつも強くて、流星群を何度も打ってアキラのポケモンをなぎ倒してた。そんなに強いポケモンなのに、やんちゃでもなければゆうかんでもない、”ひかえめ”なポケモンが良いって言うのがなかなかイメージできなかった。変なの。

私にポケモンの知識はそんなになくて、知識がないから余計にそう見えたのかも知れないんだけれど、モトキのボックスは異様だった。一面が同じポケモンで埋まっていた。モノズって言っていたっけ。ボックス一個じゃない。三個も四個もモノズでいっぱいだった。
「うわ……」
「どれが良い?」
「どれって……」
「好きなので良いよ。オレここのポケモン逃がしちゃうし、いずれ」
「え」
「そこに入ってるポケモンは、性格も個体値も欲しいやつじゃなかった」
「ねぇ、モトキ……さっきからずっと思ってたんだけど、こういうの……おかしくない?」
モトキが顔をしかめる。
「おかしい? 何が?」
「だって、せっかく生まれたのに……生まれたばっかりなのに。みんなまだレベル1なのに。育ててあげれば良いじゃん、せっかく生まれた命なんだから」
「強くならないやつを育てても、意味ないだろ」
悪気はなかったんだろうと思う。モトキは自分のポケモンを育てる事について言っただけだったと思う。でも、私は感じてしまった。自分と、自分のポケモンまでまとめて弱いって、ストーリーを進めて来た事も、レベルを上げて強くなって来た事も、まとめて意味ないって言われた気になってしまったんだ。気づいたら声を荒げていた。
「意味がないなんて、そんなわけないじゃん!」
「最初から強いやつを選ばないと強くなれないの! オレはもっと強くなりたいんだ!!」 
「おかしいよ! 命を選ぶなんて絶対おかしいよ! 生まれつき強くなかったら捨てちゃうなんて、そんなのおかしいよ!」
モトキのパジャマの肩をつかんで、揺さぶりながら私は叫んでいた。でも次の瞬間、自分が何を叫んだのか気づいて、全身の血の気が引いた。
「あ……」
手をパジャマから離した。でもごめんとは言えなかった。自分が間違ってないって思ったから。モトキだって自分が間違ってないと思ってると思った。やっぱり何も言わなかった。そんな事に無性に腹が立った。
「帰るね」
「ああ」
手を振るわけもなく、振り返る事もなく、私は病院を後にした。その帰り道、鮮やかな秋の夕日を見ながら思った、どうしてこんな事になったんだろうと。でも、私は自分を曲げるつもりはなかった。モトキに私の気持ちに気づいてほしいとも思わなかった。私に知識がないだけで、ポケモンを強くする為には一般的な方法なんだろうと思ったから。強さが命を選ばなければ手に入らない物なんだとしたら、私は強さなんていらない。その変わり、知りたいと思った。どうして、モトキがあんなに強さを求めるのかを。

 持てるだけのタマゴを持って、道路を往復する。何も考えずに十字キーを操作すると、画面が主人公に合わせてスクロールする。その時のオレはぼーっとしてて、何も考えてない。考えてないってことにさえ、最近まで全く気がつかなかったくらい。自転車でひたすら道を往復しながら、我慢して、粘って、時々待ちきれなくなって、タマゴがもうすぐ産まれそうか確認する。実際にタマゴが孵る瞬間はこの上なく最高だ。やっと産まれた、ありがとうっていう嬉しさ。ステータスを見るまでのドキドキ感。でもステータスを見ると大抵、自分の望んでない性格のポケモンだった。そんな時は思わず、見なきゃ良かったって思ってしまう。それでも十回に一回位は望んだポケモンが産まれるから、そいつをポケモンの個体値を見てくれるジャッジの所へ連れて行く。
でも大体あっさりと、
「平均以上の能力を持ってますね」
終了だ。”平均以上”。つまり、普通ってことだ。オレが欲しいのは”素晴らしい能力”のポケモンだった。それが難しければ、せめて次点の”相当優秀な能力”のポケモンが欲しかった。どうしても生まれつき能力の高いポケモンが欲しかったんだ。モノズはタマゴが孵化するのに必要な歩数が多いから、何日も、何日も、勉強もしないで、朝から夜までずーっとタマゴを孵していた。タマゴを孵しながらも、時々、メイの言った事が頭に引っかかっていた。”命を選ぶなんておかしい”って、そう言っていた。現実世界では確かに、倫理上良くない事は知っている。でもこれはゲームの話で、現実の話じゃない。ゲームなんだから、強くなる為には何をしたって良いはずだ。良いはずだと思うんだ。一方でメイの言う事も正しいような気もしている。そいつは認める。例えばゲームのストーリーを進めてると、ポケモンを奪う”敵”が出てくる……主人公がそいつを倒そうとする理由は、当たり前すぎて説明もされないんだけど、人のポケモンを奪うのは間違っているから。単純に比較してみると、じゃあ、ポケモンを選ぶのは間違ってないのか? いらないポケモンを”逃がす”って曖昧な表現しかされてないけど、それってつまり、”捨てる”ってことじゃないのか? それは主人公が間違っているんじゃないか? そうなってくる。メイの方が正しい気がする一方で、自分のしていることも間違っていない気がしていた。現に強さを求めて、タマゴからポケモンを選んで厳選している人なんて、たくさんいるじゃないか。バトルで強くなる為には、強いポケモンが居る事が大前提なんだ。メイはあの時ケンカして以来、病院に来ていない。オレがずっと病院に居るからこっちから仲直りしに行けないし、そもそもオレ自身が悪いと思ってないから謝れないし、結局仲直りは無理なのかもしれなかった。メイはポケモンを始めたばっかりだけど、厳選でケンカになるとは思わなかった。アキラもいなくて本当に、厳選しかやることがみつからなかった。
そんな日が暫く続いた。前に試したステロイド剤と抗がん剤じゃダメだったみたいで、父さん母さんと、先生が相談して新しいのを試す事になった。治療は大っ嫌いなんだけど、やらないと病気は絶対治らない。オレの病気は風邪みたいに、自然に治る病気じゃないから。それにそろそろ、同じ病室の皆が頑張っているのに自分だけ毎日ずっと厳選しているのに、飽きていた。あっと言う間に手術の日になって、手術室であっさり気を失い、病院で意識を取り戻した時には、もう起き上がれなくなっていた。それが熱によるものなのか、腫瘍を抑える薬が効いているのか、それともオレはもう駄目になったのか、全然分からなかった。前に試した薬の時も、口に凄い口内炎が出来たり、高熱が出たのは覚えているけど、ねぇこんなにきついもんでしたっけ、副作用って。怖くて聞けなかったし、そもそも聞く力はどこにも残っていなかった。ふと、薬漬けにされたポケモンって、こんな感じになるのかなと思った。強くなる為に、薬をいっぱいからだに入れられて……そして……。ただ、その先を考える力が今のオレには残っていなかった。そのポケモンは辛いだろうなと思った。酸素マスクの中で息をして、吐いて……吐くたびに、体力の炎がどんどん、弱まっていく気がした。ただ生きている。それだけしか、今のオレには出来なかった。閉じた瞼の向こうに人がいる気配がする。父さんと母さんと、先生かな。でも、目を開ける力は今はない。

意識が少しずつ、遠のいていく。

 クラスで突然席替えが有った。方法は先生による完全なるくじ引き。皆がぶつぶつ文句を言ったけど、私はほっとしていた。先生が決めるなら、「メイコと同じ班なんて嫌だ!!」って面と向かって言われなくてすむと思ったから。幸運な事に誰にも何も言われなかったし、一番後ろの左端席を引き当てた。この一番端っこの席なら、クラスで目立たなくてすむ。まぁ元々クラスでは、”メイコなんて居ない”って言う事になっているんだけども。波を立てないように、誰にも気づかれないように、なるべくひっそりと過ごしたかった。昼休みは相変わらず図書館で全部宿題をやるようにしていたけれど、授業の合間の短い休み時間は、クラスで本を読む事にした。端っこの席は思った以上に居心地が良くって、一人で本を読んでいても、全く寂しいと思わなかった。ちなみに他の女の子達はカラフルな手帳や文具やらを持って、テレビの話題で騒いでいた。全然気にならなかった。他の事を考えていたから。
私が借りたのは子どもの病気についての本、がんの本だ。モトキやアキラと話している時、二人がよく口にする言葉が気になっていた。例えばコウガンザイとか、カテーテルとか。それが何を意味するのか良く分からなかった。あまりにも自然に二人が話しているから、聞き返せなかった。しかも私は、そもそも根本的な所で、二人が何で入院しているのか知らなかった。分かったフリをしていれば病気が良くなるって信じていたおじいちゃんの時と違って、自分でちゃんと調べないといけない、調べないと分からないと思った。病院にいるから、子どもの病気なんだろうという見当はついていた。図書館で二、三冊当たってみて、二人ががんだっていうこと、コウガンザイは、がんに抗う薬、抗「がん」剤だっていう事が分かった。次の日には、小児がんの四割が白血病だってこと、白血病はがんの一種って事が分かった。次の次の日には、多分、二人共確実に白血病なんだろうってことが分かった。治る確率は八割だとか。八割で二人とも元気になって、中学生になるのかな。
でも二割の確率で、治っても再発するとあった。二割の確率で二人は死んじゃうかも知れない。もう会えなくなるのかも知れない。

――「アキラは、自分は治ってないと思う、なんで帰れるのか分からないって、そう言ったんだ……」
あの時、モトキは見た事も無いくらい動揺していた。誰かに助けを求めるように、でも誰とも触れ合いたくないように、視線をあちこちにさまよわせて。決して私と目を合わせようとしなかった。私はどうしてモトキが、アキラの事であんな風にうろたえるのか全然分からなかった。また具合悪くなったら、入院すれば良いじゃないって軽く考えてた。モトキを励ましていたつもりで、私は理想ばっかり語っていた。反動だどうのって語っていた。自分が恥ずかしくて消えてしまいたくなった。あの時モトキは怖かったんだ、アキラが死んじゃうかも知れないって思って。だって、二割の確率で死んじゃうんだから。そう唐突に理解した時、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように胸が痛くなった。あんなに一生懸命病気と闘っていても、治らないで死んじゃうかも知れないんだ。今まで、二人が死ぬかも知れない可能性を私は考えた事がなかった。二度と会えなくなっちゃうかも知れないんだ。アキラが居なくなったらどうしよう。足が震えた。急に周囲の時間がぼんやり霞んで、音が遠のいたように思った。

「――さん、――芽衣子さん」
ふと気がつくと、目の前で先生が私の名前を読んでいた。クラスの人達が全員振り返って、私の方を見ていた。どうやら、五時間目の授業が始まっていたらしい。
「――さん、教科書も出さないで、ぼんやりして……どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」
具合悪いのは私じゃない。そう叫びたかったけど、黙っていた。先生はかがみ込んで私と目を合わせると、
「具合悪くなければ、教科書を出して」
「出しません」
思った以上に大きな声が出た。クラスで数ヶ月ぶりに発言したせいで、音量調節が上手く行かなかったのかも知れない。同じ教室に居る人間が、一斉に息をのんだ気配がした。
「私は具合悪くありません。でも、教科書も出しません。もう授業にも出ません。だって私は、このクラスに”居ない”っていうことになってるんですから」
アキラが居なくなってしまうことに比べたら、クラスなんてちっぽけなものだ。算数の授業だって。もう、何もかも、どうでもいいんだ。どうにでもなっちゃえば良いんだ。酷く投げやりな気持ちになりながら、それでも、冷静に周りを見ている自分が居た。先生が驚いた隙に机の中の教科書をかき集めて胸に抱え、するっと通路の脇をくぐり、自分のランドセルを掴んでそのまま走って教室を飛び出した。
「――さん!!」
追いつかれてたまるか。追いつかれやしない。私は不思議な高揚感に包まれていた。全てがどこか霞がかった、遠い夢の出来事のようだった。

「モトキ、ねぇ、モトキってば」
ゆさゆさと体を揺らされる感触。耳になじんだ懐かしい声。まさか、と思う気持ちが胸いっぱいにこみ上げて、いやいやあいつは退院したはずだ、と理性がそれを押しとどめる。
「ちょっと、モトキ聞いてるの? どうせ寝たふりなんでしょ?」
やっぱりそうだった。声で確信して、無視して反対側に寝返りを打つ。
「ちょっと!! やっぱり起きてるじゃない、モトキ、起きてー! 起きてー!!」
耳元で叫ばれて仕方なく目を開けると、想像に違わず、そこにはアキラが立っていた。心なしか、少し日焼けした気がする。照れているような恥ずかしがっているような笑みを浮かべながら、
「えへへ……やっぱり、帰って来ちゃった」
「……そうか」
「聞いて聞いて。こんどね、モトキの隣のベッドになったの」
「え」
「いつでも遊んだり対戦したり、話したりできるよ、また」
「そうだな」
また会えた事が、素直に嬉しい。だけど一方で、アキラの直感が正しかったんだと思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
「……」
「モトキ、大丈夫だよ」
「え」
「僕はもう一回頑張るつもりだから、大丈夫。負けないよ」
迷いの無い笑顔に、オレはつられて笑った。こいつは同い年の割に子どもっぽいようでいて、本当は強い芯のある、したたかなやつなんだ。本当のポケモントレーナーなら、挨拶代わりに対戦しようってなるはずだ。だけどオレ達は、どちらからとも無く、とりあえず近況を話し合う事にした。アキラは坊主頭に短く毛が生えてきていて、まるでスポーツ刈りにしたみたいだった。くりくりした目の上には長い睫毛が生えていた。ちょっと羨ましい。
「学校に行ったんだ。院内学級じゃない、普通の人が通う学校は初めてだったんだ、僕……」
アキラは目を細めて語った。
「人がすっごくいっぱい居て。びっくりしたよ。先生が僕の病気について、ちゃんと皆に説明してくれた。授業も受けた。図工が面白かった。先生のリンゴの塗り方が本物そっくりでびっくりしたんだ。ただ赤く塗るだけじゃなくてね。陰とか考えて、ちょっとしか塗らない。でも、本物みたいなの! 分かる?」
全然分からないけど、とりあえず頷く。
「ポケモン対戦もしたんだよ。クラスで出来た友達と」
あ、これなら分かるな。
「どうだった?」
「勝ったに決まってるじゃん」
「へぇー」
「みんなね、伝説のポケモンばっかり使うんだよ。でも僕はモトキと同じで、伝説は使わないでしょ。使わなくても僕が勝つから、みんな、うっそーって顔してた」
「へえぇ」
「楽しかったよ……短かったけどね」
「……」
「お待たせ」
「え?」
「モトキの番」
「オレ? オレはもう一回新しい治療を始めたよ。二週間たってやっと、食事もとれるようになって来たところ。それだけさ」
「メイちゃんは?」
なんでこいつは、触れられたくない所をストレートについてくるんだ。
「別になんもねぇよ」
「そんなことないでしょ? 何か有ったからそんな風に言うんでしょ?」
「最近メイは来てないから。学校も始まったし、忙しくなったんだろ。全然会ってない」
「もう好きじゃないの?」
アキラは視線を外さずに、まっすぐに質問してくる。
「モトキはメイちゃんの事嫌いなの? それとも、メイちゃんがモトキの事嫌いになったの? あんなに仲良しだったのに。僕の居ない所で、何かあったんでしょ。メイちゃんが学校始まったからって、急にモトキの所に来なくなる訳ないじゃない。だって、初めて有ったときは夏休み前なんだから」
アキラは変わった気がする。年の割に子どもっぽい見た目と喋り方は相変わらずだけど、根っこは一回り逞しくなって帰って来たように思う。なんて言うか、鋭くなった。こいつ。
「ケンカした」
アキラが驚いて、瞬きする。
「ケンカ? なんで?」
「厳選で」
「厳選」
アキラがオレの言葉をなぞる。まるで今その言葉を思い出したかのように。
「厳選で……」
考え込む時、宙に視線を彷徨わせるのはアキラの癖だ。今のこいつになら、厳選でケンカになった理由までしっかり見透かされそうで、なんか嫌だ。
「いいじゃん、なんでも。ポケモンやろうぜ」
「メイちゃんは、嫌だったんじゃないかな。僕たちと違って、厳選そのものが」
だからその話題はもう良いってば、そう割り込んだけれど、アキラは無視して話を続けた。
「メイちゃんは草むらで捕まえたポケモンを、大事に育ててたよね。でも僕たちは大量に卵を孵化させて、命を選んで、逃がして、最終的に一匹しか育てないじゃない。それが嫌だったんだよ、自分のやっている事が、意味ないって、弱いって言われたような気になっちゃったんだよ。きっと」
「……」
そうなんだろうか。メイの気持ちも、分からなくはない。だけど、だけど……
「オレは強くなりたいんだ。誰にも負けたくない。バトルでもっと強くなりたい。その為に出来る事だったら、卵を孵すのがどんなに単純で、苦痛で、辛くてもやる。自分の力でそのポケモンを育てて、もっと強くなりたい……強くなりたいんだ。だから厳選するし、厳選をしたいんだ……まだ途中だけど」
一皮むけたアキラに比べて、オレは同じ言葉を繰り返しているだけのような気がした。だけど心の奥底からわき上がってくる思いを止められなかった。
「倫理的には命を選ぶ事は間違ってるんだろ。そんなこと分かってる。だけどポケモンはオレの生活の中で唯一、自分で何をするか選べるんだ……選べるんだよ。使うポケモン、どの四技を入れるか、性格、持ち物……厳選はその中の一部なんだ。草むらを自転車で駆け回ったり、色んな人と対戦したり、ポケモンを捕まえたりするのもそうだけど、オレ、ゲームの中では自由で居たいんだ……ゲームの中でしか、自由で居られないんだ」
喉の奥から言葉を絞り出しながら、同時にオレは驚いていた。そんな事を自分が思っていたなんて、今まで全然気がつかなかった。喋りながら奥から奥から涙が溢れてきて、かっこわるいと思いながらも止められなかった。滲んだ視界の向こう側で、アキラは共感と悲しさの入り交じった複雑な表情をしていた。そして言った。
「モトキ、バトルしよう」

バトルでのアキラは変わらなかった。手持ちは不動の六匹、オノノクス、メタグロス、ドダイトス、ウルガモス、ラプラス、バンギラス。本人曰く一番最後に「ス」がつくポケモンは、強いらしい。否定はしないけど、肯定も出来ない。その方程式じゃ、オレの手持ちで強いのは一匹もいないことになる。
アキラの一匹目はドダイトス、オレはダイケンキだった。冷凍ビームの一撃で沈める。二匹目はラプラス。水VS水氷だと、重要なのは技の相性になる。ラプラスは耐久性も覚えられる技も、総合的なステータスもダイケンキより上だ。手強い。ただ、素早さだけはこっちの方が強いから、先手は打てるはずだった。一撃で倒せなければ多分やられるだろう、そう思った。技はおそらく、雷か。一撃で倒す可能性に賭けて、草結びを選んだ。草結びはその名の通り草タイプの技で、相手の体重が重い程効果がある特殊な技だ。二百二十キロあるラプラスには結構な威力で、かつ、相性で二倍のダメージを与えられる。急所に当たれば倒せるかと思ったが、残念ながら耐えられた。アキラの番だ。技は予想通り、雷。三割の確率で外れるので命中率こそ若干難がある技だが、それに十分見合う程の威力がある。命中。くそっ。ダイケンキが一撃で倒れた。次のポケモンは少し迷った末、ウォーグルを選んだ。空を飛ぶ要員であるこいつはそんなに強くないけれど、攻撃力も高いし、素早さはラプラスより速い。シャドークローでラプラスを倒したが、ウォーグルはその次のターンで出て来たオノノクスに倒された。龍を倒せるのは手持ちの龍しかいない。オレはサザンドラを選んだ。素早さならばオノノクスに負けない自信があった。流星群を放ち、オノノクスが一撃で倒れる。四対三。アキラがちらとゲームから視線を上げて、こちらを見た。繰り出して来たのはメタグロス。サザンドラの方が先に攻撃できるけど、メタグロスは防御が高いので、流星群で二段階特攻が下がったサザンドラですぐに倒せるかは微妙だ。大文字を繰り出す。でも、アキラが防御を相当高めて育てたメタグロスは破れなかった、どころか、
「オッカの実!」
思わず口をついて出た。オッカの実は、自身に効果が抜群である炎の技の威力を半減するアイテムだ。アキラが笑って、
「へっへ。何度もサザンドラにはやられないよ!」
メタグロスの体力を十分に削りきれないまま、冷凍パンチをくらってサザンドラは倒された。安定して強いアキラの残りのポケモンに対して、サザンドラが倒されたオレの残りの手持ちでは少し厳しい。ゲーム機を持つ手に力が入る。残りはシャンデラ、エーフィ、エルフーン。厳選したシャンデラが倒されたらそれこそ後がないような気がして、無茶を承知でエーフィを繰り出した。アキラが、おや、と意外そうな顔をした。だが先制はこっちだ。
「めざめるパワー!」
「!」
めざめるパワーは、個体によって技のタイプが変わる不思議な技だ。オレのエーフィは厳選をしていないから、そこまで強い訳じゃない。でもこの間、ゲームの中のフキヨセシティにいるおじさんに聞いたら、「地面」タイプの技が使えると言われた。いつか使える時が来ると思って、技の中に組み込んだ。メタグロスが倒れた。アキラはポケモンを交代しながら、何タイプ? と聞いて来た。地面、と返す。アキラの残りはウルガモスとバンギラスのどちらかだ。いくら「地面」のめざめるパワーを持っているとは言え、エーフィでは両方とも相性が厳しい。アキラはウルガモスを選んだ。エーフィに先制できるからだ。ちょうのまいでステータスを上げてくる。オレの残りの手持ちでは一撃で倒せないのを見込んでいるんだろう。バトンタッチを使ってエーフィを交代させても良いと思ったが、アキラの残り一体がバンギラスではエーフィはいずれ、一撃で沈められてしまうだろう。ここはウルガモスの体力を少しでも削るために攻撃させる事にした。どくどくを選んで当てた。その次のターンで、むしのさざめきを繰り出されて一発でやられてしまったけれど。シャンデラに交代する。
ウルガモスとシャンデラでは、炎・虫対炎・霊だから相性的にはまあまあだ。ウルガモスの方がステータスは強い。でもシャンデラの方が相性はいいし、色々な技を使えるのが強みだ。お互いに特殊攻撃を繰り出し合う。シャドーボール。暴風。シャドーボール。暴風。ウルガモスはちょうのまいでステータス全体を上げていたが、エーフィが残したどくどくが意外に大きな効果をあげて、最終的に僅差でシャンデラが勝った。アキラがバンギラスを繰り出す。シャンデラは鬼火を放った直後に、地震で即刻倒された。オレのラストはエルフーンだ。オレの手持ちはアタッカーが多いが、こいつだけは特殊だった。いたずらごころという特性を持ち、変化技を素早さに関係なく相手より先に出す事ができる。身代わりを出して待った。バンギラスが地震を繰り出す。身代わりは倒されなかった。アキラがしまった、という顔をした。
「鬼火の効果!」
そうだ、と言ってニヤッと笑った。鬼火は相手をやけど状態にする。八分の一ずつ体力を削っていくが、相手の物理攻撃を半分にするという効果もある。やどりぎの種を出す。更にバンギラスから体力を削って、エルフーンの体力を僅かながら回復させる。加えて、持たせた食べ残しで更なる回復を計った。身代わりを出しながらコットンガードで更に身代わりを倒されにくくし、最終的にエナジーボールでバンギラスを倒した。オレの勝ちだった。

「モトキ……僕、学校に行って思ったのね。友達いっぱいできるし、皆で給食食べて、デザートを誰が貰うかで競ったり、いっぱい話して、日本の事とか色々勉強してさ。そういうのが自由なのかなって思ったよ。でもメイちゃんは友達に無視されるって言ってたじゃない。それって、どんな気持ちなんだろうって……」
アキラが天井を見上げて、目を閉じながら言う。
「どんな気持ちになるのかな。僕は考えたよ。悲しくって、辛くって、寂しいと思う。我慢して、頑張って、毎日過ごすのって、大変だと思う。僕が自由だって感じた事も、メイちゃんにとってはただ、辛い事なのかも知れないって、そう思ったよ。ねぇ、僕たちもさ、薬を変えた時は辛いけど、体調が良くなってくると、自由を感じるじゃない。ポケモンだけじゃないよ、モトキ。僕はモトキと話してる時も、自由だって思ってるよ……」
「そっか」
「……」
「アキラ?」
耳を澄ますと、隣のアキラのベッドからは規則正しい寝息が聞こえて来た。
「寝たんかい」
まだ話の途中だったのに。
たわいもない、こういう話をすることを、自由と言えるんだろうか? 体は不自由でも、話すことは自由だとか、不自由でなければわからない自由があるとか、アキラはそういうことを言いたかったんだろうか?
難しく考えるうちに、段々オレも眠くなってきた。

 秋も終わりの頃になって、私は久しぶりに病院に顔を出した。モトキのベッドのカーテンを開ける前、ちょっとためらっていたら、
「メイちゃん?」
びっくりして、心臓が一瞬止まりそうになった。
「アキラ?」
「うん、僕だよ」
隣のベッドから、確かにアキラの声がした。屈託の無いその声に心が安心する。
「僕、病院に戻って来てて今、モトキの隣のベッドにいるんだ。モトキは今、ちょっと検査に行ってるよ。僕のとこで待ってたら」
「うん」
アキラの居るベッドのカーテンを気軽に開けたら、びっくりして、もう一度私の心臓が止まるんじゃないかと思った。ベッドに横たわるアキラは点滴につながれて、少し疲れたような表情を浮かべていた。手と足が少し黒い。その手を振って、久しぶり、とアキラは笑顔を作る。
「アキラ……」
「びっくりした?」
アキラが微笑む。
「うん」
思わず、本当の事を言ってしまった。しまったと思ったけど、それもアキラには伝わってたみたいで、
「三週間前位かな、新しくまた薬を始めたんだ。これでも大分良くなって来たんだよ。メイちゃんはいつも、割と僕たちが体調悪くない時に来てくれるよね。運命かな」
冗談っぽく笑うアキラの姿を見ながら、何気なく、左手に持っているゲーム機に目がいった。やっぱり続けているんだ。ポケモン。
「メイちゃんは、モトキとケンカしたんだって?」
不意打ちだった。唐突なその切り出しに、反論する事も出来ない。
「え」
「厳選が理由だって、モトキは言ってた。メイちゃんは、僕たちが卵をいっぱい孵して、逃がして、良い個体値のポケモン一匹だけを選んで、薬漬けにしたりするのが嫌なんだよね。メイちゃんは草むらで出会ったり、人から貰ったりしたポケモンを大事に育ててたもんね」
「……」
「モトキはまっすぐに、強さを求めてる人だから。僕なんかよりずっと……。モトキ、言ってたよ。ゲームの中は唯一自分が自由で居られる場所なんだって。その為に出来る事だったら、きっとモトキは信じられないくらいの努力をするよ。本来、負けず嫌いだから」
こいつね、凄い負けず嫌いだから。モトキと初めて会った時の、お兄さんの言葉が浮かんだ。アキラまでモトキの味方をするのかって思ったけど、腹は立たなかった。アキラと話していると、不思議に穏やかな気持ちになる。
「わかる」
私は言った。
「あの時のモトキ、悪気はなかったと思うの。でも私ね、自分とポケモンまでまとめて弱いって、ストーリーを進めて来た事も、レベルを上げて強くなって来た事も、まとめて意味ないって言われた気になっちゃったんだ」

――「意味がないなんて、そんなわけないじゃん!」
「最初から強いやつを選ばないと強くなれないの! オレはもっと強くなりたいんだ!!」 
「おかしいよ! 命を選ぶなんて絶対おかしいよ! 生まれつき強くなかったら捨てちゃうなんて、そんなのおかしいよ!」
あの時モトキのパジャマの肩をつかんで、揺さぶって、私はそう叫んでいた。

「メイちゃんの言う事も、分かるよ。だって僕も思うもん。僕は体強くないじゃない、だから僕のゲームの中では絶対、捨てられてたと思うんだ」
「……」
「だからメイちゃんがそうやって、草むらで出会ったり、人と交換したり、貰ったポケモンを大切にしてくれると、僕は凄くほっとするんだよ。僕も冒険に出たり、強くなれるチャンスがあるんだろうなって気になれるからね。でもモトキの気持ちも分かる。強くなりたいって気持ちは、お互い同じ。でも、モトキの方がずっとずっと、強くなりたいって気持ちは強いんだ。僕なんか比べ物にならないほどにね。言わなくても分かるよ……だって、友達だから」
胸がざわつく。こんなにかっこいい言葉で語れる程お互いの事が分かってるんだって、羨ましくて。戦っても居ないのに負けた気がした。いや、戦っても負けるけどね。絶対。
暫くアキラとたわいもない事を話していた。アキラの学校の事も聞いた。リンゴの話は何となくしか分からなかったけれど、ポケモンの話は良くわかった。クラスで対戦ができるなんて、ちょっと羨ましかった。
ふと急にカーテンが開いて、
「おい」
「わっ」
「あ、モトキ」
アキラが画面から視線だけ上げて、モトキを歓迎する。つられて私も視線を上げた。点滴台を右側に持ちながら現れたモトキは、前にケンカした時とあまり変わってない。少なくとも、見た目にはそう見えた。
「アキラの意味分かんない話、聞かされてたのか」
「え?」
「そんなことないよ、ねぇ?」
アキラが口を尖らせて不満を口にする。モトキは申し開きもせず謝りもせず、私も何も言わなかった。まるで何もなかったみたいに。何もなかったみたいに元通りになった。モトキはごく自然にアキラと私の会話に入ってきて、三人でいつまでも話を続けた。

アキラが死んだ。
年が明けてすぐの事だった。

予兆はあった。気のせいでなければ。クリスマスプレゼントを貰った頃のアキラははしゃいでいたけど、オレの目には、気を使って無理してるようにみえた。バトル中は何回も集中力が切れて、致命的なミスを犯すことが多くなったし、年末にはついに、バトルをやれるだけの体力がなくなった。対戦の途中で頭を切替えたり、指示を決められるだけの体力がもう、なかったんだ。
もうすぐ二度と会えなくなるんじゃないかって思って、毎日毎日心の中で、どうしようって思っていた。ずっと思っていただけで、何も出来なかった。夜はいつも、明日もアキラに会えますようにって思いながら寝ていた。怖くて実際には殆ど眠れなかったけど。夜中の三時くらいにいつも目が覚めて、遠くの部屋にいる看護師さんの足音を聞きながら、アキラの呼吸に耳をそばだてた。六時くらいになると、真っ暗だった窓の外の空が仄かに薄暗くなって、少しずつ少しずつ、白い光が下から薄暗い空を押し上げていく。白い光の中から太陽が顔を出す頃には、灰色だった空は一面、スカイブルーになってる。部屋で一番右奥のベッドを割当てられていたオレは、毎日ベッドから日の出をみた。日の出は凄い。何度みても毎回新鮮で、綺麗だった。日の出をみると、今日もアキラに会えるんだなって思ってうれしかった。このまま何事もなく、バトルが出来なくても構わない、構わないからアキラが元気になってくれればいいって思った。初日の出もそうやって見た。お正月の頃のアキラは、ずっと寝ていた気がする。先生や看護師さんが夜、アキラのお父さんとお母さんと一緒に、急に部屋からアキラを連れて行ったのがそれから一週間後だった。アキラは帰ってこなかった。
その日は一睡もできなかった。日の出を見た後、父さんと母さんがオレのベッドにやってきた。オレは両親が何を切り出そうとしているのか分かっていた。言わないで。聞きたくない。信じたくない。だって、オレ、準備できてない。どうしていいのか全然分からない。
「モトキ。もう、分かってるかもしれないけど……」
切り出したのは父さんだった。声を震わせながら。オレは寝返りを打った。耳を両手で塞ごうとした。
「アキラ君はね……今朝早くに亡くなったよ」
抗えない何かに力任せに叩き付けられたような衝撃が、全身を貫いた。
父さんがオレの肩に手を掛けた。それを振り払う。体の震えが止まらない。ついに来た。恐れてたのに。何でだよ。何でいっちゃうんだよ。濁流のような怒りと悲しみと涙が、体の奥底から迫り上がってくる。慟哭。ああ、ああ、ああ。アキラはあんなにがんばってたのに。
「モトキ」
母さんも泣いていた。父さんも。二人でぎゅっと抱きしめてくれたけど、その輪の中でオレは、力の限り、まるで赤ん坊の頃に戻ったときのように泣き叫んでいた。心の芯を粉々に砕かれたように胸が痛んだ。辛い。苦しい。おいてかないで。寂しいよ。怒りの後に色んな思いがあふれてきて、悲しくなった。
「何でッ」
オレは何回も何回も、叫んでた。叫ばずにはいられなくて。
「何でアキラなんだよ、何でアキラを連れてっちゃうんだよ!」
「アキラッ、アキラッ、アキラアアアアアアァァァァッッ!!!!」
もう二度と、ポケモンもできないんだ。一緒に病気と戦って、一緒にポケモンで戦って。勉強も一緒にしてた。あんまり勉強してなかったかもしれない。ケンカして。笑って。笑って。色んなこと、話し合って。語って。何もかも、もう、二度と出来ないんだ。だってアキラは、死んじゃったんだから。

 アクアブルーに澄んだ海が、遠く地平線まで広がる。柔らかな白い砂浜は太陽の熱で温もり、波が覆う度に本来の温度を取り戻す。少年は裸足だ。少年より少し前を、二又の尾を持つ紫色のポケモンが軽やかに歩く。ポケモンはあちこちにある砂浜の漂流物を、時折歩を止めては熱心に調べている。
「エーフィ、行くよ」
そう少年が呼びかけると、ポケモンは残念そうに顔を上げた。少年とエーフィは砂浜の道をどこまでも進んでいく。気がつくと、少年は海を遡り、川へ辿り着いていた。茜と菫色に染まる空を、東の端から黒い闇が押し出していく。その中で、透き通ったその川だけが奇妙に光っている。少年は屈み、水面を覗き込んだ。透明なはずなのに、なぜかぼんやりとしか顔が見えない。隣のエーフィを見ると、ただならぬ形相でしきりにあたりを警戒していた。全身の体毛が細かく震えている。
「エーフィ?」
問いかけたその一言が不自然にこだまして、少年も思わず視線をあたりに巡らす。遠くに船が一艘浮かんでいた。目を凝らして、少年はそれが手漕ぎボートだと確認する。船は殆ど音もなく波間を滑り、やがて少年とポケモンのすぐ側までたどり着いた。焦茶色のよれた服を纏い、フードを目深に被ったその漕ぎ手は、殆ど聞こえないくらいの声で呟いた。
「坊主、この船に乗るかい」

フードの漕ぎ手が不自然に歪んでしまい、私は消しゴムを手に取った。国語の時間だ。今朝見た夢を、ノートの隅っこに描いている。夢の中で私は、エーフィを連れて旅をしている事になっていた。この続きは、目覚まし時計にジャマされて見られなかったんだけれども。男になっていたし、不穏な感じだったけれど、ポケモンと一緒に旅をするってこんな感じなんだな、いいなって思った。夢で見た雰囲気を忘れたくなくて、いつでも思い出せるように描いている。
「それ」
ふいに隣からぼそっと声がして、心臓が飛び上がるくらい驚いた。集中していなかった、絵と、先生にばれないことと、授業のノートを取ることにしか。声の主は隣に座っている男子だった。名前は……覚えてない。
「なに?」
私が睨むと、男子はちょっと怯んだみたいだ。
「いや、それ。……エーフィだろ」
「!」
「……そう思っただけ」
それだけ言うと、何事も無かったかのように授業モードに戻ってしまった。
「……」
今、会話したんだ、人と。……ん? 私はしゃべってないか。話しかけられたんだ。最後にこのクラスで誰かと話したのはいつだっけ? 五月だっけ? 自分の身を守る事ばっかり考えてたせいで、クラスの人の事が殆ど分からなかった。あと一ヶ月で卒業するっていう今更になって気がついた。でも、同時に別のことにも気づいた。このクラスの中にだって、モトキやアキラのように、ポケモンをやっている人がいるんじゃないか。隣の男子もやっているのかも。そう思うと、今まで霞んでよく見えなかった世界が急に、手に取るように近くに感じられるようになった気がした。一月の終わり頃の話だ。それ以上、暫く何も起こらなかった。でも私は時々、他の人の会話の端々に、ポケモンの単語がある事に気がつくようになった。単語の切れ端を繋ぎ合わせて組み立てたら、何人かは放課後に集まって、バトルする時もあったみたい。その中には隣の席の男子もいた。ポケモンやってる友達がいっぱいいて、いいなぁ。私も仲良くなりたい。仲良くなって、一緒に戦いたい。心が前向きに動いていた。久しぶりに、自分の望む物がはっきりと分かって、なんかすっきりした気分だった。

そのすっきりした気分を大事に温めながら、私はある日、病院を訪ねた。クラスでポケモンをやっている人が居ること。仲良くなって、戦いたいって思ってること。それを二人に話すつもりだった。六◯二号室の前に来た時に、看護師さんに呼び止められた。最初にこの部屋に入ろうとした時に、「ごゆっくり」って言ってくれた看護師さんだった。
「モトキ君に会いに来たの?」
「はい、モトキ君と、アキラ君に。三人で、ポケモンやっているんです。私のクラスの人にもやっている人が居るって分かったよーって、そう言おうと……」
そこまで言って看護師さんの顔を見上げた。看護師さんはとても悲しそうな目をしていた。なんだろう。直感的に、二人に何かあったんじゃないかと思って、怖かった。でも、口を開いても何も声が出なかった。
「お嬢ちゃん。お名前を聞いても良いかな」
「メイコ。メイでいいよ……」
「メイちゃん」
看護師さんは屈んで私の両肩を持ち、まっすぐ私を見て言った。
「アキラ君はね……亡くなったの。お正月が終わってすぐに……」
体のどこかが自然に停止した気がした。何も考えられないのに、目から自然に涙があふれてくる。
「アキラ君は亡くなる間近は、ずっと寝ていたのよ。苦しがったりしなかった。穏やかに亡くなったの。でもアキラ君が亡くなった頃、モトキ君は凄く動揺していて……毎日泣いていたわ。親友だったからね」
なぜか頭の中に、窓際のベッドに体育座りをして、膝を抱えるモトキの姿が浮かんだ。
「……」
泣きながら、私は頷いた。色々なアキラを思い出していた。対戦している時の真剣な目つき。三人で話している時の柔らかな笑顔。退院して戻って来てからの、鋭い表情。後から後から涙が溢れて来て、止まらなかった。看護師さんが私が落ち着くまで抱きしめてくれた。暫くすると看護師さんは私の肩を抱いて、一緒に病室に入った。
「アキラ君が亡くなってから、モトキ君、殆ど喋らなくなっちゃったのね。形見にゲームソフトを貰ったみたいで、遊んでいる姿も見た事はあるんだけど……そのうち具合悪くなっちゃって、今、ずっと薬で眠ってるのよ」
「いつから?」
「ここ一週間くらいかな」
看護師さんがそっと、モトキのベッドのカーテンを開ける。モトキはただ、眠っているみたいに見える。
「……モトキ……」
口に出すのは怖かったけれど、どうしても、どうしても確かめておきたかった。
「モトキ、死んじゃうの?」
看護師さんはそっと言った。
「分からない。分からないけど、病気よりも、アキラ君が亡くなったショックで、具合悪くなったみたいなのよ。だから、今はモトキ君を信じてあげて。応援してあげて、メイちゃん」
「はい」

暫くすると看護師さんは仕事に戻ったから、わたしはモトキのベッドの側にあった椅子に一人座って、考えた。信じるって何だろう? 応援って、何をすればいいんだろう? 今、私がここで何かモトキに話しかけたら、それはモトキに伝わるんだろうか。たとえ、寝ていても? 寝ていても返事をする事はあるけど、それはやっぱり、意識のどこかが起きているからでしょう? 薬で寝ていて、伝わるものなのかなぁ。止めどなく考えながら、ふと顔を上げた。モトキの枕元の棚が見えた。今までに無くきちんと整頓されている。モトキは特に綺麗好きって訳じゃないから、お父さんお母さんが整えてくれたのかも知れない。こっそり、モトキがいつも持っていたゲーム機に手をのばした。スイッチを入れる。良く知っているようで、全く知らないモトキだけのゲーム画面が現れる。うわっ。なに、この220時間って。こんなにやってたんだ。手持ちのポケモンを見てみた。サザンドラ、ダイケンキ、シャンデラ、エーフィ、ウォーグル、エルフーン。私が初めてモトキに見せてもらったのと同じポケモンだ。意外だった。モトキが一番最後にゲームをした瞬間は、厳選するためじゃなく戦う為だったって事が。モトキは一番強いメンバーを連れて、一体どこへ行くつもりだったんだろう。

 コルクのような弾力のある、黒い土の上をまっすぐに歩いていた。空も、これから進む先も、霞がかった濃灰色に覆われていている。どうしてこの道を進んでいるのか分からない。でも、進まなければいけないということを、なぜか心で理解している。周りには誰もいない。誰もいないばかりでなく、何の植物も生えていなければ、動物も居なかった。更に付け加えれば、自分が歩いている音もしなかった。呼吸の音もしない、完全に無音の世界だった。ただ、歩いても、歩いても、体は疲れなかった。時間感覚はとっくに麻痺している。どれくらい歩いたのか。昼なのか、夜なのか、朝なのか。どこまで歩けば良いのかも含めて、全く、全く、何も分からなかった。どれくらいの時間が経ったのか分からない。気のせいかと思うほどかすかに、どこかで、波の打ち寄せる音が聞こえたような気がした。立ち止まると音はやんだ。歩き出すと、波の音がまた聞こえた。歩けば歩くほど音に近づけるような気がした。心が急いた。気づいたら、走り出していた。爽快だった。走っても走っても、息は全く切れなかった。スピードだけがぐんぐん上がっていって、まるで自分が別の生き物になったようだった。ひたすらまっすぐに進む。波の音ははっきりと聞こえるくらいにまで大きくなっていた。その内に、前方に微かな光が見えた。あれが目指す最終地点だという事を、自分の心が告げていた。光に近づくつれ、少しずつ周囲の濃灰色が薄くなってくる。駆けるうちに自分の手が見えてきた。思いのほかゴツゴツしている。足も見えてきた。そうやって自分の姿が分かるようになると、周りの景色もだんだん見えて来た。黒いコルク土の上に一本の白線がずっと続いていて、自分はその上を走って来たのだと知った。そして、ついに終着点に辿り着いた。光の正体は一本の川だった。川の水が発光しているから、遠くからでも光って見えたんだと気づいた。川のすぐ側に立って水をすくってみた。水は透明なのに、なぜかぼんやりとしか顔が映らない。
誰かいないだろうか。人を探してみようと思った。来た道を振り返っても誰もいなかった。でも川の先へ目を凝らした時、遠くの方にボートが浮かんでいるのに気がついた。漕ぎ手はフードを目深に被った人で、岸にはもう一人、杖を持った高校生くらいの青年が立っていた。随分遠くに居るように見えたのに不思議と、二人の会話を聞き取る事が出来る。
「坊主、この船に乗るかい」
フードを被った方が低い声で言った。結構おじいさんなのかもしれない。
「……これは、”あっち”行きの船なのかな」
「勘がいいね。君が駄賃を持っている事も分かってる。準備は良いね」
「駄賃? ああ、これのこと?」
青年が頭につけていたバンダナを外すと、中から紐に通した五十円玉が六枚現れた。
「そうさ。さ、船に乗りな、坊主」
「船に乗る前に、ちょっとだけ時間をくれないか」
「時間?」
そう時間、と青年が返す。
「大事なものを忘れてしまって。ちょっと、時間が必要なんだ」
「良いだろう。先は長い。準備の時間も必要だろうな」
「どうも」
青年はボートに背を向けた。あれは誰だろう。ここはどこなんだろう。あの人なら何かを知っているかもしれない。自然と、その青年の方に自分の足が向かう。青年は、どっちの方向に歩き出そうか少し迷っているように見えた。
「すみません!」
自分が声を上げると、その青年が振り向いた。
「あなたの大事なものを探す時間を削ってしまって、すみません。ここはどこなのか、教えてもらえませんか。自分がどこから来たのか分からないんです」
「!!」
青年は驚いた表情のまま固まっている。いったいどうしたんだろう。
「モトキ」
「え?」
「モトキでしょう」
「は?」
「思い出せないの?」
「はい?」
いったいこの人は、何の話をしているんだろう。
「君の名前だよ、モトキ」
「はぁ……名前、ですか。なんでまた……自分には、名前なんて分かりません。何のことですか」
「忘れちゃったのか」
良く話が飲み込めないのに、青年に露骨にがっかりした顔をされてしまった。
「じゃあ、僕の名前も分からない?」
「お兄さんの名前?」
青年と目があう。すらりと背の高い、目のくりっとした優しそうなお兄さんに見える。こんな知り合いいただろうか。知らないなぁ。
「……」
「覚えて、ないんだ」
そっか、でもそうかもね、とお兄さんは寂しそうに笑った。
「大人にしてもらったんだ。お兄さんと同じ二十歳に。向こうでお酒を飲むんだよ。僕はこれからすぐ、”あっち”に行かなきゃいけないんだ。でも大事なものを忘れて……。取りに行ったら出発する。モトキはまだ行かなくて良いはずだよね。どうしてここにいるのか分からないけど……」
「”あっち”って、何ですか?」
「”あっち”が何だか、モトキにも分かる日が来るよ。もっとずっとずっと先にね。ところで、早く帰った方が良いよ。みんな心配しているんじゃないかな」
「みんなって、誰ですか?」
「それも覚えてないの?」
お兄さんは悲しそうな顔をした。また良く分からないうちにお兄さんを傷つけた事を知って、質問するのは止めにしようかと思いはじめた。
「お兄さんは……自分の、友達なんですね。どこかでの」
「そうだね」
お兄さんは眩しそうに目を細めて笑った。
「モトキ、君の進む道はあっちだよ」
川沿いの遠くの方で一点だけ、光が射してくる場所があった。「そこ」を指差しながらお兄さんは言った。
「僕は忘れ物を見つけたら出発するから。こっちに来ちゃダメだからね。いいね」
「はい」
「じゃあね」
光の射す方向へ駆け出した。途中で振り返ると、お兄さんが手を振っていた。いつまでもいつまでも振っていた。
川の水だけが光る薄暗い周囲の中で、不自然に「そこ」は光っていた。まるでそこだけ世界が破れて、光が溢れ出て来てしまったかのようだった。お兄さんが指差した時はほんの僅かな隙間に見えたのに、近づくにつれ意外にそれが大きな穴であることが分かった。人が一人通れそうな位だった。走る速度を緩めないまま、その穴に飛び込んだ。刹那、襲って来た爆発的な閃光に思わず目を覆った。網膜の裏からでも感じられるような強い白光だった。上下左右の感覚が飛んだ。異空間に放り出された感触があった。自分が回っているのか世界が回っているのか、うねるような低い音がずっと、耳の奥に響いていた。
どの位の時間が経っただろう、うねるような音の合間に、カツッ、カツッという固い音が混じるようになってきた。その音が大きくなるにつれ、視界を覆っていた網膜を焼くような眩しさが弱まっていくのが分かった。もう大丈夫だと思った頃に目を開けた。少し離れた所に、大きな角を生やした立派な牡鹿が立っていた。角に綺麗な桃色の花をいくつか咲かせていた。振り返ったそのシカと目が合った。ああ、メブキジカだと思った瞬間、いつの間にか知らない場所に立っていた。
大きな空間だった。人一人が立てる音が複雑に混ざり合わさってがやがやとした雑音を生んでいた。同い年位の子どもの声が聞こえた。アナウンスの声がレジの応援を頼んでいた。遠くで小さな子どもが泣く声もした。親が叱る声も聞こえた。ジグソーパズルが並ぶ棚、プリンターのインクが並ぶ棚、文房具が並ぶ棚、おもちゃが並ぶ棚がある。おもちゃの棚の奥には、ゲームが並ぶコーナーがあった。一つを手に取る。ポケットモンスターと書かれたその箱に心のどこかが反応し、酷く懐かしい気持ちで胸がいっぱいになった。ふと目線を上げると、空いたスペースでゲーム機を持って集まっている子どもが何人か目に入った。年は、自分と同じくらいだろうか。四人。三人は男の子で、一人は女の子だった。女の子は短髪に浅黒い肌にタンクトップを着ていた。まるで男の子みたいだった。少し離れた所から様子を伺った。男の子三人は、結構仲が良い友達同士のようだった。女の子は最近友達になったばかりみたいで、色々教わっているようだと、そんな風にみえた。
「――って俺達とやる前は、どこかでポケモンやってたの?」
ポケモン、と言う単語に心が躍った。なぜだろう。
「やってたよ。ソフトをくれた友達が居て、その友達ともう一人と三人でポケモンやってたの」
力強く凛々しいその声に、心がもっと踊った。聞いた事のある声だと思った。
「へぇ、うちのクラスの奴?」
「ううん。全然別の友達」
女の子はにかんだように笑って、言葉を続けた。
「病院で出来た友達なんだ。モトキと、アキラっていうの」
モトキ、モトキ。お兄さんも自分の事をそう呼んでいた。オレはモトキというのだ、どこかでモトキと呼ばれていたのだ、そう理解した。違う誰かのことだろうか、それとも僕の事を言っているんだろうか。女の子の後ろに回って、ゲーム機を覗き込んだ。画面の右上で何かが動いていた。黄色い貝を被り、顎に立派なひげを生やした紺碧のアザラシのような生き物だった。名前は思い出せなかったけれど知っている、そう思った。女の子に背を向けるような形でもう一体、生き物が動いていた。大きな角を生やした逞しい牡鹿。さっきまでは覚えていたのに。あれは……。
「メブキジカ、ウッドホーン!」
女の子が指示を出す。男の子が叫ぶ。
「ダイケンキ!」
どちらも知っている、と思った。メブキジカもダイケンキも。なぜ知っているんだ。あの女の子のことも、ポケモンという単語も、画面の中の生き物のことも。その全てに胸が苦しくなった。懐かしさでいっぱいになるような、何かが溢れ出しそうなような、色々な気持ちでぐちゃぐちゃになりそうだった。どうしてこんな気持ちになるのだろう。そういえば、君の進む道はあっちだよ、とあのお兄さんも言っていた。どうして僕の進む方向を知っているのだろう。そういえば、”お兄さんと一緒にしてもらったんだ、向こうでお酒を飲むんだよ”と言っていた。別のお兄さんもいたのだろうか。一緒にしてもらったって、何を一緒にしてもらったんだ。訳の分からないことばかりだった。

バトルを終えた女の子に、別の男の子が話しかけた。
「つえーんだな、――って」
「教わった先生が強かったからね」
「俺も教わろうかなー。どこにいるんだ? その、モトキと……」
「モトキとアキラ?」
「そうそう」
「××病院。自転車で四十分くらいかな。でも……」
「でも?」
女の子は言いよどんだ。聞いていた男の子のうち一人がさりげなく席を立った。残った他の二人は、
「でも?」
「なんだよ――、もったいぶんなよ」
「モトキは具合悪くて、ずっと眠ってる」
男の子二人は面食らったような顔をした。思わず、自分の手を広げて見つめた。天井の蛍光灯に透かすと、心なしか透けて見えるような気がした。オレは夢を見ているのか、魂だけの存在なのかと、そう思った。なぜだかは分からないけれど、ずっと眠っているというそのモトキが、オレだという確信があった。
さっき席を立った男の子が帰ってきて、女の子に問いかけた。
「じゃあ……アキラは?」
「アキラは……」
女の子は俯いた。何となく嫌な予感がして、でも、その直感が正しい事も知っていた。さっきから気持ちばかり理解が先行して、頭が追いついていないような、そんな感覚がする。
「アキラは……死んじゃった。一ヶ月前に」
その言葉に、周りの喧噪が一気に遠のいて、静寂に包まれたような気がした。でも、その静けさを破ったのも同じ声だった。
「その時、強くなりたいと思ったんだ。アキラみたいに明るくて優しくなれるように、自分が強くなろうと思ったんだ」
女の子の瞳は潤んでいたが、泣いてはいなかった。まっすぐに男の子三人を見据えて、覚悟を宿した瞳をしていた。視線を外さないその姿が、記憶の中のだれかと結びついた。くりくりとした大きな瞳。明るく良く笑って、言動は子どもっぽい。だけど話すとすごく大人びていて、まっすぐ視線を話さないでこちらを鋭くついてくる。最高の好敵手。どうして今まで思い出せなかったんだろう。手で顔を覆い目を閉じた。深呼吸。
――「モトキ。ねぇ、モトキってば」
ゆさゆさと、手で体を揺さぶられる感触が確かにした。懐かしい声。細いけれど大きな手。
待ってて。探し物をオレが、持っていくから。
もう一度ゆっくりと目を開けると、さっきの薄暗い川辺に戻って来ていた。川だけが仄かに光る中で、少し離れた所にさっきの船が泊まっているのが見えた。船上の影は二人。さっき、お兄さんに戻ってきてはいけないと言われた事を思い出しながら、耳を澄ました。
「……なんだい坊主、もういいのかい」
「ええ」
「探し物はみつかったのか」
「……いいえ。でも、良いんです。もう吹っ切れましたから。僕は向こうでお酒を飲むんです」
オレは走り出した。船頭がオールで岸を押し、川へ漕ぎ出す。流れに乗り、加速し始めた船を走って追う。頭の中をフル回転させながら念じた。ポケットに手を突っ込みながら強く思った。来い。来い。ふと、ポケットを弄る手が薄い小さなプラスチックを掴んだ。そのプラスチックの破片を握りしめて、オレは懸命に走った。船の横に並走しながら、名前を叫んだ。
「アキラ!!!」
船に乗った青年が、びっくりした顔でこっちを見たのが分かった。
「モトキ!! 来るなって言っただろ!!」
青年……アキラの険しい声に、そうだった、と今更その事を思い出しながら、構わず続けた。
「これ、探し物!!」
小さなプラスチックが宙を舞う。アキラが船から立ち上がり、両手で包み込むように受け止めた。
「……!」
「探し物、それだろ!!」
アキラがギュッと掌を組みあわせ、祈るように胸に抱いた。薄暗くて表情は見えなかったけれど、その姿だけで、何も言わなくても正解だと分かった。アキラの名前と、形見で貰ったゲームソフト。
「アキラ、向こうで、お兄さんといっぱい対戦してこい!! お酒飲みながら!!」
そういうとアキラは、
「モトキ! 僕がいなくても、メイちゃんと仲良くするんだよ!」
うるさい、余計なお世話だ。そう返すと、笑い声が返ってきた。アキラは大きく手を振った。その動作に呼応するかのように、オレの視界の周囲がだんだんぼんやりし始めた。帰るんだ、という強い確信があった。元居た場所に帰るんだ、と。

 外から反射する日差しが教室の中にまで差し込んでくる。さほど大きくない教室に三十五人も詰め込まれているせいで、よけいに暑苦しい。夏服を着ていることがせめてもの救いだ。冷暖房設備がないから授業中も額を汗が流れる。言われている事を書き写すだけで精一杯で、理解できる段階へ意識を持っていけない。やっと授業を終えてため息をつくと、隣の席に座っている友達がやってきて、
「メイ、麦茶飲む?」
「神様ッ!」
水筒の中身を分けてくれた。冷たい麦茶が喉を通って胃の中に染み渡る。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
思わず拝むと友達は、
「メイちゃんって本当、おいしそうに麦茶飲むよね。大人になったらきっと、麦茶じゃなくてビールをそうやって飲んでるんじゃない?」
「ビール?」
「ビールって麦の酒って書くんだよ、知ってた?」
「マジ?」
そんな会話をしていたら、
「おい、――。転校生が来るらしいぞ」
小学校卒業直前に一緒にポケモン対戦をしていた仲の男子の一人が、後ろの席に駆け込みながら言った。急に担任の先生が慌ただしく教室に入ってきて、クラスメイトは全員、猛スピードで自分の席についた。
「知ってるよ」
「え?」
後ろの男子が疑問符を浮かべる。先生が一人の男の子を連れてきた。小柄で細く色白で、短髪に切れ長の一重瞼。緊張した面持ちで前を見据えていたけれど、私と目が合うと驚いたのか、一瞬で間が抜けた顔になった。先生が色々と説明している合間に、後ろの男子が問いかけてくる。
「何で知ってるの、あいつのこと」
私の答えに、男子は納得の表情を浮かべて転校生を見た。
「私の、”先生”だから」

ーーー
あとがき
こんにちは、art_mrと申します。
アイデアをとにかく最後まで形にしようとしたら、気づけば41000字くらいになってしまいました。
長文すみません。最後までお付き合いいただきありがとうございます。


  [No.3516] Re: 命の選別 投稿者:   《URL》   投稿日:2014/11/24(Mon) 22:34:57   51clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ゲームソフトをきっかけにドラマが展開するのがいいですね。
こういう等身大の少年少女の話って好きです。


  [No.3519] Re: 命の選別 投稿者:art_mr   投稿日:2014/11/25(Tue) 22:06:44   35clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

殻さま

こんにちは、art_mrと申します。
もったいないお言葉、ありがとうございます。本当に嬉しいです。
小学生の頃は現実とゲームと両方の世界で生きていた気がしていたので、
両方盛り込めたら……と思って書きました。

> ゲームソフトをきっかけにドラマが展開するのがいいですね。
> こういう等身大の少年少女の話って好きです。


  [No.3563] Re: 命の選別 投稿者:焼き肉   投稿日:2015/01/09(Fri) 22:16:47   64clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 ああ、これ4万字もあったのか。気づかなかった。そのくらい入り込めました。現実とゲームの世界の混ぜ具合がいいですね。

 景色や季節ごとの背景描写がとても綺麗です。ポケモンバトルの状態以上と現実の病気をひっかけてるのも上手い。

 個人的に、作中のゲームが大好きなBWなのも嬉しかったです。使い方も上手い。最初の一歩を三人で、ってのを現実のメイとアキラとモトキに重ね合わせているところとか。BWのきなくさいストーリーの空気もこの作品に合ってるなあなんて思います。

 難病ネタと厳選の是非は話の王道ですが、二つのテーマの調理が上手なので新鮮な気分で読めました。

 しかしチューのシーンは微笑ましいやらこっぱずかしいやらでニヤニヤしますね。


  [No.3572] Re: 命の選別 投稿者:art_mr   投稿日:2015/01/14(Wed) 00:34:11   56clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

焼肉さま

こんばんは、art_mrと申します。
投稿してもうすぐ2ヶ月を迎えようとしているところで、まさか感想を頂けるなんて夢にも思わず……
返信が遅くなってしまいすみません。とっても嬉しいです。
愛のあるご感想をありがとうございます。恐縮しきりです。

現実とゲームについてですが、
「抗癌剤で好中球がほとんど無い子供が、クリーンルームから無線LANで対戦しているのを見ると、PSPやDSを作った企業は男前やな、と感じる(@taiwata)」
というツイッターを目にしたことが一つと、「ネトゲ廃人」という本を読んだ時印象に残ったエピソードが一つ、
その両者を、自分が子供の頃のことを思い出しながら混ぜてできたのがこの話(自己分析)です。

現実では病院や学校が背景になり室内ばかりになるので、盛り込めるところは華やかに……と思い、季節を取り込みました。
BWは最初の一歩のシーンが好きで印象に残っていました。でも設定を色々決めた後にBWにしようと思ったので、偶然入れられたような気もします。
全く気がついていませんでしたが、チューのシーンを改めて見直すと結構恥ずかしくなってきました(笑

ありがとうございました!

>  ああ、これ4万字もあったのか。気づかなかった。そのくらい入り込めました。現実とゲームの世界の混ぜ具合がいいですね。
>
>  景色や季節ごとの背景描写がとても綺麗です。ポケモンバトルの状態以上と現実の病気をひっかけてるのも上手い。
>
>  個人的に、作中のゲームが大好きなBWなのも嬉しかったです。使い方も上手い。最初の一歩を三人で、ってのを現実のメイとアキラとモトキに重ね合わせているところとか。BWのきなくさいストーリーの空気もこの作品に合ってるなあなんて思います。
>
>  難病ネタと厳選の是非は話の王道ですが、二つのテーマの調理が上手なので新鮮な気分で読めました。
>
>  しかしチューのシーンは微笑ましいやらこっぱずかしいやらでニヤニヤしますね。