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  [No.3814] 王者の品格 第一話「青天霹靂」 投稿者:GPS   投稿日:2015/08/27(Thu) 19:57:57   96clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ポケモンリーグ。


それは、ポケモンバトルの王者を決する聖なる戦いだ。
王の玉座を手に入れるためには幾つもの勝負を制し、無数の技を掌中にして、ポケモンと心を一つにすることが求められる。
ポケモンバトルの強き者、それが王たる資格なのだ。


しかし、真実はどうであろう。

バトルに強き者だというだけで、果たして王と成り上がることは叶うのだろうか。


王者に乞われる力とは、もっと別のところにあるのではないか?





「泰生さん、本日のご予定ですが」
「ん」
「十一時からブリーダーの山崎によるメンテナンス。十三時からスタジオ・バリヤードで月刊トレーナーモードの取材及び撮影。内容は先日のタマムシリトルカップと、リーグについてです。連続して毎朝新聞社のスポーツ紙のインタービューも入ってます。それが終わり次第、野島コート、二ヶ月前に根本信明選手との練習試合で使いました、あそこに移動して、事務員内のシングルトレーナーでタッグを組みマルチバトルトレーニングです。それが三時間、その後、そのままコートを取ってあるとのことですから、あとは個人練に回して良いと伺いました。以上です」
「ん」
「何かご不明な点はございませんか」
「む」

ん、は肯定の合図で、む、は否定の印。寡黙さと冷徹な印象が評判のベテランエリートトレーナー、羽沢泰生は低く唸りながら首を横に振った。
しかし実際のところ泰生は長々と続くスケジュールなど、本当は大して真面目に聞いていなかった。わかったことは、とりあえずあまり自分の本業たるシングルバトルに費やせる時間が無さそうだということのみである。生まれつきのしかめっ面をますます強張らせる泰生に、彼の専属マネージャーにあたる森田良介は溜息をついた。人の感情や思惑の機微に敏感なこの男は、泰生が話をまともに聞いてくれないことを察するのにも慣れきっていたが、しかしそのたびに肩を竦めずにはいられないくらいには生真面目な男でもあった。

「まあ、いいですけどね。泰さんの予想通り、今日のシングル出来る時間は最後の自主トレだけです。事務所としてのトレーニングがマルチですから」
「ふん。なんでシングルトレーナーがマルチをやらなきゃならないんだ」
「それは、ほら、自分以外のトレーナーと協力することで相手の手を読む力を養うとか」
「そんな悠長なこと言ってる場合か。リーグはあと一ヶ月も無いんだ」
「しょうがないでしょう。ウチの方針なんですから、幅広いトレーニングとメンバー同士の密なこ・う・りゅ・う」
「ふん」

わざと『交流』の部分を強調した森田に、泰生は不機嫌そうに鼻を鳴らす。腰につけた三つのモンスターボールを半ば無意識に伸びた手で握ると、それに応えるようにしてボールが僅かに動く気配が掌越しに伝わった。こんなにやる気なのに、夕方まではシングルどころかバトルすらまともにさせてやれないのが嘆かわしい、泰生はそんなことを思って眉間に皺を寄せる。

「それに、それはリーグでも……とにかく、予定は詰まってるんですから文句言わずに行きますよ。まずは山崎のとこに、恐らくもう待ってるでしょうから」

慣れた口調で森田は泰生を急き立てる。足早に廊下を歩く二人とすれ違った事務員の女性が、桃色の制服の裾をやや翻しながら「おはようございます」とにこやかに声をかける。「あ、谷口さん、おはよう」同じような笑顔で森田が返すが、しかし、泰生はしかめた顔のまま無言で通り過ぎた。女性事務員は、それも日常茶飯事といった感じで向こう側へと歩いていってしまったが、森田は童顔気味の面を渋くする。「泰さん」そして苦言というより、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるようにして言う。「いい加減挨拶くらい出来るようになってくださいよ」

泰生は元来、人付き合いとか人間関係とか、そういった類のものが全く以て苦手かつ大嫌いな男だった。ポケモンバトルの才能は天賦のものであったため、若い頃は実際ほぼほぼ山籠りのような、孤高の野良トレーナーとして人と最低限度の付き合いをしながら生きていたというほどである。泰生にとって、人間は何を考えているのかわからない、口先ばかりの嘘つきな存在なのだ。その点ポケモンは信頼に値する、心と心で通じ合える生き物であり、出来ることならば一生ポケモンとだけ過ごしていたいと考えていた。
そんな泰生が、何故こうして森田(当然ながら人間である)のサポートの元、がっつり人間社会に縛られているのかというとワケがある。泰生は本職のエリートトレーナー、つまりはトレーナー修行の旅はしていないが、バトルで飯を食べているという職業だ。国の公金から援助が出る旅トレーナーとは違い、定住者としてバトルで生活をしていくには一匹グラエナというわけにはいかず、余程の強さ、それこそ今や行方不明だが噂によるとシロガネ山で仙人になったという、かつてカントーの頂点に立ったマサラ出身の少年くらいでなければ叶わない話である。
ではどうするのか、というとどこかに所属するしか無いのだ。ジムリーダーとはその代表格で、地方公共団体という存在に属し、バトルを通して市町村の活性化に努める役目を負っている。そして泰生など、いわゆる『エリートトレーナー』は概して、トレーナープロダクションに所属しているトレーナーを指す言葉なのだ。野球選手が球団に入ったり、アイドルが芸能事務所に身を置くのと同じようなものだと考えてくれれば良いだろう。旅をすると道中バトルを仕掛けてくるトレーナーの中に、自分をエリートトレーナーと名乗る奇妙なコスチュームの者がいると思うが、そのコスチュームは彼、彼女の所属しているプロダクションの制服である。特定の制服のエリートトレーナーが色々な場所に点在しているのは、『フィールドでの実践』がその事務所のウリという理由なのだ。
ともかく、泰生は生活のため『064トレーナー事務所』というプロダクションの一員となっている。野良トレーナーだった頃とは違い、日々ガチガチにスケジュールを縛られるのに加えて人間関係を良好に保つことを強いられる毎日は、もはや二十年以上続けているにも関わらず一向に慣れる気配は無かった。無論、そうして予定を詰められるのは泰生が強く魅力的なトレーナーであることの裏返しなのだが、彼がそれに気づく日が来るかは不明である。

「ほら、もう少し柔らかい表情しないとまた山崎に笑われますよ。オニゴーリみたいだって、まったく、オニゴーリの方がまだ可愛げがあるってものでしょうに」
「陰口を叩く奴なんかブリーダー失格だ」
「まーたそんなこと言って。陰口じゃなくて、面と向かって言われたの忘れたんですか」

そんな泰生に手を焼いて、森田は丸っこい目を尖らせた。自分のサポートする相手は決して悪人では無いし、むしろ深く付き合えば好感の方がずっと上回る人だとはわかっている。が、周囲がそうは思ってくれないことも森田は知っていた。
本人がこれ以上損をしないためにもどうにかしてほしいものだと思いつつ、いかんせんこの調子ではとても無理だろう。三十を過ぎてから重くなる一方の身体が殊更に重くなったような感覚に襲われながら、革靴の足音を事務所内に響かせる森田はぐったりと息を吐いた。





「お疲れ様でーす」
「おつかれー」
「遅かったじゃん」
「三嶋の講義でしょ? あいつすぐ小レポート書かせるから時間通り帰れないんだよな、お疲れ」
「羽沢今日メシ食いにいかない? 友達がバイト始めた居酒屋あるからさー」

『第2タマ大軽音楽研究会』と書かれたプレート部室のドアを開けた羽沢悠斗へ、先に中にいた者達が口々に声をかける。ある者は楽器をいじっていた手を止めて、ある者は個々のおしゃべりの延長戦として、またある者は携帯ゲームや漫画に向けていた顔を上げて羽沢を見た。その一つ一つに「お疲れ様ですー」「はいアイツです、ジムリーダーの国家資格化法案について千字書かされました」「本当面倒くさいですよねあの万年風邪っぴき声」返事をした彼は、各々自分の居場所に陣取ったサークル員の間を縫って部屋の奥まで行き、簡易的な机に鞄を置いた。「行く行く、ちょうど夕飯どうしようか考えてたんだよな」
最後の一人まで返事をし終えた悠斗は言いながら机を離れ、壁に立てかけられているいくつかの楽器のうち、黒い布で出来たギターケースに手を伸ばした。その表面を、とん、と軽く指で突いた彼は何か言いたげな顔をしてサークル員達の方を振り返る。

「富山ならまだ来てないぞ」

悠斗が口を開くよりも前に、ギターの弦を張り替えていたサークル員の一人が声をかけた。「そうか」悠斗はへらりと笑う。

「練習室、五時からですよね。芦田さん?」
「ん? うん、そうそう。第3練習室ね、まぁ一個前の予約がオケ研だから押すと思うけど」

悠斗の問いかけに、芦田と呼ばれたサークル員がキーボードに置いた楽譜から視線を上げて返事をする。それにぺこりと頭を下げ、悠斗は「そうなんですよ」と誰に向けてというわけでもない調子で言った。

「だから、五時までやろうと思ってたんですけど。有原と二ノ宮もいるし、結構、合わせられる時間はなんだかんだいって無いですから」
「そうだな」
「ま、そろそろ来るでしょ。事務行ってるだけらしいから」

会話に出された有原と二ノ宮が、それぞれ反応を返す。「なんだ、そっか」と小さく息を吐いた悠斗にサークル員がニヤリと笑って「いやぁ」と半ばからかうような口調で言った。「流石キドアイラク、期待してるぞ」
やめてくださいよ、ソツの無い笑顔でその台詞に応えた悠斗は、タマムシ大学法学部の二回生という肩書きを持っているが、それとは別にもう一つ、彼を表す言葉がある。新進気鋭候補のバンド、『キドアイラク』のボーカリスト。それが悠斗に冠する別の名だ。ボーカルの悠斗をリーダーとして、先ほど話題に上っていたギターの富山、そしてベースの有原とドラムの二ノ宮で編成されたこのバンドはサークル活動の枠を超え、今はまだインディーズといえども、数々のメジャーレーベルを手がけている事務所にアーティストとして登録されているという実力を持っている。それはひとえに彼らの作る音楽の魅力あってのものだが、それは勿論として、しかし同時に別の理由もあった。

古来、壮大な話になるが、それこそ『音楽』という概念が生まれてからずっと、人間にとっての音楽はポケモンと切っても切れない存在であった。ポケモンの鳴き声や技の立てる音を演奏の一部とするのは当然、それ以外にもパフォーマンスの一環としてポケモンのダンスを演奏中に取り入れたり、電気や水の強い力を楽器に利用したりと幅広く、音楽とポケモンとを繋げていたのだ。
ポケモンと共に作る音楽は当たり前ながら、人間だけでのそれと比べてずっと表現の可能性が広いものとなる。人間ではどう頑張っても出せないサウンド、限界を超えた電圧をかけられたエレキギター、多彩な技で彩られるステージ。そのどれもが、ポケモンの力で出来るようになるのだ。
そのため、遥か昔から今この瞬間まで、この世にあまねく、いや、神話や小説などの類で語られる『あの世』の音楽ですら、ポケモンとの共同作品が主流も主流、基本中の基本である。ポップスだろうがクラシックだろうがジャズだろうが関係無い。民族音楽も、EDMも、アニソンもヘビメタも電波も環境音楽もみんなそうだ。人間の肉声を使わないことが特徴であるVOCALOID曲ですら、オケのどこかには必ずと言って良いほどポケモンの何かによるサウンドが入っている。世界中、過去も未来も問わないで、音楽にはポケモンがつきものなのだ。

が、その一方で、ポケモンの力を一切使わないという音楽も確かに存在している。起こせるサウンドは確かにぐっと狭まるが、限られた可能性の中でいかに表現するかを追求するアーティスト、そしてそれによって実現する、ポケモンの要素のあるものとは一味違う音楽を求める聴衆は、いつの時代もいたものだ。くだらない反骨精神だの異端だのと評されることは今も昔も変わらないが、その音を望む人が少なからず存在するのもまた、事実。
そして悠斗率いる『キドアイラク』もそんな、ポケモンの影を一切省いたバンドなのだ。元々、彼らの所属サークルである第2タマ大軽音楽研究会自体がそういう気風だったのだが、悠斗たちはより一層、人間独自の音楽を追い求めることをモットーとしていた。
ポップス分野としては珍しいその音楽と、そしてそれを言い訳にしないだけの実力が評価され、彼らは今日もバンド活動に邁進しているというわけである。

「っていうか二ノ宮、何読んでんの」

そんな悠斗たちだが、まだ全員揃っていないこともあって、今は部室のくつろいだ雰囲気に溶け込んでいる。円形のドラム椅子に腰掛けて何か雑誌を広げていた二ノ宮に、悠斗は何ともなしに声をかけた。「んー」雑誌から顔は上げないまま、二ノ宮は適当な感じの音を発する。

「トレーナーダイヤモンド。リーグの下馬評とかさー、もうこんなに出てんだな。ま、一ヶ月切ったし当たり前かぁ」
「え? もうそんな時期なのか、今回誰が優勝すんのかなー、去年はまたグリーンだったからな」
「出場復帰してからもう四年連続だっけ。もうちょっとドラマが欲しいね、全くの新星とまではいかなくても逆転劇っていうか」
「でも五年守り続けるってのはさ、それはそれですごいじゃん?」
「あー」

二ノ宮の返事を皮切りにして、口々にリーグの話を始めるサークル員達の姿に、悠斗はふっと息を吐いた。聞いた本人にも関わらず、彼は会話に入らずぼんやりとその様子を眺めていた。
皆が盛り上がる声に混ざって、扉か壁か、その向こう側から他の学生のポケモンと思しきリザードの声が聞こえてくる。それを振り払うようにして悠斗が頭を振ったのと、「お疲れ様ですー」ドアが開いて、事務で受け取ったらしい何かの書類を手にした富山が顔を覗かせたのは同時だった。





「では、今リーグもいつものメンバーで挑むということですか」
「当然だ。俺はあいつらとしか戦わない」
「流石は首尾一貫の羽沢選手ですね。しかしリーグに限らず、今までバトルを重ねていく中で、今のメンバーだけでは切り抜けるのが難しいことがあったのではないでしょうか? そういった時、他のポケモンを起用しようとか、編成を変えてみようとか、そうお考えになったことはございませんか?」
「三匹という限られた中で戦わないといけないのだから、困難に直面するのは必然だろう。そこで、現状に不満を抱いて取り替えるのでは本当の解決とは言えん。編成を変えたところでそれは一時凌ぎでしか無い、また違う相手と戦う時に同じ危機に苦しむだろう。取り替えるのではなく、今のままで課題を乗り越えるのだ。それを繰り返していれば、少しずつ困難も減っていく」
「なるほど! それでこそ羽沢選手ですよ、不動のメンバーに不動の強さ、見出しはこれで決まりですね」

これが狙ってるんじゃなくて、素でやってるんだから厄介だよなぁ。興奮するレポーターの正面で大真面目に腕組みしている泰生の一歩後ろで、森田は内心そんなことを考えていた。
タマムシ都内、スタジオ・バリヤード。そこで今、泰生はトレーナー雑誌の取材に応えている。まるで漫画やドラマの渋くダンディな戦士かのような受け答えをする泰生に、インタビューを務める若いレポーターは先ほどからずっと大喜びだ。頑固一徹を具現化したような泰生は、ともすれば周囲全てを敵に回す危険を孕んだ存在ではあるものの、同時にその堅物ぶりは世間から愛される要因でもある。それが決して作り物ではない天然モノであること、本人の真剣ぶりに一種のかわいさが見受けられることがその理由だ。また泰生の根の真面目さが幸いし、いくら嫌とは言えど、受けた仕事はこうしてしっかりこなすというところにも依拠している。
背筋をぴんと伸ばした泰生が、眉間の皺は緩めないものの順調に取材を受けている様子に、森田は尚も心の中でそっと安堵の溜息をついた。朝はいつものように不機嫌だったが、いざ始まってしまえば大丈夫だ。これなら何の心配もいらないだろう、彼がそう考えたところに、レポーターがさらなる質問をする。

「ところで、羽沢選手にはお子さんがいらっしゃるとのことでしたが……やはり同じようにバトルを……」
「………………知らん」
「えっ」

途端、森田は一気に顔を引きつらせた。森田だけではない、レポーターも同じである。まだ新人だし初めて対面した相手だから、この類の質問が泰生にとってはタブーであると知らなかったのだろうか。しかし今はそんなことに構ってはいられない、凍りついた空気をかき消すようにして、「いやー、すみませんね!」森田は無理に作った笑顔と明るい声で二人の間に割り込んでいく。

「そういうのはプライベートですから、ね、申し訳ないんですけど控えていただけると! いや、お答えになる方も沢山いらっしゃるでしょうが、羽沢はその辺厳しいものでして、本当申し訳ございません!」

早口で謝りながらぺこぺこと頭を下げる森田の様子にレポーターはしばらく呆気にとられていたが、やがて「……あ、ああ!」と合点がいったように頷いた。

「なるほど、そうでしたか……! いえ、こちらこそ大変失礼いたしました。そうですよね、あまり尋ねるべきではありませんでしたよね、不躾な真似をしてしまい申し訳ございません」
「いえいえ、本当すみません。ほら、泰さんもそんな怖い顔しないで。別にこんなの大したことじゃないでしょう、ね、まーたオーダイル呼ばわりされますよそんな顔じゃ」
「…………ふん」

オーダイルじゃなくてオニゴーリだったか、森田は冷や汗の浮かんだ頭でそんなことを思ったが、この際別にどちらでも良いことだった。とりあえず泰生の機嫌が思ったよりは損なわれていないらしいことを確認し、森田の内心はまたもや大きな息を吐く。まだ引きつったままの頬を押さえ、彼は寿命が三年ほど縮んだ心地に襲われた。
泰生のマネージャーとなってから十年ほど。少しずつ、本当に少しずつではあるが、泰生も丸くなっていっているのだと要所要所で実感する。しかしこればかりは緩和されるどころか、自分たちが歳を重ねるたびに悪化しているようにしか感じられない。そう、森田は思う。

「で、ではインタビューに戻らせていただきます……今リーグからルール変更により二次予選が出場者同士が一時味方となるマルチバトルが導入されましたが、その点に関してはどうお考えで?」
「非常に遺憾だ。シングルプレイヤーはシングルプレイヤー、ダブルプレイヤーはダブルプレイヤーとしての戦いを全うすべきなのに、まったく、リーグ本部は何を考えているのかわかったものではない」

この頑固者の、親子関係だけは。
ダグドリオの起こす地響きの如き低い声で運営への不満を語る泰生に、森田は困った視線を向けるのだった。





「樂先輩、樂先輩」
「なに?」
「羽沢のやつ、なんであんなムスッとしてるんですか」
「あー、それはね、羽沢泰生っているでしょ? 有名なエリトレの、ほら、064事務所のさ。あの人、羽沢君のお父さんなんだよ」
「え! そうなんですか……でも、それがあのカゲボウズみたいになってる顔と何の関係が」
「実はさぁ、羽沢君、お父さんとすっごく仲悪いらしいんだよね。だからトレーナーの話、というか羽沢泰生に少しでも関係する話するといつもああなるの。っていうか巡君もなんで知らないの。結構今までも見てたはずだけど」
「すみません、多分その時はちょっと、僕ゲームに忙しかったんでしょうね。でも、別に雑誌程度で……」
「まあ、ねぇ……よっぽど何かあるんだろうけど……」

「聞こえてますよ、芦田さんも、守屋も」

一応は内緒話っぽく、小声で喋っていたサークル員たちに向かって悠斗が尖った声を出すと、二人はびくりと身体を震わせた。守屋と呼ばれた、悠斗の同級生である男子学生は猫背気味の後姿から振り返り、「ごめんなさい」と肩を竦める。彼はキーボードの担当だったが今は楽器が空いていないらしく、同じくキーボード担当である芦田の隣に陣取って暇を持て余しているらしかった。
決まり悪そうに、お互いの眼鏡のレンズ越しに視線を交わしているキーボード二人へ、悠斗はそれ以上言及しない。それは悠斗の、のろい型ブラッキーよりも慎重な、事を出来るだけ波立たせたくない主義がそうさせることだったが、彼らの言っていることが間違ってはいなかったからでもある。

悠斗が父親のことを嫌っているというのは、もはやサークル内では公然の秘密と化している。ただ、守屋のような一部例外を除いての話であるが。
泰生は悠斗が物心ついた時からすでに、というか彼が生まれるよりもずっと前からバトル一筋だった。それはトレーナーとしては鏡とも言える姿なのかもしれないが、父親という観点から見たらお世辞にも褒められたものではなかったのかもしれない。少なくとも悠斗からすればそれは明白で、悠斗にとっての泰生は、ポケモンのことしか考えられない駄目な人間でしかなかったのだ。
彼がポケモンの要素を排除した音楽をやっているのもそこに起因するところがある。勿論、悠斗の好きなアーティストがそうだからという理由もあるが、しかしそれ以上に彼を突き動かしているのは父である泰生への、そして彼から嫌でも連想するポケモンへの黒く渦巻いた感情だろう。悠斗はそれを自覚したがらないが、彼の気持ちを知っている者からすればどう考えても明らかなことだった。
兎にも角にも羽沢親子は仲が悪い。本人たちがハッキリ口に出したわけではないけれど、彼らをある程度知る者達なら誰でもわかっていることである。

「……おい、なんだよ瑞樹。その目は」
「別に。それより練習するんだろ、今用意するから」

そのことは、悠斗とは中学生からの付き合いである富山瑞樹ともなれば尚更の事実であった。それこそ泰生にとっての森田くらい。
しかし富山は、それを悠斗が指摘されると不快になることもよくわかっている。理解しきったような目をしつつも、何も言わずにギターケースを開けだす富山に、悠斗は憮然とした表情を浮かべていた。が、富山が下を向いたところでそれは若干、それでいて確かに緩まされる。その様子をやはり無言で見ていた有原と、図らずも発端となってしまった二ノ宮は「なあ」「うん」と、各々の楽器を無意味に弄りながら、やや疲れたような顔で頷き合った。





やはりマルチバトルなど向いていない。
本日何度目かになる試合の相手とコート越しに一礼を交わし、泰生は心中で辟易していた。現在彼は今日の最後のスケジュール、プロダクション内でのマルチバトルトレーニング中である。貸し切りにしたコートには、064事務所のトレーナー達がペアを組み、あちこちでバトルを繰り広げている真っ最中だ。
所内のトレーニングに重きを置いている064事務所では前々から取り入れられていた練習だが、今回のリーグから予選がマルチになったこともあり、より一層力を入れている。ただ、シングルに集中したい泰生にとっては厄介なことこの上無い。そもそも彼は元より、自分以外の存在が勝敗を左右するマルチバトルが好きではないのだ。少しでも時間を無駄にしたくないのにそんなことをしたくない、というのが泰生の本音である。

「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「かわせトリトン! 左奥に下がれ!」

ただ、やる以上は本気で勝ちにいかなくてはいかない。ミタマという名のシャンデラに指示をしながら、泰生はくすぶる気持ちをどうにか飲み込んだ。
敵陣のラグラージがミタマの放った弾幕を避けていく。長い尻尾の先端を緑色の光が少しばかり掠ったが、ほとんど無いであろうダメージに泰生の目つきが鋭くなった。現在の相手はラグラージとカビゴン、シャンデラを使う泰生としては歓迎出来ない組み合わせである。また、クジで組んだ本日の相棒という立場から見ても。

「クラリス、ムーンフォースだ、カビゴンに!」

シャンデラの眼下にいるニンフィアが光を纏い、カビゴンの巨躯へと走っていく。可憐さと頼もしさが同居するそのフェアリーポケモンに声をかけたのは、エリートトレーナーとしては新米である青年、相生だ。甘いマスクと快い戦法が人気で、事務所からも世間からも期待のホープとされているが、今の彼は、よりにもよって事務所一の偏屈と名高い泰生と組んだことからくる緊張に襲われている。
無口で無表情、何を考えているのかわからない泰生のことを日頃から若干恐れていた相生は、誰がどう見ても表情を引きつらせており、対戦相手達は内心、彼をかわいそうに思っていた。ニンフィアに向ける声も五度に一度は裏返り、整った顔は時間が経つごとに青ざめていく。今のところは勝敗こそどうにかなっているが、もし自分がくだらぬヘマをしてしまったら何を言われるか。そんな不安と恐怖が渦巻いて、相生の心拍は速まる一方だった。

「なんかすみません……相生くんに余計なプレッシャーかけちゃってるみたいで」
「いやぁ、いいんだよ。アイツは実力こそ確かなんだけど、まだそういうのに弱いから。今のうちに慣れておかないと」
「え、あ、じゃあ、泰さんでちょうど良かった、みたいな感じですかね? あはは、なら安心……」
「ま、ちょっと強すぎる薬だけどな」
「うっ……そうですね、ハイ…………」

ポケモンバトル用に作られたこの体育館は広く、いくつものコートで泰生たち以外のチームが各々戦っている。その声や技の音に掻き消されない程度に落とした声量で、森田と、相生のマネージャーはそんな会話を交わしていた。まだ若い相生にはベテランのマネージャーがあてがわれているため、トレーナー同士とは真逆に、森田からすれば相手はかなりの先輩である。「まぁ、それが羽沢さんの良いところなんだがな」「いえホント……後でよく言っておきますので……」泰生からのプレッシャーを感じている相生のように、森田もまた委縮せざるを得ない状況であった。
誰も得しないペアになっちゃったよなぁ、と考えながら、森田は会話の相手から視線を外してコートを見遣る。シャンデラが素早い動きでラグラージを翻弄する傍らで、「クラリス、いけ、でんこうせっか!」ニンフィアがカビゴンに肉薄していった。瞬間移動かと見紛うその速さに、流石はウチの期待の星だ、と森田は感心した。
しかしカビゴンのトレーナーである妙齢の女性は少しも動じることなく、むしろ紅い唇に不敵な笑みを浮かべる。「オダンゴ」

「『あくび』!」
「っ! そ、そこから離れろ、クラリス!」

しまった、と泰生は内心で舌打ちしたがもう遅い。慌てて飛ばされた相生の指示は間に合わず、カビゴンの真正面にいたニンフィアは、大きな口から漏れる欠伸をはっきりと見てしまった。
華奢な脚がもつれるようにして、ニンフィアの身体がふら、とよろめく。リボンの形をした触覚が頼りなく揺れ、丸い瞳はみるみるうちにぼんやりとした色に濁っていった。カビゴンと、そのトレーナーが同じ動きで口許を緩ませる。

「駄目だ、クラリス! 寝ちゃダメだって!」

元々、泰生に対する緊張でいっぱいいっぱいだった相生は完全に混乱してしまったようで、ほぼ悲鳴のような声でニンフィアへと叫び声を上げた。ああ、駄目なのは思えだ。泰生は心の中で深い息を吐く。こういう時に最もしてはならないのは焦ることだというのに、どうしてここまで取り乱してしまうのか。
期待のホープが聞いて呆れる。口にも、元から仏頂面の表情にも出しはしないが、泰生はそんなことを考えた。

「もう遅い。せめて出来るだけ遠ざけとけ、後は俺がやる」
「す、すみませ……」

涙が混ざってきた相生の声を遮るようにして言うと、彼はまさに顔面蒼白といった調子で泰生を見た。その様子を少し離れたところで見ていた相生のマネージャーが、あまりの情け無さにがっくりとうなだれる。
「本番でアレが出たらと思うとなぁ」「ま、まだこれからですから……それに今のはどちらかというと、泰生さんのせいで」小声で言い合うマネージャー達の会話など勿論聞こえていない泰生は、ぐ、と硬い表情をさらに引き締めた。ニンフィアが間も無くねむり状態になってしまう以上、二匹同時に相手にしなければならないのは明白である。しかしシャンデラとの相性は最悪レベル、切り札のオーバーヒートも使えない。もう一度欠伸をかまされる可能性だって十分あり得るだろう。

「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!」

とりあえずラグラージから何とかしよう、と放った指示は勢いづいた声と水流に呑まれそうになる。「避けろ!」間一髪でそれを上回った泰生の声で天井付近に昇ったシャンデラは、びしゃりと浴びた飛沫に不快そうな動きをした。まともに喰らっていたら危なかった、コートを強か打ちつけた水に、泰生の喉が鳴る。
しかし技は相殺、腰を落としてシャンデラを睨むラグラージもまた無傷のままだ。ニンフィアのふらつきはほぼ酩酊状態と言えるし、もう出来る限り攻め込むしかあるまい。しかし冷静に、あくまで落ち着いて。そう自らに言い聞かせながら、泰生は次の指示を飛ばすべく息を吸う。

その、時だった。

(ピアノ……?)

今この場所で聞こえるはずの無い音がした気がして、泰生は思わず耳を押さえる。急に黙ってしまった彼を不審に思ったのだろう、隣で真っ青になっていた相生が「……羽沢さん?」と恐る恐る声をかけた。
ラグラージに指示しようとしていた、またニンフィアへの攻撃をカビゴンに命じようとしていた相手トレーナー達も、異変を察して怪訝そうな顔をする。

「……ああ、いや。すまない」

何でも無いんだ。
何事かと駆け寄ってきた森田を手で制し、そう続けようとしたところで、またピアノの音がした。軽やかに流れていくその旋律はまさかこのコートにかかっている放送というわけでもあるまいし、仮にそうだとしてもはっきり聞こえすぎである。「チャ、チャンスなのか? やってしまえ、トリトン、なみ……」「バカ、やめた方がいいでしょ! オダンゴも止まって、羽沢さん! 大丈夫ですか!?」相手コートからの声よりも、勢い余って技を放ってしまったラグラージが起こした轟音よりも、ピアノの音はよく聞こえた。
まるですぐ近くで、それだけが鳴り響いているようだ。「羽沢さん!」「どうしたんですか、聞こえてます!?」反対に、自分に投げかけられる声はやけに遠くのものに思える。血の気を無くして近寄ってくる森田に何かを言おうとしたものの声が出ない。不安気に舞い降りるシャンデラの姿が、下手な写真のようにぶれて見えた。

「しっかりしてください、羽沢さん!」

「救急車!? 救急車呼ぶべき!?」

「まだ様子見た方が、羽沢さん! 羽沢さん、答えられますか!?」

「泰さん、どうしたんですか! 泰生さん!!」


「羽沢君!!」


そのブレが不快で、数度瞬きをした後に泰生の目に入ったのは、シャンデラとは全く以て異なる、

「いきなり黙るからびっくりしたよ……大丈夫?」

グランドピアノを背にして自分を見ている、心配そうな顔をした、白いシャツの見知らぬ男だった。





「もうさぁ、巡君のアレは何なんだろう。『先輩がいない間の椅子は僕が安全を守っておきますよ!』って、アレ、絶対俺が帰ってからも守り続けるつもりでしょ……絶対戻ってから使うキーボード無いよ俺……」
「すごい楽しそうな顔してましたもんね、守屋。イキイキというか、水を得たナントカというか」
「部屋来るなり俺の隣に座ってたのはアレを狙ってたんだろうなぁ」

予約を入れた練習室へと向かう廊下。悠斗は練習相手である芦田と、部室を出る際の出来事などについて取り留めの無い会話を交わしていた。
夕刻に差し掛かった大学構内は騒がしく、行き交う学生の声が途切れることなく聞こえてくる。迷惑にならない程度であればポケモンを出したままにして良いという学則だから、その声には当然ポケモンのそれを混ざっていた。天井の蛍光灯にくっつくようにして飛んでいるガーメイル、テニスラケットを持った学生と並走していくマッスグマ。すれ違った女生徒の、ゆるくパーマをかけた柔らかい髪に包まれるようにして、頭に乗せられたコラッタが眠たげな目をしている。
空気を切り裂くような、窓の外から聞こえるピジョットの鋭い鳴き声は野生のものか、それとも練習中のバトルサークルによるものだろうか。絶えない音の中で、悠斗が脳裏にそんな考えを浮かべていると「まぁ、巡君のことはいいんだけど」隣を歩く芦田が話題を変えた。

「羽沢君も忙しいよねぇ。学内ライブって言ってもこうやって練習、結構入るし、あと学祭もあるじゃん? いいんだよ、無理してそんなに詰めなくても……」

身体壊したら大変だからさ。地下へと繋がる階段を降りながら、そう続けた芦田が何のことを言っているのか、それを悠斗が理解するまでには数秒かかったが、すぐに来月のオーディションのことだと見当がついた。
はっきりと口に出してはいないが、芦田が話しているのは来月に迫った、悠斗始めキドアイラクが受ける、ライブ出演を賭けた選考のことである。これからの開花が期待される新進アーティストを集めて毎年行われるそのライブからは、実際、それをきっかけにしてブームを巻き起こした者も数多く輩出されている。悠斗達は事務所から声をかけられて、その出演オーディションを受けることにしたのだ。ライブに出れれば、その後の成功こそ約束されてはいないものの、少なくとも今までよりずっと沢山の人に演奏を聴いてもらうことが出来る。
しかしそのオーディション前後に、悠斗達はサークルの方の予定が詰まっているのも事実だった。芦田が心配しているのはそのことだろうと思われたが、悠斗は「大丈夫ですって」と、いつも通りに明るい笑顔を作って言った。

「ちょっとぐらい無理しても。楽しいからやってることですし、やった分だけ本番にも慣れますしね」
「それはそうだけどさ。でもほら、本当やりすぎはダメだよ、なんだっけ……こういうの言うじゃん、『身体が資本』? だっけ、ね」
「そんな、平気ですよ。それに俺、今度の学内ライブで芦田さんと組めるの楽しみなんですよ? ピアノだけで歌ってのもなかなか無いですし、それも芦田さんの演奏で、なんて」
「やだなぁ、褒めても何も出ないから……いや、ま、ほどほどにね。あと一ヶ月無いのか、何日だっけ? 確かリーグの……」

そこで芦田は言葉を切った。それは「着いた着いた」ちょうど練習室に到着したからというのもあるだろうが、悠斗は恐らくあるであろう、もう一つの理由を感じ取っていた。
悠斗はポケモンを持っていないが、芦田はいつもポワルンを連れている。しかしその姿は今は見えず、代わりに、練習室へと入る芦田の肩にかかった鞄からモンスターボールが覗いているのが見て取れた。バインダーやテキストの間で赤と白の球体が動く。

「芦田さん」
「ん?」
「別に、そんな、気を遣っていただかなくてもいいですから」

苦笑しつつ、しかし目を伏せて言った悠斗に、芦田は「うんー」と曖昧な声で笑った。「そうでもないよ」にこにこと手を振って見せた芦田に申し訳無さを感じつつも、同時に彼が閉めたドアのおかげでポケモン達の声が聞こえなくなったことに確かな安堵を覚えた自分に、悠斗は内心、自分への嫌悪を抱かずにはいられないのだった。

「それはそれとしてさ、始めちゃおっか。あと何度も時間とれるわけじゃないし、下手したら今日入れて三回出来るかどうか」
「はい、そうですね」

練習室に鎮座するピアノの蓋を開け、何でもない風に芦田が言う。大学の地下に位置するこの部屋は音楽系サークルの練習場所であり、防音になっているため外の音は全くと言ってよいほど聞こえない。室内にあるのは芦田がファイルの中の楽譜を漁る、バサバサという音だけだった。
二週間ほど後に予定されている学内ライブは、サークル内で組まれているバンドをあえて解体し、別のメンバー同士でチームを作るという試みである。悠斗は芦田と組んでいるため、キドアイラクの方と並行して練習しているというわけだ。

「じゃあとりあえず一曲目から通して、ってことでいい? 今は俺も楽譜通りやるから気になったことがあったら後で、あ、キーは?」
「わかりました、二つ上げでよろしくお願いします」
「了解!」

言い終えるなり、芦田が鍵盤を叩き出す。悠斗も息を吸い、軽やかな旋律に声を乗せた。悠斗の最大の武器とも言える、キドアイラクの魅力の一つである伸びの良い高音が練習室に響く。
歌っている間は余計なことを考えなくて済む。悠斗は常日頃からそう思っており、歌う時間だけは何もかもから解放されているように感じていた。所々が汚れた扉を開ければ途端に耳へ飛び込んでくるだろう声達も、今は全く関係無い。自分の喉の奥から溢れる音を掻き消すものの無い感覚は、悠斗にとってかけがえの無いものだった。

しかし、である。

『ミタマ、ラグラージにエナジーボール』

今最も聞きたくない、そして聞こえるはずのない声が鼓膜を震わせた。

(何だ――?)

それは父親のものにしか思えなかったが、ここは大学の練習室だ。いるのは自分と、芦田だけである。その声がする可能性はゼロだろう。気のせいだろうか、嫌な気のせいだ、などと考えて悠斗は歌に集中すべく歌詞を追う。きっと空耳だろう、自覚は無くても少し疲れているのかもしれない。芦田の言う通り、無理はせずにちょっと休むべきだろうか。

『なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!』

が、そんな悠斗の考えを否定するように、またもや声が聞こえた。今度は父親のものではなかったが、含まれた単語から、先程した父親の声と同じような意味合いを持っていることが予想出来た。次いで耳の奥に響いたのは水流が押し寄せる轟音と、何かが地面を弾くような鋭い爆発音。いずれにせよ、この狭い、地下の練習室には起こり得るはずもない音である。
どうして、なんで、こんな音が。サビの、跳ねるような高音を必死に歌い上げながら悠斗は激しい眩暈を覚えた。悠斗の異変に芦田はまだ気づいていないようだったが、『羽沢さん?』彼の奏でるピアノに混じる声は止む様子が無い。『オダンゴも止まって!』ありえない声達はやたらと近くのものに聞こえ、それと反比例するようにして芦田のピアノの音が遠ざかっていくみたいだった。

『聞こえてますか!?』

「羽沢君!?」

おかしくなった聴覚に、悠斗はとうとう声を出せなくなった。あまりの気持ち悪さで足がよろめき、口を押さえて思わずしゃがみ込む。声が聞こえなくなったため、流石に気がついた芦田は悠斗の姿を見るなり慌ててピアノ椅子から立ち上がった。

「羽沢君、大丈夫!? どうしたの!?」
「いや、なんか……」

どう説明するべきかわからず、そもそも呂律が思うように回らない。自分の身体を支えてくれる、芦田の白いシャツがぼやけて見えた。
『救急車!?』『羽沢さん、答えられますか!?』聞こえる声のせいか、頭が激痛に襲われたようだった。簡素な天井と壁、芦田の顔が歪みだす。何だこれは、声にならない疑問が息となって口から漏れたその時、悠斗の視界が一層激しく眩んだ。


「泰さん!!」


ほんの一瞬の暗転から覚めた視界に映っていた光景は、まるで映画か何かを観ているような感覚を悠斗に引き起こさせた。
自分を覗き込んでいる知らない顔、若い男もいれば初老の男もいる、長い髪を結った綺麗な女の人も……。彼らの背景となっている天井がやたらと高いことに悠斗の意識が向くよりも先に、その顔達を押し退けるようにして一人の男が目に飛び込む。

「泰さん、大丈夫ですか!? どこか具合が悪いですか、それとも疲れたとか……いや、泰さんに限ってまさか、ともかく平気ですか!?」

ああ、この人の顔には見覚えがある。そう思った悠斗の上空から、ふわりふわりという緩慢な、しかし焦った様子も滲ませた動きでシャンデラが一匹、蒼い炎を揺らしながら降りてきたのだった。


  [No.3815] 王者の品格 第二話「驚天動地」 投稿者:GPS   投稿日:2015/09/01(Tue) 18:25:19   80clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「泰さん、気づきましたか!?」

なんだ、ここは。
自分を取り囲む見知らぬ顔達、体育の授業を彷彿させる四方の景色。ガクガクと肩を揺すりながら自分に向けて話しかけてくる者がいるが、その名は他ならぬ父親を指すものであるはずだ。
それに、瀟洒な照明器具によく似た姿のゴーストポケモン。美しくも不気味な蒼色の炎を宿したそれは、数いるポケモンの中でも最も苦手な部類だった。父の相棒であるからという理由だけで、ポケモンに罪は無いというのは百も承知なところであるのはわかっているが、見たくないものは見たくない。
しかしどうして、それが至近距離に。理解出来ないことの数々に、リノリウム張りの床に腰を下ろした悠斗は頭が痛くなった。

「あ、あなたは……」

ようやく発した声は震えていたが、今の悠斗はそれどころではない。何もかもがわけのわからない状況なのだ。
だがその中で、唯一見覚えのある面影を見つけた彼の心に、少しばかりの安堵が浮かぶ。

「ああ、目が覚めましたか、泰さん!」

声をかけた相手である、先ほどまで自分を揺さぶっていた男はホッとしたような表情になる。そう、彼は今までに何度か見たことがある。悠斗は記憶の糸を手繰り寄せ、確か、確か、と脳の奥から情報を引っ張り出した。この、丸っこい童顔と苦労性っぼさが印象的な人は家にもいらしたことがある、父親のマネージャーとかいう、この世で一番大変そうな仕事に就いている男は確か……。

「そうだ、確か…………森田さん?」

「さ、『さん』……!?」

悠斗の台詞に、男ばかりでなく、周囲で様子を伺っていた他の者達まで驚きを露わにした。人だけではない、困った風に浮遊しているシャンデラでさえ、ギョッとしたように炎を揺らす。

「ええと、俺は……すみません。あの、ここは……」

しかしそんな反応も、そして自分の口から出た声が低く濁ったものであることにも意識がいかない悠斗は、痛む頭を押さえながら断続的な言葉を紡いだ。それにまたもや、皆が驚愕の表情を形作る。
「す、すみません……!?」「あの羽沢さんが……あの羽沢さんが謝った……」「しかも、こんなにスマートに……」ざわめきの内容はよく聞こえなかったが、彼らの不安そうな様子はただでさえ不安な悠斗をさらに不安にさせた。本当に何が起きているのか、と問いかけようとしたが怖くて聞けない。「ねえ、これヤバいんじゃ……やっぱり救急車……」数歩後ずさっていた女性が震える声で言いかける。が、彼女を制して動く影があった。

「いえ、もう少し具合を見てみます。泰さん、ちょっと休みましょう、いや、今日はもう帰りましょうか」

「あの……それはありがたいのですが、俺は……」

「すみません! 羽沢が体調不良のようですので、本日はこれで失礼させていただきます! 所長!」

口を開いた悠斗にまたしてもどよめきかけた周囲の声を遮るように、森田はシャンデラをボールに戻しながら早口で叫ぶと、「立てますか」と悠斗に手を差し伸べた。「おー、了解」離れたところで別のバトルを見ていた064事務所の所長が呑気に返事をした時にはすでに、悠斗は森田に腕を引かれながら歩かされていた。

「どうしちゃったんですか、泰さん。さっきから変だし、なんか気持ち悪いこと言い出すし……あ、いえ、別に泰さんがキモいんじゃなくってその、様子のおかしいのがキモいと言いますか……」

コートを出て、駐車場に向かいながら森田はぶつぶつと文句を言い、そして一人で慌ててごまかした。そんな彼の台詞の半分も頭に入っていない悠斗は「違うんです」と、弱々しい声で言う。

「俺は、泰さんじゃなくて……いや、何なんですか! 俺はあいつじゃない、俺は羽沢、悠斗だ!」

「はぁ?」

くぐもる声を裏返して叫んだ悠斗に、森田は丸い目を細くした。「そっちこそ何なんです、泰さんが冗談なんて、明日はヒトツキでも降るんじゃないですか」呆れたようにしつつも愉快そうに笑い、森田は自分の車の鍵を開けながら悠斗の肩をポン、と叩く。「ま、送っていきますから。今日は帰って、ゆっくり休んでください」
しかし、そんな森田の労いの言葉など、悠斗の耳には入っていなかった。
車のガラスに映る、自分の姿。ジグザグマみたいな森田の隣に位置するそれは確かに自分のものであるはずなのに、それでも、悠斗のものではなかった。

眉間に深く刻まれた皺。鋭く細い瞳。動きやすいよう短く切り揃えられた黒の髪。人当たりが悪すぎる人相。鍛えられてはいるがところどころに青筋の浮かぶ身体。
下ろしたばかりの灰色のジャケットと、気に入っている細身のパンツは姿形も無く、代わりに纏っているのは運動に適した、半袖のTシャツとジャージである。間違いない、この姿はどうしようもなく、一番嫌いで一番憎くて、自分が何よりも遠くありたかった――

「あの」

「はい。どうしました? 泰さん」

許しがたいその呼び名も、もはや否定することは出来ない。自分が父の身体になって、父がいるべきバトル施設にいるということは、本来の自分の身体は今何をしているのだろうか? 新たに浮かんだ疑問に、悠斗の脳はコンマ数秒で最悪の答えを叩き出す。
助手席のドアを開けて待っていた森田の丸顔に、悠斗は体温が一気に降下していくのを感じながら叫んだ。

「携帯! 俺の、早く!」

「何言ってんですか、もー。家ですよ家、いくら頼んでも『そんなものは必要無い』とか言って泰さんは携帯を携帯してくれないんですから、今日も――」

「じゃあ! じゃあ森田さん貸して!」

明らかに狼狽を顔に浮かべた森田だが、あまりの気迫に押されたらしく、笑顔を引きつらせて携帯を悠斗に手渡した。「ありがとうございますッ」その言葉に森田が硬直したのが視界に入ったが構ってなどいられない。
心拍が跳ね上がり、ガクガクと震える指をどうにか動かして、悠斗は自分の電話番号をタップした。





「羽沢君!」

何が起こったんだ。
チカチカする視界が徐々に晴れていく中、泰生はぼんやりとそんなことを思った。
頭が痛い。低く響いているような鈍い衝撃が、脳の奥から断続的に与えられている。キーン、と耳鳴りがして、彼は思わず頭部に自分の片手を当てた。

「よかった、気がついて……羽沢君、少しの間だけど、気失ってたんだよ。やっぱり疲れてるんじゃないかな」

目の前にいる男がホッとしたように喋っている。眼鏡のレンズの向こうにある穏やかそうな瞳に見覚えは全く無い。そうそう珍しい外見というわけでは無いからその辺ですれ違うくらいはしたかもしれないが、少なくとも、こんな慣れたように話しかけてくる仲ではないはずだった。
では、こいつは誰なのか。倒れていたらしい自分を支えてくれていた、その見知らぬ人物の腕から立ち上がって泰生は口を開き掛ける。言うべきことは二つ、お前は誰か、と、先ほどまでしていたバトルはどうなったのか、だ。

「今日はもう帰って休んだ方がいいよ。とりあえず、さっき富山君たちには連絡いれたからさ。ゆっくりして、貧血とかかもしれないし」

が、泰生が言おうとしたことは声にはならなかった。
何だ、これは。泰生の目が丸くなる。起こした身体がやけに軽い、いや、軽いを通り越して動かすのに何の力を入れなくても良いくらいだ。また、耳の聞こえも変に良く、一人でぺらぺら話している男の声は至極クリアに聞こえてくる。
それにここはどこなのか、天井はかなり低く圧迫感があり、四方を囲う壁には無数の穴が開いていた。酷く狭苦しい室内にはあまり物が無く、古臭さを感じる汚れた絨毯は所々がほつれて物悲しい。座り込んだ自分の横で膝をついている男の後ろには、黒々としたピアノが一台。コートにはあるはずもないそれに目を奪われ、泰生は、視界に広がるその風景が不自然なほど鮮明に見えることまで意識がいかなかった。
視線をさまよわせ、固まっている泰生を不審に思ったのだろう。白いシャツの男が「ねぇ、羽沢君」と軽く肩を叩いてくる。

「大丈夫? 医務室とか行った方がいい? どこか痛むところとかあるかな、頭は打ってないはずだけど……」

「いや、俺は――」

そう言いかけて、泰生はまたもや驚愕に襲われた。口から出た声が、いつも自分が発しているものよりもずっと高く、そしてよく通ったのだ。口を開いたまま硬直してしまった泰生に、男はどうして良いかわからないといった様子で困ったように瞬きを繰り返す。「もう少しで富山君達来るから……」戸惑交じりの声が狭い部屋に反響した。

「悠斗!!」

その時ちょうど、簡素な扉が勢いよく開かれた。飛び込んできたのは長い前髪が片目を隠している若い男で、泰生は彼に見覚えがあった。詳しいことも名前もわからないが、家に何度か遊びに来ているのを見たことがある。確か、息子である悠斗の友人だったはずだ。
よく知っているというわけではなくとも、面識のある者の登場に泰生の心がいくらか落ち着く。彼に続いて扉の向こうから顔を覗かせた他の若者達には残らず憶えがないが、それでも心強さは認めざるを得ない。

「ああ、富山君! あのね、羽沢君なんだけどちょっと調子やばいっぽくて……」

「ありがとうございます芦田さん、悠斗、大丈夫か? 悠斗が倒れたって聞いて――」

「悠斗?」

白いシャツの男に短く礼を言った若者が自分に向けて手を伸ばしてくる。が、泰生は彼の言葉を遮るようにして問いかけた。「悠斗、って、なんだ」若者始め、自分を見つめる全員がピタリと動きを止めるのを無視して尋ねる。

「何故、俺を悠斗と呼ぶ? 俺は羽沢だが……悠斗じゃない」

「え、羽沢君……? ホントどうしちゃったの?」

「それに、誰だ、お前は?」

その質問に、今度こそ皆の表情が凍りついた。信じられない、そんな気持ちを如実に表した顔になった白シャツの男が、陸に打ち上げられたトサキントのように口をパクパクさせる。
そんな中、最初に動いたのは泰生の腕を掴みかけていた若者だった。すっ、と目の色を変えた彼はそのまま泰生を強く引っ張り、無理に立ち上がらせて歩き出した。

「すみません。こいつ具合悪いっぽいので今日は帰らせます。俺も送っていくので。では、お疲れ様です」

「え!? 富山、ちょっと……」

「おい、俺の話を聞――」

サークル員や泰生の声など全く構わず、一礼した彼は素早い動きで扉を閉めてしまう。バタバタと足音を響かせて部屋から出ていった二人を呆然と見送り、取り残された者達はぽかんと口を開けたまま固まった。「何なんでしょうアレ……樂さん、何があったんです?」「さぁ……」流れについていけなかった軽音楽サークルの面々はしばらくの間、そこに立ち尽くすことしか出来なかった。

「よくわからないのは富山だけだと思ってたけど、羽沢もなかなかエキセントリックだな」
「だな。悪いものでも食ったのかな」

中でも一層呆然状態なのがキドアイラクのベースとドラムである有原と二ノ宮で、彼らは泰生達の走り去った方向をぼんやり見つめて言葉を交わす。

「極度のポケモン嫌い以外は普通のヤツなんだけど」
「それな。ま、変なのはお前の髪型の方が上だけどな」
「うっせー。誰が出来損ないのバッフロンだ」
「言ってねぇよ」

「芦田ー、ここ使わないなら俺達借りちゃっていい? 今度の月曜と交換でさー」「え? ああ、いいよー、ごめんね。ありがと!」漂っていた困惑もにわかに霧散し、日常へと戻っていくサークル員たちを背にして、話題を強引に変えたかったらしい有原は二ノ宮の天然パーマを無意味に小突いたのだった。



「いい加減話を聞け! 質問に答えるんだ、お前は誰なんだ!? ついでにここはどこで、どうなってるのかも!」

富山という名前らしい、不躾な若者に腕を引かれながら泰生は何度目かになる疑問を叫び声にする。壁には所狭しとビラが貼られ、黒ずんだ床のあちこちにゴミが落ちているこの廊下がどこのものなのか全くわからない。ごちゃごちゃと散らかった印象が、こんがらがりそうな泰生の頭をさらにイライラさせた。
しかし気が立っているのは富山の方も同じだったらしい。階段を半ば駆け上がるようにして昇りつつ、前方を行く彼は「何言ってんの」と尖り気味の声で言う。

「そんな冗談、気持ち悪いんだけど。やめろよ悠斗」
「冗談だと? 真面目に聞け、冗談なんか言ってない! 俺は悠斗じゃない、羽沢泰生だ!」
「なんでよりによってそのモノマネなんだよ。普段あんななのに、どうして急にお前の父さんが出て来るんだ?」
「モノマネなんかじゃ――」

そこで、泰生の声が途切れた。
もはや富田のことなどどうでもよく、彼は全身の血が一気に冷え切るような心地を覚えて身体を固まらせる。腹に据えかねて叫んだ拍子に揺れた髪が目にかかり、鬱陶しいと苛立ちながら手で退けたのだが、そこで気付いたのだ。
短髪の自分には、目にかかる髪などあるわけないのだと。
それだけではない。泰生を待ち構えていたのはさらなる驚愕だった。階段を昇りきったところにあった窓ガラス、暗くなりかけた外と廊下を隔てるそれには富田と、そして恐らく自分と言うべきなのであろう姿がはっきりと映っている。

「…………な、」

「『な』?」

「何だ、これは!!」

窓ガラスにベッタリと張り付き、泰生はそこに映った自分に向かって叫び声を上げた。廊下を歩いていた学生達がギョッとしたように見てくるが、そんなものに構ってはいられない。鬼気迫る泰生の雰囲気に怯えたらしい、女子学生の連れていたポチエナが、ガルルルル、と唸り声をあげて威嚇した。それにもはや気づいてすらいない、ガラスを割らんばかりに押し付けた泰生の指がワナワナと震える。
整えられた眉。明るい茶色に染められた頭髪。少年らしい印象を与える二重まぶたの両眼は、自分の妻のそれにそっくりだ。取材の撮影以外では袖を通さないジャケットの間に揺れるのは、泰生は生まれてこの方つけたことなど無いであろう、ペンダントの類である。驚きを通り越してこちらを見ているのは、街頭や雑誌にごまんといそうな、ありふれた若い男だった。
間違いなかった。そこに映っているのは、すなわち今の自分の姿は、間違い無く自分の息子、悠斗のものだ。ロクに口を聞いてもいない、勘当してやるべきかと真面目に考えるほどの馬鹿息子が、自分の見た目となってそこにいた。足の裏から絶望と、混乱と、そして激しい憤怒が這い上がってくる。その足さえも今は自分のものではない、他ならぬ息子のものなのだ。

「何が……何が、どうなってるんだ」

力無い、高めの声が口から漏れる。隣で黙って立っていた富山が、泰生の様子に前髪の奥の目を少しだけ細めた。一瞬の逡巡をその瞳に浮かべた彼は、「とりあえず」と泰生の腕を軽く引く。

「ここじゃなくて、もっと人の少ないとこに……冗談じゃ無いのはわかったから、まずは」

「おい、何だこれは! どうなってるんだ、なんで俺がこんなことになった! 俺は、……俺は今、何してるんだ!?」

「そんなこと、俺に聞かれても困ります。まずはここから離れて、どこかに連絡を……」

苛立ったように富山が言ったその時、泰生の、正確には悠斗のジャケットのポケットから明るい音楽が鳴り響いた。「電話ですよ」何事かという風な顔をする泰生に富山が伝える。「出た方がいいと思いますが」

「何だ!」

あたふたと携帯を操作し、電話に出た泰生は怒りを隠しもせずに通話口へと叫ぶ。傲岸不遜なその声に、富山がチッ、と舌打ちした。

『おい! 俺だ、俺! 俺だろ!? 俺は今何やってるんだ、俺! どこにいる俺』

「誰だお前は! 切るぞ!!」

間髪置かずに電話の向こうから叫び返してきた珍妙極まりないセリフに、泰生も負けじと叫んで通話終了ボタンをタップする。その行動に目を剥いた富山が「かけ直せ!!」と激昂したのに、成り行きを見守っていた学生及びそのポケモン達はビクリ、と各々の身体を震わせたのだった。





キィィ、と音を立て、森田の運転する車カラオケ店の駐車場に停まる。平日の夜とはいえそこそこ繁盛しているらしく、駐車場は三分の二ほど埋まっていた。隣に停まった車の上で寝ていたらしい、ニャースが軽やかに飛び降りて暗がりへ消える。
自分の携帯にかけた電話は一度目こそ酷い態度で切られてしまったが、程なくしてかけ直されてきたものとは話がついた。電話口の向こうで話しているのは友人の富田で、落ち着いたその口調に、どうやら自分の身体は無事らしいことが伺えて悠斗はホッとした。が、同時に、「ややこしくなるから僕が話をしましょう」と代わってくれた森田に電話を渡すなり「おい、森田か!? 今どこにいる!」と偉そうな声が響いてきて、最悪の予想は現実となってしまったであろうことに絶望したのもまた事実である。
とにかく通話の相手と話をつけて、いや、正確に言うと話をつけたのは森田と富田だが、悠斗はタマ大近くのカラオケ店に来ていた。『カラオケ BIG ECOH VOICE』の文字列と、暑苦しい感じのバグオングのイラストが並ぶ看板をくぐって店内に入る。「連れが先に来てるはずでして、はい、富田という名前で入ってると思います」手早く受付を済ませてくれた森田の後について、「じゃあ行きましょうか、泰さ……じゃなかった。悠斗……くん?」未だに混乱したままの彼と共に店の奥へと向かう。

「なぁ、アレって羽沢泰生だよな!?」
「やっぱり! だよねー! え、マジびっくりなんだけど!? ツイッターツイッター……」
「バカ、そういうの多分ダメなやつだろ? プライベートだよ、プライベート」
「あ、そうか。でも意外ー、あの羽沢もカラオケなんか来るんだねー」

本人達はないしょばなしのつもりらしい、一応落とされた声が悠斗の背中から聞こえてくる。その会話に、やはりこの姿は自分だけの見間違いなどではないのかと悠斗の気は一段と重くなった。「いやー、なんというか、泰さんと一緒にカラオケとか変な感じだなー。あ、泰さんじゃない、のか……?」沈黙に耐えかねたらしく、一人で喋っている森田も調子が狂っているようだ。

「あ、ここです。202号室、ソーナンスのドア」

突き当たりにある部屋の扉を指差して森田が言う。ソーナンスの絵札がかかったそれを目の前にして、悠斗は一瞬だけ躊躇った。開けた先に待っているのは、きっと考え得る限りで一番の絶望だろう。背を向けて引き返したい気持ちがないかと問われれば、それは嘘になる。
しかしそうしたところで何も解決するわけではなく、悠斗は仕方無しにドアノブへと手を伸ばす。節くれ立った右手に一度深く呼吸をし、ええいままよ、と勢いよくノブを回した。


「…………俺、だ」

「……誰だ、……お前は」


そして足を踏み入れた、狭い個室。そこにいたのは――ある程度予想していたものではあるが、それでも実際目にすると受け入れがたい――そんな光景だった。

「おい、お前は誰だ!? それは……それは俺の身体だ! 返せ、今すぐにだ!」
「そっちこそ返せよ! どうせお前なんだろ? 今も、さっきの電話も。あんな偉そうな話し方する奴、お前しかいないからな」
「お前とは何だ! 偉そうなのはお前の方だ、まずは名を名乗れ! 自己紹介はトレーナーの常識のだろう!?」
「トレーナーなんかじゃねえよ。……わからないのかよ、本気か? 見りゃわかるだろ、俺とお前がこうなってて、お互いこの状況。考えられるのなんて、」

その先を悠斗が言うよりも先に、悠斗の見た目をした誰か、と言ってもこんな不遜な態度を取ってくる相手は悠斗が知る限りそう何人もしないが、とにかく悠斗の身体が息を呑んだ。「まさか」ようやく気づいたらしいそいつが唖然とするのを見て、自分は驚く時こんな顔をするのか、と悠斗は場違いな感情を抱く。
「と、いうことは」悠斗の身体が言った。「じゃあ、俺は…………俺と、お前は」血色を失いかけた唇を震わせて、悠斗の身体が呟く。「悠斗、……お前と俺は、入れ替わったのか?」

「…………そういうことになるな」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ!」

フシデでも噛み潰したような顔で答えた悠斗の声を遮って、ぶっ飛んだ会話に取り残されていた森田が慌てて口を開く。互いに叫び合う、中の悪さは先刻承知な親子を不審に思いつつも邪魔しない方が良いだろうと考え、「あ、初めまして、羽沢泰生のマネージャーの森田良介と申します」「どうも。悠斗の親友です、富山瑞樹です」「そうか、悠斗くんの!」などと、先に個室にいた青年と自己紹介などをしていたのだが、いよいよ会話が聞き捨てならなくなってきたのだ。

「待ってください、『入れ替わった』……!? 何を言ってるんですか、親子揃って。いつからそんなに仲良くなったんです? まあ、それは結構なことですけど……」

無理に作ったのであろう苦笑を浮かべ、そんなことをのたまう森田に、羽沢父子は揃ってお互いの顔に嫌悪を示した。「こんな馬鹿げたことを俺がすると思うか」「そうですよ、冗談にしてももっとマシな冗談を言います」二人が苦々しげに否定するも、あまりに非現実なその言い分に森田は呆れ混じりに溜息をつくだけである。泰生は勿論、悠斗のことも十年ほども前からの付き合いでよく知っているが、両者ともこんなことをする性格では決してない。「お二人ともなかなか似てるとは思いますが」適当な講評を述べながら、彼が頭を掻いた。「急にボケるのは心臓に悪いんでやめてくださいよ」
しかし、泰生(もっとも外見は悠斗だが)の横でやり取りを見ていた富田は、森田と違って神妙な顔つきになっていた。「何故こんなことになってるのかはまではわかりませんが」泰生と、悠斗を交互に見比べて富田が静かに言う。

「悠斗たちが言ってることは、冗談でも嘘でも勘違いでも無いでしょう。2人の言う通り、こっちが悠斗で、こっちが羽沢泰生。お互いに入れ替わってるんですよ」
「はっ…………え、あ……えええ!?」
「おい、悠斗。なんでこいつはこんなに飲み込みが早いんだ」
「富田は霊感というか、そういう類のモノを察する力があるらしいからな。だからわかったんだろ。霊とか呪いとか、前からよくそんな話聞いてるし」
「いや、今はそんなことはどうでもいいでしょう!!」

ぴ、ぴ、と羽沢親子を指し示した富田を見遣って話す二人の会話を遮り、森田はバン、とテーブルを叩いた。ビニールがかけられたままのマイクがカタカタと音を立てる。どうでもいい、と言われた富山が前髪の奥の眉をひそめたが、そんなことにまで気を回せ無い森田は丸顔に冷や汗を浮かべて叫ぶ。

「そんな馬鹿なことが……ねぇ、泰さん。そろそろ悪ふざけはやめてくださいよ、それに、こんなお茶目なことは僕の前だけじゃなくて事務所のみんなにも見せてあげてください。みんな泰さんのこと怖が……」
「うるさい!! 俺はこっちだと言ってるだろうが!!」

引きつり笑いで悠斗(見た目は泰生であるが)の肩などを軽く叩いた森田を、泰生が鋭く怒鳴りつけた。その声は悠斗のものであり、高いがとてもよく通る、音圧の高いそれに森田はびくりと震えて動きを止める。泰生の低い声にもなんとも言えない畏怖があるが、日々歌うことに熱を注いでいるだけあって、悠斗の声には恐ろしいまでの迫力があった。
アーボックに睨まれたニョロモ状態の森田を呆れたように一瞥し、富田が「じゃあ、確かめてみましょうよ」と提案する。「悠斗じゃなければわからないような質問に、こっち……悠斗のお父さんに見えるこっちが答えられて、その逆も出来たら。本当に入れ替わってるってことになるでしょう」

「あ、なるほど……それは名案ですね」
「よし、富田、何か質問してみろ。なんだって答えてやる」
「じゃあ……悠斗の好きなバンド、『UNISON CIRCLE GARDEN』の結成日」
「2004年7月。ただ、今の名前になったのは9月25日」
「今年5月にリリースされたシングルはオリコン何位までいった?」
「週間5位。で、それはCD。ダウンロードは首位記録だ」
「ドラムの血液型」
「Aだ!」
「…………全問正解。覚悟はしてたけど、最悪」
「すごい……確かに泰さんじゃこんなことわかるはずないですね」

自信満々に答えきった悠斗に、微妙な表情の富田が溜息をつく。そんな彼らを他所に感心する森田を見て、黙って話を聞くしかなかった泰生が「おい、森田!」と不機嫌な声をあげた。こんなことわかるはずないと言われたのが嫌だったのか、自分の知らないことを自分がぺらぺらと答えているのが気に食わなかったのかはわからないが、彼は怒った表情のままで言う。「俺にも何か聞いてみろ、こいつの知らないようなことを」
どうせポケモンのことなどわかるまい、そう言い捨てた泰生に、悠斗は明らかにムッとした顔をしたが黙っておくことにする。「わかりましたよ……では、」森田が少し考えてから口を開いた。

「泰さんの顔が怖いという理由で、獣医の里見が泰さんにつけたあだ名は?」
「わるいカメックス」
「泰さんが怒ってる様子がこれに似てると、酔った重井がうっかり口を滑らせたのは何?」
「……げきりんバンギラス」
「泰さんを勝手に敵視してる『週間わるだくみ』の先々月号で、泰さんをこき下ろした記事の見出しに書かれてた悪口は?」
「…………『特性:いかくで相手ポケモンのこうげきをダウン、手持ち以外での戦闘は反則ではないのか!?』」
「泰さんの……」
「馬鹿野郎!! なんでそんなくだらんことばかり聞くんだ、もっとあるだろ、バトルの戦法とかトレーニングのコツとかスパトレの問題点とか俺がよくわかること!!」

耐えきれずに激昂した泰生から耳を塞ぎつつ、「だって泰さんといえばこういう感じですから」などと森田は言葉を濁す。その横で、そんな酷い言われようをされている見た目を今の自分はしているのか、と悠斗が絶望に暮れていたが誰も気づかなかった。

「………………なるほど。確かに、これは泰さんですね。じゃあ、お二人はお二人の言う通り本当に……」

森田はそこでようやく、泰生と悠斗の精神がお互いに入れ替わってしまったらしいこと自体には、なんとか納得したらしい。しかし当然それだけで終わるはずもなく、「いや、でもやっぱり待ってくださいよ!?」と何度目かの叫び声をあげる。

「人の……なんだ、ええと……心? それが入れ替わる? そんな、ドラマや漫画みたいなことが本当に起こるわけ、」
「起こるんですよ。勿論、真っ当な方法というわけじゃありませんが」

そもそも、こんなことに真っ当なやり方自体無いんですけどね。泰生と悠斗から森田へと視線をスライドさせ、すっと口を挟んだ富田は続ける。

「端的に言うならば呪術の類です。誰かが悠斗達のことを呪ったんですよ、二人からそんな気配がかなりしてますから。どういう呪いかは僕じゃわかりませんけど」
「何だ富田。『そんな気配』って?」
「呪われてるなー、とか、祟られてるなー、とか。あとは憑いてるなぁ、みたいな気配のこと。でもおかしいな、悠斗は前からずっと、一度もこんな気配しなかったのに」
「そうなのか?」
「そうだよ。多分体質というか、生まれ持った何かで、そういうのが通用しないんだ。……だから、全く通じないタイプだと思ってたんだけど。一体どうやって」

富田の話に必死について行きつつも、森田は「泰さんにも通用しなそうだな」ということをぼんやり考えた。

「いや、それは今置いておきましょう! 呪われた……って、誰に! 何の目的で! それで……どうやって!!」

頭を抱えて叫ぶ森田に富田が、結局聞くんじゃないか、と言いたげな目をして口を開く。

「悠斗の体質をどう破ったのかまではすぐにわかりませんが、呪術自体はそれほど難しい話でもありません。もっとも普通に違法まっしぐらですし、自分も何かしら犠牲にしないといけないから、表立っては言われてませんけど」
「え、そうなの……?」
「図鑑に書いてあるでしょう? ゴーストタイプやあくタイプ、エスパータイプは特に多いですけど、本当にこんなことするのかって思うような、恐い能力。ゲンガーとかバケッチャとか……」
「ああ、あの……命を奪うとかのヤツですか?」
「はい。実際のところ、アレは『こういうことが出来るのもいる』というだけで、その種族全てのポケモンがああするわけではないですけどね。そうだったら堪ったものじゃない……けど、『それを可能にする』ということは出来るんです。ポケモン自身だけでは引き出せない潜在能力を、外から引っ張りだすようなものでしょうか」

ポケモンを使った呪術と言えばわかりやすいでしょうかね、という富田の説明に、三人のうち誰かが生唾を飲む音がした。「心を交換するような力を持ったポケモンがいるかどうかは今すぐ思い出せませんから、後ほど専門家にかかりましょう」淡々とした声に一抹の焦りを滲ませて、富田は言う。

「ポケモンが自分で勝手に力を使うのとは話が違いますから、ある程度その力の矛先を操作することも可能です。どう使うのか、誰に向けるのか……昔から使われてきた術ですね」
「使われてきた、って……じゃあ、それは誰にでも出来るってことなんですか!? 泰さんのシャンデラも図鑑上ではなかなか怖いポケモンですけど、あのシャンデラの力を操って、誰かを呪い殺すみたいなことも!?」
「不可能とは言いません。ただ、素質や技量が必要ですから『誰にでも』というわけではありませんよ。サイキッカーやきとうしなどは、ある程度、そういう能力を持った人が就けるトレーナー職です。元の力は弱くても修行でどうにかなる人もいるにはいますが、生まれつきのものもありますから……」

そこで富田は言葉を切ったが、森田は彼が何を言わんとしたかを大体察する。富田の視線の先にいる泰生や悠斗はわかっていないようだったが、シャンデラのトレーナーである彼、もっと言うなら彼ら親子にそんな力が備わっているようには見えなかった。物理重視のノーマル・かくとう複合タイプのイメージを地でいくような男なのだ、いくら修行しようとしたところで、呪術の『じ』の字も使えないだろう。
生産性の無い思考は隅に頭の追いやって、森田は「それはわかりましたが」と話題を変える。

「最悪の奇跡っていうわけじゃなくて、下手人がいるってことは、まあ、理解しました。でも誰が? こんなことをしたのは一体誰なんですか?」

誰に向けたともつかない森田の問いに、泰生以下三人は黙り込む。各々の脳内で各々の交流する者達の顔が次々に浮かんでは消えたが、人の精神を入れ替える呪術などという芸当が使えそうな存在に心当たりは無かった。

「直接やったわけじゃなくても、専門家に依頼して呪いをかけさせたという可能性もなくはありません」
「どうせお前がどっかで恨みでも買ってきたんだろ。バトルもそうやって偉そうな態度でやってんなら、嫌われて当然だぜ」
「おい、なんだ悠斗その口の利き方は――」
「泰さん、今は喧嘩してる場合じゃないですよ。それに悠斗くんも。大体、泰さんくらいの活動してたら恨みの一つや二つ、十個や百個、無い方がおかしいですって」
「それは多すぎでしょう……まあ、確かに。俺だって全く、世界の誰からも恨まれてないかって言われたらそれは違うしな」

諦めたように頷きながら悠斗は言う。プロを目指して音楽をやっている以上、ライバルの存在は当然のものだ。そのバンド達が、悠斗らを疎んでこんなことを仕掛けてくる可能性もゼロではないだろう。
「でも、そんなこと言ってたら埒があきませんね」森田が『お手上げ』のポーズを取る。「泰さんや悠斗くんを恨んでそうな人を全員調べていくなんて、ヒウンシティで特定のバチュル探すようなものですよ」

「それは、後で専門の人に頼みます。知り合いにその筋がいるので、調査は任せた方がいいでしょう。それよりも」

森田の言葉に割り込むようにして、富田が声を発した。

「今考えなきゃいけないのは、悠斗と、羽沢さん。元に戻れるまではお互いがお互いのフリをして、お互いの生活をこなさないといけないってことです」

富田の指摘に、羽沢親子と森田の表情が固まる。あまりの衝撃から意識を向けられないでいたが、確かに一番重要なことだった。しかし泰生と悠斗は、職業トレーナーと学生という肩書きの違いから始まって、何もかもが正反対の日々を送っていたのだ。それを入れ替えて過ごすなど、不可能といっても過言ではない。
「で、でも」黙りこくってしまった親子の代わりに森田が焦った声で反論する。「こんな一大事なんですから、警察とかに言うとかするべきなんじゃないですか。そんな、隠すようなことしなくても……」彼の言葉に、しかし富田は苦々しく首を横に振った。

「勿論、そうするのがベストです。でも、信じてもらえるかわかりませんし……それに、タイミングが」
「タイミング?」
「今、そんなことが明るみに出たら俺たちの……ライブ出演をかけたオーディションが来月あるんですけど、当然、それは無理になってしまいます。羽沢さんも同じですよ。リーグの申し込みはもう終わってるんでしょう? 出場資格の無い悠斗が中にいるだなんてことになったら、あるいは悠斗の見た目をしていたとしたら、リーグに出られませんよ」

畜生、と泰生が歯噛みする。自分の外見をしたその様子を見遣り、悠斗は内心で悪態をついた。
富田の言う通り、きっと自分達にとれる手段はそれしか無いのだろうという、漠然とした、かつ絶望的な確信が悠斗にはあった。きっと、犯人の狙いはそこなのだ。殺してしまったりすると大事になって足がつくだろうから、この、悠斗達自身が隠してしまえば逃げ切れるであろう類の攻撃を仕掛けてきたのだ。それでいて被害はかなり大きく、同時に隠さざるを得ない時期である。非常に狡猾、かつ悪質な罠であった。
「やるしか無いだろ」低い声で呻いた悠斗に視線が集まる。「俺と、こいつとで。互いの生活ってのを」

「何も出来なくて共倒れなんて、こんなことしたヤツの思う壺にはなりなくねぇよ。少なくとも、俺達にある大きな予定まではあと一ヶ月弱あるんだ。それまでには戻れるだろうし、もし戻れなかった時に備える意味でも、それぞれにならないといけないだろ」
「だが、悠斗。お前わかっているのか? 俺はポケモントレーナーだ。ポケモンと力を合わせ、共に進む人間なんだ。ポケモンが嫌いだとか、そんなことを言ってるお前に務まるわけないだろう、甘えたことを抜かすな!」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよ!!」

叫んだ悠斗に、泰生は思わず言葉を失った。凄んでみせる顔は自分のものではあったが、言いようのない迫力に満ちており、彼は不本意にも日頃自分に向けられる不名誉なあだ名の数々に同意せざるを得なかった。

「それは俺だってわかってる。……けど、他にどうしようもないんだから、やるしかないんだ。俺がお前みたいに、ポケモンと協力してバトルをする。お前は俺みたいに、ポケモンと極力関わらない生活をする。そうするしか、ないだろ……」
「…………お前に、出来るのか。俺の生活が」
「何度も言わせるな。やるしかないんだよ。お前こそ、俺の顔で、俺の顔に泥塗るようなマネするんじゃねぇぞ」

どうにか話はまとまったらしいものの、未だ睨み合ったままの親子を眺め、森田は重く嘆息した。この、ザングースとハブネークもかくやというほどの仲の悪さである彼らが久方ぶりに交わしたであろうまともな会話がこんなものになるだなんて、一体誰に予想がついただろうか。
疲れきった顔の森田の横で、富田が思案するような表情を浮かべる。

「じゃあ、さしあたって、悠斗には森田さん、羽沢さんには僕がついてサポートするということでいいんじゃないですか? 森田さんは羽沢さんのマネージャーですから一緒にいて不自然ではありませんし、僕も悠斗と授業、サークル同じですから」
「どうするよ。このこと、二ノ宮とか有原に言った方がいいかな」

尋ねた悠斗を富田は手で制した。「余計な混乱招くのもよくないし、今のところは黙っておこう」その言葉に森田も頷いた。「ですね。とりあえずは、僕たちだけに留めておきましょうか」

「問題はポケモン……泰さんのポケモン達にどうわかってもらうか、ですね。他の人達はごまかせても、こっちは……」

言い淀みながら、森田が悠斗のベルトにセットされたモンスターボールの一つを取ってボタンを押す。中から現れたのは先ほどバトルを中断されたシャンデラで、カラオケボックスなどという、生まれて初めて(ゴーストポケモンである彼に『生まれた』という表現をするのが果たして適切か否かということは今は考えないことにする)訪れる場所を物珍しそうに見回していた彼は、その視線が一点に定まるなり浮遊する身体をびくりと震わせた。

「なっ……どうしたミタマ! 確かに今はこの見た目だが、俺だ! お前のトレーナーの泰生だぞ!?」

その視線の先、じっとりとした目を向けられた泰生が物凄く狼狽えた声をあげる。しかしシャンデラからしてみれば今の彼は悠斗――日頃『泰生のポケモン』という理由だけで自分を目の敵にしてくる嫌な奴――なのだ。つつ、と距離を置くような動きで天井に逃げていったシャンデラに、泰さんはこの世の終わりかのような顔をする。
「ミタマ、あのですね、今の泰さんは悠斗くんで、悠斗くんが泰さんなんですよ」ダメ元で森田が説明してみるが伝わるはずもない。しかしトレーナーである泰生(中身は悠斗だが)が苦い顔をして自分を見てくることなど、なにやら様子がおかしいことは察したらしく、シャンデラは困った風に皆を見下ろして炎を揺らした。

「なかなか理解はしてもらえないでしょうね……お二人には、大変ですが、ポケモン達の調子を狂わせないように振舞っていただかないと……」

「失礼しまーす、お飲物お持ちいたしましたぁー」

と、間延びした声でドアを開け、アルバイトと思しき若い女が個室に入ってきた。慌てて口を噤んだ悠斗達に、「ちょっとお客さんー、当店はポケモンご遠慮いただいてるんでー」と言いつつ、雑な手つきでテーブルに飲み物を並べていく。そそくさとシャンデラをボールに戻す森田の脇を通り、ごゆっくりどうぞー、という言葉を残して彼女は素早く出ていった。
ガチャ、とドアが閉まる音がするのを確認して、誰からともなく溜息をつく。今から待ち受けているであろう数々の苦難がどっしりと背に重く、四人はそれぞれ受付時に頼んだ飲み物に手を伸ばした。
日頃好んで飲んでいるブラックコーヒーに口をつけた悠斗は、コップを傾けるなり激しく咳き込む。口内を駆け巡った苦味、いつもならばこれほどまでに強く感じないはずのそれに目を白黒させていると、「ああ、悠斗くん、これをどうぞ」ウーロン茶を飲んでいた森田が鞄から取り出した何かを差し出してきた。どうやら自前で持ち歩いているミルクとスティックシュガーらしいそれを、「泰さんは甘党ですから。ミルクを3つと、砂糖2本。いつもそうです、おくびょ……じゃなかった、ともかく、辛いのも駄目なんで」と言いながら悠斗へと手渡す。
「身体に染み付いた感覚はそのままなんでしょうね」父とは真逆で、甘いものが苦手な辛党の悠斗の身体でココアを飲み、同じく咳き込んでいる泰生を横目に富田が言った。彼の持ったコップの中で、コーラの炭酸の泡が弾けては消えていく。「好みとは別で」そう呟いた森田の、前髪越しの視線が、テーブルの上のモンスターボールに向けられたことには誰も触れなかった。

「しかし、エライことになってしまいましたね」

力の無い、森田の言葉がカラオケボックスへ溶けていく。テレビから流れてくる、場違いに明るいアーティスト映像に掻き消されそうなそれに答える者がいなかったのは、不本意な賛同からくる沈黙であったのは言うまでもない。
「俺達……どうなっちゃうんだろうな」不安気にそう漏らした悠斗の肩を、富田がグッと掴む。

「安心しろ。悠斗が困ったら俺がどうにかするし、羽沢さんのことも俺が見てるから。悠斗は心配しなくていい」
「瑞樹…………」
「そうです。僕も泰さんのため、精一杯サポートしますから!」

熱い友情の言葉を交わす二人に便乗し、森田も「ねっ、泰さん」と笑いかけた。が、それは泰生の見た目をした悠斗であったようである。「馬鹿森田。そっちは俺じゃない」悠斗の姿である泰生の冷たい声を横から飛ばされた森田は、「すみませんでした」と小声で言いながら、三者の突き刺さるような視線に身体を縮こまらせたのであった。


  [No.3824] 王者の品格 第三話「前途多難」 投稿者:GPS   投稿日:2015/09/06(Sun) 21:32:58   39clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「今日のスケジュールは……とりあえず午前いっぱいは事務所内でシングルバトルのトレーニング。午後から自主トレですが、これは外のコートに行く予定です。で、十七時から事務所のミーティング……わかりましたか?」
「あ、ええ。なんとか」

どこかぎこちない動きで064事務所の廊下を歩きつつ、悠斗は森田の説明に頷いた。
悪夢のような、いや悪夢の方がまだマシであろう出来事に見舞われた翌日。もしやするとアレは何かの間違いだったのではないか、と淡い期待を抱いていた悠斗だが、顔を洗いにいった際に鏡に映った父親の姿、および起床した自分に気がついた母親の反応でその思いは粉々に打ち砕かれた。
羽沢家の一人息子である悠斗は、泰生が家をほとんど顧みないこともあって、母である真琴と割合仲の良い母子であったのだが、今朝の彼女が悠斗に向けた反応の冷たさといったらない。いつもであれば「おはよう」の言葉に続きいて二言三言の会話くらいは交わすのだが、朝に悠斗に投げかけられたのは「ああ、早いのね」という冷たい声と「朝食はそこにあるから」とのすげない台詞だった。その、いつも自分が接している相手と同一人物とは思い難い素っ気なさに悠斗は心が折れそうだったが、今の自分は真琴にとって『最愛の息子』ではなく『冷戦状態の夫』であることをどうにか思い出してその場を凌いだのである。人のことは言えないものの、両親の夫婦関係のあまりの悪さに頭が痛くなったのもまた事実だが、今はそれどころではないため考えないことにした。

「でも、良かったですよ。この前みたいに取材あったり、マルチの練習だったらたくさんの人と話すから危うかったですけど……シングルと個人トレーニングならなんとかなるでしょう」

刺々しいオーラを放つ真琴と一緒にいるのが気まずくて、悠斗は泰生、自分の身体を使っている父親が起きてくるよりも前に家を出てしまった。この一大事は母親にも伝えるべきだと彼は思ったのだが、それを止めたのは今汗を拭いながら話している森田と、今頃大学で泰生といるはずの友人、富田である。親子それぞれと付き合いの深い彼らは、羽沢家がどうにもギクシャクしているのも知っているから、話が余計にこじれるのを避けたかったのだろう。
ともかく、今は泰生として振舞わなくてはならない。悠斗は気持ちを切り替えて前方を見据える。これは自分のためでもあるのだ、しっかり『羽沢悠斗』を泰生にやってもらうには、自分も自分の役目を全うしなくてはいけないのである。

「でも不安ですよ。バトルで戦う相手の人に気づかれませんかね」
「ああ、それは大丈夫! 戦うのは相生……昨日泰さんと悠斗くんが入れ替わった時、マルチのトレーニングで組んでた奴ですが、自分のことでいっぱいいっぱいになるタイプなんでそうそう気づきませんよ。実力はあるんですけどメンタルが弱くて、あと泰さんを個人的に怖がってますんで」
「はぁ……」
「むしろ心配なのが相生のマネージャーやってる加藤さんですよ。ベテランだし肝も座ってるから、今の状態では『羽沢の様子がおかしい』ことを察しかねません」
「え、じゃあどうするんですか! ヤバくないですか」

強面を引きつらせて焦る悠斗に、森田は「ご心配なく」と指を振った。

「ですから、あまりいて欲しくないなと思いまして。先程、彼奴のコーヒーにねむけざましを三つほどぶち込んでおきました。きっと今頃……」
「あ! あ、あの、羽沢さん……と森田さん! おはようございます!!」

森田が最後まで言い終わらないうちに、廊下の角から出てきた青年が、裏返り気味の声で頭を下げた。「ああ、相生くんおはよう! 今日はよろしく」森田の言葉に、悠斗も泰生らしさを意識しつつぶっきらぼうに会釈する。
相生と呼ばれた、件の対戦相手は悠斗とそう歳の変わらない、爽やかな好青年だった。清潔感のある風貌と整った目鼻立に悠斗は素直に羨望の混じる憧れを覚えたものの、しかし悠斗(つまり相生からしてみたら泰生である)に対し明らかに怯えきっているその様子で、せっかくのイケメンも形無しであると思わざるを得なかった。そうしょく系だとかフェアリー系男子だとかの需要はあるにしても、これではもはや、それすら通り越して単なる情けない奴である。泰生のことを考えると気持ちはわかるとはいえ、流石に肉親をここまで恐れられては悠斗も複雑な心境であった。
そんな悠斗の気持ちなどわかるはずもなく、相生は怯えたままの口調で続ける。

「あの、申し訳ないんですけど……加藤さん、なんか急に動悸が止まらないとかで医務室行っちゃって、今からのトレーニング来れないみたいなんです……」

……ねむり状態のポケモンを即時覚醒させる『ねむけざまし』。そんなものを三つも四つも、しかも人間が摂取したら血圧上昇もするだろう。
人畜無害そうなツラをしておいて恐ろしい男である。「ええ! 大丈夫かな、加藤さん。あとで僕も様子見にいってみますね」何食わぬ顔で、相生を心配するようなことをのたまっている森田を横目で見て、悠斗は内心で戦慄した。





「ここが大学か……」

一方、タマムシ大学構内。昨夜「ジャージで大学行くな、これとこれとこれを着てこれ被ってけ」と悠斗にコーディネートされた今時風の服に身を包み、今や男子大学生である泰生は大きな学舎を見上げて呟いた。
あの信じがたい出来事から夜が明け、洗面所で現実を再認識した後、泰生が一番に驚いたのは妻の態度である。妻の真琴が一人息子の悠斗を可愛がっていたのは承知の上だし、その悠斗の姿を今の泰生はしているのだから当然と言えば当然だが、いつも真琴が泰生に向けるぜったいれいどのそれとは大違いだったのだ。「おはよう、悠斗」という言葉と共に浮かべられた柔らかな笑顔など、一体いつから泰生の知らぬものとなっていただろうか。どうやら先に家を出てしまったらしい悠斗のいないテーブルで、朝食を一緒に食べながら和やかに会話を交わしていると(もっとも泰生のぎこちなさは否めないが)、在りし日、彼女と恋人であった時のことを思い出さずにはいられなかった。

「侵略しにきた異世界人みたいなこと言ってないで、早く歩いてください。なにぼんやりしてるんですか」

そんな、うっかり感傷に浸っていた泰生に冷たい声が投げかけられる。その主は悠斗の友人、富田であり、この衝撃的事実を共有する数少ない一人として泰生のサポートについているのだ。長い前髪で隠れた目元や淡々とした喋り口は、泰生とはまた違う意味で無表情、無感動な印象を与えるが、しかし今の彼からは明確な苛立ちと不躾さが読み取れる。険悪な両目と視線がぶつかった泰生は自分のことを棚に上げ、「なんだ」と不機嫌な声で返した。

「初めて見るんだから仕方ないだろう。何故、そんな失礼な口を聞くんだ」
「失礼にもなりますよ。いいですか、羽沢さん、あなたには悠斗のフリをしてもらうんです。悠斗は大学見上げて『ここが大学か』なんて言いませんし、そんな凶悪犯みたいな表情もしませんからね。悠斗のイメージが損なわれるようなことがあったら困りますし、もしそうなったら」

富田はそこで言葉を切る。泰生――見た目は悠斗だが――よりもやや上にある二つの瞳が、得も言われぬ光を放って泰生を見下ろした。その眼力に思わずひるみ状態に陥った泰生は、ふん、と面白くなさそうな顔をしてそっぽを向く。
泰生が黙ってしまったのを見やり、富田は「まあ、俺もですね」と相変わらずの冷たさを保ちつつ口を開く。

「出来る限りの協力はしますよ。悠斗が困るようなことにはならないよう……元に戻れたときに、悠斗が苦しむ羽目になんてならないために。そのためには何だってするつもりでいますから」
「はっ……その心意気だけは褒めてやるよ。森田にも見習ってほしいな」
「悠斗は俺の親友ですからね。あ、その笑い方はやめてください。悠斗は男女先輩後輩教授事務員その他誰とでも仲良くなれる、明るい人気者として通ってるんですから」

早速指摘を入れてきた富田に、泰生はげんなりした顔をする。が、これも自分のリーグ出場のため、『羽沢泰生』を悠斗にしっかりやってもらうためだと言い聞かせ、表情筋をリラックスさせるという慣れないことをどうにかやってのけた。
と、そんな二人の横を数人の学生達が通っていく。取り留めのない会話をしながら走っていく彼らと共に、彼らのポケモンだろう、ガーディやニャルマーも楽しそうに駆け抜けた。その微笑ましいポケモン達の様子に泰生はつい心と口許が緩んだが、「でも大のポケモン嫌いとしても通ってるんですよ」とすかさず横槍が入ったのは言うまでもない。





「では、羽沢泰生と相生翼の対戦を始めます!」

064事務所のトレーナー達が集まってそれぞれバトルを繰り広げるコートで、ジャッジ役の森田が号令をかけた。何本かの白線を挟んだ向かい側にいる、緊張のせいで顔が面白いくらいに白くなってしまった相生を見据え、悠斗は心の中で重い溜息をついた。ポケモンバトルなんて、中学の授業の一環でちょろっとやったきり一度たりともしていない。どうにも情けないとはいえ相手はプロのトレーナーなのだ、いくら泰生のポケモンだからといって、まともに戦えるのだろうか。そんな不安が悠斗の胸を渦巻く。
しかし一番大変なのは自分ではなくポケモン達なのだ。せめて何が起きているかだけはわかっている自分がしっかりしなくてどうする――そんな風に言い聞かせ、気を引き締めた悠斗はキッと前方を睨んだ。

「では……両者、始め!」

掛け声と同時にボールへと手をかける。そのまま天井へ向けて大きく振り投げる、真向かいの相生が血の気の無い顔をしつつもスマートに投球したのは流石というべきか。対峙するトレーナー二人の間に、紅白の球体から放たれた閃光が舞う。

「えー……いけ、ヒノキ」

悠斗が投げたボールから飛翔し、堂々たる登場をかましたのは真紅の両翼が自慢のボーマンダだった。ヒノキと名付けられたこのメスの龍は、タツベイだった頃から泰生が手塩にかけて育てた懐刀である。勇ましい咆哮をコートに響かせ、天井付近を舞う彼女はまさしく、今から始まるバトルに血湧き肉躍るといった感じだ。
とはいえ。悠斗は内心冷や汗を流す。昨夜、今朝とボーマンダとコミュニケーションを図ったのだが、やはりイマイチ困惑しているという様子だったのだ。シャンデラと同じで、一応見た目で判断しているものの『何かおかしい』というのはわかっているようで、悠斗が呼んでも、泰生が声をかけても、そのどちらにも戸惑っているらしかった。
こんな状態で乗り切れるのだろうか。悠斗はまたしても不安に陥ったが、悠然と飛ぶボーマンダの姿にその気持ちを振り払う。とれる方法は他に無いのだ、やってやれ、ええいままよ。と、割合思い切りの良い彼は拳を固める。

「よろしく頼むよ、クラリス!」

一方、対する相生が繰り出したのは、昨日のマルチバトルでも戦っていたニンフィアだ。上空から睨みつけるボーマンダの眼光に、可憐な容姿の彼は一瞬気圧されたかのようだったが、すぐに姿勢を正して真っ向から見返した。
ふふん、運が悪かったようだね、相生くん。ハッキリ分かれたタイプ相性に若干安心したのか、僅かに表情を弛緩させた相生に森田は密かな笑みを浮かべる。確かにボーマンダとニンフィアは最悪とはいかずとも相性が悪い、タイプから考えればこの勝負、相生が一歩リードしているように思えるだろう。
――でも、そうはさせないのが泰さんなんだよね!
心の中で大きく胸を張りつつ、森田はそう思う。ドラゴンタイプを使っていればフェアリーで攻められるのは当たり前、対策を練っておくのは基本中の基本。先制して火力で押し切るのも不可能ではないが、抜かれることも少なからずあるため今ひとつ不安が残る。ハンパなフェアリーであればそらをとぶやじしんでどうにかなるにしても、その慢心を許さないのが羽沢泰生である。だからこそ仕込まれたあの技、最悪こおりにも撃てるウェポンなのだ。

(さあ、悠斗くん! アイアンテールでやってしまえ!)

先ほど、悠斗には泰生のポケモン三匹が使う技をしっかり教えてある。複雑な戦法などはまだわからないにしても、とりあえずタイプ相性で考えてこの技しかないだろう。どのみちヒノキのメインウェポンであるドラゴン技は使えないのだ、残る選択肢はこれしかない。

「よし、ヒノキ――」

早速指示を飛ばす悠斗に、飛翔するボーマンダが闘志にみなぎるように身体を震わせた。その後に続く技の名前をボーマンダも、森田も、そして一瞬遅れた相生たちも待ち構え、


「げきりんだ!!」


「ハアアァァァァァァ!?」

そして、一様に耳を疑った。





「あー、悠斗くんおはよー!」
「うーっす、羽沢!」
「おはようザワユー!」

富田に連れられて教室へと辿り着いた泰生は、次々に声をかけてくる学生達に辟易していた。何故若者というのはこんなに騒がしいのか、それも相生など事務所にいるようなトレーナーよりずっとうるさい。この、大学生という種族は、どうしてこれ程までにさわぐのかと、泰生は甚だ疑問だった。
「よー、ゆうくん。元気ー?」そんな泰生に声をかけてきたのは一人の男子学生である。ワックスで固められたヘアセットの逆毛だった様子に、泰生はサンドパンのことを考えた。サンドパンは、あの棘もさることながら真っ黒の吊り目がまたいいものだ。懐くと棘を寝かせてそっと擦り寄ってくるのも可愛らしくてよい。

「ん」

しかしこの男にそうされても何一つ嬉しくないだろう。そう思いながら、泰生は短い撥音――『ん』は肯定の意――をして「問題無い」と短く言った。

「やだ羽沢、何それ! 超笑えるんだけど」

ふてぶてしいというよりは、本物の悠斗との乖離のせいでどうにも演技がかったように感じられるその言葉に、近くにいた女子生徒が大きな笑い声をあげた。声をかけた男も、悠斗らしからぬその様子に「何だよキャラチェンかぁ?」と笑いながらバシバシと泰生の肩を叩く。その隣では終始無言の富田が苛ついたように舌打ちをしたが、そのどれも気に留めず泰生は憮然とするだけだった。不機嫌なその表情は元の身体だったらさぞかし敬遠されたであろう迫力だが、その理由は単純なもので、授業開始が近づくにつれて学生達がポケモンをしまったことが残念だったというだけである。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、「はいはいみんなおはよう〜」と言いながら講師が教室に入ってきた。気の抜けた感じの喋り方をするその男は森田よりも少し若いくらいだろうか、大学で教鞭をとる人といえば皆年季の入った老人である、という固定観念があった泰生は「おい、富田」と横に耳打ちする。

「随分と若いヤツだが、あれも教授なのか? タマムシ大学とはあんな軽薄な男を教壇に立たせる場所だとは思っていなかったのだが」
「滅多なこと言わないでください。別に教授だからってみんな歳いってるわけじゃないですよ、若かろうがチャラかろうが教授になれる人はなれますから。まあ、あの人は教授じゃなくて外部から来てる講師の方ですけど」
「講師? なんだ、大学ってのは研究をするわけじゃないのか?」
「そういう時間もありますけど、この授業は一般教養の授業なんです」

「テキストはこれで、悠斗は確か……ああ、これです、青いファイルにノート入れてます」と、富田の小声に言われるままにして鞄を漁る。指示通り取り出したテキストには、『数学の世界へようこそ』という面白みゼロのタイトルと、ハイセンスな感じの幾何学模様が描かれていた。

「単位の関係で、こういう授業も取らなきゃいけないんです。まあ、理系の専攻じゃないですし、内容は中学……いっても高校一年レベルですから。ES対策も兼ねてて、その程度ですよ」

ふうん、と、富田の説明をほぼほぼ聞き流した泰生は曖昧に頷く。あれほど騒いでいた学生も結構な静けさとなっており、パラパラとめくったテキストが立てる微かな音もしっかり聞こえた。
「はい、じゃあ五十二ページからね〜」相変わらずふわふわした声で講師が授業を始め、「じゃあ、ええと……羽沢君、解いてみて」と泰生を指名した。よりにもよって、と一度は頭を抱えかけた富田だが、問題を見て思いとどまる。『Aさんは毎分60mの速さで歩いて家を出た。その15分後にAさんの弟が自転車に乗り毎分180mの速さでAさんを追いかけたとき、Aさんの弟は家を出て何分後にAさんに追いつくか。』……速さの基礎が出来てれば簡単に解けるだろう。講師が適当に悠斗を指したのも、それほど時間のかからない問題だと踏んでのことだ。
まあ、考え方などを問う厄介なところであてられるよりもマシである。富田はそう考え、小さく溜息をついて自分のテキストに視線を落とした。別に答えるだけだし、こんな心配取り越し苦労に――


「わからん」

「………………え」


が、取り越されなかったようである。
はっきりと言ってのけた泰生に、講師も他の学生も、そして富田も目をぱちくりさせて彼の方を見た。

「自転車など使うより、ひこうポケモンに乗って追いかけた方が速いのではないか?」

そして視線を一点に集めた泰生は何も臆することなく、自分の信じるままを堂々と答えたのであった。





予想だにしない発言により、コートの全員が時間を止めた中、最初に動いたのはボーマンダだった。
普通に考えてありえない指示だったが、しかし彼女にとっては唯一無二の主人の命令でもある。一瞬迷いはしたもののすぐにその身体を翻し、ボーマンダはニンフィア目がけて急降下していく。咆哮と共に全身から放たれた、熱量を持った殺気を纏って突進するその様子は逆鱗というよりもむしろ困惑極まれりといった感じであったが、どちらにしろかなりの勢いに満ちているのには変わらない。飛ぶ鳥も蹴散らすかのようなそれにニンフィアと相生、森田、それに悠斗も言葉を忘れて固まった。ボーマンダがより一層強く嘶く。恐ろしいまでの激情を溢れさせる竜が喰らい尽くさんばかりの力で、小さな精霊との距離をゼロにした。

「でも効かないものは効かないですよね!!」
「え!? なんで!? なんであのポケモン全然平気なの!?」

……しかし、やはりというか何というか、ニンフィアはどこか困りきったような顔をして、痛くも痒くもない状態でコートに立ったままだった。
その横では、流星の如き勢いでニンフィア、というか床に突っ込んだボーマンダが頭の上に星を浮かべて目をチカチカさせている。彼女のげきりんがまさに放たれんとしたその瞬間、ニンフィアの全身を目映い桃色の光が覆いつくし、ボーマンダの軌道を無理矢理に逸らしたのだ。

「ちょっとー!? なんで駄目だったんだ、アレか! 聞いたことがある、『外した』ってヤツか!!」
「違いますよ何言ってんですか!? フツーに相性の問題です、ドラゴンはフェアリーに無効なんですよ!!」
「はぁ!? 何それ!?」
「え……えと……よくわからないけど、いいのかな……これは」

何が起こったのか理解出来ないらしい悠斗と、あまりの衝撃に血の気を失っている森田が叫び合っている脇で、蚊帳の外となった相生が次の行動を図りかねる。勝手に突っ込んでこられて勝手に自滅されたニンフィアもまた、目を回すボーマンダを横にしてオドオドするしかないという有様だ。その、何とも馬鹿らしいコートの様相に相生は数秒の間戸惑いを露わにしていたが、やがて覚悟を決めたように呟いた。

「ク、クラリス……ムーンフォース」

ものすごく遠慮がちに告げられた指示に、ニンフィアもまた控えめな動きで技を発動する。室内だというのに月光のような美しい輝きが彼の周りに収束し、神聖な雰囲気を醸し出した。
長い耳、細い四つ脚、そして可愛らしい触覚の先端までその光が満ちる。そして一気にニンフィアの頭上に纏め上げられたそれは、明らかな質量を伴って、横で転がるボーマンダへと衝突した。ああ! と悠斗が声を上げる。

「どうなってんだよ……さっきのは何も起きなかったのに、どうしてアイツのはこんなに、一発で倒れちゃうんだ!?」
「どうもこうもありませんよ!! フツーにタイプ相性の問題だっつってるでしょーが!! 流石に確一だったのはキツいですけど、それはさっき床に頭ぶつけて無駄な体力使ったせいです!!」
「な、なんだよそれ……わけわかんねぇ……」
「わからないのは悠斗くんの頭ですけどね!? とりあえずここはポケモン交換して! 次いきましょう!」

ムーンフォースによって、二度目の転がりを呈したボーマンダをボールに戻して悠斗は頭を軽く振る。何がどうなっているのかさっぱりわからないが、過ぎたことを気にしても仕方ないだろう。気持ちを切り替えてやるべきだ、と、恐らくこの場で一番混乱しているだろう相生を見据えて悠斗は一人頷いた。
悠斗は割と思い切りがよく、見切り発車をかます男である。高校時代にはマッスグマと暗喩されていたことを知らない彼は、二つ目のボールを天へ向かって高く投げた。

「ミタマ! 頼む!」

赤い閃光と共にボールから現れたのは、火炎の熱と霊力による冷気のどちらをも持ち合わせるゴーストポケモン、シャンデラだ。昨日の一件から、自分のトレーナーの様子がどうにもおかしいことを一晩気に揉み続けている彼は納得のいかない表情をしていたが、蒼い炎に包まれたそれを気に留めてくれるほど余裕のある者は、今この場にはいない。眼下に見える、いつもと比べてやけに声が大きい泰生にシャンデラは嫌な予感しか覚えなかった。
「シャンデラかぁ……」その正面で、相生が苦々しい顔で呻くように言った。一瞬迷ったような時間を置いた彼は、「クラリス!」と声をかけながらボールに手をかける。

「一回戻って! 交代だ、ジャッキー!」

ニンフィアがボールに吸い込まれると同時に投げられた、新たなボールに入っていたポケモンがコートに降り立つ。木の幹のような体躯と、果実に似ている両腕の先。とぼけた顔は愛嬌があり、観賞用としても人気のポケモンだ。

(ふむ、エースのニンフィアは温存しておこうってわけですか)

どうにか落ち着いてきた森田はそんな予測をする。シャンデラと相性が良いとは言いがたいから、もっと戦える相手と交換してきたのだろう。タイプ一致もこうかばつぐんになるし、確かあくタイプの技も使えたはずだ。楽に倒せはしないまでも、出来るだけ削ってやれという魂胆に違いない。
しかし、泰生のシャンデラはエナジーボールを習得済みだ。それをくさタイプの技だと悠斗が認識しているかどうかが一抹の不安だが、オーバーヒートという明らかなほのおわざは流石に選ぶまい。まあ、エナジーボールを使わないまでもシャドーボール辺りを決めてくれればそれはそれで……

「よし、どう見ても木っぽいし、あのポケモンはくさタイプだな! くさにほのおが強いことくらいは知ってる……よし! ほのおっぽい名前してるからこれだな、ミタマ! オーバーヒートだ!!」
「金銀発売当初にしか通用しない間違いしてるんじゃねーーーーーよ!!」

森田は混乱のあまり、よくわからないことを言った。





「ええと、羽沢くん……?」

静まり返った教室で、講師が困り笑いを浮かべて問い返す。しかし泰生に悪びれた様子は欠片ほども見られない、本人だけが大真面目であった。

「だから言ってるだろう。分速百メートルだか二百メートルだか知らんが……自転車よりもポケモンの力を借りた方がずっと速く追いつけるし、安全だ。街中で乗るならばピジョットやトゲキッス、それかメブキジカなどがいいかもしれない。ただしフワライドは……」
「ハハ、ええと……面白いよ! は、羽沢くん」

口調も思考回路も言っていることも何もかもがおかしい泰生に、ついついポカンとしていた講師は無理に引きつった笑いを浮かべてその答えを遮った。その言葉につられ、ワンテンポ遅れて教室の学生達も作った笑い声を上げる。どう考えても笑っている場合などではなかったが、明らかにおかしい『羽沢悠斗』に皆戦慄し、この現実を直視するのを本能が避けたがったのだ。人間、最も恐れるものはわけのわからないものなのかもしれない。
「俺は真剣に――」そんな皆の様子に気づかない泰生は尚も食い下がろうとしたが、静かに、しかし非常に強い力で腕を引いた富田によって止められる。その衝撃で泰生が黙った一瞬を見逃さず、講師は「じゃ、じゃあ、この問題は先生がやっちゃおうかな〜」などと言いながら、話の流れを授業へと強引に戻したのだった。

「おい、何が悪かったんだ」
「全部ですよ」

話を遮られ、席に座らされた不満を小声でぶつけた泰生に、富田はシンプルな返事をした。

「これは数学なんです。そういう、こっちを使えば速いとかこんなことする必要無いとかそもそも動く点Pってなんぞやとか、そういうことは考えないで、数式で答えを導けばいいんです。分速120メートルの自転車で行くって言うんなら、それで行くものなんですよ」
「なんでそんな妙なことを……大体、なんだ数式って? アレは出来るだけ早く追いつく方法を見つける問題ではないのか?」
「そんなわけないでしょう。方程式を作って、それで解きゃいいんです」
「方程式って研究者以外も使うのか?」

まるで予測不可能なことを言い出した泰生に富田は目を剥いたが、「使うんですよ」とおざなりな返答をして話を断ち切った。世代も育ちも違うだろうから仕方ない、そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせる。
それからしばらく、平穏に授業を受けていたのだが、十数分経ったところで「おい」と泰生が富田に声をかけた。どうやらテキストをパラパラと見ていたらしい彼は、とあるページの一部分を指して富田に尋ねた。

「これ、何て読むんだ」

泰生の指が指し示していたのは『円錐』の二文字。
富田は、悠斗の顔を殴りたくなるという、生まれて初めての衝動に駆られていた。





「も〜、どういうことなんですか!! フェアリータイプにドラゴンの技は効かないなんて、当たり前のことでしょうが!!」
「だって、ドラゴンって強そうだし……なんにでも勝てるんじゃないかなって……」
「小学生ですか!? というか、よくそれで『げきりん』がドラゴンわざだとわかりましたね……」

色々と散々なバトルを終え、事務所が貸し切っている体育館のロビーで森田はぷんぷんしていた。ぶーん、という低い音を立てる自販機に雑な感じで硬貨を突っ込んだ彼は、「はいどうぞっ」苛立った動きで取り出したブラックコーヒーを悠斗に押し付け、続いて購入した緑茶のプルタブを乱暴に開ける。
言うまでもなく、先程のバトルは悠斗の負けだった。結局オーバーヒートがこうかいまひとつとなり――その直後にふいうちを撃たれ――最後の一匹もそんな風に嘘みたいな負け方をしたというわけである。相生に至っては三匹目を出さず、ウソッキーとニンフィアだけで潜り抜けていたため、それまでの羽沢泰生を考えればあり得ないくらいの敗北のしようだ。

「相生の奴は都合いい勘違いしてくれましたから助かりましたけど! 勘弁してくださいよ、泰さんの評判だだ下がりですよ、もぅ〜」
「すみませんでした…………」

あの後、相生はせっかくの勝利に喜ぶ様子を全く見せなかった。それどころか「この前マルチバトルのトレーニングで僕足を引っ張ったから、羽沢さん怒ってるんだ……それで手を抜かれたんだ……」などと勝手に打ちひしがれ、勝手にめそめそと泣きながらトイレに籠っているらしい。悠斗達からすれば好都合だが、お前はそんなんで大丈夫なのかという気持ちは拭いきれないところである。
ともかく、あまりに馬鹿らしい理由で惨敗した悠斗に、森田は怒りを隠しきれずこうして不満をぶつけているのである。バトルの間はずっと肝を冷やし続けていたのだから、それも仕方ないことだろうと、説教されている悠斗はその文句を甘んじて受け入れていた。普段はユニランのような顔の森田だが、今はどちらかというとダルマッカみたいである。怒りで赤くなった丸顔に、悠斗は内心で焼いた餅を思い出した。
そんなことを彷彿させられているとは露知らず、森田は「大体!!」視線を自販機から悠斗へと移す。

「タイプ相性くらい忘れないでくださいよ! 一番意識しなきゃいけないことなんですよ、そこ間違えたらどうしようもないでしょう!」

ぷりぷりと怒る森田に、しかし悠斗は「でも、森田さん」と遠慮がちに口を開いた。

「……俺、忘れるもなにも、ポケモンのタイプ……何? アイショー? そんなの知らないんですけど……」
「はぁぁぁぁぁぁ!?」

小さな声で告げられたその言葉に、森田は驚きのあまりお茶のペットボトルを手から滑らせた。危うく落ちかけたそれをすんでのところでもう片手で支え、彼は「いやいやいやいやいや」と目を白黒させて首を横に振る。

「タイプ相性を知らないだなんてそんなそんなそんな!! あんなの基本中の基本ですよ!? あれ知らないとバトルなんか出来ないに決まってるでしょうが!!」
「いえ……というか、その前に俺……どのポケモンが何タイプかもわからないし、何タイプがあるのかさえも知らないんですが……」
「はい!?」
「いや、でもわかるものはわかりますよ! あの、相生さんの木みたいなポケモン! アレとか、植物っぽいのはくさタイプなんでしょ…………」
「いわタイプだって言ってるでしょうが!!」

衝撃的すぎる発言に、森田の顔が赤から青になる。まるでダルマモードだ。

「ちょっと待ってくださいよ……そんなことって……こんな人がいるだなんて…………」
「え、森田さん……なんですかその目は」
「あり得ない……全ポケモンのタイプととくせい、全技のタイプくらい知ってて当然でしょう、ねえ…………?」
「はぁ!? 知るわけないでしょそんなの!! どんな認識なんですか、そんな、何百匹何百種類のことなんて覚えられるわけありませんって!!」
「覚えるとかそういう話じゃないですよ! 難しいこと何も言ってないんですよ、個体値だとか物理特殊だとか命中率だとか、そういう話は何もしてないんです。ただ、ポケモンの種類と技の種類だけじゃないですか!!」
「知らないものは知らないし、そもそも……そもそも俺、名前すら知らないポケモンも……います……」

相生さんが最初に出してきた可愛い感じのアレとか、何ていうんですか? 視線を逸らしながら尋ねてきた悠斗に、森田はがっくりとうなだれる。尚悪いことに見た目は泰生である、何もかもが悪夢のようだ。半ば無意識下で答えた「ニンフィアです」という自分の声は、魂が抜けかかったように掠れていた。
だけど、と、森田は朦朧とした意識を引き戻して考え直す。今ここで、悠斗(自分が知らないだけでバトルをやらない人というのは概してこうなのかもしれないが)の知識の無さを問い詰めても仕方ない。泰生のフリをしてもらうために、彼にはタイプやとくせいはおろか戦術を徹底的に覚えてもらわなければ困るのだ。時間は少しも無駄に出来ない。
「悠斗くん」呼吸を整え、森田は可能な限りの冷静な声を出す。「とりあえず今日のミーティングは体調不良ということでお休みします。今から悠斗くんにはポケモンについて一から教えますからね、本当頼み――」

「あら、羽沢さんじゃない」

そう森田が言いかけたところで、彼らに声をかける者がいた。
コートから出てきたその女性は悠斗と同じ、Tシャツとジャージというラフな姿ではあるが、スレンダーかつメリハリのあるボディラインがむしろ強調されてもおり、勝気な美貌も相まってゴージャスな印象すらも与えている。長い髪をまっすぐに下ろしたこの女性は、確か昨日入れ替わった際に自分を心配していた、カビゴンのトレーナーだったはずだと悠斗は思った。余談だがカビゴンのことは知っていたらしい。学年に一人は、その名称がニックネームとされる者がいるからだろう。
「ちょっと待ってて」と、二回りは年上であろう泰生(彼女からすれば)にフランクな口調で言った彼女がコートに一時戻った隙に、悠斗が森田へ耳打ちする。

「森田さん、あの人誰ですか」
「うちの事務所のトレーナーの一人、岬涼子。若い美人さんだからマスコミに人気だよ、ノーマル使いの女王って」
「その二つ名、あまり強そうに思えませんけど……それにそんな若いですか? 森田さんと同じくらいじゃないんですか」
「悠斗くんからしたらそうかもしれないけどね、それ絶対本人に言わないでね。……岬さん、泰さんのことライバル視してるから。戦い方も似てるし、あと、猪突猛進同士何かあるのかも」
「お待たせ。お疲れ様、羽沢さん。それに森田さんも」

スニーカーの足音を鳴らし、コートから再び出てきた岬に森田が慌てて口をつぐむ。その隣、缶コーヒーを飲み終えた悠斗は反射神経で「お疲れ様です」と返した。

「え?」

泰生ならば何も言わないか、「ん」で終わらせるであろうそこで、自分よりも丁寧な言葉が返ってきたことに岬は怪訝な顔をした。彼女の死角で、森田が口の中の緑茶を盛大に噴き出す。
「あ、いや、その」泰生らしからぬ行動を取ってしまった自分の失言に気がつき、悠斗はしどろもどろになって視線をさまよわせる。どうにか言葉を取り繕おうとしているらしいがしかし、「羽沢さん」岬は心配するように悠斗を覗き込んだ。

「やっぱり、この前倒れたとき……大丈夫なの? なんか、後遺症とか残ってるとか……」
「あ、そういうんじゃないです、ホント……いや、はい」

悠斗は必死にごまかそうとするが、岬は尚も「でも様子が変だし」と食い下がってくる。困惑のせいか無防備に距離を詰めてくる彼女に、悠斗は内心めちゃくちゃ焦っていた。確かに一回りも上の相手ではあるが、それを含めても高レベルな美しさ、軽装によって表出しているナイスバディ、汗ばんだ肌から立ち昇る色気――普段接することのないような相手を至近距離で前にして、悠斗は落ち着かない気持ちをどんどん高めていた。
端的に言えばメロメロ状態に陥りかけているのである。が、完全に戦闘不能になる前に悠斗は跳ね飛ぶようにして岬と距離を取った。「本当、大丈夫ですから」裏返り気味の声で言い、彼は無理に作った笑顔で岬に笑いかける。

「気にかけてくれて、ありがとうございます。もう大丈夫ですから、一緒に頑張りましょう――行きましょう! 森田さん!!」
「え!? 急にどうしたの悠――じゃなくて泰さん!!」

足早に出口から外へ行ってしまった悠斗と、それを追うため走っていった森田を眺め、取り残された岬は呆然と立ち竦んだ。やはり泰生の様子がおかしいとは思ったが、それ以上何かを確かめる前に彼らの姿は消えていた。
しかし、今の彼女は正直なところ、その違和感を問い詰めるどころではない。バトルで惨敗したといういけ好かないライバルに嫌味の一つでも言ってやるつもりだったのに、普段であればあり得ない、今までされたことの無いような気遣い、配慮、……そして、どうにも可愛らしい反応。
決して見せるはずも無い行動の数々を脳内で反芻し、岬は自分の頬が熱くなるのを信じられない気持ちで感じる。確かにバトルは強くトレーナーとしては大変魅力的であることは重々承知だし、トレーナーに年齢は関係無いというし、今まで何かと噛みついていたのも思えばある種裏返しであったのもあながち間違っては――

「そんなはず!! この私に限ってそんなわけはないっ!!」

今後のポケモンバトルをどうするかということばかりに意識を取られている悠斗と、森田。彼らの知らぬところで、うっかり蒔いたいらない種が早くも芽を出してしまったことなど、知る由も無いのだった。





時計の針は五時を回り、大学構内にはサークル活動を始める学生達の姿が増えてくる。クレッフィやガブリアスを引き連れ、育成論を語り合いながら歩いていくバトルサークル。ラケット片手に飲み会の話などを交わし、ハトーボーやピジョンと共に中庭へ出ていくテニスサークル。仰々しいカメラを持ち、レフ板代わりと思しきツンベアーと歩いているのは写真サークルだろう。
人とポケモンが入り乱れ、タマムシ大学は今日も騒がしい。

「しかし、あれほどまでに知らないとは思いませんでした」

そんな中、淡々とした声のくせに殺気を孕んだオーラを放っている学生が廊下を歩いていた。彼、今日の分の授業を終えた富田はよく見ると疲れ切ったことのわかる顔で、嫌味っぽく話し続ける。

「数学は出来ないわ感じは読めないわ……最近のニュースもポケモン絡むの以外全然把握してないし、本当ポケモンのことしか頭に無いんですね」
「当たり前だろう。俺はトレーナーなんだから」

が、その嫌味にも全く動じず、隣を歩く学生は平然と答えた。富田が本日何回目かになる舌打ちをかます。
あの、教室中を困惑に満たした数学の講義の後も、あちらこちらで泰生は富田の頭を痛めるようなことをした。歴史の講義では基礎中の基礎である戦の名前を「こんなの初耳だ」とのたまい、文学の授業ではテキストの目次にあった『枕草子』を見て「おい富田、この『……くさ、こ』って何だ」と大真面目に尋ね、パソコンを使う時間には「あずかりシステム以外のことはわからん」と早々に断言したため逐一富田が教える羽目になった。悠斗の所属する社会学部の専攻の授業に至っては、「ポケモントレーナーの修学率の低さが産業の崩壊を招く」と論じた教師に食ってかかろうとしたため、富田は泰生の腕をひっつかんで講堂を出なければならなかったほどである。
この人みたいなのがいるから、あの教授みたいな考え方が出てくるんだ。自分の分と、そして悠斗の分、出席点を一回失ってしまった富田はもう一度舌打ちした。「大体ですね」彼はイライラしたままの口調でさらに言う。「小学校から学校行ってないと言っても、もう少しどうにかなるでしょう」

「知ったことか。俺は俺の知るべきことを知っていればいいんだ。余分な知識はいらん」
「そうは言っても、限度ってものがあるんですよ」
「あんな、逆さにしたディグダみたいな落書きの計算? だかなんだか、そんな豆知識なくても生きていける」
「それは二次関数だ!! 豆知識じゃなくて常識ですよ、常識!!」

キレる富田に、ふん、と一睨みを返した泰生はそっぽを向く。その、あくまでも聞く耳を貸さない姿勢に富田は額に青筋を浮かべたが、長い前髪のせいで泰生は全く気づいていないようだ。まあ、仮に富田がスキンヘッドやぼうずだったところで泰生は気づかないだろうが。
「ともかく」必死に気を落ち着かせているらしく、深い溜息を吐きながら富田が言葉を発する。鞄の中から取り出した何枚かの紙を泰生に渡した彼は、「これ、明日までに覚えてくださいよ」と強い口調で言い含めた。

「何だ、これは」
「二週間後にある、学内ライブであなたが歌う曲の歌詞です。芦田さん……三年生の先輩のピアノソロに合わせて、独唱ですから。頼みますよ」
「俺が? 歌うっていうのか?」
「文句言わないでください。今日のサークルは体調不良ってことで休みます。羽沢さんには、これから僕とカラオケ行って特訓してもらうんで」

冷たく言い切られたその台詞に、泰生は眉間の皺を深めたが、渡された歌詞の漢字全てに振られたルビから滲み出す嫌味っぽさにはこれまた気がついていないようである。「仕方ないな」彼は悠斗との約束、お互いのフリをしっかりするということを思い出して、諦めたように頷いた。歌うのは好かないが、諸々のためには渋るわけにいかないだろう。
「しっかり、してくださいよね」ギターケースを抱え直しながら言った富田が、そこで「げ」と口の中だけで小さく呟いた。

「おー、羽沢、富田」
「羽沢風邪だって? 大丈夫なの?」

そんなことを口々に言いながら、向かいからやってきたのは悠斗や富田と同じバンドのメンバー、有原と二ノ宮だ。遠目からでもわかる、二ノ宮の特徴的なバッフロン頭を視線が捉え、知り合いにはなるべく会いたくないと考えていた富田は、「うん、まあ」などと言葉を濁す。

「悪いな。練習、行けなくて。俺も悠斗送ってくから」
「んー、いや。別にいいんだけど。今日は俺もバイトだし」
「有原、お前まだあのバイトやってんの? どくタイプカフェの店員だっけ、なんでまたそんなキワいのを……」
「いいだろ別に。ウチの父ちゃんと母ちゃん、元マグマ団と元アクア団でハブネーク使ってたから俺免疫あるんだよ、毒に。時給いいし、それになれるとなかなか可愛いもんだぞ? 特にペンドラーなんかの分かれてる腹が……」
「あー、やめろやめろ。俺、足がいっぱいあるポケモンダメなんだから。気持ち悪い」
「そんなこと言ってやるなよ。ノーマルとどくはそれほど相性悪いわけじゃないぞ」
「うるせぇ、誰がノーマルタイプカフェ(大型)のポケモンサイドだ」
「言ってねえよ」

繰り広げられる二人のやり取りに、いつもだったら笑いの一つでも浮かべていたかもしれないが、あいにく富田はそれどころではなかった。泰生の飲んでいたモモンオレ、悠斗であれば絶対飲まないそれをこっそり奪い取り、後手に隠すので精一杯である。いつ何時、泰生が危うい行動を取らないか気が気ではない。
「ところでさぁ」そして、そんな富田の不安は早速現実のものとなる。「羽沢って、いつからポケモン好きになったの?」

「ごめん。俺達これで失礼するまた明日」

いつの間にやら中庭へ出て、野生と思われるコラッタに手を伸ばしている泰生(つまりは公の悠斗)を指差した有原の言葉が終わるよりも先に、ものすごい早口で別れの挨拶を告げた富田は二人の元から走り去る。自分のバンドのギタリストによる一陣の風のようなその勢いに、取り残されたベーシスト及びドラマーはポカンとしてたちつくすしかなかった。

「何度も言わせないでください! 悠斗っぽくないことすんのやめろつってるでしょうが!!」
「しかしコラッタがいたんだぞ」
「だからなんだよ!? コラッタがいたからなんだっていうんだ!!」
「静かに近づいたのだが、逃げてしまった。何が悪かったのか……」

今後の行く末に眩暈を覚える富田と、そんな彼など気にもしない泰生の会話は、廊下にいる有原達には聞こえない。ただ、二人で何かを言い合うその様子に、彼らはぼんやりと口を開いた。

「あいつら仲良いよなぁ」
「特に富田が羽沢大好きだからな」
「大好きすぎるからな」
「あれってそういうことなの?」
「そうだったら話はもっと簡単だろ――あれは『like』じゃなくて」
「かといって『love』でもなくて」
「『faith』」
「それな」

羽沢悠斗教。有原と二ノ宮が内心そう感じている富田のそれすらあまり気に留めていない泰生は、今度は中庭にある木に止まっているポッポに目を向ける。そのまま、ひみつもちからを使えるわけでもないのに、木登りを始めようとした彼を怒りのあまり目から光の消えた富田が強引に引っ張っていったのは言うまでもない。


  [No.3827] 王者の品格 第四話「破綻百出」 投稿者:GPS   投稿日:2015/09/11(Fri) 21:55:51   70clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

悪夢よりも悪夢かもしれない、羽沢親子入れ替わり事件勃発から二日目である。
悠斗は森田によるポケモンバトルレクチャーに知恵熱を出し、泰生は富田に連行されたカラオケボックスで行われたボーカル特訓(と言っても、身体的に染み付いた歌唱力は残っていたため問題はもっぱら泰生の妙な羞恥を突き崩すことだったが)の屈辱に夜、うなされた。もっとも本人達より安らかでいられないのは森田や富田の方であり――森田は胃薬をラムネ菓子のようなペースで摂取し、富田はイライラ対策のためにモーモーミルクを大量購入した。腹を下す体質では無いのだけが幸いである。
しかしどれだけ嘆いたところで、この現状がどうにかなるわけではない。元に戻るまではお互いのフリをしっかりこなすことが最優先だ。そんな決意を悠斗、泰生、森田、富田の四人はそれぞれの胸に宿して困難へと立ち向かう。
……その困難は、悠斗と泰生それぞれの知識があまりに偏っていたため、彼らが予想していたものよりずっと大きかったのだが。



「いいですか。くれぐれも、くれぐれも、くれぐれも! 芦田さんに怪しまれるようなこと言わないでくださいよ」

さて、そんな泰生と富田は本日も学生生活の真っ只中である。
今日の講義は学部の専門科目が二つ、テキストの漢字が読めなかったり一般常識の部類であろう語句を知らなかったりと、泰生のトレーナー一本ぶりに、昨日に引き続きうんざりを繰り返すことになったが、散々言い含めた甲斐もあり、余計な発言をすることだけは回避出来た。『若き旅トレーナーを狙う性犯罪問題をどう解決するか』という授業の最中に「普通にポケモンや自分を鍛えればいいのではないのか?」などと真っ直ぐな瞳で言いだした時には頭が痛んだが、昨日のように講堂全体に聞こえる声で言わなかっただけよしとする。

「三回も言うな。ドードリオやレアコイルじゃあるまいし、一回言えばそれでいいだろう」
「一回言ってわかってくれないから何度も言うんですよ。何ならポケモンミュージカル部にペラップ借りてきて、常に聞いていただきたいくらいです」

しかし今日の富田が声に棘を作るほど懸念しているのは、どちらかというと授業ではなく、この後にあるサークル活動の方だった。個人練であれば何とかごまかせそうではあるけれど、本日の羽沢悠斗の予定は学内ライブのセッション練なのだ。セッションの相手、一学年上である三年生のキーボード、芦田は当然この事態を知らない。
羽沢悠斗という人物に向けられた信用を崩壊させることなく、また要らぬ誤解を招くこともなく、芦田との練習を終わらせなくてはならないのだ。どうすれば一番安全かと思考を巡らす富田の隣から、泰生がつつつ、と離れていった。

「タツベイ……」
「え、え……何すか…………?」

廊下ですれ違った見知らぬ男子学生の肩に乗っていたタツベイに引き寄せられ、そわそわと近づいていく泰生に気づいた富田は「だから! だから三回言ったんですよ!」と青筋を浮かべて泰生の首根っこを捕まえた。いきなり近寄ってきた赤の他人、しかも呟かれた独り言以外は無言の仏頂面という怪しさに、何事かとヒいている学生に秒速で頭を下げる。「すみませんホント、何でもないんです」そんな富田の鬼気迫る様子に彼はさらに不審感を募らせたが、関わり合いになりたくないためタツベイを抱え、そそくさと去っていった。
はぁ、と重い溜息を吐いた富田が、辿り着いた部室の扉を前にしてもう一度言う。「本当頼みますからね。悠斗らしく、悠斗らしく、悠斗らしく、悠斗らしく、ですよ」

「……メタグロスか」

泰生の漏らした不平は無視して、富田はドアを開ける。
「お疲れ様です」「おっす羽沢、富田」「おつかれー」「ハザユー風邪大丈夫なの?」「あ、ただ疲れてたらしいです」「何でトミズキが答えるんだよ」「お前、そのニックネームわかりにくいって」口々に交わされる言葉が、各々の楽器が鳴らす音と共に響く部室を歩く。有原と二ノ宮は今は不在みたいだな、などと思いながら、富田と泰生は一台のキーボードの前まで進んだ。

「芦田さん、こんにちは」
「あ、お疲れ! 羽沢君、具合はもう平気なの?」

何やら携帯で連絡を取っていたらしい芦田は顔を上げ、人の良さそうな笑みを浮かべる。彼の質問に富田が泰生の脇腹を素早く突き、泰生は慌てて「ん」と頷いた。
その態度に富田はまたしても頭を抱えたくなったが、「まだ本調子じゃなさそうだね〜無理はしないでね」と、芦田は都合良く解釈したらしい。それに内心で胸を撫で下ろしながら、「守屋もお疲れ」と芦田の隣に座っていた同級生へ声をかける。「『も』は余計ですよ」冗談っぽく拗ねたような顔をして、守屋は軽く片手を上げた。彼の足元のマグマラシが富田達をちらりと見たが、すぐに、一緒に遊んでいたらしいポワルンの方へ視線を戻してしまう。マグマラシとポワルンは、それぞれ守屋と芦田のポケモンだ。芦田のポワルンは、何故か常に雨天時のフォルムをしていることでちょっと有名である。
「今日は悠斗と合わせでしたよね」 晴天の室内にも関わらず雫型のポワルンに興味津々の泰生は無視してそう尋ねた富田に、「そうだよー」壁にかかった時計を見ながら芦田は答える。「本当は横木くん達が使うはずだったんだけど、一昨日代わってくれたからね」対角線上でベースをいじっているそのサークル員、横木に感謝の合図をしながら、芦田がキーボードの前から立ち上がった。

「悠斗の具合が心配なので、俺もついていっていいですか」

そこでそう言った富田に、芦田はほんの一瞬不思議な顔をしたものの、「もちろん」と笑って頷いた。ちょうど時間だしそろそろ行こっか、そんな言葉と共に床の鞄を持ち上げた芦田に泰生と富田も続こうとする。

「樂先輩」

が、守屋が芦田の名前を呼んだため、彼は一度足を止める。「なに」言うことは大体予測がついているらしい芦田が、じっとりとした目を守屋に向けた。

「残念ながら、僕は樂さんにお供いたしませんので……」
「いいよ別にしなくて! 巡君には期待もしてないし! わざわざ言わなくていいよそんなこと!」
「むしろこの辺が片付いて、せいせいし……いえ、スッキリした気持ちになってます」
「言い直さなくていいから! アメダスのこと見ててね、じゃあね!」

守屋の軽口に呆れ混じりの声で返し、溜息をついた芦田は背を向けて歩き出す。「いってらっしゃいませ」と悪戯っぽく笑った守屋が手をヒラヒラと振り、芦田が座っていたキーボードを早速弾き始めた。
「まったく、巡君はいつもああだ」などと呻きながら部室を出た芦田の後ろを歩きつつ、まったくはこっちの台詞だ、などと富田は考えていた。有原と二ノ宮達といい、よくぞ毎回飽きないものである。自分のことを完全に棚に上げる富田の隣で、泰生はアメダス――芦田のポワルンを少し触らせてもらえばよかった、などとのんきな悔恨に駆られていた。




「うーん、なんか……」

部室から移動して、第一練習室。学内ライブでやる予定の曲を一通りやってみたところで、芦田がなんとも言い難い顔をした。「……やっぱり、羽沢君まだ調子悪い?」言葉を選ぶような声で問いかけられた泰生が「どういうこと……、ですか」と、ギリギリのところで口調を悠斗のものに直しながら問い返す。
芦田は「なんというか」「別にいつも通りと言えばそうなんだけど」と、グランドピアノと睨み合いながらしばらく首をひねっていたが、ややあってから顔を上げて泰生を見た。

「なんというか、ね。楽しそうな曲なのに、楽しそうじゃない、っていうか」
「…………そんなこと、」

とてもじゃないが楽しくなどない泰生は「そんなこと言われても困る」と言いたかったのだが、芦田の目には途中まで発されたその言葉が、不服を訴えるものに聞こえたらしい。慌てたように「いや、俺の気のせいかもなんだけどさ」と頭を掻いて、彼は「でも」と困ったような笑みを作る。

「羽沢君って、こういう歌を本当に楽しそうに歌ってたから。だからこれにしようって決めたわけだし……なんか違うような、そんな気がして……」

譜面台に置いた楽譜を見遣り、怪訝そうに言った芦田に何か弁明しようと富田が「あの」と口を開きかける。しかしそこで芦田の携帯が着信音を響かせ、「ごめん。ちょっと待って」彼は電話を取った。

「はい。はい、そうです。さっきの……ああ、そうですか……いえ、わかりました。はい。了解です」

電話の向こうの相手と短いやり取りをしていた芦田だが、数分の後に「失礼します」と通話を切る。どうしたんですか、と富田が尋ねると、彼は重く息を吐いて「学内ライブなんだけど」と力の無い声で答えた。

「日にちが一週間前倒しになっちゃって……昨日事務の人にそう言われて、どうにかしてくれないか頼んでみたんだけど……」
「そんな、じゃあ……」
「点検の日付を変えるのは無理だから、って。みんなに言わないとなぁ……」

苦い顔をして気落ちする芦田に、富田も歯噛みする。ただでさえ、元に戻るまでの諸々をごまかすのに必死なのに、ここに加えて本番までこられては大変まずい。一体どうしたものか、という思いを、芦田と富田はそれぞれ違う理由で抱く。
だが、泰生の反応はそれとは違った。「なぁ」携帯でサークルの者達に連絡を送っていた芦田が泰生に視線を向ける。

「なに、羽沢君?」
「どうして、そこでもっと抗議しないんですか?」

泰生からすれば純粋な疑問をぶつけたに過ぎないが、いきなりそんなことを言われた芦田は面食らったように瞬きを繰り返した。

「それは……まあ、したにはしたんだけどダメだって言われたし……学校の都合ならどうしようもないから……」
「何故です? 先に予定を入れておいたのはこちらなんだろう、なら、向こうは譲るべきなんじゃないんですか」
「僕だって同じこと思うよ。それはそうだ、羽沢君の言う通りだ……でも、しょうがない、じゃん」

「学校にそう言われちゃ、仕方ないよ」芦田がぽつりと言って、白と黒の鍵盤に視線を落とす。諦めたような顔が盤上に映し出された。

「しょうがない、って……」

しかし、泰生は違った。
その一言を聞いて、眉を寄せた彼は、両の拳を握り締める。

「そこでもっと言わないから、こういうことが起きるんじゃないのか? どうせ言うことを聞くから、と馬鹿にされて……だから後から平気で変えてくるんだ!」
「羽沢、君…………?」
「なんでそんな無理を言われるのかよく考えてみろ、そうやって、受け流すから見くびられるんだ。大学だか事務だか知らんが、そことの不平等を作っているのはこっち側なんじゃないか!」
「…………それ、は」
「これでまた、一つつけ上がらせる理由になったんだ……わかってるのか、これは俺だけじゃなくて、他の奴らにも関係あるんじゃないのか? こうして平気で諦めたことは、他の学生にも――」
「おい、羽沢――――」


「樂先輩」


見かねて口を挟んだ富田が何か言うよりも前に、そこで、泰生と芦田の間に割り込む声があった。

「赤井先輩が呼んでます、学祭の件で急用だって……」

携帯じゃ気づかないだろうから呼びに来ました、そう付け加えた守屋は、半分ほど開けたドアの向こうから三人を見ている。その足元と頭上それぞれで、マグマラシとポワルンが、何やらただ事では無さそうな雰囲気にじっと動かずにいた。

「あ、うん。わかった。すぐ行く」

一瞬、目をパチパチさせていた芦田が慌ててピアノの前から立ち上がる。「ごめん、羽沢君、富田君」そう言いながら簡単に荷物をまとめた芦田の様子は、少なくとも一見した限りでは普通のもので、富田は反射的に頭を下げる。彼に背中を叩かれた泰生も会釈したが、すでにその前を通りすぎていた芦田が気づいたかどうかはわからない。

「本当にごめん。戻れたら戻るけど、ここ六時までだから、駄目だったら次の人によろしく」

忙しない口調で告げて、芦田はドアの向こうに消えていく。「ありがとね」そう彼に言われた守屋が、芦田に軽口を叩くよりも前に、練習室の中を少しだけ見遣った。
何か言いたげな、探るような視線。が、彼が実際に発言することはなく、二人と二匹は慌ただしく廊下を走り去ってしまった。

残された泰生と富田は、閉まったドアの方を見てしばらく無言だった。が、やがて「俺は」と、泰生が口を開く。

「間違ったことを、言ったのか」
「悠斗、は――――――――」

毅然とした口調でそう問うた泰生に、しかし、富田の細い眼の中で瞳孔が開いた。
その瞳を血走らせた彼が、一歩踏み出して泰生の胸ぐらに掴みかかる。咄嗟のことで反応出来なかった泰生は怯んだように身を竦ませた。
表情というものを消し去って、富田の、握った片手が勢いよく振り下ろされる。

「………………悠斗は」

が、その拳が泰生を打つことはなかった。
思わず目を瞑っていた泰生が、おそるおそる目を開けると、肩で息をする富田が自分を黙って見下ろしていた。
時計の秒針が回る音だけが、彼らの間にうるさく響く。

「……すみませんでした」

その言葉と共に、富田は泰生を掴んでいた手を離す。急に解放された泰生は足をよろめかせたが、俯いてしまった富田がそれを見ていたかは不明だ。声を僅かに震わせていた富田の顔は、長い前髪に隠れてよくわからない。
それきり、富田は何も言わなかった。泰生も無言を貫いた。

結局六時を過ぎても芦田は戻らず、後で彼、および芦田を呼びつけたサークル代表の赤井から謝罪のメールが届いたが、それに対して富田が言及したのは「芦田さんが置いてった楽譜は僕が渡しておきますから」ということだけだった。





そんなことがあった翌日――悠斗は、森田と共にタマムシ郊外の街中を歩いていた。

「悠斗くん、そんな落ち込まないでください。まだ三日目ですから、次に勝てるよう頑張りましょう」
「………………」

彼らは先ほどまでいたバトルコートから、近くの駐車場まで移動しているところである。地面を見下ろし、俯く悠斗に森田が励ましの声をかけた。しかし、悠斗は依然として肩を落としたままである。
数十分前、バトルコートで悠斗が負けた相手は別のトレーナープロダクションに所属している、しかし064事務所と懇意にしている壮年の男トレーナーだ。リーグも近いし練習試合を、ということで前々から約束されていた予定である。
そのバトルに、悠斗はまたしても負けてしまったのだ。今回は必要最低限の知識は入れていたし、少しは慣れたから惨敗とまではいかなかったが、それでも男トレーナーに怪訝な顔をさせるくらいにはまともな勝負にならなかったと言える。ある程度は予想のついていたこととはいえ、悠斗は度重なる敗北に少なからず傷心していた。

「相手方にはスランプで通していますから。それにですね、いくら泰さんのポケモンとはいえ、バトル始めたばかりの悠斗くんがそう簡単に勝てたら、エリートトレーナーも商売上がったりですよ」
「それはそうですが……」
「泰さんと互角の相手なんです、あの人は。負けるのもしょうがないです」

片手をひらひらさせた森田は「とりあえず、今日は帰るとしましょう」と歩を進める。「そうですね」悠斗も浮かない顔のままだが頷き、その後に続こうとした。

「おい、そこのお前!」

が、背中にかかった声に二人は反射で足を止める。

「お前、羽沢泰生だよな!?」

振り返った悠斗達の後ろにいたのは、半ズボン姿の若い男だった。年の頃は悠斗の元の身体とそう変わらないだろう、サンダースのような色に染めた髪やその服装から考えるに、悠斗や富田に多少のチャラさを足した感じである。
「俺は、たんぱんこぞうのヒロキ!」膝小僧を見せつける彼の始めた突然の自己紹介に、悠斗と森田は頭の上に疑問符を浮かべる。「森田さん、たんぱんこぞうって、中学二年生くらいが限度じゃないんですか」「ミニスカートとかたんぱんこぞうとかっていうのは、名乗るための明確な規定が無いからね……『小僧』が何歳までっていう線引きも無いし」「あ、ああ……?」小声で交わされる珍妙な会話は聞こえていないらしい、やけに真っ直ぐな目をした男は、人差し指を悠斗へ向けてこう言った。

「羽沢泰生! 俺と勝負しろ!」
「はぁぁ!? 駄目、だめだめだめ!!」

唐突なその申し出に反応したのは、悠斗ではなく森田だった。慌てたように冷や汗を浮かべた彼は、「そんなこと、出来るわけないでしょう!」ときつい調子で男を叱る。

「そう簡単にバトルを受け付けるわけにはいきません! 羽沢は今事務所に戻る途中なんです、お引き取り願います!」
「目が合ったらバトル、トレーナーの基本だろ!? エリートトレーナーだからって、それは同じじゃないのかよ!」

滅茶苦茶な理論を並べて森田に詰め寄る男に、悠斗は何も言えず立ち竦むしか無かった。ポケモンにもバトルにもとんと関わったことのない悠斗には縁遠い話であったが、しかし偶然、同じような状況を街で見かけたことがある。有名トレーナーを見つけ、無理を通してバトルを申し込む身勝手なトレーナー。最悪のマナー違反として度々問題となっているが、結局のところ、今までこれが解決したためしは無い。
そして、こういうものを煽る存在がいるのも原因の一つだ。「エリートのくせに、にげるっていうのかよ!」「いいから帰ってください!」騒ぐ二人の声に引き寄せられて、近くを歩いていた者達が次々と視線を向けてくる。

「え? なんか揉め事?」
「なぁ、あれって羽沢泰生じゃね!?」
「は!? マジで!? なになに、なんかテレビの撮影!?」
「バトル!? バトルするんだ!!」
「おい大変だ! 羽沢泰生の生バトルだぞ!!」
「やっべー! 次チャンプ候補じゃん、ツイッターで拡散……あとLINEも送ってやらないと……!」

人が人を呼び寄せ、その様子に興奮したポケモンがポケモンを呼び寄せ、気がつくと悠斗達はギャラリーに取り囲まれていた。人とポケモン専用の道路には、ちょうど、バトルが出来るくらいのスペースを残して群衆達が集まっている。「ここまできて、やらないってことはないよなぁ!」パシン、と膝を両手で叩き、男は挑発するような笑みを浮かべた。

「森田さん、これ、やるしかないよ」
「でも、悠斗くん……あっちにしか非はありませんし、ここは理由をつけて……」
「ううん。あいつなら、こういうのが許せないからこそ戦うんだろうし、それに」

「俺、勝つから」
小さく告げられたその言葉に森田が唇を噛む。一歩前に踏み出した悠斗の姿に群衆と男が上げた歓声が、中途半端な狂気を伴って、曇天の空に響いていった。



「やってこい! クレア!」

男が放り投げたボールから現れたのは、肩口と腰から炎を赤く燃え滾らせたブーバーンだった。アスファルトを震わせながら着地したブーバーンは、口から軽く火を噴いて悠斗の方を睨みつける。

「いけ、キリサメ!」

対して悠斗が繰り出したのは長い耳を揺らすマリルリで、雨の名を冠した彼は跳ねるようにボールから飛び出した。ギャラリーの中から「かわいー」と声が上がる。割とお調子者な傾向のある彼はその方へ視線を向けながら丸い尻尾を振ったが、すぐにブーバーンへと向き直り、丸い腹を見せつけるように胸を張った。
タイプはこっちの方が有利のはず。マリルリが覚えている技を急いで頭の中に思い出しながら、悠斗はそんなことを考える。今にも雨が降りそうな天気と、どんよりした湿気も手伝って、炎を使う技は通りが悪そうだ。ここはみずタイプの技で一気に決めてしまおう――そう決めて、指示をするため口を開く。
が、その一瞬が男に隙を与えた。悠斗が考え出した時には既に息を吸っていた男は、灰色の空を見上げながら、こう叫んだのだ。

「にほんばれ!」

彼の声にブーバーンが目を光らせた途端、その空に異変が起きた。重苦しい、分厚い雲の隙間に小さな亀裂が走ったと思うと、それはみるみるうちに広がりだし、瞬く間に文字通りの雲散霧消となってしまった。その向こうから現れたのは青く晴れ渡った天空と、強い輝きを放つ太陽である。

「なに――――」

こうなるかもしれないという予測どころか、てんきを変える技があることすらよく知らなかった悠斗は明らかな動揺を顔に浮かべる。「アクアジェット!」とりあえず言葉は発されていたものの、その狼狽がマリルリにも伝わってしまったらしい。完全に出遅れた彼が水流を放った時にはもう、ブーバーンは次の技に入っていた。

「クレア、ソーラービームだ!」

陽の光の力による目映い一撃が、マリルリに向かって一直線に放たれる。確かな強さを以たアクアジェットはしかし、弱体化していたこともあって、黄金色の光線によって呆気無く跳ね返されてしまった。
キリサメ、と悠斗が叫ぶ。成す術もなく宙を舞ったマリルリは、無様な音を立ててアスファルトへ墜落した。甲高い声がマリルリの喉から響く。
「もう一回アクアジェットだ!」焦ったように悠斗が言うが、マリルリが体勢を整え直すよりも前に男とブーバーンの攻撃が飛んでくる。「させるな! ソーラービーム!」繰り返される一方的なその技を何度も喰らい、マリルリはその度に多大なダメージを負っていく。にほんばれが終わらないうちに勝負をつけてしまおうという魂胆なのであろう、連続する攻撃は暴力的な勢いすら持ってマリルリを襲う。何発目かになるそれを腹部に受け止めた彼は、数秒ふらつく足を震わせていたものの、とうとうその身を横転させてしまった。

「キリサメ!」

地面に倒れ伏したマリルリに悠斗が叫ぶ。力無く横たわった彼は耳の先まで生気を失い、これ以上のバトルが出来るようにはとても見えない。
しかし、悠斗は叫び続けた。

「頑張ってくれ、キリサメ!!」

それはバトルに疎い、ポケモンの限界というものをよく知らない悠斗だからこそ言えた、突拍子も無い言葉なのかもしれない。普通だったらもう諦めて、ボールに戻してしまうところだろうに、それでも声をかけ続けるなどは決して賢いとは言えないであろう。無駄な行動だと一蹴されてしまうようなものだ。
だけど、少なくともマリルリにとっては、そうではなかったらしい。ぴくり、と、片耳の先端が小さく動く。勝利を確信し、マリルリを見下していたブーバーンの目が、何かを察知して僅かに揺らいだ。
その時である。

「クレア!?」
「…………キリサメ!」

突如、勢いよくぶっ飛んだブーバーンに、男が悲鳴に似た声を上げる。やや遅れて、悠斗が呆然とした顔で叫んだ。
ぐち、と奥歯でオボンを噛み砕きながら、マリルリは肩で息をする。ブーバーンの隙をついてHPを回復した彼は、ばかぢからをかました疲労をその身に抱えながらも、不敵な笑みを口元に浮かべた。

「キリサメ! よくやった……!」

悠斗の声を背に受けて、マリルリが二本の足でしっかり立ち上がる。彼を支援するようなタイミングで、技の効果が消えたのか、空が再び灰色に覆われていく。ブーバーンに有利な状況が一変し、急速に満ちる湿り気にマリルリは、可愛らしくも頼もしい鳴き声を空へと響かせた。
つぶらな瞳を尖らせたマリルリに、男は「まだいける! 10万ボルトだ!!」と狼狽えながらもブーバーンに指示を飛ばす。ブーバーンが慌ててそれに応えようと身体に力を溜めるが、マリルリはとっくに動き出していた。アクアジェット。湿気のせいで行使が遅れた10万ボルトなど放たれるよりも先に、重く激しい水流を纏った彼は、ブーバーン目掛けて突っ込んでいった。

「クレア!!」

地響きと共にブーバーンがひっくり返る。その脇に着地して、マリルリは自らの、力に満ちた肢体を見せつけるかのように、得意げな表情でポーズを決めた。
声も出せず、成り行きを眺めるだけだった悠斗が息を漏らす。「…………勝っ、た」呟きと言うべき声量で発されたそれは、やがて喜びの声へと変わっていく。


「勝った…………!!」


信じられない、という笑顔になった彼をマリルリが振り返り、キザな動きで片手を上げた。その様子に笑い返して、悠斗は全身に込み上げる高揚感に包まれた。
しかし――

「……………………」
「ねえ、今のってさぁ……」
「…………羽沢、だよな?」
「あの、アレ……」

喜ぶ悠斗とは対照的に、集まったギャラリーの反応は薄いものだった。相手トレーナーも、倒れたルンパッパをボールに戻しつつ渋い顔をする。
「さあ、行きましょうか」やけに落ち着いた声で森田が言い、悠斗の背を押すようにして促した。小声で広がるざわめき、怪訝そうに見つめる視線。おおよそ勝敗がついた際のものとは呼べないその状況が理解出来ず、悠斗は困惑しながらその場を離れた。



「どういうことですか」

駐車場に停めた車に戻り、シートに座ったところで悠斗は耐えきれずそう尋ねる。彼らの後をちょこちょことついてきたマリルリをボールへとしまってから運転席についた森田は、シートベルトを締めつつ「それは」と口ごもった。
数秒、車内に沈黙が流れる。

「泰さんの、戦い方というものがありまして」

呼吸を何度か繰り返した森田が観念するように口を開く。彼がかけたエンジンの音が響き、悠斗の身体が軽く揺れた。

「シンプル、かつ的確な指示。言葉自体は少なくても全力で通じ合う。ポケモンの様子をいち早く察知して、勝敗よりもポケモンが傷つかないことを最善と考え、結果的にそれが強さを呼ぶ――それが、羽沢泰生のバトルなんです」
「……………………」
「要するに、さっきのようなバトルとは真逆、ということです」

悠斗の指の先が小さく震える。
「ポケモンに任せきり、判断を仰ぐ……なんて、羽沢泰生、らしからぬバトルでした」普通を装った、しかし絞り出すかのような森田の声が鼓膜を掠めた。

「今までのは事務所内にしか見られてないのでスランプという形でごまかせましたが……プライベートなものとはいえ、衆人環視でのあれは少し痛いところでした。泰さんは気にしないと思いますが、やはり、エリートトレーナーともなるとイメージというものもありますから」
「俺は、…………」
「いえ、でも勝てたのは良かったんですよ! ここで負けてたらそれこそ大惨事ですし、悠斗くん的にも、ほら、快挙じゃないですか!」

無理に明るいと笑顔を声を作って森田が言った。「過ぎたことは過ぎたことですし、まあ今後は、ああいうのを控えてくれれば大丈夫ですから」ハンドルに手をかけて、周りをチェックする彼は笑う。「それに今回のは相手が強引でしたしね」

「でも、あれはあれで悠斗くんらしいと思いましたよ! ああいうバトルもいいものです」

そう言いながら車を動かし始めた森田の様子は、すっかりいつも通りに戻っていたが、乗車してから一度もルームミラーに映る悠斗を見ていない。そのことを悟った悠斗は、「そうですかね」と曖昧に返して窓の外を見る。
動き出した景色の中、路地でジグザグマとバルキーとでバトルをしている子供達を見つけ、悠斗はそっと目を閉じた。





それから、家に帰った悠斗は母・真琴の剣呑な態度から逃げるように戻った自室で一人、ベッドに腰掛けて天井を見上げていた。
今日の夕方には、富田が連絡をつけてくれたという『専門家』のところへ行くことになっている。森田は一時事務所に戻り、雑務をやってから羽沢家に来るということだった。車で悠斗を送り届けた彼は、道中も、そして悠斗が降車する際にも何かを言うことは無かった。
ただ、申し訳無さそうな顔が頭に浮かぶ。泣きそうなその顔に滲み出る感情が、自分ではなく父に向けられているのは確かだった。森田はそんなことを一言足りとも口にはしないが、それでも、わかる。
自分が父に、羽沢泰生の名に泥を塗ったことは痛いほどに理解した。自分の無知が、意地が、愚かさが、父という存在を貶めることによって、父を慕う人達を傷つけることになる。忌み嫌い、目を背けていた父が自分のあずかり知らぬところでどれほど愛されていたのか。その側面を垣間見たような気がして、恐ろしいまでの後悔が襲ってきた。

(だけど――)

どうすればいいというんだ。壁に貼った、敬愛するバンドのポスターに問いかける。
どうしろというんだろう。三日三晩で作ったハリボテの人格を演じるだなんて不可能だ。しかも相手が、ずっと見ないようにしてきた父親である。どれだけ頑張っても埋められないことへの無力感と、憎むべき父のためにしなくてはならないことへの怒りが心の中でぶつかり合い、押し潰されそうだった。

「おい、悠斗」

そして間の悪いことに、父――自分の姿だが――がノックもせずに部屋へ入ってくる。そういえば今日は三限で終わるから帰ってきたのか、と思いながら「今話せる気分じゃないから」と、悠斗は泰生の顔も見ずにすげない言葉を返した。
しかし泰生はそれをまるで無視し、遠慮無い足取りで悠斗に近づく。迷惑だという気持ちを表すために悠斗は泰生を睨みつけたが、彼は動じる素振りも見せなかった。

「何の用だ」
「何の用だ、じゃない。おい、これはどういうことだ」

言いながら泰生がポケットから取り出したのは、別々にいる時には持ち歩かせることにした悠斗の携帯だった。だからそれがどうしたんだよ、そんなことを思いながらようやく立ち上がった悠斗に、泰生は唸るような声で言う。

「お前の知り合いから送られてきたんだ。『ツイッターで話題になってるけど、お前の父親大丈夫?』と、な。誰だか知らんが、お節介な奴もいるもんだ」

吐き捨てるように告げた泰生の差し出す画面を見て、悠斗は言葉を失った。
泰生の言う通り、ネット上で拡散されているらしいその動画は、先程悠斗が街中でやったバトルを撮影したものだった。あの中に正規のカメラマンがいるはずがないから、人混みからした隠し撮りであるのは間違いないが、駄目なら駄目でしっかり注意しなかったのが悪いとも言えるため口は出しにくい。何より、取り沙汰されたくないならば、森田が言うようにあんな場所でバトルをするべきではなかったのである。
有名トレーナーのプライベートバトルということで、動画はインターネットユーザー達の注目を集めていた。ただ、その注目の内容が問題だった。勝ったとはいえ、森田の言葉を借りるなら『羽沢泰生らしくない』戦い方は、大きな波紋を生んでしまったらしい。

『羽沢も落ち目だな』
『堅実だけが取り柄だったのに。今年は決勝までいけないだろ』
『つまらないバトルだけはするなよ』

まとめサイトに並ぶ辛辣なコメントに、悠斗は発する言葉も無く目を伏せた。

「こんなものはどうでもいい……しかし、お前は俺の代わりをするはずだっただろう。これではポケモンがあまりにも惨めではないか! トレーナーの無茶な言い分に……こんな戦い方、やっていいわけがない!」
「それは…………」
「どうしてお前はそんなこともわからないんだ! ポケモンの気にもなれ、こんな、自分本位な指示でまともに動けるわけがないだろう!? 考えればわかることだ、ポケモントレーナーとして発言するなら、もっと、ポケモンの心に寄り添おうと何故思わない!!」
「っ……そんなの、お前だってそうだろ!!」

怒鳴った泰生に、一瞬目を大きく開いた悠斗が叫ぶ。その大声に泰生が怯んだように言葉を止めた。

「ポケモンの気持ちを考えろ、ってお前はいつもそうだよ。ポケモンの心、ポケモンと通じ合う。言葉なんかじゃない。じゃあ……じゃあ、人間の気持ち考えたことあるのかよ!!」
「なんだと、っ……」
「いつといつも態度悪くてさ。自分本位はどっちだよ、ロクに気もきかないし愛想悪いし、母さんや森田さん困らせて! 人の気なんか、全然考えないんだもんな! ああそうだ、お前はいつだって勝手なんだ!」

一度頭に上った血はそう簡単に冷ないらしく、悠斗の口は止まらない。この、入れ替わったことによるストレスが積み重なっていたのもあって、溜まりに溜まった苛立ちがまとめて溢れ出ていくようだった。
「お前だって大変だろうから、言わないようにしようと思ってたけど」荒くなった息を吐き、悠斗は泰生の胸倉を掴みあげる。「お前、芦田さんに何言ったんだ」

「守屋からLINEきたんだよ――お前、あの人にどんなことしたんだ! 俺の顔で、俺の口で、なんてこと言ってくれたんだ!?」
「何も言ってない。ただ、当たり前のことを――」
「それが駄目だっつってんだよ!! いいか、お前はわからねぇかもしれないけどな、人はな、言われて嫌なこととか、言われてムカつくこととかあるんだよ。だから、言葉を選ばなきゃいけないんだよ、常識だろこんなの!」
「そんなの知ったことか……大体言葉を選ぶ……それは言い訳だ、どうせ本心を隠して影で笑って、嘘をついてるのと同じだ! だから人間なんて信用ならないんだ……人間なんて…………」

泰生も語気を荒げて悠斗に掴みかかる。が、悠斗は全く怖気つくことなく「『嫌い』だろ」と冷めきった声色を出した。

「いつもそうだもんな。お前。人間嫌い、人間は駄目だって。いつもいつも、そうだ」

せせら笑うように、据わった眼の悠斗は言う。

「そんなに人間が嫌いなら、どうぞ、ポケモンにでもなればいいんだ」
「っ!!」

泰生の瞳孔が開かれる。悠斗が口角を吊り上げる。
呼吸を止めた泰生の片手が固く握られ、後方へと振りかぶられた。それを察した悠斗も冷めた眼のまま同じように拳を固め、勢いよく後ろにひいたが――


「ちょっと。悠斗も、羽沢さんも、一回そこまでにして」

突如聞こえたその声と、ドアが開く音に、今にも双方殴りかかりそうだった悠斗と泰生は同時に黙り込む。向かい合って互いを睨む二人の口論を遮ったのは、無表情の中に苛立ちを滲ませた富田だった。
前髪の奥から羽沢親子を見ている彼の後ろには、気後れ気味に顔を覗かせた森田もいる。どうやら二人とも、取り次いでくれた真琴に促されてこの部屋に来たらしい。
勢いづいたところを中断されて、次の行動を図りかねる泰生に鋭い視線を向け、富田は言う。

「絶対こうなると思いましたけど。だから言ったんですけどね、余計なことを言わないでください、と」
「それはこいつが――」

刺々しい言葉に、泰生は反射で返す。が、富田の目を見て、途中で言葉を切ってしまった。
「悠斗くんも、あまり怒ったら駄目だよ」森田の、静かに、しかしはっきりした口調で告げられた言葉に悠斗も黙り込む。気まずい沈黙がしばし続き、やがて謝りこそしないものの、親子はお互いの胸ぐらを掴んでいた腕をそっと離した。

「じゃあ、行きますか」

そうして部屋に響いた富田の声は相変わらず淡々としていたが、先程のような不穏さは消えており、三者の緊張もふっと解ける。親子がそれぞれ顔を見合い、それぞれ軽い溜息をついてまた視線を外したのを見て、森田がほっとしたような表情を浮かべた。
その様子に、富田も僅かに目を細くする。「ちなみに、言っておきますけど」話題を変えた彼に、悠斗達三人は一斉に首を傾げた。「何を」言い含めるような語調に森田が問う。

「今から行くのは、無論『そういう問題』を扱う『そういうところ』ですから――」

一瞬の間を置いて、富田は平坦な声で言った。

「くれぐれも、驚かないようにしてくださいね」





富田が案内した『専門家』は、タマムシ大学から徒歩二十分ほどの街中に事務所を構えているということだった。
街中といっても華やかなショッピング街や清潔感のあるオフィス街ではなく、タマムシゲームコーナーのあたり、要するに治安があまりよろしくない地区である。アスファルトの地面は吐き捨てられたガムや煙草の吸殻が所々に見られ、灰色のビル群もどこか冷たく無機質な印象を受ける。そのくせ聞こえる音はやたらとやかましく、誰かの怒鳴り声やヤミカラスの嬌声、スロットやゲームの電子音にバイクの騒音と、鳴り止まない音に泰生や森田は不快感を顔に示した。
そんな街並みの中を縫って進み、少しばかり裏路地に入る。ドブに寝ていたベトベターが薄目を開けて、並んで歩いてきた四人を迷惑そうに見た。ヤミ金事務所や怪しげなきのみ屋、開いているのか閉まっているのか判断出来ない歯医者などを横目にもうしばらく汚れた道を行く。

「ここだ、このラーメン屋の三階」

いくつかのテナントが複合するビルの一つを指し、先頭を歩いていた富田が足を止めた。何人か客の入っているらしい、ラーメン屋のガラス戸を横目に鉄筋で出来た非常階段を昇る。脂の匂いが路地裏に捨てられた生ゴミ、及びそれに群がるドガースの悪臭と混じり合うそこを進んでいく、二階のサラ金業者、そしてその上に目的地はあった。
「あ、あやしい」森田の率直な呟きが薄暗い路地に響いた。それも無理はないだろう。三階に入っているテナントは、『代理処 真夜中屋』といういかにも不審な業者名が書かれたぺらっぺらな紙一枚を無骨な金属ドアに貼っているだけで、他に何かを知れそうな情報は無い。泰生と悠斗もなんとも言えない顔をして、汚れの目立つ、雨晒しの通路に立ち竦む。

「ちょっと富田くん、本当にここで大丈夫なの?」
「失礼ですね。ここは表向きには代理処……便利屋稼業なんですけど、今悠斗達に起こってるみたいな、あまり科学的じゃない感じの問題も請け負ってくれるんです。そういうところ、なかなか無いんですよ」
「そうは言ってもさぁ、もう少し何というか……得体が知れそうなところというか……」
「得体なら知れてますよ。僕の再従兄弟の友達がやってるんで」
「瑞樹……それは他人と呼ぶんじゃないかな……」
「ミツキさーん、富田です、電話した件ですー」

悠斗のツッコミを完全に無視して、富田は平然と扉を開ける。ギィィ、と思い音を響かせて開いたその向こうは、ただでさえ日陰になっていて薄暗い路地裏よりも、輪をかけて暗澹と不気味だった。
森田が口角を引きつらせる。泰生の眉間のシワが深くなる。「なぁ瑞樹……」まだ陽が落ちていない外には無いはずの冷気が室内から漂ってきて、いよいよ不気味さに耐えられなくなったらしい悠斗が遠慮がちに呟いた。

「あー! 瑞樹くん、久しぶり!!」

が、その時ちょうど中から出てきたのは、そんな禍々しさからはかけ離れているほどにあっけからんとした雰囲気の男だった。
見た目からすれば、目元を覆うぼさぼさの黒髪によれたTシャツとジャージ、十代後半にも三十代前半にも見える歳の知れない感じとなかなかに怪しいが、そんな印象をまとめて吹き飛ばすほどにその男の声は朗らかで明るい。スリッパの底を鳴らしながらヘラヘラと笑うその様子はどう考えてもカタギの者では無かったが、しかし恐いイメージを与えるような者でも無かった。
「お久しぶりです」「半年ぶりくらいじゃん、学校近くなんだからもっと来てくれてもいいのに」「色々忙しくて」二言三言、言葉を交わした富田は悠斗達を振り返って口を開く。

「こちら、真夜中屋代表のミツキさん。ミツキさん、この人たちです。電話で話したの」
「どうも、ミツキと申します。こんな、かいじゅうマニアのなり損ないみたいなナリしてますけど一応ちゃんとしたサイキッカーなんですよ」

おどけた調子でそんなことを言ったミツキに、泰生が「ほう」と感心したように息を漏らした。サイキッカーという肩書きに反応したのだろう、『mystery』というロゴとナゾノクサのイラストというふざけたTシャツ姿に向けていた、不快なものを見る目が少し緩められる。「サイキッカー……」森田は森田で、超能力持ちトレーナーの代名詞でもあるその存在を目の当たりにして言葉に詰まっていた。
ただ一人、サイキッカーという立場の何たるかをほぼ理解していない悠斗だけが「はじめまして」と挨拶している。それに軽く一礼で返し、ミツキは数秒の間を置いて、「なるほどね」と前髪の奥にある垂れ目を光らせた。

「入れ替わったっていうのは、君と、あなたですか。なるほどなるほど、これは……大変だったでしょう」
「あれ。俺、誰と誰が、とまでは言ってないと思いますけど。わかるんですか?」
「流石にこのくらいなら、見ればね。あとは僕のカンもあるけど」

悠斗と泰生を交互に見遣り、同情するような顔をしたミツキは「まあ、立ち話もなんですから」と四人を扉の奥へと招く。
言われるままに室内へと足を踏み入れた悠斗達は、それぞれ思わず目を見張った。勝手知ったる富田だけが、破れかけた紅い布張りのソファーに早速腰掛けてリラックスしている。

「散らかっていて申し訳無いのですが」

決まり悪そうに笑いながらミツキは頭を掻いた。その足元には必要不必要のわからない無数の書類、コピー用紙、紙屑が散乱し、事務所らしき部屋の至る所には本だの雑誌だの新聞だのが積み上げられている。そこかしこに転がっているピッピにんぎょうや様々なお香、ヤドンやエネコの尻尾、お札の使い道は不明だが、ただ単にそこにあるようにしか思えない。唯一足の踏み場がある来客スペース、富田が座っているソファーには何故か、ひみつきちグッズとしてあまり人気の無い『やぶれるドア』が打ち捨てられている。
確かに酷い散らかりようだが、悠斗達の意識を集めているのはそこではない。室内のあちこち、そこかしこにいるゴーストポケモン、ゴーストポケモン、ゴーストポケモン。もりのようかんやポケモンタワーなどを2LDKに凝縮するとこうなる、といった様相だった。

「これは、一体……」

窓に所狭しとぶら下がるカゲボウズ、ガラクタに混じって床に転がるデスカーン。観葉植物用の鉢植えにはオーロットが眠っているし、壁を抜けたり入ってきたりして遊んでいるのはヨマワルやムウマ、ゴースの群れだ。ぼんやりと天井付近を漂うフワンテの両腕に、バケッチャがじゃれついてはしゃいでいる。
洗い物の溜まったシンクを我が物顔で占拠している、オスメス対のプルリルを見て、森田が呆けたように息を吐いた。

「このポケモン達は……全員お前のポケモンなのか?」
「いえ、違いますよ。みんな野生だと思うんですけど、ここが居心地いいらしくて。溜まり場みたいになってるんですよね」

切れかけた蛍光灯の上でとろとろと溶けているヒトモシを見上げ、どこかソワソワした様子(シャンデラの昔を思い出したらしい)で尋ねた泰生にミツキは答える。「僕のポケモン、というかウチの従業員はこいつだけです」
その言葉と共に台所の方から現れたのは、お茶の入ったコップを乗せたトレーを運んできたゲンガーだった。テーブルに四つ、それを並べるゲンガーにまたもや驚いている悠斗達を尻目に「僕の助手のムラクモです」とミツキが呑気に紹介を始める。

『本日はお越しいただきありがとうございます』
「え!? 喋った!? ゲンガーが!!」

紫色の短い腕でトレーを抱えるゲンガーの方から声がして、森田が仰天のあまり叫び声を上げる。富田の横に腰掛けた悠斗は仰け反り、泰生も両目を丸くした。
「違う違う、喋ってるわけではないですよ」面白そうに笑い、ミツキはゲンガーの隣にしゃがみ込む。トレーを持っていない方の手に収まっているのは、ヒメリのシルエットが描かれたタブレット端末だった。

「ムラクモは、これを使って会話してるんです。念動力で操作して」
『そういうわけです、驚かしてすみません』
「な、なるほど……いや、それにしてもびっくりですけどね……」
「だから言ったじゃないですか。『そういうところ』なんだって、ここは」

驚いたままの森田へと、何でもない風に富田が言う。泰生はもはや驚愕を忘れ、どちらかというとゲンガーを触りたくて仕方ないらしく(しかしそう頼むのは恥ずかしいらしく)チラチラと視線を送っていた。『本当、汚くて申し訳ございません。ミツキにはよく言って、はい、よく言って聞かせますから』小慣れた感じに操作されるタブレットが電子音声を再生する。
『よく言って』を強調させながら紅の瞳の睨みを効かせるゲンガーに、「も〜、悪かったってば! 次からちゃんとするから呪わないでよ」などとミツキが情けない声を出す。そんな、当たり前のように交わされるやり取りを眺め、悠斗がポツリと呟いた。

「ポケモンにも、色々いるんだな……」

親友が漏らしたその一言に、「ムラクモさんのアレは特別だと思うけど」と富田が言う。森田は散らかり尽くした台所から出されたお茶の消費期限を気にするのに忙しく、泰生はゴーストポケモン達に内心でときめくのにいっぱいいっぱいで気づいていないようだったが、ただミツキは聞いていたらしく、長い前髪を揺らして悠斗の方を振り向いた。

「そうだね」

嘘のように澄んだ瞳が悠斗をみつめる。

「ポケモンも、人間も。色々いるもんだよ」

それだけ言って、ミツキは「じゃあ本題に入りましょうかー」と話を変えてしまう。「ムラクモ、なんか紙取って紙、メモ取れるやつ」などと甘ったれるその声色は頼り無く、先ほど悠斗に向けられた、浮世離れした神秘を感じるものとは全くもって違っていた。『その辺のゴミでも使え』悪態を再生しながらも、ゲンガーは机に積まれた本の中からノートを探し出してミツキへ放る。そんな献身的な姿を見ていた森田は、どこか親近感を覚えずにはいられなかった。
ノートでばしばしと叩かれているミツキの方をじっと見たまま、悠斗は黙って動かない。そんな彼に声をかけようとして、しかし、富田はそうしなかった。
何か言う代わりに口をつけたお茶は不思議な香りを漂わせ、喉に流れると奇妙に落ち着くようだった。消費期限のほどは、大丈夫だったようである。



「…………それで、羽沢さんたちにかけられた、っていう呪いなんだけど」

悠斗達、依頼者の向かいに座ったミツキが言う。

「恐らくは、ギルガルドの力を利用したものだ」
「ギルガルド?」

ポケモンには疎すぎるほどに疎い悠斗が素直に問いかける。その発言に泰生はこめかみの血管を浮かばせ、森田は両手で頭を抱えたが、肝心の悠斗は気づいていないようだった。
しかしミツキは嫌な顔をすることなく、「ちょっと待ってね」と近くに散乱した本や資料を漁り出す。が、お目当ての物を彼が発掘するよりも先に『これ使え』と、何かを入力していたムラクモがタブレットを手渡した。「あー、ありがと、ありがと」ヘラリと笑い、ミツキはその画面を悠斗達へと見せる。

「ギルガルド、おうけんポケモン。ヒトツキからニダンギルに進化して、そのまたさらに進化したポケモンですね。はがねタイプとゴーストタイプの複合、バトルにおいてはかなり優秀な部類ですから、泰生さんは結構お目にかかっていらっしゃるのではないでしょうか」
「うむ。そうだな、何度も苦戦したもんだ」

過去のバトルを思い出しているのか、泰生が苦い顔をして頷いた。綺麗に磨かれた画面に映し出されているのは厳つい金色をしたポケモンで、貴族っぽい気品は感じるものの、それと同時にゴーストポケモン特有の不気味さも持ち合わせている。話に参加出来る知識が無いため無言で画面を覗いていた悠斗は、なんでこのポケモンは二種類の姿が表示されているのだろうか、という疑問と、どっちにしてもなんか気持ち悪いな、という失礼極まりない感想を抱いた。この場にギルガルドがいたら迷うことなくブレードフォルムとなるに違いない。
「なんでわかったの」富田がもっともなことを聞く。問われたミツキは「僕の千里眼と、あと、さっきムラクモにお二人の影にちょろっと入って調べてもらった」とさらりと答えて「それに、呪いの内容だよ」と、タブレットをタップして図鑑説明を表示させた。

「ギルガルドは、人やポケモンの心を操る力があるんだ。昔は王様の剣として、そう……直接的な戦いで力になることは勿論あっただろうけれど、国を治めるために、忠誠心を生み出すってこともしてたんだって」
「そんな恐ろしいことが出来るんですか!? そんな……それじゃあ、まるで独裁政治じゃないですか!」
「ごもっともです。まあ、実際のところ国一つ……というか、村一つの心を操るのもほぼ無理な話で、ギルガルドの主たる王によっぽどの力が無ければ大勢の心を操るなんてことは不可能ですよ。それに、それほど力を持った王様なら、ギルガルドの霊力など無くても統治出来ますしね」

ミツキの説明に、森田は「なるほど」と安心したようだった。が、ミツキは「でも、ですね」深刻そうな表情を前髪の影の下に浮かべる。

「それが、もし少人数だったら話は別です。……たとえば、二人、とか」
「………………」
「心を操るというのは、何も考え方を変えるというだけには留まりません。根底を折って廃人にしてしまうことも可能ですし、精神だけを異世界へと飛ばしてしまうなんてことも範疇です。それに、羽沢さん方のようなことも」
「……じゃあ、悠斗たちの心を入れ替えた犯人は、ギルガルドを使ってたってこと」
「そういうことになるね。呪いの対処が二人くらいなら、そんなに実力者じゃなくてもいいだろうから……しっかし不思議なんだよなぁ」

両腕を組み、ミツキは視線を上へ向ける。何がだ、と尋ねた泰生に『妙なんだよ』と答えたのはムラクモだ。

『ミツキの千里眼や俺の影潜り……人やポケモンを通して、そのバックボーンを調べると、大概呪いをかけた相手が多かれ少なかれ見えるはずなんだ。その人に思いを向けているヤツってことだな、感情の内容がわかれば普通、その主もわかる』
「でも、羽沢さん方は、その『思い』しか見えないんです。ギルガルドによる力だということしかわからない……呪いをかけた相手の顔が、全く感じ取れないんだ」
『多分、直接呪いをかけたわけじゃないんだ。そもそもお二人とも、呪術だの魔術だのが効くタマじゃないっぽいからな。覗くくらいなら出来るが、霊感が無さすぎて効果が消えるらしい』
「ノーマルタイプとか、かくとうタイプにゴーストの技が通じないみたいなものですね!」

ミツキによる例え話に、森田が「あー、あー」と納得したような声を出した。「やっぱり」と富田も一緒になって頷く横で、羽沢父子はなんとも言えない敗北感に面白くない顔をする。
それに気づいた森田が慌てて咳払いをし、その場を取り繕うように「で、でも」とわざとらしく発問する。

「直接っていうのは、ポケモンバトルの技みたいに、呪いをかけたい相手とかける方がダイレクトに繋がってるってことですよね。じゃあ、そうじゃないっていうなら、どういうことですか。間に誰かがいるってことですか?」
「誰か、というより感情の類です。祈ったり願ったり呪ったり……そういう、何か霊的だったり神的だったりする気持ちを媒介にすると、直接は無理な場合でも呪術が通じることがあるんですよ」
『もっとも、明るい感情はうすら暗い呪いにはほぼ使えないし、もっぱら負の感情になるが……一番手っ取り早いのが、五寸釘打たれたみがわりにんぎょうを使うアレだな。そこにこもった感情から本人にアクセスする呪い』
「どうです羽沢さん。ここ最近、何か呪いをしたことは」
「あるわけないだろう」
「んなバカなことするもんか」
「ですよね」

怒気を孕んだ二つの即答に、ミツキは「すみません」と謝りつつ肩を竦めた。会話を聞いていた森田と富田はそれぞれの心中で、まあそうだろうな、と同じ感想を抱く。泰生も悠斗も、呪いどころか可愛いおまじないでさえもまともに信じていないようなタチなのだ。宗教的なことを軽んじる人達では無いけれど、かといって自分からそういう行為をするなどあり得ないだろう。
行き詰まった問答に、一同はしばし黙り込む。最初に動いたのは「でも、一応手がかりは掴めたわけですから」と伸びをしたミツキだった。

「霊力自体は嗅ぎつけたんです。地道な作業にはなりますが、ここを中心に、カントー中、ひいては世界中の……まあ出来ればそうしたくないですが……ギルガルドを探し当てて、この力と同じものを探してやればいいんです」
『何、俺たちは探偵稼業もやってますからそういうのは得意なんですよ。ホエルオーに乗ったつもりでいてください』
「色々ありがとうございます。申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします……!」
「お、お願いします!」
「…………よろしく頼む」
「なるべく早く、ね。よろしく、ミツキさん」

四者による各々の頼み方に一つずつ頷いたミツキは、「任せてください」と微笑んだ。
何かあったら連絡してください、という言葉と共に彼が扉を開けると、陽はとっくに暮れていた。一階のラーメン屋の灯りだけが路地裏を照らす。手すりにぶら下がっていたズバットが、扉の隙間から急に差し込んだ光に驚いて飛んでいってしまった。
「ここのこととか、ムラクモのこととか、御内密に頼みます」「言いたくても言えませんよ……」「そりゃあそうか」気の抜けた会話を交わしつつ、悠斗達は非常階段へ続く外に出る。薄ぼんやりとした月が見上げられるそこで、いざ帰路につこうと彼らが背を向けたところで、真夜中屋のサイキッカーとその相棒は、揃ってイタズラっぽく笑ったのだった。

『そんな場合でも無いかもしれないが――』
「この際、思いっきりぶつかってみるのもいいと思いますよ」

無言で視線を逸らし合う親子にミツキが言う。「生き物だもの、ってね」なんとも微妙なアレンジが加えられたそれに、『パクんな』という電子音声が夜の空に響いた。