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  [No.3863] 除夜の鐘は、目覚まし時計の代わりにはならない。 投稿者:Ryo   投稿日:2015/12/31(Thu) 05:31:48   45clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「しんしんと、雪が降っていた。」

雪の降る音をこの様に表現した、この文章に出会ったのはいつの頃だったろう。
そう遠い記憶ではないはずだ。少なくとも私の世界がカロスという一地方のみで終わっていた、トレーナー時代のことではない。
恐らく、この表現に出会った出来事それ自体は大した記憶ではないのだ。確か一度だけ行ったことのある、カントー地方のどこか―あえて思い出そうとするなら可能性が大きいのはタマムシだが―そのどこかで、立ち読みをしたか他愛もない雑誌を暇つぶしに購入したか、その程度のことでしかないのだろう。
どこで知ったのかは思い出せず、そのような本も手元にはない。ただこの言葉に出会った時の不思議さだけが、溶け残った雪のように私の心に残っている。
そんな音がする雪が、本当に降るのだろうか、と。

私の生まれ育ったショウヨウシティでは、雪は唸りをあげて吹き付ける潮風に、時折ちらちらと混ざるだけのものでしかなかった。
カロス各地を旅するようになってから、そうでない雪も見るようになったが、マンムーで山越えをするような北の地方の、生あるもののあらゆる熱を拒むような猛吹雪も、レンリのポケモンセンターで夜を明かした時の、綿毛のように儚いちらつきも、しんしんという音で表せるようなものには思えない。
思い出深いのはミアレにしばらく滞在していた時に見た雪である。旅の資金も旅をする気力も尽き果てていた当時の私は、レストランでアルバイトをしながらこの先の身の振り方を考えていた。そんな折に私と友人たちはレヴェイヨンの雰囲気に誘われて街中に出たのだった。
人もポケモンも浮き足立っていた。あちこちで人々がシャンパンを飲み交わし、ピカチュウややジグザグマのような小さなポケモンはゲームでもするように足元を駆けまわり、「Le reveillon(夜明け、目覚め)」の意味そのままに光るネオンに浮かれたポッポやらヤヤコマやらがでたらめに飛び回る。ポケモンバトルやコンテストのようなものに興ずる者もいたが、みんな酔っ払っているか盛り上がりすぎているかで,どれひとつまともな試合にはなっていなかった。
いよいよ年が変わる、そのカウントダウンが一斉に始まったという時だっただろうか。あの白いものがひとつ、ふたつと舞い降りてきたのは。人々の熱を帯びたカウントと共にその白は数を増し、やがていくつもの花火が夜空を染め上げる瞬間。「Bonne anne!」の声とともに抱き合い、写真を撮り、酒を煽る人々の上に、主人に抱きつき、花火に驚き、それぞれの顔ほどもある大きなポフレを頬張るポケモン達の上に、雪は祝福の紙吹雪のように、その白い花弁のような雲の欠片を振りまいたのであった―

ここ、ジョウトのエンジュシティの旅館の一部屋でそのようなことをふと思い出したのは、障子の向こう側、大晦日の古都に降る雪の音に気づいたからである。
その音はあまりに微かで、それそのものを表す言葉を私は持たない。それでもその音が聞こえるのは、外から何も聴こえてこないからだ。―その雪の音以外は。
エンジュには有名な寺社仏閣が多くあり、大晦日となれば初詣に大勢の人が訪れると聞いた。ならば外を出歩く人もいように、まるで外の世界には雪以外何も存在しないかのような静けさである。
ああ、これがそうなのか、と私は静けさの中に絶え間なく響くその音に耳を傾けながら、はたと気づいたのである。
この街では、確かに、しんしんと雪が降っている。他の全ての音をその白に埋めて、ただ、しんしんと降り続いている。

機材を詰めたリュックをちらりと見やって、外に出るべきかどうか、しばし思案した。と言っても、大晦日のエンジュを写真に撮るために来たのだから、何れにせよ外に出る他は無いのだが、今出るよりは雪が止むのを待ってから出発したほうが良いだろうか。
迷う私の視線に目を合わせてきたのは、障子の少し手前で身を横たえ、穏やかに安らいでいたキュウコンだった。障子の側と私の顔を交互に見やり、神秘的な赤い瞳を2、3度瞬きさせた。その表情には少なからず期待の色があった。9本の見事な尻尾のうちの1つが、心の中を隠し切れないように小さく畳を叩いている。炎タイプの彼女なら雪模様でも問題ない。外へ行くにも迷いなく付いてきてくれるだろう。
さて、と私は部屋にいるもう2匹の側に目を向ける。部屋には私の分の他に、もう1つの布団が敷かれている。そこに寝かされているポケモンの傍らにいたもう1匹が、私の視線に気づいてこちらを向く。それから注意深く、布団で眠りについている、彼か彼女か分からぬその冷たい体にひんやりした手で触れて、またこちらを向いて首を横に振った。
そうではない、今は外に出るかどうか迷っているのだ、という言葉を殺して、私は苦笑いで頷きを返す。私の長年の相棒はどうにも察しが悪いが、そこがまた愛しい。それに彼は、雪の日に外に出るかどうか、などという些末なことよりもずっと重い問いの前で立ち尽くし続ける私の姿を見過ぎている。それこそ私がトレーナーとして旅に出た年から。
彼はゲッコウガで、私の最初のパートナーである。布団に寝かされているポケモンを案じているのは、その岩の体がいつまでも全くの無機物のように冷たく、その宝石のような瞳に光が点ったことが一度足りとも無いからである。
そのポケモンの名はメレシー。私と出会い、私のパートナーとなってから13年の時を、ずっと眠り続けたまま、今もこうして目を覚まさずにいる。私と出会う前の何千万年、もしくは何億年の間を眠りのうちに過ごしていたかは、分からない。

***

私のゲッコウガは、ケロマツとして私と出会った時から強く、優しい友であった。いつでも私の前に立って、剣のように道無き道を切り開き、盾のように恐ろしいポケモンから身を守ってくれた。トレーナーとして才があったとは言えない私の拙い指示も、できるだけそれが最良の形となるよう全力で応えてくれた。
初めてのパートナーがそのような出来た性格であったことは、きっととても運の良いことなのだろう。しかし腕の良くなかった私には、トレーナーにとってあまり良くない心を引き出す元ともなってしまった。
私はあまりにもケロマツに頼りすぎていた。「あわ」を指示すれば「バブルこうせん」のような勢いで無数の泡玉を敵にぶつけ、「いあいぎり」で道を作るよう指示すれば、作り上げた道の上に残った木や草の残骸まで邪魔にならないよう道の端までどかしてしまう。旅立ったばかりの私にとって、このようなパートナーが側にいればそれだけでもう十分だった。そうしているうちに、私はもはや他のポケモンとゼロから信頼関係を構築していくことなど全く考えられなくなってしまったのだ。
そんなわけで随分と長い間私のパートナーはケロマツ一匹のみであった。同じ時期に旅立った友が2匹、3匹と手持ちを増やしていく中、私はゲコガシラとなった我が最良のパートナーとふたりきりで修行に明け暮れていた。
映し身の洞窟で、私とゲコガシラは動かぬ脆い岩を相手に、技のタイミングを図り、フォームを確認していた。あの洞窟の岩は鏡のように光るから、そういうことには打って付けなのである。
遠くから「バブルこうせん」を放てばもろもろと崩れる岩は「いわくだき」が無くても容易に砕けそうではあったが、ゲコガシラはそこへ容赦なく「いわくだき」を叩き込んでいく。実戦では岩などではなく、動き、攻撃してくるポケモンが相手なのだから、手加減などしていられない。
それを何度繰り返したろう。時間の感覚も無くなってきた頃だった。これが終わったら休憩にしよう、私のその言葉を聞いたゲコガシラは、疲れきった身体に渾身の力を込めて「いわくだき」を放ったのだ。轟音とともに瓦礫と化した岩の中からあのメレシーが転がり出てきたのは…まさにその時だった。

始めは近づきながら、恐る恐る声をかけてみた。次は揺さぶってみた。それからその冷たい身体を何度も手のひらで叩き、耳と及ぼしき箇所に向かって大声をかけた。
初めて見るポケモンだったので、普段どのような様子でいるのが正常なのかは分からなかったが、土埃にまみれて横たわり、虚ろな光を湛えた両目を宙に向けたまま、何を言っても何をしても反応しないその姿は、どう見てもまともな姿には思えなかった。
ゲコガシラが水をかけようとして躊躇する。その体は磨かれぬ原石のような岩の塊でできているのだ。ポケモンの放つ、エネルギーを持った水を受けたらそれこそ致命傷になりかねない。
それとも、もう―最悪の可能性が頭に浮かび、私は身震いした。ずっと鞄の底に眠っていたモンスターボールを何の躊躇もなく取り出したのは、その可能性をすぐにでも、少しでも取り払いたかったから、という気持ちがあったのも否定出来ない。
果たして、その物言わぬ身体がモンスターボールに収納されたことで、このポケモンの内に宿る命は証明され、同時に保証された。私とゲコガシラがその後、一も二もなくポケモンセンターに走ったのは言うまでもない。

メレシー。宝石ポケモン。タイプは岩とフェアリーの2つを併せ持つ。
生まれてから数億年の時を眠りながら過ごし、近年になってカロス地方で姿が見られるようになったポケモンである。その生態については未だ分かっていないことが多く、私の捕まえた個体の不可解な眠りについても、有益な情報は得られなかった。尤も当時10歳の私にできることといえば、ポケモンセンターのジョーイさんを問い詰めることと、プラターヌ博士に電話をかけることだけだったが。
ジョーイさんと博士は、口調こそ違えど言うことは同じだった。即ち、メレシーは数億年もの間眠っていたようなポケモンだから、ちょっとやそっとでは目を覚まさない個体もいるかもしれない、と。そしてどうしたら今すぐ目を覚ましてくれるのかについては言葉を濁すばかりだった。
戦うこともできないのでバトルにも出せず、触れても話しかけても応えず、どこへ連れて行ってもその瞳には何も映らない。何も捕まえなかったのと同じ、と言ってしまえればまだましで、これではただの石をボールに入れて、6匹の枠の1つを無為に潰しているのとほぼ同様であった。だが、ゲコガシラとふたり、マイペースで進んでいた私の旅は、この時を堺に全く変わってしまった。
最良で最強のパートナーが一匹いればいい、と事あるごとに言っていた私の手持ちは、メレシーを捕まえた翌週の終わりには4匹に増え、シャラシティにて3つ目のバッジに挑もうと言う時にはフルメンバーになっていた。戦えないメレシーの分を数で補おうとしたわけである。ただ、あまりにも突然やり方を変えたためにメンバーの統率は取れず、それぞれを十分に鍛えることも叶わなかったため、ジムリーダーのコルニには全く歯が立たずに終わった。

「そのメレシーはさ、きっとまだ目覚める時じゃないんだと思う。私もメガシンカのコツが全然掴めなくて、ルカリオと随分苦労したんだけど…でも、いっぱい修行して、いろんな事を試してみて、ある時スッと『ああ、こうやればいいんだな、こうやれば力を使いこなせるんだな』っていうのがお互いに分かったんだ。だから、こうして今は眠っていても、諦めずにあなたがいろんな事を経験させてあげれば、それはちゃんとメレシーの経験にもなると思う。それで、いつか目覚めてあなたの事を助けてくれる時が来ると思うよ、きっと」

メガルカリオの前に手持ちが総崩れになり、最後に一匹残ったメレシーの姿を見、私の話を聞いたコルニが私に贈ってくれた言葉である。この時私はあまりの不甲斐なさに、メレシーを手持ちから外すことも考えていたのだが、コルニの言葉でその選択肢は永久に失われることとなった。ジムを出る頃には、むしろこのメレシーを起こすことこそが自分の使命だという気にさえなっていた。
だが、実質5匹しか連れ歩けない旅路は決して楽なものではなかった。タイプを揃えて穴のないパーティを作るにもどうしても範囲が限られるし、苦労して揃えたポケモンの中には一向に起きる気配を見せないメレシーの姿を見てあからさまに侮るような態度を見せたり、不服そうにする者もいた。例えばヤナップなどは身振り手振りで「自分ばかりが戦ってこいつが寝てばかりなのは不公平だ、こんなやつと一緒にいたくない」というようなことを伝えてきたので他のトレーナーに預ける他なくなり、ヤンチャムに至ってはメレシーが全くの無抵抗なのをいいことにふざけて顔面にチョップを叩きこもうとしたので即日交換となった。
数だけいてもパーティの足並みは揃わず、かと言ってゲコガシラだけで旅を続けるのが厳しいことも既にその頃の私には分かってしまっていて、いつしかバッジ集めの旅は完全に停滞してしまった。
ショウヨウシティを出てから2年程が経過した頃、私は旅の照準をメレシーのことのみに合わせ、およそ名前を知るあらゆる研究機関にメレシーの症状についての手紙を書き、各地の研究所を訪れた。バッジが集まっていないため各地の移動は全て公共交通機関である。が、交通費と切手代をいくら費やしても、既知の情報以上の実りある成果は得られなかった。駄目元で化石研究所に赴いたこともあるが、化石に残った情報からポケモンを再生することはできても、眠ったポケモンを起こすことは(たとえその眠りが遥か古代から続くものだとしても)管轄外だと申し訳無さそうに言われただけだった。
道具については試さなかったものが思いつかないほどだ。ショボンヌ城の城主に頼み込んでポケモンの笛を吹いてもらったのは言うまでもない。ねむけざまし、カゴの実及びそれを使った沢山の料理やジュース、げんきのかけらやげんきのかたまり、果てはなけなしの資金をはたいてホウエンから取り寄せたあおいビードロ。そのどれか1つでも効果を発揮していれば、運命は全く違っていただろう。恐らくトレーナーを辞めることもなかったろうが、ここまでくると私の中には「これだけやっても起きなかったものが、笛や木の実の1つであっさり起きてたまるものか」というある種の諦観、いやもっと言えば「そう簡単に起きてほしくない」という完全にひねくれた気持ちまでもが心の底に生まれてしまっているのだった。
そうして私は結局何ひとつ得ることができず、かと言ってこのような状態で故郷に帰ることもできず、ひとまずミアレの安アパートに身を寄せたのである。15になろうかという歳だった。
そして、あのレヴェイヨンの雪景色の思い出に繋がるのである。

***

障子の外の幽き音は今は止み、ただ古都エンジュは新年を静かに待つのみと言ったところである。
布団に包まれても熱を帯びないメレシーの身体の、人で言えば右肩の辺りから生えた半透明の水晶が蛍光灯に照らされて鈍く光っている。
キュウコンがすくっと立ち上がり、足早に私に近寄ると、頭をすり寄せてきた。その耳の後ろを優しくかき撫でてやりながら、豊かに輝く金色の尾を見つめていた。
このキュウコンは私がトレーナーを引退し、フリーのカメラマンとして世界を旅するようになってから譲り受けたポケモンである。もう高齢となり、自身のポケモン達の世話が難しくなった前の主人は、震える両手で私の右手を握り、何度も何度も、こちらが申し訳なくなるほど頭を下げて彼女の残りの命を私に託したのである。
キュウコンは千年生きると言われているが、それはまだ実証されたわけではない。そうした正式な記録は残っていないのだ。ただ、歯から年齢を推定した凡そ250歳のキュウコンがどこかの研究施設で飼われている、という記事はどこかで読んだことがあるから、おそらく私もあの老人のようにこのキュウコンの命を誰かに託す日が来るのだろう。
その時、彼女はどういう顔をするだろうか。こうして彼女の毛並みを優しく整えてやるとき、私はどうしてもその事を考えざるを得ない。前主人の宅から私のアパートへ移った当初、彼女は私に近寄ろうともせずに、ただこちらに背を向けて、窓枠で四角く切り取られた空を見つめているばかりであった。その背中にどれほどの悲しみを背負っていたのか、私には軽々しく想像することは出来ない。
そして彼女の辿った(そしてこれからも辿り続けるであろう)運命について考える時、自然と私が直面し続けている問題にも新たな問いが生まれてしまう。
千年を生き、千年の移り変わりを見つめ続けるポケモンが感じる悲しみを、数億年を眠りの内に過ごし、今も悠久の時に身を任せたままのポケモンが感じるものなのだろうか、と。
そして沢山の思い出を共にしたキュウコンならば、かつての主人のように別れをしっかりと悲しみ、きっぱりと人に託すこともできようが、このメレシーについてはそれができるのだろうか、それが正しいのだろうか、と。
若しくはこの清き妖精が眠っていたあの洞窟に、再びその身を返すことが、もしかしたら正しいのではないのか、と―

キュウコンはいよいよたまらないというように、私の側を離れて誘うような足踏みを繰り返している。
ゲッコウガはまだその幅広の手のひらでメレシーの額を撫でていたが、やがて顔を上げてこちらを見た。
私は3匹の方を見て頷き、キュウコンを除いた2匹には一旦モンスターボールに入ってもらった。ゲッコウガは雪の夜に長く連れ歩くポケモンではない。良い景色に出会えたらそこでボールから出し、撮影に付き合ってもらったり景色を共に楽しんだりするつもりだ。
メレシーについては―正直分からない。ただ言えることは、レヴェイヨンの花火でも目を覚まさなかったこのポケモンが、エンジュの静かな年越しに誘われて目を開くようなことはなさそうだ、ということだ。
宿の主人に断りを入れ、キュウコンを連れ、私はエンジュシティの大晦日の夜に繰り出した。辺りには道路を埋めるほどの雪が降り積もり、キュウコンは足跡を残すのを楽しんでいるのか、雪を踏みしめる感触を楽しんでいるのか、機嫌よく隣を歩いている。

私達の泊まった宿は、エンジュを代表する二つの大きな塔へ向かう真っ直ぐな大通りから横道に入り、さらにその脇に入った位置にあった。直角に2回ほど曲がって大通りに出ると、白に染まった街の歩道の上に黒い影が列をなし、数人ずつで固まりながら、静々と塔の方に向かっていくのが見えた。時折その固まりの中に人でない等身のものが混じるが、それらも余計な騒ぎは起こさずにただ列をなして歩いている。私とキュウコンもその列の一部になり、粛々と塔のある方向を目指し歩き始めた。
歩きながらも私は時たま顔を上げてシャッターチャンスはいつだろうと様子を伺うが、人とポケモンの群衆が視界の下半分弱を覆うその度に、今はまだだと気を取り直す。移動中なので、何かに気を取られてもすぐさま撮り始めるわけではないが、いつの間にか身についた習性のようなものだ。
横を歩くキュウコンが、不意に何かに驚いたように耳をぴくつかせた。ウルル、と小さく唸るのは、何かの衝動を堪えているような声だ。何があったのだろうと不思議に思ったが、塔が少しずつ近づくと共に、その訳は私にも分かった。聞き慣れない、低く重い音がどこからか聞こえてくるようなのだ。その音は一定の周期を置いて新たに生まれ、しんと静まった冬の夜の空気を震わせている。
「―cloche?」
思わずカロスの言葉で呟いた私に振り返った者がいた。
「あらぁ、ガイジンさん?」

屈んだほうがいいだろうか、と思うほどそのお婆さんと私は身長差があった。揃って振り向いた幼い姉弟は孫だろうか。子どもたちは振り向くなり私のキュウコンを見て
「わあー!きつねさんだ!」
「すごくきれい!」
と小さな歓声をあげた
先程まで私達が参加していた黒い列は、私達を静かに避けて目的地へ向かっていく。お婆さんはニコニコと返答を待っているようなので、私はそれとなく道の端へ移動しながら、こちらの地方の拙い言葉で返事をした。
「はい、私は写真を撮りにカロスの、ミアレから来ました」
そうかいそうかい、と微笑むお婆さんの隣で、小学校に上がるかどうかの歳に見える小さなお姉さんは私を見てはしゃいでいる。遠く海を隔てたような地方の人間を見るのが初めてなのかもしれない。花が咲いたような笑顔を見せるお姉さんの横で弟さんはただキョトンとするばかりで、それが何だかおかしかった。
「うちはな、息子が当直で今夜も帰らないし、嫁は3人目が生まれたばっかりやから、わたしがこうして初参りに連れて来たんですけれども…」
まずい、と私の中で何かが叫んだ。恐らくこの後適当に切り上げないと、長いことお婆さんの家の話が続いてしまう。それはいいのだが、せっかくの大晦日の写真が撮れなくなってしまうのはまずい。
曖昧に頷きながら話を終わらせるタイミングを伺う中で、またあの低い音が長く響いた。キュウコンが身を震わせ、小さく「オーン」と応えるように鳴いた。
「ばあば、きつねさん、おへんじしたよー」
「ジョヤのカネだよ」
弟さんがお婆さんに先ほどの「きつねさん」の様子を興奮気味に報告し、お姉さんは私のキュウコンに耳慣れぬ言葉を告げて、怖くない、怖くないと言ってそっと頭を撫でた。
「ジョヤのカネ、cloche?」
私は何となく音のしている方向を指差しながらお婆さんに尋ねる。話を逸らすタイミングをくれた小さなお姉さんに、心の中で感謝した。
お婆さんは何となく意味を分かってくれたようで、こう話してくれた。
「あの、あそこに塔がふたぁつあるんは分かりますか。あの奥にお寺がありますんや。今並んではるのはみぃんなそのお寺さんに行く人達です。鳴っとるんは除夜の鐘言いまして、108個の煩悩、あぁ煩悩言うのは人間の、まぁ良くない気持ちのことですけども、それを綺麗になくしてしまおう言うのが除夜の鐘です」
お婆さんはゆったりした口調でそう語ると、一呼吸ほどの間の後に、茶目っ気たっぷりの笑顔で
「オーケー?」
と付け加えたので、私も思わず吹き出してしまった。オーケー、オーケー、と笑顔で返事をしながらも頭の中は言われたことを理解し、消化するのに必死だったのだが。
心の良くないものを綺麗にする鐘。繰り返し鳴り続ける低音について、そこまで理解が追いついた時、私は自然と一つのモンスターボールを取り出していた。
腕の中にその姿を受け止められるように姿勢を取りながら開放すると、その岩と水晶でできた体は思った以上に重たく、そして氷タイプと見紛う程に冷たかった。
お婆さんが細い目をますます細くしてその見慣れぬ姿を捉えようとしているうちに、子どもたちは可愛い、きれい、うさぎさんみたい、と飛び跳ねて喜び、名前を聞いてきた。
メレシーの名を告げ、何のポケモン?という問いには、宝石そのものを表す言葉がわからなかったので、「le diamant,le rubis, le saphir…」とそれぞれの石の名を挙げていくと、お姉さんのほうが答えを見つけたようで、弟に「ダイヤモンド、ルビー、サファイア、だから、きっとホウセキのことだよ」と教えてあげていた。
清めの音が再び空気を長く震わせていく。私はそれとなく腕の中のメレシーに目を落としたが、何も変わった様子はない。私は微かに落胆しながらも、どこかで「やはり」と思う自分に気づいていた。そもそも、清めるような良くない心が芽生えるほどの自我が今、この岩の身体の奥にあるのだろうか?そのような心が芽生えるきっかけにすら、まだ辿り着いていないのではないか。出会う前の数億年に、出会ってからの13年を足しても。
本当に清めるべきなのは、本当は私の―
「大人しうて、かあいらしい子ですなぁ」
お婆さんがそっと手を伸ばしてきたので、屈んでその滑らかな岩の表面を撫でてもらうと、お孫さんたちは僕も私もと、手袋をはめた小さな手を思い切り伸ばしてきた。それぞれの手が岩の部分や水晶の部分に触れる。手袋越しでも分かるらしい冷たさと闇夜に光る水晶のきらめきは、小さな子どもたちにこのポケモンが氷タイプだと思わせるのに十分だったようだ。本当のタイプを教えると、姉弟は目を丸くして驚いていたが、今度は彼女らが放った言葉に、私のほうが驚かされることになる。
「ねえこれ、あかちゃん?」
腕の中でやはり眠ったままのメレシーを指差してそう言ったのは、弟さんの方だった。私はたじろいだ。どう答えたらいいものかわからなかったのだ。このメレシーに対して何かを思う時、その背景にある数億年という時間はあまりに大きすぎ、他の全てはその時間の前に霞んでいた。赤ちゃんだとか年寄りだとか、そういう観点を持ったこと自体がなかったのだ。しかし今、鐘の中でうっすらと思ったことは、つまり、
「そっか、ねてるもんね」
さっきまでのはしゃぎようから一点、声を殺して小さなお姉さんが囁いた。立て続けに2本の矢を射られたように心臓が跳ねた。
「あぁすみません、弟が生まれたばっかりで、こうやって抱っこされて寝てるポケモンさんを見ると、赤ちゃん、赤ちゃん、言うんですわ」
お婆さんはそんな孫達が愛しくて堪らないような笑みでそう言うと
「ほんまにおとなしく寝てはりますなあ」
と、メレシーに同じ微笑みを向けて言ったのだった。
ずっと同じ所に立っているのに飽きたらしいキュウコンが私の膝のあたりに前足をかける。そのまま私の体を寄り代にすっかり立ち上がってしまうと、メレシーに鼻先を近づけ、不思議そうにふんふんと鼻を鳴らした。
そのキュウコンの行動にバランスを崩した私は、背筋を立てなおしてメレシーを腕の中にしっかり落ち着けた。心地よい重みが感じられた。もうそれは私の中で、化石の親類でもなく、モンスターボールに入ってしまった石の塊でもなく、安らかな眠りに満たされた小さな赤ちゃんになっていた。
ゆっくりとその堅く小さな体を揺する。キュウコンが私の動きに呼応するように尻尾を揺らす。彼らの背景にある時間が何千年でも何億年でも、もはや関係なかった。私たちは今ここで一緒にいて、これから新年を迎える。そうしたら沢山の写真を撮ろう。悠久の時に見とれていたら、うっかり見過ごしてしまうような瞬間を残らず撮ろう。そう思うとボールの中に入れっぱなしのゲッコウガの顔が早く見たくなり、私はお婆さんと小さな姉弟に会釈すると、塔の方へ急ぐべく足早に歩き出した。
だがその歩みはただの数歩で止めなければならなくなった。前を急ぐキュウコンが立ち止まって振り向いたようだが、それはよく見えなかった。私は確かに感じたのだ。腕の中の清らでつややかな体の奥で、大きな鼓動がひとつ、ドクンと脈打ったのを。
その感覚が幻でないか確かめる間もなく、2つの青い瞳がぱっと鮮やかに色づき、その奥に私は確かな命の色を見て取った。
「おはよう」
平静を装おうとして、それでも震える私の声に、硬い岩でできているはずの細長い耳がぴくりと動く。
今では何が起きたのかすっかり理解したキュウコンが、興奮気味に尻尾を上げて駆け寄ってきた。片手でメレシーを支える一瞬に、少し古びたモンスターボールを開放して、ゲッコウガを放つ。一目で待ち望んだ瞬間が訪れたことを理解した彼は、雪の寒さも忘れてメレシーに何事か話しかけ始めた。
「あかちゃんおきたの?」
「みたいみたい!」
子どもたちの声と駆け寄ってくる足音が聞こえる。恐らくその先で、お婆さんは優しい笑みを浮かべて孫達を見守っているのだろう。
何度目かも分からない鐘が、低く鳴り響く。新年までに塔の先にあるというお寺につくにはもう間に合わないかもしれなかったが、今この瞬間に代えるべき時などあるだろうか。
絶対にない、と口に出す代わりに、私は腕の中の、たった今の生まれたての小さな命を強く抱きしめた。


  [No.3869] Re: 除夜の鐘は、目覚まし時計の代わりにはならない。 投稿者:ionization   投稿日:2016/01/03(Sun) 15:42:23   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

はじめまして。年越しのお供にしました。いろいろな活字のバックボーンを思わせる文体から、それぞれの地の真冬の緊張感、浮かれた空気感がよく伝わってきます。
3年前カロスの鏡の洞窟でメレシーの外見に一目惚れした(シンボラーやニャスパーの冷静そうな所が好きなんですよね)
のを思い出します。キュウコンの千年は有名ですが、彼等の寿命が数億年なのは言われて虚をつかれました。
まさに今長い命を歩みはじめた彼(女)にはしんしんと降る雪が似合いますね。
『にじのタマゴ』の人間サイドの思いやりも覚えてます。

ひとつ気になったのは、主人公は納得しているのでしょうが、メレシー一匹のために尽くしている姿(主にトレーナー
人生後半)を見ていると、少しだけゲッコウガ達が不憫に思えました。

思ったより年末年始要素は少なかったけどいい話でした。ありがとうございました。


  [No.3874] ありがとうございます。 投稿者:Ryo   投稿日:2016/01/06(Wed) 22:52:44   57clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

ionizationさん、感想ありがとうございます。
メレシーという種族の寿命や時間の捉え方、数億年という年月を過ごしてきた生き物と一緒に生きていくというのはどういうことなのか、ということについては、結構前から何度かツイートしながら考えていたことでした。
大晦日に間に合わせるために数日で書いてしまったのですが、もうちょっと大晦日のエンジュの色んなシーンを書き込みたかったなというのは反省点です。特に最後のほうがちょっと駆け足になってしまったのは心残りですね。
何はともあれ書こうと思えば数日でこれくらいの量が書ける、というのは自分の中で収穫でした。次に繋げていきたいです。ありがとうございます!