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  [No.3894] エンジュ大学・前期・二次試験 投稿者:浮線綾   投稿日:2016/02/19(Fri) 21:00:50   68clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



エンジュ大学・前期・二次試験



 一次試験の判定はDだった。
 一次試験の結果を自己採点しその点数を予備校に提出すると、その時点での志望大学の合格率を判定してもらうことができる。その自己採点のために高校では午前の数時間が与えられ、そしてその点数の提出が終われば、午後からは二次試験の個々の勉強のために三年生は解散となる。帰って遊ぼうが勉強しようが、自由だった。
 最大で三つか四つの予備校に結果判定を申請できるのだったが、自分はさっさと帰って愛するポポッコの傍で勉強したかったので、クラスの中でも一人だけ一つの予備校にしか申請しなかったら、申請用紙を待ち構えていた教師に「一つしか提出しないのか」とでも言いたげな微妙な顔をされた。
 そんなわけで、その日はクラスどころか学年の中で浮きつつ一人でさっさと家に帰った。一人だけ浮こうが気にはならない。人間に興味などない。人間の多い場所に可能な限りいたくない。
 時計の分針は5分か、20分か、35分か、50分。それらの分数を示しているときに高校を出て駅まで向かえば、15分おきに出発する電車の乗り換えがスムーズに完了する。
 さっさと帰ってポポッコに会いたい。春の若草色のポポッコに。


 そしてその数日後、担任から一枚だけ渡されたものが、D判定だった。
 ABCDEの五段階判定の下から二番目。貴殿の第一志望の大学の合格率は一次試験の時点で3割以上5割未満だ、とその紙片はぬかしやがっているわけだ。
 結果にいちいち動揺するまいと決めていたから、特にショックも受けなかった。一目見た判定用紙を即座にファイルの奥に突っ込み、その存在を抹消してふんぞり返ってやった。
 それに、むしろ都合がいいのだ。もしここでうっかりA判定など出てしまえば、お調子者の自分は舞い上がってしまい二次試験に向けての勉強を怠るに違いない。それは中学から六年間、定期試験において絶えず成績の上昇と下降を繰り返してきた自分に対する分析からして、統計学的に確実な事といえた。
 虚勢ではないことを客観的要素により補強主張しておく。志望するエンジュ大学の入試の点数配分は、一次試験よりも二次試験の方が大きいのだ。自分は一次試験対策よりも二次試験対策の方に力を割いている。勝算はある。



 生まれた時から、ポケモンは好きだった。
 特に緑色のポケモン、草ポケモンを愛していた。おかげで部屋の片隅には草ポケモンを中心としたぬいぐるみが山と積まれた。
 物心ついた時にはお人形遊びならぬポケモンぬいぐるみ遊びに明け暮れ、最強のオリジナルポケモンを百種類以上も作っては空想のポケモン王国を築いた。幼稚園のスモックの背中には等身大のチコリータのワッペンを縫い付けてもらった。小学校に上がる頃には、姉が途中で投げ出したポケモン育成ゲームを自力で攻略本を読んでクリアさせたし、毎日のように友達と道端や公園でポケモンごっこ、トレーナーごっこをした。
 次第に人間の友達よりも家で飼っているハネッコの方が好きになったが、それはまあ置いておく。
 幼い頃の輝かしく幸福な記憶は現在の自分にも安らぎを与えてくれる、と評価できる。
 しかし別の見方をするなら、幼かったと思う。

 小学校低学年の時のクラスでは、半分が進学組で、もう半分がトレーナー志望組だった。
 平日の午前中は分け隔てなくクラスで授業を受けるが、トレーナー組の子たちだけは午後からポケモントレーナーになるにあたっての特別授業があったと記憶している。特別授業の他にも、トレーナー組の子たちには夏休みや冬休み中のキャンプが企画されており、そのキャンプの生徒の参加費というのが無料であったから、進学組からすればそのような特別待遇を受けるトレーナー組が羨ましい限りであった。
 このように、自分の通っていた小学校は町のトレーナーズスクールの役目を兼ねており、トレーナーを志望する児童に対し様々な支援活動を行っていた。他の多くの公立小学校でも大体同じだと思う。トレーナー志望の子供に対するサービスの手厚さが、その公立小学校のステータスだったのだ。何しろ多くの児童がトレーナー志望なのだから当たり前だが。
 そのようなトレーナー組の需要や保護者たちの要求に応えるためか、小学校の教師にはトレーナー経験者が多かった。教師の手持ちのポケモンたちは授業中はボールにしまわれているが、休み時間になると児童と一緒に校庭で遊んでくれたり、技を見せてくれたり、あるいは悩んでいる時には静かに寄り添ってくれたりした。教師の手持ちのポケモンの強さや珍しさなどによってその教師に対する児童による評価が左右されることも、しばしばあった。

 そして十歳になると予定通り、クラスの半分ほどが学校からいなくなった。いなくなった彼らは本当にポケモンの世界に飛び出して行ってしまったのだ。ペットとして愛でるポケモンの世界ではなく、戦いの中に生きるポケモンの世界へと。
 自分はポケモンバトルは、テレビの向こうのものを見るのは好きだった。それは自分がポケモンバトルというものを一種の芸術と捉えていたかららしかった。
 身近なところで行われるポケモンバトルは、洗練されていなくて愚鈍で、素人が傍目にもイライラするようなものばかりで、ちっとも美しくなかった。感動が無かった。学のないトレーナーに芸術性を求めるのは無駄だと思った。
 それはそうだ、彼らトレーナーは生きるためにポケモンを戦わせているのだから。基本的に美観など彼らの知ったことではないのである。
 しかし、であればこそ、自分にとってポケモンバトルとは価値が無かった。
 美しいものを見ていたい、という願望が自分にはある。
 それはトップコーディネーターたちによる華麗なポケモンコンテストであったり、古典の調べであったり、歴史の軸として通る因果律であったりした。
 普遍なるもの、実体を見たい。
 個別具体のポケモンバトルなど、たかが一形式に過ぎないのだ。
 ただし、研究対象としてならば、バトルほど興味深い文化は無かった。古代にもバトルは芸術とされ、それは時代を下れば命を懸けた決闘、さらには多くの人命を奪った戦争となり、そして現代に至っては若いトレーナー達の生活をかけた喧嘩になっている。それら多様なバトルの根底にある真理を探ることは、また別の意味で美しく面白い。
 彼らトレーナーには、理解できないことだろうけれど。
 自分がエンジュ大学法学部を志望したのも、美しきものを求めたためだった。もちろんブランド名欲しさだとか、タマムシシティ嫌いだとかも無かったとは言い切れないが。

 エンジュ大学には、総合人間学部、文学部、教育学部、法学部、経済学部、理学部、医学部、薬学部、工学部、農学部、そして携帯獣学部の、計11学部がある。その中で最も華があるのは、やはりポケモンの研究を行う携帯獣学部だろう。
 携帯獣学部はここ数十年で携帯獣学と共に急激に発展した。政府からの潤沢な助成金に恵まれ、卒業生の進学先の可能性も無数に開けており、今や全国いずれの大学も他の学部を圧倒する数の携帯獣学部生を受け入れている。
 携帯獣学とは、医学や情報技術といったそれまで個別に研究が進められてきた分野を統合し、学界に革命を起こした、近現代最大の注目を集める学問なのである。
 確かに自分はポケモンが好きだった。
 けれど、かといって携帯獣学部を選びはしなかった。
 なぜかというと、自分はポケモンの利用可能性といった実用的な研究には興味が無かったためだ。自分はポケモントレーナーではない、学問の道を選んだ人間だからだ。
 自分が知りたいのは、「ポケモンとは何か」ということだった。それを探求することに魅力を覚えた。実利より思惟を選んだ。携帯獣学部より法学部を目指した。携帯獣学部を目指さないからといってけしてポケモンを思考から排除するわけではないし、法学部を目指すからといってけして政治家や法曹や法学者を志したわけではない。
 自分はあくまで趣味の可能性を広げるために、エンジュ大学の中でも法学部を志望したのだ。
 きっと自分の学ぶことは国を守る力にはならないかもしれないが、それでも守る価値のある社会を作ることにはなる、かもしれない。



 居間の炬燵に陣取る。すぐ傍では愛するポポッコが春の陽気色に微睡んでいる。クッション代わりに腹に抱え込みたいのはやまやまだが、休憩時間まで我慢する。代わりに裏葉色のクッションを抱える。
 自分の部屋もあるのだが、寒いし、かといって自分のためだけに暖房をつけるのも勿体ない。また、食事室でパソコンに向かっている母の気配があると、だらけずに勉強に集中できる。支える立場にある母にとっても、常にこちらの勉強している姿が見られれば多少なりとも安堵もできよう。
 数ヶ月分の勉強計画は大雑把なものだ。どの科目の問題を解くのか復習するのか暗記するのか、適当に割り振ってあるだけだ。毎日割り振られたタスクをその日どのようにこなしていくかは、その日の気分で決める。やると決めた勉強が終われば、その後はもうポポッコと遊ぶ、絵を描く、ネットをする、ゲームをする、あるいは寝る。毎日たっぷり8時間は眠る。
 高校の授業はもう、無い。大学受験は生徒に最大限放任というのが、タマムシ大学やエンジュ大学に毎年数十名(浪人生含む)の生徒を突っ込んできた我が高校の方針であるらしい。そのおかげだか知らないが卒業生の半分くらいは浪人するのだが、それすらも既に予定調和である。
 自分にとっては、高校の放任主義は実に賞賛すべきものだった。毎日のフリーな9時間ほどをデザインした通りに動かしていく。外的なストレスを極限まで減らす、自由気ままな受験生活だ。
 中学高校とそこそこ優等生で過ごしてきたおかげか、母も信頼して受験勉強にほとんど口を出すことはしない。そもそも自分と母は小学校中学年以来ろくに口をきいたことがないのだが、けして仲が悪いわけではない。母は毎日温かい紅茶を淹れてくれるし、菓子も差し入れてくれるし、三度の食事も考えて作ってくれるし、自分と一緒にポケモンのアニメを観てくれるし、自分がゲームをしていると母まで呑気に観戦しにすら来るのだから。自分は恵まれている。

 左手側には温かいストレートの紅茶、日によっては緑茶やハーブティー。お伴は甘納豆。炬燵布団はもこもこ。視界にはポポッコ。
 そして自分を取り囲む、教材の要塞。勉強道具はすぐに手に取れる位置に。
 裏が白い広告紙は自分の勉強に必須のものであるため、見つけた端から集めている。英語、歴史、古文、これらは自分にとってはほとんど暗記科目も同義であったから、覚えるべきことをひたすら白紙に書きなぐるのだ。B4一枚に5万字ほど。それを毎日、二、三枚のペースで消費する。
 シャーペンの芯は2B。量を書くうちに自分の筆圧はひどく削ぎ落された。
 数学だけは、ノートに解答を書いていた。数学は見やすく解答しなければ、自分でも途中で訳が分からなくなる。けれどグラフとか表とか筆算とかを書くために、やはり白紙を要した。図が小さいと計算間違いが増えるということも学んだ。
 書けば覚える。読むだけでは駄目だということは、中学高校での定期試験の結果から分析済みだ。数十回は同じ単語を書く。通信教育のテキストは五周はする。
 そして休憩時間には、春色のポポッコに癒される。

 けれど付け加えておくなら、そのような自由気ままな受験生活もけして楽だったわけではない。
 毎日10回は、受験に失敗したらいかに惨めな気分になるかをまざまざと想像しては、恐怖をわが身に刻み込む。その不安から逃れるエネルギーを勉強に向かうモチベーションに変える。常に身を内的なストレスにさらすという戦略だった。
 大学受験なんて初めてなのだから、そして模試も面倒くさがってろくに受けていないのだから、合格する自信などあるわけがない。勉強の手ごたえなど何もない。ただひたすら教材に載っている情報の中で未だに知らないことを、紙に書きなぐって吸収しただけだ。
 だから、これだけ努力したのだからきっと合格するはずだなどと、安易で傲慢で稚拙な期待など微塵も抱いてはいけない。不合格の場合に、「落ちた」ときに、自分がどのように落胆し、自己嫌悪に陥り、自信を喪失し、空虚を抱えるか、至極真面目に至極具体的に日夜シミュレーションを重ねた。予想できることはおおよそ、予想した時点で回避済みなのだから。
 成功した未来を思い描けば、それだけで満足してやる気を失う。だから故意に自身を精神的に追い詰めた。そのような変態行為に溺れる余裕があったのだから、やはり恵まれていると言わざるを得ない。



 二次試験の前日にはエンジュシティに入る。
 愛するポポッコの世話は父に任せ、家に置いてきた。辛い。
 ホテルや大学までのナビゲートは母に委任し、翌日の試験科目の暗記項目を軽く復習して、21時に寝て翌朝6時に起きる。九時間睡眠というのはやや寝過ぎなのだが、慣れないホテルでの疲労を取り除くためには必要なものだったらしかった。付き添いの母もこのような過剰睡眠を内心では心配しつつも何も言わないのだから、本当に自分は親に恵まれている。
 ホテルから大学まで、1km以上延々と歩く。歩くのは好きだった。交通機関を利用するより好きだ。ぼんやりと歩きながら思考をまとめる作業は至福の時である。エンジュの街は平らかで、歩くにはもってこいだった。もし合格してこの街に下宿することになれば、毎日のようにこの大通りを散歩するだろうと思った。
 二次試験に通された試験会場は、正門から入って、エンジュ大学のシンボルでもある楠の大樹と時計台の向こう、法経済学部本館の一階の大教室だったが、そこで問題が発生した。
 机が狭い。
 問題用紙や解答用紙の縦幅よりも、机が狭いのである。これには難儀した。


 国語の試験には、現代文と古文と漢文の問題がある。
 回答欄は幅のある空欄。この空欄の幅から、どれだけの量の解答を本文中から抽出しなければならないかを判断することになる。
 先に設問を読み、次いで暗号の羅列のような現代文の文章を読む。これが物語とか随筆ならまだマシなのだが、評論となると本気で何を述べているのか分からなかったりする。自分が分からないときはたいてい他人も分からないので、焦る必要はないが。
 現代文とはいえ、ほぼ暗号文に変わりない。そういう時は、英文読解の時のように句ごとに補助記号を書き込み、文法的解読に努めることにする。言い換え部分を探し、問題文と意味の合致しそうな箇所を探し、そして解答の字は丁寧に、解答の文法にも気を付けて。
 国語の問題を解く“鍵”は、持ち前の知識ではない。
 “鍵”となるのは、設問だ。
 国語の問題を解くということは、すなわち設問という“鍵”を手に、文章という“扉”を精査し、“鍵”に対応する“錠”を探していく作業だ。
 いかにして“錠”を選び取り、そして“鍵”をどのように使うか、それが問われる。
 塾や通信教育などはしばしば「この要素が書けていたら+3点」などとほざくが、自分はそういった自己本位で画一的な採点基準というものを信用していない。
 なぜかというと、少なくともエンジュ大学の入試の国語で問われているのは、大学生が学術論文を問題意識をもって読み取る、その能力が備わっているか否かということであるためだ。
 文章をどのように解釈するかは、人それぞれだ。視点がどうであれ、採点する大学の人間が納得できさえすればいいのだと考える。そのため、単純な語彙といった知識よりも、妄想力だとか、問題文のテーマに関する諸説だとかの方が役に立ったりする。
 国語の試験の心得としては、解答を書く際に、ざっと目を通しただけで意味内容が理解してもらえるように、主語述語をきちんと揃えるようにしておく、ということを挙げておく。


 地歴の試験は、歴史2科目を選択しておいた。法学部のくせに公民科目による受験を受け付けないのが興味深い。
 正直法学部は地歴科目の配点が低いので、国語や数学や英語ほど念を入れて準備したわけではない。問題集や通信教育のテキストに出てくる単語をひたすら暗記していただけだ。
 歴史の問題については、知識という“鍵”をもって臨むほかない。
 両手にどれほど多くの“鍵”を抱え込めるか。問われているのはそれだけなのだ。


 英語の試験は、和訳が2問と、英訳が1問だけだ。合計たったの3問だが、それぞれにしっかり分量はある。
 ところで、この英語の試験ほどエンジュ大学とタマムシ大学の違いがはっきり出ているものはないだろう。
 タマムシ大学の英語は、定型句を確実に正確に使えるかというものを試すものであるらしい。自分はタマムシシティが嫌いだったからタマムシ大学の実際の試験内容などは露も知らないが。
 それに対して、エンジュ大学の英語は、意味さえ通じればすべて自由に書いていい。極端な例を挙げると、たとえ「フシギダネ」の英訳が分からなかったとしても、「カントー地方のトレーナーに最初に与えられる草タイプのポケモン」と勝手に解釈してそれを正しく英訳すれば、正解となる。
 問題文には必ず、知らない英単語や、英訳の見当のつかない突拍子もない表現が登場する。そのような見知らぬ英単語の意味をいかに文脈や接頭辞・接尾辞から推測し、難しい和的表現をいかに英訳しやすいように解釈し直すかがこの試験では問われるように思う。
 すなわち、英語の問題の“鍵”というのは単語や熟語や構文であるわけだが、試されているのは歴史の試験と異なり持ち鍵の多さではなく、“錠”の分析力や、“鍵”の使い方であるわけだ。


 二次試験といえば、午後からの数学の試験の直前に、心温まる出来事があった。
 試験教室で昼食をとり、次の数学に向けてテキストを軽く見直していたら、教室のチェックだとかで受験生は寒い外に放り出された。
 仕方がないので、火照った頭を冷やすべくのんびりと散歩をした。時計台の周囲を反時計回りに巡る。
 エンジュ大学の構内には、大きな楠が多い。太い幹枝は苔むして貫禄があり、その豊かな葉は冬を越して春まで常磐色に光沢を持つ。その枝はヤミカラスの群れの寝床となっていた。
 エンジュ大学を象徴する楠の木々は、自分を拒絶しているような気がした。それは自分にとっては良い予感だった。
 構内にはオニスズメとか、ポッポの姿も多かった。それらの群れがヤミカラスの群れと三つ巴になって、学生の昼食の食べこぼしなどを狙っているのだろう、堂々たる様子で石畳を闊歩している。茂みの向こうにニャースも見かけた。
 そのとき、綺麗なネイティオを連れた一人の在学生らしき男性が、気軽に話しかけてきた。
「あ。受験生さん?」
「はい、そうです」
「次、数学? 楽しんできて!」
「ありがとうございます」

 戻ってきた試験会場で更に呑気に十分ほど昼寝をして、運よくうまく頭をすっきりさせたところで、数学の試験となる。
 言うまでもなく法学部志望者は文系であるため、数学というのは鬼門だ。もちろん自分の周りにいる人間も全員漏れなく文系なわけだから、緊張する必要はないが。
 しかし法学部の入学試験は数学の配点が高い。そして文系だろうが構わずに難易度の高い問題を出してくる。ここで勝負がつくのだ。
 問題は大問が五つ。
 数列とか、微分積分とか、ベクトルとか、確率とか、そういったものがいくつも複雑に絡み合った、もはやなぞなぞのような奇妙な問題が出てくる。
 対策としては、問題に対する様々なアプローチ法を暗記していくくらいしかないだろう。そういった百を超える“鍵”の一つ一つの形状と特質を深く理解し、問題文という複雑な“錠”に、手当たり次第合致しそうな“鍵”を突っ込んで試行錯誤する。
 数学の試験において問われるのは、“鍵”の数、“鍵”に対する理解、そして“錠”の分析力だ。
 そういうわけで、自分にとって数学もやはりある程度は暗記科目だった。xy座標を置くのか、rθ座標を置くのか、ベクトルにするのか。いくつに場合分けするのか、イコールは含むか、図は正確か、プラスとマイナスは間違えていないか。
 丁寧に順を追って論証していくのは、部分点を狙うためだ。
 回転立体の体積とか、理系の範囲の内容を平気で出題してくるあたりがエンジュ大学なのだろう。もちろん積分の概念を理解していれば文系でも解くことができるが。
 数学は解ければ楽しい。それを知っていたから、幸運だっただろう。


 トレーナーになった彼らは正弦定理も知らないのだろうなと思うと、優越感に浸ることがある。
 けれどトレーナーには余弦定理なんて不要だし、また自分にとってもポケモンのタイプの相性など、テレビの向こうのバトルを楽しむ程度にしか意味がない。
 自分と彼らトレーナーでは、バトルの意味が違う。自分がバトルを考察するためには接弦定理が必要で、彼らはバトルのためにポケモンの相性の知識が必要だ。知識なんて、それを必要としない人間にとっては、知る者と知らぬ者を区別するものという意味しかない。知る者が知らぬ者を見下して知らぬ者に知る意欲が湧くかといえばそうではないだろう。知識は二つの意味で自己満足の具現だ。知りたいという欲望と、見下したいという欲望の。
 勉強は、努力が報われれば楽しい。たとえ目的が無くても、美しいものを見られれば幸福を感じる。必要とすることを必要としたい。
 彼らトレーナーは、勉強したいと思ったことがあるだろうか。
 それを考え、仮説を立てることすら、自分にとっては美しく楽しいことなのだが。無学な彼らを見下す意図はないつもりだけれど。

 あるいは、ポケモンの実用性を高める研究をする者たちへ。
 数字を駆使した研究も、なるほど尽きせぬ真理を追い求めるという意味で興味深いことだろう。彼らにも大いに励んでもらいたい。文系だろうと理系だろうと学業を志す者に違いがあるとは思わない。歴史学や文学、社会学、民俗学、法学などといった人文社会科学が自然科学に影響を及ぼすこともあり得る。
 携帯獣学部は、諸学問の統合を促し、各分野の活性化に貢献した。
 その多大な功績、メリットも認めるが、それでもすべての学問をポケモンの効率的利用という目的に収束させてはならないと考える。
 倫理的な問題、規範的な問題がそこには存在する。
 ポケモンの研究は大いに結構、けれど何のためにポケモンを研究するのかというメタ的視点を学問においても確保する必要があると自分は感じている。
 携帯獣学部の過剰な膨張は抑制されるべきだ。
 そういう気持ちもあって自分は法学部を選んだ。ポケモンに支配されない、人をつくるために。


 父が出勤し、母が出かけ、二人の姉が他地方へ出ていったその家でひとり、愛するポポッコを抱えて、パソコンを起動し、ネットで合格番号を確認するときは、さすがにひどく緊張した。
 合格発表の時刻の数分後にようやく意を決して、あるいはアクセスの混雑を避ける意図もあったのだが、エンジュ大学のサイトにアクセスするも、やはり混雑は解消されていないのか、なかなか接続されない。
 読み込み中の画面は、真っ白。
 その状態でポポッコと共に十分ほど悶えてから、何気なく更新ボタンをクリックする。
 するとあっけなく、その合格発表のページは表示された。
 真白な背景に、合格した受験生の受験番号が行列のごとく、細い線で浮かび上がっていた。
 両手で抱え込むポポッコは春の若草の色。





***
<跋>

 二月末には国公立大学の前期の二次試験があったと思うので。
 ポケモン世界の教育制度や大学の社会内における位置づけなどをまとめてみても面白いと思います。


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