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  [No.3897] Wednesday 投稿者:GPS   投稿日:2016/03/13(Sun) 18:49:19   56clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「モンスターボールから、人間から、ポケモンを解放しましょう!」
「ポケモンは自由になるべきです! プラズマ団は、ポケモンの自由を尊重しています!」

眠気と面倒臭さによる重い足取りで中学に向かう俺は、通学路にいる変な集団に足を止める。なんとも言いがたいデザインのコスチュームに身を包み、明るい色の髪を水色のフードで隠した五、六人。そいつらは通行人たちに絶えず呼びかけていた。
持っているプラカードや旗、立て看板にはどれも『人間による束縛からポケモンを解放』のようなことが書かれている。しばし考えて、彼らの名前を思い出した。

プラズマ団。最近テレビや雑誌やネット、そしてこのように街頭でも見かけるようになったポケモン愛護団体だ。NGOだかNPOだか、はたまた宗教法人なのか。その辺りはよくわからないけれど、とりあえず「ポケモンを自由にすること」を目的としている団体だと俺や家族、友達など大多数の人間はそう捉えている。

「ポケモンは解放されるべきなのです! みなさんも私たちプラズマ団と共に、ポケモンが幸せになれる世界を作りましょう!」
「お願いしまーす、お願いしまーす!」

彼らの言っていることは間違ってはいないから、少なからず賛同する者もいる。今もサラリーマン風のおじさんが「応援してるよ」と声をかけた。ありがとうございます、とプラズマ団が元気良く頭を下げた。
しかし、俺は彼らの活動にも思想にもさしたる興味は無い。だからさっさと通り過ぎようと足を早めたのだが、運の悪いことに「そこの君、」とメンバーの一人に声をかけられてしまった。

「君もポケモントレーナーだよね。となると、当然ボールは使っていると思うけど。どうだい、それを無くして……」
「今急いでるんで。結構です」

母親に教わった、不審者勧誘キャッチまとめて撃退の台詞を放ってさらにスピードを上げる。だがこの団員はなかなかしつこいようだ、俺の数歩後ろについてきては「人間と一緒にいてはポケモンは」「世の中には人間に苦しめられているポケモンが沢山」「そもそも古来ポケモンは人間と」などと、ペラップもうんざりするだろう早口でぺらぺら喋りまくった。
あまりにしつこく、いい加減イライラしてきたので振り返って口を開く。「うるさいなあ、通報しますよ」と言いかけた俺の言葉はしかし、ペラップ団員の台詞に遮られた。

「ほら、君のタブンネも。今は外に出していても、学校についたらボールに入れるんだよね? かわいそうだとは思わない?」

彼が、俺の隣を歩いていたピンク色を指さす。ひょこひょこ付いてきていたそいつ、タブンネはいきなり注目されて驚いたのか、きょとんとした顔で首を傾げた。何も考えていなそうなにこにこ笑顔をいつでも湛えているこのポケモンは、彼の言う通り俺のポケモンである。
タブンネは、いつも通りの呑気な微笑みを口許に浮かべてふわふわしたオーラを放っていた。学校に行かないのかとでも言うように、俺のシャツの袖口を引っ張っていたりする。

その様子をぼんやり眺めていたせいで、団員に言葉を返すのが遅れてしまった。俺の返事が無いのをいいことに、プラズマ団の彼がさらに問いかけてくる。


「どうかな? このタブンネのために、ボールから解放してあげた方がいいと思うけど?」
「ブンは――」


促すように言う彼の言葉を遮りかけて、やめた。こういう人とは関わってはいけないと、家でも学校でも散々言われているのだ。深く話す必要などどこにもない。

何を話せば良いのかも、一瞬のうちによくわからなくなってしまったのだし。

「いいです。……そういうのどうでもいいんで」
「あっ、君……」

追いかけようとした団員の声を背中で聞き、俺はほぼ走るようにして彼を振り払う。行くぞ、とタブンネの左手を掴んで強引にその場を立ち去った。曲がり角を越えると流石に諦めたらしく、振り返った先に彼の姿は無い。
そうだ、そんなことどうでもいいのだ。ポケモンの解放よりも、今日のテストの方が問題なのだから。一夜漬けで詰め込もうとしたのにも関わらず、少しだけの仮眠のはずが気づいたら朝になっていた。ただでさえ危ういというのに、今日の教科は自分の苦手な文系科目のオンパレードである。
今になってなやみのタネが効果を発揮しだしても遅い、俺は大きく溜息をつく。そんな俺をにこにこ顔で見てくるタブンネを視界の端に捉えつつ、前方に見つけたクラスメイトに駆け寄った。おはよう、と言った俺に彼が振り返って、口を開き、








『ピピピピピ……ピピピピピ……』



「チャン!! チャムチャム、チャー!!」
「……あーもう!! こら、うるさい! 静かにしろ!!」

そこで一気に夢から引きずり出された俺はアラームを止めつつ、自分の腹の上でぴょんぴょんはねまくって騒いでいる小さな白黒を押さえつける。近所迷惑だからやめてくれと毎朝毎朝、腐るほど言っているのにこの白黒――ヤンチャムはやめてくれる兆しすらない。

GTSで交換したこいつが俺のところに来て、大人しくしてくれていたのはせいぜい三日くらいだ。手足を振り回すヤンチャムをどうにかこうにか宥めすかす。起きたばっかりだというのに、早くも疲れてしまった。
腹にかけていたタオルを蹴飛ばし、ヤンチャムを抱えてベッドから降りる。学生用アパートの四畳半、なるべくスペースを節約するために選んだ折り畳みタイプの机が中央にセットされていた。まだ若干寝ぼけていた頭で、はて、昨日片づけ忘れたのだろうかなどと考えていると、ピンク色がぷよぷよとした足取りで簡易キッチンからこちらにやって来る。


「あ、ブン……おはよう」


ブン、俺のタブンネの名前だ。先程夢にも登場してきた奴で、もう十年来のつき合いになるだろう。俺の方を見て、いつでも笑っている顔を小さく揺らしたブンは、こんがりといい匂いを漂わせるトーストやらグリーンサラダやらと一緒にポケモンフーズときのみが盛られた皿を机の上に並べ出す。ぼんやり突っ立っている俺に、ブンは空いた片手で洗面所の方を指さした。
彼女に指示されるまま、俺とヤンチャムは面所に向かい顔を洗う。びしょびしょのまま駆けていこうとするヤンチャムの首根っこを掴んで、やや強引になりつつもタオルで拭いてやった。そのままタオルで遊んでいるそいつは放っておいて、俺は髪を適当に整えて髭を剃る。寝間着から着替えて部屋に戻ると、満足気なブンの横に綺麗な朝食が並んでいた。

「毎朝悪いな……いや、俺がやるから寝てていいんだぞ? そりゃ、ありがたいことこの上ないけどさ……」
「タブンネ〜」
「会話になってねえよ」

柔らかい身体を揺らすブンに苦笑して、机の側に腰を下ろす。勿論ブンのそれは「多分ね」という言葉ではなく鳴き声なのだから、会話も何も無いけれど。ブンとヤンチャムも隣に座り、いただきます、とみんなで手を合わせた。
ブンは昔から手先が器用で、俺がやっていることを見よう見まねで試してみるのが好きである。大学に上がって俺が自炊を始めたため、ここ最近は料理がブームらしい。俺が作る程度のもの、つまりそこまで高度な技を必要としない料理ならこうしてブンが作ってくれるようになった。
世間で言われるような「よく出来た彼女」とはこんな感じなのだろうか、とブンが煎れてくれたコーヒーをすすりながら考える。きのみか何かのブレンドを作ってくれた彼女の手はぷくぷくのクリーム色で、今は行儀良くスプーンを操っている。俺の視線に気がついた彼女が口をもぐもぐさせながら見上げてきたので、「なんでもないよ」と言ってトーストを手に取る。こっそりそれを狙っていたヤンチャムの肉球が空を切った。

『……それでは、本日のイッシュの天気予報です』

お前はこっちだ、とクラボを渡しながらテレビをつける。今日は一日晴れるらしい、今俺たちが暮らしているホドモエシティにも大きな太陽マークがついていた。ウルガモスのイラストが画面の右下に現れ、お洗濯日和ですねとかなんとか喋りだす。
そのまま流れるニュースをなんとなく観つつ、俺たちはもくもくと朝食を口に入れる。さっさと食って洗濯をして、冷蔵庫の中身を確認して、あとは何かすることあっただろうか。口と頭を同時に動かす俺の横で、ブンがごくごくとモーモーミルクを勢い良く飲んでいる。腹壊すぞ、とやんわり俺が止めた時にはブンの口の周りに白い輪っかが出来ていた。

「あー、そういや今日提出の課題があったんだっけ……やべえな、今からやって終わると思う?」
「タブンネ〜」
「よっしゃありがとう、そんな気がしてきたぜ」

そんなやり取りを交わす俺たちを、こちらは口を赤く汚したヤンチャムが呆れた表情で見てくる。「多分ね」があたかも返答であるように話を振るのも慣れたもので、ブンの方も完璧なタイミングで返してくれるようになった。

『それではこのコーナーいってみましょう、「今日のドラマ」!』

なんてくだらないことを話している場合では無い。コーナーの開始によって現在時刻を認識させられた俺は、食べるスピードをアップした。

『水曜日と言えばまず、これですね! 「夜迷い草紙」、本日放送の第三話では主人公イブの兄が初登場で……』

恐怖作家のシキミさんが脚本を担当していると話題のドラマの宣伝が始まる。自分とブンとヤンチャムの咀嚼音に混じって説明が聞こえるこのドラマは、ホラーとラブがいい感じに調和しているとなかなかの人気だ。友人やバイト仲間でも見ている者は多い。
しかし、ドラマに別段興味の無い俺の耳は違う単語を強く捕らえていた。ストーリー内容でも登場人物名でも注目の俳優でも無い、もっと別の言葉を。

 
水曜日。
それは俺が、この世で一番と言って良いほど忌み嫌っている存在だ。


休みが明けて二日間頑張ったというのに、まだ半分以上も残っているというこの曜日は、一週間のうちで最も辛い一日である。もう疲れた、それなのに折り返し地点ですら無い、そんな朝。小学生の頃から俺は水曜日が憂鬱でたまらず、毎週起きあがるのを渋ったものだ。今はヤンチャムがいるからそうもいかないけれど、それでも今日が水曜日なのだと認識するだけでがっくりきてしまう。
それだけでは無い。偶然かそれとも何かの巡り合わせか、俺にとっての嫌な出来事は、全て水曜日に起きていた。

忘れ去りたい、無かったことにしたい、目を逸らしたくなるような過去。水曜日が来ると、示し合わせたようにそれらが俺の頭に浮かぶのだ。

「……ああ、なんだ? 水か、ちょっと待ってろ」

忌まわしき水曜日を呪う俺の袖口をヤンチャムが引っ張る。はっと我に返った俺はヤンチャム用のコップを持って立ち上がり、冷蔵庫に常備してあるおいしいみずを取りにキッチンへ向かった。二リットルボトルの残りは五本、そろそろ買い足して置かなくては、と頭の中にメモをする。
さて、今日は授業が三つ、その後にバイトである。超特急で課題を仕上げて、洗濯と洗い物と、あとゴミ出しもしなくては。それから買い出しも。
なんとも疲れる水曜日になりそうだ、やはり水曜日はロクな日じゃない。心中のぶつくさを溜息に変えながら、俺は並々と水を注いだコップを片手に二匹の元へ向かう。机に戻った俺が見たのは、半分残してあったトーストをこの一瞬で腹に収めたらしいヤンチャムの満腹顔と、それを止めようとしたけれども間に合いませんでした、とでも言いたげなブンの微妙な笑顔だった。

がっくり感に拍車がかかったのは、言うまでも無いだろう。







十歳の誕生日を向かえた俺は、生まれ育ったシッポウシティから旅に出た。今では子供の自由の尊重だかで、旅に出る風習が薄れている地域も少なくないが、シッポウではまだほとんどの子供が旅をする。博物館がある影響か、強いトレーナーというよりは図鑑の完成を目指す者や研究志向の子供が多いけれども。

しかし俺はその「風習」に流されるまま旅立った子供であり、何の目的も目標もビジョンも、なりたい自分というものも見あたらなかった。ただ、みんながやっているから俺にも出来るだろう、という薄弱な動機で故郷を去ったのである。
そんな風に志の低い奴がまともに旅を出来るはずも無く、俺はシッポウ出身の旅人が最初に通るヤグルマの森で早速壁にぶち当たった。

誕生日の三週間くらい前に出会ったブンと一緒に旅立ったのだけど、それがどういう事に繋がるのか、旅に出る前の俺は全く知らなかったのである。ブン……タブンネというポケモンは「倒されると相手に多くの力を与える」という特質があり、強くなりたいトレーナーが戦いたい相手としてこれ以上の敵は無い。しかも、そのタブンネの主が戦い方のたの字も知らないような奴だったら尚良し、まさしくカモネギが鍋持ってやってきたというものだ。
果たして初心者トレーナーの俺は、ヤグルマの森にうようよいるブン狙いの奴らとひっきりなしに戦わされ、繰り出される技に戸惑っている間にブンは何度も倒された。思えばブンと最初に出会った時にも彼女は経験値目当てのトレーナーに襲われていたのだ、タブンネという種族は不憫である。
さんきゅー、またよろしくな、などと言って去っていくトレーナーたちにグーパンの一つでも食らわせたいところだが、ブンをポケモンセンターに運ぶ俺にそんな暇は無い。負けハーデリアの遠吠えよろしく相手トレーナーの背中に舌打ちした俺は、倒れたブンの入ったボールを片手に、森を出るべく全速力で走るだけで精一杯だった。

森の中間部とセンターの往復が続いて三日目の朝。俺は、ブンに「帰ろうぜ」と切り出した。野宿も携帯食料も所持金の心配も、俺の嫌いなどくポケモンな上にいかにもな見た目のフシデが大量にいるのも、一日中薄暗くてどこまで続くかわからないこの森もイヤだった。いつまでたってもバトルのコツ一つ掴めない俺のせいで、ブンが傷つけられるのをただ眺めているのもこれ以上見たくなかった。
こんな生活をいつまでも続けたところで、どうせ大した結果は得られないだろうと、十歳の俺は悟ったのである。


「早いとこ戻って、学校行って。そこそこ勉強頑張った方が将来困らないだろ。家に帰った方がためになるよな。旅なんかしなくても、俺は大丈夫だよな、ブン?」
「タブンネ〜」
「だよな、お前もそう思うよな」


かくして俺は大して増えていない荷物をまとめ、深い森に別れを告げた。来た時と変わったことと言えば、回復アイテムがすっからかんになったことと、手持ちの金が減ったこと、そして一度至近距離で対峙してしまって逃げられず、無我夢中で捕まえてしまったフシデがボールの中にいるだけである。
三日で旅から戻ってきた奴は、シッポウシティで四十年ぶりらしい。根性無いわね、という母親の溜息と、お兄ちゃんどうしたの? 忘れ物? と邪気の欠片も無い瞳で言う三人の妹の言葉は未だに胸に突き刺さっている。



十年前の水曜日、情けない俺は旅人を諦めた。



フシデに罪は全く無いが、手元に置いておきたくなかったのでGTSの交換へ出した。







「っしゃっせー」

開いた自動ドアに、ほぼ反射で声を出す。入ってきた男とルクシオに頭を下げると、生えかけの黒い鬣を自慢するような目つきでルクシオが俺を見た。お願いだからその鬣のばちばちいっている電気を店内を走っているコードに近づけてくれるなよ、と目で念じてみるもエスパータイプで無い俺にテレパシーは使えない。
彼らが前を通り過ぎていき、俺は出そうになった欠伸を噛み殺す。結局家で終わらなかった課題を講義中に片づけていたせいで、いつもならば寝れる講義での睡眠時間がすっかり無くなってしまった。眠くて眠くて仕方がない、あと二時間のアルバイトに耐えられるだろうか、と思いながらまたしても湧いてきた欠伸を我慢する。

「すみません、ちょっとキズぐすりについてなんですけど……」

レジを前に眠気を堪える俺に、チラーミィをだっこしたOL風の女性が話しかけてきた。慌てて営業笑顔を浮かべ、「いかがなさいましたか」とかしこまった口調で言う。

「うちのチラーミィ、市販のキズぐすりを使うとぶつぶつが出来ちゃって。お医者さんに見てもらったら、薬の中に入ってる保存料にアレルギーがあるらしいんです」
「なるほど、こういった薬品は旅をするトレーナーが長期間使えるように、どうしても入ってますからね……ではどうでしょう、こちらのナチュラルタイプでしたらアレルギーのあるポケモンさんでも大丈夫なように、保存料や香料などといったものは一切使用しておりません。長持ちしませんので旅には不向きですが、お客様はすぐにお使いになりますでしょうか」
「そうですね、私は旅人ではないので……これなら、チラーミィにも使えるってことですか?」
「はい、基本的にはアレルギー症状が出ないような配合となっております。しかし市販のものである以上、保存料以外の成分に化学物質が含まれているため、もしかしたら似たような症状が出てしまうかもしれません。チラーミィ様のアレルギーの軽度がどれほどのものなのかわからないのでなんとも言えませんが、アレルギーも人それぞれ、ポケモンそれぞれですので一慨に大丈夫とは言いかねます。申し訳ございません」
「うーん……絶対に平気、という薬は無いんですね」
「ですねぇ……少々お値段が張ってしまうのと、キズぐすりの類に比べると治りのスピードがまちまちなのが欠点ですが、そちらの軟膏でしたら、或いは。マーケットの漢方薬屋と提携を結んでおります当店オリジナルの商品で、完全天然成分由来ですので安心してお使い出来ます」

頭に叩き込んだ情報をどうにか喋り終えた俺に、スーツ姿の女性はしばらく考え込む。腕の中のチラーミィが俺を三度チラ見したところで、「わかりました」と棚を指さした。

「とりあえず、今日はこのナチュラルタイプのにしてみます。それでダメだったらまた病院とも相談しながら、違うのを探してみますね」
「かしこまりました。何かございましたら、当店にも遠慮なくご相談ください」

出来る限りの爽やかな笑顔で女性客に言って、俺は内心でほっと息をついた。フレンドリィショップでのバイトも二年目。慣れたと言えば慣れたものの、こういう変則的な注文や相談があると頭をフル回転させないといけないから、レジ打ちや掃除のように簡単にいかなくて困る。今回はどうにかなったからいいけれど、やれフーズの好き嫌いだ、やれむしよけスプレーの臭いが嫌だ、やれモンスターボールに入らないだなんて相談されてもどうしようも無い。俺に何が出来るっていうんだ。
願わくはこの薬がチラーミィに合って、この人がもう二度とアレルギー相談に来ませんように。それか来てもいいけど、俺以外の店員に言ってくれ。なんて酷いことを心中で思いつつ、俺は商品を持ってレジに入った。

「キズぐすりのアレルギーに最近気づかれたということは、ポケモンバトルは始めたばかりだったりするんですか?」

レジを打ちながら俺は言う。レジ打ち中に雑談をすることは親しみやすい店というイメージを持ってもらうために必要不可欠なのだ、と豪語する店長の方針で、俺たち従業員にもそれが求められている。正直かなり面倒だが、やらないわけにもいかない。

「そうですね。一週間前くらいから……」
「一週間前ですか! どうですか、バトル。やってみて」

財布から小銭を取り出しながら、女性客が指を一本立てて答える。

「はは、思ったより難しいです……うまく技は出せないし、タイミングも掴めないし。ぼやぼやしてるとすぐ相手が攻撃してきて、なかなか上手くいきません」
「そんなもんですよ」

苦笑した俺に、女性客も肩を竦める。弱いなりにジムバッヂを一つでも手に入れるのが目標なんですけどね、と溜息混じりに言った彼女に俺は特段何も言わなかった。白いビニール袋に品物を入れ、「お買い上げありがとうございます」と手渡す。

「バトル、頑張ってくださいね。アレルギーもお大事に」
「はい、色々ありがとうございました」

肩から顔を覗かせ、相変わらず俺をチラ見しているチラーミィにも会釈をし、自動ドアの向こうに女性客が消えるまで見送る。ウィーン、と音を立てて透明のドアが閉まった。
なんだかグッと疲れてしまった、幸い店内に客はまばらで、いたとしても雑誌を立ち読みしているか携帯片手に時間を潰しているか、あとは普通に商品を選んでいる買い物客だけである。しばらくのんびり出来そうだ、気を抜きかけた途端に喉から出てきた欠伸を押さえながらそう思った。

「あの、イオンさん」

と、そこでバックヤードから出てきた同僚に声をかけられる。学部は違うが同じ大学の同期生である彼女は俺の名を呼び、従業員用の控え室を指さして言った。

「店長が呼んでました。私レジ代わりますから事務所の方に……」
「え、わかりました。ありがとうございます、コチョウさん」

一体何の用だろう。今店にいるのは店長と彼女の他に俺だけだから、恐らく男手が欲しいのだろうけれどまだ仕入れ時刻では無い。返品作業も俺のシフトの前に済んでいたらしいし、何かのフェアあたりの準備手伝いか。
了解です、と伝えて俺はバックヤードへ向かう。が、一歩踏み出したところで、「あのー」と新しく入ってきた客がこちらを呼んだ。こいつに合うポフィン探してるんですけど一杯ありすぎて迷っちゃって、と頭を掻く少年の横にはガチゴラス。強面の顎から覗く鋭い牙を鳴らしたそいつは、ポフィンよりもどちらかというとフエンせんべいが似合うと思うのだが、勿論そんなことは言えない。

「ああ、ええと……」

裏に向かいかけた足を止めて少年の方を見る。レジを代わってもらったのだからコチョウさんに応対を任すべきなのだろうが、彼女はどうも強いポケモンが苦手らしい。とりわけドラゴンタイプが怖いみたいなので、ここは俺がやった方がいいだろう。
直接呼びに来ないなら、店長の呼び出しも急では無いはず。少年とガチゴラスの買い物が終わってからにしよう、と思ってポフィン売場に進みかけた俺はしかし、コチョウさんの「あ、私が……」という声に止められた。予想外の言葉に少々面食らって、俺は首を傾げる。

「えっ、でも……」

ドラゴンは苦手なはずじゃ、と目で伝えた。だけど彼女は俺の言葉を察したように首を横に振り、「大丈夫です」ときっぱり言う。

「私に任せてください、大丈夫です」
「……はあ、じゃあ、よろしくお願いします」

言葉を重ねたコチョウさんは堂々としていて、俺はそれに半ば気圧されるように頷いた。本人がいいと言うならそれに越したことは無いし、雰囲気から感じる限りでは無理しているとも思えない。けれど、ほんの最近まではあんなに怖がっていたのに。
バックヤードへ繋がるドアを開けながら振り向きざまに見た彼女は、ごくごく自然な笑顔でガチゴラスに接している。思えば夏休み明けくらいから、それまで裏方中心だったコチョウさんが少しずつ接客をしていたなあとぼんやり思った。
何かあったのかな、という考えが頭をよぎる。しかしそれは俺の詮索するところでは無いだろう、少年と明るく話す彼女の声を背中に、俺は「失礼しまーす」と扉を閉めた。






「……うっ、重い……」

店長から命じられたのは、ホドモエジムまで回復薬を届けろということだった。車を出すほどの距離と量じゃないためこういうことはしばしばあるが、俺が行くのは初めてになる。フレンドリィショップとポケモンセンターを後にして、俺は暗くなってきた大通りに出た。
かいふくのくすりやなんでもなおしの瓶、その他諸々が詰まった段ボールは見た目以上に重い。手伝ってもらおうとブンたちをボールから出したのだが、よたつく俺を通行人やポケモンからさりげなく庇ってくれるブンはともかく、俺の頭に乗って遊んでいるヤンチャムは正直辛さを増す原因でしか無い。こいつの最近のマイブームは俺の髪をぶちぶち引っこ抜くことらしいが、将来が不安になるからやめて欲しいと心から思う。

「ああもう、今度は、チャリで行っていいかな……駄目だ、俺チャリ実家だ……」

ぼやきながらもどうにかジムに辿り着く。どこの街でもそうだけれども、ポケモンジムというものは内装だけでなく外観も立派だ。どっしりとした威厳を放つ建物の扉を開ける。
それにしても、さっきは折角聞き流したのに。やはり水曜日はロクなことが無い。

「スミレちゃんっ、サイコキネシス!」

ジムの中に入った瞬間、空間が歪むような衝撃波が屋内全体に走る。うっ、と思わずぐらついた俺の手から落ちかけた段ボールを、可愛い見た目に反して意外に力持ちなブンがギリギリのところで押さえてくれた。とっさに頭にしがみついたらしいヤンチャムのせいで、髪の毛がさらに何本も抜ける。

「ドリュウズ、じならしだ」
「くるよ! 飛んでかわして!」

ジムリーダーのヤーコンさんの、ジムにも負けない威厳をたっぷりの低い声が衝撃波を破る。続けて訪れたのは急な揺れで、それが起こるとほぼ同時かほんの少し前に、先ほど聞こえた声が響いた。
段ボールの中身を駄目にしないよう、俺はそれをコンクリートの床にそっと下ろす。ホドモエフレンドリィショップです、と薄暗い中に声をかけると、「ああ! すみません、お疲れ様です」と受付の男性が小走りで現れた。

「回復薬ですね。出遅れて申し訳無いです、今挑戦者がいまして」
「毎度ご贔屓にありがとうございます。ヤーコンさんの声がしましたが……もしかして、そこまで行った、ということですか?」

ジムリーダーと戦うには、何人かのジムトレーナーを倒す必要がある。それはつまり力試しなわけだが、ジムトレーナーも結構な強者が揃っているため、ジムリーダーにかつ以前に戦うだけでも苦労することになるのだ。そして、ジムリーダーと戦っているということは即ち、一定以上の力を持っていると言える。
尋ねた俺に、受付員が深く頷く。挑戦者の戦いぶりを思い出すような口調で、彼はうっとりした顔で話し出した。

「そりゃもう、ホント強い方でして。むしポケモンの使い手らしく、シュバルゴやアギルダーを巧みに操ってどんどん進んでしまったのですよ。そしてとうとう、ほら」

受付員が俺を手招きして、ジムの最下層を見るよう促す。言われるままに柵の下を覗き込むと、ヤーコンさんとドリュウズに対峙して、モルフォンとそのトレーナーだろう女が構えていた。ひらりひらりと飛び回るモルフォンの羽が起こす風に綺麗な金髪を揺らしたトレーナーは、地面を揺らしたドリュウズがモルフォンの動きに惑わされた瞬間を見逃さずに叫ぶ。

「今だよ! ギガドレインで吸い取って!!」
「来るぞドリュウズ! メタルクローで迎え打つんだ!」

接近してきたモルフォンを切り裂こうと、鈍く光る爪をドリュウズが思いっきり振った。しかしその手は空を切り、ドリュウズの身体はぐらりと傾く。対するモルフォンの方は奪った力で体力を回復し、生き生きとした様子で羽を動かした。
ほう、と感嘆を漏らしたヤーコンさんが、今しがた俺が運んできたのと同じ回復薬をドリュウズに投げる。受け取ったドリュウズはすぐにそれをキャッチして、勢いよく中身を煽った。みるみるうちに力を取り戻していくが、トレーナーの方に焦りは見られない。むしろ、勝利を確信したように言い放った。

「スミレちゃん!! ちょうのまい!!」
「なるほど、そう来ますか……」

驚きと楽しさが混じった声で受付員が言う。ひらひらと羽ばたくモルフォンは、舞うごとに美しく輝いていくみたいだ。俺の頭の上でバトルを見ていたヤンチャムがびっくりしたように鳴く。

「回復している間なら、攻撃されるリスク無しに安心して舞うことが出来ますしね。ドリュウズもすぐには動けませんし、高まった威力で特殊技を出せば……あれ、最後まで見ていかないのですか?」

柵から手を離し、扉へ向かう俺に受付員が聞いてくる。戻らなくてはいけないので、とだけ告げた俺は、サインをもらった伝票をポケットにしまって彼に礼をした。無言で歩き出す俺に、攻防を観察していたブンがひょこひょことついてくる。
むしのさざめき、と挑戦トレーナーの声が凛として響く。続く羽音と強い音波、そして彼女とモルフォンの勝利を宣言する審判の声が聞こえるよりも前に、俺は重い扉をそっと閉めた。








別に旅人じゃなくたって、ジム制覇を目指すトレーナーはごまんといる。旅は上手くいかなかったし、その後も特にトレーナー修行をしていたわけでは無いけれど、中学校生活に慣れてきた俺はふとジムに挑戦しようと思い立った。

深い理由があったわけでは無い、二歳年下の妹が旅だって一年、ジムバッジを三つ集めたという朗報を受けてのことである。あいつに出来るなら俺も一つくらい出来るだろ、と思った俺は家からほど近いシッポウジムに挑戦することにした。
シッポウジムはノーマルタイプのエキスパートらしい、となるとかくとうタイプが必要だ。適当な交換を繰り返していたフシデは巡り巡って色々なポケモンになっていたが、俺は交換条件にかくとうタイプを所望した。GTSの窓口で受け取ったボールから出てきたのはマクノシタ、イッシュじゃあまり見かけないそのポケモンを興味深げにブンが眺め、自分の身体に負けないぷくぷくの腹を指先でつついていたのを覚えている。

しかし、タイプ相性が良ければ勝てる、などということは無かった。あまりのレベル差、能力差、そして俺の力不足によって、かくとうタイプのマクノシタが自慢の張り手を繰り出すよりも先に、ジムトレーナーのヨーテリーがその手ごと噛みついてきて負けてしまうのだ。
ブンを戦わせたところで結果は見えているし、ジムリーダーが味をしめるのも癪なのでブンは出さないことにしていた。負けてばかりの俺の手をひき、ポケモンセンターまで連れていってくれるのがブンの役目だった。
さっぱり勝てず、ヨーテリーやハーデリアの勝利の雄叫びを聞くだけの日々が五日続いたところで俺はブンに「やめよう」と切り出した。


「ジムバッジなんてあっても、リーグに出るわけじゃないし、トレーナー職を目指すわけじゃないし。それなら、別のことした方がいいよな。バッジなんて持っていなくても、俺は大丈夫だよな、ブン?」
「タブンネ〜」
「だよな、お前もそう思うよな」


かくして俺は、それっきりシッポウジムへ足を踏み入れなくなった。バッジどころかジムトレーナーの一人にすら白星をあげていないのだが、それでもこれ以上あのワンワン声を聞き続けるよりもマシだろうと思ったのだ。
消費したキズぐすりの容器を燃えないゴミに出した朝、妹が四つ目のバッヂを手に入れたと家族にメールをしてきた。が、俺は両親や下の妹たちが騒ぐ声を階下に聞きながらベッドで寝ていたと記憶している。


七年前の水曜日、ふがいない俺はジム挑戦をやめた。


ボールに収められたマクノシタは、三日後の土曜日にGTSへ交換に出した。







次の週の水曜日、やっぱり俺は憂鬱だ。何故この曜日に授業を入れてしまったのかが本当に悔やまれる。月曜火曜の疲れと木曜金曜への拒絶反応が相まってしょうがない、ジュカインを前にしたラグラージの気分である。
ラグラージなんてそんないいもんじゃないけれど、とセルフツッコミを入れつつ俺は大学の廊下を歩く。夏休みも明けていくらか経ち、後期の授業にも慣れてきた今日は九月の終わりだけあってだいぶ涼しくなってきた。講堂の扉が並ぶ廊下にはひんやりした風が吹いていて、流石に半袖ではもう寒い。

ぶるりと身を震わせながらそんなことを考えた俺のシャツを引っ張って、横を歩くブンが後方を指差す。なんだ、と思って振り返ると体育会の人だろうか、いかにも鍛えていますといった感じの身体を大学規定の制服で包んだ男子生徒が大きな鞄を肩に下げて歩いていた。その一歩後ろについてきているのは、彼と同じように逞しさを醸し出すユキノオーだ。周りに粉雪が舞っている、やけに涼しいのはこいつのせいか。
早とちりしていたことと、それをいともたやすくブンに見破られていたことに軽い羞恥を覚えながら、地下へ続く階段を降りる。壁の地の板が見えないくらいに貼られたビラ、よくわからない謎の楽器が奏でる謎の音、カップラーメンと腐ったきのみと汗の臭いが混ざった上にそれらが湿気で強まって、ベトベトンにも勝てるんじゃないかと思うくらいの悪臭。一段降りるごとに濃くなっていくヤバさは、ある意味ではゴーストポケモンの溜まり場にも匹敵するんじゃなかろうか。

今俺がいる校舎はホドモエ大学の旧本館、古い木造の建物だ。地下にはサークルの部室が所狭しとひしめき合っているのだが、先ほど歩いていたマッチョの彼のように真面目なサークルなど一つも無い。文字通り日の当たらない、日の目を浴びることの許されないようなサークルの巣窟だ。
タマゴみはっけん愛好会やバチュル推進バチュラーの会なんてのはまだマシな方で、カトレアさんだいすきクラブにメスカイリキーメロメロ同好会、果てはマッギョアイドル計画本部なんて札が下がった扉すらある。その向かいのスチール製のドアには「女子禁制」と書かれた紙が貼られているが、俺の記憶が正しければここはヤーコンさん愛好会だったはずだ。
深く考えないようにして、異臭の漂う廊下を進む。こいつに文字が読めるかどうかは不明だが、抱きかかえたヤンチャムの両目を塞いでいるのは正しい判断だろう。微妙に開いた扉の隙間から、サブウェイマスター審議会の部室を覗き見したブンが一瞬のうちにすぅっ、と視線を中から逸らした。

中に何を見たのか知りたいような、知りたくないような。知らない方が今後の精神衛生上のためだろうと思った俺とすれ違う形で、バケッチャを連れたオカルト風の女子生徒が鍋片手に通り過ぎる。その鍋からも、ふよふよと浮いているバケッチャからも得体の知れない臭いが湧き出ていた。今さっき彼女が出てきた扉はポフレ作り同好会のものだが、大学内では魔女会だの秘薬倶楽部だのと悪名高いサークルである。恐ろしい伝承も多いバケッチャだが、あんな怪しいサムシングを中に入れてるくらいなら魂を運んでいた方が百万倍平和だ。

「お疲れ様っすー」

まあ、怪しさで言えば俺のいるサークルも人のことは言えない。ジムリーダー研究会、と雑な文字が走るボードのかかった扉を押し開けて挨拶する。「お疲れ様ー」「うぃー」とやる気の無い返事がまばらに返ってきて、俺は手近な椅子に荷物とヤンチャムを下ろしてやった。
表向きはジムリーダーのキャリアやバトル指向、対策方法などを研究するという名目になっているが、実際のところはそんなのマサラタウンな嘘である。どういうことをしているかというと、

「あぁ〜……フウロ様に太股でゴッドバードして欲しい〜……」
「バカ、やっぱカミツレ様だろ。ほっぺすりすりしたいな……脇に」
「ああああもう!! なんでシズイさんはこんなカッコしちゃうの!! ヤバいってもう!! ヤバいよ心のマリンチューブホエルオー大量発生だよ!!」


…………こんな感じである。


あの廊下に配置されているだけあって、このサークルもご多分に漏れず無法地帯だ。イッシュ以外のジムリーダーも研究対象になっているので、食べ物やペットボトルで散らかった机には他の地方のトレーナー情報誌や、ジムリーダーを広告モデルに据えたチラシなどが散乱している。部員の誰かのエネコが布団代わりにしているのは、シトロンさんが表紙を飾ったミアレガイドブックだ。
近くにあったせいでヤンチャムが手を伸ばしかけた、デンジさんとオーバさんが表紙に描かれた不穏な薄い本をブンがこうそくいどうで払いのける。ナイス、と内心で呟いた俺が空いた手でブンの頭を撫でると、彼女が柔らかな手でガッツポーズを作った。

色々とヤバい雰囲気が各所にある部室だが、とは言えジムリーダーにさしたる興味も無い部員も結構いる。真面目に活動していないのをいいことに、単なる溜まり場として部室を捉えているのだ。好き勝手に駄弁ったりだらだらしたり、ジムリーダーガチ勢の話に耳を傾けていたり。
俺もその一人で、確かにカミツレさんは美人だしホミカちゃんはかっこいいしフウロさんの胸はすげえなと思うが、その程度の認識である。新入生勧誘の時期にうっかり新歓コンパに行き、そのままずるずると居座っているわけだ。まあ、真剣に活動しているサークルに入る気力は無かったし、なんだかんだで居心地は良いけれど。

「あれ? イオン君今日バイト無いん?」
「はい、本当はあったんですけど人足りてるから大丈夫らしいっす。麻雀ですか?」
「おうよ。今東ラス二本場の六巡目、だったよな?」

腕組みしながら自分の牌を舐めるように見ている先輩の対面に座った同級生が頷く。彼の上家で青い顔をしている後輩が恐る恐る捨てた一索牌を見た途端、我がサークルトップ雀士であるオーベムが短く鳴いた。後輩の顔がますます青くなる。
ポッポの絵が描かれた牌を三つ並べて、オーベムが満足そうにゆらゆらした。オーベムの主人はフウとランのオフィシャルホームページを眺めるのに忙しいようで、自分のポケモンの活躍など全く見ていない。行儀悪く椅子に足を乗せた同級生が、「イオンさー」と牌から目は離さずに言う。

「バイト無いなら暇でしょ、南場から代わってくんない? 僕これから授業なんだよね」
「確かに暇だけど……お前今何点?」
「んー、三千二百点」
「…………」

彼の言葉には答えずに、飲み物買ってきますとだけ告げて一度部室を出る。もわっとした空気が廊下に充満していることを改めて感じ、あの部室ですらマシな部類なのかと思うと戦慄した。ブンが笑顔のままで、しかし微妙にしかめっ面になっているのはきっと息を止めているからだろう。
それほどの間隔もおかずに扉がいくつも並んでいる長い廊下、途中で女子生徒とすれ違った。お世辞にも広いとは言えない道幅なので、互いに少しだけ身体を壁に寄せて道を開ける。会釈した彼女の緑の髪から、紅い瞳がちらりと覗く。あ、と俺は内心で気づきの声をあげた。

すれ違った女子生徒、ポケモンとのハーフだという彼女は中学校の同級生だったのだ。が、女子校に進学してしまったため高校は全く別だった。大学構内で見つけた時には驚いたものである。
白い肌と、綺麗な吊り目、そして知性と意志の強さが溢れるオーラが魅力的で、クラスが同じだった三年時には淡い片思いを抱いていたこともあった。けれど、俺はロクなアプローチも出来ないままに卒業式を迎えてしまった。それどころか、酷い態度をとっていたとも言える。
「自分の親はバトルにかまけて授業参観に来てくれないのに、あいつの親はポケモンのくせにしっかり来ていてムカつく」などという誠に自分勝手な理由でハーフの彼女のいじめを企てたのは、ポケモンバトルも強い上にそいつ自身も体格が良くて喧嘩が得意という、クラスのボスだった。彼に逆らうことが出来るはずも無く、クラスメイトたちは彼女を無視せざるを得なくなる。当然俺も楯突くなんて不可能で、いじめに荷担していたのだ。
せっかく隣の席になれたのに、内心は飛び上がらんばかりに嬉しかったのに、まともな会話なんてほぼ無いに等しかった。一度消しゴムを忘れた時に彼女が貸してくれたというのに、俺は「ありがとう」の一言しか言えなかった。嬉しいのと、恥ずかしいのと、泣きたいのと、これ以上喋ったら次は俺がいじめられるという恐怖がないまぜになって、俺は赤い顔を隠すように彼女から視線を逸らしたのである。消しゴムを返す時も、ぶっきらぼうここに極まれり、と言った雑さだった。

ミニスカートの裾を翻して、先ほどブンが見ないフリをしていた部室に入っていった彼女が閉めた扉がばたん、と音を立てる。もしもあそこで、もっと何か言ってたら。或いはいじめなんて気にせずに、ちゃんと彼女に話しかけたりしていたら。そうしたら、何かが変わったりしたのだろうか。
それは無いな、とすぐに考えを打ち消す。クラス中から無視されても屈する気配一つ見せなかった彼女は、俺なんかの存在に左右されたりしないだろう。俺のことなんか覚えていないに違いない、きっと路傍のダンゴロ以下の認識だ。

まあ、未練などと言うほど何があったわけでも無い。今の彼女がハーフとか、そういう軋轢を気にせず楽しく生きているならそれで良かろう。所属サークルを見る限り少々の不安は感じてしまうけど、それも彼女の自由である。
中学時代の苦い思い出を頭から振り払いつつ、一階にある自販機に到着。ケースの中のラインナップにしばし考える。決めかねたのでブンを抱えて選ばせようとしたが、ブンはさらに俺の頭にいたヤンチャムを抱えて自販機を見せた。ばん、と音が出るほど勢いよく、ヤンチャムがマトマのミックスオレを選ぶ。これかよ、と思いつつも俺はブンとヤンチャムを床に下ろし、小銭数枚を投入した。 


「でさー、来週の日曜なんだけど」

チャリン、という音に被さって、後ろを通っていく女の子たちの声が聞こえてくる。二、三人の喋り声は高い天井に反響した。

「ああ、マーケット行くってやつ? 私は大丈夫だよ」
「ごめん、私パス。ミュージカル出るんだ」
「そうだったか! あんたすごいよねえ、この前雑誌載ってたじゃん。今注目のミュージカルコーディネーターって」
「マジで!? ヤバくない!?」

そんなことないよ、と照れるような声が遠ざかっていく。数人分のヒールの音もやがて聞こえなくなったが、それでも俺は自販機の前に立ち尽くしていた。ブンがズボンをちょいと引っ張ってきて、俺はとっくに出てきていたアルミ缶をようやく拾う。
何もしない、何の意識も無いようなサークルでのうのうと過ごしてやろうと思ったのに。水曜日という奴は、どこまでも俺が嫌いなようだ。自販機に背を向けて、俺は階段の方へと戻る。

プシュッという音を立てて開いた缶を一口煽ると、オレ状になった辛さと中途半端になった甘みによって強烈な吐き気を催した。口を押さえながらブンに缶を差し出したのだが、物凄い勢いで首を横に振ったため、残りは全部ヤンチャムにあげることにする。口を赤くしておいしそうな顔をしているこいつの味覚が心配だ。
大人しくおいしいみずにしときゃ良かった、と思いながら部室に戻ると、同級生がオーベムに跳満を振り込んだらしく、ちょうど飛んだところだった。







高校に上がって半年ほど経ったある日、旅立ってやはりそのくらい経った二番目の妹から画像ファイルが沢山送られてきた。上の妹とは違い、あまりバトルやジム戦に興味が無い彼女は小さいころからヒウンシティやライモンシティといった都会に憧れていた。だから旅に出てすぐに各種交通機関を駆使し、森や草むらの冒険をすっ飛ばしてライモンへ向かったらしい。
そこで彼女が出会ったのがポケモンミュージカルだ。自身のポケモンをコーディネートし、音楽と物語を作り出していくという、ホウエンやシンオウのコンテストとはまた違った文化。旅立つ前もテレビなどでよく見ていたけれど、ライモンのミュージカルホールで生の公演を観た妹は完全に虜になってしまったようだ。
メールに添付されている写真は、初のミュージカル出場を叶えた妹と、彼女のチュリネを写したものだった。花飾りをいっぱいにつけて、可愛いパラソルを差したチュリネと共に、満面の笑みの妹がポーズを決めている。ミュージカルの出来映えには期待以上の手応えがあったらしく、しばらくはライモンに居座るのだという旨がメールに記されていた。

ミュージカルか、と俺は考えた。受験も終わり、特にやるべきことも熱中していることも無い。じゃあやってみるかと軽い気持ちでミュージカルのハウツー本を近所の本屋で購入した。
その本によるとミュージカルではアクセサリーでポケモンをコーディネートするため、ポケモンの種類で向き不向きがあるらしい。傘やステッキ、楽器などの道具を使うことも多いから、手が使えるポケモンでないと高評価は厳しいとも書かれていた。手に関する表記を読んだ俺は、俺のゲーム機を器用にいじくっているブンをまず見たが、視線に気がついたブンはにこにこと笑って首を横に振った。人前に出るのが恥ずかしいのか、と尋ねた時には既にゲームに戻ってしまっていたから答えはもらえなかったが、そういうことにしておく。 

俺を軽く超えたハイスコアをばんばん出しているブンは置いとくことにして、GTSへ行ってミュージカル向きのポケモンを探した。交換希望の欄にそう書くと、数日も経たないうちにマリルが俺のところへ届いた。
ミュージカルの本場にして聖地であるライモンのホールで行われる正規の公演でなくとも、各街でミュージカルに似たものは行われている。早速数週間後にイベントがあるじゃないか、善は急げとばかりに俺はマリルを出場者として申し込んだ。

結果から言うと、大失敗だった。アピールのタイミングが全く以て掴めず、定番だと思われるところでマリルに決めさせようとすると他のポケモンと被って陰が薄くなる。かと言って奇をてらってみると、ただ間違っただけにしか受け取れない。公演の間中、俺はあたふたしているばかりだった。
というか、まずコーディネートからして微妙なのだ。他の出場ポケモンは可愛かったりスタイリッシュだったり、なにかと洗練された格好をしているのに俺のマリルだけ何かが違うのだ。致命的に悪い、というわけでは無い。しかしどこか垢抜けない、何かが変。まあ、端的に言えば、ダサかった。
しまいには、とんちんかんなタイミングで指示を出した俺にマリルの方が動揺してしまう始末だ。ここでやるのかよ、と言いたげな表情で俺の方を見てしまったマリルはその戸惑いに気を取られ、足を滑らせてバランスを崩した。ちょうど曲が静かになった時で、まるで狙いすましたように、マリルが落としたステッキの乾いた音が沈黙した市民ホールに響きわたった。

公演が終わるなりホールを出た俺は、マリルがつけていたアクセサリーの入った鞄を抱え、黙って隣を歩いているブンに言った。


「俺にはファッションセンスとか無いしさ。音楽だって、特別出来るわけでもないし。金もかかるし……。別にやめたって、俺は大丈夫だよな、ブン?」
「タブンネ〜」
「だよな、お前もそう思うよな」


かくして俺は、ミュージカル出場の道をそこで絶った。翌日、リサイクルショップにアクセサリーを売りに行って家に帰ってくると、二番目の妹から自分のファンが出来たのだと喜びのメールが届いていた。一緒になって喜ぶ家族に気づかれないよう、俺は階段を上って自室に向かう。扉の前でブンが俺を抜かし、ドアノブを回して扉を開けた。


四年前の水曜日、しょうのない俺はミュージカル出場をやめた。 


アクセサリーを売る道中で、マリルはGTSへと戻っていった。







「はぁ〜……ねっむ……」
「どうしたのイオン、なんかボーッとしてるね」

さらに一週明けた水曜日。今日もやっぱり疲れている。欠伸しながら大きく伸びをした俺の隣に座る友人が、呆れたようにそう言った。まだ授業が始まっていない教室は、生徒の声やポケモンの足音で騒がしい。休み時間はポケモンを出して良いことになっているのだけれども、それにしてもうるさすぎると思う。
まだ二時間目だというのに、斜め前に座っている奴がコンビニの冷やし中華をがっつり食っている。おかげでここら一体が麺汁臭くてたまらない。かと思えば、通路を挟んだ隣では五、六人の女子生徒がお菓子の袋を机に広げて喋っている。バリバリという咀嚼音と喋り声はきっとバクオングにだって勝てるだろう。

「どうせ昨日も、またテレビでも観てたんだろうけど。あんまり夜更かししない方がいいよ」

日中ぼんやりすると危ないからね、と友人が真面目な顔で付け加える。夏休み前にはまさしくこの友人自身がよく日中にぼんやりしていたのだけれども、そう言えば休み明けからはとんと無くなっていた。試験期間中なんてこいつの成績どころか身の安全まで心配になるレベルのぼんやりだったので、どうやら治ったらしくてホッとする。
元々のんびりしている方とは言え、あれは明らかに異常な部類だった。さいみんじゅつをかけられたとしても、もう少し眠くなる素振りというものを見せるだろう。しかし友人のそれはもっと急に意識が飛んでいるような、ゴーストポケモンに魂でも抜かれたかと思うようなものだった。
いくら考えても原因はとんとわからないし、もし夏休みが明けてもあの症状が続いていたらどこかに相談するべきだろうか、などと思っていたけれども、元に戻って良かった。すっかり元気になった友人に答えを返す。

「ちげーよ、疲れてんだよ。確かにテレビは観てたけど、昨日は十二時くらいには寝たし……でも、」
「でも?」

友人の尋ねる声は、教室の喧騒に紛れてほとんど聞こえない。先生が来ていないのをいいことに、教壇を使ってバトルをしているバトサーの奴らがいるけれども、技が外れてこっちにきたらどうしてくれるというのか。白いシャツの男子生徒が繰り出したノクタスが放ったミサイルばりが教室の壁に突き刺さるのを見て、ひやりとした俺の背中に震えが走る。

「こいつがさぁ……朝の四時に起こしてきたんだよ、腹が減ったとか騒ぎやがって」

またもや出てきた欠伸であやふやになる声で俺は答える。頭の上を指差した俺に、友人が「ああ」と苦笑混じりに納得を表した。こいつこと俺の眠気の原因であるヤンチャムは、罪の自覚など一切無い様子でまたしても俺の髪を抜いて遊んでいる。

だから昨日の夜にちゃんと食べとけって言ったのに、と俺はふにゃふにゃとぼやく。フレンドリィショップで従業員割引を使って買ったポケじゃらしをうっかり与えてしまったために、夕飯もまともに食べずにヤンチャムは遊んでいたのだ。いい加減片づけるぞ、後で食べるって言っても無いからな、と何度も念を押す俺の言葉もロクに聞かず、食べるように促すブンが差し出した皿に見向きもせず。ヤンチャムは疲れて寝てしまうまで、飽きることなく遊び倒していた。
結果、やっぱり腹が減ったと早朝から騒ぎ立てていたわけである。あんだけ言ったじゃねえか今更喚いても駄目だ、などと説得しようとしてもヤンチャムは聞いてくれなくて、抗議の声が一層強くなるだけだった。結局こちらが根負けして、すぐに食べられるタイプのポフィンをいくつか食わせたのだが、満足したようにそれを頬張るヤンチャムの顔を見ていると怒る気力も失せた。
おもちゃは食後にあげるべきだったな、と思いながらもう一度床に就いたものの、途中で睡眠を妨げられるのはやはりよろしくない。髪引っこ抜き野郎のおかげで俺もブンも寝不足である。ちゃっかり隣の席に座って俺の携帯でゲームをしているブンの目も、いつもに比べると眠そうだ。まあ、こいつはボールの中で寝れるからいいけれど。

「……つーわけでシラサギ、俺寝るから……なんかあったら起こして、どうせこの授業雑談しかしねえし……」
「いいけどさー。あ、そうだイオンってセイガイハ行ったことある?」

早くも夢の世界に片足を踏み入れる俺に、友人が思い出したように言う。落ちかけた意識を引っ張りだして彼の方を見ると、友人の肩にとまったアーケンと目があった。

「え、急にどした? まあ、昔家族で行ったな」
「今度ペリーラと行こうと思ってさ。起きたらでいいから、オススメスポットとか教えてよ」
「おー、だいぶ前だから変わってるかもしれねえけど……つーかシラサギ、最近アクティブだな」

この前も週末にフキヨセに行ったとか言ってたし、と思いながら俺は呟く。と、友人が照れたみたいに頭を掻きながら、「色々なポケモンが見たくなっちゃったんだ」と言った。「ペリーラと一緒に、ポケモンがいるところに行けるのがすごい嬉しくてさ」と笑って、友人の手がアーケンの堅い翼を撫でる。
言っていることがよくわからないし、どうして急にこんなしみじみしているのかも不明だが、友人は嬉しいらしいので俺は「そうか」と頷くだけにしておく。嬉しいのは良いことだ、とりあえずお土産を楽しみにしておこう。

いい加減眠気が限界だ。んじゃ、と友人に軽く手を振り、隣のブンと頭のヤンチャムとをボールに戻す。ブンがやっていたゲームがポーズ画面になるのを確認した俺は、まだバトルを続けていたバカの「すなあらし」という不穏な一言を最後に意識を捨てた。





「……で、あるから……つまり教育の歴史というのは大変深く、いつから始まったかというのは厳密には……」


朦朧とした頭の中がほんの少しだけクリアになる。腕時計を見ると、授業はまだ半分ほどしか進んでいなかった。途中で起きてしまったらしい、九十分まるまる寝るつもりでいたのに勿体無い。
しかし、この状態ならすぐに睡眠へと戻れるだろう。突っ伏したまま目だけを動かして教室を見ると、受講者の八割方が寝ているように思えた。隣に座っている友人は一見すると真面目な顔をして聞いているようだが、机に出しているプリントは別の授業のものである。先ほどはあれだけ騒がしかった教室も静まり返っていて、人を絶妙に眠くさせる能力を持った先生の声だけが響いていた。

「人間とポケモンの違いについては様々な学説があります。言語の有無や文字の有無、創造性や意識の差異など、今でも数多くの研究者が意見を交わしていますが、これとはっきり言えるような答えは未だ出ていません。それについては、皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか」

再び眠りにつくまで、しばし先生の話に耳を傾けることにする。歳のころは六十手前くらい、どことなくナマズンを思わせる優しい風貌の先生は、大学教授というよりはどちらかというと小中学校にいそうなおじいちゃん先生だ。

「しかしですね、まず、人間とポケモンが違うものなのかというところからしてわかっていないのですよ。だってそうでしょう、これといった違いが無いのですから、そもそも違うものではなく同じなのだと言っても矛盾点は無い。人間とポケモンは同じもの、そう主張する学者も、多数派ではありませんがいるのです。現にこのイッシュ地方も、色々な人とポケモンが一種類に見えるから、という理由が名前の元ですしね」

自分の話がほとんどの人に聞かれていないことを全く気にしていない様子で、先生は訥々と話し続ける。指導者というものは、指導力や知識や愛情などだけではなく話を聞いてもらわなくても気にせず話せるような、ふくつのこころが必要なのかもしれない。心に留めておこう。
曖昧な意識の中決意した俺を余所に、先生の話はまだまだ続く。

「なんでこんな話をするかというとですね、あれですよ、『教育』につきものの『学習』。その『学習』が人間だけが持つ、ポケモンには存在しない行為なのだと論じる学者がいるんですよ。これ、大変馬鹿げてることです」

そんなのありえません、と先生が力説した。

「だって『がくしゅうそうち』ってあるでしょ? あの『がくしゅう』は当然『学習』で、道具の効能は、戦っていないポケモンがバトルに出ていたポケモンの戦い方を見て強くなるって現象。これを学習と呼ばずに、何と呼ぶのか。何もね、机に向かって本を読んだりドリルをやったりというのだけが学習じゃないんですから」
「そりゃあ勿論、書物や資料などから知識を増やすのも学習の一つです。だけどそれだけじゃない。スポーツのやり方もそうだし、楽器や歌もそうだし、料理やコンピューターの使い方といったものもそう。赤ちゃんが周りの人の使っている言葉を真似していくのも学習だし、人とのコミュニケーションの方法を、人と接していく中で掴んでいくのも学習です。バトルの仕方や、ポケモンの捕まえ方だってそうでしょう? 私たちの生活の全ては、学習という行為と密接に関わっているのです」
「ポケモンだって同じです。ツタージャのつるのムチがジャローダのリーフブレードの真似から始まるのも、ひのこを使いたいポカブがエンブオーのかえんほうしゃに倣うのも、ミジュマルのみずでっぽうはダイケンキのハイドロポンプに依るということも、全部、学習なのですよ」

進化するまで空を飛べもしなかったのに、ボーマンダがすぐに飛翔出来るのは、それまで長い間やってきたイメージトレーニングという学習方法のおかげなのだという説もありますね。先生が付け加える。
随分長い雑談だな、と俺は薄れる意識で思う。先ほどのバカたちがバトルのやり逃げをしたのだろう、机や床は砂のせいで全体的にざらざらしていた。どこの誰だか知らない生徒二人に内心で舌打ちする。
まあ、何が言いたいかといいますと、と先生が声の調子を少し変えた。若干重くなった声色が、静かな教室へと溶けていく。

「学習というものは人にもポケモンにもついて回るもので、かつ、不可欠なものなのです。自己を高め、よりよくするためには欠かせない行為ですからね。そのための動機付けとなるのは、何かになりたいという目標でしょう。人間ならばバトルが強くなりたいとか、いい会社に入りたいとか、素敵な作品が作りたいとか。ポケモンならば先ほどの例のように、空を飛びたいという思いなどですね」

瞼が重くなってくる。どんどん遠くになっていくように思える先生の声が、「皆さん、これだけは頭に入れておいてください」と念を押した。もはや残滓のような意識がその言葉を捉える。

「その動機、目標だけは必ず持ち続けてください。内容は人それぞれ、ポケモンそれぞれですが、持つことが重要なんです。何かになりたい、という気持ちを失ってしまっては、人もポケモンも、どうしようもありません」

そう聞こえた先生の台詞を全て受け止めるよりも先に、俺の意識は散っていく。頭に浮かび上がったのは白い霧みたいなもので、その実黒い闇のようでもあった。僅かに開いていた瞼もあっと言う間に閉じてしまい、教室の風景は完全にシャットアウトされる。

瞬時に深くなって、思考の全てを中断する頭の中の靄。もはや意識なんてほぼ残っていないはずなのに、何故か、俺は無性に泣きたいような気がした。







高校三年生の春、桜の花が散り始める頃に一番下の妹が家を出た。昔から大人しく、本を読んだり何かを調べたりするのが好きだった妹は旅に出ないで学校に通っていたのだけれども、彼女もまた姉たちと同じように外へ行ったのだ。
上の妹が早々に破り、俺はジムリーダーを拝むことすら無かったシッポウジムは当時既になくなっていた。ジムリーダーだったアロエさんが博物館の館長業に専念するべく、ジムを閉じてしまったのである。ノーマルタイプのジムがあった街は、イッシュ随一の博物館がある街になった。

さて、妹は小さい頃より博物館が大好きだった。古代のポケモンのことや宇宙の謎、昔の人が遺した品々などを眺めてはうっとりとした表情を浮かべて、あれこれと新しい本を借りてきたりもした。そんな風にして暇さえあれば博物館に足を運ぶ妹を、アロエさんは気にかけてくれていたらしい。ある日俺の家を尋ねてきたアロエさんを何事かと出迎えた両親に彼女は言った。
俺の妹には学者の才能がある、と。

そして、責任は自分が負うから勉強と実習のため妹を預けて欲しい、とも。
最初は面食らっていた両親だが、その話を喜んで受け入れた。アロエさんなら安心だし、何より当の妹がそうしたいと言ったのだ。学校は旅をしていれば行かないものなのだから問題ない。砂漠でも森でも、どんな辛い場所でのフィールドワークでも頑張るから、と妹は眼鏡の奥の瞳をきらきらさせて語っていた。
話はほぼ決定したようなもので、あとは手続きや健康診断、その他必要なものなどについて両親とアロエさんは相談していた。俺はいても仕方ないので、彼らにお茶を出してからは部屋の外でぼんやり立っていた。壁越しに聞こえてくる会話、古生物学だか考古学だかわからないが、そのあたりの難しい専門用語をアロエさんと飛び交わす妹はなんだか遠い存在に思えた。

そして、俺も進路選択を迫られていた。他に打ち込むことの無い俺は、最低限の勉強は一応していたので普通に高校に進んだのだけど、三年という時はあっと言う間に過ぎるものである。次の進路、卒業後のことを考えなければならなくなったのだ。
ほどほどの偏差値であった俺の母校は、ほとんどが進学を選んでいる。俺もそのつもりだったし、両親や担任、進路指導の先生も成績や校風からの自然な流れとしてそれを勧めてきた。
それはいいとして、問題なのは学部である。特に学びたいことも無い俺は学問のために大学に行くわけではない。時代の風潮とか、大卒という肩書きが欲しいに過ぎなかった。となると就職率や受験の倍率などを考慮して選ぶのが当然だろう、やる気もないのだからいかにもな研究系は外すのが賢明だ。

学問の道に進んだ妹の、空になった部屋を見て俺は考えた。何かを学ぼうという気持ちさえあれば今からでも十分間に合う。大学に行かせてくれる両親もいるし、俺がその気にさえなれば古生物だろうが考古学だろうが、携帯獣学でも文学でも心理学でも天文学でも、なんだって学べるはずだ。
GTSで交換してきたリリーラをぼんやり眺める。妹たちが化石について話しているのを聞いて連想したポケモンだが、うねうねと動く触手はなめらかで化石と関係があるとは到底思えなかった。茎らしき部分ごと身体をゆらゆらさせるリリーラの入った水槽のガラスにべったり額をくっつけて、ブンが青い目を丸くして観察している。

妹やアロエさんは、このリリーラのように化石から復活したポケモンにはロマンがあるのだと言った。しかし今俺の部屋で揺れている、この謎な風体のポケモンからはロマンどころか感情すら読みとれない。触手の出所であるぽっかり開いた穴の中は闇みたいで、そこに光る二つの目玉は不気味でしか無かった。GTSの帰り道、試しに買ってみた考古学の本も、俺にとってはわけわからなさの塊だ。
本のページをぺらぺらめくってすぐ閉じて、なあ、と俺はブンに言う。水槽から顔を離したブンの笑顔がこちらを向いた。


「自分の興味ない勉強するよりは、たとえ興味無くても将来潰しが利くところに行った方がいいよな。わからなくて留年重ねるよりずっとマシだ、今まで通りやってりゃあ俺は大丈夫だよな、ブン?」
「タブンネ〜」
「だよな、お前もそう思うよな」


かくして俺は、進路希望調査のプリントに「進学・推薦受験」と書いて提出した。一般受験まで頑張れる気はしなかったし、そこそこ真面目な学校生活が幸いして、両親の眼鏡にかなうような大学の推薦は大体取れる状態だったのだ。
まあ君なら大丈夫だろうけれど、もっと冒険しなくてもいいの? という担任に頷いた俺は個人面談をものの数分で負え、廊下で鞄を抱えて待っていたブンと帰路につく。ちゃんと受験勉強に精を出している同級生たちが予備校に向かう姿を横目に、俺は家へ直行した。

やがて秋になり、さしたる苦労もすることなくホドモエ大学の教育学部に進学が決定した俺は、入学手続きなどの書類が入った封筒を受け取って職員室を後にする。先生になろうと思ったことは無かったけど子供は嫌いじゃないし、人前に立って話すことも苦手では無いからまあいいか、と思いながら帰った家に、一番下の妹からの手紙が届いていた。元気にやっているという内容が書かれた手紙に同封された写真には、俺が行ったことも、行こうと思ったことすら無いような砂漠で化石を掘っている妹が写っていた。
 

二年前の水曜日、救いようのない俺は学問を諦めた。
 

リリーラは桜の葉が茂るよりも早く、GTSのサーバーへと送られていった。







そしてまた、一週間が過ぎた。

授業は四限で終わるし、バイトも無いのだから有意義に過ごそうとした火曜日は、特に買い物の予定も無い店をぶらついたり、本屋で立ち読みをしてみたり、だらだらと無駄に時間をかけて夕飯を作っているうちに呆気なく終了した。さして興味も無いのに何となくつけていたテレビを缶ビール片手に観ていたら、番組の切り替わりで日付が変わったことに気づいた時の絶望感を何に例えようか。
これでは、また日中眠くてたまらなくなってしまうではないか。先週の反省が全く活かされていない、しかし今更悔やんだところでもう手遅れである。俺は半分ほど減ったビールを喉に流し込んだ。
授業中にボールで爆睡していたヤンチャムは恐ろしいほどに目が冴えているようで、俺の頭とブンの腹とポケじゃらしとをローテンションで遊び道具にしている。肉をつままれるのを気にする様子も無く、ブンは酒の肴であるチーズを包むアルミ箔を器用に剥がし、黄色い三角に噛みついた。

一人ではしゃいでいるヤンチャムは好きにさせておくとして、俺は枝豆を数粒口に放り込む。揃ってもぐもぐしながら俺とブンが眺めているテレビの音が部屋に響くが、お隣さんはもう寝ているだろうか。一応音量は小さめに落としてあるけれど。
学生アパートだけあって、隣人は俺と同じ大学の同級生だ。学部もサークルも違うため学校で会うことは無いけれど、登校前や帰宅時などに顔を合わせることは度々ある。今朝もそうだったのだけれど、いつもブンとヤンチャムに急かされながら騒がしく登校する羽目になる俺は、必要最低限レベルの挨拶しか出来た試しが無い。同い年の同じ大学の生徒、そしてお隣さんなのだからもう少し仲良くなってもよいものだろうけど、なかなかコミュニケーションをとる機会に恵まれないまま今に至る。

そういや、と俺は朝の隣人を思い浮かべた。今年の夏頃から、彼は変わった気がしなくもない。ブンやヤンチャムに翻弄されている俺が「っはよーございます」と慌てて言っても、以前は静かに挨拶を返してくれるだけだった。無愛想というわけでは無いけれど、どこか壁を作っているような印象を受けていたのだ。
だけど、いつの間にかそれに笑顔のオプションがついてくるようになった。どたばたと階段を降りる俺たちを見てくすりと笑いながら、おはようございます、と言うお隣さんが頭に浮かぶ。なんというか、雰囲気が柔らかくなった。

もっとも、俺の気のせいという可能性が十分あるわけだけど。うるさい俺とは違って落ち着いたオーラの彼は生活もごく静かなもので、壁を隔てて暮らすようになって一年半、生活音が気になったことは一度も無い。隣に住むにはこれ以上ないほど良い人だけれど、おかげでポケモンがいるのかいないのかすらもわからないままだ。
まあ、それは何かの折に聞くことにしよう。とりあえず今の彼は春頃までの彼よりもずっと楽しそうなのだし、俺が心配することでも無い。朝から思い詰めた顔をするよりも、笑っていられる方がいいに違いなかろう。お隣さんについての思考はそこで打ち切って、俺はテレビに意識を戻す。

『……では、先日ライモンシティビッグスタジアムで行われた、ポケモンバトル秋のライモンカップの決勝戦の模様です』

画面が切り替わって、俺も何度か足を運んだことがあるライモンシティのスタジアムが映る。普段はサッカーや野球など、スポーツ施設として使われている場所だが、ポケモンバトルの場としても有名だ。この前の日曜日に開催されたというその大会は、多くの観客でにぎわっていた。

『さあいよいよ決勝です! 両者とも激戦を勝ち抜いてきた強者、勝利のビクティニはどちらに微笑むのか!? この戦い、目が離せません!!』

実況の台詞が流れ、客席からの歓声が飛ぶ。コート中央の審判が旗を上げると同時に、向き合うトレーナー二人がポケモンを繰り出した。男トレーナーの方はグランブル、女トレーナーの方はアギルダー。モンスターボールから広がった光が収まらないうちに、二匹のポケモンは動き出す。

『インファイト!!』
『きあいだま!!』

すかさず叫んだトレーナーたちの声に、グランブルとアギルダーが技を発動した。瞬間、ぶつかった技と技とが衝撃を巻き起こし、フィールドに煙が舞う。じゃれつけグランブル、とんぼがえり、と声だけが響いて、煙の晴れた時には既にバトルは再開していた。グランブルの技を何食わぬ顔で受け止めているのはアギルダーでなくたった今交代されたシュバルゴで、不気味な色を帯びた鋭い槍が、グランブルにどくづきを食らわした。

そこではっと気がつく。女のトレーナーは確かに、数週間前ホドモエジムに行った時に来ていた挑戦者だ。綺麗に伸ばした金の髪を技の衝撃で起きた風に揺らし、力強い声で指示を飛ばしている。むしポケモンの使い手だと紹介された彼女は、この前はよく見えなかった青い目に輝きを宿して、自分のポケモンと一緒に動いていた。
この数週間のあいだに、彼女が格段に強くなっていることは素人の俺にもなんとなく伝わった。この前だって十分強かった。この数週間も、そしてこれまでも、ずっと努力していたのだろう。


俺には計り知れないくらいの時間を、彼女は。


それにきっと、彼女と対峙するトレーナーや、他の出場者たちも、きっと。

『そのまま逃がさないで! ……アイアンヘッド!!』

彼女の声が飛ぶ。鋼の鎧が照明を反射して光り、少しの反動をつけて相手へと猛スピードで衝突する。がつん、という鈍い音。フィールドの地面へと突き飛ばされたグランブルが短い呻き声と共に倒れ込んで、審判が戦闘不能の旗を上げた。
ブンがバトルの様子を食い入るように見ている。苦い顔でグランブルを戻した男トレーナーが、新たにカエンジシを繰り出した。すぐに始まる攻防、燃え盛る炎とその中へ突っ込んでいく鋼の騎士。

強さと強さがぶつかり合う、一瞬の隙も許されない戦場。自らを鍛え抜いてきた者たちが駆け巡り、技という技を放つフィールドでポケモンとトレーナーは輝きを発す。


俺とは、えらい違いだ。散らかった部屋に身を投げ出して思う。

この数週間、俺は何をしたというのだろう。何をしたと言えるのだろう。適当に寝て起きて、学校行ってバイトして、だらだら過ごしていただけだ。その間に少しでも、彼女みたいなトレーナーの何十分の一でも、何かを目指して頑張っていたのなら。こうして光に照らされて、ポケモンと共に輝くことが出来たのだろうか。
何かになりたい、と思わなくなったらどうしようもありませんよ。名前すら思い出せない、何かの授業の先生が頭の中で言った。

その通りだ。何かを目指す心、俗に言う向上心。強くなりたい、素敵になりたい、空を飛びたい、進化したい。人でもポケモンでも同じ、生きていく上で必要不可欠なその心。それを失ってしまったら、もうおしまいである。



どうしようもない。

そうだ、まったく、どうしようもないんだ。



テレビのスピーカーから発せられる技の衝撃音とトレーナーの声、実況の台詞と絶えない歓声。ヤンチャムがポケじゃらしと一緒に床を転げ回る音、ブンがアルミ箔を小さく丸める音。蒸し暑さの残る夜に回している、扇風機の羽音。残りを一気に無くしてしまおうと、勢いをつけてあおったビールが流れ込む、俺の喉の音。

聞こえる音が遠ざかっていく。一気飲みをしたせいか、それとも扇風機のせいか。急に冷えたように思える首筋に、冷たい汗が一つ伝った。





ある時はとりつかいになろうと思って、GTSでオニスズメを受け取った。
手懐かせるよりも前に、小さいくせにちゃんとしている羽をばたばたと動かして、隙あらば空へと逃げていってしまうのを必死で押さえつけるのに心が折れた。

オニスズメは二日で交換に出された。



ある時はクラウンになろうと思って、GTSでマネネを受け取った。
ジャグリングをすればバトンは残らず地面に落ちるし、玉乗りをすれば数秒も経たないうちに滑って転がった。手品をすればカラクリ通りに進まず、マネネのエスパーわざを借りようとしても上手く息が合わないせいでますます失敗した。

マネネは二週間で交換に出された。



ある時はギタリストになろうと思って、GTSでエリキテルを受け取った。
ピックが扱えないせいで爪は傷つき、どの弦を弾けば良いのかさっぱりわからず、意味不明な不協和音が鳴るばかり。最終的には、あまりの雑音加減に業を煮やしたらしいエリキテルの放った電流で、ギターは見るも無惨な姿になった。

エリキテルは一ヶ月で交換に出された。



ある時はサイキッカーになろうと思って、GTSでカゲボウズを受け取った。
しかし俺には霊感というものが欠片ほども無いようで、霊的エネルギーを感じて自らの力に変えるどころか自分のカゲボウズすらたびたび見失っていた。人の恨みを食べるはずのカゲボウズが、誰よりも強い恨みを俺に抱いたことだろう。

カゲボウズは十日で交換に出された。



ある時はからておうになろうと思って、GTSでバルキーを受け取った。
格闘技に必要だという心技体、その一つも俺は持っていなかった。たかだか十分のランニングでへばった俺とは対照的に、まだまだこれからとでも言うような顔のバルキーに引っ張られて走らされた俺は割と本気で死にかけた。

バルキーは一日で交換に出された。


 
ある時はバッドガイになろうとして、GTSでグレッグルを受け取った。
だが、学校の評価を悪くしたくは無いためあまりバッドなことが出来ないのと、不良の溜まり場としてはお馴染みである裏路地の臭いに俺は慣れることが出来ず、グレッグルを呆れさせていた。

グレッグルは二十日で交換に出された。



ある時はダンサーになろうと思って、GTSでマラカッチを受け取った。
ステップの一つもまともに踏めない俺があたふたと足を滅茶苦茶に動かしている間に、マラカッチだけが音楽に合わせて踊っていた。太鼓の音が楽しい陽気な曲はどんどん早くなり、俺はとうとう足を絡まらせて転び、マラカッチだけが勝手に一匹でノリノリだった。

マラカッチは六日間で交換に出された。



ある時はむしとりしょうねんになろうと思って、GTSでホーホーを受け取った。
虫取り網を操る才能が俺には致命的なほどに無く、捕獲用にもらってきたホーホーが自慢の目を光らせる段階にしら至らずない。無様な動きをした虫取り網の横を抜けて、むしポケモンはみんな飛んでいった。

ホーホーは五日間で交換に出された。



ある時はポケモンレンジャーになろうと思って、GTSでプラスルを受け取った。
スタイラーが上手く扱えず、キャプチャしようとした野生ポケモンは皆すたこら逃げていってしまい、阿下喜の果てにはその辺を歩いていたトレーナーのポケモンをキャプチャしかけて怒られた。

プラスルは一週間で交換に出された。




ある時はつりびとになろうとして、半月でコイキングを交換に出した。



ある時はスキーヤーになろうとして、四日間でユキカブリを交換に出した。
 


ある時はドラゴンつかいになろうとして、九日間でキバゴを交換に出した。
 




ある時は、……。





GTSを通してポケモンが変わっていく度に、俺は何かを諦め続けた。


これも駄目だった、あれも出来なかった。ああ、それも駄目なんだ。


その都度痛感する自分の無力さを一刻も早く忘れたくて、俺はその出来事を無かったことにするかのようにポケモンを交換し続けていた。
 



俺は何にもなれないまま、志とポケモンだけがその形を変えていく。


えかき、テニスプレーヤー、バックパッカー、バイクずき、ポケモンブリーダー、かいパンやろう、サッカーせんしゅ。

ドーブル、シママ、オドシシ、ドガース、イーブイ、ヘイガニ、コアルヒー。


幾度も幾度も、GTSで受け取るボールの中のポケモンは違うものになっていった。





そして、カロスで流行っているというスカイトレーナに興味を持った初秋。
ひこうポケモンが必要ということなのでGTSでムクバードを交換してもらってきた。公式戦に出るにはスカイバトルの特訓が必要なので、きりっとした目をしたそいつと共にスカイトレーナー訓練施設に行った。しかしムクバードのバトル云々以前に、長時間の飛行に耐えうるだけの体力が俺には存在していなかった。

恐ろしいほどの筋肉痛に襲われた翌日、俺はベッドに転がりながらブンに言った。


「もう、やめていいよな。何かにならなくても、俺は、大丈夫だよな?」
「タブンネ〜」
「……だよな。お前も、そう思うよな」


かくして、どうしようも無い俺は、何かになることを諦めた。




俺は、何にもなれなかったのだ。一番上の妹がポケモンリーグで上位入賞を決めても、真ん中の妹がポケモンミュージカルマガジンの表紙を飾っても、下の妹が化石の復元免許を最年少レベルで取得しても、それでも。

俺だけが、何にもなれなかった。
だから、何かになることをやめたのだ。
 


GTSに流れていったムクバードと引き替えに送られてきたボールをとりあえず開き、途端に小さな手で殴ってきたヤンチャムに頬を傷つけられたその時から、俺は何かになろうともせず、ただ生きてきた。
 


理想を追い求め、挑戦することすら無いままだらだらと。

真実から目を背けず、鍛錬を積むなどしないで毎日を無駄にして。

時の流れに身を流すまま、漫然と過ごす日々がどんどん重なっていく。




なあ。こんなんで、いいのかよ。


アルミ缶の無機質な感触、縁に少しだけ残っていた温くなったビールはいつもよりも苦かった。唇についたそれを舐めて、俺は薄汚れた天井を仰ぎ見る。
こんなんでいいのだろうか。目指したものはすぐに諦め、光を浴びて輝く人のことを、指をくわえてみているだけの日々。自分にとって都合が悪い何もかもから目を逸らし、見ない振りをして、多分大丈夫だ、多分次はうまくいくから、と何の根拠も無いことを自分に言い聞かせ続ける、そんな人生で。




未熟なままは変わらずに、駆け出しと言える年齢も通り過ぎ。

愛情込めて育てた、だなんて口が裂けても言えないトレーナーで。

素晴らしきコンビネーションも、麗しき友情も、強き心も、何も持っていない。

理性をブッとばすくらい熱くなったことも無い、清々しさやスッキリとはほど遠い毎日。
 
この、不思議で満ちている、ポケモンと暮らす世界の美しさを見ずに片隅でうずくまって。
 
輝きなんて縁遠いもので、太陽の光が眩しくて、目を逸らして影に隠れ続けて。
 
見い出してもらえるような強さも才能も、本物の実力も備えないで。
 
風が吹けば飛ばされるような薄弱さ、誰にも期待してもらえずに。
 
心に溢れているエネルギーなんて、枯れる以前にそもそも存在してないのだろうかと思うほどだ。
 
自分が何をしたいか、何を望んでいるか、何もかもはっきりわからないのだから。


 
勝敗よりも大切なのは、以前の自分を超えているかどうか。そう、誰かが言った。
じゃあ俺は、昔の自分があまりにも惨めすぎて見たくなくて、見ないフリをして、結果さらに惨めになり続ける俺は。
 
常に勝ち続けるのは難しいけれど、強さを求める心や最強を知りたい気持ち、それは尊いものだ。そう、誰かが言った。
じゃあ俺は、強くなりたい、最強になりたいと口先ばかりで、尊いと言われるような気持ちになどなったことの無い俺は。
 
どんなことにだって意味はある、いい負け方もある、敗北者になったって、次にさらに輝くための糧にすれば良い。そう、誰かが言った。
じゃあ俺は、敗北を重ね続けているにも関わらず全部を無かったことにして、自分の成長に繋げようともしなかった俺は。
 
痛みを知らず、ポケモンとの結びつきを忘れて結果だけを求めないよう、戦いのハートやソウルを物語にしたい。そう、誰かが言った。
じゃあ俺は、痛いのは嫌で、結果を求めるのも面倒で、ポケモンとの結びつきなんてきっと無くて、ハートもソウルも無い、物語の脇役にすら適さないだろう俺は。


世界を変えるのは、夢を本気で追い求める者らしい。
俺は、その誰かが変えた世界に流されるまま、ずっと過ごしていくのだろうか。
 

ポケモンのことを考え心を尽くし、心の底から勝利を求め、溢れるくらいの優しさを持っているトレーナー。

トレーナーを心より信じて全力を出し、尽きない強さで以て数多の勝負をくぐり抜けたポケモン。
そんな風に真っ直ぐな存在と、俺はぶつかるのが怖かった。

もっともっと強くなって、お互いわかりあえるのかもしれなくても、真剣に勝負して、それで負けたら、全部が否定されてしまうようで怖いのだ。 



悲しい真実からは目を逸らし。

甘い理想というよりは、甘えた幻想にばかり縋り。

自分が何ができるか、なにをやりたいか、ちっともわからないままで。

大事な時に、誰かを助けられるような力も無く。



心と心の交流だろうが無慈悲なアプローチだろうが、ポケモンの強さを引き出せるような資質だって俺は持っていない。

自分に痛みはないのだからと、バトルに対して冷静に割り切れるほどの勇気も持っていない。

かと言って、ポケモンに酷い仕打ちをする奴らに怒(いか)ることは怖くて出来ない。

ポケモンのことが大好きなのだと胸を張って言えるわけでも無い癖に、ポケモンをたかが道具だなどと言い切って、利用するくらいに吹っ切ることも、俺には、無理だ。






『ぶっ飛ばしてやれガマ、ハイドロポンプ!!』
『上にかわしてもう一度舞うよ、スミレちゃん!!』

画面の中で繰り広げられるバトルは、いつの間にか両者とも最後のポケモンになっていた。猛烈な勢いを持った水流が空を飛ぶモルフォンへと突っ込んでいく。しかし直線の水流はひらりと動く羽によってたやすく避けられてしまう。そのまま挑発するように優雅な舞を見せるモルフォンが、活力をめきめきと上げていく。ガマゲロゲのトレーナーの歯噛みする表情が画面の端に映った。
フィールドに立つトレーナー二人、対峙するポケモンたちがその指示に合わせて動く。トレーナーが「今だ!!」と告げるのと同時に動き、サイコキネシスの波が、きあいだまの光が、二匹の真ん中でぶつかって爆発した。互いに弾き飛ばされた彼らはそれでも尚、すぐに態勢を立て直す。そして、まるで彼らがそうなることを見越していたかのような素早さでトレーナーが新たな指示を飛ばす。

彼らみたいに、俺も、ブンとこんな風に立ち回ることが出来るのか。その問いに、俺は心中で首を横に振る。こんな、何もかもが中途半端で何もかもが煮えきらない俺は、バトルもミュージカルも研究も、何をやったって出来るはずがないんだ。



もしも誰か、世界を旅する人が現れたとして。

俺は、ポケモンと心を通い合わせ、助け合えていると言えるのだろうか?
俺といることで、ポケモンは本来の力を発揮出来ているだろうか?

或いは、せっかくポケモンはそばにいてくれているのに、俺は未知なる世界へ進んでいけているのだろうか?


ポケモンと人間、お互いを高みへと誘っていける素晴らしきパートナー。だけど、俺がそんな良いものになれていると誰が証明してくれる?
こんな俺に、誰が、「アリガトウ」を言ってくれる?


いつか世界の誰からも、しまいにはブンからさえ見捨てられるだろうと俺は思っていた。ブンなんていう、良く出来たポケモンがこんな俺と一緒にいてくれるのは、あの日草むらで偶然出会ったのが俺だからに過ぎない。

三番道路で出会った時、ブンはトレーナーの連れたフタチマルから一方的な攻撃を受けていた。もうブンの方はぼろぼろで動けない状態なのに、トレーナーは迷う素振りも見せず指示を出し続けている。明らかに異常な光景、放っておいたら危険だということは十歳の子供でも十分理解出来た。
しかし、俺は動けなかった。やめろ、という言葉は怖くて出てこなかった。もしも俺が何か言ったことにより逆上したトレーナーが俺に襲いかかってきたら、あのフタチマルの貝をぶつけられたら、と思うと身が竦んだのだった。

声をかけようとした体勢のまま、俺は固まってしまった。そのまま数秒突っ立っていた俺に気がついたらしいトレーナーは、急に気まずそうな顔になってフタチマルをボールに戻し、そそくさと走り去った。今思えば、トレーナーには悪いことをしているという自覚があり、人に見られたくなかったからなのだろうけど、当時の俺にそんなことはわからない。何故トレーナーが行ってしまったのかわからず、呆然と立ち止まったままだった。
そんな俺の意識を戻したのは、かなり傷ついたタブンネの呻き声だった。我に返った俺はとりあえずタブンネをポケモンセンターに連れていったのだが、そうしたら不思議と懐かれてしまい、旅のパートナーを探していた俺はこれ幸いとばかりに「ブン」という名前をつけた彼女をボールに収めたのである。


俺とブンの出会いなんて、そんなものだ。俺が何をしたというわけでもない、本当にただの、偶然。あそこで俺が「そんなことをするな!」などと言いながらブンの前に立ちふさがったり、トレーナーを止めたりしたらまだ良かったのだろうけど、俺は何も出来なかった。
ただ偶然、あの時あそこを通りかかったら全てが自動的に進んだだけなのだ。ブンから見たら俺以外の人間は自分を襲う存在だから、センターに連れていってくれた俺が救世主のようにも思えたのかもしれない。だけど、そんなの誰にでも出来ることだ。ブンが俺の傍にいてくれるのは、「俺だから」なんかじゃないんだ。
あの時、俺よりももう少し早く誰かが通りかかっていたら、例えば今テレビに映っている強いトレーナーのように、ブンをもっと輝かせてあげられる奴が先にブンに出会っていたら。きっと、ブンはそいつについていっていただろう。

情けなくて、ふがいなくて、しょうのなくて、救いようのなくて、どうしようもない、何にもなれなかった俺では無く、別の誰かに。
ブンがそれをわかってしまう日が来るのが怖かった。いや、きっとわかっているのだろう。俺はいつか、ブンに拒絶されるのが怖くてたまらなかった。
ブンが俺といるのは、俺がモンスターボールという縄で自分のところにブンを縛り付けているからなのだろうと。この束縛がなくなったらブンは俺のところから去っていくのだろうと、俺がブンのトレーナーでなくなったら、何もかもが無かったことになるのだろうと。そんな考えが、消そうとしても消そうとしても生まれてきて、じっとりと俺にまとわりつくのである。

「ポケモンをボールから解放しろ」と聞いたとき、どうでもいいと思いつつも、もしそんなことを本当にしたら、こいつがいなくなっちゃうんじゃないか不安だった。
だからずっと聞けなかったのだ。聞こうとする度にどうしようもなく辛くなって、時には泣いて、ブンに縋った。そして、いつでも優しくそんな俺を受け止めてくれるピンク色の彼女に甘えて、問題を後回しにし続けた。ずっとずっと、聞かないままに、俺はブンからも、自分からも目を逸らしていた。


「こんな俺でも、大丈夫だよな」と自信なさげに問う俺に、ブンはいつでも「多分ね」と柔らかい声で返すのだ。俺はそれをわかっていて、ブンが必ずそう言ってくれると知っていて、ブンが「タブンネ」としか鳴かないことを理解していて、その上で卑怯にも尋ねるのだ。俺のところにいてくれるよな、お前は俺を見捨てたりしないよな、と。その都度、ブンは「多分ね」と笑ってくれるから。


最悪、である。こんな愚か者、何にもなれなくて当然だ。ポケモンにも自分にもちゃんと向き合わず、二十年の間漫然と生きてきた、こんな奴は。
また泣いてしまいそうだ、と思った。こんな自分が嫌で、こんな自分を今にも見放しそうな世界が怖くて、ブンが離れていくのが不安で。俯いた俺は、自分の喉の奥が熱くなるのを感じる。ああ、情けない。泣いて縋って、そんで甘えて。いつもの繰り返しだ、とどこか他人事のように思った。

しかし、こぼれたのは涙では無かった。いつもの口癖の「こんなんでも、大丈夫だよな」でも、無かった。
酔っているせいか、それとも度重なった自己嫌悪の終着か。ずっとブンに言えずじまいだった言葉が、驚くほどにあっさりと、狭っ苦しい四畳半に響いた。



「こんな主人のところよりも、お前にふさわしいトレーナーはいくらでもいるよなあ」


 
俺の口から落ちたその言葉にブンは答えない。「多分ね」といつものように肯定し、俺を否定されてしまうのではないかと言ってから怖じ気づいていたのだが、ブンは黙ってテレビを眺めているだけだった。

俺が酒を飲むといつもこうだから、酔っぱらいの戯言だと捉えられているのだろう。テレビに映るガマゲロゲが、いわなだれで打ち落としたモルフォンにれいとうパンチを喰らわす様子を見ているブンの視線は、俺には向けられていない。おっとモルフォンピンチだ、なんてわざとらしく騒ぐ実況の声だけが俺の耳に届く。


「もしあの日に俺が草むらなんぞに行ったりしなかったら、もっといいトレーナーと出会えてたかもしれないよなあ」


ブンは何も答えない。チーズを包んでいたアルミ箔を千切って遊ぶヤンチャムが、それを口に入れようとするのをクリーム色の手でやんわり止めている。そのゴミを取り上げた俺の手に、不満そうな顔をしたヤンチャムが噛みついた。枝豆を渡して気を逸らす。ブンは緑の莢をしげしげと眺めるヤンチャムを見守っているだけで、依然として俺の方を見ていない。

テレビの中で、モルフォンがぼろぼろになった羽を動かす。もはや体力なんてほとんど残っていないはずなのに、モルフォンの動きは俊敏だった。倒したと思っていたのだろう、油断したように近くに残ったままだったガマゲロゲに一瞬で肉薄し、呆気にとられた敵との距離を詰める。
ギガドレイン、モルフォンが飛んだ時には既にその指示が飛んでいた。至近距離からのその技に、ガマゲロゲの身体が大きくぐらつく。体力を吸い取ったモルフォンはそれとは対照的に、羽から散る鱗粉を煌めかせて上空へ飛翔した。

一秒、一刻と置くことなくポケモンが光り輝くバトル。技と技が交差するフィールドで、息つく暇も無いくらいにポケモンたちは力を発揮する。彼らの力を、強さを、生命を引き出すのは、その主であるトレーナーに懸かっているのだ。

あんな風に力強く戦うポケモンのトレーナーは、当然それだけの力量を持っている。そして、その逆も。無力なトレーナーのところに来てしまったポケモンは、自身の力を出しきることも叶わない。


「お前はああしてフィールドで駆け回れたかもしれないし、ミュージカルステージのセンターに立てたかもしれないし、有名人のポケモンってことで雑誌の表紙なんか飾ってたかもしれないし。まあ、そこまでいかなくたって、今よりもずっとずっと、有意義な生活を送っていたのかもしれないよなあ」


こうして、夜遅くまで無為にテレビを観たりせずに、さ。付け加えた俺の声が、モルフォンの羽音に掻き消される。

ブンは何も答えない。答える価値すら無い質問だと思っているのだろうか、俺の方を見もせずにただ座っているだけだ。耳についている飾りのような部分が、扇風機の風に小さく揺れる。
 
いつもは、「多分ね」と甘やかしてくれるのに。俺を優しく受け止めてくれるのに。ブンは、何の返事もしてくれなかった。
黙ったままのブンに、絶望にも似た気持ちが湧いてくる。身体の底が冷たくなって、手の先が震えだした。ずっと心にしまい込んでいた、ずっと隠していた問いかけが喉元までせり上がる。

駄目だ、言っちゃいけない、と脳味噌が必死で止めてきた。この問いに、予想通りの答えを返されたら、俺は。


だけど言葉は止まってくれなかった。生唾が出てくる口の中から、見たくないものに蓋をするよう長いこと覆い隠してきた不安と恐怖と諦観が、音となって息と一緒に吐き出される。




「なあ、お前さ。俺と一緒にいて、幸せなのか?」




そう、俺が言った時だった。


ブンが、首を動かして俺を見た。


もうすっかり見慣れた笑顔がこちらを向く。テレビのバトルは最高潮で、実況の声とフィールドの轟音がひっきりなしに流れてきた。うるさいはずのその音は、どこか遠くに聞こえてくる。そんなはずは無いのに、まるで静寂にも思える部屋の中で、俺はブンと向き合った。
 


ブンは、一言も喋らない。
いつも「タブンネ」としか鳴かない、「多分ね」としか言わないブンは、何も言わなかった。

にこにこと優しいその口元からは、何の言葉も出なかった。

 
俺を青い瞳に映したブンは、

笑っていた口をさらに緩めて、
 





ゆっくりと、頷いたのだ。







俺の手から、空になったビール缶が滑り落ちる。からころと乾いた音を立てたそれはフローリングを転がっていったが、拾いにいくことなど出来なかった。枝豆をかじっていたヤンチャムが、動かない俺を不思議そうに見てくる。

ブンの青い目は、真っ直ぐに俺へと向いていた。

ピンク色の身体に手を伸ばす。柔らかな背中にゆっくりと抱きつくと、ブンの短い手が俺の頭をそっと撫でた。もう何度も感じていたはずの温もりは、今初めてのものみたいに、俺の心へ落ちていく。



「ブン」



俺の声は濡れていた。ブン、ともう一度名前を呼ぶ。歪んだ視界に映るブンが、その頬を俺に押し当ててきた。温かい。とても、温かい。

初の野宿で寝れなかった時も、バトルに負けて泣いた時も、ミュージカルで大コケしてしょげた時も。テストで悪い点をとって家に帰りたくなかった時も、スキンヘッドに喧嘩を売られて逃げ出した時も、交換したポケモンが懐かず途方に暮れた時も。

妹たちのめざましい活躍が家に届くたび、一人で部屋に籠もっていた時も。そんな日の夕食時に、一見何でも無い風な顔をしている両親と三人で過ごさなければならなかった時も。大学は一人暮らしをしたい、ここの学校に行きたい、と申し出た時に「わかった」とだけ、ロクに聞かないうちから許可を出した両親の声を耳に聞いた時も。


自分が嫌になって、全部投げ出したくなった時も。


何もかもを呪ってしまいたくなった時も。


楽に生きるのだと決めてからも逃れきれなかった自己嫌悪と無力さが追いかけてきて、悪夢を見た時みたいにうなされた時も。




いつだって、俺はこいつに温めてもらっていたんだ。




「ブン、」




柔らかい身体を、一層強く抱きしめる。上手く出てこない声はテレビの音に掻き消されそうだったけれど、俺は、腕の中の温かさへと言葉を告げた。









「ありがとう」






そう言った俺の背中に、ブンがそっと両手を添えた。

ブンに抱かれて涙を流して、悲しい気持ちにならなかったのは、初めてのことだった。


初めて、温かい、涙がこぼれた。








「ホウエン地方で、お前のメガシンカが確認されたんだってさ。今度学校サボって行ってみようぜ」

残った枝豆やチーズを口に放り込みながら俺は言う。皮まで食べようとしているヤンチャムの口にチーズを入れてやり、今日の夕方立ち読みした雑誌に載っていた情報を断片的に思い出した。それを聞いたブンは相変わらずのにこにこ笑顔で、わかっているんだかわかっていないんだか今一つ不明瞭だ。まあ、メガシンカは一緒に観たテレビで何度も取り上げられていたし、恐らく理解はしていそうである。
強い絆なんてそんな大層なもの、俺には無いと思っていた、けれど。なんかやれる気がしてきたのだ。

……と、いつも思って出来ないわけだが。

それでもいい、出来なかったら出来なかったで構わない。メガシンカしなくても今まで通りブンはブンだし、よしんば出来たところで何が変わるというわけでもなかろう。クズな俺には今から真剣にトレーナー修行を頑張る気力など無いし、したところでよっぽどの奇跡でも起きない限りはまた中途半端に終わるだけだ。白いフリフリでキラキラになったブンとヤンチャムと俺とで写真撮って、ピース決めて、それだけだろう。

ブンの両目がじっとこっちを見る。丸い背中をヤンチャムにぷにぷにされていても構わないらしい、じっと俺を見つめていた。その圧力に根負けして「……わかったよ、学校サボるのはやめるよ、冬休みな」と言ったところでようやく視線が外される。
俺に寄りかかったまま、ブンがヤンチャムを抱きかかえる。ブンに両手をぱたぱたさせられているヤンチャムが、きゃっきゃっ、と笑っているのを見て、もうこいつが何か別のポケモンと交換されることは無いのだろうな、と思った。ブンをGTSへと連れていく気が一度も起きなかったように、きっと、このヤンチャムをあの交換機械にセットしようと思うことは、無い。ブン同様、理由は見当たらなかったけれど、多分そうだ。
その考えはすんなりと俺の中に広がって温かな熱となる。まったく、まだ暑いというのに困ったものだ。

『おおっ!! ついに勝負あり! マートル選手、ぎんいろのかぜで今大会の頂点に立ったー!!』

最終試合の勝利を収めたトレーナーが、ポニーテールのブロンドを揺らしてモルフォンに抱きついた。画面の中で溢れんばかりの笑顔を湛えている彼女はこの優勝によってエリートトレーナーになったらしい、会場の客たちは一斉に、目を回してひっくり返ったガマゲロゲをボールに戻した相手トレーナーは悔しげな苦笑混じりに、そしてボールから飛び出てきた優勝者のポケモン、シュバルゴやアギルダーやアリアドス、小さなメラルバも一緒になって歓声をあげる。
こんな風に、スポットライトが当たるのを夢見たことは幾度もあった。今だってそうなれるものならなりたいし、チャンスがあれば掴みたいとは思っている。

だけど、そうなれないからといって、泣くのはもうやめよう。俺はブンに、最高の返事をもらえたのだから。「多分ね」を求めて縋ることはやめにするのだ。

こいつらにとって、最高の主人になりたい。色々なものを目指してその全てを諦めた俺だけど、たった今抱いたこの夢だけは、何があっても諦めないのだろうと心に誓う。いつの日か、そうなれたかを尋ねた時に、またブンが頷いてくれるととても嬉しい。

とはいえ、そのために心機一転して意識高い生活を送れそうな気は情けないことに起きないし、具体的に何をして良いのかもわからなかった。とりあえず今は、こいつらと一緒に毎日を満喫出来ればそれで良いだろう。
大丈夫、なれるはずだ。色々なものをすぐにやめてきた俺だけど、ブンのトレーナーだけはもう十年続いているのだから。これからだって、何十年でも続けられる自身がある。多分ではなく。絶対に。

抱きかかえたヤンチャムを膝に乗せ、ふかふかのほっぺたをつついてやる。ブンも床に座ったまま横着な感じですり寄ってきて、俺と一緒になってつつきだした。嬉しそうに笑って両手を振っているヤンチャムに、俺はふと考える。

「お前の名前を考えないとなあ……そうだなあ、『チャン』なんてどうだ? ……いってえ!! なんでひっかくんだよ!? 結構いいセンスしてると思ったのに、なあブン?」
「タブンネ〜」
「……………………」



遠い過去のイッシュ。理想を求めるものと、真実を求めるものとが争った。
元々一つだったはずのそれは、やがて仲違いするようになって、もはや別のものになってしまった。
理想と真実、どちらを求めるべきなのか。イッシュに暮らす者たちの心は対立し、やがては大災害をもたらすほどの争いを巻き起こす。二匹の竜の怒りによって争いは終結したが、それでも理想と真実、その決着は未だついていない。

それから長い時間を経た今に生きる俺たちにだってその答えはわからない。そもそも理想とは、真実とは何なのかすら不明瞭なのだ。わかったところで飯が食えるわけでもバトルが強くなるわけでも頭が良くなるわけでも無い、いつぞやみたいに「どうでもいい」と思ってしまうのも否定出来ない。
それでも、求め続けていればわかるのだろうか。大切な存在を幸せにしたいという理想と、そのために何をすべきなのかという真実を。見失うことの無いようにしっかり見据えて、進んでいけば知ることは出来るのだろうか。
 

いつか来るかもしれない、答えが出る日まで。
 


……いや、その日が過ぎても、いつまでも。

俺はこいつら、ポケモンの隣にいたいと心から願った。
  



「うっし、そろそろ寝るか。ヤンチャム、歯磨くぞ。…………あー、明日起きれっかな……」
「タブンネ〜」
「不安になること言ってくれんなよ、お前は全くよぉ……」
 
何が変わるわけでも無い。大きな何かを目指すわけでも無い。だけど、今日までの毎日と、今日からの毎日はきっと違うものになるはずだ。こいつらと色々なことをしよう。色々なところに行こう。色々なものを見て、聞いて、感じて。沢山、楽しいことをするんだ。
これからに思いを馳せる俺の口から漏れる大きな欠伸を真似するように、ヤンチャムが俺に向かって口を開ける。その隙に小児用歯ブラシで歯を磨いてやると、短い手足をばたばたさせて怒ってきた。小さいけれども鋭い爪に肌を引っかかれないよう身体を逸らしつつ、俺もうがいを何度かする。
洗面所から出た俺たちを待っていたように、ブンが自分用の枕を抱えてベッドに入る。俺のスペースをがっつり占領しているヤンチャムをぐぐぐと押しやり、不満そうな顔を何度か撫でてやった。布団の中に潜り込むと、右半身と左肩のそれぞれに、ぽかぽかと温かさを感じる。

 
明日というか、日付が変わったせいでもはや今日は水曜日。二日間の疲れはとっくに溜まっているのに、まだあと三日分頑張らなければならない忌まわしき日。おまけに今日は学校に加えてバイトもあるし、その帰りに買い出しにいかなくてはならないのだ。おいしいみずの二リットル六本、それだけの段ボールを抱えて帰らなくてはいけないことを考えると今からイヤになる。

まあ、それも仕方ない。辛いものが好きなヤンチャムは大量に水を消費するし、最近料理にこだわりが出てきたブンも、使うのは水道水じゃなくてちゃんとしたミネラルウォーターがいいと笑顔の圧力をかけてくるのだ。バイトで品出しに当たらないのを星に祈ることにする。
いい加減にそろそろ眠ろう。朝も早いのだ、大きな欠伸を一つした俺につられるようにして、ブンとヤンチャムも口をぽっかりと開ける。その口を閉じきらないうちに寄り添ってくる両隣の温もりには見えないように、そっと口許を緩めつつ、俺は電気から下がる紐を引いた。




「さて、寝るか。おやすみお前ら」







憂鬱なはずの水曜日、ブンとヤンチャムのトレーナーである俺は、とっても、幸せだ。