マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
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  [No.3922] スカイハイ 投稿者:きとかげ   《URL》   投稿日:2016/07/03(Sun) 22:21:49   63clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 巨大な一枚岩に見守られた、辺境の村。
 そこに住む青年、トアルの朝は一杯のコーヒーから始まる……なんて、洒落たものなわけがない。
「おい、いつまで寝てんだ。暇なら水を買ってこい、水を」
 家主の娘にベッドから蹴り落とされ、家を追い出される。居候の朝はこんなものだ。コーヒーどころか冷や飯にさえありつけてないが、トアルは二十六歳のおっさん予備軍にして、無職である。
 家主の娘になにか文句があろうか、いや、ない。なぜならトアルは居候で無職だから。
 そんなわけで、トアルは村から四〇キロ離れた隣町に向けて、えっちらおっちら、歩き始めた。その背中に、素晴らしいストレートが突き刺さった。
「買い物にどんだけ時間かける気だ。ポケモンに乗ってけ」
 トアルはモンスターボールを受け取り、しかし中身を開けず、たまたま通りかかった自動車に手を上げて相乗りを頼んだ。
 もしも、自動車が通りかかってなかったら。トアルは当初の予定通り、歩いて町に行こうとしただろう。そして、それに業を煮やした娘にドロップキックの一つでも食らって、買い出しには娘が行っていただろう。空は代わり映えのない青一色の晴れ空で、にも関わらず、トアルは家に閉じこもって彼女の帰りを待っていただろう。
 奇しくもこの、砂埃まみれでボディがベコベコでかつては白だったマニュアルのセダンが、トアルの運命を変えたのだった。

 トアルはいつにない幸運によって三十分もしない内に隣町に到着した。いや、あのオンボロ車の窓がどうしても上がらなくて、外から入ってくる砂でトアルが埃まみれになったことを差し引けば、トントンかもしれない。
 腰のベルトに引っかけたボールがガタガタ揺れた。
「落ち着け、ガブコ」
 トアルはボールを抑えた。そうだ、町まで来たんだし、ガブコも会いたいだろうし、家主に会っても……とそこまで考えてトアルはそれをやめにした。
「久しぶりに町まで来たんだ。一杯引っかけて行くか」
 服に付いた砂をバシバシ払い、行きつけのバーまで行く。そしたら例の気の強い家主の娘の先回りがあって、マスターが電話口で笑いながら言うんである。
「おう、トアルなら今来たぜ。お前の財布で昼間っから酒を飲む気だ」
 そこまで言われて、なおも強行するトアルではない。潔く背中を向けたバーのマスターに、要らぬ言付けを頂いた。
「アイオラちゃんが、ウィントに会いに行けってよ。ウィントから確認の電話が来なけりゃ、いよいよお前を追い出すとさ」
 マスターの大声に、バーの中でくだを巻いていた連中が「おうおう、追い出されっちまえ」「アイオラちゃんと同居なんざ許せねえ」と騒ぎ出す。
 トアルは背中を向けたまま、早足でバーを辞した。

 家主の所へ行くのには、少し時間がかかった。
 久しぶり過ぎて、そもそもどこへ引っ越したかも忘れていた。住所とストリート名を突き合わせて、トアルは目的の場所へと辿り着いた。
 広い庭付き一戸建てか、それとも青背景の書き割りみたいな高層ビルか、という二種類ばかり立ち並ぶ町中にあって、そこは珍しく、こぢんまりとした茶色いアパートだった。しかし、豪華なことにエレベーターは付いている。当たり前といえば当たり前だ。
 見覚えがないと思ったら、トアルが来たことのない建物だった。家主がここに引っ越してから、トアルはずっと顔を見せていないのだ。それを思い出すと、トアルは余計に会いたくなくなってきた。
 でも、行かないと家を追い出される。そうなれば、異国で人の良い彼らにすがって生きていたトアルは、すぐに干上がるだろう。
 しかし、もう、それでいい気がしてきた。家主がここにいるのも、その娘のアイオラだけが村に住んでいるのも、元を正せばトアルのせいなのだから。恩人を裏切っておいて、どうしてのこのこ顔を出せる?
 それでも……それでもと考えて、トアルは結局、アパートに足を踏み入れた。どうしたって明日からの人生に困るとなれば、気が進まなくとも顔を出す方を選ぶのがトアルだった。トアルはここまでの道のりで付いた砂埃を払った。全く、どこもかしこも、砂だらけだった……トアルのせいで。

「砂には困らなかったか?」
 ウィントの第一声も、砂の話だった。トアルは曖昧に「ああ」と答えた。そして、横目にチラッとウィントを見た。
 彼は昔と変わらず、かくしゃくとしていた。色黒の肌に白い歯並び、伸びた背筋。髪も未だに黒々艶々としている。娘のアイオラの方はウィントに似てる上、笑って更にそっくりになったところを、かつてはよく見たものだった。
「久しぶりだな。顔を見せてくれて嬉しいよ」
 今も、そうやって笑えば、ウィントと彼の娘は瓜二つだ。彼にちょいちょいと肉を足してやれば、アイオラになるだろう。
 だからこそ、ウィントの杖と曲がった左足が痛々しかった。
「元気してるか?」
 トアルはやっぱり曖昧に答えた。皮肉に聞こえたと思ったのかもしれない。ウィントは笑顔のまま、でも困ったように黙った。
 足を痛めた男のためのアパートは、部屋の造りも狭いものだ。ベッドとテーブルとテレビ、あとシャワー室が、十歩圏内にあるのだ。すぐに目のやり場を失ったトアルだったが、かといって気の利いた答えも言えなかった。
 昔なら何と返しただろうか? 「いいよ、砂の話は。腐るほど見てるんだから、雨でも降ったことにしようや」とでも言う? それこそ皮肉だ。
 ウィントは困った顔のまま笑った。器用だな、とトアルは思った。ウィントはその困り笑顔のまま言った。
「トアルのことだから、俺の足のことをまだ気にしてるんだろう。気にすんなって言っても気にするんだろうが、今日はここまで来てくれたんだ。そのことは横に置いといて、お前に頼み事があってな」
「頼み?」とトアルはオウム返しに聞いた。「おうよ」バン、と物を叩く音がした。それも一度で収まらず、二度三度、数えるのがばからしいくらい続いている。
「シャワー室で暴れてるやつの“おや”になってほしいんだ」
 ウィントは言った。なるほど、音はシャワー室から聞こえていた。
 トアルは脱衣所を覗いた。大きな影の下で、白っぽい色がすりガラスに見え隠れしている。ウィントのことだから、手持ちのポケモンに暴れん坊を抑えさせているのだろう。それも、エリキテルじゃなくフライゴンに抑えさせている。
 トアルは自分のモンスターボールを撫でた。つまり、この暴れん坊はいざという時、ガブコで抑えられるのだろう。ウィントがトアルの手に余るポケモンを押しつけるとも思えなかった。トアルが“おや”となっているポケモンは二匹、ガブコももう一匹も手は掛からない。むしろトアルの方が面倒を見られているくらいだ。
 もう一匹、増えても構わないか。恩人であるウィントの言う事だ。トアルを心配しての提案だろうし。
「分かった。引き取るよ」
「ありがとう。君にお願いするよ」
 ウィントは破顔した。その表情だけでも、トアルはポケモンを引き取ると言った甲斐があると思った。
 トアルは脱衣所に進んだ。
「娘から頼まれたんだが、彼女、全く人に懐かなくてね」
「へえ。ウィントさんに懐かないやつもいるんだな」
「俺だって人の子だ。なんでもうまく、とはいかんものさ」そして少し間を空けて、お前や娘のアイオラとは相性が良かったんだ、と言った。
 懐かしさのにじむ言葉に、トアルは少しばかり眉をひそめた。トアルはほとんど、ウィントに育てられたようなものだ。生家からは絶縁されたに等しい。そこを拾ってもらったというのに、トアルは。
「ポケモン一匹引き取って、ウィントの足の支払いが済むんなら、安いもんじゃないか」
 そう、自分に言い聞かせる。バンバンと、トアルの言葉をかき消してやまないシャワー室のドアを手前に引いた。
 そしてトアルは対面した。自分がこれから面倒を見る――人間の子どもと。


 人間の子どもは、幸いなことに、食うのは遅かった。
 アパートから這々の体で行きつけのバーに行き着いたトアルは、囃す客連中を尻目に、こう注文したのである。
「一番でかい器にデザートを山盛りで頼む」
 するとジョッキにパフェが盛られてきたが、この際容器は問うまい。このガキが大人しくなるというだけで万々歳なのだ。
「ウィントの手に負えない、ね」
 その理由は、ここまでの道中で散々身にしみた。少女はゆっくりパフェをかじっている。
 色素が薄いのだろう、ここらでは見ない白い肌に、長く伸ばされた白い髪はサラサラとして雪の精霊のようだ。いっそ儚げに見える少女だが、その中身は、自動車が飛び交う幹線道路に「当たるわけねーじゃん!」と飛び出すジャリガールだった。当たるわ愚か者。
 その子がじっとトアルを見ていた。見つめ返せば吸い込まれそうな蒼穹色に、トアルは視線を逸らす。
「どうした? トイレか?」
「なあ、おっさん」
「トアル、な」
「トアルも風乗りだったの?」
 その小さな声に、トアルは寸の間ビクついた。「おうよ、おれもウィントも元風乗りだ」とカラッと一口言えりゃあ良かったのに。
 黙ったトアルの代わりに答えたのは、酒を呑んで呑まれていたやつだった。
「そうだ。トアルの野郎、ウィントを突き落としやがって、それからさっぱり空に上がらねえ。祭りで勝ちたいからって、あれはひどかったな。皆もそう思うだろ」
 そこにトアルがいることすら、前後不覚で気づいてない素振りだった。他の酔っぱらいが思わず顔をしかめるほどに泥酔したそいつを、マスターが奥へ引きずっていった。
「あの黒いおっさんを落としたのか? 空から?」
 トアルは見つめる子どもの視線から、顔を背けた。

「なあなあ、トアルが黒いおっさん落としたって? 祭りって何すんの?」
 バーで子どもが半分以上残したパフェを食べ、町外れへの道すがら。白い少女の質問責めに、「黒いおっさんじゃなくて、ウィントな」と訂正だけして、トアルは黙秘を貫いた。その内、相手にされないと思ったのか、少女は質問の内容を変える。
「風乗りって何?」
 いい加減、辟易していた。だが、少女は今は機嫌がいいらしい。パフェを食べてからは、比較的大人しくトアルの横についてきている――と、トアルは彼女の手を握りこみながら思った。質問の一つぐらい、答えるべきだろう。
「風乗りってのは」
 語り出すと長くなるが、起源は約二百年前、この地にやってきた入植者の自警団だと言われている。見渡す限り砂漠の地。地の利は最初、先住民の側にあった。ブッシュを目印に目的地へ行く足並みも、昼の日射からの身のかわし方も、一日の長がある先住民たちの抵抗に、入植者は難儀した。
 しかし、入植者には武器があった。ポケモンを手軽に味方にするモンスターボール。入植者はこの地でナックラーを捕獲し、育て、空から先住民を追い立てる自警団“風乗り”を作り上げた。
 そうして入植が進むにつれ、風乗りは帰化させた先住民を加え巨大化した。巨大化した風乗り組織は分離し、別派閥を生み出した。入植の進捗と共に、風乗りの相手は先住民から、別派閥の風乗りへと移ろった。
 風乗りの一大派閥は自らを主流と言いなし、警察組織の一部となって表舞台に残った。残る派閥の風乗りたちは“空賊”と呼びならわされ、裏社会の闇へと溶けこんでいく。
「つまり?」
 少女がトアルのすねを蹴りまくる。「どうどう。こら、蹴るな。けっこう痛い」トアルがはしょった説明でも、子どもには長かったようだ。
「空賊とドンパチやる正義の味方」
「私にもなれっかなー?」
 少女は目を輝かせた。そのまま腰に手をやって、笑顔が一転、沈む。
「私のポケモン、いつ戻ってくんの?」
「お前がもうちょい、落ち着いてくれたらな」
「ちぇ。ウィントもトアルもおんなじことばっかり」
 パフェの効能が切れてきたらしく、少女はトアルに手を掴まれたまま、ぴょんぴょん跳ねる。そんなだからだよ。
「そう言われても。お前にポケモン渡したら、どこに行くか分かったもんじゃないからさ」
 トアルの本音に、何故だか少女はにっこり笑った。
 こいつの名前も、早く決めなけりゃなあ。

 町外れまで出ると、飛び交う砂の量があきらかに増えた。
 それでも、このポケモンなら大丈夫だろう。
「ガブコ、出てきてくれ」
 久しぶりに外に出てきた相棒は、変わらず、赤に縁取られた羽をピンと伸ばしていた。大きな赤目のように見えるのは、目を守る赤色の半球レンズだ。砂漠に生きる彼女らの種族、フライゴンは、砂から身を守る方法を自らの進化の中に見出した。
 レンズに覆われた目は円な黒で、背中には鞍を着けている。ガブコは今日もトアルの指示を真摯に待っていた。
「なんだ。ガブリアスじゃなかった」
 がっかり、と少女は口に出す。ガブリアスはフライゴンと同じく地面・ドラゴンタイプで、砂漠に住むポケモンだ。パワーは強いが大食いだし気が荒い。一介の風乗りに御せる種族ではない。それを御せるやつをトアルは一人しか知らない。
「フカマルはたまにいるけど、育てるのは大変だからな」
「トアル、育てたことあんの?」
「村、遠いからな。ガブコに乗っけるぞ」
 見ただけだ、と答えかけて、トアルはやんわりと話題を逸らす。見たと言ってトレーナーに会わせろと言われても、彼女の所在も知らなければ、連絡を取る手段もない。話題に出して、アイオラの機嫌を損ねたくもなかった。
 少女の細い体を抱えて、鞍の上に乗せる。だいぶ軽い。コートを被せ、その上から安全ベルトを巻く。
「トアルはどうすんの?」
「歩いて行くよ」
 四〇キロ。歩けない距離でもない。きついが。
 フライゴンが少女を乗せて飛び立った。少女の慣れた体重のかけ方に、トアルはほうと感心した。ポケモンで飛ぶことに慣れている。初対面のフライゴンに物怖じしない。風乗りとして育てれば光るかもしれない。
「いや、ダメだな」
 トアルは自分の考えを打ち消すのに、自分の手を目の前でひらひらと振った。風乗りたちが集うハレの日に、自分がしたことは許されない。もう二度と、空なんて飛べやしない。
 脳裏に今日会った少女の、蒼穹色の目が浮かぶ。すると、急に分からなくなる。
 なあウィントさん、本当に、気にしなくていいのかよ?
 頭を抱えて座りこんだその足元から、鈍い振動が伝わった。顔を上げる。巨大な陸鮫が身軽に砂の上を移動してくる。最初の振動は接近をわざわざ知らせるためか。陸鮫は槍の穂先のような腕の爪を、砂埃の中で光らせる。どうやら、効果的に映える角度というのを知っているらしい。
「ガブリアスか」
 めったにないポケモンが、めったにないタイミングで現れるものだ。白い少女を村に送った後だというのは少々救いか。
「フーコ、ねむりごな」
 ガブリアスの爪が届かない安全圏を見計らって、使いこんだ方のボールを投げた。勝負は一瞬。粉を真正面から浴びたガブリアスは、そのままヘナヘナと膝をつく格好で固まった。こうなれば、暴力一番のドラゴンも怖くない。トアルは逃避の姿勢に移った。
「引きこもってても、腕は鈍ってませんのね」
 その背を、懐かしい声が引き止めた。
「カリーナか」
 ガブリアスの後ろから女性が姿を現した。色黒の肌に黒い髪だが、身にまとう神秘的な雰囲気は、父親とも妹とも異なっている。
「お久しぶりです、トアルさん」
「久しぶり。帰ってこないのか?」
 カリーナは神秘的な雰囲気を壊さないまま、首を横に振った。そして、口元にだけ笑みを作る。
「わたくしはもう、空賊ですから」

 カリーナという女性の神秘は、彼女の秘め事によるのかもしれない。
 妹のアイオラがトアルと共にバカ騒ぎをやって遊んでいる時間で、彼女はしょっちゅう、夢想しているように見えた。
 その夢想の中身を僅かながら知ったのは、カリーナが出奔した後だった。風乗りを正義と信じてやまないアイオラが、怒り狂って物に当たっていたのをよく覚えている。
「どうして空賊になったんだ?」
 昔も投げかけた問いには、昔と同じ答えが返ってきた。
「空賊でないとできないことをやりたかったから、ですわ」
 カリーナの決意は固い。だから家を出ていった。そして帰ってこなかった。
 堂々巡りだと思いつつも、トアルは問いかけるのをやめられなかった。
「ウィントさんもおれも、怒らないし、アイオラは、怒るだろうけど許してくれるだろ。帰ってこいよ」
 カリーナは残念そうに笑った。
「今日は頼みがあって参りました。あまり時間は取れませんの。白い少女のことで」
 トアルはウィントの言葉を思い出した。
「ウィントに引き取れって頼んだの、カリーナか」
「色々、厄介事がありましてね」
「空賊ってのは、ずいぶんあくどいことをやってるのか?」
 人身売買とか、児童買春とか。トアルは自分の質問に自分で推測の答えを返して、勝手にどもった。
 カリーナは肩をすくめた。
「そういう人もいる、とだけ。こちらの事情はさておき、彼女が村に行くことを所望したんですのよ」
「なんで?」
「それは、村に戻って周囲を見回したら分かるんじゃないかしら」
 トアルにはさっぱり意図が掴めなかった。闇夜に手を伸ばすように、次の質問を投げかける。
「あの子、何者なんだ?」
「それはわたくしも知りませんの」
 カリーナは首を傾げて、「直接彼女に尋ねてはいかがかしら? あの子はずいぶん利発ですし」と心底から微笑んだ。これは、自分の魅力を最大限に引き出す角度を知っている傾げ方だ。トアルは体の角度を変えて、カリーナと真っ向から向き合わないようにした。
 カリーナはそんなトアルを見て、唇に指を当てた。
「忠告はしましたから。では、ごきげんよう」
 ガブリアスが頭をもたげる。その場を辞しかけたカリーナを、手を伸ばして掴んだ。
「待てよ」
 カリーナが背を向けた姿勢から振り返り、横顔を見せる。泰然とした顔に、はじめて不快の色が浮かんだ。トアルは構わずに続けた。
「本気で顔も見せないつもりか? ウィントとは連絡とったんだろ。アイオラに、妹になんか言う事ないのかよ」
 カリーナが消えた夜、ウィントも風乗りの仕事で帰ってこなくて、トアルとアイオラは二人きりで過ごした。物に当たって怪我をしたアイオラの手に包帯を巻いたのはトアルだ。
 包帯が赤くにじんだ、その手をトアルは両手で支えた。割れたフォトフレームが散らばっていた。
「アイオラは、お前のこと尊敬してたんだぞ」
 姉は優秀な風乗りになるのだと信じていた。風乗りとしての才能の片鱗を見せていた姉は、才能はそのまま、敵対する空賊へと転身した。
 信じていなければ、家族写真の入ったフォトフレームを割るものか。
 カリーナの瞳に強く影が差した。掴んだ手を、カリーナは乱暴に振り払った。
「わたくしがどういう立場で何を為すか、それは妹に決められるものではありませんわ」
「でも、会うくらい」
「“会うくらい”なら、あなたも実家に顔を出せばいかが?」
 太いガブリアスの尾が、鋭い鞭となって大地に傷を付けた。
 カリーナのまっすぐな怒気が、トアルの胸に穴でも開けたようだった。

 カリーナは自分が怒っていることに気づくと、すぐさま笑みを取り繕った。まるで、子どもが縁日でかぶるおもちゃの面のような薄っぺらだった。
「失礼しました」
 頭を下げたカリーナが、今度こそ身を翻して走っていった。モンスターボールの開閉光が二度またたき、ガブリアスの代わりにフライゴンが現れる。彼女は風乗りだった。今は空賊だ。
「ごきげんよう」
 投げやりなトアルのあいさつは、多分、届いていない。
「実家、ね」
 ふわふわと、風に乗って体を寄せてきたフーコを撫でる。手の先に二つ、頭に一つ、合計三つの綿帽子を繰って、ワタッコのフーコは器用に目の高さを合わす。
「フーコはいいんだよ、気にしなくて」
 それでも気遣わしげなワタッコを、トアルは撫でてやるくらいしかできなかった。
「おれの実家のことは、今さらどうしようもないからな」
 実家がトアルを嫌いなのも、同じくらいトアルが実家を嫌いなのも、もう既に、修復不可能なところまで行っている。ただ、それと同じくらい、カリーナがアイオラのことを嫌っているとしたら、やるせない。
 トアルはワタッコをボールに入れて、町中へと戻った。ヒッチハイクできる自動車を探そう。もう、歩いて帰る気分にはなれなかった。

「それで、弁明は?」
 巨大な一枚岩に見守られた、辺境の村。
 そこへヒッチハイクで戻ったトアルは正座をしていた。トアルが故郷での伝統的な反省ポーズだと村に輸入してこの方、正座は村で一大地位を築いている。
 なぜか白い子も隣に来て正座した。
「膝の生育に悪いのでよしなさい」
「トアル」
「はい」
 図らずも、白い少女を膝に乗せた姿勢で、トアルは硬直した。見上げた空には正座したトアルを見下ろす怒りの同居人が。
 アイオラは何故、怒っているのでしょうか? 自問してみたが、ここ四年ほど情けない姿を見せ続け、家事全般に家計出納にと迷惑をかけ続けたトアルである。正直今まで怒りで爆発しなかったのが不思議なくらい、心当たりが多すぎる。
「そもそも、アタシが何に怒ってるか、分かるか?」
 トアルの首が勝手に回転を始める。いや違う、アイオラと目を合わせたくないんじゃなくて、オジギソウがおじぎする生理現象みたいな。
「心当たりは?」
「ちょっと、年単位でありすぎますね」
 思わず年下に敬語になった。「ほほう」とアイオラの目が吊り上がった。
「年単位でアタシに家事もおっつけてのんべんだらりとしてたから、どれだけ神経がず太いのかと思ってたわ。トアルも反省ってするんだな」
 これに関しては逃げ隠れもできずトアルが原因である。カリーナに実家のことを言われた時よりもきつい。
「それに関しては反省してますゆえ」
「ゆえ?」
「家事ぐらいはしようかなと」
「ぐらい?」
「すみません」
 潔く頭を下げた。
 どのみち、子どもを引き取った以上、今までと同じくのんべんだらりとはいかない。
「じゃあ、家事“ぐらい”はトアルがやってくれる、ってことで」
 終わり、とアイオラが手を打った。「ぐらい」の強調が気になるが、トアルが蒔いた種だ。
 これから、やっていくしかない。子どももいるし。
「ほら、立て、トアル」
「おう、ありがとな」
 差し出された手を取り、立ち上がれなかった。
 再び地面に戻ったトアルを、アイオラは不思議そうに見て、それから「ああ」と納得して手を打った。
「足、しびれたんだな」
 そこからは当然のごとく、足をつつかれまくった。少女も参戦して、二人がかりの猛攻に“ひんし”の白旗を上げたトアルに、更なる冷酷な審判が下される。
「で、トアル。水はどうした?」

 水は生活必需品である。人一人に対しても大量に必要になる水だが、この村では雨が降らなくて、水は慢性的に不足している。かれこれ四年ほどだ。
 もちろん不足を見越して早めに買い出しに行くが、それにしたって向こう半日は町にいたのに水を買わなかったって、手ぶらのトアルを見た瞬間怒るわけである。
「このミスを挽回するためにも、今から急いで町に行かなきゃな」
「トアルはいつまでフライゴンと睨めっこしてんの?」
 問題はそこだ。別にトアルはフライゴンとの睨めっこが楽しいわけではない。ガブコもフーコも睨めっこ好きだけど。
「その、乗って行かなくちゃな、と思ってな」
 歩きでは到底、間に合わない。自動車が日に二度も村を通りかかるような幸運もない。となれば、トアルはフライゴンに乗って、空路を飛ばしていかねばならない。そのためのフライトジャケットもゴーグルも準備した。だが。
「空飛ぶのが怖いのか?」
「いいや。うーん、まあ、そうかもしれない」
 あの祭りの日以来、トアルはずっと空を飛ぶことを避けてきた。
 行く当てのなかったトアルを拾い、風乗りとして仕込んでくれたウィントを落とした、せめてもの償いのつもりだった。
 でも、そのウィントが「気にするな」と言う。アイオラは「ひとっ飛びして水を買いに行け」と怒る。
「もう飛ぶの、やめとこうって思ってたんだけどな」
 少女がちょろちょろ、フライゴンの周りを回る。あまりにせわしないので抱き上げた。
「飛ばねーの?」
「そのつもり、してたんだがなあ」
 トアルの胸に顎をつけて、少女が蒼穹色の目をつまらなさそうに向ける。
「トアルが飛ばねーんならさ、私がやる。私のポケモン、いつ返ってくる?」
 蒼穹色が曇りの色合いを見せた。その曇りに、トアルはふと考えこんだ。
 カリーナから、この子は裏社会にいたらしいことは聞いている。ポケモンを使うソルジャーとして育てられていたのかもしれないが、自分のポケモンと離れるって寂しいことだ。
 ウィントと出会う前、トアルにはフーコがいた。実家から手切れ金同然に渡されたポケモンだったけれど、フーコはトアルによく懐き、支えてくれた。あの頃の自分からフーコを取り上げたら、間違いなく潰れてしまうだろう。そう言えるほどに。
 トアルは子どもの白い髪を梳いた。
「明日にでもウィントに電話して聞いてみる。ポケモン預かってるのはウィントだよな?」
 子どもはコクリと頷いた。よかった、カリーナじゃなくて。彼女と連絡を取れと言われたら、アイオラの不興と合わせてトアルは“ひんし”になる。
「じゃあさ、ポケモン戻ってくるまで、フライゴン乗りたい」
 自分のポケモンに会えるとなって、嬉しくなったのだろう。急速充電で元気を取り戻した子どもが、今度はトアルの肩をバンバン叩いた。
 トアルは肩への猛攻を抑えようと片手で防御する。元気になったのは嬉しいけども。
「今はダメ」
「なんで? さっきやったろ?」
「ゴーグルがない」
 帰宅と同時のアイオラの怒りには、それも含まれていた。十分な装備もなく子どもを飛ばすとは言語道断。おれもアイオラも、ガキの遊びで鞍なしのフライゴンに乗ってたのに、とは口答えしなかった。
「いいじゃんか、ゴーグルぐらい」
 とふてくされる子どもから察するに、この子も鞍を着けずに乗っていたクチのようだ。
「水のついでに買ってくるよ」
 思いつきで、トアルは口にした。
 まるで水を得た魚のように、子どもが飛び上がった。瞳の蒼穹色がキラキラと輝いた。
 あ、こいつ、笑ったな。
「ほんと?」
「あ、うん。ほんとほんと」
 やっちゃった。飛び跳ねて喜ぶ少女を見て、やっぱり延期とも言えない。
「子どものためだ」とトアルは自分に言い聞かせて、フライゴンの手綱を取った。

 赤に縁取られた菱型の羽が、振動を始める。
 やがて、振動が高速になり、体が浮くと、フライゴンの足がそっと大地を押す。滑るようにして、トアルとフライゴンは空中に飛び出した。
 村がみるみるうちに小さくなり、赤い大地に点在するブッシュの一つに紛れる。村を見守る巨大な一枚岩が帰りの道標だ。
 神がおはすと言われる、一枚岩。エアーズロックならぬ“エアロック”と村人は呼んでいる。
「白い子が村に来たがってた理由って、エアロックなのか?」
 分からない、と言う風に鳴いたフライゴンに自分も首を振り、一枚岩と逆の方向を示す。フライゴンは指示に従って高度を上げた。
 年中晴れでも、高度が上がると寒さが勝ってくる。肌を切るような風に震えながらも、トアルはフライトジャケットの中の熱い血液を感じていた。
 フライゴンの触覚が、トアルの左右に分かれて風に流れる。
 遮るもののない、青一色の空だった。雲さえない。
「おれを止めてたのは、おれだったかな」
 フライゴンが顔を傾げた。赤いレンズの向こうの目は、普段通り、円らで真面目な色合いを見せていた。
「待たせてたな、ガブコ、ごめん」
 フライゴンが鳴き声を上げる。風に流れていくその声は、トアルを許してくれている。そう思うのは、トレーナーのわがままか。
「ありがとな」
 ポケモンの返事は風に飛ばされる。空の上で風がごうごう吹く中、空中乗騎用のインカムはあるものの、凍える高度でのんびり会話は楽しめない。
 トアルはフライゴンの背を軽く叩いた。なら、別の会話を楽しめばいい。風乗りには、風乗りのやり方がある。
「飛ばそう。あの子も待ってる」
 トアルの言葉に触覚を揺らし、フライゴンが羽の速度を上げた。
 一定の振動数を越えた羽が、リィンと高い音を奏で始める。
 フライゴンは砂漠の精霊とも呼ばれている。その由縁。笛のような音階を旅の道連れに、トアルとガブコは隣町へと向かった。

 水は箱買いしてガブコに運んでもらい、その間に子ども用ゴーグルの購入を済ませ、ウィントに白い子のポケモンを返してもらえるよう、頼んでおいた。
 四年分のぐうたらが信じられないほど、トアルは働いた、と自分で思った。
 しかし、ここで満足してぐうたらに戻ってはいけない。アイオラに仰せつかった家事もやらねばならないのだ。なんてったって子どもがいる。アイオラはなんでも自分でできるが、あの子はトアルがやってやらねば腹を空かすのだ。
 朝食に並べられた目玉焼きを見て、アイオラが口の端を「くっ」と上げた。焦げていた。
 なにくそ、とふんばり、毎朝三人分の目玉焼きを焼いた。アイオラがトアルの作ったメシを食べ、村役場に働きに出た後で、トアルは掃除にかかる。
 三日もそうやって続けていれば、体も慣れてくる。慣れたら意外といける、と思うと同時に、こんなことを毎日アイオラにやらせていたのか、と情けない気持ちになった。
「よしよし、やってるな、トアル」
 帰ってきたアイオラに肘で突かれる。四日目は突かれなかった。その日、帰宅したアイオラは一枚のカードをトアルの前に滑らせた。
 そのカードには名前がない。
「あの子のトレーナーカードだ。役場で働いてる特権で、ちょっと早めに出してもらった」
「ありがとな」
 アイオラは「子どものためだからな」と言って頬を掻いた。そして笑みを消し、真面目な顔になった。
「今回はどうしても必要になるから、融通をきかせて、トアルの娘で作った。
 でも、さっさと名前を決めて、役場に提出してよ。祭りが終わって、学校が始まるまでには」
 トアルは素直に謝った。
 祭りも近い。トアルは名前の候補をいくつか紙に書きだした。
 トアルにも郷愁はある。娘の名前は和風にしようとそれだけは決めて、しかしそれから先に進まない。かわいい女の子に似合う名前はたくさんあるからだ。
 ツバサがいいか。あの年でもうポケモンで空を飛べるみたいだし。でも風乗りになるのを強制してるように思われたら嫌だな、とカリーナの顔を思い浮かべる。アスカはどうだ。飛ぶ鳥の意味でも、明日の意味でもとれて、いいかもしれない。しかし、白い子はアスカっていうよりツバサって雰囲気だ。トアルは辞書を引く。
 結局決まらないまま、その日も終わった。

 とうとう、この日がやってきた。
 少女はいつもより落ち着いていたが、はしゃいでいた。体は揺らしているが、椅子には座っている。ここ数日というもの、少女は暇があればトアルの髪の毛をむしり、トアルに相手にされなければ探検と称して外に飛び出して迷子になっていた。
 この子は賢いから、ちゃんと地理を教えたら迷子にならないだろう、と思うのは親の欲目だろうか。だとしても心配なので、トアルが家事をする間は、少女に髪の毛をむしらせていた。
 その子が大人しく椅子に座っている。
「大丈夫か」
「ん」
「メシ食うか」
「ん」
 万事がこの調子だ。
 朝の準備でアイオラが出入りする度にそわそわしているし、呼び鈴がなれば表に出ていく。大抵はトアルへのお使いのお願いだが。
 呼び鈴で一つ、気づいたことがあった。
 呼び鈴が鳴って、少女がとことこ表に出ていく。数秒経つと、困った顔をして戻ってくる。その後ろから近所のばーさん、時々じーさんが顔をのぞかせ「シロちゃんは今日もかわいいねえ」と言う。少女はトアルの後ろに隠れる。
 存外、少女は人見知りであった。
「いや、お前、おれと会った時殴りかかってきたじゃん」
 それを知った時、トアルは言った。
「そん時はそん時だよ」と少女は言う。そしてトアルをポカスカ殴る。やめなさい、とトアルは諭す。
「トアルくん、シロちゃんが来てから元気になってよかった」
 近所のばーさんは微笑みながら、がっつり黒に染まった買い物メモを置いていく。油断も隙もなければ容赦もない買い物量だが、元引きこもりとしてはここらで顔を売っとかねばならない。前はアイオラがやっていたことでもあるし。
 トアルが買い物メモから重量を手計算して、運送料を出す。その手元を見つめながら、シロがぼやいた。
「シロって呼ばれんの、ポケモンみたいでやだー」
「あ、ごめん」
 いまだに少女の名前は決まっていない。
 彼女を見かけた村人がシロと呼び始め、なし崩し的にシロちゃんが名前みたいになっている。村どころか隣町にもない白髪だから、そうなるのも必然だ。しかし、彼女はそう呼ばれるたびにむくれている。
「トアル」
「ごめん、ちゃんと名前考えるからさ」
 考えていないわけではない。トアルの娘なら名字はマイタカになるから、マイタカ・ツバサとマイタカ・アスカならどっちがいいかと考えだして、ヒカリもいいなあと悩み始め。
 呼び鈴が鳴った。
 トアルは計算を中座し、立ち上がる。いいかげん、村人から逃げ惑うのに疲れたシロが、後ろにちょこちょこついてくる。テレビで見たポッチャマのようだ。
「はい」
 トアルはドアを開ける。荷物を受けとって、少女に笑いかけた。
「ほら、来たぞ。お前のポケモン」

 ボールは三つあった。
「マスターボールか、これ?」
 珍しい装飾の紫ボールを、シロはさっさと腰のベルトにくっつけた。
「これは使ってないやつ」
「そうか」
 口をつきかけた追求の言葉をかき消す。どんなポケモンも必ずゲットできる、という噂のマスターボール、未使用。どこで手に入れた? と聞いても、懸賞で当たったとはぐらかされるだけだろう。裏社会にいた子が懸賞できるとも思えないが。
 でも今は、きっと聞いても答えてくれない。今はまだ。
 そんなことはいいや、とトアルは思った。
「この二匹が、お前のポケモン?」
「そ」
 他愛ないやりとりに、少女が満面の笑みを浮かべる。自慢気。そう、自慢気だ。
「見せてくれるか?」
 そう尋ねると、待ってましたとばかり、少女は外に飛び出した。

「出てこい、ボーマンダ、オオタチ!」
 少女が投げたモンスターボールからは、前口上通りのポケモンが出てくる。
 赤い扇形の翼が特徴的な、気の荒いドラゴン、ボーマンダ。長い胴に短い手足、茶色とクリーム色のしましま模様がかわいいオオタチ。ボーマンダの空色の背中には鞍が備えられ、口元からは手綱が下がっていた。
 少女はボーマンダに駆け寄ると、口輪を外す。
「元気してたか?」
 低い唸り声を上げて、ボーマンダが少女に頭を垂れる。
「そーかそーか、ボールの中だとあんま変わんないか」
 少女が頭を撫でる。大きさの差もあって、まるで壁をさすってるみたいだ。ボーマンダは気持ちよさそうに目を細める。
 トアルは感心した。ボーマンダはガブリアスと同じくらいか、それ以上に育てにくいドラゴンだと聞いている。凶暴でプライドが高く、生半可なトレーナーでは指示に従わせることはおろか、食餌さえ不可能だと言われる。裏社会で仕込まれたのだろうが、だとしても万人が万人、従えられるポケモン種ではない。
 いよいよ、彼女を風乗りとして育てたい、と思う。だがしかし、子どもの道をそれ一つに狭めてしまってはならない、とも思う。カリーナが出ていった後、ウィントの教育方針が変わったことに気づかなかったトアルでもない。
「なあ、乗っていいか?」
 少女の声で、トアルは考え事から現実に戻った。いつの間にやら、少女はごついジャケットを着こみ、新しいゴーグルを装着して、空を飛ぶ気まんまんになっている。
「いいよ」
 いちいち許可を取りに来るなんて、とトアルは嬉しくなった。あっちへ飛び出したりこっちへ飛び出したり、自動車道に飛び出したりしていた頃が、ずいぶん昔のようだ。
 だがトアルは、軽率に許可を与えた後のことを考えていなかった。
 少女の蒼穹色の目が、夜の前触れのように冷たく凍る。それを隠すようにゴーグルを装着すると、白の少女は手綱を取って、ボーマンダの背中に乗った。
 スケボーでするような立ち乗りのまま、少女は手綱を鳴らし、一直線に飛び出した。
 ――巨大な一枚岩、エアロックの方角へ。
「ちょっと待て!」
 そう叫ぶより早く、少女は視界外へ抜けている。多分、聞いても止まる気はない。
「ガブコ、フーコ」
 トアルはフライゴンとワタッコの二匹を出し、フライゴンの鞍にまたがった。ゴーグルはないが、緊急事態だ。
「飛ばせ、ガブコ。あの子に追いつく。エアロックの方角だ」
 フライゴンはそれで事態を察したようだ。すぐさま羽を最高速度に乗せると、村の上空をつっきった。フライゴンの羽が鳴らす偽笛の音は、可聴域を超えて消えた。

 エアロックと村の間で、赤い翼がはためいた。荒々しい、血のような赤色。
「止まれ、戻ってこい!」
 少女の握る手綱が揺れる。
「シロ!」
 少女は振り向き、しかし何事もなかったかのようにボーマンダを急かした。
 トアルは歯噛みする。少女を呼び止める名がないことに。
 少女を名付けることから逃げていた、自分の過失だ。トアルは名前を付けて、その名前を奪われるのが、怖かった。名前を変えることのないよう、最高で唯一のものを与えてやりたかった。それでこのザマだ。
「仕方ない。フーコ、“にほんばれ”から“わたほうし”。ガブコは“かぜおこし”を待機」
 トアルは並んで飛ぶワタッコに声をかけた。ボーマンダは厄介だが、こちらは元とはいえ風乗り。空を飛ぶ相手には一日の長がある。
 それまでも赤い大地にまんべんなく降り注いでいた太陽の光が、レンズで集めたかのように強くなった。その光を浴びて特性“ようりょくそ”を発動させたワタッコが、増長した素早さでもってボーマンダの横に並ぶ。“にほんばれ”の光は数秒と保たないが、構わず白い綿を振りまいた。
 ボーマンダのスピードががくりと落ちる。その背中から少女が滑り落ちる。フライゴンが“かぜおこし”の予備動作に入る。
 落ちながら少女が叫んだ。
「オオタチ、“ふいうち”!」
 その瞬間、少女は命より勝利を優先した。
 地面を駆けていたオオタチが伸び上がる。その体はフライゴンの目前にあって、“かぜおこし”の発動を阻害するかに見えた。
 だが。
「“いかりのこな”」
 オオタチの目がフライゴンから、明後日の方向に引き寄せられる。それと同時に、溜めをしていた“ふいうち”の悪エネルギーが霧散した。視線の先のワタッコにオオタチはキュウと唸る。
 フライゴンは風を起こして少女を受け止めた。一旦フライゴンの腕に抱かれた少女を、地上に降りてトアルが受け止めた。
 少女は憔悴していた。
「理由を話すよ。歩けば見えてくる」
 トアルが指した方向はエアロックだった。少女は頷いた。

 巨大な一枚岩は、近づいてその威容を改める。
 それは赤い大地と継ぎ目なく繋がっている。地面にあって空とも溶け合っているような、奇妙な倒錯感に包まれる。
「エアロックは聖地だ」
 かつて先住民がそうしていたように、現代の村人も、エアロックを尋常ならざるものとして祭っている。その形式は変化しているだろうけど。
「でも、人の手に負えないものとしての意識は一緒だ。エアロックは立ち入っちゃいけないんだよ。祭りの時以外はね」
 エアロックに十分近づいた所で、トアルは大地と一枚岩の境目を指さした。それから、敵意のないことを知らせるために手を上げる。
「ああやって、普段は人が入らないように守ってるんだよ。安易に近づくと撃ち落とされる」
 番人は手を振り返した。番人の隣にいるイワパレスもハサミを上げた。鈍重なインテリアのように鎮座しているイワパレスたちだが、不埒にエアロックに侵入する輩があれば、それを撃ち落とす冷徹な砲台となるのだ。
 それ以外なら、気のいいトレーナーとポケモンの組み合わせだ。
「子どもにエアロックを見せに来たんだ」
「そうか、じっくり見ていけ」
 トアルは少女の背を撫でて、エアロックを回った。赤い一枚岩は周囲のブッシュの配置を少しずつ変えながら、自身は少しずつ角度を変える。そんな風に見える。
「祭りでは村からここまで、競争するんだ。空を飛べるポケモンに乗ってね。それで、一番になったやつだけが、エアロックに登り、伝説のポケモンへの目通りを許されるんだ」
「祭りで一番になれば、そのポケモンに会える?」
 少女の蒼穹色の目は、思い詰めたような色を帯びていた。今にも泣き出しそうな空に、トアルはただ、エアロックの祭りを話す。
「それ以外では、レックウザに会えないよ」
 少女がしゃがみこんだ。やっぱりか、とトアルはため息をついた。観光を中座して、フライゴンを呼んだ。

「……妹」
 少女が自分のことを話したのは、家に戻ってからだった。
 アイオラは帰っていない。今はトアルと二人きりだ。
「いたんだ。でも、今、どこにいるか」
 少女は膝を抱いた。白い前髪に隠れた目から、どうしようもなく涙がこぼれていた。
「レックウザ、って伝説のポケモンを捕まえてきたら、会わせてくれるって」
 トアルは少女にタオルを押しつけた。白く細い手が、トアルの裾をぎゅっと握りしめた。トアルは少女の髪を撫でると、彼女を膝に乗せて黙った。しばらく泣かせておこう。
 未使用のマスターボールを見た時からつけていた予想と、少女の境遇は、だいたい同じだった。少女の腕前を見る限り、レックウザの捕獲を命じた人間にとって本命なのだと思う。
“あくどいことをする、そういう人もいる”か。確かにあくどい。年の離れた弟しかいない、しかも弟が生まれると同時に家を追い出されたトアルには、兄弟の間の情は想像でしか分からないけれど。
 おそらく、“あくどい人”の元から、カリーナは死兵になっていたこの子を取りあげた。そしてウィントに、ウィントはトアルに、託したのだろう。
 だとすると、妹の所在は……
「分かってるよ」
 蚊の鳴くような声で呟いた。トアルの腕の中で、少女はトアルにもたれもせずに座っていた。
「本当は分かってるんだ」
 少女はもう一度言った。
「妹にはもう会えないって。会えるぐらい近くにいるなら、ガブリアスのお姉さんが探して、もう、会ってる」
 でも、どうしたらいいの、と少女は泣いた。

 今日の夜も晴れ。
 泣き疲れた少女をベッドに寝かし、トアルは夜風に涼んでいた。砂まみれでも、風は風。夜は特に涼しい。
「ああいうとこは年相応だな」
 隣のワタッコがコクコク、頷いた。
「しかし、レックウザなんか、どうするか」
 捕獲して気が済むなら、そうさせてやりたい。だが、村の人間にとって、レックウザは神の一柱だ。それをゲットなんかしたら、村八分にあう。レックウザのボールも取り上げられるのがオチだ。
 時間が解決してくれればいいけど。
 トアルは彼女が眠っている部屋の窓を見上げた。妹のことがなければ、悩まずに済んだと思う。なまじっか、引き裂かれた姉妹の片方が今もそれを引きずっているのを、間近でずっと見ているから。
 偽笛の音がした。
 見上げると、月明かりに見知ったフライゴンと人間の姿が見えた。
「アイオラ、今日は遅かったな」
 ワタッコを連れて表に回る。アイオラの姿は既になかった。
 フライゴンに乗っていたということは、隣町まで出かける用事があったのだろう。疲れてさっさと休みたいに違いない。夜食の準備をしよう。ワタッコをボールに戻して、トアルも家の中に入った。
 悲鳴が聞こえた。
 トアルは一段飛びで二階に上がった。四つある寝室の内、一つのドアが開き、中から明かりが漏れていた。トアルは呼ぶ名がないことにイラつきつつ、部屋に飛びこんだ。
「どうした!」
 白い子どもの両腕を、アイオラの黒い手ががっちりと掴んでいた。子どもがトアルを見る。いつもは生意気な蒼穹色が、恐怖に揺れていた。
「何やってんだ、アイオラ。離せ」
 怒鳴りつけたいところを、トアルは抑えた。これ以上、子どもを恐がらせたくない。アイオラの手首を叩く。けれど、いっかな彼女は子どもを離さなかった。それどころか、いっそう締めつけているようにさえ思えた。
「離せ」
 低い声で言って、今度は強めに手首を叩いた。それでやっと手が離れる。少女はトアルの背中の後ろに隠れた。
 アイオラは何の感情もなく自分の手を見ていたが、やがて糸が切れたように、パタリと手を下ろした。
「会ったのか」
 アイオラの声は掠れていた。
「今日、父さんに仕事ついでで会いに行った」
 手の皮が破れそうなほど、彼女はこぶしを握りしめた。
「カリーナ姉さんに会ってたのか。お前たち三人とも……」
「この子は悪くないだろ」
 子どもにだけは飛び火させたくなかった。もう手遅れだが、それでも勢いを増しそうな火の手からは遠くにやりたかった。
 それが起爆点だった。
「誰が望んで子どもを連れてこいって言ったんだ! いっつもそうだ! アタシはカリーナ姉さんだけいればいいと思ったのに、ウィントもトアルもカリーナ姉さんも、みんな自分勝手だ!」
 アイオラが拳をトアルの胸に叩きつけた。その手をトアルが捕まえる前に、引っこめられる。
 トアルを殴ったその手で、アイオラは涙を拭いた。
「アタシのことなんて、みんな、どうでもいいんでしょ!」
 捨て台詞を投げて、アイオラは家を出ていった。
「私の妹だって、ほっとかれてるよ!」
 白い子が再び泣き出した。

 子どもが泣き止んだ頃には、いい夜更けになっていた。
 ごそごそ、トアルのベッドに入りこんできた子どもに腕枕をした。
「なあ、トアル」
「なんだ?」
 子どもはトアルの腕の上で、しきりに転がっていた。頭の座りが悪いようだ。
 白い髪が、サラサラと気まぐれに流れる。彼女の妹も、お揃いの髪の色に目の色なんだろうか。中身はここまでおてんばじゃないといいなあ。
「カリーナって、アイオラのお姉ちゃんだったの?」
「今もそうだよ」
「そう」
 子どもは寂しそうに目を閉じた。
「近くにいるのに……」
 やがて子どもは寝息をたて始めた。

「朝からおっさんくさいぞ、トアル!」
 蹴られての目覚めとなった。
 ぐりぐりと子どもが頭を押しつけてくる。一晩寝たら元気になったようだ。嬉しいやら、悲しいやら。
 いつもと同じ目玉焼きトーストを作り、二人で食べた。いつもみたいに、アイオラが卵の焼き加減に文句を言うこともなければ、支度をする忙しなさもない。アイオラのいない食卓は、張り合いがなかった。
「なートアル」
 焦げていない代わりに、半熟の目玉焼きをかじっていた子どもが言った。
「どうした?」
「隣町まで、行っていい?」
 声は普段よりもちょっぴり沈んでいた。
 ボーマンダも戻ってきたし、ゴーグルもあるし、と少女はごにょごにょ理由を付け加えている。トアルはやんわり言った。
「カリーナに会いに行くのか?」
 少女は困ったように眉を八の字にした。昨日の今日で、動機は知れるというものだ。少女は視線をさまよわせる。それは、隠し事があります、と言っているようなものだ。
 トアルはトーストの残りを口に放りこんだ。
「いいよ」
 子どもの顔が明るくなる。
「ただ、おれも一緒についていく」
 コクコク頷いて、子どもは卵焼きトーストをかきこんだ。口の回りについた卵の黄色を、トアルがぬぐってやった。

 隣町に着いたトアルたちはまず、ウィントの住むアパートに向かった。
「ここ数日ぶりだな。砂がひどかったろう」
 ウィントは前に会った時と同じく、かくしゃくとしていて、白い歯を見せて笑った。
「悪い、ウィントさん。今は砂の話をする気分じゃない」
「ほう」とウィントは眉を上げた。
「まあ座れ」
 ウィントはすぐそばのテーブルを顎でしゃくった。
 折りたたみ椅子は四つ、壁にもたせかける形で置いてあった。三つをトアルが広げる。トアルの正面にウィント、真隣に少女が座った。
「元気そうでよかったよ」
 ウィントはトアルと少女を均等に見た。そして少女に笑いかける。
「嬢ちゃん、どうだ、調子は」
 少女は何故か、トアルの腕に隠れるようにした。ウィントは笑顔を崩さず、気にした様子もない。
「どうした? 前いっしょにいたおじさんだぞ? いつもはやんちゃで、おれの髪の毛をむしったりしてんだけど」
 ウィントに向けた後半の言葉に、子どもの頬がぷうと膨れた。トアルはどう機嫌をとったものやら、首を傾げる。
「どうだ、そっちは。来週、祭りがあるだろう」
 ウィントが話題を変えた。
「アイオラが忙しそうにしてるよ。こっちにも顔を見せた」
「その事で、ちょっと話があるんだ」
 少女が頬から空気を抜いて、居住まいを正す。その様子にウィントも何か思ったものらしい。杖を使って座り直した。
 数秒の間を置いて、トアルは話しだした。
「昨日の夜、アイオラが激怒した」
「激怒か」
「カリーナがアイオラ以外には会ってたのを知ってさ。それでなんだが、カリーナの居場所を知らないか?」
「二人を会わせるのか? あの子は会いたがらないと思うが」
 ウィントが眉を寄せる。トアルは身を乗り出した。
「それでも、だよ」
 ウィントは唸った。少女も背を伸ばした。
「私からもお願い」
 トアルは刹那、驚きをもって少女を見た。少女の目は真っ直ぐ、ウィントだけを見つめていた。
 こんな一面を、少女は持っていたのか。
「分かった」
 ウィントが折れた。膝頭は少女に向いていた。
「連絡を取る方法を教えよう」
「やった」
 少女がトアルの腕をパシパシ叩いた。トアルと目が合うと、「しまった」という顔をして手を隠す。
 ウィントはその様子を嬉しそうに見ていた。

「ところで、祭りには出るのか?」
 連絡方法を聞き、部屋にあるコーヒーメーカーでトアルが豆を挽いてから、ウィントは伺うように祭りの話題へ戻った。
 コーヒーメーカーは湯気を上げている。
 答えないトアルに苦笑して、ウィントは杖で床を小突いた。
「前も言ったが、俺のことは気にせず、出たければ出ればいい。子どもにもいいとこ見せたいだろう」
「それは」
 トアルは口答えしようとして、どもった。その言い方はずるい。
「嬢ちゃんも、父ちゃんのかっこいいとこ、見たいよな」
 ウィントが少女に笑いかける。
「トアルが出ないなら、むしろ私が出る」
 少女が戦意に燃える瞳をトアルに向けた。
 ウィントは柏手を一つ打って笑い出した。
「嬢ちゃんが出るか! いやはや、そりゃあいい。女の子だって度胸がなきゃあな」
 そうしてひとしきり笑うと、その笑みを残したまま、ウィントはトアルに言葉を向ける。
「さっきは子どもを引き合いに出したが、でも、本当に、お前の好きにすればいい。お前の人生だからな。それでこの足も、俺の人生だ」
 ウィントの手が大腿をさすった。その手は細長く、かつ骨ばっている。色黒の肌の、右の中指についた大きな傷は、大捕り物で張り切ってバカをやった時の傷らしい。
「そうやって、カリーナにも言ってやればよかったな」
 コポコポとコーヒーのできる音をバックミュージックに、ウィントは塩っ辛い声で言った。
「アイオラにすっかり我慢させてたんだな、俺は。カリーナみたいに光り輝くってんじゃなかったが、でもあの子は、きっちりきっちり、やる子でな。自分は大丈夫って顔して。全然、気づいてやれんかったな。俺は情けない親だ」
 そう言われてしまうと、トアルとしては、こう反抗せざるを得なかった。
「おれは、ウィントさんに拾って、育ててもらって、よかったよ」
 トアルが淹れたコーヒーを飲み、「苦いなあ」とウィントは顔をクシャクシャにする。

「なあ、トアル。さっきはああ言ったが、俺は、トアルが祭りに出てくれると嬉しいんだ」
 出立の間際にそう言われて、参ったな、とトアルは破顔した。そう言われると、出ようかな、ぐらいの気分にはなってしまう。そう伝えると、「本決まりにはならんか」とウィントはまた笑った。
 アパートから出てしばらく離れた辺りで、少女が顔を上げた。
「なあ、トアル」
「どうした?」
 トアルの片方の腕を、少女は両手で抱きしめていた。
「トアルってウィントの子どもじゃないの? 似てねーなとは思ってたけど」
 ふむ、とトアルは顎を撫でた。どこまで答えたものか。いずれは大体の事情を話すことになると思うが、トアルの実家関係の話題はドロドロだ。ひとまず、当たり障りのない範囲から話すことにした。
「血は繋がってない。養子縁組もしてない。でもおれは、ウィントさんに育ててもらって、ウィントさんのこと、親だと思ってる」
 子どもは分かったような、分からないような、頷いた。
「私とトアルみたいなもんだな?」
「おれと君は養子縁組してるけど、それ以外は、そうかな」
 言った後で、はたと気づいた。彼女はトアルを親だと思っている、と思っていいのだろうか?
「祭りは出るのか?」
 話に飽きたらしく、子どもが勢いよく話題を変えてきた。
「考え中」
「そっか。私は出るぞ。トアルが出たらライバルだな」
 自分で喋る言葉にヒートアップするのか、トアルの腕をパシパシ叩き始める。トアルはそれを宥めながら、彼女を落ち着かせる魔法の言葉はないかと考えた。
「祭りのルールも覚えないとな」
「ルール!」
「まず、出られるポケモンは二匹だ」
「じゃあボーマンダとオオタチで出られるな!」
 腕を叩く勢いがパシパシからベチベチに加速する。余計にヒートアップしてしまった。誤算だ。
「自動車だー!」
 横断歩道で立ち止まったら、少女が危うくダッシュするところだった。油断も隙もない。
 トアルは筋肉痛を覚悟で、残りの道程、少女を抱き上げて運ぶことにする。
「下ろせよ、トアル」
「おれの心の安寧のためだ」
 だがしかし、少女はいっかなトアルの心の安寧に協力してくれない。なおも有り余るエネルギーを発散しかねる子どものために、トアルは少女を肩車した。
「ボーマンダに乗った方が高い!」
 どうしろと。
 しかも髪の毛をむしられる。とても痛い。
 挙句の果てには、人とすれ違うそのたびに目つぶしを仕掛ける。危なくて仕方ないから、下りてもらった。
「自動車ぐらい避けられる!」
 すると自動車道でスタントアクションを始めかける。どうすればいいんだ。
 最終手段、フライゴンのガブコに取り押さえさせ、その間にガブコの手綱を外して少女の腰に巻いた。手綱は手首に巻いて短めに持つ。道行く人に聞こえよがしにこう言われた。
「紐なんかつけて、ポケモンじゃあるまいし」
 トアルも本当は紐なんてしたくない。したくないが、彼女は、素人が一般道でスタントアクションすると死ぬ、ということを理解してくれないんだよ。

 やっとこさ辿り着いた行きつけのバーで、トアルはパフェを頼んだ。間もなく出ていたジョッキパフェを、まずは子どもに食べさせる。相変わらず、食うのは遅い。
 意外なことに、このバーがカリーナへの連絡口だった。
 考えてみると悪くない選択だ。出入りするのは昼日中から酒を飲んだくれる人間ばかりだ。いつもうるさいし記憶のあやふやな連中ばかり席を陣取っていて、頼んだらパフェは出てくるが、真っ当な人間は入ってこれまい。
 アイオラはまず来ない。
 子どもがパフェを食べ終わったのを見て、トアルは口を半開きにした。
「全部食っちゃったのか」
「残した方がよかったか?」
 つい数日前は半分も食べなかったのに。
「もいっこ頼む?」
「いや、いい」
 腹の虫も収まってきた。時間をこれ以上かけるのも良くない。
 トアルは席を立って、カウンターへ移動した。
 背の高いスツールに腰かける。横を見て、一旦立ち、少女を椅子の上に乗せてから改めて座った。
 マスターが少女を見て、片眉を動かす。
「エアロックに雨は来そうか?」
 構わず、トアルは話しかけた。これが第一の符丁だ。カリーナも考えたものだ。トアルはこのバーを行きつけにしていたが、偶然にこの台詞を発することはない。ウィントが祭りの競争で落っこちて以来、エアロック周辺に雨が来ないのは周知の事実だ。
 ウィントも連絡方法を教えられたのは最近だそうだから、四年前の祭りを機に作ったのかもしれない。
「来ませんね。砂ばかりです」
 マスターは素知らぬ顔でジョッキを拭く。とんだ役者だ。
「そうか。なら、雨の匂いがする、フィラのスピリッツが欲しいな」
 第二の符丁を口にしたのは、白の少女だ。どうしても言いたかったらしい。マスターは「お客さん、困りますね」とジョッキを置いて、求められたアルコールを出す。
 そのショットグラスの下のコースターを引き抜き、ポケットに入れた。
 マスターが意味ありげな笑みを浮かべる。その目は鋭く、酒の入ったグラスに注がれていた。仕方ない。トアルはグラスを飲み干し、勘定を頼んだ。
 バーを出た後で、トアルはぐちる。
「カリーナのやつ、おれが嫌いな酒を指定しやがって」

 コースターに書かれていたのは、なんの変哲もないオフィスビルだった。
 ここまで、少女を引きずって歩いた。仕方ない、彼女は手綱にぶら下がって「うー」とやるのが殊更楽しいようだから。その代償として、明日は筋肉痛確定だ。
「さてと」
 入りにくい雰囲気を醸し出すビルだ。ビルに入る気合を溜めていると、少女が手綱をぐいぐい引っ張った。
「入らねーのか、トアル?」
「入るよ」
 先導の少女に紐を引っ張られて、トアルはビルに入場した。どうにも格好がつかない。
 中は意外と普通のオフィスビルだった。案内板を確かめ、エレベーターで目的の階に向かう。居合わせた会社員に、砂だらけのトアルたちは胡散臭い目で見られた。
 トアルたちが目的の半分も行かない内に、その会社員もさっさとエレベーターを降りた。
 二人だけ乗せたエレベーターが無音で上昇する。等速の中に、上昇か下降かの感覚はない。動か不動かさえも曖昧になっていく。ふっと感覚が消えて、そのまま宇宙に飛び出してしまいそうだ。足元から伝わる振動だけが、エレベーターが生きている証拠。
 少女がトアルの手をぎゅっと握りしめる。
 小さなチャイム。エレベーターが到着した。
 エレベーターのドアが開いた先は、ちょっとした異世界だった。廊下には隙間なくカーペットが敷き詰められ、その模様はなにかの物語を語っている。それを眺める余裕もなく、トアルたちはコースターの指示に従って、進んでいく。右に真っ直ぐ、突き当たりを左へ。足元の物語は佳境を迎える。
 その終焉と同時に、扉が開く。
「ようこそ、おいでくださいました」
 黒い髪、肌は父と妹ほどではないが、濃い色だ。全体に纏う雰囲気は違うが、勝ち気でこれとなったら譲らない目は、家族によく似ている。
 彼女の唇が魅惑的な弧を描く。
「あなたに来てくれとは、一言だって言っておりませんがね」
「言っとけ、カリーナ。おれはお前に用があるんだよ」
 カリーナの双眸が細められた。その目が少女に下りる。
「その子のことかしら?」
「言ったろ? カリーナに用があるんだ」
 ちょいちょいと少女が裾を引っ張った。トアルと目が合うと、何も言わない内から、少女は一歩前に進む。
「ガブリアスのおばさん」
「わたくし、人生経験は豊富ですけど」
 カリーナは豊かな黒髪を耳にかけ、腕を組んだ。
「わざわざそれを強調しておばさんと呼ばなくてもよろしくてよ」
 カリーナに睨まれた少女は「みゃっ」とトアルの後ろに隠れた。
「どうした? 言いたいことあるなら、言ってやれ。おれがついてる」
 少女は首を横に振る。だめだ、人見知り発動した。
「なんですの?」
 カリーナが怪訝そうにしている。
 励ましてみるが、少女は動きそうにない。
「急かすのは気が悪いのですが、あまり時間はとれませんよ」
 カリーナの口調が、怪訝を通りこして心配そうになってきた。
「いけるか? 喋れそう?」
 少女は頑なに首を振る。
「あと十分でまとめてほしいのですけど」
「よし、おれに話して。そしたら、おれからあのおばさんに話すから。な?」
 少女はコクリと頷いた。とんとん、とトアルの腕を叩く。「どうした?」トアルが体を寄せると、少女はトアルの耳元に口を寄せた。
「私も妹がいるけど、会えないの、すごい嫌だから、アイオラに会ってあげて、って言って」
「よし、よく言えた」
 トアルは少女を撫でると、立ち上がった。
 カリーナはさっきと同じ立ち姿のまま、表情だけが険しくなっていた。
「聞こえてましたわ」
「そうか。そりゃ良かった」
「返事はノーです」
「なんで?」
 トアルの問いに背を向け、カリーナは歩きだした。深いカーペットに、ハイヒールが突き刺さる。
 カリーナはカーテンを開いた。空の青が、壁一面を染めた。ガラス窓だ。
 空の青を背景に、カリーナは腰に手を当てる。長く流れる黒髪とドレスは、妹とあまり似ていない。
「前にも言いましたでしょう? わたくしは空賊ですのよ」
 そこまでは前にも聞いていた。カリーナは続きを語った。
「アイオラは、姉が正義のヒーローになると信じていた。それをこっぴどく裏切ったわたくしに、もう、会う資格なんてありませんの」
 カリーナは半身を翻した。黒い髪が乱れてカリーナの目を隠す。
「それにこれは、わたくしなりのけじめです。空賊のわたくしは、妹には会わない、と。
 これで満足いたしました?」
 カリーナは笑みを浮かべると、両腕で自分を抱いた。そして、言った。
「十分経ちましたわ」
 冷たく、突き放すような声だった。

 結局、ダメだったか。
 肩を落としながらも、トアルはまんざら、落ちこんでもいなかった。
 一度で、なんてのが虫の良すぎる考えだ。連絡方法も聞いたし、また来ればいい。門戸が閉ざされるかもしれないが、それまでは足掻くつもりでいよう。
「帰ろう」
 トアルは少女の肩に手を置いた。その手が振り払われた。
 まるで小さなけものだった。少女はカーペットの上を飛ぶように駆けると、その勢いのまま、カリーナの腰に組みついた。
「会ってほしい」
「その話は終わり」
「カリーナはアイオラのこと嫌いなのか? それともアイオラのこと、忘れたのか?」
 少女を引きはがそうとしていたカリーナの手が、止まる。カリーナがじっと固まった、その合間にも少女は言葉を重ねていく。
「私はトアルと会えてよかったよ。私は妹のことを覚えてて、妹は私のことを覚えてて。でも、私も妹も名前がない。私たちが死んだら、みんな忘れて、私と妹はいたことすらなくなっちゃうんだ、って思ってた。でも、今はトアルが覚えてるから。
 アイオラもね、カリーナのこと、忘れてないよ。でも、アイオラがカリーナのこと、色々考えてて、どうにもならないの。私は何かしたいけど、私じゃダメだもん……」
 勢いが消えていくにつれて、少女もしおしおとしおれていく。トアルに気づくと、川の真ん中で船でも見つけたみたいに近づいてきた。
 トアルは少女を抱っこした。この様子だと、だいぶ疲れたのだろう。帰りはヒッチハイクするか。
 抱っこされた少女が、トアルの耳元で小さく呟いた。
「トアル、私のこと、忘れないでね」
「大丈夫、絶対に忘れない」
 少女が目を閉じる。すると、少女の体がぐっと重たくなった。どうやら、安心したようだ。
 その場を辞しかけたトアルの背に、カリーナが声を掛けた。
「祭りに、アイオラは来るのかしら」
 トアルはちょっと意表を突かれた。アイオラといっしょに暮らしていた身としては、自明の理だったから。
「出るよ。あいつ、役場でそういう関係の仕事してるから」
「そう。では、祭りに顔くらい出しますわ」
 カリーナは肩を揺すると、また笑みを浮かべた。それはしっとりとした大人の微笑みだったけれど、アイオラと似ているように思えたのだ。


「え、カリーナが祭りに来る?」
 役場でアイオラに話した時の反応は悪かったが、もしかしたら、嬉しくて感情をどう表したものか、迷っていたのかもしれない。彼女は手土産にプリンを持って、家に帰ってきた。
「あの、ごめんね。腕、握って。痛かったでしょ」
 アイオラは気遣うように少女の腕を指した。少女は一瞬真顔になったが、すぐに「いーよ」と答えた。
 プリンで懐柔されているような気がしないでもない。
「そうだ、アイオラ。祭りの出場登録、まだできるか?」
「いつも当日までやってるじゃないか。どうした、トアル」
「おれも出ようと思う」
 アイオラの目が真ん丸になった。その次はニコニコになって、そして、トアルの背中を荒っぽく叩く。
「そっか。とうとう出る気になったか」
 背中がめっちゃ痛い。と思ったら、白い子も一緒になって背中を叩いていた。
「子どもが真似するから、やめなさい」
 バシバシと白い子が叩き続ける。
「お前もやめなさい」
「なんだか親っぽいな」
 アイオラがくすくす笑う。
「ちょっと待って。登録用紙持ってくる」
 トアルのせいいっぱいの白い目から逃れるように、アイオラは二階に上がった。子どもは椅子の背に登って、けらけら笑っている。
「危ないからやめなさいってば」
 椅子の背から下ろした少女に髪の毛をむしられていると、アイオラが紙束を持って戻ってくる。大判の絵本も一緒だ。
「これが登録用紙、それからルール説明」
「それは?」
 アイオラが絵本を持ち上げた。
「これはエアロックの伝説を絵本にしたものだよ。シロはまだ、このお話聞いてなかったよね」
「シロじゃないよ。名前はまだないよ」
 白い少女が口を尖らせる。アイオラは「そう」と呟くと、少女の耳元に何やら囁いた。話が進むにつれ、少女の顔の笑みが深まる。
「わかった!」
「待て、何を吹きこんだんだ?」
 アイオラは「必要なことだよ」と笑うと、絵本を広げた。全く明るくなって、いいことだけど、二人の内緒話の内容は何だろう。知ろうとつついたら嫌がられるから、黙ってるけど。
 絵本の一ページ目を、少女の目の前に開ける。途端、少女の目が輝いた。
「トアル、これ、今日カーペットの模様であったやつだ」
 そう言われて、トアルも絵本を覗きこんだ。見慣れた雨と太陽の挿絵だが、トアルはカーペットの模様がどうなっていたか、少々記憶が曖昧だ。
「そうだったか。あのカーペットは、この神話を織ったやつなのかもな」
「祭りの時にカリーナに聞く?」
 そのまま、少女は絵本を手元に引き寄せた。熱心に絵本を見つめているものだから、当然、肯定の返事がくるものと思って尋ねた。
「読める?」
「読めない」
 意外だった。てっきり、カリーナかウィントか、どっちかが教えただろうとばかり思っていた。
 アイオラも予想してなかったようで、少し難しい顔になった。
「学校までに文字と数字だけ教えといた方がいい。トアルの仕事よ」
「おう、分かった」
「勉強やだー」
 少女がくたん、と机の上に伸びた。蒼穹色の目がトアルにおねだりするように潤んだ。
「お祭りまでは勉強のこと、考えたくないなあ」
「そうか。じゃあ祭りの後から勉強しよう。賢いから大丈夫だろ」
「あんまり甘やかすなよ?」
 トアルに自覚はなかったが、これは甘やかすの範疇に入るらしい。
「じゃあ、今回はアタシが読むね」
 アイオラが絵本を持ち上げて、膝に立てた。

『蟻地獄の精霊が西から東へ進み、この地へやってきた。北からやってきた大雨と、南からやってきた日照りが、この地で滞っていた。

 蟻地獄の精霊は大雨と日照りが滞って大地が壊れないように、自分の体で二つを遮った。蟻地獄の精霊は、その場で巨大な一枚岩になった。

 蟻地獄の精霊の息子が一枚岩に登り、大きな声で呼ばうと、西から緑蛇の精霊がやってきて、大雨と日照りを飲み込んだ。

 だから、雨や強い日差しが必要な時は、蟻地獄の精霊の息子たちよ、西から一枚岩に登って緑蛇の精霊を呼びなさい。』

「なんか、変なの」
 読み聞かせが終わると、少女は首を傾げた。
「先住民の人が伝えてたお話なんだけど、まあ、色々あって、今はこれだけしか話が伝わってないんだ」
 アイオラはそう苦笑する。
 過去、入植者であった風乗りたちは、先住民を帰化させていった。その過程で、先住民が元々持っていた言い伝えや生活様式、あるいはこの地固有のポケモン種が、少なからず消えていった。これは辛うじて消え残った、一つだ。
「かつて先住民の人たちが当たり前に思っていたことが、忘れられてしまってね。だから、アタシぐらいの世代じゃもう、どういう話なのかっていう芯のところが分からない」
「忘れられるのは悲しいな」
 少女が目を伏せた。
「そう。だからこれ以上忘れないように、お祭りだけはやってるんだ。四年に一度」
 アイオラは最後のページの挿絵を示した。
 フライゴンと、レックウザと思しき緑の龍が対面し、レックウザの左右にささやかな雨と太陽が描かれている。
「アタシたちはこの言い伝え通り、村からエアロックへ飛んで、レックウザを祭る」
「フライゴンじゃなきゃダメ?」
 少女が困った顔をした。今から進化前のナックラー捕まえて育てても間に合わないよう、と顔に書いてある。時間がないだけで、最終進化形のフライゴンまで育てられないとは、欠片も思っていないに違いない。
「フライゴンじゃなくてもいいよ。というか」
 アイオラの目に濃い影が差した。
「そうじゃないと人が集まらない。レース形式にしちゃったのもそうだけど、人が集まらないと予算が下りなくて祭りが開催できない」
 四年前から毎日晴れだというのに、アイオラの上だけ雨雲が湧いたような暗さだ。
「ボーマンダでも出場できるぞ。良かったな」
 トアルは明るい声で言った。少女は安心の息をはくと、トアルにくっついた。

 祭りへの出場を決めてからの日々は練習に費やした。ボーマンダに元あった鞍と手綱も確認して、買い替えた。命綱も買い足した。四年前の祭りで、あんなことがあったのだ。少女の技量はず抜けているが、体重は軽い。ラフプレーで弾き飛ばされないように、安全対策はきっちりとしたい。
「まずはルール確認。連れていけるポケモンは?」
 ルール確認はクイズ形式だ。はい、と一人っきりの生徒が手を挙げる。
「二匹! 自分が乗って飛ぶやつと、あとアシストでもう一匹」
「正解」
 白の子ならボーマンダとオオタチ、トアルはフライゴンとワタッコだ。ウィントはフライゴンとエリキテルの組み合わせで、フライゴンで出なかった出場者をまとめて電気で片づけていた。四年前だが既に懐かしい。
「次、レースのコースについて」
「村の出発地点から、エアロックまで、まっすぐ一本道。エアロックの手前に目印があるから、そこを越えたらゴール」
「よしよし、正解、正解」
 エアロック手前のゴールに着いたら、そこでしばし待機。レースの参加者が全員ゴールするか規定時間が過ぎたら、晴れて優勝者はエアロックに上れるのだ。
「失格要件もあったね」
「コースから外れたり、時間がかかりすぎると失格」
「ポケモンはどうだったっけな」
 トアルがちょいとヒントを出すと、少女は「あ」と口を丸く開けた。
「自分が乗って飛ぶやつが“ひんし”になるのと、あと、地面についてもダメ」
「よくできました」
 実際、乗っているポケモンがレースで“ひんし”になることはほとんどない。ポケモンのわざでうち落とされることも、たまにあるが、そんなにない。それよりも、スタミナ配分を間違えて途中で降りる方が、はるかに多かったりする。
「次。レースでの禁止行為について」
 少女はしばし考えてから答えた。
「手綱、鞍など、騎乗の安全装置を狙った攻撃。一秒以上に渡る幅寄せ等の飛行妨害」
「うん、正解。あと、審判が危険と判断したもの」
 この禁止行為規定は今年から追加されたものだ。
「おれとウィントの、まあ、公式には事故ってなってるけど、その事故を受けてな。その年はレースが中止になって、エアロックに登る儀式も行われなかった」
「事故って危ないんだな」
「ついでに、儀式の中止が原因なのか、それ以来、雨も降ってない」
 少々苦い気持ちで、トアルはそのことも教えた。ただ、少女はあんまりピンと来ないようだ。村に来た時には晴れの日が当たり前だったから、しょうがないと言えばしょうがない。
 少女が首を右に傾げ、それから左に傾げた。
「でもさトアル、間違えて当てちゃったらどうすんの?」
 うーん、と言ってルール説明の手書きを見つめているが、そもそも読めてもいない。
「両方失格だ。わざとでなくても当てたら失格になる。当てられた方も、安全性が損なわれるから、そこでレースから離脱する」
 少女はしごく残念そうにした。
「うまく相手の技を手綱に当てたら、失格にできるかと思ったのに」
「そんな危ないことしちゃいけません。その後で、いざ手綱でバランスを取ろうとしたら切れちゃいました、ってなったら恐いだろ」
 少女は頷いた。が、目が明後日の方を向いている。分かっていない。トアルは例を変えることにした。
「例えば、君のボーマンダが翼に攻撃を受けたとする。そのまま飛び続けるか?」
「うー。すぐにはなんともなくても、後で急に動かせなくなったりする」
「ということは、どうすべき?」
「一旦下りる」
「よくできました」
 トアルは両腕を広げた。そこに飛びこんできた少女の脇を抱えて、軽めのジャイアントスイングを行使した。最近これが彼女の中で大流行している。

「今日の訓練はこんなもんだな」
 ぱんぱん、と砂を払ったトアルに、子どもが「もっとできるよ」と言ってくっついた。子どもも砂まみれだ。
「いけません。やりすぎて疲れが残ったらよくないからな」
「こんくらいならできるのにー」
 子どもがむくれる。
 確かに今の訓練は、彼女にとって眠たいぐらいのものだろう。基本の離陸・水平飛行・着陸もきちんとできているし、筋がいい。
 だが、彼女は子どもで軽い。ラフプレーで落ちた時の訓練はいくらでもやりたい。今日も不時着の練習で砂まみれになったが、このまま明日も明後日も気が済むまで同じことを繰り返したいくらいだ。
 明日が祭りだからそんなことも言ってられないが。
 トアルは自分の胃がキュウとなるのを感じた。できることなら過去に戻って、「子どもだから出場禁止」とやってしまいたい。我ながら、自分の心がこんなに狭くなるとは思わなかった。
 でも、この子が「飛びたい」と言ってるのに飛ばせてやらない、そんな育て方はしたくない。ウィントがしてくれたように、トアルもしたい。
 トアルはしゃがんで、「まだできる」と跳ねる子どもに目線を合わせた。
「今日はもう十分、頑張った。これ以上はおれも疲れてコーチできないし、練習で君を怪我させたくないからさ」
 そう言うと子どもは大人しく頷いた。
 聡い子だ、とトアルは思う。わがままも言うし、未だに自動車の前に飛び出すが、筋を通して話せば、割りと納得してくれる。
 ただし、自動車の前には飛び出す。
「あら、シロちゃん。今日も祭りの練習に精が出るわね」
 村人の声に、少女が一瞬停止して、そろそろと動き出した。
「こんばんは、は?」
「こんばんは」
「あらあら、シロちゃん、こんばんは」
 アイオラ以外の村人でも、よく会う人に関してはまともにあいさつできるようになってきた。少女は照れた笑みを浮かべる。
「私の名前、シロじゃないよ。明日の祭りが終わったら、トアルがちゃんとしたの、付けてくれるんだ」
「あら、そう。良かったねえ。トアル君も、いい名前考えたげなさいよ」
 村人が手を振り、少女が手を振り返し、そこで別れる。
 最近ずっとこの調子だ。名づけて、外堀から埋めよう作戦。アイオラからの入れ知恵だ。
 そんなことしなくってもちゃんと考えてるってば、とも言い切れない。アイオラは名前ぐらいさっさと決まるだろうと思って「学校が始まる前」と言ったのであって、ここまで名無し期間が続くとは正直予想外だと怒られた。
 トアルも予想外だ。
 しかし、明日か。トアルは顎に手をやった。夜更かしして辞書を引いて、もっと良さげな単語を探すか。睡眠不足で飛行レースは好ましくないけど。
「なんか、こういう名前がいいとかって、ある?」
「トアルが考えた名前ならなんでもいいぞ」
 少女はクルリと回って、
「あ、でも、シロとかはダメ」と言った。「ああ、分かった」トアルは立ち上がって膝を伸ばす。シロがダメなのは前から聞いている。
「なんでダメか、聞いてもいいか?」
 少女は自分の髪を引っ張った。白い髪が日の光をキラキラ反射する。まるで妖精の生まれのようで、少女に似合って素敵だ。しかし少女はしかめっ面をした。
「この髪の色、嫌いなんだよ」
「嫌いかあ。白くて綺麗だけどな」
 少女はふくれっ面をした。
「ばあさん髪なんだよ」
「ばあさん髪?」
「前は黒だった」
 そして、ふくれた面から、ぷー、と空気を抜いた。
「でも、トアルがどーしても、って言うんなら。名前、シロでもいいよ」
 少女が笑った。あんなに嫌がっていたのに、何の気なしに付け足した一言がずいぶんな心境の変化を引き起こす。“おや”ってのは責任重大だな。できれば、良い変化ばかりに来てほしい。
「シロはやめておくよ」
「そっか」
 少女はクルクル回る。白髪の似合う彼女だけれど、それが本意でないなら、親のトアルが押しつけるべきじゃない。
 それにしても、とトアルは思う。
 元の髪色が黒なら、彼女の妹の外見について、改めて聞いておいた方がいいだろう。トアルは今まで、妹も白くて儚げな感じかなー、となんとなく思いこんでいた。
「なあ、君の妹のことだけど」
「あ、そのことなんだけど」
 トアルは少女の顔を見た。目の蒼穹色が真昼ほどに明るくないのは、真面目な時だ。
「うん、どうした」
 トアルも改まって、先を促した。少女は指先をしきりに組み直す。
「明日、祭りだろ」
「うん」
「レックウザ、来るかもしれない」
「うん」
「一番にならないと、会えない」
「うん」
「あのね、トアル」
 少女の目に涙が浮かぶ。いつかの思い詰めた瞳を思い出す。あの時も、妹の話をしていた。
「レックウザ、捕まえるの、手伝って」
 少女はすがるように、トアルを見上げた。トアルは、
「それは」
 答えられなかった。
 ――だって、レックウザがいなくなったら、本当に、村に雨は来ないかもしれない。
 少女の目に怒気が宿る。トアルは慌てて少女を宥めようとした。
「レックウザは村の神様みたいなものだから。捕まえようとか、言わない方がいい」
「でも」
「他に方法はないのか?」
 ガラスを破るように、トアルは、少女の心に張った薄膜を穿ってしまった。
 少女の目は夜を映しだして、すぐそばにいたトアルの姿は、もう映ってない。

「仲違いか?」
 祭りの喧騒の隙間を縫って、気遣うようにアイオラは尋ねた。
「まあ、そうだな」
 アイオラも今は家に戻って、三人で暮らしている。その内の二人が一言も交わさなければ、おかしいと気づく。
「なあアイオラ。もしもレックウザを捕まえようとする人間がいたらどうする?」
 やむにやまれず、トアルは直截に尋ねてしまっていた。アイオラの目が見開かれる。
「空賊か? そんな人間が祭りに来るのか?」
「いや、例え話だよ。忘れてくれ」
 食い下がりそうなアイオラに、「ほら、エントリーだ」と無理やり仕事を押しつけてその場を離れる。
 子どもは朝早くに出ていってしまった。一瞬だけトアルに顔を見せて、それから家を出た。全くの音沙汰無しでなかったのは、救いか。
 でも、彼女の伏せられた、思い詰めた目が気になった。
「追い詰めたのはおれだよな」
 あの時、嘘でも、「レックウザの捕獲に協力するよ」と言っていたら。
 自分だけは少女の味方でいるべきなのに。トアルは独り拳を握りしめた。
「あ、ね……はじめまして」
「はじめまして、よろしくお願いしますわ」
 聞き覚えのある声がして、トアルは顔を上げた。
 アイオラのいる受付で、非常に目に馴染みのある女性が参加登録を書いていた。書き終えた紙を受けとって、アイオラが読みあげる。
「カリコ、さん。確かに初めての参加ですね」
「そうですの」
 姉妹の触れ合いはそれで終わった。
 先に相手が見つけていたのか、トアルが手を上げるより前に、彼女はこちらに向かってきた。
「カリコさん。なんだよ、その偽名」
 喧騒に混ぜてそう言うと、カリコもといカリーナはおっとり首を傾げる。
「あなたがよくポケモンに付けてるじゃない。ガブコにフーコって」
「はいはい」
 トアルはカリーナの手首を掴んで、喧騒から離れた場所へ連れだした。
「積極的ね」とカリーナが笑う。どうやら白い子のことで、トアルはずいぶんと切羽詰っているらしい。
「プロポーズかしら?」
「悪いけど、全く別件なんだ。あの子と喧嘩した」
 そう切り出すと、カリーナは納得した様子で頷いた。
「そばにいないから、そんなことだろうと思った。それで?」
「あの子がレックウザを捕まえたがってるのは、知ってるか?」
 カリーナは居住まいを正した。
「呼び名がないって、不便ね」
 そうぼやいてから、頷く。
「妹さんが人質にとられてる、レックウザと引き替え、ってところでしょう?」
「そんなところだと思う」
 トアルの言いたいことを察して、カリーナが片手を上げた。
「見つけられませんわ。性格の悪い方々が、シロちゃんにレックウザを捕まえさせるかたわら、妹さんを別の国に売ってしまったので」
 悪い冗談だと思いたかった。トアルはせめてもの希望に言葉を繋ぐ。
「生きてはいるのか?」
「不明です」
 はっきりと言い切ったのは、カリーナなりの優しさなのだろう。しかし、かと言って、嬉しくない知らせの中身が変わるわけでもない。
「あの子は、レックウザを捕まえようとしているのでしょう?」
 考え考え、カリーナは口にした。トアルは頷く。
「でも、そんなことしたら、村にいられなくなる。それに」
 トアルはもう一つの、自分勝手な理由を吐き出す。
「捕まえたら、雨が来ないかもしれない」
 言ってから、トアルはかぶりを振った。なにもかも、トアルはあの子のために言ってるんじゃない。祭りがうまくいって、雨が降れば、そうすれば、トアルが四年前から抱く罪悪感が少し癒やされるから。そんな理由でしかない。
 カリーナの眼差しは、そんなトアルの心を見透かすかのようだった。
「やらせてみてはいかが?」
「でも」
 トアルは渋い顔をしていただろう。そのトアルに、カリーナは毅然とした眼差しを向けた。
「あの子は分かっているのでしょう? レックウザを捕まえても、妹には会えないことを。それでもやるというのなら、それは、あの子なりに整理をつけたいからですわ。それならば、あの子の親がすべきことはなんですの? それとも、我が身かわいさに、子どものやりたいことを否定するのかしら?」
 トアルは口ごもった。
 少女は分かっていると言っていた。妹のことも、レックウザのことも。しかし、それでもやはり、レックウザを捕まえると言ったのだ。
 それ以外にどうすればいいのか、少女には分からない。
「おれも、協力してやりたい」
 トアルの決断に、カリーナは笑みを浮かべた。
「そう。では、わたくしも謹んで協力いたしますね」
「いいのか?」
 カリーナはクスリと笑った。なかなか子どもっぽい笑顔だった。
「わたくしもエントリーしましたもの。それに」
「それに?」
 トアルが聞き返すと、カリーナは両手を頬に当てて、何故か恥ずかしそうにした。
「もしもアイオラが人質になったら、わたくし、間違いなくレックウザを捕まえますから」
 捕まえようとする、ではなく、捕まえることまでが確定事項らしい。すごい自信だ。
 その自信に水を差すように、トアルはまぜっかえした。
「その言葉、後でアイオラに伝えておこうか?」
「そんな殿方は結婚後三年で離婚して手切れ金を請求されるのですわ」
 なんでそんなに具体的なんだ、とトアルが言い終わる前に、背中を一発叩かれる。
 これがまた痛い。姉妹揃って、背中を叩く癖をやめてほしい。
 でも少し、気は晴れた。考えもまとまった。
 あの子に協力する。それでもし、村での立場が悪くなったなら、どこへでも飛んで行けばいいのだから。

『それではこれより、レックウザ様に捧げる飛び比べの儀式を始めます。参加者の方は所定の位置についてください』
 村のスピーカーがガリガリと音を立てる。砂でだいぶ悪くなっているようだが、内容が判別できる内は買い換える気もないらしい。
 トアルは交通整理に腕を振る村人に手を上げ、参加者のグループに合流した。右側の、スタートラインに近い位置に通される。申し込みの早い順だ。フライゴンのガブコを出し、手綱や鞍を確認し、サポートのワタッコも出して、位置についた。
 隣に娘が並んだ。
 彼女はトアルを見ると、ふいと顔を背けた。小さな娘がボーマンダの広い背中に上る。そして、スケボー乗りで手綱を握った。
 危ないから、その乗り方はやめろと言ったのに。
 右半身を前に、頑なにトアルに背中を向けて、その肩は少し震えていた。
「なあ」
 話しかけて、その次の言葉が出てこない。カリーナの言葉が思い出される。呼び名がないって、不便ね。
 トアルは奥歯を噛みしめた。ああ、確かに不便だ。呼びかけて、トアルがどんなに怒っているか、どれだけ相手を心配しているのか、伝える術がないのだから。
 これもトアルの咎だ。
 周囲を見る。少ない観客のほとんどが村人だ。アイオラは審判の腕章をつけ、選手と併走する係になっている。カリーナは後ろの方だ。
 観客の中に、見慣れた顔があった。
「ウィントさん」
 壮年の男性は、杖を突きながらも、背すじをシャンと伸ばしている。凛とした立ち姿とは逆に、顔をクシャクシャと歪め、杖を持ってない方の腕でガッツポーズをしている。その口が動いた。
 がんばれ。
「おうよ、分かった」
 祭りのざわめきにまぎれて聞こえないように、トアルは呟いた。
 ウィントさん、あんたはすごいよ。娘二人に加えて、どこの馬の骨とも知れないガキを拾って、独り立ちできるように育ててくれたんだから。おれは聞き分けのいい子ども一人相手に、てんてこ舞いだよ。
 でも、おれはおれで、やるしかないや。
 フライゴンの手綱を握り直す。ちらりと横を見た。娘は背を向けたまま、真剣な横顔だけトアルに見せている。
 安心してろ。お前はおれが一位にしてやるからな。

『ゲットセット』で、フライゴンが羽ばたきだす。
 フライゴン種の羽が奏でる偽物の笛の音が幾重にも重なって、不協和音を作りだす。白の少女が顔をしかめた。
『レディー』
 いっそう高鳴った偽笛のいくつかが、可聴域を飛び超えて消える。ガブコの羽の音は消さない。最初から飛ばすと、スタミナが持たないからだ。エアロックまでは遠い。
『ゴー!』
 と同時に、ガブコが地面を蹴って滑りだした。
 トアルとガブコがリードしていたのは最初の数秒だけで、すぐさま他のポケモンたちに並ばれた。しかし、そのポケモンたちも、次々と不時着していく。
「ムラマサ、ドラゴンクロー」
 カリーナのガブリアスが、ジャンプしてはツメを的確に振るい、ライバルの翼を叩き落としていく。鞍や手綱に当ててはいけない、すさまじい曲芸だ。
「失礼、偽笛の音階が外れて耳障りでしたので、退場していただきました」
 フライゴンの手綱を片手で器用に繰りながら、カリーナが妖艶に笑う。その自信を裏づけるように、カリーナのフライゴンの羽音は、正確なメロディを刻んでいる。
 空色の巨躯がつっこんできて、その笑みが崩れた。
 カリーナは片手だけでフライゴンを上昇させると、その突撃を難なくかわす。だが、表情までは取り繕えなかった。
「かわいくない子」
 白の少女はただ真っ向から、ムラマサとカリーナを見定めた。倒すべき敵として。倒し甲斐のある強敵として。に、と少女が口角を上げる。蒼穹色の目に戦人の炎が宿る。
 カリーナも真っ向から迎えうった。
「ボーマンダ、ドラゴンクロー」
「ムラマサ、ドラゴンクロー」
 空色の空の竜と、群青色の地の竜が、それぞれ太い腕から、敵を穿つためだけの槍のようなツメから、ドラゴンの力を示す緑色の光を放った。
「同情なら要らないぞ!」
 白の少女が叫ぶ。カリーナは少女に、改めて余裕の笑みを向ける。
「それは失礼。でも、飛び始めたばかりの子どもを落とすほど、大人気なくもありませんの」
「大人なんてっ」
 少女を立ち乗りさせたまま、ボーマンダが力を込めた。
「自分が助けたい時しか、助けてくれないくせに! オオタチ、“ものまね”“このゆびとまれ”!」
 少女の指示の意味を、誰も彼もが飲みこめなかった。唯一、彼女のオオタチだけが、指示を受けて大きくジャンプする。――違う、“そらをとぶ”だ。
“そらをとぶ”を真似たオオタチが、ガブリアスの頭を越えて、数秒だけ滞空する。たった数秒。その数秒間だけ、ガブリアスはオオタチの短い手指に気を取られた。
 重心のずれた体を殴り、ボーマンダがガブリアスの体に砂を付けた。カリーナはボールを投げて、ガブリアスを回収した。
 翼を広げ、大きく空気を打って旋回したボーマンダがコースに戻る。そして先頭に躍りでる。
「私は一人で妹を助ける。誰の助けも要らない。一人でやれる」
 トアルの並んだ数秒にそれだけ早口で言って、少女はボーマンダを加速させた。
 トアルは、呼び止めることすらできなかった。
「ガブコ、おれらも加速しよう。“おいかぜ”」
 リィン、と偽笛の音階を上げて、フライゴンが風を味方に速度を上げる。ワタッコのフーコもいっしょに風に乗った。
 キュウ、とワタッコの声に後続を確認する。散々引っかき回して、ガブリアスを失ったカリーナが他の参加者にたかられていた。
「悪く思うなよ」
 元より、そのつもりのはずだ。
「フーコ、“わたほうし”、“にほんばれ”で元の位置に戻ってくれ」
 指示を受けたワタッコがそばを離れ、頭と両手のボンボンから白い綿毛を飛ばす。狙い通り、後続集団にまとわりつかせたワタッコは、“にほんばれ”と“ようりょくそ”を利用して、先行していたトアルとフライゴンに追いついた。
 またもや、“にほんばれ”の光が数秒保たずして陰った。これもエアロックの伝承に関係あるのだろうか。
「“りゅうのいぶき”!」
 生き残ったフライゴンの乗り手が、後ろから少女へ攻撃を仕掛けてきた。
 少女とボーマンダは気も負わずに待ち受ける。ボーマンダの背に同乗しているオオタチが“りゅうのいぶき”を吹いて押し勝った。
「“さきどり”か。“ものまね”“ふいうち”“このゆびとまれ”って、どういう意図なんだろうな」
 喋ったせいか、相手は標的をこちらに変えた。
「“ドラゴンクロー”!」
 直接攻撃。なら、ちょうどいいや、とトアルはワタッコに指示を出す。
「下、“いかりのこな”」
 高度を下げたワタッコに釣られて、相手のフライゴンも地面につっこんだ。当たる手前でひょいとかわして、相手方だけ地面にキスさせた。コースの横で、アイオラが相手の失格を告げる。
 ライバルたちの掃除は、こんなもんか。
 トアルは手綱を握り、先頭をひた走る少女に集中した。

「ついてくんな!」
 後ろを振り向いた少女は、そう言ってあっかんべーした。相変わらず、スケボー乗りのままだ。
 スケボー乗りだと足に負担がかかるし、第一危ない。エアロックまで、ボーマンダの体力が保っても、少女の体力が保つか不安だ。
「ちゃんと座って乗りなさい!」
「うるさいやい!」
 少女とトアルのやりあいに、コース横でアイオラがため息をつくのが聞こえた。
 アイオラのフライゴンは細身でスピードはあるが、パワーがない。レースに出たら乱戦負けするだろう。
 少女がじっと値踏みするような視線をアイオラとフライゴンに注いでいた。しかし、トアルの視線に気づくと、またふいと向こうを向いた。
「なあ」
「うるさいってば!」
 呼びかけも虚しく、一方的に拒否される。仕方ないか。最初に拒否したのは、トアルだ。
 三人はエアロックへ着々と進んでいく。前方の赤い一枚岩が、羽ばたきごとに、その威容を確かにしていく。エアロックは、岩だ。山のようなそれが、たった一つの岩であるという事実が、その岩肌と共に、重く目の前に鎮座していた。
 少女が蒼穹色の目をチラリとトアルに向ける。順位は変わらないまま、二人はゴールの目印の上を飛び越えた。
「ガブコ、おつかれ」
 フライゴンの偽笛の音が低く、小さく収斂していく。いつもは入れない範囲まで近づいたトアルは、エアロックの大きさを目近で見て、気を抜いていた。
 近くで見ると、エアロックが岩だということ、その重たさがまざまざと感じられる。トアルは地学は知らないが、それでも、手ですくえる土でできた山と、エアロックが別物だということは雰囲気で分かる。
 一固まりの、巨大な――蟻地獄の精霊。それが本当に、このエアロックと化したのだろうか。
「トアル、あの子が!」
 アイオラの悲鳴のような声に、トアルは現実にうち返った。
 屹立する岩肌に沿って、空色の竜が、真っ赤な翼をうち振るい飛んでいく。その背に白い少女をしがみつかせて。
 ゴールで待機していた村人たちは揃って、呆然と少女たちを見上げている。
「悪い、おれも行く!」
 一言告げた断りを遮るように、岩の攻撃が飛んできた。番人のイワパレスだ。
 とっさに二人をかばったフーコの体から力が抜けた。フーコをボールに戻し、そこでトアルは立ち往生した。
「構わない。あの子の親だ。行かせてやれ!」
 アイオラが番人たちを制止した。
「すまない、アイオラ」
「いいから行って」
 トアルはフライゴンの手綱を鳴らした。

 ピィン、と偽笛の音が可聴域と超音波のはざまに突入する。
 フライゴンは赤砂の大地を蹴ると、可聴域を超えて羽を振動させた。上昇姿勢に入る。トアルはフライゴンの背に伏せた。
 エアロックは大きい。立ちはだかる岩壁が、一向に途切れない。首を曲げる。赤い岩と空の境界を、地平線のように錯覚する。
 大地が消える。空へ抜けた。上昇から滞空に移ったフライゴンの背の上で、トアルも鞍に座り直した。
 赤い岩、その中心で。白の少女はボーマンダに立って空を見上げていた。
「おおい」
 伸ばした手も、呼びかけた声も、中途半端なところで消えた。名前のない虚しさは、トアルが一番よく知っているというのに。
「レックウザ、どこだ」
 少女の言葉に呼応するように、フライゴンのガブコが、リィンと偽笛の羽音を鳴らした。
 リィン、リィンと偽笛の音階が変わるたび、ガブコの体が不安定に上下する。何度も音階が変わり、それがフライゴンの歌だと気づいた時、トアルは言い伝えを思い出した。
「蟻地獄の精霊の息子が、呼ばう」
 答え合わせをするかのように、巨大な緑の龍が、トアルたちが今しがた来た方角から――西の空から、矢のようにエアロックに飛んできた。
 矢のように何者をも貫かんとする勢いながら、地面に突き刺さることなく、静止して中空でとぐろを巻いたその姿に、トアルはしばし、見惚れた。
 かの一続きもまた、エアロックのように巨大だった。蛇のように長い体はまた、太く、逞しくもある。裂けた口から吐く呼気が、そのたびにエアロックの空気を揺らす。体表に刻まれた黄金の輪のような模様は、脈動するように輝いている。だというのに、レックウザは、生とかけ離れたような浮遊感に包まれている。
 これが神か。
 少女もまた、圧倒されるようにレックウザを見上げていた。だがしかし、自ら頬を打って気を引き締める。
「神でもポケモンだ。レックウザ、私はお前をゲットする!」
 小さな子どもの精いっぱいの宣言に、レックウザはしかし、硫黄色の瞳をわずかに動かしたのみだった。
「ボーマンダ、“ドラゴンクロー”」
 少女を乗せたまま、ボーマンダが突進する。その腕にまとう緑の光は、ガブリアスの前では頼もしく見えても、レックウザの巨体の前では、豆電球も同然だった。
 緑の龍はボーマンダのドラゴンクローを受け止めた。微動だにしない。
「これで!」と少女がマスターボールを投げつける。
 当たった、はずだった。
 ボーマンダの首の長さの距離、いくら少女の細腕でも、届くはずだった。
 まるで空気が邪魔するように、マスターボールはレックウザの肌から数センチのところをコロリと転がって、そして、落ちていった。
「パン」と。岩とプラスチックとが当たって、割れる音がした。

 ボーマンダと少女が慌てて距離を取った。レックウザの裂けた口内に緑の光が宿る。
 まるでこれが本当のやり方だ、とでも言うように。さっきのドラゴンクローなど箸にも棒にもかからない、濃く、熱く、そして何よりも眩しい光が、レックウザから少女に向かって放たれた。
 危ない、とトアルが叫ぶ。その声を振り切って少女は“わざ”を叫ぶ。
「オオタチ“さきどり”!」
 ただ一撃でも、食らいつくためなのだと、トアルは気づく。
 オオタチがくわっと口を開けた。そこに溜まる光は“さきどり”で強まっているはずだが、それでもレックウザに遠く及ばない。
 格が違う。
 レックウザが口を閉じた。放たれた波導が少女に当たる前に霧散する。それでもその余波だけで、少女とボーマンダはこっぴどくはね飛ばされた。ボーマンダの体がスピンして、立ち乗りしていた少女の体がふわりと浮いた。
「あ」
 さっきの余波で、命綱がバッサリと切れていた。
 少女の手が空を掴む。
 オオタチがせめてもの足掻き、“そらをとぶ”の“ものまね”で少女のジャケットをくわえたが、真似事で浮力は稼げない。ジャケットが千切れて、オオタチだけが浮上した。
 白い少女が落ちていく。空が流す涙のように。
 ビィン、とひときわ鋭い偽笛が鳴った。
「ガブコ、“かぜおこし”!」
 娘の体を、ささやかな風が受け止めた。
 トアルは少女のそばにフライゴンを滑らせ、その手を掴み、引き上げた。少女はトアルにくっつくと、しおしおと縮こまった。「だからスケボーみたいな乗り方はやめろと言ったんだ」と説教の一つでもしたかったが、やめた。
「レックウザ、捕まえらんなかった」
「そうだな。かなわなかったな」
 トアルは彼女の背中をさすった。
「ボール壊れたから、もう無理」
「そうか」
 子どもは静かに涙を流していた。流していることに、子ども自身、気づいてない様子だ。
「妹、だいじょうぶかなあ?」
「分からない。でも、おれも探すよ」
「本当?」
 不安そうな蒼穹色の目に、トアルはできるだけ、勇ましく見えるように胸を張った。
「当然だろ。おれは君の……比翼の、親なんだから」
「比翼?」
「君の名前」
 トアルは頬を掻きつつ、由来を話した。
「一人だと飛べないけど、二人なら飛べる。そういう、意味だ」
 格好つけた上にはしょった理由だけど、彼女に似合うと思った。
 変かな? と聞くと、変だ、と子どもは答えた。
「でも、トアルがそう言うんなら、いい名前だよ」
「そう。良かった。比翼」
 名前を呼ぶと、子どもは――比翼はコロコロと笑った。

 レックウザは親子劇場に飽きたのか、グルリとその場で回ると、東へと飛び去っていった。去り際に一つ、ゲップを残して。
「ばっちぃ神様だな」
 東の方角にしっしっと手を振っていた比翼が、「あれ?」と空を見上げた。
「どうした、比翼? ……ああ」
 今まで青一色だった空に、灰色の雲が立ちこめている。冷たいものが顔に当たる。
 エアロックに久々に、雨がやってきた。


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