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  [No.3944] 夏の終わりに 投稿者:アナザーレッド   《URL》   投稿日:2016/08/07(Sun) 00:51:18   86clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:ホワイティ杯

 小さな四角い画面の中を冒険してから、僕の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。



+++ 夏の終わりに―Another RED― +++



 目が覚めたら、部屋の時計の短針は間もなく三を示そうとしていた。
 閉めっぱなしのカーテンの隙間から、夏の日差しが入り込んできて、足元まで蹴り飛ばしていた薄青のタオルケットに反射している。寝起きの目には光が痛くて、僕はもう一度カーテンをきっちりと閉め直した。
 枕に寝過ぎて痛む頭を預けて、ぼんやりと部屋を見渡す。見慣れた部屋。見慣れ過ぎた部屋。
 学校にも行かず、町に出ることもなく、毎日毎日同じ景色を眺めて過ごす。
 もうかれこれ、十年、僕はここからほとんど出ていない。

 ごろりと寝がえりを打って、一度伸びをして、ふと思い出して敷布団の角をめくる。
 出てきたのは、折りたためないけど画面はカラーの、クリアパープルのゲーム機。刺さっているのは、僕と同い年の、灰色のボディに赤いシールのカセット。
 そういえば昨日、いや今朝? 寝る前にやってて、いつどこまでやったかは覚えてないけど、いつからか染みついた習慣通り、敷布団の下に隠して夢の世界へ行ったんだ。

 僕が生まれた年に出たこのカセットは、僕の兄が置いていったものだ。
 まだ問題なく動くし記録も出来るから、僕はこのソフトばかりやっている。まあ、十年ほど前から、僕がこのシリーズの新作を買えていないせいもあるんだけども。
 電源を入れてみる。動かない。電池が切れている。どうやらいつも通り敷布団の下に入れたけれども、電源を切るのを忘れていたみたいだ。ああ、レポート書いてない。ま、いっか。またやり直せば。
 ベッドから起き上がり、勉強机の引き出しを漁る。電池、まだ在庫があったと思うけど。ACアダプタが何年か前に断線してから、電池しか使えないのがちょっと不便だ。充電式の奴、買おうかな。でも取説には充電式のは使うなって書いてあるんだよな。何でか知らないけど。
 しょうがない、電池はまたネットで注文しておこう。ああでも、最近電池ばっかり大量に買ってるから、そろそろ母さんに不審がられるかな。気をつけなきゃ。

 世界的に大流行したこのシリーズは、世代ごとに四季を表しているって説がある。
 リメイクして紅葉やらが増えた二作目は秋。製作者の春休みの思い出が込められてるって話のある三作目は春。雪に埋まった場所や町が出てくる四作目は冬。
 そして、シリーズ最初のこのソフトは、半袖短パンの男の子や麦わら帽子に虫取り網の少年がたくさん出てくるこのソフトは、夏。
 舞台を突然国外に移した次回作が、時間の流れと共に季節が移り変わるらしいっていうのも、そう考えるとちょっと興味深いかもしれない。
 まあ、あくまでも一部のプレーヤーの考察。確証はない。

 でも、僕はやっぱり、このソフトは「夏」だなあ、って思う。
 ゲーム内で直接季節が示されているわけじゃないんだけど、何だか、小学校の夏休みとか、その間の冒険とか、そんな感じ。
 だから僕は、それぞれのシリーズが四季を表しているという説、嫌いじゃない。

 このソフトの前の持ち主だった兄は、僕より五つ上で、優秀で、明るくて、そつがなくて、人当たりがよくて、僕とは全然違うタイプだった。
 僕がやっているこのソフトを、兄は発売された時から、つまりは僕が生まれた頃からやっていた。母さんは兄の事を溺愛していて、兄の欲しいものは大体買い与えていた。僕がこのソフトに初めて触れたのは、僕が六歳、兄が十一歳の頃、兄が世代を二つ下ったシリーズ新作に夢中になり、互換性のないこのシリーズをあまりやらなくなったからだ。
 そうやって、まあ、お下がりみたいな感じでやり始めたゲームだったけど、僕はそれはそれはまあ夢中になった。世間の流行から遅れること六年、小学校に通う前だった僕の周りでやってる子もそんなにいなかったけど、僕は一人で黙々と画面の中での冒険を楽しんだ。
 永遠の夏休みが閉じ込められた画面の中で、たくさんのポケモンを捕まえ、使役して、チャンピオンになる。
 そんな夢みたいなストーリーに、僕は夢中になった。

 大きくなったらポケモントレーナーになりたい、と僕は言った。
 母さんはため息をついて、兄さんもあんたと同じ頃、同じことを言っていたわよ、と言った。

 兄は母さんに愛されていた。僕が物心ついた頃から、母さんは兄に夢中だった。おかげで僕はほぼ無関心に扱われてきた。
 まあ、それについては別に今更どうこう言うことはない。羨ましい、と思ったことがないわけじゃないんだけど、何ていうか、まあ、今思えば兄も溺愛されているあの状態を喜んでいるわけじゃなかったかもしれないな、と思わないこともない。
 いや、やっぱわからない。ずっと兄の立ち位置を奪いたくて、母さんに愛されたくて、今も実はそう思ってるのかもしれない。

 母さん。そうだ、確か今日母さん、集会に行くって言ってたっけ。

 いつもと同じ時間なら、帰ってくるのは四時過ぎになるはずだ。今は三時ちょっとすぎ。テレビをつける絶好のチャンスじゃないか。今の時間なら、どっかのチャンネルでワイドショーだか情報バラエティーだかやってるはずだ。
 僕はベッドに座ってリモコンを取り、テレビの電源を入れ、チャンネルを適当な局に回した。女子アナか何かの甲高い声が部屋に響く。


「――さて、こちら、ハナダシティジムでは、今年も毎年恒例の、夏の終わりを飾る水ポケモンによるウォーターショーが……」


 女子アナの背後の大きなプールでは、プールサイドに作られたステージの中央で、オレンジ色の髪のジムリーダーがカメラに向かって手を振っているのが見える。そしてプールの中では、紫のヒトデや角を持った金魚が、水面から勢いよく飛び出しては空中に水滴や虹色の泡を撒き散らしている。水がかかった女子アナが、きゃあきゃあとまた甲高い声を上げる。
 僕は画面の向こう側の光景をぼんやりと眺める。オレンジ髪のジムリーダーがカメラの近くに寄ってくる。年の割にかなり若く見える。僕より十以上年上のはずだから、もう三十路は超えてるはずなんだけど。ハナダジムのウォーターショー、今週末までです、皆さん是非ハナダジムへお越しください、と水浸しの女子アナが視聴者に向けて手を振る。僕は小さくため息をついて、行けるもんならね、と心の中で呟いた。

 タマムシシティにあるゲームフリーク本社が、そのゲームを世に出したのは、ちょうど僕が生まれたのと同じ年のことだ。そのものずばり「ポケットモンスター」という名前。あんまり安直なネーミングで、最初は敬遠する人もいたらしい。
 しかし、このカントーに住む数多くのポケモンの、比較的正確な生息地を反映した登場。実在の人物と、実際に起こった事件を大胆に投影したストーリー。そして何より、あらゆるポケモンを捕まえることができ、全トレーナーの憧れである、ポケモンリーグのチャンピオンに昇り詰めるという夢。そんな内容が若者を中心に受け、爆発的に流行したそうだ。
 ゲームの主人公は十代の少年。同じ年頃の少年少女はトレーナーに憧れ、このソフトの発売からトレーナーの若年層化は一気に加速したという。初代の発売から二十年。今や十代前半でトレーナーとして旅立つことはごく一般的なこととなっており、あの頃感化された少年少女若者たちは、今のトレーナーたちを牽引するベテラントレーナーとなっている。

 僕の兄も、感化された一人だった。

 ガチャ、と玄関の扉が開く音がした。僕は瞬間的にテレビの電源を切った。危ない危ない。いつもより帰宅が早いじゃないか。
 扉一枚隔てたリビングから、ぱたぱたという足音とか紙の束を机に置く音とかが聞こえてくる。ややあってこんこんとノックする音がし、ただいま、という声と共に部屋の扉が開かれた。
 僕はベッドに座ったまま、おかえり、と気がない返事をした。母さんはいつも通り疲れた顔で笑って、僕のそばまで寄ってきた。

「テレビ、点けたりしてないわよね?」
「してないよ」

 僕がいつも通り嘘をつくと、母さんは満足そうに笑った。

「そうよね、テレビとかそういうのに耳を貸しちゃダメなのよ。だって誰も彼もむやみやたらとトレーナーを礼讃する言葉しか言わないものね。こんな社会おかしいわよね。だってトレーナーなんていいことなにもないものね。ほら、今日もトレーナー制度反対集会でお話聞いてきたのよ。今日お話ししてた人もね、娘さんを亡くしたんですって。ひどいわよね、こんなに辛い思いしてる人がたくさんいるのに、政府は全く話を聞いてくれないのよ。それでね、署名をまた集めたんだけどね……」

 早口でいつもと大体同じ内容をまくしたてる母さんの言葉を、僕はいつも通り聞き流した。

 僕の兄は僕が八歳の時、つまり十三歳の時、トレーナーとして旅に出た。
 母さんは最後まで反対していた。僕と兄の父親はどちらもポケモントレーナーで、母さんとは旅の途中にこの町へ来た時に出会ったらしい。僕と兄は父親違いで、二人とも父の顔を見たこともない。行きずりのトレーナーだった父親たちは母さんとの間に子供が出来たことも知らず、どこか知らないところへ行ってしまい、生死すらわからない。そんなのだから母さんはトレーナーというものをそもそもあまりよく思っていなかった。それに何より、母さんは兄を溺愛していたし、自分の目の届かないところに行かれるのは嫌だったのだろう。
 でも、小さい頃から兄の欲しいものは何でも与えてきた母さんは、最終的には兄の強い意志の前に屈した。毎日定時の連絡を入れることを条件に、トレーナーとしての旅を許した。兄は律儀に、毎日母さんへ電話をかけた。まあ、定時にかかってこなかったら母さんの方から電話かけてたんだけど。

 兄からの連絡が途絶えたのは、僕が十歳、兄が旅立って二年のことだった。
 母さんは半狂乱になって行方を探した。警察に日に何度も怒鳴りこみ、探偵のようなものに何件も通い詰め、自分の生活も時間もお金も僕のことも全て投げ捨てて兄を探した。

 連絡が入ったのは、僕が自分の食事を自分で用意するようになってから、三か月ほど経ってからだった。
 呼ばれて行った警察で、僕は結局、兄の顔を見ることはなかった。

 ポケモンセンターの利用記録やら目撃証言やら、そんなものから割り出した結果、兄はとある山に向かっていた。ゲームにも出てくる、ゲームを遊んだことのある人なら誰でも知っている場所だった。
 ただ、ゲームは、どこまで行ってもゲームなのだ。その場所の生態系をかなり正確に再現していると言われているあのシリーズでも、難易度という壁は突き崩せない。ゲームの序盤はレベルを低く、後半は高くせざるを得ない。登場させるポケモンだって、自然と限られてくる。
 そんな風に、ゲームを過信しすぎたトレーナーが、事故に巻き込まれることは珍しくないのだと、警察の人が言っていたことは覚えている。

 僕は結局、兄の顔を見ることはなかった。
 兄は、右手の手首から先しか見つからなかったからだ。

 溺愛した息子を亡くした母さんの嘆きは言うまでもない。葬式どころか四十九日が過ぎても、母さんはひたすら泣き続けていた。僕だって心が痛んだ。息子として、嘆き悲しむ母さんを見るのは辛かった。
 だけど、やっぱりあの時。あの時、僕の道は変わってしまった。

 愛する息子を亡くした母さんは、散々嘆き悲しんだ末、自分にはもうひとり息子がいることを思い出した。
 そして母さんは、これまでほぼ空気のように扱ってきた僕にすがって、こう言った。

「ねえ、あなたは。あなたはどこにも行かないわよね。お母さんのそばにいてくれるわよね」

 今更何を、と突っぱねることも出来ただろう。僕は身替わりじゃない、と怒ることも出来ただろう。
 だけど、憔悴しきった母さんを見てきた僕は、今まで母さんに愛されることのなかった僕は、弱々しく震える母さんの腕を、振り払うことが出来なかった。

 延々と続くいつも同じ内容の母の説教を聞き流しながら、僕は考える。
 もしあの時、あの腕を振り払っていたら。僕はこうやって十年もこの家に軟禁されることも、ポケモンやトレーナーの情報を発信し続けるテレビを隠れて見ることも、通販の荷物を逐一チェックされることも、兄をトレーナーの世界へ導いたあのゲームの新作を買うことが出来ないということもなかった。
 幼い頃夢見たトレーナーとして、この世界のどこかを旅していただろう。兄の遺したあのゲームの、永遠の夏の世界を旅している、赤い帽子の主人公と同じように。

 あの日、僕の夏は終わった。

 僕の時は、始まることのないまま終わった夏を置き去りにしたまま、この部屋の中で止まっている。

 定型の説教を終えた母さんは、これまたいつものように、僕にすがりついてうわごとのように何度もつぶやく。
 あなたはどこにも行かないわよね。お母さんのそばにいてくれるわよね。
 僕はそれに応えない。その無言を肯定と受け止め、母さんはそれで満足する。

 もし。もしも。僕が本当のことを言ったなら。

 僕が今でも、トレーナーになりたいと言ったなら。

 この人は、どんな反応をするのだろう。
 怒るだろうか。悲しむだろうか。それとも、僕は殺されるだろうか。
 二度とベッドから起き上がれないように足をもがれるかもしれない。五感を奪って、母さんなしでは生きられない体にされるかもしれない。十年も家から出ることのなかった僕だ。抵抗することもなく、母さんの好きにされるだろう。
 そうやって延々と考えていると、妙に愉快な気持ちが沸き立ってきて、僕は吐き捨てるように笑う。そしてその不気味な高揚感を抱いたまま、誰にも見つからないようこっそりと、小さな画面の中の夏の世界に飛び込むのだ。


 小さな四角い画面の中を冒険してから、僕の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。
 今も、それは変わっていない。






++++++


  [No.3946] 主人公にはなれないけれど 投稿者:アナザーレッド   《URL》   投稿日:2016/08/07(Sun) 00:52:40   120clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 小さな四角い画面の中を冒険してから、俺の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。



+++ 主人公にはなれないけれど +++



「おはようございまーす!」

 甲高い大きな声とともに、夏休みの小学生たちが、開けっぱなしの玄関から駆け込んでくる。はいおはよう、と俺は返す。我先にと受付に殺到する子供たちに、こら、順番に並べ、と声をかける。
 受講カードを確認し、手元の書類にスタンプを押していく。チェックが終わった子供たちはまた走って教室に入っていく。全く、子供の元気ってのはどっから湧いてくるんだろう。俺も昔はああだったのかね。
 押し寄せてくる子供たちを何とか捌いて、座学が始まる直前の時間くらいにようやく波が過ぎた。やれやれ、と俺はようやく一息ついて、酷使した左腕を回して凝りを取った。
 子供たちの殺到する夏休みのトレーナースクール。俺の仕事はその受付だ。

 ぽつぽつとやってくる遅刻の子や座学を取らない子たちの受付をやりつつ、諸々の書類の整理みたいな事務仕事をこなす。
 今日は確か、午前中は座学で、午後は隣町のスクールと合同で模擬バトルだったか。まだトレーナーカードを持ってない子たちに、教師陣が実際のバトルを間近で見せるイベント。
 バトルか。久しくやってないな。まあ、俺みたいなただの受付兼事務員みたいな奴には関係ないか。残念だけど。

 昼飯のサンドイッチをコーラで流し込んでいると、赤縁メガネをかけた教師が俺のところにやってきた。
 確かトレーナー経験あるよね? とメガネ教師は手を合わせて頭を下げてくる。

「すまない、今日やる予定だった模擬バトル、人数足りなくなったんだ。申し訳ないんだけど、よかったら出てくれないかな?」

 おっと、まさかバトルのお誘いが来るとは思わなかった。これは嬉しい誤算。
 いいっすよ、と俺は気の抜けたコーラを一気に片付け、机の上に置いていたボールを腰につけ、手袋をして、メガネ教師と一緒に中庭のバトル場へ向かった。





 10年前まで、俺はトレーナーとして旅をしていた。
 昔から憧れだった。きっかけは多分、小さい頃に買ってもらったゲームだと思う。
 トレーナーになって、ポケモンを連れて旅をして、巨悪を倒し、リーグのチャンピオンになる。幼いころの俺はすっかりはまりこんで、毎日夢中でゲームをプレイしていた。

 ゲームを手に入れたきっかけは、母親の妊娠だった。かまってあげる時間が少なくなるかもしれないからと、当時流行の兆しを見せていたそのゲームを、母親が買ってくれた。
 今思えば、母親は俺が望めば何でも買ってくれたけど、母親が率先して買い与えてくれたのは、あのゲームが最初で最後だったような気がする。
 だから、俺がトレーナーになったのは、ある意味母親がきっかけなのかもしれない。あまり認めたくはないけれど。

 その母親がゲームを買い与えてくれるきっかけになった弟のことは、俺はあまり好きではなかった。
 5つ下の弟は、根暗で、無口で、無表情で、いつもむすっとしていて、ノリが悪くて、俺とは全然違うタイプの人間だった。いつもじっとりとした目線で俺のことを見てきて、それが気持ち悪かった。言いたいことがあるなら言えばいいのに、といつも思っていた。
  そもそもの存在として、突然現れてどっかに消えた見知らぬ男の置き土産だ。正直思い入れも何もない。

 ただ、ふと思い出すことがある。
 俺がホウエン地方を舞台にしたシリーズをやり始めて、互換性がなくなって手をつけなくなった初代を弟に貸し与えた時のことだ。
 画質も悪く音もピコピコのそのゲームを、弟は夢中でプレイしていた。リビングの片隅で(弟は自分の部屋がなかったので、いつもリビングにいた)モノクロの画面を食い入るように見続けている姿が、今でも頭に浮かぶ。

 そんな弟に、楽しいか? と聞いたことがある。
 そうしたら弟は、普段の辛気臭い顔からは想像できないような笑顔で、目をキラキラさせ頬を紅潮させて、弾んだ声で言った。

「すっごく楽しい! 僕も将来トレーナーになりたいな!」

 そう言って顔を輝かせる弟を見て、ああ、こいつも将来はトレーナーになるんだろうな、と思った。そうしたら多分もう会うこともないだろうし、話をすることもないんだろうな。と。
 いつも死んだような顔だった弟が見せた記憶の中の唯一の笑顔を、ふとした瞬間に思いだすことがある。





 相手のポケモンが、フィールドに伏した。観戦していた子供たちが、一斉に歓声を上げる。
 久々のバトルだったが、幸いにも勝てた。受付って聞いて相手もちょっと油断してたのかもしれない。
 隣町の新人教師は、いやぁ参りました強いですね、と苦笑いする。周りの子供たちの拍手と称賛の声が心地いい。
 右手を差し出されたから、こちらも右手を出す。手袋に包まれたその手を握って、相手は俺の顔と手を何度も交互に見た。

「義手……なんですか。右手」

 昔、事故でね、と俺は曖昧に笑った。





 トレーナーになるのは、すんなりとはいかなかった。原因は主に母親だ。
 とにかく旅に出るなんて許さない、遠くに行くなんて認めない、の一点張りだった。母は昔から過保護すぎる所があったし、俺や弟の父親のこともあったから、難航するだろうな、とは最初から思っていた。結果的に、目標としていた11歳、ゲームの主人公と同い年での旅立ちより、2年も遅れることになってしまった。
 毎日19時に連絡を入れるように念押しされたが、それでもまあ旅に出られないよりはずっとましだった。

 旅に出て、色々なところに行って、色々な人と会って、色々なポケモンを見つけて、そうやって自分を見つめ直して、それでようやく気がついた。いや、多分気がついてはいたんだけれども、あまり考えないようにしていたのかもしれない。
 俺の家は異常だ。母さんの俺に対する執着も、弟に対する無関心さも。

 定時連絡を忘れると、1時間でも2時間でも鳴り続ける呼び出しの音と、電話口から聞こえてくるヒステリックな叫び声を聞く度、俺は今まで13年間も、こんな場所に縛られ続けていたのかと恐ろしくなった。


 そして、転機は10年前、旅を始めて2年経った頃に訪れた。
 ポケモンを探してとある山に行って、俺は突然何かのポケモンに襲われた。
 全身燃えるように痛くて、自分の右腕が宙を舞うのが見えて、何が何だかわからなくって、目の前が真っ暗になって。


 気がついたら、見知らぬ病院にいた。

 俺の手持ちが俺を守ろうと必死にテレポートを試みた結果、遠く離れた俺もよく知らない地方の座標へ飛ばされたらしい。身分を示すものも何もなく、謎の重傷者として何カ月か眠り続けていたそうだ。
 しばらくして、故郷では自分は死んだことになっている事を知った。右腕だけ残して失踪したのだから、そう判断されても無理はないだろう。

 でも、俺はそれを否定しなかった。
 解放されたような気がした。死んだことにすれば、俺がどこに行っても、何をやっても、追いかけられることはない。
 もう、毎晩19時に電話をかける必要はない。延々と呼び出され続けることもない。

 家を離れ、繋がりが切れ、俺はようやく自由になった。

 偶然の導きで、このトレーナースクールで働いている人と出会った。その人は俺の生い立ちと置かれている状況を知って、この国の永住権を取るのに尽力してくれた。幸いというか何というか、故郷で死んだことになっているので、実質戸籍なしみたいな状態になってて、むしろ申請はやりやすかったそうだ。俺が未成年なのも大きかったと思う。
 そういうわけで、ほぼ不法入国みたいなものだが、俺はこの地で全く新しい人生をやり直すことになった。

 困ったのは、手持ちポケモンたちの所有者登録が切れていたことだ。トレーナーカードに登録していたのが右手の指紋だけだったのは失敗だったと、この時だけは思った。どうせボールを扱うのは右手なんだから、ボールの指紋認証機能も右手だけあれば充分だろうとたかをくくっていた。虹彩認証も、手が使えない人が登録すればいいもんだと思っていた。
 自分の身にそういう事態が起こるとは、全く考えていなかった。甘い考えだった。
 ただ幸いだったのは、これまでずっと一緒にいたポケモンたちは、ボールの登録が消えても、俺を主人として認識してくれたことだ。おかげで今でも一緒に生活できている。


 だけど、トレーナーとしての俺の人生は、旅をして、大会に出て、いずれリーグで優勝するのが夢であるトレーナーとしての目標は、そこで終わった。
 もし何らかの大会に出て、テレビにでも映ったら。
 死んだことになっている俺が、見つかってしまったら。

 そう思うと、恐ろしくてトレーナーを続けることは出来なかった。

 ようやく手に入れた自由を、手放すわけにはいかなかった。





 もうじき授業時間も終わるという時間帯。中庭から建物に戻ってくると、そこら中の教室からざわざわという子供たちの不安そうな声が聞こえてきた。
 スクールの入口周辺から、何やら不穏な音や声が聞こえる。メガネ教師が難しそうな表情で、廊下の窓から外を見ていた。
 どうしたんですか、と俺が聞くと、メガネ教師は心底困った顔をした。

「トレーナー制度に反対してる人たちだよ。時々こういう施設に来て抗議活動とかしていくんだ」

 署名集めたり、いろいろやってるらしいよ、と教師は少しあきれ顔で言った。
 どれどれ、と俺は野次馬根性をのぞかせる。門扉は閉められ、警備員が必死におさえている。教師陣の一部も加勢しに走っていく。
 横断幕やプラカードを持った集団が、トレーナー制度撤廃、子供たちを脅威にさらすな、と大声で叫んでいる。
 集団の中にいるひとつの顔に、俺は全身の毛が逆立つのを感じた。背筋が絶対零度を受けたように冷たくなる。
 警備員に押さえられている女性。先頭でプラカードを持ち、大声をあげている。息子を返して、私の子供を返して、と何度も繰り返している。
 最後に会ってから12年、曖昧になった記憶の顔よりずいぶん老けた気がするが、それでも見間違えようがなかった。

 母親だ。

 ほんの一瞬、目があったような気がした。俺はとっさに物影に隠れた。動悸がした。冷や汗と震えが止まらなかった。大丈夫か、とメガネ教師が声をかけてきたが、その声はずいぶん遠くに感じた。
 まさか。まさか。こんなところにいるわけない。こんなに遠い地方に来たのに。追いかけてくるわけない。でも、見間違えるはずがない。
 ひときわ大きな声が集団から響く。周りが必死で取り押さえているような様子が物音から感じられる。

「今、息子がいた! 息子がいたの! 帰ってきてくれたのよ! 私のところに帰ってくてくれたのよ!!」

 俺は耳を抑えてうずくまる。
 違う。違う。俺じゃない。俺じゃないんだ。
 お前の「息子」は死んだんだ。もう帰ってこないんだ。
 何度も何度も、俺と同じ名前を呼ぶ声が、耳を塞ぐ手のすき間から刺さってくる。

「お母さん頑張れって応援してくれてるのよね!! あなたのためにお母さん頑張るわ!! あなたのためにトレーナーなんて失くしてあげる!!」

 違う。違う。そんなんじゃない。
 俺は、お前の「息子」は、そんなこと望んでいない。
 トレーナーになりたかった。トレーナーになって、幸せだった。

 家を出て、片腕を失って、死んだことになって、トレーナーとしての道を諦めて。
 そうやって俺はやっと、自由になったんだ。





 しばらくして騒動は終息し、日が暮れる頃には子供たちも全員無事にそれぞれの家に帰った。
 俺も事務室の戸締りをしてスクールを出る。家まで送ろうか、というメガネ教師の誘いにありがたく乗っかり、車の助手席に座る。
 警察で少し注意を受けたら、あの集団もすぐ解放されるだろうね、とメガネ教師は言った。そうだろうな、と俺はため息交じりに返し、鞄からピカチュウがぎっしり書かれたカバーの、2画面のゲーム機を取り出した。

「お、リメイクの?」
「ええ」
「新作も買うのか? まだ先だけど」
「そりゃまあ買いますよ。生徒に言っといてくださいよ。ゲームばっかり過信してちゃんと勉強しないと俺みたいになるぞ、って」

 そう言って、俺は手袋に包まれた右手をひらひらと振った。


 ボタンを連打してオープニングを飛ばしながら、ふと俺は弟のことを思いだした。
 そういえばあいつも今、こうやってゲームをやっているだろうか。同じように新作を心待ちにしているんだろうか。
 トレーナーになりたいと言ったあいつは、自由を手に入れただろうか。あいつはきっと俺と違って、すんなり旅に出られただろうな。

 いつかどこかの街で会うことがあったら、その時はゲームの話でもしようか、とぼんやり思った。



 小さな四角い画面の中を冒険してから、俺の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。
 その夢はもう終わったけれど、様々な犠牲を積み重ねて、俺は自由を謳歌している。








++++++++++
あとがき
作者のアナザーレッド氏は
「むしろ生きてる方が弟的にはより絶望感漂うと思って」
などと供述しており。