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  [No.3980] 軌跡の痕 投稿者:art_mr   投稿日:2017/03/06(Mon) 22:41:21   61clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

軌跡の痕

荒れた嵐の夜だった。
仄暗い厚雲が空のほとんどを埋め尽くし、雨が全てを押し流さんばかりの勢いで海に降り注いでいた。
許容量を遥かに超える水を含んだ海は盛大に荒れ、波はその背の高さを競い合うように荒れてぶつかり合い、その度に盛大な飛沫となって散った。
雨と風が猛り狂う怒号の中、時折雷もが加わり海へその光を放ち、周囲に瞬間的な残像を残す。
その残像に、一瞬だけ何かの影が浮かび上がった。それは小さな影だった。
広大な海と闇と嵐の中で、その姿は豆粒のように小さく、ともすれば瞬きをしたら消えてしまいそうだった。
その影は、何度も波に飲まれ、海に引きずり込まれながらも、その度、しぶとく海上に浮上してきた。

影の正体は人間の男だった。彼は海面から上半身だけを出した状態で、太い木の破片に両手でしがみついていた。
視界が殆ど効かないため、本人にははっきりとは見えていないが、男は左腕に大きな傷を負っていた。
裂けた傷跡はひっきりなしに海水に洗われ、絶えず血が流れ出るため段々と体が冷たくなっていく。
男は気の遠くなりそうな痛みに歯を食いしばりながら、唸っていた。
唸りながら必死に、意味をなさない言葉を叫んでいた。
しかしその叫びは、荒れた海の前には蚊の羽音にも匹敵しない。
そして、その言葉を理解してくれるであろう「人間」は、どこにも見当たらなかった。
再び叫んだとき、付近で大波同士が衝突し、その余波に男は再び海に引きずり込まれた。
重力が疲弊した体を包み込む。海の中は、殆ど視界が効かない割に海上の嵐が嘘のような静けさで、男の耳には自分の呼吸音だけが聞こえた。
意識を失いかけていた男は、鼻から入る水の塩辛さが粘膜にしみる感覚で、再び危機感を取り戻した。
このままではいけない。
必死に気力をかき集め、体の奥の残った力を絞り出す。寒さに感覚が麻痺しつつある身体に鞭打ち、手を動かす。水を掻き分ける。
少しずつ呼吸し、大事にしていた肺の中の空気を全部吐いてしまうと、男は水を飲み込まないよう息を止めた。
ただひたすら海面にたどり着くことに意識を集中した。
酸素不足に頭がくらくらしながらも、ひと掻きごとに身体を覆う重力から少しずつ解放され、男はなんとか再び海面へたどりついた。
偶然手近にあった漂流物にしがみつく。激しく咳き込んだ。むせながら、必死に酸素を胸に取り入れた。
生きている。
激しい雨に顔を打たれながら、男は鈍色の雲に覆われた暗闇を見上げた。
豪雨で殆ど塞がれた視界の中で、懸命に目を凝らした。
なにか、なにかないだろうか。この状況を突破できるものは。

しかし周囲には、荒れ狂う風と、激しい豪雨と、冷たい黒い波しかない。
誰もいない。
ふと男の心に隙ができた時、大きな波が再び襲ってきた。
男は右腕で自分を守るような形のまま、またもや海に容赦なく引きずり込まれた。

ーー

「昨日の嵐は凄かったね」
皿とフライパンを挟んで向かいあった同期が呟いた。
彼女は口を開きながら、視線は先ほど綺麗に盛り付けたニンジンから外さない。
視線を据えたまま、スプーンで上から器用にドレッシングを垂らす。
「誰か何か悪いことしたのかもね」
彼女はそう続けながら、続いてサラダボウルから水菜を選り分け、ニンジンの傍に盛り付けた。
そんな同期の様子をちらちらと見ながら、少女は自分の前にあるフライパンに目を配っている。
バターの上に乗せたピンク色の肉はやがて火が通り、脂と肉の焼けた香ばしい匂いが厨房を満たした。
がりがりと粗挽きの塩と胡椒をその肉にふりかけ、バンの上にその肉を乗せる。
レタスを乗せ、紫タマネギを乗せ、もう一つフタ代わりのバンを乗せて、上から旗を模した爪楊枝を刺す。
ホテル特製、牛肉百パーセントバーガーの出来上がりだ。

海に浮かぶ小さな村の、リゾートホテルの厨房だった。
村の建物は木にヤシの葉の屋根を組み合わせた木造の平屋建て、道も丸太を二つ組み合わせただけの簡素なもので、一時間もあれば一周できてしまう。
噂では村全体がサニーゴというポケモンの上に浮いているという説もあるらしいが、少女はそれを確認できていない。
とにかく、その村の二大産業は漁と観光であり、十六歳の少女は後者のリゾートホテルで働いている。
チヒロ、と同期が少女の名を呼んだ。
「そのバーガーを作ったら今日は終わりだね」
「うん」
チヒロと呼ばれた少女はそう答えながら、既にエプロンを脱いでいた。厨房の脇にあるロッカーにそれをしまい込み、
「じゃあ、一足お先に。また明日ね」
「うん。また明日」
カバンを背負って、チヒロは厨房の裏手から家への道を歩き出した。

昨日の嵐の水を吸ったからだろうか、チヒロの素足から伝わって来る丸太の感触がいつもよりひんやりと冷たく、沈みが遅い。
帰り道のそこかしこで、近所の人が浮いている木の破片やヤシの葉を片付けていた。
チヒロの祖父母や両親は「誰かが何か悪さをした」とか、「よくないものが近づいてきている」と昨日の嵐を形容した。
同期もおそらく同じ考えだろう。
ただ、かなり信心深い人の多い村に生を受けていながらも、チヒロ自身はあまり昔話や神仏の類を信じていない。
信じていないのだが、ではなぜそうなるのかといわれると困る。だからそういう話になると、きまっていつも静かにしていた。

チヒロの家はホテルから歩いておよそ十五分、自分の実家から丸太数本を挟んだほど近い場所にある。
それはチヒロ専用の小さな家で、学校を出てリゾートホテルに就職した際、親戚のおじさんたちが作ってくれたものだった。
一部屋しかない小さな作りだが、天井が高いせいか意外にも広く、大きな窓が日光をふんだんに取り入れるため、部屋は明るい。
チヒロにとって最も心が落ち着く安らぎの空間だ。
カバンをおもむろに床に置くと、チヒロは小さな本棚の隙間から一冊の本を取り出した。
表紙は黄ばみ、端は何カ所も敗れ、頁も所々黒ずんでいる。それは写真集だった。
チヒロはページをめくった。
彼方まで広がる柔らかな草原の真ん中を、大きなバケツを持った幼い少年とポケモンが歩いている写真。
橙の地に黒の縞模様、ふさふさとしたクリーム色の尾を持つポケモンもまだ小さく、少年の膝ほどの背丈しかない。
写真の左側から早朝の光が差し込んで、濡れた草の露がキラキラと煌めき、
太陽の薄い光が彼らの行く先を眩しく輝かせている。
写真の右奥では、大きなピンク色のポケモンが草を食んでいた。彼らはきっと、そのポケモンの乳を取りに行くのだろう。

ページをめくる。
灰色の小さな石が綺麗に並べられている隅で、おじいさんが跪いて手を合わせている写真。
傍らには線香とお花が置かれている。並んだ灰色の石が石碑だということくらいは、大地のない地に住むチヒロにもわかる。
おじいさんの大事にしている誰かが亡くなってしまったのだろうか。

いくつかのお気に入りの写真の中で、チヒロが最も好きなものは真ん中あたりの何気ない一ページだ。
目をこらす毎に新しい発見があり、何度そのページを見直しても飽きない。
背の高い、無機質のコンクリートビルが群をなしてそびえ立っている写真だった。黒いもの、白いもの、灰色のもの、大きな窓のもの、細長い窓のもの。
どっしり太く見るからに頑丈そうなものもあれば、ほぼガラス張りの近代的なものもある。そんな写真だった。
窓の明かりがついているところ、ついていないところ。白熱灯の強い光が漏れ出ている中に、橙色の淡い光がぼんやり浮かんでいるところもある。
窓の中をよく見ると、その奥に人の影がある。タバコを吸い一人でくつろぐ人の影。テーブルを囲んで議論しているような何人もの影。
人工的で冷たい大きな建物の中には、たくさんの息が通った人たちが働いている。
その一人一人は何を考えているのだろう。家族や、恋人は。ついている職業は。住んでいるところは。それを想像するだけで胸が否応なく高鳴る。
私もこんなかっこいい所で働きたい、とチヒロは思っていた。いつの日かここを出て、働きたい、と。

ガタッ……

突然の物音に、チヒロは瞬間的に本を閉じた。緊張がやや遅れてやってきて、体が沸騰したように熱くなる。
逸る鼓動を理性で押さえつけて、本をそっと元の場所へ戻す。どうか、ばれていませんように。
祈るような気持ちで周囲を見渡す。
チヒロの住む村では、基本的に村の外に出ていく人はいない。誰かが出るとなると村中の噂の種になり、酷い時には存在ごと無視されるらしい。
幸か不幸か、チヒロはまだその光景を見たことがない。しかし、先ほどの写真集も見つかればどう解釈されるかわからない。
それは勤務先のリゾートホテルにある、観光客用図書エリアからくすねているものだった。

時間の経過と比例するようにチヒロの心は落ち着き、十分もした頃には物音の原因を探るべく、そっと玄関のドアを開けていた。
誰もいない。
部屋の中に戻り、窓から顔を出してみる。海と家以外には何も見えなかったが、ふと下を覗き込んだ。何かがいた。
「ぎゃっ!!」
その正体を確かめる前にチヒロは壊れんばかりの勢いで窓を閉めた。
もう一度時間をおいて自分を落ち着かせ、ガラスに顔を押し付けながら下を覗いた。
ほとんどボロ切れのような服しか身にまとっていない、謎の誰かが座り込んでいる。
うつむいているので歳や性別、もちろん表情はなにもわからなかった。
ただ、その左手や左腕には包帯が巻かれていた。左腕の真ん中あたりから血が染み出し、包帯が一部赤く染まっている。

怪我を、しているのか……
下を向いてはいるものの、その人が生きていることは、呼吸に合わせてかすかに上下している様子で分かった。
起きているようにも寝ているようにも、痛くてあえいでいるようにも見える。しかし窓が閉じられているため音が聞こえてこない。
チヒロは素早く自問自答した。助けるべきか否か。少し迷ったた末、否に傾いた。
いくら酷い怪我をしていると言っても、自分は女の一人暮らしである。見知らぬ人を家に入れて襲われないとも限らない。
知らんぷりが一番。関わらない方が楽。早くどこかに行ってくれればいいのに。何も見なかったことにしたいから。
チヒロは夕飯の準備を始めた。

しかし。
あの人大丈夫かな……。
夕飯は昨晩作ったシチューを温めたものだった。
だが、好きなテレビをつけても頭に何も入ってこない。心なしかシチューの味もよく分からなくなる。
自分でも分かっていた。外に座っている人のことが頭について離れず、何にも集中できなかった。ため息をつく。
あの人怪我してたな……死んじゃったら、どうしよう。

狭い村である。困った人に対してはもちろん、困っていない人にまでおせっかいを焼く文化で育っている。
その育ちゆえ、家の裏に座り込む人を無視することは、身の危険を考えるよりもチヒロには難しかった。
窓に手と顔を押し付けて、もう一度外を覗き込んだ。
果たしてその人はまだ同じ場所におり、気のせいだろうか、さっきよりもへたりこんで元気がないように見えた。
夕方の薄い光の中で、包帯の巻かれた所に滲む血が不気味にどす黒くみえる。赤く染まった部分が確実に広がっているようだった。

チヒロはやがて観念し、立ち上がり、震える手で新しい器にシチューを盛った。
勇気を奮い起こし玄関の扉を開け、窓がある家の裏手に回った。
「あの……大丈夫ですか。お腹空いていたらこれ、食べてください」
ずっと下を向いていたその人が、チヒロの声にゆっくりと顔を上げた。
その顔の左半分は包帯で覆われていた。しかし、右半分から覗く素顔と髭で、その人間が男だということは分かった。
無数のあざや擦り傷でその右半分の顔も傷だらけだった。
ただ、チヒロはこの人を勝手に老人だと思い込んでいたのだが、意外にも想像していたよりもかなり若く、
まだ二十代後半、せいぜい三十代に見えた。
男は焦点の合わない目を瞬かせながら、震える右腕をゆっくり差し出した。
チヒロは皿をそろそろと男の手に乗せた。まるで傷ついた動物に、餌をあげているみたいだ。そんなことを思った。
男はシチューを太ももにゆっくりと乗せ、無理に体をねじり、ゆっくりゆっくり、右手にもったスプーンでシチューを口に運んだ。
まるで生まれたばかりのロボットのようなぎこちなさだった。
だんだんとチヒロはこの身元不明の傷ついた男が哀れになり、彼が食べ終わったのを見計らって、
「よかったらうちに来ませんか。少なくとも、外に座っているよりは体が楽になると思います」
そう提案すると、男はコクリと頷いた。

家に招き入れると、チヒロは男に湯船を勧め、ベッドを譲り、自分は少し離れた床に客用の布団を敷いて横になった。
ベッドを見上げて男の様子を確認する。男はしばらくもそもそと動いていたが、やがて、静かに寝息をたてて眠りについた。
耳で男の呼吸を感じながら、チヒロは天井を見上げて考えていた。
あの男は病院から脱走してきたのだ。ベッドを勧めた時に、男のあのぼろぼろの衣服に書かれていたタグを見てしまった。
それは医療用のものだった。
何のために逃げたんだろう。腕からまだ血が出ているのに、あんなに不自由な体なのに。
何か事件を起こしてしまったのだろうか。それとも病院が嫌いでたまらないのか。
分からない、分からないと思いながら、答えの出ない問いを並べてはまた、分からない、分からないとチヒロは自問自答を繰り返した。
いつの間にか、眠りに落ちていた。

ーー

小さな控室の端に置いてある折りたたみ椅子に、一人の男が座っていた。
中肉中背の、黒い短髪、浅黒い肌をした青年だった。まだ若く、年の頃は十七、八といったところだろうか。
緊張しているのか、その男の体は小刻みに震えていた。
膝の上で手を拳に握り、開きを繰り返す。それを何度か繰り返し、手に滲んだ汗を衣服で拭う。
時折腰元につけた紅白のボールに左手をかざし、詰めている息を長く吐き出し、深呼吸した。目を閉じる。

やがて、足音が近づいてきた。男は目をつむったまま、それを耳で聞いていた。
足音は部屋の外で止まり、ノックの後に控室のドアが開いた。
腕に腕章をつけた係員の男が部屋に体を半分入れ、男の名を呼ぶ。
「出番です、◯◯さん」
男は目をゆっくりと開いた。先ほどまでの姿が嘘のような、力強い覚悟を宿した瞳で相手を見返し、
ハイッ、と張りのある声で返答、席を立った。

係員に続いて薄暗い通路を進みながら、男は一度詰めていた息を吐き出した。息を深く吸い込むと、酸素が通った頭が再び活動を始めた。
通路にカツカツと二人分の靴音が反響する。階段を降り、通路を右に左にしばらく進むと、行く手の前方から光が漏れていた。
ついにはじまる、と男は呟いた。先ほどからずっと高鳴っている心臓が一度、キュッと縮む。
腰につけた六つのボールがカタカタと揺れた。男は左手をボールに当てて、大丈夫、と呟いた。
お前達も緊張してるんだろう? 僕もだよ。今までやってきたことをやれば大丈夫だよ。
係員が分厚いドアに手をかけた。その扉を開ける隙間から防音が解かれ、強い光と歓声が溢れて聞こえてくる。
扉を開け放った瞬間、眩いスタジアムの光が、地鳴りのような歓声が、圧倒的な光の向かい風となって男を包み込んだ。

あの頃、男は何かに憑かれたようにがむしゃらに練習していた。
焦がれるような、強くなりたい、強くなりたい、という感情は泉のように湧き出て片時も果てなかった。
寝ても醒めてもその信念は、絶えることなく男の中で燃料不要の炎のように輝き続けた。
もっともそれはいっぱしのポケモントレーナーである者ならば、ほとんど誰もが抱いている共通の気持ちである。
男が他の人と少し違っている点があるとすれば、それは帰る故郷がないことだった。
強くなるまで帰らないと自分で決めた訳でも、故郷が焼けた訳でもない。
ポケモントレーナーになると決めて旅立った時点で、男の存在は故郷から抹消されたのだ。

ーー

卵を割り、コンロの上に置いた丸い小さなフライパンの中に落とし込む。
前もって温めておいた米をお椀にもり、細切れ肉、細切り野菜とアボカドを順番に乗せていく。
乗せて何秒も経たないうちに目玉焼きが出来上がる。フライパンからスライドさせて、ご飯を乗せた器の上に乗せる。
リゾートホテル特製丼ぶりのできあがりだ。
あくまで視線は料理に集中させながらも、チヒロの頭の中は全く違うことを考えている。

昨日明け方近くに、チヒロは男の唸り声で突然目を覚ました。すぐに手元の照明をつけて男に近寄った。
男は全身にひどく汗をかいており、短く浅い呼吸をしていた。上気した頬がかなり熱かった。
腕の包帯に目をやると、その大部分が真っ赤な血で染まっていた。傷口が開いたのかもしれない。
チヒロはなるべく物音を立てないようにしながら、救急箱からガーゼと包帯を取り出した。
男に近づき、恐る恐る怪我をした方の腕をとると、男は朦朧としながら薄く瞼を開いた。
大丈夫ですよ、とチヒロは男に向かって呼びかけた。
こんなところでビビってちゃだめだ。安心させてあげないと。
一息置いて、腕に張り付いている包帯をゆっくり剥がしはじめた。
血で張り付いた部分を剥がす際に時折包帯がひっかかり、その度に男がびく、と身じろぎした。
チヒロの額から汗が流れた。慎重に、丁寧に。勇気を持ってやらないといけない。
仕事の時とは比べものにならないくらいの集中力が必要だった。

やがて、赤黒く染まった腕の全貌が顕になった。前腕から肘にかけて深い傷があり、縫った後がホチキスで止められていた。
そこが開いてしまっていたのだ。
チヒロは心の底から目を逸らしたい衝動にかられながらも、意を決して、そっと傷口の周りを消毒液で拭った。
瞬間、男が身を裂かれたような悲痛な声をあげて、強く体をよじった。チヒロは驚いて飛びのいた拍子に尻餅をついた。
座り込んだ姿勢そのままで、ベッドの上にいる男を見つめた。
男はもぞもぞと体を苦しそうに動かしながら、くう、うう、と抑えきれない悲鳴を漏らしていた。
やっぱり、どう考えても痛いよね。あんなに血がでているんだもの。
チヒロはベッドの側まで行き、男を覗き込んだ。
それに気がついた男はゆっくりと汗まみれの顔を上げ、チヒロを見た。ただその目は酷く恐怖に怯えていた。
「ごめんなさい、うなされていたから。包帯を替えようと思って」
チヒロが言い訳するようにそう口にすると、男は目をそらした。とめどなく流れる汗を拭おうともせず窓の外を見ていたが、やがて再び目を閉じ眠りに落ちた。
チヒロは清潔な包帯を男の腕に巻き直すと、わずかな睡眠を貪るようにまた、同じく眠りについた。

ーー

キッチンのカウンターから、ホール係が顔を出した。
チヒロはカウンターの向こう側から、特製丼とハンバーガーを揃えて出す。係は皿のそれぞれを右手と左手で取り、
新たに白身魚のカルパッチョをオーダーした。
同期が早速、白身魚の調理に取り掛かる。チヒロはそれに添える野菜を求め、冷蔵庫へ向かった。
手慣れた作業をこなしながら、ずっと、どうしたらあの男の傷が早く治るかを考えていた。次の日も。そのまた次の日も。

あっという間に一週間が経過した。その間、男の容体は一進一退を繰り返した。
初日以降男は何日も高熱にうなされ、ひどく汗をかいてずっと寝込んでいた。
初めはこそチヒロが腕を消毒すると飛び上がっていた男も、何回か繰り返すうちに諦めたのか、歯を食いしばって黙っているだけになった。
チヒロは帰ってくると夕飯を作り、男と一緒に食べた。
男は殆ど言葉を喋らなかったしずっと寝込んでいたので、チヒロは人間というよりも、なにか動物を拾った気持ちになっていた。

チヒロが帰宅すると、男は大抵ベッドの中で疲れて眠っているか、痛みで眠れず耐えているかのどちらかであることが多かった。
しかしチヒロが毎日包帯を取り替え、滋養のある食事を工夫し、熱を出す男の汗を拭いているうちに少しずつ、回復の兆しが見え始めた。
そしてついに、ある日チヒロが帰宅すると、男の様子に明らかな変化があった。
男は上半身を起こした状態で、ベッドの側にある窓から西に沈んでいく大きな夕日を見つめていた。
チヒロは黙って男を見守った。
燃えるような橙色が海の上で神秘的に揺らぎ、ゆっくりゆっくりと沈み、紫色の夜へと変化していった。
男はずっと黙ったままその変化を身じろぎせずに見つめていた。その瞳は一つの山を越えたような静かな目をしていた。

その晩、父や兄達が長い漁から帰宅した。村のもう一つの主産業である漁業には、チヒロの家では父の他に兄二人が従事している。
鯛や鮪などの魚が台所に所狭しと運び込まれ、豪快な刺身盛り合わせとなって食卓に登場した。
その他にも大量の野菜の煮物、牛すき焼きなど、普段一品をすするだけのチヒロでは考えられないような豪勢な食事が並ぶ。
元々色黒の上にさらに日焼けした父や兄達は食べ物を口いっぱいに頬張り、漁の話をした。
「なかなか獲れねぇ日もあったが、でも、一日中メチャクチャ獲れた日もあってなぁ。なんか、海全体が焦ってるみたいだったさ」
「バンバン、バンバン網に魚が飛び込んでくるのは良いんだけど、間違って飛び込んできちまったみたいでな」
「なんでかな、と思っとったら、次の日大嵐が来たんでさあ。ありゃ、びっくりしたなあ」

大嵐は父達の乗る船のそばでもあったのか、とチヒロはご飯を咀嚼しながら思っていたが、
「こっちでもかなり激しい嵐が来たんよ。なあ、ばあちゃん」
チヒロの母が言った。
「そうさ、きっと誰かが何か悪さをしたから、こんな嵐が来たんだろうねぇ。たたりさね」
「まぁまぁ、そのおかげでこっちは大漁だったんだからいいさ」
父が日本酒を豪快に飲み干しながら話を一旦締めた。
「ところで、トクサネに魚を卸に行った時、話を聞いたんだけど」
二番目の兄がビールを飲みながら、急に口火を切った。チヒロの心臓は跳ね上がった。
「町に酷い状態で倒れていた人が、少しして病院から脱走したらしいんだよ」
「どんな?」
「なんでも見つかった時は全身びしょ濡れで、傷だらけ泥だらけですごい怪我してて、全然動ける状態じゃないのに急に居なくなったって」
「いやぁねぇ。何か悪い人なんでないの?」
「俺もそう思ったんだけどね。仲間に連れ去られたか、敵に連れ去られたか。
 でも、トクサネとしては近隣の島々には、その人が潜伏している可能性があるから気をつけてくださいって言ってると」
「物騒だわな」
「幽霊だったのかもよ」
「いやねぇ」
チヒロは黙って、すき焼きに手を伸ばした。自分の家で一人、スープをゆっくり口に運ぶ、男の姿が鮮明に目に浮かぶ。

ーー

山を切り開いて均した一角に、車を駐車するためのスペースが設けられている。
日はまだ早く空気も澄んで、時間が早いため車は一台も駐められていない。そこには車ではなく、なぜか等間隔で十数個の丸太が並べられていた。
その丸太を正面にして、数十メートル離れたところに男が一人立っている。年の頃は二十前後だろうか。
男は目を閉じ軽く息を吐き出すと、再び目を開いた。腰に備え付けた紅白のボールのうち一つが、カタカタと揺れる。男はそれを掴み、
「アカ、連続切りいくぞ!」
勢いよく投げられたボールは丸太に当たる直前に二つに割れ、ボンッという音とともに薄い白煙がなびいた。
その煙を切り裂いて、赤い閃光が飛び出した。背に生えた透明な羽をピタリと寝かせ、一本の矢のように真っ直ぐ飛んでいく。空気が唸る。
「イチ!」
男が声を発したタイミングで、右の鋏が丸太を真っ二つに折った。
「ニ!」
左の鋏をわずかに上げて、こちらは縦半分に砕く。アカと呼ばれたハッサムはさらに加速して丸太の並ぶ道を突き進み、
最後まで来た所でくるりと宙返りした。ジジジッ、と羽音が空気を震わせる。
「サン、シ!」
アカは男の息に耳を澄まし、声のタイミングで、二つ同時に丸太を斬った。丸太が地に落ちたと同時に、自分も地面に足をつけ、
くるりと方向転換し、まだ残っている丸太の方向へ羽を向けた。
そんな要領で十数本の丸太を全部粉々にすると、男はアカとそれを全部かき集め、薪置き場へ放った。


「技の威力と、命中率を上げたいんだよなあ」
海の上である。ゆっくりと力強く前進する巨大なくじらポケモンの背に寝転がり、強力な直射日光から目をかばいながら、男はそう呟いていた。
「同じ技でも、もっと重い、強い攻撃を。もっと早い、軽いスピードで」
ごろりとその背で横になる。男の視界の少し下では海面がゆらゆらと波立っている。
「なぁ、どうしたら良いと思う? オイズ」
オイズと呼ばれた大きなくじらポケモン、ホエルオーは、答える代わりにクオオォ、とくぐもった響きを上げた。
しばし海上を進むと、男は前方に小さな岩場がたくさん並んでいることに気がついた。
タマザラシやトドゼルガがゆったりと日光浴をしている。その少し離れた岩場には、偶然だろうか一匹もポケモンがいなかった。
カタカタと男の腰についているボールが一つ、元気よく揺れた。まるでさっきの男の質問に答えたいかのように。
男はホエルオーの背中でおもむろに立ち上がると、腰のボールを先ほどの岩場に向かって投げた。
「行けっ、ガムラ!!」
一直線に弧を描き、紅白のボールが岩場に向かって放たれる。その中から、がっちりとした体にたくましい手足をもつポケモンが現れた。
体全体は茶色だが、耳と腹回りだけが黄色い。腹部に袋があり、その中にさらに小さなポケモンが顔を覗かせていた。
ガムラと呼ばれたそのガルーラは、男の方をやる気に満ちた瞳で見返すと、右手の拳を高々と天に突き上げた。
「メガトンパンチ!!」
全てのエネルギーを右拳に凝縮したガルーラが、それを足元の岩場に叩きつける。
その瞬間、辺りに凄まじい衝撃音が轟いた。辺りの岩場という岩場に亀裂が入り、タマザラシやトドゼルガが、裂け目に飲まれる前に逃げ出そうと
あたふたと水中に逃げ込んでいく。それを見た男が快哉を叫ぶ。
「そう! そうなんだ!! こういう威力が欲しいんだ!」
水中を泳いでいたガルーラは、男の戻れ、の一声で紅白のボールにまた吸い込まれていく。


満員の歓声が地鳴りのように轟くスタジアムの中に、二人の人間が対峙している。
その片方に、あの時駐車場で丸太を切っていた男が立っていた。
手持ちの六体の内五体は勝負がつき、残すはお互いの一体のみ。
男は最後に残したボールに手をかけた。
その中身は、初めて故郷を出た時からずっと苦楽を共にしてきた、一番の盟友だった。

十七年前、まだホエルコだった彼のその丸い背に跨って村を出た。海を進み、島々を巡り旅をした。
陸地に入ると海岸沿いを歩いて旅を続けた。少年だった男は背も伸び、仲間のポケモンも増え、
いつしか最初のパートナーは見上げるほど巨大な、うきくじらポケモンへと変貌を遂げたのだった。
旅を続けながら勉強を続けた青年は、やがて、一つの信念を抱くようになった。
強いと推されるポケモンを使わないこと。その代わり、技の命中率や精度、威力をあげることに心血を注ぐこと。
少ない力で最大のダメージを与えられるような戦いをすること。

その信念を貫きながら練習、対戦を続けて十数年、今青年はスタジアムの中に立っている。
ポケモントレーナーである誰もが、万人が憧れるポケモンリーグの最高峰、準決勝であった。勝った者が決勝に進む権利を獲得できる。
相手は三つの頭を持つ、空を飛ぶ竜。どちらも相性的には互角、どちらかが優勢ということはない。

ただ、圧倒的に不利なのは青年の方だった。
青年も、そしておそらく観客もほとんど全員が気がついているだろう。
ホエルコの相手はサザンドラだ。圧倒的な攻撃力と共に、龍属性の持つ頑丈さ、加えて空を自在に飛べる大きな翼をもつ。
ホエルコは大きな体故、体力はあるが素早さは遅く、耐久力はさほど高くない。生半可な技では倒せないのは明白だった。
青年が旧友に対して強化してきたのは、先制できる相手ならば潮吹きで相手を鎮めること、できなければ、
白い霧などの補助技を用いて相手の威力を下げ、その隙をついてハイドロポンプで押すことだ。あまごいで自分の技の威力を上げてもいい。

でもそれはあくまで、技を受けてもこいつが倒されない場合だ。青年はそう思う。
一撃で、例えば流星群であっけなく倒れてしまうかもしれない。

向かい合うスタジアムのフィールドの彼方で、相手のトレーナーが手を挙げた。技名を叫びながらこちらを指差す。
その声に応えるサザンドラの口内に、深い青色のエネルギーが生成される。
青年には全ての動きがスローモーションのようにゆっくりと見えた。
自分の相棒であるホエルオーを見、目を合わせ、技名を告げる。

信念とか、努力とか、そんなものは関係ないのだ。全てのバトルは、二者のうちより強い方が勝つ。それだけだ。
例え戦う場が道端でもリーグでも、根本的な部分は何も変わらない。
今まで何をしてきたか、何を背負っているか、今どんな状態にあるか、過去は何一つ関係ない。
強者だけが進める。より一層の高みへと。

ホエルオーが体内に溜め込んだ水のエネルギーが、渦潮のような音を立てて青年の耳まで届く。
間に合わないと直感した青年は、心の中で祈った。間に合ってくれ。耐えてくれ、オイズ。
だがまだホエルオーがエネルギーを貯めているうちに、サザンドラの口から光が発射されたのが見えた。
流星群。瞬く星のような光が練り上げられ、凄まじい光量でホエルオーと青年を飲み込んだ。
そのまま焼かれそうな圧倒的な輝きの中で、青年は目をかばいながらオイズに目をやった。
オイズは青年の方を見る余裕もなく、光に飲まれ、横転し、ドウゥンとものすごい地響きを立てて倒れた。

光が止んだ瞬間、一人一人のさざめきがスタジアム中に歓声となって広がった。
動かない相棒をボールに戻し、青年は観客を見上げた。皆が拍手をしている。立ち上がっている人もいた。
青年の胸を様々な思いがよぎったが、ひとまずそれを全部押し殺し、規則通り勝者と握手を交わした。
歓声がより一層大きくなる。

ずっと、強くなりたいと思ってきた。誰にも負けないくらいに強くなりたいと思っていた。
その思いを、自分とともに歩んできた仲間たちで成し遂げたい。それが青年の夢だった。

次の試合が始まり、観客の歓声が溢れるスタジアムを背にしながら、青年は考えを巡らせていた。
そもそも僕はなんで、強くなりたいと思っていたんだろう。
なぜ、強いポケモンを選ばないで自分の仲間たちで挑みたいと、そんなことを考えるようになったんだろう。
宿に着いてからも、ベッドの上で大の字になりながら青年はその答えを探そうと記憶を掘り起こしていた。

泣きながら旅だった。ポケモン達以外に誰も自分の夢に賛成してくれる人がいなかったから。
それは両親の反対などというレベルではなく、家族から村の人達からほぼ全員に自分の存在を無視された。
旅立つと告げただけで瞬く間にそうなった。
村の役に立たない人間などいらない。出て行くなら帰ってくるな。
そんな無言の圧力を一身に浴び、ひどく傷つき、でも、それでもその夢を捨てることができなかった。
帰れるはずもない場所、僅かな記憶にのみ残る場所、それが青年にとっての故郷だった。

それなりには上り詰めたリーグ挑戦が終わり、青年の頭には一つの考えだけが残った。
故郷に帰りたい。
ずっと心の奥で星のように輝き続け、片時も迷うことのなかった強さへの執着心、
それがポケモンリーグを三位で終えたその瞬間、流れ星のように急激に消えてなくなったのを青年は感じていた。

自問自答を繰り返し、思い出せる過去を辿りながら青年はベッドの上で考え続けていた。
有名になって、誰よりも強くなればいつか、村の誰かがオイズや自分のことに気がついてくれる。
かつて無視した自分のことを認めてくれて、再び温かく迎え入れてくれる。
だから強くなりたかった。だからオイズを含めたみんなで勝ち進みたかったんだ。
正攻法で帰りたかったんだ。

しかしその夢を「ポケモンリーグ三位」という成績で中途半端に達成してしまった青年に、
もう一度一位を目指すために努力し直す気力は起こらなかった。
それこそ、本当は強さが欲しかったのではなく、故郷に帰るための有効切符が欲しかったからに他ならないのだと、青年自身が痛切に実感していた。

ーー

男を家に匿ってから二週間が過ぎた。チヒロが仕事から戻ると、男は大体じっと座って家の窓から海を眺めていた。
左腕の傷は大分癒え、ぎこちなかった体の動きも少しずつ良い兆しを見せはじめていた。
しかし左腕を始めとする左半身は未だ殆ど動かないようで、
部屋の中を動く時はチヒロが拾ってきた長い棒を杖代わりに、生まれたての子牛のようによたよたと移動していた。
そして相変わらず、男は殆ど喋らなかった。
「服を持ってきたんですが、着替えますか? 兄がつかっていた古着です」
ある日、チヒロがそう問いかけると、男はかすかに頷いた。
右手で器用に左腕をシャツに通し、椅子にもたれながらズボンを履くと、男の見た目が驚くほど若返った。
それは、男が顔の右殆ど全体に包帯をしていても明確にわかる程の変わりようだった。チヒロは男の向かいに座り、目を見て訪ねた。
「今更ですが、お名前なんていうんですか?」
男はチヒロの目を見つめたが、目を伏せ首を振った。相変わらず悲しそうな目だ、とチヒロは思った。
おいくつですか、とチヒロは重ねて聞いてみた。右の指が三度開き、二・零・五・三と数字を形作る。
記憶を失ったわけではないようだ。二十八ということか。
「私はチヒロです。十七歳です」
男はチヒロの目を見、こくりと頷いた。
「この村のリゾートホテルで働いています。二十八歳……あなたは私の、二番目の兄と同い年です」
そうチヒロが何気なくつぶやいた時、急に男の瞳が揺れ、驚きに見開かれた。すぐに、声は発さず口の形だけで、名前は、と尋ねてきた。
チヒロは男の突然の反応に戸惑いながらも、
「カイルです。兄は本島とこの島の橋渡しの仕事と、漁師の手伝いをしています」
そう告げた瞬間、男の悲しそうな目がふと潤んだ。男が伏せた瞼の奥から、一筋の涙が頬を伝った。
その反応に混乱しながら、すいませんとチヒロが慌てて謝ると、男は手でそれを制し、気にしないでくれというように首を振り、再び俯いた。
黙っている男をじっと見守りながら、チヒロはある考えに辿り着いていた。
この人は兄を知っているのだ。ということは恐らく、兄もこの人のことを知っているはずだ。
もしかしたら、元々はこの島の人なのかもしれない。どこの家の人なんだろう?

翌日、偶然にもチヒロは仕事が休みだった。
早起きして橋渡しの仕事をする兄の元を訪ね、本土行きの渡し舟に乗せてほしいと頼んだら、
「何ね? 急に。しょうがねぇなぁ。空いてっからいいけど、何のつもりなんだ」
「いいからいいから」
「なんだお前、なに買いに行くんだ。店まだどこもやってないぞ」
「いいからいいから」
妹に甘い兄をいいからの二言で強引に説き伏せ、チヒロは兄の船に乗った。
船と言っても小型なもので、十人も乗ればいっぱいになってしまう大きさだ。
底まで透き通った青緑色の海の下では、船に繋がれた二匹のホエルコが待機している。
「ルカ、エイル、出発するぞ」
チヒロの兄は自分の船を引くホエルコの背を叩き、声をかけ、自分の胸に下げている笛を口にくわえた。音色の高さを口で調節し、方向の指示を出す。
程なくゆっくりと船は本土、トクサネへ向かって進み始めた。兄は進行方向に間違いがないのを確認すると操縦席に腰掛け、
「で、なんねチヒロ、急に俺の船に乗って」
チヒロは単刀直入に、
「お兄ちゃん、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「お兄ちゃんの同級生で、誰かこの島を出て行った人っていなかった?」
「!」
兄は一瞬驚きに目を見張ったが、急に真顔に戻り、怖い顔で妹を睨んだ。
「いや」
兄が凄んだ顔はかなり恐ろしかった。
「え?」
「チヒロ、お前島を出て行くつもりなんか!! 俺の船で!!!」
「えっ! 違うよ、そんなつもりじゃ」
「じゃあ何だ! 急に何でそんなことを言いよる!!」
「待って、違うの誤解だってば」
「じゃあなんだ!!」
「だから……お兄ちゃんの同級生で、この島を出て行った人はいなかった?」
チヒロは噛んで含めるように、もう一度同じことを兄に問いかけた。
兄は目を閉じ、じっと考え込んでいた。やがて口を開いて呟いた。
「いた」
「ど、どんな人だった?!」
チヒロが勢い込んで聞くと、
「俺の親友だった。……でも、もう十五年くらいも昔の話で、その時はまだほんのガキだったかんな。
 忘れたよ。あいつがどんなやつだったかってことは」
「その人の名前わかる?」
「……忘れた」
「親友だったのに?」
「ガキの頃に離れた友達の名前なんか、覚えとらん」
「……!!」
親友って、そんなものなの。
チヒロは打ちのめされ、それ以上何も兄に聞くことができず、耐えきれずに海を見つめた。
船は周囲に白い飛沫をまといながら、波を切り裂き、ゆっくりと一定の速度で進んでいる。
海は海底にある岩礁の色でくっきりとその色を変え、空は気持ち良いほどの快晴、心地いい風が吹いている最高の気候だ。
こんな状態でなかったら。波や飛沫を見ることに集中しないと涙がこぼれてしまいそうになる。チヒロはぐっと唇を噛んだ。
自分の家で海をじっと見つめる男の姿が、チヒロの脳裏に鮮明に浮かんだ。
チヒロも兄もそれ以降一切口をきかず、凍結した気まずい沈黙を乗せて、船は島へと進んでいった。

本島で兄は観光客を何人か乗せ、帰路につく頃にはチヒロは悲しい気持ちになっていた。
この村は基本的に、住民や観光客には寛容だが、出て行く人に非常に非寛容である。
知っていたはずだった。わかっていたはずだった。でも、忘れ去られてしまうものなんだろうか。それまで何度も呼んだはずの名前まで。

暗く沈んだ気持ちで家に戻ると、男はやはり窓辺に座って、海を眺めていた。
いつもは男にただいまと声をかけるのにそんな気も起こらず、チヒロは黙って、ごろんと床に寝そべって天井を仰いだ。
腕で目を庇った。瞼に覆われたその瞳から少しだけ涙がこぼれた。

いつかこの村を出て、ビルのある大きな街で働きたい。色々な出身の、色々な考え方を持つ人達に囲まれて仕事がしたい。
知っている。どこまでも果てしなく続く町並み。歩いても走っても沈まない地面。森があって山があって草原がある。道路があり車やバイクが走っている。
漁とリゾート勤務以外の無限の可能性。
勤務後こっそり観光客用図書エリアに忍び込み、あの本を借りた。大切に、でもボロボロになるまで読みこみながらずっと考えてきた。
村では漁とリゾート勤務は花形職種に位置付けられている。時間と戦いながら調理業務に明け暮れるのは、正直、悪くはない。
家でこそほとんど料理をしないが、働き始めてからはメキメキと料理の腕も上がっている。
料理をしながら、同期と減らず口を叩きながら、チヒロはずっといつか、外に出る気持ちとともに生きていた。
ずっと出たい、という気持ちはあった。けれどもいつ出たい、という希望は一度も持たなかった。
いつか叶えたい夢。いつか。でもそのいつかって、いつだろう?
それはチヒロの中に初めて湧く疑問だった。心の中で何かに火がついた。着火した炎は、チヒロの中の情熱を静かに温め始めた。
自分がずっと抱いてきた夢は、友人のことを兄が忘れていたくらいで諦める程度の決意でしかないのだろうか。
家族の意見一つで根元からポキっと折れてしまうような、そんなに脆い決意なんだろうか。そんな夢など、ただの現実逃避でしかないのだろうか。
いつか出たい。絶対に出たい。出なければならない。この島を。
でもいつ? どうやって? 私も、あの人みたいに忘れ去られてしまうんだろうか?

右に寝返りをうって男に背を向けながら、チヒロは一人自問自答を繰り返していた。
親友。親友。チヒロにとっての親友は、学校を共に卒業し、今も同じ職場で働く同期だった。
ああ、誰が親友なのかは一発で答えられるのに、この答えの出ない問いの難解なことと言ったら。
チヒロは四肢を投げ出して、再び天井を見上げた。
親友……親友。ぶつぶつ呟いて、ちらりと男の方を見た。兄のかつての親友だったらしい男。兄の名を伝えただけで静かに涙をこぼした男。
言えないなぁ、とチヒロは思った。兄はあなたのことを殆ど覚えてませんでしたよ、なんて……

男はずっと海を見つめていた。チヒロはぼんやりとした頭で、毎日毎日、よく飽きないなと妙に感心した。
波以外には朝夕の変化しかない海を見つめて何を考えているんだろう。あの人は。

ーー

男は旅を続けた。今までの十数年と違うのは、終わりが明確に見えていることだった。
車が頻繁に走る大きな道路を道に沿って歩きながら、村の簡単に均されただけの細い道をひたすらに進みながら、
男は故郷へと一歩一歩足を進めた。途中のどの町に寄っても、故郷を偲ぶ気持ちが炎のように男の精神を炙るあまり、
男は常にそわそわと落ち着かず、ろくに休む間もなくすぐに旅立ってしまうのだった。
そしてついに、男は驚くべき速さで故郷の海へとつながる港町へたどり着いた。

村は変わっているだろうか。みんなどうしているだろう。
両親は、兄弟は。祖父母は生きているだろうか。親友はなにをしているだろう。
空は曇天、深い青色の海が不安げに揺れていたその日、準備もそこそこに男は相棒のホエルオーを海へ出し、その背に跨った。
十数年前の少年時、初めてホエルコに乗ってこの港町へ降り立った時と同じその場所で。

男は数日前から殆ど眠れなかったが、頭だけは妙に冴えていた。
十数年分の故郷への執念がアドレナリンとなっていたのかもしれない。
しかしそれだけでは乗り切れないのが海だということを、十数年を陸で過ごした男は忘れていた。

故郷まで残り半分といったところで、四方が見渡す限り波の海の真ん中で、急激に風向きが変わりだした。
生暖かい潮風が強く吹き荒れ、元々揺れていた深い青色の波はあれよあれよという間に高くなった。
灰色の雲で覆われていた空から、程なく雨が降り始め、その雨が男の頭を冷やしたが時すでに遅く、雨はすぐにその勢いを強めて豪雨となった。
ろくに装備も準備しなかった男とホエルオーは嵐の只中に取り残された。

猛り狂う荒波と豪雨の中、オイズ、オイズと男はホエルオーの名を呼びながら、必死にその背にしがみついた。
十数年乗っているその背は普段ならば嵐が来たとしても絶対に振り落とされないが、しかし何日もろくに眠れていない男には、通常の体力が備わっていなかった。
つるつると滑る相棒の背中でいくらか踏み止まったところで、手が離れてしまった。途端に嵐にあおられ、空中に放り出される。
ホエルオーのつぶらな瞳が驚きに見開かれた。オイズに向かって右手を伸ばしながら落ちる時間が、男には永遠にも思えた。

なぜ、ろくな準備もせずに出てきてしまったんだろう。
僕のせいだ。僕がオイズやみんなを巻き込んで……
同じだ。最初の旅立ちにあいつを巻き込んだ時と……
最後まで僕に巻き込まれたままなんて……

そんなことは……

男は最後の力を一瞬に込め、右手に掴んでいたボールをオイズに向けてかざした。
まばゆい光がホエルオーを迎え入れ、相棒はボールに収まっていく。

……よかった

瞬間、男は海に背面から落ちた。あっと声を上げる間もなく、なすすべもなく海の奥深くへと引きずり込まれていく。

ーー

「チヒロってさ」
キャベツとひき肉を炒めながら、同期が口を開いた。何、とチヒロはトマトを切りながら相槌を打つ。
「……」
トマトを切り終わっても、それをコーンや細切りの人参と一緒にしてサラダを作り終わっても、同期は何も言わなかった。
チヒロは急かすことなく待った。やがて、もう一度同期が口を開いた。
「……あのさ」
「どうしたの?」
同期は眉をひそめ、何かを耐えているような表情で肉を炒めていたが、やがて、聞こえないくらいの声でそっと呟いた。
「ここ、出たいと思ったことある?」
その瞬間、チヒロは雷に打たれたように停止したが、しかし次の瞬間にはうつむき、首を振った。
「……そっか」
同期がポツリと呟くのを耳に入れながら、チヒロの心は正確な答えを口にしていた。
「ある」
二人同時に顔を上げた。お互いの瞳に、隠しきれない情熱と好奇心が宿っているのを見た。
その日、それからどうやって仕事を終えたのかチヒロは殆ど覚えていない。

夕暮れの海の上に、小さなボートが一つ浮かんでいた。
鮮やかな橙のグラデーションに染まる海の上で、同期の表情は影になりよく見えなかった。
ボートの上なら周りに誰もいないから大丈夫、と提案したのはチヒロだった。
「ずっとさ、いつか村を出たいと思っていたんだ」
チヒロが長年胸に秘めていた言葉が、するすると同期の口から紡ぎ出されていく。それは不思議な感覚だった。
いけないことをしているような後ろめたい気持ちと、ずっとこれを待ち望んでいたかのような興奮が心の中で混じり合い、
体の中から溶けていくような気持ちだ。
「……わたしも」
逸る心臓の鼓動が外まで聞こえそうだった。チヒロが唾を飲み込みながらそう応えると、
「チヒロは、どうして外に出たいの?」
同期の返した問いに、チヒロは深呼吸をひとつすると、正直に自分の気持ちを告白した。
職場から持ち出した本を読み込んでいること、その中のビルが立ち並ぶ写真が大好きであること、
その中で働く人たちにそれぞれの生活があることを想像するとワクワクすること、
自分も大人になったらそこで働きたいこと。
チヒロが自分の気持ちをなぞりながら語るのを、同期は身じろぎもせずに耳をすませていた。
ボートに寄せては返す静かな波の音に混じって、遠くでキャモメの群れが鳴く声がする。

チヒロの話を聞き終わった同期は、いいね、いいねと感嘆し、口火を切った。
「わたしは……」

家族の誰もわたしになにも言わないけど、わたしにはね、もう一人兄がいるんだ。
家に飾ってある写真にはいないよ。でも、わかるんだよ。
おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも、よく間違えてたから。
食事が時々一人分多かったり、三人兄妹のはずなのに、四人の名前を言われたりしたことがあったんだ。
でもお兄ちゃんに、それって誰? って聞いたらすっごく怒られた。だから、聞いちゃいけないことなんだと思ってた。
死んだ兄がいたのかな、って思ってたんだ。数年前まではね。
誰にも聞けなかったから、当たり前になってたから気がつくのが凄く遅かったけど、
でもやっと気がついたんだ。死んだ兄のことを私に隠す必要ってないじゃない? 話してくれるはずじゃない?
だから、兄は村を出て行った人なんだと思うの。今よりもっとずっと、村を出ることに厳しかった十数年前に。
なんの記憶もないから、私の生まれる前だと思うんだ。

チヒロの心の中で黒い靄となっていた、自分が忘れられてしまうのではという不安が、
同期の語る言葉によって霧消していく。覚えられているんだ。忘れられないんだ。たとえ、村を出たとしても……家族だったら。
「そのお兄さんを探しに、村をでるの?」
チヒロの問いかけに、意外にも同期はうーんと唸り、ちょっと違うかな、と言った。

兄も村を出ているなら、私にもそうやって飛び出せる血が流れているってことでしょう。
だから、自分の将来を村の外で描いてもいいんじゃないかなってずっと、思ってたんだ。
村を出て、時々兄を探しながら居心地の良さそうな街を見つけて、そこのお店で働くんだ。
もっと料理の腕を磨いて、自分の作りたい料理が作れるようなお店を作るんだ。

同期の話をチヒロは身体全体で受け止めながら、なるほどそういう風に働く手もあるんだな、と思った。
その一方でその兄に心当たりがあったチヒロは、自分の家で看病している男のことを伏せたまま、尋ねた。
「ところで、お兄さんってなんていう名前?」

ーー

気がついて最初に見えたものは白い天井だった。
なぜこんなところに、と意識が戻った瞬間に神経が繋がり、全身が軋むような激しい痛みが男を襲った。
あまりの痛さに声も出なかった。目をギュッとつむり歯を食いしばって耐えながら、男は首を右に曲げた。
点滴につながれた自分の腕が見えた。首を左に曲げると、左腕は包帯がグルグル巻きに巻かれた上、中央から赤い血が滲み出していた。
右足を動かしてみた。動く感触がする。左足は殆ど動かないが、しかし僅かに動く気配があった。
強烈な痛みで気を抜けばすぐ意識が遠のきそうな中、男は執念だけで再び確認した。足は動く。手も動く。
まだ大丈夫だ。どこかわからないけれどこんな病院で、のんびりしている時間はない。一刻も早く故郷に帰らなければならない。
高熱があるのがわかった。体全体が酷くだるかったからだ。
殆ど動かない左手で無理に点滴を外し、這い出るようにしてベッドから出て、
手すりを頼りに左足を引きずるようにして脱走した。偶然にも真夜中だったため、誰にも見つからなかった。

殆ど執念の塊と化した男は、目立たない道を選んでなんとか歩を進めた。途中で左足が動かなくなってからは、右手と右足だけで這った。
男は何も持っていなかった。何も証拠がないものの、確信したことがあった。

僕のポケモン達はみんな、あの嵐の日に死んだんだ。

月だけが照らす誰もいない道を、男は四つん這いになって、高熱と痛みで殆ど意識を失いそうになりながらも、進んだ。
前へ。前へ。過去を少しでも振り返り、長年一緒に苦楽を共にしてきたポケモン達のことを考えると、
もう一歩も先に進めなくなってしまいそうだったからだ。
少しずつ動かなくなっていく男の身体と頭は、最後に、とにかく前に進む意識だけを残して壊死していくかと思われた。
どこからそんな力が湧くのか信じられないような底力で、手を広げ指の力で身体を手繰り寄せ、かかとの力で地面を押して、進んだ。

からりと晴れた日差しの強い青空。目を凝らせば底の魚まで見えるエメラルド色の海。潮風のにおい。寄せては返す波の規則的な音。
木組みの土台とヤシの葉屋根でできた温かな家。新鮮な刺身と温かいご飯の並ぶ食卓。故郷、親友、家族。
前へ。前へ。

ーー

「カイルお兄ちゃんの卒業アルバム……これだ」
実家に戻ったチヒロは立派な表紙のついたアルバムを取り、頁をめくりながら兄の面影を探していた。
小さな村にはそれでも二クラスはある。兄と同じクラスに、果たしてチヒロが探していた人物はいた。
「……」
兄の名はタクミだと同期は言った。確かに自分の兄と同じクラスにそのタクミ少年はいた。
だが果たしてこれが自分の家に匿っている男なのかと問われれば、よく考えれば当然なのだが、
男は顔の殆どを包帯で覆っているため、本人なのかは全くわからないのだった。
それでも、確かにこのタクミ少年は幼い兄と一緒に隣同士で写っていることが多く、
二人で肩を組んで笑っている写真もあった。やはり、仲良しだったのだろう。
「それで何らかの事情でタクミさんは村を出て、お兄ちゃんは残った、ってことか……」
でも、こんなに仲が良くても、十数年会わないだけで忘れてしまうものなのだろうか。
自分と同期の場合に置き換えて考えた。もし急に会えなくなったら。覚えていると思う。
でももし、喧嘩別れだったらどうだろう。二度と思い出したくないから無視している、なんて可能性も……。
チヒロは目を閉じながら考え込んでいたが、
「チヒロー? なにこそこそやってるの、ご飯にするわよー」
外から母の呼ぶ声が聞こえ、チヒロは慌ててアルバムを戻して部屋を出た。時間切れであった。

ーー

「タクミさん」
急に名前を呼ばれて現実に引き戻された。自分の名前なのに、随分久しぶりに聞いたような気がする。
すっかり聞き慣れた声の主は、男を匿ってくれている少女のものだった。
「タクミさんっていうんでしょう」
確信に満ちたその問いかけは、もはや肯定以外寄せ付けないただの確認だった。男は黙って頷いた。
「お兄ちゃん、今日仕事休みだから。会いに行こう」
四の五の言わせずに強引に男の右手を握り、少女は家を出た。男はやや引きずられるようにしながら、
なんとか少女の速度についていった。
丸太でできた道を踏みしめた。日に照らされた木のぬくもりと水の温かさが、懐かしさとなって男の胸を打った。
少し足元を見ながら歩いていたが、ふと頭を上げると、遠くに色黒の男が海の上にいるのが見えた。
男はそんなバカなともう一度目を凝らした。よく見れば、男は海の上にいるのではなく、
海にいるホエルコの上に座り、丸太の近くに浮かんでいるのだった。
「おにいちゃーん」
男の手を解き、少女が色黒の男の方へ手を振り、走っていく。
振り返ったその兄の面ざしにはっきりと旧友の面影を見てとって、男の心は思った以上に揺れた。
「なんだ、チヒロ」
知らない間に声変わりをしたその声は深いテナーだった。男は胸がいっぱいになり、その場に立ち止まった。
「友達をつれてきたよ」
何、と不審そうに少女の奥を見たその兄は、男の方を見た。視線が交差する。
男を睨みつけるその目はかわいい妹が彼氏を連れて来た時のそれで、怒りと疑念と不審が渦巻いていた。
違うんだ、待ってくれ。男は顔の包帯に手をやり、結び目から解こうとした。
しかし、ぎこちなくしか動けない男にあっさりと興味を失ったのか、兄はさっさとホエルコから降り、背を向け足早に立ち去ろうとした。
「待ってよ、お兄ちゃん!!」
「くだらん」

待って。待ってくれ。カイ……カイル。
男はゆっくりとだが、右手で器用に包帯を解いていった。男の傷だらけの顔がはっきりと露わになる。
左側の頬から顎にかけて無数の痣と、いくつかの裂けたような大きな傷跡と、それを縫った跡がある。口の横の傷の跡が特に酷い。
ずっと包帯に隠れていた左目は眩しくて開けられなかった。それでも顔は晒せた、と男は思った。
気づいてくれないだろうか……友よ。

「お兄ちゃん、話くらい聞いてってば!」
「くだらない。彼氏ならさっさと連れて帰れ」
「ちがうんだって!」
「カイル」
「なんだよ」
「……私じゃないよ」
「?」
ずっと男に背を向けていたカイルが、もう一度振り返った。
男の傷だらけのその顔に思わず眉を背け、そして、何かを探るような目で彼を見た。
「……」
しかし、兄はそのまま家に入ってしまった。
「お兄ちゃん!」
チヒロは心の底から迸る怒りに任せて叫び、兄の後を追おうとしたが、男が膝をついて座り込んでいるのを見てハッと我に返った。
「だ、大丈夫ですか?!」
「……大丈夫」
男は手でチヒロを制した。左足がちゃんと動かないからあまり歩けないだけだと、男はそう説明した。
今まで頷きや目で一方的に感情を読み取るしかなかった男の突然の言葉に、チヒロは軽く放心状態になっていたが、ややあって自分を取り戻し、
「兄がすみません、タクミさん」
「いいんだ、これで」
左目はまだ閉じたまま、タクミはそういった。悲しいというよりも、さびしそうな目だ、とチヒロは思った。
「なにがいいんですか。全然よくないでしょ。兄、愛想がなさすぎて、しょっちゅう無視するんですよ、人のこと。
 全てがどうでもいい、興味ないみたいな感じで。ちょっとわたし、もう一回呼んできます」
「いいんだ」
「なんで! だって、親友だったんですよね。あの兄と。十何年ぶりの再会なのに、こんな失礼なのって! こんなんでいいんですか!!」
「……それだけ」
「?」
「それだけ、昔の掟は絶対だったんだよ。今よりも遥かに強い、縛りの掟さ。チヒロも知っているだろ」
初めてタクミに名前を呼ばれ、チヒロは緊張し、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「昔、村を抜け出してカイルと本土に遊びに行ったことがあったんだ。トクサネの宇宙祭りね。聞いたことあるかな。
 そこでポケモンバトルをやっていたんだ。初めて見るポケモンや技ばかりでね。魅せられたよ。
 僕も強くなりたい、ポケモントレーナーになりたいって思ったんだ。でもそんなことは許されない。わかるだろ」
わかります、とチヒロは頷いた。
「毎日考えて、ある日、ポケモントレーナーになりたいこと、家を出たいことを家族に打ち明けた。
 その日から家族に無視されたよ。次の日には村中の人から無視されていた。
 人に存在を無視されることが、ここまで精神的に堪えるものだとは思わなかった。まだ十歳だったしね。
 誰とも口をきかないまま旅立つ準備をして、最後に会ったのがカイルだった」
「……」
「カイルは決して僕のことを応援してはくれなかったけど、無視もしなかった。一緒にトクサネへ出かけたことを後悔しているみたいだった。
 でも、あいつははっきり言ったんだ。自分は、自分の都合に相棒のホエルコを巻き込みたくないってね。あいつらしいと思ったよ。
 僕とは違うんだ。オイズを巻き込んで、十何年も巻き込んで、最後まで巻き込まれたままの一生だったあいつと」
「……そんな」
「だからいいんだ。カイルの顔を見られただけでいいんだ。声まで聞けた」
チヒロは俯いた。そして口を開いた。
「……殴り飛ばせばいいのに」
「……?」
「殴り飛ばせばいいのに。いつまでも無視するんじゃないって。帰ってきたのが見えないのかって。
 この狭い息の詰まる村で、自分に不都合なものは無視して生きるなんて勝手すぎだろって。
 知らないものを見ようとしない、分からないものを知ろうとしない。そんな生き方をいつまでしてるんだって」
ずるいと思った。内輪では寛容なのに、そこから外れようとすると急に手のひらを返したように冷たくなるここの人たちが。
都合の悪いことはすごんだり無視して流そうとする兄が。
王道から外れる事を選んだら、これからの人生すべてをその一点に賭けなければいけない、この村が。
タクミはほんの少しだけ微笑んで、ありがとう、と言った。
「でも殴れないんだ。僕左半身が今ほとんどいうこときかないし。カイルは本当にがっしりしてるよね。瞬殺だよ、僕なんか」
チヒロも思わず、そうかもしれませんね、と少し笑った。
帰りますかとチヒロが尋ねると、そうだねとタクミが応えた。
ゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら進むタクミを、チヒロは支えながら家の方向へと足を向けた。
「おい」
その帰路を呼び止める声がした。タクミとチヒロが同時に振り返ると、
「……お兄ちゃん」
家の前にカイルが立っていた。彼は眉をややひそめ、訝しげな顔をしながら二人を見据えていた。
射抜くようなその鋭い双眸にチヒロは一瞬ひるんだが、タクミを庇うように前に出て、兄を睨み返した。
タクミの方はというと、思いがけず再びチヒロ兄を見た驚きで声も出ないようだった。
「お前、ちょっといいか」
タクミが震える左手で自分の胸を指さすと、カイルはかすかに頷いた。
チヒロは兄がタクミを殴るのではないかと思ったが、タクミは魂を抜かれたような驚いた表情のままで、そんなことは微塵も考えていないように見えた。
彼はゆっくりゆっくりと回れ右をして、カイルの方へ進んで行った。


渡し船は滑るように海の上を進んで行く。ボートの淵に寄せては返す波の音が低く、一定の速度で心地よく響いた。
地平線には夕日がかかり、海の上を燃えるようなオレンジに染めていた。空からは優しい薄紫色が降りてくるようだった。
ここの景色はずっと変わらないな、とタクミは思っていた。子どもの頃に刷り込んだ記憶を優しく撫でられているようで、
窓からいつまでも海を眺めていたかった。朝から晩までずっと見ていても、毎日毎日見ていても全く飽きなかった。
タクミが少し首を伸ばして前を見ると、海の中に二頭の丸い影が見えた。ホエルコだ。
カイルが渡す船を率いる彼らの他は、船の中にカイルとタクミ、二人がいるだけだった。

周りに何もない海の上でカイルはふいに船を止めた。
夕日が地平線へ沈む頃合いで、薄紫色に染められた海と濃紺の空が広がり、遠くで村と町の明かりが小さく瞬いていた。
ふとタクミはなんの前触れもなく予感した。僕はここで殺されるのか、と思った。
誰もいない海の上、殴られ海の中に放られれば、左半身がいうことをきかない自分はたちまち海に沈むだろう。
それも仕方ないかな、とタクミは俯き目を閉じた。もうポケモンたちもいない。何も持っていなかった。失うものは何もない。
「お前」
カイルがふと口を開いた。静かな海の上でその声は妙に響いた。
「……」
「何してたんだ」
その言葉に、タクミはゆっくりと顔を上げた。
それは果てして、カイルの妹との関係のことを言っているのか、それとも自分がどうしていたかを言っているのか、
タクミには判断がつきかねた。彼の心の中では様々な感情が渦巻き嵐が吹き荒れたが、しかし結局、口に出した時には後者に絞られていた。
「覚えて……るか、僕のこと」
「……」
「カイル」
「……お前の名前は、忘れた」
「……」
タクミは思わず俯いた。親友だと思っていた、だから絶対覚えてくれていると思っていた。
でもやはり、それは自分の一方的な希望だったのだ。皆が無視した中で唯一自分と話してくれた親友。美化しているのは自分だけだったのだ。
「でもお前のことは覚えている」
「!!!」

「カイル」
タクミはカイルの背に呼びかけた。カイルはこちらを振り返らない。
「……僕は、覚えてるよ。村を出た時、最後に見送ってくれたのが、カイルだった。ずっと覚えてた。
 夢を追って出て行って、でも、必ずいつか村に帰ってきたいって思ってたから……だから」
「で、夢は叶ったのか」
「……ううん」
タクミは俯いた。
「旅を続けるうちに、強いばかりのポケモンを選ぶことじゃなくて、技の命中率や精度、威力をあげることに力を入れたいって思い始めて……
 少ない力で最大のダメージを与えられるような戦いができれば、強い相手にも絶対勝てるって思って」
カイルは何も言わなかった。でも、背中で聞いてくれているとタクミは感じた。
その背に懸命に呼びかける。
「ポケモンリーグのいいところまでは行ったんだけどね。準決勝どまりで」
「……」
「ずっと、強くなりたかったんだ。誰よりも強く。
 ポケモンリーグ制覇はわかりやすくて明確な頂点で、その夢を、ずっと一緒に頑張ってきた仲間たちと達成したかっ……」
「お前、ポケモンはどうした」

一瞬周囲が、触れれば切れるような静寂に包まれた。

柔な胸に直接刃を突き立てられたような痛みが、胸を貫いた。
真面目でまっすぐで、練習熱心だったハッサムのアカ。ムードメーカーで、元気いっぱいだったガルーラのガムラ。
小さい時からずっと一緒で、兄のように自分を見守ってくれて、苦楽を共にしてきたホエルオーのオイズ。
みんないない。もう、みんないないんだ。

「……みんな、死んだ」
「!!」
カイルが振り返った。タクミは思わず目を背け、俯いた。後から後から、思い出さないようにしていた記憶が溢れてくる。
共に丸太を切ったこと、岩を打つ練習をしたこと、鳥めがけて水鉄砲を打ったこと。
みんなでご飯を食べたこと。海上を進みながらオイズの上で眠ったこと。共に過ごし、戦ってきたかけがいのない日々。
もう二度と戻ることはない。
もっとみんなに優しくしておけばよかった。あの時、急いでこの村に帰ろうとしなければよかった。全ては浮き足立っていた自分のせいなのだ。
自分の都合ばかりにポケモンたちを巻き込んでいた過去。どんなに後悔しても、もう二度とみんなに会うことはできない。
「僕のせいだ……」
タクミの目から涙がこぼれ、ほどなく彼は船に膝をつき、嗚咽を無理やりこらえながら号泣していた。
カイルは彼の正面に腰を下ろし、黙ってその様子を見守った。

どれくらいの時間が経っただろうか、タクミの心がふと緩み、肺が一瞬だけ落ち着きを取り戻した。
そのタイミングをいつから見計らっていたのだろう、間髪入れずにカイルから言葉が飛んできた。
「お前は変わらないな」
腕で涙を拭って、タクミはカイルを見返した。
「変わってないな。一度こうと決めたら絶対に引かない頑固さ。
そのために死にものぐるいで努力する根性と執念。お前のポケモンたちはさぞ苦労しただろうな」
「……」
「だけどお前のポケモンたちは、お前のことを愛していたと思うぞ。
ポケモンリーグには何百人、何千人と挑戦者がいるんだろう。
その中での頂点を目指すなんて酔狂な主人を持って、それでも三位になれるくらいには力があったんだろ?」
「……」
「お前は誰かに無理強いさせたり、嫌な思いをさせたりするやつじゃない。
お前がポケモンたちを失った理由も、殺したわけでも、死ぬまで戦わせたわけでもないんだろ」
タクミは首を横に振った。
「僕が、ここに早く帰りたかったばっかりに、焦って……。焦って、嵐に巻き込まれて、ボールが全部流されたんだ」
「じゃあ生きてるかもしれない」
「……無理だ。嵐に巻き込まれたあたりの深さ、何百メートルだぞ。
 そんな中でこんな手のひらサイズのボール、二度と見つかるわけない」
「……」
「みんな死んだんだ。二度と手の届かない所にいるんだ。もう会えない」
タクミのその一言から、二人の間にはしばしの沈黙が落ちた。
ボートに寄せる波の音だけが規則的にさざめく中、夕日が地平線の向こうに沈み、夜の帳が下りてきた。
ふとカイルが口火を切った。
「なあ、とりあえず今日は村に戻るか」
「ああ」
「今日は俺の家、泊まってけよ」
「ありがとう」
「ところでお前、いつから妹の家に上がりこんでたんだ?」
さりげない口調で切り出された質問に、タクミがふとカイルを見た。
周囲の薄暗さの中で、操縦席の上から吊るされた電球に照らし出されたその顔は、まさしく鬼の形相だった。
「え、えっと……」
「いつからだ」
「忘れました」
「あん?」
「でも、手は出してません! そもそも手出せる状態じゃなくて……わかるでしょ?」
「じゃあ治ったら出すつもりだったのか!」
「違うって!」
タクミはしどろもどろになりながら、なんとかこの場を切り抜くべく、
「と、ところでカイルは何してたの、この十数年」
「俺? 俺は学校卒業して、漁師の仕事しながら観光送迎の船の免許とって、今は結婚して子供がいる」
「え」
「なんだよ」
「そうかぁ」
「?」
「そうか、お前にはもう子供もいるんだ」
そうかあ、そうかあとタクミはこの上なく幸せそうな顔で、笑った。
船を操縦するカイルの左手に光る指輪を見ながら、彼は子供の頃に聞いた話を思い出していた。
漁に出る時は必ず指輪をしておくんだ、そう言っていたのは若き日の父だったか、兄だったか。
死んだ時に誰だかわかるようにな、と言われた時、自分は泣いていた。
死んじゃ嫌だ、嫌だ、と随分駄々をこねてたしなめられた、そんな記憶だった。

ーー

兄に連れられていった同居人が、再びチヒロの家に顔を見せたのは、それから一週間の後だった。
家はすっかり静かになり、誰の目を気にする必要もなく、
病気の男の看病をしなくても、海を見る男を見守らなくても、男と一緒にシチューをすすらなくてもいい、
ただ自分のことだけを気にしていればいい生活に戻った。
元の生活に戻っただけのはずだった。しかし、なぜかチヒロには家がやたらと広く感じられていた。

「こんにちは」
男は仕事後の夕食前のチヒロの家に、何食わぬ顔をして現れた。
初めて現れた時は窓際に刷り込んでいたその男は、今度は家で使っていた杖を右手に持ち、玄関からやってきた。
共に暮らしていた時はあまり気がつかなかったが、
左腕は力なくだらんと下がっており、一見してわかるほどその腕には力が入っていないことが見て取れる。
だが出会った頃は震えながらなんとか動かしていた右腕で、男は今ではしっかりと杖を握りしめている。
そして、顔を覆っていた包帯は完全に外していた。
左側にある傷は相変わらず目を背けたくなるほどひどいが、痣はやや薄らいできており、大分元の姿を取り戻しているように見えた。
「おじゃましてもいいかな」
「どうぞ」
チヒロが夕飯に作っていたのはほとんどいつも同じ定番、シチューだった。
男は懐かしそうに目を細めて、
「いただきます」
「……いただきます」

男が兄と共に去った翌々日、彼の動向の一報が同期からもたらされた。
それは予測通り、彼女の兄が十数年ぶりに家に帰ってきたというものだった。
「なんかね、昨日突然兄が帰ってきたの。数十年ぶりよ。初めて会った!!」
興奮して兄と実家の様子を語る同期に、白々しくないような相槌を懸命に演技しながら、チヒロは男の実家での様子を知った。

顔は傷だらけ、左手と左足に痲痺が残った状態である夜、突然に帰宅した一家の次男。
彼が帰った時、玄関に出たのは料理中の母だった。
「……」
どちらさんでしょうか、と言いかけた母は、傷だらけの男の顔を不審そうに一見し、何かを探るようにしばらく見ていたが、
十数年ぶりに母親と再会した男の方が先にこみ上げてくるものがあり、
「……母さん」
その一言を聞いた瞬間、母親は腰が砕けたようにその場に座り込んでしまったという。
「母さん」
ぎこちなくも腰を屈めた男を、母親は涙を流しながらただただ、抱きしめたそうだ。
あまりの動揺に料理などとても出来なくなった母親は、大急ぎで家族全員にとにかく早く家に帰ってくるよう連絡を取り付けた。

次に帰ってきたのは父であり、
「なんだなんだ……一刻も早く家に帰ってくるようにってお……」
文句を言いながら家の扉をくぐった瞬間、その男の姿を見て絶句した。
「……」
何か言いたげに口を開き、妻の泣きはらした目を見て全てを理解した。
「お前……」
「……」
泣き笑いの顔をした男の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「お前……タクミか?」
男が頷いた。
「……父さん」
男の記憶の中でいつも厳格だった父の目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。

「お母さん、どうしたの?! 急に家に帰れって何が……」
不安げな顔で、息を切らせながら帰宅したのは男の姉だった。
「な……」
見知らぬ男の姿を一目見てその顔の傷に怯え、両親の目に浮かんだ涙にうろたえながら、
「何?! ……なんなの?!」
半ばパニックになって叫んだところで、
「姉さん」
男がそっと呟いた囁きで停止した。姉は彼を抱きしめてひとしきり泣いたという。

兄が帰ってきたのは、タクミが母と共に、祖父母の仏間に静かに手を合わせている時だった。
「なんだよ母さん、急に……」
父と同じく文句を言いながら、憮然として帰ってきた兄の手を父は強引に引っ張り、
「タクミだ」
「は?」
「タクミが帰ってきた」
「は?!」
父を追い越して仏間に駆けつけた兄は一声、
「タクミ?」
その声に振り返った弟の傷だらけの顔を訝しげに一瞥、しかしその奥を探るようにじっと観察し、
やはり、弟だとすぐにわかったと後で言っていたらしい。
一番遅くに帰った末娘である同期は、呆然としている家族四人と見知らぬ兄の中で、ただ一人冷静を保っていた。
次兄には会ったこともないので当然といえば当然かもしれない。
素早く母親の作りかけの料理を再開し、放心状態の家族をはい、はいと席にそれぞれ着かせ一人大きな声で、
「はい、いただきまーす!」
パン、と彼女が打った手でようやく五人は我を取り戻し、口に食べ物を運んだらしい。

「ご実家では歓迎されたみたいですね」
「妹が……ミナミが、チヒロと同じ職場なんだってね。もう色々聞いた?」
「一部始終を」
「そっか」
「今日はどうしたんですか? 夕飯はいいんですか、ご家族と一緒じゃなくて」
「いいんだ。チヒロに挨拶に行きたかったから。お世話になったのに、急に消えちゃったし」
男は薄く微笑んだ。この家にいた時は悲しそうな目をするか、その目を伏せるか、そんな顔ばかりしていた男。
こんな顔もできるんだ、とチヒロは思った。
「……これから、どうするんですか」
深く聞く前に、一番気になっていたことにチヒロは切り込んだ。
「とりあえずは、本土に戻って病院に通って、リハビリに専念するよ。それからは……」
「はい」
「それからは……わからない。わからないけど、多分またここを出て行くと思う」
「え」
「どうして?」
「だって、実家に帰りたかったんじゃないんですか。ずっと。ご家族も歓迎してくれたんですよね」
「うん」
「だったらどうして……」
タクミがシチューをすすった。
「僕の夢は一番強いポケモントレーナーになることだった」
「三位になりましたよね。夢は、概ね叶えられたんじゃないんですか」
「中途半端にね。中途半端に達成して、殆ど再起不能みたいな状態で帰ってきた」
「……」
「家族は歓迎してくれた。それだけでも十二分に嬉しい。だけどいつまでも実家にいるわけにもいかないし。
 この村でこの歳で僕が何かを始めるには遅すぎるからね。それにこの体じゃあ、なかなかね。
 何より僕はこの村を離れて過ごしていた時間の方が長いんだ。ずっと旅をしてきたし……
 だから時々帰ることはあっても、ここにずっといることはできないよ。
 十歳の時色々天秤にかけて、村に残ることを選べなかった人間だから。だからきっと」
「……」
「だから、リハビリが終わったら、しばらくしたらどこか別のところに行くと思う」
「なるほど」
チヒロは目を閉じて、頷きながら男の話に耳を傾けていたが、
「中途半端に負けてきた人間のせいで、家族に後ろ指さされる思いをさせたくない」
その言葉にハッと目を開けた。
「僕はポケモンを殺した人間だ。二度とポケモントレーナーには戻らない」
なんだかんだと言葉を取り繕っても、たぶん、今の二つが本音だ。チヒロはそう思った。
「体が少し治ったら、自分のポケモンたちと出会った所を巡って、謝って、祈って回るつもりだ」

ずっと思っていることがあった。
男が家を出てから一週間、片時も忘れることなくずっと考えていることがあった。
「もし」
「?」
「もし、タクミさんがこの村を出る時は絶対教えて下さい。それで」
「それで?」
タクミが続きを促した。
「わたしも一緒に連れて行ってください」

踏み出す勇気が出なかった。家族、職場、友達、記憶、故郷全てと離れ離れになって、
そんな犠牲を払ってまで、自分の夢に賭ける価値があるのかどうか。
叶えられるのか叶えられないのかもわからない状態で、本当に自分の夢を信じてもいいのかどうか。
だけど誰かと一緒だったら。夢に賭け、その夢に勝った人と一緒だったら、もしかしたら叶えられるんじゃないだろうか。

「生半可な覚悟じゃ厳しいよ」
「……村を出るのは、ずっと考えていたことです」
「そもそも僕は負け犬だし」
「夢を叶えるために全力で努力した人を、負け犬なんて言いません」
「……」
「自分の全てを賭けて打ち込んで、ずっとずっと努力した人をそんな風には思いません。
 たとえ、世間や村の評価がどうであっても」 
タクミはふと微笑んだ。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「よろしくお願いします」
シチューの最後の一口を口にしながら、タクミは、あ、と呟いた。
「チヒロの第一関門は村を出る前にあるね。兄だ」
「兄ですね」

未来の計画を語りあう二人の口調は熱を帯び、いつの間にか夜の帳が下り、
満天の星空が空一面に広がる頃になっても、チヒロの家には煌々と橙色の明かりが灯っていた。
波の音以外には静まり返っているその村の中で、その光は、いつまでも瞬き続ける星のようだった。



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あとがき
こんにちは、art_mrと申します。
相当前に別のHNで書いた読み切りの続編です。
やっぱり長くなってしまいました。最後までお付き合い頂きありがとうございます。