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  [No.3987] キュレムと過ごした二週間 投稿者:GPS   投稿日:2017/03/22(Wed) 21:15:40   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


「あっ、あのっ、……すみません、担当者をお呼びいたしますっ!!」
「え!? あ、はい……」
 一瞬戸惑った顔をして、でもすぐに頷いたお客様が首を傾げる。高校生だろうか、白いシャツと黒いズボンという制服に身を包んだお客様がポケモンと一緒にここ、フレンドリィショップに入ってきてから私に話しかけてくるまでに、そう時間はかからなかった。アルバイトとは言っても、お客様から見れば私だって店員の一人。わからないことがあったら尋ねるのは普通のことである。
 まだドキドキしている胸を押さえながら、休憩室へと繋がる無機質な扉を開く。中で休んでいる同僚さんが、膝の上のヤンチャムを撫でる手を止めてこちらを振り向いた。
「コチョウさん? どうかしましたか?」
「あ、えと、すみません……またお願いしても……」
「ああ、わかりました。すぐに行ってきます」
 かじりかけの菓子パンを机の上に置いて、パイプ椅子から彼が立ち上がる。隣の椅子に座っていたタブンネが、ペットボトルの蓋を閉める手を止めて目をぱちぱちさせた。
「本当に申し訳ないです……この前だってイオンさんが休憩中だったのに代わってもらっちゃって……」
「いいですよ。そんな恐縮しないでください、誰だって苦手なものの一つや二つあるもんですから……あ、そいつら頼みますね」
 そう言って、彼が扉を閉める。バタン、という音の後に残されたのは私と、同僚であるイオンさんのポケモン、タブンネとヤンチャムだけだ。置いていかれたヤンチャムが、遊びを中断されたことに怒るようにして私を睨みつける。ぎろりとこちらを向く大きな目に「ごめんね」と呟くも、ぽつりと響くその声はヤンチャムへと伝わらない。慌てて駆け寄ったタブンネが彼に代わってヤンチャムを宥める。
 やっぱり、ダメだった。
 お客様のポケモンを前にして、固まってしまった身体と思考に溜息をつく。高校生らしい明るい笑顔で、こいつに合うフーズとおやつってどれですかね、と尋ねてきたお客様が連れていたポケモン。それを見た途端、私は動けなくなってしまったのだ。
 俯いた私の腰のあたりを、イオンさんのタブンネがぽんと叩く。にこにこと優しいその顔に私は少しの間だけ元気を取り戻したけれど、視界の端、監視カメラの映像を流すテレビの中を見た途端にその気持ちはしぼんでしまった。
『お待たせいたしました! ええと、そちらのガバイト様のご相談ですね。フーズでしょうか? それとも、キズぐすりなど薬品関係でしょうか?』
 慣れたように接客を始めたイオンさんに、高校生の彼も安心したように声を返す。その様子に申し訳なさとふがいなさで胸が痛み出して、次こそは自分で何とかしなければと決意が湧いた。
 だけどその気持ちすら、画面に映った蒼のドラゴンポケモンを見ると瞬く間に消え失せて、足を動かなくしてしまう。きゅう、と鳴きながらカメラを向いたその黄色い瞳が私を見た気がして、そんなはずは無いのだとわかっていても、ぞくりとした感覚が全身に走っていった。


 私が生まれ育ったカゴメタウンには、一つの言い伝えがある。
 町のそばにあるジャイアントホールという洞窟に、遠い昔に宇宙から隕石が降ってきた。その中にはとても怖い、オバケのようなポケモンが入っていた。そのポケモンは夜になると冷たい風と共に現れて、人やポケモンをさらって食べてしまうのだ。
 だから、夜には外に出てはいけない。そういう教えが町にはあって、住民たちはそれを守っていた。オバケの存在など誰も信じなくなった現代でも、町の住民はみんな心のどこかでオバケに対する恐怖と、ある種の信心深さのようなものがあったのかもしれない。
 ……と、思っていたのは五年前までだ。
 なんであの時、よりにもよってジャイアントホールなんかに行ってしまったのだろうかと今でも後悔している。当時私は十五歳で、まだ小さかった弟が夕方になっても帰ってこなかったから慌てて探しに行ったのだ。
 弟が十三番道路にいるのを見た、という町の人の言葉にいてもたってもいられなくなったのは今でもよく覚えている。もしも弟がジャイアントホールに行ってしまっていたら、と考えるだけで身体が凍り付くような思いだった。
 既に傾いている太陽の下を走り、木々をかき分けて進む。いくら弟の名を叫んでも返事は無くて、気がついたら十三番道路を通り抜けていた私はジャイアントホールの草むらに入り込んでしまっていた。
 いけない、と思った時には既に遅いのが世の常というものである。町では感じたことの無いような薄ら寒い風に鳥肌が立った私は、どうにかして早く出なければいけないという思いと、もっと奥に弟がいるかもしれないという思いを交錯させて草を掻き分けた。時折じっとこちらを見つめるようにして浮かんでいるルナトーンやソルロックは、本やテレビで見た時にはミステリアスで素敵に思えたのに、何を考えているのかわからない瞳には不気味さしか感じられなかった。
 モンジャラやピッピを避けながら草むらを走るうち、もう方角すらも見失っていた。弟を探すことも十三番道路に戻ることも出来ず、私は洞窟を前にして立ち竦んだ。
 どうしよう、そう思った時、後ろから鋭い声がかかった。
「おいお前、そこで何してる?」
 振り返った私は、一瞬で全身を固まらせることになる。
 私に声をかけたのは紫色の分厚いコートに身を包んだ老人で、白髪を覗かせる大きな帽子の下の顔は、私を咎めるように険しかった。その一歩後ろには黒いマントを纏った長髪の男性と、変わった髪型をした科学者風の男の人もいて、長髪の方は忌々しげな目で、科学者っぽい方はさしたる興味も無さそうに、私のことをそれぞれ見ていた。
 勿論、その人たちも不気味だとは思った。町で見かけることなんか、いや、恐らくどこに行ったってそうそうお目にかかれないような怪しさを醸し出している彼らを、怖いと思う気持ちは当然あった。
 しかしそれ以上に、彼らに追従しているポケモンたちの威圧感は凄まじいものだった。マニューラの眼が、金色に光って私を射抜く。サザンドラの三つの首が、鋭い牙をがちがちと鳴らす。ギギギアルの歯車が、無機質な金属音を響かせた。
 こんな強そうなポケモンは、見たことがなかった。もし攻撃されたらひとたまりも無いだろうと、頭の中に警報が発せられる。
「答えられないのか! もう一度聞くぞ、お前はここで何をしてる?」
 苛ついたように老人が言う。しかしそれでも、私の喉は動いてくれなかった。弟を探してるんです、小さい男の子を見かけませんでしたか。それだけ言えば良いはずなのに、その一言すらも出てこなかった。
 黙ったままの私に、老人と黒マントはさらに苛立ったみたいだった。キン、と耳をつんざくような音がして、それを耳が認識した時には、私の首筋にマニューラの爪が突きつけられていた。
 気絶しそうなほどの恐怖を覚え、目を見開いた私に黒マントが言う。
「ワタクシは、貴方くらいの年頃の子供が嫌いなのですよ……嫌な記憶を思い出しますからね。痛い目を見たくないというのなら、何をしていたのか早く言いなさい」
「我々も暇では無いんだ。かと言って、こんなところに一人でやってくるような奴には少々心当たりがあってだな……奴の仲間という可能性を考えると、黙って見過ごすわけにもいかぬ」
 ぐ、と突きつけられた爪が肌に食い込んだ。サザンドラの三つの口が、今にも私を噛みちぎりそうに歯を打ち鳴らす。ギギギアルの歯車が、一層早く回転する。逃げなきゃ、言わなきゃ、と思っているのに身体はちっとも動かない。冷たい風が頬を打ち、身体の震えは恐怖によるものなのか寒さによるものなのかわからなくなってきた。
 何も言わないままの私に舌打ちしたのは、老人と黒マントのどちらだろう。マニューラに何かを命じるように口を開いた老人に、もうダメだ、と思った私は思わず目を瞑った。
「――――――――」
 その時だった。身の毛もよだつような何かの鳴き声が、草木と空気を震わせた。その声は、それまでに吹いていた風など比べものにならないくらい冷たいもので、この世のどんなものでもたちまち凍らせてしまうような、そんな力を持っているように思えた。
 びくりと反応したのは私だけでは無い。苛ついていた老人と黒マントも、そして我関せずというように始終そっぽを向いていた科学者風の男もはっと顔をあげる。マニューラも声のした方を向いたために爪の位置が変わり、私はその場にへなへなと腰を抜かした。
 ぎゅっと表情を引き締めた科学者風の男が、草を踏みしめて歩き出す。そして数歩進んだところで、まだ私を睨みつけていた二人をせき立てるように言った。
「そんな子供に構っている場合ではありません! 我々の存在に気がついているということです、一刻も早く行くべきでしょう!」
「しかし、……」
「アレが目覚めている今、その子一人に何が出来ると? 見た感じ、ちっとも戦えそうにないじゃないですか! 捨て置いても問題ないでしょう、行きますよ!」
 老人と黒マントはまだ何か言いたそうな様子だったが、科学者風の彼の言葉に渋々といった感じでついていく。後に残された私は腰を抜かしたまま、木の幹にもたれかかってしばらく呆然とするしか無かった。がくがくと震えてへたり込んでいる私を、草むらに住むポケモンたちは遠巻きに観察していた。
 あれからどうやって家に帰ったのか、今でも全く思い出せない。ほうぼうの体で帰路を辿った私は、どうやら入れ違いになっていたらしい弟と母がいる家の扉をくぐり抜けた瞬間、玄関に倒れ込んだのである。それから数日間高熱にうなされて、毎晩のようにあの場面を再現した悪夢を見ていた。

 その後、ソウリュウシティは嘘みたいな大寒波に襲われて、街全体が凍り付いた。同時にプラズマ団という組織がイッシュのあちこちに現れて、威圧的な態度をとるようになった。それより二年前にいたような、ポケモンの解放を訴える組織と同じ名前を冠しているのに服装も雰囲気も全く違う彼らは、イッシュ中を騒がせた。
 しかしそれも短い間のこと。詳しくは明るみに出なかったが、イッシュの平和は一人の女の子によって取り戻されたのだ。プラズマ団の姿はすっかり掻き消え、異常なほどの寒さはまるでそれが夢だったかのようにあっけなく過ぎ去った。
 その後のカゴメタウンで変わったことと言えば、『オバケ』はキュレムというポケモンだったとわかったこと、それとそのキュレムは少女がどこかへ連れていったため、夜に出歩いても大丈夫になったことくらいである。得体の知れない不安感に縛られず、行動が自由になったカゴメタウンの住民は喜んだ。出張の多い私の父も、夜に戻ってくるのを避けるべく仕事先に泊まる必要が無くなったと笑顔で言ったし、母親も嬉しそうな笑みを返していた。夜は危ないから旅に行ってはいけない、という風習も意味を成さないものとなって、旅立てることを知った弟の喜びようといったらなかった。
 カゴメタウンは、夜の恐怖から解放されたのだ。オバケにも凍てつく風にも怯えることなく、月の下を歩けるようになったのだ。
 だけど、私は違った。私は夜どころか、朝も昼も夕方も、いつだって怯えるようになってしまった。
 あの時、ジャイアントホールで私が見た人たちのポケモン。睨みつけてきた六つの瞳。ぎゅんぎゅんと勢いよく回る歯車。喉笛に突きつけられた、長くて鋭い爪。
 そして、全身を凍らすような寒風を引き起こした、あの咆哮。
 何度も何度も夢に出てきたそれは、私の心をどんどん巣食っていった。侵食された心はトラウマというものに変わっていって、私を強く締め付けた。彼らとは違う、あの時見たポケモンとは違うんだ。そう言い聞かせても、彼らに似たポケモンを前にするだけで、私は心臓を吐き出してしまいそうなほどの恐怖に苛まれるようになったのだ。
 ポケモンが、怖い。
 とりわけ、あの時目にしたような強いポケモンや、ドラゴンポケモンが、怖くてたまらない。
 イッシュが寒くなったあの日を境にして、私はポケモンに恐怖を抱くようになってしまった。


「なんとか、しなくちゃ……」
 バイトのシフトが終わって、信号を待つ私はポツリと呟いた。その声に反応したのか、隣のお兄さんが手にするリードに繋がれたポチエナが幾度か吠える。一瞬びくりと身体を震わせて、私は思わず逃げ出しそうになった足をどうにか踏みとどまった。
「あっ、すみません……こいつ、吠え癖がいつまで経ってもなくならなくって」
「いえ……こちらこそ、びっくりしちゃって申し訳ないです」
 謝ってきたお兄さんに急いで返し、足下のポチエナにしゃがんで視線を合わせる。単に吠えただけのようだ、敵意の欠片も無い瞳がこちらを向く。はっはっ、と舌を出して私を見るポチエナはかわいいと思えた。毛並みの良い頭を少し撫でさせてもらったところで信号が変わり、私はお兄さんに会釈をして向こう側へと渡る。
 どうにかしなくては、と思って五年間。ポケモンに対するトラウマは、徐々に克服出来ているはずだ。
 あの日から間もない頃は、どんなポケモンでも見るなり発狂しそうになった。たとえそれがいかにも無害そうなルリリやププリンだろうと、はねるしか使えないコイキングだろうと、見た目も中身も優しさで溢れているミルタンクだろうと同じだった。ポケモンというただそれだけのことでも、私の恐怖を引き起こすのに十分だったのだ。
 それでも、カウンセラーやセラピー、通院を重ねてトラウマは少しずつ薄れていった。ポケモンを見ても心を乱さなくなったし、大人しいものなら触れるようになった。大学に上がる頃には自分のポケモンを持つという目標を達成し、今はミネズミと一緒に暮らしている。そこまで変わることが出来た。
 だけど、まだダメなのだ。あの出来事、あの恐怖を想起させるような怖くて強いポケモンと、私はちゃんと向き合うことが出来ないままなのだ。
 どんなポケモンとも接することが出来るように、と始めたフレンドリィショップでのアルバイトでも、さっきみたいに結局逃げてしまうことばっかりで、同僚の方々や店長には迷惑をかけっぱなしである。ドラゴンタイプや強そうなポケモンが来る度にあんな調子なのだ、これでは本末転倒も甚だしいだろう。
「やっぱり、このままじゃいけない」
 もう一度、そっと呟いた。私の右手には一つのモンスターボールが握られていて、傷のほとんどない表面は光沢を放っている。中にどんなポケモンが入っているかは、まだわからない。このボールに入っているポケモンは先ほど、バイト先に併設しているポケモンセンターの交換サービスでもらってきたばかりなのだ。
 グローバルトレードステーション、通称GTS。世界中誰とでもポケモン交換を可能にするそのシステムの一つに、ミラクル交換というものがある。
 交換相手は指定出来ず、交換希望ポケモンの特定も不可。誰とどのポケモンを交換したのかは、ボールを開いてのお楽しみというわけだ。ポケモンセンターのパソコンを使ってボールの中身を確認することも出来たのだけれども、私はあえてそうしなかった。
 どんなポケモンが来ても、その子を受け入れる。
 それが私の決意だった。何タイプのポケモンでも、どんな姿を持っていても、どれくらいの大きさでも関係ない。旅の途中に私の家へ立ち寄った弟が、「こいつ交換に出そうと思ってるんだよね」と一つのボールを示したのが三日前。その時にミラクル交換の話を聞いた私は弟に、自分に交換をさせてくれないかと頼んだのである。
「ま、どーしても無理だったら俺が引き取るよ」
 何が来るかわかんねえんだぜ、と不安気に念を押してきた弟は最終的に折れてくれて、そんな言葉を残して旅の続きへと向かった。ふがいない姉でごめん、と心の中で言う。言葉にも顔にも出さなかったけれど、弟はパートナであるオノノクスを、私の部屋で一度たりとも出さなかったのだ。
 次にあなたが来る時には、ちゃんとお出迎えするから。頭の中の弟にそう言って、私は手のモンスターボールにもう一度目を落とした。大丈夫。どんなポケモンでも、ちゃんと、向き合う。
 あれこれと考えているうちに、下宿先であるアパートに辿り着いた。学校からもほど近いこのアパートは学生や若者の一人暮らしを対象としていて、ポケモンの規則もかなり緩い。あまりにも臭いが強かったり高温だったりする場合は手続きが必要だけれども、持ってはいけないという決まりは無いのだ。
 だから、どのポケモンが来ても問題無い。改めて確認して、私はドアに刺した鍵を回す。ガチャリという音を立てて開いたドアの中に入ると、お留守番をしていたミネズミが駆け寄ってきた。
「ただいま、ナッツ」
 抱き上げて頭を撫でる。大学に連れていくことは勿論出来るのだけれども、どうやら悪い意味でトレーナーに似てしまったらしい。ナッツと名付けたこのミネズミは私と一緒に過ごすにつれて、引っ込み思案の人見知りになってしまったのだ。外、取り分け人の多い所に行くことが苦手な彼女を無理に連れ出すのもどうかと思い、基本的にはこうして留守を頼むことにしている。
 みはりポケモンなだけあってお留守番は得意らしいけれども、他のポケモンとも仲良くなれればいいと思っていた。だから今回のこれは私だけでなく、ナッツにとってもチャレンジなのだ。
 そう思うと勇気が湧いてくる。大きな目をくりくりさせて私の方を見ているナッツに、「がんばろうね」と声をかける。ナッツはわかっているのかわかっていないのか、小さな耳をぴくぴくと動かして、片手で私の頬を軽くつついた。
「よ、よし。いくよ、ナッツ」
 手洗いとうがいを済ませ、荷物を軽く整理した私は早速ポケモンを出してみることにする。私の緊張感をナッツも察したのか、半ば私の背中に隠れるようにしてボールをじっと観察していた。ごくり、と同じタイミングで私たちの喉が鳴る。
 一旦深呼吸をして心を落ち着かせる。どんどん速まっていく呼吸はちっとも収まってくれなかったけれど、これ以上ドキドキしたって仕方ない。ふん、と覚悟を決めて、私はボールのボタンを押した。
 ボールからポケモンが出る時特有の、赤い光が部屋に走る。鋭く眩しいその光に、私は思わず目を瞑ってしまった。
 瞼の裏に見える明るさが弱まってきた頃を見計らって、私はゆっくりと目を開ける。光が形作っていった像は実体化を始めていて、徐々にはっきりと姿を現していった。
「………………え?」
 クリアになっていくフォルムに、私の喉から声が漏れた。
 ボールから飛び出した、新しい、私のポケモン。
 
 このポケモンを、私は知っている。
 忘れたくて、忘れられなくて、どうしようもなかった、そのポケモン。

 半分以上が凍った、巨大な体躯。
 部屋を埋め尽くすほどの影を落とす、氷の翼。
 灰色の手足から伸びた鋭い爪と、口から覗く長い牙。
 空洞のような隙間に光る、二つの瞳が、私の身体を一瞬で突き刺した。
 あの日、私がポケモンに近づけなくなった日。あの時聞いた声の主の姿は見えなかったけれど、騒ぎが収束した後、イッシュに大寒波を起こした存在として姿形が公開された。三番目の竜は本当にいたのだと、世間では研究者を中心として大ニュースになっていたようだが、当時の私はそれどころでは無かった。テレビやインターネット、新聞などで見るその姿にジャイアントホールでの出来事を思いだし、震えるだけだったのだ。
 それ以降も、幾度もそれを見ることとなった。ポケモンに慣れてきてからも、その姿は見る度にあの日の恐怖を想起させた。だから、なるべく見ないようにしてきたのだ。あの日のことを忘れようと努めるように、悪い記憶は一掃してしまおうと。
 それなのに。

 その、姿が、私の目に映っている。
 私の部屋で、息をしている。
  
「……キュレム、」

 あの日の咆哮でイッシュを凍りつかせ、拭いきれない恐怖を私の心に植え付けたそのポケモンは、私の目の前で、氷の身体を誇示していた。


「…………っ!!」
 一瞬固まった思考が動き出す。逃げなくては。私とナッツ程度じゃどうにか出来るわけ無いし、このポケモンにおいてはもはや、バトルが強い弱いの問題じゃあ片づけられないだろう。とりあえず、少しでも早く離れることが何よりだ。
 だけどそれは叶わなかった。ベッドを背にしてボールを開けた私とナッツに逃げ道など無くて、外へ続く扉も、小さなベランダも、トイレとお風呂のドアでさえ、その道は全てキュレムの大きな身体で遮られていたのだ。ただでさえ狭い、一人暮らし用のワンルーム。家具や天井を上手いこと避けてキュレムが出てきたのはラッキーだな、と場違いな考えが頭に浮かぶ。
 七月の蒸し暑い部屋が、目を見張るスピードで冷えきっていく。それは恐怖によるものだけじゃない、本当に気温が下がっているのだ。瞬く間に下がった室温に、私は氷漬けになりそうなほどの寒さを感じる。この前夏毛に生え変わったナッツも、ガタガタと身体を震わせた。
 キュレムの目が、ぎろりとこちらを睨む。氷で出来た頭部の中、闇のように深い黒に浮かんだ光は、見たもの全ての身の竦ませる輝きを放っていた。
 終わりだ。頭の中で、そんな言葉が明滅する。
 もう駄目だ、どうすることも出来ない。私はここで、死んでしまうのだろう。いつか感じた恐怖が、何倍にも膨れ上がってリフレインする。
 克服した、はずなのに。せっかく、大丈夫になってきたのに。
 それなのに。
「!! ナッツ、だめっ!!」
 絶望のあまりベッドに座り込んでしまった私は、思わず叫び声を上げてしまった。まるで私を守るようにして、私の前に躍り出たナッツはキュレムを睨み返していた。私の制止の声も聞かないで、小さな身体を震わせたナッツが、全身の毛を総立ててキュレムへと飛びかかる。だめ、私の口からもう一度その言葉がこぼれ出る。
 長い尻尾までピンと張り、ナッツはキュレムの頭にかじりついた。勿論、キュレムにとってはかすり傷にもならないだろう。だめだ。すぐ、ナッツは。
 ナッツを助けなくちゃいけないのに、私の身体は力が抜けてしまって動かない。なんて情けないんだろう。あまりの恐怖で涙すら流せず、私は、これから起こる悲惨な光景を見たくなくて目を閉じてしまう。そうだ。せめて、これ以上の怖さを感じずに終わらせて欲しい。
「………………?」
 しかしいつまで経っても終わりはこなかった。ナッツの悲鳴も聞こえなかった。部屋は依然として寒さに満ちていたけれど、それ以外は静かなままである。窓の外から聞こえてくるハトーボーたちの鳴き声は、のどかに響きわたっていた。
 あまりに何も起きないので、私は少しずつ目を開ける。そして開いた先に見えたものを、無意識のうちに二度見してしまった。
 キュレムは怒っている様子すらなかった。自分の鼻先に噛みついているナッツを引き剥がそうとすることもなく、ナッツが離れるのを待っているようだった。時折、困ったような動きで首が小さく私の方を向く。
 まるで、これ取ってください、とでも言っていそうなキュレムに、ゆるゆると私は立ち上がった。目の前の巨体はまだ怖いままだったが、どうにか足の力は復活していた。震える手をゆっくり動かして、果敢にもまだくっついているナッツを抱き戻す。
 ナッツを腕に収めた私を、キュレムの鋭い眼光が射抜いた。やっぱり怒っているのではなかろうか、と私はびくりと震えてしまう。だけど、キュレムのとった行動は攻撃的なものじゃ無かった。
「……えっ」
 ぺこり、と大きな頭が下げられる。私やナッツ、部屋にあるものに当たらない程度の角度で動かされた首は、お礼を述べていると思って良さそうだった。
 キュレムの目と、私の目とがまた合う。その瞳だけでも、もしかしたら私の頭くらいはあるのではなかろうか。この大きな顎でガブリとやられたらひとたまりも無いだろう、そんな考えが頭をよぎる。
 でも、震えは先ほどより弱まっていた。部屋の寒さにも慣れてきた。私をじっと見つめているキュレムが、四肢を折り畳んでちんまりとしゃがみ込む。ちんまりと、なんて言葉がそぐわない大きさであるが、そんな言葉を使いたくなるくらいに穏やかな動作だった。
「…………………」 
 そっと手を伸ばす。触れた頭があまりにも冷たくて、私の心臓が跳ね上がった。
 だけどそれは、怖さを生むものじゃ無かった。キュレムとはこういう身体なのだろう、怖がる必要は無い。そう思って、私は伸ばした手をゆっくりと動かしてみた。
「…………はは、」
 キュレムが、気持ちよさそうに目を細める。その様子はまるで人間の子供のようで、小さなポケモンのようで。肩によじのぼってくるナッツの頭をもう片手で撫でてあげながら、私は思わず笑ってしまった。


「それにしても、なんで、こんな……」
 こんなポケモンが、GTSに。その疑問は声にならないで、溜息として私の口から抜けていく。
 何のポケモンが来ても受け入れる、とは言ったものの、まさかキュレムがやってくるだなんて思ってもいなかった。ほんの五年前までは存在自体が疑われていたのだ、希少価値だなんてものじゃない。『オバケ』だなんて言われてしまうくらいには、幻想上のポケモンだったのである。
 ランダム交換に出されている以前に、誰かのポケモンとなっていることにも驚きだ。ジャイアントホールからはいなくなったようだ、と何の根拠も無く思ってはいたけれど、よもや捕獲されていたとは。もしかしたら私は夢を見ているのかもしれない、と思って頬を抓ってみる。痛い。
「ポケモンセンターに行けば、あなたのトレーナーは調べられると思うけれど……」
 夢ではないようなので思案に戻る。GTSの係員に頼めば、『おや』など交換された時の情報を教えてもらうことは可能だが、それはやめておいた方がいいように思えた。何しろキュレムレベルのポケモンだ、もしかしたら悪い人が捕まえていたのかもしれない。そんな人のところにわざわざ返すのはイッシュのためにも、そしてキュレムのためにもならないだろう。
 調べようとするなら、ポケモンを窓口に出さなければいけないこともある。「このキュレムのトレーナーを探したいのですが」だなんて言ったところで異常者と思われるのが目に見えているし、それが本当のことだとわかってもらえた時こそ大惨事だ。平凡で地味で目立たない、一大学生としての私の日常は一瞬で終わりを迎えるに違いない。
「………………」
 それに。
 大きな頭をじっとさせ、うなだれているキュレムを見る。ひんやりとした空気を放つキュレムは、その冷気によるものだけじゃない、寂しそうにしているように捉えられた。
 もしも、キュレムのトレーナーが悪い人ではなかったとして。キュレムにとっては、それはまるで捨てられたという風に思ってもおかしくないのではないだろうか。交換に出されて、知らないところに行かされて。それを考えても、今は様子を見た方が良さそうだった。
 幸い、キュレムは私の部屋にギリギリ収まっている。ちゃんとポケモンとして分類されている以上、ごはんはポケモンフーズなどで大丈夫だろう。この冷たさは冬だと困ってしまいそうだけれど、今は夏。ポジティブな考えをするのなら、むしろ冷房がいらなくて助かるかもしれない。
どうにかなる。
キュレムさえ良いのなら、このポケモンと一緒に過ごしてみたい。そう思った。
「ええと、これからよろしくお願いします……、えと」
 ベッドから立ち上がって頭を下げた私は、そこまで言って言葉に詰まる。俯いていたキュレムが顔を少し上げて、どうしたんだというように首を捻った。ベッドの隅で様子を伺っていたナッツも不思議そうに私の顔をのぞき込んで、大きな目玉をきょろきょろとさせた。
 私が黙った理由は、キュレムの呼び名である。もしかするとニックネームをつけられていたのかもしれないが、それを私が知ることは出来ない。知るためにはGTSまで行かないといけないのだ。それに、もしキュレムが前のトレーナーに手放されたポケモンなのだとしたら、その名前をひきずるようなことをするのも気が引ける。
 かと言って、キュレム、と呼ぶのもどうなのか。しかし新しい名前をつける気にも、なんとなくなれなかった。
「ええと、…………キュレム、ちゃん」
 しばらく考え込んだ末、私が呟いたのはそんな言葉だった。それは自分のことかというように、キュレムが私の顔をまじまじと見る。ぎらりと光る目が私を睨み、思わずびくりと飛び上がってしまった。気に入らなかったのだろうか、との不安が胸の奥でぐるぐると回り出す。
 だけど、それはどうやら杞憂だったらしい。ひゅら、と短く鳴いたキュレムは、私のことをじっと見ているだけだった。本日二度目の脱力を迎えた私は、ほうっと息を吐きながら氷の頬に手で触れる。キュレムちゃん、ともう一度呼んでみると、空洞の中に見える瞳がほんの少しだけ、しかし確かに細まった。
 ちょこちょこと足を動かして、ナッツが近寄ってくる。そのままキュレムに接近したナッツは鼻先でつん、と反対側の頬をつついた。自分の片足ほども無いナッツをちらりと見やったキュレムは、まるで委ねるように目を閉じる。二匹の様子を見ながら無意識のうちに口元を緩ませた私は、最大の難点であったはずの『怖いポケモンに対する恐怖心』が消えていることに気がついた。
 人間、ボーダーラインを軽く超えた出来事に見舞われると、一周回って落ち着くものなのかもしれない。



「コチョウさん、なんかそわそわしてるねぇ」
 バイトのシフトを終え、帰り支度をしている私に先輩が声をかけてきた。彼は私と違う学校に通っている一つ上の人で、ここでのバイトも長いらしい。常に調子良い感じでぺらぺらと喋っているこの様子を、世間では『チャラい』と言うのだろう。悪い人では無いとは思うけれど、引っ込み思案の私は少し苦手である。どことなくサンダースを彷彿させる髪の毛にそんなことを考えた。
「もしかして、コレ?」
 からかうような笑みと共に先輩が小指を立てる。その意味するところは勿論違う、私は慌てて首を横に振った。それでも先輩はまだニヤニヤと「えー、絶対そうだと思ってたのに」などと、わざとらしく腕を組みながら言う。
 違いますって、と否定を重ねる一方で、そんなに顔に出ていたのだろうかと内心で首を傾げた。なるべく平素と変わらないよう、自然体を努めていたというのに、これでは何の成果も無さそうだ。彼氏じゃなくってもさー、絶対何かあったでしょ、と金色のピアスを光らせた先輩の目は確信に満ちている。私が浮ついていることがバレているのは明らかだった。
 違いますお疲れさまです、と強引に話を打ち切って会釈する。お疲れー、と軽いノリの声を背中に感じつつ、休憩室の扉を閉めた。
 自分のポーカーフェイスを過信していたらしい、結構上手くいっていると思っていたけれども間違いだったようだ。よく『わかりやすい』と言われる原因の一つはこれだろう、隠しているつもりでいた気持ちや心が、あっさり顔に出ていただなんて恥ずかしいにもほどがある。
 人生この先長い、もしかしたら私だってポケモンバトルに手を出すこともあるかもしれない。バトルは相手の手の内の読み合いだという、それなのにこんなわかりやすい性質をしていたらお話にならなそうだ。いつか始めるかもしれぬバトルのため、そしてそれ以前に今の日常のため。ポーカーフェイスに磨きをかけなければならない。
 とりあえず今日は学校もバイトも終わり、後は家に帰るだけ。よし、と心の中で気合いを固めて表情を引き締めた。
 きりりとした顔を作りながらショップ裏にある従業員通用口を出かかったところで、シャツの襟元をパタパタさせて暑そうにしている同僚のイオンさんが見え、お互いの存在に気がつく。これからシフトが入っているのであろう彼は挨拶の言葉を口にして、頭に乗っけたヤンチャムをそのままに、小さく首を傾げた。
「何か、いいことでもありました?」
 ポケモンバトルは、始めないでおこう。
 店長機嫌いいといーなー、と呑気に言った彼と、ぶんぶんと首を振って顔を赤くする私を不思議そうに見てくる、同僚のタブンネから逃げるように歩きながら、私は心からそう思った。

 そわそわしている原因とは、言うまでもなくキュレムのことである。キュレムが私の家に来て三日間経ったけれど、今のところ何の問題も無く、部屋が手狭になったこと以外は平凡な毎日と言っても良いだろう。むしろ何も無さすぎて少し不安になるくらいだ。
 キュレムはかなり大人しかった。それこそ、ソウリュウを氷漬けにしたとは思えないくらいに。しかしそれでも、あの子がキュレムであり、かつてのオバケであり、第三の竜であることは紛れもない現実なのだ。その証拠に、インターネットに溢れる情報も大学の図書室にある論文も、本屋に並んでいる学術書も、みんなあの子の姿に『キュレム』という説明を添えている。
 しかし、それ以上私が考えたところでどうしようも無い。ビニール袋に入ったポケモンフーズの缶が、私が歩くのに合わせて音を立てる。伝説と謳われたポケモンでも味覚は存外庶民派らしい、アレコレ与えてみて一番気に入ったと思えたのは最安レベルのフーズだった。袋の中で揺れている缶は、うちのショップでは安価の王者と呼ばれているものである。
 いいのかなあ、と思いつつ信号を渡る。横断歩道を半分ほど進んだところで、お散歩中らしいおばあさんとすれ違った。彼女の足下に寄り添うようにしているのは一匹のレパルダス。綺麗な紫色の尻尾が、一歩を踏み出すごとに緩やかな曲線を描く。
 しなやかな身体に斑点を散らしたこのポケモンが、前はすこぶる苦手だった。別に見かけは怖くないし、ちょっと狡猾っぽいところもある種族と言えばそうだけれども、危険というわけでは無い。ただ、プラズマ団なる人たちがよく連れているのを見て、プラズマ団に対する恐怖とない交ぜになっていたのだろう。紫とピンクとクリーム色のカラーリングをした彼らはプラズマ団を想起させ、ペルシアンとかブニャットとか、似た系統のポケモンが平気になってもレパルダスだけは例外であったのだ。
 それが平気になったのは、一体いつ頃だっただろうか。よく覚えていないけれど、遊びに行った友人の家にいたレバルダスがえらく人懐っこくって、じゃれつかれた拍子に気がついたら触れるようになっていたのがきっかけだったと思う。ゴロゴロと喉を鳴らして毛並みを擦り寄せてくるレパルダスを、私は確かに「かわいい」と感じた。そこに恐怖は、なくなっていた。
 あんな簡単に、あれっぽっちのことで怖くなくなったのだ。私という人間は何とも単純だなあ、と思いながらマンションのエレベーターに乗り込む。微かに聞こえる機械音を耳に受けつつ数秒待つと、私の部屋がある階に辿り着いた。こつんこつん、と足音を響かせて扉の前まで進む。
「ただいまー」
 鍵を回して扉を開くと、ちょこちょことナッツが玄関まで駆け寄ってきてくれた。その向こう、ワンルームの中央にうずくまっているキュレムが、氷の頭を少しだけ動かしてこちらを向く。それをちょっと傾けてみせたキュレムに、ナッツを抱きかかえた私はもう一度「ただいま」と言った。

 夏用に買ってきた、綿生地のパジャマがちょっと肌寒い。随分と涼しさを漂わせている部屋で、私は衣替えの際にクローゼットの奥へとしまい込んだカーディガンを引っ張りだして羽織ることにした。お風呂上がりでほかほかしていた肌はあっという間に冷めきって、濡れた髪には冷たさすらも感じられる。
 バスタオルにくるまっているナッツはいいが、キュレムをお風呂に入れるわけにはとてもじゃないけれどいかない。考えた末にタオルで身体を拭くことにした。こおりタイプだから溶けないように冷たい方がいいのかな、と思ったのだけれども、キュレムが好んだのは意外にも温かな濡れタオルだった。一説によるとキュレムは自身の冷気で自分を凍らせてしまっているらしい、元々が氷で無いなら人肌くらいがちょうど良いのかもしれない。
 闇の中の目を気持ちよさそうに細めるキュレムの頬を仕上げにもう一拭きして、電子レンジの中のホットミルクを取り出す。まさか七月にこんなものを飲むことになろうとは、と思ったけれどもそれはそれ。早くも私のベッドで眠そうにしているナッツのバスタオルを毛布に変えて、私はその隣に腰を下ろした。
「……ん、あのね。今日は大好きなドラマがあるの」
 普段、私はお風呂からあがったら割とすぐに寝てしまう。そんな私の生活リズムを覚えたのだろう、まだ寝ないのか、という視線をこちらに向けてきたキュレムを見上げて私はそう言った。
 リモコンを操作してテレビをつける。ぴ、という電子音に、キュレムも画面の方へ首を動かした。透き通った羽の一部が液晶にかかっていてちょっと見えづらい、キュレムにバレないようにして私は苦笑する。それでも画面のほとんどは見えるので、温かなマグカップを手に持った私は意識をテレビへと移した。
 程良い温度の牛乳がそっと唇に触れる。切ないバラード調のオープニングが流れ、タイトル文字が画面に浮かんで始まりを告げた。すぐさま提供のテロップに切り替わり、大手ボールメーカーやミュージカルアイテム会社の名前が次々に映される。
 今期一番人気であろうこのドラマは、家族愛を描いたもので幅広い年齢層に受けている。主人公である若者は代々エリートトレーナーを輩出している家の生まれで、本人もトレーナー免許を取得した十歳の頃からエリート教育を受けてきた。が、大学に入り、色々な人やポケモンと接するうちに価値観に変化が訪れる。そのままエリートトレーナーに、ゆくゆくはベテラントレーナーへと続く階段を昇るはずだった彼は、他者と戦うのでは無く他者を助けるポケモンレンジャーになりたいと思うようになったのだ。
 当然、家族は反対する。だから主人公はポケモンレンジャーを目指し始めたのをひた隠しにしていたのだが、そうそう上手くいくものじゃない。レンジャー養成スクールに密かに通っていた彼が教室から出てくるのを、現役エリートの姉に見つかってしまったのだ。
 ……というわけで、今週はその話を父親にリークされるところからスタートである。姉に見つかった時からそうなることを察していた主人公は家に帰るのを渋るが、相棒であるゾロアークの促しと、自分の覚悟を示すために父親と向き合うことにした。
『お前をそんな奴に育てた覚えは無いッ!!』
 父親の怒号が主人公を撃つ。厳しい性格をしているとはいえ、自分をずっと育ててくれた実の父に向けられた言葉に口を噛んだ主人公の表情に、私は思わず鼻の奥を熱くしてしまった。ただでさえ涙腺は緩い方な上、こういうのに滅法弱いのだ。急いでマグカップを置き、脇のティッシュに手を伸ばす。
『隠してたのは悪かったよ……だけど俺は本気なんだ! 誰かのためになりたい、誰かを助けるポケモンレンジャーになりたいんだ!』
『この家がエリートトレーナーの血筋であることはお前も知っているだろう! 我が一家に生まれた以上、エリートトレーナーとして生きるのがお前の一番の幸せなんだ! それがどうしてわからない!? 私も母さんも、そのためにお前を育ててきたのではないか!!』
『それはわかってる。俺をこんなに強いトレーナーにしてくれたことには、感謝しようとしてもしきれない。だけど……だけど、バトルだけじゃ駄目なんだ! 自分の強さのために戦うんじゃなくて、他の誰かのために……』
『うるさい!! まだ何のトレーナー種でも無い癖に、知った風な口を聞くな!!』
 ナッツはすっかり夢の中だが、鼻をすする私の隣でじっとしているキュレムは画面を見つめていた。ドラマを観ているのだろうか、人間の言葉がわかるのならばテレビの内容だって理解出来てもおかしくは無い。しかし先週まで観ていないであろうキュレムに、ストーリーの全貌はわかるのだろうか。
 そんな疑問が頭をよぎる。テレビの中では未だ親子のぶつかり合いが続いていて、互いに譲る様子は無い。父親の方は一見暴論を振りかざしているように見えるけれど、彼にだって事情があった。前々回での回想シーンで明らかになった過去。遅咲きタイプだったため、エリートになるまで物凄い苦難を経た父親。息子である主人公にはそんな思いをして欲しくないと、主人公が幼い頃から才能を開花させられるような教育を試行錯誤でしてきたのである。
 父親には、父親の事情がある。エリートになって欲しいというのは父親の切なる願いであり、主人公の幸せを心から思っていることに間違いは無い。だからこそ、主人公が慣れない道に踏み出して失敗することなどあって欲しくない、そう思う一心で反対をしているのだ。
 堪えきれない涙をティッシュで拭う私はそれを知っているが、当然ながら主人公は知らない。白熱する口論はどんどん激化し、悲鳴のような声で主人公が『父さん!!』と叫ぶ。
『父さんなどと呼ぶな!!』
 売り言葉に買い言葉、父親も激昂を隠さない言葉を返す。怒りの中に悲痛さがにじみ出た声で、父親は息子を睨みつけた。ああ、と私は胸が締め付けられる。
『お前みたいな親不孝は、俺の息子じゃない!!』
 そう、父親が言った時だった。涙で歪んだ視界の端に、私は一つの変化を捉えた。
「…………キュレム、ちゃん?」
画面に目を向けたままのキュレムは、ひどく寂しそうな様子をしていた。凍りついた頭部からは何の表情も、そして感情も読み取れない。
しかしそこには、確かに寂しさがあった。寂しくて、悲しくて、冷たいものがあった。
「……どうしたの?」
 父親の言葉に部屋を飛び出した主人公は、その勢いで家を出てしまう。だけどそんなことはどうでもよかった。あれほど楽しみにしていたドラマが、今は頭に入らない。ただ、隣で固まっているキュレムのことだけが気になった。
 私はこの子のことを何も知らない。強い氷の力を持っていて、五年前に何か悪用されたらしいことぐらいしかわからない。どんな風に過ごしてきたのか、どんな人と関わってきたのか、どんなポケモンに出会ったのか。それは、何一つ私の知るところでは無いのだ。
「…………キュレムちゃん」
 なんでそんな、寂しそうなの。
 尋ねようとした私の声は言葉にならなかった。聞いたところでキュレムが答えてくれるわけもないし、それ以上に、もしもキュレムが答えを告げてくれたとしても私が理解することは不可能だ。
 何か嫌なことでも思い出したのだろうか。仮にこの子が本当にトレーナーに手放されたのだとしたら、まるで父親に見限られたかのような息子である主人公にそのことが重なったのかもしれない。考えても正答は出ないとわかっていても、私の頭に色々な想像が浮かんでは消えていく。
 それでも、結局何も出来ない。私に出来ることなんて、臆病者でポケモンを怖がっているような私に、キュレムが来る前はドラゴンポケモンに近づけもしなかった……いや、今だって、キュレム以外のドラゴンタイプや、強い感じのポケモンは駄目なままだ。今日だってバイトの時に、ジバコイルを連れたお客様が話しかけてきませんようにと内心で願ってしまった。ギギギアルを思い出す、光沢を放った身体に照明が反射するたびに震えていた。何も買わずに出ていったことに安心してしまったのだ。
 それに、キュレムだってまだ怖い。大きさとか形とか、鋭い爪と牙とか。絶えず放っている冷気だって、少しでも敵意を帯びたら恐ろしいものにとって変わる。「想像よりも大丈夫そう」というだけで安堵の材料ではあるものの、ふとした瞬間に接するのを躊躇ってしまっていた。
 何も、変われていない。GTSでキュレムを受け取った時から、私は何も成長していない。
 こんな私に、出来ることなんか。何一つ。
「………………?」
 ふと、片頬に当たる冷気が強くなったのを感じた。俯いていた顔を上げる。と、キュレムが長い首を伸ばして、私を覗き込んでいるのがわかった。
 相変わらず何を考えているのかわからない、目とも呼べない目である光が空洞の中に宿っている。真相こそ謎であるが、ゆらゆらと揺れるそれはまるで、私を心配しているように闇を漂っていた。
「キュレムちゃん……」
 なんで、私なんかに、そんな。そう尋ねる代わりに、私はキュレムの顔に手を伸ばす。気がついたら伸ばしていたのだ。
 ひんやりとした感触に続いて、突き刺すような冷たさが皮膚を刺す。氷に直接触れているのだから当然だ、だけどそれでも、私は手を離さなかった。
 手から腕へ、腕から全身へと冷気が這い上がる。鳥肌が立ったが気にしない。固い頬にあてた手をさらに動かして、私はキュレムの首に腕を回した。
 寒くて、冷たい。
 でも。
「ありがとう、キュレムちゃん」
 口をついて出たその言葉は、『キュレム』じゃなくて『キュレムちゃん』に向けたと思う。オバケと呼ばれるような氷の竜じゃなくって、今私と一緒に暮らしている、このポケモンに。『キュレムちゃん』の冷たさは心まで凍りつかせるようなものなんかじゃなかったし、鋭い牙や爪はこの部屋の空気までもを引き裂いてしまうものでも無かった。
 キュレムだって、ただ一匹のポケモンなのだ。化け物でも怪物でも無い、ポケモンとして生きているのだ。
 テレビではCMを挟みながら、ドラマがまだまだ続いている。どこまでストーリーが進んだのかもうわからない、リモコンの電源ボタンを押すことすら惜しかった。今は、この子のことだけ考えていたかった。
主人公と、彼の友達の声がスピーカーから響いている。それを耳に滑らせて、寒い寒い七月の部屋で、私はキュレムの冷たい身体を抱き締めていた。



 ぶる、と私は身震いする。冷房もそこまで効いていないのに何故、とでも思われたのだろう、数席を挟んだ場所に座っていた生徒がちらりとこちらを見た。
 昨日、あのままキュレムにくっついて寝てしまったから風邪気味なのかもしれない。身体の中から湧き起こる寒気に、持ってきておいたカーディガンを羽織ることにした。鳥肌の立っていた腕を袖に滑り込ませる。
 本当ならば安静にして、早めに治した方が良いのだろうけれど、今日はそういうわけにもいかない。とある講義のゲストスピーカーとして、シキミさんが来ることになっているのだ。四天王の一人を務める彼女は同時に若い作家でもあり、人間とポケモンの関係を巧みに表現していると人気を集めている。
「これは、アタシたちのところに挑戦しにきてくれたトレーナーさんに言っていることなんですけれど」
 講堂のステージでシキミさんが話す。眼鏡の向こうの丸い瞳はいたずらっぽく、にこにこ笑顔と相まって愛らしさがあった。四天王にして人気作家という大物だけれども、見た目にも言葉にも、どこか親しみやすい雰囲気を感じる。
 なんでこんな著名人が呼べるのか、と生徒の間で様々な憶測が飛び交っていたが、どうやら今年度ホドモエ大の文学部講師に就任した人にシキミさんの知り合いがいたらしい。今日は私のような学部生だけでなく、一目見てみたいという他学部の生徒や他校の人たちも来ているようだ。講堂はほぼ満員である。
「人には人の、ポケモンにはポケモンの物語があるんです。世界には人もポケモンも数え切れないほどいますけれど……だけど、その分だけ、その数だけ。この世界には『物語』があるんですよ」
 明るい声で、シキミさんは語る。人には人の物語。ポケモンにはポケモンの物語。なるほど、キュレムのようなポケモンは確かに物語を持っていそうである。それも、壮大な大長編といった感じの。
「その『物語』の中の主人公は、その人、そのポケモンです。アタシの物語の主人公はアタシですし、この子、アタシのシャンデラの物語では、シャンデラが主人公。カトレアちゃんやギーマさん、レンブさんの物語ではあの三人がそれぞれ主人公です……あ、ちなみに。アタシが不在のため今日はリーグがお休みなんですけど、それをいいことに三人は用もないのにホドモエまでついてきました」
 今頃アタシそっちのけでマーケットで遊んでるんじゃないでしょうかね、とわざと拗ねた口調で言ったシキミさんに、講堂に笑いが巻き起こる。
 笑い声が響く中、私はシキミさんの隣で揺れているシャンデラの蒼い炎を見てぼんやり思う。シキミさんの物語では、シキミさんが主人公。シキミさんのポケモンも、四天王の皆さんも同じ。
 キュレムやシキミさんたちまでいかなくとも、確かにみんな、物語を持っているだろう。例えば右斜め前に見える青髪の男子生徒。彼はエリートトレーナーとして学内で有名な四年生だ、きっと胸の躍るような物語の主人公であるに違いない。
 或いは、通路を挟んだところにいる女子生徒。講義の始まる前の休み時間に聞こえてきた彼女とその友人らしき人の会話は、なかなかに波瀾万丈と言える恋愛の話だった。結構エグい話になりそうだけれども、それでも主人公たり得る人だと思う。
 それ以外の人たちも。休み時間、ポケモンと一緒に過ごしている他の生徒たちを思い出す。みんな自分のポケモンと楽しそうな時間を送っていた、彼らも彼らのポケモンも、それぞれの物語があるのだと思える光景だった。
 じゃあ、私は。
 ポケモンを怖いと思うようになったあの日から、恐怖の気持ちは抜けないまま。決して足を止めているつもりは無いけれど、確実に迷惑をかけている。
もしも私が、物語の読者だとしたら。
こんな主人公を、果たして好きになれただろうか。
「えー、話を戻します。そしてですね、人の物語やポケモンの物語、そうやって単独のものも勿論素敵なものです。 ですが! もっともっと、素敵なものがあると、アタシは思うんですよ!」
 具合があまり良くないせいか、思考が後ろ向きになっていく私に関係なく講演は続く。少しだけ声のトーンが高くなったシキミさんは、「それはですね」と数秒勿体ぶって言った。
「人とポケモンの物語です! 人だけでもポケモンだけでも無い、人とポケモンが助け合う物語。それこそが、アタシが書きたいと思うもので……そして同時に、読みたいと思うものなのですよ」
 さっきまで笑っていた聴衆が静まり返る。そんな講堂を一度ゆっくり見渡して、シキミさんは最後にシャンデラに目を向けた。穏やかな笑顔を浮かべた彼女は、相棒であるというそのゴーストポケモンと視線を交わし合う。
「人はポケモンと一緒にいることで、自分の物語をより良いものに出来る。ポケモンは人と一緒にいることで、より素晴らしい主人公になれる。私はそう思っていますし……それを裏付けてくれた、素敵な挑戦者たちも、沢山いました」
 彼らはとても魅力的な主人公たちでしたね、とシキミさんは思い出すような口調で言う。彼女の言葉に、話を聞いていた生徒のほとんどが鞄の中や机の上にあったボールをそっと手にとった。前の席の男子生徒が、黒地に黄色いラインの走ったボールを優しく撫でる。
 きっと、みんな自分たちの『物語』を思い描いているのだろう。今まで紡いできた話と、これから紡いでいくであろうそれが、ここにいる生徒の頭に浮かんでいるはずだ。『主人公』の入っている、『主人公』である誰かのボールがかつんと音を響かせる。
 ここには、シキミさんが言うところの『素敵な物語』が沢山ある。ここだけじゃない、世界中に溢れているのだ。人とポケモンが力を合わせて生み出していく、人とポケモンの物語が。
 じゃあ、私は。熱を持ってきたように思える頭の中に、そんな文字列が再び現れる。
 恐怖に苛まれて、その物語を紡ぐことすらもやめてしまった私はどうなのだろう。それではいけないと思って努力はしてきた、だけど、それはちゃんと物語になっているのだろうか。一度やめたものを取り戻そうとして、それは果たして間に合っているのだろうか。
 キュレムの姿が浮かぶ。ナッツの姿や、お客様のポケモンの姿。弟のオノノクスだって。
 私は彼らとの『物語』を、刻んでいると言えるのか。
「あ、いけない……ついつい喋りすぎちゃいましたね。今日の本題に移らないと」
 翳ってきた私の思考を打ち止めるように、シキミさんがぱちんと手を打った。ステージから離れたこの席からでもわかる、白い両手が何枚かの資料をめくる。これこれ、と言った彼女は「では、今日のメインテーマです!」と告げてから、資料の内容を目で追った。
「これはイッシュの正史にはおろか、神話としても消えかけていた話なのですが……最近、ダイビング技術の発達と研究者たちの奮闘によって浮かび上がってきた一つのストーリーです。遠い昔にいたという、王様の話なんですよ」
 古典を勉強されている生徒さんたちにとっては特に面白い話かもしれません、と前置きしたシキミさんの優しい声が読み上げるその物語が、マイクを通したスピーカーから響きだした。



 キュレムが私の家の住民となって、早十日。
 ゆっくり寝たら、風邪はすぐに治った。キュレムは相変わらず大人しく、ナッツは相変わらず外に出たがらない。私も相変わらず、ドラゴンポケモンが苦手である。
 キュレムがキュレムという種族である以外は、特別感の無い日々だ。何の変哲も無い、穏やかで平和な毎日。一定の涼しさを保った部屋で、私たちはのんびりと過ごしていた。
 日曜日である。外はじめじめと蒸し暑く、夏の雨が窓ガラスを叩いていた。開ければさぞかし鬱陶しい湿気がこの部屋に満ちることになるのだろうけれど、キュレムのおかげでひんやりとした室内は外の様子に関係なく快適だった。役目を失ったエアコンが部屋の上部でそっと眠っている。
 バイトの無いせっかくの休日だしどこかへお出かけしたら良いのかもしれないけれど外出嫌いのナッツは元より、キュレムを連れてのこのこ行ける場所など無い。私もあまり外に出るのは好きじゃないし、家でゆっくり過ごすことにした。
 昨日の夜からずっと聞こえる雨の音が窓越に響く。一緒に過ごすうちにわかったのだけれど、キュレムは意外にも熱いものが好きだった。冷凍庫にあったヒウンアイスよりもきのみスープを好むこの子は、温かいタオルを気に入っていたからそれも当然なのかもしれない。
 今も、キュレムの前には空になった皿が置いてある。その中に入っていたのは昨日の残り物のシチューで、電子レンジから取り出した時には湯気をたてていた。顔の氷が溶けないか少し心配になったけれど、とても固いそれはシチューごときじゃ変わらなかった。
 ゆっくり起きて、遅い昼食をとって。時計の針は四時を回った辺りだけれど、ガラスの向こうに見える灰色の空は目が覚めた時とあまり変化が無いように思えた。さして強くも弱くもない、勢いを変えない雨は降り続く。
 キュレムの羽を滑り台のようにしていたナッツは、遊び疲れたのか寝てしまった。食事を済ませた私たちの間には当たり前ながら会話は無く、しんとした沈黙が部屋を包んでいる。テレビでもつければ良いのかもしれないけれど、観たい番組があるわけでもない。雨の音だけが聞こえる部屋は、変わらず涼しかった。
「昨日ね」
 呟くように口を開く。私の声に、キュレムはひゅら、と短く鳴いて返事をしてくれた。身体が凍り付いているせいで一見無機質に見えるキュレムだけれど、体内から出ているその声は、普通のドラゴンポケモンのように生々しさを伴っている。とはいえ、私に対してするこの鳴き方は恐ろしいものではない。軽い相槌のような響きを持つ、耳にすんなり入ってくる音だ。
「バイト先に、マニューラを連れたお客様が来たの」
 キュレムが聞いてくれているようなので、私は話を続ける。コップの底に残った紅茶は冷めきっていて、沈んでいた茶葉のせいで色濃かった。
「私、マニューラが苦手なんだ。五年前……あのポケモンの、長い爪を向けられちゃってから、どうしても」
 喉元に突きつけられた切っ先の感触が蘇る。思い出すだけで体温を下げるその記憶は、あの金色に光る両眼と一緒になって浮かび上がった。
 あれ以来、私は苦手とするポケモンの中でも、マニューラに近づけないでいた。もしかしたらドラゴンポケモンよりも避けていたかもしれない。直接殺意を向けられたことは、今でも深い影となって私の中に残っている。
 黙った私に、キュレムが視線を向ける。呼吸に混じって低い唸り声が聞こえた。それに首を振って、私は口を開く。
「でも、昨日お店に来たマニューラは……ちっとも、怖くなかったんだ」
 友達の家にいたレパルダスの可愛さに、私は、プラズマ団に植え付けられていたレパルダスへの恐怖心を失った。それと同じだったのだ。お客様の背中に抱きつき、ポフレをねだるその姿は、あの時私を刺そうとしたのと同じポケモンだとは到底思えなかった。
 しかし同時に、同じポケモンなのだということもちゃんとわかった。あれは『マニューラ』という同じ種族であり、個体が違うだけなのだと。私がずっと、怯えてきたポケモンなのだと。そう、思った。
「なんでなんだろうね」
 ふっと、息を吐くような小ささで私は言ってみた。首を傾げたキュレムに笑いかけ、冷えた空気に目を閉じる。
「私が怖いと思ったのはあのマニューラだけで、他のマニューラは何も怖くない。そのくらい、頭では理解出来てたんだよ。ずっと前から……それこそ、あの日から、わかっていたつもりだった」
 だけど、実感を伴ったのは昨日だった。
 全てのマニューラを、全てのギギギアルやサザンドラを……全てのポケモンを、怖がる必要などどこにも無いのだと。
 そんなこと、飽きるくらいに言い聞かせてきた。理論的にならば理解していた。でも、胸に落ちてきた、頭の中の方まで染み入ったのは、昨日が初めてのことだった。
「どうして、今まで気がつかなかったんだろうね」
 私の疑問に、キュレムは答えない。もしも答えを持っていたところで、この子の言語を私がわかるはずもない。
「……明日は雨、止むといいね。キュレムちゃん」
話を変えた私に、キュレムはもう一度「ひゅら」と鳴き返す。相も変わらず降り続く雨は小さなベランダをひっきりなしに叩いていて、私たちの呼吸音を掻き消した。



 キュレムがうちに来て、二週間が経過した。あの子が私の部屋にいるのも、私の部屋が常に涼しいのも、もはや当たり前のことになっていた。
 今日はバイトが休みである。学校の授業が終わった私は帰り道に本屋に寄って、旅行雑誌を何冊か買った。大自然の絶景を表紙に謳ったシンオウ地方のガイドブックが、紙袋の中で音を立てている。
 いつまでも私の部屋だけにキュレムをいさせるのはいかがなものかと思ったが、しかしキュレムというポケモンである以上どこかにホイホイ連れていくことは出来ない。野生のポケモンはともかくとして、他の人間がいるところには行けないだろう。うっかり写真でも撮られてネットで拡散されたら、収集がつかなくなるどころの話じゃ済まない。
 それならば人目の無い場所が前提となるけれど、ジャイアントホールにわざわざ連れて行くというのも考えものだ。トレーナーすらも立ち入らない場所と言えばあそこくらいしか無いけれど、それがダメならイッシュ以外の地方を当たった方が早い。シンオウは自然が豊かで、かつ人口も少ないから良いかもしれない、と思った私は雑誌を買ってきたのである。
 いつも渡る信号で、大きなオコリザルとすれ違う。大変気性の荒い種族として知られているオコリザルは、力も強いため扱うにはある程度の腕力がトレーナーにも求められることで有名だ。下手をしたら、血管の浮き出る拳に骨を折られるくらいの話では済まないという。野生の群れには絶対に近づいてはいけないとは、よく知られた話である。
 だけど、私とすれ違ったそのポケモンは、自慢の拳を振るう素振りもなかった。固い毛並みに覆われた身体の真ん中あたりから伸びている腕は確かに猛々しかったけれど、その先の手は殴ることは無く、人間の手と繋がれていた。
 オコリザルよりもずっと小さな男の子は、何があったのかぐずっている。そんな男の子の手を引くオコリザルは顔こそ仏頂面なものの、そこからは怒りの欠片も感じられない。歩くスピードを男の子に合わせ、何度も何度も顔を覗き込んでは背中を叩いたりしている様子は、まるで優しい兄のようだった。
 オコリザルと手を繋いで、少年が歩いていく。彼らの様子に数秒目を奪われていた私も、点滅し始めた信号に気がついて反対側へと進み出した。手に持った紙袋の中身がガサリと揺れる。
 早く帰ろう、と思った。無性に、ナッツとキュレムに会いたかった。ナッツとキュレムと一緒の部屋に戻りたかった。
 それに、キュレムに伝えたいことがあった。早く行かなくては、と私は歩幅を早めて家路を急ぐ。いくつかの曲がり道の先、住んでいるマンションの入り口を抜けるなり、私はエレベーターに飛び乗った。階数ボタンを押して扉が閉まり、何秒かの静けさを経て狭い個室から足早に出る。
「…………?」
 ふと、私は一瞬足を止めた。私の部屋の前に、一人の女の子が立っていたのだ。
 Tシャツとミニスカートに合わせたスニーカーという動きやすい服装、暑い中履いているレギンスはスカートの中を見えないようにするためか、それとも草などから素肌を防ぐためか。カジュアルなデザインのキャップも相まって、恐らく旅トレーナーさんなのであろうという印象を受けた。頭の上でお団子にした長い髪は、ツインテールとなって腰の辺りまで垂れている。私よりも少し年下、学校に行っていたら高校生くらいだろう。細い身体つきはしかし同時に健康的で、活発なイメージを抱かせていた。
 こんな女の子を、私はどこかで見たことがある気がする。テレビかインターネットか、それとも新聞か。必死に記憶の糸を手繰り寄せてみるが、もやもやと霞んだ情報は思い出せなかった。まあ、旅トレーナーならばバトル大会に出たりもするであろう、そこで上位入賞して、その報道の模様を見たのかもしれない。
 そんな風に結論づけて、でも、なんで私の家にこんな人がと思う。旅をしているトレーナーは弟以外に知らないのだ、カゴメタウンで育った私の友人たちは、町の伝承によって旅をしなかったのだから。弟の世代あたりからは旅に出る人もぐんと増えたけれど、そのあたりの子たちに知っている人はいない。
 誰だろう、エレベーターを降りられないまま私は頸を捻る。もしかしたら弟の知り合いで、弟がここに来るよう連絡したのかもしれない。私は何も聞いていないけれど、言い忘れという可能性もあるだろう。それならば失礼の無いようにしなくては、と思って足を踏み出した。
「……あっ!! あのっ!!」
 背にしたエレベーターの扉が閉まる。それと同じタイミングで、女の子が私の存在に気がついた。
 大きな瞳が見開かれ、私を直視する。桃色に染まった頬は可愛らしさを感じさせたが、その表情はかなり切羽詰まったものに見えた。ツインテールが空中に綺麗な弧を描く。
「えっ……?」
 急に大声で話しかけられた私は、何と返すべきなのかわからず立ち往生してしまう。そんな私に駆け寄った女の子は息を切らしていて、困惑と期待と不安と、そして明確な焦りが浮かんだ両目は瞬きすることすらも忘れていた。
 お互い何も言わず、しばしの沈黙がマンションの廊下に訪れる。口をぱくぱくさせていた女の子は、すぅ、はぁ、と何度かの呼吸を繰り返した。
「あの、突然来て、すみません」
「は、はい……」
「私、ヒオウギシティのメイっていいます」
 曖昧に頷いて、私は彼女が口にした言葉を胸の中で反芻する。メイ。どこかで聞いたことがある気がするけれど、少なくとも知り合いの名前では無い。じゃあ改めてこの子は誰だろう、と脳味噌をフル回転させる私に、メイと名乗った彼女は隠しきれない焦燥の滲んだ声で言った。
「えと、いきなり本題で申し訳ないのですが」
 彼女の視線はさっきから、私を離さない。それから逃れることも出来ずに立ち尽くすしか無い私を見たまま、メイさんは「あの」と前置きしてから言葉を発した。

「あなたの家にいるキュレム、あの子、私の友達なんです」



「キュレム!!」
 玄関の扉を開けるなり、メイさんは飛ぶようにして部屋に入っていった。鍵の音を聞きつけていつものように出迎えようとしてくれたナッツが、自分の横を猛スピードで通り過ぎる彼女に驚いている。恐らくナッツに気がついてもいないであろう、長い髪を揺らしたメイさんはほぼ叫ぶようにしてその名を呼んだ。
「キュレム……!!」
 呼ばれたその存在も、彼女の声に大きな反応を見せた。部屋のものを崩したり壊したりするのを考慮しているらしく、立ち上がることはおろか動くこともほとんど無かったキュレムが、メイさんの声と同時に四つの足を動かしたのだ。羽の先が壁にぶつかって、すぐに元の姿勢に戻ったけれども顔はメイさんの方に向いたままである。
 メイさんは、そんなキュレムに飛びついた。氷の頭に腕を回した彼女は、ごめんね、という言葉を何度も何度も繰り返しキュレムに言った。
「ごめんね……私が悪いの、私がドジだから……ごめんね、キュレム」
 手放される思いなんて、二度とさせないって約束したのに。涙まじりのメイさんの声に、キュレムは静かに目を閉じていた。光の消えた闇を内包する頭部が、そっとメイさんの身体に預けられる。
 メイさんの泣き声が響く部屋に、私は近づくことも出来ずぼんやりと立ちすくんでいた。動かないままの私を不思議に思ったのだろう、ナッツがちょこちょこと近寄ってきてスカートの裾を引っ張る。その感覚で、私はようやく意識を取り戻した。とりあえず玄関の扉を閉める。丸い瞳を未だこちらに向けているナッツを、一度しゃがみ込んで抱き上げた。
 キュレムを抱き締めたまま、メイさんはしばらく泣いていた。腕に収めたナッツの温かさと一緒になって、私の胸に安堵が満ちていく。
 あの子のトレーナーは悪い人なんかじゃなかった、あの子を悪用する人ではなかったんだ。ようやくそんな思いが湧いてきて、私はほう、と溜息をついた。何を笑っているのか、という風に見上げてくるナッツに頬ずりをする。
「ちょっと寂しいけれど……でも、ね」
 メイさんに抱かれ、キュレムは幸せそうだった。そこに表情なんか無いはずなのに、何故だかキュレムが笑っているように見えた。それは多分私の見間違いなんかじゃなくて、本当のことだと思う。
 キュレム、キュレム、と名前を呼ぶメイさんの声が、涼しい部屋に満ちる。安心と嬉しさと、そしてほんの少しの寂しさが一緒になった気持ちに、私は目の奥が熱を帯びていくのを感じた。


「本当に、本当にお世話になりました」
 玄関に立ったメイさんが、深々と頭を下げる。恐縮しきってしまった私は慌てて首を横に振った。
「いいんですよ! 仕方ないです、間違っちゃうことくらい誰でもありますって」
 メイさんは落ち着いた後、なんでキュレムというポケモンがGTSに出回ってしまったかを説明してくれた。驚いたことにメイさんは、イッシュを揺るがしたソウリュウ凍結事件を解決し、プラズマ団を壊滅に導いた一人らしい。そしてようやく思い出したのだけれども、メイさんはポケモンリーグのチャンピオンを倒したトレーナーだ。道理で、顔や名前を知っているはずである。
 さて、イッシュの英雄となったメイさんはチャンピオンの座につき続けることは望まず、そのまま旅を続けることとなった。細かい話は聞けなかったけれど、殿堂入りを果たした少し後にキュレムはメイさんのポケモンとなったのだという。プラズマ団に利用されていたキュレムは解放され、ジャイアントホールに戻っていたらしい。
 オバケと忌み嫌われ、やっと自分の元に来てくれた者は自分の力を目当てとしていた。それが必要なくなったからあっけなく捨てられ、キュレムはどんな気持ちであの洞穴に帰ったのだろう。
 ぐ、と私の手に力が入る。メイさんも目を伏せて、唇を噛みしめるようにして言った。
「この子とトモダチになろうと思ってジャイアントホールに行った時、とても冷たい目をしていたんです。だから、もうずっと、寂しい思いなんかさせないって誓ったのに……」
「………………」
「それに……あんなやり取り、目の前で見ているから……尚更……」
 呟くみたいに紡がれたメイさんの言葉の意味はわからなかった。聞かない方が良いように思われたので、私は黙っていた。テレビの親子喧嘩を見るキュレムの様子が脳裏に浮かぶ。
 メイさんの気持ちが通じて、キュレムはメイさんと共に行くことを選んだ。しばらく一緒に旅をしていたのだけれど、ある日事故は起きてしまった。
 バトルサブウェイにチャレンジするため、メイさんはキュレムを一度ボックスに預けたという。そのままGTSを使おうとしたところまでは良いのだが、ランダム交換に出すはずだったポケモンと間違って、隣にいたキュレムを選択してしまったらしい。
 とんでもないミスですよね、と、もの凄く申し訳なさそうな顔をしてメイさんは重ね重ね謝ってきた。メイさんが間違いに気がついた時には既に遅く、キュレムはGTSの海に放り出されてしまったらしい。しかもどこの誰と交換がなされるのかもわからないシステムだ、パソコンを前にして、メイさんはしばらく動けなかったと言うが同感である。
 交換相手がホドモエのセンターを使った、ということまでは割と早い段階でわかったみたいだが、その先が長かった。ある程度の手続きを踏めば交換相手をセンターに教えてもらえるといえばそうなのだが、何せ交換に出したのがキュレムなのだ。正規の手続きを踏むわけにもいかず、人脈を駆使したメイさんが私に辿り着いたのは、交換から二週間が経った今日というわけである。
「でも、交換相手があなたで本当に良かったです。もうおしまいだと思いましたから……キュレムの力を使えばイッシュを征服することだって出来るかもしれない。そう考える人がいてもおかしくないから、もう、キュレムは無事じゃいられないと……」
 それどころか、ちゃんと受け入れてくれる人で。本当に良かった、とメイさんはもう一度繰り返した。その言葉が恥ずかしくて、私は思わずはにかんでしまう。こちらこそキュレムと暮らす日が来るなんて思ってもなかったけれど、楽しかったと答えると、彼女は驚いたように目を見開いた。
「……でも、怖くなかったんですか?」
 メイさんが首を傾げる。二つに結わえた長い髪が動きに合わせてふわりと揺れた。当たり前の感覚、当たり前の質問。投げかけられたそれに対して、私は正直な答えを返す。
「はい。勿論……とても怖かったです。それどころか、私はドラゴンポケモンや強そうな見た目のポケモンだけでも、すこぶる苦手なんですよ」
「えっ、じゃあキュレムは……」
 不安気な顔になったメイさんに、私は黙って頷く。
 今でも、あの咆哮を忘れたわけじゃない。あの日の恐怖は薄れることはあれど、私の中からずっと消えないのだろう。三匹のポケモンに向けられた敵意も視線も、そして突き刺さるような寒さだって、ありありと思い出すことが出来る。怖い記憶は、なくなってなどいない。
 それでも。怖いことに、変わりはなくても。
「だけど、大丈夫なんです」
 きっぱりと言い切った。こんなこと、少し前の私には言えなかったし、考えもつかなかったと思う。
 そう思えるようになったのは何故か。答えなんて簡単だ。
「全てのポケモンは、人間の隣にいることが出来るし……同じように、人間だって、どんなポケモンの隣にもいられるんですから」
 キュレムが、そう教えてくれた。
 キュレムだけじゃない。ずっと、私は教わりっぱなしだったのだ。ナッツだってそうだし、弟もそうだ。バイトの同僚さんとタブンネたちも、お客様とそのポケモンも、学校の友人やカゴメの人々も、街ですれ違うポケモンも、ドラマの中の登場人物も。あの、やたらと人懐っこいレパルダスだって。私が今まで見た人とポケモン、その全てが教えてくれていた。
 そして、あの日に見た三人の男と、彼らの連れたポケモンたちもそうである。私にとって「怖い」ものでしか無い三匹のポケモン、しかし彼らは少なくとも、自分のトレーナーの隣にいた。人間である、男たちの隣にいたのだ。どんな怖い存在であっても、彼らだってポケモンで、人間と一緒に生きる存在だったのだ。
 今になって、ようやく気がつけた。いや、今だから気づけたのだろう。
 キュレムという、恐怖そのものであった存在と隣合うことで。
「それは……どんなポケモンでも、どんな人でも。トモダチになることが出来る、ということでしょうか」
「友達……?」
 私の言葉に目を丸くしていたメイさんが、ふとそんなことを言った。友達という唐突な言葉に、私は少しの間考え込んでしまう。
 メイさんが口にしたその言葉は、何か特別な響きを持っているように感じられた。メイさんが、どんな思いでその言葉を発したのかは私の知るところでは無い。きっと彼女にとって、大きな意味のある言葉なのであろうことだけはなんとなく理解出来た。
 私には深くわからない。だけど、それはきっと、素敵なものなのだと思った。
「そうですね。友達……トモダチに、なれると思います」
 そんな返事をした私に、メイさんはにっこりと微笑んだ。その笑顔はイッシュの英雄のそれでも、チャンピオンを倒した強者のそれでも、ましてやどこかで聞いた王者のようなものでもなく――ポケモンを「トモダチ」と呼ぶ、一人の人間の少女の明るい笑顔だった。

「そろそろ、私たちはおいとまいたします」
 改めてありがとうございました、とメイさんが再度頭を垂れる。今度ちゃんとお礼に伺いますので、と形式ばった言葉に、私も再度首を横に振った。
 キュレム、とメイさんが私の後ろに声をかける。まだボールに戻されずにいたキュレムは、ほんの数十分前までそうしていたように、狭いワンルームに座ってナッツと遊んでいた。長い首がこちらを振り返る。
 もう少しゆっくりしていけばどうかと申し出たのだが、メイさんは急ぎの用事があるからと断りの返事を述べた。キュレムを探すのを手伝ってくれた人たちのところに行かなくてはいけないそうだ、そういうことなら引き留めるわけにもいかないだろう。
 メイさんとは連絡先を交換した。お互いの都合が合う時にまた会いましょうと、年相応の屈託のない表情で彼女は言う。
 だからいつでも会えるのだ。今生の別れだなんてものとは程遠い。メイさんとも、キュレムとも。
「メイさん、」
「はい?」
 だけど、もうちょっとだけ。
 私は、キュレムと話したいことがあった。
「少しだけ……いいでしょうか?」
 キュレムの方を見ながらそう尋ねた私に、勿論です! とメイさんが頷く。気遣ってくれたのであろう彼女は、私に会釈をすると玄関の扉から外へと出ていった。本当にいい子なのだなあと感心してしまう。
 バタン、と扉の閉まる音がして、私とキュレムとナッツが部屋に取り残された。ここ二週間の、いつもの光景。この涼しい部屋で私たちは、静かだけれども心地よい時間を過ごしていた。
「キュレムちゃん」
 私の声が静かに響く。ナッツを背中に乗せたまま、キュレムはじっと私を見た。
 その状態で、私たちの時間はしばし止まる。まるで世界から切り取られたような、永遠に続きそうにも思えるこの時間。氷に囲まれた闇の中に蠢く、キュレムの目の光だけが動いているみたいだった。
「キュレムちゃんがうちに来た時、私、すごいびっくりしたよ」
 私の話を、キュレムは少しも動かずに聞いている。なんでそんなに静かなのか、という風にナッツが目をきょろきょろとさせた。
「あまりにびっくりして、逆に冷静だったかもしれない……どうしようとか、どういうことだとか、そんなことが頭の中に広がってた。これからどうすればいいのかな、ってぼんやり思ってたんだよ」
 ボールを開けて、赤い光が霧散した時の衝撃を思い出す。私にとっての、恐怖の象徴。それがよりにもよって、私のポケモンとして現れたのだ。あの時の驚きは計り知れないと思う。
「そのぼんやりがちゃんと晴れないまま、なんとなく、キュレムちゃんと過ごして。そうしたら、意外と普通に過ごせたんだよね。私の部屋が狭いことは問題だけど……でも、キュレムちゃんとの毎日は思っていたよりも普通で、平凡で、穏やかで……」
 そして、楽しかった。
 あの咆哮の主、氷の竜と、こんな幸せな日々が送れるだなんて。神の気まぐれか何かの運命かわからないが、ランダム交換の偶然が起こり得なければ一生知らずにいたに違いない。
「キュレムちゃんは、キュレムちゃんだった。オバケなんかじゃない、怖いだけのポケモンじゃない。あなたは、私にとって、キュレムちゃんなんだよ」
 
人には人の。
 ポケモンにはポケモンの。
 それだけの数の物語があるのだと、シキミさんは語っていた。
 その物語の一部しか知らない癖に、その一部が嫌なものだったからという理由で続きを読むのをやめてしまうのは、どれほど愚かなことなのか。キュレムとの出会いは、それを教えてくれた。
 『オバケ』としてのキュレムと、『イッシュに寒波を呼んだ氷の竜』しか知らず、それを怖いと思った私はキュレムという物語から目を逸らしかけていた。怖くて冷たいキュレムの物語を、もう読み解こうとは思っていなかった。
 それでも、キュレムが私の家に来て、私の中でキュレムの物語は動き出した。それは今までのストーリーとは違い、『キュレムちゃん』としてのキュレムの物語だった。

 私の知らない、キュレムの物語。
 優しくて温かくて、幸せの物語。
 それを読むことが出来たのは、どれほどの幸福だというのだろう。

「キュレムちゃんは、私の思っていた『キュレム』とは違っていた。そのことを知るはずは無かった私だけど。知ることが出来て、嬉しいよ」

 そして、私の物語も今までとは違う展開を始めた。シキミさんが素晴らしいものだと言う、ずっと面白いものだという、『人とポケモンの物語』。キュレムと私の間に、出会うはずのなかった私たちの間に、新たな物語が息づいたのだ。
 キュレムの物語も、私の物語も。そして、キュレムと私の物語も。世界中の物語は私が知っているよりもずっと複雑で、ずっと鮮やかで、ずっと深くて。
そして、ずっと尊いものなんだと思う。

「キュレムちゃん、あのね」
 ひんやりとした頬に手を当てた。こちらを見ている二つの瞳、表情という表情の無いその場所から感情を読みとれるようになったのはいつだったか。
 五年前のあの日、肌に感じた寒風よりも、今手から伝わっている冷たさの方がよほど激しいはずだ。だけど何故だろうか、それは全然気にならなかった。
「昔々、イッシュに王様がいたんだって」
 キュレムが首を傾ける。シキミさんの講演で聞いた話を思い出しつつ、私は「マイナーな神話だけどね」と付け加えた。
「王様はとっても強くて、ポケモンと人間を仲間にした人なんだよ」
 遠い遠い昔、イッシュにいたかもしれない王様。正史に残ることも無く、神話としても掻き消されていた王様の話の真偽を確かめる術はない。今だってどこかに王の末裔がいるのかもしれませんよ! とシキミさんは興奮気味に話していたが、そんな王様がいたのかどうか、そんな出来事があったのかすらわからないのだ。
 戦いを嫌って平等を謳い、感謝の気持ちを抱く王様は人々の希望で、理想だった。全てのものを愛する力を持った王様は、全てのものと言葉を通じ合わせることが出来た。生きとし生ける全てのものと、王様は会話し得たのだ。そんな王様は人の姿をしていたけれど、ある時、ポケモンとも話すことが出来ることを知った。
 生きとし生けるもの。ポケモンは、人間と同じだったのだ。
「それでね、王様は……ポケモンたちのことを『生き物』と呼んだんだって」
 人もポケモンも、みんな生きている。この世界に生きる、相隣者なのだ。
 人と、ポケモンは、同じだった。
 遙か昔に生きていたかもしれない王様は、人と、ポケモンを、仲間だと。そう、語った。
「この前までの私だったら、その話の意味もわからずにいたと思う。でも、……」
 言葉を切った私の顔を、キュレムは優しく見つめていた。その目をちゃんと見つめ返して、私は「でもね」と笑ってみせる。
「本当に、その通りだ、って思えたの」
 それは、キュレムのおかげ。この世界の、全ての人とポケモンのおかげ。数え切れない『物語』の主人公たちのおかげだ。
 その全員にお礼を直接言うことは出来ない。けれど、一番私の近くにいるあなたには、どうしてもこの言葉を伝えなくちゃいけないし、この言葉を伝えたかった。
 すっ、と一度深呼吸。綺麗な氷の身体を目にしっかりと収めて、私はとびっきりの笑顔を作る。 
「だからね、」
 キュレムちゃん。すっかり呼び慣れたその名前は、よくよく考えてみれば随分と気の抜けるものだ。しかし舌によく馴染んでいるのは否定出来ない。キュレムという種族名と愛称が混ざって、なんともカオスで間抜けな感じなのが私たちの『物語』らしくていいかもしれない、ということにしておいた。
 氷の頬をそっと撫でる。少しだけ細くなったように見える二つの光に、私はそっと囁いた。

「ありがとう」

ひゅら、と小さく鳴いたキュレムのその声は、涼しさの漂う部屋に優しく溶けていった。



「すごいキズぐすりが十点、やけどなおしが五点、ねむけざましとこおりなおしが三点ずつ、なんでもなおしが六点……こちら三割引になりますね。で、……クーポンご利用で、合計一万五千八百円になります」
「えっと、カードでお願いします」
 受け取ったクレジットカードをレジに滑らせて、籠の中の商品を袋に詰める。大量の回復アイテムを買い込んだお客様は、夏休みの旅行中のバトルに備えるのだと教えてくれた。強いトレーナーがいっぱいいるところだから準備を整えておかなくちゃ、とカードを財布にしまいながらお客様が意気込む。
 そのお客様は、よもやモデルかと思うくらいの美人さんだった。綺麗な金の髪を空調の風に揺らした彼女のスカートから覗く、長い脚の白さが窓から差し込む日光に映える。スタイルまで良い上に恐らくバトルもかなりの腕なのだろう、私はこっそり溜息をついてしまう。
 お客様の頭には一匹のモルフォンが止まっている。大きな目玉をぎょろぎょろさせたモルフォンは、袋詰めをしている私の手元をじっと見ていた。きらきらと光る鱗粉がいつどくのこなに変わるかちょっと不安だったけれど、そんなことは無いと思おう。
 モルフォンの少し下には、シュバルゴとアギルダーがお客様を挟むようにして浮いている。シュバルゴは槍、アギルダーは目をそれぞれ鋭く光らせて、主に仕える騎士と忍者のようにお客様に付き添っていた。さらに足下ではアリアドスが八本の脚で辺りを伺っている。涼しげなサンダルにぴたりとくっついたその様子は、まるで甘えているようにも見えた。
 ちょっと前までの私なら、彼らの種族だけで判断し、「怖い」という思考から動けなかったのだろう。ドラゴンタイプでは無いため流石に逃げ出すまでは至らずとも、強い力を持ったポケモンはみんな怖く思えたのだ。
 でも、今はその先に進めるようになった。私にとっては怖く感じる彼らも、お客様にとっては大切なポケモンである。彼らはお客様のことを慕い、そして隣にいるのだ。そんな考えが、出来るようになった。
「ありがとうございました、またのご利用をお待ちしています。バトル、頑張ってくださいね」
「はい!! ありがとうございます!!」
 元気良く頷いたお客様は、四匹のむしポケモンと共に意気揚々と自動ドアの外へ出ていった。仲睦まじいお客様たちに、私の口元が無意識のうちに綻ぶ。が、一度閉まってから大した間も置かずに開いたドアに顔を引き締めた。
「いらっしゃ……」
 思わず、言葉が止まる。しかし入ってきた新たなお客様は私の挨拶なんて気にもしない様子で、目当ての商品を籠にいくつか放り込み始めていた。ベテラントレーナーらしき風格を漂わせる、背筋のいい初老の男性は、キズぐすりをいくつか籠に入れるとこちらに向かってくる。
 その隣にいるポケモンに、私は身体を固まらせていた。三つ首のドラゴンポケモン。あの日、六つの瞳で睨みつけてきたのと同じ、大変凶暴とされるその種族。
 男性はきっと、このままレジに来るだろう。そうなれば当然私が対応することになる。ドラゴンポケモンを連れたそのお客様と、私は話さなくてはならない。
 どうしよう。バックヤードにいる先輩に代わってもらおうか。私の事情を知っている彼は、からかいながらも出てきてくれるはずだ。
 そう、するべきだろうか。

 ひゅら、と聞こえるはずのない鳴き声が、その時耳の奥に響いた。
 それはあの咆哮と同じ声で、あの、とてつもなく怖いものと同じものだ。
 だけど、だからこそ。その声は、バックヤードに向かいかけた私の足を止める。

「……いらっしゃいませ! 毎度ご利用ありがとうございます」
 すう、と息を吸ってから、私は言いなれた接客文句を口にした。ちょっとつんのめった言い方になってしまったけれども、そこは気にしないでおこう。片眉を上げたお客様から微妙に目を逸らし、私はレジを打つのに専念する。
 ぴ、ぴ、と短い電子音が店内に響く。代金を告げた私にお客様が支払いをし、私はお釣りを手渡した。
 大丈夫だ。ちゃんと、出来ている。
「ありがとうございました! またのお越しを、お待ちしております!」
頭を下げた私に、お客様が微笑んだ。そして、その横。
お客様に寄り添っていたサザンドラの三つの首が、私に向かって笑いかけた。幾本もの牙が覗く口はにっこりと弧を描いていて、あの日に感じたような恐怖は存在していなかった。
 さて、シフトはあと一時間。今はボールに隠れてしまっているけれど、今日はバイトにナッツがついてきているのだ。キュレムがいなくなって寂しいらしいナッツもまた、ちょっとだけ変わり出した。少しずつ外に出るようになっていて、いつかメイさんとキュレムと一緒に、どこかへ出かけられる日も近いかもしれない。
 物語は進んでいる。私の物語も、ナッツの物語も。今どこにいるかはわからないけれど、キュレムやメイさんの物語も。あの日に見た三人の男の人たちと、彼らのポケモンの物語だって進行中のはずだ。その全部が、素敵なハッピーエンドを迎えられるといい。
 ビニール袋を手に提げて、お客様はサザンドラと隣合ってフレンドリィショップを出ていく。その背中に、もう一度「ありがとうございました」を言った。その言葉はお客様とサザンドラに向けたものであり、同時に、全ての『物語』の主人公へのものだった。


 キュレムちゃん。ありがとうね。


 最後に、二週間、私たちの物語の主人公だったあの子に向けてそう告げて、私は背筋をピンと伸ばす。

「いらっしゃいませ!」