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  [No.4135] 赤紫色の見識 投稿者:まーむる   投稿日:2019/10/23(Wed) 23:59:43   22clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:ペンドラー

1.

「不平等だけは平等だよ」
 そう、いつしかほざいた貴方は見るも無残に殺されたでしょうか。
 幼い頃から聡かった貴方の言葉は、今思うと生まれながらにして強く在れた勝者が世の中を斜めに見ただけのものにしか見えません。
 そんな言葉は、言えるだけの余裕がある者しか言えないのです。もう会う事も無いでしょうが、私は貴方がその言葉に則って不平等に不幸が訪れる事を切に願って止みません。

 今年も夏がやってきました。毎日が日本晴れをせずともそれ程の日光を輝かせる太陽は私達、所謂虫という部類に入る者達が育つにはとても快適です。
 私達は寒くては育つ事は出来ませんし、またこの地では冬を越せずに夏から秋に掛けて一気に成長し、そして一生を終える種も居ます。
 夏はそんな私達にとってはとても重要な季節なのですが、それはまた、最も危険な季節でもありました。
 私達の天敵である炎を扱える種族達もまた活発になりますし、私達が成長するのを狙って来る鳥達も多く訪れます。
 そしてそれらよりも最も危険なのが人間でした。
 私達が強く繁殖しては私達自身困る事が多い。それは分かってはいるのですが、それを理由にして駆除という名の殺戮が毎年発生します。
 不利な相性であり、そして純粋な力量も虫という種族の中では比較的長く生きている私よりも遥かに強い獣達を数多く引き連れて、的確に私達虫を殺していくのです。
 私が強い雄と産んだ数多くの卵を壊され、そして、息子、娘を灰にされた事ももう、二度や三度ではありません。
 それに立ち向かった番はその後、同じく灰となりました。
 沢山の獣に狙われるから沢山の卵を産むのです。そして沢山の卵を産むから沢山の獣に、そして人間にも狙われるのです。
 どちらが先で、どちらが後なのか私には分かりません。
 ただ、どちらが先でどちらが後でも、そうして沢山の命の中で運良く生き延びて新しく命を繋げるような生き方は、続けるには辛いです。
 ――もし、神様というものが存在したのならば私は切に問いかけたい事があります。
 私達は、貴方に気に食わない事でもしたのでしょうか?



 ウワンウワンと、成長を遂げたスピアー達が羽音を響かせながら森の中を飛んで行く音で私は目覚めました。日がまだ明けない早朝、私にとっては行動し易い時間です。
 寝ている間に自分に掛けていた鉄壁の効果が多少落ちていて、私は全身に力を込めるように鉄壁を掛け直しました。
 フシデからホイーガになれた時に私の父が言った事です。
「その姿になった時だけに、自分の体を固くする、鉄壁という技を覚えられる。
 ただ、厄介な事にな、強くなってもそれは覚えられないんだ」
「どうやって覚えるの?」
「とにかく、どんな手段を使っても自分の体を固くするんだ。
 鳥達に突かれようとも、鳥のクチバシが壊れてしまう程の固さをイメージしたり。
 木や岩に何度もぶつかって、自分の体を鍛えたり。
 そうしていると、いつしか覚えている」
「強くなるのと何が違うの?」
「それはお父さんにも良く分からないんだ」
「ふぅん……。それで、覚えると何が良いの?」
「お父さんのお腹、触ってごらん?」
「……むっちり柔らかいね」
「だろう? サナギのその姿の時より、このペンドラーという肉体は柔らかくなってしまうんだ。
 でも、その技を覚えれば大丈夫。ふんっ! と力を入れて鉄壁をすれば、この通り、カチンコチンになれる。
 そうなれば、鳥なんてもう全く怖くない。全力で突っ込まれてきても、鳥のクチバシの方が砕けて、逆にお父さん達のご飯に出来る」
「へえ……」
「眠る時だって鉄壁を掛ければそう強い警戒をしなくて良いし、良い事だらけさ」
 努力しても、それを覚えられる兄妹達は一部だけでした。ペンドラーに成った時には生き残った兄妹はそう数多くなく、そして今、私以外に兄妹の誰かが生きているかはもう分かりません。
 父母もどこにいるのか分かりません。
 この森はとても広く、皆、強くなってからはより良い場所を求めてどこかへと行ってしまったのです。父母も、冬を越した後はどこかへと行ってしまいました。

 空を飛ぶスピアーの一匹を呼び止めて、私は聞きました。
「おはようございます。何か変わった事などはありましたか?」
 彼はぶっきらぼうに言いました。
「いーや、別に」
「そうですか……昨日、体のどこかを傷つけたのか鳥が木の洞に隠れているのを見つけたのですけれど、残念です」
「あー、一つだけあったわ。この頃、人間の臭いがする奴が森にやって来たらしいぜ」
 丁度今思い出したような見え見えな演技をしながら、スピアーはそう言いました。
「どんな姿ですか?」
「何かはっきりと姿を見た奴があんまり居ないみたいだから、どんな種族だかははっきり分かってないみたいだけどさ、どうやらあんたみたいな色をしているらしい」
「私みたいな? ……でも、虫ではないでしょうね」
「だろうな。虫であんたみたいなド派手な色した奴と言ったら後はアリアドスとかハッサムとかか? その位だろうが、どちらも完全に姿を隠すとかそんな事余りしないものな。
 アリアドスだったら姿を隠していてもおかしくないだろうが、蜘蛛の巣なんてここらではデンチュラのものしか俺は知らない。
 ……で、その鳥ってのはどこに居るんだ?」
「先にその私と似た色の誰かがどこの辺りで見つかったか、教えて下さい」
「チッ……川の方だよ。川が二股に分かれる場所の近くで見たって奴が居た」
 きっと私が先に情報を伝えていたら、場所を聞く為にもう少し何か要求されていた事でしょう。
「では、こちらも。弱っている鳥はオレンの樹からやや南西に行ったところにある、大き目の木の洞に居ます」
「分かった」
「見たのは昨日の夕方ですからね、私はその時お腹が空いてなかったので手を出しませんでしたが、飛べそうになかったのでまだ居ると思いますよ」
「ありがとよ、皆の腹を久々に肉で満たせる」
 彼が飛び去ってから、私は呟きました。
「鳥は鳥と言っても、鋼の鳥ですけどね」
 私の自慢の角でもエアームドとか言うあの鋼の肉体を貫くのは難しいのです。それからもう一つ付け加えると、鋼の鎧を破ってもそれを支えて飛ぶ為の肉体は軽さと強さを兼ね備えていて、余り量も多くなく、そして美味しくもありません。
 騙された方が悪い、騙された方が悪い。
 そう思いながら私は、私みたいな色……赤紫色の姿をしているであろうの誰かを探そうと思いました。
 人間の臭いがする、という時点で余り良い気はしません。姿を中々見せないと言うのも相まって、もしかして人間がこの森の私達、虫をより多く駆除する為に送り込んだ者ではないか、と思えました。

 のしのしと歩く私を襲う者は早々居ません。時々、流れて来た者の中で足の力を自慢とする鳥や炎を纏う鳥が私を糧にして来ようとする時がありますが、常に鉄壁を掛けている事にまでは気付く事は多くなく、返り討ちに出来ます。
「彼女に近付いちゃ駄目よ、とてつもなく硬くて、私達のクチバシや鍵爪なんて弾かれてしまうんだから」
「えー、どうして?」
「分からないわ……。ペンドラーって普通あそこまで硬くないのだけど……」
 そんな会話も聞こえてきました。
 正直なところ、そんなにも知られてしまった事は私にとっては余り良い事ではありません。木の実や蜜でも飢えは凌げますが、この巨体を支えるにはやはり肉が良いのです。特に雛の肉は美味しいです。
 私が声の聞こえる方を振り向くと、声はぴったりと止まりました。
 まあ、今、そこまで私のお腹は空いていません。雛がまだ飛べなかったとしても見逃してあげる事にしましょう。
 そのまま歩いていくと、今度は小さな獣達がガサガサと逃げる音が聞こえてきます。
 昨日食したのは、そんな獣の一匹でした。こんな巨体の私が身を潜めて獲物を狩るのは余り得意ではないのですが、私は毒針を放つ事が出来ます。
 様々な技を覚え、そして忘れてきましたが、何だかんだで狩りに役立つのはこんなつまらない、ポッと毒針を飛ばすだけの技でした。
 この巨体を生かす技は、残念ながら狩りには役立ちません。何をしようと私のこの巨体と毒がある事を強く示すこの色は目立ちます。それに虫という部類の中では珍しい事に強靭な脚を持つとは言え、小回りが利く訳でも無いので木々が鬱蒼と茂る森の中を軽やかに駆け抜ける事も難しいです。
 森より、草原の方が私が狩りをするには適しているのかもしれない。
 そう思った事もありますが、一度この森から出てみれば、あんな視界の開けた場所に堂々と立って居られる程私は自信家ではありませんでした。
 幾ら体を固くしたところで火炎放射など一発でも喰らってしまえば、私の体など一気に燃え尽きてしまうのですから。

 川の近くまで、特に何事もなくやってきました。
 平和な一日の始まりです。強い獣を捕らえようと、もしくは鍛えようとやって来る厄介な人間も今のところは見かけませんし。
 河原では水系の獣達がゆっくりと過ごしており、その中には私に背を向けて河辺で座っているラグラージが居ます。彼は河原に住む者の中で最も強い方です。
 全身のヒレは周りの物事を隙無く感知し、そしてその腕の一振りはきっと、硬くした私の甲殻にさえ皹を入れる事でしょう。
 その彼に私は近付きました。
 草木を掻き分け、河原に足を一歩踏み入れたところで、彼は私に背を向けたまま聞いてきました。
「久しいな、何の用だ?」
「この頃、人間の臭いがする獣が河原の付近に現れたと聞きまして」
「あー、俺の旧友だ」
「そうですか……」
「何か気になる事でも?」
「……今年の夏も暑いですね……。私達、虫の種族達も活発ですし」
 それだけ言うと彼も察してくれたようで、ピクリと頬のエラが動きました。
「……、あいつはそんなんじゃねえよ。寧ろお前等に近い。
 そっとしといてやってくれ」
「…………」
「…………」
 それ以上は答えてくれなさそうでした。ただ、言葉を完全に信じる事はしませんが、嘘を言っているようにも聞こえませんでした。
「まあ、言葉通りに受け取っておきますよ」
 それに返事はありませんでした。
 私は後ろを振り向いて、戻る事にしました。

 住処の近くまで戻ると、多少喉が渇いていました。しかしながら、私の住処の周りにはそう狩り易い獣が住む事は流石にありません。
 木の実でも食べようかと思い、オレンの生る方へと向かうと、しかしそこには一匹のミネズミが見えました。木の上で、私に背を向けながら沢山生っているオレンの中から出来るだけ質の良いものを選ぼうとしていました。
 私が居ない間にでもと、思ったのでしょう。
 単体で行動する事はほぼほぼ無いそのミネズミです。私の見えない場所に見張りでも居るのだと思えましたが、幸いにも私は気付かれていない。
 喉の渇きを癒すと共に、今日のおやつにでもしましょう。
 私は長い首の角度を微調整しながら、口を小さく開けました。
 距離はやや遠め。そして私は今、風上に居る。
 小さく吸って、吐いて、吸って……、吐いて……。狙いは定まりました。吸って……吸って……一瞬息を止めて、ふっ、と毒針を飛ばします。
 音も無く飛んだその毒針は、オレンの実を夢中で頬に入れようとするその背中に刺さりました。
「ビ……ィ……?」
 痙攣した後落ちていくそのミネズミに後は走って、逃げられる前に踏みつけるだけです。
 がさがさっ、と茂みを駆け抜けていく小さい足音が聞こえました。
 無能な見張りを恨んでください。そう心の中で思ってから、一思いに踏み潰しました。

◎◎◎◎◎◎◎◎

 暑い昼を日陰で寝てやり過ごし、夕方、うるさいテッカニンも少しは音を控えるようになってから私はまた起き上がりました。
 今年もいつも通りの暑い夏です。虫という部類に入る私達が成長するにも、子を産むのにも、その子が育つのにもとても良い日々が続いています。
 しかしながら今年は、私は子を作るつもりはありませんでした。
 探せば同じペンドラーでなくとも魅力的な雄は居るのでしょうが、何度も子を喪い、そして昨年はそれに加えて番までを喪う経験をしてしまえば、一年経とうともそんな情事に盛る気力は余り湧いて来ませんでした。
 ただ、何もしないつもりはありません。
 そう思ってふと、昨日見かけたエアームドはどうなったのか少し気になり、そちらに向かう事にしました。

 その場所に近付くに連れて臭いがしてきましたが、それは獣の血の臭いではありませんでした。虫の血と肉の臭いでした。
 返り討ちにされたのでしょうか、と思いながらその場所まで辿り着くと案の定、死んだスピアーの死骸が数多くありました。
 もう既に様々な鳥に啄まれた後で、残っているのは食すには適さない、その両手の槍位でしたが。
「……あんたがこいつらを差し向けたのか?」
 ややひび割れた、そのエアームドの声が茂みに隠れた木の洞から聞こえてきました。
「良い栄養補給になったでしょう?」
「そうじゃな、自分の体の使い方も知らん若造共が沢山やってきて、良い餌だったわ」
「この暑さでその鋼の体は辛いでしょうに。
 それにきっと傷を負っているのでしょう?
 そんな状態で良く倒せましたね」
「あんな成長したての若造など敵にもならん。
 それにな、知っとるか? 虫の中でな毒のある虫程美味いんじゃ。
 私には毒も効かないしな、それを味わえるとなったら痛みも吹き飛ぶわ」
「……私もさぞ美味しいのでしょうねえ」
「そうじゃろうなあ」
 明らかに誘っている言葉でしたが、私はそれに乗りました。
 木の洞へと、その前にある茂みに一歩踏み出すとぷつりと何かが千切れる音がして、そして私の頭上からそのエアームドの鋭い羽根が多数落ちてきました。
 私は目を閉じて、それがカンカンと音を立てて地面へと何も出来ずに落ちていくのを待ちました。
「な、なんじゃと?」
 無傷のまま目を開いた私に対して明らかに焦った声を出しながら、木の洞から飛び出て逃げようとしたそのエアームドを私は逃がさずに踏みつけます。
「ぎゃあっ!」
 エアームドはじたばたとしましたが、鋼の体を持つとは言え飛ぶ為に肉体を軽くしているその鳥に、大地を力強く駆け、そしてこの巨体を支える為にある私の脚をどかす事など出来ません。
 そんなエアームドに、私は静かに語り掛けました。
「どうして私が昨日、貴方に何もしなかったのか分かります?
 気付かなかったからでも、
 手強そうだと思った訳でもありません。
 ……相性が不利だろうとも、

 鋼の鎧を持っていようとも、

 貴方がもし完治しようとも、

 それでも、

 貴方の事を、

 脅威だと、

 まーーー、ったく思わなかったからです。
 ……腹は多少空いていましたが、貴方の肉は美味しくありませんしね」
「ひっ……」
 私は足をどけて、顔を近づけます。
 その片翼は少し曲がっていました。
 そして、さっきまでの声とは全く似つかない怯えた顔と近くで目を合わせながら私は続けました。
「……毒のある虫程美味しい、ですっけ?
 とても有用な知識をありがとうございます。
 お返しに私も一つ、知識をお披露目しましょう」
 ふぅ、と一息吐いてから続けました。
「……確かに私の毒は鋼の肉体を持つ貴方には効きませんね。
 ただ、一つだけそんな貴方にも毒を効かせる方法があるのですよ」
 角でコンコンとその腹を叩きながら言いました。
「その鋼の体を貫いて、
 その身を巡る血流に、
 体を維持する内臓に、
 直接、
 たっぷりと注ぎ込むのです。
 前に戦ったエアームドはその後、口からそれはもう、たあーーーー、っぷりと、血を吐き出しながら自らの作った血の池に倒れ伏して、後はビクンビクンと痙攣するだけでした」
「や、やめてくれぇ……」
 ひぃ、ひぃ、と汚らしい呼吸をするエアームドから顔を離して、私は言いました。
「ええ、一度だけは許してあげますよ。私は寛大ですからね。
 ……ただ、条件があります」
「な、なんだ」
 また顔を近づけ、更にずい、と一歩踏み出し、角を押し付けながら私は言いました。
「貴方の翼、出来るだけ下さい」

2.

 確かに、この森は虫の勢力が強い部分があります。
 様々な種類の木の実が自生していますし、甘い蜜を出す木もそこらに数多くあります。
 その分数多く卵を産めます。そして幼体から栄養をたっぷりと蓄えてサナギとなれば、その殻を鳥に破られない事も多くありますし、そして数多く成長した虫達は捕食者である鳥達に反逆を翻す事すらあります。
 それがそのままであれば想像出来る事の先は、この森の木の実から蜜から、魚から獣から鳥までを全て喰らい尽くした後に滅んで行くか――もしくは沢山の虫という栄養を求めて鳥が殺到し、私達が逆に食い尽くされるか――そんな暗いものしか思い浮かびません。
 そのままだと増え過ぎて自滅してしまうであろう私達の数を、強大な力を正しく扱える人間の手で調整して貰うのが最も被害が軽微なのです。
 ええ、論理としては私自身も、そしてこの森で季節の巡りを経験した虫達全てが理解しています。一部の虫達はそれを受け入れた上で駆除を出来るだけ回避しようと努力しながら生きていました。
 ……ええ、昨年までは私もそうでした。
 ただ、昨年……超能力を扱える者か誰かでも連れてきていたのでしょう。子が隠れた場所を悉く見つけられて耐えきれなくなった番が反逆を翻し、そして死んでいったのを見てまで、私はそれを受け入れ続ける事は出来なかったのです。
 そこまで耐えなければいけないのでしょうか? そもそも何故、私達はそんな事を耐えなければいけないのでしょうか?
 理解はしています。ただ、だからと言って納得は出来ません。
 その感情は、季節が完全に一周しようとする今でも疼いて残ったままでした。
 番の言葉が思い浮かびます。
「俺達が何をしたってんだ?」
 ええ。何もしていません。



 それから数日後の事でした。
 一匹の鳥が遥か高くの空をぽつんと飛んでいるのを私は見かけました。
 夏の太陽が激しく明るい為にその鳥は黒い陰としか目では見えませんが、それは降りて来る事も無く、この森の一帯をぐるぐると飛び続けていました。
「もうそろそろでしょうね」
「だろうな」
 私の隣に居るデンチュラがそれに頷きました。
 その鳥は今年の森の状況を確かめに来た、人間の手先でしょう。
 そして今年も虫は多く育っていました。……ええ、この数が全て健全に育ったらこの森の木の実や狩り易い獣は全て居なくなってしまいそうな程に。
「あんた、今年は子を産んでいないんだろう? これから暫くは安全そうな場所に逃げておいた方が良いんじゃないか?」
 子供を為してしまえば、慣れ親しんだ場所をその成長盛りの沢山の子供達と離れる事は、その先とても困難な道を歩む事となります。
 駆除をどうにかしてやり過ごす方が失うものが少ないかもしれない程に。
 ……去年は運悪く、私は殆どを喪ってしまった訳ですが。
「そのつもりですよ。やるべき事をやり終えた後ですが」
「?」
「まあ、一つだけ言っておきますと、駆除の時に私の寝床の近くに居ると面白い物が見れるかもしれません」
「……何か、企んでいるのか?」
「些細な事ですよ。……少し、楽しみたいだけです。ええ、少しだけ」

 水辺に出ると、水浴びをしていた鳥達が逃げていき、そしてその後は川の水が流れる音だけが涼しく続いていました。
 上空から開けた空をまた、眺めます。
 黒い影は変わらず上空を旋回し続けていました。
「……」
 きっと、私の事も冷徹に眺めているのでしょう。今年の夏はどれ程に虫が成長したのか、このまま放置したらどうなるか、それを見定めながら。
 そんな私の中にある感情は純粋な恨みではありませんでした。やるせなさ、無常感、そんなものが強く混じっていました。
 純粋に恨みが強かったならばこんな回りくどい事はしないでしょう。
 やるせなさ、無常感に完全に流れてしまったならば、私は今年も子を産む事に励んでいたでしょう。
 納得出来ない理解とは恐ろしいものです。どうしようも無い感情だけがつらつらと積もっていくのですから。
 私はそれへの捌け口を作らなければいけませんでした。私自身がそれに押し潰されてどうにかなってしまう前に。
 ざばざばと音が遠くからして来たのに気付いて目線を上から戻すと、ヌマクローが川の流れに逆らいながら、泳いできました。
「あ、おば」
「おば?」
「お、お姉ちゃん、久しぶり!」
「ええ、久しぶりですね」
 ラグラージも後ろから泳いできました。
「余り俺のガキを苛めてやるな」
「私、まだ十年も生きてないのですよ? 虫の中では長寿な部類とは言え……」
「分かった分かった。
 ただな、正直お前、去年よりかなり老けたように見えるぞ」
 じっと私を見る目に、おちょくったりなどという部分は全くありませんでした。
 ヌマクローがそう言いかけるのもあって、きっと私の顔は多少なりとも老けた……のでしょう。
「そう、ですか」
「それで? 今回は何か用か?」
 私はそれを言うかどうか、少し迷いました。私は、私の中の感情と暫く相談してから少しだけ、言いました。
「……一回だけ言います。
 森の中には、暫くの間来ないで下さい。
 理由も、聞かないで下さい」
 ラグラージがまた私をじっと見て来るのに対して、ヌマクローはその間に流れる空気を掴みとれずにいました。
「……坊、行くぞ」
「え、何なの?」
「後でな、ここで話す事じゃない。
 じゃあな、俺は行く」
 そう言って、ラグラージはヌマクローの手を掴んで、さっさと去っていきました。
 ええ、それで良いのです。
 私は、貴方達との関係まで変えようとは思いません。
 日は高く昇り始め、じりじりと私の肉体を焼き始めていました。
 日中の活動はこれまでにしましょう。
 私が森の中に姿を隠し、そしてふとまた上を眺めると、夜明けからずっと旋回していた鳥ももうどこかへと消えていました。
 刻は、近いのでしょう。

◎◎◎◎◎◎◎◎

 冬が過ぎて活動に支障を来さなくなってから、私はずっと、一つの場所を縄張りとして誰も近づけて来ませんでした。
 デンチュラ等、親しくしている仲は来た事がありましたが、彼等、彼女等にも私がしてきた事はずっと秘密にしてきました。
 この私の寝床、縄張りには、私がここを縄張りにしているのだ、という痕跡が数多く刻まれています。
 木に刻まれた平行な二本の傷跡はペンドラーが誇る角でつけたものであり、その傷の深さと鋭さは、私の角が鋭いだけではなく、私の膂力に耐え得るだけの硬さを持ち、それに伴う威力を発揮出来る事を示しています。そしてまた、枯れた大木に刻まれた数多の刺し傷は、首の爪で突き刺したものであり、大木を枯らす程に私の毒が強い事を誇示するものでした。
 そして、草が生える隙間も無い程に固く踏み慣らされ、地面が剥き出しになった私の寝床には所々、寝心地の良いように枯草が沢山敷き詰められています。
 寝る場所は単純に日陰から、月夜を眺められるような場所、また雨を凌げる場所など幾つかあり、そしてその寝床の一つの下には、落とし穴を作ってありました。
 誰からも気付かれないように作ったその落とし穴の中には、私が食べた獣や鳥の骨を鋭く裂いたもの、そしてエアームドの鋭い羽根と共に、私の毒を数多に注いでありました。
 ここに落ちれば最期、体は穴だらけになり、そしてその穴から私の毒が一瞬にして全身を駆け巡る事でしょう。
 ――駆除に来た誰かが落ちると良いな。
 そんな小さい願いを込めながら、私は穴を掘り、そして淡々と準備を進めてきました。
 もし、ここに誰かが落ちるとしても、私はその時この場には居ません。また落ちたとしたら、血眼でこの穴を作ったペンドラーを探すでしょうから、暫くは戻って来れないでしょう。
 いや……確認しに来る事を考えて逆に罠を張られているかもしれませんし、もう戻らない方が良いかもしれません。
 ただ、そんな事を考えても、ここを去って駆除が行われた後に私がここに戻らない事は出来ないと分かっていました。
 作った落とし穴がどうなったのか、それを気にしない事など流石に出来そうにはありませんから。

 穴を覆っている枯草等を横にどけて穴の中を覗くと、エアームドの翼が夕暮れの明かりを僅かに反射して中を照らしました。
 臭いを嗅げば私の毒そのものが日月を経て腐った臭いがしますが、そう強いものではなく、枯草で隠してしまえば、雑多な臭いで溢れる森の中では気になりません。
 そこにまた、毒を出来るだけ垂らして枯草で覆いました。
「……誰か、落ちませんかね……。本当に……」
 自然と、そう呟いていました。
 出来る事ならば、その悲鳴を聞きたいとも思います。それでもきっと必死に助けるであろうその仲間を後ろから突いて落としてやりたいとも。
 ただ、絶望的な実力の差を持つ相手にそれをしようと思う程恨みに燃えている訳ではありません。
 だから多分、これは復讐と言うよりは趣味に近いのでしょう。
 趣味だとしても随分と薄暗いものを持ってしまったものです。しかしながら、そうせざるを得なかったのだとも思いました。
 出来る限りの毒を吐いた私は、少なからず栄養を求めていました。そしてここを去る前にやるべき事が一つ、まだ残っていました。

 エアームドの所へと歩いて行くと、体の調子を確認するように体を動かしているのが見えました。
 曲がっていた翼はもう、殆ど元通りでした。
「何の用じゃ、翼はまだ生え変わっておらんぞ」
 と言ってきます。
「今日、私はここを去るので、お別れを言いに来ました」
「……それはどうしてじゃ?」
 エアームドが一歩、後ろへと足を引きました。
「貴方ももう知っている事かもしれませんが、この森は私達虫の種族の勢力がやや強いです。
 冬が雪が降る程に寒くなる事を除けば、様々な獣達が生きていくよりも、虫が生きていくにより適した環境が揃っています。
 特に夏は、このままでは私達の勢力が更に強くなって、貴方も数の多くなった彼等に見つかれば、一匹一匹は弱いとは言えども圧殺されてしまうでしょうね」
「……」
「そんな事を防ぐ為にか、人間達が定期的に私達虫を駆除しに来るのですよ。
 明日、明後日辺りに来る事が予測出来たので、私は別の場所に避難する事にします」
「……」
「貴方の事は大して知りませんが、そういう事をもしかしたらここに来る前から知っていたのですかね?
 私達虫が増えてしまう事で起きる問題は、この森を食い尽くされてしまうから、という事も考えられますが、もしかすると、全く逆なのかもしれないとも考えられます。
 虫が多い事を知って来る貴方みたいな輩が増え、虫が逆に食い尽くされてしまうから、という事もあるのだろう、と」
「……だったら、何じゃ」
「さよならという事です」
 私は一歩、前へと詰め、そして歩き始めます。
「一度だけは寛大に許すのではなかったのか?」
 エアームドが前に自らの翼を利用したまきびしを撒きました。
 私はそれを踏み砕きながら更に詰めました。
「自分を殺そうとした者を本気で許すとでも思っていたのですか?
 それに、貴方の事は元から殺すつもりでしたよ。私が何か企んでいる事を、駆除に来る人間に知らされては溜まったものじゃありませんから」
 エアームドはそして後ろを向き、一気に駆け始めました。
 翼を利用したまきびしは鋼の体を軽くする効果もあったのでしょう、飛べないとは言え、中々速く走っていました。
 しかし、体を軽くしたとは言え、老体で尚且つ、地を駆ける事に余り慣れていない鳥に私が追いつけない道理はありません。
 追いついた勢いのまま蹴り飛ばすと、エアームドは木の幹に思いきり叩きつけられました。
「ぎゃあ!」
 ずるりと落ちていくエアームドに対し、頭を低くし角を向けました。
「や、やめ」
「やめると、思いますかっ!?」
 渾身の一撃はドグゥ、とエアームドの胴体と首を突きました。
 ただ、老いていたとしても、傷を負っていたとしても鋼の鎧は流石に貫けず、エアームドはそのまま地面に落ちました。
 しかしながら、エアームドは起き上がれずにその場でのたうち回りました。
「アッ、ガッ、グゥッ!?」
 喉を突いた為か、声も出せないようです。
「……やはり、鋼というのは面倒なものですね」
 エアームドを思いきり踏みつけて、私は最期に言いました。
「でも、そこで死んでいた方が良かったと思いますよ。貴方自身の頑丈さを恨んでください」
 何度も体重を掛けて踏み抜き、そして鋼の鎧が砕けるともうエアームドも何も言いませんでした。
 それからまた木に首で押し付けると、虚ろな目と目が合います。そして、私は砕けた鎧の中へと僅かに溜まった毒を全て流し込みました。
「……ギャボッ!?」
 もう声も出せない程に痛めつけたエアームドは、しかし最期にそんな断末魔を上げました。
 ごぽごぽと音がして、私はそのエアームドと口を合わせ、噴き出してくる血をごく、ごくと飲み干しました。
 吐き出される血が無くなり、また地面に落とすと、もうエアームドは絶命していました。
 皹だらけになった鎧を剥いで肉を一口食べますが、
「……やはり、余り美味しくないですね、貴方」
 久々に食べようとも、毒に冒そうとも、エアームドは余り美味しくありませんでした。

3.

 初めての駆除を何とかやり過ごした私や兄妹達が、人間や駆除をする獣達に対して憎悪を抱いたのは自然な事でしょう。しかし、その感情を諭すかのように父母に駆除が何なのかというものをより詳細に教えられました。
 この森で生きていくのならば、それが一番マシなのだと。
 外から来た虫達も、駆除があってもここに留まる者が多いのだと。
 そんな事を言われてもすぐに納得出来るものではありませんでしたが、その中で、一つ、強く覚えている事があります。
「生まれながらに罪を背負っていたとしても、それに対する罰を受けなければいけない理由がどこにあるだろうか?」
 私達虫という種族がこの森で生きていくに当たって課せられたそれを罪と呼ぶのには今でも不適切だと思いますが、ただ、それが罪であれ何であれ、罪に対する罰のようなものは避けては通れないものでした。
 私は、昨年までそれを馬鹿正直に受け止めていました。これでも良い方なのだと。これさえ乗り越えれば他に脅威等ないのだから、と。
 罰はあって仕方がない。だから、出来るだけ逃れられるように努力しようと。
 しかし、納得はやはり出来ません。
 けれども、もっと良い方法など私には分かりませんでした。この森の外に出たくない私には分からなくて当然なのかもしれませんが。
 燻る感情は、私に実現など絶対に出来ない欲望を抱かせました。
 炎に炙られても何とも無い体が欲しい。念動力によって体の内部から攻撃されようとも何事も無いように付き進める耐性が欲しい。如何なる風にも動じない硬さと重さが欲しい。
 誰よりも速く、誰よりも強く、この角で鋼すらも容易に貫き、何者にも邪魔されず生きたい。
 ……ええ、理解しています。そんな事が実現出来たところできっと、今よりも酷く虚しいだけなのだろうと。
 生きると言う事は、互いに影響を及ぼし合う事です。私は鳥や獣を殺して食べますし、鳥や獣も他の誰かを殺して食べています。そんな巡り巡る関係から抜けてしまったらそれは死んでいるのと同じです。
 ただ、そんな事を思ってしまう程に私は鬱屈とした感情を抱くようになってしまいました。
 ――生まれながらに罪を背負っていたとしても、それに対する罰をうけなければいけない理由がどこにあるだろうか?
 番が灰になってからより良く思い出すようになったその父の言葉に対して、私なりに長く考えました。
 そして、現状の結論はとても簡素なものでした。

 誰もが好きに生きたいのですし、誰もが死から抗っているのですから。そんな奔放な、冷徹な仕組みでこの世界は動いているのですから。
 生まれながらに私が罪を背負っていたとしても、そんなものは知った事ではありません。



 この森が広いと言えど、それがどれ程の広さなのか私は知りませんでした。
 一番の遠出は、一度だけ森の外に出た事がある位です。それもすぐに、開けた視界に突っ立っていられる程の蛮勇も無かったのですぐに戻りましたが。
 そんな森の中をつらつらと、しかしながら初めて歩く場所ですので警戒は怠らずに彷徨っていました。
 余り楽しい事はありませんが、もしかすると父や母、兄妹と歩いていれば出会えるだろうか、という僅かな祈願が、私の歩みを少しだけ軽くしていました。

 しかしながらそう簡単に私の願いが叶う訳でもなく、ただただ歩くだけの数日が経ちました。
 もう、私の居た場所の駆除はきっと行われた事でしょう。そして、落とし穴が働いたかどうかも、結果が出ている頃です。
 落とし穴が働いたら、残りの駆除しに来た獣達は私の事を血眼にでも探すのでしょうか?
 それは皆目見当もつきません。でも、そうしてもうとっくに遠くに逃げている私を無意味に探しているのだとしたならば、それはとても愉快でした。
 小腹が空いてきた頃に甘い匂いがしてそちらに連られて歩くと、ミツハニーの群れに出会いました。
「こんにちは」
「こんにちはー!」
 一匹一匹は弱いとは言え、群れで襲い掛かられれば私もただでは済まないでしょう。
 それはあちらも同じようで、少し距離を置いて会話をしました。
「見ない顔だね」
「どこから来たの?」
「南の方から。駆除が行われる事を察したので、ちょっと避難してきたのです」
「一匹なの?」
「まあ、はい。ここは貴方達の縄張りですか?」
「うん! ここら一帯は女王様の敷地だよ!」
 女王様、中々良い響きです。
「蜂蜜を奪おうとするなら容赦しないよ」
「しませんよ、そんな事」
 有益な情報もありませんし、この数相手に戦おうとも思いません。
「こちらから差し出せるものは何も無いのですが……一つだけ聞いても良いですか?」
「なに?」
「少しだけね」
「ここ辺りで他のペンドラーを見かける事はありませんでしたか?」
「知ってる?」
「知らないー」
「あれ? 女王様、ペンドラーの話をした事無かったっけ?」
「あー、あったあった、片方の角が折れたペンドラーの話」
「どんな話だったっけ?」
「暴れん坊のリングマを角を折りながらも倒したペンドラーの話だよ。数年前はそのペンドラーと子供を作ったんだって」
「思い出した思い出した、女王様赤くなってたね」
「好きだったんだろうね」
「それはどこだったのでしょうか?」
「分からないなあ」
「ぼく覚えてるよ、西の方を見ながら顔を赤く染めていたんだ」
 それを聞いてから、何事も無く分かれました。

◎◎◎◎◎◎◎◎

 西の方へ歩いて数日、駆除の跡も見かける事がありましたが、幸いにも私を追うような獣に会う事は無く、しかし森の外れの方までやってきてしまいました。
 人が入った痕跡がちらほらと見え、そして獣や虫の数もそんな多くありません。
 池を見つけましたが、そこでは人間が獣達を鍛えている光景が見えました。駆除をしに来た訳でもない、単純に獣達を鍛えに来た人間でした。
 彼等、彼女等は種族も属性も違いますが、いがみ合うような事は全く無く、生き生きと、そして伸び伸びとしていて、私達の動きとはまた別の方向に洗練された動きをしています。
 それは対等な条件で相手を真正面から打ち倒す為の動きでした。弱者を確実に仕留める為の動きでもなく、強者に対し気付かれないように一撃で打ち倒すような動きでもなく。
 そのように自らを鍛える事は、それはそれで楽しいのだろうと私は思いました。
 虫であろうが駆除から逃げるような事もなく、そして命のやり取りをする必要も無い。
 小さい頃から強く聡く、そして今に思えばただただ苛つく言葉を吐き出していたような彼も、人間の手持ちとなってどこかへと行きました。
 ただ、そうなろうと思う気持ちは微塵も沸いては来ません。
 駆除という事柄があろうとも、今の暮らしを捨てる気にはなれませんでした。
 獲物を仕留める快感が無くなってしまうのだけは、許容出来ませんから。
「襲おうとしているなら止めとけ」
 後ろから唐突に声を掛けられました。咄嗟に後ろを向いて角を向けると、その声の主は同じペンドラーでした。
 角が片方折れた、雄のペンドラーです。
「あ、すいません。驚いてしまって……」
「別に良い」
 互いにじろじろと眺めました。
 そのペンドラーは片方の角が折れているだけではなく、全身がもう消えないであろう傷で覆われていました。
「……生まれはこの森ですか?」
「そうだが」
「南の方ですか?」
「いや」
「そうですか……」
 残念ながら私の兄妹ではありませんでした。
「あんたはどうしてここに?」
「駆除から避難する内に、ここ辺りに同じペンドラーが居ると聞いて来たのです」
「なるほど。子でも作るか?」
 いきなりのそんな発言に私は面食らいました。
 確かにこのペンドラーは片角であれど魅力的です。傷だらけなその体はただ単に傷だらけな訳ではなく、歴戦を生き抜いて来た強さと、そして謙虚さを備えたものでした。
 粗暴なだけならば、身を隠す事が難しい私達ペンドラーという種はそう長生き出来ないものですし。
 私は悩みました。いや、酷く。
 落とし穴がどうなったかを確認するにせよ、季節が一巡りする位は待った方が良いかもしれない。番となれば、子が出来れば、それを強く気にする間も無く時間が過ぎてくれるかもしれない。
 中々決めきれなかったので、ひとまず、
「……保留にして下さい」
 と返しました。
「互いに知り合う必要があるか?」
「……まあ、そんな感じです」
「じゃあ、取り合えず別のところに行くか。人間がこっちに気付いてる」
 後ろを振り向くと、獣達が私達の方をちらりと見ていました。
「そうしましょう」

 片角のペンドラーの寝床は巨木の木陰でした。いつも寝ているであろう場所以外にも草が生えていて、そんなに縄張りを示すような類の印などはありません。
 この辺り……人間が良くやって来るからでしょう、獣や鳥、虫などが余り居ません。その分駆除に怯える必要も無ければ、しかし食事にもやや困るような気がします。
 同じ森の中に住んでいるとは言え、私等とは生き方が全く違うのでしょう。
「腹は空いているか?」
「いえ」
「なら、良いか」
 ただ、片角のペンドラーに対して言える事は、会って間もないと言うのに私を番にしたいと思っている事が大体間違いないという事です。
「……さて、まず、ちょっと聞きたいんだが。
 俺の事は誰から聞いた?」
 そして座って私を見る、その姿だけでも私の前の番に負けず劣らず格好良いという事です。
「ミツハニー達が、貴方が数年前にビークインの番だったという事を聞きまして」
「あー、あいつか。元気だったか?」
 別れた事に関しては大して何も思っていないようでした。
「ビークインそのものには会っていませんので、良く分かりません。
 ただ、ミツハニー達の様子を見る限り、元気だとは思いますよ。数も多かったですし、特に何か困っている様子も無かったですし」
「あいつはここの、人間と接する境界線上の暮らしには慣れなかったからなあ。
 俺は見ての通り傷だらけで角も一本折れてる、俺を捕まえようとする人間なんて居ないからな。だから俺にとっては中々快適なんだが、ビークインにとっては、蜜を取りに行ったミツハニー達が気付けば人間に出遭ってしまって雌だけ選ばれて捕獲されていったとか、そんな事が良く起きてな、別れられちまった」
 片角のペンドラーは全身の傷を見回しながらそう、言いました。
「何故、そこまで傷だらけなのですか?」
「一時期な、人間の手持ちだったような奴等がここ辺りで好き勝手やってたんだ。
 捨てられたのか単純に好き勝手やらせてたのかは知らんが、とにかく迷惑だったんでな、一匹一匹潰していった」
「強いのですね」
「いや、駆除に来るような奴等とは別さ。相性も悪くなかったしな。
 でもな、途中からは真正面から戦わざるを得なくてな、それがこの様だ。その時の番はやられて俺が楽にしてやったし、俺の角も片方折られちまったし、そしてこの全身の傷は冬になるとじくじくと痛む。
 もうちょっと考えるべきだったよ」
 ……番はやられて?
 ミツハニーは確か、片角を折られながらも勝利したペンドラーと子を為したと言ってました。
 そしてこの片角のペンドラーは、その獣達と戦い、番がやられた時に片角を折られたと言っています。
 そんな事を考えていると、それを察したかのように片角のペンドラーは言いました。
「経験した奴にしか分からないだろうな。番を殺されても最後まで戦い抜いた後の感情なんてな」
「…………でしょうね」
「あんたは? 今までに子を為した事が無い訳じゃないだろう?」
「私の前の番は、駆除によって殺されていく子供達を見捨てられずに戦いを挑んで、灰にされました」
「……そうか」
 互いに番を殺されていますが、その後に抱いた感情は全くの別物なのでしょう。

 それから互いの事をつらつらと話した後、片角のペンドラーは言いました。
「それで、どうするんだ?」
 私は話している間に、私自身がどうしたいか、晴らすべき感情とどのように決着を付けるべきかも考えていました。
「貴方は、私から見てとても魅力的です。ええ、貴方が良ければ番いたいと思います」
 ほう、と言うように片角のペンドラーは顔を上げました。
「ただ。
 私の中の番を喪った感情はまだ整理が出来ていません。
 それは、私が行った事の結果を確認しなければ終わらないのです。
 ……それまで、待って頂けますか?」
 片角のペンドラーはじっと私の事を見つめました。
「……死ぬつもりは無いだろうな?」
「まさか。私は弔い合戦などするつもりなど微塵もありませんよ」
 だったら何と言ったら良いのか、それは私自身にも良く分かりませんが。
 復讐したい気持ちはあります。ただ、私自身がそれで尽き果てようとも思いません。
 やはりそれは、趣味という言葉が一番近いように思えました。趣味だからと言って継続するつもりも無いのですが。
「分かった。
 また聞くが、それでどうするんだ?
 もう確認しに行くのか? 危険だと思うが……」
「もう暫く待った方が良いと思っています。季節が一巡りする位は」
「ならここに居て良いぞ。俺からはあんたに手を出さないとも約束して良い」
「……良いのですか?」
「飯を食うのに、特に木の実じゃなくて肉を食いたいなら多少遠出する必要もある。駆除は無いが、さっき見たように修練等の目的で人間は良くやって来る。
 それでも良いなら、な。
 これでも少し寂しかったんだ。特に人間が仲良く獣達と修練に励んでいる所を見てしまうと、な」
「……お願いします」
 私は頭を下げました。

4.

「世界は歪んでいるのが普通なんだな」
 片角のペンドラーが言った言葉を私は思い出していました。
 私と彼は、夏の最中から冬の終わりまで沢山の事を話しました。互いの生まれから今に至るまで。そこまでに起こった様々な事に考えを巡らせて。
 交わらずに、静かに、けれど温かく。
 秋の恵みをしっかりと体に蓄えて、冬は掘った穴の中で眠りに就き。
 隣に親しい同族が居るという事に勝る安心感は早々無いでしょう。
 ええ、これ程に温かい冬を迎えるとは、私自身想像していませんでした。
 ただ、そんな中でもふとした拍子に、私は自分が掘った落とし穴の事を思い出しました。他愛ない事を話している最中に、獲物を仕留めた直後に、眠りに就こうとする時、どうしてか真夜中に起きてしまった時、目が覚めた直後に、そして冬の眠りから覚め、まだ肌寒い風を感じながら久々に太陽を浴びた時。
 私は片角のペンドラーと共には戻らない事を決めていました。
 私がこの身で感じた事を、そして私のこの身に残り続けた感情を解消する為には、私の味方となってくれる誰の介入も許容出来ませんでした。
 私の番は、私の子供達は、私だけの番、私と番だけの子供達だったのですから。

 世界は歪んでいるのが普通、というのは言われた時にすとんと胸に落ちました。
「きっと……皆が知っていて、そして表には中々出ない言葉でしょう」
 私はそう返しました。
 そのような事柄は沢山ある。どうしてか、確固として言える言葉でした。
 この森の中に限らず、どこでどうやって生きていくにせよ、そのような事柄は気付かない内に身の回りに溢れている。
 そしてそれらは生きていく為に必要な事柄でしょう。世界は歪んでいるからこそ、その歪みを受け入れなければいけない。その歪みの流れに身を委ねなければいけない。
「ただ、その歪みを受け入れられなかったら、どうすれば良いのでしょうね?」
 私は聞きました。
「それは、あんたがしようとしている事がその答えだろう」
 落とし穴を作る。
 結局のところそれは、真正面から受け入れられない歪みに対して立ち向かう事も、それから逃げる事もせず、私自身も歪む事で、私なりに形を合わせようとしたのでしょう。
「不利な相性の相手や、強い敵には正面から戦わない。
 夜、寝ている所を踏み砕く。じっと相手が隙を晒すのを忍び耐えて、気付かれないままに背後から胸を一突き。
 似たようなもんだろう」
「でしょうね」



 森の向こうから太陽が昇ってきて、眩しい光が私の体に差し込みました。
 私は足を止めて、一旦目を閉じて呼吸を落ち着けました。
 未だに体を震わせ、しかし体を刺す程でもない冷たさの風が私を撫でていきます。太陽の光も眩しさはあるものの、夏のような大地全体を温めるような強さはありません。
 そんな中、私の体はどこか浮ついていました。
 私の故郷、前の夏までずっと過ごしてきたその場所に帰り始めて数日。体の浮つきは、何が起きているか予想もつかないその緊張感と期待と恐怖と、そんな様々な感情は私の精神を確かに削っていました。
 未だに誰かが落とし穴を作った私を殺そうと待っているかもしれない。私の浮つきとは別に何も起きていないかもしれない。
 ただ、何も起きていない可能性があるにせよ、私が警戒しない理由にはなりませんでした。
 片角のペンドラーが縄張りとする場所の近辺には純粋な人間が良くやって来ていました。人間とそれに従う獣達の仲の良さは時に絆と呼べる程に強固で、私がそれを引き裂いたとしたら、きっと殺すまでどこまでも追って来るだろうと思えたのです。
 死にたくはありません。死ぬつもりは毛頭もありません。
 けれど私は受け入れられない歪みから、私が幾ら何をしようがきっと変わらないであろう程に強い歪みから、何もせずに逃げる事などは死の危険を伴おうとも出来ませんでした。
 受け入れる事を出来なくとも、何をしても変わらなくとも、それでもほんの僅かにでも、私自身の力でその歪みに抗いたかったのです。
 陰湿な方法でも、全くの無力ではない、私も殺す事が出来ると示したかったのです。
 番への、子供達への弔いとして。そしてそれ以上に、私自身の心の安寧の為に。
 ……私はその行為を趣味、と称していました。
 それが合っているかと言われれば、片角のペンドラーと数多に会話して、こうしてよりはっきりと自分が抱いている感情を言語化する事が出来た後では、やや違うとも思えました。
 ただ、やはりそれ以上に似合う言葉は、少なくとも私は知りませんでした。
 私にとってこの行為は、やりたい事なのか、やらなければいけなかった事なのかと言われればきっと、やらなければいけない事だったのでしょう。
 ただ、強い感情を伴ったものではないのです。そしてまたこれは、亡くなった番や子供達の為よりも、自分の為の行為でした。
 ですから、やはり復讐や使命感といったような言葉は趣味以上に似合いません。
 私は長く細く、息を吐きました。
 似合う言葉は私が知る限りでなくとも無いかもしれない。ただ、それは後で考えれば良い事です。
 死ぬつもりは毛頭も無いのですから。時間はこれからもたっぷりとあるのですから。
 私は前を向いて、また歩き始めました。多分、早ければ明日位には着く事でしょう。

◎◎◎◎◎◎◎◎

 木々の並びに見覚えがある、と気付いて私はより一層警戒を深めました。
 口の中に、片角のペンドラーの所から持ってきていたオボンとラムを含め、そのまま歩みを続けます。
 まだ、何事も起きてはいません。体が感じる限りでは何も変わった事は察せられていません。
 ……何も、起きていないのでしょうか?
 分からないまま、一歩一歩を慎重に歩きました。慣れ親しんだ記憶のままに、落とし穴を掘った場所、私の縄張りだった場所へと。
 足を進める度に、僅かずつ近づいて行きます。
 しかし、森は何事もありません。唐突にがさがさっ、と茂みが揺れてそちらに角を向けましたが、出て来たのはただのミネズミでした。
 ……何も起きていなかったら、私は何を思うのでしょう?
 正直なところ、その可能性に対しては余り考えてはいませんでした。
 誰か一匹でも、一人でも殺す事が出来なかったなら私はまた落とし穴を掘るだろうと、その位しか。
 いや、考えるのは止しましょう。そんな事を考える余裕は、警戒に意識を回さなければいけません。
 何か起きていて欲しい。私はそれを願っていましたし、起きていたならば私にとって不利な相性且つ私より強大な実力を持つ敵が、冬が過ぎた今でも私の命を未だに狙っている可能性があるのですから。

 しかしながら本当に何事も無く、私の縄張りのすぐ近くまで辿り着いてしまいました。私が毒を注入して枯らした大木が目の先に見えています。
 冬の明け、まだ春ではない寒さの中、獣達の数は未だ少なく静かなまま。
 落とし穴がどうなったかを見るには、ちょっとだけ走ればもう辿り着きます。しかし、それは堪えました。
 誰かが待ち伏せしているかもしれない。
 集中して、全身の神経を最大限に周囲に張り巡らせながらまた歩きます。
 近付いていくと、その枯れた大木の後ろから、誰かが姿を現しました。
 初めて見る獣でした。
 二足歩行で、顔つきは若干、騙し事が好きなゾロアークと似ています。耳からは赤い毛を強く生やしており、また全身も赤や黄と言った色の毛皮で覆われていました。
 その姿からは、私の苦手とする炎、また超能力系統の属性も感じました。
 そしてその獣は、私が隠れるよりも先に、私に気付きました。
「……」
 しまった、と思いました。しかしながらもう、手遅れでした。
 その獣は、やっとか、というような表情を見せました。
「……」
 私がもう一度辺りを見回すと、
「私しかいない。待ち伏せなどしていない」
 と、冷たい声で言われました。
 その一言でこの獣は、駆除をしに来た人間の手持ちだとそこで確信を持てました。
 しかし、私は返します。
「……信じられると思いますか?」
「それもそうだな」
 淡々とした声のまま、私をじっと見つめたまま、その獣は言いました。
 木の実を口に含んだまま、私は深呼吸をしました。
 この獣が何を考えているのか、私に対してどのような感情を抱いているのか、それは余り分かりませんでした。
 そして、その獣は少しだけ、声を大きく出さなくとも通じるだけの距離まで歩いてきました。距離はまだ、十分にあります。妙な挙動もしていません。
「お前が落とし穴を作ったのだろう」
 確信している言葉でした。
「ええ」
「私の主人が死んだ」
 その一言で、唐突に喜びが湧き上がってきました。しかしながら、私は平静を努めて装いながら言いました。
「……。貴方は、主人を殺した私の事をどう思っているのですか?」
「お前と同じだろうよ。これだけの時間を待っていた私と同じように」
「……なるほど。それで、私を殺すのですか?」
「お前は、今、どんな気持ちなんだ?」
 逆に質問され返されて、私はどうにも答えられませんでした。
「そういう事だ」
 私が答えない事で、その獣はそう、答えました。
「殺されてやるつもりは微塵もありませんよ」
「知っている」
 私は角を向け、その獣は腕の毛から整った木の枝を取り出しました。
 やはり、周りに誰も居る気配はありません。この獣が言っている事は全て本当の事なのでしょう。
 冬を越してまで待った甲斐はありました。
 相性が不利でも、相手が単体でオボンとラムを持っていれば、そして人間が居なければどうにかなるかもしれない。そう思えました。
 しかしその時、誰かががさがさと茂みをかき分けてやってきました。
「お前……?」
「貴方、は……」
 かき分けてやって来たのは、これもまた、初めて見る姿の獣でした。
 人型であり、頭と脚は私の甲殻と似た色をしていました。
 ただ、私はその姿に進化前の姿の名残を、そう、生まれながらに聡く強かった彼の名残を見ました。
 超常の力と格闘の力を併せ持つ種族。
「……嫌な予感がしたんだ。
 マフォクシー。ペンドラー。
 ……こんな事、しなければいけないの?」

 マフォクシーと呼ばれた獣が感情を露にしながら言いました。
「チャーレム。夏の初めから、お前は消えたままだったな。この森に居たのか。
 お前が……お前が消えなければ、主人は死ぬことは無かった!」
 それに対して、彼は同じ程の感情を込めて返しました。
「もう僕には耐えられなかったんだ! 何度もあんな事を繰り返すなんて、必要な事だとしても僕には耐えられなかった!」
「だから、ここに居ようとも見殺しにしたのか」
「僕には、主人の事も大切だったけど、この生まれ故郷の沢山の命の事も、必要な事だったとしても無碍には出来なかったんだ、必要な事だとしても」
 マフォクシーはそれを聞いて唖然としていました。
 私も口を開きました。
「久しいですね。
 それで、貴方は何をしに来たのですか?」
「嫌なんだよ、こうやって恨みをぶつけあって殺し合うのを感じてしまうのは。
 特にどちらも僕の……知り合いだ」
 仲間とか、そんな言葉を彼は使いませんでした。
 そして、おずおずと彼はつづけました。
「……殺し合わないのは、無理なのか?」
「無理ですねそれは」
「無理だ」
 互いにそれは即答、一致しました。
「聡い貴方にも、最愛を喪ったときに抱く感情がどのようなものかは分かりませんよ。
 ……貴方に取れる選択肢はそう多くないですよ。
 私達を止める程の力を持たないなら、どちらかの味方になるか、見ているか、それだけです」
「そん、な……」
 項垂れるチャーレムにマフォクシーが畳みかけました。
「お前は、どちらの命を重く見ているんだ? 主人を殺したこいつだなんて言わないよな?」
 しかし、私は彼の答える言葉がどうしてか予測出来ました。
 生まれが同じこの森の中だからでしょうか、それとも彼の言葉を幼少の頃に聞いていたからでしょうか。
 彼は昔も、そして今も、物事を見て分析する事に長けても、自ずから何かを決める事は余りせず、そしてそれは苦手でした。
「僕は……どちらにも付かないよ。僕は、どちらの命だけを重く見るかなんて、出来やしない」
「……なら、さっさと去ってくれ。邪魔だけはするな」
 それを聞いたマフォクシーは、感情を込めずに言いました。もう、興味など無いと言うように。
「…………」
 それを聞いて彼は懇願するように私の方を見ました。
 彼は、きっと昨年私の番や子供達を殺すのに加担したのでしょう。ただ、彼に対して恨みはどうしてか強く湧いて来ませんでした。
 しかし、それも考える時ではありません。
 私も首を振って去るように示しました。
「…………悲しいよ」
 彼は去り際にそう、一言だけ言いました。
 その言葉には少しだけ苛つきました。
「さて」
「ええ」
 私はまた、角を向けました。
 マフォクシーが枝を向け、そして炎がその先に集まりました。

 飛んできた炎を横に避けて、そして更に何度も炎が見境なく飛んできました。避けられる距離ですが、マフォクシーは距離を詰めては来ずに至る所に炎をまき散らしていました。当てる気よりも、ここら一帯を燃やすつもりのようでした。
 ばち、ばちばちっ、と辺りの枯草が燃え始め、勢いを強くし始めていました。
「……」
 マフォクシーは私を確実に、そして残忍に殺そうとしていました。
 この森全てを燃やしてでも、私が逃げ場を失って焼けていき、出来るだけ長い苦痛を味わいながら死んでいくのを願っているのでしょう。
 そんな様子を見て、私は思いました。
 ……ああ。貴方はきっと、ずっと人間の手持ちとして生きて来たのですね。
 私は逃げました。燃え盛り始めた所を突っ切って。
「殺すと言ったのは口先だけか!?」
「……」
 後ろから炎は何度も飛んできます。同じく走って来る音も聞こえます。
 しかしながら脚力は私の方が強く、逃げるのにそう苦労はしません。
 私は川まで逃げて、また雪解けの冷たい川を一気に渡り、そして振り返りました。後からマフォクシーが追いついてきて、また川からは異変を早速感知したラグラージがやって来ていました。
「水があれば炎を和らげられるとも思ったか?」
「…………」
 私はもう、このマフォクシーに対して答える事はありませんでした。
 マフォクシーは私が来るまでに溜め込んだであろう恨みを爆発させていました。私だけに完全に意識が集中している程に。
 川を泳いでくるラグラージも無視して、また森に生きるデンチュラが背後からやって来た事にも気付かないまま。
「何だ、その目は」
 私は、マフォクシーを憐れんでいました。それが表情に出ていたのでしょう。
 そのマフォクシーは、死角から放たれたデンチュラの電撃をまともに身に受けました。
「ぎゃっ、ぐぅ?」
 私は、何も言いませんでした。
 このマフォクシーには、炎というものを無暗に放ったら、私だけではなく本当に様々な生き物達が暮らす森を燃やそうとまで恨みを爆発させてしまったらどうなるか、そんな思考が無かったのです。微塵たりとも。
「あが、ぐぅ、貴様、邪魔をぉ、するなぁ?!」
 痺れるマフォクシーにデンチュラが更に電撃を放つと、耐えきれなくなったマフォクシーが膝を着きました。
 そこへ水辺から上がって来たラグラージが、動けずにいるマフォクシーの首を無造作に掴みました。
「お前た」
 ボキッ。
 ラグラージは、何も聞かないままに首を折りました。そしてそのまま片手でぽい、と投げ捨てました。
「…………」
 途轍もなく、呆気ない。私の中にずっと渦巻いていた感情がぼろぼろと崩れてしまうほどに。
 そんな私に、ラグラージが言いました。
「おい! ぼけっとしてないで火事を止めるのを手伝え!」
「え、あ、はい。ええ、そうですね、そうです。はい、手伝います」

◎◎◎◎◎◎◎◎

 火事を止めてから、結果的にとは言え火事を起こしてしまった事をラグラージやデンチュラに謝り、そしてここにはもう来ない旨を伝えました。
 多少寂しがられもしましたが、その程度のものです。
 私は新しい番が居る地へと、すぐにでも帰る事にしました。
 この火事で、そのマフォクシーと同じ主人を持つ獣達がやって来るかもしれませんし、私の中の感情も綺麗さっぱりとまでは行かなくとも、落ち着きました。
 そんな私を、チャーレムが追ってきました。
「……何の用でしょう?」
 私の番と、私の子供達を殺したのに少なからず加担した、この幼馴染を私は殺すまでの気は無いとは言え、良い気持ちでは見ていませんでした。
「ちょっとの間だけ、一緒に歩いて良いかな」
「…………良いですよ」
 ただ、殺そうと思う程の気持ちはもう、ありませんでした。

 私がホイーガだった頃に鉄壁を覚える為に、また、この当時アサナンだったチャーレムの鍛錬の為に、何度も殴打や蹴りを繰り出して貰っていました。
 互いに疲れると少しだけ話して別れ。
 そんな時間は確かにありました。思い出すと、当時は格好つけてもいたのでしょう、そのアサナンの言葉が苛ついて仕方ないのですが。
 しかしながら、今のチャーレムの言葉にはその苛立ちを感じませんでした。
 きっと、彼の言葉がただ物事を見て内側まで知った気になって言ったものではなく、きちんとその内実までを理解した上での言葉になったからでしょう。
「その、君の仕組んだ事が全て終わった今、君はどんな気持ちなのか聞かせて貰って良いかな……」
「それはマフォクシーとやらが生き残っても聞くつもりでしたか?」
「……多分、聞けなかっただろうね。聞こうとすればきっと、僕も殺しにかかっている」
「そう、ですか。
 ……。どうなんでしょうね?
 私は、あのマフォクシーのように怨嗟に塗れている訳ではなかった。私は、私の、私自身の気持ちの整理に必要だった事柄をやったに過ぎないのです。
 確かにすっきりしましたが、私自身が想像していた程のものではありませんでしたね。
 けれども、それでも私はこれから前を向いて生きていきます。
 新しい番も出来る事ですし」
「随分とドライだね」
 そう言いながらも、チャーレムも嫌悪感を示す程ではありませんでした。
「元々、理解はしていたのです。
 私自身もこの森で生きていく為にはその事が必要だと分かっていましたし、そしてその中で生きてきました。
 ただ、納得が出来なかったのです。昨年、番すらも喪った事で出来なくなりました。
 ……終わった今になって思えば、納得し直す為には僅かでも己を通す必要が出来たのです。私達は虫という一括りではなく、それぞれが生きているという事を示したかった。
 憎悪の感情を虫ではなく、私に向けられた事、それ自体で私は示す事が出来ていました。
 ……そうですね、言葉にするとよりすっきりしたようです」
「そう、か。
 ……。
 …………」
 迷うように項垂れたり前を向いたりを繰り返すチャーレムに聞きました。
「何か、言いたい事でも?」
「……僕は。
 …………僕は、君の番と、君の子供達を殺すのに一役買った。
 生き物の気配を探知する役割を、昨年、担ったんだ。
 謝れる事じゃないけど……謝れる事じゃないけど、生き残った君に対しては言っておかないといけないと思ったんだ」
「ああ、その事ですか。
 もう、良いですよ。それは」
「え?」
「私が気付かないと思っていたのですか?
 マフォクシーの発言から、もう知ってました。
 それに私は、もう納得し直していますから」
「……」
「そして貴方は、しっかりと私達を虫と包括せずに、私達と見ているのでしょう?」
「……うん。でも、それだけで良いの?」
「それだけで、良いのです。それはとても、特に私にとっては重要な事です。
 ……それとも」
 私はチャーレムに向き合い、そしてずい、と私は顔と角を近づけました。
「自ら罰を受けたいと言うのならば、手伝ってあげますけどね」
 チャーレムは引きつった顔で言いました。
「……遠慮しておくよ」
「賢明な判断です」
 私は顔を前に戻して、そう言いました。

 別れる前に、最後にと私は聞きました。
「人間との生活はどうでしたか? その主人は私が殺してしまいましたけど」
「え、あ、うん。別に良いよ。僕も酷い事をしたし。
 うん……何だろうな、昔の僕みたいだったよ。
 結果もそりゃ勿論大事だけど、結果が第一で、結果ばかりが表に出て来る。それはこの森の中もある意味同じだろうけどさ、何か違うんだ。
 その違いは上手く言葉に出来ないけど、あのマフォクシーが森の皆の怒りを買ってしまった事や、そして華奢な人間がここまで発展した事に紐づくんだと思う。
 うん。色んな事を経験出来て楽しかったし、歴史から科学から色んな事を学べたけど、そんなところからか、心の底から馴染む事は出来なかったなあ」
 チャーレムの言葉は変に格好つけたりしない、自然で、そして彼の成長ぶりを見られるものでした。
 言っている事は、若干何となくの部分もありますが私にも理解出来ました。そして、私は思ったままの事を言いました。
「やはり、私はこの森で生きていくのが似合っているようですね」
「だろうね。
 ……それで、もう君は、本当に戻って来ないのかい?」
「ええ。もう、あそこに留まるのは危険過ぎますし、それに新しい番も待っています」
「……そうか。僕も色々考えるよ、これからも」
「それが良いでしょう」
 より良く生きる為には、それが必要です。

 去っていくチャーレムを見届けてから、私も体を翻しました。
 太陽は高く昇り、柔らかい日差しの温かさが私にも届いてきました。
 毎年変わらない、春の訪れでした。
「私は、変わったのですかね?」
 新たな番の元へと帰ろうと歩き始めた私の足取りには、行きに感じていたような心の重さは全くありませんでした。
 灰になった子供達の事も、そして番の事も同時に頭の中で重さを占めていませんでした。
 けれども、忘れる事は無いでしょう。私の過去は引きずるものではなく、前を向く為の軌跡となった。
「……」
 自分で思っておいて、その言葉の格好良さはおかしいだろうと思いました。
「でもまあ、何とだって言えます」
 過去や生まれ持った物に対して引きずられない事。それはどのようにも形容出来るでしょうが、少なくとも幸福に属するものでしょう。
 私は息を大きく吸って、そして一気に吐き出しました。冷たい空気が今となっては心地良く、もう一度。
 体を伸ばすと、いつの間にか凝り固まっていた節々がごきごきと音を立てました。
 これからまた、夏が来ます。
 ええ。前の夏より、とても楽しく過ごせる事でしょう。


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