[掲示板へもどる]
一括表示

  [No.4170] ジラーチアンドピッグ 03錆びた家族 投稿者:水上雄一   投稿日:2021/01/10(Sun) 17:21:21   22clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 その日の朝、ヴェスパオールには雪が降った。十二月十三日。実に十五年ぶりの雪だった。
 エレザード・フィリパ・マルクスは赤いカウチの背もたれに両手をついて、窓越しに空を見上げた。灰色の空からは冬の羽が降りていた。 「お母さん、雪だよ!僕、初めて見たよ!」
 ふいに声がして横を見た。誰もいなかった。それは頭の中の声だった。ビリーはもういない。もういないと思うと、泣き叫びたくてたまらなくなった。前に声が聞こえたときは目に付く物全てに当たり散らした。
 ビリーのことは好きだった。今でも好きだ。だが、ビリーは大人になってから変わってしまった。口もろくに利かず、事あるごとに軽蔑の目で見てきた。
 大嫌いだ、と言われた日のことはよく覚えていない。気が付けば、床に仰向けになって、フライパンの縁をかじりながら、横倒しになったテーブルの下敷きになっていた。その日から、ビリーは二度と帰ってこなかった。
 フィリパは近所からの評判が良くなかった。兄弟姉妹とは疎遠だったし、友達と呼べる友達もいなかった。何よりも夫との仲がすこぶる悪かった。フィリパにとって、ビリーは自分の全てだった。取るに足らない生涯の最高傑作だったのだ。
 いつものように、寝たきりの夫のところへ朝食を運んだとき、最初は寝ているものとばかり思っていた。夫は全身の鱗が白く凍って死んでいた。悲しさは欠片ほども湧いて来なかった。救急隊も呼ばなかった。フィリパの頭の中には、いつでもビリーしかなかった。母を愛してくれる息子しか。

 * * *

 雪は四日に渡って降りしきった。積雪量は六十七ミリを突破し、実に百二十八年ぶりの記録更新となった。
 その日、エンブオーは三十歳を迎えた。祝ってくれる者は誰としていなかった。だがそれをさして気にしてもいなかった。彼自身、今日が誕生日だったことをすっかり忘れてしまっていた。十年前までは毎年のように食べたヒメリとカイスのフルーツケーキもどこへやら、何の実入りのない記念日と化していた。
 シリアル・ブロウ以来、ルカリオは一度も事務所に顔を出さなかった。裁判所とモーテルを行き来するだけで三週間なんてあっという間だった、と彼は後になって話した。その間も事務所は静寂の内に眠り続け、預金残高にも寒さが立ち込めるようになっていた。
 エンブオーはブランデーを垂らしたコーヒーを片手に、デスクでオーベムの手紙を見返していた。事件が終わってすぐ、オーベム・レンフリーは請求書入りの封筒と手紙を寄こしてきた。内容は次の通りだ。



   請求書の額に目を見開いたお前の顔がありありと浮かぶ。文句の一つを言い始める前に、どうか俺の話を聞いて欲しい。ブラッキー・ベイル・アストリーの問題は俺が片付けておいた。あいつはなかなかの曲者だ。煙のないところに煙をたたせ、煙から火をおこして大火事にするタイプだ。本格的な訴訟沙汰になれば、この額の二十倍は掛かっただろう。もっと掛かったかもしれない。裁判の準備にも追われて、お前の首が回らなくなることは目に見えていた。ルカリオ・リンの面倒を最後まで見ることも忘れていない。この件について、恩着せがましくするつもりもない。お前はいい奴だ。出来ることなら、ただでも手を貸してやりたかったのが本音のところだ。
   だが、俺も俺とて慈善事業で弁護士をやっているわけじゃない。お前にもプロになって欲しいんだ。説教に聞こえたら我慢して聞いてもらいたい。事実、これは説教だからだ。
   第一に、裁判が終わったら、リンのような札付きのくずとは手を切れ。元はといえば、奴が今回の騒動を引き起こしたんだ。そうだろう?ヴィツィオに喧嘩を吹っ掛けるような奴は、この先も同じような面倒事を起こすことになる。お前に面倒をかけ続け、悪びれもせず、なけなしの月給をお前の預金からふんだくっていく。そんな真似を許すためにレックスフォードを卒業したわけじゃないだろう?お前の才能はもっと社会に還元させるべきだし、正当に評価されるべきだ。
   第二に、夢よりも金を優先することだ。今のお前は依頼を選り好みしている場合じゃない。そういう贅沢は十分に稼いでからやることだ。事実、お前は何でも屋だ。もしくは、それに極めて近い業態にある。一口に夢といっても、生き別れた親に会わせて欲しいと泣き縋るチルットから、夫を奪ったブリムオンに復讐したがる大富豪のアマージョまで、いろいろな夢がお前の胸を借りようとするのだろう。これが極端な例だとしても、今のお前はチルットを取って、アマージョを蹴るはずだ。だが、夢を叶えた先で何が起きるか分からないのが世の常というものだ。チルットがチルタリスと無事会えたところで、また離れ離れになるかもしれない。復讐を果たしたアマージョの心に磨きが掛かり、もっといい男と結ばれるかもしれない。そうは言っても、とお前は否定するだろうがね。下手に肩入れしないで、もっと気楽にやってもいいんじゃないか?それがプロというものだ。
   少し長く書きすぎた。今回はこの辺にしておくよ。また二匹で一緒に飲みに行こう。



 エンブオーは手紙を封筒に仕舞って、一番上の引き出しに入れた。全く考えがまとまらず、二週間前の朝刊に目を通した。
 “シリアル・ブロウ 被疑者死亡――正体はヴィツィオ・ユニオンの末端構成員”
 記事にジャラランガのことは一切書かれていなかった。最初に逮捕されたルカリオの名前さえ出ていなかった。マニューラ・ジュン・ライは、ツンベアー製氷の倉庫に隠れていたところを警察隊に襲撃され、激しい抵抗の末に頭部を強く打ち付けて死亡した。倉庫内には犠牲者から剥ぎ取られた遺体の一部が発見され、彼の犯行を裏付ける決定的な証拠となった――何もかもが戯言だったが、世間はこの戯言を信じきっていた。彼らにとってヴィツィオ・ユニオンは、モノーマにおけるアウレリウス剣王なのだ。凶悪な殺しも、株価の急落も、ウイルス性の風邪の流行も、ヴィツィオの仕業だと彼らは言う。何なら雪が降り積もったのもヴィツィオのせいにする。いつの時代も、民衆は仕事帰りに糞を投げつけるための絵を常に必要としている。
 ふいに誰かが階段を登って来る気配があった。大家のはずはなかった。四日前に夫が亡くなって、彼女はその後始末に追われている。葬式に参列してもいいと言ったが、きっぱりと断られた。その足音は二足歩行で、細い脚をしていた。
 玄関が上品にノックされた。エンブオーは新聞をデスクに置いて、扉の方に向かった。
 扉を開けると、竜革の黒い長靴を履いて、クリーム色のマフラーを整然と首に巻いた女が立っていた。ミミロップ・アイリーンだった。
「お邪魔してもよろしかったかしら、刑事さん」
 ミミロップの右手には、立方二十センチの白い紙箱がぶら下がっていた。そこからホイップクリームの甘い匂いが漂っていた。
 エンブオーは何も言わずに彼女を中に入れた。彼女は長靴を玄関で脱ぐと、しゃがみ込んで、軒先で靴を振るって雪を払い落とした。
「ここに来ない方が良かったのでは?あなたの父上は、私を恨んでいたと記憶していますが」
「とんでもない」と彼女は言った。 「感謝していましたよ。私が本当に無傷だったと知って」
 その頃、エンブオーは移動式の薪ストーブにあと三本だけ焚き木を放っていた。入れた瞬間から橙色の炎は盛りを増して、ばちばちと小気味いい音を立てた。煉瓦造りの部屋は決して寒くなかった。これが藁や小枝の部屋なら話は変わっていた。青い二足歩行の狼がやって来ても、何の心配もなく出迎えられる。
 ミミロップを来客用のソファに座らせると、エンブオーはその向かいに座った。ミミロップは畳んだマフラーを脇に置いて、白い箱をテーブルに置いて差し出した。
「今日が誕生日だと聞いたもので」とミミロップは言った。
「誰にです?」
「父にですよ」と彼女は微笑んだ。 「あなたは潜入捜査官だったと」
エンブオーは両手をテーブルの上で組むと、視線を床の寄木張りに落とした。 「昔の話です」
「当時、私達には接点がありませんでした。ですが曲がりなりにも、あなたもファミリーの一員だったことに変わりはありません。ああ、悪く取らないで下さいね。ご存知の通り、私達の世界は狭く限定されています。狭い世界では、仲間同士の絆を確かめ合わずには生きていけないのです」
「まるで田舎のようにね」。エンブオーはうらぶれた微笑みを返した。
 ミミロップはくすっと鼻を鳴らして言った。 「そんな意地悪にならないで下さい。もう昔の話は持ち出しませんから」
 彼女は箱を開けるように言った。エンブオーが開けると、太い蝋燭が上面に三本刺さったショートケーキが出てきた。上面の外周にはイチゴとブルーベリーが散りばめられ、中の層にはカットされたモモンとマゴが敷き詰められていた。匂いだけでもくらくらしそうなケーキだった。その後、男女は静かに誕生日を祝った。蝋燭の灯をつけて、すぐに消した。上物のブランデーを一本開け、それでエッグノッグも作り、二匹で黙々とケーキを平らげた。三十歳の誕生日会はこうしてひっそりと、なおかつ優しく過ぎていった。
 その後、エレザード・フィリパが事務所を訪ねてきたのは、ミミロップが帰ってから二時間後、午後五時半のことだった。

「お願いします。息子のビリーを探して欲しいのです」
 そのエレザードの老婆は黒いサテンのぴたっとした手袋をはめて、尻尾の先には蝶柄の入った黒いリボンを巻いていた。彼女は赤無地の大きな紙袋をソファの下に置いていたが、中身は予想もつかなかった。普段の居丈高な雰囲気は微塵にも感じなかった。声には張りと潤いがあったし、目の奥には光があった。だが、その光の色は病的な何かを感じさせ、エンブオーにただならぬ警戒心を抱かせた。
「話が見えないのですが、大家さん」。脇から淹れたてた紅茶を差し出しながら、エンブオーは言った。 「何もこの時節でなくても良いでしょう。エレデノさんの葬儀を済ませてからお考えになられては?」
「それだと遅いの」とエレザードはか細く鳴くように言った。 「あたしももう長くないから」
 エンブオーはますます困惑した。元々引き受ける気もなかったので、こう切り出した。 「だいたい、その類の仕事は引き受けられないんですよ。よく似たようなことを頼まれているので、あなたにも全く同じことを言います。いいですか。行方不明者の捜索は、警察と探偵の領分です。私は警官でもないし、探偵でもない」
「警官だったこともあるのでしょう?」
「話をそらさないで下さい。私は引き受けたくないのではなくて、引き受けられないのです。本当に今どうしてもというなら、知り合いの探偵事務所に話を回せますが」
「あなたでなくてはいけないのよ」とエレザードは辛抱強く言った。辛抱強くなるだけ、礼儀正しさのメッキは剥がれていった。 「その警察や探偵に、あたしが相談しなかったとでも思う?しましたよ。でも、全然役に立たなかったの。彼ら、口を揃えてこう言ったわ。『探しましたが、お気の毒様です』。何がお気の毒様よ。自分の無能さを棚に上げて、金まで取っていくなんて」。エレザードは話をそこで止めて、エンブオーを睨んだ。 「葉巻は今必要なの?」
「申し訳ありません、そろそろ必要に感じたもので」。そう言って、エンブオーは葉巻をケースに仕舞った。 「私もその程度の無能ですよ。この通りね」
 そこでエレザードは突然微笑んだ。 「あなたは違う。本物のエリートだものね」
 エンブオーには単純なお世辞に聞こえなかった。これまでの彼女の言葉が全て彼女自身の内奥にも向けられているように、エリートという言葉を自分に言い聞かせているように聞こえた。
「それに、こういう言い換えをしたらどうなるかしら」。目の光を強めて彼女は言った。 「ビリーはあたしの夢なの。夢という言葉で収まらないくらい、あの子は私に意味を与えてくれるの。あなたは夢を叶えるんでしょう?断る理由はないはずよ」
 そう言って、彼女は紙袋をテーブルの上に置いた。置いたときに、袋の中で紙束が擦れる音がした。想像する暇もなく、彼女は袋を引っ張り倒して、ペラップ・マルコランの顔をテーブルにぶちまけた。
「五百万よ」と彼女は言った。 「ビリーを連れ帰ってくれたらね」
 そのときにようやく、エンブオーはエレザード・フィリパの目の輝きの正体を知った。ビリーが逃げ出したのもうなずける。彼女は劣等感の塊だった。ついでにビリーがどのように育てられたのかも想像がついた。自由などは尻の毛一本ほどにもなく、着せ替え人形のようにして育てられたのだろう。決して珍しい親子関係ではないが、最も不幸な親子関係の一つだ。甘い毒の親なのだ。仮に息子を首尾よく見つけたとしても、彼はこの母親の元には断固として戻るつもりがないだろう。そのことを彼女に伝えても理解出来るとは思えない。後に続くのは泥沼の争いだけだ。離婚紛争と本質を同じにする、一番関わってはいけない依頼だった。
「貴意には添いかねますが」。エンブオーがそう言い始めたとき、エンブオーの襟巻がばちばちと音を立てて開くのが見えた。そして 彼女はそれ以上先を言わせなかった。
「受けなければ、ここを引き払ってもらうから」と彼女は言った。いつもの居丈高な老女に戻っていた。 「このビルを売るわ」。喧嘩を売ったも同然の一言だったが、彼女はそれに気付いていないようだった。
「脅迫しているつもりなら、この話は終わりです。あなたの夫や息子さんはそれで言うことを聞いたのでしょうがね。なめないでいただきたい」
 エンブオーは自分でもそう言ったと思った。しかし、その時の意識の半分はオーベムの手紙の一節に向けられていたし、実際に口は動いていなかった。声色も全く違っていた。玄関からは冷気が漂っていた。ルカリオが立っていた。黒いレインコートを着て、片開きの扉にもたれ掛かり、左手が上に来るように腕を組み、くの字に曲げた左足の裏を扉に付けていた。
「あんたは!」とエレザードが叫んだ。発狂したと表現しても良かったかもしれない。 「こっちに来ないで!この悪魔!ルカリオのクズ!」
「もっと練れた表現に直していただけますか?考える時間を一分だけ差し上げますので」
「出て行ってよ!」
「どうやら五分は必要らしい」。ルカリオは左足を床につけた。それと同時にエレザードの襟巻から白い電撃が延びて、レインコートの胸から下をずたずたに切り裂いた。そこからダークブルーのベストが現れた。クレッシェンド14の新モデルだった。
「ダンスホールでローキックとカクテルといきましょうか?」。まんじりともせず、老婆を射竦めて言った。その穏やかで低い声の響きに、老婆の襟巻はたちまち萎んだ。
 エンブオーは立ち上がると、ルカリオの方に歩いて言った。 「なあ、一旦出直してきてくれないか。ヒルトップのソルナズで何か食ってろ。別に食わなくてもいい。後で迎えに行く」
「ここでも俺は嫌われ者か?」
「ふてくされるなよ」とエンブオーは言った。しゃがみ込んで、レインコートの破片を拾いながら続けた。 「来るタイミングを間違えただけだ」
 ルカリオはエレザードの顔を見た。拒絶するあまり、心が地球の裏側まで逃げた顔をしていた。別に殴ったりしたわけではないが、きつく言い過ぎた日もあったかもしれない。もちろん、きつく言ったのもわざとだが、それなりの理由があってのことだった。
「ビリーは戻ってきませんよ、マダム。もっと自分のために生きた方がいい。それならクライドも喜んで手を貸すでしょう」
 黙れ、という簡潔で表現豊かな答えが返ってきた。ルカリオは破れたレインコートをエンブオーに脱いで渡すと、雪の降る海岸に戻っていった。積雪量は現在も更新中だった。

 * * *

 《ソルロックズ&ルナトーンズ》は午後六時にしては珍しく盛況で、空席はカウンターに一つしかなかった。どよどよした喧騒が低い天井に反射して、ルカリオもその勢いに乗せられて、バナナスプリットとソーセージプレートを平らげると、今はブレンドコーヒーで落ち着いたところだった。
 ルカリオはダイナーの奥まったテーブル席に座っていた。カーテンのない大きな窓からは無数の黒い足跡で覆われたアーケード通りが見えたが、ほとんど誰も歩いていなかった。食事のついでに見たものといえば、溶岩ハンバーグの屋台を引くバクーダとか、ハーモニカなしで吹き語りするペラップとか、その程度のものだ。むしろ、もっと早くから中の様子に注目すべきだった。
 ルカリオはダイナーの入り口から見て、右奥のテーブル席のうち、二番目に奥のテーブルに一匹で座っていた。玄関が見える、奥に近い方のソファに座っていた。
一番奥のテーブルはマフォクシーの親子連れがいた。ルカリオと背中合わせに座っていた父親は、赤いチェックのハンチング帽を耳の間に申し訳程度に置いて、下に置けばいいものを、わざわざ念動力で固定していた。父親は口達者だったが、舌と心がしょっちゅう一致しなかった。料理が遅い、このうすのろ野郎と苛立ちながら、いざプレートが運ばれてくる度に、わざわざお礼をウェイターに言っていた。父親のはす向かいには母親がいた。小ぶりで綺麗な目をした奥さんだった。彼女は夫とほぼ正反対の性質だった。つまり、無口で、口下手で、仏頂面だったのだが、家族のことを裏も表もなく愛していた。二匹の子供達は姿が見えなかったが、姉のテールナーと、弟のフォッコだった。今日は姉の誕生日だったらしく、親からのプレゼントをしこたま貰う姿が弟の不興を買ったようだった。彼らがここに来たのはそれが理由で、ステーキが食べたいという弟の提案があったかららしい。テールナーが父に話す声に、ルカリオは包装した絵本をミミロップに渡さなければならないことを思い出した。
 ルカリオから見て奥のテーブルでは、サンドパンとガメノデスがロイヤリティの割り振りとかで長いこと話し合っていたが、今では大した興味も引かない愚痴を漏らしていた。サンドパンは雑誌編集者で、原稿が遅れている小説家のマネージャーに対して小言を漏らす度に、尖ったトサカの先端がルカリオの頭の左上でふらふらと揺れていた。
「でも、先生は書けないものは書けないって言うんです。締め切りに急かされて出来たものなんて、世間様に見せられるようなクオリティではないって。どうにも出来かねますよ」
「だからってね、こっちもキャップに我慢の限界だって言われてるんだ。次の締め切りに間に合わなかったら、社長が直々に現場に出て来るんだぞ。そうなったら、締め切りどころの騒ぎじゃ済まないよ」
「先輩、ねえ、今日は研ぎましょう。雪と同じでね、どうにもならないんですよ、もう」
「まったくその通り」
 二匹はさっさと勘定を済ませて、ダイナーとは筋向かいの 《ペルシアンズ・サロン》 に入っていった。エンブオーが短くなった葉巻を咥えてやってきたのは、その二匹が店に入った直後のことだった。眉間には深い皺が寄っていた。控えめに言っても、ご機嫌には見えなかった。
「断ったのか?」。エンブオーが向かいの席に着くなり、ルカリオは前置きもなく始めた。
「保留にした。何とかな」
エンブオーは蝶ネクタイを締めたユンゲラーに簡単な手の動きで合図を送った。右の爪を折り曲げ、次に左を折った。それを見たユンゲラーはさっさと厨房に戻っていった。
「意外だな」とルカリオは茶革のつるつるした背もたれに倒れ込んだ。 「あのババアがどんな教育を息子にしたか知っているか?」
「知らないが予想はつく。愛想を尽かされて当然だ」
「それなら、これは合理的な判断じゃないな。お前の性格的、経験的な意味での合理性という意味だが」
「いいや、合理的だよ。経済的という意味でな」。エンブオーは目を細め、棘のある声で言った。
 ルカリオはやる気もなく回るシーリングファンを見上げた。 「今頃気付いたのか?もっと仕事を手広くやるべきだったと」
「同じことを言われたよ。俺達の弁護士先生にもな」。エンブオーは葉巻をアルミの灰皿に押し付けた。
「何をかりかりしてる?」。青い男はファンをぼうっと見上げたままで言った。 「お前の周りには問題児ばかりしかいなくて、いよいよ付き合い切れなくなったとか」
「ああ、その問題児は仕事が荒っぽいことで有名でね」とエンブオーは両手をテーブルに伏せて、その筋張った微笑みをルカリオにぐいと近づけた。 「四方八方の恨みを買いながら、心当たりがありすぎるとタフぶってみせる問題児だ。一個中隊の戦力に匹敵する、第一級種族の手練れを真正面から一撃で倒す問題児だ。そいつは誰彼構わず泣かせ、怒らせ、こき下ろし、挙句には三日月の欠け方一つとっても化け猫の微笑みとあざけってみせるんだよ。自分のことを世界一強くて、賢くて、それをもったいぶってから見せることで最も恰好がつくと信じて止まず、普段は斜に構えたコメントを一つや二つ社会のポートレートに添えていれば、誰もそいつに文句を言わない。それが奴の持つ唯一の伝達手段であり、愛情表現であり、文化的遺伝子なんだ。貢献もなく、感銘もなく、宙に浮いて見下した冷笑。これが奴の全てだ。それはもう刺激的で、非常識で、退屈しない仲間だよ。いっそのこと伝記でも書くべきじゃないかね。それかエッセイでもいい。『寂しがる仮面』ってタイトルでな」
 エンブオーの語勢が強まるにつれて、ルカリオのくすくす笑いにも色がついて大きくなった。
「怒った方が愉快じゃないか、クライド。週に一度は怒るべきだ」。ルカリオは本当に笑っていた。両目を細め、口元に義手を添え、身体を上下に揺らして喜んでいた。こんなに笑った姿はエンブオーも初めて見た。恐らくはミミロップも見たことがないに違いない。
「もう笑うな!」
「なあ、怒って面白くなるなんて才能だぞ。俺が怒るところを見たいか?百匹中百匹がしん、となる」
「こんなことで笑うのはお前だけだよ」
 ユンゲラーがサラダボウルと直径十五センチのモッツァレラピザを宙に浮かせて持ってきた。念動力で浮遊した料理を受け取ると、エンブオーはフォークを右手にサラダをちびちびと食い始めた。
「正当防衛は認められなかった」とルカリオは姿勢を正して言った。 「その気になれば、ごろつきの囲いから逃げ出すことも出来たと連中は言った。拳を下げて話し合うことも出来ただろう、とな。実際にそんな余地はなかった。だからそれなりに手加減して、誰も死なないようにしたんだ。そんなことは碩学たる法律家の面々にはどうでもいいらしい。ディニアは弱者に優しい国だ。だが、金を持っていない弱者にはつらく当たる。つまり金持ちの弱者には天国みたいなところさ。その反面、俺達のような金のない、腕っ節と脳みそばかりある奴にはこれっぽっちも報いてくれないのさ」
「金のない奴がクレッシェンド14の袖なしを着るわけだ」。エンブオーはまずそうなサラダを噛んだ声で言った。
「貰ったんだ、アイリーンに」
「じゃあ、黒檀一式の家具も買ってもらったんだな。あの偉そうなオフィスチェアも」
「そっちは自分で買ったよ」
「クラブ帰りの金持ち弱者を揺さぶってか?」
 ルカリオはふんと鼻を鳴らした。 「オーケー、クライド。何か言いたいことがあるなら、ここで白黒はっきりさせてもらおう。遠回しな比喩もなしでな」。そう言って腕を組み、茶革のシートにふんぞり返った。
 エンブオーはフォークをボウルの縁に立てかけた。窓際に置いたマトマ・ホットスペシャルの隣にあるティッシュ箱から三枚取ると、それで口を拭った。 「お前は本当にでたらめな奴だ」。下あごの太い牙も拭きながらこう続けた。 「俺の稼ぎがそんなに良くないということは、お前の稼ぎはもっと悪い。そうだろう?副業でもしてないとあんな高級品には手が届かない。それか金持ち女のヒモでもないとな」
「羨ましいのか、クライド?」。ルカリオは茶化すように口を挟んだ。
 エンブオーは牙を拭く手を止めて上目遣いで睨んだ。 「いいや、ちっとも」。新しいティッシュを取り、それで使用済みを丸め込んで灰皿に置いた。 「芝居はよせよ、ヒース・ハード。心を読むことに掛けては、俺はお前にも負けない自信がある。嘘をつかれた時は特にな。その気になれば、俺はいつでも意地の悪い警官に戻れるんだ」
「その気になれば」。ルカリオはおうむ返しの言葉をのろのろしたシーリングファンに巻き込ませていた。
「いいだろう」。エンブオーは料理をやや乱暴に左脇に退けた。 「昔話をしよう。三週間前のことだ」
「そんな昔のことを?」とルカリオは笑った。
 エンブオーは背筋を伸ばし、店の中と窓の外を見渡すと、またぞろ座って小声で話し始めた。
「ジャラランガは奇妙な遺言を残した。“違う。セヴは呼ばれた”。“雨に出会い、連れて来られた”。一体、彼は誰に呼ばれて――連れて来られたんだ?彼がここに来たのは偶然じゃなかったし、俺も予想はしていた。お前に濡れ衣を着せるのがジャラランガでなければならない理由があったはずだ」
「推理なら自分を相手にやってくれないか、探偵さん。眠くなってきたよ。推理物は昔から好きになれない」
 あるいは、とエンブオーは茶々をかき消すように言った。 「狙われた奴らに他の理由があったとかな。お前を含め、腕利きの戦士だったことを除いて」。そう聞いたルカリオの目に、鈍い光が浮かんだのをエンブオーは見逃さなかった。 「あの哀れな戦士は往生するはずだった。望み通り、お前の手に掛かり、心置きなくな。だが、彼は自責の中で死んでいった。俺にはそう見えた。誰の目にも明らかだった。お前は彼に何と言った?“お前は知っていて、あいつらを――”」
「要はこう言いたいのか?俺がエンペルトやガブリアスとかと知り合いだったと」。ルカリオの目は相変わらず薄ら笑みを湛えていた。 「全ては仮説でしかない。今となっては」
「否定しないんだな」
「否定したところで答えは同じになる。貧弱な仮説だからだ、クライド。哀れなほどに貧弱だ」
 ルカリオは視線を窓の外にやると、ひどく長い溜息をついた。その後で冷めて固くなったピザを手繰り寄せた。 「警官はみな同じだ」。ナイフで小麦色の円盤を切り分けながら言った。 「連中の言葉は言いがかりに始まり、言いがかりに終わるんだ。そこにはある種の哀愁も漂っている。あの時こうすればああすれば、そんなことばかり考えて、ちっとも行動しない。正義感があろうがなかろうが、結局は義務でしか動けないんだ。もっと自分の言葉で話せよ。さっきの問題児の演説のようにな。そうすれば無駄な議論をせずに済む。そういう言葉遊びは生煮えのシチューのように不完全で、愚かしく、素材と技術の浪費でしかない」
 ルカリオはマトマ・ホットスペシャルの瓶を取ると、四分の一に切り分けたピザに十滴以上は振り掛けていた。なおも振り続けながら、こう言った。
「カメックス・アデロは本部の風紀課に昇進だそうだ。かねてからの希望だったらしい。あいつは嫌な奴だし、大して頭脳明晰でもないが、自分の言葉で話す警官だ。結局、そういう奴が社会でのし上がっていくのさ。あいつは大成するだろう。警部補から警部になり、部長から署長になり、署長から本部長になるだろう。そうして政財界に入って、きな臭いコネを背後にドリュウズみたいなゼネコン大手とシンクタンクを牛耳り、黒いカーテンの裏からディニアの大統領を選ぶようになるんだ。国民の血税で贖ったロマネ・アマージョを片手に、エース札と2の札しかないナインゲームでもしつつ、いとも簡単にな」
「掛け過ぎだ」。エンブオーが指摘したときには、モッツァレラチーズが燃えるような赤に染まっていた。
「これくらいしないと食った気がしなくてね」。ルカリオの大口はたやすくクォーター・ピザを丸呑みしてしまった。 「そっちの気は済んだか?」
「まあな」。エンブオーもピザを口に取った。先端三センチを前歯でかじり、残りを新しい陶器の白い小皿に置いた。
「それで、受けることにしたのか?」
エンブオーは窓に映る自分の顔を見て言った。 「いいや」
「それなら引っ越しの準備を始めないとな」。ルカリオは席を立った。 「お前もモーテルに来るか?」
「やめておく。あそこの布団に潜ると喘息になりそうだ」
「少しくらい汚い方が身体も丈夫になるがね。だいたい、葉巻を吸っているような奴は喘息なんかにならない」
「豚は綺麗好きなんだ。知らなかっただろうがな」
「もちろんそうだ」
 その後、ルカリオは五千リラ紙幣をユンゲラーに渡すと、釣りを受け取らずに店を出て行った。出る前に彼はこう言った。 「ハッピーバースデイ、エンブオー・クライド・フレアジス」

 店を出たその足で、ルカリオはセントラルグレイブのコールセンターに向かった。もう雪は止んでいた。突き刺すような空気に乗って、ホイッスルの高音がアーケードの南口から飛んできた。ルカリオはそちらへ向かった。
 突然の大雪に、ヴェスパオールの街は一日目に大いにはしゃぎ、四日目にしてうんざりしていた。昼間こそ、気象監視庁のポワルン達が“にほんばれ”で降雪を食い止めていたようだが、夜にもなればどうしようもなかった。しかも零下二度ともなれば、空道もがらがらに空いていた。有翼者達は熱々並々に張ったバスタブから出たくないのだ。地面に縛り付けられた者達だって同じことだ。
アーケードを出てすぐのアグノム・ブルバールも例によって混沌としていた。二車線の道路。背高いシーヤの街路樹。ランタン型の橙色街灯。由緒ある白煉瓦のタウンハウス。タウンハウス一階の酒場のネオンサイン。それらをまとめて三十センチの雪が覆うと、元から混沌とした大通りが今では抽象絵画の様相を呈していた。
 ルカリオは通りを右折して三ブロック直進した。足元で踏み散らされた新雪は黒褐色のコンクリートをモザイク模様に変えていた。雪には色とりどりの毛や、得体の知れないごみくずも散っていたので、どちらかと言えばスクラップ芸術と言い表すべきだったかもしれない。住民のほとんどは裸足で、それでいて南国生まれの種族ばかりであり、翼がない者はみな店の軒下を潜るように移動していた。ルカリオもその一匹だった。ただし、彼の場合は足に見知らぬ誰かの毛がひっつくのを嫌ってのことだった。歩道と二車線の車道の間には“融雪注意”と手書きされたカードがコーンバーにぶら下がり、一対のパイロンに支えられていた。その注意書きは反対側にも置かれ、それらは道路の続く限りに延びて際限が見えなかった。
「融雪隊、通ります!通りますから道を開けて下さい!」
 疲れと苛立ちを隠そうともしない声で、ブースター達が車道の中央で四方八方に炎を吐いていた。先頭の制帽つきがホイッスルを弾くように吹いては、十メートルもの熱線で道を切り拓いていた。結構な熱量だったので、ルカリオは融雪隊の足並みに揃えて暖を取った。だが十秒もすると、あまりの遅さに痺れを切らしてさっさと先に行ってしまった。

 年中無休のカフェにはいつでも誰かがいるものだ。二十五度の室温とコーヒーの需要が減ることは決してない。空の調子が多少狂っていたとしても。セントラルグレイブにあるコールセンターは、この 《パッチールズ》という全国チェーンのカフェの奥に併設されていた。カフェは一階にあり、テラス席はなく、二階と三階はこじんまりとしたアパートになっていた。壁が漆喰で覆われたアパートだ。入り口の前には赤杉の短い階段があり、手すりに観葉植物の鉢が下がっていたはずだが、今では姿を消していた。足跡だらけの階段を見れば、繁閑のほどは店に入るまでもなく判別した。ルカリオは左側の手すりにつかまると、そろそろとした足取りで一段ずつ昇っていった。
 赤杉の両開きを開けると、文字通り鼻の前で高級豆の香りが炸裂した。店内は申し分なく暖かく、至って静かだった。レコードからは、リトルバード・コメットの“清き雪”が客の会話を邪魔しない程度に流れていた。客もまた清く正しかった。馬鹿笑いもなく、食器を必要以上に鳴らす音もない。耳をすませば、豆を手で挽く音がカウンターの奥から聞こえるほどだった。あとは立ち読み出来る本棚があれば申し分ない。だが、いまだにその手の工夫を凝らしたカフェはヴェスパオールにもない。
 店内の左手奥、水洗トイレがある廊下の突き当たりにコールセンターはあった。コイルが一匹だけ狭い個室にいて、彼(あるいは彼女かもしれない)に通信先と連絡方法、おおよその通話時間を伝えてようやく電話が使える。普段は電話を使うために列が出来るのだが、ルカリオが来たときは誰もいなかった。
「ラーファン州、ラルドシェードに伝言を残したい。十五秒くらいでいい」
「五十リラニナリマス。少々オ待チクダサイ」
 コイルの声は高かった。よく分からないが、女かもしれないと思った。彼女は磁石のような腕をぐるぐると回転させて、机に置いた電話機に何かの信号音を送らせていた。その電話機には外線がなかった。
 待つ間、ルカリオは部屋を見回した。冗談抜きに狭い部屋だった。オフィス机と椅子一個ずつ置けるスペースしかなく、尻尾の付け根が扉に着きそうだった。こげ茶色の机の右奥に置いたソクノの鉢しか光源がなかった。壁も床も無垢杉の定尺張りで、天井は暗すぎてよく見えない。壁には小さなメモがセロテープで所狭しと貼られ、そこに連絡先と電話番号がこれまた小さく書かれていた。これでは虫眼鏡でも持って来ないと読めない。
「オ待タセシマシタ」とコイルは言った。 「受話器ヲオ取リクダサイ」
 その電話機は机の中心にでんとして置いてあった。ラジオトロンのようにキーは一つもなく、送話器と受話器がそれぞれ分離している。使用者はコード付きの受話器を手に取り、ラッパのような見た目の送話器に向かって話すのである。
 ルカリオは受話器を取った。取った時にベルの音が静かに鳴った。 「ビリー、リンだ。親父さんが亡くなった。近いうちに電話で話したい。これを聞いたら、なるべく早く折り返してくれ。それじゃ」


  [No.4172] (Chunk)以心不通の兄弟 投稿者:水上雄一   投稿日:2021/01/11(Mon) 04:31:57   21clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 その日の昼、《マルノームズ》は満席に近かった。“お残し禁止”とメニューの表紙にわざわざ書くほどの気合が入ったバイキング・ハウスにおいて陶器の皿は――別段、この店に限らずだが――何通りかの使い方がある楽器だった。スプーンとフォークとナイフを扱える手があれば、かちゃかちゃ、かりかり、きりきり、と音痴に鳴き続ける一本調子の弦楽器だった。手がなければ、舌とテーブルを使ってギロの音が出せた。舌遣いが強いほど、木目が荒いほど、皿が軽いほど、客は腕の良い奏者になれた。ただ、リズム感を除いては。それでも、リズム感のある音痴と、リズム感だけが足りない奏者が手を組めば、それなりに音楽というのは出来上がる。ただし、それは頭から尻まで聞くに堪えない背景楽曲としてである。だから奏者としても誰として黙ることはない。自分の下手さ加減を誤魔化すために口をトークボックスに変える。問題なのは、そのトークボックスの多くが壊れているということだ。ルカリオ・リンの向かいに座っていたチャオブー・ラーネスという若者の口もその例に漏れなかった。
「やっぱり、ここのボロネーゼはマズいんだよな。というか、全部マズい」
 表情という表情もなく、料理でも冷ますような目でそう言った。その言葉はルカリオが食べていたミートドリアまで冷ましてしまいそうだった。染み一つない、まっさらなクロスを敷いた丸テーブルに二匹は座っていた。ルカリオはドリアを喉に押し込むと、しかめた顔を右にずらした。一枚張りのガラス窓から、ひっきりなしに往来するトルネード通りが見えた。向こう側の二車線から、ハガネールが馬車に混じってこちらに向かってきていた。全長十メートルもあるその鉄蛇は鎌首を出来る限り高く持ち上げて、なるべく道幅を取り過ぎないように、あるいは虫やねずみといった小さき者をうっかり潰さないようにと必死の形相だった。首からは申し訳程度の赤いネクタイをぶら下げ、鼻先には小さな茶色いビジネスバッグを乗せ、それを落とすまいと強い寄り目になっていた。あと一週間だ。一週間でトリスタンに帰れる。ネクタイなんてしなくていいし、夜の冷たい土にも悩まされなくていい。あと少しだぞ、ステイル!頑張れ、ステイル!愚痴が垂れそうな時は思い出せ。私には家族がいる――ルカリオはその声が全て聞こえていた。彼以外には聞こえない声だった。同情するよ、とルカリオは言って、間をおいてからドリアを口にした。チャオブーは何のことだか分からないという顔をした。当然のことだが。

 その頃、《マルノームズ》に一匹のカビゴンが入ってきた。あまりに大きく作り過ぎた人形の容姿をしたその種族は、一見したところでは性別も年齢も分からない。糸のように閉じられた目と口は感情も読み取れない。分かるのは、それがただならぬ大飯喰らいで、運動が大嫌いで、昼寝が食事と同じくらい大好きで、そのせいで腹がどこまでも出っ張って、ルカリオと同様、この店の常連だということだけだった。カビゴンは迷うことなく、二匹の隣にある特大のテーブルにのしのしと歩いてきた。その一歩ずつが床をぴりぴりと揺らし、ルカリオの足裏をくすぐっていた。やあ、とカビゴンは右手を挙げてルカリオに挨拶した。ルカリオも全く同じように挨拶を返した。
「珍しいね。新しいお友達?」とカビゴンはとぼけたように言った。
「友達じゃないが、新しい知り合いだ。知り合って間もないよ」
 ふうん、と何の気もない返事だった。顔はルカリオの手元でまずそうにかき混ぜられたドリアに向かっていた。金刺繍が縁に施された蒼いチェックのネクタイを右手でいじりつつ、表情は微動だにしなかった。どこからともなく、小ざっぱりした顔立ちのキルリアが恭しそうにテーブルにやってきて、いつもの、とだけカビゴンに一言聞かされると、最初から答えが分かっていたように伝票を渡して去っていった。 「それじゃ、ボクはこれで」
 そう言って彼はバイキングの列に向かった。立ち上がった時にはテーブルが腹に押され、二十センチほど前にずれて耳障りな音を立てた。ラーネスは目を笑わせず、口が耳まで裂けた冷たい笑みを彼の背中に向けた。
「カビゴンね。この店にぴったりじゃないか。あいつら、カビが生えようが、腐ってようが、何でも食っちまうんだぜ。寝ぼけてなんかいたら、自分の手とかベッドのシーツすら食うだろうよ」
「今のは聞かなかったことにしよう」とルカリオは冷めたドリアに匙を置きながら言った。  「ああ見えて優れた一族だ。地頭も良いし、哲学にかけては、カビゴン哲学なんて分野を学科に広めるくらいだ。その気になれば凄まじい腕力も出せる。お前の一族よりもな。行動が極端に遅くて、気まぐれという以外は欠点がない。お前が馬鹿にしていい相手じゃない」
「馬鹿になんてしてない。事実を述べているだけだ。たとえ馬鹿にしていても、あんたの当て擦りよりはずっと暖かみを持たせられる自信がある」
「暖かみ以前に、お前は事実の一つを述べてもいない。それでよく文学部に行こうと思ったな」
「人間考古学部だ」と噛みつくようにラーネスは言った。 「今時文学部なんて流行らない。これからはますます流行らなくなる。古臭い紙の束に囲まれるなんてこっちから願い下げだ」
「その割には、時空と闇の探求なんか読んでるじゃないか」とルカリオは含み笑いを浮かべつつコーヒーカップを持った。 「しかも、自作の詩まで付け加えて。“友よ、愛しき友よ。あの尖塔から帰る時、君が私から去った時――”」
「やめろ!」。テーブルを両手で叩き、朗読をかき消すように叫んだ。ほとんど悲鳴に近かった。恥じらいと怒りで目は燃えるように血走っていた。 「正気かよ、お前!」
「お前じゃない」とルカリオは微笑みを少しも崩さず、唸るように言った。 「口の利き方に気を付けろよ、小僧。お前がクライドの弟じゃなかったら、喉にお前の両足を突っ込んで奥歯で噛ませていたところだ。血が繋がらなかったら、お前の親父さんや兄貴だってそうするだろう。もっとも、今はそれさえしてもらえなくなっただろうがな。その内お前が風呂に入らなくなって、饐えた生ごみの臭いがしても何も言わなくなる。そうなったら俺も口を利いてやらん。恐らく誰も相手をすまい。それともカビゴンなら相手してくれるかもな。腐った肉でも食うんだろう?お前に言わせれば、だが」
 ラーネスの顔は暖炉よりも熱を帯びていた。扁平な豚鼻からは黒い煙が噴き出していた。実際に火の粉でも噴いていたのかもしれない。
「どうだ、暖かみを感じる――事実だろう」
 そんな風に、生意気な男が小生意気な子供に真の生意気さが何たるかの手本を見せていると、カビゴンが銅鑼ほどの大皿に山のような料理を載せて帰ってきた。店のありとあらゆる料理が無造作に載せられていた。だがドリアだけは載っていなかった。総重量は二十キロほどだが、それでも彼にとってはお通しとさえ呼べる量ではない。
「その子、クライド君に似てるね」、カビゴンは皿をテーブルに置いて、回り込んで壁際の石の椅子に座った。 「兄弟だったりして」
 他意もない口振りだったが、ラーネスのねじくれた怒りを買うにはお釣りがつく一言だった。この大きな子供がテーブルを立ち上がって、自分の友達の額で皿を叩き割るか、そうでなければ、身の程知らずな口を利く前に、ルカリオは予防のための仕事をしなければならなくなった。
「そう見えることだろうが、実は違うんだ」とルカリオはカップを片手に立ち上がった。テーブルを左から回り込み、カビゴンの前の席についた。 「依頼者なんだよ、俺の」
「納得だね」。カビゴンは爪だけが外に出た、つるつるした白い手袋を両手にはめていた。 「教育係といったところかな。しかも、ただ働きさせられているらしい」。彼はサラダを両手でつかみ、顔の半分を占める口に放り込んでばりばりと咀嚼した。一見して下品に見える食べ方だが、野菜の一欠けらも胸に落とすことなく、ドレッシングの液だれ一滴もテーブルに落ちなかった。
「分かったよ、デビッド。俺の負けだ」。ルカリオは諦めたような微笑みを、デビッドと呼ばれたカビゴンに向けた。そして、その微笑みをそのままそっくりチャオブーにも向けた。ただし声色は一オクターブだけ低くして。 「お前は帰れ。寄り道するなよ」
 やっとその言葉が聞けたと言わんばかりに、チャオブーはすぐに席を立った。大人達に冷たい目を向けると、まるで逃げるように店を後にした。だが、窓からは彼の帰る姿が見えることはなかった。
「一筋縄ではいかないね」とカビゴン・デビッドは言った。 「でも、あれならまだ立て直せると思うよ。ぎりぎりのところだけど」
「ぎりぎりもいいところだ」。ルカリオはコーヒーを飲み下した。 「何から手を付けて良いか分からない」
「心は読んだのかい?」
「読んだが、こっちまで負け犬になりそうだった。あるいは負け豚というべきか。ああいう弱い手合いの面倒を見たことは一度もないんだよ。こう見えて俺は褒めて伸ばす主義なんだが、褒めるところが何一つないからお手上げだ。何かにつけても、兄貴はこうだったから、とか、兄貴ならこうしただろうが、とか、日がな一日そればかり考えている。その癖、それを指摘されると――」。ルカリオは残りの言葉を宙に浮かせた。 「コーヒーを取りに行っても?」
「もちろん。ああ、ボクのも頼むよ。砂糖とホイップクリームをたっぷりと入れた、ラヴィアーナ風で」

 ルカリオがコーヒーを二杯作って戻ってきた時、カビゴンの皿は綺麗に片付いていた。液面がホイップで覆われた方をカビゴンの前に置いて、何も入っていない方を啜りながら席に着いた。
「さっきの続きだけどね」と出し抜けにカビゴンが言った。 「ところで、君には兄弟が?」
「たくさんいたよ。俺は八男四女の末っ子だったらしい」
 カビゴンはルカリオの言い方に訳を知り、少しの間深く考えた後、 「次男のことは覚えてる?」と聞いた。
「どうだかな」とルカリオはなみなみと注がれたコーヒーを左手に持ち、液面を見つめながら言った。 「あくの強い家庭で育ってね。俺達は、両親を両親とも、兄弟を兄弟とも思っていなかった。いつもお互いを出し抜こうとして、いつも最後にはしくじっていた。だが強いて言うなら、うちの次男は善悪の分別がつかない男だったよ。強さと美しさを感じられるなら、何にでもそそられた。その気になれば宝石にだって欲情した。言いたいことは分かるよ、デビッド。次男というのは大概、自由奔放な長男が親に怒られる姿を見ながら育ち、良くも悪くも周りの目を気にしがちになる、とな。その点であの坊やは過剰なくらいだ。あまりにも兄貴の背中を意識し過ぎている。殺したいくらい憎んでいるのに、頬にキスしたいくらい崇拝してもいる。俺はそういうひねくれた感情は分からないし、処方なんてしてやれない」
 それを聞いて、カビゴンは二十秒ほど黙っていた。
「気の毒に」とカビゴンはようやく口にした。 「何かにつけて自分を表現する機会がなかったんだろうね、彼は」
 ルカリオは首を小さく振ってコーヒーを一口啜った。
「強い光ほど濃い影を落とすものだよ、リン。クライド君は優秀だ。僕から見ても、世間から見ても、彼の家庭から見てもね。重要なのは、影は周囲の目から見えないということだ。見ないようにしていると言い替えてもいい。影の中の当事者でさえ目を背けるくらいだ。その方が生きていく上でずっと楽だからね。彼は今、お兄さんが敷いた金のレールから外れようと必死なんだよ」
「純金のレールってわけでもないだろう」とルカリオは言った。 「もしそうなら、あいつは本部長候補の一匹になれたし、築五十五年の事務所で寝泊まりしてもいなかった。誰にでも雌伏の時期はある」
「それが彼にとっても辛いのさ」とカビゴンは視線を下に傾けた。俯くとまではいかない。 「君の言う通り、崇拝の念があるとしたらね」
 カビゴン・デビッドはいつだって穏和な口振りだった。だが今は、滅多に見開かない右目から鋭い光が差していた。
「もしそうなら、あいつはどこまでも卑屈な奴だ」と言って、ルカリオは立ち上がった。 「見下げ果てるほどにな。まあ、勉強にはなったよ。励まされもした。何かにつけて兄貴を言い訳に使う理由も分かった。コーヒー代くらいは奢らせてくれよ。授業料だと思って」
「ありがたいが、気持ちだけにしておくよ」とカビゴンは言った。目の光はもう消えていた。 「君にもいい機会じゃないか。君は冷徹で、潔癖で、時々感傷的に過ぎる。強くもなく、美しくもない物を愛する気持ちは、欠片ほどでも持っておいて損はない。世の中の九割九分九厘は、そういう石ころのような物で出来ているからね」
「きっと無理だろうが、やるだけやってみよう」とルカリオは去り際に言った。皮肉っぽい笑みが口元にふわりと浮かんでいた。 「俺は次男と同じ名前だった。俺達だけは間違いなく兄弟だったよ」