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  [No.4172] (Chunk)以心不通の兄弟 投稿者:水上雄一   投稿日:2021/01/11(Mon) 04:31:57   21clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 その日の昼、《マルノームズ》は満席に近かった。“お残し禁止”とメニューの表紙にわざわざ書くほどの気合が入ったバイキング・ハウスにおいて陶器の皿は――別段、この店に限らずだが――何通りかの使い方がある楽器だった。スプーンとフォークとナイフを扱える手があれば、かちゃかちゃ、かりかり、きりきり、と音痴に鳴き続ける一本調子の弦楽器だった。手がなければ、舌とテーブルを使ってギロの音が出せた。舌遣いが強いほど、木目が荒いほど、皿が軽いほど、客は腕の良い奏者になれた。ただ、リズム感を除いては。それでも、リズム感のある音痴と、リズム感だけが足りない奏者が手を組めば、それなりに音楽というのは出来上がる。ただし、それは頭から尻まで聞くに堪えない背景楽曲としてである。だから奏者としても誰として黙ることはない。自分の下手さ加減を誤魔化すために口をトークボックスに変える。問題なのは、そのトークボックスの多くが壊れているということだ。ルカリオ・リンの向かいに座っていたチャオブー・ラーネスという若者の口もその例に漏れなかった。
「やっぱり、ここのボロネーゼはマズいんだよな。というか、全部マズい」
 表情という表情もなく、料理でも冷ますような目でそう言った。その言葉はルカリオが食べていたミートドリアまで冷ましてしまいそうだった。染み一つない、まっさらなクロスを敷いた丸テーブルに二匹は座っていた。ルカリオはドリアを喉に押し込むと、しかめた顔を右にずらした。一枚張りのガラス窓から、ひっきりなしに往来するトルネード通りが見えた。向こう側の二車線から、ハガネールが馬車に混じってこちらに向かってきていた。全長十メートルもあるその鉄蛇は鎌首を出来る限り高く持ち上げて、なるべく道幅を取り過ぎないように、あるいは虫やねずみといった小さき者をうっかり潰さないようにと必死の形相だった。首からは申し訳程度の赤いネクタイをぶら下げ、鼻先には小さな茶色いビジネスバッグを乗せ、それを落とすまいと強い寄り目になっていた。あと一週間だ。一週間でトリスタンに帰れる。ネクタイなんてしなくていいし、夜の冷たい土にも悩まされなくていい。あと少しだぞ、ステイル!頑張れ、ステイル!愚痴が垂れそうな時は思い出せ。私には家族がいる――ルカリオはその声が全て聞こえていた。彼以外には聞こえない声だった。同情するよ、とルカリオは言って、間をおいてからドリアを口にした。チャオブーは何のことだか分からないという顔をした。当然のことだが。

 その頃、《マルノームズ》に一匹のカビゴンが入ってきた。あまりに大きく作り過ぎた人形の容姿をしたその種族は、一見したところでは性別も年齢も分からない。糸のように閉じられた目と口は感情も読み取れない。分かるのは、それがただならぬ大飯喰らいで、運動が大嫌いで、昼寝が食事と同じくらい大好きで、そのせいで腹がどこまでも出っ張って、ルカリオと同様、この店の常連だということだけだった。カビゴンは迷うことなく、二匹の隣にある特大のテーブルにのしのしと歩いてきた。その一歩ずつが床をぴりぴりと揺らし、ルカリオの足裏をくすぐっていた。やあ、とカビゴンは右手を挙げてルカリオに挨拶した。ルカリオも全く同じように挨拶を返した。
「珍しいね。新しいお友達?」とカビゴンはとぼけたように言った。
「友達じゃないが、新しい知り合いだ。知り合って間もないよ」
 ふうん、と何の気もない返事だった。顔はルカリオの手元でまずそうにかき混ぜられたドリアに向かっていた。金刺繍が縁に施された蒼いチェックのネクタイを右手でいじりつつ、表情は微動だにしなかった。どこからともなく、小ざっぱりした顔立ちのキルリアが恭しそうにテーブルにやってきて、いつもの、とだけカビゴンに一言聞かされると、最初から答えが分かっていたように伝票を渡して去っていった。 「それじゃ、ボクはこれで」
 そう言って彼はバイキングの列に向かった。立ち上がった時にはテーブルが腹に押され、二十センチほど前にずれて耳障りな音を立てた。ラーネスは目を笑わせず、口が耳まで裂けた冷たい笑みを彼の背中に向けた。
「カビゴンね。この店にぴったりじゃないか。あいつら、カビが生えようが、腐ってようが、何でも食っちまうんだぜ。寝ぼけてなんかいたら、自分の手とかベッドのシーツすら食うだろうよ」
「今のは聞かなかったことにしよう」とルカリオは冷めたドリアに匙を置きながら言った。  「ああ見えて優れた一族だ。地頭も良いし、哲学にかけては、カビゴン哲学なんて分野を学科に広めるくらいだ。その気になれば凄まじい腕力も出せる。お前の一族よりもな。行動が極端に遅くて、気まぐれという以外は欠点がない。お前が馬鹿にしていい相手じゃない」
「馬鹿になんてしてない。事実を述べているだけだ。たとえ馬鹿にしていても、あんたの当て擦りよりはずっと暖かみを持たせられる自信がある」
「暖かみ以前に、お前は事実の一つを述べてもいない。それでよく文学部に行こうと思ったな」
「人間考古学部だ」と噛みつくようにラーネスは言った。 「今時文学部なんて流行らない。これからはますます流行らなくなる。古臭い紙の束に囲まれるなんてこっちから願い下げだ」
「その割には、時空と闇の探求なんか読んでるじゃないか」とルカリオは含み笑いを浮かべつつコーヒーカップを持った。 「しかも、自作の詩まで付け加えて。“友よ、愛しき友よ。あの尖塔から帰る時、君が私から去った時――”」
「やめろ!」。テーブルを両手で叩き、朗読をかき消すように叫んだ。ほとんど悲鳴に近かった。恥じらいと怒りで目は燃えるように血走っていた。 「正気かよ、お前!」
「お前じゃない」とルカリオは微笑みを少しも崩さず、唸るように言った。 「口の利き方に気を付けろよ、小僧。お前がクライドの弟じゃなかったら、喉にお前の両足を突っ込んで奥歯で噛ませていたところだ。血が繋がらなかったら、お前の親父さんや兄貴だってそうするだろう。もっとも、今はそれさえしてもらえなくなっただろうがな。その内お前が風呂に入らなくなって、饐えた生ごみの臭いがしても何も言わなくなる。そうなったら俺も口を利いてやらん。恐らく誰も相手をすまい。それともカビゴンなら相手してくれるかもな。腐った肉でも食うんだろう?お前に言わせれば、だが」
 ラーネスの顔は暖炉よりも熱を帯びていた。扁平な豚鼻からは黒い煙が噴き出していた。実際に火の粉でも噴いていたのかもしれない。
「どうだ、暖かみを感じる――事実だろう」
 そんな風に、生意気な男が小生意気な子供に真の生意気さが何たるかの手本を見せていると、カビゴンが銅鑼ほどの大皿に山のような料理を載せて帰ってきた。店のありとあらゆる料理が無造作に載せられていた。だがドリアだけは載っていなかった。総重量は二十キロほどだが、それでも彼にとってはお通しとさえ呼べる量ではない。
「その子、クライド君に似てるね」、カビゴンは皿をテーブルに置いて、回り込んで壁際の石の椅子に座った。 「兄弟だったりして」
 他意もない口振りだったが、ラーネスのねじくれた怒りを買うにはお釣りがつく一言だった。この大きな子供がテーブルを立ち上がって、自分の友達の額で皿を叩き割るか、そうでなければ、身の程知らずな口を利く前に、ルカリオは予防のための仕事をしなければならなくなった。
「そう見えることだろうが、実は違うんだ」とルカリオはカップを片手に立ち上がった。テーブルを左から回り込み、カビゴンの前の席についた。 「依頼者なんだよ、俺の」
「納得だね」。カビゴンは爪だけが外に出た、つるつるした白い手袋を両手にはめていた。 「教育係といったところかな。しかも、ただ働きさせられているらしい」。彼はサラダを両手でつかみ、顔の半分を占める口に放り込んでばりばりと咀嚼した。一見して下品に見える食べ方だが、野菜の一欠けらも胸に落とすことなく、ドレッシングの液だれ一滴もテーブルに落ちなかった。
「分かったよ、デビッド。俺の負けだ」。ルカリオは諦めたような微笑みを、デビッドと呼ばれたカビゴンに向けた。そして、その微笑みをそのままそっくりチャオブーにも向けた。ただし声色は一オクターブだけ低くして。 「お前は帰れ。寄り道するなよ」
 やっとその言葉が聞けたと言わんばかりに、チャオブーはすぐに席を立った。大人達に冷たい目を向けると、まるで逃げるように店を後にした。だが、窓からは彼の帰る姿が見えることはなかった。
「一筋縄ではいかないね」とカビゴン・デビッドは言った。 「でも、あれならまだ立て直せると思うよ。ぎりぎりのところだけど」
「ぎりぎりもいいところだ」。ルカリオはコーヒーを飲み下した。 「何から手を付けて良いか分からない」
「心は読んだのかい?」
「読んだが、こっちまで負け犬になりそうだった。あるいは負け豚というべきか。ああいう弱い手合いの面倒を見たことは一度もないんだよ。こう見えて俺は褒めて伸ばす主義なんだが、褒めるところが何一つないからお手上げだ。何かにつけても、兄貴はこうだったから、とか、兄貴ならこうしただろうが、とか、日がな一日そればかり考えている。その癖、それを指摘されると――」。ルカリオは残りの言葉を宙に浮かせた。 「コーヒーを取りに行っても?」
「もちろん。ああ、ボクのも頼むよ。砂糖とホイップクリームをたっぷりと入れた、ラヴィアーナ風で」

 ルカリオがコーヒーを二杯作って戻ってきた時、カビゴンの皿は綺麗に片付いていた。液面がホイップで覆われた方をカビゴンの前に置いて、何も入っていない方を啜りながら席に着いた。
「さっきの続きだけどね」と出し抜けにカビゴンが言った。 「ところで、君には兄弟が?」
「たくさんいたよ。俺は八男四女の末っ子だったらしい」
 カビゴンはルカリオの言い方に訳を知り、少しの間深く考えた後、 「次男のことは覚えてる?」と聞いた。
「どうだかな」とルカリオはなみなみと注がれたコーヒーを左手に持ち、液面を見つめながら言った。 「あくの強い家庭で育ってね。俺達は、両親を両親とも、兄弟を兄弟とも思っていなかった。いつもお互いを出し抜こうとして、いつも最後にはしくじっていた。だが強いて言うなら、うちの次男は善悪の分別がつかない男だったよ。強さと美しさを感じられるなら、何にでもそそられた。その気になれば宝石にだって欲情した。言いたいことは分かるよ、デビッド。次男というのは大概、自由奔放な長男が親に怒られる姿を見ながら育ち、良くも悪くも周りの目を気にしがちになる、とな。その点であの坊やは過剰なくらいだ。あまりにも兄貴の背中を意識し過ぎている。殺したいくらい憎んでいるのに、頬にキスしたいくらい崇拝してもいる。俺はそういうひねくれた感情は分からないし、処方なんてしてやれない」
 それを聞いて、カビゴンは二十秒ほど黙っていた。
「気の毒に」とカビゴンはようやく口にした。 「何かにつけて自分を表現する機会がなかったんだろうね、彼は」
 ルカリオは首を小さく振ってコーヒーを一口啜った。
「強い光ほど濃い影を落とすものだよ、リン。クライド君は優秀だ。僕から見ても、世間から見ても、彼の家庭から見てもね。重要なのは、影は周囲の目から見えないということだ。見ないようにしていると言い替えてもいい。影の中の当事者でさえ目を背けるくらいだ。その方が生きていく上でずっと楽だからね。彼は今、お兄さんが敷いた金のレールから外れようと必死なんだよ」
「純金のレールってわけでもないだろう」とルカリオは言った。 「もしそうなら、あいつは本部長候補の一匹になれたし、築五十五年の事務所で寝泊まりしてもいなかった。誰にでも雌伏の時期はある」
「それが彼にとっても辛いのさ」とカビゴンは視線を下に傾けた。俯くとまではいかない。 「君の言う通り、崇拝の念があるとしたらね」
 カビゴン・デビッドはいつだって穏和な口振りだった。だが今は、滅多に見開かない右目から鋭い光が差していた。
「もしそうなら、あいつはどこまでも卑屈な奴だ」と言って、ルカリオは立ち上がった。 「見下げ果てるほどにな。まあ、勉強にはなったよ。励まされもした。何かにつけて兄貴を言い訳に使う理由も分かった。コーヒー代くらいは奢らせてくれよ。授業料だと思って」
「ありがたいが、気持ちだけにしておくよ」とカビゴンは言った。目の光はもう消えていた。 「君にもいい機会じゃないか。君は冷徹で、潔癖で、時々感傷的に過ぎる。強くもなく、美しくもない物を愛する気持ちは、欠片ほどでも持っておいて損はない。世の中の九割九分九厘は、そういう石ころのような物で出来ているからね」
「きっと無理だろうが、やるだけやってみよう」とルカリオは去り際に言った。皮肉っぽい笑みが口元にふわりと浮かんでいた。 「俺は次男と同じ名前だった。俺達だけは間違いなく兄弟だったよ」


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