「蔦纏う少女」

586

平時なら行くことのないような場所へふらりと足を運んでみると、思いもよらぬ、それこそ突拍子もないものと出くわすことがしばしばある。

何を持って突拍子もないものと位置づけるか、それは個人の考えに拠るところが大きいが、少なくとも、それが尋常でないもの、見慣れぬものであることは確かである。

夏の暑い盛り、気まぐれに旅をするのも悪くなかろうと思い、僕は一週間くらいの予定を組み、静都地方を歩いて回った。何か目を引く面白いものでもあればと思っていたが、存外そういったものには巡り合えぬもので、この旅行は記憶に残らぬものになるだろう、と考え始めていた。

何も、催し物の類が一つもなかったわけではない。桔梗市では丁度夏祭りが行われていて、僕もそれに参加することができた。それは楽しいものであったが、しかし、実家の川沿いで催される夏祭りと大差のないものに思われ、わざわざ桔梗市まで足を伸ばした意義を見出すことは難しかった。桔梗の夏祭りが悪いわけでもなく、故郷の夏祭りが悪いわけでもなかったがために、僕の気持ちはどうにもならないところでとどまるしかなかったのである。

そういった中で、僕は五日目に日和田を訪れた。日程はあと二日残っていたが、暑い盛りに歩いたことで疲れも溜まっていたし、日和田は以前から一度足を運んでみたい場所であったので、僕は浅黄市への移動を取り止め、日和田へと足を向けたのであった。

僕が日和田へ行ってみたかったのには、日和田には「時渡りの神様」なる一風変わった神様が祭られている、という噂を聞いていたからだ。僕は特に、生霊死霊や神様仏様の類を信じているわけではなかったけれども、「時渡りの神様」が祭られているという小さな祠の写真をどこかで目にし、その祠の風景がえらく印象に残っていたのだ。一度、実物を見てみようと考えるに至るまでは、さして時間はかからなかった。

日和田に降り立った時には、日は少し傾き始めていた。

「駅員さん、この辺りで一番安い宿はどこですかね」

「そうだねえ……海沿いにある民宿の『アララギ』ですかな」

「どうも」

僕は駅員の言葉に従い、海に沿って歩いていくことにした。

ここ日和田は東西南北全てを海と山に囲まれた、いわば行き止まりの町である。出て行く人の数は多いが、入ってくる人の数は少ない。歩きながら風景を眺めているうち、それもいたし方のないことなのかな、と考えた。特に目を引くもののない田舎の風景は、僕にとっては目に優しい良き風景であったが、この町の若者には、欠伸を催す退屈な風景に写ることであろう。

僕は海沿いに歩き続け、道中、何人かの人とすれ違った。僕が幸いだと感じたのは、すれ違う人々の表情が、皆活き活きとしたものに思えたことだった。なるほど、この町はただ廃れていくだけの、寂しい田舎町という訳ではないようである。

「ここかな。ふむ、僕とも相性が良さそうだ」

駅員さんの口にしていたのと同じ名前の宿を見つけ、僕はそこに落ち着くことにした。

 

次の日の朝、僕は荷物を少なくして、町をじっくりと歩いて回ることにした。天気は曇り後晴れと言っていたから、午前中は過ごしやすいだろうという算段の元、僕は早めに外へ出かけた。

昨日床に付く前に目を通しておいた本によると、時渡りの神様の祠は、小金市との境にある「姥目の森」にあるという。地図をなぞってみると、僕のいる宿からはそう遠くはない。歩けば三時間程度で着くだろう。僕はそう目踏みし、姥目の森に続く道を歩くことにした。

本を読んだり、朝に届いた新聞を読むなどして、僕はここ日和田市の置かれている状況を、ある程度ではあるけれども掴むことができた。

折からの少子化、近年増加している子供らの「里離れ」。この二つが同時に日和田を襲い、人口は目に見えて減ってきているという。里離れをした子供らが日和田に帰ってくるならまだしも、大部分は別の土地で生活を始めてしまうというから、この町にとっては頭の痛い問題に違いない。

しかしながら、日和田はまだ恵まれているほうだ、とする意見もある。というのも、同程度の規模の他の都市と比較して、日和田の子供達が「里離れ」をする割合は一回りほど低いのである。小学校の卒業後、そのまま中学高校と進学していく者が多く、場合によってはそのまま地元で職につく者もいる。

とは言え、やはり人口流出は甚だしいようで、今も右手にある店が潰れて戸を堅く閉ざしているのが見えた。僕が来るより以前はその店も人を集めていたのかと思うと、少々侘しい気持ちになる。

「この分だと、予定よりも少し早く着けるかも知れない」

一方、道程は順調そのものであった。それは順調というよりも、平坦と言うべきものであった。なるほど、田舎の風景は目を楽しませてくれるけれど、驚くようなものではない。これもまた、記憶に残らずに消えていくような気がする。そういった意味では、桔梗の夏祭りと同じように思えた。

黙々と歩き続けて、さてそろそろ一時間ほど経ったかな、と思った頃のことであった。僕の目に、何やら見慣れぬものが飛び込んできたことに気がついた。

「いやはや、これはこれは」

田舎の風景にすっかり慣らされていた僕に、それは殊更に奇異な印象を抱かせるものであった。して、それは何かと云うと。

 

足元にまでだらりと髪を垂らした少女が、街路樹に寄りかかって立っていたのである。

 

間違いなく僕の目を引いたのは、その少女の髪である。僕はさっきそれを「足元まで」と表現したが、よくよく目を凝らして見てみると、それは足元どころではなく、道路にまで及んでいる様子である。黒々とした髪は長さもそうだが量も尋常ではなく、少女の小さな体躯をほぼ覆ってしまっているのが確認できた。

率直に言って、奇妙極まりない光景である。何分僕は平時から髪を短く切りそろえる性質であるから、あのように髪を長々と伸ばしていることそのものがまず奇妙であった。奇妙なことは、何も長さや量だけはなく、それだけ長く多い髪でありながら、見た限りではきちんと手入れが行き届いていることであった。

「ううむ、あれは一体なんなのか」

そうして僕が首をかしげていると、偶々横を通りがかった親父さんに声をかけられた。

「君、旅行者の人かい?」

「はあ。見ての通りで」

「なるほどねえ。それじゃ、あの子のことも知らないわけだ」

「あの子はなんだって、あんな奇妙な風体をしているのです」

「さぁねぇ……よくは分からんが、噂じゃモンジャラの真似事をしているらしいがね」

親父さんの口にした「モンジャラ」というのは、蔦だらけの奇抜な風貌をした携帯獣のことだ。僕はそれにてんで知識がなかったのだけれども、それでも僕の頭にその特徴と風貌が記憶されているということは、多分それ相応の印象を僕に残しているからに相違ない。

言い得て妙だ、と僕は小さく膝を打った。長い髪をだらんと垂らして、顔だけを外に出しているあの様子は、まさしくモンジャラそのものである。親父さんが言うには、少女はモンジャラの真似事をしているらしい。

「しかしまあ、何ゆえにそんなことをしているのです」

「さてねぇ……ひょっとすると、己がモンジャラではないかと勘違いしているのかも知れないね」

親父さんは呟くように言うと、その場からのそのそと立ち去った。僕はしばし親父さんの背中を見送った後、また少女へと目をやるのであった。

「ふぅむ、変わった女の子がいたものだ」

僕はそう呟いて、歩きかけていた道のりを再び歩き始めるのであった。

 

道のりの中ほどに達したところで、僕は一服しようと思い、さび付いた看板に「仲西商店」と書いている食料品店に入った。僕が冷たいラムネを所望し、店主の婆さんがそれを取り出そうとしている間に、僕は婆さんに声をかけた。

「おふくろさん。さっきばかに髪の長い子を見たんだが、あれはどういう子なのかね」

「髪の長い子……ああ、モンジャラの子ですか」

この口ぶりから察するに、日和田においてあの子は「モンジャラの子」と呼ばれているようすである。

「わたしも細かいことはとんと知りませんが、何でも飼っていたモンジャラを病気か事故で亡くしてしまって、頭を病んでしまったという話を聞きましたねえ」

「ははあ、頭をやられてしまったと」

ありえぬ話ではない。そういう類の話は、昔から絶えずあることだ。あの子が病気やら事故やらでモンジャラを亡くして、それで気を病んでしまったというのが、婆さんの話である。そうだとすると、少々気の毒である。

「はい。五十円になります」

「どうも」

僕は小銭を渡して、冷たいラムネを受け取った。

「さて、一息入れるとしよう」

ラムネで喉を潤しつつ、僕は商店に据え付けてあるベンチに座り込む。ぎい、という鈍い音がして、ベンチがほんの少し軋んだ。曇り空だったために、ベンチがさほど激しく熱を持っていなかったのが幸いである。ぼんやりと入道雲を眺め、しばし手にした瓶を傾ける。

そうして僕が休息していると、隣に小学生くらいの男の子が腰掛けてくるのが見えた。これといって何の気もなしに、僕はその子に声をかけた。

「僕、この町にいるモンジャラの子を知っているかい」

「モンジャラの子? 知ってるよ。見に来たの?」

「いや、さっき見てきたんだ。あの子はなんだって、あんな様子でいるんだい」

「よく知らないけど、飼ってたモンジャラが逃げ出したのがショックで、頭がおかしくなっちゃったって聞いたよ」

「ほう、逃げ出したのかい」

「うん。そんな風に誰かが言ってた」

さっきの婆さんと少々話が食い違うけれど、なるほど、女の子にはモンジャラがいて、それが逃げるなり死ぬなりしてしまったらしい。あれくらいの歳の子には、どっちにしろ相当堪えることだろう。

「それと……」

「なんだい?」

「飲み終わったら、その空き瓶ちょうだい。後でビー球取るから」

僕はラムネを飲み干して、瓶を水で綺麗に洗い流してから、隣に座っていた男の子に手渡した。目指す姥目の森まではまだ道半ばだったので、僕は先を急ぐことにした。幸い、まだ空は曇っている。日差しに悩まされることはなさそうだ。

商店を離れてしばし歩いたところで、今度は小さな八百屋に差し掛かった。そう云えば、お昼に食べるものを何も買っていないことに気がついたので、適当に果物でも買って行くことにしよう、と考えた。

「すみません。ここの林檎二つ、いただけますか」

「はい。合わせて百八十円になります」

「どうも」

僕は出てきたおばさんに小銭を渡して、つやつやといい色をしている林檎を二つ、袋に入れた。

「見慣れない方ですねぇ。旅行者の方ですか?」

「はあ。まあ、そんなところで……ところで、一つ訊きたいことがあるのですが」

「ええ。どうしました?」

「さっき街中で変わった女の子を見かけたんですが、あれは一体どういう方なのです」

「変わった子……ああ、モンジャラの子ですか」

「ええ、そう呼ばれているようで」

おばさんはうんうんと頷いて見せながら、僕の問いに答えを返した。

「うちもよく知りませんけど、何でも親御さんがああさせているそうなんです」

「ほうほう、親御さんが」

「ええ。云い辛いんですが、ちょっと変わった方で、娘さんにああいった恰好をするように躾けているとか」

「ふぅむ、そんな事情があったとは」

僕は昼飯の林檎を鞄に詰め込みながら、おばさんの話に耳を傾けるばかりだった。口ではそう言いながらも、僕は少々、腑に落ちないもやもやを感じていた。先ほど婆さんと男の子から聞いた話と、おばさんの話とがやけに食い違っていたからである。

「どうもありがとうございました。これからもごひいきに」

そんな声に背中を押されて、僕は再び姥目の森へと続く道を歩き始めた。そうしている間にも、僕の頭は「モンジャラの子」で一杯になっていく。はてさて、あの子は一体何者なのだろうか。骨休めのためにやってきたはずの町で、今までになく奇妙なものを目にしてしまったものだ。そういうのが、旅行であり旅なのかもしれない。

しかして、あの子は何故にモンジャラのような恰好をしているのか。とにかく、尋常でないことは相違ない。出遭う人が皆「モンジャラの子」という言い方をしているのだから、日和田では概ねあの子が「モンジャラの子」という名称で知られているのだろう。それにしては、やけにぼんやりとした話しか聞けない。

「夏深き 隣は何を する人ぞ、か……」

存外、隣人のことなど意識の埒外にあるのかも知れぬと、僕は考えた。

僕がそのまま歩いていると、再び、少々奇妙な光景が目に飛び込んできた。僕と同い年かそれより少々年下かと思われるくらいの女性が、道端に座り込んでいたのである。暑そうに汗をぬぐって、しきりに手で顔を煽っている。

「うー……あっつーい……」

「もしもし、どうされました。気分でも悪くされましたか」

「え? あ、えっと……大丈夫っす」

声をかけられ、女性は慌てたように返事をして見せた。この様子だと、僕が考えていたような事態では無さそうだ。それは良かったのだが、何ゆえにこんなところで座り込んでいたのか、僕には少々理解しがたいことであった。

「それなら良いのですが、どうしてこんなところで座っておられたのです」

「んー……ほら、あそこに学校あるでしょ?」

「ええ。高校のようですね」

「そうそう。ちょっとね、人を待ってたのよ。もうすぐ講習が終わるはずだから、一緒に帰ろうと思ってさ。座ってたのは……ま、単純に疲れてたからで……」

「そういうことでしたか。この暑さですから、気分を悪くされたのかと」

「確かに暑いのは間違いないわね……ホント、どうにかなっちゃうわ……」

女性は人を待っているようであった。見たところ、学校に通う歳では無いように思われる。となると、妹か弟を待っているのだろうか。恐らく、そうなのだろう。僕はそう考え、女性の隣でしばし、蝉時雨に耳を傾けた。

「ところで……ひょっとして、旅行しにきたとか?」

「そういうことになります。この辺りに、何か面白いものはありませんか」

「面白いものは……あ、ちょっと変わったものならあるわよ」

「『モンジャラの子』、ですか」

「あ……うん、まー、あれも変わってるっちゃ変わってるわね」

腕を組んで頷きながら、女性は僕にそう言った。この様子だと、この女性もモンジャラの子について知っているように思われた。

「あの子は一体、どうしてあんな様子でいるのです」

「んー……細かいことは分からないけど、人から聞いた話じゃ、親に捨てられてモンジャラに育てられたとか、そういう系の話らしいわよ」

「ほほう、それはまた面妖な」

「ホントかどうかは分かんないけどね……ま、そういう話も否定できない世の中でしょ」

「ふむ、言われてみればそうですな」

女性から聞き出したモンジャラの子の像は、少々面白いことに、また今までとは質を異にするものであった。訊くたびにこうも内容が違うとは、あの子は今現在どのような境遇にあるのだろうか。僕には皆目見当もつかない。ただ、確かなこととして言えるのは、あの子はやはり尋常ではない、ということであろう。

「あ、来た来た。んじゃ、あたしはこれで」

「どうも。また、どこかで会いましょう」

僕は学校に向かって歩き出した女性に会釈をして、また姥目の森へと続く道を歩き始めた。

歩き続けている間中、僕はモンジャラの子のことばかりを考えていた。黒く垂れ下がった髪から覗く、幼く色の無い瞳。あの瞳は何を語りかけようとしていたのか、今となっては思い返すすべも無い。もう暫く眺めていれば良かったとも思ったが、しかし、少々見ていたところで代わり映えはしないのではないか、とも思った。

これまでの旅行で今ひとつ印象に残らないものを見てきたから、という理由もあるにはあるであろう。しかし、それ以上にモンジャラの子が僕に強い印象を与えたのは、まだ年端も行かぬ女の子が、あのような異様な風体で一人街路樹に寄り添っているという、平時にはまず目にかかることのできない風景だったからに相違ない。

考え事をしながら歩くというのは意外と効率の良いもので、気がつくと僕は、もう間もなく姥目の森の入り口、というところにまで辿り着いていた。守衛が立っているのが見え、その奥に鬱蒼とした森が続いているのが確認できる。この森の奥に、目指す「時渡りの神様」の祠があるということである。

「すみません。時渡りの神様の祠は、この奥にあるのですか」

「そうですよ。ここを道なりに進んでいけば、祠に着けます」

「なるほど……あと、もう一つお尋ねしたいのですが」

「はい。どうなさいました」

「さっき、少々奇妙な子を見かけたのですが」

「ああ、モンジャラの子ですか」

守衛はさして驚いた様子も無く、僕の問いに答えて見せた。慣れた様子を見るに、僕以外にも同じ質問をする輩がいたようである。

「あの子は一体どうして、あんな風体でここにいるのです」

「さぁねえ……よく訊かれるんですが、私にもよくは分かりませんな」

「ふぅむ。他の人は、頭がやられてしまったとか、親の躾だとか申しておりますが」

「そういった話もあります。私が知っている限りでは、他にもこんな話がありますよ」

「ほう、どういった話です」

「昔、女の子がモンジャラを苛めたことがあって、その祟りでああなっているとか」

「なるほど、因果応報というやつですかな」

「そういうことになりますかねえ」

そう言いながら、守衛は手ぬぐいで汗を拭いた。曇り空だったはずの空からは、眩いばかりの日差しが照りつけている。どうやら、これからは一層暑くなるようであった。僕は守衛と会釈を交わし、姥目の森へと進んでいった。

姥目の森は並び立つ樹が上手く日差しを遮ってくれ、思いの外涼しい中を歩くことができた。時折汗を拭いながら、もうしばらくかかるであろう「時渡りの神様」の祠を目指して歩き続けた。なるほど守衛の言ったとおり、道は真っ直ぐに続いているようである。

乾いた茶色の道をなぞりながら、僕はなお、モンジャラの子のことを考え続けていた。親父さん曰く、モンジャラの真似事をしている。婆さん曰く、モンジャラを亡くして頭を病んでしまった。男の子曰く、モンジャラに逃げられてしまった。おばさん曰く、親の躾でああしている。女性曰く、モンジャラに育てられた。守衛曰く、モンジャラの祟りである。どれが正しいのか、僕にはやはり、皆目見当もつかない。

もやもやした気持ちを抱えながら、僕が歩いていたときのことであった。前から丁度モンジャラの子と同い年くらいだと思われる双子の幼子が二人、手をつないで歩いてくるのが見えた。せっかく、というわけではなかったけれども、気がつくと僕は、前から歩いてくるその二人に声をかけていたのであった。

「もしもし、お譲ちゃんたち。この辺りにいる『モンジャラの子』について知っているかい」

「モンジャラの子? お姉ちゃん、もしかして……」

「まー、あの子のことでしょーね。それがどうしたの?」

「どうした、というわけではないんだけどもね……あの子はどうして、あんな恰好で町をうろついているんだい」

「えっと……確か、元々普通の女の子だったんだけど、モンジャラを食べちゃって、あんな恰好になったって……」

「違う違う。元々モンジャラで、北東の研究所で人間の遺伝子を掛け合わされてああなったのはいいけど、その後そこから逃げ出してきたのよ」

「えっ? そうだったっけ……?」

「そうそう。そうに決まってるわよ」

妹の方が言うには、女の子はモンジャラを「食べた」ために、あんな風貌になってしまったという。一方姉の方が言うには、あの子は元々モンジャラで、研究所で如何わしい実験をされた結果、まるで人間のような姿になってしまったという。どうにも突拍子も無い、現実離れした話である。

「ふぅむ。ずいぶんと突拍子も無い話だなあ」

「ま、信じる信じないはあんた次第ね。涼、行くわよ」

「あ……お姉ちゃん、待ってよっ」

話が終わると、双子の姉妹はそそくさとその場を後にした。何やら妙な話を聞いてしまったような、そんな気がするばかりである。気になるのは、姉の方の言っていた研究所が云々というくだりである。確か、日和田の北東には、ここに拠点を構える企業の研究施設があったような記憶がある。そうだとすると、姉の方の話も頭からは否定できまい。

妹の話にしても、モンジャラを食べたというのは、中々どうして生々しい話である。携帯獣には食すことのできる種もいると聞くが、モンジャラを食べたというのは初めて聞く話である。もしこれが事実であったとして、あの子はどうしてモンジャラを食べたのか。食べる気になったのか、あるいは食べざるを得なかったのか。どちらにせよ、気持ちの良い話ではない。

狐につままれたというか、狸に化かされたというか、鼬に丸め込まれたというか、そのような気持ちを抱えつつも、僕は残りの道程を消化すべく、再び歩を進め始めた。

今まで意識の埒外にあったが、僕はふと「姥目の森」というこの森の名前に疑問を抱いた。何か理由があって「姥目」と名づけられているのは間違いの無いことであろうけれど、それにしては由来が分からない。何やら分からないことだらけであるけれども、何々、何もかもが分かっているよりかは面白いことに相違ない。

「さて、もう間もなくかな」

というところで、僕は再び人と出会うこととなった。今度向こうから歩いてきたのは、七十は越えようかという白髪の爺さんであった。もしかすると、これくらいの爺さんなら何か知っているかも知れぬ。僕は少々の期待を胸に、爺さんに声をかけた。

「すみません。一つお訊ねしたいのですが」

「はて、どうされましたかの」

「この辺りに、やけに長い髪の子がいたのですが」

「あぁ、モンジャラの子ですか。あの子がどうかされたのですか」

「どうした、というわけでは無いのですが、何分あの子がどうしてあのような様子で居るのかというのが気になりまして」

「さぁ、はっきりしたことは分かりませんがねえ……人づてに聞いた話ではありますが」

爺さんは予めそう前置きをした上で、次にこう告げた。

「人とモンジャラの相の子、という噂がありますの」

「やや、それは初耳ですな。また、随分とおっかない話でもある」

「噂に過ぎませんがな。さりとて、そう珍しい話でもありますまい」

「いやいや。人と獣が孕む孕まされるなど、僕ぁ本の中だけの事象だと考えておりました」

「そうであるのが一番だがの」

最後に一言言い残して、爺さんはのろのろと歩いていった。僕は例によって暫く爺さんを見送ってから、あと数百メートルを残すのみとなった「時渡りの神様」の祠に続く道を歩き始めるのだった。

しかし、随分と薄気味の悪い話ではないか。人とモンジャラの相の子など、果たして実際に有り得る事なのだろうか。いやしかし、と僕は思考を中断する。それこそ、あの「モンジャラの子」がそうではないか。爺さんの言うとおり、人とモンジャラの相の子が、あの子そのものではないだろうか。考えがそこに行き着くと、爺さんの言葉がやけに真実味を持って聞こえてくるではないか。はてさて、どうしたものなのか。

厄介なものである。朝に出会ったあの少女のことが、頭にこびりついてなかなか離れないではないか。町の人間に問うてみても、戻ってくる返事は曖昧模糊としたものばかりで、一向に真相に近づく気配がしない。えてして多少は気にかけている節はあるが、誰一人として本当の事情を知らぬのではないか。何か、そんな気がしてならない。

さりとて、こうも皆の話が食い違い、しかもどこか突拍子も無い、荒唐無稽な話ばかりがあるのは何ゆえか。それぞれの話を一笑に付すことができないのが、薄気味悪さに拍車をかけている。あまりにもあの子が異質すぎる故に、どのような荒唐無稽な話も有り得る気がしてしまう。一体、どれが事実なのであろうか。

僕は繰り返し考えをこねくり回しながら、しかし足は止めることなく、気がつくと目的地である祠の前にまで辿り着いていた。目的地に着いたものの、今ひとつ達成感が得られないのは、やはりモンジャラの少女についての考えがまとまらないからに他ならない。とは言え、僕は来るべき場所へと来たのである。それ自体は、喜ぶべきことである。

「ふぅむ、これが時渡りの神様か」

写真や絵画などでこれは良い、と思ったものの、いざ実物を眺めてみると大したものではない、というのはよくある話であるが、幸いなことにこの時渡りの神様は、少なくとも僕が見た雑誌の写真よりも風情のある姿をしているように思われた。苔むした祠に佇むそれは、なるほど、確かに時間の一つや二つも越えてきそうな面持ちである。

祠を眺めてみると、祭られている神様の前に、金色の葉と羽、それと白銀の葉と羽が供えられているのが見えた。昨日本で仕入れた知識によると、この神様はまず、金色の葉と白銀の葉で風の流れを読み、金色の羽と白銀の羽で風を掴み、それでもって颯爽と時を越えていくという話である。神様であっても、やはり道具は欠かせないのだろうか。いやいや、七福神の類が皆何がしかの道具を持っていることを考えれば、別段おかしなことでもあるまい。

はてさて、祠を十分に眺め回したところで、そろそろ昼飯にしようと思い、僕は鞄を地面に下ろした。大して腹は減っていないが、何分喉が渇いている。昼飯に林檎を選んだのは気まぐれに過ぎなかったものの、こうして見てみると存外正解だったのかも知れない。僕は袋に詰めた林檎を取り出して、その一つを手に取った。

その時である。

「……………………」

「おや、これは……」

いやはや、僕は目を真ん丸くしてしまった。

「……………………」

「ううむ、まさか、こんなことがあろうとは」

ぱちぱちぱちと瞬きをしてみるものの、僕の眼前に広がる風景は一向に変わる気配を見せない。多分、このときの僕の表情は、途方も無く滑稽なものだったに違いない。今こうして居る所に鏡を持って来られたら、己の顔に噴出してしまうことであろう。冗談ではなく、そこまで顔を崩してしまうほど、僕は驚嘆してしまったのだ。

「……………………」

「これも、一つの縁なのだろうか」

僕がぽつぽつと繰言を呟いている間も、眼前の人影は一向何の変化も示さない。けれどもそれは、僕がその姿をじっくりと視ることができるというのと同意である。しげしげと見つめる僕に、それは一応気づいているようである。気づいてはいるが、反応らしい反応は何も無い。いやはや、まったくもって不思議なものである。

「君、どうしてこんなところにいるのかね」

「……………………?」

問いかけをしてみると、それの意味するところは理解できるのか、小首を傾げて応じて見せた。長々とした黒髪は傾けられた首に追随せず、そのまま下へと垂れ下がるばかりである。これだけの長さだというのに、手入れが行き届いているのは大したものである。

一体どうして、僕は彼女と再びまみえる事ができたのだろうか。理由は定かではない。しかしながら、彼女が目の前に居るというのは確かである。モンジャラの子。その渾名で呼ばれているこの少女が、少々の距離を置いて僕と同じ空間に居る。何だか夢でも見ているような、ばかに現実感の無い風景であった。

蔦の如く垂れ下がった髪は、姥目の森の地べたにまで伸び、さながら根を張っているかのようである。彼女自身が一本の樹のような、そのような錯覚をさせる様態である。やけに現実離れした風景を前に、僕はなんとなく、これを友人に旨く説明することは難しいだろう、などと考えをめぐらすばかりであった。

「……………………」

「ううむ、不思議なものだ」

僕はしばし、眼前の少女の荒唐無稽さを味わっていたわけであるが、ふと、そういえば昼飯を食べるところだったことを思い出し、次いで林檎を取り出し終えていたことも思い出した。手の中の林檎は赤々としていて、見るからに甘そうである。この分であれば、食感も申し分ないものに違いない。そこまで考えて、僕はまた、気まぐれの虫が騒ぎ始めたことに気づいた。

「君、林檎は好きかい」

「……………………」

「ここにもう一つ林檎がある。せっかくだから、君にあげようじゃないか」

気まぐれとは、見ての通りである。鞄に詰めていた林檎をもう一つ取り出し、僕は目の前に居るモンジャラの子に差し出した。僕の行動が予想の範疇に無かったのか、子は先ほどの僕のように目をぱちぱちさせて、繰り返し林檎を見つめるばかりであった。

「これは僕の気まぐれだ。御代はいらないよ」

「……………………」

「今日買ったばかりのものだ。食べるなら、今日のうちが良いよ」

しばらく林檎を差し出していると、少女は僕の意図するところが理解できたのか、のそりのそりとこちらに歩いてきて、ゆっくりゆっくり手を出すと、おずおずと林檎を受け取った。そのまま、しばし林檎を見つめる。その視線が、僕には思いのほか綺麗に見えた。随分と美しい瞳をしているなと、僕は率直に感じたのだ。

「都合のいいことに、僕の隣が空いている。一緒に食べようではないか」

「……………………」

声をかけると、意外や意外。思いのほか素直に、少女は僕の隣に腰掛けたではないか。見た目は確かに異質であるが、道理の類は通じるようである。人は見かけに拠らないというが、その言葉をこれほど綺麗に実感できたのは珍しい。ちょこんと腰掛けた少女は、こう云うと誤解されそうではあるが、なかなかどうして、端正な顔立ちをしているではないか。

「ふむ。では、いただくとしよう」

「……………………」

僕は林檎を一口齧って、小さく音を立ててそれを咀嚼した。なるほど、思っていた通りの甘さと瑞々しさである。渇いていた喉にはこれ以上のものはあるまいと、僕は喜色満面の気持ちであった。して、隣は何をする人ぞ、というわけではないけれども、僕は隣に居る少女に目を向けた。

「……………………」

しゃり。ごくごく小さな音を立てて、少女は同じく林檎を齧っていた。細く白い指先で、懸命に林檎を掴んでいる。おとなしく林檎を食むその姿は、異質な見た目とは裏腹に、実に可憐でいとおしいものに思えた。

「……………………」

「……………………」

隣で林檎を齧る少女を眺めながら、僕はぼんやりと考える。

僕はこれまで、この少女について、随分と荒唐無稽な話を聞かされてきている。それは彼女の不幸な生い立ちであったり、逆に因果応報とも言える話であったり、或いは口にするのも憚られるようなものであったりと、実に多種多様である。そのどれもが、しかし、完全に否定することは難しい、中々に微妙なものばかりである。

して、それはどのような話かというと。

曰く、幼い頃に飼っていたモンジャラを亡くしたか逃げられたかして、頭を病んでしまったという話。頭を病んでしまったが故に、このような恰好をして、己こそが亡くした、あるいは失くしたモンジャラそのものであると思い込んでいるという、そのような話。

曰く、両親の都合でこのような恰好をさせているという話。よく考えてみれば、それは所謂折檻の類に当たるものであろう。あるいは、彼女の責任を放棄したか、といったところである。それ故に髪がここまで伸びてしまい、あたかもモンジャラのようになってしまっているという、そのような話。

曰く、親に捨てられ、モンジャラに親代わりをしてもらったという話。産みの親の顔も知らぬまま、自分をモンジャラであると思い込み、育ての親たるモンジャラの恰好を真似て、このように髪を著しく伸ばしているという、そのような話。

曰く、子供の時分にモンジャラを苛め、その祟りでこうなっているという話。分別のつかない子供が、見境無く何かを苛めるというのは決して珍しくない話であり、この少女はたまたまモンジャラを苛めてしまったために、髪が尋常でなく伸びてしまうという祟りにあったという、そのような話。

曰く、モンジャラを食べてしまったがために、このような姿になってしまったという話。好奇心か、気まぐれか、はたまた切迫した飢えからなのか、平時であれば食べることなどまず考えないであろうモンジャラを食べてしまったがために、己がモンジャラのようになってしまったという、そのような話。

曰く、どこぞの研究所で人間とモンジャラを掛け合わせてできたという話。如何わしい実験の結果、元々モンジャラだったものが、あたかも人間の子供のような形を得て、目的も無くこの町をうろついているという、そのような話。

曰く、人とモンジャラの間にできた、相の子であるという話。人間が求めたのか、はたまた獣が求めたのか、そうではなくまた別の理由があったのか、いずれにせよ定かではないが、どちらかが、いや双方が間違いを犯し、そして世に生まれ出たのがこのような姿の少女であるという、そのような話。

「……………………」

果たして、この中に正解は在るのだろうか。

「……………………」

僕の考えなど露知らず、少女は小さな口でもって健気に、少しずつ、紅く瑞々しい林檎を齧っていく。心なしかその頬が緩んでいるように見えるのが、実にいじらしく可愛らしい。

「君、林檎は美味いかい」

「……………………」

林檎に夢中になりながらも、少女はちゃんと話は聞いているようで、小さく、こくり、と頷いて見せた。僕は彼女の様子を見ながら、不意に、こんなことを問うて居た。

「ものを食べているときに悪いとは思っているけれども、君に是非とも訊いてみたいことがある」

「……………………?」

「君はどうして、そのように髪を長々と伸ばしているんだい」

「……………………」

少女は僕の問いかけに対して、途方も無く澄んだ、混じりけのかけらも無い黒々とした瞳を向けて、ぱちぱちと瞬きをして見せた。その表情からは、何の疑問も嫌悪も、まったくもって感じられなかったのである。率直なところ、あまりに純粋無垢な顔つき故に、こちらが戸惑ってしまうほどであった。

「いや、ここに来るまでにね、君についての話を聞いたのだよ」

「……………………」

「君は心を病んでしまったとか、そのような話をだよ」

些か言い訳じみた発言であったが、少女はやはりそのままの表情で、僕のことを見詰めるばかりであった。

「……………………」

相も変わらず、押し黙ったままである。

「何だか詰まらない事を訊いてしまったようだね。今のは、忘れてくれたまえ」

「……………………」

僕がそういうと、少女はまた小さく頷いて、食べかけていた林檎を食べ始めたのであった。

 

 

 

帰りの電車の中で、僕はふと、昨日出会った少女と、それに纏わる種々の話を思い返していた。僕は結局、あの子がどうしてあのように髪を伸ばしているのか、ついに知ることができなかったのである。噂話だけはあの後もたくさん聞く事ができたのだが、そのどれもが人づてに聞いたとか、そういう話かも知れぬといった曖昧なもので、彼女の正確な姿を捉えることはできなかった。

 

ひょっとすると、ではあるが。

 

日和田の人々は、あのあまりに異質な少女の存在を納得するために、自分なりに思いついた荒唐無稽な存在理由を彼女に与えて、それで満足しているのではないかと、僕は思うのである。それが蔦のように纏わりついて、彼女の本質を隠しているのではないかと、僕は考えている。

考えようによっては、些か薄情な話かも知れない。誰一人として、彼女が髪を伸ばす真の理由を知ろうとせずに、出来合いの理由を彼女に纏わせて、それで己を納得させているのである。それは理解とは呼べず、ある種の偏見であると、僕は実のところ少しばかり、彼らに立腹していたのである。

しかしながら、翻って己を鑑みてみると、最終的に行き着くところは彼らと同じなのである。少女が髪を伸ばす理由を知らぬという点においては僕は彼らとまったく等しく、寸分の違いも無いのである。僕は自ら理由を捏ねることはしなかったけれども、与えられた理由の中に正解があると、しばしの間思い込んでいたことは間違いない。

結局のところ、僕も同じ穴の狢であったのである。

 

だから、というわけではないけれども。

 

僕はせめて、僕にできうることとして、彼女をこれ以上噂という名前の蔦の中に隠してしまわぬように、彼女が異質たる理由を無理に捏ねることはやめておこうと思う。彼女が何故にあのような恰好で居るのかを、自分を納得させるためだけに考えるのはやめておこうと思うのである。

そうすることこそが、僕が彼女にしてやれる唯一の事柄であると、僕は思い至ったのである。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586