「プレゼント」

586

「ふぃー……ただいま、って言うべきなのかなぁ。一応」

照りつける太陽。ゆらゆら揺れる陽炎。ひっきりなしに聞こえてくる、せみの大合唱。大輪の花を咲かせた、たくさんの向日葵。降り立った駅は、どこにでもありそうな夏の風景を映し出していた。

ぱき、ぽき。長旅ですっかり硬直しちゃった手の指を絡め合わせて、一本ずつほぐしていく。重たかった手が、少しずつ軽くなっていった。

「しっかし、変わってないわねー。ちっとも」

提げてきた旅行かばんを置きながら、辺りを見回してみる。無人の駅、年代をすごい勢いで感じさせてくれる駅舎、すでにご臨終されているとしか思えない古びた自販機。うっはー。どこ見ても昔のまんま。変わってるとこ探すほうが難しいね、こりゃ。

「変わったのはあたしだけ、ってやつなのかなー。ホント」

額に手をかざして日差しを防ぎながら、駅前の商店街にも目を向けてみる。セピア色した喫茶店に、日に当てられてすっかり変色したポスターを貼ってるビデオ屋、シャッター半分下ろしたままの文具屋。駅舎と同様、相変わらず代わり映えしない風景がひたすらに広がっていた。

「時間、止まっちゃったみたいだね」

実際、駅舎の時計は、あたしがここを出て行ったときから、ちっとも動いていなかった。

あたしは恭子。本名「日向恭子」。都会の高校に通う、ちょっとイケてる高校二年生。何がどうイケてるのかとかは省略。

「さて、とりあえず行きますか」

地べたに置いた鞄を持ち直して、あたしは古びた駅舎を後にした。

 

今あたしがいるとこは、静都(じょうと)地方の日輪多(ひわだ)市ってとこ。周囲を山と森に囲まれた、なんてことない小さな山村だ。地図に載ってないほどマイナーってわけじゃないけど、人生生きててこんなとこに来る確率のほうが低い、っていうのは余裕で断言できる。

(お、そう考えるとあたし、その低い確率を引き当てたってことになるのよね。なんかラッキーじゃない?)

でもって、ここにわざわざ来て見に来るようなものは特に……あー、そう言えば、山の方にでっかいお寺があって、そこに「金剛凍石」(こんごうとうせき)っていう、どんなに暑くても熱くても絶対溶けない氷が奉納されてるっていう話があったっけ。えーっと確か、冷凍庫みたいな名前のポケモンが気まぐれにこの村にどかーんと落としたやつを、お坊さんとかが数十人規模で持って行ったらしい。ちなみに、触ると気が遠くなるぐらい冷たいそうだ。触ってみたいなー。

……話がそれちゃった。で、あたしがここに来た理由なんだけど、

(……実はただの里帰り、ってわけじゃないのよねー……これが)

これがただの里帰りだったら、気分的にもうちょい楽なんだけど、そういうわけにも行かない。実は結構なかなかそれなりに、ややこしい事情があるのよ。これが。

(……まっさか、歴史研究の課題を出されちゃうなんてねー……)

歴史のテストで思いっきりヤマを外して、盛大なワインレッドが付いちゃったあたし。でも、先生が慈悲深ーい人で、「追加課題をこなせば点数をあげよう」って言ってくれた。そんなんだったら最初からもっとテストの難易度を下げろーっ! ……って大声で叫びたかったけど、そんなことしたらワインレッドがブラッディレッドになりそうだったから、素直に従うことにした。

で、先生の追加課題とやらが「自分の故郷の歴史について調べて、レポートを提出しろ」っていう、ひっじょーに寛大でおおらかさ溢れるもの。おおらかさに溢れすぎてて、ちょっと本体が見えなくなってるぐらい。っていうか、曖昧すぎだよ先生。もうちょっと絞ろうよ先生。

そーいうわけで、あたしは故郷の日輪多市に戻ってきたわけ。そーねぇ。小三ん時くらいにここ出てったから……大体、八年か七年ぶりぐらいってとこかしら。そんだけ時間が経ってるってのに、ここまであたしが出てった時と変わらないなんて、ある意味すごい。やっぱ、時間止まってるんじゃないかしら。

(そーいや、この間読んだ小説がここ舞台にしてたやつだったっけ。何十年も前に時が止まっちゃって、壁を隔てて中と外に分けられてるー、なんて設定だったかな。ひょっとして、マジでそうなっちゃってるんじゃないかしらねー)

ってことは、あたしは外から入ってきた人間ってわけか。里帰りのつもりなんだけどなー。

「ま、とりあえず泊まるとこ探して、今日は一日英気を養うとしますか」

結構重たい鞄を肩に担いで、あたしは商店街をとことこ歩き出した。

 

「お一人様ですか」

「あい。一人もんです」

二十分か三十分ぐらい歩いたところで、あたしが泊まるのに手頃そうな民宿を見つけた。

聞いてみると、まだ誰も泊り客がいないから、どこでも好きな部屋で泊まれるんだとか。おーおー、それはありがたい。こーいうのはさっさと決めるに限るから、

「じゃ、一番見晴らしのいい部屋お願いします」

「はいはい。こちらになります」

ここに決めた。

 

「あたし以外にお客さんいないって、本当?」

「ええ。この時期だと金剛石を見に来る人がいるもんなんですけどねぇ、今年はどうもさっぱりでして」

「ふぅーん……」

あたしは女将さんの話をてきとーに聞きながら、何気なく目線を横にやった。

(……ん?)

そこに、あたしの目を引くポスターが一枚。

「すいませーん。ちょっといいっすかー?」

「はいはい。どうしました?」

「この『時祭り』って、今年もやったりとかするんですか?」

それは、ここ日輪多市が一番盛り上がる「時祭り」のポスターだった。

「ええ。今週の金曜日にやるんですよ」

「へぇー……まだやってたんだ。このお祭り」

「知ってらしたんですか?」

「んー。ちょーっと前までここの住人だったもんで」

なんか「時祭り」っていうと、タイムスリップだとかタイムショックだとかそーいう方向を思い浮かべがちなんだけど、なんてことはない。ちょっと田舎に行けば結構な確率で見れる、ただの夏祭りだ。ただの夏祭りなんだけど、「時祭り」はこの日輪多市の規模に釣り合わないくらい、妙にスケールがでかい。

まず、準備期間が違う。普通夏祭りって言うと、大体開始の三日ぐらい前からやぐらとかが立つもんだけど、「時祭り」はそんな生ちょろいことはしない。あたしの記憶が正しければ、一ヶ月ぐらい前にはもうやぐらが立ってる。しかも、それがバカでかい。軽く三階建ての家ぐらいはある。いや、もっとあったかも。

やぐらだけ作ってもしょうがないから、他の準備も着々と始まっていく。街中に堤燈があまねく下げられて、七月に入ったばかりなのにすでに気分は夏祭りモード。やぐらと堤燈が出来てくると、村の人の気分も違ってくるのか、今年はどこに屋台を出すとか、ショバ代はもう払ったとか、そういうことが話題になり始める。

元々ネタの少ない村だし、ちょっとでもネタがあればみんなすんごい勢いで食いつく。それこそ、ピラニアで一杯の沼にエサでも放り込んだみたいに。で、みんな祭りのことで頭が一杯になる。

そうこうしているうちに八月になって、いよいよお祭りの日が近づいてくる。そうなるともう、この村でお祭りのことを考えない人はだーれもいなくなる。いざ祭りが始まれば、みんなもう我を忘れて祭りに身を投げ、一年の憂さを二年分ぐらいの勢いで晴らす。小さな山村が未だに残っているのは、こーいう盛大な憂さ晴らしがあるからなんだろう。きっと。

「それじゃあ、このお祭りがどういうお祭りかもご存知ですか?」

「あー、確か、『時渡りの神様』を祭って、それに感謝する、ってな具合の祭りだったっけ……?」

「そうですよ。よくご存知で……」

「んー。昔、ばあちゃんから胸焼けするぐらい聞かされたのよねー。これが」

女将さんはくすくす笑いながら、あたしが泊まる部屋に荷物を運んでくれた。

 

「……はてさて。目的地に着いたはいいけども……」

座布団敷いてぺたっと座り込んで、何気なーく外を見る。窓が全開になってるおかげで、結構いい風が部屋に入り込んでくる。夏が暑いことには変わりないけど、都会と田舎じゃ暑さのベクトルが違うよね、やっぱ。どっちかっつーと、田舎の方が夏っぽい暑さでいい感じ。

「久しぶりに近くを散歩してみる、ってのもいいかも……っても、この暑さの中外に出るのはどーよ?」

いくら都会よりはマシとは言え、外は灼熱のカンカン照り。そんな時に外に出てへとへとになるほど、あたしも間抜けじゃない。

「夕方になってから、ぶらぶら行きましょうか」

決めた。夕方になってから行動開始。というわけで、今は……

「それまではちょっと休け……ふわぁぁぁ……」

……おやすみセニョール。昼寝することに決定。

「うにゅー……」

あ、この座布団気持ちいいー……

 

「……………………」

寝ぼけ眼で起き上がってみる。ゆっくりと視線を窓に向けると、

(あ、ちょうどよさげな時間っぽい)

空がほんのり赤らみ始めて、いかにも「これから夕暮れが始まるぞー」って感じの空模様。あんなに強かった日差しはすっかり影を潜めて、せみの代わりにひぐらしが鳴き始めてる。かなかなかなかな……このなんて言うか、物悲しさを全面に押し出した鳴き方がいいんだよねー。

「ひぐらしのなく声って、どうしてこんなに物悲しいのかな? かな?」

こんな感じで、独り言もすいすい飛び出す。

……さて、アホなことやってないで、さっさと外に行きますか。

ポケットの中に財布が入ってることを確認して、部屋を出る。するとちょうど、女将さんが上がってきた。

「お客さん、これからお出かけですか?」

「ちょっとね。晩ご飯までには帰ってくるからさ」

「時間はお気になさらず、ごゆっくりで構いませんよ。こちらで整えますから」

「うぃ」

二言三言言葉を交わして、ちょっと狭い階段を下りて、民宿の玄関に出た。

 

「うーむ……ここまで変わってないと、ちょっと驚きかも……」

川沿いに街を歩きながら、自分がいた頃のここと、今のここのすり合わせをしてみる。曖昧になってるものだと思い込んでた記憶が、実は結構、いや、かなり正しいことに気付く。あたし、結構記憶力はいいのかも。英単語はからっきし覚えられないんだけどなー。多分、テレビとか見ても番組よりCMを覚えちゃうタイプだな。あたし。

「そんでもって、ここをこーやって行くと……」

ここをこーやって行くと……

「ほら。土生(はぶ)医院。あははっ。やっぱり予想通り」

土生医院がある。小さい時にいっぺん担ぎ込まれたことがあって、その時の記憶が妙にしっかり残ってたんだよね。

「……だけど、どーして担ぎ込まれたのかは覚えてない、と……」

まただ。どっちでもいいことは無駄にしっかり覚えてるくせに、どっちでも良くないことはホイホイ忘れちゃう。英単語は覚えられないけど、単語の片隅に載ってる「マメ知識」みたいなのは嫌になるぐらい覚えちゃうから、もう間違いない。

そんなことを言いながら、ふと右に目を向けてみると。

「……って、まだあったんだ……この駄菓子屋……」

見るとそこに、ちっこい頃に散々お世話になった古ぼけた駄菓子屋が、そこだけタイムスリップでもしてきたみたいにしてでーんとそこにあった。シャッターが下りてるとかじゃなくて、ちゃんと店も開いている。ここ駄菓子屋なのに、妙に遅くまで店を開けてたんだっけ。思い出した思い出した。

「ちょっくら行ってみますか」

あたしは進路を変えて、駄菓子屋の中に入った。

「ごめんくださーい。まだやってますー?」

「はいはい。やってますよ。見てってくださいな」

「言われなくてもそうするつもりっす」

中に入ってみると……うっはー、中もちっとも変わってない。品揃えもあたしがいた頃のまんまだ。すげぇ色(例:どピンク)したグミとか、あからさまに緑緑したジュースとか、ミニサイズの乾燥麺とか。いくつかは見慣れないのもあったけど、あたしがみた頃にあったものはほとんど全部あった。ある意味、重要文化財候補。

でも、あたしはそーいうのにはコンマ五秒ぐらいしか目をやらず、ここに来た最大にして唯一の目的のブツのある場所へとずんずんずんずん進んでいく。そこには……

「紅茶飴かい? お客さんも好きだね」

「ふっふーん。あたし知ってるんだから。ここの紅茶飴、密かにめがっさおいしいってこと」

他の極彩色でちょっとどぎつい色とはハナっから違う、濃い赤茶色でどこか落ち着いた雰囲気のある小さな飴が、ほとんど手付かずのままいっぱいいっぱいに収められていた。

「紅茶飴のこと知ってるなんて、お客さん、ひょっとして昔ここに来たことないかい?」

「あったりー。あたしさ、昔この辺りに住んでたんだよね。ちょっち事情で引っ越しちゃったけど」

「そうかい。久しぶりに、たんと買っていくといいよ」

「もち、そうするつもりっす」

とりあえず右手でつかめるだけ掴んで、近くにあった小さなかごに入れる。昔はちょっとずつしか買えなかったけど、今はこーいう「大人買い」ができるんだよねー。爽快爽快。買い物依存症の人の気分が28%ぐらいは分かったかも。

かごに適当に詰めて、おばあちゃんに渡す。

「いくらぐらい?」

「そうねぇ。こんなに買ってくれたから、四百円でいいよ」

「え? マジで? それ、どー見ても二十個以上あるよ?」

「いいのいいの。どうせ誰も買っとくれないんだから、おまけおまけ」

「マジサンクスっす」

おばあちゃんは超どんぶり勘定で、誰がどう見ても六百円以上ある紅茶飴×およそ二十個を、三分の二の四百円で売ってくれた。そーそー、ここ、おばあちゃんが結構気前がいいから、いつまでも人気だったんだよねー。あたしもずいぶんお世話になったっけ。

「毎度あり。今後ともごひいきに」

「あいあい。おばーちゃんも、元気で店やっててよ? 店がなきゃ、ごひいきにしたくてもできないからさ」

「ほっほっほ。面白いことを言う子だねぇ。また、来とくれよ」

あたしは早速紅茶飴を一つ口の中に放り込んで、店を後にした。

 

「さてさて。ここからどこへつながってるんだったっけ……」

あたしは川沿いを歩きながら、七年ぶりの風景を眺めていた。

「この辺りの川だと、まだアズマオウとかを見れるんだよねー。そーいう意味じゃ、ここも悪くないかも」

川を覗き込むと、小ぶりなアズマオウが二、三匹、着かず離れずで泳いでる。ポケモンってのは存外贅沢で、自分の住んでた場所の住み心地が悪くなると、さっさと住み場所を変えちゃう。だからこーやってポケモンが普通に泳いでる川っていうのは、ポケモンにとって居心地のいい場所ってことになる。

村の中を歩いてる途中でも、夕暮れになって慌しく巣に帰るオニスズメやポッポの姿を見かけたし、ヤドンがのっそいのっそい歩いてるのも見かけた。この辺り、やっぱりちっとも変わってない。ヤドンがいるのは、この近くにある「ヤドンの井戸」っていう名前どおりの井戸のおかげなんだけど、ここから行くにはちょっと遠いからパス。

「でもま、あたしもう徒歩十分以内の距離にコンビニがないと生きてけない体になっちゃったから、ここに戻ってくるのは無理かなー。悪くはないんだけどさー」

あたしはウェストポーチからモンスターボールを一つ取り出すと、

「あんたの意見も聞いてみましょっか。ほらっ! メリッサ!」

「ちこ?」

あたしが連れてるポケモンの、チコリータのメリッサだ。名前の由来はその時聴いてた曲から。うっはー。我ながらもうちょっと考えようよ、もうちょっと捻ろうよと言わざるを得ない。でも、本人が気に入ってるみたい。微妙だ。

「どう? この場所。あんたも好きくない?」

「……ちこ!」

「分かりやすい返事ねー。そりゃそうか。周りはそれこそポケモンだらけだし」

メリッサはここが気に入ったみたいだった。とりあえず、この村に清い一票が投じられたわけだ。対立候補、いないけど。

と、あたしがそんなことを考えていると。

「……………………」

「……どしたの? 何かあったの?」

メリッサは辺りをきょろきょろと見回して、何かを探しているようだった。何かあったんだろうか? 何か綺麗なもの? 何か面白いもの? 何かおいしいもの? 何か興味深いもの? 何か……

「ちこ!」

「って、ちょっとメリッサ?! どーしたってのよ! ねぇ! メリッサってばぁ!」

……あたしが考えている間に、メリッサは信じられないぐらいの勢いをつけて、前に駆け出していった。あたしはびっくり仰天、ちょ、おま、待てよ! みたいな感じで呆気に取られてる間に、メリッサの姿が豆粒クラスまで小さくなった。こりゃ、追いかけなきゃまずい。

「ちょっと待ってよぉ!」

メリッサに遅れること数百メートル。あたしはメリッサを追って、夕暮れに沈みゆく街を駆け抜けた。

(あたし、走るのより泳ぐ方が得意なんだけどなー……)

 

「ちこちこ!」

「くっ……結構すばしっこいわね……さすがあたしの子……って、あたしは人間だってーの!」

メリッサは裏路地に入り、どんどん走るスピードを上げていく。あたしはもう、それを追いかけてくのでいっぱいいっぱい。なんだって急に、こんな無茶な走りをしてるわけ?

「ちっこちこ!」

「って、また速くすなーっ! あたしの足が悲鳴を上げてるってーの! 待てー!」

マジで悲鳴を上げつつあるあたしの足の状態を華麗にスルーして、メリッサは走っていく。

街を駆け抜け川沿い走り、店を横目に人を避け、木々を縫い縫いひた走る。メリッサはまるであたしをどこかに導こうとしているみたいに、日輪多の街中を駆け抜ける。それはいいけど、はっきり言ってそろそろ足が限界フォルテッシモ。びみょーに足首辺りの感覚が薄れつつある。あと、心なしか震えてるような気も少々。

「め、メリッサぁぁぁ……ちょ、なんでそんなに走る必要があるのよぉぉぉ……」

「ちこちこっ!」

「ま、待ってぇぇぇぇ……」

ついでに、息切れ間近。というか、もう息切れ完了。ああ、頭がぼーっとしてきた……酸素が……酸素が足りない。口で息をすると、喉の奥で息が引っかかって死ぬほど苦しい。

「ぜぇーはぁー……ぜぇーはぁー……」

あたしはついに走れなくなって、その場で膝に手を突いて息ぜーぜー。息をするたびに胸が痛い。古い空気が胸の奥のほうで突っかかって、なかなか新しい空気と入れ替わってくれない。すーはーすーはー。とりあえず呼吸。数こなせば、自然と空気は入れ替わる。

(……一体どーして、走る必要があったのかしら……)

メリッサはあたしがダウンしてる間にもどんどん走っていって、めちゃんこ先にある路地の右に引っ込んだ。いけないいけない。早く追いかけなきゃ、メリッサを見失っちゃう。そーなったら大変。いくら田舎とはいえ、街のでかさは結構なものだ。そこを草の根分けて探してられるほど、あたしも暇じゃない。

「……もう逃がさないわよぅ! 待ちなさぁぁい! メリッサぁぁぁぁっ!」

乾坤一擲。あたしは腹の底から力を振り絞って、メリッサを追いかけた。

(確か……ここを右に!)

メリッサが曲がった(と思う。と思いたい)路地が見えてきた。お願いだから、目に見える範囲のところでいてよねっ。いなかったらマジ凹んじゃう。つーか、帰れない。

「めりっさぁぁぁぁぁっ!」

我ながらもんのすごい声を上げながら、まったく減速せずに路地を右に曲がる。メリッサはいるか?! メリッサはくじら?! メリッサはまぐろ?! そんなくだらないこと考えてると……

 

「あっ……」

「……?」

「ちこ?」

 

……そこにメリッサはいた。路地を曲がったところにあった広場の真ん中で、息一つ切らさずにちょこんと座っていた。うん。それはいいんだ。

「あ、あの……」

「……………………」

「こ、この子……め、メリッサっていう……名前なんですか?」

「そ、そだけど……」

……それは、いいんだ。

「……えっと……」

「は、はい……」

「……重かったりとかしない? あ、頭の上に……乗っかられててさ……」

そこにメリッサはいた。路地を曲がったところにあった広場の真ん中……にいた、九歳か十歳ぐらいの男の子の頭の上で、息一つ切らさずちょこんと座っていたのだ。正直、めちゃんこシュールな光景。メリッサオン少年の頭。ごめん、あたし英語3なの。

「えと……はい。慣れてますから」

「そ、そう……」

男の子の答えに、あたしは半ば言葉に詰まりながら、どーにか返事をした。

男の子は半そで半パンのありきたりな格好をしていて、胸に両手を当てている。両手の膨らみ方を見ると、そこに何か持っているような感じ。顔立ちはまるで女の子みたいに整っていて、気弱そうな口調も相まって普通に女の子っぽい。実際、瞳もちょっと潤んでるし。

「あの……」

「……?」

男の子は恐る恐るあたしに近づいてきて、

「これ、少しの間だけ、持っててくれないでしょうか……」

「いいけど……」

あたしに、小さな「箱」を差し出した。きちんと包装されてて、リボンまで巻いてある。どー見ても、誰かへのプレゼントだ。

「ありがとうございます」

「……………………」

男の子はお礼を言ってから、

「よいしょ」

「ちこ?」

頭の上に乗っかっていたメリッサを下ろして、腕の中に抱き込んだ。メリッサはちっとも暴れたりせずに、男の子の腕の中にきっちり納まっている。メリッサは元々人見知りしないタイプだけど、一見さんにここまで懐くとは思ってなかった。メリッサの葉っぱが、ゆらゆらと揺れている。

「あの……」

「はいはい」

「少しの間、こうしててもいいですか?」

「……いいけど……」

「ありがとうございます。こんなことするの、初めてなんです」

「……………………」

男の子はうれしそうに、そのまましばらくメリッサを抱き続けていた。

(……初めての割には、手馴れてるよーな……)

 

それからしばらくして、男の子がメリッサを地面に置いた。

「ありがとうございました。すっごくかわいい子ですね。僕、感動しちゃいました」

「か、感動……?!」

「ポケモンを自分の腕の中に抱きしめるのって、こんなに楽しいことだったんですね……ああ、感激だなぁ……」

「おーい。もしもーし」

男の子はうっとりした表情のまま、どこかへトリップしてしまった。ひょっとしてこの子、そっち系の子なのだろーか。そっち系ってどっち系なのか、言ってるあたし自身ちっとも分からないんだけど、とにかくそっち系だ。

「……はっ! ご、ごめんなさい……楽しい思い出に耽ってて、ちょっと意識が飛んじゃってました」

「えええーっ?! 意識ってそんなに簡単に飛んじゃうもんなのぉーっ!?」

「はい。結構、簡単に飛んじゃうものなんですよ」

「し、知らなかった……」

男の子はにこにこしながら、「意識って結構簡単に飛んじゃうものなんですよ」と言った。すごい。あたしが今まで生きてきた十六年間で、ここまで意味不明な男の子は初めて見た。もちろん、これの女の子バージョンも見たことなんかない。

「あ、ごめんなさい。名前、まだ言ってませんでした。僕は彼方(かなた)、本名は『月島彼方』って言います」

「彼方……? ごめん。ものすっごい偏見だけど、それ、女の子の名前っぽくない……?」

「えと……はい。みんなから言われてました。それ、女の子の名前だよね、って……」

「……………………」

彼方……君は少し俯きながら、

「お父さんとお母さんが、女の子をずっと欲しがってたみたいで……」

「ほうほう」

「僕が生まれたときに、僕の顔がすっごく女の子っぽかったから……その、『確認』せずにそのまま勢いで……女の子の名前、付けちゃったって……」

「……………………」

「それで僕、『彼方』っていう、女の子みたいな名前なんです」

ホップ・ステップ・ジャンプ……かーるいす!

せいだいなる ポカーンの あらし!

ざんねん! わたしの じょうしきは これで おわってしまった!!

「ちょ! いくらなんでもそりゃないっしょ?!」

「えと……これ、本当の話だって、看護婦さんが……」

「うっはー……こりゃすごいわ……」

彼方ちゃ……じゃなかった、彼方君を見ながら、あたしは思わず「あちゃー」のポーズ。あたしは今まで「恭子」っていう自分の名前の普通さがちょっとヤになることが(今まで生きてて二、三回ぐらい)あったけど、もうそんな贅沢は言わないことにしよう。世の中には、男の子なのに女の子みたいな名前を付けられたアンラッキーボーイもいるんだからさ。目の前の子みたいに。

「えと……お姉さんのお名前、なんていうんですか?」

「あたし? あたしは日向恭子。日に向かうって書いてから……『恭』は……んー……あれね。子供には難しいから、とりあえずパス」

「えと……ひょっとして、『恭順』の『恭』、ですか?」

「そーそー! キミよく知ってるじゃないってえええええっ?! なんでそんなの知ってんのぉ?!」

「僕、本を読むのがすごく好きなんです。いつも本ばかり読んでたら、自然と漢字を覚えていたんです」

「……そぉなんだぁ……えらいねー」

あたしがちょっと褒めてみると、彼方君は顔を紅く染めて、照れたように頭をかいた。髪の毛も長めだから、服装とかを少し変えれば本当に女の子みたいに見えるだろーな。きっと。

「えと……なんだか、うれしいです。誰かに褒められるのって、こんなにうれしいことなんですね」

「そんなもんかねぇ……あ、そー言えば」

「どうしたんですか?」

「これ……何の箱?」

あたしはメリッサを抱く代わりに渡されたプレゼントの箱を指さしながら、彼方君に聞いた。

「えと……それは……」

「……………………」

「……実は僕、やらなきゃいけないことがあるんです」

「しなきゃいけないこと?」

「はい」

彼方君は胸に両手を当てて、目を閉じた。

 

「僕、お礼がしたいんです。ほんのちょっとでもいいから、お礼がしたいんです」

 

静かに、でも力強く、そう言った。

「お礼……?」

「はい。僕に優しくしてくれた女の子に、お礼がしたいんです」

「女の子……これ、その女の子に渡したいの?」

「はい。本当にささやかですけど、僕からのプレゼントなんです」

「ふぅーん……」

あたしはその小さな箱を眺めながら、中に何が入ってるのかいろいろと想像してみる。大きさ的に……指輪! ……はないだろうなぁ。まだちっこい男の子だし、指輪なんて買えっこない。じゃあ……消しゴム! ……いや、消しゴムをこんなに丁寧に箱詰めするのはちょっとヘンかなぁ……

悩んでてもしょうがない。持ち主が目の前にいるんだし、直接聞いちゃおう。

「ねー彼方君。この箱の中にさー、何入ってんの?」

「え?」

「……あ、いや、別に言いたくなかったらいいんだけどさっ。ちょっと気になっただけ」

「えと……大した物じゃ……ないんです。僕、そんなに……大した物は買えませんから……」

「……………………」

彼方君は少し悲しげに俯いて、両手をもじもじしている。どー見たって、女の子みたいだ。言っちゃ悪いけど、ちょっと可愛い。

「それでさ、その女の子って、どんな子?」

「えっ?!」

「背が高いとか、顔がかわいいとか、髪が綺麗とかさー」

「えと……えと……えと……」

あたしが言うたびに、顔の赤み度がぐんぐん上がっていく彼方君。もんのすごく分かりやすいなー、この子。

「ほらほらー。言っちゃいなさいよー。彼方君、その子のこと、すっごく気になってるんでしょ〜?」

「えと……えと……えと……そ、その……」

「ん〜?」

「じ……実は……」

彼方君は両手をもじもじさせながら、ゆっくりと言った。

「実は、その子の名前も……」

「……え?」

「……『恭子』ちゃん、っていうんです……」

「……………………」

「……………………」

……ちょ……それ……マジで言ってんの……?

「……マジで?」

「えと……はい。名前……聞いたんです」

「うっはー……こりゃ、すごい偶然もあるもんね……」

「はい。僕も恭子さんの名前を聞いたとき、ちょっとビックリしちゃいました」

「……あー、一応聞いときたいんだけど、あたしは違うわよ? だってあたしがここに来たの、七年ぶりぐらいだし」

「七年ぶり……なんですか?」

「そーよ。いろいろあってここを出て、七年ぶりにちょっと里帰り。彼方君とは、絶対初対面」

「……………………」

彼方君は両手を胸に当てて、しばらくの間黙っていたけれど、

「……そうですよね。きっと、そうですよね」

「……………………?」

「でも、こうやって恭子さんに会えて、僕はうれしいです。新しい人に出会って一緒に過ごすのは、久しぶりですから」

「ふぅーん……あっ、ごめんごめん。これ、返すね」

あたしは手にしていたプレゼントの箱を彼方君に返して、代わりにメリッサを抱き上げた。メリッサは彼方君のほうを見つめている。よっぽど彼方君のことが気に入ったんだろーね。こりゃ。

「あ、ありがとうございます。持っててくれて、ありがとうございました」

「大事にしなさいよ。プレゼントなんでしょ? あたしじゃない『恭子ちゃん』へのさ」

「はい。大切に持ってます」

彼方君は箱をしっかりと胸に抱いて、あたしの顔を見上げるようにして言った。彼方君は身長もちょっと低めだから、あたしの顔をずずいっと見上げるような形になる。また女の子っぽい要素が増えたな、って思った。

あたしも空を見上げてみると、赤らんでいたはずの空はもうかなり暗くなり始めていた。そろそろ帰って、晩ご飯を食べなきゃ。

「それじゃあたし、そろそろ行くね。もうだいぶ暗くなってきたしさ」

「あっ! えと、ちょっといいですか?」

「どしたの? 何か忘れ物?」

「えと……その……恭子さん」

彼方君はやっぱり手をもじもじさせながら、何か言いたげにしている。

「……?」

「明日も……ここに、来てくれませんか? 僕、ここで待ってますから」

「いいけど……いつ頃から?」

「朝からずっといます。恭子さんの都合のいい時に来てくれたら、それでいいです」

「うーん……まっ、こっちも嫌っていう理由はないし、全然おっけーよ。でも彼方君、あたしなんかといて、楽しい?」

それは気になることだった。あたしは彼方君の反応を見てると飽きなくて楽しいけど、彼方君にしてみたら、あたしみたいな「お姉さん」と一緒にいて本当に楽しいのかはちょっと微妙なところだ。どっちかというと、もっと同世代の子と一緒にいた方が楽しいと思うんだけどなー。

でも、当の彼方君はというと。

「はい! 僕、恭子さんと一緒にいて、すごく楽しかったです!」

「そ、そんなに楽しかったの?」

「はい! 少し前のことを思い出すだけで……あぁ……すっごく楽しかったなぁ……あはははは……うふふふふ……えへへへへ……」

「おーい」

またトリップを始めてしまった。彼方君にとってあたしといっしょにいたことは、トリップしてしまうぐらい楽しいことだったのだろうか。

「もしもーし。かーなたくーん」

「……………………」

こうなっちゃうと、呼びかけぐらいじゃ戻ってこない。

「あっ、空飛ぶたい焼き」

「……………………」

「あっ、空飛ぶヒトデ」

「……………………」

「あっ、空飛ぶとんかつソース」

「……………………」

「あっ、空飛ぶ救世主」

「……………………」

「あっ、空飛ぶモッツァレラチーズ」

「……………………」

「……さ、メリッサ。帰ってご飯食べよっか」

「……はっ! えと……恭子さん、僕、また意識が飛んじゃってましたか……?」

「うん。いろいろなものを空に浮かべてみたけど、ちっとも反応なかったわよ」

「ご、ごめんなさい……僕、すぐに意識が飛んじゃって……」

彼方君はぺこぺこ頭を下げながら、申し訳無さそーな表情をした。いや、別に謝らなくてもいいと思うんだけどなぁ。

「あんまり他の人のいるところでトリップしない方がいいわよ? 知らない間にさ、話してた人はずのがすり替わってたりとか、別の場所に持っていかれたりとか、鼻からジュース飲まされたりとか、持ってるプレゼントをヘンなものに摩り替えられたりとかするかも知れないし」

「えと……はい。気をつけます。恭子さん、ありがとうございます」

「ま、そんなに気にすることでもないけどね。それじゃ、また明日」

「はい。僕、ここで待ってますから」

あたしはメリッサを抱きながら、彼方君のいた広場を後にした。

 

(しっかし、不思議なもんねー……)

夕食に出た茄子のてんぷらを食べながら、あたしはさっきあった出来事を思い返してみた。ちなみに、あたし天つゆ派。

(なんか、初対面な気がしないのよね……前にもどっかで会ったみたいな……)

あたしはそんなことを考えながら、今度は鮎の塩焼きをほぐして食べる。いやいや、あの子はどー見ても小学生だぞ、面識なんてあるわけねーだろとセルフ突っ込み。大体、七年前のことはほっとんど忘れてるのに、彼方君のことだけ覚えてるとかありえないし。

(この村以外で出会った可能性は……まぁ、ないわよね。無い無い)

彼方君の姿を他の場所で見てたのかも知れないけど、なんか彼方君ってこの村から出たこと無さそーな雰囲気だし、ここからあたしの住んでるところまではおっそろしく離れている。何せ、まず電車を三回も乗り継いだ挙句、バスを二本乗り換えて、また電車を二回乗り換えて、最後に田舎のローカル線に乗って、鬼のように電車に揺られてようやく到着できるような場所だ。彼方君があたしの住んでるところまで来るなんてこと、まず考えられない。

(でも、どっかで見たような気はするのよねぇ……)

きゅうりとタコとわかめの酢の物をつまみながら、もやもや感を心の中で持て余していた。

(それに……なんだろう。彼方君と話してて、全然違和感を感じなかったというか……)

そう。彼方君もあたしも、話しててかなり自然体だった気がしてしょうがない。メリッサと同じぐらい綺麗な緑色をしたそら豆の入ったご飯をもくもく口の中に運んで、今更ながらそのことに気付いた。

(それにあのプレゼント、誰に渡す気なのかしら……? 恭子ちゃんって……まさか、あたしじゃあるまいし)

瑞々しい桃の果汁と果肉が、口いっぱいに惜しみなく広がる。彼方君、あたしと同じ名前の子に渡したいものがあるなんて、ちょっと不思議。なんだか気になってきた。

(こーなったら、付き合えるだけ付き合ってみるかな。ま、退屈はしなさそうだし)

あたしは最後に残った桃の一切れをメリッサにあげて、割とあっさりそう決めた。

 

さて、次の日の朝。軽く朝ごはんを済ませてから、昨日の広場に出向いてみる。彼方君、もう来てるかな?

「あっ、恭子さん」

……いた。昨日と同じ格好で、同じ場所に立っていた。もち、プレゼントも抱いたまんま。

「おっはよー。もう来てたの?」

「はい。朝は得意ですから」

「ふぅーん……」

プレゼントを胸に抱いて、その場にちょこんと立っている彼方君。なんつーか、やっぱり女の子に生まれてきたほうが良かったんじゃないかなぁ、って思うぐらい、男の子っぽくない。

「ところでさ、彼方君って、どうしてこんなところにいるの?」

「えっ?」

「ほら、プレゼントを渡したいんだったらさ、その子のこと、自分から探したほうがいいんじゃないかなー、って思ってさ」

そりゃそうだ。プレゼントを渡したいんだったら、自分からずんずん出向いてさっと渡すほうがいい。彼方君はあたしの言葉を聞いて、こう答えた。

「えと……その、僕も、そうだと思います」

「でしょー?」

「でも……えと、僕、ここで待ってれば、恭子ちゃんに出会える気がしたんです」

「……えっ?」

「僕、ここで恭子ちゃんに出会って、優しくしてもらったんです。だから僕、ここでプレゼントを渡したいんです」

「……………………」

あたしは彼方君の言葉を聞いて、少し言葉をなくした。

彼方君にとってこの場所は、「恭子ちゃん」と出会った思い出深い場所なんだろう。だから、そこでプレゼントを渡したいときた。この子、結構ロマンティックなところがあるじゃない。そーいうの、あたし嫌いじゃない。っつーか、むしろ好き。ドラマとかはベタベタな展開のほうが好きなタイプです。あたし。

「確かに、彼方君の言いたいことも分かるかも。でもさ、やっぱり探したほうがいいと思う」

「やっぱり……そうですよね」

「うんうん。それで、探してきてからさ、ここでプレゼントを渡したげればいいんじゃない? それならさ、彼方君も納得でしょ?」

「はい。僕はここで恭子ちゃんにプレゼントを渡せたら、すごくうれしいです」

「よし! じゃー、そうと決まったら」

あたしは彼方君の手を取って

(ぐいっ)

前に引っ張ってみた。彼方君はよろけそうになりながら、こっちに歩いてきた。

「わっ?!」

「恭子ちゃん捜索部隊、結成! ちなみにあたしが団員一号で、彼方君が団員二号ね」

「えっと……僕が二号なんですか? 一号じゃなくて……」

「そーよ。あたしが技で、彼方君が力……あ、微妙に逆かも」

「えと……僕、力は全然ないですけど……でも……でも僕、がんばってみます」

「いや、別に頑張るとこじゃないわよ。ここ」

「あ……ごめんなさいです」

彼方君は申し訳無さそうに、でも心なしか楽しそうに、小さく頭を下げた。

「僕、こんなの初めてなんです。なんだか、とっても心臓がばくばくしてます」

「いくらおんなじ『恭子』だからって、あたしに惚れちゃだめよ?」

「え、えと……は、はい……」

「よし。それじゃ、行こっか。とりあえず、この辺りを歩いてみましょ」

「はい。僕、行きます」

あたしは彼方君を連れて、広場を出た。

「ちこ……」

「ん? どしたのメリッサ」

メリッサはしばらく広場を見つめていたが、やがて諦めたように視線をそらし、彼方君の足元にぴっとり寄り添った。

「ちょ、あんたの親はあたしよ?」

「ちこ♪」

「えと……ひょっとしてこの子、僕のこと、気に入っちゃったんでしょうか……」

「……あー、多分そうだわ。うん」

メリッサのことはもう半分ほっとくことにして、あたしは彼方君と一緒に歩き出した。

 

彼方君を横に連れて、懐かしい街並みを歩く。昨日もそうだけど、七年も経ってるからずいぶん記憶が曖昧になってるかなーと思ってたら、いやはや、細かいところまでしっかり覚えてるものね。ここが変わらなさ過ぎ、っていうのもあるんだろうけどさ。

「彼方君ってさ、どの辺りに住んでるの? この辺?」

「えと……向こうの方です」

そう言って指さした先には、比較的新しい家がいくつも立ち並んでいた。あの住宅のどれかに住んでいるんだろう。

「あっつーい……都会にしろ田舎にしろ、夏が暑いのは変わらないわね……ホント」

「でも、夏は暑いから夏だと思うんです。それで、冬は寒いから冬だと思うんです。季節があるから、僕たちは生きているんだなぁ、って思うと思うんです」

「……まぁた急に悟っちゃったよーなこと言うわねー。彼方君ったら」

「えと……僕、ヘンでしょうか……」

「いいのいいの。なんとなくその方が彼方君っぽいからさ」

あたしは彼方君の肩をぽんぽん叩いて、また歩き出した。彼方君はあたしの後ろから。おずおずと付いてくる。

「それでさー、その『恭子ちゃん』のこと、他に何かわかんないの?」

「えと……例えば、どういうことでしょうか……」

「何だっていいのよ。恭子ちゃんは牛乳が好きだとか、恭子ちゃんはいつでもスケッチブックを持ってるだとか、恭子ちゃんは金色の髪の乙女だとか、恭子ちゃんは実は柔道部の部員だとか、恭子ちゃんは痩せの超大食いだとか、恭子ちゃんはフェレットに目が無いとか」

「……あの、柔道じゃなくて剣道……」

「細かいことはなし! さ、何か知ってることは無いの?」

「えと……」

彼方君は胸に手を当てながら、ゆっくりと言った。

「優しい女の子でした。僕に声をかけてきてくれたのは、恭子ちゃんだけでした」

「……………………」

「長い髪が綺麗で、赤色の浴衣を着ていました」

「……浴衣? 浴衣だったの?」

「はい。僕が恭子ちゃんを見たのは、『時祭り』の時だったんです」

「……………………」

……いや、ちょっと待ってよ彼方君。時祭りって言ったら、最低でも、どんなに最低でも一年前だよ? 一年前。ワン・イヤーズ・アゴー。一年間もずっと探しててそれじゃ、実は結構深刻なんじゃないの?

「それじゃ……彼方君って、一年前の『時祭り』の時から、もうずっと恭子ちゃんのこと……」

「えと……実は、一年前じゃなかったりします……」

「……………………」

「……もっと……もっと前だったりします……」

「……………………」

 

(しばらくお待ちください)

 

……………………

「……ごめんね。こんなウソ付いちゃって……」

「……いいよ。気付かない俺のほうが悪かったんだ」

「大樹って、優しいね……すっごく嬉しいよ……」

……………………

「かずき……あなたのなまえは、かずきなの?」

「……………………」

「かずきくんって、よんでもいい?」

……………………

「あたし、言ったよね。北川さんと一緒に走って、最後は北川さんと一緒にゴールしたい、って!」

「そう言えば……って、それってそういう意味だったのか?!」

「あったり前じゃなーい! 北川さん、分かんなかったの?」

……………………

「弥。弥も、その子と同じ『悪い子』なのかしら?」

「!!!!!……」

「弥。弥もトキワタリ様の罰が当たるような、『悪いこと』をしちゃったのかしら?」

……………………

「……俺はもう、お前が嫌がることはしない。お前のしたいようにして、お前が『一番いい』と思えることをしてくれれば、俺はそれが『一番いい』んだ……!」

「準……っ!」

「俺はお前のことが好きなんだ。だから……お前の悲しむようなことをしちゃ、いけないんだ。俺はお前が好きだから……だから……」

……………………

 

(大変お待たせいたしました)

 

「……それ、マジで言ってるの……?!」

「えと……はい」

「あっちゃー……こりゃ、思ったよりかんなり厳しそうだわ……」

いくらなんでも、数年前に一度見かけただけの女の子を探し出すのは、結構無理がある。その子だって身長とか見た目とか変わってるだろうし、ここにずっといるかどうかの保証もない。

「他に何か分かることって無いの?」

「……えと……ごめんなさい。ちょっと、忘れちゃいました……」

「……ま、何か思い出したらまた言ってよ。あたしも探すからさ」

半分諦め気味に、あたしは言った。

(どーなるんだろ、これから……)

 

相も変わらず街中をひょこひょこ歩きながら、彼方君と話をするあたし。

「今年のお祭りって、確かあさってだったよね?」

「えと……はい。金曜日にお祭りがあるんです」

「その子がどんな浴衣を着てたとかは、一応覚えてるよね?」

彼方君はゆっくりと頷いて、こう言った。

「はい。赤色の布地に、銀杏や紅葉が縫い付けてある、秋らしくてかわいい浴衣でした」

「……………………」

赤色の布地……銀杏や紅葉……

「……恭子さん? どうか……したんですか?」

「えっ?! う、ううん。な、何でもないわ。ちょっと、考え事してただけ」

「そうですか……はぁ……見つかればいいのになぁ……」

「きっと見つかるわよ。きっと」

あたしは何となく言葉を濁して、彼方君から目をそらした。それよりももっと気になることが、あたしの心に浮かんできた。

(……え? ちょっと待ってよ……あたしさっき、なんで考え事なんか……)

彼方君の言った「赤色の布地」「銀杏や紅葉」。こんな浴衣、そうそうたくさんあるわけない。大体、夏祭りにそんな秋っぽい浴衣を着てくるなんて、まったくどうかしてる。

(……そんなわけないわよね。大体、あたしここにいなかったし)

そう。あたしがここにいたのは、もう七年も前のこと。つい最近までは、ここの事を思い出すこともしなかったぐらい。それにはちょっと、ちょっとだけ深い理由があったりするんだけど。

なんだかこのままだとずるずる行っちゃいそうだったから、わざと話題を変えてみることにする。

「と、ところでさ、彼方君って、ポケモンとか連れてたりしないわけ? ほら、あたしがメリッサを連れてるみたいにさ」

「ポケモンですか? えと……はい。僕、ポケモンに触ったりとかしたこと、ほとんど無いんです」

「ふぅーん……あ、だからかー。昨日、メリッサをうれしそうに抱いてたの」

「はい! とっても可愛くて、抱いてて幸せな気分になれました……あ、あの!」

「ん?」

「えと……また、抱いてもいいですか……? 思い出したら、ちょっと……」

「べ、別にあたしは構わないけど……」

「ありがとうございます。すいません。これ、またちょっと持っててください」

「……………………」

昨日と同じように、プレゼントの箱を渡されるあたし。んで、入れ違いに抱き上げられるメリッサ。

「ちこ?」

「僕だよ。さ、怖がらなくていいからね」

「ちこ!」

「大丈夫。ほら、おいで」

「ちこ♪」

「ああ……やっぱりポケモンを腕の中に抱くのって、すっごく楽しいことなんだなぁ……」

「ちっこちこ♪」

「あはははは……うふふふふ……えへへへへ……」

「おーい」

大方の予想通り、またトリップを開始する彼方君。それこそ、意識が「彼方」に飛んでそうな感じ。

「もしもーし。かーなたくーん」

「……………………」

前は「空を飛ぶ」でやってみたけど、駄目だった。んじゃあ、今度は……

「あっ、地を這うねここねこ」

「……………………」

「あっ、地を這うリックドム」

「……………………」

「あっ、地を這う便座カバー」

「……………………」

「あっ、地を這うピンクの悪魔」

「……………………」

「あっ、地を這うカリスマ吸血鬼」

「……………………」

「……さて、心を何に例えるか考えながら、帰ろうかな……」

「……はっ! ご、ごめんなさい……僕、またちょっとどこかに行っちゃってましたか……?」

「うん。いろいろ地に這わせてみたけど、やっぱり反応ゼロだったわよ」

「ご、ごめんなさい……僕、こんなことばっかり……」

メリッサを慌てて地面に置きながら、申し訳無さそーに俯く彼方君。どーでもいいけど、彼方君って日常的にこんなにトリップしてて大丈夫なのかなぁ。あたしだったら、不安になっちゃいそうだけど。

「そんなにポケモン好きならさー、彼方君も捕まえてみたら?」

「えっ?! 僕が……ポケモンを?!」

「そーそー。そーすれば彼方君、いつでもポケモンと一緒にいられるわよ? いいと思わない?」

「……………………」

彼方君は胸に手を当て、さらに目を閉じて考え始めた。うーむ。やっぱり、女の子っぽい。仕草とか動きとかが、めっちゃ女の子っぽい。これでマジで女の子だった日にゃあ、すっげぇおいしいネタになりそうでそれはそれで面白そうだけどさ。

「……はい。すごく、いいと思います。僕、そんなのに憧れてた気がします」

「別に憧れなくても、自分からどんどん捕まえちゃえばいいじゃん。そのためにさ」

「わっ?!」

「モンスターボール、っていう道具があるんだし」

あたしは空のモンスターボールを一つ、彼方君に投げた。彼方君は慌てふためきながら、どーにか落さずにキャッチした。手にしたモンスターボールを、興味深げにしげしげと見つめている。

「これが……モンスターボール……ですか?」

「え゛……ひょ、ひょっとしてさ、彼方君って……」

「はい。僕、モンスターボール触るの、初めてなんです」

「……………………」

 

(しばらくお待ちください)

 

……………………

「かのりん、お姉ちゃんに何か悪いことしたのかなぁ……」

「そんな事は無いと思うぞ。単に元気が無いだけだって」

「そうかなぁ……かのりん、どうすればいいのかなぁ……」

……………………

「うぅ……此処は何処だ? 余はどうしてこんな処に居るのだ?」

「……さて、どこから取り掛かるべきなんだろうか……」

「……なんだこの空間は……余は夢でも見ておるのか?」

……………………

「本当に必要なものだけを持っていこう。本当に必要なものだけを」

「……………………」

「目も、耳も、鼻も、口も、眉も、毛も、爪も、骨も、腕も、手も、足も、血も、内臓も、何も必要ない。必要なものは、『僕ら』だけだ。さっきのは、『僕ら』を目に見えるものに仕立て上げている『いらないもの』に過ぎないんだ」

……………………

「違うって。やっぱり基本、ドラ焼きだろ」

「証拠隠滅……えっ?! ドラ焼き?! ねぇ、どこにあるの?」

「本当に分かりやすいなあ」

……………………

「感動するような……というと?」

「そうね……例えば、石になっちゃった人がその人の好きな人の涙で復活するとか、教会で大好きな犬と一緒に天に召される少年の話とか、七年間昏睡状態だった女の子が奇跡で覚醒する話とか、あの海どこまでも青かったとかそういう感じです!」

「さすがだね……よし! それも採用だっ!」

……………………

 

(大変お待たせいたしました)

 

「ちょ……彼方君、それ、本当なの……?」

「はい。僕、今まで一度もモンスターボールを触ったりとか、投げたりとかしたことないんです」

「うっはぁー……彼方君って、ひょっとしてNHKの会員だったりする?」

「えと……日本放送協会がどうかしたんですか?」

「ううん。日本引きこもり協会」

「ち、違いますよ! 僕、こうやってちゃんと外に出てたりしてます! ただ……」

「……ただ?」

「えと……はい。機会が無かったんです。その……ボールに触れたりとか、投げたりする……機会が……」

「……………………」

彼方君は少し寂しそうな表情を浮かべて、俯いた。そんな表情を見てると、こっちも茶化す気になれなくなってくる。どうやら、今まで本当に機会が無かったみたいだ。

(彼方君って……今まで一体、どんな人生過ごしてきたんだろう……)

ポケモンに関わる機会がほとんど無いなんて、ちょっと考えてみただけでも、よほどの事情があるような気がして仕方ない。ひょっとしたら彼方君って、今までロクに友達と遊んだことも無いんじゃないかな。昨日だって、それっぽいこと言ってたし。

……あたしの中に「お節介」フラグが立った気がした。よし。このままずんずん進んじゃえ! っつーわけで、

「……じゃあさ、作ろうよ。機会」

「えっ?」

「それ、彼方君にプレゼントしたげるからさ、ポケモン、捕まえてみようよ」

「で、でも僕……」

「大丈夫だって! あたしがついててあげるからさ。ほら、どうよ?」

「……………………」

胸に空のモンスターボールを抱きながら、彼方君はしばらくそのまま俯いていたけど。

(すっ)

ゆっくりと顔を上げて、

「はい!」

満面の笑みをたたえて、そう答えた。

 

彼方君は落ち着かない表情で、辺りをきょろきょろ見回している。

「僕が……ポケモンを……ああ、なんだか、夢を見てるみたいです……」

「……………………」

夢を見ているみたいというので、あたしは確認の意味も込めて、

「……あいひゃひゃひゃ?! ひょ、ひょうおあん?!(訳:あいたたた?! きょ、恭子さん?!)」

かるーくほっぺを引っ張ってみた。

「おー。予想以上に伸びる伸びる。おまけにもち肌と来てる」

「いひゃい! いひゃいひぇふおひょうほはん!(訳:いたい! いたいですよ恭子さん!)」

「ね? 夢じゃないって分かったっしょ?」

「いたたた……恭子さん、ひどいですよっ! やりすぎですっ。僕、こう見えてもデリケートなんですっ」

真っ赤になったほっぺをさすりながら、彼方君が涙目で答えた。しっかしまあ、やり取りだけ見てるとどっちが男の子でどっちが女の子なのか、分かりにくいかも。あたし、どっちかっつーと男っぽいって言われるタイプだし。そういう意味では、彼方君とは案外相性いいのかも。

「それで彼方君、どんなポケモン捕まえたいか、決まった?」

「えと……まだです。いざ捕まえるとなると、なんだか緊張しちゃって……」

「あー、それあたしもあったわ。最初はずいぶん苦労したもんよ」

「やっぱり……恭子さんでも苦労したんだから、僕はもっと苦労しそうな気がします……」

「大丈夫だって。人間ってさ、苦労して成長してくもんだから」

「……………………」

あたしの何気ない言葉を聞いた彼方君は、驚いたような表情をして、

「恭子さん……恭子さんって、さりげなく、すっごくいいこと言う人なんですね」

「えー? それ、褒めてんの?」

「はい。今の言葉、僕の心にぐさっと来ました」

「いや、なんつーかさ、『ぐさっ』ってなんか傷ついた感じじゃない?」

「えと……そういうのじゃないんです。なんていうか、『めきゃっ』っていうか、『ぐしゃっ』っていうか……あっ!」

身振り手振りを交えて必死に自分の感じたことを伝えようとしていた彼方君が、急に体の動きを止めて、ある一点を見つめたままになった。

「……どったの?」

「きょ、恭子さん! ちょ、ちょっと来てくださいっ!」

「え? あ、ちょっと! 彼方君っ!」

急に走り出した彼方君(でも、あんまり早くない)を追いかけて、あたしも走り出した。

 

「かわいい……」

「ほぉー……彼方君、あの子が気に入ったわけ?」

「はい……あの長いしっぽとつぶらな瞳……愛です。愛を感じますっ」

「……そ、そう……」

半分トリップしつつある彼方君から二、三歩ほど距離を取りながら、あたしはその目線の先にあるポケモンの姿を見た。

(オタチ、かぁ……まー、悪くはないわね)

あたしと彼方君に目線の先にいたのは、長くてでっかいしっぽがチャームポイントのポケモン、オタチだ。警戒心はちょいと強いけど、おとなしい性格で、人に慣れるのも割と早いとか。メリッサにメロメロになった彼方君なら、確かにオタチにも「来る」ものがあるのだろう。その辺りはあたしでも理解できる。

(……「愛」を感じるとか、その辺はちょっと分かんないけど……)

……ま、その辺はあたしと彼方君の、いわゆる「感性の違い」っつーことにしとこう。うん。それでおっけーだ。

「それじゃ、早速捕まえてみようじゃない。ほら、構えて構えて」

「は、はいっ!」

あたしに言われて、慌てて構える彼方君。でもなんつーか、カチカチになっちゃってて、投げるに投げられない状態。何も、そんなに緊張しなくてもいいと思うんだけどなー。多分、何事にも全力投球するタイプなんだろう。そー言うのは嫌いじゃないけどさ、たまには肩の力抜いたほうがいいと思うよ。うん。

「……………………」

「よーく狙って……」

「……………………」

オタチは彼方君の存在に気付いてるみたい。なんだけど、不思議と逃げる気配はない。一応、警戒はしてるみたいだけど。

対する彼方君は瞬き一つせずにオタチを見ていたけど、やがて……

「行くぞぉ……!」

大きく、大きく振りかぶってから、

「……えいっ!」

意を決して、ボールを投げた。ボールを投げるフォームそのものは、案外悪くなかった。ちょっと意外だ。

「……………………」

「……………………」

ボールは思ったよりもスピードが付いて真っ直ぐ飛んでいって、そのままオタチの……

……オタチの……!

 

(すっ)

 

……横を通り過ぎて、近くの草むらに着弾した。

(あっちゃー……当たると思ったんだけど……)

当たるかな当たるかなと思ってたんだけど、見ての通り、思いっきり外しちゃった。モンスターボールがポケモンに当たってすらいない。確かあたしも、最初はこんなんだったっけ……

(彼方君、ショックだろーなー……)

そりゃそうだ。初めての挑戦で、思いっきり失敗しちゃったんだもん。あたしだったらがっくり来て、近づいた人がちょっと「うっ」と思うぐらい鬱な表情になっちゃうだろうなー。ましてや、あたしよりももっとデリケートな(本人談)彼方君だもん。ショックだったに違いない。ちょっとかわいそうな気持ちになりながら、彼方君の顔を見てみると……

「……………………(きらきらきらきら)」

「……って、何でトリップしてるのぉ?!」

……鬱な表情のちょーど対極に位置するような、悦び(Not喜び)の表情を浮かべていた。何ていうか、目の辺りから星とか出てる。あと、彼方君の体から微妙にオーラみたいなのも出てる。

「……はっ! 恭子さん、僕、もしかして……」

「うん。二十秒ほど」

「ご、ごめんなさい……僕、モンスターボール投げたの、初めてだったんです」

「まー、触ったこと無いのに投げたことある、っていうのはありえないわよね」

「はい。それで、投げた瞬間に、『モンスターボールを構えて、ポケモンに狙いを定めて、思いっきり投げる』っていうのが、こんなにも面白いんだ! っていうことにちょっと感動しちゃって、それで……」

「……………………」

あたしは彼方君の言葉を、ちょっと呆然としながら聞いた。

ただボールを構えて、狙いを定めて、投げる。ある意味当たり前のようなこの動きに、彼方君はなんていうか「感動」してる。初めてこの動きを体験できたことに、あたしじゃ想像もできないぐらいの、でっかいうれしさを感じてる。彼方君は今ここで初めて、「ボールを投げる」ということを体験したんだろう。きっと。

「あの……」

「ん? どしたの?」

「また……やってもいいですか? 僕、きっとあのオタチを捕まえてみせますから」

「……おっけー。じゃ、あのボールを拾って、また構えるとこからね」

「はいっ!」

彼方君は元気な声を上げて、外したボールを拾いに行った。

 

「きゅー」

「あはは♪ くすぐったいよ〜」

「……………………」

あれからおよそ一時間。彼方君はひたすらボールを投げ続け、ついに、ついに、ついに(ここは三回ぐらい繰り返して言うべきだろう)……オタチを捕まえることに成功した。

(だけどさ……)

なんつーか、一時間も粘った彼方君も彼方君だけど、一時間も付き合ったオタチもオタチで相当アレだと思う。ひょっとして、最初からつかまりたかったんじゃ……と思っちゃうぐらい。

「きゅーきゅー」

「ああ……ふわふわのふさふさ……僕、こんなにかわいいポケモンに出会えて、とっても幸せです……」

「そう? オタチならさ、この辺りにも結構いると思うけど」

「えっ?! そうだったんですか?! 僕てっきり、この子は百万匹に一匹ぐらいの超希少種だと思ってました……」

「……いや、もう驚かないわ。彼方君を普通のものさしで計ること自体が間違いなのよ。きっと」

あたし今、ひょっとしてものすんごい子と一緒にいるのかもしれない。なんていうか、さっきからずっと驚かされっぱなしだ。ま、それはそれで面白いからいいけどさ。

(彼方君と出会って良かったのか悪かったのか……)

何ともいえない気持ちになりながら、右腕に巻いた腕時計に目をやる。するともう、時計は十一時四十五分を指そうとしていた。んー、いわゆるお昼時、っていうやつなのかな。多分。昨日もこんぐらいの時間にお昼食べたし。駅弁だったけど。

彼方君はお昼、どうするんだろう。やっぱり家に帰って食べるのかな。よし。聞いてみるか。

「ねー彼方君」

「あはははは……うふふふふ……えへへへへ……」

「おーい。かーなたくーん」

「あはははは……うふふふふ……えへへへへ……」

……駄目だ。またトリップしてる。なんていうか彼方君って、日常的にトリップしてるんだろうな、こりゃ。だってもうこれで今日三回目か四回目ぐらいのトリップだもん。オタチを抱きしめてどこか遠くに逝っちゃってるその姿は、傍から見るととってもヘンだろう。

「……はっ! き、恭子さん……ひょっとして、僕、また……」

「三十秒」

「はうぅ……ごめんなさいです……」

「それよりさ、彼方君、お昼どうするの? うちに帰って食べるの?」

「えっ?」

「ほら、お昼ご飯」

あたしがそう言うと、彼方君はきょとんとしたような表情を浮かべたまま、しばらく動かなくなった。

「えと……僕……」

「……?」

「その……」

彼方君は何か言おうとして、でも言えずにそのままもじもじし始めた。どーしたんだろ?

「その……僕……」

「……………………」

「えと……えと……」

「……………………」

手をもじもじさせて、答えを口にしようとしなかった彼方君だったけど、

(くぅー)

口の代わりにお腹の虫が、割と分かりやすい答えを返してくれた。

「……あっ……」

「……とりあえず、お腹がすいてない、ってわけじゃないのよね?」

「えと……その……」

尚も言いよどんでいる彼方君だったけど、

(くぅー)

体のほうは、わりと正直だった。

「……はい」

彼方君は顔を真っ赤にしながら、俯き加減で言った。お腹の虫が騒ぐ音を聞かれたのが、よっぽど恥ずかしかったみたいだ。ま、あたしだってあんまり他人に聴かれたい音でもないと思うけどさ。

あたしは彼方君の受け答えを聞きながら、

(んー……これはきっと、何か家に帰りづらい理由があるような気がするわね。んでも、直接聞くわけにもいかないし、彼方君だってそんなこと聞かれたくないだろうし、あたしみたいなてきとーな人間が首突っ込んじゃまずいかも知れないし)

そんなことを考えていた。彼方君がなかなか答えを返さなかったのは、言い出しづらいことがあったからだろう。こーいう時は、あたしが勝手に話をぐいぐい進めちゃうほうがいい。

「んー。よし! わかった。それだったら、あたしと一緒に何か食べに行こう! ね? どう?」

「えっ?! そんな、でも、僕……」

「こーいう時は遠慮しちゃ駄目よ? それとも、お昼は食べない教の信者とか?」

「えと……違います。僕、三食普通に食べる善良な一般市民です」

「善良な一般市民かどうかは保留にして、そうでしょ? お昼も食べるんでしょでしょ? だったらさ!」

「わっ?!」

あたしはその場に突っ立っていた彼方君の腕をちょっち強めに引っ張って、こっちに引き寄せた。

「彼方君、何か食べたいものとかある? あたしの甲斐性の範囲でなら対応するわよ」

「えと……その……本当に……いいんですか?」

「いいのいいの。大体彼方君、お金持って無さそうだし」

「うぅ……確かに持ってないですけど……なんだかちょっと、悔しいです」

「気にしなーい気にしない! あたし、結構お金持ってるからさ」

本当はややぴんち気味だけどね。お小遣い。

「えと……それじゃ、僕……」

「……………………」

曇っていた彼方君の表情がだんだん晴れやかなものになっていって、最後には微笑みを含んだ表情になりながら――

 

「……ほ、本当にこれでいいの……?」

「はいっ! 僕、今すっごくうれしいです」

「ねぇ、彼方君……?」

「はい?」

「本当に……ほんっとうにさ……今まで一回も『ざるそば』、食べたこと無いの……?」

「はいっ!」

静かな店内で、彼方君の声だけが妙に大きく響き渡った。

 

「それじゃ僕、『ざるそば』っていうのが食べてみたいです!」

「……え゛?」

「僕……今まで『ざるそば』っていうのを食べたこと無いんです。どんな味がするのかとか、どんな食べ心地なのかとか、ちっとも知らないんです」

「……………………」

「でも、食べるところは見たことあるんです。おそばをざるから取って、おつゆにつけて、口にずるずるーと流し込むんです」

「……………………」

「それがもう……ああ、なんだか思い出しただけで、また幸せな気分になってきちゃいました……あはははは……うふふふふ……えへへへへ……」

「……マジで……?」

 

……というわけで、あたしと彼方君は今、日輪多市の中心地にあるお蕎麦屋さん「八神」に来ている。近所どころか、近隣の都市からもわざわざ足を運びに来る人がいるぐらいの有名なお店で、その割には店がいい意味でこじんまりとしている。味もさることながら、値段がびっくりするほどリーズナブルで、あたし自身小さい頃何回か来た記憶がある。

彼方君はそわそわした様子で、お店の中をきょろきょろと見回している。どーやら、本当にお蕎麦屋さんは初体験らしい。

「えと……落ち着いた感じの、洒落たお店ですね」

「彼方君、なんか、言うことまで女の子っぽい」

「えっ?! そ、そうでしょうか……」

「うん。今まで女の子っぽい女の子っぽいとは思ってたけど、最近ホントに女の子のような気がしてきた」

「ち、違いますよぉ! ぼ、僕はちゃんとした男の子ですっ! ……えと、確かに、女の子っぽいっていつも言われますけど……」

「あはは。大丈夫大丈夫。あたしは彼方君が男の子だって信じてるからさ」

「うぅ……僕だっていつか、男の子らしい男の子になってみせますっ。恭子さんがびっくりするぐらいの男の子らしい男の子になってみせますっ」

拳をぐっと握り締めて力強く言う彼方君だったけど、その仕草までやっぱりなんだか女の子ちっくに見えちゃって、余計に可愛らしいというか、可笑しかった。

「でもさー、彼方君ってなんだか、でっかい花火よりも線香花火のほうが好きそうな感じだよねー」

「えっ?!」

「あ、ひょっとして図星ー?」

「えと……はい。でっかい花火も好きですけど、線香花火のほうが……なんていうか、儚くて、好きです」

「ほら、やっぱり女の子っぽい。ひょっとして、ヨーヨーとか得意?」

「ぼっ、僕はちゃんとした男の子ですっ! クマの人形なんか持ってないですっ! 賞金なんて一銭たりとも稼いでないですっ」

「……す、すげぇ……ちゃんと反応してきた……」

と、あたしたちがこんなやり取りをしていると、

「あい。おまちどーさま」

「あ、どーも」

注文したものがやってきた。あたしも彼方君も「並」(¥550)だったから、わざわざこっちがそっちでそっちがこっちと言う手間が省けた。

「うわぁ……これが『ざるそば』っていうんですね……!」

「そーよ。さ、食べて食べて」

「はいっ」

彼方君はやってきたざるそばに目を輝かせながら、おそばをかなり少なめに取って。おつゆに静かに浸していく。かなりお上品な食べ方、といった感じ。

「……………………」

「いただきます」

「……………………」

浸したそばをすくって、口の中に運んでいく。なんていうか、食べ方がちっとも男の子らしくないというか。

(ずるずるずる)

彼方君は一心に目を閉じたままそばをすすって、もぐもぐと噛む。噛む。噛む。

「……………………」

「……………………」

(ごくん)

口の中で細切れになったであろうそばを飲み込んで、たっぷりと間を置いてから、彼方君は……

「ああ……ざるそば……なんて甘美で深遠な味わいなんだろう……」

目をきらきら輝かせながら、またしてもどこか遠くへトリップなされてしまった。よほどおいしかったのだろう。

「……おいしい?」

「はい……今まで食べた中で、二番目においしいですっ……」

「そりゃまたずいぶん高い位置につけてきたわねー」

彼方君が食べたのを見てから、あたしもお蕎麦に手をつける。おいしいことには何の異論も無いけど、いや、いくらなんでもそこまで言うほどのものなのかなぁ。どーなんだろ。

「こんなにおいしい食べ物があるなんて、僕、思ってもみませんでした!」

「……彼方君、一体今まで何を食べてきたのよ……」

あたしの質問は聞こえていないのか、マイペースでゆっくりゆっくりそばを食べる彼方君。夢中で食べているんだろーけど、ペースがびっくりするぐらい遅い。丁寧に食べているのか、はたまたこれがフルスピードなのか……どっちにしろ、女のあたしの方がさっさと食べ終わりそうな雰囲気だった。

(……それにしても、こんなにおいしそうに食べれるのって、普通に食べるよりも精神的にちょっとお得かも……)

そーいうところから行くと、ちょっと彼方君がうらやましかった。

 

「あぁ……おいしかった。恭子さん、ごちそうさまでした」

「……いや、それはいいけど、まさかお蕎麦一枚平らげるのに四十分もかかるなんて、ちょっと思ってなかったわ……」

約四十分後。あたしが十五分ぐらいで全部食べちゃったのに対し、彼方君はたっぷり四十分かけて蕎麦を平らげた。元々食べるのがかなり遅いのに加えて、多分、味わいながら食べたら余計に遅くなっちゃったんだろう。彼方君は満足げな表情で、口元を拭っている。

「えと……ごめんなさい。僕、食べるのがすごく遅くて……」

「あ、別にそれはいいのよ。たださ、すっごく味わって食べてたみたいだからさ」

「はい。こんな機会、滅多にないですから」

「……えっ?」

彼方君のその言葉に、あたしはちょっと面食らった。「機会が滅多に無い」って……別に、普通に食べに来ればいいと思うんだけど……ひょっとして、そういうわけにはいかない事情があるのだろうか。

「えと……これ、七百円でしたよね? 僕、お金出します」

「あ……いいのよ。ここは年上におごらせときなさいって」

「え?! で、でも……」

「いーのいーの。さ、行きましょ」

「あっ……ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げる彼方君が、何故だか儚く見えた。

 

お昼になってからも、あたしと彼方君は「恭子ちゃん探し」と銘打って、街の中をえっちらおっちらと歩いていた。彼方君は捕まえたオタチを肩に乗っけて、プレゼントを胸に抱いている。

「僕、すっごく不思議な気分です」

「何が?」

「恭子さんとは昨日会ったばかりなのに、なんだか、全然そんな気がしないんです」

「彼方君も?」

「……えっ?」

「実はさ、あたしもそうなんだよね。彼方君とさ、初めて出会った気がしないのよ。これが」

あたしと彼方君の目が合う。彼方君の顔が、ほんのり赤みを増した気がした。

「えと……どうしてでしょうね? 僕、どっちかと言うと、人見知りする方なんです。でも、恭子さんとは、こんなに普通に話せるんです」

「んー。あたしはどっちかっていうと人見知りしない方だけど、それでもこんなにスムーズに話に入れたのはちょい不思議ね」

彼方君は手を胸に当てながら、ゆっくりと言葉を続ける。

「僕、きっと恭子ちゃんに会える気がします。恭子さんに会えたなら、恭子ちゃんにも会える気がするんです」

「……………………」

「そんな気が、するんです」

目を静かに閉じて、彼方君は言った。

(どうして……)

あたしは彼方君の姿を見ながら、

(どうして彼方君、こんなにも儚げに見えるんだろ……なんか……)

彼方君の仕草を見つめながら、

(……なんか、今にも消えちゃいそうな……)

そんなことを考えていた。

 

その日は結局ほとんど一日中彼方君と一緒に街中を歩いたけど、結局「恭子ちゃん」を見つけることは出来なかった。

「案外見つからないもんねー……ま、彼方君がこれだけ探してるんだから、簡単に見つかると思うほうがヘンなんだけどさ」

「えと……ごめんなさい。ずっと……ずっと僕と一緒に探してもらって……」

「いーのいーの。あたしが好きでやってるんだから。あたし、自分が好きなこと以外はあんまりしないタイプだからさ」

「ありがとうございます」

彼方君はあたしと一緒にいて、楽しそうな表情を浮かべている。あたしも彼方君と一緒にいて退屈することはないし、何よりいろいろと見ていて面白い。

「あっ」

歩いていた彼方君が、不意にその歩みを止めた。その目線は、右手にあった掲示板……いや、もっとキッチリ言うと、掲示板に貼り付けられてるポスターに注がれていた。

「どったの?」

「……『時祭り』、もうあさってなんですね」

「あー。あのでっかいお祭り」

「……………………」

彼方君はポスターを見つめたまま動かない。ポスターには、たくさんの人とたくさんの屋台、盛大に打ち上げられる花火に、それから……

「……セレビィ……」

「……え?」

「このお祭りは、時渡りの神様のセレビィのためのお祭りなんですよね」

……エメラルド色を基調にした、どことなく植物をイメージさせる、人形(ひとかた)の姿。名前を、「セレビィ」という。

「そう言えば、そんな話もあったわね」

「はい。僕、セレビィのことなら、なんでも知ってますから」

「なんでも? それじゃさ、あたしに何か話して聞かせてよ」

彼方君が自分から話すことは今まであんまり無かった気がしたから、ここらで彼方君の話とやらも聞いてみたくなった。セレビィが云々とかを聞いたら、ひょっとするとレポートのネタに使えるかもしれないし。

「えと……それじゃ、『時渡り』について、ちょっと僕の話を聞いてください」

「あいよ」

彼方君は一つ深呼吸をしてから、話を始めた。

 

「この日輪多には、昔から『時渡りの神様』という守り神様がいました」

「『時祭り』は、その神様に感謝を捧げるお祭りです」

「このお祭りで、時渡りの神様に守ってもらった一年を感謝するのと、これからの一年もよろしくお願いしますね、っていう、二つの意味があるそうです」

彼方君は話を続ける。

「『時渡り』というのは、今自分がいる時代よりももっと前の時代に行ったり、逆にもっと後の時代に行ったりすることです」

「セレビィは時を超えて、ずっとこの日輪多を守り続けています」

「未来からも過去からも、ここは見守られているんです」

彼方君は目を閉じた。

「こんな伝承があります。遠い昔から、ずっと受け継がれてきた伝承です」

「時祭りが近づくと、セレビィが祠からお出になられて、日輪多の村にふらりと遊びに来るそうです」

「セレビィは神様ですから、普段は誰の目にも見えません」

……………………

「でも、日輪多には一人だけ、セレビィの姿を見ることができる人が現れます」

「セレビィの姿を見ることができた人は、セレビィと一緒に、時渡りをすることができます」

「過去にも未来にも、好きな時代へ連れて行ってくれるんです」

……………………

「でも、時祭りが終われば、セレビィはまた、祠に帰らないといけません」

「セレビィが見えた人も、元の時代へ帰らないといけなくなります」

「そうして、すべては元通りになるんです」

……………………

「一度セレビィが見えた人には、もう二度とセレビィは見えません」

「何度も同じ人に姿が見えてしまうと、他の人にとって不公平だからです」

「セレビィは、いろんな人に『時渡り』をしてもらいたいと思っているからです」

彼方君はそこまで語ると、大きく息を吐き出した。珍しくたくさんしゃべって、少し疲れたのかな。

「えと……こんなところです。面白かったですか?」

「んー。もうちょい波乱が欲しかったかも」

「波乱……ですか?」

「そーそー。巨大化した彼方君が地球征服の野望に燃えて灼熱のファイヤーダンスを踊るとか」

「それ、時渡りとか関係ないじゃないですかっ。もうっ、恭子さん、真面目に聞いてたんですか?!」

「んー。四十五パーセントぐらいは」

「百パーセント聞いててくださいっ」

ちょっと怒ったような表情で、彼方君がぷいっと横に顔を向けた。うーん。やっぱり女の子っぽいなぁ。

「冗談冗談。結構面白かったわよ。あたしさ、あんまりそんなこと知らないから」

「あっ……えと、それならいいです」

「あはは。かわいいんだから」

「あ、頭をそんなに撫でないでください……」

怒ったような表情から一転、顔を赤らめて恥ずかしがる彼方君。友達に見せたら、きっと一日中人形みたいにして遊んじゃうだろうな。うん。

「もう日も暮れてきたし、そろそろ帰らなきゃね」

「はい。今日は一日、ありがとうございました」

微笑みを浮かべて、彼方君はぺこりと頭を下げた。

「あの……」

「ん?」

「明日も……また、一緒にいてくれますか?」

「……場所は今日と同じでいい?」

「あっ……はい!」

「おっけー。じゃ、今日と同じ時間に行くから、同じ場所で待ってて。あの広場でさ」

「はいっ!」

そう言って、彼方君は自分の家のあるほうへ駆けていった。あたしも帰らなきゃ。

「さて……と」

あたしは彼方君の姿が遠くに消えたことを確認すると、ゆっくりと歩き出した。

 

帰り道、あたしはふと、横手に気になるものを見つけた。

(……お墓?)

それは墓地。それも、ごく最近できたような感じのする、割と新しい墓地だ。実際、あたしの記憶の中に、こんな墓地はない。多分、あたしが引っ越した後にできたんだろう。

(そー言えばここ、昔薬局があったんだけど潰れちゃって、ずーっとシャッター閉まったままだったっけ……)

そんなことを考えながら、そそくさとその場を離れようとするあたし。

だってさー、夕方の墓地とかって全然人いないからさー、なんだか無性に怖いんだよねー。そりゃあさー、夜の墓地よりはマシだけどさー。みんなだってさー、怖いものとか一個ぐらいはあるっしょ? あたしさー、こう見えても実はお化けとか結構怖いんだよねー。だってさー、人間が説明できることなんてさー、説明できないことの半分も絶対ないと思うんだよねー……

(……って、あたしは誰と話してんだか……)

とりあえずそんな感じで(どんな感じかとかは各自考えるように)、墓地の横を通り過ぎようと思った……

……その時だった。

(……あれ? なんであんなところに……)

横を通り過ぎようとした墓地の外れ、暗い雰囲気をかもし出すその場所に、あまり似つかわしくない光景が広がっていた。

……それは。

(なんであんなところに……オオタチなんかが……)

墓地の前で佇む、一匹のオオタチの姿だった。

「……………………」

オオタチはまるでお墓参りでもするように、一つの墓石の前に立っていた。眉一つ動かさず、身じろぎ一つせず、ただ、墓石の前に立っている。夕焼けをバックにしたその光景は、あたしが見た中でもかなり印象的な光景だった。

あたしがそんなことを考えていると、

「あ、行っちゃった……」

オオタチはさっとどこかへ隠れてしまった。多分、お墓参りが終わったんだろう。

「ヘンなの……」

あたしはオオタチのお墓参りの光景を思い浮かべながら、帰り道を急いだ。

 

「女将さん、一つ聞きたいことあるんだけどさ、いいかな?」

「はいはい。どうなさいました?」

夕食の席で、あたしは女将さんを呼び止めた。女将さんは座って、あたしの話を聞く体勢に入っている。

「えっと……ここからちょっと行ったところにさ、墓地、あるじゃない。ほら、あの……」

「あそこですか? ええ。つい最近……と言っても、六、七年前にできたものですが」

「そーそー。それでさ、今日あそこ通ったんだけど、ちょっと変わったもの見ちゃったのよ。それが……」

「もしかして、墓参りをするオオタチのことですか?」

すげー。この女将さん。あたしの言いたいことがバッチリ分かってる。ひょっとしてそれぐらい、有名なことなのかも。あのオオタチの墓参り。

「そーそー! それよそれ! あれ、いつからあんな風になったの? あと、何であんなことしてるの? 見てたらなんだかすっごく気になっちゃってさー」

「そうですね……確か、墓地が出来てすぐぐらいから、あそこに姿を見せるようになったと思いますよ。誰のお墓かは分かりませんが、元々そのお墓に入っている人が可愛がっていたオオタチだということは聞いていますね」

「ほー……なんかちょっといい話ね。レポートに使えるかも」

女将さんはくすくすと笑いながら、

「そうですね。忠犬ならぬ、忠ポケモン、といったところですかね」

そんな感想を口にした。

「なるほどねー……元の飼い主さんはよほど可愛がってたみたいね。六、七年も経ってるのにお墓参りをするなんて」

あたしもメリッサにお墓参りをしてもらえるぐらい、可愛がってあげなきゃ……あ、訂正訂正。あたしが先にお墓に入っちゃダメじゃん。メリッサの面倒見てくれる人、いなくなっちゃうし。

「ところでお客さん、明後日の『時祭り』には行かれますか?」

「もっちろん。ここに来たの、七十パーセントはそれ目的だし」

本当はレポート書かなきゃいけないんだけどね。

「それでしたら、浴衣をお貸ししますが、いかがです?」

「えっ?! それマジ?!」

「はい。色柄などを決めていただければ、すぐにでもご用意いたしますよ」

「んー……」

どうしよっかなー……着ていったほうがお祭りっぽいしかわいいんだけど、ちょっと動きづらくなるし……あーでもちょっと着てみたい……いや、でも……

「うー……ちょっと考えてもいいっすか? ひょっとすると当日になっちゃうかも知れないっすけど」

「いいですよ。当日でも、すぐに出せますから。他にお客様がいらっしゃらないんで、どれでもいつでもよりどりみどりです」

「あはは……あたしとしてはありがたいけどさ……」

こういうのの経営も大変だなー。うん。やっぱあたし、誰かに使われる仕事が向いてるわ。多分。

「あ、このきゅうりの和え物、昨日と違う味ー」

「胡麻だれを使ってみました。いかがですか?」

「あたしも今度作ってみよっと」

 

そんなこんなで、お祭りの日まであと一日に迫った日輪多市。

「今日もあっつーい……一日ぐらい氷点下の日があればバランス取れるのに」

「恭子さん、それだと僕たち、風邪引いちゃいます」

「いいじゃない。学校休めるし」

「そういう問題じゃないですっ」

「あはは。怒らない怒らない」

今日も彼方君の傍について、あたしじゃない「恭子ちゃん」を探す。今日ぐらいに見つかってくれれば、お祭りに誘ってあげたりできるんだけどなー。そう上手くは行かないかな。

「彼方君、明日のお祭り、行くよね?」

「えと……はい。前から、すっごく楽しみにしてました」

「そーよね。だって、そこで恭子ちゃんに出会ったわけだし」

「はい。恭子ちゃんには、お祭りの時に出会えました。だからきっとまた、お祭りの時に出会えると思います」

「そーだといいんだけどさ」

彼方君はオタチを肩に乗せ、プレゼントの箱を胸に抱いたまま、ゆっくりと歩いている。

「きゅーきゅー♪」

「あはは♪ オタチったら、そんなことしたら肩から落ちちゃうよ〜」

オタチは昨日にも増して彼方君に懐いて、片時も離れようとしない。すごいなぁ。たったの一日でここまで懐かせるなんて、ちょっとやそっとじゃできたことじゃない。彼方君のこと、よほど気に入ったんだろうね。

「あっ! 恭子さん、恭子さん、聞いてください」

「ん? どーしたの?」

「僕、恭子ちゃんのことで、一つ思い出したことがあるんです」

「おっ! そりゃいいわ。何々? 言ってみてよ」

彼方君はあたしの目を見つめて、言った。

「恭子ちゃんは、左利きなんです」

「……え?」

「僕、思い出したんです。地べたに座り込んでた僕を、左手で起こしてもらったんです。誰かを助け起こす時は普通利き手を使いますから、恭子ちゃんはきっと左利きなんだと思うんです」

「……………………」

……左利き……ですって?

「……………………」

あたしは……

(……………………)

……「右腕」に巻かれた、自分の腕時計を見た。時間が知りたかったわけじゃない。ただ……

(……左手で……起こした……?)

あたしの利き腕も「左」であるということ、もう一度確認しただけだった。

 

左利きの女の子、恭子ちゃん。

左利きのあたし、名前は恭子。

 

「……恭子さん? どうしたんですか?」

「……あっ……いや、何でもないわ。良かったじゃない。左利きだってこと、思い出せてさ」

「はい。これで、かなり絞り込めましたね!」

「いや、絞り込むも何も、候補がいないわよ」

彼方君はあくまでうれしそうに、あたしに言った。

「ちこ?」

「きゅー」

「ちこちこ!」

「きゅーきゅー」

メリッサとオタチが、葉っぱとしっぽを絡めるようにしてじゃれあっていた。

 

あたしたちは今日も、恭子ちゃんを探して街の中を歩く。まだこの街の中にいるのかどうかも、そもそも彼方君が出会った子が本当に恭子ちゃんなのかも分からないまま、ただあたしと彼方君は「恭子ちゃん」の姿を探す。

(それにしても……)

七年前とまったく変わっていない街並みを眺めながら、あたしはふと物思いに駆られる。

(……もうちょっとまともな出て行き方をしたかったわね……なんだか、目に見えるもの全部を斜に構えちゃう)

七年ぶりに見た街並みは、確かにまったく変わっていなかったが、あたしはそこに「懐かしさ」を今ひとつ見出せずにいた。

あたしは間違いなくこの場所に生まれ、少なくとも十年近くはここに住んでいたはずだ。実際、幼い頃の記憶は、ここで過ごしていたころのものばかりだ。一緒に過ごした友達もいる。近所の人の顔も思い出せる。七年ぶりに帰ってきたのだから、少しくらい懐かしさがあってもいいと思う。

なのに、それがない。どうしても、懐かしさを感じることができない。

(……そりゃあ、あたしにとっちゃアレはショックだったけどさ……)

懐かしさを感じられない理由に、思い当たるものはある。けれど、それを思い出す気にはなれない。

(もし……あたしがこの歳までここにいて、その上でああいうことを言われたら、もうちょっと落ち着いてモノを考えられたかもね)

あたしには直接関係の無いことだったけど、あたしはそれから逃れることは出来なかった。ただ、周りの流れに任せて、自分の成り行きをそれにゆだねていた。あたしがどーこーできるような問題じゃなかった。

(……『星崎』……そんな頃もあったわね)

あの時に、あたしの世界が、一気に変わった。

(……ま、今が嫌って訳じゃないから、深く考える必要は無いかな)

そうやってちょっと強引に考えを打ち切って、あたしは彼方君に視線を向けた。

「あはは♪ 二人とも、僕のことがそんなに気に入ったの?」

「きゅーきゅー」

「ちこちこ♪」

「……って、二匹同時に抱いてるし?!」

メリッサとオタチを同時に抱きしめて、幸せいっぱいいっぱいだった。羨ましいことこの上ない。

「あはははは……ポケモンを二匹も一緒に抱けるなんて……僕は……僕は何て幸せ者なんだろう……うふふふふ……えへへへへ……」

「おーい。かーなたくーん。戻っておいでー」

「あはははは……あの海はどこまでも青いなぁ……遠くまで青いなぁ……うふふふふ……えへへへへ……」

「シーキューシーキュー。彼方大尉、至急応答せよ。繰り返す。彼方大尉、至急応答せよ」

「あはははは……世界中にはどんな思いもかなう日が来るんだなぁ……ずっと旅をしていく僕らに小さな奇跡が舞い降りるんだなぁ……うふふふふ……えへへへへ……」

「それ以上やるとこの小説が発禁になるからやめてはくれませぬか、彼方殿」

大丈夫かなぁ。引用の範囲に留まってるのかなぁ。コレ。ギリギリおっけーだよね? そうだよね? 誰かおっけーって言って欲しい。そうじゃないと発行禁止になりそうな小説を、あたしは少なくとも二つか三つぐらい知っている。

「……はっ! ご、ごめんなさい……僕、ひょっとしてまた……」

「一分」

「あうぅ……だんだん伸びていってます……僕、トリッパーなんでしょうか……」

「また新しい言葉を」

うん。彼方君の職業、トリッパーでいいと思うわ。日常的にトリップしてるし。

「はぁ……このくせ、治さなきゃダメですよね……」

「まー、あんまり人前でトリップしすぎるのはまずいわね。一人のときならいくらでもいいけどさ」

「……はい」

しゅんと頭を垂れる彼方君。なんていうか、行動の一つ一つが、かわいい。

「逆だったらぴったりかも知れないのにねぇ」

「えっ?」

「いや、こっちの話」

きょとんとして首を傾げる彼方君を横において、あたしは先に歩いていった。

 

「しっかし、ホントにこの街の中にいるのかしらねぇ……」

「えと……僕も、それがちょっと不安です……」

お昼を過ぎても、恭子ちゃんは一向に見つからなかった。というか、あたしも彼方君も半分ぐらい「ひょっとしたらもういないんじゃないか」っていうちょっと絶望入った考えにシフトしつつあった。だって、最低でも一年以上前に出会ったきりだし。

あたしと彼方君はそれでも、街の中を歩き続けた。

(……ま、あたしは彼方君と一緒にいられるだけでも、十分楽しいんだけどさ)

正直、あたしは恭子ちゃんが見つかろうと見つかるまいと、彼方君と一緒にいるだけで楽しかったから、あんまり気にはしてなかった。彼方君に取っちゃ大切な問題だけど、あたしは恭子ちゃんの姿を見たこともないし、多分これから見ることもないだろうから、気にしてもしょうがないのだ。

(……それに)

彼方君と一緒にいて感じるのは、楽しい、という感情だけじゃない。彼方君と一緒にいると、何故か分かんないけど少し、優しい気持ちになれる。彼方君と一緒にいることが、本当に自然なことのように感じる。出会ったの、たったの二日前なのに。

それまでは、顔も知らない見ず知らずの他人だったはずなのに。

さて、そんな感じで歩いていると、

「あっ、恭子さん、見てください」

「ん? あっ、ヤドンの井戸。まだあったんだ、これ……」

あたしたちがたどり着いたのは、町外れにあるちょっと大きな井戸、通称「ヤドンの井戸」だ。その名前の通り、近くにはヤドンがたくさん住んでいる。のっそいのっそいと動きながら、ぽけーっと空や山を見つめている。見ているだけでこっちも和んでくる、和み系ポケモンだ。ちなみに、あたし的にトップオブ和み系はウパーだけど。

「恭子さん、知ってますか?」

「何を?」

「ヤドンの井戸にまつわる、ちょっとしたお話です」

「……あー、なんかあった気がするんだけど……ごめ、ちょっと思い出せない」

「えと……聞きたいですか?」

「振ってきたのは彼方君じゃない。話してちょうだいよ」

「えと……はい」

彼方君は胸に手を当てて、ゆっくり目を閉じた。

「昔、男の人と女の人がいました」

「その二人は互いに愛し合い、一生を共にしようと誓い合いました」

「けれど、その二人の家は、先祖代々いがみ合う犬猿の仲」

「二人が結ばれることは、あるはずもない夢物語だったのです」

「男と女は、自分たちの置かれた境遇に悲しみ、嘆き、世を嘆きました」

「この世で結ばれぬのならば、黄泉で結ばれようぞ。二人はそう決意しました」

「ある晩、二人は示し合わせて家を抜け出し、この井戸までやってきました」

「井戸にその身を投げて、この世のしがらみから解き放たれよう……二人が覚悟を決めた、その時でした」

「時渡りの神様が、二人の前に姿を現したのです」

「時渡りの神様は、二人をもっともっと未来の世界へ、時渡りさせました」

「二人は死ぬことも無く、そして誰にも邪魔されることなく、生涯連れ添って幸せに過ごしました」

彼方君のいつもの口調で、ちょっとした物語を詰まることなくすらすらと言い終えた。

(……ちょっとすごいかも)

今までヘンなとこしか見えなかった彼方君に、ちょっと光るものが見えた気がした。彼方君の語り口調は、穏やかで一定のリズムがあって、こういう話だとすぐに興味をなくしちゃうようなあたしも、きちんと最後まで聞くことができた。結構びっくりだ。

「彼方君、なんだかすごかったわよ。しゃべり方とか」

「えと……僕、将来、本とかを読み聞かせる人になりたいんです。だからよく、本を声に出して読む練習をするんです」

「ほーほー……需要があるかはともかく、なんか彼方君らしい夢ね」

「はい。僕、小さい頃から本をたくさん読んでもらって、それで、僕もそんな人になれたらいいな、って思うようになったんです」

「なるほどね……」

彼方君の将来。彼方君がそんなほんの読み聞かせをするような歳になったとき、あたしは何をしてるんだろう? 仕事をしてる? それとも家庭にいる? いや、そもそもその時代まで生きてる?

(……って、最後のは不吉だわ……)

……あんまり深く考えないことにした。

「それで、恭子さん」

「ん?」

「この井戸にはそんな話があって、よく恋人同士の男の子と女の子が、願掛けにやってくるって聞きました」

「……………………」

「えと……それでですね、この井戸の中に五円玉を一枚ずつ投げ込んで、時渡りの神様にお願いをすると、その二人は未来永劫までずっと一緒にいられる、っていうんです」

「……えーっと、ちょっと状況整理したいんだけど、まず一つ。何で……それをあたしに?」

「……………………」

黙る彼方君。流れる妙な空気。

「……えと、何となく、話してみただけです」

「……かーなたくーん?」

「は、はい?!」

「掛け持ちはよくないわよ掛け持ちは〜。恭子ちゃんという子がいながら、あたしにまで手をつけようなんて、なかなか結構どうして、度胸あるじゃない♪」

「え、え、え、えと……そ、そ、そういうわけじゃ……」

「ん〜?」

「……ご、ごめんなさい……僕、ただ……」

「ただ?」

「恭子さんとここに来れたことを、恭子さんに覚えておいて欲しくて……それで……」

「……………………」

困った。ひっじょーに困った。あたしが軽い気持ちでおちょくったところ、彼方君の素の意見が出てきてしまった。しかも、それがなんともいじらしいと来ている。あたし、すっげーバカみたい。

「あー……ごめん。あたしが悪かった。彼方君って、そーいうキャラじゃなかったもんね」

「あ、謝らないでください……僕も、ちょっと紛らわしかったと思います……」

そうだよね……彼方君、見た感じからしてもうすでにそういうキャラじゃないし、あたしもちょっとやりすぎちゃったかな。

「……で、どうする? このままだとあたし、ここで気まずーいことがあったなぁ、ってことしか記憶に残らないわよ?」

「えっ……?」

「さっ、もっと前に出なきゃ、五円玉は届かないわよ?」

「あっ……はいっ!」

あたしは走ってきた彼方君に、五円玉を放り投げた。彼方君は少し慌てて落としそうになりながら、あたしの投げた五円玉を受け取った。

「ここに放り込むだけでいいのね?」

「はい。投げた後、柏を二回ついて、お願い事をするだけです」

「おっけー。それじゃあたし、行くわね」

深い深ーい井戸の底目掛けて、あたしはちょっと黒ずんだ古い五円玉を投げ込んだ。五円玉はまるで吸い込まれるようにして、井戸の中へと落ちていった。

「それじゃあ、僕も行きますね」

今度は彼方君が前に出て、五円玉を投げ込む。投げ込む角度がちょっと浅かったせいか、五円玉は一度壁に跳ね返って、鋭い音を響かせた。その音もろとも、井戸は五円玉を吸い込んだ。

「……………………」

「……………………」

彼方君が手を合わせたのを見てから、あたしも手を合わせる。目を閉じて静かに祈りを捧げる彼方君の姿は、やっぱりどこか女の子っぽくて、ちょっと不思議な感じがして、それから……

……今にも崩れそうなほど、儚げに見えた。

(……なんでかしらね……)

彼方君はしっかりそこにいる。手で触れることもできるし、地に足もしっかり着いている。なのにどうしてこんなにも、儚げに見えるんだろう。

「……はい。恭子さん、ちゃんとお願いしましたか?」

「えっ? あ、うん。それなりに、ね」

「それなら、よかったです。僕も一つ、お願いをしましたから」

「どんなこと?」

「えと……あ、ダメです。お願いしたことを口に出して言っちゃうと、もう叶わなくなっちゃいますから」

「彼方君って、そーいう細かいこと気にするタイプだよね」

「大事なことですよ〜。僕、神様とかはいると思ってますから」

「んー。あたしもそれは思うけどさ」

井戸の願掛けを終えた彼方君は、少しうれしそうに、あたしの近くまで歩いてきた。

「恭子さん、そろそろ行きましょう。もうちょっとで、日が暮れちゃいます」

「そうね。恭子ちゃん、探さなきゃね」

あたしも井戸に背を向けて、もと来た道を戻り始めた。

 

「それでですね、その伝承が今でも形を変えて残ってるんです」

「結構、詳しいのね。ね、続き、聞かせてくれる?」

道すがら、彼方君はここ日輪多市に伝わる伝承の数々を、ほんとにたくさん教えてくれた。いくつか知ってるのもあったけど、ほとんどは知らないことばっかりで、こーいうのには本来あんまり興味ないはずのあたしが、いつの間にか彼方君の話にどんどん引き込まれていった。

「あ、はいっ。それで、その時この地に舞い落ちた羽根が、時渡りの神様を生み出した、っていうんです」

「それで、祠に金の羽根と銀の羽根をお供えする儀式があるってわけ……銀の羽根は分かるけど、どうして金の羽根もなのかしら……」

「はい。昔は銀の羽根だけをお供えしてたんですけど、時代が経つにつれて少しずつ伝承の形が変わってきて、金の羽根も一緒にお供えするようになったんです」

彼方君の話を簡単にまとめると、時渡りの神様は今から大体千年ぐらい前に姿を現したことになってて、その理由って言うのが、ここ日輪多市に舞い降りた何枚かの「羽根」にあるってことになってる。「羽根」には「障害を乗り越える」「束縛から解き放たれる」「自由を手にする」という暗示が込められていて、それが巡り巡って「時渡りの神様」になった……大体、こんなところだ。

「伝承って、案外簡単に変わっちゃうものなのねぇ……今度、図書館で探してみようかな。その……翼を持ったなんとかとかそういう話。今の形に変わるまでの流れとかも知りたいし」

「えと……僕も同じです。すっごく気になります。それに、僕前に絵本で……」

「絵本で……って、彼方君、どうしたの?」

「……………………」

彼方君は突然歩くのをやめて、自分の眼前を見つめたまま動かなくなった。あたしは何がなんだか分からず、彼方君の視線の先を追った。

すると、そこには……

(……女の人? しかも、結構若い……)

結構若い(つっても多分よくて二十台後半だろう)女の人が、小さな花束を持って歩いていた。見た感じ、彼方君との関係は無さそうに見える。

……けれど、それはあたしが思ってただけみたいで。

「えと……恭子さん、ごめんなさい。ちょっと、こっちから行ってもいいですか?」

「えっ? う、うん……あたしは別に構わないけど」

「……………………」

彼方君はまるでその女の人から逃げようとするみたいに、横道へと入り込んだ。女の人は、あたしたちの姿には気付いてもいないみたいだった。彼方君の後を追って、あたしも横道に入る。

(……………………)

横道に入ってしばらくしてから、あたしは彼方君に声をかけた。

「……彼方君、どうしたの……?」

「えと……ごめんなさい。今は、言えないんです」

「……言えない?」

「ちょっと……事情があるんです」

「……………………」

彼方君はそれっきり、黙ったまま何も言わなくなってしまった。

 

「えと……僕、ここで帰ります」

いつもの広場まで戻ってきて、彼方君は言った。

「分かった。明日もここに来るの?」

「はい。今日と同じ時間に、ここにいます」

「分かったわ。もう暗いから、気をつけて帰るのよ。ヘンタイゆうかいまに連れ去られないようにね。女の子みたいだしさ」

「うー……僕、こう見えても男の子ですっ。もう少ししたら、もっと男の子らしくなる予定ですっ」

「あはは。冗談冗談。それじゃ、気を付けてね」

「あ……はい。今日もありがとうございました」

彼方君はそう言って、とてとてと駆けていった。オタチはすっかり疲れたのか、彼方君の肩の上でぐっすり眠っている。走って揺れてるのに、よく落ちないなー。

「さて、あたしも帰りますか」

彼方君の真似してメリッサを肩に乗っけて、あたしも帰り道を歩き出した。メリッサも大分眠たいのか、暴れたりせずに肩に乗った。

(あ、そう言えば……)

あたしはここでふと、昨日の帰り道に少し変わったものを見つけたことを思い出した。オオタチの墓参りだ。

(今日もいるのかしらね……)

一旦気になりだすと、簡単には抑えられない。墓地は帰り道の途中にある。ちょうどいいから、帰りに少し寄っていこう。それで気が晴れるなら、楽なもんだし。

(行ってみますか)

あたしは横道に入って、墓地に足を向けた。

 

墓地にはすぐにたどり着いた。見ると、そこには。

(おー、いるいる)

オオタチもいた。一体誰のお墓にお参りしてるんだろ。あたしとは関係ない人だろうけど、そこまで忠義に厚い姿を見せられちゃ、あたしも気になる。夕暮れの墓地はちょっと不気味で、入るのが躊躇われたけど、

(あれだ。ここで引き下がったら、今日一日もやもやしたまま過ごさなきゃいけないし)

という思いがあたしの背中をぐいぐい押した。もやもやしたまま過ごすのは、あたしが一番苦手とすることなのだ。すぱっと、しゃきっと、ばっさりと。あたしはそういうのが好き。

「……………………」

あたしが近づく頃には、オオタチはお参りが終わったのか、ぴょんと一跳ねしてどこかへと立ち去っていった。多分、ねぐらに帰ったんだろう。この辺りに住んでるんだとしたら、お参りするのはそう苦にならないはずだし。

(さて、オオタチをここまで忠義厚くさせたって人の名前は……)

あたしは近づいて、墓石を眺めてみようとした。が、暗くてどーにも読めない。角度を変えたり目を一回閉じて暗さに慣れさせてからやってみたりしたけど、場所が悪すぎて全面的に影になり、ちっとも読めやしない。どうしてくれよう……

……などと、墓石の前で途方に暮れていると、

「あら……? あなたも、お墓参りに?」

「あ……まあ、そんなとこです」

墓地に人がやってきた。見ると、手には小さな花束が……

(……小さな花束? あれ? そう言えばさっき……)

あたしが思考を巡らせる前に、その人はあたしの目の前までやってきた。そして、小さく頭を下げた。

「私以外の方がお墓参りにくるなんて、ずいぶん久しぶりのことですわ。どうもありがとうございます」

「あ……はい。久しぶりにここに帰ってきたから、ちょっとお墓参りにでも来ようと思って……」

「そうですか……ということは、仲良くしてくださっていた人、というのは、あなたの事だったのかも知れませんね」

「はぁ。多分、そんなところです」

「ありがとうございます。彼方もきっと、天国で喜んでいると思いますわ」

「……………………!!?」

その瞬間、何かが消し飛んだ。

 

彼方もきっと、天国で喜んでいると思いますわ。

かなたもきっと、てんごくでよろこんでいるとおもいますわ。

か、な、た、も、き、っ、と、て、ん、ご、く、で、よ、ろ、こ、ん、で、い、る、と、お、も、い、ま、す、わ。

か、な、た。

か、な、た。

か、な、た。

 

か    な    た。

 

 

……それから先のことは、よく覚えていない。

何かあったんだろうけど、覚えていない。

覚えていない。

おぼえていない。

 

オボエテイナイ。

 

 

「……………………」

気だるさと共に目覚めた。外はまだ暗い。日が昇っていないのだろう。

「……………………」

体中が重い。頭がボーっとして、まともにモノを考えられそうに無い。取り止めのないこと、突拍子もないこと、どうでもいいこと。そんな物事が、次々と頭の中を駆け抜けていく。

「……………………」

ようやく頭が落ち着きを取り戻してきた頃には、空が明らみ始めていた。少しずつ姿を見せ始める太陽を横目に、あたしは心の中に横たわるもやもやに、少しずつ手をつけ始めた。

「彼方……君……」

あたしは昨日、確かにこの耳で聞いた。記憶が曖昧になる前に、しっかり聞いた。

 

彼方君はもう、この世の人じゃないってことを。

 

曖昧な記憶を手繰り寄せると、少しずつ、あの時あたしが何を言われたか思い出してきた。

彼方君のお墓に訪れたのは、彼方君のお母さんだった。毎年お祭りの日が近くなってくると、小さな花束を携えてお墓参りに来ていると言っていた。

彼方君のお母さんは、毎年そうしてお参りにやってきているということ、父親は彼方君よりもさらに先に他界して、もういなくなっているということ、彼方君のお母さん以外には、お墓に訪れる人はほとんど……いや、まったくいないということ。だからあたしがいたとき、あんなに驚いた様子だったんだ。

(……………………)

あたしはさらに思い出してみる。

……彼方君は生まれてすぐ、まだ治療法の確立していない難病に冒されていることが分かった。方々手を尽くしてはみたけど、治す手立ては見つからなかった。

おかげで小さい頃から体がすごく弱くて、生まれてからほとんどずっと病院で過ごしていたらしい。もちろん、外になんか出られっこない。走ったりすれば、たちまち体が壊れちゃう。

だから、友達もほとんどいなかった。病室で友達を作っても、その友達が先に退院するか、あるいは、先に……

(……………………)

……彼方君はそんな退屈な日々を、本を読むことによって埋めていた。歴史の本が好きだったらしい。この日輪多に関する歴史の本をたくさん借りてきてもらって、一日中読んでいた。おかげで、字を覚えるのはすごく早かったらしいし、記憶力も良かった……これは、お母さんの弁だ。

(だからあんなにも、この日輪多の歴史について詳しく知ってたんだ……外に出られない退屈さを紛らわすために読んだ本で、あれだけの知識を身に付けたんだ……)

彼方君はいつか病気を治して、学校で友達と一緒に勉強したいと言っていた。

……でも、彼方君の病気は、彼方君の思いとはまったく逆の方向に、どんどん進行していった。

体は弱るばかりで、ついには好きだった本も読めなくなって、最後には……

 

「……………………」

あたしが彼方君のお母さんと名乗る人物から聞かされたのは、そんな話だった。彼方君のお母さんがお墓に花を供えて、両手を合わせて祈りを捧げている姿が、今だとはっきり思い出せる。

(……………………)

あたしは少し落ち着いて、台風が過ぎ去って滅茶苦茶の無茶苦茶になった頭の中を、手作業で少しずつ整理し始めた。

月島彼方、という人間は、六年か七年前にもうすでに死んだことになっている。実際、あそこにあったお墓は間違いなく彼方君のものだった。彼方君のお母さんも、間違いなく、「あの」彼方君のお母さんということは分かっている。彼方、なんて男の子の名前が、そんなにしょっちゅうしょっちゅうあるわけがない。

じゃあ、あたしがこの前からずっと会っていた「彼方君」は、一体誰?

(まさか……幽霊か何か……?)

……そんなわけない。あたしはこの手で何回も彼方君の頭を撫でたり、時には手をつないで一緒に歩いたり、メリッサだって、彼方君の腕の中に抱かれたり……ほら、頭の上に乗っかったりしてたじゃない。彼方君が幽霊なら、あたしやメリッサだって幽霊だ。そんなあたしが見えるんだから、駄菓子屋のおばあちゃんだって、ここの女将さんだって、お蕎麦屋さんの店員だって、彼方君のお母さんだって、みんなみんな幽霊のはずだ。そんなの、ありっこない。

(じゃあ、あの彼方君は……)

あそこにいた彼方君は、間違いなく「生きた」人間だった。他の人からも見えてたし、そのことはもう間違いない。

……でも、あたしは昨日、彼方君がもうこの世にはいないことを知らされた。六年か七年ぐらい前に死んだって、彼方君のお母さんから聞かされた。

(どっち……どっちが正しいの……?)

彼方君は生きている。でも、死んでいる。あたしは生きた彼方君に会った。でも、死んだ彼方君も見た。

訳が分からない。何がどうなっているのか、少しも分からない。

(ねえ彼方君……どっち? どっちなの……?)

おかしくなりそうだった。今彼方君に会えば、彼方君の姿があたしの前からたちまち消えてしまいそうな気がして、気がヘンになりそうだった。胸の中が無茶苦茶にかきまわされて、中のものを全部吐き出してしまいそうな気分だった。

(彼方……君……)

視界がぐるぐる回る。呼吸がまともにできなくなる。当たり前だった存在が当たり前じゃなくなるっていう感覚が、あたしの中で大暴れして、あたしを滅茶苦茶に壊そうとしてる。彼方君の姿が浮かんで消えて、ガラスみたいに砕けてまた元に戻って、彼方君、彼方君、彼方君、かなた……

………………

…………

……

 

「……………………」

気がつくと、また眠っていたみたいだった。眠っていたというよりも、ほとんど意識を失っていたのに近いけど。朝起きた時に感じた以上の気だるさで、体がしばらくまともに動かなかった。

「今……何時だろ……」

ふと、窓の外を眺めてみると。

(あっ……)

外はもう、すっかり夕闇に包まれていた。ってことは、ほとんど丸一日寝てたのか、あたしは。

(どーん)

……ちょっと大きな音と共に、部屋の中が少し明るくなった。それが、短い周期で何度も繰り返されてる。これは……

(……花火……)

ああ、そう言えば今日は、「時祭り」の日だっけ。なんか、今日一日をとんでもない過ごし方で浪費しちゃったから、そんなことも忘れちゃってた。

(……お祭り、か……)

ひょっとすれば、お祭りに出てわーわー言って遊べば、あたしの中に巣くってるこのもやもやも、ちょっとぐらいは晴れるかも知れない。もしかすると、彼方君のことも、綺麗に忘れることが出来るかも知れない。

これ以上彼方君のことを考えたら、あたし、本当におかしくなっちゃう。どうしてかは分かんない。でも、彼方君のことを考えると、胸が張り裂けそうになる。無茶苦茶になる。まともに、考えられなくなっちゃう。どうして? どうしてかちっとも分かんない。

こんなこと繰り返してるんだったら、綺麗さっぱり忘れちゃった方がいい。

(……行ってみようかな)

あたしはのそのそと立ち上がって、部屋を後にした。

 

「……………………」

外に出て五分ぐらいで、あたしの目論みは思いっきり外れたことを思い知らされた。

(……ダメだ。ちっとも気が晴れない……)

周りがみんな楽しそうにはしゃいでいるのに、あたしだけなんだか外国の見知らぬ街にいきなり放り込まれた子供みたいに、少しも周囲に馴染めない。あたしだけ普段着で、周りの人たちがみんな浴衣を着てるのも、やっぱり民族衣装を着るようなお祭りに一人普段着で放り込まれた外国人みたいに、居心地の悪さを感じる。

「……はぁ」

ため息だけが増えていく。楽しいことはちっとも増えない。

(……誰か、顔見知りの人にでも会えればねぇ……)

と、あたしが肩を落とし気味に歩いていると、

「……あっ」

あたしの目をちょっとだけ引くものが、あたしの右手にあった。

(……顔、覚えてくれてるかなぁ)

ちょっと不安になりながら、あたしは進路を右に変えた。

 

「こんちはー」

「おや、いらっしゃい。来てくれたんだねぇ」

「他に行くとこなかったんで、ちょっと寄ってみようかなーって思って」

「うれしいねぇ。さ、ゆっくり見とってくれよ」

あたしはお店の中に入って、何の気なしに駄菓子を眺め始めた。隣には、おばあちゃんが座っている。お祭りの日でも普通に営業してるお店は、この駄菓子屋ぐらいのものだろう。

(……品揃えは変わってないけど、やっぱりなんだ落ちつくわ……)

そんなことを考えて、店の中をうろうろしていると、

「そう言えば、ちょいと昔にも、お祭りのときにここに来てくれた子がいてねぇ」

「……えっ?」

あたしはおばあちゃんの言葉に、思わず振り向いた。

「女の子と男の子で、男の子が女の子に連れられてたんだよ。ずいぶんほっそりした、綺麗な子だったねぇ」

おばあちゃんはあたしの様子にも気付かずに、一人で昔話を続けているように見えた。

あたしはそれを聞きながら、体中に電気が走ったような感覚を覚えた。

「男の子はずっと黙ったままだったけど、女の子がね、ここのお菓子を買ってあげたら、うれしそうに食べたんだよ。おいしい、今まで食べたものの中で一番おいしいって」

男の子……女の子……ここのお菓子……うれしそうに食べた……おいしい……今まで食べたものの中で、一番おいしい……

……今まで食べたものの中で、一番おいしい……

「そうだね……ちょうど今、お前さんのいるところにある……」

「……!」

 

「その、紅茶飴だったかねぇ」

 

……気がつくとあたしは、紅茶飴を一つ、その手に取っていた。

「彼方……君……」

今なら確かに思い出せる。今なら確かに、記憶を掘り起こせる。

今なら、確信できる。

 

「恭子ちゃんは……あたしだ……」

 

あたしは紅茶飴を二つつかんで、おばあちゃんに小銭を渡した。

 

「どうして……どうして今まで気付かなかったんだろ……!」

あたし、絶対バカだ。絶対絶対、絶対にバカだ。彼方君が傍にいたのに、どうして気付かなかったんだ。バカ! あたしのバカ!

とにかく走らなきゃ。走って走って、彼方君に言わなきゃ! あたしが、彼方君の探してた「恭子ちゃん」だって!

(……でも、あたしが言っても、彼方君は『違う』って言うかも知れない……)

彼方君にあたしを「恭子ちゃん」だって気付かせてあげるためには、あたしがあの時の「恭子ちゃん」じゃなきゃいけない。でも、どうやって? どうすれば、彼方君はあたしのこと信じてくれる?

(……そうだ!)

そうだ。あたしがあの時の「恭子ちゃん」になればいいんだ! あたしがあの時の「恭子ちゃん」になれば、彼方君はきっと信じてくれる。今からでも遅くなんかない。彼方君の願い、叶えてあげなきゃ。

だって……彼方君は……

「……今は走るっ!」

考えても仕方ない! 今は走って走って、できるだけ速く、早く彼方君に会わなきゃ行けない。彼方君に会いたい。彼方君に会って、それから、それから……っ!

あたしは走って走って、最初の目的地までたどり着いた。

「女将さんっ! あの言葉、まだ有効だよねっ?!」

 

びっくりするぐらい早く事を済ませて、あたしはまた駆け出した。さっきと違って足元が不安だから、思ったようには走れないけども。でも、そんなことは関係ない。あたしの足が引き千切れようが、骨がひん曲がって折れようが、あたしは走らなきゃいけないんだ。

彼方君の、ために。

あたしはひたすらに走り続けた。どこに行けばいいかは、もう分かっている。

(……彼方君はきっと……きっとあそこに……!)

どこに行けばいいなんて、考えるまでもなかった。

人ごみ掻き分け手を伸ばし、前へ前へと突き進む。そう言えば、三日前に同じようなことがあって、それで……

(……それで、彼方君に……『また』出会ったんだよね……)

街を駆け抜け川沿い走り、店を横目に人を避け、木々を縫い縫いひた走る。その目に見えるは右の裏路地。迷うことなく飛び込むあたし。

そこには。

 

「あっ……」

「彼方君っ……!」

「恭子……さん……」

 

プレゼントを胸に抱いた、彼方君の姿があった。あたしは駆け寄って、その姿をしっかり確認する。彼方君は死んじゃいない。ちゃんとした、ここに生きてる人だ。死んでなんかいない。ちゃんと……ここにいるんだ。

「……来てくれないかと思ってました」

「ごめん……あたしさ、朝すっごく弱いんだ」

「もう、すっかり夜です」

「うん……今日はちょっと……寝すぎた」

彼方君はいつもの微笑みを浮かべたまま、あたしと話をしている。

「その代わりさ……お土産、買ってきたんだ。彼方君に」

「僕に……ですか?」

「うん。受け取ってくれる?」

あたしはポケットから紅茶飴を取り出して、彼方君に差し出した。

「……これは……」

「……………………」

「紅茶の……飴……」

「うん。あたしの、一番のお気に入り」

彼方君はそれを見てから、安心したような表情になって、あたしに言った。

「えと……僕、恭子さんに言わなきゃいけないことがあります」

あたしも、同じぐらい優しい表情で、彼方君に言った。

「奇遇だよね……あたしもさ、彼方君に言わなきゃいけないことがあるんだ」

「……………………」

「……………………」

彼方君とあたしが、お互いの瞳を見つめあう。鼓動が早まるのが、びっくりするぐらい伝わってくる。彼方君の頬が、赤みを増している。

「……あの時より、色が少し薄いです」

「……ごめんね。これさ、借り物なんだ。あの時着てたの、多分箪笥の中でくしゃくしゃになってると思う」

「でも、すごく綺麗です。夏のお祭りの時に、秋の紅葉が見られるなんて……僕、すっごく得した気分です」

「でしょ……? あたしのお母さんもね、これ作ったとき、同じこと言ってたわ……」

もう、こんな言葉だけでいい。あたしと彼方君が今更、襟を改めて何か言うことなんかない。

「でもさ……あの時のあたし、ホントはすっごく悲しかったんだ……」

「悲しいことが……あったんですか?」

「うん……だからさ、ホントはこの浴衣着るの、ちょっとだけだけど辛かったんだ」

「……………………」

「あたしがさ……『星崎』だった時最後のお祭りの時に着た、そんな浴衣だから……」

そうだ。

あたしがここを出てったのは……あたしの父さんと母さんが……

「恭子さん、だから名前が……」

「よく覚えてたわね……あたし、誰にもフルネームで名乗るからさ、名前変わっちゃったら、一発でバレちゃうんだ」

「……………………」

「離婚した、ってことがさ」

……離婚して、あたしは母さんに引き取られて、遠方に引っ越したからだ。

「……星崎さん。星崎、恭子さん」

「うん……あたしが彼方君に最初に出会ったときは、星崎恭子だった」

「……………………」

「あたし、今日一日限定で、星崎恭子に戻る。彼方君が探してたのは、『星崎恭子ちゃん』だもん」

彼方君の目が潤む。あたしの目にも、少しずつ潤みが増してくる。

(ああ、これは……)

あたしの脳裏に蘇ってくる光景。

紅葉の浴衣を着て、最後のお祭りだと言い聞かされて、お父さんとはこれっきりだと言われて、いつもよりずっと悲しい気持ちで訪れた……

……七年前の、時祭り。

 

 

「……………………」

あたしは憂鬱だった。楽しいはずのお祭りを前にして、どうしてあんなことを聞かされたんだろう。

「お母さん、お父さんと別れるから」

「遠くに引っ越すから、お祭りは今年で最後よ」

終わってから聞かされたほうが、ちょっとマシだったかも知れない。終わってから聞かされたなら、お祭りだけは目一杯楽しめたはずだから。もちろん、その後にショックと落胆が待ち受けていること自体は、何にも変わらないけど。

「……………………」

あたしは憂鬱だった。楽しいはずのお祭りなのに、どうしてこんなに憂鬱な気分でいなきゃいけないんだろう。せっかくお母さんが作ってくれたこの浴衣も、なんだか重い。夏に紅葉って、他の人とは全然違って、あたし、好きだったのに。

みんな、どうでもよくなっちゃった。

「……………………」

あたしは憂鬱だった。周りはみんな楽しそうなのに、あたしだけ楽しくない。だから、余計に惨めになる。お祭りが終われば、あたしはここを出て行かなきゃいけない。面倒なこともたくさんある。そう考えると、ますます憂鬱だった。

「……はぁ」

ため息ばかり吐いていたら、なんだか疲れちゃった。少し人のいなさそうなところで休もう。

(あの広場なら、あんまり人が来ないし、いいや)

そう言って、あたしは横道に入った。

 

「……………………」

「……………………」

あたしは広場に入ってまず、そこに自分以外の人が誰かいることに気付いた。

「……………………」

「……………………」

あと、入った瞬間から、バッチリ目があっちゃってて、お互いに相手のことに気付いてるみたいだった。見るとあたしの先にいたのは、あたしと同い年ぐらいの、ちょっと頼り無さそうな男の子だった。

「……………………」

「……………………」

……このままだと一生お互いに目を合わせてそうだったから、あたしはなんとなく「声をかけたほうがいいかな」と思い、適当に話しかけることにした。

「……えっと、何してんの?」

「えと……お祭りに来ました……」

「……でも、ここお店とか出てないよ?」

「えと……はい……」

「……………………」

「……………………」

男の子はそれっきり、また黙ってしまった。

「あのさ」

「あ、はい……」

「お祭りに来たんだったら、向こうに行って遊べばいいじゃない」

「えと……はい……」

「……それとも、向こうに行きたくない理由でもあるの?」

「……………………」

「……………………」

なかなか会話が成立しない。ちょっとイラつくあたし。

「そーやってこんなとこにいても、面白くないわよ?」

「いえ……僕、これで十分面白いんです」

「……はぁ?」

「こうやって、お祭りをやってる近くまで来て、みんなが楽しそうにお祭りをしているのを見てるだけで、僕、楽しいんです」

「……本当に?」

「はい。僕、お祭りとかに来たの、初めてですから」

目の前の男の子は、そんなことを事も無げに言う。この街に住んでてお祭りに来たことがないなんて、ちょっとどうかしてる、と思った。この子は一体、どんな子なんだろう、と思った。

「お祭り、来たことないの?」

「はい。今日も、ホントは来れないはずでした」

「……じゃあ、どうしてここにいるの?」

「えと……こっそり、抜け出してきたんです。誰にも言わずに」

「……どこから?」

「えと……それは、ちょっと秘密です」

「……………………」

男の子は胸の前で両手を組んで、あたしのことをじーっと見つめている。それを見ていると、不思議と、あたしの気分が落ち着いてきて、今までの憂鬱が少しずつ、少しずつ晴れていくような気がした。

「君ってさ、ちょっとヘンって言われない?」

「そ、そんなことないです。僕、普通の善良な一般市民だと思ってます」

「うん。やっぱりヘンだ」

「えと……やっぱり、ヘンなんでしょうか……」

「うん。しゃべり方とか、そーやって手をがっしり組んでるとことか」

「あっ……」

慌てて両手を崩す男の子。だけど、崩した両手をどこにもっていったらいいのか分からなくて、結局また組んじゃう。あたしにはそれが、とても可笑しかった。この子、かわいいな、って思った。

「やっぱり、ちょっとヘンだって」

「あうぅ……僕、ヘンな子ですか……」

「あははっ。君ってヘンだけど、面白いよね。名前、教えてくれる?」

「あ……はい。僕、『月島彼方』っていいます。よろしくお願いします」

「彼方君、だね。あたし……『星崎恭子』っていうんだ。恭子ちゃん、って呼んでもいいわよ?」

「えと……恭子……ちゃん」

「……って、割と素直に呼んでくれるのね……」

「え……えと、ちょっと、恥ずかしいです」

「じゃあさ、あたしもさ、彼方君、って呼んでもいい?」

「えと……はい」

男の子……彼方君は微笑みを浮かべて、あたしの近くまで歩いてきた。

「手、つなぐ?」

「いいんですか?」

「今日は特別。お祭りだし」

そう言って、あたしは彼方君の手を取った。

「わっ……」

「びっくりした?」

「えと……僕、こういうときにどんなことを言ったらいいのか、ちょっと分からないです……」

「あははっ。気にしない気にしない。ほらっ、行くよ」

「えっ? どこにですか?」

「あたしのお気に入りの場所。ほら、走る走る」

「わっ……待ってください」

あたしは彼方君を連れて、広場を抜け出した。

 

「ここ……どこですか?」

「駄菓子屋さん。あたし、いっつもここでお菓子とか買ってるの」

「すごい……お祭りのときでも、お店を出してるんですね」

「そうだよ。人はあんまり来ないけど、お祭りだからね。安くしとくよ」

あたしは彼方君と一緒に、時祭りのときにひっそりと屋台を出して、いつも通りの営業をしている駄菓子屋さんにやってきた。

「……………………」

彼方君は何かすごいものでも見たかのように、いろいろなものに目を奪われている。一言も発さない辺り、完全に見ることだけで頭が一杯みたいだ。本当に初めてここに来たんだろう。

あたしは最初から買うものを決めていたから、

「やっぱり、あたしはこれかな」

「おや、いつものかい。好きだねぇ」

「まぁね」

それをいくつか手にとって、おばあちゃんに小銭を渡した。

「……………………」

彼方君は呆けたように、お店の中をあっちこっち見て回っている。まるで、宝物でも見つけたみたいに、瞳をキラキラ輝かせながら。

あたしは彼方君の服の袖を引っ張って、

「彼方君、彼方君」

「……あっ! はい。どうしました?」

「これ、一個あげる」

「えっ?」

「ほら、取って取って」

「えと……はい」

彼方君はおずおず手を伸ばして、あたしの手から、袋に入った飴を一つ取った。

「これ……もらっていいんですか?」

「うん。三十円だし」

「……食べても、いいんですか?」

「いや、食べる以外の使い道、あたし思いつかないよ?」

「えと……それじゃ……」

彼方君は封を丁寧に丁寧に開けて、赤茶色の飴玉を取り出した。

「うわぁ……すごく、綺麗です」

「飴玉をそんなに大切そうに持つ子なんて、あたし、初めて見たわ」

それからしばらく彼方君は「宝石」を眺めた後、それをゆっくりと口に運んだ。

「……………………」

「……………………」

彼方君は目を閉じて、まるでかみ締めるように飴を味わった。あたしは彼方君があんまりゆっくり飴を食べるものだから、逆にどうしたらいいのか分からなくて、その様子をじっと見ることにした。

「……………………」

大体、五分ぐらい経った後。

「……おいしいです。すごく、おいしいです」

「でしょ? あたしのお気に入りなんだから」

「はい。僕が今まで食べたものの中で、一番おいしいです」

「そりゃちょっと大げさじゃない」

「大げさじゃありません。本当に……本当に、一番おいしいです」

「……………………」

彼方君は目を輝かせて、あたしのお気に入りの紅茶飴を「今まで食べたものの中で一番おいしい」って言ってくれた。

「ホントに……そんなに気に入ってくれたの?」

「はいっ。僕、こんなにおいしいもの食べたの、ホントに初めてなんです」

「……なんか、あたしうれしいよ。そんなに喜んでもらえるなんて、思ってなかったからさ」

「えと……僕、喜びすぎでしょうか……」

「ばかねー。喜びたかったら、好きなだけ喜んでいいんだから」

「あっ……はい」

彼方君は顔を赤くして、小さく頷いた。口の中では、紅茶飴をころころと転がしていた。

 

「うれしいです。おいしいです」

「うん。あたしもこの飴、大好き」

彼方君は二個目の飴を頬張りながら、あたしと一緒にお祭りの屋台の中を歩いた。

「こんなにおいしいものを教えてもらって、僕、すっごくうれしいです」

「でしょ? あたし、もっといろいろおいしいもの知ってるからさ、また教えてあげるよ」

「はい……僕、そんなことも知れたらいいな、って思います」

「大丈夫だって。あたしが教えてあげるもん」

彼方君とつないだ手が、すごくあったかい。さっき出会ったばっかりなのに、どんな友達と一緒にいるよりも、楽しくて、それから、心が落ち着く。憂鬱な気分なんか、すっかり吹き飛んじゃった。

「ありがとね、彼方君」

「えっ……? 僕……ですか?」

「うん。あたしさ、さっきまですっごくユーウツな気分だったんだよね」

「……………………」

「でもさ、彼方君と一緒にいて、話して、歩いて、飴食べたりしてたら、ユーウツじゃなくなったんだ」

この言葉を聞いた彼方君は、珍しく慌てた感じで、こう答えた。

「そんな……僕、恭子ちゃんにいろんなことしてもらうばっかりで、何も……」

「それでいいの。彼方君とあたしは、きっとそーいう関係なんだからさ」

「えと……それじゃあ僕、このままでいいんでしょうか……」

「いいの! さ、お祭りはこれからよ! どんどん行きましょ!」

「あっ……はい!」

彼方君とつないだ手を、あたしは優しく引っ張った。

 

あたしと彼方君は、手をつないで一緒に歩く。時折聞こえる、ひゅるるるる、という音を合図にして、上を見上げる。すると。

「うわぁ……これが……花火……」

「彼方君、花火も見たことなかったの?」

「はい。本で読んだことがあるだけです」

「ふぅん……」

「でも、本物のほうがずっと綺麗です。たくさん見てても、少しも飽きません。楽しいです」

「あたしも花火は好きよ。でもさ、あたしもっと綺麗な花火、知ってるんだ」

「えっ?」

「来てよ」

あたしは彼方君を連れて、横道に入った。

 

「じゃじゃーん」

「うわぁ……なんですか? これは……」

「これ? 線香花火。火をつけると、お線香みたいに光る花火。だから、線香花火」

あたしは懐に入れておいた線香花火を取り出して、携帯用のちっこいライターで火をつけた。お祭りが終わった後、一人でしようと思ってこっそり買っておいたものだ。

でもどうせだったら、彼方君と一緒にやりたい。そう思って、彼方君と出会った広場まで来た。彼方君も、きっと喜んでくれる。そう思って。

「見ててよ……ほら!」

「……………………!」

彼方君の目の前で、あたしは線香花火を実演して見せた。

「どう? 綺麗じゃない?」

「……綺麗です。なんだか僕、すごく不思議な気持ちです……」

「でしょ? 見てるとさ、なんだかちょっと不思議な気持ちになれるんだよ、これ」

「あっ……終わっちゃいました」

「うん。線香花火ってね、こんな風にすぐ終わっちゃうの。でもさ、なんだかそれもさ、でっかいだけの花火と違って、心に来るものがあると思わない?」

「……はい。なんだか、とても儚いです」

「……………………」

「綺麗で、不思議で、儚くて……とても、素敵な花火だと思います」

「気に入ってくれたみたいね。それじゃ」

「……えっ?」

あたしは懐から二ついっぺんに線香花火を取り出して、

「一緒にやろうよ。一人でやるよりも、もっと綺麗に見えるからさ」

「僕……やってもいいんですか?」

「いいに決まってるじゃない。一人で二つ持ってたら、疲れちゃうし、危ないもん。それに、つまんないし」

「それじゃあ僕……やってみます!」

「そーそー。その意気その意気。それじゃ、しっかり持っててよ」

「はい」

あたしは彼方君の線香花火に火をつけてから、あたしの花火にも火をつけた。

ぱちぱちと、聞き耳を立てなきゃ聞こえないぐらい小さな音を立てながら、線香花火が光り始めた。

「……………………」

「……………………」

あたしたちの後ろでは、どーんどーんと大きくて派手な花火が上がっている。他の人たちは、みんなその花火に釘付けだ。

でも、あたしたちは。

「……綺麗です。僕、他にこの花火のことを言い表せるような言葉が言えないの、ちょっと悔しいぐらいです」

「あたしだって。でも、彼方君が初めてだよ。線香花火をこんなに気に入ってくれたの」

「僕が……初めてなんですか?」

「うん。彼方君が、いっちばん最初。だから、彼方君は特別」

「……恭子ちゃんに言ってもらえると、僕、なんだかちょっと恥ずかしいです。でも、うれしいです」

「……………………」

二つ並んだ線香花火は、いつもよりもずっと長く、儚く火花を散らしていた。

 

「もう帰るの?」

「はい。あんまり遅くなると、閉まっちゃいますから」

もうお祭りも終わりに近づいた頃、彼方君は帰ると言い出した。確かにそろそろ帰らなきゃ、あたしも怒られちゃう。

……でも、

「……そう……あたし、ちょっと寂しいかも」

「……僕も、ちょっと寂しいです」

彼方君と別れるのは、ちょっと……どころか、すごく寂しかった。一緒にいてこんなに楽しい子、あたしにはいないのに。

「……あのね、彼方君。あたし、言わなきゃいけないことがあるんだ」

「はい。言ってください」

「……あたしさ、あさってになったら、ここから引っ越しちゃうんだ……」

「えっ……?」

「……ごめんね。こういうこと、最初に言わなきゃいけないことなのに……彼方君と一緒にいたら、楽しくて、言い出せなくて……」

「……………………」

あたしは泣きそうだった。ううん。もう、半分ぐらい泣いてた。せっかく、せっかく彼方君に出会えたのに、あたしはその彼方君と、あさってにはお別れしなきゃいけない。本当は、彼方君と一緒にいたかったのに。

涙が零れ落ちた。彼方君とお別れしなきゃいけないことが、すごく辛かった。彼方君だって、急にこんなこと言われたら、きっとびっくりするだろう。でも、言わなきゃいけなかった。辛くても、お別れはしたほうがいいと思ったから。

……でも、彼方君は。

「……また、来てくれますか?」

「……えっ?」

「また、ここに戻ってきてくれますか?」

「……………………」

「僕、ここでずっと待ってます。恭子ちゃんと一緒にまたいられる日まで、僕、ずっと待ってます」

「……彼方……君……」

……あたしにとって、どんなにうれしい言葉だっただろう。自分でも、分からないぐらいだ。彼方君があたしのことを待っててくれるなんて、どんなにうれしいことだろう。

「分かった。あたし、必ずここに戻ってくる」

でも、甘えちゃいけない。自分できっちり決めて、戻ってくるってことをはっきりさせなきゃ。彼方君だけ待たせるのは、あたしが許せない。

「七年」

「七年……」

「七年経ったら、あたし高校生になってるから、自分だけでここに戻ってこれるの」

「……………………」

「長いけど……まだまだずっと先だけど……気が遠くなるぐらい先だけど……必ず、必ず戻ってくるから」

「はい」

「それまで……待ってて」

「はい。僕、ずっと待ってます。必ずここにいて、恭子ちゃんともう一度会える日を、楽しみに待ってます」

「……あたし、絶対帰ってくるから……」

「……はい」

あたしと彼方君は、最後に握手をしてから……

………………

…………

……

 

 

ああ、そうだ。

あたしは、七年前に、彼方君に会って。

彼方君と、楽しい思い出を作って。

一緒に、時祭りに行って。

それから、最後に……

……もう一度ここに戻ってくるって、約束して……

「……………………」

ああ、どうして今まで思い出せなかったんだろう。

どうして、こんなに大切なこと、ずっと忘れてたんだろう。

「……………………」

……でも、あたし、帰ってきたんだ。

七年ぶりに。

彼方君との約束、ぎりぎりだけど、ちゃんと守れたんだ。

それだけは……それだけは、よかった。

本当に、よかった。

「……………………」

あたしは、もう一度彼方君の目を見た。

「……ごめん。彼方君、一個だけ聞かせて」

「はい」

「彼方君は、『いつ』の彼方君なの? あたしの目の前にいるのは、『どんな』彼方君なの?」

「……………………」

彼方君はしばらく口をつぐんだままだったけど、少しずつ、少しずつ口を開いて。

「僕と恭子ちゃんが出会って、一年ぐらい経った後の『僕』です」

「……………………」

「僕、見えたんです」

「……………………」

「僕が、『見える人』だったんです」

「……時渡りの神様……だよね」

「はい」

あたしはもう、何も驚くことなんてなかった。彼方君のことを思い出してから、彼方君が「どうして」此処にいるのか、どうやって「あの時の」彼方君が此処にいるのか、その理由は、およその察しがついていた。

「僕、お願いしたんです」

「……………………」

「僕を、恭子ちゃんが帰ってくる六年後に『時渡り』させてください」

「……………………」

「僕を、恭子ちゃんにもう一度会わせてください」

「……………………」

「僕が生きてるうちに、もう一度、恭子ちゃんに会わせてください」

「……………………っ!」

「……そう、お願いしました」

あたしは堪えきれなかった。目頭が熱くなるのを、抑えられなかった。胸の底から、熱くて熱くて、熱くて仕方ないものが、とめどなくこみ上げてきた。

「……どうして……」

「……………………」

「……彼方君、どうして……?」

「……………………」

「……どうして、あたしなんかのために……っ」

「……………………」

「……あたしなんかのために……一生に一度だけの……っ」

「……………………」

「……『時渡り』を……っ」

彼方君はあたしのことを優しく見つめたまま、ずっと黙っている。

「もっとさぁ……七年とか六年じゃなくてさ……百年後ぐらいにさ……びゅーっと飛んじゃってさ……っ」

「……………………」

「病気をさ……ちゃんと治してさ……それで……それでっ……!」

「……やっぱり、分かっちゃいましたか……」

「……………………」

「僕が……その、ちょっとだけ重い病気だってこと」

「分かるわよ……彼方君が病気でずっと外に出られなくなって、それで……それで、お祭りとかにも行ったことがないって……!」

「……すごいです。恭子ちゃん、名探偵になれます」

「ばか……大切な約束もろくすっぽ思い出せないあたしなんか、良くて迷探偵よ……」

「泣かないでください。僕、恭子ちゃんが泣いてる姿を見ているのは、すごく辛いです。だから、泣かないでください」

……ああ。

もし、あたしが彼方君の立場だったら、どうなっていただろう。

久しぶりに出会った約束の人が、自分のことをすっかり忘れてたとしたら、あたし、どうなっちゃっただろう。

あたしだったら、絶対許せないのに。

彼方君は、そんなダメなあたしに、優しく接してくれた。

あたしが思い出すまで、辛抱強く待ってくれた。

彼方君は、本当に優しい。

優しすぎて……涙が溢れてくる。

……あたし、彼方君に出会えて、本当に良かった……

「えと……恭子ちゃん。僕、言わなきゃいけないことがあります」

「……うん。言って」

「僕、今日でお別れしなきゃいけないんです」

「……お祭り、今日だもんね……」

「……はい。もうすぐ、僕は元の時代に『時渡り』しなきゃいけないんです」

「……どうしても?」

「えっ?」

「どうしても……帰らなきゃいけないの……?」

ああ。なのに。

あたしは、彼方君を困らせることばかり言っている。

彼方君は、帰らなきゃいけないのに。

あたしが、彼方君にここにいて欲しいからって。

無理を、言っている……

……あたし、最低だ……

……最低の……バカだ……

「……大丈夫です。いいお知らせも、あるんです」

「いい知らせ……?」

「はい」

彼方君はゆっくりと頷いて、さらに言葉を続けた。

「僕のかかっている病気には、今までちゃんとした治療法がありませんでした」

「……………………」

「でも、少し前、病気が治るかも知れない、ってことが分かったんです」

「……………………」

「僕は、その新しい治療法の、一番最初の被験者になることが決まったんです」

「……………………」

「だから、今度会うときは、僕も病気が治って、恭子ちゃんと同じぐらいまで背が高くなって、ちょっとぐらい、男の子っぽくなってるはずです」

「……………………っ!」

「きっと、みんな上手くいって、また恭子ちゃんと会えるはずです。僕、その時が今から楽しみなんです」

「………………〜〜っ!」

「元気になった僕を、早く恭子ちゃんに見せてあげたいです」

……ああ、神様。いるんなら、聞いとけ。

あんたはどうして、そんなに残酷なんだ。

あたしに……彼方君のお墓を見せておいて。

……「新しい治療法」が、結局彼方君を救うことはできなかったことを示しておいて。

どうして、彼方君にそんなことを言わせるんだ。

どうして……あたしにこんな思いをさせるんだ……

「僕、本当は怖かったんです。手術が上手く行くかどうか、誰にも分からないって言われたんです」

「だから、恭子ちゃんにもう一度会って、勇気を分けてもらいたかったんです。勇気だけでももらえれば、僕は十分でした」

「でも、恭子ちゃんは、そんな僕に、勇気だけじゃなくて、もっとたくさん、もっといろんなものをくれました」

「メリッサを抱かせてもらって、ポケモンの暖かさをもらいました」

「一緒に街を歩いてもらって、誰かと一緒にいることの楽しさをもらいました」

「オタチを捕まえて、ポケモンと仲良くなることの感動をもらいました」

「お蕎麦も、すごくおいしかったです。あんなにおいしいものを食べたのは、初めてでした」

「僕のお話を聞いてもらって、すごくうれしかったです」

彼方君は本当に、本当にうれしそうに言った。

「僕は、今すごく幸せです」

「本当に……?」

「はい。楽しいこと、うれしいこと、驚いたこと。とにかく、両手で抱えきれないぐらいです」

「……………………」

「おいしいものも食べられました。オタチと友達になることもできました。それに……」

「……………………」

「……恭子ちゃんと、もう一度会うことができました」

「……………………」

「大切な友達と、もう一度会えた……それだけで、僕は幸せです」

彼方君の表情に、翳りや後悔は、少しもなかった。その表情は、どこまでも晴々としていた。

「……あたしも、彼方君に出会えてすごくうれしかった」

「……………………」

「もう一度会えて、本当にうれしかった」

「僕もです。恭子ちゃん」

「……忘れてたこと、思い出せて、本当に良かった」

「……………………」

「忘れてた記憶、忘れてた思い、今思い出せて、本当に良かった」

「……………………」

「だからさ……あたし、あの時言いたかったけど言えなかったこと……本当は言いたかったけど、どうしても言えなかったこと……今だからさ、彼方君に、全部伝えるね」

あたしは、彼方君の顔と自分の顔が同じに高さになるぐらいまで、身を屈めた。

「あたし……気付いたんだ」

「恭子……ちゃん?」

「……あたしのさ、彼方君への本当の気持ち」

「……えっ?」

「せっかくだから、彼方君にも伝えたい。彼方君にも、分かってもらいたい。だから……」

あたしは、彼方君の肩に手を置いて、近くに抱き寄せた。

「!」

「……………………」

驚いた彼方君の表情が、少しずつ近づいてきて、そのまま

……………………

………………

…………

……

 

遠くで、花火の音が聞こえた。

楽しそうな人々の声が、それに混じって聞こえてくる。

子供の声。大人の声。

みんな、楽しそうな声だ。

……でも。

そんなの、あたしにはどうってことない。

彼方君と、一緒にいられる。

あたしは、それだけで幸せだった。

例え、ひと時の逢瀬に過ぎなくても。

例え彼方君が、十二時になれば魔法が解けて、みすぼらしい村娘に戻ってしまう、シンデレラだとしても。

……あたしが、シンデレラに一目ぼれをした、王子様だとしても。

……「今」、あたしは彼方君と共にいる。

会えないはずの人に、もう一度会うことができた。

ごめんね、神様。

あたし、あなたに感謝しなきゃいけないのに。

無理を言って、ごめんね。

あたし、もう無理は言わないから。

……だから。

だから、せめて……

……せめて、「今」だけは、幸せなままでいさせてほしい……

 

「……………………」

「……………………」

……あたしはゆっくりと、彼方君の顔から離れた。

「……びっくりした?」

「……えと……はい」

「感想は?」

「……………………」

彼方君は顔を真っ赤にしながら、俯き加減で言った。

「……紅茶の飴みたいに、甘かったです……」

その口調は、いつもよりもさらに、さらにおとなしかった。

「うん。少し前にね、一個食べたんだ。食べたらさ、彼方君のこと、もっとちゃんと思い出せそうな気がして」

「ぼ、僕……今、すごく恥ずかしいです……」

「……あたしだって」

「で、でも……なんだか、胸がドキドキして、すごくうれしいです」

「……うん。あたしも。多分さ、これが『恋をすること』だって思う」

「……『恋』……?」

「……あたしの気持ち、彼方君に伝えたかったから」

 

ああ、これでよかったんだ。

彼方君には、これだけは伝えたかった。

あたしの気持ち。彼方君への、あたしの気持ち。

せめて、ここにいる内に……

……「好き」っていう気持ちが、どんなものか……

……あたしは、伝えたかった……

 

「……僕、また大切なもの、恭子ちゃんからもらっちゃいました」

「……………………」

「……誰かを『好き』になるってことです。甘くて切なくて、それから……儚い。そんな気持ちです」

「……うん。大体合ってる。あたしの気持ち、今ちょうどそんな感じだし」

あたしは彼方君の方から手を離して、ゆっくりと立ち上がった。

「……彼方君。彼方君にも、あたしに言いたいことがあるんでしょ」

「はい」

「言ってよ。あたしばっかり言ってちゃ、彼方君が不公平だしさ」

あたしの言葉に、彼方君はこくりと頷き……

……そして。

「じゃあ……僕、言います」

「…………」

「……恭子ちゃん。僕は、お礼に来ました。あの時のお礼をするために、僕は来ました」

「……………………」

「僕に、お礼をさせてください」

彼方君はそう言って、

「僕からの、ほんのお礼の気持ちです。どうか、受け取ってください」

……小さなプレゼントの箱を、あたしに差し出した。

「……うん。ありがとう」

あたしはそれを、両手でしっかり受け取った。

「ホントに……ありがとう」

箱は今まで持った時よりも、もっとずっと重く感じた。

彼方君の思いが、一杯に詰まってる気がした。

「受け取ってもらえて、僕、すごくうれしいです」

「そうだよね……これをあたしに渡すために、此処まで来てくれたんだもんね……」

「はい」

あたしはプレゼントの箱を両手に収めて、胸に抱きこんだ。

彼方君が、そうしたみたいにして。

 

「……そろそろ、時間です」

「……うん」

「恭子ちゃん」

「彼方君」

「……………………」

「……………………」

……………………

「僕も、恭子ちゃんのことが好きです。『好きでした』じゃありません。これからも、ずっとずっと、好きです」

「あたしも、彼方君のことが好き。『好きだった』じゃない。これからも……あたしが死んでも、ずっと好き」

……………………

 

「さようなら、恭子ちゃん」

「さようなら、彼方君」

 

最後にその言葉を残して。

彼方君は。

「……………………」

あるべきところへ、帰った。

「……………………」

あたしは無言のまま、彼方君からもらった「お礼」の紐を、丁寧に丁寧に解いた。

その中には……

 

……赤茶色の「宝石」が、たくさん、たくさん詰まっていた。

 

「……彼方……くんっ……」

あたしはそれを抱きしめて、泣いた。

彼方君からの、最高のプレゼントだった。

世界中で一番、素敵なプレゼントだった。

 

「……うっ………うう………」

あたしは声を上げて泣いた。

最高に素敵なプレゼントと引き換えに。

それよりももっと、最高で素敵な人を。

目の前で、失ったから。

……………………

………………

…………

……

 

 

「……………………」

帰りの電車の中で、あたしは外の風景をぼーっと見つめていた。

(……夢……だったのかしらね……)

あれは、あたしが見た長い長い夢だったのだろうか。

(……いや。そんなわけないか。だって……)

そう思って、すぐにそれが違うことに気付く。

(……ここに、『これ』があるんだもの……)

あたしの手の中には、「宝石箱」がちゃんと収まっている。

(……………………)

 

彼方君は、確かにあたしのそばにいたんだ。

それはもう、間違いない。

例え、今はもうどこにいなくても。

あの瞬間に、彼方君はいたんだ。

だからもう、それでいい。

あたしはもう、それでいい。

 

あたしは、かばんの中に手付かずで残っていた十個ぐらいの「宝石」の中から、一番形の綺麗なものを一つ、取り出して。

宝石箱の中に、入れた。

 

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

Thanks for reading.

Written by 586