「・−− ・−・ −−− −・ −−・(wrong)」

586

「……『Line:3316 未定義のシンボルです』……これ、もう何回目でしょう……」

「まーたそのエラーか。ったく、可愛げがねーなぁ」

名取――エラーメッセージを読み上げた男――と、北川――エラーメッセージに「可愛げがない」と悪態を付いた男――が一つのディスプレイに目をやりながら、それぞれにぼやく。二人は今、ディスプレイに垂れ流された長いプログラム・コードを読みながら、潰しても潰しても際限なく出続けるバグと格闘し続けていた。

名取と北川は、共にとある情報処理技術を扱う企業に勤めているプログラマーだ。名取は二年目の新人、対する北川はこの道十五年のベテランである。彼らはこうしてコードと格闘する日々を続けながら、それでもこの仕事にやりがいを見出すことができていた。この手の仕事は離職率が高い。彼らのようにやりがいを見出すことができる人種は、幸せな人種であると言えた。

「ちゃんとヘッダで宣言してるんですけどねぇ」

「ああ。こりゃ、どっかでヘンな初期化を食らってるな」

「デバッガにかけてみましょうか?」

「いや。printfデバッグでいいだろう」

この部屋の時計は、すでに十一時を指している。無論、本日二回目の十一時だ。だだっ広いオフィスの電気はほとんど落され、部屋にある光源は名取と北川の見ているディスプレイのみ。彼ら以外に、人影はまったく見当たらない。

北川の指示を受け、名取がキーを叩く。

「この辺ですかね」

「おう。とりあえずその辺りの変数をコンソールに出してみてくれ」

「はい」

二人はごく最近チームを組んだばかりであるが、見ての通り、なかなかに息の合ったコンビだった。

北川の指示と、それを受けた名取によるコードの修正という作業が数度繰り返された後、名取が何かをやり終えたような表情で、ゆっくりと息を吐きながら呟いた。

「……とりあえず、エラーは出なくなりましたね」

「とりあえずは、な。またいつ出るか分からんから、ここはコメントアウトして残しておけ」

「ええ。そうするつもりです」

名取はカーソルキーを数度、スラッシュキーを二度叩き、最後にコントロールキーとF5キーを押下した。

「これでよし、と……」

 

「しかし、えらく遅くなりましたね」

「ああ。今からじゃ、家に帰った途端に、またとんぼ返りになっちまうな」

二人はコーヒーを啜りながら、真っ暗なオフィスで休息を取った。彼らが本日――といっても、もう後五十分足らずしか残されてはいないが――すべき仕事は、今ようやく片付いたのだ。

「ところで先輩、今僕達が組んでるプログラムって、本社の新製品ですよね?」

「ん? ああ。確か……そうそう。『アップグレード』って名前の製品だ」

「それって、確か『ポリゴン』って名前のポケモンを、名前どおりアップグレードするためのソフトですよね」

「そうだ。『アップグレード』を使うと、『ポリゴン』が『ポリゴン2』にバージョンアップするんだ」

……『ポリゴン』。彼らが口にしたのは、一匹のポケモン――この世界に生息する、人間でも動物でもない、第三の生き物の総称――の名だった。

そのポケモンは、他のあらゆるポケモンと一線を画す存在だった。自然発生的に存在している他のポケモンとは異なり、ポリゴンは人工のポケモン、つまりは、人の手が生み出したポケモンであった。しかも、それは人類が築き上げてきた文明の賜物、科学技術による出自を持っていた。

もっとストレートに言うなら、ポリゴンは人の手が生み出した、言わば「プログラム」であった。

「ポリゴンは……確か、今からかなり前に、本社のプロジェクトチームが『開発』したんですよね」

「そうだ。俺もそのメンバーの一人だったよ」

「そうなんですか……それにしても、このポリゴンってポケモン、ホントに『ポリゴン』って感じで、なんだか温かみに欠けてる気がしません?」

「そうか? 俺には、案外人間らしい表情に見えるけどな」

「そうですかねぇ……?」

名取は持っていたポータブルデバイスにポリゴンの画像を表示させながら、しきりにそれを眺めていた。

彼はしばらくそうしていたのだが、不意にそこから視線を外し、こう言葉を口にした。

「やっぱり、ちょっと不気味ですよ。これ」

名取はそう言いながら、ポータブルデバイスに表示されたポリゴンの姿を見た。角張った体に、コントラストのきつい赤と青の配色。そして、線で描かれたような目。名取がこのような感想を抱くのも、無理のない話に思えた。

「……ま、そう思うのも仕方ないか。あの時は、表情にこだわってる時間はあんまりなかったからな」

北川は苦笑いを浮かべながら立ち上がり、大きく伸びをした。

 

それから、しばらくした後。

「……ところで名取、お前、今日はもう帰らないのか?」

椅子に深く腰掛けた北川が、立って資料を整理していた名取に尋ねた。名取は頷き、

「ええ。今から帰っても、もう寝る時間もありませんしね。今日は泊り込みってことにしておきます」

「……そうか。それなら、少し付き合ってもらえるか?」

「いいですよ」

名取は手元の資料を手早く片付け、半分ぐらいコーヒーが入ったままのカップを再び手に取り、その足で先輩である北川のいる元へと歩いて行った。

「それで、どうしたんです?」

「まあ、少し話をしようと思ってな。さっきポリゴンの話が出たから、ちょっと思い出して、な」

「何か、面白い話がありそうですね」

「面白いかどうかは別にして、お前に是非とも聞いてもらいたい話ではあるな」

「聞かせてもらいましょうか」

「ああ、いいだろう」

北川が笑みを浮かべながら、名取を見やった。名取も興味津々といった面持ちで、北川を見つめている。

「突然だが……なあ名取。お前が今までに見た中で、一番心に残ったエラーメッセージって、なんだ?」

「……エラーメッセージ……ですか?」

「ああ。俺たちがヘマをした時に、コンピュータが遠慮なく見せてくる、あの憎らしいメッセージの事だ」

この不意に投げかけられた北川からの質問に、名取は曖昧な笑みを浮かべながら、困ったように答えた。

「……急に言われると、なかなか出てこないものですね」

「まあ、そうだろうな。無理に答えてもらう必要はないぞ」

「それで、先輩はどうなんです? こういう話を振ったってことは、先輩には何かあるんですか?」

名取のことの質問に、北川が頷き、こう答えた。

「……ああ。あるとも。忘れたくても忘れられないような、心にいつまでも残るような、インパクトのあるエラーメッセージがな……」

「……………………」

「それじゃ、そろそろ……おっと、忘れるところだった」

「どうしたんです?」

「名取、今からする話は、俺たちが今進めてるプロジェクトにも深く関わる話だ。ちゃんと聞いといてくれよ」

「……ええ」

「それじゃ、そろそろ始めるか……」

北川は改めて椅子に腰掛けなおし、一度大きく息を吐いてから、ゆっくりと話を始めた。

「もう、今から二十年は前になるか……俺が、大学に入りたての頃だった」

記憶を手繰り寄せるように、北川が話を進める。名取はそれを黙ったまま聞く体勢に入っている。

「……『あいつ』とは、図書館で出会った……」

 

「答えは(イ)よ!」

……「彼女」が彼に対して発した本当の意味での第一声が、それだった。

それは、あまりにも突然だった。問題集に向き合っていた青年――若き日の北川――は、思わず面食らった。自分の目の前には、まだ小学四年生ぐらいのあどけなさを残した少女が、平然と立っていた。つまり、彼は目の前のその少女に、何の前触れもなく話掛けられたことになる。

これに驚かないはずがない。北川は間の抜けた表情で、こう聞き返すのが精一杯だった。

「……は?」

「だからぁ、1024x768の24bitのビットマップファイルなら、サイズは必ず2.4MBになるのよ!」

彼女は自信満々にそう答え、北川をまじまじと見つめた。

「……………………」

北川は何を思ったか、自分が開いていたページにボールペンを差し込み、そのまま問題集のページをどんどん先へ送った。そして開いたのは、問題の解説のページ。北川は指でページをなぞりながら、今さっきまで自分が向き合っていた問題を探した。

……そして。

「……って、正解っ?!」

「ね! 言ったとおりでしょ?」

北川は目をまん丸にして、問題集の答えと、問題の答えを見事に言い当てた少女の顔を、代わる代わる見つめた。

「こー見えてもあたし、計算は得意なんだから!」

彼女は満面の笑みを湛えて、そう言った。

それが、彼女との初めての出会いだった。

 

「……羽山……芽美(めいみ)……ちゃん?」

「そーよ。は・や・ま・め・い・み。それがあたしの名前!」

北川と少女――どうやら、「羽山芽美」という名前らしい――は、図書館のロビーで話をしていた。傍から見れば、大学生の青年と小学生の組み合わせというのは、かなり奇異に映ったことだろう。

北川自身も、自分が今置かれている状況を、うまく飲み込むことができずにいた。何故芽美は、面識の欠片もない自分にこう気安く話しかけて来たのか。それが疑問で仕方なかった。

「まー……あれだ。芽美ちゃんは、どうして俺……あ、北川って言うんだけど、とにかくどうして俺に話しかけてきたわけ?」

「うーん。どうしてかなぁ。北川さんが読んでた本を見てたら、自然に声が出てきちゃったの」

「……ひょっとして芽美ちゃんって、ああいうのに興味があったりとかするの?」

「うん! すっごくあるよ!」

北川は混乱していた。彼の生きてきた人生はまだ四捨五入して二十年になるかならないかぐらいではあるが、その中でも間違いなく、トップクラスに混乱していた。未だかつてない混乱だった。

しかしそれと同時に、北川のしていたことに興味があると言って来たこの芽美という少女に、少なからず興味を覚えた。

北川は話を続けた。

「そりゃまた、どうして?」

「えっとねー。あたし、夢があるの!」

「夢? どんな?」

「聞きたい?」

「そんな振られ方して、『聞きたくない』って言う方が難しい」

「それじゃ、教えてあげる!」

芽美はすっくと立ち上がり、北川の方へと向き直ってから、彼を人差し指でぴたっと指さし、何かを高らかに宣言するように言った。

 

「あたし、宇宙飛行士になりたいの!」

 

そう、力強く。

 

北川と芽美は、それから一時間に渡って話を続けた。どうしてそんなに話が弾んだのか、北川には分からなかった。ただ、その話が北川にとって、決して無為なものではなかったことは間違いなかった。

「いっぱいいーっぱい勉強して、宇宙に行くのが夢なの!」

「そりゃまた、でっかい夢だな」

「北川さんには、何か夢はないの?」

「俺か? 俺は……」

北川は少し間を置いた後、

「……生きたプログラムを作ってみたい、かな」

そう言った。

「へぇー。それって、どんなの?」

「大したことじゃないんだがな。それこそ、人間みたいに笑ったり、悲しんだり、怒ったり、泣いたりできるようなのがいい。今のプログラムは、俺にとっちゃ無味乾燥すぎるんだ」

「ふぅーん。なんだか大変そうな話ね」

「……ま、あくまでも夢だからな。夢は見るものだから、別に大変だとかどうとかは気にしなくてもいいと思うんだ」

「えーっ?! それは違うよ!」

「何が?」

芽美は再び立ち上がり、北川を人差し指でびしっと指さし、こう力強く言い放った。

「夢は見るものじゃなくて、叶えるものなの!」

「……………………」

そのあまりの潔さは、北川に苦笑いを浮かべさせるには十分な威力を持っていた。

「そういうもんなのかね……」

「そうよ! でも、夢を見ることは悪いことじゃないわ」

「……?」

「夢を見ることは、それを叶えることの第一歩だって、お父さんが言ってたんだもん!」

芽美の笑顔が、北川には眩しかった。

 

二人はそれから、図書館で何度も顔をあわせた。プログラマー志望の大学生と、宇宙飛行士志望の小学生。何の共通点もない二人がどうしてここまで親しくなることができたのか、その当事者である北川ですら理解できなかった。

「北川さんは、どんなプログラムを組みたいと思ってるの?」

「そうだな……芽美ちゃんは、『プロジェクトP』っていうプロジェクトが進んでること、知ってる?」

「知ってるよ。新聞で読んだの。確か、『人工のポケモン』を作る! っていう話だよね」

「そうそう。それに参加したいと思ってる。そこで人工のポケモンを作ってみたいんだよ」

「ふぅーん。そーなんだ。できるといいわね!」

「そのためにここに来て勉強してんだ。芽美ちゃんだってそうなんだろ?」

「うん! そーよ!」

理解はできなかったが、そんなことはどうでも良かった。

ただ、何かを目指してひたむきに頑張っているという人間がもう一人いるという感覚が、彼にとっては何よりも心強かった。それが例え、自分とは大きく歳の離れた、一人の少女であったとしても、である。

 

二人が図書館で顔をあわせるようになって、丸一年が経った。

「今日はね、物理の本を読んでみたんだけど……もうっ、どーしてあんな難しい書き方しかできないのかしら! ちっとも分かんなかったわ!」

「物理の本に手を出す小学生なんて、きっと芽美ちゃんぐらいだよ」

その間に北川は、芽美のことをずいぶんいろいろ知ることとなった。

芽美は信じられないぐらい頭が切れ、勉強はできると自負している北川が少しつまづくような問題ですら、時間と紙とペンさえ用意してやれば、ちゃんと解いて見せた。

コンピュータの知識ばかりではない。数学(北川が面白半分で中学数学の問題を出したら、芽美はきちんと答えを言って見せた)や科学(化学も含めていいだろう)、それに今本人が言ったように、物理の勉強も始めているらしい。とても小学生の頭に詰め込まれているとは思えないような、圧倒的な知識量だった。

それだけではない。芽美はそれを必要に応じて組み合わせ、自分の目指す答えを導くことができた。つまり、応用が利くのである。天才という言葉が似合う、稀代の頭の切れ方だった。

「でも、今からそんなに焦る必要、ないと思うけどな」

「それじゃダメなの! 急がないと、時間がなくなっちゃうもん!」

「……時間?」

その言葉に、北川は異様な感覚を覚えた。言葉にしようの無い、異様な感覚。

何故かそれは、寒気を伴ったものだった。

「……一つ聞いてもいいか? それは、何の時間なんだ?」

彼は自分が感じた異様な感覚を、そのまま言葉にした。

芽美は、こう答えた。

 

「あたしの……お父さんを探す時間。宇宙に行ったまま帰ってこない、あたしのお父さんを探す時間」

……それが、芽美の答えだった。

「……………………」

北川は、その答えに対する答えを、返すことができなかった。

 

「それじゃあたし、頑張って続きを読んでくるから! じゃあね!」

「あ、ああ。無理しない程度にな」

北川はぎこちない笑顔で、それとは対照的にいつもの笑顔を浮かべたまま、図書館へと戻っていく芽美に手を振った。

芽美が去ったのを確認すると、北川は椅子に深く腰掛けなおした。

(……お父さんを探す時間……? どういうことだ……?)

疑問が、彼の頭の中で渦巻く。芽美が発した言葉の意味を、どうにかつかもうとしている。

(……『宇宙に行ったまま』……『帰ってこない』……)

その言葉の意味を、彼は何度も解釈しようと試みる。

何度目かの解釈の試みで、

(……待てよ?!)

一つの可能性が浮かび上がった。彼の頭からさっと疑問が消え去り、それを合図に、彼は勢いよく立ち上がった。

(もしかしたら……芽美ちゃんのお父さんって……)

彼はその足で、図書館の一角へと歩を進めた。

 

「……………………」

図書館の片隅で、驚きと哀しみと……言葉に形容しようの無いような複雑な色とをない交ぜにした表情を浮かべながら、古い新聞を山積みにしていた。彼はその中の一枚をめくりながら、吐いたところで決してその胸のつかえが下りるわけではないであろうため息を、重々しく吐き出した。

(……『十五日、ケープカナベラルのケネディ宇宙基地から打ち上げられたスペースシャトル「エクスプローラ」が、打ち上げ直後にエンジントラブルを起こし、大気圏突入直後に炎上。乗組員七名が――』)

彼はそこで読むのを止めようとしたた。読まずとも、その先に何が書かれているかは容易に想像が付く。読んだところで、一体何になるというのか。

……それでも、彼は続きを読んだ。ほとんど、無意識のうちだった。

(……『――犠牲者の中には、日本人の乗組員である羽山秋雄氏(三六)も含まれており――』)

読んでしまえば、余計に暗澹たる気持ちになるだけだった。

(……芽美ちゃん……)

北川はすぐに理解した。正確な解釈こそわからなかったものの、芽美という少女が何を考えているかは、だいたい理解することができた。

(あの子は……たぶん……)

数年前……おそらく、芽美がまだ年端もいかぬ子供だったときに、芽美の父親である秋雄はスペースシャトルに乗り込み……そのまま文字通りの「帰らぬ人」になったのだ。

(……父親の背中を見ているんだな……)

北川には、芽美の「お父さんを探しに行く」という言葉が、とてつもなく深遠な言葉に感じられた。芽美はその言葉に、どんな意味を込めているのだろうか。

(……本当に、探しに行くつもりなのか……?)

あるいは、墓参りにでも行くつもりなのか。北川には、芽美の発した言葉の意味を正確につかみ取ることができるほどの洞察力はなかった。いや。仮に抜きん出た洞察力を持った人間が芽美に出会っていたとしても、その言葉の意味を正確に解釈することはできなかっただろう。

(……………………)

山積みの新聞に囲まれたまま、北川は沈黙した。

 

それから、幾年かの年月が流れた。

「北川さん、就職おめでとう! よく入れたじゃない!」

「まぁね。芽美ちゃんと一緒に勉強したおかげだと思うよ。それに芽美ちゃんだって、よくやったじゃないか」

「うん!」

年月を経て、北川は就職し――彼の望んでいた、あの計画を推し進めていた企業だった――、芽美は国公立大学への高い進学実績を誇る、中高一貫の学校に見事入学することができた。お互いに、夢に一歩ずつ近づいたわけだ。

「その学校、ここからそんなに離れてないんだってね」

「うん! だから、家から通えるの! 北川さんの会社も、そんなに遠くないんでしょ?」

「まあな。電車で二時間ぐらいだから、ぎりぎり通える範囲だ」

北川は嬉しかった。環境が変わっても、まだお互いに目標に向かって共に歩むことができそうだったからだ。大学生と小学生が、社会人と中学生という関係に変わったとしても、北川と芽美の間に生まれた奇妙な、しかし純粋な関係は、まだ続きそうだった。

……そして。

「お父さん、見つかると良いな」

「うん! 絶対に見つけて、北川さんのこと紹介するの!」

北川は、この芽美という幼い少女が持っている、儚く幼く、そして叶うはずも無い夢を、壊すこともせず、止めることもせず、ただ応援してやることにしていた。

(……いつか、分かることなんだ)

無責任といわれようと、それが彼にとって、最良の選択に思えた。

 

……また、幾年かの年月が流れた。

「今日は芽美ちゃんに、プレゼントがあるんだ」

「わ! そーなんだ! 何々?」

すっかり社会人が板に付いた感じの北川と、中学三年生になった芽美。二人が出会ってから、もうかなりの時間が経っていた。それでも、時間は二人の関係を変えなかった。二人はただ、お互いに自分の目指すところへ歩んでゆく。その過程で、お互いを支えあっている。不思議な関係だった。

「芽美ちゃんの事だ。きっと、気に入ってくれると思ってね」

「……これは?」

「開けてのお楽しみ」

北川は芽美に、一つのモンスターボールを渡した。

「ある意味、俺の数年間が詰まってるんだぞ」

「ふぅーん。早速開けてみるね!」

芽美はボールの上下を持ち、それを互い違いの方向へ、ぐりっと回した。

……すると。

「・・・・ ・ ・−・・ ・−・・ −−−(Hello)」

「わっ?! ……これ、ポケモンなの?!」

「そうだとも。人類の叡智が作り出した『人工のポケモン』、名付けて『ポリゴン』だ。どうだ?」

「ポリゴン……」

芽美の目の前に、立体的な幾何図形を組み合わせて形作られたような、少しいびつな形をした、まさに「ポリゴン」の名にふさわしいポケモンが姿を現した。

「とにかく時間が足りなくてな。表情がちょっとアレなんだが……」

「ううん! すごいよ北川さん! 本当にポケモンを作っちゃうなんて!」

「まあな。作ったのは俺だけじゃない。チームのメンバーが全員で作り上げたんだ」

「この子、モールス信号でしゃべるのね! つい最近勉強したばっかりだから、すぐに分かったわ!」

「ああ。短い音と長い音だけで言葉を作れるから、こいつにはちょうどいいと思ってな」

「ふぅーん……でも、どーしてあたしにくれるの?」

「ここまで来れたのは、芽美ちゃんがいたから。そのお礼のつもりだ。後は……ま、芽美ちゃんなら、こんなデザインのポケモンもきっと好きになってくれると思って」

この言葉に、芽美は少し怒り気味に反論してみせる。

「えーっ? それ、どーいう意味?!」

「んー。端的に言うなら、芽美ちゃんって理系だなぁってこと」

「あーっ! 北川さん、ひどいこと言ってるー!」

「俺は本当のことを言っただけだぞ」

「もうっ! からかわないでよ! ……でも、この子が好き、っていうのは当たってるかな!」

「そりゃあ良かった」

芽美はポリゴンをその胸の中に抱きながら、北川に笑顔で返した。

「それじゃ、早速この子に名前を付けてあげなきゃね!」

「−・ ・− −− ・ ?(Name?)」

「そう。あなたの名前よ」

「……………………」

「そうねー。あなたはきっと何かをやり遂げてくれそうだから、『イグゼ』っていうのはどうかしら!」

「・ −・・− ・ ?(Exe?)」

「そうよ! イグゼ。今日からあなたの名前は、イグゼに決まったわ!」

「−− −・−−  −・ ・− −− ・  ・・ ・・・  ・ −・・− ・(My Name is Exe)」

「ずいぶん早いもんだな」

「うん。昔から、何かを決めるのはすっごく早かったもん!」

「だろうな」

小学生で宇宙飛行士になろうと決め、それ以来すべてのものをそれに傾けることができるような子だ。何を決めるのも、すぱっと一瞬で決めてしまうことができるのだろう。妙に納得してしまった。

……それが例え、決して届くはずのない父親を目指したものであっても。

 

「それでだな……」

北川はイグゼを興味津々の様子で眺めている芽美を前にして、さらに話を切り出した。

「えっ? どうかしたの?」

「今はまだ計画が始まったばかりの段階なんだが……芽美ちゃん、ひょっとしたら、こいつと……イグゼと一緒に、宇宙に行けるようになるかもしれないぞ」

「ええっ?! 本当?!」

「ああ。今、ポリゴンを宇宙で活動させるための研究が進んでるんだ。芽美ちゃんが宇宙に行く時にそれが終わってれば、イグゼも一緒に行ける」

これは事実だった。机上の計画に過ぎなかったものの、ポリゴンを宇宙空間で活動させるための研究は進められていた。折からの宇宙開発競争を受けて、社内でもプロジェクトにゴーサインが出たのだ。

「そーなんだ……! あたし、イグゼと一緒に、宇宙に行けるんだね!」

「まあ、まだ先の話だけどな」

「良かったね! イグゼ! 一緒に宇宙に行って、お父さんを探そうね!」

「−・−・ ・− −・ −・ −−− −  ・・− −・ −・・ ・ ・−・ ・・・ − ・− −・ −・・  ・−− −−− ・−・ −・・  −・・ ・ − ・ −・−・ − ・ −・・(cannot understand word detected)」

「……あれ? どうしたのー?」

「ああ、こいつはまだほとんど言葉を知らないんだ。今のは……あれだ。多分、『お父さん』で引っかかったんだろうな」

「ふぅーん」

「こいつはもの覚えがいいから、言葉とその意味を教えてやれば、次からはその意味を使うようになるぞ」

「そーなんだ! それじゃ、あたしがいろんなことを教えてあげるね!」

芽美はポリゴンを抱き上げ、そう言った。

 

それから、数週間後のこと。

「北川さん! イグゼ、すっごく賢くなったんだよ!」

「ほぉー。それじゃあ、見せてもらおうか」

「うん! イグゼ、2567*1876は?」

「・・・・− −−−・・ ・−−−− ・・・・・ −・・・・ −−−−・ ・・−−−(4815692)」

「……おおっ。正解だな。計算は得意みたいだな」

「それだけじゃないのよ! イグゼ、北川さんに『あいさつ』してあげて!」

「−−・ −−− −−− −・・  ・ ・・・− ・ −・ ・・ −・ −−・(Good evening)」

「……グッドイーブニング……ちゃんと、時間も理解できるようになったんだな」

イグゼは芽美の手によって、どんどん成長していくようだった。複雑な計算を一瞬でこなし、時間に応じた挨拶ができるようになっていた。それは、当の開発者である北川をも驚かせるほどの、驚異的なスピードだった。

「次に会うときは、もっとすごいのを見せてあげるんだから! ね? イグゼ!」

「−・−− ・ ・・・(Yes)」

「そうか。楽しみにしてるぞ」

「うん!」

芽美はイグゼを連れて、図書館へと戻っていった。

 

また、数週間が経った。

「今度はどうなったんだ?」

「ふっふーん。今度のはすごいんだから! イグゼ! ここまで来て!」

「−・−− ・ ・・・(Yes)」

芽美がイグゼを呼ぶと、イグゼはその方向に向かって真っ直ぐ進んできた。

「おおー。親が誰か識別できるようになって、しかも親がどこにいるか、空間上の位置を特定できるようになったんだな!」

「うん! 最初はX軸だけ合ってたり、Y軸が滅茶苦茶だったりで、大変だったんだから!」

「でも、今はこうやって、ちゃんと芽美ちゃんを識別できてるわけだ。すごいな」

「えへへ……この子、きっとすっごく大きな事をやり遂げてくれそうな気がするわ!」

「そうだといいんだけどな」

芽美はすっかりイグゼを気に入っていた。芽美は犬や猫を撫でる様に、イグゼの頭を撫でた。

……しかし。

「・・・ −−− −− ・ − ・・・・ ・・ −・ −−・  ・・ ・・・  −・・ ・ − ・ −・−・ − ・ −・・  −−− −・  − ・・・・ ・  ・・・・ ・ ・− −・・(Something is detected on the head)」

「……あんまり、嬉しそうじゃないね」

「頭の上に何かを検出って……お前、もうちょっと気の利いた事は言えないのか?」

「−・−・ ・− −・ −・ −−− −  ・・− −・ −・・ ・ ・−・ ・・・ − ・− −・ −・・  ・−− −−− ・−・ −・・  −・・ ・ − ・ −・−・ − ・ −・・(cannot understand word detected)」

「……あー、こりゃ『気の利いた』で引っかかってるな……」

どうも、根本的なものが足りないような気がした。

 

(何だろうな……)

実際この時北川は、イグゼ……いや、イグゼ一体に限らず、開発されたポリゴンそのものに、何か物足りないものを感じていた。

人工のポケモンを造り上げることには成功した。それは高度な学習機能を持ち、数字や時間、空間認識もできる。ポケモンとして必要なすべての要件を満たしたはずだった。実際、プロジェクトは完遂した。

しかし、何かが決定的に足りない。北川はそう感じていた。

(なんか……ポケモンを相手してるって言うよりかは、銀行のATMとか、そういうのと向き合ってるみたいなんだよなぁ……)

何が問題なのだろうか。 何が足りないのだろうか。ポリゴンは完璧なはずなのに、何かが足りない。完璧なはずなのに、完璧ではない。そして、その何かが分からない。もどかしさの極致だった。

(分かんねえ……)

 

それから、また数週間後。

「……どうしたんだ? なんか、妙に怒ってないか?」

いつもは元気に振舞っている芽美が、今日に限って――今の今まで、こんな表情を見せたことは無かった――、どこか怒り気味のようだった。

「もうっ! イグゼったら、ひどいのよ! ねえ北川さん、ちょっと聞いてくれない?」

「ああ、いいぞ。言ってみろ」

「あたしね、昨日少し時間があったから、イグゼに本を読んであげたの!」

「本か……それで、どうしたんだ?」

「その本、すっごく面白い本だったんだけど、イグゼはずーっと『分からない』『分からない』ってしか言ってくれないの! もうっ! どうして分かってくれないのかなぁ!」

「……………………」

北川には、イグゼが何故そのような挙動を示したのかすぐに理解できた。芽美が読んだという本には、イグゼには理解できないようなことが星の数ほど書かれていたのだろう。だからずっと、「分からない」としか言えなかったのだ。

(……いや、それだけじゃないかな)

そもそも、イグゼがその中身を理解したとして、本を「面白い」「面白くない」と言う事ができるのかどうか。そこは北川にも分からないことだった。「面白い」「面白くない」と言うことは、本の中身を解釈し、その上で、さらに……

……「自分で『面白い』『面白くない』という、『考え』を表明しなければならない」からだ。

しかし、芽美は、

「あたし、絶対にイグゼに『面白い』って言わせるんだからっ!」

「芽美ちゃん?」

「イグゼが中身をちゃーんと理解するまで、何回でも読んで聞かせてあげようっと! うん! きーめたっ!」

「……………………」

あくまでも自分の好きな本を「面白い」と言わせたいようだった。

 

……しかしながら。

「う〜……どうして分かってくれないのかしら?」

芽美の目論みは、なかなか功を奏しそうには無かった。芽美はあれからかなりの努力を重ねているようだが、イグゼは未だに「面白い」「面白くない」のどちらも言わないらしい。

「はぁーあ。『面白い』っていう言葉の意味は分かってるみたいなんだけど、それをどこで言えばいいのか分かんないみたい」

「ポリゴンはまだ基本的なプログラムしか積んでいないんだ。理解できなくても、仕方ないさ」

北川が芽美を慰めていると、芽美の隣で浮いていたポリゴンが、不意にこんな信号を発した。

「−・・ ・− −・−−  −・・・ ・ ・・−・ −−− ・−・ ・  −・−− ・ ・・・ − ・ ・−・ −・・ ・− −・−−  ・・  ・・・ ・− ・−−  ・−  ・−・ ・− −・・・ −・・・ ・・ −   ・− −・ −・・  −・−− ・ ・・・ − ・ ・−・ −・・ ・− −・−−  ・−  −・・ ・ ・ ・−・   ・− −・ −・・  − −−− −・・ ・− −・−−   −・−− −−− ・・−(Day before yesterday I saw a rabbit, and yesterday a deer, and today, you.)」

「あんまり何度も読んであげたから、物語の出だしを覚えちゃったみたい。でもね、『面白い』とは言ってくれないの」

「本を読んであげたら、こいつは何て言うんだ?」

「そうね……昨日は『この作品はロバート・F・ヤングの「たんぽぽ娘」の中に収録されている作品の一つですね』って言ってくれたわ」

やはり、その程度が限界だった。

「やっぱり、ポリゴンにはその話も、その話が面白いかどうかも分からないんじゃないかな」

「でも、ポリゴンはポケモンなんでしょ?」

「……………………」

「ポケモンは生き物よ。だったら、いつかはこの話も分かってくれるし、きっとこれを『面白い』って言ってくれるはずよ! そうでしょ?」

北川はここで思わず、答えに詰まってしまった。

 

北川はそれから、自分たちが作り出した「ポリゴン」という存在について、深く考えざるを得なくなった。

(……ポリゴンはポケモンだ。それは……間違いない。しかし……)

ポリゴンはポケモンである。それは紛れも無い事実だった。モンスターボールに格納することができ、ポケモン図鑑によって認識され、ポケモンセンターのリカバリーマシンによって傷を癒すことができる。すべてにおいて「ポケットモンスター」のフォーマットに則った、正式なポケモンだ。

……だが。

(……フォーマットに則っているからといって、それが即ちポケモンであると言い切れるのか?)

北川が長年抱き続けていた疑問が、ここに来て彼の中で大きく広がりだした。ポリゴンはフォーマットに則ったポケモンだ。しかしながら、ポリゴンには何かが足りない。ポケモンとしての要件を満たしているというのに、一体何が足りていないというのか。

(……そう言えば俺は、何のためにポリゴンを作りたいと思ったんだ?)

不意に、そんな疑問が湧き起こった。人の手でポケモンを作りたかったから? いや、そうではなかったはずだ。確かにそれも目標の一つとしては存在しただろうが、自分には何かもっと大きなものがあったはずだ。

大きな……何かが。

(……ひょっとするとポリゴンに欠けているのは、俺が今思い出せずにいる「何か」なのかも知れないな……)

 

そして、それからまた数週間が経った。

「北川さん! 北川さん!」

「お、嬉しそうだな。どうかしたのか?」

「あのね、イグゼがね、あたしのこと、好きって言ってくれたの!」

「……?! 本当に?!」

「そうよ! あたしがイグゼに『ねぇイグゼ、イグゼはあたしのこと、嫌い?』って聞いたら、イグゼは『It is wrong.』って返してくれたの!」

芽美は目をきらきら輝かせながら、北川に向かって言った。

しかし、北川は少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら、芽美にこう返す。

「……あれだ。言いにくいんだけどさ、それ多分、『嫌い』を英語に直したら、たまたま『wrong』になっただけじゃないのか?」

「えーっ?! そんなんじゃないわよ! ちゃんと言ってくれたのよ! あたしのこと、嫌いじゃないって!」

「そりゃあ……嫌いではないと思うけどさ……」

北川は口ではこう言っていたが、本当はポリゴンが「好き」「嫌い」の感情を抱くことは無いということを知っていた。

(ポリゴンは……人間がコンピュータを駆使して作り上げた、「プログラム」だ)

プログラム。コンピュータにおいて、何らかの目的を遂行するために人間が作り上げるソフトウェアの総称だ。

それは、極めて正確な動作が要求される。「1+1」を与えて「3」や「1」を返したり、数字を二で割って三や五の余りを返すようなものは、プログラムとしては不合格だし、あり得ない。プログラムが人間に与えるものは、常に正確かつ、画一的である必要がある。

「でも、ポリゴンはポケモンだもん! きっといつか『I love you.』みたいな、ストレートなことも言ってくれるわ! そうだよね?」

「……………………」

北川は言葉を詰まらせた。

(俺は……ポリゴンを「プログラム」だと思っている。でも、芽美ちゃんはそうじゃない。ポリゴンを「ポケモン」だと考えている……)

……「プログラム」と「ポケモン」。ポリゴンは、そのどちらをも正解として持っている。人間が作り上げたプログラムであると同時に、人間が作り上げたポケモンでもある。

しかし、「プログラム」と「ポケモン」には、あまりにも厳然たる違いがある。ポケモンがあくまでも「生き物」であり、自分の意志や感情を持ち、それを抱えながら「生きている」のに対し、プログラムに意志や感情はない。そして、「生きて」もいない。ただ、「動作している」だけだ。あまりにも厳然たる違いだった。

(……意志や……感情を持って……「生きている」……?)

……「生きている」。この言葉が、北川の中で強く引っかかった。

(……「生きている」……)

一度彼の中に生まれたその引っかかりは、いつまでも消えそうになかった。

 

「……………………」

それから北川は、その「引っかかり」が何かを考えることが多くなった。それについて考えているときは、まったく何も手につかなかった。何か、大切なことを忘れてしまっているような気がしたからだ。そんな感覚を抱いたまま作業に打ち込めるほど、北川は器用ではなかった。

「おい北川……どうしたんだ? 妙に思い詰めた表情なんかして……」

「……なあ星崎。今のポリゴンに足りない物って何か、分かるか?」

「ポリゴンに……足りない物?」

「ああ。俺、そのことで悩んでるんだ。何か、大切な物が足りてないような気がしてさ……」

考えたところで、答えは出なかった。少し考えただけで答えが出せるなら、他人が見て分かるほど悩んだりすることなど無い。

「そうだな……お前の言うことも分かる気がするぞ。俺も、何かが足りてない気はしてるんだ。でも、それが何かは分からない」

「はぁー……なんだろうな。この感覚。もうあと少しで分かりそうな気もするんだけどな……」

北川は大きく伸びをして、まとまらない考えに首を捻った。

 

……それから、また幾年かが経った。

「まさか、本当に決めちゃうなんてな」

「えへへ……あたし、頑張ったんだから!」

その日、北川は芽美から、ある一つの報告を受けた。

「日本で五番目の女性宇宙飛行士なんだってな。しかも、最年少と来てる」

「ふっふーん。どう? すごいでしょ?」

「とにかく、おめでとう、だな」

「うん! ありがとう!」

芽美が数々の難関を潜り抜け、念願であった宇宙飛行士になることができたのだ。しかも、その類まれな能力と才能を高く評価され、信じられないことかも知れないが、一年後には宇宙へ飛び立つことが約束されてしまったのだ。異例中の異例、まさに特例だった。

「これで芽美ちゃんは、いよいよ俺の手の届かない存在になっちまったわけだ」

北川は自嘲気味につぶやいた。己にとっての高みを目指すという点において、共にスタートラインを切った二人。しかし、今のこの状況はどうか。

(俺は自分が何をしたいのかもよく分からなくなってるってのに、芽美ちゃんはどんどんやるべきことをやっている。いつの間にか、こんなに差が広がっていたんだ)

同じ場所からスタートしたはずなのに、彼にはもう芽美が、まったく手の届かない、それこそ本当に宇宙にでも行ってしまったかのような存在に思えた。

……のだが。

「えーっ?! そんなことないよ! あたし、北川さんにまだ追いついてないもん!」

「……追いついてない?」

「そーよ! 北川さんはあっさりイグゼを作っちゃったけど、あたしはまだ何もやり遂げてないもん! 追いかけるのは、あたしの方なんだから!」

「芽美ちゃん……」

途端、そんな考えは吹き飛んでしまった。芽美は芽美だった。それはいつまでも変わることの無い、確固たる存在だった。

「……そうだな。早く俺に追いついてくれよ。俺もどんどん、前に進むからな」

「もちろんよ! 追い越して、追い越されて、それで……」

「……それで?」

北川が問い返すと、芽美は――まるであの時のように――すっくと立ち上がり、北川をぴっと指さしてから、こう言った。

「最後は、一緒にゴールしましょ! あたしと北川さんで、一緒にゴールするの!」

「……………………え?」

「あたし、絶対に北川さんに追いついて見せるから! 北川さんと一緒に、一緒に走りたいから!」

芽美はそう言って、そのままどこかへと走り去って行った。

「……………………」

北川はただぽかんと口を開けたまま、芽美の姿を目で追うことしかできなかった。

 

……それから。

「いよいよ……なんだな」

「うん! なんだかわくわくするわ!」

芽美が北川に話をしてから、丸々一年が経過した。彼らが図書館で初めて出会ってからは、もう八年か九年は経っている。

一年が経過したということはつまり、芽美が宇宙へ飛び立つ日が近づいてきているのだ。実際、芽美に残された時間は少なかった。こうして北川と会うために、彼女はたくさんの努力と苦労を重ねたのだ。

そんなことはおくびにも出さず、芽美はいつもの芽美でい続けた。

「本当にすごいと思うよ。なんか、すごいって言葉しか出ないぐらい、すごいと思うぞ」

「あははっ。北川さん、ちょっとヘンよ!」

「俺はいつもこんな感じだぞ」

北川は芽美が成し遂げたこと、そしてこれから成し遂げることなどすべてをひっくるめて、彼女のことを「すごい」という言葉で表現した。それ以上の言葉が見つからないと彼は言ったが、それ以上の言葉は、逆に彼の気持ちの発露を抑制するものとなったであろう。「すごい」と思ったから「すごい」と言う。素直な感情の発露ではないか。

「−−・ ・−・ ・ ・− −(great)」

「あっ、イグゼもすごいって言ってくれてる!」

「俺もそう思いたいな」

傍らには、北川が数年前に芽美にプレゼントしたイグゼの姿があった。イグゼは芽美と初めて出会ったときとまったく変わらぬ面持ちと容姿で、そこにふわふわ浮いていた。

「それで……やっぱり、イグゼは連れて行けないのかな?」

「……ホントに悪いな。プロジェクトがちっとも進まなくてさ……」

「ううん。北川さんのせいじゃないよ。きっと、時間が足りないだけだもん」

落胆する北川を、芽美は素直な言葉で慰めた。

北川は芽美が宇宙へと飛び立つ前に、ポリゴンに宇宙空間での活動機能を装備させたかった。実際、社内でもこのプロジェクトに熱意を上げている者は数多く、士気も高かった。北川や、彼が所属していたプロジェクトチームの責任ではない。単に、時間や情報が足りなさ過ぎたのだ。北川はこの数年間、プロジェクトの完遂を目指してひた走ってきたが、結局それが実を結ぶことは無かった。

否。プロジェクトそのものは現在も最優先で進められてはいるが、彼にとって芽美の初飛行に自分のプロジェクトを間に合わせられなかったことは、もはやプロジェクトそのものの意味を疑ってしまうほどの、大きな落胆を与えた。

「本当は芽美ちゃんの初飛行に、イグゼも一緒に行かせてやりたかったんだけどな……」

「……じゃあ北川さん、そのために、今まで必死に頑張ってくれてたの?」

「ああ。芽美ちゃんのためだったんだよ。俺、こんなにも誰かのために頑張ったのは初めて……って、恥ずかしいことを言わせないでくれよっ」

「そうなんだ……」

芽美はそう言ってから立ち上がり、

「……………………」

彼女らしからぬ憂いを帯びた表情を浮かべた後、不意にこんなことを口にした。

「じゃあ、あたしも思い切って言うね」

「……は? 何をだ?」

「今までずっと……言うか言わないか、ずっと迷ってたの。言っちゃったら、きっと北川さん、びっくりすると思ったから」

「……………………」

「……でも、今ので吹っ切れちゃった。だから、あたし言っちゃう!」

そして……

「……………………」

ゆっくりと立ち上がり、北川の方へと向き直ってから、彼女は北川をびしっと指さした。大切なことを言う時に、彼女がいつも取る動きだった。

「北川さんっ」

「……………………」

……そして。

 

「あたしが地球に戻ってきたら、あたしを『北川芽美』にしてほしいの!」

 

そう、言った。

「……………………えぇっ?!」

「あたし、言ったよね。北川さんと一緒に走って、最後は北川さんと一緒にゴールしたい、って!」

「そう言えば……って、それってそういう意味だったのか?!」

「あったり前じゃなーい! 北川さん、分かんなかったの?」

「……それだけは絶対にありえないと思ってた」

「あははっ♪ うん! あたしも北川さんはそう考えてると思ってたよ!」

この時北川二十六歳。対する芽美は十八歳。ありえない年齢ではないが、北川は予想もしていなかったようだ。出会いのことを思えば、それも当然かも知れなかったが。

「それでね、一緒にゴールした後は、また一緒にスタートするの! 今度はずっと一緒に走って、最後まで一緒にいて、二人揃ってゴールするの! ずーっと一緒に!」

「お前、無茶苦茶恥ずかしいこと言ってるぞ……」

「いいもん! それがあたしの『目標』だもん!」

芽美は感情の爆発を抑えることもせず、ただ思ったことを、ストレートに、何の迷いも無く、北川に向かってぶつけていた。

そして、さらに言葉を紡ぐ。

「それでね……」

「……どうした?」

「北川さん、きっと急に言われてびっくりしてると思うから、ちゃんと考えられないと思うの」

「……ああ。大正解だ」

「だから……」

「……?」

芽美は少しだけ間を置いて、こう言った。

「答えは、あたしが帰ってきてから聞かせて欲しいの! あたし、ずっとどきどきしてたいもん!」

「……………………」

「それに、そんなに時間があったら、北川さんもちゃんと考えられるはずよね! だから、あたし待ってる! 北川さんがちゃーんと考えて、それから答えを聞かせてくれるの、あたし待ってるから!」

「芽美ちゃん……」

「あたし、北川さんのことが好きだから! お父さんと同じぐらい、好きだから!」

もう何も恐れることのなくなった芽美が、迷うことなく言う。

と、その時だった。

「・−・・ ・・ −・− ・(like)」

「……………………」

「違うわよイグゼ! こーいう時は、もっとちゃんとした言葉があるでしょ!」

「・−・・ −−− ・・・− ・(love)」

「あっ……そうよ! そうよイグゼ! それでいいの! すごいじゃない! 『好き』と『好き』の違い、分かるようになったんだね!」

「・・  ・−・・ −−− ・・・− ・  −・−− −−− ・・−(I love you)」

「……イグゼ、お前……」

「・・  ・−・・ −−− ・・・− ・  −・−− −−− ・・−(I love you)」

イグゼは芽美をじっと見つめたまま、二度、同じ信号を発した。

「……………………」

北川はそれを、沈黙したまま見つめていた。否。何も言うことができなかったのだ。電撃が流れるような異様な感覚が、冷たさを伴って彼を支配していたからだ。

(……この感覚は、一体……?)

彼には、その感覚が何かまったく分からなかった。何故今このタイミングでこんな感覚を覚えるのか、自分でも分からなかった。

……ただ、その感覚は、彼にとって……

(……何か、懐かしいような……)

そんな感情を抱かせる、不思議な感覚だった。

 

「……あの感覚は、今でもよく覚えてる。妙な感覚だった。だが同時に、懐かしい何かを思い起こさせるものでもあったな」

「ずいぶん、不思議な感覚ですね」

北川は目を閉じ、その時の感覚を思い起こしていた。ずっと話を聞いていた名取は、自分が手に持っていたコーヒーのカップから、温かみがもう伝わってきていないことに気付いた。それほど、先輩の話に没入していたのだ。

「本当は……その時に思い出すべきだったんだろうな」

「……………………」

「俺が本当は何をしたくてこの世界に入ったのか、何のためにこんな仕事をしているのか、ってことをな」

北川はあくまでも声の調子を変えず、淡々としゃべり続けていた。

「……それで、その後はどうなったんです? その……芽美ちゃんと先輩が、その後どうなったかって……」

「……………………」

「……先輩?」

名取の問いかけに、北川は黙ったまま、自分の鞄の中に手を突っ込んだ。そして、名取が使っている物より一回り大きな――そして、一回り旧型の――ポータブルデバイスを取り出し、数回ペンで画面をタッチした後、

(ひょいっ)

「……………………」

名取に向かって放り投げた。名取はそれを無言で受け取ると、恐る恐る、画面を覗き込んだ。

「……………………」

最初は何のことか分からないといった調子の表情を浮かべていた名取が、

「……………………!!」

驚愕の色に染まり上がるまでは、さしたる時間もかからなかった。

「……なあ名取。また、質問をしてもいいか?」

「……はい」

「例えばの話だ。お前が大切な友達か誰かからモノを借りていて、それを長い間返せずにいて、やっと返せる段になったと思ったら、その友達はもう引越して遠くに行ってしまっていた」

「……………………」

「それも、とても行くことができないような、遠い遠い場所へだ」

「……………………」

「もしお前だったら、どうする?」

「……それは……」

名取は北川から受け取ったポータブルデバイスを手に持ったまま、何も答えることができずに、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。

彼が持っていたポータブルデバイスには、こんな見出しが躍っていた。

 

「スペースシャトル『ファインダー』原因不明の空中爆発」

「最年少の女性宇宙飛行士の栄光、一転悪夢に」

 

ただ、そう書かれていた。

 

「……………………」

その日、葬列に並ぶ参列者の中に、彼の姿があった。黒い喪服に身を包んだ彼は、まるで自分が別の世界にいて、そこで否応なしに悪い夢を見せられているような、空虚な感覚に支配されていた。

……しかし。

「……まだ、答えを言ってなかったのにな……」

皮肉なことだった。自分が空虚な気持ちで発したこの言葉が、彼を縛っていた空虚な感覚を、一度に消し飛ばした。それは、目の前の光景は紛れも無い現実であるという、厳然たる事実。受け止めようにも受け止めきれない、無慈悲な現実。

「……………………」

彼はその事実に、ただ押しつぶされるがままだった。

 

芽美が搭乗したスペースシャトル「ファインダー」は、離陸から大気圏突入の間にエンジントラブルを起こし、大気圏を突破することなく、空に散った。

それは、あまりに皮肉なことだった。

彼女の父親である秋雄の乗ったスペースシャトル「エクスプローラ」も、大気圏突入前にトラブルを起こし、そのまま二度と着陸しなかったのだから。

父親が宇宙へ行けなかったように、娘もまた、宇宙へ飛び立つことができなかったのだ。

それは、彼女の目指した父親と同じ方法で、そして同じ場所に葬ってやりたいという神の慈悲なのか、或いは残酷さなのか。

今となっては、そのどちらのようにも思えた。

そして、どちらでも変わりは無かった。

 

「芽美……」

彼はこの時初めて、芽美を名前だけで呼んだ。

それは彼が芽美のことを、一人の女性とした見た証だった。

……彼女の姿が、彼の脳裏に浮かび上がった。

 

(あたし、宇宙飛行士になりたいの!)

(夢を見ることは、それを叶えることの第一歩だって、お父さんが言ってたんだもん!)

(あたしの……お父さんを探す時間。宇宙に行ったまま帰ってこない、あたしのお父さんを探す時間)

(絶対に見つけて、北川さんのこと紹介するの!)

(もうっ! イグゼったら、ひどいのよ! ねえ北川さん、ちょっと聞いてくれない?)

(ポケモンは生き物よ。だったら、いつかはこの話も分かってくれるし、きっとこれを『面白い』って言ってくれるはずよ! そうでしょ?)

(えーっ?! そんなことないよ! あたし、北川さんにまだ追いついてないもん!)

(最後は、一緒にゴールしましょ! あたしと北川さんで、一緒にゴールするの!)

(あたし、絶対に北川さんに追いついて見せるから! 北川さんと一緒に、一緒に走りたいから!)

(あたしが地球に戻ってきたら、あたしを『北川芽美』にしてほしいの!)

(それでね、一緒にゴールした後は、また一緒にスタートするの! 今度はずっと一緒に走って、最後まで一緒にいて、二人揃ってゴールするの! ずーっと一緒に!)

(あたし、北川さんのことが好きだから! お父さんと同じぐらい、好きだから!)

 

「……………………」

彼は空を見上げた。

彼女が今もいるであろう、その空を。

「芽美……!」

しっかり見えていたはずの雲が、次第にぼやけていき、最後には形を失った。

……己の瞳を焼き尽くすような、止め処ない熱さと共に。

 

「……………………」

「……………………」

北川は向き合っていた。芽美が彼に託した、あのポケモンとである。あの後芽美が「しばらく、面倒を見てあげられないから」という理由で、北川に預けたのだ。北川はそれを快諾した。

まさかそれが、彼女の「遺品」になるとは、その時は思ってもみなかった。

「……イグゼ……」

北川はイグゼの顔を見た。イグゼはいつもの無機質な表情を浮かべたまま、北川のことを見つめている。その瞳には何の感情も感じられなかった。ただ、「何かを見る」ための器官としての「瞳」だった。

「……………………」

北川にはそれが、まるでイグゼが芽美の死に無関心であるかのように思えて、無性に悲しくなった。同時に、無性に腹立たしくもあった。そして、無性に虚しくもあった。

だから、彼は声の震えを止めることができなかった。震え、上ずる声で、イグゼに語りかけた。

「わからないかも知れないけどな……これは義務だ。お前に言わなきゃいけないことがある」

「……………………」

「お前の親は……芽美は……もう、お前を迎えに来ることはできないんだ。お前はもう、芽美には会えないんだ」

「……………………」

「芽美はもう……死んだんだ」

言葉の一つ一つが、まるで自分に突き刺さってくるかのようだった。芽美が迎えに来ないのも、会えないのも、彼女が死んだこともすべて、イグゼのみならず、彼にとっても同じ事実だった。

(……俺は何をしてるんだろうな……こいつが……『親の死』なんて事実を、理解できるはずなんてないのにな……)

そう。イグゼはプログラム。感情など持たない、無機的存在。イグゼ――ポリゴン――を造り上げた時から、そんな事は分かりきっていた。

だから……例え「親」である芽美がもうここを訪れることは無いと言ったところで、何の意味も

「……−−− −・ −−・(……ong)」

「……?」

……そこまで考えた時、不意にイグゼから信号が発せられた。

「・−− ・−・ −−− −・ −−・(wrong)」

「……イグゼ……?」

「・・ −  ・・ ・・・  ・−− ・−・ −−− −・ −−・(It is wrong)」

「お前、何を……」

北川がそう言い、イグゼに触れようとした……

……その時だった。

 

「・−− ・−・ −−− −・ −−・!!(wrong!!)」

 

一際強い信号が、イグゼから発せられた。

「イグゼ?!」

「・−− ・−・ −−− −・ −−・!! ・−− ・−・ −−− −・ −−・!!(wrong!! wrong!!)」

「……?!」

「・・ −  ・・ ・・・  ・−− ・−・ −−− −・ −−・!! ・・  ・−・・ −−− ・・・− ・  ・・・・ ・ ・−・!!(It is wrong!! I love her!!)」

信じられない光景だった。信じることの方が、難しい光景だった。

「・・・ ・・・・ ・  ・−−・ ・−・ −−− −− ・・ ・・・ ・ −・・  − −−−  ・−・ ・ − ・・− ・−・ −・  ・−− ・・ − ・・・・ −−− ・・− −  ・・−・ ・− ・・ ・−・・!! ・・ −  ・・ ・・・  ・−− ・−・ −−− −・ −−・!!(She promised to return without fail!! It is wrong!!)」

……そして、イグゼの身に、変化が起きた。

「……イグゼ?! どうしたんだ?!」

「・−− ・−・ −−− −・ −−・……・−− ・−・ −−− −・ −−・……・−− ・−・ −−− −・ −−・!!(wrong……wrong……wrong!!)」

イグゼの体が激しく発光し、その形を徐々に変えていった。

「……これは……?!」

その光は、角張った幾何図形の集合体だったイグゼの体を、丁寧に丁寧に削り取ってゆき、その形を著しく変えていく。角は丸くなり、継ぎ目の目だった足はそれが分からないほどに綺麗に接合され、そして……

「イ……イグゼ……」

「・−− ・−・ −−− −・ −−・……・−− ・−・ −−− −・ −−・……・−− ・−・ −−− −・ −−・!!(wrong……wrong……wrong!!)」

……丸く、そして強く「感情」を帯びたその瞳からは、止め処もなく……

……熱を帯びた水が、流れ落ちていた。

(……そうか……)

北川はこの時、ようやく思い出すことができた。自分が何をしたくてこの世界に入り、何を造り上げることが目標だったか。

(俺は……こいつみたいなプログラムを……この手で……作りたかったんだ……!)

北川は尚も泣き続けるイグゼを、黙ったまま見つめていた。

 

(北川さんには、何か夢はないの?)

(俺か? 俺は……)

(……生きたプログラムを作ってみたい、かな)

(へぇー。それって、どんなの?)

(大したことじゃないんだがな。それこそ、人間みたいに笑ったり、悲しんだり、怒ったり、泣いたりできるようなのがいい。今のプログラムは、俺にとっちゃ無味乾燥すぎるんだ)

 

「……そうかっ……お前もっ……泣きたかったんだな……っ」

「……………………!!(……………………!!)」

北川は理解した。ようやく理解した。イグゼは決して、無機質なプログラムなどではなかった。生きていた。自分の意志や感情を持って、この世に生きていた。

だから、泣いたのだ。かけがえのない人を、芽美を失ったからこそ、イグゼは泣いたのだ。「泣くことができる体に、自分を進化させた」のだ。それは紛れもなく、「感情」の成せる業だった。北川が長年、探し続けていたものだった。「感情」。それが、北川が長らく忘れていたものだった。

「すまない……俺が……お前に『泣く』ためのプログラムを作ってやれなかったから……お前は……自分で自分を変えてまで……泣いたんだな……っ!」

北川とイグゼは、ただひたすらに涙を流し続けた。泣くことでしか、自分の感情を表現できなかった。泣くことだけが、彼らに許された感情表現だった。

「芽美……っ!」

泣くことによって流した涙だけが、彼らが負った心の傷を癒すことができた。

 

「……俺はそれから、イグゼの身に何が起きたかを調べるために、このプロジェクトを立ち上げた」

「……………………」

「イグゼが『感情』を持つに至った理由を、俺はどうしても知りたかったんだ」

北川が何もない虚空を見つめながら、穏やかな口調で呟いた。

「それじゃあ、私たちが今研究してる、あのポリゴン2っていうのは……」

「そうだ。芽美のイグゼだ。あいつと普通のポリゴンを比べて、得られた違いを『アップグレード』という形でまとめ上げる。これが、このプロジェクトの本質だ」

北川は大きく息をつき、さらに言葉を続けた。

「芽美が俺に思い出させてくれたんだ。俺が何をしたくて、そして何をすべきかということをな」

「……………………」

「俺は何があっても、このプロジェクトを成し遂げてみせる。それが……俺にできる、芽美への唯一の恩返しだと思ってる」

「恩返し……ですか?」

「ああ。俺はあいつに、俺にとって一番大切なことを思い出させてもらった。だから、それを形にすることだけが、俺にできる恩返しなんだ」

北川はそう言って、ソファに深く腰掛けなおした。

……と、その時だった。

「……あ、先輩。メールが届いてます」

「お、そうか。悪い。貸してくれ」

名取が手にしていた北川のポータブルデバイスを手渡し、受け取った北川がすぐに操作を始める。

「……何のメールですか?」

「ん? ああ。社内で進んでる、もう一つのプロジェクトのサブリーダーからだ」

「ということは、リーダーは先輩なんですか?」

「ああ。二つも同時に計画を抱えるなんて、この業界じゃかなりアレなんだけどな」

北川は笑いながら、メールの中身を読み始めた。

「それで、その計画って言うのは、どんな計画なんです?」

「なんだ。お前、知らなかったのか? ある意味、このプロジェクトと同じぐらい、重要なプロジェクトなんだ。とある人物からも、ぜひとも進めてくれと言われてる」

「……とある……人物?」

名取のこの問いに、北川は穏やかに微笑んで、こう言った。

「ああ。そいつはこう言ってる」

 

「『宇宙に行ったまま帰ってこない大切な人を探しに行きたいから、早く私を宇宙空間でも活動できるようにしてください』ってさ」

 

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。

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