〆切前夜、ある大学生の下宿に訪れた奴等




「うがあああああっ」
 月に向かってコージは吼えた。
 深夜である。近所迷惑である。
 しかしコージの下宿はど田舎にあってボロいせいか空き室が大半で、一番近い2つ隣はしょっちゅうハードコア・メタルを大音量でかけているので、文句を言われる心配は無い。
 窓際の学習机。パソコンのディスプレイに開かれたテキストファイルは真っ白。
 脇のファイルには論文のコピーと乱雑なメモが積み重なっている。
 コージはどんよりした眼差しで、壁に掛かった時計を見た。
 時刻は夜の10時。
 〆切は明日の朝9時。
 あと11時間……否、移動時間を考えるとあと10時間ちょい。
「くふっ……」
 謎のうめき声がもれる。
 椅子の背を掴んでうなだれていたコージは、がばっと顔を上げた。
「埒が明かん。何か食お」
 ふらふらと台所に行って、コンロの上に置いたままのやかんを手に取り、流し台の蛇口を全開にしてじゃばーっと水を入れ、火にかける。
 冷蔵庫を開けるとドーナッツの箱があったので、取り出して窓際に戻る。
 中には硬くなったチェロキーが一本。
 こんなものあったっけ? と思いつつ、かじる。
 ざり。表面に塗された砂糖が割れて、すっと口の中で溶ける。
 だだ甘い。頭に糖分が行くから丁度いいな、と甘党のコージは思う。
 明日の朝9時に、実験のプランをまとめて、教授に持っていかなければいけない。

「たとえば、ですね」
 教授は言った。
「今日、僕が帰り道で事故に遭って、どうにかなってしまったとするよ。
 それでも、僕のことをぜんぜん知らない人が、残されたそれを読んで僕がやろうとしていたのと全く同じ実験ができる、それくらいのものを書いてきてください」

「ムリッス」
 回想と同時にコージは無機質にうめいた。
 漠然としたイメージはあるのだが、書き出そうとすると、それを言い表す言葉が見つからなくて、どんどんイメージが拡散して、わけがわからなくなる。
 ほんとは、自分はバカなんじゃないかと思う。あの教授に指導を仰げるレベルに達していないのではないかという……。これがまた当たっていそうでいやだ。

「アホー」

 ぼきっとチェロキーが折れた。
 コージはぎぎぎっと窓の外を見る。
 心臓が止まるかというくらい驚かせてくれた声の主は、大きなカシの木の枝に停まったヤミカラスだった。
 闇夜のカラスとは言ったもので、今日みたいな比較的明るい月夜でも、枝葉の闇に紛れてその姿は至極わかりにくい。
 ヤミカラスは今初めて気付いたというようにコージを見ると、くちばしをにやりと開けて、
「ケッケッケッ」
 と笑った。
 コージの眼が半眼になる。
「とりゃ」
「ケギャッ」
 コージの投げたチェロキーが見事、ヤミカラスの頭に命中したらしい。バサバサ羽ばたく音と一緒に、派手に枝が揺れる。
 飛び掛かってこられると困るので即座に窓を閉めて、カーテンも引いた。
 ほっと一息。
「……だぁら何やってんだオレ」
 ぐぢゃっと空になった箱を握りつぶして、ゴミ箱にポイ。
 はあっ、とため息ついたところで、火にかけたままのやかんを思い出す。
「ぐはぁ」
 棒読みで謎な悲鳴をあげながら台所に行くと、火は自動的に止まっていた。
 吹き零れてガスだけがしゅーしゅー出てる状態じゃないかと確認してみたけれど、ちゃんと「止」のところまで戻してある。
 こんな機能がついていたとは知らなかった。ほっとして、コージは再び点火。
 まだお湯は冷めていなかったらしく、すぐにしゅーしゅーと音を立て始めた。
 紅茶のティーバッグとマグカップを取り出し、マグカップにお湯を注いでカップを温め、またお湯をやかんに戻し……とやっていると、

 トン、トン。

 入り口のドアがノックされた。
 げ。さっきの大声の苦情か。
 どんよりした気分で、
「はい」
 と返事だけする。
 こんな深夜にまさか無いだろうが、新聞や宗教の勧誘やMHKの受信料の取り立てだと困るので、ドアは開けない。

 トン、トン。

 答えはなく、ノックの音だけが応える。
「どなたですかー?」

 返事は無い。

「恩田さんですか?」

 たまに挨拶をするのと、いついつ何時ごろに4人ほど来て煩くなりますごめんなさい、という連絡を貰うくらいの、髭面コワモテの割にはかなり礼儀正しく気弱そうな2つ隣の住人かと思い、ドアの外に問いかけてみる。

 返事は無い。

 気味が悪いので、コージはそのまま放っておくことに決めた。
 マグカップにディーバッグを入れて、お湯を注ぐ。
 つんっ、つんっ、と二度ほど中で躍らせて、ディーバッグを引き上げる。
 友人に「薄すぎだろ」と言われたが、コージは「紅茶味つきの白湯」くらいのものが好みだ。
 温かいマグカップを持って、机に戻ろうとした時。

「うぅ……えうっ……」

 ドアの外から、かなり小さな子供のしゃくりあげる声が聞こえた。
「はぁ?」
 コージは大またで玄関に出ると、鍵を外してドアを開けてみた。左手に紅茶の入ったマグカップを持ったまま。

 ドアの外には、まさしく子供が居た。

 頭にターバンのようなものを巻いた、ちょっと不思議な雰囲気の子供。
 びっくりしたような顔で、青い眼で、コージを見上げている。
 ガイジンさんの子供か。
 きっと日本語がわからないんだな、とコージは思った。
 幼稚園か小学校に上がったばかりか、そのくらいの歳だろうか。
 日本に旅行に来て、親とはぐれて、散々さまよった挙句、手近な家のドアを叩いたってところだろう。
 観光都市だなぁ、と妙なところで実感する。そういえば近くに紅葉の名所があった。確か、夜でもライトアップしているらしい。料亭も何軒か立ち並んでいるので、多分そこのお客だろう。
 それにしても……なんで一階の家に行かないかなぁ。留守か?
 コージがぐるぐる考えている間、子供の目にじわじわと大粒の涙が溜まってくる。
「ぼく、どうしたのー?」
 慌てて屈み込んで、猫なで声で聞いてみる。
 子供はぎゅっと両手を握って、うぐっ、としゃっくりを抑え込んだ後、泣きそうな眼でコージをじっと見る。

 こどもの じゅんしんな たすけをもとめる め こうげき!

「とっ、とりあえず、はいって、な? そと、さむいっしょ?」
 ぽんぽん、と子供の肩を叩いて、家に入れる。
 子供はぺたぺたと歩いて、玄関から台所に上がった。靴下だけで、靴を履いていない。
「………」
 とりあえず、コンロの下の戸棚からインスタントココアを取り出し、ティーカップに淹れる。
 なんだかカップが逆だが、仕方あるまい。まさかこんな時間にイキナリ客が、しかも子供が来るなんて思わない。
「ほい」
 と、差し出す。
 子供はおずおずとカップを受け取ると、その場で立ったまま、こくん、とひとくち飲んだ。
「こっち、おいでな?」
 座布団をふたつ出して、学習机のふもとに並んで座る。
 子供はティーカップの熱で温まるように両手で抱えて、口許をカップに埋めている。
 かなり白い肌が寒そうな印象を与える。コージは押入れからタオルケットを一枚出して、子供の肩に掛けてやった。ちなみにその押し入れにはテレビがある。MHKの集金が来た時に「うちにテレビはありません。どこにテレビがあるというのですかっ」と、とぼけ通す為の配置。

「ふぅ」
 マグカップの中の薄い紅茶を喉に通して、一息ついて、
 はっ、と我に返る。
 こんなことをしている場合ではない。格好の現実逃避のタネが来たからといって、〆切が延びるわけではないのだ。
 とりあえず、料亭や旅館に電話して客の子供が迷子になってないか確認して、それから警察に電話。しかるのちに実験計画をぉお、、、……鬱だ。
 コージは半眼になって、心の中でえうあーとため息をつくと、
「そうだ、ぼく、おなまえ、なんていうの?」
 子供に訊いてみた。
 子供はマグカップから口を離して、きょとんとした顔でコージを見上げる。
「わっつよあねいむ? にーくぃしん? しぇんまみんずー?」
「………?」
 子供は困ったような申し訳なさそうな表情で、ちょこん、と僅かに首を傾げた。
 英語、中国語(北京語)、通じず。
 じわっ、と子供の目に涙が湧いてくる。
「やっ、怒ってないから、な?」
 なでなで。ターバンの上から頭を撫でて宥める。
 ひくっ、ひくっ、と子供は喉の奥でしゃくりあげはじめる。
「よーし、よし、よしよし、よーしよし」
 コージ、ひたすらなだめる。
 ちらっと頭の片隅を「ヨォーシヨシヨシヨシヨシヨシヨシヨシヨシヨシヨシヨシ!! お前は大したヤツだセッコ」などという某濃ゆい漫画のネタをやりたいという衝動が掠めたが、そんなことをしたら泣き出しそうな気がするのでやらない。
 えうっ、あうっ、と子供は嗚咽を上げ始める。
「どうしたの、よしよし……。さみしいなぁ、よしよし」
 ひたすら子供の頭をゆっくりと撫でるコージ。
 遂に子供はティーカップを抱えたまま、ぼろぼろと泣き出してしまった。
 コージはその手からそっとティーカップを受け取る。子供はコージの腕にしがみついて、体を震わせて泣いた。
 コージは中身が半分になったティーカップを床に置くと、片手でぬるい紅茶を飲みながら、子供をなでなでしながら、明日〆切の実験計画を頭の中で組み立て始めた。

 使うのはまず、質問紙法……。
 そのものを扱うには本人の体験に絞らなきゃな……。
 でも共同体験としては集団……。
 それを話すという場面では、噂の研究になる……。
 まず、本人が物理的に、生理的反応として、何を感じているか……。
 これは回想してもらって、アンケートでいけるな。
 どういう項目が必要か……。
 集団の体験や噂を扱う場合は、実験室に人を集めて、実験ができる……。
 集団の体験の場合、まず部屋に集めて、サクラを用意して……なんかこーゆーの、人をバカにしてるみたいで好かんなぁ……。
 噂の場合、……あえてこのテーマで扱う意味があるか……噂の変容という視点では、ちゃんと話のいろんな要素の揃ったものを変数として用いた方がいいよなぁ。興味はあるけど、このテーマである必要はないよなぁ。先行研究があるのは心強いけど……。

 考えているうちに、いつのまにか、子供は静かになっていた。
 泣きつかれて眠ってしまったらしく、小さな寝息が聞こえてくる。
 そっと腕を抜き、子供をその場に寝かせてタオルケットを掛け直し、コージはパソコンに向かった。
 オンラインのタウンページで、この近くの旅館や料亭の電話番号を調べる。
 屋号と電話番号をひととおりテキストファイルにコピー&ペーストした後、机の引き出しをぐいと引き開けた。
 中には電話機が一台。他に収まりのいい場所がないのと普段は携帯電話で用事を済ませているため、こんなところに入れている。机の引き出しを開けたら電話が出てくるという意外性も、実はこの配置が気に入っている理由の半分だったりする。友人はそんなところに入れていては急に鳴ったときびっくりしないか不便じゃないかと言うが、常に留守電にしていて基本的に取らない電話である。滅多に鳴らないし、不便を感じたこともない。
 ぴっぽっぱっ、と番号をプッシュ。
 1件目は3回コールで出た。深夜にしてはなかなか早い。落ち着いた貫禄のある声。
「夜分に恐れ入ります。キノモトと申しますが……」
 女将さんかな、と思いながら、その声の穏やかさで少し緊張の解れたコージは用件を話す。
 1件目、該当者なし。
 2件目、該当者なし。
 3件目、該当者なし。眠そうなおっさんの声で、かなり迷惑そうな反応をされた。少し悲しくなるコージ。
 4件目、出ない。料亭なので夜は留守なのだろうか。
 5件目、該当者なし。わざわざ両親を探していることを褒められる。警察にもかけることを勧められ、はいそのつもりですその前に一通りかけてみようかと思いまして、とコージは答えた。
 6件目、該当者なし。
 7件目にかけている途中。10回コールしたところで、窓ガラスがコンコンとノックされた。
 ここは2階である。
 あのヤミカラスか? と思ったコージ、電話を切り、カーテンを開ける。

 ぼやっとした白い影が、窓の外に浮いていた。

「どわっぁああああ!?」
 びょーんと台所まで飛び退いて……というかひっくりこけて、ガスコンロで頭頂部をしたたか打った。ちょっと涙が出た。
 コージの悲鳴に起こされたのか、子供がもそもそと目をこすりながら身を起こした。

 コンコン。白い影が、窓ガラスをノックする。

 緑色の髪の、人っぽいけれど、明らかに人ではないシルエット。あまりにも細すぎる。
 宇宙人かっ? ……いや、ポケモンか。
 コージ、一瞬にして落ち着く。
 お腹を空かした野生ポケモンなら危険かもしれないが、わざわざノックしてくるポケモンなら人に慣れたポケモンだろう。
 そう考えて、コージは窓に歩み寄り、鍵を開けた。
 客の多い夜だなぁ、と思いながら。

 ポケモンはキィと扉を押し開けた。
 腕と、顔の半分を覆う髪は緑色。胸にピンクの石みたいなものがある。
 ふわっと白いひだをスカートみたいに広げて、そのポケモンは宙に浮いていた。

"すみません"

 コージの頭の中に声が響く。優しいけれど、その声質を特定しようとすると薄れる……ニュアンスだけが伝わってくる、と言った方が適当だろうか。

「お姉ちゃん」

 ぼんやりした小さな子供の声が後ろから。コージが振り向くと、子供はタオルケットを半分肩にひっかけてその端を握ったまま、眠そうな目で窓の外のポケモンに視線を注いでいる。
「おねえちゃん……?」
 コージ、眉根を寄せて考える。
 姉弟? ポケモンと姉弟? もしかして、この子供もポケモン? なんか人間離れした雰囲気はしていたけれど……。

"ルィニがお世話になりました"

 白い細身の人型ポケモンはコージをじっと見つめて語りかける。
「はぁ、どうも」
 つられて、ぺこりと頭をさげるコージ。

 子供は、ぽてぽてと窓に駆け寄った。びっくりしたような表情のまま。後には抜け殻みたいにタオルケットが残っている。
 ポケモンは窓から乗り出して抱きついた子供の頭を撫でて、なにかを語りかけている様子。
 よくわからないけど、保護者がみつかってよかった。傍観しながら、コージは思った。
 子供は多分日本語ではない言葉で、興奮気味にわぁやわぁや話している。ポケモンとはそのコトバで通じているらしい。
 ということは、さっきの「お姉ちゃん」はオレのためにわざわざ日本語で言ってくれたのか? とコージは考える。

 子供……ルィニという名前らしい。声質からみるに多分少年、は、コージを振り向いて、ニカッと笑って、
「ありがとー」
 と、日本語で言った。

「え、どーいたしまして」
 答えて、ふとコージは気になったことを聞いてみる。
「そういや、なんでオレの家に来たんだ?
 あの、お姉さん、あなたもなぜうちにいるってわかったんですか?」

 ルィニは、んー、と思い出す仕草をして、
「ヤミカラスのおっちゃんがね、ここの人間は食べ物をくれるいい人間だからきっとなんとかしてくれる、っていったから、きたの」
 緑の髪のポケモンはふわっと優しいニュアンスで、
"だって、わたしたち、エスパーポケモンですから"
 無邪気に答えた。

 ヤミカラス、怒ってなかったのか。
 それとも困らせてやろうという知能犯か。
 むむむ、と真剣に悩むコージ。

「それじゃっ、またね!」
 ばいばいっ、とルィニが手を振る。
「おー、またなー」
 ひらひらっ、と手を振り返すコージ。

"ありがとう"

 あったかいコトバを残して、ルィニを抱きかかえると、ポケモンはふわりと窓の外に消えた。
「あー」
 変な夜だなぁ、との感慨に浸って、ふと時計を見る。
 午前1時。
「あぁ……」
 問題のテキストファイルは白いまま。鬱だ。





 なんとか、さっきルィニを宥めながら考えていたことを掘り起こして、だらだらと箇条書きにする。
 ごちゃごちゃに絡まっていたものが、すっと3つに分かれたような気がする。
 何を調べたいのか……。
 どんな仮説が今頭の中にあるのか……。
 論拠は、参考文献は……。
「ええと、なんだっけ、あの車の事故の映像を見せるやつ……」
 悩みながらも、堰が外れたようにすらすらと書ける。
 動機、仮説、目的……。
 方法、の部分で、また詰まる。
 うんうん唸っていると、

「お疲れさん、ちょいと休みなよ」

 コトリ。キーボードの傍らにいい匂いの紅茶が置かれた。
「ん、ありがとさん」
 熱い、やや濃いめの紅茶をすする。喉越し温かく、体の中に熱がしみこんでいく。
「……………?」
 ふたくちめをすすりながら、ふと、コージは目だけで傍らを見てみる。

 平たい顔のポケモンが、にっこにっこしながらお盆を片手に浮いていた。
 ゴースト。ガス状ポケモン。

 ガスじょうの したで なめられると
 からだの ふるえが とまらなくなり
 やがては し に いたるという。

「ぶっ!」
 思わず紅茶を噴出すコージ。
「わっ、やばっ!」
 ディスプレイに水滴が掛かる。慌ててティッシュで拭き取る。幸い、キーボードは無事だった。

「だっ、大丈夫かい?」
 慌てつつ、ひょい、とゴミ箱を差し出すゴースト。
 うん、と頷いて、ぽいっとティッシュを捨て、
「あんた誰よ」
 半眼で訊くコージ。
「うぃ? ウチは……クランケってあだ名で呼ばれちょる」
「や、名前じゃなくて」
「あんた結構いいとこあるじゃないのさ、ちょっとジーンときたさね」
「見てたんかいっ……って、いつからここに居るんだお前はっ!?」
「やだねっ、アンタがここに越してくるより前から棲んでるよ」
「……は?」
 もしかして、入居率が低いのはこいつのせいもある?
 そんなことを漠然と考えるコージ。
「……ひょーっとして、時々ガスの火が自動で消えてたり、冷蔵庫に買った覚えの無い食べ物が入ってたり、開けて出たはずの窓が閉まってたり、出し忘れたゴミがなくなってたりするのって……?」
 ゴーストはでかい顔をおもいっきしそびやかせて、
「全部ウチのしわざ」
 みょーん。コージの頭の中に謎の擬音が流れた。
「そ、それはいつも、どうも」
 ぺこり。つい頭を下げる。
「あ? もしかして、この前冷蔵庫に入れておいたモロゾフのプリンがなくなってたのもお前か?」
 ふと思い当たって、コージは頭を下げたまま、目だけでゴーストを見上げる。
 ゴーストはでかい顔のまま、平然と言った。
「それもウチのしわざ」

「てめぇが犯人かぁああああーーーーーッ!!!」

 ばびーん! コージ、手に持った紅茶をぶちまける。
「きゃあっ」
 などと言いつつも、ゴーストはガス状ポケモン。紅茶はびちゃっと畳を濡らす。
「あーあ、乱暴しちゃいけないよ」
 しょーがないねぇ、とブツブツ言いながらゴーストは台所から雑巾を取ってきて、畳まで降下して、こぼれた紅茶を拭き取る。
「もういいから出て行け。オレ忙しいの」
 しっしっ、と追い払う仕草。
「そんな、つれないよ、おまいさん」
 なよよ、と離れて浮いている手を口許に添えて上目遣いに見上げるゴースト。
「知るかっ」
 コージはパソコンに向かい直した。
「あーっ、わけがわからん」
「お困りかい?」
 ぬっ、とゴーストの巨大な顔がコージの視界の右半分を占拠した。
「20センチ離れてくれ」
 コージは眉ひとつ動かさずに告げる。
「あいよ」
 すすす、と律儀に20cm離れるゴースト。
 コージはしばらくキーボードをぺこぺこ叩いた後、おもむろに話し始める。
「視覚的ファントムってのがあってな、視覚的補完のひとつなんだが、輝度変調縞に垂直に黒い帯を入れた時にその帯の明るさが縞の最低輝度と一致してたら、縞の黒い部分が帯の手前に続いてるよーに見えるんだよ」
 反応が無い。
 横を見てみると、ゴーストはにっこにっこした顔のままぴたっと固まっていた。
「あえ、どーした?」
「……それ、日本語かい?」
「は?」
「……ウチにゃむつかしっくて、お経にしか聞こえないヨ」
 アハハ、とゴーストは笑う。
「や、その、ぼやっとした感じがゴーストと似てるよなぁ、って話なんだが」
 ゴーストのクランケは、アハハ、アハハハー、と乾いた声で笑った後、
「じゃ、ウチぁそろそろ帰るよ」
 ばいっ、と手を立てる。
「どこに」
 おもわずつっこむコージ。
「この下だよ」
「あぁ、空き部屋ね」
「そそ」
「じゃあな」
 ひらひらー、と手を振る。
「また来いよ」
 えっ、とクランケは嬉しそうに、ガスの隙間みたいな目をうるうるさせてコージを見上げる。
「いつもありがとな」
 言い置いて、コージはパソコンに向かった。
「ウチこそっ」
 言い置いて、クランケはすーっと床に消えた。
 後にはぽつんと、ちょっと濡れた雑巾が残されていた。



 その後、コージは朝までかかって、なんとか実験計画書を完成させた。
 徹夜明けの妙にハイな気分のままバイクにまたがり、帰りに生協でプリンをふたつ買って帰ろうと決めて、思いっきりエンジンをふかせる。
 朝日の照らす電柱の上で、ヤミカラスが欠伸みたいに、

「アー!」

 と鳴いた。






 お、し、まい。