月が綺麗だった。
 夜空は明るい紺碧が広がり、夜のモノクロに慣れた目に不思議なくらい白く映る雲が、天の半球を遠くから囲むように、水平線近くに引き延ばされていた。
 台風が近付いていると、腰に提げたラジオが告げた。
 海は賑やかだった。
 足許の岩場から遠く水平線の果てまで、赤い銀河が広がっていた。
 ひとつひとつは、岩場や海底に貼り付いた海星ひとでポケモンのコアや、海面近くを漂う海月くらげポケモンの頭部の発光体が、ゆっくりと明滅している。驚くほど近くに貼り付いているひとかかえほどの海月ポケモン・ヒトデマンの光に照らされて、ヒトデマン自身の硬質のコア周りの蒲公英たんぽぽ色や、岩場の鋭い凹凸やびっしり生えた細い海藻や、海底の砂の上に静止して目を開けたまま眠っている様子の大きなテッポウオの姿が、ゆっくりと浮かび上がり、
 その向こうでまた赤い光が海底の砂模様の影を濃くして、その頃には足許に見えていた全てのテクスチャが影色に沈んで、輪郭を残すのみとなっていた。
 そんなゆっくりとした一呼吸が、何百万何千万と海の果てまで繰り返されていて、海面の銀河全体が大きな呼吸をしているようで、そのまばらな明滅の合間に、時折大きな光の波を空に放っていた。
 風が吹いていた。
 恒常的に風が髪を引きなびかせて、海は大きくたゆたっていた。
 穏やかに上下する波が岩の表面で削られて白い鉋屑かんなくずを出していた。
「……つ……ラジオネームネッ……さん僕は今度カントーのタ………っていま……ので応援してくだ……うこ……めでとうございまーす! ねえ、もうこれあ………て…………リクエストはガーネッ…………ラィン………」
 雑音混じりのラジオが、割れた音を緩やかに零していく。明るいのにどこか憂いを含んだ女性の歌声が唄っている。歌詞までは聴き取れない。乾いたリズムが落ち着いた呼吸でざわめく海と対照的に、入れ子のように溶け合ってひとつの心休まる音を刻んでいる。



 声が、聞こえた。





ポケットモンスター
読み切り小説
海音
Neon





 キュオォオオーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン…………。

 海の赤い銀河と、空の白い銀河に挟まれた空間に、声が、響いた。
 最初は空が啼いたのかと思った。もしくは、海が泣いたのかと。
 沖の方の一点で、赤い星々が動いた。
 水に油を落としたように散開して、黒い空白が浮き上がる。
 海全体の呼吸が乱れたように……もしくは、深呼吸するように。
 其処を中心に、赤い光の波紋がザワッと沖へ海岸へこちらへと広がってくる。
 そして。

 そこから、飛び出した。

 ザパアッ。そう、波を割る音が、くっきりと聞こえた。

 赤い。海面の光に照らされた赤だと、ソレが空に飛翔して初めてわかった。

 黒い。雲の下の闇に呑まれて、一瞬、シルエットのみと化す。大きく流線型のカタチをした、背中に隆起した板状の棘を持った、長い尻尾と滑らかなカタチの先の大きな翼を緩やかに風に乗せて空を泳ぐ、……鳥? 竜?

 白い。欠けた月と群れ集う星に照らされた姿は、むしろ青白く、輝いていた。

 水の飛沫が流れ落ちて、空中でキラキラ輝いて、
 羽先まで濡れた躯が光を返して、

 青白を散りばめた紺碧の天を、泳いでいた。



 キュオォーーーーーーーーーーン………。


 遠く響くその声は、澄み渡って、体の芯が痺れた。
 呼応するように、赤い光の群れがざわめく。
 しばし、只、それを眺めていた私は、
 手の中がじんと熱くなっているのに気付いた。
 天を翔るソレとの距離が、ひどく、寂しく、
 皮膚の下から溶け出るように、目が潤んで、喉が湿って、
 泣きたくなった。

 苦しくて、胸の中心を掴んだ手の指先が、硬い物に触れた。
 首から提げたおもちゃの笛。外見は銀色で細くて立派に見えるけど、露店でワンコインで売っていた。まあ妥当な値段だろう。メロディを奏でることもできない、単音の笛だし。
 でも、結構な音が出る。割と澄んでいて綺麗。だから。
 空を見上げて。夜空に向かって。夜空を翔るそれに向かって。
 笛を銜えると、息を吸い込んで、思いっきり吹いてみた。


 鼓膜が痛いくらいの甲高い音。
 あの啼き声に比べて、惨めなくらいちっぽけで単純で厚みのない音。耳に響いて攻撃的ですらある。
 遠くまで届く自信だけはある、こういうものだから。
 でも、この余裕のない響きに、あれが去ってしまわないか、
 そんな不安が胸中に重く疼く。
 せめて気にも掛けないでいてくれたら。
 姿を見せ続けてくれたら。
 余計なことをして。
 嗚呼できれば、これしきのことで揺るがないで。
 奥歯を噛み締めて、そんな思いに耐えながら、
 遠くの悠然とした姿を、眺め続けた。



 ルゥオオオオオオオ…………………………。


 声が。返ってきた。
 優しい調子の、親しげな声が。
 仲間でもいるのかと、見回した視界に、
 無関心な赤い銀河の瞬きが一瞬、奔って、
 空から、白い唯一の鳥か竜かわからないイキモノが、降りてくるのが見えた。

 ソレは、上空を旋回しながら、黒い縁取りの眼で、優しい瞳で、下を……私を、見下ろして、
 もういちど、穏やかに、啼いた。

 私は……単音しか出ない笛を口に当てて、思いっきり吹く。
 こんな音しか出ないことに、ひどく苛立ちながら、
 でも、音が出せることを、奇跡のように嬉しく思いながら。

 はばたく風が海風と絡み合って肌を吹き抜け、
 その光沢のある翼から飛び散った光が……銀色の羽が、一枚、舞い降りてくる。

 目の前に降りてきたその羽を、私は掴み取り、
 手の中に、銀色の光があるのを、
 それが手の中に在ってすら光を失わないのを、
 泣きそうになりながら、眺めた。

 風が、吹き付ける。

 大きな躯が、弧を描いて降りてきた。

 海面すれすれの、手が触れそうな距離を、白銀に光る巨躯が通り過ぎていく。
 牙の生えた嘴ではない口許。黒い縁取りの眼。緩やかなラインの首筋、背の沢山の黒い板状の突起、海面の赤を映して尚眩しく光る翼、縮こまった水掻きのある脚、長く先に黒い棘のある尻尾。

 風に圧されて吹き飛びそうになって、後ろについた足が、磯に嵌って濡れる。
 いつの間にか、潮が満ちてきているらしい。

 尾の末端が僅かに海面に沈む。高く、急角度で空に舞い上がったソレに、
 私は、大きく手を振って、

 手の中の銀色の羽をしっかりと握り締めると、白銀色に光る姿に背を向けた。

 残った足場は少なくて、何度も足許を波にさらわれて冷や冷やしながら、岩場を跳んで岸に戻った。

 柵に腕を絡めて、ほっと一息ついて、
 隙間をくぐり抜けて道路に出る。

 足許は既にぐちゃぐちゃになっていて、
 手の中には強靱でしなやかな感触の銀色の羽がある。

 海を振り向いた。

 雲が急速に渦巻き始めた空を、白銀の光が、遠くへ、翔けて往くのが見えた。
 雑音混じりのラジオが、
「……北西部には……洪水……強風、波浪注意報……南西部には大雨、洪水、強風、波浪注意報……沿岸部の方々は高波の恐れがございますので充分ご注意くださ……づ……」
 台風の接近を、告げていた。