#1 キモリ


 樹海の朝。霧が晴れていく。

 通り過ぎた嵐の残滓か、時折上の方で突発的な風が吹き抜け、高い梢に溜まった水滴を振り落とす。
 遠くから聞こえる波の音は、穏やかそのもの。

 日が差してくる。
 苔生した地面に日差しの模様を描く。
 地面に落ちた黒い小さな木の実が、濡れた草葉が、枝から滴る露が、それぞれひとつづつの太陽を映して光る。

 巨木の根元から、キモリがひょっこり顔を出した。

 大きな目を眠そうに半分閉じて、細っこい腕でしきりに擦っている。
 やがて、張り出した木の根にずりずりと這い上がると、転がり落ちるように(実際、足でも踏み外して転落しているようにしか見えない)日なたの草の上までべちべちと転がって行く。
 かなり危険な落ち方をしたように見えるのだが、実際は怪我ひとつ無く、べちっ、と草の上に大の字に寝っ転がるキモリ。その表情は「気持ち良さそう」を形にしたような平和でのんびりしたもの。

 真下から見上げる木の天井は木漏れ日がまぶしくて、ざわざわと蠢いていて、時折ぱらぱらと水滴が落ちてきて、すごく新鮮な感じがする。
 体が温まってきたキモリは、寝転がったまま手探りで地面のあちこちに落ちている黒い小さな木の実を拾い、口に放り込む。
 噛み潰すと皮の内側の甘ったるい味と少しすっぱい果肉の味が混じって、頭がツンと冴え渡る。

 手の届く範囲の木の実を食べつくしたキモリは、ぴょんっ、と飛び起きて、きゅーっ、と背伸びして、まだ少し湿気の混じった空気を思いっきり吸い込んだ。
 嵐の後の、いつもとちょっと違う匂い。

 キモリの口許が楽しげに笑みを形作る。目がキラキラ輝く。胸の内側の鼓動が激しく高鳴ってくる。
 しゅたっ、と地面を蹴って宙返りして、キモリは駆け出した。
 樹海の中を、木々の間を、草叢の隙間の獣道を。
 雷で裂けた高い木や、土の中から突き出して蔦に覆われた遺跡や、早くも咲き乱れる真ん中の白い赤い花を横目に見ながら、海岸の方へ。
 川の流れる音が聞こえる。いつもより少し激しい音。

 藪を抜けて河原へ飛び出したキモリは目を丸くして、キャッと小さく歓声をあげた。
 川幅はいつもの倍くらいに広がって、広い河原は今キモリが立っている藪のすぐ外2歩分くらいしか残っていない。水量のどどんと増えた川の水は茶色く濁って、見慣れない大きな石や茂ったままの木なんかが斜めに顔を出していた。
 キモリは僅かに残った石のゴロゴロする河原をひょこひょこ歩いて、水に浸かった草叢を抜けて、ぬるい水に足を浸して、水の流れにくすぐられて、下流へとどんどん進んでいく。

 森が開けて河原が砂浜に変わり始めたあたりで、キモリはキラキラ光るものを見付けた。雫や木の実の艶よりもずっと強い光沢。指一本分ほどの浅い水の中から。
 近寄って見てみる。凄く眩しい黄色。目が痛くなるような光沢。キモリの指先ほどの小さな輪っかが連なって、先っぽは砂の中。

 砂に埋もれたそれを引っ張り出してみる。硬く冷たい感触。ぐっ、と抵抗を感じる。結構下まで埋もれているらしい。足を砂にぞりぞり捻じ込んで、掘り起こす。細かい砂がふわっと舞い上がり、流されて、踏ん張ったもう片方の足を撫でる。

 砂に突っ込んだ足の先っちょで硬い感触。よしっ。キモリはぐいっ、と鋭角に足をその硬いものの下あたりに突っ込むと、足の甲を上に向かって押し上げた。
 ずるずるずる、と連なるひしゃげた輪っかが次々と出てくる。そして最後に、大きな円盤が砂の中から顔を出した。

 キモリは連なる輪っかを手に絡めて、その円盤を持ち上げてしげしげと眺めた。

 初めて見る物。森の中にあるものとはどこか違う、そう、嵐の後に砂浜に打ち上げられているものや遺跡の中に転がっているものの仲間という雰囲気。

 ずっしりと重い。表面はつやつやしていて、縁にスッと溝が入っている。
 手に乗せてみると、しっくりと納まる大きさ。チッ、チッ、と小さな音がする。
 輪っかと繋がっているのと反対方向に、溝が少し広くなっている部分があった。
 なんか、ぱかって開きそうな感じ。
 キモリはその溝に爪の先を入れて、開けようと引っ張ってみた。

 あっさりと、円盤は開いた。

 中には透明な硝子が填まっていて、その下は白地。三方向を向いた長さも大きさもバラバラな黒く細いが真ん中に縫い留めてあって、そのひとつが、カチッ、カチッ、と動いていた。小さな音はこれの音だったらしい。円の外縁部には等間隔になにか記号が書かれている。

 それは、

 ────時を刻むモノ。

 キモリには初めて見るものだったが、
 不思議と、自分の手の中に納まる感触を、ずっと前からそこにあったかのように、
 当たり前のものみたいに感じていた。






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 ポケットモンスター
 読み切り小説
 『魂響』
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#2 カゲボウズ


 雨が降っている。
 暗い街の中、冷たい雨が降っている。
 灯りの無いガス灯の間を、カゲボウズがゆらゆらと飛んでいる。
 うらみの感情を求めて、影のように彷徨っている。

 路地裏の、煉瓦造りのボロいアパート。
 その窓のひとつから、明かりが漏れている。
 周りは死んだような静寂。
 死んだような街を叩く雨の音。
 廃墟特有の、空虚な雰囲気を滲ませながら、
 まだ僅かに人の痕を残している──。

 終わりを迎えつつある街。

 小さな蛾が一匹、ランプの火に飛び込んで燃えた。
 米粒ほどの、ほんの小さな蛾。ランプの僅かな隙間から潜り込んだらしい。
 4枚の羽を持つ大きな蛾は淡い光の周りを数匹てんでばらばらに飛んでいる。目玉模様の羽を音も無くばたつかせて、その残像が白い筋に見える。
 荒れた髪の隙間から、一対の目がそれを見ている。
 左右で色の違う、漆黒と深緑の瞳。
 虚ろで、殺気立った、光の無い眼。
 机の上で握り締められた手には金の鎖が食い込んで絡み付き、その先には、静かに金時計が時を刻んでいる。
 その音を聞いている。

 男の黒い目には、炎をあげて燃え尽きる小さな蛾が映っている。
 やがて、その光景はぼやけて、ランプの淡い光だけが満たしていく。
 男の深緑の目には、炎に覆われた街が映っている。
 やがて、その光景は広がり、鮮明になってゆく。

 時が加速する。
 進んでいるのか戻っているのかは、わからない。

 焦土。生命は一本の木すら無い。
 熱で溶けた瓦礫が、どこまでも続いている。
 その中には見慣れた看板や、行きつけのデパートの屋上の観覧車の骨組みや、喫茶店の椅子や、白く洒落たコーヒーカップや、焼け爛れたマネキン人形の欠片が、当たり前のように混じっている。
 空は暗く、夜のように暗く、恐らく夜ではないかと彼は思う。
 雪のように、灰が降っていた。
 灰が降り積もって全てを覆い隠そうとしている。

 ──いつだ。

 ────この地獄が訪れるのは。

 時が加速する。
 恐らく戻ったのだろうと、彼はその光景から思った。

 屋上の観覧車。
 バックには、蒼い、蒼い、雲ひとつ無い空。
 デパートの屋上の遊園地。
 休憩所のテントを風が弄っている。
 風の強い日。
 人の姿はひとりとてなく、
 否、
 彼自身の後ろ姿が、無人の売店の脇に立っていた。売店は開いていて、商品も揃っていて、その幾つかは床に散らばり、人の姿だけが無い。
 その視線の先には、空中に浮かぶ緑色の──妖精の姿。

「──セレビィ?」

 その妖精と初めて出会った時、彼はまだ少年で、
 そして、彼と、────。

 雨の音。石畳を叩く、変わらぬ雨の音。
 彼の両目にはランプに照らされた部屋の中が映っている。
 不器用に舞う蛾の輪郭がぼやけ、
 雨の音が耳を打ち、
 時計の針が時を刻む。

 彼は、頬をひとすじの水滴が伝うのを自覚した。

 男の背後にはカーテンの無いガラス窓があり、
 窓の外にはカゲボウズがズラッと並んで、じっと部屋の中を見ている。












#3 マッスグマ


 夏も終わりの事だった。
 僕は、その時──坂を駆け下りていた。
 石ころの多い、草の少ない急な坂道で、転んだら酷い怪我をしそうでちょっと怖かった。
 坂を下り切った先は川原で握り拳くらいの石がゴロゴロしていて、急角度でカーブしている川の向こう側は崖が聳え立っている。
 崖の途中からは木が張り出していて、その枝の上でマッスグマが川の中を覗き込んでいた。
 落ちそうになりながら四本の足で枝にしがみつき、鼻面を水面につけてはバランスを崩しそうになって後退る、ということを繰り返していた。その度に葉っぱやら黒い小さな実やらがバラバラと水面に落ちて流れていく。大好物の筈の木の実に目も呉れない。その様子から、僕はマッスグマがかなり必死で川の中の何かを取ろうとしているのがわかった。
 僕は爺ちゃんに頼まれた西瓜がちゃんと川の中で冷えている事を確認すると、そのマッスグマに声を掛けた。

「スニフ〜、どうした〜?」

 爺ちゃんとスニフは僕が生まれる前から一緒で、今もふたりで一緒に住んでいる。
 死んだ婆ちゃんよりも長い付き合いだと、爺ちゃんは言ってた。
 だとしたら、ホントは凄い歳ってことになる。うちのお父さんよりも年上。ちょっと信じられない。
 もうおじいちゃんの筈なのに、スニフは僕とやたらと気が合って、ここに来る度に遊んでいる。そういう仲。

「クゥウウ」
 こっちに向かって鳴き掛けて、また川の中を覗き込むスニフ。
 僕もスニフの見ている先を覗いてみた。
 川底の石の上に、キラキラ光るものが沈んでいる。

「あーっ、爺ちゃんの金時計!」
 僕が指差して呼ばわると、スニフは困ったような顔でこっちを向いて、
「クゥウ」
 哀れっぽく鳴いた。
「スニフ、いっけないんだ〜。勝手に持ち出したりして〜っ!」
「クゥウ! クウウウ!」
 ふるふるっ、と頭を振って、必死に何かを訴えかけるスニフ。
 何を言い訳したのかはよくわからなかったけど、僕にあの金時計を拾って欲しがっているのだけはわかった。
 ついでに、もしかしたら木の上から戻れなくなったのかもしれない。
 崖の途中に生えている木は、上からならよくしなる枝にしがみついて降りられるけど、その後上に戻るのはまず無理。僕なら川の中に飛び降りるんだけど、スニフは水が嫌いだからなぁ……。
「しょーがないなぁ、ちょっと待ってろよっ!」
 靴を脱いで靴下を詰めて、ズボンの裾をまくって、そろそろと川の中へ。水は随分と冷たくて、僕はもう秋が近いんだなぁ、と妙なところで感心した。

 川底は藻が繁殖していて、ヌルヌルしていた。僕はゆっくり歩いて、スニフの許へ。
 金時計の沈んでいる場所はちょっと深くて、精一杯捲り上げたズボンの裾が濡れそうになる。手で拾うのはまず無理そうだった。
 一旦岸に戻って服を脱いできた方がいいかもしれない。僕は岸のほうを振り返り、面倒だなぁ、と溜息ひとつ。足で拾おうか。爺ちゃんに物凄い勢いで怒られそうだけど。
 スニフが両前足後ろ足でしっかりとかなりたわんだ枝にしがみつきながら、思いっきり頭を上げて僕の顔を見る。
「だいじょーぶ」
 僕は心配そうなスニフの頭を撫でてやった。まっすぐな毛並みは一見針のようで、結構柔らかい。で、そこで捲り上げていたズボンの裾を放したせいで、片方がびしょぬれになってしまった。
 こうなったら今更濡れても同じ、どうせ暑いからすぐ乾くだろうと、僕は(無駄な努力だとは思うけど一応)腕まくりして、水の中に手を伸ばした。爺ちゃんの大事な金時計をやっぱり足なんかで持っちゃいけないと思い直したのもある。でも、ズボンが濡れてなかったらやっぱり足で取ったんだろうなぁ、僕。

 思いっきり手を伸ばしたけど、足下には届かない。僕は立位体前屈が苦手だ。あともうひとつ、水に顔をつけて目を開けてるのも実は苦手。ゴーグルしてたら大丈夫なんだけど……。鼻先まで水に浸けても、まだ届かない。
 僕は水中の金時計の場所をしっかりと目に焼き付けると、思い切って目を閉じて、手を伸ばした。

 ズルッ。

 足を滑らせた。ヌルヌルの石の上で無理な体勢を取ったんだから、当然っちゃ当然なんだけど……。

「うわぁっ!?」

 慌てて空いていた左手で手近な枝にしがみつく。
 それはスニフが必死でしがみついていた枝なわけで。

 バキッ!

 限界までたわんでいたらしい枝は、とうとう折れた。
 頭の上を慌てたスニフに数回踏まれた気がする。

 バシャンッ!

 僕は折れた枝に必死でしがみついて(溺れるものは藁をも掴む、ってよく言ったもんだよね)、そのまま数メートル流された。
 浅いと思っていた川に流されるということにびっくりして、その直後、あ、浅いなら立てばいいや、と思って立とうとして踝を石にガンッとぶつけてヌルヌルの底にズルッと滑って、もうかなり痛い思いをしながら、何とか川の中に立ち上がった。
 そしたら思ったよりも大分深くて(流されてる時の感じではむしろ浅いくらいだったけど)、水面が胸まであって、川の流れも速くて随分強い力でぐいぐい体を押してきて、かなり怖くなった。

「スニフ!?」

 それでもまず、スニフを探した。
 流されそうになる枝を一生懸命引き寄せて(足が付かない所に流されたらこれだけが頼りだと思った)、辺りを見回す。

「グゥウ!!!」

 居た。僕より下流に流されて、じたばた水をかいていた。頭は水面より上に出ている。
 何だ、泳げるじゃん。思ったけど、こちらまで泳いでくるほどの力は無いみたいだった。
 ああ、おじいちゃんだなぁ。初めてスニフのおじいちゃんらしいところを見付けた。

 迎えに行ってやろうと川底を蹴って、枝を片手に泳ぎ始めた僕は、気付いた。
 スニフのいるところ、水の底の色が違う。深い青緑の、とにかく底が見えない色。

 ……めちゃくちゃ深い!?

 僕はかなり怯えた。けど、水泳で25メートル泳げるようになったんだから、やればできる、と思って前に進んだ。
 体育の先生、オニババアなんて言ってごめんなさい。プールの壁の落書きは新学期までに消しておこう。あのオニババアの絵、結構自信作なんだけどもったいないなぁ……。
 そんな事を考えながら、木の枝がビート板代わりの片手の平泳ぎで、スニフのところに辿り着いた。

「スニフ!」
「グゥ〜ッ!」

 慌てて木の枝によじ登るスニフ。でもさすがにスニフの重量は支えきれなくて、沈む木の枝。
「スニフ! 泳げるんだよ! 泳げよ!」
 言ったけど、多分聞こえちゃいないんだろう、かなりパニクった様子で(ちょっと白目が見えてて怖かった)僕の方へと泳いできて、あろうことか僕の頭によじ登ろうとする。
「コラッ、スニぶぐぐがががごぼごぼ!!!」

 スニフの大馬鹿者っ!
 また僕はスニフと木の枝とダンゴになって、今度は足も付かないし底も見えない恐怖の淵の上で沈んで流されていく。

 更にそんな時に限って、イヤな事を思い出す。

 ……この先って確か、滝じゃなかったっけ……?

 先といっても最初の川原から100メートルばかり下流なんだけど、僕はもう相当流された気になっていたから、今にも滝から落ちてしまうような気になっていた。
 水は冷たいし怖いし頭は出せないし足はつかないし、何が怖いってこの中で足が付かないのが一番怖かった。息が出来ないよりよっぽど怖い。しがみつくものがあったのが唯一の救いなんだけど、それが全ての元凶のスニフと、ついでに罪は無いけどあまり役に立たなかった木の枝ってのも悲しい。

 もうダメかっ!?

 そう思ったとき。



 リィ────────ン。



 済んだ、鈴の音のような音が響いた。

 僕は──相変わらずスニフと木の枝とダンゴになったまま──暗い淵の中にいた。
 周りに水は感じる……けど、目は開けていられた。
 水の流れが止まっていた。
 無重力の、行った事は無いけど、宇宙に放り出されたような、そんな感じ。

 そして、僕の目の前には、緑色の変な生き物がいた。
 薄い羽を生やして、手足は小さくて、頭は大きくて、何となくラッキョに似た形で、目も大きくて、睫も長くて、綺麗だった。
 妖精。そんな言葉が浮かんだ。

 こぽっ。スニフが小さな泡を吐いた。
 いつの間にか、スニフも暴れるのを止めていた。
 そして、その妖精を見ていた。

 妖精は──まっすぐ僕たちを見ていた。



 リィ────────ン。



 鈴……水? 空気? 広い……大気が、空の低い部分が、そっと小さく震えるような。
 そして、どんな遠くにでも浸透していきそうな、そんな音だった。

 あの時、僕たちは知らなかったけど……。
 あれが、時渡りの音だった。

 フッ、と周りの質量が掻き消えた。
 重い水も、深い淵も、暗さも冷たさも。

 びちゃっ。

 気が付くと、僕らは赤い土の上に居た。












#4 ツチニン


 どこまでも、血でもこぼしたみたいに真っ赤な土が続いていた。
 ホントに、どこまでも……あんなに遠い地平線を、僕は初めて見た。
 地球って丸いんだ。それがわかるくらい、弧状になってる地平線。
 大きな岩でもあるのか、ジュースに浮かべた氷みたいに凸凹した場所も幾つかあるみたいだけど、基本的には……どこまでも続く、赤土の大地。
 触るとボロボロ壊れて、そう、見渡す限り、草の一本も無い。
 植物の育てない土……砂漠なんだ、と僕は思った。
 空の色がさっきと違った。
 夏の終わりの濃い青色から、春先に霞がかかった時みたいな、灰色っぽい、極限まで薄い水色。雲はひとつも無い。
 じりじり暑い。真夏に逆戻りしたみたい。砂漠だから暑いのは当たり前か……。

 っていうか、ここ、どこ?

 僕の膝の上でのびていたスニフが、ふぃっ、と頭を上げて僕を見上げる。
 僕もスニフもびしょぬれで、おまけに手にはまだあの折れた木の枝を持っていた。地上では引き摺って歩くのもちょっと辛いくらいの大きさ。でも乗って浮かべない、帯に短し襷に流しって奴だ。ついでに、茂みに入って安心できるほど大きくも無い。けど、ここまで何にも無い場所だと、それでも随分と心強い。あるだけでちょっと安心できる。
 スニフはぱちぱちっ、と瞬きして、しゅたたっ、と数歩僕から離れると、ぶるぶるっ、と体を震わせて水を飛ばした。
 水滴が全身にかかる。離れてくれたのは嬉しいけど、ちょっと距離が足りなかったみたいだねスニフ君。今更ちょっとくらい水がかかったところで何も変わらないからいいけどね。

「クゥウウン?」
「うん、僕にもわかんないよ……」
 多分、外国のどこかだろうね、と心の中で付け加える。
「グゥッ!」
 スニフが何かを思い出したように鳴いて、きょろきょろと辺りを見回す。
「あっ、あの妖精っ」
 僕も思い出して辺りを見回したけど、あの緑色の二頭身(主にラッキョ型の頭のせい)の姿はどこにもなかった。
 こんな広くて何にも無い場所で見当たらないんだったら、本当に居ないんだ。
 食べ物も何にも無い場所で、スニフとふたりっきり……そうだ、木の実がある! けど……それが尽きたらお仕舞い。

 ……爺ちゃん、心配してるだろうなぁ……。

 心細くなって、今や僕らの生命維持装置となった木の枝をしっかり握り締めて、スニフにぎゅっと腕を回す。
 スニフも僕の頬に頭を寄せて、鼻先を押し付けて慰めてくれる。

 ……あの妖精、なにか僕たちに怨みでもあったんだろうか?

 思ったとき。

 フンッ。
 スニフが鼻を鳴らした。
 ひょいと僕から離れると、辺りをくんくん嗅ぎまわる。
「ぇ、何か見付けたの?」
 スニフは目だけで僕を見上げて合図すると、そろり、そろり、と何かに近付く。何に近付いているのかはわからない。
 そして、ダッ、と物凄い速さで何かに飛びついた。そこは気付かなかったけど少し土が窪んでいて、確かに何かが居てもおかしくない。

「ビィッ!」

 小さな子供みたいな声がして、スニフに組み敷かれる薄い黄緑の羽が見えた。
「あーーーっ! お前っ!」
「グウウウウウ!」
「びぃっ! びぃいっ!」
 必死で抵抗している様子の妖精。がぷがぷと(多分手加減しているんだろう)、妖精の頭(特にラッキョの先端部分)を噛みまくるスニフ。
「お前なあっ!」
 僕はビシッと妖精を指差すと、スニフの体の隙間から手を突っ込んで、妖精をがしっと両手で握り締める。
「ビィ〜」
 へろへろの様子で目の焦点が合っていない妖精に、僕は噛み付くように訊く。
「お前ッ! ここ何処っ! 何のために僕らを連れてきたのっ! ていうかお前何者っ! 帰れるのっ!? いやっ、帰れないとか言ったらここで煮て食うよっ!?」
「グウッ、グウッ」
 傍らから妖精の頭にこんこんと頭をぶつけて脅すスニフ。
「ビィイッ」
 ぷるぷるぷるっ、と頭を振って、スニフにぐしゃぐしゃにされた頭の先端部をぴしっと延ばし、ぎゅっ、と瞬きして、妖精はやっと僕を見返した。
 ぱっちりした目。小さな口がちょっと開いて、何かを言いかける。
「グウッ、グウッ」
 こん、こん、とスニフが頭をぶつける。小さく口を開けたまま、困ったような顔で、ふらっ、ふらっ、と頭を揺らして受け流す妖精。
「いやスニフ、こいつ何か喋りそうだからちょっとタンマ」
「グゥウ」
 重々しく頷いて、妖精に鼻先を突きつけるスニフ。
「ビィ。」
 妖精は頷いて、小さな手で右後ろを指し示す。そこに全ての答えがあると言わんばかりの、自信たっぷりの目で。
 僕はその指の示す方を見たけど、何も変わったものは見えない。……いや、強いて言うなら、そのめちゃめちゃ先に、例のジュースに浮いた氷みたいな形の大きな岩の群れがあるくらいで……。
「……ひょっとして、あれが何か……用事?」
「ビィ。」
 ゆっくりと頷く妖精。
「えぇと、……あそこまで行ったら、僕たち、帰れるんだよね……?」
 違ったらこのまま握り潰す、みたいな思いを込めて訊く。
「……ビィ」
 頷いて、妖精は僕の手の中からぱっと飛び立った。僕が帰れると聞いて手を緩めた瞬間のこと。
「グウッ」
 スニフが飛び付こうとするけど微妙に届かない高さで静止して、少し前に進んで、僕らを振り返る。
「……ついてこいってことみたいだね」
「クゥウ」
 そこで、僕らは妖精の後について歩き出す……前に、木の枝から木の実のいっぱいついた房を折り取った。食料の確保は重要です。
 あと、まばらに付いた実をポケットに入るだけ取る。スニフは一粒を首の辺りの毛の奥に押し込むと、2〜3個齧って、僕を待つ。
 妖精は空中でふわふわ上下しながら僕らを待つ。
 まだ幾つか実が付いたまま残ったけど、そのままにしておくことにした。
 ひょっとしたら、その実が芽を出して育つかもしれない。こんないかにも不毛の大地だけど、この木は強いって爺ちゃんが言ってたから……。
 でもやっぱり枯れると思うなぁ。雑草一本無いんだもんなぁ。いくらこの木が強くったって、やっぱ限界ってものがあると思う。雨なんか全然降らないんじゃないかな、ここ。
 惜しかったけど、コレを担いであの岩地帯まで歩く事を考えると、置いていくしかないようだった。
 どうせどこに置いておいても枯れるだろうし。うん。
 夢の無い納得の仕方をして、僕はスニフと一緒に、妖精の後について歩き出した。
 嗚呼、僕、裸足なんだよね……土が脆いから痛くはないものの……着くまでに足の裏の皮、剥けなきゃいいんだけど……。





 足の裏の皮は剥けなかった。
 途中から辛くなってスニフに負ぶってもらったから。
 スニフは僕と変わらない大きさなのに、結構力持ちだ。
 最初頭の真上にあった太陽がかなり傾くまで、延々歩いた。
 ずっと歩いてたわけじゃなくて、何度か休憩を入れながら。
 空気が乾燥しているんだと思う。土埃もちょっとは立ってるんだと思う。あと、暑いせいもある。喉が異様に渇いて、ポケットの木の実で何とか持たせた。
 噛むと最初にすっぱい味が広がって唾がいっぱい出る。その後、皮の内側あたりの甘い味も来るから、ちょっとだけ疲れも取れる。
 空中をふわふわ飛んでいく妖精が恨めしい。お前も歩けと言いたかったけど、やつあたりなのでやめた。
 ……まぁ、原因はこいつなんだけどね……。
 でも、一番疲れたのはスニフだろう。
 途中からずっと僕を背負って、文句一つ言わずに歩いてくれた。
 僕は背中で延々、ありがとう〜、と呻いていたけど、この恩はいつか絶対に返さなきゃならないと思った。

 ジュースの中の氷みたいな岩……要するに、四角いものが傾いて埋もれてる、って形。
 段々近付いてくるそれを見て、僕は何だか違和感を感じた。

 否──既視感──。

 僕の左目がチリチリ痛む。
 ちょっとだけ色の違う、深緑の瞳の目。
 今此処でない場所の光景が見えたりする、幻覚持ちの目。
 母さんはネイティと同じ霊能力だって言ってたけど……その光景が何なのか、僕にも全然わからない。実害は無いからいいんだけどね。
 母さんの方がそういう家系らしくて、お母さんのお母さん、つまりお婆ちゃんなんだけど、死んだ婆ちゃんじゃない方の元気元気なお婆ちゃんも、左右の瞳の色が違う。で、色々見えたりするらしい。

 赤く染まった夕暮れの空が見える──左目から。右目は相変わらず昼の空と妖精を見ていて、左右の像が二重写しになって見える。
 影になって、傾いたピラミッドのようにも見える、目の前の巨大な(僕の身長の何十倍もある)岩に、小さな影が、ゆっくりとよじ登っていく。
 シルエットからわかるのは……それがツチニンだってこと。
 岩の天辺近くで、ツチニンは歩みを止めて……。

 眩暈。左目だけ、像がブレる。

 焦点が戻った時には、ツチニンの後ろにもっと大きな何かがとり付いているのが見えた。
 僕は一瞬ドキッとしたけど、すぐにそれがテッカニンだとわかった。
 ツチニンが進化したんだ。抜け出た殻に掴まって、体を乾かしていたらしい。
 そして……大分暗くなった空へと、テッカニンは飛び立った。
 変わらぬ姿の抜け殻を残して。

 ぱっ、と視界が明るくなる。
 左右の像が同調する。幻視が終わった。

 そして──僕は絶句した。
 その岩は、綺麗な等間隔に孔が空いていて。
 まるで、街にあるビルの成れの果てみたいな姿だったから。
 そして、地面のあちこちから突き出しているモノ。
 どう見ても、街灯の先端とか、橋の一部とか、車輪とか、そんなものの表面に赤土が被ったようにしか見えない。
「クゥ……?」
 不意に、スニフが立ち止まった。
「…………?」
 赤土に鼻を突っ込んで、何かを銜えて引っ張り出す。

 真っ白なコーヒーカップだった。

「……戦争でもあったのかな」
「クゥ」
 コーヒーカップを元の場所に埋めて、スニフはまた歩き出す。
 僕は空中を先行する妖精に声を掛けた。

「ねぇ、まだなの?」

 ワンテンポ遅れて、妖精がピタッと立ち止まる。空中なのでホバリングしている状態。
 そのまま、すうっ、と下に降りてくる。前を向いて、僕らに背中を見せたまま。
 スニフが追い付く。当然、スニフの背中の僕も。
 妖精の見ている前には黒い盛り土があって、
 そこから、一匹のツチニンが顔を覗かせていた。

「コイツが、用事?」
「ビィ」
 ひょい、と首を傾げるセレビィ。頷いたって感じでもない。
「おいっ」
「グウッ」
 見事にハモった。
 とりあえずスニフの背中から降りて──焼けた土が熱い──妖精の羽をひょいと掴もうとすると、あっさりと避けた妖精はそのまま僕の手に持った枝から木の実をひとつ取った。

「チチッ」
 ツチニンが妖精に向かって鳴く。
 妖精は軽く頭を横に振って、ツチニンの前の黒い土に木の実を埋めた。
「あぁ、そういうこと」
 僕は納得した。
「この黒い土なら、木の実が育つかもしれないって?」
「ビィ。」
 振り向いてにっこり笑って(僕にはそう見えた)、妖精は頷いた。
 スニフがとことことツチニンに近寄って、匂いを嗅ぐ。
 ツチニンは大降りの鎌みたいなスコップみたいな腕で、かしかし、とスニフの鼻先をつつく。
「ヒクシッ」
 スニフがくしゃみして、ツチニンがびっくりして穴の中に引っ込む。
「こいつ、ちゃんと生きられるよ」
 僕は妖精に言ってやる。
「だって、ちゃんと空飛んでるとこまで見たもん」
 あれはきっと、これから起こる光景なんだ。
 僕に見えてたのは、多分、未来。
 思い込みでも願望でもいいから、とりあえず僕はそう信じた。

 僕は妖精に木の枝を渡すと、ポケットの中の木の実を黒い土へと、丁寧に埋めた。
 ちゃんと芽が出るかどうかはわからないけど、ツチニンが進化してテッカニンになるまで生きられるのは確か。アレがこのツチニンとは別のツチニンだったとしても……とにかく、生き物が生きられるようになるのは確かなんだから!



 日が傾いて、空が真っ赤に染まる。
 僕は土で黒くペイントされた手を、ぱっぱっとはたく。
 スニフは赤土の下から、色々掘り出して遊んでいる。フォークやら、ラジオのアンテナやら、一本足の狭いラーメン屋にあるような椅子やら、ボタンの全部取れたオモチャみたいなレジやら……色々。
 妖精は木の実の埋められた土の上をそっと踊るように歩いて、何かを話しかけているように見える。口は動いてないけど、土を見詰める眼差しがそんな感じ。
 ツチニンは……?

「あれ?」

 ツチニンは、ビルの残骸をゆっくりと登っていた。
「あぁ〜」
 今だったのか。ほんの数時間後のことだったらしい。
 これでますますちゃんと芽が出るか怪しくなってきたな……。
 テッカニンになった後、こいつはちゃんと生きられるのか?
 僕は妖精に視線を送る。
 妖精はにっこりと微笑んで返した。
 大丈夫、って意味なのかな? 単に愛想笑いしただけなのかな?

 妖精が夕焼けの空に、すうっ、と飛び上がった。
 背後にはゆっくりと、着実に、傾いたビルの壁面を登るツチニン。
 僕はスニフとぴったりくっついて、妖精を見上げる。



 リィ────────ン。



 澄んだ音。この広くて何にも無い大地に、何故かひどく合っているような気がする。
 大気の微かな揺れ。風なんかじゃない、もっと──広大な空間そのものが、ゆっくりと揺らいでいるような、そんな感じ。



 リィ────────ン。



 乾いた風が、立ち並ぶビルの残骸が、細かな赤土の混じる空気が。
 フッ、と消えて──。



 僕とスニフは、明るい昼の川辺に立っていた。
 目の前を流れる川は何も変わらず、その上に張り出した木の枝がひとかたまり無くなっている。
 夢みたいな……でも、体に付いた赤土がそうじゃないと示している。
 傍らには脱いで靴下の詰められた僕の靴と、石を積んだ堤防の中で冷えている西瓜と。
「クゥン?」
 スニフが僕を見上げ、やおら慌てたように川の中へと視線を落とす。
「あ、そうだ、金時計っ」
 見ると、ちゃんと僕が転んで枝を折ってスニフが落ちて流される前と寸分違わぬ場所に落ちている。
 僕は今度こそちゃんと服を脱いで裸になって、水に顔をつけて、目を開けて、潜って、金時計を拾ったのだった。

「はい、ど〜ぞ」
「クゥウ〜」
 金時計をスニフの首にかけてやって、僕は服を着て靴を履いて、西瓜を抱える。
 スニフが持ち出したんだら、ちゃんとスニフひとりで返せよ〜、僕は知らないからな〜、巻き込むんじゃないぞ〜。
 横をとことこ歩くスニフに散々念を押しながら、ふたりで急な坂道を登る。
 重い西瓜を持っているのもあって僕のペースはかなり遅く、何度もスニフに待ってもらって、坂道を登り切る。
 そして、道路を渡って……また坂道。爺ちゃんの家は山の斜面にあるから、帰るまでが大変なんだ……。


 門に差し掛かった時、急にスニフが駆け出した。
 縁側の柱に凭れている爺ちゃんに擦り寄ると、

「……クゥ……?」

 鼻面を押し付けて、鳴いた。

 爺ちゃんは、眠っているように見えた。












#5 セレビィ


 雨が、上がった。
 眩しい朝。
 軒下のカゲボウズの姿はもう無い。

 煉瓦造りのボロアパートから、男がひとり、出てきた。
 ボサボサの髪で、コートを羽織り、右手をポケットに入れている。その腕には金の鎖が絡みついている。
 男の右目は黒、左目は深緑。
 無精髭が伸び放題の口許は、硬く閉ざされ、

 空は、雲ひとつなく晴れ渡っている。

 晴天の下、男の背後に一匹のカゲボウズがふらふらと浮かんでいる。
 男は振り向きもせず、不意に蚊でも取るようにそのカゲボウズを左手で掴むと、コートの内側で手を離す。
 カゲボウズは灰色の瞳を赤く明滅させて、ぐっ、と体に力を込めたようだったが、何も起こらないのを見ると、すうっとコートをすり抜けて男の背後に戻った。
 男は、ただ、前を見て歩いている。



 人の極端に少なくなった街にも、人の集まる場所はある。
 終わりの近付いた街でも、勿論、営業している店舗はあった。
 その中のひとつ、屋上に遊園地のあるデパートに男は足を向けた。
 まばらながらも人が行き交う大通りの真ん中で、

「おや、あんたひょっとして……?」

 いきなり声をかけられる。
 声の先には、ふさふさと白髪を湛えたひとりの老人。
「ああ、育て屋の……」
 男は老人を認めて、口許に僅かな微笑を浮かべて見せた。
「どうじゃ、スニフくんは」
 男は唇をキュッと歪めて、目を閉じた。
「……そうか」
 それだけで伝わったのか、目を伏せて俯く老人。
「……そういえば、お婆さんは」
 慌てて、男は話題を変える。
 老人は、黙って首を振った。
 絶句して、凍りついたように、男は老人を見つめた。
「ああ、そうじゃ」
 何事も無かったかのように老人は顔を上げて、穏やかな笑みすら浮かべて言った。
「丁度いい、あんたに預かって貰いたいものがあるんじゃ」

 大通りの脇の小さなホテルに、老人は泊まっていた。
 孫を頼って、火山の近くの小さな町に移住するところなのだという。

「ホレ、こいつじゃ」
 渡されたのは、ひとつの薄緑がかった卵。
「これは……スニフの……?」
「いや、誰か別のお客さんのじゃ。誰のかはわからんが……」
「どうして僕に」
「わしが持っていても育てられんよ。園も爆撃で綺麗サッパリなくなってのぉ」
「……でも」
「それに、あんたはトレーナじゃ」
「……スニフの代わりにはできません」
「勿論じゃ。こいつは……何が生まれてくるかは知らんが、こんな世の中でも、生まれてきてよかったと思えるような、そんな風に生きさせてやってくれ」
「そんな」
「あんたならできるじゃろ」
 老人の目は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていたが……。
 その奥に、ひどく切実な光を感じた。
 男は、頷いた。



 デパートの地下で適当に弁当を見繕って、男は公園のベンチで食事を摂った。
 膝の上に、育て屋の老人から貰った薄緑の卵を抱えて。
 ぽたっ、と卵の表面に雫が落ちる。
 男はそれをびっくりしたように見つめ、指先で目の端に触れる。
 くっ、と胸筋が締まる。肺が震える。
 そして、初めて。
 嗚咽が漏れた。
 金時計を握り締めて、
 卵を抱えて、
 ベンチの横に食べかけの弁当を置いて……。

 野生のジグザグマがそっと忍び寄り、弁当の中身を食べ始めても、
 男はひとり、体を震わせていた。



 ジリリリリリリリリリリリ!

 突如、目覚まし時計のような音が公園のスピーカーから……街のありとあらゆる場所から、鳴り響き始めた。
 男はハッとして顔を上げる。
 野生のジグザグマが慌てて逃げる。
 ボールで遊んでいた子供や砂場の母子連れが、その他視界内の全ての人間が、立ち止まるか、もしくは早くも走り出すか……何にしろ、張り詰めた表情になっていた。

『警報……此の街は攻撃目標となりました……直ちに付近のシェルターに避難して下さい……推定避難可能時間は、あと、6分、です……』

 女性の声に合成された音声が流れる。

 男は、奥歯をきつく、折れそうなくらい噛み締め。
 初めて、憎しみをあらわにした。

 喉の奥で、血を吐くような声で、呻く。

「……畜生……これがありだっていうのか……なら……それなら……」

 左目の奥で、昨夜見た光景が去来する。
 わかっていた。男は、何ができるのかを。
 そして、何をするべきかを。

 群衆に逆らって、男は走った。
 この街にこんなに人がいたのかと思うほど、多くの人間が走っていた。
 男が弁当を食っていた公園にもシェルターがあったのだが、男はデパートに走った。
 シェルターのある地下ではなく、屋上へ。
 卵を抱えて。
 全力で。



 晴れ渡った空。
 そこに遠く、白く光る、一本の矢が飛んでくるのが見えた。

 ばんっ!

 デパートの屋上の扉が勢いよく開いた。
 ぜえ、ぜえ、と荒い息をついて、薄緑の卵を抱えた男は誰も居ない屋上の遊園地を見回す。
 風に弄られて、休憩所のテントが泣いている。
 床には色んなものが転がっていたが、男は迷わず売店の脇に立つ。

 そして、待つ。

 男の腕の中で、金時計が時を刻む。

 白い矢が、着実にこちらに向かって近付いてくるのがわかった。

 秒針よりも遥かに速く、脈打つ、鼓動。



 澄んだ、鈴のような音。



 彼の前に、緑色の妖精が、再び現れていた。



 ぱっちりした目で彼を見て、嬉しそうに口を開きかける妖精に、男は早口で言った。

「こいつを!」

 卵を差し出す。

「こいつが、しあわせに生きられる時代に連れてってやってくれ!」

 ぱちっ。妖精が、気圧されたように瞬きして、押し付けられるままに卵を受け取る。

「あと、この場所に50年は近付くんじゃないぞ! いいな!?」

 叫んで、男は右手の懐中時計を見る。

「1分! 60秒以内にここから立ち去れ! じゃあなっ……!」

 そして、男は身を翻して、階段へと走る。
 男の右手から金時計が外れて、柵の外へと放り出されて、キラキラ光を反射して落ちていく。

 セレビィ──時を渡る妖精──は、呆然と卵を抱えたまま男を見送って、空を切り裂いて飛んでくるミサイルに気付いて、

 悲鳴を上げた。












#6 エピローグ



 温かい海を、一匹のマッスグマが泳いでいた。
 穏やかな波に乗って、心底リラックスした表情で、海を航っていた。
 その背中にはひとりの人間の少年が乗っていた。
 サラサラの赤茶けた髪の間から覗く、左右で色の違う瞳。
 片方は深緑、片方は空と同じ青。


 少年とマッスグマの向かう先には島があった。
 森に覆われて、その中心付近から、巨木が、天に向かって聳える柱のように立っていた。


 白い砂浜。マングローブの林が少年とマッスグマを迎える。
 河口から川に入ろうとした時、少年がふと体を乗り出した。
 くいっ、と頭を上げて、マッスグマも同じ方を見る。


 川辺の木に手を付いて、もう片方の手に金時計を提げた一匹のキモリが、少年とマッスグマを眺めていた。














 end.













 *あとがき*

 どもっ、やじでございます。

 読んでくださった貴方へ。本当に、ありがとうございます。

 一晩です。一晩で書きあがりましたびっくりです、信じられません。
 この遅筆の私が。作品をひとつとて完成させたことの無い私が。
(実は最後に1枚イラストが無いと完成ではなかったりするのは国家機密です)
 異様な興奮状態で、ちょっとでも気を抜くと、
 言語中枢が抜け出て「おっぴょっぴょっぴょっぴょ」とか叫びそうなやじです(2回目)。
 連載で書いている『art of strings』の書き方をスケッチとするならば、この『魂響』の書き方は殴り書き(ある意味これこそスケッチ)。
 見えるがまま、感じるがままに、
 立ち止まらず、
 振り返らず、
 躊躇わず、
 震えるぞハート! 燃え尽きるほどヒィイイイト!(←落ち着きなさいやじさん)


 この小説は、紅恋猫ろみさんの『Day Dream』への私なりの返事として書いたものです。
 少なくとも、プロットの時点ではそうでした。
 書いている途中はそんな事スッパリ忘れ去って書くことに没頭していましたが(爆)
 しかし、ありえないくらいプロットに忠実に出来上がったので、その精神は遺憾無く発揮されているものと信じます。


 この作品を生み出す原動力となった、
 紅恋猫ろみさんの小説『Day Dream』と、
 佐々木博史さんの名曲『たまゆら』に、
 感謝します。


 ではまた、なにかでお会いできることを願って。


 2003年3月4日 天波八次浪(あまなみやじろう) [yaji_wolf@hotmail.com]



P.S. 貴方の中でこのお話がどういうお話になっているか、直接書かれていない部分がどう補完(解釈)されているか、非常に興味があります。
 よかったら、教えてください、こっそりと(?

 わけがわからんかったり、何も感じなかったりしたら……、ごめんなさい。m(_ _)m