「クチート愛してる!」 アイラブクチート! アイラブクチート! アイラブクチートマジで! 僕はクチートが好きで好きで好きで好きでたまらない。これは愛情だ。親が子に差し出す無償性を持ち合わせながら、男が女に抱く恋情を抱き合わせている。 恋と言い表してもいい。 夢と言い換えてもいい。 だから僕はオーキドの野郎に直談判しに行ってやった。 オーキドを知っているだろうか? ポケモン研究の第一人者である、とても偉い人間だ。そのくせ、少年少女にとても優しく接してくれるおっさんで、友達のような感覚に陥る。だからこそ僕はそんな博士に直談判なんて事が出来るのではあるけれど、とにかく僕はそんな偉い博士に文句を言うわけだ。 何故文句を言うのか? 決まっている。僕が最初に使うポケモンが、三つしか選択肢が無かったからだ。 僕がクチートの存在を知ったのは、ヒトカゲをオーキド博士に貰って、「僕はヒトカゲと一生を共にしてやる!」と誓った直後だった。様々な問題を解決しているうちに何故だか隣のお姉さん(菜々美さんと言う、とても見目麗しいお人である)にタウンマップを借りに行った時、そのお姉さんが開いているポケモン雑誌にクチートが載っていたのだった。 完全に一目惚れだった。 完全に一目惚れだった。 二回言うほどには、一目惚れだった。僕はその、ポニーティルのような大きな口と、それに反するように存在する小柄な本体が愛おしくて、わき上がる感情を抑えきれずにいた。 スカートのような体毛に、アンテナのような触覚。小さい手足は素晴らしく、つぶらな瞳が愛おしい。 僕は一応多感な少年であり、周囲に左右されることを嫌う。だから流行とか大嫌いだし、メディアがたびたび取り上げるようになってしまった単語を使うのがとても息苦しかったけれど、それでもその時の感情を表す言葉は一つしか無かった。 萌え。 クチート萌え。 僕はそう思った。 だから僕はオーキドの野郎に直談判した。何故僕に四百九十二匹の内から一匹を選ばせるという行為をさせなかったのか。僕はそれが気になって仕方がない。気になってと言うか、有り体に言ってむかつく。おいおいそれは違うだろうオーキド。僕はクチートに捧げたかったんだ! 僕の冒険初パートナーはクチート! 僕の冒険童貞はクチートに捧げたかったのに! ちくしょう! 「オーキド博士!」 僕は研究所のドアを乱暴に開けると、奥で呑気にマシーンを眺めているオーキドに歩み寄る。周りの研究者達は血相を変えた僕に驚いているようだったけれど、オーキドは流石に歳を食っているだけあってか、のんびりと僕に答えた。 「どうしたんじゃ?」 「どうしたもこうしたも無いよ! 僕は汚れちゃったんだ! ヒトカゲは嫌いじゃないけど! ヒトカゲは嫌いじゃないけどさぁ!」 「お、落ち着きなさい。一体何があったと言うんじゃ」 「クチートが良かった! 僕はクチートを最初のポケモンに選びたかった! なのになんでヒトカゲとゼニガメとフシギダネしか無いんだ! 僕にだって好きなポケモンと最初の冒険に出る権利だってあっていいはずだ!」 「お、おぉ……」 オーキドは僕の剣幕に気圧されたのか、次第に後ずさり始める。 「三段進化? 育てやすい? 基本三色? うんざりだ! レッドって人だって、グリーン兄ちゃんだって、その三匹から一匹選んだって言うじゃないか! 可哀想だよ! 僕はクチートが良かった! ちくしょう! でももう僕の最初のパートナーはヒトカゲになった! もう戻れない!」 気づけば僕は涙を流していた。ポロポロと。ヒトカゲに申し訳ない気持ちも多少は紛れ込んでいたと思う。トキワシティに行くまでは、僕だってヒトカゲを好きだったんだ。だからそれを裏切った裏切りの気持ちで、僕は涙を流していたかもしれない。 だけど! それ以上に僕がクチートと一緒になれなかった悔しさはある! 生まれたばかりの小さいクチートの手を握って、微笑んで欲しい! たまにいたずらをして、その大きな口で僕の身体を甘く噛んで欲しい! 寒い夜はクチートを抱いて寝たいし、暇な時はあぐらをかいた僕の懐に、クチートを収めたい! そしてそのまま至福の時を過ごしたかった! それは今からでももちろん可能だ。可能だけれど、僕はその度に報われない気持ちになる。初めてじゃない。初めてじゃないんだ。これから僕は何匹何十匹というポケモンと出会うことだろう。だけど初めてはヒトカゲ。最後は無い。ポケモンの世界に、「最後に捕まえたポケモン」という概念は無い。だけれど! 一番最初に手に入れたポケモンは! 決まってしまう! このオーキドなんていう馬鹿の趣味で! 「ちくしょう! ちくしょう……!」 「お、落ち着くんじゃ……ほれ、お茶を飲みなさい」 「ふぐっ……ひっ……クチートが……僕はクチートをただ抱きしめたいだけなのに……」 僕はオーキドに渡された湯飲みを素直に受け取って、差し出された椅子に腰掛けた。そしてその湯飲みの中のお茶を、喉に流す。少しだけ落ち着くが、落ち着いただけで、僕の怒りと後悔は納まらない。 「よいか? ポケモントレーナーになる者にとって、初めてのパートナーというのはとても大切じゃ」 「分かってるよ! 狂おしいほどに分かってるさそんなことは! だからこそ」 「いいから落ち着きなさい。クチートというポケモンは、あざむきポケモンに分類されるポケモンであり、初心者が手を出すには少々危険な部類に当たる。お前に話すのはまだ早いかもしれんが……潜在的な能力値が、割と高い方なんじゃよ」 「知ったことかい! そんなこと知ったことかいってんだ! ご都合で踏みにじられた僕の気持ちはどうしたらいいの?このままじゃ爆発しちゃいそうだよ!」 「そうじゃな……そこまで言うのなら、今から比較的大人しいクチートを手配してやっても構わんが……」 「それじゃ遅いじゃないか! ……もう僕は汚れたんだよ……クチートを迎え入れるには遅いんだよ……だってクチートの前にヒトカゲを手に入れちゃったんだ。僕の過去は消せない。人は時間を戻れない。僕の思い出はずっと心に刻まれている」 「困ったのう……」 僕自身、オーキドにこんなことを言ってももうどうにもならないことくらいは分かっていた。自分で答えを出しているんだ、もうどうにもならないって。でも、だけど、出来ることなら戻りたい。こうして吠えることで、僕がクチートとの出会いを果たせるならという淡い期待にすがって吠えるんだ。 クチート。 嗚呼。 君はその愛おしい姿で僕を困らせる。実際に見た事など一度も無いし、一枚の写真で見ただけだからどんなポケモンなのかも全く分からないのに、僕はクチートの全てを理解出来たつもりになっていた。 くるりと回って、僕の意識を奪ってくれ。 にこやかに笑って、僕の心を奪ってくれ。 泣き真似をして、僕の頭を悩ませてくれ。 怒ったフリで、僕の鼓動を早めてくれないか。 気に入らないのなら、僕の身体を噛み砕いてくれ。 抱きしめられないのなら、せめてその小さい手を握らせてくれ。それすらも叶わないのなら、僕の小指を握りしめてくれないか。 そんなことを、一瞬のうちに思える。 一瞬のうちに想像して、想像の中で実行して、そして叶わない事を悲しむことが出来る。 嗚呼。 嗚呼、である。 「もう死のう」 僕はぽつりと言った。 汚れてしまった。 クチートに合わせる顔が無い。 クチートを想像する事すらも、僕には許されないのだろう。 言葉ではどうとでもなるけれど、僕自身がそれを如実に物語ってしまう。 初めてじゃない。 それだけのことなのに。 物理的には、何の問題も無いことなのに。 いや、何にしたって、問題など無いのかもしれない。 ただ、僕が最初に経験したのがヒトカゲということであって。それだけのことなのに。 もう戻れない。 戻れない戻れない戻れない。 ああああああああああああ。 「すみません……死にます」 「落ち着きなさい、いいから落ち着きなさい」 「ダメだ。もう僕、ダメなんですよ。オーキド博士。僕はもう、ダメです。クチートじゃないとダメだったんだ。そんなこと、生まれた時から知っているべきだったんです。生まれる前から感づいているべきだったんです。僕は多分、何処かで間違えたんですよ。菜々美さんが見ている雑誌だって、何度だって見る機会はあったでしょう? それなのにこんな、ヒトカゲを手に入れた直後に見るなんて、神様がいるのだとしたら、あまりにもそれは残酷です」 「困った子じゃのう……トレーナーとしての素質はありそうなのに、精神面が弱いのかもしれん」 オーキドはぶつぶつと僕を見ながら何かを言い始めたけれどどうでもいい。僕はもう何をしたらいいか分からなくなっていた。もうどうしたらいいのか分からない。どうしたら救われるのか。僕のカタルシスは何処にあるんだろう。クチートと出会うこと? いや、クチートと出会ったら僕は、より一層、みじめな気持ちになってしまうだろう。 許されないのだ。 許される事が既に許されないのだ。 クチートはきっと心優しいポケモンなんだ。あざむきポケモンとか言いながらも、それは照れ隠しなんだ。完全究極体のツンデレなんだ。だから僕はそんなクチートを愛していて、最初のポケモンにしたかったんだ。でもどうにもならない。僕はそんな逡巡を、何百回も繰り返す。クチートと会いたい。初めてじゃない。だからダメだ。 嗚呼。 「しっかりしなさい」 気づけば僕は、床に倒れ込んでいた。湯飲みは床に打ち付けられて粉々になり、僕は頭部をぶつけたらしく、ズキズキと刺すような痛みに悩まされる。 だけどそれでも癒えない。 上書きすらされない。 馬鹿なことだって自分自身よく理解している。僕は馬鹿だ。たかがポケモン。たかがパートナー。それだけなのに。それだけのことなのに、こんなにも胸が苦しい。心が痛い。涙も枯れる。さっき飲んだお茶が、全部蒸発して、そしてその蒸発した水分が雲になって、また涙を降らせるのだ。 永遠に苦しむのだろう。 無間に繰り返すのだろう。 「いいから落ち着いて、わしの話を聞きなさい」 「はい……」 僕は無気力になる。 オーキドの言葉が、耳に滑る。 「わしらが子どもだった頃は、勝手に最初のポケモンを捕まえるのが当たり前じゃった。住んでいる町の近くになるぼんぐりを取り合うのも日常茶飯事。その中で、朝早く起きてぼんぐりを手に入れる事が出来た者だけが、ポケモンを捕まえる資格を得ていたわけじゃ」 「はい……」 「わしもそんな少年の一人じゃった。しかし、若い頃は血気盛んだったわしは、仲間と一緒であることが嫌だった。コラッタ、ポッポ。そんなありきたりのポケモンに嫌気がさして、単身山奥へと向かったんじゃ」 「はい……」 「何のポケモンを捕まえたかは――まあ、伏せておくとしてもじゃ。とにかく、一匹も飼育しておらん頃のトレーナーに、野生の、特に凶暴なポケモンは合わんのじゃろうな。わしは瀕死状態に陥った。わしもポケモンに慣れておらんかったし、ポケモンも人間に慣れておらんかったのじゃ」 「……だから、最初は初心者用のポケモンを使って、諦めて自分の言う事を聞けってことですか……」 「そうは言わん。ただ、お前はまだ駆け出し。何も分かっておらんということじゃ」 「当たり前じゃないですか……初心者なんだから……初心者で、それで終わりました……」 自暴自棄だ。僕は自暴自棄で、オーキドの言葉が聞きたくなかった。大人はいつもそういうことを言うんだ。言葉で巧みに操って、問題を解決したように見せかける。気にくわない。 「まだ始まってすらおらんじゃろうに。良いか、ポケモンとの出会いというものは、不思議なものじゃ」 「はぁ……?」 「一番最初のポケモン、というのは確かに大事なものじゃ。気持ちはとてもよく分かる。わしも、歳を取って新しいポケモンを発見する度に、そいつと最初の旅に出たかったと思うもんじゃ」 衝撃的な言葉だった。僕はもう、ポケモンの研究をしている大人は、ポケモンなんてただの実験道具くらいにしか思っていないんだろうと勝手に考えていた。 「……でも、だったら、悔しく無いんですか」 「そりゃ悔しい。悔しいから、わしはそのポケモンとの初めての出会いを、最高の思い出にしようとしておる」 「……」 「わしは四百九十二匹のポケモン――まあ、貴重故に一緒に冒険出来なかったポケモンもおるが――全てのポケモンを連れて、草むらに向かったりするんじゃ。だから全員分、わしは思い出を持っておる。そしてこれから出会う新種のポケモンは、死ぬまで記憶し続けるつもりじゃ」 「五百匹近くですよ? 無理に決まってる」 「ところがどうして、覚えておるもんじゃよ。わしがクチートと初めて出会ったのは、ホウエン地方に研究に出かけていた時の事。洞窟を探検しておったら、ほっほ、見たことのない大きな口が見えたもんだから、気づけばモンスターボールを投げておったよ。それに、捕まえてから観察するまでは、口が本体だと思っておったもんじゃ」 オーキドは懐かしむように言った。僕にはその思い出の真偽を図る術は無いから、もしかしたら今の話はオーキドが即興で作り上げた作り話かもしれない。だけれど、その話を語る時のオーキドの顔は、とても嬉しそうだった。 そして同時に、もの悲しそうだった。 だから僕は、信じてやることにする。 「だからのう、気にすることなんて無いんじゃ。わしらポケモントレーナーには、ポケモンの数だけ、初めての出会いがあるんじゃ。そしてそれは、同じ種類のポケモンにしてみても同じなんじゃよ。ポケモンと出会う事の楽しさ、嬉しさ、喜び、驚き。それらをずーっと持ち続けておれば、お前が成長して、いつか違うヒトカゲに出会っても、その思い 出は残るんじゃ」 「…………」 そんなこと信じられない。だって僕は、クチートに……クチートに、会えないんだ。初めてじゃない。初めてじゃないから、クチートに会っちゃいけなくて……。 「しかし、ポケモンが作業や苦痛、そして『道具』と感じるようになってしまったらおしまいじゃ。だからお前がそれほどまでにクチートを好いてやれるのなら、きっとお前は、クチートに出会った時、後悔よりも喜びを覚えるじゃろう」 オーキドは笑いながら言って僕の頭を撫でた。僕はそれを振り払おうとしたけれど、それが出来ない。両手は涙を拭うのに必死だったからだ。 オーキドの思い出が。 僕の心を浄化した。 まだクチートに会えないと決まったわけじゃない。そして、クチートに対する後悔が消えたわけじゃない。なのに、僕はオーキドが嬉しそうに話す思い出を聞いて、何だか切なくなった。切なく。切なく、なった。 僕の目の前にいた老人が。 僕よりもさらに、少年のように見えたから。 そして僕は、ヒトカゲに何てことを思ったんだろう、ということや、クチートとの出会いを踏みにじろうとしたこと、オーキドを疑った事を、悔いた。 クチート。 ……それでも、愛している。 「……」 「ほれ、お前の前には、見果てぬほどのどきどきとわくわくが待っておるんじゃ。さあ、泣いている暇は無いぞ! お前と一緒に冒険に出たいポケモンが、お前の事を待っておる!」 オーキドは撫でていた手を放すと、僕の背中を強く叩いた。それで僕の涙腺は驚いたのか、涙はぴたりとやんで、僕の視界は開けた。 そうか。 そうかい? そんなんで、救われるのかい? この僕の、ヒトカゲと、クチートの、葛藤なんてもんは。 そんな簡単なことで。 「……オーキド博士」 「なんじゃ?」 「モンスターボール、あるだけください」 「ほう?」 「今から僕がポケモン図鑑を完成――いや、それはレッドさんが達成たのか」 「そうじゃな。今は何処におるのか分からんけどのう。あいつのおかげで、ポケモン研究も随分と進んだもんじゃ」 「……そんじゃ僕は、今から新種のポケモンを見つけてきますから」 「ほう! そいつは頼もしい!」 「……うん! 四百九十三匹目のポケモンは、僕が一番最初に見つけてやる! だからモンスターボール、全部ください!」 「よかろう! フレンドリィショップに特製のモンスターボールを注文しておるから、それを受け取って、そのまま冒険に出るんじゃ! ほっほ! これは良いトレーナーを見つけたようじゃな!」 そして僕は、オーキドにフレンドリィショップの受取書を貰って、研究所を飛び出す。 腰に下げたモンスターボールは一つ。 中に入っているのはヒトカゲ。 だけどそれは、一つの思い出でいいじゃないか。何だったら最初から。またマサラタウンから、クチートと一緒に終わりを目指せばいいじゃないか。 僕はさっそうと、草むらを駆け抜ける。 左手にはポケモン図鑑を。 右手には空のモンスターボールを。 さあ、片っ端から、僕の思いでに取り込んでやるぞ。 覚悟してろ!
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