『冷遇の森と礼遇の部屋』
0 森は静寂だ。 森は脆弱だ。 森は軽薄だ。 森は永楽だ。 森は明白だ。 森は零落だ。 1 まあ、一言で言えば、暇なんだ。 ボクこと影太郎は、割と昔にゴースから進化した、ゴーストだ。紫色とトサカの部分が好きで、どういった具合に他人から見られているのか、いつも気にしている。ってな事を、ボクの飼い主である日向に尋ねたところ、鏡って存在を教えてもらった。ボクはさっそく、その鏡ってやつを日向に貸してもらって、自分自身を見ようとしたんだけど、残念、ボクらゴースト系ポケモンは、鏡に映らないらしい。 ゴースト系。ゴースト系というくらいなのだから、きっとボクがゴースト系ポケモンのリーダーって事で間違い無いんじゃないかな? とか、そういう事も思うけど。ま、リーダーとは言え僕は日向に飼われている身であるからして、そこまで自分を売りだそうなんて事は考えない。いつでもボクは、日向に三歩下がって食いついて行くつもりだ。うん。 日向の部屋にある窓を覗いて、晴れやかな外界を眺めてみる。と、今日も素晴らしい晴天が広がっていた。ああ、いいなぁ、素敵だと思う。こんな晴れた日に外で遊ぶのは、ポケモンと飼い主の義務だとも思うほどの晴れやかさ。ボクはゴーストで、どちらかというと実体の無い、影だけど。ああ、だから名前も、影太郎って言うんだけど……それでも、ボクは日向とは触れ合う事が出来るから、遊びたいと思う。 「むぅ……」 ボクは視線を、窓の外から日向の方へと向けてみる。と、そこにはベッドに上半身を起こして座っている美少女がいた。いや、美少女って言うのは、別にそういう言い方をするのはボクが飼われているからでは無くて、本当に可愛いと思うから。まあ、ボクは日向と同年代の友達を巴くらいしか知らないから、その二人を比べた結果、日向の方が美人だと思う、ただそれだけの事なんだけど。 「日向ぁ」 ボクは日向に呼びかける。日向は読んでいた本から顔を上げて、ふわふわと浮遊しているボクに視線を向けた。 「なぁに? 影太郎」 ボクはポケモンだけど、日向と会話が出来た。何故ならボクが、人語を話す事が出来たからだ。これはあまり、最近では、珍しい事では無いらしい。特に、ボクのようなゴースト系ポケモンは、元々生き物だった怨念が概念化したものだから、昔人間だったという可能性が、多いにあるわけだ。 「ねえ、今日もいい天気だよ。お外で遊ぼうよ」 「駄目よ、だって、いい天気なんでしょう?」 ボクのお願いは早くも却下されてしまった。日向は体が弱いので、あまり天気の良い日には外に出る事が出来ないそうだ。そのせいで、肌は白いし、細いし、人間として、少女として素晴らしい要素を手に入れてはいるけれど、本人にとってはただ辛いだけで、だからボクはあまり、日向にそういう事を言ったりしない。 「でも、ボクは外で遊びたいなぁ」 「影太郎が遊びたいなら、窓から見ててあげる」 「そうじゃなくて、ボクは日向と一緒に遊びたいんだよ」 「遊んであげるよ? おうちの中でならね」 日向は頑固だ。自分の決めた事は決して譲らない。でも、まあ、もし強い日に当たってしまったら肌が痛んでしまうから仕方ないとは思うのだけれど、理屈は分かるんだけども、ボクはやっぱり、日向と遊んでいたいなぁ、と思う。 「ねぇ、日向」 「なぁに?」 ボクは日向に近づいて、日向に触れてみる。ボクはゴーストだけど、日向には触れる事が出来た。他にも、もう一人、前の飼い主だった、日向のお婆ちゃんにも触れる事は出来たけど。今のところ、ボクが触れられるのは、日向とお婆ちゃんの二人だけ。 「早く良くなるといいね」 ボクは日向にそう励ましの言葉をかけた。日向は嬉しそうに微笑んで、「元気になったら、お外で遊ぼうね」と言ってくれた。ボクはそれが嬉しくて、日向が元気になる日が来るのを待つのだ。 「そうしたら、みんなと戦えるもんね」 「私はあんまり、戦うのは好きじゃないわ」 「ボクは好きだけどな」 日向とボクの趣味はあんまり合わない。だけど、ボクも日向も、お互いの事は大好きだ。 「まあ、それは私が良くなってから、考えましょう」 「うん、そうしよう」 日向が笑うので、ボクも笑顔で言った。その時の笑顔が、日向にはどんな風に映っているのか、ボクには分からない。けれど、日向は楽しそうだから、きっとボクも、それなりの顔をしていることだろう。 「……それじゃあボク、適当に遊んでくるよ」 「そう。あんまり遠くに行かないでね」 「うん、分かってるよ」 日向から手を離して、ボクは一人で、外に遊びに行く事にした。本当は日向と一緒に遊びたいんだけど、それは無理だし。せっかく良い天気なんだから、これを逃す手は無いわけだ。 「それじゃ、行ってきまーす」 「気をつけてね」 日向に手を振られたので、ボクも手を振って、日向の部屋から出て行く。その時ボクは、扉を開けない。幽体だから、すり抜けるのは簡単なのだ。少しコツがいるけれど。ここは通り抜けられる、という意識を持たないと、たまにぶつかったり、通り抜けている最中に挟まってしまうこともあるから、気をつけないといけない。 のろのろと浮かびながら、ボクは玄関を目指す。その途中で日向のお兄ちゃんである日陰が、二階から降りてくるところに遭遇した。日陰はボクを見るなり「遊びに行くのか?」と聞いてきたので、軽く返事をしておいた。日陰は使う言葉が難しいので、好きだけど、話をするのが得意じゃない。日陰の友達の博樹の方が、言葉遣いは優しかった。 ふわふわと玄関に向かう。お母さんもお父さんも今日は家にいないようだ。そう言えば、何処かにお出かけするとか言っていた気がする。ボクが出て行って、もし日陰もいなくなったら日向は寂しいかな? と、少し後ろ髪を引かれる思いだったけれど、日向はきっと本に夢中でそんな事は考えないだろうと思った。それに、ボクに後ろ髪なんて無いので、きっと杞憂なんだろう。 履く靴はおろか足すら無いボクなので、玄関に行っても靴を履く必要は無く、また玄関を開ける必要も無かった。ふわりと扉をすり抜けて、ボクは室内から室外へ、飛び出る事に成功した。 予想通り、外は良い気持ちだった。影なのに光に当たってて大丈夫なのか、なんていう考えも、少しはどこかにあったと思うけど、実際大丈夫なんだから、気にする必要も無いのだと思う。日の光を浴びるとボクは気持ちが良いし、辛い事なんか一つも無い。それよりも、日向の方が、日の光には弱かった。 ボクは何をして遊ぶか考える。けれど、思いつかない。やっぱり一人で遊ぶのは、面白く無いのだ。ボクはふわふわと、家から少し離れた場所にある広場に向かう事にした。広場にはいつも、何人かの子どもがいて、ポケモン同士を闘わせていたり、普通に遊んでいたりする。ボクは日向と遊べない時は、大体そこに行って時間を潰したりする。そのおかげで、日向よりもボクの方が、その広場では知名度が高かったりするのだ。まあ、あんまり差は無いけれど。 少し強めの日差しと爽やかな微風を受けながら、のろのろと進んだ。歩いた、と表現出来ないところに、幽体の不自由さを感じる。歩けないというのは、不安定なものなのだ。と、思うあたり、やっぱりボクの前世は足のある生物だったのだろう。少なくとも、植物では無かったのだろうと思う。 呑気に田舎道を進んでいると、広場についた。天気が良いからか、広場には何人もの子どもと、それに付き従うポケモンがセットで居た。辺りを見回して知った顔を探すと、日向の友達の三人組が、いつものように三人でつるんでいた。 「あ、影太郎だ」 背の高いリーダー格の少年である義彦が、ボクを見つけて声を上げた。それにつられて、義彦のライバルだとかなんとか言ってる、加治木が顔を向ける。そして最後にゆったりとした動きで、巴がボクを見た。ここに日向が揃うと友達全員集合になるのだけれど、生憎と今日は欠席だ。 「みんなこんにちは」 「おう、影太郎。日向は休みなのか?」 「天気が良いからね。日向は来ないよ」 「なぁんだ。せっかく俺の蜥蜴陽炎と闘わせようと思ったのにさ!」 義彦は膨れた様子で言った。蜥蜴陽炎というのは義彦のポケモンで、リザードだ。多分ボクより弱いと思う。何故なら蜥蜴陽炎は力も強くて見た目も怖いのに、臆病者なのだ。ボクが舌で舐めたりすると、すぐに怖がる。 「それで、何してたの?」 ボクは集団に近づきながら尋ねた。すると巴が「義彦くんと加治木くんが闘ってたんだよ」と、説明してくれた。なるほど、二人のポケモンがこの場にいないのは、闘いが終わって回収したかららしい。 「で、どっちが勝ったの?」 不躾に、ボクは聞いてみる。 「よくぞ聞いてくれたな影太郎」今まで一言も喋らなかった加治木が、水を得た魚のように語り出す。「今回も僕の圧勝だよ! うちの水甌の圧勝」 「ああ、そりゃまあ、タイプがタイプだからね」 加治木が使ってるポケモンの水甌は、カメールだ。義彦の蜥蜴陽炎と闘えば、当然負けるだろう。それに、蜥蜴陽炎は臆病者だ。それでもたまに勝ったりするから、潜在能力としては、蜥蜴陽炎が上。実は恐ろしいほどのポテンシャルを秘めているのかもしれない。 「だよなぁ、タイプの不利だよなぁ」と、義彦。 「何とでも言えよ、勝ちは勝ちだからな」と加治木。 ボクは正直どっちでも良かったんだけど、日向の教えから無勢に見方をする方が面白いと知っていたので、「ま、それでもたまには勝つんだし、強さで言えば半々くらいなんじゃない?」と、会話に決着をつけておいた。一応、ポケモン同士の闘いではボクが一番強いし、ボク自身がポケモンである事から、ポケモンへの知識はボクが一番持っていたので、ボクの発言には、基本的に誰も反論しないのだ。 「そうそう、仲良しが一番だよね」 口論に決着がついたので、巴が手を鳴らしながら、話を区切った。日向と違って、巴は平和主義者なのだ。じゃあ日向は何なのかと言うと、面白い事だけを求めている人間だ。面白い境遇を作り出すためには、自ら争いを起こす事も辞さない生き方をしていたりする。その精神は、ボクにも多少なり受け継がれている。 「あ、そうだ、影太郎」巴は言いながら、バッグから何やら物体を取り出した。「これ、日向ちゃんに渡しておいてくれる?」 「なにこれ」ボクは巴からその物体を受け取った。巴と触れ合う事は出来なくとも、物に触れる事は、いくらボクでも出来る。何しろ注意しないと壁に頭をぶつけるくらいの生半可な幽体なのだ。「あ、本か」表紙の題名を見て、ボクはそう判断した。 ボクは本が嫌いだ。というか、苦手だ。あまり読書が好きでは無いし、出来れば本などとは、一生、縁の無い生活をしたいとすら思っている。何故かと言えば僕が単純に文字を読んでいると退屈で退屈で仕方ないからなのだけど。そういう理由で、ボクは題名を見て本と判断したその物体から、すぐに目を逸らした。前世の影響だろうか。 「それね、日向ちゃんに借りてた本なの」 「ふうん、返しておけばいいの?」 「うん、お願いね」 巴が笑顔でボクに頼む。 「せっかくだから、うちまで来ればいいのに」 「影太郎が来なかったらそうするつもりだったんだけど……今日、このあとお出かけするんだ。だから、影太郎にお願いしようと思って」 「なるほどねぇ」もちろん断る理由など無かったけれど、せっかくなら巴に家まで来てもらった方が、日向は喜ぶんじゃ無いのかな、なんてことを思ったりした。顔に出さないとしたって、友達が来てくれたら、日向も嬉しいはずなのだ。 「じゃ、お願いね」 巴に言われたので、ボクはそれ以上何も言わずに、ただ首肯した。まあ、また天気の悪い日にでも、みんなで一緒に遊べばいいのだ。 「話は終わったか?」 義彦がボクらの会話を割って入ってきた。 「終わったよ」 「影太郎に聞きたい事があるんだけどさ」 「うん?」 「今度、お小遣いで能力アップのアイテムを買おうと思ってるんだけど……」 それからボクは、義彦と加治木から、ポケモン育成について相談を受けた。やっぱり、ポケモンであるからか、ボクには本質的にポケモンの育成方法というものが分かっていたのだ。それについて尋ねられる事は決して嫌な気分では無かったので、ボクは彼らの質問に対して、親身になって答えてやった。 そうこうしているうちに、巴は時間になったから、と、帰って行った。お出かけすると言っていたから、きっとそれだろう。義彦と加治木はボクのアドバイスを聞いたあと、二人でポケモンセンターに向かっていった。このあともう一度、対戦するそうだ。ボクは流石にそこまで面倒を見ているつもりは無かったので、それを機に、二人と別れる事にした。 広場の時計を見れば、もうここに来てから二時間近く経っていた。時間の経過というのは早いものだと、常々ながら実感する。 あんまり帰るのが遅いと、日向も気にするかもしれない、と思った。まあ、とは言っても、日向の事だから、新しい本を読んで時間を潰しているのかもしれないけど。日向って結構、放任主義だし。 ……なんて事を思いながら、帰路を辿る途中。 ボクは近道をして帰ろう、という、子どもっぽい考えを起こして、いつもと違う道を進んで、帰る事にした。それが近道になるかどうかなんてまったく分からないのに。 持ち物は巴から預かった本だけで、ボクは身軽だった。いつものように、ふわふわと浮遊して、見ず知らずの道を歩いて、見覚えの無い道に入り、迷子になったんじゃ無いかな……と思ったくらいのところで、ボクは、その場所に行き着いた。 森の入り口だった。 この近くに森がある事を、ボクは当然知っていた。何故ならこの近くにある建物は背が低いから、森の木々が遠くからでも見えたのだ。 そんな森だけど、誰も近寄ろうとしなかったし、誰も入り口を知らなかった。森に入り口なんて無い、と思うのが普通だけれど、その森は、場所によっては木の生い茂り方が異常で、道になっていないような森だった。そんな森に、誰も入っていこうとしない。帰ってこれなくなったら、困るからだ。 だけど、そんな森の入り口を、ボクは発見してしまった。 偶然だろうか。多分、偶然だと思う。では、大発見だろうか? いや、そうじゃない。きっと、大人たちが、危ないからという理由で、子どもたちに隠していたのだ。と、ボクは何となく、思う。子どもにとって立入禁止の場所は、大人からすればどうでもいい場所だったりする。町の外れの倉庫とか。 とにかくボクは、そんな森の入り口を見つけたのだ。だけど、入ろうとはしなかった。入ろうとはせずに、今来た道を戻って、知っている道に出るまで、全速力で進んだ。何故って、それは、ボクが森に入りたかったからだ。 矛盾はしてない。ボクは森に入りたいから、家を目指した。森に入るために、家に帰る。そして、小さく見えた家が大きくなってきて、ボクは玄関から入らずに、日向の部屋の窓を、コンコンとノックした。 「日向、日向!」 日向はすぐにボクに気づいて、本から視線を上げると、「なぁに?」と返事をした。 「今、森の入り口を見つけたんだ」 ボクは窓をすり抜けようとして、本を持っていた事を思い出す。右手だけをすり抜けて、鍵をあけてから、窓を開けて、日向の部屋に入った。 「すごいでしょ。森に入れるんだよ」 「そう……すごいね、影太郎」 日向の反応は、ボクの期待していたものとは違った。なんだか寂しい。 「もっと喜んでよ。森なら、日が差さないから、日向も遊べるじゃないか!」 「それは、そうだね。でも、そこに行くまでに、日に当たるでしょう?」 日向に諭されて、ボクは色々理解した。そうか……森に行くまでに、あまり日に当たったらいけないんだった。せっかく日向と外で遊べる方法を見つけたと思ったのに。それはどうやら、勘違いだった。というか、あまりに短絡的であるという事か。何はともあれ、残念。森まで一瞬で移動は出来ないのだ。 「それで、影太郎、その本はなぁに?」 「ああ、これは……巴が、日向に借りてた本だって」 ボクはさっきの本を日向に差し出す。 「……? 巴ちゃんに本なんて貸してたっけ」 日向は不思議がってその本をボクから受け取る。そして、その本を少し開いた。と、すぐに疑問が解氷したのか、日向は頷いて、口元をほころばせ、本を閉じた。そしてまた、今まで読んでいた本に視線を落として、続きを読み始めてしまった。 「……日向、あのさ」 あまりに放置されていることに対してやりきれなくなったボクは日向に声をかける。 「なぁに?」 「……いや、なんでもない」 しかし、ボクの方を向こうともせずに返事をする日向には、ボクは何も言えそうになかった。きっと、何を言ったところで、ボクの言葉は視線だけで黙殺されてしまうのだ。恐ろしいのは好きでは無い。 今までも日向に何度か、色々ともの申したいと思ったけれど、一応、日向はボクの飼い主だから、そういう事をするのは、やめておいた方がいいんだろう。飼われるものには飼われるものとしての役割があるのだ。多分。きっと。 そうでも思っていないと、やってられない。 色々と考えて自分を慰める。が、いくらボクでも、家出とかしたくなりそうな事しか思いつかなかった。 ああ。なんだか家にいると、退屈だなぁ。 2 翌々日。 つまりは、ボクが森への入り口を見つけた日の、二日後。ボクは、名案を思いついて、日向にその事を話してみた。名案というのは、他ならない、ボクが日向と森に行く事についてのことだ。 「そうだ! 日傘があったじゃん!」 暇で暇で仕方なく、本を読んでいる日向を眺めていたボクは、突然思いついてそう言った。すると、日向は唐突なボクの発言に驚いたのか、いつもは見せないような怯えた表情を一瞬浮かべて、肩を浮かせてボクを見た。 「び……びっくりするでしょ」 「ああ、ごめん……でも、日傘を使えば、森まで行けるんじゃないの? いつも、お出かけする時は、日傘使ってるじゃん」 「日傘……ね。確かに、日傘は持ってるよ。でも、あんまり体力が無いから、外に出るのが危ないっていうのが、本音かな。森って、結構遠いでしょ?」 「うーん……」 それもそうか、と思う。ボクはどうにかして日向を外に連れ出したいのだけれど、それはボクが勝手に思っているだけの事で、日向にとっては、鬱陶しい事なのかもしれない。 ボクはそういう考えに至ってしまったことですっかりやる気を無くしてしまう。そして先ほどと同じように、物憂げな日向の顔を、じっと眺めていたりした。ボクは霊体だけど、ずっと浮いていなければならないってわけでは無い。だから、今は日向のベッドの横にある小さな本棚の上に丸くなって、日向を見ていた。腕を組んで、その上に顎を乗せる。霊体で、しかも四肢が無いボクだから、人間と同じような体勢を取ろうとすると辛いのだけれど、この体勢は非常に楽だった。ボクは霊体で体重なんて無いけれど、動いてるボク自身には、ボク自身の重さというものがぐるぐると付きまとってくるのだ。だからそれを本棚に肩代わりして貰えるのは助かる。 ボクがよほど落ち込んだ表情をしているからか、さっきから日向がちらちらとボクを覗う。ボクは日向と目が合うのが嬉しいので、そんな日向の行動に何の反応もせずにいた。日向は本を読んで、ページをめくる。そしてページをめくっている時に、チラリとボクの方を見る。伸びた前髪に邪魔されてしまっているけれど、それでも日向の大きく開いた瞳は、髪の毛の合間からよく見えた。吸い込まれるような瞳を見て、ボクは口元を緩める。日向の表情は変わらないまま、めくり終えたページに戻された。 そんなやりとりを、ボクと日向は三十分ほど続けていた。 章とやらが終わったからか、日向は本に栞を挟んだ。その栞は、日向が巴から貰った押し花で、丁寧に扱わないとすぐに壊れてしまうから、とボクは触らせてもらえないものだ。日向はその、イチョウだかの葉で出来た押し花――葉っぱでも押し花って言っていいのかな――の黄色い葉の部分が本から少しはみ出るように挟んで、本を閉じた。そしてボクの顔の前に少しだけあるスペースに本を置く。ボクは本能的なのか習性からなのか、置かれた本に顎を乗せて、飼われているものとしての役割を果たす。 「……嫌らしい目をしてるなぁ、さっきから」 「え?」疑問が言葉に直結する。 「影太郎が」 そうだったかな? と、思うけれど、もしかしたらそうかもしれない。 「ボク、そんなに嫌らしい目してた?」 「うん。そんなに外に行きたいの?」 「うーん……どうしても、と言うほどじゃ無いけど、日向と一緒に、森に行きたいとは思うよ」 「なんでそんなに森に行きたいの?」 「それは……何でだろう。分からないけど、森が好きなのかも。日向に似合うと思うんだ」 「ふうん……」 日向の機嫌が悪くなったのか、と心配したけど、そういうわけでも無いらしい。ボクは日向の置いた本の上でぐるぐると回ってみたり、日向を見上げてみたり、丸まってみたりする。そのうちにボクの頭にぽんと日向の手が置かれた。 「ぐぇ」 置かれた手はそのまま加重して、ボクは押し潰される。ぎゅうぎゅうと重さは増して、ボクは横に広がった。影で、幽体だからこそ、二方向に力があると、力の無い方へとボクは伸びていくのだ。スライムとか、ゴムとかのように。 「なにをするー」と、ボクは言葉だけで抵抗する。 「気晴らし」 「ひどい飼い主だと思うよ? それ」 「飼ってあげてるんだから、それだけで感謝して欲しいけどね」 日向の言うことも一理ある。うむ、ボクは飼って貰っているんだから、やっぱり飼い主には絶対服従を決め込むのが、飼われているものとしての姿勢なのだろう。 そのまま日向はボクに手を乗せたままぐらぐらと揺らしたり、ぎゅうぎゅうと押しつけたりしたけれど、それに飽きたのか、手を離して、ベッドから起き上がった。 「じゃ、行こうか」 「え?」再び、疑問が言葉に直結した。 「森に行きたいんでしょ? いいよ、行こうよ」 日向が突然にそんな事を言い出す。え、森に行ってくれるの? と、聞こうとしたけれど、日向は何度も同じ事を繰り返し聞くとすぐにへそを曲げるので、ボクは口をつぐむ。日向は気まぐれなのだ。 日向はいつも来ているパジャマを脱いで、黒いスカートを穿いた。上には同じく黒い、指が隠れてしまうほど袖の長いTシャツを着て、その上から、袖の無い白いパーカーを着た。そしてめちゃくちゃ長い黒の靴下を履いた。ここまで行くと靴下とは言わないらしいけど、ボクはその名称を思い出せない。 「はい、準備出来た」 これは日向が最近編み出したお洒落らしかった。なんでも、単純な色の組み合わせが大人に見えるとか。森に行くだけなのに、気合い入れすぎだと思う。 「ボクは、どうすればいい?」 「日傘を持って、差してて」 モンスターボールに入ってるかどうか、という意味で聞いたのだったけど、日向はボクにそんな命令を下した。ボクはそれに反抗したりしない。何故なら日向の命令はボクにとって絶対だからだ。 「日傘は?」 「うん、玄関にあるよ。行こうか」 日向はパーカーのポケットに手を入れて、部屋の戸の前で待っている。それをボクが開けるのだ。日向のこういう理不尽さを、最近ではボクも理解出来るようになっている。 「はい、どうぞ」 「ありがと」 日向から素っ気ない謝辞を受ける。ボクはしっかり日向の部屋の戸を閉めて、守護霊のようについていく。うん、ある意味では、正しい言葉遣いだ。 「あれ、日向、出かけるの?」 部屋を出てすぐの廊下で何かを読んでいた日陰が、日向に話しかける。なんで廊下で読む必要があるんだろう。やっぱり日陰は、少し変わってる。 「うん、お出かけ」 「そうか……気をつけてな。ああ、影太郎も一緒か」 「うん、お出かけ」日向と同じ音程で頷く。 「日向が無茶しそうになったら、安全な場所に移動させて、そのあと近くに誰かいたら、その人に助けてもらえ。そのあとはすぐにうちに帰ってきて、俺を呼びにくるんだぞ」 「分かってるよ」 出かける度にこの手の話をされる事は、正直ボクはうんざりだった。日向はそんなボクらのやりとりを見て笑っているようだけど……いや、笑ってないで、大丈夫だからとか言ってよ。 「じゃ、行ってくるね」 「ああ。本当に、気をつけるんだぞ」 日向と日陰は何故かハイタッチをした。日向は、一度動こうと決めてからは行動的になるのに、ベッドの中にいる間は、物静かなのだ。人間ってみんな、そういうもんなんだろうか。そうそう、お風呂にしたって、日向は入ろうとしないもんな。でも、一旦お風呂に入ったら、四時間近く、風呂場から出てこないし。 「あ、日傘、これね」 玄関で、日向が指差す。その先にあったのは、白にピンクのお花がいくつかつけられている日傘だった。柄の部分が飴色で、キラキラしている。 「こんなの持ってたっけ」 「新しいのだよ。でも、使うのは今日が初めてかな」 ボクの知らないところで、日向の資産は増える一方のようだ。まあ、この家、結構裕福みたいだしな。日陰も仕事をしているかららしいけど。日向のように外で思いっきり遊べないけど色々なものが手に入る子どもと、義彦たちみたいにたまにしか道具を買えないけど毎日遊んでいられる子どもと、どちらが幸せなんだろう。まあ、幸せの感じ方にもよるんだろうけど……あ、ボクがいる分、日向の勝ちかな。 ボクは日傘を手にして、先に玄関から出た。ボクが扉を開けているうちに、日向が出てくる。そして日傘を開いて、日向の頭を包み込むように差した。人間と違って二人分入らないから、ボクが傘をさしても日向のスペースは確保されたままだ。 「それじゃ、私適当に歩くから、道案内してね」 「うん」 日向は両手をパーカーのポケットに入れたままで、てくてくと歩いていく。それに対して、ボクは一昨日発見した森の入り口までの道のりを、懇切丁寧に教える。日向の頭の上に乗っかって傘をさしているので、実は傘のせいで前が見えにくかったりしたのだけれど、せっかく外に連れ出したのだから、不平不満は言ってられない。 「あ、そうだ」 「なぁに?」 森に向かう途中、何か話題が無いかと考えていたボクは、一昨日巴が返した本の事を思い出した。あれは結局、日向が貸した本だったのだろうか。 「巴が持ってきた本だけど」 「ああ、あれがどうしたの?」 「あれ、ちゃんと日向が貸した本だった?」 「あー……うん、そうだよ?」 明らかに違うという挙動だった。日向は隠し事が下手なのだ。でも、きっと追求しても、権力で握りつぶされる気がする。日向は隠し事は下手だけど、その後の処理は得意なんだ。 「そう……」 「なにか?」 「ううん、何でも無いよ……」 日向の鋭い視線がボクは何よりも怖かった。日向の機嫌を損ねないように、ボクはそれから、一切喋らずに、森への水先案内人へと化した。 しばらく歩いて、ボクと日向は森への入り口に辿り着いた。体力の無い日向は、もう割と疲れ切っていたので、少し森に入って、日の当たらない場所に座って休憩を取る事にした。 「はぁ……はぁ」 「大丈夫?」 「……無理」 「水筒でも持ってくれば良かったね」 「今さら遅いよ……」 日向は本当に辛そうだった。ボクはポケモンで、しかも幽体だから、あまり疲れるという事が無い。もちろん、痛い攻撃をされたり、ずっと闘っていたりすると疲労が訪れるけど、日常生活においてはあまり無いのだ。戦闘種族として生まれた宿命だろうか。きっと、ほとんどのポケモンは日常的に生活をしていても疲れるということがあまり無いのだと思う。それはポケモンに与えられた特権なのか、それとも人間だけが、疲れを得たのか。考えると、難しくなるところだ。 「遊ぶ前にもう疲れちゃった」 日向はそう言って、少し場所を移動させると、森の大きな木に背中を預ける。実に神秘的な光景だ。と、なんとなしにボクは思う。何故神秘に少女はつきものなのだろう。別に少年でもいいのに。と思うけど、やっぱり少年だと、なんだか現実的だ。 日向はそのまま目を閉じてしまう。眠ってしまうつもりだろうか。でも、ボクはもう十分満足していたので、それを起こそうという考えには至らなかった。日向と一緒に家を出て、森に来たというだけで、十分すぎるほどだ。あとはこの森で少し休憩を取って、それで家に帰るのも、やぶさかでは無い。やぶさか……なんだか鳥の名前のようだ。いや、あれははやぶさか。似てるなぁ。ていうか、やぶさかってなんだろう。やぶさかではあるという表現は、果たしてあるんだろうか。 支離滅裂で乱雑な考えをまとまらないうちに新しい考えに切り替える。日向がすうすうと、安らかな寝息を立て始めてしまったからだ。これを起こすと後が怖いし、そもそも起こすなんて畏れ多い。日向の眠っている姿は美しいのだ。だからボクはそれを起こさない。起こして得をする事なんて、どんな状況においても、きっと有り得ないのだから。 ボクは日向に寄り添って、少しだけ、一緒にお昼寝をしようかと考える。幽体だけど、一応眠れる。それは必要な行動では無いけれど。食べ物も、必要な摂取では無い。水分だってそう。何もしなくても生きて……じゃないや。死んでいるから、必要無い。だけど、出来ないことも無い。だからボクは、日向と一緒に眠ろうと、そう考える。そして日向の左隣――日向がだらりと落とした左腕で作られた輪の中に、すっぽりと収まる。そして日向に抱えられるようにして、ボクも目を閉じる。 森は静寂だ。 鳥の鳴き声と、木々のざわめきだけが、少しだけ、ボクの鼓膜を揺らす。うん、ちゃんと鼓膜があるのか怪しいけど、それでも音が聞こえるのだから、そうなのだろう。直接空気振動が伝わっているとは、思えない。 遠くで何か、生き物の気配もする。動物だろうか、ポケモンだろうか。少なくとも、人間では無いような素早い動きだった。だけどボクはそれに、危機感を感じない。だから日向を起こしたりもしないのだ。静かに身を委ねて、夢の世界に向かおうとする。 思い出すのは……。 こういう時に思い出すのは、お婆ちゃんのことだ。 ボクがゴースだったころ、お婆ちゃんはボクの飼い主だった。そして、お婆ちゃんは何故か、ご老体でありながら、ボクを用いてポケモンバトルに興じていた。今思うと素晴らしい意気込みだと思う。そしてボクはそこで、闘うことに対して味をしめたところがある。闘って、勝利を収めてお婆ちゃんと一緒に喜ぶこと。闘って、敗北を知ってお婆ちゃんに慰めてもらうこと。それはどちらにしても、飼い主とポケモンの絆になる。食えないところが無いのだ。残すところが無い。後の悔いも残る念も、全てお持ち帰りして、思い出の箱の中に詰めておける。それは素敵なことだ。だからボクは闘いを好むし、今でも出来れば、蜥蜴陽炎や、水甌たちと闘ってみたい。 だけど飼い主のいない場所で闘うのは、やっぱり良くないし、それは本末転倒だ。だって勝っても負けても、一緒に笑い、泣く飼い主がいないのだから。 ボクと同じポケモンでも、飼い主から離れて、違うところで成長するやつらがいるらしいという噂を聞いたことがある。それは、優しい人が世話をしてくれる場所らしいのだけれど、育てられている間、一切飼い主とは会えないらしいのだ。そんなのは悲しいと思う。ボクは断固、そんな場所があることを否定するつもりだ。もっとも、夢うつつの状態で考えたことに、説得力なんて欠片も無いけど。 ボクは目を開けられない。隣で優しい呼吸が繰り返されている。ボクはその安らかさに感染してしまう。眠さが増していくのだ。この状態は、果たして起きているのかいないのか、よくわからなくなってしまう。でも、きっとこのまま行けば眠れるという、変な確信は存在していた。 その時だ。 きっと、ボクが眠りにつく、寸前の事なんだろうと思う。最悪のタイミングなのか、それとも、眠る前に気づけた事は、最高のタイミングなのか。どちらかなんて、分からない。けれど、寝ぼけ眼でボクが捉えた映像は、そのまま動画として頭の中に焼き付いて、何度も何度もリプレイされた。そしてボクがその映像の内容をようやく理解したところで、ボクの脳みそは動き始めた。 あ。 あれ? 日傘が、無い。 今の映像を、もう一度、思い返す。何度も見返せるタイプじゃないのか、もう記憶に靄がかかり始めていた。ボクはなんとかその映像を見て、内容をよりよく理解しようとする。 影だ。 黒い影。それは、ボクがちゃんと理解出来なかっただけで、黒くは無いのだろう。でも、記憶の中では、黒い影としか、処理されなかった。 そして影が、何かを持ち去った。 それを現在の状況と等号させると、持ち去ったあの長い棒状のものは、日傘だと言うことになるのだ。そのことに気づき、ボクは意識を覚醒させる。 「日向、日向」 何の得もない、と知っていながら、ボクは日向を揺らした。日向は不機嫌な唸り声を上げながら、半目を開ける。そしてボクに、鋭い視線を投げかける。 「なに」 「大変だ、日傘が盗まれちゃった」 「……どうして?」 「分からない。ボク、日向と一緒に寝ようとしたんだ。そうしたら、眠っちゃう寸前で、日傘を誰かが、ぱーっと盗んで逃げちゃったんだ」 自分に責任は無いように説明するのは、きっと無理だ。だからそのままの説明をした。そして日向に頭を押さえつけられて、地面に押しつけられた。日向はちょっとだけ怒るとこれをする。だから今はまだ、そんなに怒っていないようだ。 「私、どれくらい寝てた?」 「あんまり時間は経ってないよ。十分くらい」 「そう……で、その日傘泥棒は、どっちに行ったの?」 「森の奥だよ。どうしよう、日傘が無いと、夜まで帰れないね」 でも、明かりも無いのに夜歩くのは危険だ。いざとなったら、ボクが一人で家まで戻らなきゃなんだろうか。でも、日向を置いておくのは、危険だ。 「日向、ボク、危険だから、先に行って奥を見てくるよ」 「私を置いていったら、どっち道危険でしょ?」 日向はボクを一度強く押しつけてから、手を離した。そして立ち上がって、森の奥に体の正面を向ける。 「早く日傘を取り返したいの。……このあと、用事があるんだから」 日向はボク宛てでは無い言葉を呟いて、森の奥へと歩いて行った。日傘を盗まれるという失態を許したボクは、意気消沈しながら、日向の後ろをふわふわとついていくことしか出来なかった。 3 森の中は、運動不足で体力の無い日向には歩きにくい場所だったと思う。日向は何度も転びそうになったし、何度も足を滑らせた。ボクはその度に、何とか小さな体でそれを受け止めるけど、時には受け止めきれずに日向と地面のクッションになったりもした。ぐにゅうと潰れて、痛みは無いけれど、息苦しかった。 「奥って……どっち……」 息が苦しそうな日向に尋ねられたけど、ボクにはどっちが奥かなんて、答えられなかった。と言うより、もうボクらは入り口から見て奥にいるのだ。 「こっち……かな」 でも答えないとそれはそれで怖いので、適当に進路を取った。日向は「間違ってたら……潰す……」と呪いの言葉を吐いている。わお。怖い怖い。 しばらく歩き続けて奥へと向かう。と、日が暮れたのか、それとも森が深くなったのか、木漏れ日程度だった日の光がほとんど消えてしまい、かろうじて足下が見える程度になってしまった。 「暗くなったね」 ボクは思った通りのことを、日向に尋ねてみる。 「そうね。このくらいの方が、歩きやすい」 どうやら日向の息が切れていたのは、疲れていたという理由もあるだろうが、日の光が多く関係していたらしい。日向は背筋を伸ばし、歩き始める。ボクは先頭を日向に譲る。 「うん」 日向が短く声を上げて、立ち止まった。 「さて。このまま歩いていても埒があかない気がするな。犯人像を想像したほうが、いくらか建設的だと思う」 「それは、まあ、その通りだね」 ようは疲れたから休憩しよう、という発言だと思うのだけど、ボクはそれについて決して突っ込みを入れないように努力した。急に足取りが軽くなったのもそういうことを隠蔽するための行動なのだろう、ということも。やはり日向は、隠し事が苦手なのだ。というか、見え見えなのだ。そこがまた、楽しいのだけど。 日向は周囲を見渡す。が、座っても良さそうな場所は無く、どこも少しばかり不衛生な雰囲気だ。日向は溜め息をつくと、ボクを掴んだ。何となく展開が理解出来たので、ボクは抗わずに、身を日向に任せる。あう。 「ふう」 日向に座布団にされたボクだが、さすがは日向、心得ているのか、ボクが息苦しくないように座っているようだ。痛みも無いし、ボクに衛生も不衛生も無いので、座られても怒りのいの字も沸かない。 「影太郎は、どう思う?」 唐突に振られ、ボクは脳みそを動かす。あるのやらどうやらは不明瞭だけど。 「日傘目当てというより、珍しいもの目当てという感じだと思うけど、どうかな」 「その線はいいね。じゃあ、そういう動物は、何がいるかな?」 「動物に限らず……ポケモンって説もいいと思うよ」 「ポケモンがそんな無意味なことするかな?」 「無意味なこと、大好きだよ。特にボクはさ」 ポケモンにとって意味のあることなんて、闘うことと、生きることくらいかな。野生じゃなくなると、意味のあることは、増えてくるけど。 「じゃあポケモンという説も入れると、どんな感じ?」 「日向も考えてよ」 「考えてるよ。だけど影太郎が先」 暴君だなぁ、と思う。というより、わがままなお姫様かな。どっちだっていいんだけど。 ボクはわがままなお姫様なために、脳みその回転数を上げてみる。ポケモンとか、動物に、そういう収集癖のいるやつっていただろうか……ああでも、考えてみると、動物ごときにはやはり日傘くらいの物量のものをさーっと盗んで行くのは難しいだろう。となると、やはりポケモン説が有力か……。 他にも何か、あったっけ。ああ、映像があった。ボクはその犯人を、シルエット的であるとは言え、見ているのだった。ボクは文字通り尻に敷かれた状態のまま、映像を繰り返してみる。見た感じ、四足歩行か。というか、あの速度は、四足歩行の動物にしか出せないものだ。二足歩行の動物は、基本的に足が遅い。 となると……。四足歩行で、さらに日傘を咥えるための口があり、森に生息する、収集癖のあるポケモン。該当するものは……見つからない。そもそも、森には虫がほとんどで、あまり動物系統のポケモンは住み着かないのだ。 ああでも、例外的に森に君臨する種族も、いるにはいるか。だとしたら、見当なんててんでつかない。やっぱり、地道に探すしか方法は無いような気もするけれど、どんなもんだろう。 「影太郎?」 「んー、駄目だ。四足歩行で収集癖があるポケモン、というところまでしか、考えは及ばないよ」 「私と同じくらいだね」 きっと日向はなんにも考えていないに違い無かった。でも、そのくらいで気分を害するようでは飼われているポケモンとしてやっていられないのだ。ボクは尻に敷かれたままそれ以上の情報を探そうと試みるが、やはりそれ以上は、ボクの持ちうる頭脳では不可能であるようだ。 「やっぱり、地道に探すしか無いよ」 「そうだね、そうしようか」 日向が立ち上がったことで、ボクは座布団からゴーストに戻ることが出来た。ふわりと浮いて、三歩下がって日向の後ろをついていく。 「あ、そだ」 日向がまた小さく声を上げる。 「なに?」 「ポケモンだか動物を探す必要は無くて、とにかく日傘を探せばいいわけだよね」 木の根っこから違う木の根っこに飛び移りながら日向は言う。そういう事をするから転ぶのに、何故日向はやめないのだろう。 「まあ、きっとそういうことだろうね」 「うーん……だとすると、やっぱり、そういうものを隠すのに適した場所を見つけるのが、建設的だね」 日向はよく『建設的』という言葉を使う。意味はどうやら、効率が良いとか、そういうことらしいのだけれど、なんだってそんな大人びた言い方を好むのだろう。背伸びしたっていいことないのに、と、何故だかボクはそんなことを思った。 「物を隠すなら、やっぱり深部だよね」 「だね。でも、森の一番奥って、どこ? 反対側まで行ったら、森から出ちゃわない?」 「でも、この森は入り口がいくつかしか無いじゃん。他の場所は木が生い茂ってて出られないし、入れないし。そう考えると……ん、でも、やっぱり何処が奥とも言い難いのかな」 ぶつぶつと独り言を呟きながらボクは日向のあとに続いた。奥、と言うよりは、住処、なのだろうか。とすれば、森の中心地がそれに適しているような気はする。ん、でも、住処なら森の外に出やすい場所の方がいいのだろうか。でも外敵の事を考えると、中心地が一番安全な気もする。それに、あれだけ素早い動きが出来るのなら、少しの距離くらい、あってないようなものか。それなら中心地という説も、いくらか良さそうだ。それに……宝庫という意味ならば、中心地という説は、さらに良さそうだ。 「中心地、とか」 ボクは頭の中でまとめた言葉を、そのまま口にしてみた。日向は振り返り、首を傾げる。 「生き物が住処を作るなら何処かな、と思ったけど、森なら中心地じゃない? ほら、昔のお城とかって、城下町の中心にあったんでしょ?」 「ああ、確かにそうかも。でも、何処が中心か、影太郎分かる?」 「適当で良ければ、分からないでも無いよ」 それは感覚的なものだったけれど、ボクは方位がよく分かるし、縮尺を考えるのも得意だった。前世では図面でも引いていたのだろうか。それとも、探検家だったのかな? どれでもいいけど、有り難い才能を残してもらったものだ。 ボクは日向と前後をバトンタッチして、先頭を進んだ。ふーわふわふーわふわと、浮遊する。時々日向を振り返って、日向が大丈夫かどうかを確認したりもするのだ。 しばらく無言で、ボクと日向は中心を目指した。そこに日傘があるというような確証は無かったけれど、それでもそこに行くのが――建設的、というやつだとボクは思った。少なくとも、行って損は無いだろう。損得勘定で動くのは、こういう局面では大事なものだと思われる。 「ねえ影太郎、まだ?」 「感覚的にはもう少し。今は……中心より、左斜め下くらいかな?」 「なんでそんなこと分かるの?」 「こればっかりは、感覚としか言いようが無いや」 逆に、ボクと同じじゃなくても、感覚的な才能を持っている人になら、この感じが分かって貰えるものだと思うけど。何か……こう、雰囲気というか、直感というか、そんなようなものだ。ボクだって上手く説明出来ない。何しろ感覚なのだから。 そんな感覚の示す中心に向かってボクはひたすらに浮遊を続けた。日向もボクを追いかけてくる。時々転びそうになっていたけれど、中心地に近づくにつれて地形もなだからになってきて、あまり足を引っかけるようなものも無くなっていた。 「ねーえー、まだー?」 「もう着くよ。ていうか、中心地の定義によるけど、もう中心地だよ?」 森の規模にもよるし、形状にもよるだろうけど、もしこの森が円形だとするなら、ほぼ中心地に、ボクと日向は来ていた。少し開けている場所で、心なしか、木漏れ日も道中に比べて強い。 「ここに日傘があるのかな」と、ボク。 そのままふらふらしながら、中心地を彷徨う。 「さあ。まあ、探してみないとね。ふう……ちょっと、疲れた」 と言ったきり、日向はその場に腰を下ろしてしまった。どうやら捜索担当は僕という事になりそうだ。まあ、ある程度予想はしていたけれど。 中心の地面は、薄く綺麗な草が生えているくらいで、他には何も無い。が、そのため、日向も抵抗無く腰を下ろす事が出来たようだ。そのおかげでボクは一匹でむなしく彷徨っているわけだけど。 うろうろと捜索を続ける。と、何やらどう見ても怪しい場所を発見した。木の洞であり、その木が大木である事からも、洞の中はさぞ大きな空洞である事が予想された。ボクは洞に近づいて中を覗いてみる。何か、光るものが見えた。 光り物……でも、日傘は光らない。宝庫としての洞なのか、それとも食料庫としての洞なのか。いや、でも光る食べ物なんてそうそう無いしな……と、ボクは考えて、まずは日向に指示を仰ぐことにした。何も出来ないなら出来ないで役立たず認定をされるが、勝手にやったらやったで、勝手だと怒られる。 「日向ー」 ボクは洞に顔を突っ込んだまま、日向を呼ぶ。が、日向からの返事は無い。聞こえてないのか。それともまた眠ってしまったのか。 「日向ー?」 今一度、語尾を上げながら日向を呼んだ。しかしやはり、日向からの返事は無かった。どういうことだろうか。洞から顔を出して、振り返る。 日向がいない。 「あ、あれ?」 日向は確か、そこに居たはずだ……と、思ったけど、勘違いだっただろうか。それとも、ボクの方向感覚が鈍ったのかな? 洞から離れて、ふわふわと、ボクは日向を探した。日向がいなくなると、不安と恐怖もより一層、ボクに降りかかる。 「日向ー」 周囲を注視しながら、ボクは進む。と、そこに日向を見つけた。横たわった日向を。しかし死んでいるわけでは無い。当然だ。この短時間で、日向が死ぬはずが無かった。 「日向?」 声をかけながらボクは日向に近寄った。と、どうやら日向は、眠っているようだった。ああ、なんだ、やっぱり日向は眠ってしまったのだ。だけど何故こんな場所で眠ったのだろう。周囲を見渡してみる。が、どこも変わった様子は無い。 「……」 不穏でも、不思議でも、無いけど。特に困ったことは無いけれど、それでも何か、嫌な雰囲気だった。 ボクは日向を起こすべきか迷いながらも、一応、ここまで来たのだし、揺さぶってみる。が、起きない。さっきより深い眠りに入っているのだろうか。もう一度揺さぶってみる。起きない。 「……日向?」 「その女の子は、もうしばらく寝かせておいてあげた方が、いいと思うよ」 ボクでは無い誰かの声が上がった。しかもそれは、人語では無い。 「誰?」 「警戒しないで。敵意は無いんだ」 「姿の見えないヤツに警戒心を解くほど、ボクは野生を忘れてないよ」 日向の安全に注意しながら、ボクはその声の主を捜した。けれどそれは見つからない。 「僕を攻撃したりしない?」 「それはこっちのセリフだよ。それに、日向に何かしたんだろ? どの口が言うんだよ」ボクは攻撃的になって言う。 「何もしてないよ。間接的に、眠ってもらっただけ」 「いいから姿を見せなよ。ポケモン同士だろうと、すぐに争いに発展するわけじゃないし」 「……まあ、それもそうだね」 声の主は、姿を現した。 四足歩行の、緑色の体毛で覆われた、狐のような、猫のような、そんなポケモン。ボクは生憎と、彼の種類を知らなかった。しかし、尻尾や耳が植物の葉っぱのようで、草系のポケモンであるという事は、感覚的に理解出来た。 「こんにちは」 視線の先にいるポケモンは、丁寧にそう告げる。 「僕は……そう、この森の守り神なんだ」 「その守り神が、なんでボクらに危害を?」 「まあ、ちょっと、話を聞いてよ」 ポケモンはボクと日向に近づいてくる。ボクは日向の前に出て、そのポケモンから日向を守る体勢を作った。 「そんなに警戒しないで。大丈夫。何もしないから」 「何もしない? もう日傘を盗んで、日向を眠らせたじゃないか」 ボクは敵意をむき出しにしていた。それはポケモンとしての本能かもしれないし、飼い主に危害を加えられた事に対しての怒りであったかもしれない。 そして何より、あまりに無防備で、飼い主の身を案じられなかった自分自身への責任をもみ消すための、理不尽な怒りだった。 「それは、そう……謝らないといけないね」 「謝って済むのかい?」 「いや、そう……警告のつもりなんだ。僕はこの森の守り神。それは、森を守るという事もさることながら、君達のような、外部からの侵入者を……っと、自己紹介をしていなかったね。僕はリーフィアだ。名前は無い」 「自己紹介なんて」 「その方が都合が良いんだ。ああ、君の名前は? 女の子は、日向って言うみたいだけど」 リーフィアとかいう守り神の言葉は、何故かいちいち、僕の神経を尖らせた。対峙した誰かを怒らせる才能に長けているとしか思えない。 「ボクは影太郎だ」 「なるほど。それで……そう、外部からの侵入者を守るという意味合いもあるんだ。だから、君達がこの森に入らないように、僕は日傘を盗んだ。けれど、すぐに返すつもりだったんだ」 「じゃあ、返してよ」 ボクは明らかにいきり立っていた。日向は目を覚まさないし、リーフィアは、非常にボクの神経を逆撫でする。非常に、相性の悪い、相手だった。 「返すよ。でも、今ここには無い」 「なんでさ」 「森の入り口に置いてあるんだ。君達が目覚めたあと、すぐに外に出ると思った。だけど、君達は森の奥に入ってきただろう? だから、仕方なくついてきたんだ」 「……」 言っている事に、何か疑問があるわけでは無かった。けれど、何故だろう。ボクはこのリーフィアに対して、警戒心を解く事が出来ない。それは出会いが悪かったからか、本能的に、気に入らないからか。 「この女の子が目覚めてから、君達が森を引き返してくれるなら、僕は何もしない。というか……別にどの道、何かをするつもりなんて無いんだ。ただ、僕はここで、森を外敵から守って、外敵を森から守る。ずっとそれだけをするんだ。ずっとそれだけを、ね。ああ、少しお喋りなのは、もちろん、久しぶりの会話が楽しいからなんだけどね」 やっぱり、ボクはリーフィアに対して、今一つ、信頼を置けない。警戒心が、解けない。自動的に展開した警戒心がそのまま展開されたまま、消えないのだ。 日向を見る。日向の表情は、さっきまでの安らかな表情から、苦しそうなものへと変わっている。何故かは分からない。そしてボクは、何も出来ない。 「それじゃ、もう帰りなよ」 リーフィアが言う。ボクは日向の安否が心配になるが、きっと、そうする事しか出来ないのだ。リーフィアに敵意を向けても、それを実行に移すような理由を、ボクは持っていない。 ボクはリーフィアに背を向ける。そして、日向の容態を見ることくらいしか出来ない。何故ボクは、眠らせる事は出来ても起こす事は出来ないのだろう。それは物理的にも、心情的にも、同じ事なのだけど。 激痛が走った。 背後を振り返る。リーフィアが、さっきと同じ場所に、さっきと違う体勢で、存在していた。 「あ……残念、急所を外した」 リーフィアとボクを繋ぐ線に、草が大量に落ちていた。まるでそれがボクを攻撃したと言わんばかりに、大量に。形状はまるで――そう、剣のように。 「一撃で葬ろうと思ったけれど、失敗してしまった」 リーフィアは悠然と、そこに存在していた。そしてボクを見て、高らかに笑う。 馬鹿にされていると、そう感じた。 「何もしないんじゃなかったの?」 ボクはわざわざ、そんな尋ね方をした。怒りがメーターを振り切って、思考がまともじゃなかった。 「いやはや……外敵は全て排除するのが、守り神の仕事でね。隙を見て殺すつもりだったんだ。失敬。今度は外さないように努めるよ」 リーフィアは笑った。 ボクは笑わない。 4 ボクの本能は、結構馬鹿に出来ない。危ないと思ったものは、最初から危ない。嫌いだと思ったものは、相手にどこか欠陥がある。 だからそこから考えていくと、ボクがリーフィアとやらに感じた違和感は、間違っていなかったようだ。 リーフィア。 嘘つきだった。 守り神とか、そういうのは嘘じゃないのかもしれない。でも、ボクを攻撃してきた。うん。人生やっぱり、そう都合良くは行かないんだろう。誰もが嘘をついて、誰もが騙して、誰もを貶める世界なんだろう。 人生……と、呼べるのか。生きてはいないし、人ですらないボクだから、それは分からない。 「なかなか……訓練されてるみたいだね」 ボクは久々に、戦闘と呼ばれる行為に興じていた。そんなボクに命令を下すべきトレーナーは……ボクの背後で、寝息を立てていた。ボクは彼女を守るために、闘わなければならなかった。 「唐突だろう? 日常の崩壊なんて」 リーフィアは口数の多いポケモンだった。ボクはリーフィアと対峙をして――ほぼ拮抗した、牽制のし合いを、継続させていた。 「どんな意図でこの森に入ったのか。どんな意味で入り口に辿り着いたのか。どんな意志で彼女を連れてきたのか。まあ、全てが悪く転んだ結果さ。だろ?」 「うるさいよ。闘いに集中しなよ」 ボクは怒りをぶつけた。 リーフィアの言葉は、いちいちボクを苛立たせる。その度にボクは、正体不明の怒りの要素を分解して、発散し、相手に投げつけなければならないのだ。 「……」 リーフィアを睨み付けながら、ボクは思案する。 ポケモン同士の闘いなら、形式がある。 技の構成とか、技の数とか、順序とか、道具とか、制限とか、規則とか。 だけど野生との闘いで、今のボクのように、トレーナーの指示が無い、野生と同じようなポケモン同士の闘いとなると、そこにルールや卑怯という概念は存在しなくなる。それは……それは、そう。ボクの生物としての力量がそのまま発揮される場所であるということになる。 「集中してるよ。守り神も、色々と大変なんだ」 リーフィアから葉っぱが高速で発射された。森という地形が有利に働いているのか、それともリーフィア自身から葉っぱ状のものが出ているのかは分からない。それを理解する間もなく、ボクはそれを回避した。 「なんでボクらに危害を加えるのさ」 「ボクら? ……いや、少し違うな。僕が危害を加えるのは、君だけだよ。君に攻撃を加えて、あわよくば殺すのさ」 「どうして……」 「ポケモンが死んで人間が死ねば、危険な地域として、この森には人が近寄ってこなくなるだろう?」 ボクはリーフィアの言葉の意味を、よく理解することが出来なかった。それは、つまり、ボクのようなポケモンが死んで、子どもが生き残れば……森が危険じゃなくなる、と、そういうことなのだろうか。 「でも」と、ボクはリーフィアの言葉に反論する。「そんな事をしたら、森に人が大勢やってくるんじゃないの? そしてこの森が、何か調べられるかもしれない」 「それは、子どもが死んだ時の話さ」 ボクは口を開けたリーフィアに向けて、暗黒物質を投げつけた。回避に遅れたリーフィアの前足を少し削っていく。 「ペットのポケモンが死んだくらいで、人間は動かないよ」 「そんなものかな?」純粋な疑問を、リーフィアに投げかけてみる。 「そんなものだよ、人間なんてね」 返答と同時に、再び葉っぱがボクに向かって放たれた。ボクはそれを回避するが、二、三枚の攻撃を受けてしまう。 「訓練はされているようだけど、それが身についている様子は無さそうだ」 挑発のつもりか、リーフィアは攻撃を受けたボクに、そんな嫌らしい視線をぶつけてきた。ボクは怒りの代わりに、リーフィアに向けて、波動をぶつけた。 「おおっと……」リーフィアは攻撃をモロに受け、のけぞる。その後、口の端を三日月のように釣り上げた。 「前言撤回だ。強いじゃないか」 「強い弱いはどうでもいい。ボクの望みは、日向を連れて、帰ること。だから、帰してくれない?」 「帰るならどうぞ? 僕に背を向けて、行けばいい」 リーフィアはボクを馬鹿にしているようだ。だからと言って、トレーナーのいない争いなんてものに、ボクは興味が無い。ここでリーフィアを倒す事は造作も無いと、そう思ったけれど……倒した結果、意味はあるのだろうか。それに、何か意味は……。 「何か君を躊躇させるものがあるのかな?」 リーフィアの周囲を、虹色の葉っぱが舞った。そしてそれは空中で浮遊したまま、葉っぱの先をボクに向ける。 「なにが?」 とぼけたように、ボクはリーフィアに返す。そして一瞬、後ろを覗う……日向はまだ、寝息を立てている。表情はさっきより、苦しそうだ。 「ゴースト。君のことは知ってる。ああ、当然君自身を知っているわけじゃないが……君の種族を、よく知ってる。君らは催眠術が、得意なのだろう?」 「だから……それが?」 「なんで催眠術をしてこないのかな、と思ってさ」 催眠術。 ボクは確かに……催眠術が、得意だった。催眠術をしてから、相手の夢を喰うという戦闘においての一連の動作は、ボクの十八番だ。それを狙わないというのは、確かに、おかしいと言うより……有り得ない。ボクがゴーストであり、尚かつ、この場合、相手を殺さずとも眠らせて逃走を図る事が出来るのなら、それは最も優先すべき行動のはずだ。 それをボクがやらずに、攻撃に専念する理由。 単純に、純粋に。 リーフィアが睡眠に――かからない。 「おおっとそうだ、今度はこちらの番で、良かったんだったかな」 リーフィアは宣言してから、ボクに虹色に光る葉っぱを投げつけた。それをボクは避ける事が出来ない。ボクの回避を読んでいたかのように、虹色の葉っぱはボクを正確無比に追い、痛めつける。 「外れなかった事は一度も無い」 「……」 ボクの体力は如実に減少していた。 催眠術は、絶える事無く、発動し続けていた。相手の意識を奪うための術を、ボクは実行していた。それでもリーフィアは眠る事をせず、悠然と、そこに立つ。 混乱を招こうともした。 それすらも、リーフィアには効かない。 「攻撃は、しないのかい?」 リーフィアの挑戦的な口調。ボクはそれに対抗するために、再び暗黒物質を、投げつけた。リーフィアはそれを受け、ダメージを負った。 さっきから、ボクの攻撃は、彼に全て命中している。そのどれもが、ダメージの大きい攻撃。なのに彼は、まだ倒れない。まだ? いや、このままずっと、倒れないような、そんな錯覚すらも、ボクは覚えてしまう。 「……ふう」 静止して、森の天井を見つめていたリーフィアは、視線を再び、ボクに戻した。そして口元を釣り上げる。もうその表情は、あくどいという言葉では片付けられないほど、悪意に満ちていた。 「そろそろ、きついんじゃないの? 影太郎君」 リーフィアの言う通りだった。今まで、ボクの戦闘形式と言えば、相手を眠らせて、その夢を喰らう事で、体力を回復するというものだった。だからどれだけ連戦しても、ボクは疲れるということを知らなかった。それなのに今、ボクはリーフィアの攻撃によって痛めつけられ、体力を、消耗していた。それは攻撃の軌道によっては日向に被害が及ぶということを考慮した上での行動故だけど。 「まだまだ、全然」 ボクは強がる。が、催眠術は、やっぱりリーフィアには効かない。同様に怪しい光も……リーフィアには、無意味だった。 もはや……日向を守るために、奥の手を使うべきなのだろうか。まさかこんな局面が、楽しいお散歩の延長線上にあるなんて、ボクは思いもしなかった。だけど、きっと、いつでも、どんな時だって、ボクには覚悟があったはずだ。日向を守るために犠牲になる覚悟が。 「そう? それじゃあ、行くよ」 リーフィアが、大気を味方につけたのだと思った。 リーフィアを葉っぱが取り巻き始める。それは様々なもので、細いものや、広いもの。挙げ句の果てはリーフィア自身を覆ってしまうのでは無いかと思うような大きさのものまであった。 それがリーフィアの頭上で、固形化していく。いや、まとまっていく、と言った方が正確なのか。棒状に、まとまっていった。そしてそれは見ようによっては……剣のようにも見える。葉っぱで出来た剣に、どれほどの威力があるのだろう。それをボクは、数分前に、身をもって体験していた。 「急所を狙おう。今度はきっと、一撃で殺せる」 「さぁ……どうかな」 ボクにも準備は整っていた。相手に呪詛を呟く準備が。霊体として、幽霊として、怨念として、これほどまでに似つかわしいスタイルは無い。ボクが死んだら――この場合、成仏が正しいのかもしれないけれど――相手をも、殺す。 道連れに。 催眠も、混乱も、麻痺すらも効かない相手に通用する術は、この他に、ボクは見当たらなかった。 そして……力で倒す事も、不可能なのだ。 今にも倒れそうなのに気丈に振る舞っているというようには、どうしても見えなかった。 「それじゃあ、終わりだ」 リーフィアは感情を露わにせずに、平静にそう告げて、ボクに緑色の剣を、振り下ろした――! ボクを、何かが直撃する。 剣はボクを切り裂き、ボクは限界が来るのを悟る。その瞬間に、ボクは呪詛の言葉を告げる。道連れにするための呪いを吐く。目の前のリーフィアを、地獄に連れ去るための呪いを。 しかし。 しかし、リーフィアは目の前に立っていた。 何故? ボクだけが死に、リーフィアは生き残るというのだろうか。催眠も、混乱も、麻痺すらも効かないこの相手には、呪詛の言葉すらも、届かないという事なのだろうか。ボクの脳みそでは、やっぱり理解出来ない。相手のその、理不尽なまでの防御壁と、減らない体力の謎を。 「なんで……」 その言葉は、言葉として、ボクの口から零れ落ちた。崩れゆく意識の中に反響するのでは無く、実際に、言葉として森の、木々の間をすり抜けていった。 それが意図するところを、ボクは理解する。 「いやあ、間に合って良かったね」 男の声がした。 ボクはその声に、聞き覚えがあった。 本来、日向と比べる事など出来ないとは言え、それでも、人間の中では、日向の次にボクが好きな人間の声だった。 「まだ生きてる? ……だね? 良かった。幸いながら、傷薬はぶっかけても効果があるようだ。一つ、知識と経験が増えた」 博樹だった。 日陰の友達の、博樹。 「いやー……まあ、まあ。状況は読み込めないが、判断は出来た。そしてその判断は、間違っていなかったようだね。それで満足だ」 「博樹……」 剣が振り下ろされ、ボクを切り裂く間に起きた、何かの直撃を、ボクは理解する。視界の端に転がっていたのは、高級なタイプの傷薬の、空き瓶だった。 「はは。僕が買って上げた日傘が、ここの入り口に落ちていたからね。まさかと思って、中に入ってみて良かった。途中、ポケモンの捕獲に興じたりしたもんで、遅れてしまったけどね」 博樹は手に持った日傘を僕に示しながら、笑顔で告げた。そしてリーフィアに、視線を向ける。 「彼が元凶かな? ああ……どうやらそのようだ。酷く敵意を向けられている」 博樹は森の天井を見上げる。そして、リーフィアを照らし合わせ、何かを理解したようだった。リーフィアは突如現れた外敵に敵意を向けているようだが、そのまま攻撃には踏み切れないようだ。何しろ博樹は、人間なのだから。 「カメックス」 告げながら、博樹はモンスターボールを放った。 「ん……少し濡れるか。まあ、背に腹は替えられない」 博樹はぶつぶつと呟いてから、カメックスに命令を下す。 「あまごい」 博樹の意図を理解することは難しかった。森の天井から、大粒の雨が降り注ぐ。それは僕を直撃し、日向をも直撃するはずだった。が、いつの間にか、横たわっていた日向は博樹に背負われ、その上には博樹が着ていた上着がかけられている。そのまま博樹は、場所を移動し、雨天から晴天へ逃げた。 日向を大切にしてくれるから、ボクは博樹に好意を寄せられる。 「さて、これで大丈夫だろう。カメックス……そうだな、ラスターカノンで終わりにしよう」 博樹が現れてから一言も言葉を発さなかったリーフィアは、博樹のその命令の直後、カメックスから放たれた砲撃によって、吹き飛んだ。それが死と等号されるのか、ボクは分からない。けれど、博樹が相手を死に追いやるほどのダメージを与えるとは、考えにくかった。 一瞬の。 一瞬の出来事。 唐突の始まりと終わりをボクは体験した。ボクとリーフィアの、ポケモン同士の拮抗を、正体不明のリーフィアの不思議を、博樹は何とも思わずに、撃破した。全てが的確で、全てが正確ならば、ここまで一瞬で、戦闘が終わるのかと思うほどに。 「影太郎、おひさ」 博樹はカメックスをモンスターボールにしまいながら、笑顔のままで、ボクに告げた。ボクは力なく笑う他無い。動くのに、動けない。それは、日向が博樹に背負われていて、動く必要が無かったから。 「久しぶり……」 「予定より早くついたんだ。だから、こっちから日陰の家に行くつもりだったんだけど……いやはや、近道なんてしようとするもんじゃ無いね」 博樹は言う。その近道という言葉が意味するのは、この森の入り口を見つけたということなのだろうか。だとするなら、ボクと博樹は、似たもの同士ということになる。それはなんだか、少し、嬉しい共通点だった。 「ていうか博樹、今日、こっちに来る予定だったんだ」 ボクはようやく体勢を立て直して、浮遊を再開する事が出来た。低空ではあったけれど、ボクは博樹の膝の辺りで浮いて、話かける。 「うん? あれ、影太郎は知らなかったの?」 「何が?」 「いやー……巴に教えておくように伝えといたはずなんだけどなぁ。まあいいや、こうして会えたんだから」 博樹は大袈裟に笑い声を上げたので、ボクもつられて笑った。日向はまだ、博樹の背中の上で、眠っている。 「ねえ博樹」 「ん?」 「日向、起きないけど、大丈夫?」 「ああ……なんだ、影太郎がやったんじゃ無いのか。ん、とすると……リーフィア、リーフィア。ああ、リーフィアの草笛でも聞いたんだろう。人間に聞こえる周波数とポケモンに聞こえる周波数には違いがあるからな。日向に聞こえた草笛は、影太郎には聞こえなかったんだろう」 「そんな事って、あるの?」 「あるさ。だって、ポケモンバトル中のトレーナーは、眠らないだろ?」 草笛で眠ってしまう、という事実自体、ボクには初耳だった。だけど、博樹が言うのなら、それは間違い無いのだと思う。博樹はすごいポケモントレーナーなのだ。博樹のポケモンには、ボクは勝てる気がしない。 「さて、他に質問が無いのなら、僕らも帰ろう」 博樹の提案に、ボクは頷く。こんなところには、もう一秒たりともいたくなかった。日傘も博樹が持ってきてくれたのだし、目的は達成されている。リーフィアに対して、まだ消化しきれていない怒りはあったけれど、それはボクの不注意もあったのだし、リーフィアへの疑問も、今はまだ時期じゃない。 と、思った。 そんなボクの視界の端に、確かにリーフィアが見えた。急いで博樹を見る。と、既に博樹の視線は、リーフィアに定まっていた。 「おっと……まだ息があったみたいだ。影太郎、お前ちゃんと闘ったのか?」 「闘ったよ。だけど……いくら攻撃しても、あいつ、ピンピンしてるんだ」 リーフィアがよろよろとした足取りで、ボクらに向かってきた。そこにあるのは、敵意や怒りでは無く、もはや本能だけのような気がした。 「なるほど……光合成、ね」 博樹は背負っていた日向を巨木に預けると、リーフィアと視線を交錯させたまま、「影太郎」と、ボクを呼んだ。 「なに?」 「一瞬だけ、僕のポケモンになってくれ」 「へ?」僕は驚きをそのまま声にする。 「せっかくだ、あのリーフィア、捕まえていこう。だけど生憎と催眠術持ちのポケモンを連れてきていないんだ。影太郎なら、出来るだろ?」 「いや、でも博樹、あいつに催眠術は効かなかったんだよ?」 「ああ、大丈夫だよ」 博樹は一瞬きょとんとしてから、破顔一笑した。 何が大丈夫なのか、ボクは分からなかった。でも、博樹のその自信に溢れた顔は、一つの不安も、ボクに抱かせなかった。 「もう、雨は止んだ。光も無い」 博樹は右手にモンスターボールを構えて言った。 「彼を救うのに、殺すより優しい方法もあるのさ」 5 その夜、ボクは食卓に居た。 日向が目を覚ましたのは、森の中心から、ボクと博樹が出口に向かっている途中だった。目を覚ましたら博樹に背負われていた日向は、かなり狼狽えた様子だったけど、博樹に言われるままに、背負われて家路についた。その道中、当然ボクが日傘を差していた。森の中は薄暗いままだったけれど、外の世界は、もう日暮れ時になっていた。 家に到着してしまってからは、博樹はすぐに日陰の部屋に閉じこもってしまい、日向はつまらなさそうだった。ボクがいくつか冗談を言ったりしても、すぐに殴られて、衝撃をそのままに壁にぶつかったりした。壁をすり抜けて日陰の部屋に行くよう命じられたりもしたけれど、それは日向の頼みとは言え、流石に出来なかった。 「美味しいですね。やっぱり、誰かに作ってもらった料理を食べるというのは、幸せなことです」 ポケモントレーナーとして旅を続けている博樹には、ボクらにとって当たり前の料理がとても嬉しい様子だった。食卓には、日向、日陰、お父さんお母さん、そして博樹と巴がいた。博樹と巴の両親も呼んだらしいのだけれど、来ていない。きっと、迷惑だからとかで、断ったのだろう。大人ってそんなものだと思う。 「いっぱい食べてってねー、博樹くん」 お母さんは日向より背が小さくて声も高い。一番子どもに見えた。そして何よりしゃべり方が幼い気がする。でもこの料理を作ったのはお母さんだから、やっぱりお母さんはお母さんだ。 「はい、いただきます」 食事は和やかに行われる。ボクはそれを、日向の頭の上に乗っかって、眺めていた。他の人の頭の上に乗る事は残念ながら出来ないので、お客さんが来て食卓が一杯の時は、ボクの席はここしか無いのだ。 「影太郎、何か食べる?」 「あ、うん。野菜が食べたい」 博樹がいる時は日向が優しいので幸せだ。ボクは日向にブロッコリーを食べさせて貰う。舌がある以上ボクにも味覚は分かるのだ。食べたものは何処か異次元に消え去ってしまうようだけど。 「そうだ、日向ちゃん、あの傘使ってくれてるんだね」 日向の斜め前に座っている博樹が、日向に話題を振った。日向は一瞬戸惑いながらも、「あ、はい。可愛いし……綺麗だし……」と、何とか答えらしい答えを口にしていた。 「そうなんだ、ありがとう」 「あ、いえ、こちらこそ……」 博樹に翻弄されている日向を見ているのは最高に楽しかった。お婆ちゃんと一緒に日向の成長を見守っていたからか、ボクは飼い主である日向の幸せを切に願うという考え方が刷り込まれているようだ。 しばらく食事は続き、元々食の細い日向は、一足先に食卓から離脱した。日向にはお薬の時間というものが存在しているので、いつもはその場で飲むのだが、やっぱり博樹がいるから、場所を変えたいのだろう。 ボクは気を利かせて、台所に向かい、コップを一つ掴んで水を注いだ。そしてお薬箱から一日分の薬を取り出して、日向の部屋に向かう。日向は廊下で待っていた。 「ありがと」 日向は廊下で薬とコップを受け取ると、口の中に薬を放り入れて、水で流し込んだ。そしてボクにコップを渡して、部屋に向かっていく。 ボクはふわふわと、流しにコップを戻しに行く。こういう雑用をしていると、ボクって従順なペットだなぁ、と自分自身に感心してしまう。とは言っても、ポケモンなのに毎日毎日ボールの外に出してもらっているっていうのは、かなりの特例だ。普通ならこういう雑務すら出来ないのだから、喜んで仕えるのが、本来の姿なのだろう。 「あ、影太郎」 のろのろと進んでいると、何か、紙袋を持った巴がボクに声をかけてきた。どうやら巴もごちそうさまをしたようだ。 「なに?」 「日向ちゃん、お部屋にいるかな」 「うん、多分本でも読んでると思うよ」 「ふーん……入っても大丈夫かな?」 「大丈夫じゃない? 来る者拒まずが、日向の生き方だよ」 なんて、適当なことを言っておいた。巴は「ありがと。あ、入ってこないでね」と何故だか分からない念を押して、日向の部屋に向かっていった。 入るも何も、ボクは博樹に用事があるのだ。 コップを持って食卓に戻った。と、いつの間にやら机の上にはお酒の瓶が乗せられていた。お酒の時間になっているらしい。見れば、お父さんはすっかり出来上がっている。すぐに顔が赤くなるのだ。 「おー影太郎、お前も飲むか」 普段は無口なのにお酒を飲むと上機嫌だ。こういうのを絡み酒って言うのだろうか。 「じゃあ、一口だけ」 流しに戻すはずだったコップにお酒を注がれて、ボクはそれを飲んだ。良い飲みっぷりだと、お父さんは嬉しそうにしている。ボクは酔う酔わないという世界で生きていないので、酒などいくら飲んでも酔わないのだ。だからたまにお父さんの愚痴相手になったりもするんだけど。 「博樹ー」 「ん、どうした影太郎」 ふわふわと、お酒の入ったコップを持ったまま、ボクは博樹に近づいた。博樹もお酒を飲んでいるのか、ほんのりと頬が赤い。 「聞きたいことがあったんだ」 「昼間のことか?」 「うん」 様々な疑問を解消しないまま生きるのは、ボクの性格にはマッチしていた。けど、解決しなければ実害を被るタイプの疑問は、早々に解決しておきたいと思うのがボクである。 「昼間ってなんの話だ?」 日陰もボクらの会話に割って入ってきた。ボクは博愛主義者なので、日陰をのけ者にせずに、話を続ける。ただ、面倒なので説明はしない。 「催眠術……なんで最後は効いたのかな、って」 「ああ、あの事か」 博樹はグラスに少し口をつけてから、真相を告げる。 「いや……そうだな。あれは影太郎が知らないのも無理は無いと思う。リーフィアの特性さ。天候が晴れの時のみ、効果を発揮する」 「晴れ?」 「なんだ、影太郎、リーフィアと闘ったのか」と、日陰が言う。 「うん、今日、森でね」 「リーフィアにはそういう特性があるんだよ。だから闘いも、天候によって左右されるんだ。そういう特性を持ってるやつとの闘いはね」 「そう。だから僕が雨乞いをした」博樹が日陰の言葉を受け継いだ。「そのあとだったから、影太郎の催眠術が効いたんだよ。それに、体力があったのも、光合成で回復してたからだ」 「ふうん……天候なんて、ボク詳しく無いよ」 「だろうね。影太郎はそういうタイプのポケモンじゃない。だけど、知っておくに越したことは無いと思うよ? まあ……本来、ポケモンは知らなくてもいいことなんだろうけどね。全てはトレーナーの仕事だ」 「全くだ」 博樹と日陰は再び、グラスに口を付けた。ボクも何となく、コップの中のお酒を口に含んでみる。苦い味が口一杯に広がって、舌が痺れた。 「じゃあ、あの時森の中は晴れてたの?」 「ああ、そういうことになるかな。真ん中だけ明るいな、とか、思わなかった?」 そういえば、そんな気もする。あれは中心だけ木の葉が薄かったとか、そういうわけでは無かったんだ……となると、あの時、あの場所は……。 「……!」 ボクはコップを机の上に置いて、食卓から猛スピードで日向の部屋に向かった。 そうだ。日向は寝てたから気づかなかったけれど……あの苦しい表情は、眠らされたことに対してじゃなくて、日差しが強かったからだったんだ。ボクは馬鹿か。きっと馬鹿だ。そんな事にも気づけないでいたなら、ボクは馬鹿以外の何物でも無い。 日の光が無いからって理由で、ボクは日向を森の中に誘ったのに。 部屋の前で、巴に入っちゃ駄目だと言われていた事を思い出したけれど、構わず戸をすり抜けた。 「日向、ごめんよ、ボク……」 すり抜けながら日向に謝罪の言葉を口にした。そこには、部屋の中心で立って、何やら着替えの最中であるらしい日向がいた。日向の視線は氷点下だ。ボクは困惑するほかない。 「……なに」 「あ、ごめん、その……二重にごめん」 可愛らしい服に袖を通した姿で動かない日向に、ボクは謝った。巴も「来るなって言ったでしょ」という目でボクを見ている。でも、そんな事言われたって、緊急事態だったのだ。 「なにが?」 「あの、その……昼間、森に連れてったでしょ? その時、あの、日差しがさ……」 日向はシャツのボタンを留めながら、「ああ」と呟いた。いつも通り、クールな日向がそこにはいた。 「それが?」 「あの、日向はお日様がいけないのに、連れてっちゃってごめんって思って……ほ、本当に、ごめんね」 「ああ、そんな事、別にいいのに。ちゃんと肌が隠れる服を着てたでしょう? だから、あんまり気にしなくていいんだよ」 「そうなの?」 「ただ、汗をかくのもいけないの。だから、あまり長い間外に出たくないだけ。影太郎は心配しなくても、良い悪いの区別くらい、自分でつけられるよ」 日向はそう言って、着替えを終了させた。赤と黒と白のシャツ。下には少し丈の長いスカートを穿いていた。なんと言うのだろう。とにかく可愛らしいものだった。ボクはそのシャツやスカートを、的確に表現することが出来ない。 「ぴったりだね」 巴が言う。どうやら、さっきの紙袋に入っているものらしかった。 「うん、ありがとう巴ちゃん」 「それじゃ、がんばってね」 がんばってね、と巴は告げて、部屋を出て行く。一体これから日向は何をがんばるのだろう。対お日様用の洋服なのだろうか。それとも発汗性の凄く良い洋服だとか? これが? にわかには信じられない造りだ。 「じゃ……影太郎は、ここに居てね」 「え?」 「私に悪い事したんでしょ? お仕置きね」 さっきは別にいいと言ったのに、日向はそんな事を言って、ボクをベッドの上に押しつけた。ボクは黙ってそれに従い、掛け布団一枚だけすり抜けて、布団の中に潜り込んだ。掛け布団の上から二、三発ぐーで殴られた気がする。痛くはない。 部屋の戸が開く音がして、日向は部屋から出て行ったようだ。ボクは大人しく、部屋の中を彷徨う。博樹ともっと話がしたかったんだけど、日向は怒ると怖いから、大人しく命令に従わなければならないのだ。 日向の部屋の小物に憑依したりして、ボクは遊んでいた。と、部屋の戸が開いた。日向が帰ってきた、と思って戸に近づくと、顔を出したのは日陰だった。 「あれ、日向は?」 「わかんない。ここにいるように言われたよ」 「おっかしいな……博樹もいないんだけど、知ってる?」 「さあ……ボクはここを出たら怒られるんだ」 「そうか。失礼したな。そのまま続けてくれ」 日陰は部屋から出て行った。日向がいないとはどういうことだろう。この家は確かに広いけど、存在が分からなくなるようなほどの広さでは無かったと思うけど。 ボクは窓の外に視線を向ける。外に行ったかな? と思ったわけだ。そして、日向に言われた通り、部屋にトサカの先っちょだけを残して、窓から顔を出してみた。これで視界は開けた。四方八方、調べてみる。 遠くにギリギリ、人影が見えた。シルエットからするに、博樹だ。しかしボクの位置からは、博樹の姿しか見る事が出来ない。日向も一緒にいるんだろう、なんて事の予想はついたけど、それ以外、特に思う事は無かった。日向にとっては、夜の方が活動しやすいのだ、という事くらいだった。 これを日陰に教えたくても、ボクは部屋の外には出られない。仕方なく、また部屋の中を彷徨ってみる。と、そういえば、随分前から気になっていた事を思い出した。まあ、随分前と言っても二、三日前だった気がするけど。巴が貸したとか言う本の事だ。 ボクは日向の本棚を漁ってみる。と、それはすぐに見つかった。題名も内容も全く分からない感じの本。だけど日向が嘘をつくという事は、きっと何か秘密があるのだ。 ボクは本を本棚の上に置いて、開いてみる。すると、はらりと何か、紙が一枚舞い落ちた。床に移動してその紙を拾い上げてみると、そこに書かれていたのは……。 博樹お兄ちゃんが、明後日帰ってくるって。 ……という、ただそれだけの文章だった。 博樹お兄ちゃんという呼び方をするのは巴だけだ。とすると、ボクがこの本を日向に渡すよう預けられていた時から、博樹が来る事は分かっていたのか。 何故日向はそれをわざわざボクに隠したりしたのだろう。趣味が悪いなぁ、と思う。教えてくれたっていいのに。ボクだって博樹の事は好きなのだから。 ボクは紙を本の同じ場所に挟んで、本棚にしまおうとした。が、裏面にも何か、文字が連ねられている。 次に会えるのはいつになるか分からないから、がんばってね。 との事だった。 ボクはその真意を理解する事は出来なかったが、何となく、それが意図しているところを理解する事は出来た。そして何故か、不思議と、口元が緩んでいくのを、実感していた。 巴っていい人だなぁ。なんてことを思ったりしながら。 そして紙を本に挟んで、本棚に収める。再びさっきと同じように窓から顔を出してみるが、もうそこに、博樹の姿は無かった。 話は終わったんだろうか。 きっとそうなのだろう。 ボクはさっきと同じく、掛け布団一枚をすり抜けて、布団の中に入って丸くなる。そして日向が帰ってくるのを待つのだ。 日向がどんな表情で戻ってくるのかボクには分からない。いつも通りのクールな表情なのだろうか。堪えきれない笑みを含んだ表情なのだろうか。それとも、哀しみにくれた表情なのだろうか。 どんな日向であったとしても、ボクはきっと、突如として布団から飛び出て、日向を驚かせて、そして日向に怒られなければならない気がした。いつものように、日向に掴まれて、投げられるのもいい。本棚や床に押しつけられて、ぎゅうぎゅうとされるのもいい。 どんな事になるのだとしても、日向の溢れだした感情の矛先はボクに向くべきなのだ。そして、ボクはそれを受け入れて、へらへらと笑っているべきなのだと思う。 森の中で、ボクの中に芽生えた感情や覚悟は、その場限りのものでは無いと願いたい。例え今、平穏の中では想像も出来ない、思い出せもしない事であろうと。 ボクが感じたそれらが、飼われているポケモンとして、飼い主に捧げられると信じたいのだ。 玄関の開く音と、閉じる音が聞こえた。 もうすぐ日向がこの部屋に入ってくるのだろう。 どんな風にして飛びだそう。何か冗談でも言おうか。それとも、日向に怒られやすいように、何かヘマをやらかそうか。 そんな事を考えて、部屋の戸が開くのを、ボクはじっと待つ。 四六時中一緒にいて、いつでも飼い主の幸せを願えるボクは、どんなポケモンよりも、きっと幸せ者なのだろう。
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