『過去の記念と未来の祈念』

 0

 歴史を記した。
 過去を記した。
 昨日を記した。
 明日を祈った。
 未来を祈った。
 歴史を祈った。

 1

 なんというか、暇を持て余しているんだけど。
 ボクこと影太郎は、割と昔にゴースから進化したゴーストだ。好きなところは紫色なところで、チャームポイントはトサカの部分。だから本当は毎日身嗜みをしたいところなんだけど、残念なことに、ボクは鏡に映らないので、それは出来ない相談というやつである。なんたって、ボクはゴーストだからね。
「日向ぁ」
 そしてボクは今日も、日向に声をかける。
 ボクは毎日、日向に声をかけている。日向はボクの飼い主で、ボクの大好きな人間だから、声をかけるのは当たり前だ。うん。ベッドに腰掛けて本を読んでいる日向に近づきながら、もう一度、
「日向ぁ」
 と、声をかけてみた。
「なぁに?」と、けだるそうな返事。
「なぁにじゃないよ。せっかくいい天気なんだから、遊びに行こうよ」
「ダメよ。お決まりの会話だけど、いい天気なんだから」僕に視線を向けないまま、日向は言う。
「むぅ……」
 日向は体が弱いから、天気の良すぎる日には、外に出て遊ぶことが出来ない。ボクはそれを知っているし、日向の体の方が大事だから、無理して日向を連れ出そうなんて考えないけど、でもやっぱり、ボク自身は天気のいい日に外で遊ぶのが好きだから、外に出たいなぁと思う。
 ボクはふわふわと浮遊しながら、部屋の中を、ぐるぐると回っていた。それ以外にすることがないのだ。寂しい人生だと思う。いや、ゴーストだから、人生というのは間違いなんだろうか。でも、昔はボクも人だったわけだし、正しいのかな……なんて、そんなことくらいしか、考えることがない。日向はいつも通り本の虫だし、もう、本当に、困ったことだらけだ。
「ねえ、暇だよ日向」
「じゃあ外で遊んで来たら? 窓から見ててあげるから」
「庭で遊んでても楽しくないし、それに、今はみんなどこかに行ってるんでしょ? 公園に行っても面白くないよ」
「そうね、里帰りとかいうやつね」
 まったく、里帰りとかいうやつだ。
 その、嫌な何かのせいで、義彦も、加治木も、巴も、今はこの町にいない。当然博樹もいない。ボクの家族は、その帰る『里』とやらがないから、里帰りとかいうやつをする必要がないみたいだけど、こんなに暇だと、その里帰りとかいうやつをしてみたいとすら思うのだ。一体全体、どういうことなのだろう。ボクがこんなに暇だなんて、ボク裁判では非常に重たい罪になるのだけど。
「暇ならいつもみたいに、部屋の中でふわふわしてたらいいじゃない」
「好きでふわふわしてるんじゃないよ。それに、ふわふわしてても、楽しくないし」
「楽しくないの?」
「……うそ、ちょっとだけ楽しい」
 ボクがそう言うと、日向は微笑んだ。日向はやっぱり笑っている方が可愛いのだ。だけど最近は笑う頻度が少ない。頻度って、こういう使い方で合ってたかな? とにかく、最近は笑う回数よりも、泣いたり、悲しんだりする回数が多いのだ。それはボクも悲しいので、出来れば改善したい。改善。良くするってことだ。
「ふんふん」
 暇で暇で仕方がないので、日向の悲しみを改善する方法を考える。ボクは日向のお腹の上に乗っかって、日向が読んでいる本の表紙を眺めてみるけど、全然分からなかった。ボクは人語は話せても、読むのはあんまり、得意じゃない。簡単な言葉なら、ノリと勘でなんとか読めるけど、難しい『漢字』とかいうものが混ざってくるともう意味不明だ。全部ひらがななら読めるのに。なんで人間は漢字なんてものを発明したんだろう。かっこつけかな?
「影太郎、お腹、くすぐったいんだけど」
「ん、じっとしてるよ」
「そうね、じっとしててね」
 ボクはゴーストで、幽霊だから、色んなものに触れない。憑依するという形でなら、それに乗り込むことは出来るけど、普通に動いていると、大体のものはすり抜けられる。普段は意識しているから、一応は人間と同じように、壁があったらぶつかったりすることもあるけれど、気が抜けていると大体のものはすり抜けてしまう。だからボクは、どこかに腰を落ち着けて考え事をするときは日向のお腹の上か頭の上と決めていた。日向はボクが触れる数少ない人間なのだ。それが何故なのかは、今のところは分からない。ボクの導き出した答えによると、きっと相性がいいのだ。ふふん。
「だから、動かないでって」
「ごめんよ日向」
 そういうわけで、ボクは今、実際のところ、日向のお腹の上に直接乗っかっているということになる。掛け布団も、パジャマも、全部すり抜けて。日向曰く、ボクの肌触りっていうのは生ぬるい粘着性のないゼリーらしいけれど、ボクは生まれてから……そして死んで幽霊になってからも、生ぬるい粘着性のないゼリーというものを体験したことがないので分からない。日向が言うには、それはプリンにも似てる感じだということだけど、ボクは生ぬるい粘着性のないプリンも知らない。
 日向が本のページをめくる。ボクはそのときにふと見えた日向の顔を眺めてみる。長い睫と白い肌と長い髪の毛ととにかくもう可愛い要素がてんこ盛りなんだけど、それは体が弱いから備わったものでもあるから、やんややんやと喜べるものではないのだ。そこが少し悲しかったりもするし、残念だったりもする。
「なぁに?」
「ううん、見てるだけだよ」
「私なんか見てても、面白くないけど」
「面白いとは違うものなんだよ」
「? よく分からない。影太郎ってよく分からない。影太郎の存在も、そういえばよく分からないわね」
 存在そのものを疑問視されてしまった。もうちょっと飼い主らしく、ボクを愛してくれてもいいと思うんだけど。ていうか、ボク、ポケモンだし。誰もが恐れおののく、正体不明のゴーストではないのだ。
 ……っと、そうではなかった。ボクは日向の幸せについて、考えなければならないんだった。
 日向は何日か前……正確な日にちなんて分からないし、ボクは途方もない年月を生きてるからいちいち数えてないけど……とにかく何日か前、博樹が遊びに来たときから、元気がない。その原因は、人生経験と、死後経験の長いボクが察するに、きっと、色恋沙汰なんだろうと思う。博樹はいい人だから、日向といい感じになってくれることにボクは異論はないけれど、ボクに異論がなくても、恋したり愛したりするのは二人なんだから、一番大事なのは二人の気持ちなのだ。
 それに、博樹にとって日向は、一人の女の子という以前に、友達の妹であり、自分の妹の友達でもあるのだから、関係は複雑なのだろう。ボクは多分、兄弟がいなかったから分からないけど、ワンクッション置いてしまうと、関係は難しくなるんだと思う。ワンクッションという言葉を使うタイミングは、ここで良かっただろうか。どうだろうか。ふむ。
「……影太郎?」
「あ、ごめん、もう動かないよ」
 日向の顔が怖い。
 挙動には気をつけよう。
 ……あの日、あの夜、日向はきっと、博樹に色々とお話をしたのだろう。その結果としてどうなったのか、分からないけど、日向が悲しんでいるということは、最高の結末にはならなかったということだと思う。だけど、一晩中泣き通してたわけでもないから、最悪の結末にもならなかったんだろう。上手く言えないけれど、きっと、あれだ、うん。ほりゅーとか、そういう感じなんだろう。実に便利な言葉だ。ほりゅー。恋愛沙汰に対する解答を全てほりゅーにする。博樹も罪な男である。
 そのせいで、日向の生活は似たり寄ったりだけど、まあボクとしては順調な毎日だ。毎日暇だけど、それも仕方がない。日向がいて、元気じゃなくても、苦しんでいないのなら、それはそれでいいのだ。うんうん。ボクはお婆ちゃんに飼われていたときから日向を大事に思っていたから、今、日向に飼われる立場になっても、やっぱり日向は孫のような存在なのだ。きっと。
 日向が孫となると、ボクはお爺ちゃんか。そういえば、ボクの実年齢っていくつなのだろう。享年が何歳なのかすら分からない。一体いつ生まれていつ死んだのやら。考えてもキリのないことだけど、自分のことだから、少しくらいは知っておきたいなぁ、と思う。記憶喪失ってこんな感じなんだろうか。結構厳しいなぁ、なんてことを思ったり。だけど、まあ生きれば生きるだけ、まあどうでもいいっかぁって思うことも増えてくるらぶしゅ。
「え…………えー!? なに!? なにが起きたの今!?」
「動かないでって言ったのに影太郎が動くから。あーあ。全部影太郎が悪いんだから。まったくもう」
 びっくりした!
 ものすごくびっくりした!
 日向のお腹の上でまどろみはじめたと思った次の瞬間、ボクは日向の部屋を通り抜けて、廊下にはじき飛ばされていた。何が起きたのだろうと思ったけど、記憶を詮索する限りにおいては、日向がボクを殴り飛ばしたのだ!
 なんて野蛮な女の子なんだろう。
 そりゃ、痛くないとは言え……ひどすぎる。
「せめて口で言ってよ! 人語扱えるよボク!」
「再三動かないように注意したのに、ちゃんと言う通りにしない影太郎が悪いんだけどね」
「ぐ……それにしてもいきなり殴るなんて酷いよ!」
「殴ってなんてないよ。気づいたら手が滑ってたの。手が滑って、いつの間にかぐーになってて、スパコーンってなったの。手が滑るって怖いわね。影太郎も気をつけてね」
 一番怖いのは日向だった。もしボクがドアをすり抜けないで激突してたらどうしたって言うんだろう。いや、痛くないし、別にいいんだけど。ああびっくりした。予告もなしに殴るんだもんな日向は……なんて恐ろしいんだ日向。暴君だ。わがままお姫様だ。
「あれー、影ちゃんどうしたの? 廊下になんか出てー」
 知ってる声がしたので、振り向く。と、そこにはやっぱり、お母さんがいた。日向よりも背が小さいのに、いつも日向よりもにこやかなお母さん。日向のお母さんとは思えない元気っぷりと優しさの持ち主。ボクは日向の次にお母さんが好きだ。
「うん、えっと、日向にぶっ飛ばされたんだ……」
「あははー。大丈夫だった?」
「うん、痛くないから大丈夫なんだけどね」
「日向も影ちゃんにいたずらしちゃだめよー」
「一から百まで影太郎が悪いんだよお母さん。私は全然悪くないんだよ」
 日向は反省する気ゼロだった。確かに原因はボクにあったかもしれないけど、起因は日向のはずなのに。一から八十ぐらいまでしか、ボクに責任はないと思う。
「可哀想な影ちゃんだねー。じゃあ、せっかくだし、お昼のお手伝いでもしてもらおうかな」
「うん、いいよ」
 頷いた直後、脈絡のないことに気づいたけれど、まあ、いいってことにしておこう。日向は一回機嫌が悪くなるとずっと悪いまんまだし。しばらくはお母さんと一緒にいたほうが、安全な気がする。
「とは言ってもお昼の準備はほとんど終わってるんだけどね。影ちゃんはお皿を出してくれるかなー」
「うん」
 食器棚から、ボクは自分が使わないお皿を台所に並べていく。日陰とお父さんは家にいないから、日向と、お母さんの、二人分。ボクもいるけど、食べる必要はないから、お皿を出す必要はないのだ。
「今日はミートスパでーす」
「パスタだね」
「まあ、楽なのよね。お母さん、面倒なの嫌いよ。さ、影ちゃん、ザルを出してくれるかな」
「うん」
 鍋だとかフライパンだとかがひしめいている棚から、湯切り用のザルを取り出して、流しに置いた。お母さんは小さい体で、大きな鍋を持って、中身を流しにぶちまける。このお母さんの体のどこにそんなパワーがあるのだろう。お母さんって不思議だ。
「そしてここにオリーブオイルを入れます」
「まろやかだね」
「そうねー。お昼、影ちゃんもなんか食べる?」
「ボクは見てるだけでいいよ」
 お母さんが麺をお皿に取り分けて、ボクはその上にミートソースをかけていく。気をつけなければボクの手からお玉がすり抜けてしまう可能性があるので危険だ。幽体というのは、こういうときに困る。
「はーいありがと。それじゃこれを運んで、日向を呼んできてもらおうかなー」
「はーい」
 完成したお昼ご飯をテーブルに運んで、ふわふわと、ボクは日向を呼びに、部屋に向かった。まだ機嫌が悪い可能性があるので、一応控えめに、ノックをしてみる。
「日向、ご飯だよー」
「うん」
 返ってきたのはそんなやる気のない声だった。
 今の日向なら、何を言っても「うん」としか言わないだろう。本に熱中しはじめると、日向はいつもこうなるのだ。
「日向ー」
「うん」
「怒ってる?」
「うん」
「実は怒ってない?」
「うん」
「本当は?」
「うん」
 これはダメだ。
 仕方がないので、ボクはドアをすり抜けて、日向の部屋に侵入した。
 案の定、日向はさっきと同じ体勢で本の虫だった。ボクが侵入したことにも、もしかしたら気づいていないのかもしれない。
「日向ぁ」
「うん」
「ご飯だってば」
「うん」
「むぅ……」
 困った日向だ。
 手のかかる、というやつだろう。
 仕方がないので、ボクは日向の掛け布団をはがして、パジャマ姿のままの日向を、移動させることにした。無気力状態の日向ではあるが、その状態だと拒否もしないところが日向の良いのか悪いのか分からないけど扱いやすい部分だ。
 日向の読んでいる本をつまんで、少し上にあげる。と、日向の両手もその本を追って上にあがる。それを続けていくと、今度は上半身が伸びて、本をベッドから移動させると、日向の体もベッドから出て、いつのまにやら床に立っていた。立った! 日向が立った! と喜びながら、ボクは日向を誘導する。一歩、二歩。そのまま部屋のドアを開けて、開けっ放しにしたまま、本をつまんで、リビングまで誘導した。
「影ちゃんありがとー」
 台所から、無気力状態で歩行している自分の娘を見て、お母さんが言っていた。家族も日向の扱いには慣れたものなのだ。
「日向はご飯だということに気づいてないけどね」
 椅子を引いて、そこに日向を座らせる。そしてボクは、定位置である日向の頭の上に座った。つやつやした髪の毛の上は、思いの外、座り心地がいいのだ。
「はい、ご飯ですよー」
「あっ」
 サラダを持ってきたお母さんによって、日向の本は没収された。本格的に悲しそうな顔をした日向は、しかし、何故自分がここにいるのか、理解に苦しんでいるようだった。日向、人間として大丈夫なんだろうか。
「あ、あれ? ご飯なのかな……」
「ご飯だよ日向。パスタだよパスタ」
「あ、ミートスパだ。で、なんで影太郎は私の頭の上にいるの?」
「ボクの定位置だから」
 そう言い終わったかどうかのところで、日向はボクを自分の頭に押しつけた。ぐえ。
「さてさて。それじゃいただきますよー」
「いただきます」
「まーす」
 とは言っても僕は食べないんだけど。
 二十四時間いつでもにこにこしているお母さんと、何を考えているんだか分からない日向。そして表情もなにもあったもんじゃないボク。バランス、取れてるんだろうか。ボクは幸せだけど。
 お母さんと日向がお昼を食べている間、ボクはじっと、窓の外を眺めていた。いい天気なのも幸せなのだけれど、もう少し、こう、雨は降らないけどどんより曇った天気になって欲しい。曇天というやつだろうか。イメージ的にそんな感じの天気。そうなれば、ボクと日向は、外で遊べるし、日向も博樹から貰った日傘が使えて嬉しいのだと思うのだけれど。
「影太郎、野菜食べる?」
「うん、食べる」
 フォークに刺さったレタスを差し出され、ボクはそれを口に入れた。味も分かるし歯ごたえもあるのだけれど、満腹感というものはボクには備わっていないので、無駄な消費なのである。
「そういえば、お父さん今日泊まりだって言ってたよ。お仕事で。日陰はどうなのか分かんないけど、あの子帰ってくるのかしらねー」
 お母さんは実の息子にそんな酷いことを言っていた。日陰は今日は……なんでいないんだろう。仕事の日だったかな? 日陰の日程は、さっぱりだ。
「私は多分、ずっと読書」
「お母さんもお昼寝してようかなー」
「んー……じゃあボクは日向と一緒にいよう」
 何の変哲もない毎日は、今日も変哲がない。
 退屈だけど、幸せではあるのだ。

 2

 その夜のことだ。
 お昼を食べたあと、ボクと日向は部屋にいて、日向は読書をして、僕はふわふわして、過ごしていた。途中で、二、三度日向に殴られ、その度に色々と言い合ったけれど、それも日常茶飯事なので、大した問題にはならなかった。日常茶飯事って、こういう使い方でいいのだろうか。熟語というやつも、文字数が増えると良いことがないと思う。
 そして夜、お母さんの言った通り、お父さんは泊まり込みで仕事だとかで帰ってこなくて、日陰も、帰ってこなかった。お母さん曰く、「まあ日陰は男の子だしいいかなー」ということらしかった。適当だなぁ、と思う。男の子の親というものはこういうものなのだろうか。でも、まあボクとしても日陰がいなくてそうそう困ることはないので、別に良かった。嫌っているわけではないのだ。ただ、日陰との会話が苦手なだけなのだ。難しい単語ばかり並べられても、ボクは理解出来ないのである。
 そのあと二人と一匹で夕飯を食べて、食事を終えると、日向は当然のようにボクを連れて部屋に戻って、読書を再開した。きっとボクのことなんてどうとも思ってないんだな、ボク、日向に飼われてるのに。モンスターボールにも入れてくれないし。完全に犬とか猫の感覚だよなひどいな……と思っていたら、
「おわっ……たぁ……」
 と、日向の脱力した声が聞こえた。
 結構な悲壮感と疲労感の漂う声だった。
「なにが?」
「本、読み終わっちゃった。一日で読み切れるか不安だったけど、なんとかなるものだね。私も案外、やれば出来る子なのかもしれない」
「いや、なんというか、そういうのは別にいいんだけど……そういえば、それ、随分厚い本だったね。読書、お疲れ様」
「うーん……なるほど、本を読むだけでも疲れられるものだね。影太郎、今何時?」
「今はー……まだ八時。就寝予定時刻まで、二時間もあるよ。ていうか、疲れられるって人語は正しいの? オバケにはさっぱりだよ」
「言語なんて通じればなんでもいいのよ。そんなに正しい言語を尊重したいなら、日常会話から古典文法でも使ってれば? って話だし……うーん、あと二時間か……これ以上本を読む気も起きないなぁ」
 日向は結構、疲れているようだった。肉体的に、ではなく、精神的に。饒舌なときの日向は、心が参っているに違いないのである。
「じゃあさ、外に出ようよ」
「今から?」
 日向は怪訝そうな表情でボクを見る。
 怪訝そうなって一体どんな表情だろうって思うけど、きっと今の日向みたいな顔なんだろう。早い話が、ガンをたれているのだ。しかもボクを殴る気満々で。
「だって、朝と昼は遊べないし、曇りの日も雨が降るからって遊んでくれないじゃん。外で遊ぼうよ。ボクは本来、室内で飼われる生き物じゃないんだけどなぁ。外で元気よく遊ぶ生き物なんだけどなぁ」
「生きてないくせに何が生き物だか」
「じゃあ死に物? ひどくない? それ」
「ふー。まったく、なんで影太郎って生きてないの? なんでなんでなんでなんでなんで?」
「死んだからだよ、もう、随分と昔に」
「ふうん。まあ、っどーでもいいけどー」
 ボクをオモチャにしていることがありありと分かる日向の口調だった。しかしボクは長年生きて、さらにその後長年死んでいるので、気持ちの余裕はそこら辺のおじいちゃんやおばあちゃんよりもあるのだ。きっともう、温厚とかを通り越しているのだろう。菩薩レベルだろうか。
「まあ、暇だし……別に外で遊ぶのはいいけど、何するの? 暗くて何も見えないと思うけど。隠れんぼでもする?」
「隠れんぼの選択肢はどうかな? ま、ちゃんとランタン持って行くから大丈夫だよ。ちょっと一緒に、お散歩してくれれば、ボクは満足かな」
「私は不満」
 一言で切り捨てられた。
 ……むう。
「……もしかして、外行くの嫌?」
「そうじゃないんだけど、散歩するだけだと面白くなさそうだなって思っただけ。もっと面白い遊びはないかな? ……あ、そうだ、いいこと思いついた。飼い主とペットらしく、犬みたいなことする? なんか投げて、取ってこーい! みたいなやつ。確か日陰のブーメランがあったはずだけど……あれでいいかな」
「ていうかそれ、ボク、必要なくない?」
 ブーメランはだめじゃん。
 何もしなくても帰って来ちゃうじゃん。
 流石に冗談だと信じたいところだ。
「さて、でも、一応、出かけるとなったら、近場とは言え着替えないとね」
「あ、行ってくれるんだ」
「私が私のために自発的に出かけるだけだけどね……よっこいしょっと」
 その若さでその掛け声は禁句だと思う……けど、当の日向は全く気にした様子はなく、次々にパジャマを脱いで、下着だけになった。行動をし出すと早いのだ、日向という子は。
 ボクは一応、生前は男だったはずなのだけれど、日向を見る目が孫を慈しむ老婆のそれであるボクは、日向の着替えを見ても、全部一気に脱ぐなよな、という突っ込みしか思い浮かばなかった。しかも日向の体、細くて健康的じゃないので、魅力的とはほど遠い。いくら体が弱いからとは言え、日向はもうちょっと、いや、かなり食べた方がいい。がりがりは体に良くないと思う。少しふっくらしているくらいが丁度いいのだ。最近の子はすぐに痩せたがっていけない。もっとふわふわしようよ、ボクみたいに。
「あぁ……タンスが開けられない」
「嘘つきめ」
 タンスの前でしゃがみ込んだ日向の代わりに、ボクは仕方なく、タンスを開けた。幽霊使いが荒いのだ、日向という子は。
「うーん、何着てこうかな。ちょっと寒いかな? 夏とは言っても、夜だし」
「涼しいくらいだと思うけど、日向はちょっと着込んだ方がいいんじゃない? 寒いのもダメなんでしょ? 暑くてもダメ、寒くてもダメ、だもんね」
「人を自然不適合者みたいに言わないでよ。普通の気温なら大丈夫なんだから。でも、普通の気温ってなかなかないよね。それって普通って言わない気がするんだけど、どうなんだろうね」
「平均と普通は違うよ」
「難しいこと言わないで。頭が痛くなるから」
 言いながら、まず日向は黒いショートパンツを穿いて、長すぎる黒い靴下を履いた。そこまで長いなら全部覆えばいいのに、何故か太ももを少しだけ露出させるのだ。この辺の不必要さというのは、どうしたことだろうか? 流行りなんだろうか? 幽体となってしまった今、ボクは人間とはセンスが違うのだろうから、分からない。
 それから日向は袖の長い黒いシャツを着て、白い、袖のないパーカーを羽織った。以前、森に行った時とほとんど同じ服装だった。違うのは、スカートがパンツになって、Tシャツが普通のシャツになって、防寒性が増したことくらいだろうか。基本的に白黒の服装がお気に入りらしい。
「あぁ……タンスが閉められない」
「はいはいはいはい」
 タンスを閉めて、ふわふわと、日向の部屋に置いてあるボク用のランタンを手に取る。電池式なので操作も簡単だ。
「まあ、一日一回くらいは外に出ないと不健康だし」
「本当だよ。不健康っていうかもう、不道徳だよね。どうにかしないと、いつか歩けなくなるよ?」
「さーて行こうか。あてもない散歩に。こんな夜は歩くのがいいよね」
「人の話聞いてないね? ていうか日向、ちゃんとボタン留めようよ、女の子なんだから。全部閉めろとは言わないけど、開けるのはせめて一つだけにしようよ」
「首もとは苦しいんだもの。そんなこと言うと、影太郎にもネクタイつけてあげるけど?」
「まあ夜だし開放的なのもいいよねー」
 ふわふわと、ランタンを片手に持って、ボクは日向の部屋を出る。日向はすっかり両手をパーカーのポケットに入れてしまっているので、ドアの開閉をする気はないらしい。仕方がないので、ボクが一旦開けてから出て、その後、日向が出てから、もう一度、閉めた。
「ご苦労」
「ご苦労じゃないよまったく」
 ふわふわと、玄関に行く前に、まずはお母さんに、出かける旨を伝えに行くことにした。ボクと日向が出かけたらお母さんは一人になるし、夜中に外に出るのは何かと危ないから、報告する必要があるだろう。
「お母さん」
「なんじゃー?」
 お母さんは寝転がってテレビを見ていた。主婦然とした行動だ。少しばかり、感心にも似た感情が芽生えてくる。やっぱりお母さんはこうでなくてはいけない。
「ちょっと、日向とお出かけしてくるよ。不健康だし、夜だし、涼しいし。日向が歩けなくならないようにね」
「不健康じゃないわよ別に」
「あははー。そうだねー、日向はちょっと歩いた方がいいかもね。うん、でも、暗いから気をつけてねー。野生のポケモンとか、危ないからね。草むらには特に気をつけてね? まあ、影ちゃんがいるから、ちょっとくらいなら大丈夫だと思うけどねー」
「うん、分かった」
「じゃ、お母さん、行ってくるね」
「はいはい。んじゃ日向にお駄賃」
「むぐ」
 お母さんは日向の口にお煎餅を無理矢理詰め込んで、カラカラと笑っていた。そして次々と、お母さんは煎餅を日向のポケットに詰め込む。お母さんってなんでこうなんだろう……「影ちゃんと食べてねー」って、ボク別にお煎餅好きじゃないのになぁ。
「さて、行こうか」
 リビングから廊下へ、廊下から玄関へと移動して、ようやくボクたちは、今日初めての外出をする。
「そうね。あぁ……玄関が開けられない」
「ボクが開けるよ……」
 非力キャラは最近の日向のマイブームらしい。まあ、キャラを作らないでも日向は非力なので、ブームも何もあったもんじゃないんだけど……と、ボクは玄関を開けて、日向を先に外に出した。
「大儀であるぞ影千代」
「どういうこと?」
 玄関を閉めて、星空の下に自分自身を展開してみる。やっぱり、夜はいい。ボクがゴーストだからなのかもしれないけれど、夜には夜の、独自の良さというものがあると思うわけだ。
「さて、どうしよっか?」
「うーん、ボクは日向についていくだけでも十分楽しいんだけど、日向は?」
「あんまり家から離れると、草むらがあるからねー……まあ、影太郎がいるから大丈夫だとは思うけど、私、戦うの好きじゃないし」
「結構楽しいよ? 相手の裏を読んでみたり、運に賭けてみたり。熱くなるよ?」
「私は熱くない性格なの」
 そう言う割には、結構頻繁に怒ったりしてる気がするけどなぁ……とは、流石に言わないでおくことにした。ボクはこれでも、空気が読める幽霊だ。
 ボクは日向を誘導するように、家の周りを適当に徘徊してみた。けれど、歩くだけじゃあ、やっぱり面白くない。薄れている感覚であるとは言っても、ボクは一応、男だったわけだから、冒険心というものに満ちあふれているのだ。
「ねえ日向、ちょっと冒険しない?」
 主の了解を得るために、ボクは一旦、お誘いをかけてみる。基本的に、日向にお願いするときは、ダメもとってやつだけど。
「冒険?」
「うん。ほら、家の裏手にさ、竹林があるじゃん。あんまりポケモンもいないと思うし、いても虫ポケモン程度だと思うしさ。それに、いざとなったら逃げればいいんだし。戦いたくないならね」
「ああ、そうか、逃げれば戦わなくて済むんだもんね。ふうん、なるほど……まあ、竹林も最近行ってなかったし、昔を懐かしむ意味でも、良い選択だとは思うけど」
「十年やそこらしか生きてないくせに」
「幽体のくせに生意気なこと言わないで」
 もしかして、ボクには貫禄というものがないのだろうか。日向とボクの関係は、そりゃ確かに主従関係ではあるけれど、生きていた年数と、死んでからの年数を合わせれば、ボクはかなりの年長者ということになるはずなのに……ううむ、まあ、反論しても怒られるだけだから、黙っていることにしよう。常に懸命な判断を心がけていたいものだ。
「でも、じゃあ、決まりね。竹林に行こう」
「そうね。れっつごー、といったところね」
「なにそれ」
「お決まりの掛け声。……影太郎は長いことこの世にいるくせに、世間知らずだよね」
「世間知らずって言うのかな……? とにかく、その、れっつごーというやつで行こう。れっつごー」
「ごーごー」
 日向も案外、乗り気らしかった。
 ボクとしてもそれは嬉しいことだ。
「で、竹林に行って何するわけ?」
 歩きながら、日向が僕に聞いてくる。まったく、いきなり突っ込んだ質問をするなぁ。
「何をするでもなく、冒険しに行くんだよ」
「なにそれ、変なの」
「変じゃないよ。冒険とはそういうものなんだから。目的がないのがいいんだよ」
「ふうん……冒険ねぇ。私はこれでも女の子だから、影太郎の思想には付き合ってあげられないよ」
 酷い言いようだ。日向はまったく、僕という幽霊を分かっていない。というか男心というものを分かっていないのだ。だから義彦にも冷たく当たるのだろう。あれは意図的なのかもしれないけど。
「とにかく、冒険とは意味もなくするものなんだよ。別にお宝がある必要なんてないんだからね」
「変なの。じゃあしなくていいじゃん」
「しなくていいことをやるのが楽しいんだよ」
「やっぱり男の子って分からない」
 理解することを完全に諦めてしまったようだ。まあ、完全に理解を諦めた割にはちゃんとついてきてくれるので、それは有り難いと言えば、有り難いのだけれど。

 しばらく……と言っても三分程度だろうか。
 ボクと日向は家の裏を歩いて、竹林へと、辿り着いた。
 満月の夜だったので、ランタンがなくても足下が見えるくらいに月明かりが強い。けれど、やっぱり、竹林ともなると、その光も途切れてしまうようだった。
「ふむ、到着したね」
「そうだね。さて、ちょっと竹林の中を一周して、帰ろうか」
「え? そんなもんなの?」
「うん、あんまり行くと危ないし、それに、日向もあんまり歩くと疲れるでしょ?」
「まあね。この前も、大変だったし」
 この前とは、きっと森に行ったときのことだ。最近でも、何かと日向は、森に行ったときボクがちょっと強引に誘ったことをちくちくと言ってくるのだ。日向はまったく、根に持つタイプなので困りものだ。
 まあ、ボクもそれについては申し訳なかったと思っているので、言われる度に素直に謝ることにしている。なにしろ、あのとき出会ったポケモン――森の守り神である、リーフィア――のせいで、日向の体調がしばらく悪かったのだ。日向はなんとか隠していたようだけれど、お母さんが言うには、結構酷い状態だったらしい。日向はそれを、今になってもボクに言おうとはしないけど、言われない方が辛かったりするものだ。
「暗いなぁ」
「夜だからね」
「影太郎はさっき、虫ポケモンくらいしか出ないなんて言ったけど、私からしてみたら、虫ポケモンが出る方が嫌なんだけど。私、女の子なんだけど?」
「虫なんて怖くないじゃん。ビードルとか、キャタピーとか。ケムッソとかもいるかな? そんなに危険なポケモンじゃないんだし」
「じゃなくて、気持ち悪いんだってば、虫って。ま、影太郎には分からないだろうけどー」
 そう言いながら、日向はボクのトサカをむぎゅうと握った。痛くはないけど不快なダメージ。
「虫が出たらちゃんと駆除してよね、影太郎」
「駆除って……まあ、日向の命令に従うよ。そもそもポケモンは、自分勝手な行動をしないものなんだから」
「その割には、影太郎は結構自分勝手だよね」
「申し訳ないと思ってるよ」
 言いながら、ランタンをゆらゆら、体をふわふわさせて、ボクは竹林の中を彷徨った。
 まったくもってオバケっぽいことをしてるなぁ、と、なんとなく思った。まあ、オバケというか、ゴーストというか……正確な霊体というわけではないんだけど、一応はこういう幽霊っぽいこともしなくてはならないんじゃないかという変な気を遣ったりする。誰に遣っているのかは不明だけど、やっぱり、生き物ごとに――死に物ごとにも、役割というものは、あるんだろう、とか。それを守る必要があるのだろうか、とか、そういうのは、分からないけど。誰かが与えたわけでもない役割とか、自分から進んでやると決めた役割とか。自分がやらなきゃいけないこととか。そういうものを放り出して生きることで誰かに迷惑をかけるのは、まあ出来れば、したくないことだなぁと、なんとなく思うのだ。
 意味もなく、理由もなく、役割をこなさないこと。
 面倒だから、怠惰だから、役割をこなさないこと。
 大事だけど、優先だけど、役割をこなさないこと。
 緊急なのに、限界なのに、役割をこなさないこと。
 そんなのはいやだなぁと思う。
 こんなのはいやだなぁと思う。
「ねえ日向」
 と、ボクは振り返って、飼い主を探した。ボクがちゃんと、日向のペットとして、友達として、家族として、出来ているのかどうかが、突然不安になったのだ。
 でも、そこに日向はいなかった。
 ボクの視界の付近には、日向はいなかった。
「日向?」
 少し遠くで物音がした。
 ボクはそこに向かう。

 3

 ふわふわなんてしてる場合ではなかった。ボクは速攻で、それこそ、トサカを空中に置き去りにする勢いで、物音のした地点まで、滑空した。
 そこに、日向は倒れていた。
「日向!」
 ボクは日向に呼びかける。
 一体何が起きたんだろう。
 突然のことで、ボクは頭がうまく働かない。
「う……ん……」
「日向、大丈夫? 日向!」
 ランタンを地面に置いて、日向を揺さぶった。
「ん……あ、なんか、体が……」
「大丈夫? どこか痛い? 頭痛い?」
「う……ん、そういうのじゃなくて、なんか……体が痺れてる感じ……」
 日向は苦しそうにしているけれど、どうやら顔色が悪い様子ではなかったので、持病がぶり返したわけではないようだった。そして、日向が言っている通り、体が痺れているのだとすれば、それは――そう、つまり、虫ポケモンが多く存在するこの竹林において考えられる可能性は、虫ポケモンが撒いた痺れ粉を浴びた――という可能性だけだった。
「日向、安心していいよ。多分、それ、麻痺してるだけだから……確かに辛いかもしれないけど、えっと、命に別状はないし、それに、断続的に痺れるだけだから、ずっと痺れてるまんまじゃないから」
「ん……っと……あ、ほんとだ……ちょっと薄れてきたかも。うー……びっくりした。突然痺れ出すんだもん。なに? 私、なんか悪いことした?」
 日向はまだ痺れが残っているらしく本調子にはなれないようだった。竹林の中で体育座りをすると、何故か怒ったようにボクを見上げる。
「んー……考えられる可能性は、バタフリーとかに痺れ粉を受けたっていう可能性だけど……でも、バタフリーがいる形跡なんてなかったからなあ。日向、なんか変なことした?」
「なんかって、別に、ただ珍しいお花が咲いていたから、ちょっと見てただけよ。痺れる要素ゼロ」
 その日向の拗ねた口調に、ボクは違和感を覚える。
「花って……それ、本当に見てただけ?」
「なんで?」
「日向さ、花の受粉のメカニズムって知ってる?」
「な……何よ急に」
 ばつが悪そうに、日向はボクを睨む。
 でも、それで怯むボクではない。
「簡単に話すけどさ、花から花に蜂とか蝶が飛び移ることで、花は受粉するわけ。これは知ってるでしょ? これさ、ポケモンでもその役割を分担するやつらがいて、例えばバタフリーとかアゲハントはその最たる例なわけ。で、なんでバタフリーやアゲハントがそういう仕事をわざわざするかって言えば、花の蜜を提供してもらってるからなんだよね?」
「だ……だから?」
「つまりね、バタフリーやアゲハントは、花の蜜を吸うために、その花にマーキング……まあ、要は縄張りだと主張するために、色んな粉を振りかけておくわけ。そのうちの一つが、痺れ粉で、まあ、自分が蜜を吸うための花を確保するために、外敵からそれを守ろうとしてるんだよね。……つまり?」
「つまり……?」
「日向が花を触ってない限り、こうはならないよね」
「……あ、また痺れが……」
「……」
 日向は物静かで本好きの病弱な女の子だけど、世間知らずな無鉄砲さも持ち合わせている。だから綺麗な花を見つけたりなんかすると、躊躇なく手を出すから……まったく、本当に、困ったものだと思う。
「ん……っと、でも、本当に断続的だね。たまにピリっとする。ポケモンって、いつもこんな感じを味わってるんだ。やっぱり私、戦いは嫌いだな」
「動けないもどかしさをバネにして急所を狙ってやればいいんだよ。まあ、ボクも昔はよく対戦相手を麻痺らせてやったもんだけどね。日向も舐めてあげようか? ボクの舌って、ピリピリするんだよ」
「舐めなくていいけど……むう、影太郎って、もしかして、本当は戦うの大好きでしょ? 私、影太郎がどんな技使えるかすら知らないんだけど……戦えなくてご不満?」
「どうせそうだろうと思ってたよーだ。まあ、今となってはもう戦わないことにも慣れたし、そこまで不満ってわけでもないよ」
 日向と一緒なら、どうでもいいし。
「ふうん」
 日向は体育座りのまま、ボク以上に心底どうでもよさそうに、言い放った。
 戦闘……か。
 戦闘が大好きで、ボクが生まれた――つまりは死んだ――ときから戦っている記憶しかなかったはずなのに、戦闘に有利な進化を二段階目で止めてしまった理由は、単純にお婆ちゃんの好みで、お婆ちゃんはポケモントレーナーでも稀にいる『自分の好きなポケモンだけを使う』タイプの人だったから、ボクをゲンガーに進化させようという考えは持たなかったようだ。
 それに関して不満を持っているわけではないし、ボクは恐らく、永遠にゲンガーになることはないように思う。
 まあ、なんというか、キャラが合ってるんだろう。
 キャラが立ったやつは、変化をしないものだ。
「それより、これ、どうやったら治るの?」
 日向が体育座りをしたまま、拗ねた口調でボクに問いかける。
「ぐっすり寝れば、すぐ治るよ。あとは、麻痺治しとか、そういう異常に効果のある道具を使ったりすればすぐ治るけど……うちには常備してないし、ボクも状態異常を治す技は覚えてないしね。やっぱ、帰って寝るのが一番だよ」
 すぐに怪我をしたり無茶をする日向と一緒にいるのなら、本来、攻撃技や状態異常ばかりじゃなくて、補助技を覚えているのがいいんだろうけど、ボクはゴーストだから、そういう技を編み出せないのだ。
 こういうときに自分の不甲斐なさに落ち込むけれど……まあ、今度からは、いつ日向が怪我をしたりしてもいいように、傷薬とか何でも治しとかを常備しておくことにしよう。それはボクにも、効果のあるものだし、持っていて損はないだろう。
 ああ、もう、どうせ戦えないなら、補助技ばっかり覚えたポケモンにでもなりたいくらいだ……きっと日向は、性格からしても体調からしても、戦闘に目覚めることなんてないだろうし。となれば、ボクのこの攻撃的な性分と技は、宝の持ち腐れになってしまうわけだ。悔しいとは思わないけど、少しだけ、悲しいような気もする……でも、まあ、日向のそばにいられることが、一番幸せだから、それはそれでいいと言えばいいんだけど。
「影太郎?」
「ん、え?」
 うっかり自分の世界にワープしていたようだった。見ると、日向は既に立ち上がって、ポケットに手を突っ込んで、ボクのトサカを揉んでいた。
 もにゅもにゅ。
 うー……少しだけ不快なダメージ。
「私の話、聞いてた?」
「ごめん、ぼーっとしてた……」
「うん、まあ、痺れもちょっと取れてきたし、もう、帰って寝ようよ、ってこと。麻痺なんかしたから、疲れちゃったよ」
 日向は口をもぐもぐ動かしながら、聴き取りにくい声で言った。
 ポケモンと人間の麻痺に対する耐性がどれほどのものか分からないけど、きっと、ポケモンより人間の方が、抵抗力が高いのかもしれない。その証拠に、もう日向はすっかり元気になっているようだった。
 人間は、自然治癒力が高いのだろうか。
「ごめんね日向。ボクのせいで変なことになっちゃって。そもそもボクが誘わなければなぁ……」
「別にいいよ。早く帰ろう?」
 ボクは日向が差し出してきた手を、ランタンを持っていない方の手で握った。日向が素直なときは、基本的に具合が悪いときだ。精神的に辛いから、ボクをいじめる気力もないんだろう。だからボクは、日向が怒らないときは、申し訳ない気分になる。大体そういうときは、ボクが原因なのだ。
「このまま影太郎に麻痺が感染すればいいのにね」
「残念だけど感染はしないよ。それに、もう日向、麻痺治ってるんでしょ? ……さ、帰ろう。ボクは日向のアクシデントだけで、お散歩にも満足だ」
「私はやっぱり不満だけど。ま、帰ろっか。いつまでも外にいると、冷えちゃうし」
 そうだった。日向は体温の変化にも弱いんだった……色んなことに気を遣わなければいけないくらいなら、本当ほ本当にに、外に出ない方が安全なのかもしれない。でも、一度外に出れば十日ぐらいはその話題でお話出来るし、やっぱり、外に出ることが最悪というわけではないのだろう。
「影太郎、何してんの?」
 ボクの進行方向とは逆に向かった日向が、振り向きながらボクに言う。
「日向こそ。そっちは竹林の奥だよ?」
「でも、もう竹林は半分以上進んでるんだから、このまま突っ切った方が早く外に出られるじゃない。私は女の子なんだから、こんな虫のたくさんいるような場所に長時間いたくないの。分かる?」
「うー……でも、今来た道の方が安全じゃない? 奥って響きが、もう嫌な予感しかしないんだけど」
「いいから早く来て。明かりがないと暗いんだから」
 日向はさっさと奥へ向かってしまったので、ボクはそれに続く他ない。まったく、日向という子は本当にわがままお姫様だ。さしずめボクは執事だろうか? いや、ただの使用人という感じがするけど。
「でも、日向、本当に体は大丈夫? 無理しないほうがいいよ。麻痺のときに無理矢理動くと、神経が破壊されるって聞いたことあるから」
「なにその穏便じゃない噂。誰の情報? そんな噂を流布する悪いやつは殴ってやろうかしら」
「博樹だよ」
「う……そ、そう。気をつけるわ」
 日向の前に博樹の名前は効果が絶大だ。まあ、本当に博樹から聞いた話だし、嘘はついていないだろう。ボクがもともと知っていた話だとは言え。
「でも、本当にもう痺れはないから平気。麻痺するのもすぐだけど、案外治るのも早いのね」
「おかしいなあ……本当はちゃんと休むまで治らないんだよ? すぐ治るなら麻痺治しはいらないんだからね。日向って、本当は体柔らかいんじゃない?」
「? どう反応したらいいのか分からないわね、そのネタ。難しいことは言わないでちょうだい」
 てくてくと歩く日向の前を、ボクは明かりを担当しながら浮遊する。竹林はもう半分を過ぎてしまっているので、真っ暗というわけではない。けれど、月明かりが届くほどでもないので、やっぱり、暗いことは暗いのだ。
「まだなの? 思いの外長いわね、この竹林……」
「歩いていればいつかは出るよ。人生ってそんなもんでしょ。竹林も人生も、歩いていればぐむぁ」
「死んでるくせに偉そうなこと言わないで」
 口をつままれて言葉を発することが出来なくなってしまった。本当にボクへの扱いがひどい。
「んー……そういえば、影太郎も麻痺ってしたことがあるのよね?」
「ん、あるよ。そりゃもうね。なったことのない状態異常はないんじゃないかな。日向がバブバブしてた頃のボクときたら、飛ぶ鳥を落とす勢いだったし」
「影太郎って本当に何歳なのかしらね。まあ、それで、その……麻痺をどのくらい放置したことがあるのかしら、と、突然気になったんだけど」
「放置ねぇ……山ごもりしてたときは、二日間ずーっと麻痺しっぱなしってときもあったよ。お婆ちゃんが麻痺治しを忘れちゃってね。おかげで先手は取られるは攻撃回数は減るわで大変だったけど、良い修行にはなったよ。二度とやりたくないけど」
「大変ね、それ……」
「まあ、でも一つ状態異常を患っておくと他の状態異常にはならないから、危険な場所で修行をする際には有効かもね。本当は道具を揃えておくのが一番なんだけど……麻痺って、考えようによっては一番軽度なんだよ。睡眠や氷と違って意識はあるし、火傷や毒と違って命に別状はないしね。ま……僕はそもそも毒を受けない――――――日向?」
 突然後ろで起こった音に対して、ボクは即座に振り返った。そして、ボクの目線の先に日向は――いなかった。少し目線を下げたところ。つまり、再び先ほどと同じように、日向は地面に、倒れていた。
「日向!」
「……はぁっ」
「日向、日向! どうしたの? ねえ、日向!」
「はあ……苦しい……」
「発作? 心臓が痛いの?」
「そうじゃなくて…………持病じゃないと思うんだけど、体中……が、苦しくて、痛い……の。だるい……感じ」
「……」
 ボクは周囲を探った。
 さっきと症状が違うとは言え、急にここまで体が蝕まれるなんて、状態異常でしか有り得ない。ポケモンという戦闘種族が――肉体的に、人間よりも遙かに優れているはずの生き物が――一瞬のうちに体の自由を奪われ、意識を飛ばされ、皮膚が爛れ、神経を侵されるというのに、それが人間に対して有効でないはずが、ない。
 だから――明らかに、日向の症状は、状態異常。
 そして、恐らくは――

 毒。

「日向……」
 でも、日向が同じ過ちを二度繰り返すとは考え難い。一度麻痺を受けて、その苦しみを味わっているのなら、花にしろ、草木にしろ、竹にしろ――迂闊に触るとは、思えない。それに、日向はずっと、パーカーのポケットに手を突っ込んでいたし……。
「はぁ……ふぅ……」
 どう見ても、露出の多い服装じゃない。
 でも、おそらくは毒――だろう。
 ボクは、毒を感知出来ないんだし。
 ゴーストタイプでありながら、ボクは毒タイプも持ち合わせているから、例えば竹林内に毒の粉が撒かれていたとしても、それに気づくことは、難しい。一応にして、毒の粉を視認することは出来るだろうけれど、いくらゴーストだとは言えこの暗闇じゃあ、見分けることも、難しい。
 ――――いや。
 待って。
 待って待って。
 そもそも、日向は麻痺を受けていたんじゃなかったっけ?
 完治した――と、さっきはなんともなしに思ったけれど、こんなに短時間で、日向の麻痺が治るはずがない。常識的に考えたら、有り得ない。その症状の正体を探っていないのは、完全に、ボクのミスだ。
 だとしたら、何故日向は毒にかかったのだろう。そもそも、毒なのか? これは――でも、症状は、見るからに、毒そのもの。ボクは受けたことがないけれど、対戦相手や、周囲のポケモンが毒を受けたときと、まるで同じ症状。
 だとしたら。
 だとしたら?
 麻痺と毒の重ね掛けなんて――そんなの、有り得ちゃいけない。麻痺毒と、神経毒が、同居しているなんて、あってはいけない。ポケモンという生物と、人間という生物に、そこまで違うがあっていいはずがない。それに、ボクは元々、人間だったのだから――そこまでの違いが有り得たら、色々なものが、崩壊してしまうじゃないか。
「……はぁ」
「日向、どうかした? 大丈夫?」
「今はちょっと楽。周期的に、苦しくなるみたい」
 その症状は、完全に毒のそれ。
 だからやっぱり、日向は毒状態。
「びっくりした……突然痛くなるから……ううん、今もまだ痛いけど……苦しいし」
「多分、毒なんだと思うんだ……でも、日向、どこにも触ってないよね。そうなると、鱗粉とかくらいしか怪しいのはなさそうなんだけど…………そういうの、なんか感じた? 粉を撒かれたりすると、大体むず痒くなったりするもんなんだけど」
「そんなことなかったよ。ほんと突然だったから……何も感じなかったし」
「うーん……」
 毒、毒、毒…………こういうときに働かないなら、ボクの実戦経験や過去の記憶なんて役立たずのゴミクズでしかない。もっと思い出すんだ。毒の状態異常を浴びせる方法。
 毒ガス、毒の粉、毒菱――直接的な攻撃を日向が受けていないなら、これ以外に、あるだろうか? 胞子のあるポケモンに触れた……とも、考えにくい。
 毒状態になる道具というものもあった気がするけれど、それを日向が持っているはずないし……じゃあ、なんだ? どうして日向は、毒になった?
「ふう……でも、大丈夫。ちょっと具合の悪い日と同じぐらいの辛さだから、平気。帰って寝たら大丈夫なんでしょう? うん、帰ろう、影太郎」
「ダメだよ。原因を探らないと危ないし、それに、無理に歩くと毒が回るから。じっとしてれば毒は無害なんだけどね。歩くだけでも神経が破壊されちゃうから。無理はしないほうがいいよ……」
 本当なら、歩き続けていれば毒は消えるのだけれど――毒は生命を脅かすのではなく弱らせることが目的だから――日向に関してはそれが懸命な判断かは分からない。日向の体が限界まで弱ってしまったら、それだけで死の危険にさらされるかもしれない。
「じゃあ……どうする?」
「うーん……」
 本当は、毒消し効果のある木の実が生えているのが好ましい。人間にも効果があるかは分からないけど、ないよりはいいだろう。竹林にもそれは生えているものだろうか? それとも、日向を残してお母さんを呼びに行く? けど日向を残すのは――
 と。
 そんな、思考を。
 展開した、直後。
 ボクが意識的に敏感になっていたのかもしれない。それとも、四足歩行のポケモンに対して、必要以上の警戒心を働かせていたからだろうか? 普段では捉えられないくらいの気配を、ボクは感じ取った。
「……影太郎?」
 意識を澄ます。
 精神を集める。
 日向の言葉も――届かない。
 辺り一面――静寂だけ。
 それが何の意味をもたらしたのか。
 それが何の結果をもたらしたのか。
「影――」
 そしてそれは動いた。
 目の先に映るのは――四足歩行の、黒い生き物。
 けれどその生き物は、逃げられなかった。
 ボクの目からは、逃げられない。

 4

「……影太郎?」
 数分の静寂のあと、口を開いたのは、日向だった。
「どうしたの? 固まっちゃって」
「……もう、大丈夫かな」
 ボクの目の先では、四足歩行の黒っぽい生き物が、恨めしそうに、あるいは妬ましそうに、ボクを睨み付けていた。睨み付ける順序から言えば、ボクがそのポケモンの逃走手段を奪うために――あるいは、闘争本能をむき出させるために――闇のように、影のように、暗く黒い眼差しを浴びせかけたことが始まりだろう。まんまと――と言うべきか、順調に、と言うべきか。四足歩行の生き物は、ボクの眼差しの前に、逃げる術を、失った。
「大丈夫って、何が?」
「ボクの視線の先に、小さい黒っぽい影、見える? ポケモンがいるんだけど……」
「え? ……あ、ほんとだ、なんか動いてる」
 日向は目を細めて、ボクの視線の先を見ていた。そこにいるのは、紛れもなく、ポケモン。そして、ボクも知っている種族のポケモンだった。
『……君、こっちおいでよ。今のところ、ボクは君に危害を加えるつもりはないからさ』
「…………影太郎、今なんか言った?」
「えっと、まあポケモン語だから、気にしないで」
 ボクは日向に言ってから、少しずつ、そのポケモンに近寄った。もはや逃げるという思考は失っているようだけれど、かと言って、ボクに遅いかかってくるという気も、ないらしい。
『どうにも、君が日向が毒を浴びた直接の原因だとは思えないんだけどね……気になるから、足止めさせてもらったよ。突然ごめんね』
 ボクは比較的好戦的な性格――なのかもしれないけれど、ポケモンを見たらすぐに戦いたくなるほど戦闘狂というわけでもない。その辺は、自分でもよく理解している。空気が読める、という言い方でいいんだろうか、この場合。
「なんか、別の生き物みたいで怖いんだけど。ちゃんと日本語喋ってくれる?」
「人間の言葉が分かるポケモンがどれほどいると思ってるのさ。……ほら、こっちおいで。別に取って食べたりしないから。話が聞きたくて足止めしただけなんだからさ』
 会話の途中から言語を切り替えて、ボクはそのポケモンに話しかける。
『…………ぅ』
『なに?』
 微かに聞こえた言葉を頼りに、ボクはポケモンとの距離を縮めた。レベル差については分からないけれど、そのポケモンとボクの間には、絶対的な種族の有利不利が働いている。そして、それは向こう側に有利に働くものだ。天敵として危険視されて、怯えられることはないだろう。
『こっち……こないで』
『大丈夫だって、襲ったりしないから。というか、君が日向を襲ったんじゃないなら、この辺には危険なポケモンがいるってことになるんだ。話だけでもしようよ。君、なんか辛そうだし』
「ねえ影太郎、どうかしたの?」
「しばらくじっとしててよ日向。むしろ寝てなって」
 毒を受けているくせに好奇心旺盛な日向をひとまず思考からシャットアウトして、ボクはポケモンへの距離をさらに縮める。ボクの眼差しが効果を発揮している以上、逃げることは出来ないのだ。
『普通のポケモンなら放っておくんだけど、君はここら辺じゃ見ない顔だしさ。どうかしたの?』
『うう……こないでってば』
 距離が縮まるにつれて、仕草や鳴き声から、そのポケモンがメスであることが分かった。体も小さいし、生まれたてなのかもしれない。いや、進化形態のポケモンだから、生まれたてってことはないだろうけど――
『よっこらしょっと』
『ひ』
 近づくボクに対して、短く悲鳴を上げるものの、彼女は逃げ出すことも出来ずに、ボクの隣で、縮こまっていた。彼女は、まるで黒ゴマをまぶした団子のようだ。ボクもよく日向にゼリーとか言われるし、ポケモンってお菓子に似てるんだろうか?
『夜には似合うけど、竹林には似つかわしくないポケモンだよね、君。どうしてここにいるの?』
 ボクは彼女に――成長が遅いのか、正常な彼女の種族よりも、一回りも二回りも小さいブラッキーに、話しかけた。相手が獰猛なニドキングとかだったら、きっとボクは闘争本能を剥き出して話しかけただろうけど、流石にこんな小さな――しかもメスの――ポケモンに強く出るようなボクではなかった。
 ボクは紳士なのだ、一応。
「ねえ影太郎」
「うわ、だから動いちゃだめだったら」
 四つんばいになって、日向はボクとブラッキーに近寄ってきた。辛そうな顔をしているけれど、その瞳には、好奇と興味の光が宿っている。
「わ、可愛いポケモン……どうしたの、その女の子」
「分からないけど、ここら辺じゃ見ない顔だったし、日向の毒となんか関係あるのかと思って、足止めしただけ……って、よく女の子って分かったね」
「? 普通、分かるでしょ」
「普通分からないけどなぁ」
 日向はときどきわけの分からないことを言う……。
『……』
『あ、ごめん。えっと……この人間はボクの飼い主だから、心配しなくていいよ。危害は加えないし、捕まえるつもりもないから。モンスターボールとか、持ってないしね。だから、ね、安心してよ』
『う…………うん』
 どうも、様子が変だった。
 怯えているというだけではないようだ。そもそも、いくら体が小さいとは言え、ポケモンという種族に生まれたなら、対峙した相手に怯えているだけというのもおかしな話。何か理由がなければ、ここまで恐れられる謂われはない。
 ……それとも、本気でボクが怖いのかな?
 こんな性格とは言え、ゴーストだしなぁ。
「うわ、ふっわふわだ」
「こらこら。勝手に触っちゃダメでしょ。動物にせよポケモンにせよ、人間に勝手に触られることをどれだけ嫌がっているか知ってるのかい日向は」
「そうなの? 触って欲しいからこんなに気持ちいいんじゃないの? ほら、影太郎も触ってみたら? このなんとも言えないさわり心地。私の毛布より柔らかい……」
「言ってる場合じゃないよね」
 けれど、ブラッキーもそれほど嫌がっている様子ではない。ボクに対しても、日向に対しても、やはり、恐れとは違う何かを発揮している様子だった。
 それは……なんだろう。
『ねえ、君さ』
『……え?』
『あ、ごめんね、うちの飼い主が』
「なにこれなにこれ。ふわふわー」
「しばくよ日向」
 毒を受けているはずなのに……本当に日向はいつも通りだった。それは単純に、小さい頃から病魔に蝕まれてきたということがもたらした、慣れなのかもしれない。あるいは、日頃の病気よりも、毒の方が効果が薄い……のだろうか。もしくはブラッキーの手触りの良さが毒を凌駕したとか……。
 いや、ないか。
「まあいいや。ちょっと日向は黙っててね。ふわふわしてていいから」
「飼い主に向かってとんだ口の利き方ね」
『それでさ』ボクは日向の言葉を無視して言う。『君みたいなポケモンが、どうしてこんな辺鄙なところにいるの? 迷子? 家出?』
『うん……迷子』
 まあ、飼い主がいなければブラッキーはブラッキーに成り得ない。ボクが飼い主なしではゲンガーになれないように、人間と共存しなければ本来の力を発揮出来ないポケモンもいるのだ。
『飼い主は? 誰なの?』
『知らない……』
『知らないってことはないでしょ。だって、君は、その……人間への恩を返すために、進化するんでしょ? だったら、その人間のことをよく覚えてるはずじゃん』
『ミカちゃんのことは覚えてるけど、色んな人に渡されてきたから、あんまりよく分からないの……』
 ミカちゃんが誰かは知らなかったけど、多分、最初の飼い主のことだろう。その子に連れられて進化して、それで、交換にでも出されたのかな? そのままたらい回しにされて、逃がされたんだとしたら、それは最高に不憫な一生……としか言えないけど。
『ここに来てどれくらい?』
『わかんない……』
『そっか。えっと、じゃあ、なんでそんなに消極的なの? なんか、すごい辛そうだけど』
『え? あ、えっと……なんか、体中がだるくて痛いの。だから、動くのも辛いの』
 ……。
 ……。
 おや?
 なんだか変な気持ちが芽生えてきた。ふむ。えっと、体中がだるくて痛い……どこかで聞いた症状だ。生憎とボクは味わったことがないけれど、それは確か、毒の症状そのものだったはず。
 体中が蝕まれる、というのだろうか。
 骨が痛むような、そんな感覚だとか。
『…………毒?』
『分からないの……今まで、戦ったことがないから』
『いやいや。君は成長しないと進化出来ないじゃん。ていうか、ポケモンはほとんどそうだけどさ。戦ったことないって……まあ、毒になったことない、ってんなら分かるけど』
『ううん、本当に……戦ったことがないの。生まれてから、一度も』
『嘘……でしょ?』
『ほんと……ミカちゃんは、いつも甘いアメをくれたの。ずっとおうちで飼われてたの。だから……』
 甘いアメ。
 ああ……不思議なアメか。
 完全な箱入り――どころか、飼い主に懐いて、不思議なアメによる強制的な成長だけをさせられてきたんだとするなら、戦闘にはあまりにも――絶望的なまでに――不向きだし、もし本当に、多くのトレーナーにたらい回しにされて捨てられたのなら、一匹で生きていけるはずがない。
 ……ひどい話もあるもんだ、この世界には。
「あ、しゅんとしてる。可哀想な黒助……。影太郎、なんか変なこと言ったんでしょ?」
「言ってないし、黒助って名前ははひどくない? 女の子だって自分で言ってたじゃん」
 って、言うか。話をしてる場合じゃない。
 毒……ってことは、日向の症状と一緒で……。
「頭痛くなってきた……」
「なに? 知恵熱?」
「そうじゃなくて……」
 ブラッキーの持っている特性は、流石のボクでも知っていた。前回、と言うとなんか変だけど、日向と一緒に森に向かったときに出会った、イーブイの進化形であるリーフィア――彼の特性は、まったくもって、知らなかったけど。そもそも、リーフィアと戦闘する機会がなかったから、知らなくても仕方ないとは思うけど……ともかく。
 ブラッキーの特性。
 シンクロ。
 状態異常を、はんぶんこ。
 自分が持っている状態異常を、対峙した相手に――あるいは、周囲の生き物に、与える。それも、自分から相手に移動させるのではなくて、保持しながら、相手にも、与える。迷惑極まりない能力。
 ブラッキーの状態異常が、毒なのだとしたら。
 日向はそれに、シンクロした……のだろうか。
「……」
「なに神妙な顔してるの、影太郎」
「日向の膝の上で丸まってる黒いお餅を、怒るに怒れなくなっていて、頭が痛いんだよ」
「なんで怒らなきゃいけないのよ、こんなにかわいいのに」
「かわいいというか、どちらかというとかわいそう、なんだけどね……うーん、まあ、持って生まれた特性に罪はないしね。君さ、誰かに襲われたりした?』
『うん……蝶々に、何か撒かれたよ』
 バタフリー……だろうか。
 恐らく、そうだろうけど。
 面倒な竹林だなぁ……。
「この子、なんて言ってるの?」
「バタフリーに毒を食らって、それを日向にも感染させちゃったんだよ。でも、悪気どころか、意識すらないんだよね。ものすごく箱入りみたいで、多分、自分の特性にすら気づいてないんじゃないかな。本来は生まれたときに教わるものだけど、タマゴの状態から人に育てられたポケモンは、世間知らずが多いんだ」
「短くまとめて」
「今のでもすごく短かったよ!? これ以上は無理だって!」
「説明はいらないの。私はこの子を持って帰っていいのか悪いのか、そういうことを聞いてるの」
「えー……全然そんな話してなかったよね、日向。別に自分勝手な日向を今更どうこう言うつもりはないけど、日向は毒状態であるという意識をちゃんと持って欲しいなぁ……」
「え? 毒は……治ったよ?」
「は?」
「え?」
「いや、え? 毒だよ? さっきすごい辛そうだったじゃん。それが治るとか、え? ないよね?」
 ボクはわけもわからず自分を攻撃しそうになる。どういうことだろう、人間って、本当に自然治癒力が高いのか? でも……そうじゃないと、麻痺が治っていたことの説明がつかない、の、かな?
「治ったものは治ったんだってば」
「でも、え? いやいや、えー……ないよ日向、それは。そんなご都合主義、有り得ちゃいけないよ。なに? これでブラッキーをお持ち帰りして、それで仲良くおねんねして一日終了? ……ダメダメ。ボクは認めないぞそんな終わり方! 尻切れトンボもいいところだ! そうでしょうが!」
「なにをかっかしてるのよ影太郎……ていうかどこ向いてなにを言ってんのか分からないんだけど」
「自然治癒力なんて……そんなオチはダメだと思うなぁ。面白くないしさぁ」
「オチって?」
「こっちの話だけど。でも……それにしても、なんで急に元気になったの? さっき麻痺したときもそうだったよね」
「うーん? 分からないけど、もう元気。ねー黒助」
 黒助と呼ばれるブラッキーは、日向の膝の上で丸くなって、未だに苦しそうだった。だから、薄い毒性、というわけでは、当然、ないのだろうけど……。
「……とりあえず、どうしよう。本能的なことを言えば、別種族のポケモンが怪我をしていても、治療してやろうという気持ちにはならないんだけど……なんだか訳ありっぽい子だし、こんな小さな体じゃ、下手したら、その……」
「死んじゃう?」
「……かもしれないね」
 ゴーストタイプの他に、毒を併せ持っているボクではあるけれど、解毒に関する知識もなければ、相手を毒にする術すら、実のところ、持っていない。あるのはただ、毒に対する耐性だけ。
「……日向、歩ける?」
「うん、歩けるよ。ていうか、早く帰りたい」
「そうだね……えっと」
 ボクはブラッキーに触れ――ようとしたけれど、自分が毒タイプであることで何故か躊躇してしまって、出来なかった。
 代わりに、ブラッキーと目を合わせて――黒く沈んだ眼差しはもう消し去って――声をかける。
『君、一匹で生きていくのは大変そうだから……まず、毒を治そうよ。それで、そのあと、君がどうするかは君が決めたらいいと思うよ。君は野生のポケモンだし、モンスターボールで捕まえない限り、君と日向の間に、契約は発生しないから』
『契約……?』
『ああいや、難しいことはいいか。とにかく、まずは毒を治そう? うちに行けば、きっと大丈夫だから。それに、少し肌寒いね?』
『うん……』
「影太郎、通訳して」
「とりあえずこの子を家に連れて帰ろうかって話になってるよ。まずはこの子の毒を治してあげないと、一匹で生きていくのは無理だからね。うちに毒消しとか、あるかな?」
「んー……お母さん、安売りとかしてると必要ないものも買ってくるから、あるかもね。とりあえず、黒助は持って帰っていいの?」
「その後の進退はこの子自身が決めればいいと思うよ。まずは家に帰ること、これが大事。それで毒を治して、元気にさせよう。それ以上のことは、帰ってから考えよう」
「はーい……ってなんで私が影太郎の指示に従わないといけないのよ。ふざけないで」
 日向のぐーぱんちが頭の上に置かれて、そのままボクを地面に押し潰していく。扱いがひどすぎる。
「それじゃ黒助、私のおうちに行きましょうか。はい、影太郎通訳して」
「もう伝えてあるんだけど……えっと、今からボクらのうちに連れていくね。ちょっと動くけど、その間、我慢してね。いい?』
『うん……ありがとう』
 辛そうに、苦しそうに、彼女は頷いた。
 生まれたばかりのポケモンでも、育て上がったポケモンでも、野生のポケモンによる攻撃は、平等に行われる。それは、戦闘とかけ離れてしまったボクにも同様であれば、人間である日向にも。
 同様に、平等に、強行される。
 そんな世の中の理不尽さのようなものを、日向の後ろを浮遊しながら、ボクは何故だか、思っていた。
 突如として現れる、被害、災害、障害。
 けれど、そんなものは、別に害のあるものじゃなくても、同じなのかもしれない。いつでも急に、ボクらを襲うもの。出会いもそうだけど、プラスのことばかりとも言えず、害とも呼べない、マイナスの現象は、多く起こる。
 突然にして訪れる、放棄、飽満、崩壊。
 嫌気が差す、飽きが来る、面倒臭くなって、何もしたくなくなる。そのために、周囲の全てを犠牲にしても、自分を優先したくなる。
「影太郎、静かね。どうしたの?」
「ん……」そんなことを思っていた僕は、日向に聞きたかったことがあったことを、思い出した。
「あのさ、日向。ボクって、日向のペットとしての役割を、ちゃんとこなせてるかな?」
「……さあ? どうかしら」
 日向は首を傾げて、ボクに言った。
「その役割とやらは、誰かが決めたのかしら?」

 5

「かわいー!」
 そんな好奇の悲鳴を上げたのは、一家の守り神であるところの、お母さんだった。日向が持ち帰った黒いお団子を手にするなり、とろけそうな表情で大事そうにふわふわしている。ボクのふわふわとは毛色の違うふわふわであるようだけど、どうやらうちの女性陣は得てしてふわふわが好きであるようだ。
「ああ……帰りが遅いから怒ろうかと思ったけど、そんな気分もどっか行っちゃったわ。んー、どうしましょうこの子。かわいいなぁ。かわいいなー!」
「お母さん落ち着いて」
 さっきまであれほど狂喜乱舞していた日向だったけど、自分以上におかしくなってしまったお母さんを見て、かなり冷静になっている様子だった。
「決めた! この子は今日からうちの子!」
「待って。お母さん、ひとまず落ち着いてよ」ボクは爆発しっぱなしのお母さんを落ち着けるために、刺激しないように、冷静を心がけて、話しかける。
「その子、今、ちょっと具合が悪いんだ」
「あら、そうなの?」
 お母さんはすぐにお団子を机の上にそっと置くと、心配そうに見守っている。
「うん、だから、まずはゆっくり寝かせてあげようと思ってさ。ここら辺じゃ見ないポケモンだし、話を聞くと、なんか人間に飼われて、そのあと捨てられたみたいでさ……戦ったこともないんだって。だから、ひとまず、寝かせてあげようと思ってさ」
「そっかー。なんか大変そうなのね。じゃ、この子は影ちゃんと日向にお願いしようかな」
 お母さんはブラッキーを日向に渡すと、いつものにこやか笑顔になって、パタパタとどこかへ走り去って行った。
 ボクと日向はお母さんの奇行に首を傾げたけれど、最優先事項はお団子の安全なので、ひとまず日向の部屋に連れて行くことにした。日向自身も、結構疲れているみたいだったし、もうそろそろ――と言ってもゆうにあと一時間はあるけれど――睡眠予定時刻だ。部屋に帰って、今後のことを話し合いながら、眠たくなるのを待つのも楽しそうだ。
「この子、うちの子になるかしら?」
「さあ……まあ、あとでモンスターボールなりなんなりで捕まえれば、本来はその子の意志とは関係なく自分のものにすることは出来るけど、日向、そういう卑劣っぽいの、嫌いでしょ?」
「そうね。無理強いはよくないと思うわ。基本的にポケモンが損をするこの社会が嫌いなのよね、私」
 日向は憮然とした表情で言う。
「日向みたいな人ばっかりだったら、ポケモンも毎日を喜べるんだろうけどね……って、おかしいな、ボクは日向にいじめられてばっかりだけど」
「生意気言ってないでドアを開けてちょうだい」
 生意気を言ったつもりはなかったけど、ボクは日向に言われるがままに、ドアを開けた。もとより日向はブラッキーを抱いているから手が塞がっているので、ボクが開けるほかないのだけれど。
「ふう」
 部屋に入るなり日向がベッドに腰掛けて、そのまま倒れ込む。抱かれているブラッキーも日向にされるがままに、コロンとベッドに落っこちた。
「疲れたー」
 言いながら、日向はベッドの上でごろごろと回転する。
 パキ。
「ん」
「今の何の音?」
「なんだろう。何か、ポケットの中で潰れたような」
 日向が起き上がって、パーカーのポケットを探ると……中から出て来たのは、割れたお煎餅だった。
 ポケットを叩かなくてもお煎餅は増えるんだな、なんてこと以外に、何も考えられないむずがゆさ。
「……忘れてた」
「ていうか、生でお煎餅を入れておくっていうのがまず女の子としてどうかと思うよ。もっと言えば、日向みたいな女の子にお煎餅が似合わないんだけどね? 好みに口を出すつもりはないけどさぁ」
「好きなんだからいいじゃない」
 と言いながら、日向はぼりぼりと、割れたお煎餅を食べていた。素晴らしいほどに日向は自分が女の子であることに対する意識が足りないと思う。
「黒助も食べる?」
「具合が悪い子にお煎餅勧めるのはどうかなぁ」
「影太郎は食べられたいのかしら」
「……もうボクはなにも言わないよ」
 ボクは日向の部屋にある棚の上に腰を落ち着けることにした。って、ボクには腰なんて部位はないのか。何故慣用句というものは、人間を基準に作られているんだろう。答えは人間が作ったからだけど。
「あ、ほら、食べた食べた」
 日向の指先を舐めるように、ブラッキーはもそもそと動いている。
「そうだね。もう寝かせてあげなって」
「だってこんなにかわいいんだもの。食べる姿までかわいいわね。どうしてかしら、不思議だわ」
 小さくちぎられたお煎餅をポリポリと食べながら、ブラッキーは小さく一鳴きした。
「なんて言ったの?」
「『硬い』、って言ってるよ。やっぱお煎餅は難しいのかもね、『美味しい』とも言ってるけど」
「そうね……黒助にはゼリーとかゼリーのほうがいいかもしれないわね。あとゼリーもいいかしら?」
「そんな目で見ないでよ。ボクを食べたら十中八九、お腹壊すよ?」
 棚の上で、気を抜かないように気をつけながら、ボクは日向とブラッキーの動向を見守っていた。まあ、この部屋の中なら誰かに襲われる心配はないし、あとは眠るだけだから、安心だろう。日向が踏みつぶすことだけは少し不安だけど、死んだように眠る日向だから、寝相は良いし、問題はなさそうだ。
「お待たせー!」
 と、ボクが幸せな思考を、日向がブラッキーとの戯れを楽しんでいたら、お母さんが元気すぎる声を上げながら、部屋に入ってきた。右手にはカゴらしきものを抱えて、左手で方に毛布を背負っている。
 ……一体、どうやってドアを開けたんだろう。
「はーいその子の寝床完成! これで今夜から快眠ねー。良かった良かった。あ、そうだ、そのお団子ちゃんはなんて名前にしようか。黒ごま?」
「ううん、この子は黒助にしたから」
「お母さんもその名前気に入りました。黒ちゃーん、ベッドですよー」
 お母さんと日向のテンションは完全に限界を超えている。多分、ボクが何を言っても、どっちも聞く耳を持たないんだろう。別にそれはそれでいいけど……ううむ、日頃から日向はボクに対して冷たすぎると思っていたけれど、愛されすぎるのも考え物だな、と、ブラッキー――もう黒助で決定しているようだけど――を見ながら、ボクは思った。
 ボクは今の距離感で十分なのかもしれない。
 多くを望んでも、良いことなんてないのかも。
「はーい、ふかふかですよー」
「良かったね、黒助」
 もう完全に二人はダメ人間になっていた。ボクは唯一の冷静な傍観者としての位置をキープするために、情に流されないようにする。ふわふわで黒くて丸っこくてサッカーボールほどの大きさもないブラッキーが目の前でちやほやされていたとしても、一緒になってちやほやしようだなんて思考はシャットアウトだ。そんなのは建設的ではない。ボクが最後の砦なのだ。ボクだけは冷静でなければならない。
『……ゴーストさん、ありがとう』
 ふと目が合ったタイミングで、ブラッキーはボクに対して、そんな言葉を、紡いだ。
「あ、鳴いた」
「すごい! かわいいかわいい!」
「影太郎通訳して!」
 日向はボクに人差し指を突き刺しながら、言う。もう、日向もお母さんも完全に参っているようだ。そして参っているときの人間ほど、話の通じない生き物もいない。ボクは言われた通り、黒助の言葉を通訳することにした。
「ありがとう、って言ってる。ボクにだけど」
「そんな、お礼なんていいのにね」
「感謝したいのはこっちよー」
 後半部分は伝わっていないようだった。どうせそうだろうと思ったから後付したのだけれど。
 まあ……実際、感謝しなければいけないのは、日向とお母さんだろう。ボクは通訳をしただけなのだから。
『……具合悪そうなのに、もみくちゃにしてごめんね。その人間たちには、悪気はないんだよ』
『具合は良くなったから大丈夫。痛くもないし、苦しくもないよ。ちょっと疲れてるだけ』
『……あ、毒、治ったんだ。もう、大丈夫?』
『そうだと思う』
「黒助は何をぴーぴー言ってるのかしら、影太郎」
「え? ああ、その子が毒がなくなったって言うからさ……良かったと言えば良かったんだけど、そんなに簡単に治るもんじゃないし、完全に回っちゃってる可能性もあるから、心配だな、って」
「んー? 黒ちゃん毒もらってきてたの?」
「うん……なんか、バタフリーとかにやられたみたいで。それで苦しんでたから、連れてきたんだ」
「じゃあお煎餅食べる?」
 お母さんは日向と同様に、エプロンのポケットからお煎餅を取り出して言った。流行ってるんだろうか、エプロン煎餅。
「さっき食べてたけど、硬いからあげないほうがいいと思うよ。それに、お煎餅より毒消しとかのほうがいいと思うんだけど」
「あらー、お母さんが小さい頃は病気になったらお煎餅だったわよー。滋養強壮にもいいんだから。影ちゃん食べたことない? 布衍煎餅ってお煎餅」
「フエン……センベイ……? ん、あれ、そういえば、そんなお煎餅を、お婆ちゃんがよく、ボクの具合が悪くなったときに食べさせてくれた記憶が……ある、かも」
「でしょー? ……ま、黒ちゃんが元気になったなら、それでいいかな。このお煎餅はお母さんがいただきます。じゃ、日向も影ちゃんも黒ちゃんも、早めに寝るのよー」
 お母さんは早口で言って、ぱりぱりとお煎餅を口にした。どれだけ食べる気なんだ。
「はーい」
「わかったー……」
 お母さんは最後にもう一度黒助を撫でてから、部屋を出て行った。残された日向は、黒助を可愛がりまくって、ボクはと言えば、言いようのない敗北感にうちひしがれていた。敗北感というか、なんというか。虚無感というか、なんというか。
 布衍煎餅。
 そういえば、麻痺になったり、火傷をしたりしたときに、お婆ちゃんがボクに食べさせてくれていたような気がする。麻痺治しとか火傷治しとかが切れたからって言って、代わりに食べさせてくれて……それで、治ってたんだっけ。
 うーん……。
 だからと言って、お煎餅の見分けなんてつくはずもないし、そんな咄嗟の判断をボクが出来たのかと言えば、出来るはずはないんだけど……。
「だとしたら……」
「なに?」
「いや、日向が麻痺とか毒からすぐに立ち直ったのも、お煎餅の効能なのかなと思って……ね」
「ああ、なるほど。そうかもしれないわね。まあ、私は寝て治るようなものは病気だと思ってないから、麻痺や毒がどういう理由で治ったかはどうでもいいわ。基本的に、過去のことなんてどうでもいいの」
「それはまたざっくりとした考え方だね。ボクは好きだけど」
 日向は黒助を人差し指と親指で一通りふにふにしたあと、立ち上がって、タンスの前に立ち、ボクに目配せしてきた。ボクは空気を読んで、棚からタンスの前まで浮遊して、無言のまま、タンスを開けた。
「ご苦労」
「どういたしまして」
 日向はそのまま大雑把な着替えをして、脱いだものは脱ぎ散らかしたまま、静かにベッドに横になった。ボクはその脱ぎ散らかされた服を丁寧に畳んで、パーカーはハンガーにかけておく。なんでボクはこんなことしてるんだろう? これも、ボクが定めたペットの役割だろうか? それとも、お婆ちゃんから賜った、老婆心というやつだろうか?
「あ、もう眠っちゃったみたいね、黒助」
「そうだね。……もう、寝かせてあげようよ、疲れてるみたいだから」
「当たり前でしょ。私もそこまで自分勝手じゃないわよ」
 日向はいつも通りのつんけんした口調でボクに言う。そんないつも通りに慣れてしまっているボクというのもどうなのかとは思うけれど、普通が一番ということを、ボクは今日を境に、身に染み込ませるつもりだった
「それにしても、この子、なんであんなところにいたのかしらね」
「うーん……詳しいことは、明日にでも聞いてみようと思ってるけどね。まあ、色々、あったっぽいよ。色んな人にたらい回しにされて、挙げ句捨てられたみたいだから……まあ、野生に返すのは無理だろうね。そもそも、野生の生まれじゃないんだからさ」
「そう。まあ、その辺は影太郎に任せるわ。別に、この子の過去になんて、興味がないし」
「取りようによってはひどい言い方だけどね」
「別に過去なんてどうでもいいじゃない。明日のことだけ考えましょう。過ぎたことを考えるより、未来のことを想像していたほうが、建設的だわ」
「それもそうだね」
 日向が促すように電気のスイッチを見たので、ボクは空気を読んでそれを消しに行く。
 こうして一日が終わっていく。
 また過去が一つ増えるのだ。
「ねえ日向」
「なぁに?」
「また明日ね」
「そうね、また明日会いましょう。それじゃ、お休みなさい、影太郎」
 日向はそう言って、目を閉じる。
 疲れていたんだろう、すぐに眠ってしまったらしく、部屋の中には日向の寝息と、黒助の呼吸だけが響いていた。
 今日も過去になる。
 明日も過去になる。
 未来も過去になる。
 それらを記憶していくことと、それらを願っていくことは、どちらが建設的なことなのだろう。今日が昨日より良かったかどうかを照らし合わせることと、明日が今日より幸せになるように祈ることは、どちらが建設的なことなのだろう。
 そう考えることが、もう既に、もったいないことなんだろうか。貴重な時間を、無駄にしてしまっているんだろうか。
「……ま、いっか」
 難しいことは忘れて、今日はとにかく眠ろう。
 明日が良い日でありますように、と――日向にとっても、ボクにとっても、そして、黒助にとっても、良い日でありますように、と、祈って、眠りにつく。
 難しい過去なんて、どうでもいい。
 新しい未来だけを、祈り続けよう。
 美しい世界だけを、探し続けよう。