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 カレーの真の美味さは二杯目から。これは僕の中の常識だが、緑葉にも共通する常識らしい。
 帰宅後、二人でのんびりとカレーの準備をして、ご飯が炊けたと同時に夕飯へともつれ込んだ。日頃ろくな食事が出来ていないらしい緑葉は、カレーごときで大満足してくれた。いやはや嬉しい限りだ。明日はどんなものを作ってやろうかなどと考えながら、僕は幸せな一時を過ごす。
「それにしてもさー」
 と、緑葉。
「朽葉って、こんなに物騒だったっけ?」
 ついさっきの自分のことを言っているのか、それともテレビが映し出す、最近港で起きた密輸入のことを言っているのかは分からないけれど。
 確かに、最近物騒だ。
「昔はもっと、のほほーんとした港町、ってイメージがあったんだけどなあ。なんでだろ、外国の人が増えたからかな?」
「それもあるだろうね。まあでも、単純に、治安が悪くなったってのは確かかな。それに、昔はおいそれと悪さが出来なかったみたいだし。特に関東はね」
「なんで?」
「レッドって言う、ポケモントレーナーの鑑みたいな人がいたかららしいよ」
「あ、レッドさんか……」
 レッド。
 一口に『レッド』と言っても、それは単純に、『赤』を指す言葉であるのだけれど、れっきとした人名であり、どの地方の出身なのかは分からないけれど、とにかく上都地方出身で無いということは、間違いなかった。上都地方は漢字圏なので、『レッド』なんて名前がつけられる風習は無いはずだ。
 とにかく、そのレッド。最強と謳われるポケモントレーナーであり、今も何処かでトレーナーをしているという噂らしいのだが――何しろ、彼がポケモンリーグを制覇し、チャンピオンの座を辞退してから、彼は何処か山奥に篭って、野生の強敵を相手に過ごしているらしく、目撃情報が一切無いのだ。噂は様々で、根城にしているのはチャンピオンロードであったり、白銀山であったり、深奥地方の孤島であったりするが……。一説には、渡米したという説もあるくらいだ。
 しかし何故そのレッドがいたから治安が良かったかと言うと、それは何と言うか、『ロケット団』というマフィアを壊滅させた張本人であったり、ポケモンリーグを制覇した数少ない人間の一人であったりと、様々な理由があるのだけれど、とにかく一つだけ、理由を絞るとすれば――彼が十歳の、少年だったということだろうか。
 ロケット団の全盛期は、六年前くらいか。だから今ならレッドは十六歳という、僕とほぼ変わらない年齢であるのだけれど。とにかく、そのレッド。当時十歳だったということが、一番の、治安が良くなる理由だった。
 曰く、『悪さをして十歳に負けるのは恥ずかしい』
 他にもまあ、十歳の子供に負けてられない、とばかりにトレーナーを目指す大人が増えたり、少年少女がトレーナーを目指してポケモンに熱中したり――とにかく『悪』という存在が、いなくなる時代だった。みんなが純粋にポケモンリーグに憧れ、強さを求め、マフィアを解団させる少年に、英雄像を抱いた。
 しかしそれも――レッドの消失と共に色褪せる。
 勿論、ポケモントレーナーの数は増え続ける一方であるし、それだから犯罪が増えたということにはならないのだけれど。
 あまりに正々堂々としていない連中が、増えたというか。
 ポケモンへの愛情というものが、欠けたというか。
「……まあでも、警察もいることだし、あんまり心配しなくてもいいんじゃないかな」
「ま、そうなんだけどさー。ハクロの住んでる所だしー、不安かなーって」
「僕のことは、こいつが守ってくれるよ」
 そう言って、ベルトのモンスターボールを叩いておく。まあ、これでも一応格闘技の心得はあるので、自分の身を守るくらいは出来るのだけれど。
 自慢をするのは、得意では無い。
「ふぃー、ごちそうさまっ! 後片付けは私がやるから、ハクロは休んでてよ」
 三杯目のカレーを食べ終えた緑葉が元気一杯にごちそうさま。僕はもう既に食事を終えていたので、「ん、さんきゅー。お願いするよ」とだけ言って、後片付けを緑葉に丸投げした。
 ソファにどっかりと腰掛け、テレビでステレオタイプ化されたコピーと共に紹介されるポケモングッズを見ながら、ポケッチいいなあ、買おうかなあ、なんて思いを馳せつつ、ポケモングッズという単語で、あることを思い出した。
 そういえば、緑葉のポケモンにお土産を買っておいたんだったか。
 朽葉市のフレンドリィショップは特筆すべき特徴など無く、まあかと言って使い勝手が悪いということも無くて、よくも悪くも普通の品揃えと言ったところだったのだが、とにかく僕はそこで、無難な商品を、いくつか買っていたのだった。と言っても、消耗品しか、買えなかったのだけれど。
 台所に行って、置きっぱなしだったショップの袋の中から商品を取り出す。
「どしたのー?」
 洗い物をしながら、緑葉が問いかける。視線は手元に注がれたままだ。しかし、何というか、女の子が台所に立っているというのは、そそるなあ……なんて、そんな不埒なことを考えながら、「お土産買ってきてたんだよ」と答える。
「え、何買ってきたの?」
「んー、大したもの売ってないから、大したもん買ってないんだけどね。えーっと、良い傷薬五個と、異常状態回復剤四種二個ずつ、あとは――虫除けスプレーが、二本かな」
「え、そんなに? 高くない? ていうか、良い傷薬って高くないっけ?」
「いや、そんなでも無かったよ。えーっとね……しめて、五千八百円か――ご、五千八百円だと!? たかっ! じゃあ今日の食材費二千円足らずかよ! 良い傷薬一本七百円ってぼったくり過ぎだろ流石に!」
 僕は合計金額が七千五百三十二円のレシートを見て驚愕する。うう……甘く見ていた。買い物も久しぶりだったから、金銭感覚が麻痺していたようだ。僕はちゃんと、値段を見て商品を選んだ方がいい。
 きゅ、と蛇口を閉める音がして、緑葉が僕を見る。
 ちょっと怖い顔で。
「ハクロ」
「……うん、いや、プレゼントフォーユーだし。全額僕が負担するし、緑葉は気にしなくていいし。ドントウォーリーだし」
「違うでしょうが! ハクロはもっと、お金の大切さを理解しなきゃだめだよ! なんでそんなにぽんぽん買っちゃうの!」
 怒られた。
 ひどい。良かれと思って買ったのに。
「今すぐ返して来なさい! …………って言いたいところだけど、ポケモングッズって、返品すると未使用でも半額でしか引き取ってもらえないからね。……うん、でも、ありがと。大切に使うね」
 言って、緑葉は僕が差し出したままの形になっていたショップの袋を、受け取ってくれた。ふう、まあ、僕が持っていても意味の無いものだし、これで受け取ってくれなかったらそれこそ無駄遣いとやらになってしまう。やれやれ、僕もここまで堕ちたものだとは、ちょっとびっくりだ。
「まあ、これからは、計画的にするからさ……」
「うん、そうだね。色々買ってると、お金なんてすぐになくなっちゃうんだから」
 なんとなく、緑葉の経験談のような気がした。
 気を取り直して。
「そういえば緑葉は明日、何か予定あるの? というか、緑葉は一体、何をしに来たんだっけ」
「んー、ハクロの顔を見に来たのと、クチバジムの挑戦だよ。ジム戦の日程ってどうなってるんだろう? ポケモンセンターで分かるかな?」
「ああ、分かる分かる。そっか、じゃ、一緒に行こうか? 僕も一応、お金を下ろしておきたいし」
「んーん、別に明日でいいよ。それに、さっきお金使うなって言ったばっかりなのに、ハクロってばおばかさんだね」
「違う違う、全然違う。緑葉ね、世界は君みたいに毎日が今日で回っていないのだよ。明日は土曜日。ポケギアで確認して御覧なさい」
「曜日くらい分かるもんね。でもそれがどうしたって言うのさ」
「土日はね、お金を下ろすのに手数料ってのが取られるんだよ。一回百五円とは言え、僕はそういう細かいことにはケチ臭い人間なんだ」
「あー……なるほど。確かにそんなシステムだったかも」
 まあ、別に、緑葉の言う通りそれは明日でも良くて、家で緑葉とぬくぬくしている、というのも悪くない選択肢だし、実際そうなったとしても文句の一つも無いのだけれど。
 夜の朽葉は、散歩するには最適の条件だったりする。
 それに、圧勝の戦闘であったとは言え、僕の相棒も、一度ポケモンセンターで休ませたかったところだし。
「それじゃ決まりだね。さあ、れっつらごーだ」
「ちょいまち、カードと通帳持ってかないと」
 まあ、金曜の夜、ポケモンセンターも混んでいるだろうとは予想出来たが。国営機関なので待合場も広いことだし、それに僕には、時間が無いわけではないから、焦らずに行動する。
「あれ、そういえばそもそも、私が予定を聞かれてたんじゃなかったっけ」
「ん、そうだけど。明日、玉虫(タマムシ)のデパートにでも買出しに行こうと思ったんだよ。でもまあそれは、ジム戦の日程によって変わるだろうし。決めるのは後だね」
「なるほど、ハクロは色々考えてるなあ」
「緑葉はもっと考えたほうがいいよ」
 とにかく、そんなことを言い合いながら。
 程よいロマンを含んだ朽葉の夜に、僕らは繰り出した。

 ◇

 突然だけれど思い出話。
 僕が僕のポケモンをゲットしたのは――随分と、昔。いや、十五歳の人間が昔という言葉を使うのは、大人から見ると滑稽なのかもしれないけれど、とにかく僕の人生においての昔。十年一昔と言うくらいだし、六歳の頃の話を昔と呼ぶのは、一年の誤差はあるにしろ、問題が無いように思う。
 まあ、それはともかく。
 深奥地方で、僕は彼と出会う。
 公園というか、庭園というか――とにかく、そんな、緑が生い茂っていて、噴水があって、という、まあ今も存在しているのか分からないけれど、そんな素敵な場所。
 少年であった僕は無鉄砲であり、隙を見ては家を飛び出して冒険して帰る、という行為を何度か繰り返していたのだが、両親はそれを良しとしなかった。というのも、僕が危険に巻き込まれたら――野生のポケモンに襲われたら、危ないと考えていたからだ。
 冒険して帰る度に僕は両親に怒られたが、それで冒険をやめるなんてのは少年じゃない。だから僕はそれからも冒険を繰り返し、両親は僕を説得するのを、諦めたようだった。
 だから父親は、解決策として、僕にモンスターボールを渡した。
「こいつがお前を護ってくれるからな」
 と。
 そのポケモンは、確か、炎タイプのポケモンだった気がする。あまり覚えていないのだけれど、とにかく、そんな感じのポケモンだったはずだ。深奥という地方を考えると、ポニータである可能性が高い。
 まあとにかく、僕は危ない場所には近づかないということを無意識のうちに実施する良くできた子供だったので、冒険こそしていても野生のポケモンと出会う、ということは無く、そもそも僕がよく行っていた庭園には危ない場所は愚か、野生のポケモンが出てくる草むらというものすら、存在していなかった。だから僕は、一応、形式上はモンスターボールは持っていたのだけれど、それを使うことは無く、その中に眠っていたポケモンを見ることも、ほとんど無かった。
「……」
 庭園で、いつものように虫を――ここで言う虫は、ポケモンでは無く通常サイズの昆虫だ――追いかけていた僕を、ある視線が射抜いた。
 振り向いてみる。
 見たことの無い――生命体だった。
「……」
 僕は恐怖を覚える。生まれて初めて、野生のポケモンに――まあ、初めはそれがポケモンだとは、とても思えなかったのだけれど――出会った。瞬間、僕は無我夢中で、護身用にと持たされたモンスターボールを取り出して、中央にあるボタンを押し、サイズを一回り、大きくしようとした。モンスターボールは持ち運びしやすいように、使わない時はサイズを小さく出来、誤作動に備えてホールドしておけるという機能がついている。モンスターボールそのものと中央についているボタンは別構造であり、ボタンからモンスターボールへの、エネルギー保存の法則が働いて収縮と膨張が行えるらしいのだが、まあその辺僕もあまり詳しくないし、説明はどうでもいいかと思う。
 とにかく、僕はその『膨張』を行おうとした。そして、中央にあるボタンを、押した。
 果たして――モンスターボールが、カチリと、開くだけだった。
 僕が持っていたのは、父親が渡してくれたポケモンの入ったモンスターボールでは無く、市販されているのと同じ、まだポケモン遺伝子情報を取り込んでいないただのモンスターボールだった。
「…………」
 ポケモンが僕に向けた、その冷ややかな視線を、僕は忘れない。
 ゆらゆらと、僕の目の前で、ポケモンは揺れていた。僕はただ、焦りを感じるだけだった。思わぬ、失敗。まさか、モンスターボールを、取り違えるなんて――
 しかし僕は。
 そこで、好奇心を芽生えさせてしまっていた。
 ああ、市販のモンスターボールが、あるのか。
 これがどういうことを指すか、伝わりにくいと思うので、説明させてもらおうと思う。つまりは、子供が持つことが許されない道具であったのだ。ポケモン遺伝子情報を取り込んでいない、まっさらな状態のモンスターボール。それは、八歳という年齢――分かりやすくいえば、喫煙飲酒が二十歳になれば解禁されるという節目と同じような――にならねば手にすることが出来ない道具であり、同時にそれは、ポケモンを捕まえることが出来るという、誘惑に繋がった。
「…………」
「……」
 僕は開きっぱなしになっていたモンスターボールを、閉じる。
 そして、モンスターボールの中央にあるボタンを囲むリングを手前に引き出した。普通、こういった、ポケモンゲットの手順というものは、危険性を考慮して八歳になるまで教えてはいけないというのが大人の考え方だった。それはなんというか、十八歳未満閲覧禁止の本を、子供に見せないのと、同じようなものだろうか。そんな体制を、大人達は作っていた。
 けれど、そういった『禁止』を、僕ら子供はいとも容易く抜け出すものだ。五歳の頃、上都地方の檜皮(ヒワダ)市に住んでいた僕と緑葉が、『凡栗(ボングリ)』という多年生植物の実を加工してポケモンを捕獲するモンスターボールに似た捕獲玉を製作する職人、巌鐵(ガンテツ)さんの仕事場の近くに住んでいたというのも、理由の一つではあったのだけれど。とにかく僕は、モンスターボールという存在を、六歳にして、熟知していた。いや、完知していた、と言ってもいいのかもしれない。自慢するわけではないが、とにかく僕は、天才なのだ。
 だから、そうして、ボタンを囲むリングを手間に引き出すのは。
 ――ポケモンを捕まえるための、準備であった。
 一度リングを手前に引くことで、赤と白の半球体を連結させている装置を緩めることが出来る。と同時に、遺伝子情報の書き込みをする準備も整うのだ。緑葉はその構造をいまいち理解仕切れていないようだし、今も恐らく理解していないのだろうけれど、僕は六歳にしてその構造を完璧に理解し、そして実際に、使いこなそうとしていた。
 リングは引いた。リングを引くことで、ボタンの機能は停止する。いくら押しても、モンスターボールは開かない。だからあとは、このモンスターボールを捕獲対象のポケモンに当てる――若しくは、その対象の付近で炸裂させることだった。
 赤と白の半球体を連結させる装置が緩んでいることで、今このモンスターボールは、結合部の多少の噛み合わせで一つの球体になっているに過ぎない。とすれば、あとは半球体がずれる程度の衝撃をこのモンスターボールに与えれば、その後は――運に、任せるだけだ。一度きりの、掛け値なしで一度きりの、ポケモンゲット。一度遺伝子情報を取り込もうとして失敗したモンスターボールは、使い物にならない。廃棄されるのみだ。書き込みに失敗したCDのようなものと言えば分かりやすいか。他の情報を、受け付けることが出来ない。だから、一度きり。六歳の僕の、初めてであり、失敗すれば命すら危うい、そんな状況下だった。
 だけれど、いや、だからこそ僕は。
 弱っているのかいないのか、状態異常にかかっているのかいないのか、そもそも野生なのかどうなのか、こんな安物で捕まる条件を満たした状態なのか。
 それすらも、分かっていないのに。
 モンスターボールを――投げた。

 ◇

 ポケモンセンターは、週末ということもあってか、大盛況だった。
 悪用防止のために一台だけしか設置されていないパソコンは大行列。僕はお金を降ろすという、ただそれだけの用事のためにその列に並び、五万円ほど、引き出しておいた。無駄遣いしようという意味合いでは決して無いのだけれど、緑葉が来ているのだから、万全を期しておきたいという気持ちは何処かにあったのだろう。
 とにかく、僕は用事を済ませる。僕がパソコンから離れると、僕の後ろに並んでいた緑葉が何かやっているようだった。ポケモンに関する科学は理解出来ても、パソコンでポケモンや道具が転送受信出来る構造は、未だに理解出来ない僕である。
「終わったよー」
 そんなことを考えながら長椅子で待っていると、緑葉がやってきた。心なしかバッグが軽くなっている感じなので、どうやら道具やら何やらを整理していたらしい。僕はパソコンですること(出来ること、と言ったほうが明確か)と言えば預金入金程度なものなので、その点に関しては緑葉のほうがいくらか先輩だ。不本意ながら。
「計画的に下ろした?」
「もちろん、僕は節約の鬼だからね」
 なんてことを言いながら、長椅子に二人で座る。ポケモンセンターという場所は、国営機関、という理由も勿論あるにせよ、トレーナーが何人もポケモンの回復を要求すればそれだけ時間がかかるので、とにかく広い。でかい。がんばれば集会を開けそうな程度には、面積があった。密かに二階も存在しているし。
「そういえば緑葉、さっき何してたの?」
「ん、パソコン?」
「うん」
「えっとね、持ってた道具を預けてきたの。さっきハクロに道具買ってもらっちゃったから、それ以外はぜーんぶ」
「おお、なんか思い切ったな……でも、別に僕の方を預けてもいいんじゃないの?」
「それが違うんだなあ。ハクロ、アイテムに関しては、ポケモンの預かりシステムとは違うんだよ。お金の関係に似てるかな?」
「んん?」
 お金の関係に似てる、とはつまり、どういうことなのか。
 理解出来ていない僕の顔を見て、珍しく優位に立てたことが嬉しいのか、緑葉は自信満々に答え始めた。
「アイテムはね、アイテムについてる識別IDを読み取ることで、アイテムを預けてるんだよ。例えば傷薬なら、傷薬についてるIDをIDリーダーで読み取って、その個数をパソコンに登録するの。言ってみれば、レジでバーコードを読み取るのと同じかな。それが済んだら、道具に関してはポケモンセンターに預けるの。だからお金と一緒で、一回預けちゃったら同じ道具が戻ってくる可能性は皆無に等しいってことだね!」
 だから、それはつまり。
 僕が買ったアイテムを預けなかったのは。
 預けてしまえば、それを手にすることは出来なくなるからと言うことか――
 ……。
 ……。
 うわ、やべえ。
 すげえ嬉しい。
 ただそれだけのことなのに。
「……」
「どした?」
「いや、よく、分かった。ありがとう」
 僕の顔は、恐らくオーバーヒート状態だろう。緑葉に見えないように、受付の方に視線を向けて緑葉の覗き込みを回避する。
「そ、それじゃあれだ、ポケモンの預かりシステムってどうなってんの?」
 僕は無理矢理、話題を変える。
「ん? んー……」
 さっきとは打って変わって、深刻な表情をする緑葉。どうやら、ポケモンの預かりシステムについては、詳しく無いようだ。
「それは確か……えっと、何だっけ? 遺伝子なんちゃらが……りょーし……何とか……を適用?」
 遺伝子情報を量子力学に適用、か。
 なんだ、こっちは随分と、分かりやすいじゃないか。
 僕の脳みそは科学に切り替わる。色恋モードは遮断。
「へえ、パソコンでもモンスターボールの構造と同じなんだ。まあ、僕も詳しいわけじゃ……ていうか、学校行ってないからさっぱりなんだけども。まあ要するに生物の遺伝子情報を記号として認識して、分子レベルに――原子レベルに分解したポケモンという生命体を、遺伝子情報を元に再構築するっていうのが基本らいしよ」
 緑葉は気でも触れたか、といった表情で僕を見ている。待て待て、おかしいのはそっちだ。
「つまりは……パズルがあって、それをバラバラにする。ここが分解。そのパズルの見本が遺伝子情報。で、その見本を元にパズルを作っていくのが、再構築。まあそんな感じで、パソコンに記録していくわけよ。ま、そんな簡単な話じゃないんだけど」
「ふうん……?」
 まあそりゃ、分からないよな。
 僕だって、完全に理解出来ているわけじゃないし。
「三百十二番と、三百十三番の方――」
 と、そこで。
 僕と緑葉の番号が、呼ばれた。
 ポケモンセンターは――言うまでもなく、例えるまでも無いとは思うのだけれど、それでも例えるなら人間が行く病院のようなものなので、需要と供給が圧倒的に噛み合わない。しかもポケモンは人間よりも多い回数怪我をするから、病院よりも大忙しである。だからポケモンセンターで待つのは必然であり、僕ら利用者はモンスターボールを預けると番号の書いた紙を手渡される。その番号が呼ばれたらポケモンの回復が終了したという合図なので、それを持ってようやく僕らは受付までモンスターボールを受け取りに行けるわけだ。
 まあ急いでいる人は優先的に(即時に)治療を行ってもらえるが、朽葉市に限って言えば旅の途中に訪れるポケモントレーナー以外はまったりと待つのが常識だ。それに、あまり順番を考慮しない要求をするのは、マナーに反すると言う意見が大半だ。
「三百十二番と、三百十三番です」
 整理券を持って受付に向かい、僕が二人分女医さんに手渡す。
「はい、お待たせしました。こちらと、こちらになります」
 トレイに乗せられたモンスターボール。僕のは一般的な紅白のモンスターボールで、緑葉のそれは色とりどりだった。僕らはそれら定位置に(僕は腰のベルトに、緑葉は肩下げバッグに)収めて、女医さんにお礼を言って、受付を後にする。
「さて、これで用事も終わりだね」
「うん――って、違うだろ。そもそも、ジム戦の日程を調べに来たんじゃないのか」
「あ、そうだっけ。えーっと……」
 緑葉は辺りを見回す。何やら探しているようだ。まあ、張り紙か何かを探しているんだろうけれど。
 僕は緑葉の腕を引いて、掲示板のある場所まで向かう。掲示板――受付に向かって左側で、雑誌や新聞が置かれている待合場の壁に存在している。
「あー……っとお、タイミング良く明後日だって」
「ふうん、随分運がいいね。まあとは言っても、一ヶ月に一度は開かれるわけだけど。――ああ、明日は玉虫ジムか。緑葉、せっかくだし、明日は玉虫のジム戦でも見に行く?」
「ううん。だって、明日はデートするでしょ?」
「……っ」
 そんな直裁的な言い方に、僕は少し(いや全然少しじゃない。かなり、超、最高にと装飾する程度には。文脈の意味を考えないのなら、『愕然』と)動揺する。
「……」
 ……いや、緑葉はそんなつもりで言ったんじゃ無いから。幼馴染だし、変な意味は無いから! 全然、そんなつもりで言ったんじゃないんだからな! 勘違いするなよな! 僕!
 ――と、自分に言い聞かせながら、しかし言い伏せられず、僕は顔を発熱させながら、なんとか「そうだね」と搾り出した。
「どした?」
「全く持って、問題など、無い」
「そ?」
 んー? と、俯いた僕の顔を、後ろ手を組みながら覗き込むなんて、反則以外の何ものでも無い。緑葉は一体――いや、自分の気持ちを押し出すのは、あまり好ましくない。自分の感情は、抑えておくのが、一番だ。出来るだけ、冷静を、装って。緑葉の感情を探るのは、よくないことだと割り切って。
 ……。
 ……。
 ふう。
「とにかく、帰ろうか」
「そうだね、用事も済んだしね」
「それに正直……眠いし」
「……だよねー」
 とか、そんな感じで。
 まだ火照っている気がする顔を、朽葉の夜風で冷ましたりなんかしたり、緑葉がいやに僕に絡んできたりしたのだけれど。
 ひとまず僕らは、一日目を終えることにした。
 ……まあ、家に帰るなり、寝る場所がどうだとか、ベッドがどうだとか、ソファで寝るよ布団を敷くよえー一緒に寝ればいいじゃんだとか、もー恥ずかしがり屋さんだなあハクロは、だとか。そんな騒動があったりはしたのだけれど。
 だけれど、しかし。まあ、思春期男子にありがちな、本能と理性と世間体と欲望と自己嫌悪と自己欺瞞と、六種入り乱れた大乱闘に心の中で陥ることにはなるという、限りなく複雑な心境に置かれることになるのだが。
 最後は緑葉の力押しで。
 その日は一緒のベッドで寝ることになった。