7

「たまにいるんです。勝負に勝つことが全て、って考えていらっしゃるトレーナーさんが」
 僕は、トクサ少年を連れてポケモンセンターにやってきていた。緑葉には、試合中にうっかり存在を忘れていて大惨事直前の食材を早めに保存してもらうために、先に家に向かってもらっている。夕飯の準備も任せておいたので、今ごろトントンジューとやっているところだろう。
 朽葉市に存在するポケモンセンター。そこの管理、維持、営業を全て一人でこなしている才能の塊みたいな人が、女医の(トキ)さんである。鴇とは鳥の名前であるが、それとは他に色としての意味合いも持つ。少し濃い桃色のような色で、頭髪の色とも相まって、とても合った名前と言えた。この色で地毛というのだから恐ろしい。
 ちなみに鴇さんが助手として従えている一匹のピンプク、四匹のラッキー、一匹のハピナスもそれぞれ桃色のポケモンなので、何だかもうポケモンセンター内は幸せの色で溢れている。
「だから、勝負に負けると、認めたくない現実とかと対面してしまって……倒れちゃうんですね」
「なるほど……」
 そんな鴇さんは、トクサ少年を休養室に連れて行った後、僕に応対してくれていた。連日込み入っているポケモンセンターだけあって人の数は尋常では無いが、それでもこのポケモンセンターは何故か鴇さん一人で回っている。どういう原理だ。鴇さんは何かマジックでも使えるのか。助手のポケモンとは言え人語が理解出来るはずも無いので、基本的に応対は鴇さん一人だけだと言うのに。
「頻繁に……と言うほどでも無いですけど、そういう方は確かにいらっしゃいます。一応、そういう方が尋ねられた場合には、身元確認をさせていただいているのですが――二百五十三番の方ー!」
 会話の合間合間に仕事の手が入る。この人、疲れというものを感じないのだろうか。何かもう超人の域である。どっかの店長みたいだ。
「それで、持っていらした荷物を拝見させていただいたのですが、こんなものがあったので、一応、お知らせしておきますね」
 鴇さんはそう言いながら、僕に一枚の紙を差し出した。
「ポケモントレーナー……数崎、木賊?」
「同じようなものがいくつも出てきたので、恐らく名刺みたいなものだと思います」
 ふむ……どうやら、このトクサ少年、かなり本気で将来ポケモントレーナーに関する仕事に就くつもりらしい。
 趣味でポケモンバトルをやったり、護衛としてのポケモンを育成するのでは無く、本気でその道に生きたいと思っている人間は、よくこういう『売り込み』をする。名刺はその中でもっとも一般的な手段だ。
 基本的に、ポケモンリーグという団体はその場限りの強さでジムや四天王を選んだりはしない。彼らはジムでの戦績や、各団体の評価。果ては口コミなんてものまで基準にして、選出する。となると、それらに引っかかるためには、自分の名前を売る必要があるのだ。
 そんなトクサ少年の『売り込み』アイテムである名刺。僕は手書きというところにとても熱い想いを感じたので、一応、緑葉の分と合わせて、二枚貰っておくことにする。観戦が趣味な僕は、こういうところ結構ミーハーなのだ。
「二百五十二番の方と、二百五十四番の方、お待たせしましたー! ……ですので、この方のバトルに対する想いは、相当に強いもののようなのです」
「ですね……もう完全に、僕にはこの道しか無いって思ってる感じがしますし。はぁ……まあ、そうじゃないとあそこまでルカリオも育たないだろうしなあ」
「そうですね。大変成長されているようでした。もう既にポケモンの回復は終わっていますので、どうしましょう、木賊さんが意識を取り戻したら、ハクロさんにもご連絡しましょうか?」
「あ、大丈夫です。ていうか、彼が何か言いたがっている様子じゃなかったら、そのまま旅立たせてやってください。彼みたいな人間を止めるのは、忍びないですし」
「そうですね。そうしておきます」
 鴇さんは上品に笑って、ポケモンセンターを出ようとする僕を見送ってくれた。何だろう、もう何か色々と悟っちゃったんだろうなぁ鴇さんは。僕を見て微笑むあの姿は、保母さんが子供を諭すような笑みに似ていた。まあ、僕もまだ子供だしな……よくよく考えたら時さんとは十歳以上離れていてもおかしくないのだ。貫禄があっても当たり前か。
 そんなこんなで、トクサ少年を無事ポケモンセンターに送り届けた僕は、我が家へ直行する。早く帰って緑葉に色々と報告しないと。それに、緑葉のお母さんから電話も来るしな……と、
「おーっと待ちな」
 首根っこを、掴まれる。
 ……。
 ここで、こいつか。
「いやあ、枝梨花の趣味は相変わらずエグい。何故あいつはあそこまでウツドンを愛せるのか、俺には分からねえ」
「そうですか、それは大変ですね少佐……それでは、これにて失敬」
「いやいや、それが今日は面白いやつを見かけたんでな、お前にも報告しようと思って、お前が家に帰る瞬間を待ち続けていたんだ。いやー、最近石竹の(キョウ)が暇になったっつーんで色々仕込んでもらってんだけどよ、俺も随分動きが俊敏になったぜ」
 キョウ? 凶、凶……ああ、石竹ジムの杏子(アンズ)さんの、父親だったかな。何年か前に四天王の座にも着いて、今はポケモンリーグの本部で働いているっていう。
「凶さんって、前代のジムリーダーですよね。僕あの人のことはよく知らないんで……すいません、家に帰って勉強してきます」
「まあ話くらい聞いていけよ、俺のジムには常に故郷の最強に美味いクッキーがある。朝まで語り明かそう。そして明日はジム戦だ」
「勘弁してください。僕は今から家に帰って、彼女とラブラブ新婚さん気分なんですよ。それに、今から電話の約束もあって、色々と立て込んでるんです。二股なんです」
「ん、何だ二股かよ。それなら無理には止めないけどよ……じゃあこれだけ聞いていけ、今日な、おもしれえトレーナーがいたぞ」
 少佐が言う『おもしろい』は、概してゲテモノである場合が多いので、僕はいつもこの手の話を期待しないで聞いている。コイキングを六匹使うトレーナーとか、自分が不利になるタイプばかりで挑戦してくるトレーナーとか。
「ルカリオってポケモン分かるか?」
 その一言で、僕は今後の話の展開が読めた。
「知ってます」
「あいつを一匹だけ連れて、枝梨花に挑んだ奴がいたんだよ。まだお前くらいのガキだぜ? そのくせ強いこと強いこと。タイプの優劣は全く無かったのに、すぐに枝梨花のジム用ポケモンは全滅した」
「なるほど、それは興味深い。続けてください」
「だろ? でな、そいつはどうやらポケモンリーグ入りを目指しているらしいんだ。で、今はひたすらジムバッチを獲りまくってるって感じだな。ってことは、明日俺の所にもきそうな感じだ。どうだ? 見てみたくないか?」
「わあすごい、楽しそうですね。まあ、生憎と、僕はその少年を知ってるんですけど」
 僕は言って、ポケットにしまいこんでいた名刺を取り出す。だいじなもの、トクサのめいし。
「……あ? 何だこれ。かずさき、き……ぞく?」
「トクサ、です。まあ日本人でも簡単に読める漢字じゃないですね。木賊って、植物の名前ですけど、色の名前でもありますし……色の名前って、とにかく難しい字が多いんですよ」
「んー、俺はどうも漢字だけは苦手だ。日本人はよくこんなもん覚えられるなあ」
「僕にゃ二十六文字だけで生活している少佐達が分かりませんよ。ま、とにかくこの少年に会いたいんだったら、急げばまだ間に合うかもしれませんよ。さっき緑葉が戦って、ぶっ倒して、少年も倒れました。その後僕がポケモンセンターに運んだので、まだ動いてなければ……会えるんじゃないですかね」
「なんだと。こうしちゃおれん。じゃあなハクロ、明日ジムで会おう」
 言うが早いか、少佐は僕の首根っこから手を離すと、足早にポケモンセンターへと向かって行った。
 何てダメな大人の見本なんだ……ていうか、ポケモンセンターに行く理由の半分は、鴇さんに会う口実が出来たからだろうけしな……本当に、情けない。こんな男が朽葉市をまとめているかと思うと、悲しくなってくる。泣きそうだ。
 とにかく。僕は自由の身となったので、再び岐路を辿ることにした。とは言っても残り数十メートルだが。
 夕暮れから少し経った、薄暗い夜空。
 朽葉の港は――長い間住んでいても、やはり良い。
「……ただいまぁ」
「おっ帰りー」
 家に帰ると、緑葉は台所で夕飯の支度をしていた。ああ、何だろう、この、家に帰ってただいまと言える幸せは。小さなことだけど、とてつもなく嬉しい。
「いやぁ、さっきのトクサ少年、何とかなりそうだよ。女医さんに頼んできたし、ああいうのって良くあることらしいし」
「うん、私も話には聞いてたけど……まさかあんな風に突然倒れるとは思って無かったからびっくりしちゃった」
「僕にはそこまで熱くなれるものが無いからなあ。ま、少し羨ましい気もしたけどね。ああそうだ、はいこれ」
 僕は緑葉に、トクサ少年の名刺を渡す。
「ん? さっきの子の名刺か何か?」
「そ。何だか気合入ってるからさ、貰ってきたんだ。いつか大物になるかもしれないし、サインの代わり。手書きだしね」
「うーん、やっぱりここまでするもんなんだなぁ……私も作ろうかなあ、名刺とか」
 右手に菜箸、左手に名刺、さらにエプロン装備という、とてつもなく僕の心を揺るがすポーズで、緑葉は少々神妙な面持ちで言う。
「緑葉の場合、ポケモンリーグは制覇する対象でしょ? それなら、名前の売り込みは必要無いんじゃないの?」
「まあそうなんだけどー……最近はリーグに入るとか、そういうことも考えないでもないんだー」
「……へえ、それはまた」
 将来の仕事。
 十五歳、か。
 まあ、人生の目標――第一の夢について真剣に考えるなら、このくらいの年齢なのかもしれない。
 生憎と僕は、未だに将来の夢というものを、持っていないのだけれど。
「……ま、緑葉が頑張れば出来るさ」
 努力家の緑葉なら。
 あるいは、ポケモンリーグを制覇することなんかよりも容易く叶うだろう。
 ポケモンリーグがリーグ員として求めている存在は――才能があるだけの人間では無く、いつまでも鍛錬を続けることの出来る人材だ。
 そういう意味合いでは、ポケモンリーグ制覇よりも緑葉には向いている職業かもしれないのだけれど――
 ヴー。
「おっと」
 ポケットの中でポケギアが振動。そうだった、緑葉のお母さんから、電話が来る予定だったんだっけ。
「さっきも電話来てたね、もしかして何か予定とかあった?」
「いや大丈夫、ちょっと――うん、まあとにかく出るよ」
 緑葉に言ったら「出なくていい!」とか言われそうだしな。こういうのは、どっちの立場にも立たないでいることが重要だ。……って、僕は何でどっちも立てる立場にいなければならないんだろう。
 とりあえず、通話ボタンを押す。
「はい」
「あ、お兄ちゃんですか?」
 はい、お兄ちゃんです。
 甘ったれた声でそんなことを言う赤火は、何か色々と、身の安全に気をつけた方がいいと思う。特に緑葉のミニ版って感じだから、僕とかに襲われる危険性大だ。
「はいはい。もう一段落ついてるところだよ」
「おかーさーん、お兄ちゃん大丈夫だってー」
 赤火の声が遠くなりなる。ていうか、何だってまず赤火が電話をかけてくるんだろう。門番か何かなのか。それとも僕への攻撃か?
「代わりましたぁ。ハクロ君、今緑葉と一緒にいる?」
「ああ、いますよ。代わります?」
「いや、いるならいいの。赤火ー」
 叔母さんが何故か赤火を呼ぶ声がする。何をたくらんでいると言うのだろう。叔母さんのことだから、ろくなこと考えていないんだろうけど――
 と、そんなことを考えていると、突然『ポケモンの笛』という曲が何処からともなく聞こえてくる。ちなみにパンクバージョン。本来眠っているポケモンを起こす為に作られた楽曲なのだが、激しい楽器隊の演奏によってその効力はさらに増していると言えた。人間でも起きるんじゃないだろうか。
「わ、私にも電話だ」
 …………。
 …………。
 緑葉の着信曲かよ。
 しかもこのタイミングってことは――叔母さんは悪魔の生まれ変わりらしい。
「げ……ちょ、ちょっと外出てくるね」
 小声で言って、緑葉は家の外に向かう。明らかに僕に聞かれたくない相手からの電話だろう。まあ、そんなの、発信者が『家』である以外考えられないのだけれど。
「んー、何だか懐かしい音がしたわぁ」
「そうですか。計画通りですね。あんた悪魔ですか」
「その方が面白いでしょう? あ、緑葉と話してくるから、赤火と話しててくれる?」
「はぁ……」
 もう何か、ノリがいいとかそんなレベルじゃない。そこにいるのは新しい玩具を見つけたガキだ。
「お兄ちゃーん」
「赤火ちゃん、お母さんみたいになっちゃダメだよ?」
「ん? ……うん!」
 ダメだ、絶対分かってない。
「まあいいか……ところでさ、お父さんは元気?」
「お父さんはねえ、ずっとお仕事だよー」
「ふうん、いつごろから?」
「えっと、えっと……ずっと前!」
 うん。きっと、昨日より昔は、全部ずっと前なんだろう。僕が六歳の頃はもう、庭園で相棒をゲットしたり、ポケモンコンテストを見に行ったり、路上バトルを観戦したりしていたけど……やっぱり、同い年の友達がいないと、成長も遅いもんなんだろうか。
 ま、可愛いからいいんだけど。
「えっとね、お兄ちゃん」
「ん?」
「お母さんがね、お兄ちゃんがお姉ちゃんに振られたら結婚していいって言ってるから結婚しよー」
 口から火炎放射を吹いた。
「ごほ、がっは……え? なんだって?」
「お母さんがね、どっちかがお兄ちゃんのお嫁さんになっていいよって言ってるの。だから私がお嫁さんになるの」
「はぁ……」
 あれ、そこに僕の意思は関係無いのか。無いよね。あるはずが無い。
 ていうか、僕の結婚相手って、緑葉と赤火の二択なんだぁ……いやまあ、その状況に不満は無いけれど。
「いや、一応、僕は緑葉に振られる予定は無いんだけどね?」
「そうなのぉ? 赤火よりお姉ちゃんのほうが好き?」
「いや、えっと……」
 何で僕はこんな羞恥心に苛まれているんだ。ていうか、何故こんな局面で恋愛話に展開していると言うんだろう……。
 女所帯って、何だか怖い……。
「どっちー?」
「どっちと言われたら……そりゃ、まあ、緑葉のほうが……好きだけども……」
「そうなのぉ、緑葉、聞いた?」
 口から冷凍ビームを吹いた。
 電話口から聞こえてきたのは、赤火の声では無く、少し離れた場所から発された叔母さんの声。え、えっと……電話越し……ん、えーと、え? …………思考停止。
 ダメだ。もうダメだ。僕にはこんな少女漫画みたいな展開には耐えられない。申し訳ないけれど、ここでリタイアさせて貰おう。電源ボタンを押して、通話を切る。電源も切る。もう色々と切る。神経とか、精神力とか。
 本当に、叔母さん……下手したら少佐よりも困った大人だ。しかし大して悪いことをしているわけでも無いし、怒る気にもなれない。不思議というか……卑怯とでも、言うべきか。まあ何にせよ、困った人である。困った困った。あはははは。
 僕は緑葉が叔母さんと電話を続けている間に、緑葉がやっていた料理を引き継ぐことにする。何作ってんだろう……うわ、ロールキャベツだ。何て手の込んだ料理を作ってるんだ緑葉は。肉じゃがとかより家庭的過ぎるだろう、これ。まったくう。
 一応台所でに立ってはみたけれど、これ以上することも無さそうだし、まあとりあえず火の加減でも見ているか、とか色々と考えて現実逃避をしてみたけれど、やっぱり僕に現実をスルー出来るだけの能力は無かったらしい。先ほどから居間の扉を開けて呆然と立ち尽くしている緑葉を直視出来ない。ああもう、色々と嫌だ。蒸発したい。溶けたい。羞恥心に対する防御力を二段階上げたい。
「…………」
「…………」
 僕の会話を、自分のポケギアで、聞いていたとか。
 そういうオチで、この場合、宜しいのでしょうか。
 ポケギアとポケギアで間接的な愛の告白をしたということで、宜しいですね?
「……」
「……」
 ……とりあえず、僕は叔母さんのポケギアの番号を、着信拒否に設定することから始めた。

 ◇

「ご、ごちそうさまー」
「ごちそうさまー……」
 夕飯は美味かった。が、空気は気まずい。
 何上手いこと言ってるんだという感じだが、もう何か僕にはそんな感情しか沸き起こらない。いや、山吹を歩いている時のような、絶望的な気まずさでは無いのだけれど……逆に、意識しあってしまうという点では、避けあう気まずさより幾分気まずさレベルが上がっている。
 今夜は緑葉が夕飯を作ってくれたので、僕は食器をまとめて洗物に向かおうとする。
「あ、私片付けるからいいよ。ハクロはお風呂、おふ、おふ……あう……か、片付けるから!」
「あ、ありがとう……」
 気まずさは絶好調だ。しかも風呂に入ることに対して緑葉が何らかの羞恥心を抱いている。これはもう、色々と、限界である。このままこの空間にいたら、逆に「ごめんなさいハクロ君」的な展開が待ち受けていないとも、限らない。
 僕は台所で後片付けをしている緑葉に目を合わせないようにして、「ちょっと外に出てきます……」と尻すぼみに言って、夜風に当たることにした。
 もうこの際だ……一か八か、色々と、ちゃんと話しておいた方がいいかもしれない。タイミングなんて、そんなものはどうだっていい。今がチャンスなら、やっておくだけだ。
 出来るだけ、慎重に関係を発展させていくつもりだったけれど……よく考えれば、緑葉は旅先で様々な人に出会うわけだ。そうすれば同年代の異性に会うことだって、珍しくないだろう。
 緑葉はポケモントレーナー。僕はそうじゃない。としたら、やっぱり、趣味とかそういうものが合ったほうがいいのかもしれない。もしかしたら旅先で、何度かそういう関係に陥りそうになったことだって、あるかもしれない。いや、もしかしたら――
 ……考え出したらキリが無い。その前に、色々と、はっきりさせておこう。こういう時はノリが大事だ。その場の空気にあわせて特攻して、撃沈するなり何なりすればいい。ふん、ちょっと僕、今精神的にやばいな。結構キている。高揚している。悪いことした後と、精神状態が何だか似ている気もする。告白とか……結構、精神力使うんだなあ。でも土壇場に弱い僕のことだから、この状態でも途中で怖気づく可能性がある。そんなのは許されない。
 だから僕は、大人のパワーを使うことにする。
 大人のパワー。即ち酒である。
 勿論法律に引っかかる飲酒を僕が出来るはずも無く、フレンドリィショップにささやかに並べられているお酒も売ってもらえないことだろう。しかし僕には、悪い大人の知り合いがいるのだ。覚悟しろ緑葉、今日の僕は僕じゃない。何を言ってるのか自分でも分からなくなってきた。
 というわけで、僕はマチス少佐の自宅を兼ねたジムに来ていた。
 朽葉ジム――何故だかいつも、細い苗木が一本植えてある。少佐曰く、「(カスミ)が倒せないやつに俺は倒せねえ」ということで、居合い斬りをしてから入る決まりになっている。勿論僕も例外では無いのだけれど、それは正門から入る場合。事務と自室を兼ねた部屋の窓に近づいて、僕は三、三、五、三と分けてノックを行う。少佐を訪ねる人間は、全員これをしないと無視されるらしい。
「誰だー、店員かー?」
 言いながら、少佐は窓を開けて上半身を乗り出した。ここの窓は高い位置に設置されているので、少佐が僕を見下ろす形になる。窓のサンが丁度僕の頭部分なので、僕は見上げていないと視線が合わない感じになっているのだ。
「残念ながらハクロです。こんばんは」
「お、ハクロか。何だ? クッキー食うか?」
「結構です」
 ていうか、知人だと初っ端から変な外人のフリはしないらしい。
 もういっそのこと、あの演技やめればいいのに。
「どうした。入るか? あんな苗木無視していいんだぞ」
「いや、それは色々と大人の事情があるんで無視出来ないですけど……今日はですね、一つお願いがありまして」
「おお何だ、何でも言ってみろ。お前がお願いなんて珍しいな」
 なんだか今日は、随分とご機嫌である。口調もさほど悪く無いし、鴇さんに会えたことが作用しているんだろうか。
「少佐って、お酒とか飲みます?」
「ん? ああ、自分で言うのも何だが、俺は酒豪だぞ」
「そうですか、そりゃ良かった……実はですね、少佐にお酒を借りたいと思いまして」
「ああ酒か、何だお前も酒飲むようになったんだな。いいよやるよ、ちょっと待ってろ」
 少佐は言って、部屋の奥へ向かう。はあ、こういう悪いことをする時には頼りになるんだよなあ、こういう変人は。こういう人脈が多い僕が悪さをしようとすれば、マフィアくらい作れそうな気さえする。
 と、
「ちょっと待て」
 少佐が戻ってくる。
「何ですか。今さら年齢がどうの言っても僕の気持ちは変わりませんよ」
「何でお前が強気なんだよ……まあとにかく俺が聞きたいのはそういうことじゃねえ。お前、今娘っ子と住んでるんじゃねえのか」
 ぐ……覚えてやがったか。無駄に記憶力のいい変人だ。
「そうです……けど」
「そうか、そうかそうか……今日でお前も男になるんだな。俺は嬉しい。俺は嬉しいぞハクロ。待ってろ、すごい酒持ってきてやるから」
「いや、別にそこまで本格的じゃないんですけど……」
 僕の話を聞かずに、少佐は部屋の奥へと向かって行ってしまった。うーむ……まあ、結果的にお酒を貰えるんだからよしとするか。誤解されても、別に困りはしないわけだし。
 しかし、さて……問題は、この人生において一度もお酒を飲んだことの無い僕が、しっかりと意識を保っていられるかどうかだな。父さんはそれなりに酒飲みだったから遺伝的に見れば大丈夫だろうけど……緑葉の親父さんに比べたらガキみたいなもんだったしな。ま、舐める程度にしておこう――なんてことを、考えていたのだが。
「待たせたな」
 少佐は窓からではなく、正門の方から出て来た。
 お盆と酒瓶と、杯を二つ持って。
 ちなみに苗木は……うわ、飛び越えやがった。最低だ。あの男は最低だ。
「まあ飲め。祝おう、お前の門出を」
「黙れ酔っ払い。ていうかこの臭い……少佐、既に飲んでたんですか……」
「ジム戦前はな、色々あって、俺も緊張すんだ。ただの寝酒だったんだが、お前がそういうことなら俺は飲む。明日に響いても、俺は飲む」
 完全に酔っ払いだった。だから機嫌が良かったのか……くそ、酔っ払いから酒貰うとか、結構判断を間違えたんじゃないか? 心配になってきた。
 少佐は杯に酒瓶から酒を注いでいく。それはもう、なみなみと。舐める程度にしておこうと思ったんだけれど……この雰囲気は、全部飲まないといけない感じだろうか。
「よし、乾杯だ」
 少佐は胡坐をかいて、地面に腰を据える。そして左手で酒瓶をドンと置いた。酒瓶には『紅蓮』と書かれている。この酒は僕でも知っている。紅蓮(グレン)島で製造されているという、かなり強い酒だ……。
「じゃ、じゃあ失礼して」
 僕も少佐にならって、地面に胡坐をかく。少々怖気づきそうだが、一度決めたことだ。杯って案外量が入らないし、このくらいなら飲んでも大丈夫だろう。
「ハクロ、お前は十五歳になったな」
「はい……って何で知ってるんですか」
「俺は三十五歳だ。お前とは親子ほど歳が離れている。しかし、俺はお前に友情に似た何かを感じている」
「そうですか……まあ、正直光栄ですけど」
「そんなお前が今日を持って、男の仲間入りを果たす。その瞬間に立ち会えて、俺はとても嬉しい」
「はあ……僕も嬉しいです」
「では乾杯しよう。乾杯! さあ飲め!」
 言って、少佐は杯の中身のぐいっと飲み干した。いい飲みっぷりだ……僕はちびちびいこうと思っていたのだが、そんな少佐の飲みっぷりを見て、酒ってそんなに飲みにくいものじゃないのでは? と軽い勘違いをした。なので、僕も少佐と同じように飲み干す。
「いーい飲みっぷりだ!」
 ……ん、案外、悪く無い……か? 苦いし、美味しいとは思えないけれど……そこまで、気持ちが悪くなるほどでも、無い、よう、だ。
「……っぷはぁ、ご馳走様です」
「ああ、いいぞハクロ。お前の目は、覚悟を決めた目だ。酒は男に覚悟をくれる魔法の水だ。お前はもう大丈夫だ。空だって飛べる。行って来い!」
「はは……任せてくださいよ少佐。明日は一皮向けた僕に会えるはずですよ……ふふ」
 言って、僕は立ち上がる。重心が傾くが――何のことは無い。視界が揺れるだけだ。頭が重いだけだ。それの何処に、緑葉に想いを伝える障害があると言うのだろう。何処にも無い。今の僕にある障害は、直線的に歩くことが出来ないことだけだ。
「がんばれー! ハクロー!」
 少佐の応援を背中に受けて、僕はふらふらと歩を進める。何のことは無い。僕は酔ってなどいないのだから平気だ。ただ少し、胸が熱くなって、視界にもやがかかっているだけだ。
 そのまま家に向かう途中、ふと気づく。ああ、そうだ、どうせなら家じゃなくて、もっとロマンチックなところで告白したらどうだ。満天の星空に、漆黒の海、心地よい潮風。何の問題も無い、最高の風景だ。これを逃す手は無い。僕はポケットを探ってみる……あれ、モンスターボールが無い。ああ、夕飯の前に部屋に置いておいたんだっけ。まあいい。そんなものは必要無い。今の僕に必要なのは、ポケギアだ。ポケギア。ポケギア。電源を切ってあったポケギアの電源を入れて僕はアドレス帳から緑葉の電話番号を探してピピピとボタンを押して通話に取り掛かることにする。
 ツーツーツーと発信者を探す音がした後プルプルプルとコール音がして僕はその間に港へとふらふらした足取りで向かうが上手く歩けないのだけど気にしないでいるとコール音が途切れて通話が始まった。
「もしもし? どうかした……?」
「緑葉、今から港にこれる?」
「え、港って?」
「大事な話があるんだ。家じゃなんだから、来てよ」
「あ、うん……分かった、すぐ行くから」
 そう言って緑葉のポケギアから通話が切れたので僕はポケギアをポケットに仕舞うことにして再び港を目指すがやはり足取りは重く頭も重く何だか夢を見ている心地で非常に気分が良い。
 だけど口調だってそんなに変わってるわけじゃなかったし大丈夫だろうと思いながら何度か声を出してみる。「緑葉……あーあー」声が遠くから聞こえてくるが大丈夫だろうきっと緊張しているだけだと僕は結論を下した。
 ふらふらふらふら。
 港は船への乗船口以外は勝手に歩き回っていいことになっている。特に夜間は船の出入りが無いから別に僕がここで何をしたって咎められる理由は無い。僕は港まで歩いて行って、荷物らしき木箱に腰を降ろした。
「……まあ、いずれやらなきゃいけないことだ。先取りしたって、誰も咎めやしない」
 咎めやしない。人の恋路を咎める理由があるとすれば、それは緑葉が僕以外の男と恋に落ちたときだけだ。
「自惚れてるわけじゃ無いけど、かと言って悲観的になっているわけでもない。賭けに出たつもりも無い」
 単純に、想いを伝えるだけ。好きって言うことと、おはようって言うことに、どれくらい差があるっていうんだ。両方とも、自分の想いを伝えているに過ぎない。なら、緊張する理由なんて、微塵も無いだろう。
「好きだからどうこうじゃない。付き合いとか、そういうことを言ってるわけじゃない。ただ、それを言うだけだ……」
 そうだ、緑葉は旅人だし、おいそれと会えるわけじゃない。だから無理に拘束する必要なんて無い。ただ、お互いに気持ちを確かめ合っておきたい。うん、それだけ。それだけだ。
 ……そして、足音が、近づいてきた。
 僕はそれでも、恥ずかしいと思う理性が残っていたのか、顔を上げずに、木箱に座ったまま、俯いている。
 出来れば、このまま、この状態で、顔を見ずに、想いを打ち明けたい。そういう気持ちで、僕は言葉を紡ごうと、し――――
 ――――。
 ――――。
 ――――。
 ――――。
 残ったのは、後頭部の痛みだけだった。

 ◇

 緑葉はハクロに言われた通り、港へ向かった。
 ――もしかしたら、告白されるかもしれない。
 いつもと違うハクロの様子から、そんな雰囲気を感じ取った緑葉は、電話を貰ってすぐに港へ行くつもりだったが――そこはやはり女の子。身だしなみを整えてからの出発となった。
 ハクロから借りていた服を脱ぎ、洗濯が終わった自分の服に着替える。外出時にいつも被っている帽子はやめて、懸命に髪を梳く。
『大事な話があるんだ』
 ハクロは電話越しに、そう言った。
 大事な話。もはや、告白の別称であると言っても過言では無いほど、そういう用途に使われる言葉。無論、緑葉とハクロの間には確かな信頼があるとは言え――告白をしても尚、その後関係が今まで通りに続くかと言えば、二人の男女としての関係は、そこまで確固としたものでは無かった。
 それを今夜、確固としたものにする。
 そういう意思を、緑葉はハクロから感じ取っていた。
 緑葉自身、分かっていない。ハクロ自身も、恐らくは分かっていないだろう。自分の気持ちが、どういったものなのか。緑葉にとって、ハクロに向ける気持ちというのは、どういうものなのか。それを理解出来ないまま、この瞬間を迎える。
 緑葉の動悸は速まる一方だ。どういう返事をしようか。ハクロはどういう言葉を選ぶんだろう。答えを待ってもらえるか。ちゃんと伝えられるか。泣かないでいられるだろうか。色々なことを、緑葉は考えた。
 出来れば――港までの道のりが、永遠に続けばいいとも、思った。それでも、一歩進むごとに、自分と港の距離は縮まる。それは、緑葉とハクロの距離が縮まることと、道意義である。
 緑葉はハクロが嫌いでは無い。
 むしろ、好きだと言ってしまっていい。
 だけれど――その感情が、一体どれほどのものなのか、緑葉は今まで一度も、考えたことが無かった。
 その答えを、出さなければいけないのだろうか。
 ハクロは緑葉に、そう問いかけるつもりなのだろうか。
 何だろう。何で今日なんだろう。何で私なんだろう。明日はジム戦なのに。どうして、どうして。
 そう考えながらも、一歩ずつ、確実に、緑葉は港へと歩いていた。
 そして港に辿り着いたが――そこにハクロの姿は無い。
 ここじゃ無かったのだろうか。でも、朽葉の港と言えばここしか無い。じゃあ、ハクロは何処?
 緑葉はポケギアを取り出して、ハクロに電話をかける。数秒待ってコールが始まり、ハクロが出るのを待つが……一向に繋がる気配は無い。
 しばらく待って、自動的に通信が途絶える。
 ――何かあったんだろうか。
 緑葉は心配になって、もう一度、電話をかける。繋がらない。もう一度やってみる。繋がらない。
 ――何かあったんだ。
 ハクロは一度決めたら、逃げたりしない。元々やるって決めない場合の方が多いけれど――それでも、やると決めたことだけは、やっている。
 そんなハクロが、逃げ出すわけは無い。
 何かがあったんだ。
 緑葉はそう理解すると、ポケモンセンターに向かって走り出した。