「もう、大丈夫だよ、分かってるって!」
 早く帰るように、という母親の忠告に、いつも通りの返事をして、少年は家を出た。
 彼の名前は   。
 いつも元気に野原を駆け回り、相棒のポケモンと一緒に過ごしている、平均よりも少し体の小さい少年だった。
 彼は小さい頃から体が弱かったので、学校に行っていなかった。
 そのせいか同世代の友達がおらず、彼は都会にいる時、苦しい思いをした。悲しい思いをした。
 だから両親達は、少年のために、あることを考えた。
「……空気の綺麗な町に、引っ越そうか」
「そうですね……」
 少年が寝ている間に、両親達は決心した。
 子供の未来のために、暮らしを変えよう。
 心が決まってからは早かった。彼らはすぐに田舎に家を探し、小さくても、しっかりとした病院がある町へと住居を移した。
 少年の父親は、毎日長い道のりを経て、仕事へ向かう。
 母親は、広大な敷地に畑を作り、その世話をしながら、生活している。
 そして少年は――今では元気になり、毎日のように走り回っている。
 それは本当に、少年らしい姿だった。
「よーし、今日は森に行こう!」
 少年はモンスターボールを取り出すと、元気よく放り投げる。出てきたのは、相棒のポケモン、オタチだった。
 オタチは元気に鳴いて、少年に擦り寄る。
「オタチ! 今日は森に行くからな!」
 オタチはその言葉を聴いて、より大きく鳴いた。
 少年とオタチは、心で通じ合っていた。菌や害の少ないポケモンと言うことで、都会にいる時両親にオタチを貰ってから、少年はオタチとずっと一緒にいた。
 友達と言うよりは、家族。
 家族と言うよりは、相棒。
 そんな境遇に育った彼とオタチは、言葉を介する必要も無いほどに、通じ合っている。
 だけれど少年は、体の具合が良くなってから、言葉を多く利用する。体が辛かったせいで、都会にいる時は喋ることが難しかったのだ。
「さあ、行こう!」
 少年とオタチは仲良し。
 彼らはいつも一緒。何処に行くにも一緒。
 離れることなど、絶対に有りえないはずだった。

 □

 今日も少年は野原を駆け回る。
 相棒のオタチも、勿論一緒だ。
「さーて、今日は何処に行こうか、オタチ」
 オタチは思案するように首を傾げると、一匹で、川の方へと向かう。
「おい、待てよオタチ!」
 オタチの後を追って、少年は駆け出す。いつも一緒にいる二人だったから、心配なことなどは無かったのだけれど。
 どちらかがどちらかを追いかけるというのは、追いかけっこのようなもの。捕まえるつもりも捕まるつもりも無い、追いかけっこのようなものだ。
 少年はオタチに追いつかないような速度で、オタチを追う。オタチは少年に追いつかれないような速度で、少年から逃げる。
 そして川まで来たところでオタチは速度を緩め、少年はそのオタチに飛び掛って、抱きついた。
「ほーら、捕まえたぞ」
 オタチは笑顔だった。少年も同じように、笑っている。
 少年はよく笑う。というより、どんな状況であっても、悲しい時でも、常に笑っていた。
 病気の時は、笑ってなんていられなかったから。
 だから少年は、その頃の笑顔を取り戻すかのように、笑う。心から楽しそうに、笑う。
「よし、じゃあ今日は川で遊ぼう!」
 少年はオタチを抱きかかえたまま、靴を脱いで川に飛び込んだ。
 二人とも、幸せそうである。兄弟よりも兄弟らしく、家族よりも家族らしい。真の意味での、絆があった。
 オタチ。
 オオタチへと進化するポケモンである。
 けれど少年のオタチは進化しない。何故なら彼自身、戦いを好まない性格であったからだ。
 森で虫ポケモンを見つけても、彼は戦いを仕掛けたりしない。
 川で魚ポケモンを見つけても、彼は戦いを仕掛けたりしない。
 少年はいつでも、平穏を望んだ。生まれたときから不幸を背負っていた少年は、進んで悲しみと出会おうとはしなかった。
 戦いは悲しみしか生まない。
 血と涙が流れるだけだ。
 少年は理解していた。勝っても負けても、悲しみが残る。それならば最初から、戦う理由なんて無いと。
 そんな少年の心を理解したからか、彼を襲うポケモンは、少なかった。
 稀に彼らを襲うポケモンがいたとしても、彼は逃げ出すことで戦闘を回避していた。臆病者と言われても、彼は戦うつもりなど無かったのだ。
「こらオタチ、やめろって!」
 幸せそうに、彼らは遊んでいる。
 彼らの仲を引き裂くことなんて、それこそ神様にだって、出来やしないだろうと、そう思えるほどだった。
 けれどこの世には神様の他に、
 悪魔という生き物が存在した。

 □

 数日後。
 彼らは隠れんぼをして遊んでいた。
 森の中で、少年が鬼をしていた。オタチは何処かに隠れていて、少年はそれを探す。
「おーい、何処だー?」
 少年は楽しそうに、笑いながらオタチを探す。
 随分と長い間この地にいるせいか、森に住むポケモンも、彼らが危険な生物では無いと理解しているようだった。
「ここかー?」
 木の茂みを掻き分けて、少年はオタチを探す。
 勿論呼びかけても答えが返ってくるはずが無い。それでも少年は、言葉を発したがる。失った声を取り戻すかのように。
「こっちかー?」
 森を進み、少年は奥へ奥へと、侵入していく。
 何処にいるのだろうか。
 此処にいるのだろうか。
 オタチは一番見つけやすい森の入り口で、少年が来るのを待っていたのに。
 少年は入ったことの無い森の奥まで、入って行く。
 オタチと出会うために。
 恐怖など抱かず。
 不安など持たず。
 地獄など知らず。
 ただただ奥の方へ奥の方へと、足を運んだ。
 ――そしてそれから数十分。
 オタチは森の入り口で。
    は森の奥深くで。
 オタチは少年をずっと待った。待って、待って、待って、待ち続けた。
 だけれど少年は探しに来ない。けれど彼がオタチを置いて、何処かに行ってしまうはずがない。
 何かあったのかな?
 オタチはそう思って、隠れた場所から出ることにした。
 少年がそこに待ち構えていて、「オタチみーっけ!」と言ったとしても、オタチはそれならそれで、楽しめたから。
 だけど少年は、そこには居なかった。
 だからオタチは心配になった。
 オタチは恐怖を抱いていた。
 オタチは不安を持っていた。
 オタチは地獄を知っていた。
 少年よりも少し長生きのオタチ。一時とは言え、野生として生きていたオタチ。
 だから自然の恐怖を理解していた。
 他のポケモンに比べたら、本当に少ない程度かもしれないけれど。
 それでもオタチは、察知していた。
 これは何かがあったのでは無いか、と。
 オタチは森を駆けた。
 少年は何処にいるんだ。   に危険が迫っているかもしれない。
 オタチは走る。
 オタチは奔る。
 そして森の奥地で――彼を見つけた。
 否。
 彼も、見つけた。
 もう一人、違う人間を見つけた。
 少女だった。
 少年と同じくらいの年頃の少女が、少年と隣同士に木の幹に腰掛け、談笑していた。
 オタチには理解が出来なかった。
 だからオタチはその場に割り込めなかった。
 そして後ずさって、彼は森の中へと迷い込んだ。
 その日から、オタチは少年を避け続ける。

 □

 それから何日か経った。
 オタチは少年の家の周りを、うろついていた。つい少年を避けてしまったが、嫌いになったわけでは、勿論無かった。
 だけれど今更帰る気にもなれない。
 自分から謝るのも、気分が悪い。
 そう思っていたオタチは、悶々としたまま、家の周りをうろついた。
「行ってきまーす!」
 しかし少年は、それこそオタチのことを気にかけているそぶりを見せるものの――少女と会うことで、頭は一杯のようだった。
 オタチはそれが許せなかった。
 だけれど自分は何も出来ない。
 だからオタチは、少年に見つからないように、少年の後を付けた。
 オタチは少年に追いつかないような速度で、少年を追う。しかし少年はオタチになど気づかぬ様子で、走るだけだった。
「ごめん、待った?」
 少年はいつものように森を抜けると、少女と出会って、隣同士に座り、話を始める。
 オタチの話題は――多少ながら、聞こえた。
 だけれど、本当に少しだけ。気にしている風は無い。
 オタチは隠れんぼの続きをするように、茂みに隠れて二人の会話を聞いていた。
「僕は昔、都会に住んでたんだ」
 少年は饒舌だ。
 同い年の友達が居なかったのだから、女の子の友達が出来て、嬉しいのだろう。
 オタチでは、会話をすることは、出来ないから。
 オタチは少年達の会話を、聞くとも無く聞いていた。
 もう自分は用済みなのかもしれない。
 少年は少女と、楽しそうに遊んでいる。
 自分と野原を駆け回るのは、もう飽きたんだろう。
 そしてオタチは、その日を最後に、少年と仲直りすることを諦めた。
 だけれど、少年の後を追うことだけは、やめなかった。
 朝、少年が家を飛び出すと同時に、少年を追う。
 少女と少年が話しているのを、ずっと眺める。
 夜、少年が家に帰るってからは、家の近くで寝た。
 そんな毎日を、オタチは送った。
 徐々に徐々に、そんな毎日にも、慣れて行った。


 ――そんなある日のことだった。
 オタチはいつものように少年の後をつけようとしたが、その後にもう一人、少年の母親がいるのを見つけた。
「ついてこなくたっていいのに!」
 少年は言うが、母親は少年と一緒に歩く。
 少年が毎晩のように嬉々として少女のことを話すので、少年の母親は、一度挨拶に行こうとしていたのだった。
 オタチはそんな二人を見ながら、しかしいつも通りに森を抜けた。
 少年がいつも少女と話している、森の中でも少しだけ開けた場所。
 切り株が目印の、そんな憩いの場。
 そこまで行って、少年は言う。
「お待たせ! 今日はお母さんがついてきたんだ。全く……ついてこなくていいって言ったのにさ」
 少年は言いながら、切り株に腰掛ける。
 だけれど母親はそれを見て、涙を流し始めた。
 何でだろう?
 オタチも少年も、理解出来なかった。
 少年に友達が出来たから、嬉しいんだろうか。
 けれどそんなことでは無かった。
 単純に、明快な理由で、母親は泣いたのだった。
 少女はそこにはいないのだった。

 □

 少年の病気は治っていない。
 否。
 少年の病気は、治らない。
 だから両親は、少年を連れて、空気の綺麗な町にやってきた。
 都会のように込み合っていない、そんな場所。
 せめて余生を過ごすなら綺麗な場所で。
 そんな想いで、両親は引越しを決意した。
 治る見込みの無い病気。
 それでももしかして――
 それこそ、不治の病が素晴らしい景色によって治ったという例のように、治るかもしれない。
 そういう望みに賭けたという意味合いも、あったのだろう。
 だけれど少年の病気は治らなかった。
 幻覚までもを見せた。
 だから母親は――涙を流した。
「お母さん、どうしたの? お母さん」
 少年が言っても、母親は理解出来ない。
「ごめんね、お母さんが泣きだしちゃった」
 そして、少年が少女に――誰もいない空間に話しかける度に、母親はより一層、強く泣いた。
 オタチは泣かなかった。
 これでもう一度、少年と遊べるんだ。
 そう思ったから、オタチは泣かなかった。
 むしろ、母親が少年に、少女がいないことを告げた時。
 少年の病気が原因だとか、そういうことは一切考えずに、ただただ、一緒にいられると、喜んだ。
 一緒にいられると、喜んだ。
 一緒にいられると、喜んだ。
 それから一緒にいられることは、無かったけれど。

 □

 一瞬で、世界は紫色に包まれた。
 何匹も、何匹も、何匹も。
 オタチを覆い尽くすように、膨大な数のメタモンが変身を終えて、個体へと戻っていく。
「いい夢は、見られたかい?」
 一人の青年は、オタチに向かって、そう言った。
 勿論言葉が通じるはずも無く、意味が通じるはずも無いのだけれど。
 青年はオタチに、そう言った。
 オタチもそれに、鳴いて答える。
 否――もしかしたら、泣いていたのかもしれないけれど。
「それじゃ、おいで」
 優しくモンスターボールが投げられて、オタチはその中に納まる。
 抵抗の意志など無い、優しい捕獲。
「しかし……少女に少年を取られたオタチ、か。深い傷を負ったものだな」
 オタチにとって都合の良い世界を、青年は魅せた。
 勿論、メタモンによって造られた世界では、本当の世界を変えることなんて出来ないのだけれど。
 それでもオタチの都合の良いように、少女の存在を、自分の中で掻き消した。
「本当は少女なんか居なかった。そう思って、今まで生きてきたんだろうね。そして自分を裏切った少年の病気は、治っていないというおまけつきで」
 勿論少年の病気は、治りきっていた。
 勿論少女の存在は、判りきっていた。
 だけれどオタチはその両方を認めずに、生きた。
 そしていつの間にか、心が歪んだ、野生では無い『逃亡ポケモン』へと変わり果てた。
 青年はオタチの入ったモンスターボールを拾い上げると、沢山モンスターボールが入っているリュックに、押し込んだ。
「それでも少しずつ……現実を視なければいけない」
 それが認めたくないものであったとしても。
 それが許したくないものであったとしても。
 未来を生きるために、それらを淘汰しなければならない。
「じゃ、次の迷えるポケモンに会いに行こうかな」
 そうして青年は、現実を認められない、主を失ったポケモンを探しに行く。

 紫色の思い出、END.