樹海の輪舞曲(ロンド)

 彼は森を見ている、全体の姿を。
 彼は森を視ている、一つの悪を。
 彼は森を診ている、全体の病を。
 彼は森を看ている、一つの源を。
 彼は森を観ている、全体の劇を。
 彼は森を瞰ている、一つの幕を。

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 彼の名前は、何だったか。
 彼の主人は、誰だったか。
 友達ということで、彼は彼女に可愛がられた。主人は少女だった。彼は主人を覚えていないけれど、彼が過ごした部屋のことは、覚えていた。
 少女の部屋。
 ベッドが二つ。
 それだけだったけれど、彼は覚えていた。少女の部屋。少女らしい部屋。彼女が寝ていたベッドとは別の、もう一つのベッド。そこに誰が寝ていたか、彼は知らなかったけれど。 
 彼は少女と仲良しだった――唯一無二という、素敵な関係性であるとは、到底思えないような、主人とペットの関係性ではあったけれど――ので、毎日のように、森の中を駆け回った。虫と遭遇して、旅人と出会って、彼の毎日は、新しさに溢れていた。
「ねぇねぇ、今日は何して遊ぼっか」
 少女はいつも、屋敷から出て、彼にそう尋ねる。声も、言葉も、意味も、何も分からないというのに、それでも少女は彼に尋ねる。
 彼はその度に、小さく鳴いた。意味など分かっていないから、意味など混ざっていないけど。
「そっか、じゃあいつも通りね!」
 少女は意思疎通が出来たと思っているのか、彼にそう言うと、いつも通り、森の中を駆け回る。彼も遊ぶのが嫌いでは無かったので、彼女と

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「しーっ! かくれんぼ中だから、二階に上がらせちゃダメだよ!」

 ■ ■ ■

 彼の名前は、何だったか。
 彼の主人は、何だったか。
 家族ということで、彼は少女の祖父にも可愛がられた。彼は祖父を覚えていないけれど、しわがれた手で抱かれたことだけは、覚えていた。
 祖父の手の平。
 長い白ひげ。
 それだけだったけれど、彼は覚えていた。祖父の腕。老人らしい力強さ。彼が抱かれていたのとは別の、もう一つの腕。そこに誰が抱かれていたか彼は知らなかったけれど。
 彼は祖父と仲良しだった――四六時中という、長時間の関わり合いでは、到底無かったような、祖父と孫のような関係性ではあったけれど――ので、毎日のように、屋敷の中で触れ合った。少女と離れても、祖父がいて、彼の毎日は、温もりに溢れていた。
「あぁあぁ、今日も楽しかったかい?」
 祖父はいつも、屋敷に戻ると、彼にそう尋ねる。声も、言葉も、意味も、何も分からないというのに、それでも祖父は彼に尋ねる。
 彼はその度に、小さく鳴いた。意味など分かっていないから、意味など含んでいないけど。
「そうか、良かったなあ」
 祖父は意思疎通が出来たと思っていたのか、彼にそう言うと、いつも通り、頭を撫でた。彼も撫でられるのは嫌いでは無かったので、祖父に

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「ずっと待っておるんだが、食事はまだかのぉ?」

 ■ ■ ■

 彼の名前は、何だったか。
 彼の主人は、人だったか。

 珍種ということで、彼は屋敷の××に可愛がられた。彼は××を覚えていないけれど、その優しい顔の輪郭だけは、覚えていた。
 不気味な瞳。
 優しい顔。
 それだけだったけれど、彼は覚えていた。××の顔。誰よりも優しい顔。彼が見ていた顔とは別の、もう一つの顔。それが誰に向けられていたか、彼は知らなかったけれど。
 彼は××と仲良しだった――一期一会という、仲良しと呼ぶなんて、到底有りえないような、刹那だけの関係性ではあったけれど――ので、一日だけ、屋敷の中で触れ合った。少女と離れても、祖父がいなくても、彼の一日は、特別に溢れていた。
「さぁさぁ、君はまだ知らないのだろう?」
 ××は一度、屋敷の中で、彼にそう尋ねた。声も、言葉も、意味も、何も分からないというのに、それでも××は彼に尋ねた。
 彼はその声に、小さく鳴いた。意味など分かっていないから、意味など併せていないけど。
「そうか、ならいいんだ」
 ××は意思疎通が出来たと思っていたのか、彼にそう言うと、優しく微笑んで、去っていった。彼は別れを惜しんだけれど、××へ

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 屋敷が取り壊されるという話を、彼は理解しなかった。けれど、少女と祖父が、慌しくしていることだけは、何とか理解出来た。
 少女と祖父に暴力を振るう一人の人間がいた。彼はそれを見て、抵抗した。暴力を振るう人間に対して、噛み付いた。体当たりをした。鳴き声を上げた。しかし弱い彼が一人の人間を何とか出来るはずも無く、彼は屋敷の外に追い出されてしまった。
 彼は悔しかった。少女と祖父を守れないことが、悔しかった。外に出され、屋敷に戻ろうとしても、屋敷の扉は開かない。だから彼は、屋敷の扉を壊してやろうとした。体当たりを続けた。だけれど彼の非力さでは、それは叶わなかった。
 彼は諦める。今の自分では扉を壊せないと理解して、彼は森の中をうろついた。力をつけなくてはいけない。力をつけなくては自分は少女と祖父を救えない。
 彼は森の中にいる様々な生き物に、手当たり次第に勝負をしかけた。虫が多かった。虫くらいなら、彼の敵ではなかった。いつも一緒に遊んでいたはずの彼が急に攻撃してくる、という状況を理解出来ないまま、虫達は屍骸へと変わっていく。
 彼は攻撃をやめない。見つけては殺し、見つけては殺し、いつの間にか彼は強くなっていた。それが何日経った日のことだったか、もしかしたら追い出されて一日も経っていないのか、定かではなかったのだが、彼は強くなった。
 元々気性の荒い性格だったのだろう。彼は気を奮い立たすと、屋敷の中へと侵入する。扉を壊して入り込むことを考えていた彼にとって、扉が閉まっていなかったのは、全くの幸運と言って良かった。
 彼は屋敷の中に飛び込んだ。いつもの華やかさは無い。何処にも、彼の知っている屋敷は存在していない。
 だけれど彼は、一つだけ気がついた。いつも見ていた、自分を模った銅像が、消えていると。祖父が作ってくれたのか、誰が作ってくれたのか、何も覚えていないけれど、それがそこに無いことくらい、彼にも分かった。
 彼は食堂に走った。食堂は閑散としていて、いつものような華やかさは欠片も無かった。
 彼は祖父を見つけた。倒れている祖父を見つけた。
 近寄って、鳴いてみる。いつものように、鳴いてみる。
「……おお、森の神様かのぉ……迎えに来てくださったのか……」
 言葉の意味は、やっぱり分からない。けれど、その言葉を最後に、祖父が息絶えたことは、彼にも分かった。
 彼は祖父の亡骸を咥えて、無理矢理引きずって、階段を上った。祖父の身体がどうなっているのかなど、彼はお構い無しに、階段を上った。
 そして二階に辿り着いて、彼は部屋を一つずつ、見て回った。ほとんどのものが運び出されたのか、残っていたのは価値の無いものばかり。でも彼にとって、それはどれも同じだった。彼が探しているのは、少女だけだった。
 そして一番奥の部屋で、彼は少女を見つけた。
「……あなた、だぁれ? 妖精さん?」
 言葉の意味は、やっぱり分からない。けれど、その言葉を最後に、少女が息絶えたことは、彼にも分かった。
 彼は少女の亡骸を咥えて、無理矢理引きずって、廊下を走った。少女の身体がどうなっているのかなど、彼はお構い無しに、廊下を走った。
 そして祖父の亡骸と一緒に、いつも彼が眠っていた部屋に――少女の部屋に寝かせて、彼は復讐を誓った。
 誰が少女と祖父の命を奪ったのか、彼は知らないけれど、暴力を振るった人間がそうだとするならば、あいつの匂いは覚えて

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 彼の名前は、何だったか。
 彼の主人は、屍だったか。

 彼は今でも屋敷の中で、息を潜めて待っている。
 少女と祖父を眠らせた、少女の部屋の、隣の部屋で。
 屋敷を訪ねる旅人の中に。
 奴がいないか、待っている。
 目を輝かせて、待っている。