雪原の円舞曲(ワルツ)


 寂しくなって、鳴いたのか。
 苦しくなって、哭いたのか。
 悲しくなって、泣いたのか。

 □ □ □

 彼は一人で待っていた。雪の町へと連れられて、(あるじ)と別れたその日から。
 必ず迎えにくるからね。主は彼に、そう言った。
 それから彼は待ち続け、雪と一緒に待っていた。
 最初は町で待っていた。年中雪が降り続き、地面の色など分からない、自然の多い、雪町(ゆきまち)で。
 だけど迎えは来ないから、迎えの来ないその彼を、町は不憫(ふびん)に見つめてた。
「捨てられたんじゃないのかい?」
「それなら逃がしていくってもんだ。どっかで凍えちゃあるめえか?」
 寒いところに生まれても、人のこころは温かい。
 迎えの来ない彼を見て、邪魔だと思った人はいない。いつも優しく温かく、彼らは『彼』を見守った。
 だけどそのうち辛くなる。
 いつも笑顔を投げかける、優しい心が辛くなり――
 しんしん雪が積もる夜、彼はこっそり逃げ出した。
 どっちか東でどっちが西か、主はどこまで行ったのか。
 何も分からぬ彼だから、とにかく夜を駆け抜けた。雪に残した足跡も、積もる寒さに消され()く。
 草木は彼の邪魔をして、吹雪は行く手を(はば)むけど、彼は主を見つけるために、勘に任せて駆け抜けた。
 そして朝日が昇っては、彼の身体(からだ)を暖めた。冷たい雪と、冷たい空気。見つめる先には湖と、満身創痍(まんしんそうい)の彼の顔。
 夜通し走って行き止まり。戻る気力も今は無く、彼はその場に横たわる。照らす朝日は雪面(せつめん)を、(にぶ)く鋭く輝かす。
 そして意識はまどろんで、遠く彼方へ消えて行く。

 ――――(まぶた)を開くと目の前に、寝ぼけた顔が映ってた。
 彼は気力を取り戻し、主を探す旅に出る。今度は反対側でいい。全ての道が繋がるならば、全てを行けば会えるだろう。
 世界の広さを知らない彼は、軽い気持ちで旅に出る。町に残れば安全なのに、若い心が駆り立てた。彼を旅へと駆り立てた。
 前に曲がった道に来る。今度は前とは逆の道。町から向かって左側、彼は南に歩を進め、さらなる吹雪に見舞われる。
 視界は奪われ身体は埋まり、皮膚の熱さは消えていく。鉛のように重くなり、氷のように冷たい身体。
 それでも彼は一歩ずつ、時間をかけて踏みしめた。身体が凍ってしまおうと、意識が(かす)んでしまおうと。彼は心が消えない限り、一歩一歩と踏みしめた。
 ――意識は次第に霞むけど。
 ――身体は次第に凍るけど。
 一歩進んで、それだけで、今日一日が終わろうと。彼は主と出会うため、雪の大地を踏みしめた。
 吹雪は()まず、氷は溶けず、見渡す限りに白の世界。
 それでも彼は歩いてく。右も左も後ろも前も、何処(どこ)が何処だか分からない。それでも彼は歩いてく。雪の野原を歩いてく。
 そして気づけば白とは違う、見慣れた色を目に入れる。緑の草むら揺るがす獣、彼を目掛けて飛び掛る。
 ――今の彼では、勝ち目は無い。
 そんな彼へと何処からか、女性の声が、(つか)われた。
「そんな姿じゃ、凍えてしまう」
 彼は後ろを振り返り、彼女の姿を目に入れる。
 雪の町とは全く違う、薄い着物を身に纏い、細い体躯(たいく)で雪に立つ。
「まずはおうちに、入りなさい」
 彼女は彼に対峙した、鋭い爪の生き物を、右手をするりと(かざ)しただけで、動きを止めて微笑んだ。
「さあさ、おうちに、入りましょう?」
 彼は気力を失って、彼女に抱かれて眠りに着いた。

 □ □ □

 ――寂しくなって、鳴いてみた。
 誰も遊んでくれなくて、寂しくなって、鳴いてみた。
 僕も遊んで欲しいから、寂しくなって、鳴いてみた。
 ――苦しくなって、哭いてみた。
 誰も構ってくれなくて、苦しくなって、哭いてみた。
 僕も構って欲しいから、苦しくなって、哭いてみた。
 ――悲しくなって、泣いてみた。
 誰も解ってくれなくて、悲しくなって、泣いてみた。
 僕も解ってやれなくて、悲しくなって、泣いてみた。

 □ □ □

「冷えた身体は、大丈夫?」
 嫌な昔を思い出し、涙で(とこ)を濡らしてた。
 彼は小さく鳴いてみた。彼女にお礼を言いたくて。
「待ってる人が、いるんでしょう?」
 そうして女性は微笑んで、彼の頭に手を当てる。
 ――――彼はその後、(まばた)いて、意識を遠くに手放した。
 再び意識を取り戻し、見たのは(むご)い、獣の(むくろ)
 彼のその手は清いまま。殺した記憶は何処にも無い。
 白い世界に広がる(くれない)、怖くて彼は逃げ出した。(あか)い色から逃げ出した。
 今来た道を戻っていると、彼は微塵も思わずに。数日かけて辿った道を、正しく正しく駆け抜けた。
 空の色などわからない。
 朝か夜かもわからない。
 それでも彼は、駆け抜けた。辿った道を、駆け抜けた。
 吹雪が弱って身体も弱り、彼は知ってる場所に出る。あの湖を、訪れる。
 そして朝日が昇っては、彼の身体を暖めた。冷たい雪と、冷たい空気。見つめる先には湖と、満身創痍の誰の顔?
 知らぬ誰かを叩いてみたら、冷たい水が手に触れる。歪んだ誰かに叫んでみたら、誰かも同じ顔をした。
 ――青い体毛、長い耳。それでも残る面影に、彼は自分を思い出す。自分の役目を思い出す。
 一人じゃ吹雪は越えられない。言いつけ通り、町で待とう。彼は霞んだ記憶から、町への帰路を、辿り行く。
 そうして夕日が沈む前、彼は町へと辿り着く。たった数日、数週間。離れただけの、雪町へ。
「なんだこいつぁ、知ってるか?」
「あいつと似てるが、色が違う」
「形も顔も、あいつと違う」
 人は彼から離れてく。似てるが違うと離れてく。
 自分自身も分からなかった。他人に分かるはずもない。
 彼は居場所を失った。主の頼みを捨てたから。
 彼は居場所を失った。己の姿を捨てたから。

 □ □ □

 ――寂しくなって、鳴いてみた。
 誰も気付いてくれなくて、寂しくなって、鳴いてみた。
 僕も気付いてやれなくて、寂しくなって、鳴いてみた。
 ――苦しくなって、哭いてみた。
 誰も信じてくれなくて、苦しくなって、哭いてみた。
 僕を信じてやれなくて、苦しくなって、哭いてみた。
 ――悲しくなって、泣いてみた。
 僕は主を疑って、悲しくなって、泣いてみた。
 主は僕を失って、悲しくなって、泣くのかな。

 □ □ □

 彼は一人で舞っていた。雪の町から嫌われて、全てと離れたその日から。
 主が迎えに来なくても、雪の町から離れても。
 それでも彼は舞い続け、雪と一緒に舞っていた。
 主は迎えに来なかった。
 そして彼女がやってきた。
「誰も迎えに、来なかった?」
 彼は小さく鳴いてみた。彼女に助けを乞いたくて。
「それなら一緒に行きましょう」
 そして彼女が連れてった。
 彼は彼女と舞って逝く。