ある旅人の日常 〜篝火〜  鬱蒼と生い茂る草木を掻き分けながら、一つの人影が突き進んでいく。 「あーもうなんでこんなことになるんだっ。 それもこれも、みーんなセンタのせいだー!」 年の頃は十二〜三歳くらいだろうか。 背はやや長身、短パンに半袖のシャツ、その上にチョッキを羽織り、目深に被った帽子が特徴的だ。 その人影はわめき散らし、周りに八つ当たりしながらその人影は歩くのをやめた。 汗が頬を伝って顎から滴り落ちる。服がベットリと肌に張り付いて気持ちが悪い。 季節は夏。古く広大な森の中は太陽の日差しの大部分を遮ってはいるが、ジメジメしていて蒸し暑い。 たまらず襟をつまんでパタパタと軽く風を送ると、汗ばむ肌には申し訳程度の冷たい空気でも十分心地よかった。 「はぁ。カガリ、悪いけど背中に乗せてくれない?」 そう言って、腰のモンスターボールに手を伸ばす。軽く放ると、ボールは上下に割れて中から光が溢れ出した。 すると中から、陸亀のような甲羅を背負ったコータスと呼ばれる種類のポケモンが姿を見せる。 どこかボーっとした顔は愛嬌があり、鼻や甲羅の空洞から白い煙が漏れ出ていた。 そしてコータスのトレーナーは、「よいしょ」と声を出しながらその背中の甲羅にどっかと座る。 「煙、暫く出すなよ?」 「コォ〜」 コータスが一声鳴いた。決して大きくは無いその身体には、例え子供とはいえど少々辛い。 それを知ってかしらずか、コータスのトレーナーは当たり前のように座っていた。 「さ、先に進むぞ。行け、カガリ」 その指示に従い、コータスは一歩一歩、ゆっくりと歩き始める。 「はー、楽ちん楽ちん。…ったく大体、なんでオレがお社の防人やんなきゃなんねーんだっ。  お祭だから久しぶりに帰ってきたってのに、こんな面倒ごと人に押し付けやがって…!」 ブツブツと愚痴を言いながら、空を見上げた。木々が邪魔をして空は見えないが、日がまだ高いのはわかる。蝉の声が五月蝿かった。 「と言うわけで、今年の防人はお前がやってくれ」 「は?」 体格のいい、四十歳前後の男性の言葉に、そのトレーナーは素っ頓狂な声を上げる。 「今日は十年に一度の降神祭だ。  町の外の鎮守の森とその最奧の神域にあるお社に、森の神であるポケモン『セレビィ』が現れるとされる日でもある。  そのセレビィを祀るお社に近付こうとする不届き者から神域を守り、お社の大篝に一晩中火を灯すのが防人の仕事だ」 「ちょ、ちょっと待ってくれよ親父っ。なんでオレがわざわざそんなことしなきゃなんないんだよ!  そんな事をする為に、わざわざポケモン修行の旅を中断して帰ってきたんじゃないんだぜ!?」 そんな自分を無視して勝手に話を進める父親に、思わず噛み付く。 防人の仕事をする為に帰ってきたのではないと主張するが、全く聞き入れてもらえない。 「防人の役目は十四歳以下の、炎ポケモンを持っているトレーナーの、男女のペアが元来勤める事になっているんだ。  それについては、お前の幼馴染のセンタに頼もうと思っている。」 「だったら別にオレじゃなくてもいいじゃねーかっ。今日は祭りなんだし、旅のトレーナーにでも頼めばいいだろ!」 「それも考えた。一応頼んでみたが、答えを聞く前に丁度お前達が帰ってきたからな。手間が省けたよ」 「ふざけんなーっ! そいつに頼めば良かっただろっ。なんでわざわざ……」 「簡単なことだ。ハル、お前が『女』だからに決まってるだろ。旅のトレーナーは男の子二人組だったんだから」 「納得いかーん!」 ハルと呼ばれた少女は、今にも暴れだしそうな勢いで父親の胸倉を掴んでいた。 ヤレヤレと言いたげに、父親はゆっくりと首を振る。 「いいか? 神域のある森は複雑で、しかも奥に進めば進むほど気の荒いポケモンが多くなる。  あの森を小さい頃から遊び場にしていたお前と、その幼馴染のセンタなら安心して任せられるってものだろ。  いい加減諦めろ。元々この役目は地元のトレーナーがやるのが筋ってもんだ」 「だったら他のトレーナーでもいいじゃねぇかっ」 「今まで条件に会うトレーナーがいなかったから、わざわざ他所のトレーナーに頼もうとまでしていたんじゃないか。  ただでさえ危険な場所に、伝説のポケモンがいると知ったら普通は捕獲しようと考えるだろう。  本来なら絶対に余所者なんかに任せられん。だから、そこに帰ってきたお前たちはまさに渡りに舟だったという訳だ」 「納得いかねぇ……っ」 ハルはわなわなと体を震わせ、額には青筋がうっすらと浮かんでいる。 「お前の都合なんて関係ない。これはこの村のしきたり。恨むならここに生まれたことを恨め」 父親はバッサリと切り捨てるように言い放つ。 その言葉が引き金になったのか、プツンと音を立ててハルは暴れだした。 散々暴れまわった後、父親に力ずくで取り押さえられ、思いっきり拳骨でぶたれてたんこぶを作ったがそれはまた別の話。 その後、ハルは渋々ながらも森に向かう前に、幼馴染のセンタという少年を訪ねた。 「お〜、マイスウィ〜トのハルじゃないかっ。何? とうとう俺のラブコールに応えてくれる気に─」 ゴスッ 思いっきり、鳩尾に膝でも入ったかのような鈍い音が、センタの言葉を遮った。 「お前の寝ぼけた台詞を聞く為にわざわざ尋ねてやったんじゃねぇ。防人の仕事、どうする気だ!  どうしてもってお前が言うから、今回の祭の日に帰ってきたからこんな目にあうんだぞ!  お前一人でやれ、お前一人でっ! オレはあんな面倒臭い事は御免だからな!!」 怒鳴るだけ怒鳴ったはいいが、ハルの言葉はセンタには届いていなかった。 本当にピンポイントで、鳩尾の一番奥にハルの膝がめり込んだらしく、センタは白目を剥いて気絶している。 これでは、防人の仕事も当然無理なわけで。結局父親によって強制的にお社へと送り出されることになった。勿論、一人で。 奥に進めば進むほど、空気が濃くなっていくような気がする。 野生ポケモンの戦いに飢えたような咆哮が、時折遠くから聞こえてきた。 「『祭りも近いし、折角だから一度家に帰ってみよう』なんて言ったセンタが悪い! オレは別に帰りたくなかったんだー!」 全て幼馴染の少年の所為にして、怒鳴り散らしながらハルは最奧の神域を目指した。 たまに「まだ歩くの?」というニュアンスの鳴き声が乗っているコータスから聞こえてきたが、とりあえず無視。 途中何度か森の虫ポケモン等と出くわす場面もあったが、必要以上に彼らに近付かなければ戦いにならない事をハルは知っている。 幼い頃から遊び場にしていたこの森のポケモン達の習性は、手に取るようにわかるのだ。 彼らの大まかな縄張りの場所も、もっとも危険な相手も全て旅立つ前のまま。時が止まったかのように、当時と同じ。 安全に、そして確実に神域の最奥部まで辿り着けるのは、この近辺の地域では今自分だけであるという確固たる自信があった。 だからこうして大声で怒鳴っても、凶暴なポケモンに出くわさないのだから。 そう、自分以外無傷で辿り着くことなど不可能だという密かな優越感に浸ることで、このイライラを辛うじて鎮めているのだ。 こうして特に大きなトラブルもなく、その自信を裏付けるようにハルはお社に到着した。 因みに、コータスはこの場所までずっとハルを乗せて歩き続けてきたのである。 「やっと着いたか。えっと、確かお社の大篝に炎ポケモンの炎を一晩中灯しときゃいいんだっけ」 目の前にあるのは一本の大木。樹齢数千年とも数万年とも言われているほどの巨木。 町の大人が全員で手を繋いでも、その周りを囲めるかどうかさえ怪しいと思えるほどの太い幹。 その根元に注連縄が張られ、森の神を祭ってある祠があった。 「ん〜と、大篝は…あれか」 パンパンと手を打って、軽くお参りした後すぐに、目的の大篝を目指した。 大篝は巨木の前にでんと構えてあり、何十年、もしかしたら百年以上もこの場所にあり続けているという。 ハルは大篝に近づいて、それをまじまじと見つめた。 この大篝を見たのは久しぶりだ。 トレーナーになる前、ハルはかくれんぼなどをする時は必ずここに来て隠れた。 誰もこの場所まで辿りつけないから、絶対に見つからない。 そうやって日が暮れても誰も探しにきてくれず、結局最後は町の大人達が探しにきて大目玉を食らった。 その時は決まって大人達とそのポケモン達はボロボロで、途中森のポケモン達と散々争ったことがわかる程。 ハルはボロボロになった大人達を道案内しながら、いつも町に帰っていた。 そんな懐かしい幼い日々を思い返しながら、ハルはふと巨木を見つめた。 「……ただいま。また、ここに来たよ」 誰に言うでもなく小さく呟く。それはとても古い、懐かしい友人に向けたような言葉だった。 あれほど嫌がっていたはずなのに。この場所に着いた途端、そんな気持ちはどこかへと失せてしまった。 やっぱり、この場所が大好きなんだ。と改めてハルは気づく。 傍らにはコータスのカガリが。どこか嬉しそうに、ハルの隣でじっと立っていた。 「…よっし。日が暮れたらカガリ、お前の炎をこの大篝(おおかがり)に入れるんだ。そしてそれを一晩守る。  大篝の炎は森の神の道標。炎ポケモンの生んだ炎は大篝を通してこの場所を森の神に伝えるんだって。  そんで森の神がこの場所にやって来たら、今度はこの炎は森の神を送り出す為に森を照らす光になるんだ。  この森は平和です。貴方が育てた森は今も元気ですって、森の神に伝える儀式なんだってさ」 目を細めながらハルはそう言った。 コータスは隣で黙ってその言葉に耳を傾ける。 その時、不意に背後の草むらが「ガサガサッ」と音を立てて揺れた。 「誰!?」 振り向いて一歩、大きく後退する。 コータスはハルを守るように即座に前に出て、草むらの奥に潜む招かれざる来訪者を警戒した。 「あ、誰か居るの? 良かった、やっと追いついたよ〜」 幾分緊張感の無い声で、草むらの奥から一人の少年が顔を出した。 歳はハルより少し下だろうか。 温和な表情にどこか気の弱そうな眼差し、使い込まれたリュック等を見る限り、旅のトレーナーらしい。 少年の身長はハルより随分小さい。ハルも周りの男の子と比べてひどく高いわけでは無いはずだが、少年は更に小さかった。 「ふえぇ、結構複雑な森だったんだね」 「誰だお前! この場所は関係者以外立ち入り禁止だ。とっとと帰れ!」 暢気に構える少年に対して、ハルは怒鳴る。 コータスは何時でも攻撃に移れるようにしているのか、背中の空洞や鼻の穴から黒い煙が立ち昇っていた。 「そんなこと言われても…ほら、今日のお祭は炎タイプのポケモンを連れているトレーナーが一晩、この場所を守るんでしょ?」 「だったらどうしたっ、ここはオレ一人で十分だ。余所者はさっさと消えろ!」 ハルの剣幕に、少年はわたわたと焦りながら続ける。 「だ、だって、町のおじさんに頼まれたんだもん。『該当するトレーナーが居ないから』って」 「あの馬鹿親父…ちゃんと断ってなかったのかよ!  大体、なんで初めてこの森に入ったお前がここまで、しかも無傷で辿り着けたんだ?  その様子だと、森の凶暴なポケモン達に出会った様子は無いみたいじゃないか」 「あの、その…”森の声“…かな。声が、教えてくれたんだ。全部」 「声〜? なんだそれ。なんでそんなのがお前に聞こえるんだよ!」 「…え? う、う〜ん……なんでだろう?」 ハルの疑問に、少年は歯切れの悪い答えを返す。 不意に、少年顔にハルの手が伸びる。 「でまかせで誤魔化すんじゃない! 結局運だけでここまで来たってか? ふ・ざ・け・る・なー!!」 最高に機嫌の悪い声で怒鳴った。少年の頬を両手でぐいぐいと引っ張り抓る。 自分以外の人間で、しかも余所者が無傷でこの場所に辿り着いたという事実は、ハルの自尊心を激しく傷つけたからだ。 更に少年の言葉がうそ臭いことも拍車をかけているのだから始末が悪い。 例えそれがどんなに理不尽であっても、少年にハルを止める術などなかった。 ただ嵐が過ぎ去るのを、ひたすら祈りながら待つだけだったのである。 「あうぅ…痛いよぅ」 真っ赤になった頬を擦りながら、少年は涙目でハルを真っ直ぐ見つめる。 その視線に気付いたハルは凄みを利かせて睨み返す。 「文句あるのかよ?」 「い、いやそんなんじゃなくて……ハルちゃん……だよね? 町のおじさんが先に行ったって教えてくれた子」 少年がそう言った刹那。ハルの鉄拳が容赦なく少年の頭頂部に振り下ろされた。要するに拳骨である。 「馴れ馴れしく『ちゃん』付けなんかするな! っていうかオレのことをハルって呼ぶな!  っていうかあの親父、わざわざオレがコッチに向かった後にお前に頼んだのかよ!?」 「ご、ごめん。…で、でもそれじゃあ君の事、なんて呼べばいいの?」 ハルの剣幕に、少年は小さな草食動物のように身を竦ませる。 「オレだって女なんかに生まれたくなんかなかったんだ!  ペチャクチャお喋りするより、木に登ったり森の中を走り回った方がずっと好きだし、細かいことは大嫌いだ。  ……だから、少しでも男らしい格好して、女だって舐められないようにしてるんだ。わかったか!」 と剥き出しの刃のように、ハルが早口で怒鳴った。 「ご、ごめん…」 少年はすっかり萎縮してしまい、俯いてしまう。 「わかりゃーいいんだ。親父のヤツ、オレが四月生まれだから春(ハル)なんて安直な名前にしやがって。  同じ春なら、『シュン』っていう読み方の方がずっとカッコいいのにさ。ほんっとセンスってもんがねぇよな」 「え、えっと…」 「だから、オレは初めてあった奴には『シュン』って名乗ってんだ。わかったら今度からそう呼べよ」 「…で、でも」 「うるせえっ。オレがそう呼べって言ってるんだ。文句あんのかよ?」 異を唱えようとする少年を、ハルは再び睨みつける。すると少年は再び萎縮して黙ってしまった。 ハルはこれを了承の意味と受け取り、満足そうに頷いた。 「…で、お前の名前は?」 「あ、ぼくはアカモリ…うわぁっ」 そう言いかけた直後、アカモリと名乗った少年の背に何者かが飛び乗ってきた。 「サンドパン? なんで森の中にそんなポケモンが…」 よじよじと、少年の頭の上に登っていくサンドパンを、まじまじと見つめるハル。 サンドパンの方も気付いたらしく、目が合うと「よっ」とでも言いたげに軽く右前足を上げて挨拶。 思わず、ハルも「お、おす…」と手を上げ返した。 「もう、びっくりするじゃないか“サンた”」 サンたと呼ばれたサンドパンの下から声が聞こえる。 「アカモリ、そのサンドパンはお前のポケモンなのか?」 「あ、うん。一応森の中だし、野生のポケモンが出た時の為にサンたに一緒に歩いててもらったんだ」 アカモリはサンドパンを肩車したまま、そう言って笑った。 「サンたはね、ぼくが初めて自分で捕まえることができたポケモンなんだ」 「へぇ。結構可愛いじゃんか」 ハルの言葉に、アカモリは「えへへ」と自分の事のように照れ笑いを浮かべる。 「何でお前が照れてんだよ」 ペシッと軽い音を立てながら、ハルはアカモリのおでこをはたく。思わず笑みがこぼれた。 「ったく、お前と居ると調子狂っちゃうぜ。しょーがねーや。  今から帰れったって、森のポケモンに出くわしたらお前みたいな弱そうな奴、あっという間にやられちゃうもんな。  今回は特別に、防人の仕事を手伝わせてやるよ」 「ほんと? ハルちゃん、ありがとうっ」 ハルの申し出に礼を言った次の瞬間、アカモリはたんこぶを作ることになった。 宵が迫り、影が伸びる。 森の中は一足早く闇色が降り積もり、ふと見上げると紫の中をチカチカと輝く小さな星が顔を出していた。 やがて紫は深い藍と交わり、黒になって辺りを覆った。下弦の鋭い刃が、その姿には似合わないほど儚げな光で地上を包む。 ジージーと五月蝿かったはずの蝉の声も、いつの間にか風に消え。ただ刻々と過ぎるは時の群れ。静かに、早く、緩やかに。 「ふわっ……あ〜」 何度目かの大きなあくびが、煌々と社を照らす炎を揺らした。 ゆらゆらと不規則にゆれる炎を写す瞳の瞼は重く、うつらうつらと今にも舟を漕ぎ出そうとしている。 「ったく。夜通し起きてることもできないなら、最初から引き受けるなよ。馬鹿」 コツン、とハルは前後に揺れる小さな額を小突いた。 「ご、ごめん……っ」 はっとしたように、目を開いたアカモリが小さな声で言う。 脇で気持ちよさそうに寝息を立てているコータスとサンドパンを、ちょっとだけ羨ましそうに見つめた。 森の静寂を聞きながら、ただ炎を見ているだけというのは実際退屈だ。 最初の数時間はお互いの旅の話やポケモンの事で盛り上がってはいたものの、それも夜の色が濃くなる毎に途切れがちになっていく。 そして何時しか森の静寂が彼らに降り注ぎ、燃え爆ぜる炎だけを残して沈黙が支配した。 最初の出会いから、既に十時間以上過ぎている。夜明けまであと三時間も無いだろう。 今のところ、これといった異変は全くない。 社も森の神が降りてきたような気配を見せず、ハルは心の中で「こんなもんか」と呟いた。 そう簡単に森の神と呼ばれるポケモンがやってくるはずが無い。所詮迷信だったのだと、静かに目を閉じる。 確かに幾らかの期待はあったが、それ以上に今回の防人の仕事は最初で最後。 ただ何事もなく終わればいい。いや、終わらないはずが無い。 この森を一番良く知っているはずの自分がそれを感じているのだから、間違いないと思っている。 何事もなく進んでいくこの時間が、今はとても安心した気持ちにさせてくれる。 最初は祭を楽しみに帰って来て、なんでそれを放棄してまでこんな仕事をしなきゃいけないんだと憤った。 それこそ、初めて出会った奴と防人の仕事をするなんて思ってもみなかったけれど、今はソレも十分楽しいとさえ思う。 普段感じることの無い、そんな気持ち。 まるで初めて旅に出た頃、初めて野宿をした時のような。そんな懐かしさと新鮮さがここにはあった。 ──このまま、何事も無く夜が明けて欲しい── それは、祈りにも似た今のハルの正直な気持ち。 その想いは空が白み始めた、夜明け直前に打ち砕かれた。 ドォーーンと、落雷のような轟音が森の中を振動となって走り抜ける。 「何!?」 大篝の炎が大きく震えた。ハルはすぐさま立ち上がり、辺りを見回す。 アカモリも無理矢理眠気から現実に引き戻されるように飛び起きて、ハルと同じようにキョロキョロとしている。 ハルのコータス、アカモリのサンドパンも同じように辺りを警戒していた。 そして数秒後、ドォーンと再び。さっきより近い。 またドォーンと響く。それは強い光の帯を伴って。 「……森の、ヌシ」 ハルが呟いた直後、ソレは彼らの前に姿を現した。 「リングマ……?」 そう口に出したアカモリは、ソレがリングマだとはにわかに信じられなかった。 相手は通常のリングマよりも二回りは大きく、全身にある多くの古傷は見ているほうを威圧してくる。 目は血走り、今にも爆発しそうなほどに怒っているのがわかった。 「どうして、こんなところにまでヌシが? ヌシのテリトリーはもっと離れた場所のはずなのに。  それに、まだ夜明け前。一体、何が……?」 ハルは、明らかに動揺していた。 この森を隅々まで知っていると自負しているはずの彼女が、この森で自分の知りえない事態に遭遇したのだ。 「多分…荒らしたんだと思う。ヌシっていうリングマの縄張りを。  ソレできっと、怒らせちゃったんじゃないかな……?」 「それはオレも考えた。でも、その程度ならさっさと侵入者をぶちのめしてやりゃあソレで済む。  わざわざこんな神域にまで暴れに来ない……だから何があったのか解かんないんだよ!」 苛立たしげにハルはそう吐き捨てた。 本当にわからないのだ。何故、ヌシと呼ばれるリングマがこの場所まで来ているのか。 余り行動範囲を広げることはないし、まず人間が、特に密猟者の類が立ち入れる場所でもない。 何よりもまだ夜明け前。活動の時間からも外れているのだ。 ソレなのに、何故こんな事態が起きたのか。 「兎に角、ヌシを止めないとお社や大篝が壊されちまう。行くぞカガリ。 アカモリ、お前も手伝え!」 「う、うん。サンた、いくよ!」 二人の声にあわせて、コータスとサンドパンが前に出る。 ヌシと呼ばれたリングマは己が戦うべき相手を見定めると、その鋭い爪を振り上げた。 「カガリ、前に出て『まもる』!」 一瞬早くハルが叫ぶ。直後、コータスは鼻から、背中から白煙を噴出すと同時に走る。 それを狙い済ましたかのように、リングマはその爪を振り下ろして、コータスを『きりさく』つもりだった。 攻撃があたる直前、白煙によってコータスの姿は覆われた。 狙いの定まらぬ爪は最も甲羅の硬い部分に当たって、甲高い音をたてただけに終わる。 「サンた、キミも『きりさく』だ!」 リングマの隙を見計らって、アカモリが叫ぶ。 その指示を待っていたかのように、サンドパンはコータスの吐き出した煙に紛れて一気に間合いを詰めた。 地面を掘り起こす為の強靭な前足から伸びる爪が、鋭い刃と化してリングマを襲う。 「ガアアアアアアアアアッ」 不意にリングマが吼えた。同時に体の筋肉が膨張し、硬化する。 その声を物ともせずに伸びる爪。体を貫くはずだったサンドパンの攻撃は、あっけなくその肉体に弾かれてしまった。 「え……な、何?」 「くそっ、『ビルドアップ』か。アカモリ、もたもたすんな。攻撃を続けろ!」 すぐに状況を飲み込めず、目を白黒させていたアカモリにハルの叱咤が飛ぶ。 そうこうしている間に、コータスが次の行動に出る。 「カガリ、『かえんほうしゃ』だ。どんなに筋肉を盛り上げても、炎は防げないことを教えてやれ!」 ハルの声と同時に真っ赤な炎の舌がリングマの体を飲み込んだ。 苦悶の咆哮が、白みかけた空に木霊する。 自分の体を這い回る、忌々しい赤。その元凶であるコータスは炎を決して緩めてこない。 リングマは目を見開くと同時に、その口から白い光の帯を怒号と共に放った。 粉塵を巻き上げながら轟音が響く。周りの木々を震わせ、大地が揺れる。 自らを蝕む赤も、ソレを吐き出すコータスも一緒くたに、その白い光の帯によって打ち払われた。 「い、今のは…『はかいこうせん』…なの?」 先程の衝撃で飛ばされたアカモリは、自分のサンドパンの無事を確認しながら身を起こし、呟く。 「か、カガリっ。カガリ、カガリー!」 同じように飛ばされたハルは、直撃を受けたであろうコータスの名を叫んだ。 あの攻撃を至近距離で、マトモに受けてしまったのだ。まず無傷ではないはず。 立ち込める煙が晴れると、リングマの背後には傷ついたコータスが横たわっていた。 なんとか立ち上がろうと足掻いてはいるものの、傷は深いようで満足に動けない。 「グオオオオッ」 ハルの焦りを一蹴するかのように、リングマが一際高く吠えた。 そのままハルへと突進しようとするリングマの前に、アカモリのサンドパンが立ちはだかる。 「アカモリ、無茶すんなっ」 「時間稼ぎなら出来るから、ハルちゃんは早くカガリを助けてあげてっ」 「……馬鹿っ、絶対やられるなよ!」 そう言葉を交わしあい、ハルはリングマの脇をすり抜けてコータスのもとへ向かった。 アカモリは少しだけ表情を緩めたが、すぐにキッと引き締め、目の前の相手を見据える。 リングマは怒りの咆哮を上げ、目の前のサンドパンに激しく爪を振り下ろしてきた。 「また『きりさく』か。サンた、こっちは『すなかけ』だっ」 攻撃直後の隙を狙うようにアカモリの声に併せて、サンドパンはその鋭い爪を地面に潜らせてから、リングマに向けて振り上げた。 土や砂、雑草までもが舞い上がってリングマの視力を奪い、再び振り上げられた暴虐な爪は虚しく空を切る。 それに業を煮やしたリングマは、突然『あばれる』ように所構わず攻撃を仕掛けだした。 「カガリ、カガリ! しっかりしろ!」 「…コォ〜…」 ハルの呼びかけに、コータスは力なく答えた。 少し回復したのか、なんとか立ち上がるくらいはできそうだが、戦うのはまだ無理だ。 「頑張ってくれてありがと。ごめんな、戻れカガリ」 唇を噛み締めながら短く、言葉をかけてからコータスをモンスターボールの中へ戻した。 その直後、ハルは不意に腕をとられてバランスを崩しそうになる。 「ハルちゃん、今のうちに逃げるんだっ」 「あ、アカモリ!?」 「ヌシは今、サンたの『すなかけ』で目が見えてない。  暫くはその辺で『あばれる』だろうけど、すぐにぼくらを追いかけてくるはずだよ。  だから今のうちに遠くに逃げないと、ここの大篝や祠まで壊されちゃうよ!」 まくし立てるように早口で言うアカモリに、多少面食らったハルは「わ、わかった」と返して立ち上がる。 「サンた、行くよっ」 その声に、サンドパンもリングマの攻撃を潜り抜けてアカモリ達のもとへ。 サンドパンが戻ってきたところで彼らは手を繋いだまま、まだ暗い森の方へと走り出していった。 どれだけ走っただろうか。激しく肩を上下させながら息を整える二人。 真っ暗だったはずの森も、今はうっすらとだが周りをちゃんと視認できるほどに明るくなってきている。 遥か後方からは明らかに怒気を孕んだ咆哮。少しずつだが、確実に近づいてきていた。 今どの辺に居るのか、アカモリにはサッパリ見当もつかない。 そこでふと、ハルは気付いた。今までろくに握ったこともない、父親以外の男の子の手。 先程まではそんなことを気にする余裕もなく、今更恥かしがるのも馬鹿らしく思える。 だが繋いだ手の、少し汗ばんだ温もりは否が応でも気になってしまう。 そんな少女の葛藤など露知らず、アカモリが再び歩き出そうとした時、ハルは繋いだままの少年の手を引っ張って静止する。 「……どうしたの、ハルちゃん?」 まだ息を切らせながら、アカモリが振り返った。 「駄目だ……ここは、ヌシのテリトリーの手前だ。  畜生、逃げるのに夢中で気付かないなんてっ。  ここから先は、人間じゃ到底進むことができないくらい木々が密集しているんだ。  その上コケなんかが多くて滑りやすくなっているから凄く危険な場所でもある。  ……ここに入ったが最後、ヌシに……確実にやられちまう」 「そんな、でも…」 ハルの強張った声。既に自分の呼ばれ方さえ気にしていられないほどに余裕が無いのがわかる。 更に怒りに燃えた咆哮は、確実に二人を追い詰めるように近づいてくる。 ヌシであるリングマがやってくるのも時間の問題だ。 ……ガサッ 不意にヌシのテリトリーの方、アカモリとハルの視界の端で草が揺れた。 二人はすぐに身構え、アカモリのサンドパンが前に出る。 静かに、息を飲む二人。 「ね、ねぇハルちゃん。ヌシの仲間って…いるの?」 聞き取れないかもしれないくらい小さく、掠れた声。アカモリの緊張が如実に伝わってくるようだった。 微かに、繋いだ手にも力が入るのがわかる。 問われたハルはゆっくりと首を横に振る。自分が知る限り、そんな相手は居ないと。 「ヌシは繁殖期以外で他のリングマと共に行動することは無い。  居たとしても、子供のヒメグマだけのはずだ。…多分」 咆哮が、さっきよりもはっきりと聞こえるようになってきた。 あと数分もしないうちに追いつかれるだろう。 「本当に、迷っていられないね」 そういって、アカモリは静かに息を吸い込む。 「…ハルちゃん、逃げて」 「は?」 余りにも突拍子の無い台詞に、ハルは思わず空いた口が塞がらなかった。 「逃げて誰か他の人を呼んできて。ぼくの友達でもいいから、早く。  大丈夫、ぼくならサンたもいるし、こう見えても逃げたり隠れたりするの、得意なんだ」 「ばっ、そんなことさせられるわけ無いだろ! よわっちい癖に何カッコつけてんだっ。  お前、オレが女だからって舐めてるのかよ!」 「時間が無いんだっ、早くしないと二人とも……ううん、ぼくたちもポケモンも皆やられちゃうよっ」 「だったらお前が行けよっ、オレの方がこの森に詳しいんだっ。  お前がちょっと迷って遅くなったって、余裕で逃げ延びてみせるっ」 「そんなこと言ってる場合じゃ…っ」 ……ガサガサッ 再び草が揺れた。そこから顔を出したのは宝石のような目をしたポケモン・ヤミラミ。 「お、脅かしやがって…っ」 ハルはほっと息をつく。そして思い出したように口を開いた。 「でも、なんでこんなところに? ヤミラミって確か洞窟に住むポケモンだったんじゃ…」 まじまじとヤミラミを観察する視線に、少し警戒するようにヤミラミは一歩下がる。 ドォーンッ 二人は直感的に手を離し、左右に広がった。 ほぼ同時に、強い光の帯がアカモリとハルの間に割り込むように通り抜け、ヤミラミに向かって伸びた。 だがヤミラミはゴーストタイプを含んでいる為に、光の帯はその体を虚しく通り過ぎただけに終わる。 当然その遥か後方では、けたたましい爆発音と共に砂塵や木の破片などがパラパラと舞い散っていた。 「くそっ、もう来やがった。アカモリ、お前がモタモタしているから…っ」 「ぼ、ぼくのせいなの!?」 二人が振り向くと低い唸り共に、そこにはヌシと呼ばれるリングマが。 「グルルル……ッ」 激しい怒りに燃えた瞳に睨まれ、二人は背筋に冷たいものを感じた。次の瞬間、サンドパンがリングマに飛び掛る。 「サンたっ」 アカモリが驚いたように叫んだ。 サンドパンは本能的に、リングマの危険性を察知したのかもしれない。 鋭い爪を突き出して胸元に突き立てかけた瞬間、その体は白い輝きと共に大地に叩きつけられた。 先程ヤミラミに放たれたものと同じ光、『はかいこうせん』。 激しい轟音と衝撃波で、二人は再び吹き飛ばされる。 アカモリは急いで身を起こし、もうもうと上がる土煙の中、目を凝らして見つめた。 「サンたーっ」 叫び声だけが虚しく響く。抉られて小さなクレーターになった地面の中央に、サンドパンが力無く倒れている。 リングマは怒りのままに、力尽きたサンドパンに凶暴な爪を振り下ろそうと構えた。 「なっ…アイツ、トドメを刺すつもりだっ」 ハルの声に、アカモリはハッとサンドパンを見やる。 そしてすぐにサンドパンが入っていたモンスターボールを取り出し、サンドパンに向ける。 「サンた、戻ってっ」 鼻声混じりの声。恐怖と己の無力を嘆くからなのか、その目には涙が滲んでいた。 そして赤い光がサンドパンを包み込み、あわやというところで難を逃れてモンスターボールに収まる。 「ほんとに……ごめん。ぼく、ぼく……」 アカモリはその場に思わずしゃがみこんで、泣きながら自分のサンドパンに謝り続けた。 だが、獲物を横取りされたリングマは面白いはずが無く、怒りの咆哮を上げてアカモリに襲い掛かってきた。 「おい、ぼさっとするな!」 ハルが叫ぶ。しかしアカモリに動く気配はない。 リングマの鋭い爪が、獲物を横取りした無粋な邪魔者目掛けて向かってくる。 アカモリが爪で引き裂かれる直前、彼の前を黒い塊が走った。 そして切り裂かれるはずだった少年の体は傷一つ付くことなく、逆にリングマが吹き飛ばされていたのである。 「……ヤミラミが? しかも今の、普通に育てたら覚えることのない『ばくれつパンチ』を……まさかっ」 ハルが何かに気付いたようにヤミラミを睨みつける。 するとヤミラミもそれに気付いたのか、リングマを殴り飛ばした後、神域の方へと逃げていった。 ハルは小さく舌打ちし、いまだ放心状態のアカモリへと駆け寄る。 「馬鹿野郎っ、泣いてる暇なんか無いだろ!」 そう言ってアカモリの腕を取って、乱暴に引っ張って立ち上がらせた。 「泣いてる暇があったら、次のことを考えろ! 何の為にサンたがお前を守ったのかわからねえだろ!?」 「……ごめん。ありがとうハルちゃん。ぼく、もう大丈夫だから」 アカモリは俯いたまま短くハルに返すと、低い唸り声を上げながら立ち上がるリングマに視線を向けた。 サンドパンのボールを腰に付け直すと、今度は別のボールを引き抜いて構える。 「ハルちゃん、他にポケモンは?」 「…今日はカガリしか連れてきてない。元々、ぞろぞろと連れ回すのは好きじゃないからさ」 「…そっか。じゃあ、ぼくが時間を稼いでいるうちにカガリを治してあげて。薬、ある?」 「それは大丈夫だ。いつも多めに持ち歩いてる。でも、相手はヌシだぞ? 戦うよりも今のうちに逃げた方が…」 「それじゃあさっきと同じように追いかけられちゃうよ。ちゃんとした解決にはならない。ここで、倒さなきゃ」 二人がそうやって言葉を交わしている間に、『ばくれつパンチ』の追加効果で混乱状態に陥っていたリングマも正気に返った。 一際大きく吼えると、口を目一杯開いてエネルギーを集め始める。 「やばい、また『はかいこうせん』がくるぞ!」 「任せてっ」 そう言ってアカモリはボールを軽く前に投げる。 ボールから光が溢れ、中から現れたポケモンは出てくるなりリングマ目掛けて強烈な炎を浴びせかけた。 リングマも対抗するように『はかいこうせん』を放つ。 赤と白がせめぎ合い、すぐに大きな爆発を起こした。爆風は衝撃となって周りの木々を揺らし、無数の葉が落ちる。 粉塵が辺りを覆いつくし、暫く咳き込みながらも目を凝らすと、リングマとアカモリのポケモンが組み合っていた。 「あれは…まさかリザードン!?」 オレンジ色の体と大きな翼、燃え盛る尻尾の炎。ドラゴンを連想させるその姿は見るものを圧倒するだろう。 「グオオオッ」 リザードンが天に向かって咆哮を上げる。大きく翼を広げると、周りの煙を吹き散らした。 リングマも負けてはいない。寧ろパワーだけならば優位に立っている。 じわじわとリザードンを押し返し、そのままの体勢で再び『はかいこうせん』を放つ機会を伺っている。 「ヒーすけ、一度ヌシから離れて『そらをとぶ』んだ!」 ヒーすけと呼ばれたリザードンは、アカモリの声に即座に反応した。 不意に後退することでリングマのバランスを崩させ、その隙に両の翼を羽ばたかせて宙を舞った。 森の中は決して飛び易いとは言えないが、それでも充分にリングマとの距離は取れる。 リングマも素早く体勢を立て直し、上空の火竜に向けて再び『はかいこうせん』を放つ。 リザードンはその光の帯を降下しながら錐揉みで回避した後、反動で動きの鈍っているところへ燃え盛る太い尻尾で打ち据えた。 「いけるっ。ヒーすけ、もう一度!」 アカモリはそう言いながら、コータスを介抱している少女を守るように前に立つ。 横目でハルを見ながら、「ぼくに任せて」というニュアンスの視線を送った。 ハルもそれに気付いていたが、今はそれどころではないと無視。 散々弱いと決め付けていた相手に、守られているのが悔しかったのも少なからずある。 だがそれと同時に、年下の少年が頼もしくもあった。 何故か、とても素直な気持ちでそれを認めることができる。自分でも不思議なくらいに。 「カガリ…頼む。もう一度オレと一緒に戦ってくれ。守られてばかりじゃ、カッコつかないだろ?」 コータスの首に優しく手を回しながら、少年には聞こえない程度の声で小さく囁いた。 リザードンは大きく翼を広げると、猛スピードで降下しながらリングマに向かって突っ込んでいく。 相手の動きをギリギリまで見極め、体を前転させながら遠心力をつけて、先程と同じように尻尾を相手に叩きつけようとした。 だが、相手の動きをギリギリまで見極めていたのはリザードンだけではない。 リングマも再び同じ手を食うつもりなどないのだ。 この一瞬の攻防の勝者は…リングマだった。 力いっぱい振り下ろされた燃え盛る尻尾を紙一重で避けると、隙だらけになった胴体に鋭い爪の洗礼を浴びせる。 リザードンは空中で大きくバランスを崩し、どうっと土煙を巻き上げながら大地に叩きつけられた。 「ヒーすけ! 立って、頑張って!」 リングマの思わぬ反撃に、アカモリは急に焦りだした。 相手の強さは充分にわかっていたつもりだったのに、相手は自分の予測の更に上をいったからだ。 少年が必死で呼びかげるが、急所に重い一撃を貰ったリザードンは中々立ち上がれずにいる。 そこへ、リングマが。 口を大きく開き、光が収束していく。この戦いに決着をつけるべく、トドメの『はかいこうせん』が無慈悲に放たれた。 「カガリ、リザードンを『まもる』んだっ」 リングマから『はかいこうせん』が放たれた瞬間、その間にコータスが割って入る。 首や手足を甲羅の中に隠し、白い煙が強固な盾となってコータスは『はかいこうせん』を受け止めた。 「アカモリ、今のうちにリザードンを治してやれ!」 「は、ハルちゃん!? …ありがとうっ」 ハルに礼を言いながら、アカモリはリュックからスプレー式の傷薬を取り出してリザードンに駆け寄る。 そして傷の箇所を調べながら、リザードンにスプレーを吹きかけてなんとか応急処置が完了した。 ポケモンはその生命力と、特別に調合された専用の薬のお陰で驚異的な速さでの回復力を見せることができる。 「ヒーすけ、ごめん。また、ぼくが足を引っ張った…」 そう言って俯くと、リザードンがアカモリの肩をポンと優しく叩いた。 「自分はまだ大丈夫だ。頼りにしてる」まるでそう言っているかのように。 「…うん。今はしょげてる場合じゃないもんね。ハルちゃんとカガリの加勢をしなきゃ!」 顔を上げ、精一杯目を見開いてヌシと呼ばれるリングマを見据えた。 その頃、ハルとコータスはリングマに苦戦を強いられていた。 周りに引火しないように気をつけながら『かえんほうしゃ』で距離を取り、『はかいこうせん』を『まもる』で凌ぐ。 接近されれば、肉体的なパワーが圧倒的に劣るコータスでは絶対的に不利。 かといって距離を取ったら、相手は最大威力の大技で遠慮なく攻撃を仕掛けてくるのだ。このままでは押し負けてしまうだろう。 「くそっ、流石にヌシと呼ばれるだけあって半端な攻撃なんか効きもしない」 忌々しげに吐き棄てると、ハルの肩にアカモリが手を置いた。 「大丈夫、二人なら負けないよ。……ヒーすけ!」 「遅いぞ、馬鹿。……さあ、一気に決めるぞ。カガリ!」 リザードンとコータスの名を叫び、互いに視線を交わしあって大きく息を吸った。 「ダブル『かえんほうしゃ』!」 二匹が放った炎は絡み合い、押し寄せる波の如く唸りを上げてリングマに迫る。 それさえも打ち払おうと、リングマも最大級の『はかいこうせん』を放った。 二つの光は激しくせめぎあったが、数秒もしないうちに白い光の帯は煌々と輝く真紅の波に飲み込まれてしまう。 『はかいこうせん』を飲み込んだ二匹分の『かえんほうしゃ』は留まることを知らず、そのままリングマまでも炎の洗礼を浴びせた。 辺りに苦悶の絶叫が響き渡るが、炎がその勢いを消失してしまうとすぐにそれも収まった。 「グルルルル……」 低く、か細い声。リングマはまだ倒れていない。 ヌシと呼ばれている以上、この森の王。その王としてのプライドが、今にも倒れそうなリングマを支えている。 「…ヌシ、もういいんだ。オレ達は別にお前と敵対したいわけじゃない。  お願いだ、もう休んでいいんだよ。なぁ、ヌシ…」 満身創痍ながらも、戦う姿勢を解かないリングマの悲痛な姿に、ハルが必死に呼びかけた。 力なく、肩で大きく息をしている姿でさえも、その闘志は燃え盛っているのがわかる。 だからこそ、もう終わりにしたい。 「…ヌシ。なんで怒っているのかぼくにはわからないけど、ぼく達は貴方の敵じゃない。  ぼくを信じて欲しい。ぼくを、信じて…」 そういいながら、アカモリはリングマにそっと近づいた。 「アカモリッ」 「大丈夫。ぼくなら平気だから」 アカモリを止めようとするハルの手を、リザードンが静止する。 そのリザードンの目には、はっきりと少年への信頼に満ちていた。 よろよろと歩きながら、リングマは少年と三歩ほどの距離まで近づいた。 例え満身創痍であっても、己の爪で軽く一薙ぎすればこんな少年などたやすく息の根を止められる。 だが、リングマにはできなかった。より大きな何かが、この少年を守っている。そう感じ取ったから。 アカモリは静かに、リングマの前に一つのモンスターボールを差し出す。 「ごめんね。熱かったでしょ? 今、治してあげるから…」 そういった直後ボールは二つに割れ、溢れ出る光と共に一匹のポケモンが姿を現した。 植物の妖精。そう形容するのがぴったりな容姿をしたポケモン。 それは古の時代から、森を育み、束ね、時の流れを行き交う神と呼ばれてきた。 神々しくも静かな鈴の音が、確かな力となって森の中を駆け抜ける。 その音色は、酷い火傷を負っていたリングマの体を瞬く間に癒していく。 どこかあどけない姿からは想像することが出来ないほどの神性を放つポケモンに、誰もが見入っていた。 「森の…神。セレビィ…今のは『いやしのすず』?」 ハルはそれだけを、掠れた声で呟くのが精一杯だった。 今目の前に、森の神がその姿を見せているのだから。 「この子はビット。ぼくの友達。ぼくと一緒に居てくれることを選んでくれた、大切な友達。  …ヌシ。ぼくはビットに懸けて誓う。ぼく達は君の敵じゃない。だから、もう争うのはやめよう?」 アカモリは真っ直ぐな瞳でリングマを見つめた。 リングマは少しだけその表情を緩めると、どうっと砂埃を巻き上げながら大地に腰を下ろした。 「…お前が最初に言っていた“森の声”って、セレビィのことだったんだな」 「……ごめん」 申し訳なさそうに視線を落とすアカモリに、ハルは「謝るなよ。当然のことなんだし」と微笑を浮かべた。 「でも、びっくりしたな。まさか、森の神に会えるなんて思ってなかったし。  やっぱり、今年の祭のこと知ってて来たんだろ?」 「…うん。もしかしたら、久しぶりにビットの仲間に会えるかもって思って」 そう言ってアカモリは視線を落とした後、真っ直ぐハルに視線を向けた。 「ハルちゃん。ビットは、ぼくと一緒に居てくれる大事な友達だから、今回の事秘密に…」 そこまで言いかけた時、ハルの右手人差し指が優しくアカモリの唇に当てられた。 「言われなくてもわかってるよ。お前はいいヤツだ。普段は泣き虫で頼り無いくせに、いざって時には頼りになるヤツで。  オレなんて、結局お前の足引っ張っていただけだしな。結果的に」 そんな風にハルが自嘲すると、アカモリはぶんぶんと首を振って「そんなことない!」と否定した。 「アカモリ、お前を見てるとさ。なんか、男だ女だって気にしてた自分が馬鹿みたいに思えてきたよ。  ただ真っ直ぐに自分を貫けばいいんだなって、そんな気になった」 「そっか。ハルちゃん…ありがと」 「なんでお前が礼を言うんだよ。コッチが言いたいくらいなのにさ。ほんと、変なヤツ」 二人はそう言って笑い声を上げた。 朝日に照らされた朝露がキラキラと光を反射し、二人を優しく輝き包んだ。 あれからリングマと別れ、二人は再び森の神域に向かって歩いている。 途中、リングマが暴れていたのだろう、痛々しい爪跡が目印の如く木々に刻まれていた。 ハルが元々道に詳しいのもあって、真っ直ぐ社に辿り着いた。 「大篝とお社は……無事か。お前も、無事でよかったな」 ほっと安堵の息を吐くハル。優しく笑った視線の先に、先程のヤミラミが、そこに居た。 「さっきはアカモリを助けてくれて有難う。お前のお陰で、なんとかヌシを静めることが出来たよ」 「えへへ、さっきは本当にありがとね、ヤミラミ」 二人がそうやって笑みを向けると、ヤミラミもほっとしたように二人に歩み寄ってきた。 「お前さ、さっき使った『ばくれつパンチ』だけど…あれ、どっかのトレーナーに教わったんだろ?」 ハルがそう聞くと、ヤミラミはコクコクと頷く。 「やっぱりな。…この森じゃ、お前の住む場所なんて無いもんな。  だから木々が密集していて、明かりも少ないヌシのテリトリーに入った。だろ?  そしてうっかりヌシに見つかった為に、ヌシを攻撃して怒らせた…。それが、今回ヌシが暴れまわった理由」 その言葉に、バツが悪そうにヤミラミは視線を落とす。 「そんな酷いトレーナーのことなんか忘れてさ。オレと来ないか?  それが駄目なら、どっかお前が住めそうな洞窟まで連れてってやる。どうだ?」 ヤミラミはハルの言葉が終わらないうちに「キーキー」と喜びの声を上げて跳ね回った。 早く捕獲してくれと言わんばかりに、彼女の袖を引っ張ってみたり足元をちょろちょろと駆け回る。 その様子が微笑ましくて、ハルとアカモリも思わず笑顔がこぼれる。 そして…ハルは取り出したボールを軽く、ヤミラミに向けて投げた。 ヤミラミは閃光に包まれるように、ボールの中に消えていく。コトコトと動いた後、ボールは完全に静止した。 「まいすうぃ〜とハル〜! 君の白馬の王子、センタ様が迎えに来たよーん♪」 お社の周りを片付け、大篝の炎の始末をしていた時にその声は聞こえた。 ぽっくりぽっくり、ゆっくりとポニータに乗ってやってくるセンタ。 ハルは思わず脱力し、アカモリは目を白黒させている。 「センタ…テメー、人が大変な目にあったってんのに何がまいすうぃ〜とだー!」 そう言うが早いか、ハルのとび蹴りはセンタの顔面にクリーンヒットしていた。 「は、ハルちゃんっ」 「いーんだよ! こんなのいつもの事だっ」 「い、何時もなの…?」 驚きの声を上げるアカモリに、ハルがぶっきらぼうに返す。 ポニータから蹴り落とされたセンタは運が悪かったらしく、目を回して気絶していた。 「もー、乱暴は駄目だよ。痛いんだよ〜?」 のんびりとした口調が、再び二人を脱力させた。 ポニータにはセンタだけではなくもう一人、アカモリよりも更に小柄な少年が乗っていたのである。 「ヨウヘイ、迎えに来てくれたんだ?」 「うん、町でセンタ君と仲良くなって、ボクのポニポニに乗ってここまで連れてきてもらったんだよ〜。  そうそうシュン、森の神様には会えた〜?」 楽しそうにけらけらと笑いながら、ヨウヘイと呼ばれた少年にハルが首を傾げる。 「おい、なんでお前はオレが知らない奴に名乗る時の名前を知っているんだよ?」 「ほえ? 違うよー、シュンはそっちの、ボクの友達の方だもん」 「は?」 ヨウヘイの台詞に、ハルは体ごとアカモリに視線を移す。 アカモリもバツが悪そうに、恐る恐るハルを見つめていた。 「ごめん、ハルちゃん。どうしても名乗りづらくて…最初に名乗りかけた時、サンたに邪魔されたのもあったし…。  も、もう一度言うね。ぼくの名前はシュン。アカモリ シュンっていうんだ」 「…そういう事は早く言えよ! オレが物凄い、馬鹿みたいじゃないかこの野郎!」 「ご、ごめんなさ〜いっ」 顔を真っ赤にして怒り出したハルに、アカモリ─シュンは昨日と同じ様に頬を思いっきり引っ張られるハメになった。 太陽が中天に差し掛かった頃。 町の外れには旅立ちの準備を終えたハルたちが居た。 「アカモリ…じゃない、シュン。オレはこっちのほうに行くけど、お前たちはどうする?」 そう言って、ハルは北を指差した。 「んと…ぼく達は一度合流しなきゃいけない人がいるから、東の方に行かなきゃいけないんだ。  だから、ここでお別れだね。ハルちゃん、元気でね」 「あぁ。こっちこそ、今日はありがとな。今度会ったら、バトルしようぜ」 「うん、負けないよっ」 二人はにっと笑みを交わす。その横ではヨウヘイとセンタが別れの挨拶を交わしていた。 「なぁ、シュン。こっち向けよ」 そう言ってハルは、普段目深に被っている帽子を取る。 さらりと軽い音をたてながら、背中ほどもある長い髪が広がった。 不意に魅せられた、少女の愛らしい姿に少年の胸はドクンと脈打つ。 「何、ハルちゃ…」 少年の頬に、少女の柔らかな唇が重なる。 悪戯っぽく笑みを向ける少女。少年は顔を真っ赤にしながらヘナヘナとその場にへたりこんでしまった。 「ああああああああああああああああああああああっ!!」 直後、奇妙な絶叫がハルとシュンの間を割って入る。 「お、お、俺のマイスウィ〜トの唇を奪うなど…許せーん!」 未だ真っ赤になったまま放心しているシュンに、センタが掴みかかろうとした。 が、あっさりと横からハルにわき腹を蹴られて吹っ飛ぶセンタ。 ヨウヘイは横目で見ながらも飛び火するのを恐れてか。見て見ぬふり。 …そんな暑い真夏の空は、どこまでも青く澄み渡っていた…