外伝 「友へ捧げし聖譚曲(オラトリオ)」  闇と静寂とが支配する森の一角。崩れ落ちた崖の下に横たわる、鮮やかな紅に濡れた小さな少年の体。 その傍らには、緑色の身体と薄羽を持った小さなポケモン。 森に命を与えると言われている伝説のポケモン─セレビィ。 「ビィ・・・」 その声は悲しそうでもあり、己の無力を嘆くような、力無き声だった。 よろよろと、傷ついた自分の身体でゆっくりと起き上がり、自分の横に転がっている少年に触れる。 何も出来ない事を思い知りながら、それでも何かにすがる様に、無心に、祈りを捧げるかのように── そして、小さく鈴の音が響いた・・・。 崩れた崖の上。そこから下を見下ろす白衣の男が一人。 忌々しげに、眼下に広がる一面の闇を睨みつけている。 その背後では、彼のポケモン達と一匹のリザードンが激闘を繰り広げている。 「チッ・・・小僧と一緒にセレビィも落ちたか。まぁいい、面倒だが下に降りるぞ。  スターミーとダグトリオはそこのリザードンを始末しておけ。その辺に転がっているガキのポケモンも一緒に、だ」 そう言って、自分が連れているオニドリルを呼び寄せようとした時だった。 男の視界の端で、闇が揺らいだ。 慌てて男は揺らいだ闇の方を向き直し、目を凝らす。 「ポケモンを始末する・・・とは、物騒ですね。出来るなら、ここで引いては貰えないでしょうかね?」 闇の中から溶け出すように、ソレは現れた。 闇色のマントを纏い、冷たく白い仮面の為か、命有る者とは思えないほどに感情の消えた声。 「な、何者だ貴様!? えぇい、邪魔者は消してしまえ、ヘルガー、ウツボット!」 何かに憑かれたように、男は咄嗟に自分のポケモンに命令を出していた。 それは、男が直感的に感じた「恐怖」に対する抵抗だったのかもしれない。 ウツボットが己の蔓を伸ばし、鞭のようにしならせながら仮面の男の体の自由を奪う。 その時を狙い済ましたかのように、ヘルガーは炎が微かに漏れ出す、凶暴な顎で首筋に牙を立てようと大地を蹴る。 仮面の男は特に取り乱すことなく、落ち着き払い、ウツボットの蔓に為されるがまま。 ただ、その場に居た。 ヘルガーの牙が、鈍い輝きを放ちながら襲い掛かる。 避けられない。 少なくとも、白衣の男はそう確信していた。この状況で、ヘルガーの牙を防ぐ術は無い、と。 その予想に反して、仮面の男の目の前の地面が突然、なんの前触れもなく隆起した。 それは跳躍していたヘルガーの腹部を、下からまともに直撃する。 哀れな獣の身体はゴムボールが弾むように宙を舞い、無残にも二度三度とバウンドしながら、大地に叩き付けられた。 「なっ・・・馬鹿なっ? う、ウツボット何をしている! 『葉っぱカッター』だ、早くしろ!!」 「・・・遅い」 白衣の男が狼狽しながらウツボットに命令を出そうとした時、仮面の男が鋭く呟く。 次の瞬間、どこからともなく降り注いだ業火に焼かれ、ウツボットは火柱を上げながら力尽きた。 「そんな、一体何が・・・」 白衣の男が空を見上げる。そこに居たのは、金色の炎を纏った巨大な鳥の姿。 それを見た瞬間、言葉を失う。 仮面の男の方に目をやると、真白い、犬とも猫ともつかない小さなポケモンが、その肩に寄り添っていた。 「そんな、そんな・・・お前は・・・お前が・・・!」 「はじめまして、私は闇神楽。貴方のような闇の底で這い回る、害虫の駆除を承っている者です」 マントを広げ、大仰なお辞儀をしながら、穏やかな口調で名乗る。 「そうそう、無駄な抵抗はもうできませんから。貴方の手持ちは、全て無力化しましたので」 パチンッ、と指を鳴らすと、残されていたダグトリオやオニドリル、スターミーがその場で力尽きて倒れた。 白衣の男の顔は蒼白。 何が起きたのか、それすら理解できずに、手持ちが全滅していたのだから。 「簡単ですよ。先程ウツボットとヘルガーを倒す時に、ついでに巻き込んだだけですから」 あくまでも穏やかな口調で、それでいて淡々と氷で出来た刃のような言葉を紡ぐ闇神楽。 その姿は、闇そのものを体現したかのような、圧倒的な存在感と絶対的な力を感じさせる。 男が呆然としていたその時、先程まで男と戦っていたリザードンが矢のように飛び出し、崖下へと飛び去っていった。 「さぁ、私達も余りのんびりするつもりはありません。幾つか・・・質問させてもらいましょうか」 その様子を見送った後、闇神楽はゆっくりと口を開く。 だが、その言葉は先程のような穏やかさは無い。 張り詰めた弓の弦のように。 研ぎ澄まされ、鮮やかな輝きを放つ刃のように。 暫しの間、沈黙が続く。 風が、流れる。 崖下から上に吹き付ける強い風。闇色のマントと、白衣が大きくはためく。 風が、凪ぐ。 沈黙は破られ、白衣の男は走り出した。半ば狂ったように。 例えそれが無駄な行為だとわかっていても。そうせずにはいられないほどの緊張を強いられていた。 「・・・無駄だ」 次の瞬間、白衣の男の動きが止まる。それはとても不自然だった。 何かに絡まったように、吊るされている様で。 「ひっ・・・な、何が!?」 じたばたともがく。もがけばもがくほど、身動きが取れなくなっていく。蜘蛛の糸に絡まった羽虫の如く。 一瞬、微かな光が男の眼に飛び込んできた。 よく見ると、男の身体には無数の細い糸が絡まっていた。 どんな材質かまではわからなかったが、大人一人を絡め、自由を完全に奪うほどの強度の糸。 「どうですか、捕らえられた蟲になった気分は?」 背後から、ゆっくりと闇神楽が近付く。 白衣の男は首だけを何とか動かし、その姿を見る。 彼の目に映ったもの。それは僅かな光を反射する幾本もの糸を、両手の指先で操る闇神楽の姿。 「流石に、こんな糸程度では人間を輪切りには出来ないが・・・貴様の指くらいなら簡単に落とせる。  どうだ、試してやろうか? お前が、さっきの少年を塵屑の如く、崖から落とした時と同じように」 明らかに怒気を含む声。直後、闇神楽の左手の指が複雑な動きを始めた。 直後、何か硬いものを、無理矢理切断するような鈍い音と共に、白衣の男の左手から小指が落下する。 一瞬後、派手に鮮血が傷口から噴き出した。 辺りに、男の絶叫が響き渡った。それは人間のものとは思えないような、筆舌に尽くし難い叫び。 「何をそんなに叫んでいる? あの子が受けた痛みは、苦しみは・・・こんなものじゃないんだ」 無造作に闇神楽が白衣の男に近寄る。 「さぁ、答えろ。貴様は何故、あの子をあそこまで追い詰めた?  何故貴様は無事なんだ? ・・・・・・・・・・・貴様にとって、ポケモンとはなんだ?」 闇神楽は徐々に早口になりながら、男に問いかけていく。 だが、男はそれに答える余裕は無い。恐怖と痛みと、逃げる事の出来ない絶望とで。 「た、助けてくれ! 悪気は無かったんだ、こうしろとめめ命令されただけなんだよぉおお!!」 男は必死で懇願する。やかましく、醜く喚き立てて命乞いを行う。 その時、闇神楽の右手にはいつの間にか、ナイフが逆手で握られていた。 それを男の左足の太ももに、無理やり捻り込む様に突き立てる。まるで猛獣が獲物に牙を立てるが如く。 「質問をしているのは誰だ? 誰が貴様に質問の答え以外の事を口にしていいと許可した?」 仮面によって隠された闇神楽の表情は余りにも冷たく、人以外のもの・・・悪魔のように見えた。 突き立てたナイフを抜く事をせず、そのまま何度も、レバーを動かすように、激しく動かす。 再び森の中を絶叫が駆け抜け、多くの鳥ポケモンがその声に怯えるように慌しく飛び去っていく。 「・・・もういい、消えろ」 ナイフから手を離し、糸が外され、男の身体が自由になる。 直後、闇神楽は右腕の裏拳で男を殴り飛ばした。 数メートルほど吹き飛ばされた男は、そのままぐったりと動かなくなってしまう。 「・・・屑が!」 強い侮蔑を込めて、吐き捨てる。 そして闇神楽は崖の方へと歩いて行く。 彼の傍らに居た白いポケモンと、金色の炎を纏う鳥は、何も語ることなく、彼に付き従っていた。 風を切り、落下するようにリザードンは闇の底を目指した。 やがて淡く小さい光がその眼に飛び込んでくる。 翼を大きくはばたかせ、速度を落としながら、リザードンが地響きと共に少年の近くに着地した。 そしてリザードンが眼にしたものは、紅く濡れ、冷たくなった少年の肉体。 それを見た途端、呆然と、力なく座り込んだ。絶望に打ちのめされるように。 少年が連れていたリザードンの姿を見たセレビィは、ただ無我夢中で。 自分の無力を知りながら、それでもその小さな体は鈴の音と共に、徐々に、高らかと謳うように強く。 それはセレビィの想いに答えるかのように、確かな力となって輝きを増す。 溢れ出した光は、少年をゆっくりと包み込んだ。 リザードンはそれを見て、再び立ち上がると、尻尾の炎をありったけの力で激しく輝かせた。 自分はココに居ると、早く戻って来いと。 時の歯車が、ゆっくりと回り始めた。 少しだけ、ほんの僅かな時間が、その場で遡る。 少年の身体だけ、崖から落ちる前の時へと返っていく。 小さな、とても小さな、大きな奇跡。 しかし、少年は目を覚まさない。 目を瞑ったまま、静かに深く眠るように。 一度失われた命を取り戻す事は出来ない。生命の理を曲げる事は出来ない。 時を自由に行き来する者ですら、その輪から外れる事は出来なかった。 セレビィは力なく少年を見つめる。 少年のリザードンは天を仰ぎ、ありったけの声で哭した。 自分達が余りにも無力過ぎて。 その時、空が金色に染まった。奇跡が、新たな奇跡を呼ぶかの如く。 不意に、セレビィの身体に何者かが触れた。 「ありがとう、あの子の為にここまでしてくれて。でもあともう少しだから、まだ頑張れるね?」 金色の輝きとは対照的な黒い衣装の闇神楽が、手にした傷薬でセレビィに応急処置を施しながら、優しく語りかけた。 少年の身体を丹念に調べるように、真白いポケモンはその上を何度も飛び回っている。 やがて闇神楽の肩に寄り添うと、耳元で何事かを囁く。 「・・・そうか、わかった。セレビィ、リザードン。ここは危険だ、まずは移動しよう。  この子は死んではいない。ちゃんと・・・心臓は動いているよ。  あとは、『心』を呼び戻すだけだ。俺達も力を貸そう・・・だから、もう一度この子の為に力を」 赤黒く染まった少年の衣服を脱がし、その弱々しい、小さな鼓動を確かめながら闇神楽は言う。 そして少年を抱き上げ、闇神楽はゆっくりと歩き出す。 力を振り絞るように、セレビィはもう一度立ち上がる。 それを真白いポケモンが支えるように、共に宙に浮かぶ。 リザードンは我に返ったように頭を振ると、確かな足取りで、力強く歩き出す。 金色に輝く空は、虹色の鳥と共に静かに闇を照らしていた。 ・・・小さな灯火は全てを照らし・・・ ・・・儚い祈りは全てを受け入れ・・・ ・・・微かな奇跡は灯台となって強い輝きを放つ・・・ ─幼い森の神は歌を捧げる─ ─天空に朗々と響くその声は、大切な者への聖譚曲─ ─もう一度、その微笑みを見たくて─