プロローグ 影が落ちてくる。 男の子は目元に涙を滲ませ、空を見上げていた。 逆光で、黒い塊にしか見えない影は、少しずつ男の子の方へと近づいてきた。 「お母さぁん……ぼくをひとりにしないでよぉ……」 ひとりぼっちで、男の子は泣いた。 母はここにはいない。その事実を認めたくなかった。 いつでも優しく接してくれる母が目の前からいなくなってしまったのを認めたくなかったからこそ、声を上げて泣いていた。 そんな時に、近づいてくるものがあった。 足音が聞こえてこないのが、せめてもの救いだったのかもしれない。 寒さと孤独に震える男の子は、一歩も動けなかった。寒さは男の子の体力のことごとくを奪い尽くしていたからだ。 ドシンッ!! 影は男の子の目の前に舞い降りた。男の子は声を失って、ただ見上げるのみだった。 目の前に現れて、影の正体が分かった。 たくましい肉体は、太陽の光を受けて黒光りしている。明らかに人間とは異なった体躯に、男の子はただただ恐怖しか感じなかった。 『それ』はまるで、絵本に出てくる悪魔にさえ見えた。 たくましい肉体は男の子から見れば山のようで、その身体をすっぽり包めるほどの一対の翼は、悪魔のそれを思わせる。 母が膝枕しながら読んでくれる絵本ではいつも、悪魔は天使に負けて消えてしまう。 だが、今回ばかりはそれを期待できないのかもしれない。 ひとりぼっちで、淋しくて、不安でたまらない心は、暗闇に塗りつぶされようとしていたからだ。 目の前にいる『それ』は、自分に何をしようとしているのか。 幼心にも、絵本とは違った展開になるであろうことが容易に想像できた。 「うわーんっ!!」 男の子は再び声を上げて泣いた。 不安な気持ちを爆発させるように、油紙に火がついた勢いで泣き出した。 別の絵本に出てくる竜に似ている『それ』は、泣きじゃくる男の子に手を伸ばす。鋭い爪が何本も光る手は、男の子に確かな恐怖を与えた。 たったひとり……ここに取り残されて、どれくらいの時間が経っただろう。 そんなことさえ分からず、母が来てくれるのを待っていた。ただそれだけのことだったのだ。 「やだよぉ、来ないでぇっ!!」 男の子は短い手をがむしゃらに振り回した。 だが、それでどうになるわけもない。 ぶつかった手など何もなかったかのように、『それ』はさらに手を伸ばしてきた。 その手が男の子の頬に触れた。 刹那―― 男の子は嘘のように泣き止んだ。 頬から全身に伝わっていく暖かさ。母の温もりに遜色ない暖かさは、凍えそうになっている男の子の心と身体を温めた。 不思議と、恐怖もなくなった。 その両手は男の子の小さな身体を包み込んで、いともたやすく持ち上げた。 「あ……」 目が合った。 山のような大きな身体。キリンのような長い首。首を男の子の目の前に持ってきて、『それ』は黒い双眸を向けてきた。 不思議と安らぐ気持ち。 少し前まで恐怖を与えていた存在とは思えないほど、優しい目をしていた。 バッ。 男の子を持った『それ』は翼を広げて、飛び上がる。 浮遊感も覚えられないほど、男の子は安心に身も心も任せていた。 温もりに満たされ、どこへ行くのかと言う不安も感じられない。 男の子は安心しきったまま、眠りに就いた。 ――気がついた時には両親が傍に寄り添っていてくれた。 母の口から聞かされた言葉は、男の子にとって信じられないものだった。 自分に安心と安らぎを与え、何処かへと運んでくれた『あの存在』はどこへ消えたのか。 目覚めたばかりで、寝ぼけ眼を擦ることもせず、男の子は両親に問い詰めた。 『あの存在』がどこへ行ってしまったのかと。 しかし―― 母は首を傾げるばかりで一向に答えてくれない。 男の子は、母がその答えを知らないということさえ考えられなかった。 それほどに『あの存在』のことが心の中を占めていたからだ。 母からすれば、息子が何を言っているのか、全然分からなかった。 山のように大きな身体? キリンのような長い首? そんなの、影も形も、見たことがない。 所詮それは幻、空想上のものだろうという風にしか思えなかったのだ。 だが、母は涙を流しながら息子を抱きしめた。 「無事でよかった……」 震える声で、耳元でつぶやく。 母の温もりの方がやはり、大きかった。 瞬時に『あの存在』の温もりが吹き飛んで、母のそれに摩り替わる。 言うことが分からなくても、母の温もりに包まれているだけで、男の子は幸せだった。 そして何年もの時が過ぎ―― 本編へと続く……