第12話 嵐の前に -Silence before...- 眼下に広がるは、カナズミシティ。 全体的に平坦なミシロタウンやトウカシティとは違い、北西部に高層ビルが屹立している。 そこを中心にして、裾野のように建物の海が広がっている、典型的な都会である。 「いやー、久しぶりだわぁ……」 アヤカは陽射しから目を守るように手をかざすと、感慨深げな声でポツリとつぶやいた。 西に陽光を照り受けて輝く海を臨むカナズミシティは、アカツキの目から見て、テレビドラマに出てくるようなアメリカの都市そのものだった。 ミシロタウンとはあまりに違いすぎているのだ。規模も、建物の高さも。すべてが。 螺旋状のランプウェイを通って、高速道路からも乗り入れができるところからして、都市としての機能というか、利便性のようなものを感じる。 アヤカはこの街で生まれ育ったのだ。 「あそこがカナズミシティなんだ……すごいなぁ、ミシロタウンとは大違いだよ」 なんて言うものの、別に都会に憧れているわけではない。 むしろ、静かに暮らせるミシロタウンの方がいいと思っているくらいだ。 初めて見た都会の街並みに感動しているに過ぎない。 「まあ、ミシロタウンから比べると喧騒にあふれる街だけど…… でもね、ところどころに散らばっているモダンな街並みっていうのも、とっても素敵よ。 夜の街角を彩る明かりは一部にガスを使用してるの。 それに、中心部を南北に貫く『レンガ通り』は、ホウエン地方の観光コースにも数えられているほどなの」 「へえ……ねえ、あのビルは?」 アヤカの言葉に相槌を打つと、アカツキは街の北西部に位置する高層ビル群の中でも、一番高いビルを指差した。 ミシロタウンではとても考えられないような高さのビルが肩を並べている中で、彼が指差したビルだけは違っていた。 高さはもちろん群を抜いていたし、それよりも印象的なのは、槍のように頂上が尖っているところだった。 あんな感じのビルは、そうそうあるものではない。 「ああ、あれね……」 アヤカはそのビルを見つめ、口の端に笑みを浮かべた。 「あれはデボンコーポレーションの本社ビルよ」 「デボン……コーポレーション?」 「あれ、知らないの?」 聞き返されたのが意外だったらしく、アヤカは眉を動かした。 「デボンコーポレーションを知らないなんて……最近の子にはあんまり伝わってないのかしらねぇ」 気づかないうちに誰もが恩恵を受けている、ホウエン地方で三本の指に入るほどの大企業である。 これを知らないというのはいかがなものかと思った。 反面、気づかないうちに恩恵を受けているのだから、知らなくても仕方がないというところもある。 アヤカは教えてあげようという気持ちが生まれる前に、口を開いていた。 「ポケナビやポケギアといった、トレーナーにとって不可欠な道具だとか、今じゃモンスターボールとか傷薬まで手がけてるわね。 もちろんポケモン関係だけじゃなくて、日常生活にも深く関わっている会社よ。 カナズミシティにあるのが本社で、他にカイナシティやヒマワキシティ、ミナモシティに支社ビルがあるわ」 「そうなんだ、すごいな……」 アカツキは感嘆の声を漏らした。 だが、デボンの名を知らなかったのは事実だ。 生活に深く関わっている会社とはいえ、十一歳の子供が興味を持つようなシロモノでないのもまた事実だった。 「ぼくにはあんまり縁のない会社なのかも」 「そうね。デボンの社員は優秀なことでよく知られているわ。 他会社からヘッドハンティングした人材使ってたりするあたりがね」 へっどはんてぃんぐ? アカツキにはあまりに難しすぎる言葉だった。 要するに引き抜きということなのだが……どう考えたところで分かるはずもなかった。 「すごい会社なんだね。デボンの社長ってどんな人なの? アヤカさん知ってる?」 「もちろん」 アカツキの問いに、アヤカは笑みを深めて答えてくれた。 「ツワブキ社長って言うんだけど、カナズミシティの出身なの。 若いうちはいろいろとご苦労されたそうよ。 んでもって、一代でデボンをあそこまで大きくしたんだから、まったくもってすごい人よ」 「そうなんだ……すごいな……」 生活全般に広く関係している会社を一代で築き上げたのだから、それはすごいという一言でくくりきれるほど凡庸な苦労ではなかっただろう。 アカツキならそんな苦労は味わいたくない。誰だってそうに決まっている。余計な苦労など背負い込みたくないものだ。 「とまあ、湿っぽい話は止めにして……行きましょっか」 「うん!!」 デボンコーポレーション・本社ビルを北西に臨みながら、ふたりは104道路を北へと歩き出した。 目の前には、カナズミシティ――最初のジム戦を控えた街がある。 「うっわー、すごいなぁ……」 カナズミシティの街中に入るなり、アカツキは驚嘆してしまった。 通りを行き交う人々は、最先端のファッションに身を包み、優雅な足取りですれ違っていく。 ミシロタウンでは到底見られないような光景が、目の前に広がっている。 十数メートルおきに、見た目でほぼ等間隔に設置されている街灯はモダンな佇まい。 夜道を照らす時を今か今かと待ち望んでいるようにさえ見えてくる。 「まあ、メインストリートだからね」 アヤカは白い歯を見せながら、辺りを見回した。 数日ぶりとはいえ、とても懐かしい。見慣れたはずの風景も、どこか余所余所しく見えてしまう。 ふたりが今歩いているのは、カナズミシティのメインストリート――こと『レンガ通り』である。 名前どおり、レンガが敷き詰められている通りだ。 見た目にも鮮やかな通りは、アスファルトのそれとは比べ物にならないほど好印象をもたらしてくれる。 初めて通ったということもあるが、それを差し引いても、アカツキには受けがよかった。 アヤカが言う分には、レンガ通りはカナズミシティを南北に貫いているとのこと。 あと、途中からデボンコーポレーション・本社ビルまでも同じようにレンガが敷き詰められているとか。 デボンコーポレーション・本社ビルに興味はあったものの、今はジム戦が先である。 「ジム戦が終わったら、見に行ってみようかな」 それに、アヤカがポケモンセンターまで案内してくれると言うので、アカツキは彼女の好意に素直に甘えることにした。 見知らぬ大都市で迷ってしまってはたまらない。 ここは嫌でも案内してもらうしかないだろう。実際は嫌じゃないけど。 カナズミジムもポケモンセンターも、レンガ通り沿いにあるらしい。 「ねえ、アヤカさん」 「ん、なあに?」 通りを歩きながら、アカツキはアヤカに尋ねた。 「カナズミジムのことなんだけど……」 「ジムのことねぇ……で、何が聞きたいの?」 「うん。ジムリーダーってどんな人?」 「そうねぇ……」 アヤカは手を口元に当てて、考え込んだ。 そんな彼女を、アカツキが不安そうな顔をして見上げていた。切実な視線を察したからだろう、アヤカはすぐに答えてくれた。 「一言で言えば、強さの意味というのを知っている人よ」 「強さの、意味……?」 「そう。いろんな意味でね」 アカツキには分からなかった。 いや、そもそも強さの意味なんて、考えたこともなかった。 ――ポケモントレーナーとしての強さ? ――人間としての強さ? ――強さに意味なんてあるの? アヤカに言われたことで、アカツキはふと考え出した。 「ぼくの求める強さってなんだろう?」 リザードンをゲットできるだけの、トレーナーとしての実力を身につけること。 それが当面の目標だ。 言い換えれば、トレーナーとしての強さを求めている、ということかもしれない。 「強さってのはね、人それぞれ違うものなの。 わたしにはわたしの強さがあるように、君には君の強さがあるものなのよ。 そういうのをよく知っている人。それがこの街のジムリーダーよ」 「……………」 それからほどなく、ポケモンセンターにたどり着いた。 さすがは大都市というだけのことはあり、建物の規模が今まで見てきたどのセンターよりもデカかった。 大きさにしておよそ三倍。 今まで立ち寄ってきたセンターは二階建てばかりだったが、ここのセンターはなんと五階建て。部屋の広さも桁が違うのかもしれない。 「うわー、でっかいなぁ」 「まあね。都市なもんだから……だけど、中は普通のポケモンセンターと大して変わんないわ」 アカツキが舌を巻いていると、アヤカはふっと息を漏らした。 ミシロタウンから来たと言うのだから、カナズミシティのような大都市に立ち寄るのは初めてなのだろう。 極度の田舎者と言うわけではないが……まあ、それに近いか。 「カナズミジムは、レンガ通りをさらに北に進むと見えてくるわ。 まあ、普通の建物と思いっきり違うから、見りゃ分かると思うけど……」 「うん、分かった……アヤカさん。今までありがとうございました」 別れの時が来たことを悟り、アカツキは礼儀正しく頭を下げた。 三日間という短い期間ではあったが、いろいろなことを教えてくれた彼女に対して感謝の意を述べるのは当然のことだ。 感謝されるようなことをしたつもりはないが、謝意は素直に受け取っておいた。 「そこまでしなくてもいいわよ。 わたしは新人トレーナーを一刻も早く一人前に育てたいって、そう思っただけだから」 アヤカはウインクを返した。 それから…… 「わたしもいろいろと勉強になったし……それに、楽しかったもの。 ジム戦、頑張ってね。応援してるから」 「うん」 「それじゃあ……」 アヤカはアカツキに背を向けて歩き出した。片手を上げて『じゃあね』というサインを残して。 彼女の姿は瞬く間に人の波に飲み込まれ、見えなくなってしまった。 「行っちゃった……」 三日間とはいえ共に旅をした仲間と別れたというのに、哀しみとか、そういうのはまったく感じられなかった。 いずれはまた会えるのだし、別れというのがそういうものだ、と知っているから。 「うん、ぼくも頑張らなくっちゃな!!」 ギュッと拳を握りしめ、顔を上げる。 そこにはあまり気の強くない男の子ではなく、ひとりのトレーナーとしてのアカツキがいた。 とりあえず、当面の宿を確保しておかなければならない。 ジム戦で勝つにしても負けるにしても、初めて訪れた都市というのを少しは見てみたいと思っていたのだ。 デボンコーポレーション・本社ビルも見に行きたいし…… とりあえず、アカツキはポケモンセンターに入ると、一直線にカウンターへ向かった。 さすがは大都市のポケモンセンター。 ただっ広いロビーに並べられた椅子には老若男女、豊富な取り合わせのトレーナーがたむろしていた。 「ジョーイさん。今晩、泊まりたいんですけど……」 「分かりました」 アカツキの申し出を、ジョーイは相変わらずの笑みで承った。 カウンターの奥の壁に無数に掛けられている鍵の中からひとつを取ると、アカツキに手渡した。 「あなたの部屋は四階になります。 ポケモンの回復はしなくてもよろしいのかしら?」 「はい、大丈夫です。それじゃあ」 ぺこりと頭を下げると、アカツキはロビーを後にした。 ロビーの脇にあるエレベーターに乗って、自室へと向かう。 その間、窓の外に広がる景色に目を奪われることもなく、ただひとつのことを考えていた。 ――これからの、ジム戦のことだ。 それだけがさして大きくもない胸を埋め尽くしている。これ以外のことはまるで考えられないほどに。 いつたどり着いたのかも分からないうちに部屋の中に入り、ベッドに身体を投げ出す。 晴天のような瞳が天井の一点に向けられた。 「初めての、ジム戦……」 ポツリと漏らす言葉。 だが、その言葉には何かしらの重みが宿っているように思えた。 後々考えてみれば、それはプレッシャーだったのかもしれない。 これから戦うことになるジムリーダーは、今まで戦ってきたどのトレーナーよりも強いのは間違いない。 どんなポケモンを使ってくるかも分からない。 その上、手の内さえ見えていないのだ。 圧倒的不利な状態で戦わねばならないのは当然だ。受け入れなくてはならない。 「でも、勝ってみせるもん」 始める前からあきらめるなんて大嫌い。 それはアカツキのポリシーだったし、ある意味アイデンティティでもある。 それを捻じ曲げてまで別の道を探ろうなどという考えはありえない。 どんな相手が出てきたって。どんなに苦しくたって。絶対に勝ってみせる。 胸の内で渦を巻く意気込みを、拳をギュッと握ることで形にする。 そうでもしなければ、襲い掛かってくる重圧――相当なプレッシャーに負けてしまいそうだ。 「ぼくも、みんなと一緒に戦うんだから。勝てるよね……」 腰にぶら下げたモンスターボールに入っている三体のポケモンの顔を脳裏に思い浮かべる。 ポケモンバトルというのは、ポケモンだけが戦うものではない。ましてトレーナー同士の駆け引きでもない。 ポケモンとトレーナーが一体になって戦うものだ。 だが、ある人は、それは詭弁だと一笑に付した。 痛みを味わうのはポケモンであり、トレーナーではないから、と。 確かにそれはそうだが、苦難を分かち合うからこそ、ポケモンとの絆が深められ、痛みも軽くできる。 アカツキがそんな大人びたところまでは知る由もない。 ただ、ポケモンバトルというのはポケモンとトレーナーが一緒になって戦うという考えしか抱けなかった。 でも、それでいいのだ。 それ以上を求めたところで、満足できる答えなど見出せないに違いないのだから。 「バトルするんだったら、やっぱりアリゲイツが一番手かな……」 一段階の進化を経ているだけに、実力はアリゲイツがぶっちぎりでトップだ。 長い間一緒に暮らしてきたから、アリゲイツのことは誰よりもよく分かっている。 しかし問題はアチャモとジグザグマだ。 相手の相性に対して有利になればいいが、そうでなければ一段と苦しい戦いを強いられてしまうのは目に見えている。 二体ともつい最近仲間になったばかりなので、あまり鍛えることができなかった。 それは寄り道を潔しとしないアカツキの明らかなミスだった。 とはいえ、今さら過去のことや仮定を並べ立てたところでアチャモが進化してくれるわけでもない。 そんな状態だから、逆に言えばアリゲイツが戦闘不能になった途端、断崖絶壁に追い詰められるような状況になるのは間違いない。 「そうなったって、絶対あきらめたりしないさ」 アカツキは心の奥底に芽生え始めた不安を掻き消すように、声に出すと、ふっと息を吐いて目を閉じた。 今までに戦ってきた人の顔が浮かぶ。 ポケモンブリーダーのセイジ。 マグマ団(?)の女性。 ダブルバトルをしてくれたアヤカ。 旅に出て六日目。戦ってきた相手は決して多いとは言えない。レベルアップも劇的とはとても言えない。 それでも、チャレンジすることに決めたのだ。 シッポを巻いて逃げ出すなんて死んでもしたくない。 窓を開け放っているわけでもない室内は、不気味なほど静かだった。 自分の呼吸している音しか聞こえない。 それは、もしかしたら「嵐の前の静けさ」って呼ぶのかもしれない――アカツキはそう思った。 ジム戦という嵐の前の静けさに包まれてはいるものの、彼の心が落ち着くはずがなかった。 アヤカは自宅に戻るなり、妹のいる場所に顔を出した。 「やっほー、たっだいま〜」 体育館を思わせるような大きな広間には、ゴツゴツの岩とかが剥き出しになっている。 まるで洞窟の中にいるように思わせる造りだ。 お世辞にも女性に不似合いな場所ながら、彼女はそれを感じさせないほどの雰囲気を漂わせていた。 「お姉様……お帰りになっていたのですか?」 「あのねぇ……」 姉の姿を認めると、彼女は小走りに駆けて来た。 開け放たれた窓際のカーテンは爽やかな風に小さく揺れている。 しかし、その程度の風でも砂埃は立ち、可憐な彼女の肌や服を撫でては汚していく。 アヤカは後ろ頭をポリポリと掻きながら―― 「わたしに対してまでそんな口調することないじゃない。 あなたっていつもそう。 丁寧な口調というのは別に悪いことでもなんでもないけど…… わたしにまでそんな口調使う必要なんてないってば。いい加減、そのクセ直しなさいよ」 「そうなんだけど……どうしても治らなくて」 「病気じゃないの? それ……」 アヤカの突っ込みに、妹は苦笑した。 確かにこれは病気なのだろう。 敬語が直らない……まあ、直す必要などないのかもしれないが、それでも自分に対してくらいは普通に話して欲しい。 姉として、笑えるような切実さがにじむ話だ。 アヤカの目から見た妹は、数日前とまるで変わっちゃいない。 まあ、たかが数日で変わってしまうような妹ではないし……そんな主体性のない生き方を望むような妹でもない。 彼女とお揃いの茶髪で、背中にまで伸びた髪をリボンつきのヘアピンで留めている。 ブルーグレーが基調の、制服のような服装だが、温和な顔立ちと雰囲気に妙にマッチする。 背はそれほど高くないものの、スラリと引き締まった身体つきは、内面の強さを外面に押し出しているようにさえ思える。 アヤカは腰のモンスターボールを手に取って、妹に差し出した。 「ほら、あなたが欲しがってたキノココ。ゲットしてきたわよ」 「わぁ……ありがとう!!」 先ほどまでの敬語はどこへやら。 妹は瞳を輝かせ、十六歳という年齢を感じさせないほどに子供っぽさを露にした。 アヤカから受け取ったモンスターボールを頬にぴたりとつけ、目を閉じる。 そうすることで、ボールの中にいるポケモンと心を同調(シンクロ)させるんだと、彼女が言っていた。 「ま、だからあんなにすぐ懐くんだけどね……」 妹のポケモンの懐き具合は、自分のそれと比べ物にならない。 比べるのが恥ずかしいくらいだ。 それをアヤカは自覚していたが、だからといって妬んだりすることだけはなかった。 「どうだった? トウカの森は」 「そうねぇ。雨模様に雷がプラスってところかしら」 「?」 アヤカが白い歯を見せながら言うと、妹は首を傾げた。 今の言い方だと、まず要領を得られない。 回りくどいというか、たとえ話にしても分かりにくいことこの上ない。 そんな妹の心中を察してか、アヤカはちゃんと言葉を継ぎ足した。 「面白い男の子(コ)、見つけちゃったの」 「面白い子?」 怪訝そうな顔をして、眉をひそめる。 「そう」 笑みを崩さず、アヤカは頷いてみせた。 「まさかと思うけど、その子に変なこととかしてないでしょうね?」 「しないわよ。なんでわたしがそんなことする必要があるわけ?」 「……面白いって言ったじゃない」 「ああ、それはトレーナーとして面白いってだけ」 「そう。それならいいけど」 アヤカの裏の一面(?)を知っている妹は、彼女が別段何もしていないことを知ると、ホッと胸を撫で下ろしていた。 「わたしがいない間、チャレンジャーは来たかしら?」 「ええ。昨日、ひとり。 女の子だったんだけど、これがまたえらく強くてね。不覚にもノズパスがやられてしまったのよ」 「へえ、自慢のノズパスが?」 「相性が悪すぎるのよ」 眉を上げ下げしながら問い掛けてくる姉から目をそらし、妹は悔しげに吐き捨てた。 「ヌマクローなんて連れてたんだもの……相性の悪さは筋金入りよ」 「まあ、そうでしょうね」 ヌマクローという名を聞いて、アヤカも納得したようだった。 妹の扱うポケモンにとって、相性が悪すぎる。 半ば最悪と言っても差し支えないほど、ヌマクローのタイプはノズパスにとって天敵と呼べるものだった。 とはいえ、妹がそう簡単に負けるはずがない――と思うのもまた当然のことだ。 自分がみっちりバトルを仕込んだのだから、並のチャレンジャーなどものの一分で撃退できるだろうに。 まあ、強いトレーナーというのは上を見れば限りなくいるものだから、一概に妹の負けを責めるのは筋違いに決まっているが。 「でも、ああいうトレーナーにこそ、このバッジがふさわしいと思えるの」 妹は懐からバッジを取り出した。 三角形の岩をふたつ合わせたようなバッジは、天井から降り注ぐ照明を照り受けて、鈍い銀色の光を放っていた。 「ヌマクローねぇ……ヌマクローって言ったらミズゴロウの進化形じゃないの。 ミズゴロウだったら勝てたかもしれなかったわね」 アヤカが口元に手を当てると、妹はただ頷くばかり。 ――結果はきっと同じだった。 たとえ相手のポケモンが進化前だとしても、結論は変わらなかっただろう。 いや、少しは上向きに作用したのかもしれない。 しかしながら、その上向きというのが一体どれほどのものか、考えるだけ無様になってくる。 「ここも変わりなくてよかったわよ」 「そりゃ数日で変わるような場所じゃないもの。だって、お爺様の時代から、数十年も前から変わっていないのに……」 妹はため息を漏らし、ぐるりと視線をめぐらせた。 岩盤質の地面と、地面から突き出した数十個の岩。 実に無機質なところだが、それでもアヤカも妹もこの場所をとても気に入っている。 「まあ、ここがわたしの家だし、ホームグラウンドだものね」 妹は、つぶやくアヤカの目に懐かしさに似た色が浮かんでいることに気づいた。 それも無理はない……ほんの数ヶ月前まで、アヤカは自分の代わりにここを守っていたのだ。 海山百選のトレーナーから、今、自分が手にしているバッジを守るために。 そう、トレーナーズスクールに通っていた自分に代わって。 今自分がかつてのアヤカの立場にいるのは、彼女自身がそれを望んでいるからだった。 当たり前のように受け入れている――というと語弊があるかもしれない。 自分が望んでいる。それは当たり前のように受け入れているとは明らかに違うものだ。 前者は自分からこうあることを望み、後者は他人から押し付けられている。 受け身でないだけ、しっかりしていられるものだ。 「そうだ。言い忘れてたけど」 「うん?」 アヤカの一言がきっかけになったのかは、妹にも分からなかった。 気がつけば、手にしていたバッジを懐にしまいこんでいる自分。 「もうすぐ新しいチャレンジャー来るわよ。しっかり準備しとかなくちゃね。 昨日の二の舞だけは避けたいでしょ?」 「もちろん。 ……で、新しいチャレンジャーが来るって、どうして知っているの?」 「そりゃ、雨模様にプラスって言ったでしょ。あの時出会った子だもん。 ほんと、一時間もしないうちにきっとやってくるわ」 なるほど…… 妹は口の端に笑みを浮かべた。 アヤカがトウカの森に行った時に出会ったトレーナーが、次のチャレンジャーになるということか。 まあ、それはいい。 誰が相手であろうと、自分に課せられた任務に恥じない戦いをすればいいだけの話だ。 握り拳に込もる力も自然と大きくなる。 次のバトルで『敗北』という汚名を返上したいということで燃えている妹。 微笑ましいものが目の前にあるような眼差しで見つめ、アヤカは微笑んだ。 「男の子でね、トレーナーになって六日目だって話してたわ」 「六日目?」 アヤカがポツリと漏らすと、妹は目を剥いた。 常に冷静であることをウリにしている彼女らしからぬ醜態だ。 もっとも、醜態と呼べるレベルかどうかは、考えるだけナンセンスに違いない。 「以前、私が負けたトレーナーも、同じようなことを言っていたわ。ミシロタウンから来たと」 「へえ、同郷なんだ。こりゃ面白そうじゃない」 アヤカは笑みを深めた。 次のバトルが楽しみでしょうがない。 三日間という短い間ではあったが、共に旅をしてきた男の子の顔を頭に思い浮かべる。 決して意志が強いわけではない瞳。 だが、そこにはあきらめの悪さという長所と言うか短所と言うか……どちらにも取られかねないモノが宿っているように思える。 だが、そういう目をしたトレーナーの方が、アヤカにとっては魅力的だ。 プラスの要素だけ見ればいつか壁にぶち当たる。だが、マイナスを加味し、二者をミックスしたなら? それこそ無限に広がる宇宙のようではないか――? 「でも、六日目のトレーナーが私と勝負できる強さを持っていればいいのだけど」 妹は何度目かになるため息を漏らした。 「でもね、意外と楽しめるかもしんないわよ」 「意外と?」 「そう。意外とね」 姉の浮かべる笑みの意味するところが分からず、妹の顔は怪訝にゆがんだ。 せっかくの整った顔立ちも、一気にシワが沸いて出て台無しになってしまう。 そんなこと、妹は気にもしていないようだったが。 「わたしはね、彼のようなトレーナー、とっても好きだから。 もちろん恋愛感情なんか抱けるような魅力はないけど……トレーナーとしてなら、魅力的だと思うよ」 自分に見せた満面の笑み。 初めてポケモンを――ジグザグマをゲットした時に見せてくれた満面の笑みは、目を閉じても瞼の裏に焼きついて離れないでいる。 いつかわたしにもそうやって素直に喜んでた頃があったものね――アヤカは柄でもないと自覚しながらも、そんなことを思った。 ポケモントレーナーであれば、誰もが一度は経験するもの。 それはポケモンをゲットすることであったり、バトルを繰り広げることであったり。 紙一重の勝利と敗北を味わうことであったり、栄光と挫折だったりする。 彼はまだそのいくつか――無限にも等しい数のほんの片隅にしか手を触れていない。 これからだ、というのは分かっている。 アヤカは彼に早く一人前のトレーナーになってもらいたいと思っている。 なぜだかは分からない。 トレーナーとしての魅力を感じたから……理由を形にできるなら、そう書き綴るのかもしれない。 「君にとってこのジム戦が実り多きものになればいいわね」 ポツリと漏らした小声の言葉は、虚空に吸い込まれて消えた。 何か言った――? 妹が向けてくる視線をそう解釈しながらも、それ以上は言わない。 「…………?」 風が止まった。 妹は天井付近の窓を見上げた。 先ほどまで風になびいていたカーテンが、金縛りにでも遭ったように、一センチも動かない。 「風、止まったわね」 アヤカも妹と同じくらいの位置に視線を向けた。 「こういう状況を如実に表した言葉、あるわよね」 「嵐の前の静けさ……まさか、これからここに嵐がやってくるとでも?」 「可能性はあるでしょ。否定するのは、あなただって嫌なんだから」 「そりゃ、そうだけど……」 妹――カナズミジムのジムリーダー・ツツジは腰のモンスターボールをひとつ手に取ると、目を閉じた。 「お姉様がここまで言うくらいだから、きっとおもしろいトレーナーがやってくるんでしょう」 声には出さず―― これから始まるバトルに微かな期待を抱いていた。 「……あれ?」 間抜けな声を上げて、はたと気づく。 知らないうちに眠っていたらしい。 閉ざされた瞼を押し開く。 つい先ほどまで見ていた天井が瞳に映った。 上半身を起こし、アカツキは壁にかけられた時計を見やる。 短針がひとつ分も動いていない。それほど時間は経っていないようだった。 「眠っちゃったんだ……はは、ぼくって寝ぼすけさんだよね」 ミシロタウンにいた頃もそうだった。 ユウキと朝から遊ぶ約束をしていても、痺れを切らしたユウキがアカツキの家まで押しかけてくるまで眠りこけていたことさえあった。 何気に、自他共に認める寝ぼすけさんだったりするのだ。 「でも、おかげで落ち着けたよ」 自分でも信じられないくらい、心の中には小波さえ立っていなかった。 無の境地にいるように、無風の荒野にひとり立っているように、ただ静けさだけを感じている…… これからジム戦に向かうのだ。 想像を絶するバトルが待っているのは間違いない。嫌でも心が弾んでいるはずだ。期待にしても、不安にしても。 それなのにどうだろう……こんなに落ち着いている。 感情が錆びついたような気もしたが、今のアカツキにとって、そんなのは取るに足らない些細なものだった。 ジム戦に勝つ―― ただそのことのみを胸に刻み、ベッドを降りた。 リュックを背負い、いつの間にか脱ぎ捨てていた帽子を前後逆にかぶり、無言で部屋を後にする。 まだ昼時だからだろうか、誰もいない廊下をひとり歩く足音だけが虚しく響いている。 窓から差し込む陽射しが生温い。 アカツキは腰のモンスターボールに触れた。 数え間違えるはずもない、三つ。 アチャモ、アリゲイツ、ジグザグマ。 大切なパートナーであり、仲間だ。友達だ。家族だ。 エレベーターで一階に下りても、カウンターには寄らなかった。ジョーイに回復させてもらう必要がないと感じていたからだ。 バトルをしたわけでもなし、腹痛を訴えかけられたわけでもなし。 三体とも万全な体調であることをアカツキが一番理解している。なら、回復させてもらう必要などない。 自動ドアを抜け、外へ。 向かうはカナズミジム。 顔を上げ、悠然とした足取りで、カナズミシティのメインストリート『レンガ通り』を北へ向けて、歩き出した。 絶対に勝つ―― 決意を知らしめるように、ギュッと拳を握りしめた。 第13話へと続く……