第14話 強くなるための方法 -Way to be strong- どうやってここまで戻ってきたのか、アカツキは覚えていなかった。 気がついた時には、今晩寝泊りをするポケモンセンターの自室……そのベッドの上で、膝を抱えながらぼろぼろと涙をこぼしていた。 頬を伝い落ちていく涙は、ふとんに丸い染みを作っていく。その数は時が経つごとに増えていくが、数分もすれば乾いて消えてしまう。 どれだけの涙を流したのかも分からない。 腰にモンスターボールがない辺り、自分でも気づかないうちにジョーイに預けていたのだろう。 部屋の中には自分ひとりだけ。 窓は閉めっぱなしで、ドアには鍵がかかってある。 ひとりになりたい……と特に意識したつもりはないが、状況だけ見れば、第三者にそう思われてしまうのも仕方がなかった。 「ホントにこんなんで、旅なんて続けていけるのかな……」 先ほどのバトルの光景を思い出す。 カナズミジムのジムリーダー・ツツジとのバトルだ。 一体目、イシツブテは奇策を用いて倒すことができた。 だが、二体目――ノズパスにアリゲイツ、アチャモと立て続けに倒されてしまったのだ。その結果、アカツキは敗北した。 岩石封じという技自体が強力すぎた――と言ってしまえば、それまでかもしれない。 ノズパスにも、多少のダメージは与えられたのだろう。 しかし、倒すまでは至らなかった。どんなにダメージを与えても、倒せなければ同じことだ。 バトルに負けたと分かった瞬間…… 自信――と呼べるほどのモノではなかったかもしれない――が脆くもガラスのように崩れ落ちていく音が聞こえた。 あんな負け方をしたのがショックだった。 岩石封じという技でアリゲイツもアチャモも、倒されたも同然だ。 アチャモは岩石封じ一発でやられた。正確には、戦闘不能になる寸前にアカツキがボールに戻したのだが、同じことだ。 アチャモの苦しそうな顔を見て、正直に思った。 あんなにアチャモを苦しめて、本当にいいんだろうか……アカツキは人間性とトレーナーとしての性分の板挟みになっていた。 どちらも選びたい。でも選べない。 どちらも手放したくないから、苦しかった。 「自信、無くしちゃったよ……」 一体どんな自分に自信を持てばいい? 分からなかった。 バトルに負けた自分。アチャモをあんなに苦しめてしまった自分。そのどこに自信を見出せばいい? 問い掛けるだけ無駄だと分かっている。 答えなど出ないに決まっているのだから。 でも…… 「このまま、終わりたくなんてないのに……」 負けたまま終わるのだけは嫌だ。やる前からあきらめるのももちろん嫌だが、一度も勝たずにあきらめるのは、負けを認めるのと同じだ。 負けず嫌い――本人はあんまり自覚していない――のアカツキとしては、それだけは何があっても納得できない。 勝負を捨てるつもりは毛頭ないが、チャンスを拾うことができないでいた。 ツツジには勝ちたいとは思っている。 だが、勝つ方法が見当たらない。 イシツブテなら何とか倒せないこともないが、問題はノズパスだ。 「あんな技……どうやって避わせばいいんだよ……分からないよ」 地面から岩の柱を突き立て、対象を閉じ込めることで動きを封じ、さらにダメージまで与えてくる、ある意味で凶悪な技だ。 そんな技をどうやって覆していけばいい? あるいは避わすのもいいだろう。 どちらにせよ、ノズパスの攻撃手段は岩石封じひとつではない。 岩の柱を粉々に粉砕する威力を持つ電磁砲も、脅威だ。 そのどちらの技も攻略する手段が見当たらなければ、ツツジに勝つことはできないだろう。 いくら考えてみても答えが出なくて、何気なく顔を上げると、窓の外の景色が視界に入った。 名も知らぬ鳥が二匹寄り添って、『ぴーぴー』と甲高い声でさえずっている。 「ホントにぼく、勝てるのかなぁ……」 ツツジに一泡吹かせてやりたい気持ちは確かにある。 だが、その気持ちを行動に移すだけの手段が見当たらないのだ。手段さえあれば、アカツキは今すぐにでも飛びつくことだろう。 それくらい、気持ちは不安定だった。 勝てないバトルというのは存在しないと、アヤカがいつかそう言ってくれたのを覚えている。 それでも、今の自分では勝てない。間違いないと理解できるくらいだ。 「何か、足りないのかな……」 ポケモンバトルの実力が足りないのは、嫌と言うほど痛感した。 キャリアの差は、生半可な努力では決して埋められない。ある程度はなんとかなるだろう。だが、それ以上は…… 「もっと実力磨いてから来ればよかったのかなぁ……」 いきなりジムに挑戦するなんて止めておいた方がいいんじゃないの――? これもまた、アヤカが言っていた。 ジムリーダーは弱いトレーナーなどでは決してない。新米トレーナーがほいほい勝てるほどジム戦は楽なモノではない。 暗にそういうことを伝えたかったのかもしれない。 それが敗北という形で伝わったのだから、滑稽な皮肉もここまで来ればお笑い種にしかならない。 アヤカの忠告に素直に従っていたら、ここまで落ち込むことも、あるいはなかったのかもしれない。 そう思うと、悔やんでも悔やみきれなかった。 負けたことは悔しい。 だが、あんな負け方をしたのがあまりにも悔しすぎる。 『黒いリザードン』をゲットするためにはそれ相応の実力を身に付けなければならない。 リザードンという種のポケモンは一般的に気高く、それでいて気性が荒い。 自分を操るに相応しいと認めたトレーナーの言うことしか聞かないとさえ言われているほど、プライドの高いポケモンなのだ。 そのリザードンをゲットするためには、ポケモンバトルの腕を磨くしかない。 腕を磨くなら、旅の途中でいろんなトレーナーと戦って、あるいは各町のジムに挑戦することもあるだろう。 アカツキは早くリザードンをゲットしたいという焦りがあった。 だから、いろんなトレーナーと戦うところを素通りして、ジムに挑戦してしまったのだろう。 浅はかと言えば、そうかもしれない。 だが、これはひとりの男の子としての、あまりに純粋すぎる夢への階段でしかないのだ。 螺旋階段などというものよりも、ずっと性質の悪い……無限に続く回廊にも似た迷路だ。どうにかして、脱け出さなければ。 「負けたままで終わらせたくなんかないんだ……!!」 ギュッと、アカツキは拳を握りしめた。 固く、固く、何よりも固く、力を込めて。骨が折れても構うものか。 この気持ちを支えられるだけの何かに縋れるなら、それでいい。 ……負けたくない!! その気持ちに呼応するかのようなタイミングで、ドアを叩く音が耳に入った。 ゆっくりと、アカツキはドアの方に首を向けた。 一体誰だろう……? わざわざ自分を訪ねてきてくれるような人が、この街にいるとでもいうのだろうか。 返事をするかしないか、決めかねていた時だった。 後の彼の行動を決定付ける言葉がドアの向こうから聞こえてきた。 「アカツキ君、いるんでしょ? アヤカだけど」 「アヤカさん?」 アカツキはベッドから飛び降りると、入り口まで走っていった。 服の袖で涙を拭って、鍵を開ける。 「入るよ?」 「うん」 律儀にも、ちゃんと許可を取ってから、アヤカは部屋に入ってきた。 別段、彼女に変わった様子はなかった。口元に笑みを浮かべている。 そのあたりは旅をしている時によく見せてくれる表情だった。 アカツキとしても特別な感情は抱かなかったのだが、どうしてここに来たのかが分からない。 負けたことにショックを受けたのを察して、心配して様子を見に来てくれたのだろうか? 「どうしてここに……?」 「君とね、話がしたくて」 「話……って?」 「とりあえず、ここで話すのもなんだから、奥、入らせてもらうけど」 「うん」 アカツキはアヤカを伴って部屋の奥へ戻った。 アヤカはベッドの傍にある椅子に腰を下ろした。それから右腕を机の上に投げ出す。 およそ女性の仕草とは思えないが、そんなことはどうでもいい。 「あの、アヤカさん。話って……なんですか?」 アカツキの声には抑揚がなかった。 落ち込んでるのね……まあ、無理もないけど――アヤカは元気のなさそうな彼を見つめ、ふっと息を漏らした。 「ツツジに負けて、悔しい?」 「うん……」 「落ち込むだろうな、とは思ってたわ。だけど、ちょっと落ち込みすぎなんじゃない?」 落ち込みすぎ……そうだな、そうかもしれない。 アカツキはアヤカの言葉を反芻し、胸中で頷いていた。 ツツジに負けたのが悔しい。 それだけは疑いようもない。 アカツキが悔しさを押し殺しているのを見て、アヤカは火に油を注ぐかもしれないと思いつつ、訊ねてみた。 「わたしがツツジの姉だって知って……騙された、とかって思った?」 「ううん」 「そう……それならいいんだけど……」 アヤカが意外に思ったのは、自分がツツジの姉だということを、ジムに来た時まで隠していたことについて何も言ってこないところだった。 普通なら、こう言われても不思議じゃない。 『ぼくのこと、いろいろとツツジさんにしゃべってたんでしょ? ぼくのポケモンとか、戦い方とか……そんなの、卑怯だよ!!』 でも、アカツキはそんなことは言わなかった。 言いたい気持ちはあったが、そんなことをしたところでアヤカが傷つくだけだろう。 それに、彼女はそんなことをするような人じゃない。 三日間共に旅をした中で、彼女の人となりは分かっているつもりだから。 「素直には信じられないだろうけど……君のことは別にしゃべってなんかいないわ。 おもしろい男の子と出会った……せいぜいがその程度よ」 「分かってる」 「ふーん……」 意外とホネがあるかもしんない。 アヤカはアカツキのことを少しプラスに評価した。 バトルで負けたことに対して、あまりに落ち込みすぎているのはマイナスに働くだろう。 だが、自分のことを素直に信じようとしてくれているのが分かるから、そのマイナスも相殺される。 自分を見つめるアカツキの瞳は、忘れ物――そう、なくてはならないほど大切な忘れ物だ――を捜して学校に戻ってきた生徒に似ている。 探しているものがあるのに見つからない。そういった寂しさを宿した瞳だ。 ただ、顔を下げているから、真正面から見てくれないのがちょっと寂しい。 「わたしが言うのもなんだけど、君はツツジ相手によく戦ったと思う」 アカツキは顔を上げた。 上目遣いだった視線も、まっすぐ彼女に向けられている。 「トレーナーになりたての子がね、ツツジに挑戦してくることって、よくあることなんだけど…… コテンパンにやられてね、自信なくしてね、二度とトレーナーになるもんかって、そう思う子も、現実にはいるの」 「…………」 どうしてそんなことを話し始めたのか、アカツキには分からなかった。 いきなり挫折した人の話などして、何になるのか。分かるはずもない。 「そんな子たちから比べたら、君はまだ強いトレーナーだと思うわ。 その子たちは、イシツブテに一撃加えることもできなかった。 だけど、君はノズパスまで引きずり出してきた。 ねえ、覚えてる? アリゲイツに最後に指示した技、電磁砲って言うんだけど……」 アカツキは顔をそらした。 そういうところに触れられたのが、とても嫌だったらしい。 アヤカも彼の気持ちは分かっているつもりだ。 自分のポケモンをノックアウトした技など、覚えていたくもないだろう。 だが、そんなことをいちいち嫌がっていたら、いつまで経っても一人前のポケモントレーナーにはなれない。 負けは決して無駄なものではないのだ。 負けることで知ることもある。見えてくるものもある。 それに……人はずっと勝ち続けることなどできないのだ。いつかどこかで必ず負ける。負けを知らない人間は、決して強くなどない。 アカツキを一日でも早く一人前のポケモントレーナーに育てたいと思っているアヤカは、心を鬼にして言葉を紡いだ。 「電磁砲……電気タイプの大技よ。岩タイプのノズパスは水タイプが弱点。それは分かってるでしょ?」 「うん……」 「水タイプの弱点は電気タイプ。これも分かってるわよね?」 「うん……」 「相性の不利なポケモンが出てきても、その相性をひっくり返して勝つための戦術……それが、あの電磁砲なの。 苦手なポケモンに一方的に攻撃されて負けるってのは、誰だって嫌だもの」 「うん……」 心を鬼にしていることが伝わったのか。 アカツキは俯いて、小さな声で返事をするばかり。 ツツジとバトルする前と比べたら……なんという落ち込みようか。 負けず嫌いなのはいいことだが、こうまで落ち込まれると、アヤカとしてもどう励ましていいのやら…… だから、角度を変えて問いを投げかけることにした。 「ねえ、アカツキ君」 心を鬼にした先ほどは厳しい口調だったが、今回は優しい声音で話しかける。 アカツキが弾かれたように顔を上げた。 「シンプルに質問するわ。イエス、ノーのどちらかで答えてちょうだい」 「うん」 嫌だ――と言わなかっただけ、まだ救いようがあるかもしれない。アヤカは彼に期待を抱けた。 「ツツジに……勝ちたい?」 「うん!!」 アカツキの声は、意外と大きかった。 落ち込んでいるとはとても思えないほど。それくらい、ツツジに勝ちたいという気持ちがあると分かった。 「だって……負けたまま、終わらせたくなんか、ないもん」 「そう……よく言ってくれたわ」 アヤカはおもむろにアカツキの肩をポンと叩いた。 きっとイエスと答えてくれると、思っていたのだ。 万にひとつノーと答えたら、その時は本気で彼を見捨てるつもりでいた。 戦う意志を持たないトレーナーに救いの手を差し伸べたところで、つかんでもらえるわけがない。 なら、はじめから救いなど与えない方がマシだ。 しかし、アカツキはまだ戦う意志を捨てていない。 負けたまま終わらせたくないという気持ちが、アヤカにもビンビン伝わってくる。 「君のバトルを見てるとね、バトルの運びだとか技の指示とかはまあまあ…… 出会った頃よりはマシになってるのよ。 相性も少しは分かってるみたいだし…… あ、そうだわ。炎タイプが岩タイプを苦手としてるってのは知ってる?」 「うん……でも、ジグザグマを出しても、同じだと思ったから」 「そうね」 アカツキの答えに、アヤカは頷いた。 確かにその通りだったからだ。 岩タイプは名前どおり硬いポケモンが多い。 ノーマルタイプであるジグザグマを出したとしても、効果の薄い技しか扱えないのではアチャモと変わらない。 結局のところ、アチャモを出そうがジグザグマを出そうが五十歩百歩だった、ということだ。 「なら、わたしについてきて。君をトレーナーとして、少しでも強くしてあげるわ」 そう言うと、アヤカは立ち上がり、アカツキに背を向けた。 「うん……お願いします」 アカツキは決して小さくない声で答え、立ち上がった。 他人に頼らなければならないのは不本意だが、贅沢も言っていられないだろう。 負けたままで終わりたくはない。 少しでも他人の力を借りて――それでも主体となるのはアカツキ本人であるに違いないが――勝利した方がいいに決まっている。 アヤカのことだから、特訓でもしてくれるのだろう。 そう思ったアカツキはリュックを背負ったが、 「あ、そうそう。リュックは要らないから」 「え?」 アヤカが振り返って、アカツキの背中からリュックを下ろすと、ベッドの上に置いた。 「どういうこと? 特訓するんじゃ……」 「間違いじゃないけど、とりあえずこれは要らないわ。さ、行くよ」 疑問に答えることもなく、アヤカは歩き出した。 アカツキはちらりとリュックに目をやると、彼女の後について歩き出した。 廊下を抜け、エレベーターに乗り一階へ。 アヤカの後について行って、たどり着いたのはジョーイのいるカウンターだった。 「この子のポケモン、回復は終わりましたか?」 「ええ。こちらに」 ジョーイはすぐ後ろにある棚からモンスターボールを三つ手に取ると、カウンターの上に置いた。 「あら、ジグザグマまで回復させちゃったの?」 「うん。よく覚えてないけど……」 「ふふふ……」 笑うアヤカを尻目に、アカツキはジョーイに礼を言いながらモンスターボールを受け取った。 アチャモ、アリゲイツ、ジグザグマ。 大切な仲間の入ったボールだ。 だが、今のアカツキにはそのボールがとても重く感じられた。 バトルで苦しめてしまったという後悔というか、後ろめたい部分があったからだ。 「ほら、ぼけっとしてないで、行くわよ」 「う、うん」 まじまじとボールを見つめているところにアヤカの鋭い一言が飛んできて、アカツキは彼女と共に再び歩き出した。 ポケモンセンターを出ると、そこに広がるのは『レンガ通り』。 どこへ行こうと言うのか――アカツキには想像もつかなかった。 だが、自分をトレーナーとして強くしてくれるのなら、どこだっていいと思っていた。 だから、アヤカの後を黙ってついていった。 「ぼくが強くなれば、アリゲイツたちもあんなに苦しむことはないんだ」 トレーナーとして強くなって、もっとバトルを上手にできるようになったら。 少なくとも今よりはアリゲイツたちを苦しめることもなくなるだろう。 ふたりが歩いている方向は南だった。南北を貫く『レンガ通り』で、ジムのある方向とは逆に歩いているから、南しか考えられない。 だが、南に何があるというのか。 さすがに気になって、アカツキはアヤカに尋ねた。 「アヤカさん。ぼくたち、どこへ行くの?」 「よく訊いてくれたわね」 しかし彼女は立ち止まることなく、振り返りもせず、歩きながら答えてくれた。 「君がこれから向かうのは、ポケモントレーナーズスクール……通称スクールという場所よ」 「ポケモントレーナーズスクール……?」 「そう。 将来ポケモントレーナーを志す、君くらいの子とか、もっと年下もいるかな…… そういった子たちが通う、まあ、ポケモンのことをいろいろと教える学校なの。 ホウエン地方で唯一、カナズミシティにだけある学校よ」 「学校……ぼくが行くの?」 「そうよ。そのためについてきてもらってるんだから」 アヤカはあっけらかんと答えてみせたが、アカツキにはまるで何が何だか…… なんで学校なのか。 学校と言えば知識を詰め込むだけの、いわば時代錯誤とも言える場所ではないか。 アカツキは学校の代わりに通信塾(ネット・スクール)というモノに通っていた。 通うという言い方は正確ではないが、自宅のパソコンを使って授業を受け、テストも受けた。 ある程度勉強をしたらテストを行うという繰り返しで、学校に似た制度の塾ではあるが、学校のように落ち零れが取り残されるということはない。 まあ、アカツキが落ち零れというわけではないが、自分のペースで進められ、自分に都合のいい時間帯も指定できる。 そういう意味で、学校よりも融通が利くと今や大人気だ。 成績はまあまあだった。一応卒業できたから、学校に通わなくても問題はない。 「学校って言ったってね、単に知識を詰め込むところじゃないの」 「そうなの?」 「そうよ」 そこでようやく振り返り、アヤカは微笑んだ。 つられるように、アカツキも口元に笑みを浮かべる。 通りを行く人の数は先ほどと変わっていない。 ちょうど落ち着いた時間帯だからだろう。 人ごみに揉まれることもなく、堂々と道の真ん中を歩きながら、前方に視線を戻し、アヤカは言った。 「トレーナーズスクールは、生徒の目指す将来に応じた教室(クラス)を提供しているのがウリなの。 トレーナーを目指す子もいれば、ブリーダーや博士、あるいはポケモンコーディネーターなんかもあるのよ」 「へえ……ぼくは何をするの?」 「体験入学ということで、明日から三日ほどすし詰めになってもらうわ」 「す、すし詰め……」 「そう」 すし詰めという言葉に不安を感じたのか、アカツキの笑みが一瞬にして崩壊した。 彼自身が分かるほど、表情が引きつった。 すし詰めといえば、半ば監禁も同然ではないか。 テレビやら漫画やらではそういったイメージを与えている。 だが―― 「一応、寮に入ってもらうことになるわね。だから監禁とかじゃないわ。 ま、時間厳守ってことを除けば結構自由に動けるわよ。 バトルコートじゃ時間の許す限り先生や生徒とバトルすることもできるの。 寮にあるパソコンじゃポケモンに関するネット講座を開設してるから、調べたいことを納得いくまで調べられる。 回線を通じて講師に疑問をぶつければ、ちゃんと答えてくれるシステムよ」 「すごい!!」 すし詰めにされる不安などどこへ消えたのやら。 アカツキの瞳はキラキラと新星のように輝いていた。 先ほどまでの不安や落ち込みは本気でどこへ消えてしまったのかと、疑いたくもなってくる。 「そう、それでいいの」 アカツキがポケモントレーナーズスクールに期待を持ってくれたのを背中で感じ取り、アヤカは笑みを深めた。 彼には見えなかったが、それでよかった。 「でも、いきなり押しかけたりして大丈夫なの?」 「大丈夫。わたしに任せておけば万事解決なの。 大船に乗ったつもりで任せなさい。 三日間で君を強いトレーナーに育て上げてみせるわ」 頼もしい言葉だった。 アヤカならきっと自分を強く育ててくれる。 だが、自分自身の努力でどこまで伸びるか決まると知っているから、過剰な期待はしていなかった。 「アヤカさん、すごくスクールのこと詳しいね。通ってたの?」 「まあね。ずいぶんと前になるけど……」 アヤカはスクールの卒業生だった。 スクールに通っていた頃を思い出し、笑みが漏れる。 決していいことばかりではなかった。嫌なことだって何度か経験した。 だが、その経験が今の自分を形作っている。 どんな経験だって、無駄になることはないのだ。 そう、アカツキがツツジに負けたということも。今はその事実を辛いものとして認めたくはないだろう。 しかし、時が経てば――それがいつになるかは本人にも分からないだろうが――、気づけるのだ。 そういった嫌な経験も、今の自分を形作っている基礎の一部だということを。 あの時の負けがあったから、今の自分があるのだということをいずれ知る時が訪れる。 「わたしはトレーナーのクラスにいたわね。 ツツジがジムリーダーになる前は、わたしがジムリーダーやってたのよ」 「え!? そうなの!?」 「想像つかなかった? わたしたち、姉妹なのに……」 「うん、全然」 アカツキは首を横に振った。 アヤカが以前ジムリーダーだった――という事実にただただ驚愕するばかり。 だが、道理でポケモンの扱いに慣れていたり、いろいろなことを知っていたりするわけだ。 彼女のココドラが強力だったり、ゲットしたばかりのキノココを上手に使いこなせていたりするあたりはさすがと言ったところか。 「隠すつもりはなかったんだけどね……君が訊いて来なかったから、答えなかっただけよ」 「うん。そうだね」 確かに訊いてなかった。 だが、アヤカがジムリーダーなどと、そんな突拍子もないことを訊ねる気になるはずがなかったのもまた事実だった。 「ぼくはどのクラスに行くのかな……? やっぱりトレーナーを目指す人のクラス?」 「そうね。それについては後で話すわ。 一応、校長先生に話しておいた方がいいし。二度話すのも、面倒だから。 あ、めんどくさがりだなんて思わないで。 楽しみは後に取っておく。それがツウってモンでしょ」 「うーん、そうなのかなぁ……?」 何がツウなんだか、アカツキには分からなかった。 だが、楽しみは後に取っておくというのは彼にも当てはまる。 食事で、好きなものは最後に食べる。それと同じだ。だから、すぐに納得できた。 スクールに期待を馳せながら歩くことおよそ三十分。 『レンガ通り』から離れ、郊外に差し掛かった頃――道の先に、コンクリートの塀に囲まれた建築物が見えてきた。 三階建てか四階建てくらいの建物――実際には校舎なのだろう――が横に四つ並んでいて、隣り合った建物が、連絡通路で結ばれている。 傍目から見れば串刺しにされた建物に見えないこともない。 「あれがスクール?」 「そう。あれがポケモントレーナーズスクール。通称スクール」 アヤカは頷いた。 アカツキは初めて見るスクールに、一層期待を膨らませた。 押し開かれた校門の脇――左右に一際大きな柱が立てられており、その天辺に鳥ポケモンを模したと思われる彫像が鎮座している。 まるで来訪者を受け入れてくれているように、左右それぞれの彫像が向かい合っている。 今見えているのはスクールでもほんの一部分でしかない。 幅はそれなりだと思ったが、奥行きに関しては本気でハンパではないのだ。 区画整理の影響で、幅をそれほど取れなかった――アヤカは自分が通っていた頃の、この辺りの事情を思い返し、苦笑した。 「すごい大きそう……」 「まあ、そりゃそうよ。 一通り案内してあげるから、驚くならその時に驚くのね」 ふふっと小さく笑うと、スクールの敷地内に入った。 鳥の彫像の脇を通り抜けると、グラウンドに差し掛かった。 白線で大きな楕円が描かれているのは、トラックだろう。 かなり広いグラウンドだが、外には人っ子一人見受けられない。 「今授業中だから静かなの。トレーナーのクラスも、グラウンドではバトルしないから。 バトルコートは別の場所にあるのよ。そう、校舎のさらに向こう」 「奥もあるの?」 「ええ。とにかく広いから、迷わないように気をつけてね」 「うん」 校舎へ向かって歩きながら、アカツキは周囲に視線をめぐらせていた。 グラウンドの脇には鉄棒や滑り台、ブランコなどの遊具が点々としており、そこで楽しそうに遊ぶ子供達の姿が頭に浮かんだ。 グラウンドを取り囲むように、青々と茂る芝生。 塀に沿って等間隔に樹が植えられている。 砂と土だけが存在する、無機質なグラウンドでは決してなかった。 校舎の茶とグラウンドの端に茂る草木の青が妙にマッチして見えるのは、色の特性上、ほぼ対極に位置しているからだろう。 とはいえ、極端に違う、というわけでもない。恐らくはそこのところも考慮して設計したのだろう。 恐ろしいほど静まり返っているグラウンドを通り抜け、ふたりは一番近い校舎に入った。 「土足でもいいの?」 「いいのよ。その代わり、掃除はちゃんとしてるんだけどね」 ということで、一面フローリングの床を土足でずかずかと歩く。 土足オッケーという割には、それほど汚れているようには見えなかった。 輝くほど磨かれているわけではないが、普通に歩く分には汚いと感じない程度だ。 陽光差し込む廊下を歩いていると、すぐ脇にある教室から声が聞こえてきた。 「ホウエン地方で新人トレーナーが……されているポケモンは、…………、ミズゴロウ、キモリの………です。 この三体は……………とポケモン省の太鼓判を…………ポケモンで……」 風が窓を叩く音にジャマされ、断片的にしか聞き取れなかったものの、だいたい何を言っているのか、アカツキにはちゃんと理解できた。 「旅立ちの時もらえるポケモンのこと、話してる」 ミズゴロウ、キモリと来れば、それくらいのことは容易に想像できる。 腰のモンスターボールに軽く触れてみる。 ユウキはキモリを連れて、ハルカはミズゴロウを連れて、そしてアカツキはアチャモを連れて旅に出たのだ。 建物の中とは思えないほどスッキリとした空気を満喫しながら、いくつもの教室の脇を通り過ぎた。 スライド式のドアの上に『トレーナー科・初級クラス』など、クラス名の書かれたプラカードが廊下と平行に掲げられている。 「この校舎は初級クラスが集まっているの。 あと、校長室もあるわ。職員室とか実験室とか、そりゃもういろいろと……」 アヤカの言葉は、しかしアカツキの耳にはほとんど入っていなかった。 学校というとあんまり雰囲気よくなさそうで、イジメとかが横行しているというイメージがあるので、敬遠しがちだったのだが…… このスクールには、そういったものがないように思えたのだ。 だから、アカツキはここで学ぶ三日間がとても楽しみで仕方がなかった。 どんなことを学んで、どんな友達を作って、どんな楽しい日々を過ごしていくのだろう。 先ほどまでの落ち込みようがウソのように、期待に胸が弾んでいる。 角を曲がり、階段を昇り―― やがてたどり着いたのは、立派な扉の前だった。 両開きになっているようで、左右それぞれの扉に金色のノブがついている。 そのノブは回す形式ではなく、下ろす形式らしい。扉の上にあるプラカードには『校長室』の三文字。 「校長室……」 「そう。トレーナーズスクールを束ねる校長先生がいらっしゃるお部屋よ。 まあ、そんなに緊張しなくていいわよ。君が考えてるような人じゃないと思うから」 アヤカはアカツキの肩をポンと叩いた。 その衝撃で、緊張していた心がほんの少し緩んだ。 校長と言えばやたらと偉くて居丈高なお爺さんで、ド太い葉巻を咥えていたり、頭の天辺でソーラービームが放てそうだったり…… アカツキが想像する校長というのは、およそそういうものだった。 まあ、本当にそういった校長が、意外と多くいるものだから、決して極端な想像ではない。 「それじゃ、行くからね」 そう言って、アヤカは扉を軽く叩いた。 「どうぞ。お入りください」 アカツキの想像を大きく裏切り、扉の向こうから返ってきたのは、よく通る女性の声だった。 校長先生って……女の人? ほぼすべての学校の校長が男性なだけに、アカツキが驚くのも無理はなかった。 「それでは、失礼します」 大きな声で言って、ドアノブに手を掛け押し下げると、扉を押し開く。 まず目に入ったのは、見るからに高級そうな赤絨毯。 スターがアカデミー賞の祭典に招かれる時に歩くようなものを思わせる。 その絨毯が室内全体の床を覆い尽くしているのだから、ずいぶんとお金と手間をかけたのだろう。 それから、窓際に三つほど観葉植物。黒塗りの机は開け放たれた扉の正面に位置し、そこには眼鏡をかけた女性が佇んでいた。 「お久しぶりです、校長先生」 「ええ。本当に久しぶりですね、アヤカさん」 女性――ポケモントレーナーズスクールの校長はアヤカの顔を見るなり、微笑みを浮かべた。 背中まで伸びた黒髪を後ろに束ね、穏和そうな顔立ちを際立てるのは意志の強そうな黒い瞳と、耳につけているパールのイヤリング。 眼鏡はどこかインテリを思わせるような逆三角形で、服装も校長という立場を意識しているのだろう。 首元から覗くスカーフも相まって、知的な美人に見えて仕方がない。 柔和な顔立ちが、アカツキの抱く校長像というのをあっさりと打ち砕いてみせた。 アカツキはアヤカの後について校長室に入った。 ちゃんとドアを閉めて、ある程度の距離まで近づいてから、一礼する。 「この方が校長先生よ。ね、君が想像してるような人じゃないでしょ?」 「あ、うん」 アカツキは上目遣いに校長を見つめた。 彼女もアカツキを見ていた。笑みは崩さず、優しさを帯びた眼差しが注がれる。 「アヤカさん。この子は?」 長々と見ていては失礼だと思ったのだろう、彼女はアヤカに視線を移した。 「ええ、実は頼みたいことがあって参ったんですが……」 「分かりました。立ったままお話するのもなんですから、こちらへどうぞ」 「はい、失礼します」 「し、失礼します……」 アヤカは平然としていたが、アカツキの方はそうもいかなかった。 校長先生といえば学校で一番偉くて、立派な人だから。そんな人を前にしたら、緊張してしまう。 今にも緊張で固まってしまいそうな足に力を込める。 校長に通され、ふたりはソファに腰を下ろした。テーブルを挟んだ向かい側に、彼女も腰を落ち着けた。 「突然の訪問、お許しください。電話で連絡すれば良かったんでしょうけど」 「いいえ、あなたの訪問ならいつでも歓迎しますよ」 畏まるアヤカに、校長は「そうかしこまらなくてもよろしいですよ」と優しい口調で言ってくれた。 だが、礼節はわきまえなければならない。 「アヤカさん。本当にお久しぶりですね。見違えるようですよ」 「ありがとうございます。校長先生もお元気そうでなによりです」 女性二人が朗らかな笑みを浮かべながら、会話を進めている。 アカツキはどこか取り残されてしまったような気がした。会話に割って入るわけにもいかないので、仕方なく部屋を見回す。 こういう場所に来たのが初めてなだけに、何かをしなければ緊張で身体が石のように固まってしまいそうだ。 「お忙しいところ申し訳ないんですが、頼みがあるんです」 「どうぞ、なんなりと」 「ありがとうございます」 アヤカは深々と頭を下げた。 そしてアカツキの肩にそっと手を置く。 校長の視線が再びアカツキに向いた。 視線を感じてか、アカツキは部屋を見渡すのを止め、一直線に校長を見つめた。 目は合わせず、鼻か口あたりに視線を据える。真正面から向き合うとなると緊張して仕方がない。 「この子を体験入学させていただきたいと思いまして」 「体験入学ですか?」 「ええ。三日間で結構です。トレーナー科の……そうですね、卒業間近の上級クラスに編入させていただきたいんです」 「じょ、上級!?」 神妙な雰囲気が漂っていたところへ、アカツキが突拍子もなく大声を上げたものだから、一気に白ける。 そういったことを肌で感じ取ったのだろう、次の瞬間には縮こまってしまった。 だが―― 「上級なんて、ついていけるわけないじゃん!!」 アカツキは胸中で叫んでいた。 何を血迷ったか、アヤカはアカツキをトレーナー科の上級クラスに三日間、体験入学ということで編入させようとしているのだから。 上級といえばものすごく難しいことばかりするんだろうと思っているアカツキからすれば、気が気ではない。 「本人はあまり乗り気ではないようですが?」 アカツキの顔色をチラリと窺って、校長が言う。 しかしアヤカはニコッと微笑んで、 「心配には及びません。 これでも、ツツジ相手になかなかいいバトルしてましたから。 上級クラスの担当はどなたです?」 「アリサ先生です」 「あ……アリサ先生ですか?」 その名を聞くや否や、アヤカの微笑みは脆くも崩れ落ちた。 苦手な食べ物を目の前にしているような、心底嫌そうな顔をしている。 どうしたんだろ…… さっきまでの余裕たっぷりの態度はどこへ消えたのやら。アカツキは表情を崩したアヤカの横顔を見つめた。 「冗談じゃないわよ、どうしてアリサなんかが上級クラスの担当なんてしてんのよ!!」 アヤカは胸中で情け容赦なく嵐を巻き起こしていた。 怒涛のごとく雷鳴が轟き、風が刃物のように荒れ狂う。それもこれも、すべては『アリサ』という女のせいだ。 「確か……同期でしたよね」 「ええ、そうです。嫌ってくらい同期です。切り離したいくらい同期です」 確かめるようにつぶやく校長に、アヤカは苦々しい口調で吐き捨てた。 そうでもしなければ胸の痞えが消えてくれない。 「わたし、教師の資格は持ってますけど……」 「なら、三日間だけ特別講師ということで赴任なさってはいかがです? 今までも何度かそうしていただいたこともありましたし……彼の面倒は、あなたが見るのでしょう?」 「ええ、まあ」 歯切れの悪い答えを返すアヤカ。 どうやら―― どうやら校長はすべてお見通しのようだった。 見事な慧眼と言わざるを得ない。 まあ、それくらい物事を見通す目を養っていなければ校長などという要職に就けるわけがないか。 「なら、問題はありませんね。 生徒たちも、アヤカさんの授業を心待ちにしているようですよ。 週間アンケートでどのクラスも『アヤカ先生の授業を受けたい』というのがここ数年ほど上位にランク・インし続けているくらいですから。 生徒たちのためにも、私からもお願いしたいと思うのですけど……」 「はあ……そういうことなら」 アヤカはしかし、生徒たちのため、そしてアカツキのため、ということで割りきれたようだ。 歯切れのよい返事を期待していた校長は笑みを深めた。 「上級って言ってもね、そんなに難しいことするわけじゃないわよ。不安にならなくていいいわ」 「そうだといいけど……」 アヤカがフォローを入れてくれたものの、それを素直に信じる気にはならなかった。 卒業間近というではないか。 これで簡単なことをするとは思えない。 「そうそう。 アヤカさんにとっては朗報かもしれませんが、アリサ先生、最近腰痛が気になるようでして…… 三日間でよろしければ、彼女の代わりに上級クラスの担任になっていただきたいのです」 「そういうことでしたらお任せ下さい!!」 イエッサー、と敬礼をしてみせるアヤカ。 どうやら、アリサとかいう先生と同じ舞台に立たずに済むということがうれしいらしい。 「今の君なら十分についていけるわ」 「ところで、ご紹介願いたいのですが」 「ええ、遅くなって申し訳ありません」 アヤカと校長の視線がアカツキに向けられた。 大人の女性ふたりにじろじろと見つめられ、ますます萎縮してしまう。 視線は優しいものだと分かっていても、経験がないのでどうしてもそうなってしまう。 まだまだ子供だ。 「ほら、自己紹介するの」 「え……ぼくが?」 「そりゃそうでしょ。 三日間お世話になるんだから、それくらいのことはしなくちゃいけないわよね」 「うー……」 アカツキはしばらく躊躇ったが、観念したか、やがて重々しくではあったが口を開いた。 「ぼく、ミシロタウンのアカツキって言います。 三日間ですけど……よろしくお願いします」 言い終えて、ぺこりと頭を下げる。 一生懸命な自己紹介に、校長は、 「アカツキ君ですか。いい名前ですね。 私はユキノと申します。よろしくお願いしますね」 自己紹介を返し、手を差し出してきた。 アカツキは少し間を置いて――その間に意味はそれほどなかった――、差し出された手を握り緊めた。 校長――ユキノは握手も早々に、 「それでは校内を案内いたしましょう。ついてきてください」 「校長先生がそこまでなさらなくても……お忙しいでしょう? ついでですから、わたしがやります」 「いいえ、いいんです」 アカツキひとりを案内するのなら、アヤカだけでも十分なはずなのだが、ユキノは自分が案内すると言い張っている。 そこまでしてもらわなくてもいい、とアヤカが思っているのは、当然お見通しだ。 理由はちゃんと彼女自身の口から語られた。 「この部屋で椅子に座ってばかりの仕事では身体が鈍って仕方がないんですよ。 それに、校内を歩き回って、今現在どのような状況か、ちゃんと見ておかなければなりません。 それが校長の務めというものですから」 「まあ、それはそうですけど……」 アカツキもアヤカも、ユキノが校長に相応しい器だと感じた。 校長といえば、校長室でふんぞり返っていればいい、という時代もあったらしい。 だが、とうにそんな時代は終焉を迎えている。 いくら学校で一番偉くとも、何もしないままでは食べていけないと――要するにそういうことだ。 「分かりました。お願いします」 「かしこまりました。それでは行きましょうか」 ユキノは立ち上がった。 またしても当然だが―― アカツキもアヤカも了承するであろうことを、ユキノはきっちりと見抜いていた。 それくらい、抜け目のない校長なのだった。 校長室を後にしたアカツキは、ユキノを先頭に校内を案内してもらった。 その間中、彼の胸は期待に弾んだままだった。 第15話へと続く……