第19話 次への扉 -President- アカツキは、大切な人のことを脳裏に思い浮かべた。 ポケモンセンターで取った宿泊室のベッドの上で、ぼーっと天井を見上げながら。 ツツジとのリターンマッチに辛うじて勝利した翌日。 昨日はスクールの卒業試験もあったから、かなり疲れていたのだろう…… ジム戦を終え、夕食を摂って風呂から戻ってくるなり、ベッドに横たわるとすぐさま死んだように眠りに就いたのだ。 そして今日。目覚めは爽快なものだった。 胸の痞えがすっかり取り払われたように、心配事がキレイさっぱり消えてしまった。 無論、今の彼に心配事なんてあるはずもない。 ジム戦では勝利したし、これからも『黒いリザードン』をゲットすべく旅を続けるのだから。 むしろ、今まで時間をかけすぎていたような気さえしている。 時間はすでに九時を回っているが、そんなことはどうでもよかった。 少しはゆっくりしていようと思っていたからだ。 旅に出てから、十日と経っていない。 短期間であったが、アカツキにとってみれば、今まで生きてきた時間よりも長かったように思えた。 そんな中でいろんなことが起こった。いろんなことを体験した。 だから……だろう。どこか疲れているような気がする。 身体が妙に気だるかったり、無意味にぼーっとしていたり……今日はのんびり過ごそうと決めていたのだ。 身体の調子が良くない時に旅に出かけても、後々になって祟るだけだし、アリゲイツたちに心配をかけてしまうだろう。 それはアカツキにとって本意などでは決してなかった。 と、そんな中で、自分にとって大切な人のことを頭に思い浮かべた。 親友のユウキ、ハルカ。ユウキの両親であるオダマキ博士にカリン女史。憧れの存在である兄ハヅキに、母親のナオミ。 それから――あとひとり。 なぜか、頭に浮かんでくるその人物の顔は霞みがかかったように定かでなかった。 「誰なんだろう……」 優しい顔をしているのか。それとも、怖い顔でもしているのか。 心の目をどれだけ凝らしても、その顔にかかった霞みが取り払われることはなかった。 浮かび上がってくるということは、少なくとも知っている人物と言うことになるのだろう…… アカツキはなぜか妙に冷静にそんなことを分析できた。 表面的な記憶にはないが、無意識下では知っているような気がするのだ。 「ぼくにとって大切な人なのかな……」 せめて顔が明らかになるのなら、それが誰か分かるのかもしれない。 だが、アカツキには分からなかった。 「まあ、どうでもいいんだけど……」 つぶやいて、浮かび上がった七つの人物像をさっと霧散させる。 何をするでもなくベッドの上をゴロゴロ転がって、リュックを開くと、空色の箱を取り出した。 手の平サイズの小さな箱には、アカツキたちの努力の結晶が詰まっている。 「ストーンバッジかぁ……」 箱を開けて、中に入っている銀色のバッジをじっと見やる。 三角形の岩をふたつくっつけたような形をしたバッジ。 それは、カナズミジムのジムリーダー・ツツジとのバトルで勝利したトレーナーだけが手にできるものだ。 努力の証であり、実力を認められた印でもある。 そんなモノをゲットできたのだから、追い求める『黒いリザードン』にまた一歩、きっと近づけたはずだ。 アカツキは満足感に浸っていた。 強くて、気高いリザードンをゲットするには、それ相応の実力というのが必要となる。 その第一歩と考えたとしても、大きな進歩であることに違いはない。 「ぼく、少しは強くなれたんだよね」 あの時――ツツジに負けた時。 どうしてこんなにもトレーナーとして弱すぎるのかと涙したことがあった。 それがウソだったかのように、今、彼の胸は安らかで、それでいて誇りに満ちている。 ストーンバッジを見て、激闘の記憶が蘇ってきたが、バトルした時ほどの興奮は伴わなかった。 きっとそれは、ひとつ乗り越えるべき壁を乗り越えたからに違いないと思った。 と、そこへ、ドアをノックする音が聞こえた。 アカツキが身を起こして振り向くと、そのタイミングを狙っていたかのように、ドアの向こうから耳に馴染んだ声が聴こえてきた。 「アカツキく〜ん、起きてる?」 「あ、アヤカさんだ……どうしたんだろ?」 鍵をかけていれば、居留守など使えない。 もっとも、居留守なんて使うつもりなどなかったから、アカツキは慌ててベッドを降りて、ドアの傍に駆け寄った。 鍵を開けてドアを押し開くと、 「やっほ〜」 ニコニコ笑顔のアヤカがそこにいた。 昨日までは教壇に立っていたから、スーツをバッチリ着こなしていた。 しかし、今日は教師という重責から解放されたためか、それとも思い切って気分転換をしたいのか、やたらと露出度の高い服装だった。 ヘソを出していたり、肩から先が素肌丸見えだったり……黒いスパッツも膝上の長さ。 これからやってくる夏のことを考えれば確かに薄着でいいのかもしれないが、どこか決定的なところで間違っているような気がする。 「あ、アヤカさん。どうしたの、そんな格好で……」 アカツキは眩暈がしそうだった。 アヤカの服装はどう見てもまともではない。 どこか変、不自然。自然な感じもしなくはないが、どこか違和感がある。 そもそも、こんな格好をする人など、ミシロタウンには誰一人としていなかったのだ。 初めて見る露出度の高い女性の姿に、ハンマーで頭を殴られたような気分だった。 そんなアカツキを置き去りに、 「いや〜、聞いたわよ〜」 アヤカはなにやら豪快に笑い立てると、戸惑う少年の肩をぱんぱんと叩きながら部屋に上がりこんできた。 図々しい気もしないわけではないが、彼女はアカツキにとって恩人である。 それに、不快に感じているわけじゃないから、別にいい。 彼女の豪快さというのはいつものことだ。 ドアを閉め、きっちり鍵をかける。 もしアカツキがもっと年上だったら、これはこれですごく面白い展開に行っていたかもしれなかったが……子供だから、仕方がない。 「ツツジに勝ったんだってね。 いや〜、その現場見てみたかったんだけどねぇ、ユウスケに特訓つけてやってたから行けなかったのよ、ホントに残念」 アヤカは「またまた〜」と手でジェスチャーしてのけるが、 「うん……」 アカツキはアカツキで、どういうわけかあんまり雰囲気に乗り切れていない様子だ。 「でも、スクールで学んだことが無駄じゃなかったって証明できたんだもの。 それはそれでうれしいわね」 「ねえ、アヤカさん」 「うん、な〜に?」 勝手知ったる何とかと言わんばかりに、冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、飲もうとするアヤカに、アカツキは率直な疑問をぶつけた。 「なんで、そんなにうれしそうにしてるの?」 困惑した表情で、まともに視線も合わせずに言った。 というのも、アカツキには理解できなかった。 どうして、アヤカがそんなに笑っていられるのか。 普通なら、もっと落ち込むなりヤケクソになるなり……少なくとも見ていてこちらまで元気になるような雰囲気ではないだろう。 アカツキが何を思って疑問をぶつけてきたのか、ちゃんと理解しているのだろう。 アヤカはジュースを一気に飲み干すと、ニッコリと笑いながら、アカツキの目を真正面から見つめて、答えを返した。 「ツツジが負けたからって、わたしまで落ち込むとでも思った?」 「え……?」 「あのねぇ、バトルしたのはツツジだし、わたしまで落ち込もうなんて思うわけないじゃない。 だいたい、わたしがジムリーダーをやってたのは前の話だし。 その頃に負けたんだって言うなら、そりゃ悔しくてたまらないかもしれないけど…… いい? わたしは君が勝ったってことに素直に喜んでるわけ。 だって、君をトレーナーとして強くすることをスクールで約束したのよ? その約束が、『ツツジとのバトルで勝ってストーンバッジ、ゲットでチュ!!』ってな形で果たされたんだから。 これでうれしくないわけないでしょうが」 「……そういうもんなの?」 「そうなの!!」 語気を強めたのは、本当に彼女がそう思っているからだ。 アカツキはアヤカの放つ雰囲気に圧倒されながら、ちゃんと理解した。 「君はトレーナーとして強くなった。 それはわたしにとって喜びでもあるんだからね。 他人のことだって構いやしないわよ。そのことで君が他人のことに首突っ込む必要なんてないの。いい?」 「うん」 アヤカはアカツキの頭を乱暴とも言える手つきで撫で回した。 くしゃくしゃになると思いきや、アカツキはこんな場所でも律儀に帽子をかぶっていたから、実際、髪はそんなに乱れていない。 「まあ、それはいいとして」 コホン。 アヤカはアカツキの頭から手を退けると、咳払いを一つして、 「おめでとう。ツツジに勝つなんてたいしたモンよ」 「ありがとう、アヤカさん」 アカツキはぺこりと頭を下げた。 アヤカが素直に喜んでくれていることを知ったから、なおさら恐縮してしまう。 それに…… 自分が使っていたノズパス――それがツツジの、カナズミジムの秘密兵器――が打ち負かされたのだ。 それなのにどうしてこんなに笑っていられるのだろう…… 釈然と行かないところはあるものの、勝利を祝してくれているのなら、その気持ちを無駄にしちゃいけない。 アカツキは変なところで礼儀正しかった。 そういう風にナオミに育てられたと言ってしまえば、それまでだが。 アカツキが気持ちに整理したのを見て取って、アヤカはここにやってきた目的に触れることにした。 「さて。ヒマしてる?」 「うん」 「じゃあ、わたしとちょいとお出かけしてみない?」 「お出かけ……って?」 アカツキはピンとこなかった。 こういうシチュエーションなら普通は××とか……しかしながら、考えつかない。 子供だからねぇ……アヤカは胸中でため息を漏らした。 アカツキがもう少し大人になって、いい男になったら…… その時は付き合ってもいいかな、なんて思っているが、すでに好きな人がいる。 結婚云々は抜きにしても、アヤカの人生設計は、カナズミジムの得意分野である『岩タイプ』のように、頑丈でしっかりしているのだ。 ある意味ビッシリ手帳に書き記されているようなものだ。 「ちょいと用があるんだけど、付き合ってみない? 君が行きたがってる場所に行けるんだけど」 「ぼくが、行きたがってる場所?」 「そう。ほら、カナズミシティに入る時に見たでしょ? 瞳が吸い込まれそうな、壮麗で美しい、砂の都にそそり立つ水晶の塔のごときビルを」 アカツキは指を口元に当て、首をかしげた。 アヤカの言うような大げさなビルなどカナズミシティにあるのだろうか……いや、そもそも行きたがってる場所って……? 唐突に、もしかしたらという考えが浮かんだ。 確かめるように、口を開く。その言葉はスラスラと滑り出てきた。 「デボンコーポレーション……だっけ? もしかして、その本社ビルだとか?」 「大当たりぃ」 「え、ホント!?」 もしかしたら、というのが当たって、アカツキは一瞬にして喜びに包まれた。 カナズミジムに挑戦し、ツツジにコテンパンにやられてからは、トレーナーとして強くなることばかり考えていた。 だから、それまでのことはほとんど忘れていたのだが、今になって思い返してみれば、確かにアヤカの言うとおりだった。 いつか行こうと思っていたところだった。 カナズミシティに本社を置くマンモス企業――デボンコーポレーション。 モンスターボールからポケナビ、果ては化粧品やら玩具に至るまで、生活に必要不可欠なモノまで手がけるマンモス企業。 当人たちにやる気さえあれば、本気でホウエン地方を牛耳れそうな企業だ。 そこまで聞かされていたから、アカツキには新たな疑問が浮かんだ。 「でも、どうして本社ビルに?」 「そこの社長さんにお呼ばれしちゃっててね。てへっ」 お茶目におどけてみせるアヤカ。 これには、疑問を口にしたアカツキの方が呆然としてしまった。 どうやったら、アヤカが社長さんにお呼ばれするというのか。 アカツキには全然想像がつかなかったのだ。 そもそも彼女と社長がどんなパイプで結ばれているのだろうか。 お呼ばれするのだから、少なくとも親しい以上の関係にはなっているのだろうが…… 幸い、成人男性やマスコミが喜びそうな想像には行き着かなかった。 たどり着くには、あまりに子供の発想だったのだ。 ある意味で救われたのかもしれないが。 「ひとりで行くのもなんか退屈っぽいからさぁ、君を誘ってみたんだけど……どう、行ってみる?」 「え……うん、行きたいけど……」 アカツキは自分の身体を見回した。 何か不安でもあるのかしらねぇ? アヤカの目に移るアカツキの表情は、どこか晴れやかでなかった。 「こんな格好でいいの? 社長さんでしょ? やっぱりスーツとかでビシッと決めたりとか……」 「ああ、いいのよそんなの」 「そんなのって……」 アカツキが言葉を紡ぎ出すより早く、アヤカが次の一手を打ってきた。 彼を沈黙させるのに十分な威力を持った言葉を、桂馬のごとき死角より。 「社長さんは見た目で人を判断するようなバカな人じゃないわよ。 わたしがこんなカッコしてるのも、社長さんがいい人だってことを知ってるからなのよ。 よく考えなさい。君の方がよっぽどマシなカッコしてるでしょうが」 「ま、まあそうなんだけど……」 アヤカのような、無意味に露出度の高い――一歩間違えれば危険なお姉さんと見られかねない格好よりは、アカツキなどまだまともだ。 トレーナーとして見られるのが間違いないから。 「ほら、どうする? 行く、行かない? 早く決めないとわたしひとりで行っちゃうゾ〜」 意地悪な口調で言ってくるアヤカに、アカツキはヤケクソ気味に、 「行く!!」 と答えてしまった。 気づいた時には遅く――アヤカがアカツキの手をギュッと握っていた。 視線を落とすより早く、 「ほら、リュック背負ってね。多分ここにゃ戻ってこないから」 「へ?」 「君は次のジムに挑戦したいって思ってる?」 「う、うん、できれば」 「なら、こことはオサラバよ。オッケー?」 「分かったよ」 アカツキは渋々リュックを背負うと、アヤカに引っ張られるように部屋を後にした。 開け放たれた窓から吹き込んでくる微風が、誰もいない部屋のカーテンを揺らす。まるでダンスでもしているかのように…… とまあ、シリアスな場面は終わりにして―― ポケモンセンターを後にしたふたりは、レンガ通りを北上していた。 デボンコーポレーションの本社ビルは、都会の街並みの中でも燦然と輝いて見えた。 この街で一番高いビルこそ、本社ビルなのだ。 角度から見ればその姿が隠れてしまうこともあるが、今は少なくともその角度ではない。 「人、多いね」 「そりゃあ、休日だからね」 「休日って……社長さん、ホントにいるの?」 「いるわよ。あそこが社長さんのホームみたいなモンなんだから」 「すごいな……」 ポツリとつぶやいて、アカツキは視線を前に戻した。 レンガ通りは人でごった返している。 老若男女が入り乱れ、とにかく人、人、人。 それこそ刷いて捨ててもなお余りあるほどの人で、通りは埋め尽くされる寸前だ。 アカツキは迷子にならないように、アヤカの手をギュッと握ったまま、通りを歩いていた。 地の利のあるアヤカならともかく、アカツキは眩暈しそうなほどの人ごみに流されて、とんでもない方に行きかねない。 ブローカーがうろついてたりする裏通りとか、裏路地とか。 ポケモンを持っていれば多少は安心なのだろうが、アヤカにとってはアカツキの性格が安心できない最大の要因だった。 変なところで優しくて、変なところで……やめよう、挙げるだけ虚しくなってくるし。 アヤカはため息を漏らした。 サングラスをかけ、五部刈りのお兄さん。スカートなんだか見分けのつかないモノを履いてるお姉さん。 シルクハットなどかぶり、マジックショーとかでよく使う形状のステッキ持ってるおじいさん。 エトセトラ、エトセトラ…… とにかく千差万別のカッコした人で賑わう通りを行く。 途中で左右に分かれている分岐を左に進む。 昨日カナズミジムに行った時はここを右に進んでいった。 確か看板に、左に行けばデボンコーポレーション本社ビルに行けるようなことが書かれてあったか。 分岐を左に進んでもなお、人ごみは衰えることを知らなかった。 ただ、先ほどと比べてスーツ姿のサラリーマンの姿が目立ち始めているような気がする。 「ここはオフィス街なの。休日返上で働くお父さんとかでいっぱいなの」 「へぇ……」 アヤカがフォローを入れてくれたので、すんなりと納得できた。 携帯電話を片手に、忙しそうに腕時計に視線を落としているサラリーマンが、確かにいっぱいいる。 そんなお父さんたちの傍を通り抜け、ポケモンセンターを出発すること三十分。 ようやっと、ふたりはデボンコーポレーション・本社ビルの前にたどり着いた。 「うっわー、すっごいなぁ」 「近くで見てみると、大きいでしょ?」 アカツキはビルを見上げるなり、驚嘆した。 街の外から見た時も、やたら大きいなぁと思ったが、改めて近くで見てみると、もっと大きく見えてくる。 数十階どころか、下手をすれば百階はあるかもしれない。 入り口はガラス張りで、左右に開く自動ドア。 その脇には屈強なガードマンがいて、絶えず周囲に目を光らせている。 マンモス企業ゆえ、敵も多いのかもしれない。 どこか物々しいガードマンの雰囲気に、アカツキはいきなり気圧されそうになっていたが、 「ほら、行くわよ。社長さん、あんまヒマじゃないんだから」 「あ、うん」 アヤカの言葉に弾かれたように顔を向けて、駆け出す。 彼女はすでにガードマンに話をつけて、入り口の前にいた。 ガードマンは走ってくるアカツキを気に留めることもなかった。 「都会に憧れてんの?」 「……そうかもしんない」 おちょくるように頬に指を当てながら、アヤカが言ってきた。 アカツキは適当な方向を向いて頷く。 ウソじゃないけど、本当でもない。都会ってあんまり好きじゃないから。 ミシロタウンのような静かな場所で育ってきたためか、街の賑わいがどこか騒音めいて聞こえてくるのだ。 自動ドアが開き、アカツキは本社ビルに足を踏み入れた。 爽やかな空気が吹き付けてくる。 昨今話題に上ったマイナスイオンをたっぷり含んだ風で、身体と心をケアする。 社員思いの会社だと思わせるが、実際それも『やる気を向上させる』という戦略のひとつなのだから、えげつないと言えばえげつないか。 男女共に同じ制服を着た社員が行き交う。 開放的な佇まいのビルで、中央部は一階から数百メートル先の天井まで吹き抜けになっており、差し込む陽光が明るい雰囲気を醸し出す。 そんな場所にいるからか、社員の表情はどこか晴れ晴れとしており、この会社で働いていることを心の底から誇りに思っているかのようだ。 アヤカはアカツキを連れて受付嬢の前に歩いて行くと、社長に取り次いでもらえるよう頼んだ。 「アヤカと申します。ツワブキ社長にお取次ぎをお願いしたいのですが」 「アヤカさんですね。社長より伺っております。 どうぞ、こちらへ。ご案内いたします」 「ええ、お願いします」 受付嬢は同僚に「後はお願いね」と言い残して、ふたりを案内してくれることになった。 受付嬢というからには当然美人だった。 アカツキに女性の良し悪し(?)というのは分からないが、美人だということはよく分かる。 受付嬢の後について歩きながら、アカツキはあちこちを見回していた。 田舎モノ丸出しだが、そんなのはどうでもいい。 休み時間中の女子社員がアカツキのことをちらりと見ているが、彼女たちが何を考えているのか分からない。 もしかしたら「かわいい子じゃない」と思っているのかもしれない。 三つあるエレベーターのうち、真ん中に乗り込む。 三人のほかに乗ってくる社員はいなかった。 来客と、彼女が案内することを知っていたのかもしれない。 行き先がずらりと並んでいるボタンに手を掛ける前に、ドアを閉める。 他の階にコールされていないことをちゃんと確認して、社員証の磁気部分をカードリーダーに通す。 ピピッという音がして、階数を示すモニタに0から9の数字が浮かび上がる。 見たことのないシステムに、アカツキは食い入るようにそのモニタを見ながらアヤカに訊ねた。 「ねえ、これって?」 「俗に言うプロテクトよ。社長室はとても重要な場所だからねぇ…… カンタンに入れないように、こうやって防御機能を設けているの」 「へえ……」 アカツキは素直に感動した。世の中は広く、知らないものであふれかえっている。 プロテクトだのカードリーダーだの、アカツキに分からないもので世間は動いているのだ。 まざまざと見せつけられても、自分がいかに田舎育ちなのか気にならないくらいに感動していた。 と、感動している間に受付嬢が暗証番号を入力し終えた。 モニタから暗証番号の入力画面が消え、100という数字が丸に囲まれて大きく浮かび上がった。 その数字こそが、社長室のある階層を示すもので、そこをタッチした。 ぴんぽーん。 そんな音がして、エレベーターが動き出す。 目指すは100階。行き先を示すボタンにも100階はあったが、そことは違うとアヤカが説明してくれた。 社長室は、実は最上階ではない。 そんな分かりやすいところに置いておけば『どうぞ泥棒さん狙ってください』と言っているようなものである。 なにしろ、ホウエン地方に名だたるマンモス企業である。 商品やアイディアのデータには、それこそ金銀財宝的な価値がある。 屋上から侵入されれば、たちまち重要なデータやら何やらを持ち逃げされるのがオチなのだ。 だから、最上階よりかなり下の階に置いておくことで時間を稼ぎ、その間に侵入者を確保する……というシステムらしい。 「アヤカさん。社長って、どんな人なの?」 「前に話さなかった? とにかくすごい人だって」 「うん。でも、それだけじゃよく分からなくて」 「そりゃあそうね」 クスクスと笑いながら、受付嬢がくるりと振り返った。 眼鏡の奥から覗く眼差しが妙に優しいのは、アカツキのことを子供だと思っているからだろう…… アヤカはそう思ったが、何も言わなかった。 「ツワブキ社長は、私達社員の誇りなんです。 あの方は利益よりも、人々の幸せを願っていらっしゃるの。 そんな人だから、私達は本心からデボンのために働こうと思えるんですよ。 まあ、利益がなければ会社として成り立ちませんけどね」 「すごいんだなぁ……」 「だからすごいって最初に言ったでしょ」 アヤカにとってデボンの社長――ツワブキは『叔父様』以上の人間だ。 父親の親友だから、だろうか。 本当の父に遜色ないくらい、かわいがってくれた、特別な存在だ。 「どんな人かな……会うの、楽しみだなぁ……」 アカツキはドキドキワクワクに弾む心を抑え、握り拳を解いた。 緊張しているのだろう、汗をかいていた。どことなく足も震えてきた。 偉い人を目の前にするのだから、緊張して当然なのだが…… エレベーターが止まった。 どうやら社長室のある階にたどり着いたらしい。 ドアが開き、受付嬢に続いてふたりがエレベーターから出てきた。 三つあるエレベーターのどれを使っても来れるらしいが、プロテクトを解除しなければ、別の階からのアクセスができないとのこと。 エレベーターのドアが三つ。 そこと社長室を結ぶ廊下があるだけという、実に質素な階だ。 廊下も数メートルしかないので、本気で地味。 花が飾られているわけでも、名画がかけられているわけでもなければ、あちこちにモニタが備え付けられているわけでもない。 高価な木材を使ったドアにつけられている金色のパネルには『社長室 President Room』と彫り込まれていた。 受付嬢はドアの前で立ち止まると、二度ノックした。 「アヤカ様が見えられました」 「通してくれ」 「かしこまりました」 ドア越しに返ってきた声は、ハリがあり、たくましさを感じさせた。 受付嬢はドアノブに手をかけ、押し開いた。 失礼しますと言って、アヤカとアカツキを社長室に通した。 「ありがとう。紅茶を持ってきてもらえるかな」 「かしこまりました」 ふたりを社長室に通すと、受付嬢は足早に去っていった。 「ここが社長室……」 アカツキはみっともなく口をポカンと開いたまま、室内を見渡した。 社長室と言うからには金銀財宝で飾られて、どこかの王様のマスクでもケースに入れられているものだと思っていた。 呆気ない感じもしたが、庶民的な佇まいに、ホッとしたところが強い。 どこにでもあるような平凡なデスク。取り立てて高級そうには見えない。 窓がないのはビルの中核に位置しているからだが、壁一面に世界地図がかけられている。 観葉植物がところどころに配置されている辺り、社長がアウトドア好きな人間だとアカツキは判断した。 来客用のソファとテーブルがデスクの前に置かれているのは、いつでもデスクの電話を取れるようにというところだろうか。 とはいえ、社長室というにはあまりに簡素だった。 余計なところでお金をかけないという哲学でもあるのだろう。 「アヤカ君。よく来てくれたね。まあ、座りなさい」 「ええ」 挨拶もそこそこに、ツワブキ社長はデスクを離れ、ソファに腰を下ろした。 アヤカは「失礼します」と丁寧な口調で言うと、アカツキを連れてソファに腰を下ろした。 ふたりと社長が向かい合う形になる。 「この人がツワブキ社長なんだ……」 アカツキは社長の顔をじっと見つめていた。 見たところは五十代。だが、その年齢を感じさせないほど、若々しく見える。 白髪頭に見えるのは、ユウキやカリン女史と同じように、元の色が白みがかったものだが、それには気づかなかった。 背はそれほど高くないものの、ビシッと決まったスーツ姿と彫の深い顔立ちが社長としての貫禄を強烈に漂わせている。 アカツキがいつになく緊張しているのは、その貫禄に曝されているからだった。 「ところでこの子は? 君の知り合いかい?」 「ええ、紹介しますわ。社長」 「おじさんで構わないさ。君はわたしにとって娘みたいなものだからね」 「ええ、お言葉に甘えて……」 アヤカが笑みを浮かべると、社長もつられるように笑みを浮かべた。 とても人当たりのよさそうな男性にしか見えない。 だが、社長というからには物事の決断力、判断力、カリスマ、その他諸々が備わっているのは間違いない。 アヤカはアカツキの肩に手を置いた。 ビックリして、アカツキはアヤカの方を見つめたが、彼女の視線が『社長の方向きなさい』と物語っているのを察し、社長に視線を戻した。 社長は笑みを浮かべながらアカツキを見ていた。 偉いからといってそれをひけらかすこともなく、あくまでも自然体で、ひとりの人間として接してくれているのがよく分かる。 この人は居丈高な人じゃない…… トレーナーズスクールの校長・ユキノもそうだったが、世の中何も偉い人すべてが踏ん反り返るようなタイプではないのだ。 「わたしが数日前に知り合ったトレーナーで、アカツキ君です。 彼ね、ツツジに勝っちゃったんですよ。経緯は端折りますけど」 「そうなのか……すごいな、君は。ツツジ君に勝ってしまうんだ、ははは」 「…………」 アカツキは緊張しきって、何を言えばいいのかよく分からなかった。 素直に誉めてくれているのは分かるが、緊張が身体を硬直させる。 口を動かすのも大変だ。 無理にそんなことしなくてもいい……言い聞かせてみても、当分は解けそうにない。 「あ……」 身体に力を込めて、必死に口を開く。 ぎこちないのは仕方ないにしても、自分のことは自分で話したい。 アカツキはそう思った。 「アカツキっていいます。はじめまして」 「ああ、はじめまして。わたしはツワブキ。 デボンコーポレーションの社長をさせてもらっているよ。よろしく」 「あ、はい、よろしく」 ツワブキ社長が差し出した手を、アカツキはしっかりと握りしめた。 震えが止まらないのは愛嬌だ。 握手を終えると、社長はすぐに本題に入った。 「さて、ここにわざわざ来てもらったのは他でもない。 本来はわたしの方から出向くべきなんだろうが、なにぶん多忙な身でね、許してもらいたい」 「いいえ、構いませんよ。わたしも彼もヒマしてたところなので」 「そうか。そう言ってもらえると助かるな」 アヤカの返答に、社長ははにかむような笑みを浮かべた。 忙しくて行けない……社長という立場を棚上げするわけではないが、非は明らかに自分がある。 用事があるのが自分なのだから、出向くのは当然なのだが、なにぶん社長というのは多忙を極める。 現に、三十分後からは、分刻みのスケジュールが待ち受けている。 今この時間は、社長にとって数少ない休息の時間だった。 「実はな……」 そんなことは露ほども感じさせない表情で、社長は懐から一通の封筒を取り出した。 灰色と青の縞模様が入った封筒だった。 宛名も何も書かれていないが、誰かに宛てた手紙に違いない。 そして、その手紙に関する用事だ、とアカツキは推理した。 推理にもならないかもしれないが、よく考えれば分かることだ。 「この手紙をダイゴに届けてもらいたいのだよ」 「ダイゴさんに……ですか」 やっぱりそうだと思ったが、それは口に出さないでおく。 「ああ。あいつもずいぶんとあちこちを飛び回っているようだから、行方がつかめなくてね。 音沙汰なしというのは実に心配事のタネになるのだが…… つい最近、居場所に関する情報を手に入れたものだから、社員に届けさせようかと思ったが、いろいろと手一杯らしくて。 そこで、ダイゴと同じトレーナーである君に頼もうと思ったんだ」 「ええ、構いませんよ」 アヤカはあっさりと引き受けた。 彼女の笑みが先ほどよりも深まって見えるのは、ツワブキ社長が言うところのダイゴとやらに会うのを楽しみにしているからだろう。 それくらいうれしそうな顔をしているのだ。 「さて、君はどうするの? ついてくる? それとも、来ない?」 「行く」 アカツキの返事は一言だけだった。 なんとなく楽しそうだったし、それに、ダイゴとやらに会ってみたいという気持ちを抱いたからだった。 アヤカが会うのを楽しみにしているようなトレーナーなら、さぞ有名か、あるいは強いトレーナーなのだろう。 そんなトレーナーと出会うのは自分のためになると、アカツキはそう判断したらしい。 「ありがたい。わたしの持つ情報では、ダイゴは今ムロ島にいるとのことだ」 「ムロ島ですか。意外と近いんですね」 「距離的には遠いが、時間的にはそう遠くもない。 もっとも、空を飛べるポケモンを持っていれば、ホウエン地方のどこへ行くにも一日あれば事足りるだろうがな。 まあ、そのせいでダイゴはホウエン地方中を飛び回っているわけだが……」 ツワブキ社長はアヤカの言葉に深く頷いた。 その表情が真剣なものに変わった。ダイゴとやらのことを心配しているのが分かった。 「ムロ島にはムロタウンって町があってね。そこにはジムがあるのよ。 次のジムに挑戦したいでしょ?」 「もちろん!!」 アカツキはギュッと拳を握って頷いた。 ツツジに勝利した勢いのまま、次のジムもクリアしてしまいたい。 アカツキは少しでも強くなるために、ジムに挑戦することを選んだのだ。 いきなりジムに……というのは無謀かもしれないが、アヤカはそれもいいかもと楽観論さえ抱いている。 どんな困難も、持ち前の負けん気とその他多数で乗り越えられるだろう。 ここ数日で彼に起きた変化を見せつけられれば、少なくとも悲観的な考えには至らない。 「というわけで、オーライです」 「そうか。かたじけない」 ツワブキ社長の顔に笑みが戻った。 これから重要な会議に臨むにあたり、心配事がひとつ片付いてホッとしたようだった。 柔らかな笑みと優しい目をアカツキに向けて、彼が口を開く。 「アカツキ君。ダイゴと会うのは、恐らく君にとってプラスになるだろう。 なに、わたしの自慢の息子だからな、わたしが言うのもなんだが、期待してもらって構わんよ」 彼の言葉に、アカツキは唖然とした。 道理でダイゴのことをよく知っているはずだ。 親子なのだから、知らない方がどうかしている。 「息子さんなんですか……」 「想像つかなかった?」 「ううん、全然」 アカツキはある程度はそうかな、と思っていたものの、まさか本当にそうだとは思わなかった。 アヤカがさん付けで呼んでたりしているあたり、かなり年上なんだろうと思っていたからだ。 それなら、社長と同年代とか……そう感じていたのだが、それは思いっきり的外れだったようだ。 「今年で二十七になるか。いい歳だというのに、結婚する気もないようだからな。 まったく、頭痛の種ばかり送りつけてくる」 「そんなに年上だったなんて……」 道理でアヤカが『さん付け』するわけだと、アカツキは妙にすんなり納得していた。 二十七歳のトレーナーということは、少なくともハヅキ以上の強さを持っているのは間違いない。 ダイゴ本人の素質や経歴にもよるのだろうが、経験は努力に及ばずともそれなりに幅を利かせているのだ。期待してもいいのだろう。 「お茶をお持ちいたしました」 「ああ、ありがとう」 ちょうど話が途切れたところで、先ほどの受付嬢が入ってきた。 まるでタイミングを見計らっていたかのような感もあるが、本当にそうかもしれない。 彼女はティーポットとカップが三つ入った盆をテーブルに置くと、慣れた手つきでポットの中身をカップに注いでいく。 カップに注がれたのは香ばしい薫りを放つジャスミンティーだった。 ツワブキ社長の好物だ。 お揃いの柄の皿にコップを載せると、三人の前に配る。 「それでは失礼致します」 配り終えるが早いか、受付嬢はお盆を脇に抱えて一礼すると、すたすたと余所余所しい足取りで社長室を後にした。 登場も突然だったが、去っていくのも突然だ。 何がなんだか分からないうちに一瞬でことを為したような……ある意味で得体の知れない存在かもしれなかった。 だが、アカツキはジャスミンティーが放つ薫りに引き込まれ、それどころではなかった。 「いい匂い……」 「叔父様お好みのジャスミンティーよ。わたしも何度かご馳走になったけど、これはおいしいわよ。それではいただきます」 「ああ、お代わりはたくさんあるから、たくさん飲んでくれたまえ」 「いただきます」 アカツキは慣れない手つきで――ティーカップを持つのが初めてだから、アヤカの持ち方を倣ってみた。 指が小刻みに震えているのは、落としてしまわないか不安でたまらなかったからだ。 素人目にも高価なものであることが分かるほど、カップに施された装飾は鮮明だった。 しばらくアカツキたちの方を見ていた社長も、好物を口に運んで満面の笑みをたたえた。 アカツキはジャスミンティーを一口含むと、そのあまりの美味しさに、天にも昇る心地だった。 自然と口元が緩み、笑みが浮かぶ。 カップを落とさないかどうか、不安で刺々しくなっていた気持ちも、角が取れて丸まっていく。 「おいしい……」 感嘆の声が漏れる。こんなに美味しいお茶を飲んだのは初めてだった。 普通にスーパーで売られている安物の紅茶ばかり飲んでいたアカツキにとって、この味は新鮮なものだった。 さすがは社長が飲む高級な紅茶だと思わずにはいられない。 確かに高級といえば高級だが、キャビアほど高いわけではない。 そのことをアカツキが知ることはなかったが。 「そういえば、ダイゴさんって有名人なの?」 「うん? どうしてそう思ったの?」 アカツキが発した疑問に、アヤカが口元に運ぼうとしていたカップをすんでのところで止めた。 意外なものでも見るような目つきでアカツキを見つめる。 どうしてそう思ったのか――そっちの方が気になったから。 「いや、社長さんの息子さんだって。きっと有名人なんだろうなぁ、って」 「ははは。世の中そういうことばかりでもないのだよ」 飲み終えて、ツワブキ社長はカップをソーサーに置くと笑った。 確かに社長の息子ともなれば、誰も放ってはおかないだろう。 いい方よりも悪いタイプの人間がたくさん寄り付いてくるだろう。寄生虫のように。 それだから有名人の息子やら親類縁者やらは大変なのだが…… ツワブキ社長本人が笑ってのけるからには、そういったことには心配が及ばないのだろう。 「まあ、ある意味で有名人かもしれないわね」 「ある意味で、って?」 「言葉通りの意味。ダイゴさんはね、わたしなんか足元にも及ばない、凄腕のトレーナーよ。 あの人と話をしてみたら、きっと君もいい方向に変われると思うな」 「ふーん……」 抑揚のない声で返事するものの、アカツキの胸中は期待に膨らんでいた。 アヤカが言うことは本当だろう。 だとすれば……彼女さえ足元に及ばないような凄腕のトレーナーなら、会ってみたい。 会って、話をしてみたいのだ。 いろいろなことを教えてくれそうな気がする。 まあ、期待通りの展開になるとは限らないが。 ……と、唐突にツワブキ社長が口を開いた。 「君はあの頃のダイゴによく似ているね」 「え?」 あの頃って? アカツキはぽかんと口を開けたまま、呆然と社長の顔を見つめた。 そんなことを気にする風もなく―― 「君くらいの年頃のダイゴも、今の君と、同じような顔をしていた。本当に懐かしいな」 社長の目に、言葉通りのモノが浮かんでいることに、アヤカは言うに及ばず、アカツキも気づいていた。 でも、言われていることの意味は、まるで分からなかった。 第20話へと続く……