第32話 襲撃者 -Raider- 「豪華客船、サント・アンヌ号。縮尺1:100」 そう刻まれた豪華なプレートの脇に、船の模型が飾られてある。 ただ、手を触ることはできない。防弾ガラスで完璧に守られているからだ。 「すごいね……確かこれ、カントー地方で就航してたやつだよ」 「そうなんだ、知らなかった」 アカツキとハルカは並んで、その模型に見入っていた。 救命ボートの数や装飾など、細部まで疎かにすることなく、忠実に再現された外観は、まさに豪華客船と呼ぶにふさわしいものだった。 しかし、サント・アンヌ号は残念ながら数ヶ月ほど前に嵐の海に沈んでしまったらしい。 その勇姿を唯一残すのが、この模型なのだ。 と、そういった海に関するものが一堂に集められたのが、海の科学博物館だ。 船の模型は言うに及ばず、海底で発見されたキレイな石とか、ホンモノかどうか疑わしい深海魚の干物とか。 海に関係するものが集められている。 ふたりはバトルの後の気分転換ということで、海の科学博物館を訪れることにしたのだが、実際はアカツキの希望によるところが大きかった。 というのも、ユウキが「一度行ってみるといい」と言っていたからだ。 よほど興味深いものでないと他人に勧めない彼がそんなことを言ったのだから、よほど面白いものがいっぱいあるに違いない。 そう思って来てみたら、ビンゴだった。 見たことのないものが館内のそこかしこに置かれている。 とはいえ、今時博物館というのはウケないのか、お世辞にも客が多いとは言えない。 だから、静かに見られて、気分も落ち着く。 アカツキもハルカも、喧騒よりは静けさの方が好きなようだ。 アカツキは言うに及ばず、ハルカが住んでいたワカバタウンは、ミシロタウンに似たような町並みで、静かで閑静な町なのだ。 「でも、結構こういうところもいいね」 「うん。ユウキが勧めてくれただけのことはあると思うよ」 アカツキはニッコリと笑った。 ここを選んでよかったと、ハルカの言葉を受けて思った。 どこでもいいと言ってくれたから『海の科学博物館』とつい口走ってしまったが、実際、入館した時は冷や冷やしたものだ。 「つまらな〜い」 ハルカがいつそう言い出すかと心配さえしていたのだ。 だが、今となっては杞憂に過ぎない。 館内は海を意識してか、天井も壁も床も、青系の色で統一されていた。 壁には子供が喜びそうな魚の絵がファンシーに描かれており、和やかな雰囲気をかもし出している。 トゲトゲした気持ちも、どこか笑いを誘うようなタッチの絵に、角が取れて丸まっていく。 「あ、これって水の石じゃない?」 「え?」 ハルカの声に、アカツキは弾かれたように顔を上げると、彼女の指差す先に視線を移した。 展示台の上に鎮座している、手の平ほどの大きさほどの石。 淡いブルーの石は『海』のイメージを凝縮したかのようだ。 現物を見るのは初めてだが、石の傍に説明が添えられている。 「えーっと、水の石。 水タイプのポケモンが進化するのに必要になる石……って、ヌマクローもこの石使って進化するのかな?」 説明をわざわざ口に出して読み上げ、口元に人差し指を宛がうハルカ。 「うーん、違うと思うな。 ぼくのワカシャモはレベルアップで進化するポケモンだし。 たぶん、ヌマクローも同じだと思う」 「そうなの……じゃあ、わざわざ石探さなくても、バトルすればいつの間にか進化してるってことなのかな?」 「そうかもしれない」 アカツキはそうとしか言えなかった。 ユウキほどポケモンのことを知っているわけではないから、どうとも言えないのだ。 「でも、キレイだね。とってもキレイだ」 アカツキはポツリとつぶやいて、水の石を見つめた。 深い海のように、吸い込まれてしまいそうな……不思議な雰囲気を漂わせている。 天井から降り注ぐライトに照らされて、太陽にきらめく大海原に見えないこともない。 「ホント、不思議だわ」 心が洗われていくような気がする。何もかもを水に流すみたいに。 「……というわけですので、今後の予定はそういうことになります」 「そうですか。それでお願いします」 と、背後から話し声が聞こえてきた。 博物館の内部がとても静かだったから、その話し声はよく聴こえた。 アカツキとハルカが振り返ると、ふたりの男性が笑顔で話している。 ひとりは白衣に身を包み、メガネをかけている。 もうひとりはスーツにネクタイ姿で、営業用のカバンを提げている。 ふたりに共通するのは、細身で三十代前半に見えるということだった。 「それではクスノキ館長、失礼します」 「ええ、また後日」 小さく礼をして、スーツ姿の男性が出口へと歩いていく。 「どうしたんだろうね?」 「さあ」 耳元でささやかれ、アカツキは肩をすくめた。 正直、どうでもいいことだし……そう思ったが、口には出さない。 どこにでもある、他愛のない話。 きっとそうに違いない。 「当分はのんびりしていられるかな……今までずっと働き詰めだったし……うん?」 白衣の男性は、自分に向けられている視線に気づいて、そちらを向いた。 その先には、アカツキとハルカの姿があった。 「あ……」 目が合って―― ふたりとも、どうしようかと胸中で慌てふためいた。何もないのに見つめていたなどと、口が裂けても言えるはずがない。 「私の顔に何かついているかい?」 「あ……いえ……」 揃いも揃って、決まりの悪そうな顔で視線を逸らす。 ふふ…… 男性は口元に笑みを浮かべながら、ふたりの傍へ歩み寄ってきた。 「あの、館長って呼ばれてましたよね?」 「ああ、そうだけど」 咄嗟的に飛び出したハルカの言葉に、しかし男性は冷静な表情で頷いた。 「じゃあ……」 チラリと、アカツキはハルカの顔を一瞬見つめ、 「この博物館の?」 「ああ、そうだよ。ここの館長をさせてもらっている、クスノキだ」 男性――クスノキは左手でメガネを正した。 アカツキもハルカも、メガネがずれているとは見えなかったが、本人にしか分からない感覚なのだろう。 「どうだい、この博物館は? 母なる海というのを感じられるだろう?」 「あ……そうですね。 なんていうか、不思議な気分になっちゃって」 「この博物館自体が海の中にあるような感じもしちゃいました」 クスノキの問いに、お世辞にも十一歳の子供にするようなものとは思えなかったが、ふたりはとりあえず今思っていることを口にした。 だが、彼はそんな即興の言葉でも納得してくれたようで、笑みを深めた。 お世辞でも構わないと思っているのだろうか。 それとも、子供の言葉に嘘はないと、おめでたいことを考えているのか、それは分からないが。 「そうだね。 私としても、子供にも受け入れられるように、内装には結構気を配ったからね」 誇らしげな顔で言って、クスノキは周囲を見回した。 壁、天井、床。 鑑賞物の配置から道順に至るまで、自分が監修(プロデュース)した博物館である。 自慢したくなるのも当然だ。 博物館ならたくさんの人の目に触れることになる。そのせいもあるだろう。 「ここで会ったのも何かの縁だし……そうだな、館長室に行かないか? このフロアに飾られていないような貴重なものがあるんだが……」 『え、いいんですか?』 さり気ない提案に、アカツキとハルカの声が重なった。 ふたり揃って、表情を輝かせている。 このフロアに飾られていないような貴重なもの――という言葉に、興味をそそられてしまったようだ。 「ああ、構わないさ。 君たちのような子供も見に来てくれていると分かって、とてもうれしいからね。 そんな君たちに少しくらいサービスしても、罰は当たらないだろう」 そう言って、口の端を吊り上げる。 「じゃあ、お願いします」 「お願いします」 「ああ、分かった」 頭を下げると、クスノキは快くふたりを館長室へと案内した。 すぐ近くに『館長室。用のない方の出入りを禁じます』とプレートのかかった扉があった。 扉を取り囲むように防犯カメラがついているところからして、それなりにセキュリティがなされているようなのだが…… 「ホントにこれで大丈夫なのかしら……」 防犯カメラに目をやって、ハルカは胸中で呆れたようにつぶやいた。 プレートの傍には警備会社のステッカーが張られているが、本当にそれだけで抑止力になるとでも、本気で思っているのだろうか。 ハルカはなんとなく不安を感じた。 「最近、ポケモンを使って強盗働く人いますけど、大丈夫なんですか?」 「大丈夫だと思っているよ」 ノブに鍵を差し込みながら、ハルカの問いに答えるクスノキ。 心なしか、その表情には余裕すらにじんでいるように見えた。 「うーん、確かに穴だらけって気もしないわけじゃないけど……」 アカツキは首を傾げた。 ハルカの言いたいことが、なんとなく分かったからだ。 警備会社ならともかく、たかが防犯カメラ程度の警備では、ポケモンを使えばそのおざなりな『警備』を突破するのはたやすいだろう。 だが、アカツキの抱く心配をよそに、クスノキは余裕綽々と言った様子で、 「普通の人が欲しがるようなものがあるわけじゃないからね。 それに、盗まれたってすぐに足がつくようなシロモノばかりだから。 だから、別に警備を甘くしたっていいんだよ」 「そうなんですか……あたし、よく分かりません」 「まあ、そうだろうね。 普通の人なら、分からないと思うよ」 馬鹿にしているように聞こえるセリフも、どこか嫌みったらしく聞こえない。 アカツキはそこに彼の『人柄』を感じた。 館長などやっているのだ、多少なりとも周囲からの信頼や人望が厚いに違いない。 「さ、どうぞ」 「おじゃまします」 ふたりを中に招き入れると、クスノキは周囲を見回してから、扉を閉めた。 内側からしっかりロックする。 アカツキとハルカは、館長室のほとんどを占領している物体に目を奪われていた。 みっともないことに気が付かないほど、口を大きく開けたまま。 「うわ、何これ?」 「すっごく大きいな……」 館長室は決して狭い部屋ではない。 無論、展示フロアと比べるのは酷というものだが、普通の部屋よりは圧倒的に広い。 館長室の中央部に小山のごとく鎮座している物体は、鉄の塊にしか見えなかった。 パイプらしきものが伸びていたり、タービンがついていたり。 何かの道具なのだろうが、アカツキもハルカもぜんぜん想像がつかない。 「驚いたかい?」 小さく笑いながら、クスノキはその物体の傍まで歩いていくと、愛しそうにそれを撫でた。 申し訳程度に置かれている机や椅子、棚といったものが、余計に小さく見えてしまう。 さながら、その物体に畏怖し、縮こまっているかのようだ。 「これはエンジンなんだよ」 「エンジン? ずいぶんと大きいですね」 予想もしなかった答えに、アカツキは唖然とした。 車のエンジンの何倍くらい大きいだろう。 こんな大きなエンジンを何に使うのか、まるで想像もつかない。 「船のエンジンとか?」 「そうだけど、厳密に言うと、違うかな」 答えをはぐらかすような物言いに、ハルカはちょっとだけムッと来た。 だが、ここで怒り出したところで仕方がない。 知りたいと言う気持ちが感情回路のストッパーになっているのだ。 「これは潜水艇のエンジンなんだ」 「潜水艇……っていうと、小型の潜水艦ですか?」 「ああ、そうなるね」 事も無げに頷くクスノキ。 どうりでこんなの飾れないわけだ……アカツキは胸中で漏らした。 あまりに大きすぎて、展示スペースが削られてしまう。 泣く泣くここに運んできた……というわけではなさそうである。 クスノキの表情はどこか喜悦に似ていた。 潜水艇のエンジンは、子供が十五人ほど手をつないで輪を作ったよりも大きい。 こんな大きなエンジンを積む潜水艇のサイズも、それなりに大きいに違いない。 「でも、大きくありません?」 「確かに。 潜水艇のエンジンなら、もっと小型のものもあるんだけど、どうしてもこれくらいのサイズじゃなきゃダメなんだ。 出力の関係でね」 「はあ……」 アカツキは嘆息した。 出力だの何だの、まるでワケが分からない。 こんな大型のエンジンなど、豪華客船並みの潜水艇じゃあるまいし…… 「実はね、最近になって海底洞窟が発見されてね、その調査を予定しているんだよ」 「海底洞窟?」 「ああ、サイユウシティ沖の海底で、ずいぶんと昔にできた洞窟らしいんだ。 私はその調査を任されているんだ。 潜水艇が完成するまでの間、エンジンをここで預かっているというわけだよ」 「そうなんですか……ロマンチックでいいですね」 「ああ、ロマンがある!!」 ぐいっと拳を握り、瞳に炎を灯しながら力説するクスノキ。 自分の言葉に酔っているのか、声が裏返っていたり意味不明な単語を並び立てていたりするが、それに一切気づいていない。 「な、なんかすごい人だね、ある意味」 「うん……」 耳元でささやかれ、アカツキは唖然としながら頷いた。 なんか、とんでもない人に連れてこられたような気がしてならない。 「母なる海に大いなる一歩を踏み出す我々は、まず間違いなく後世にその名を残すだろう!! ……と、海底まで潜水するのに、普通のエンジンだと出力不足でね。 これくらい大きなものでないと、浮力に打ち勝てるだけの力が出せないんだよ」 「はあ……」 いきなり元に戻っても、今さら驚いたりはしない。 科学者やら政治家には変人が多いと言うのが一般論だ。 それが間違っていないと、奇しくも証明されたわけで…… 「大変ですね、館長とか調査の責任者とか……」 「まあ、これくらいやらないとロマンは語れんよ」 ハルカの言葉に、豪快に笑うクスノキ。 先ほどまでの優秀な科学者面はどこへ消えたのか。これが本性かと思わせるような豹変振りだ。 「でも、エンジンじゃあんまり面白くないな」 アカツキはそう思った。 確かに展示フロアに飾っているものよりも、このエンジンはある意味貴重な物品なのだろう。 しかし、アカツキやハルカからすれば、『ちょいと洒落っ気のある大きなエンジン』にしか過ぎない。 隕石のように巨大な水の石だとか、八百年前に沈没した豪華客船から引き上げられた、半ば朽ち果てた肖像画だとか。 そういったものなら、まだ良かったのかもしれないが…… 「でも、海底洞窟に潜水艇で調査だなんて、面白そうだな……」 無理だとは分かっているが、その調査に同行できればいいなと思った。 海の中なんて実際に見たことはないし、それも深海となれば、見たことのない魚やポケモンにも出会えるのかもしれない。 そっちの方がよほど楽しいに決まっている。 「いつ頃になるんですか? その調査」 「もう少し先になるだろうね。潜水艇の建造が思うよりも捗らなくて。 まあ、少しくらい焦らした方が、期待も膨らむというものだよ」 はははと笑うクスノキ。 単に遅れてるってのを素直に認めたくないから、そう思い込んでるだけなんじゃ……アカツキもハルカも揃って胸中でつぶやいていた。 十一歳の子供にさえ分かるようなことを、目の前にいる科学者は思っているのだ。ある意味で情けない。 「素敵だとは思わないか? 誰の目にも触れられなかった海底洞窟に、現代科学のテクノロジィを集結した、最先端の潜水艇で乗り込んで、暗闇に光を灯す…… あぁ、なんと素敵な物語だろう…… その1ページに名前が刻まれるのは、身に余る光栄だ、そう思わないかね?」 「思うわね。ただし、名前が刻まれるのはあなたではなく、我々です」 「――?」 クスノキのロマンチック発言に応えたのは、しかしアカツキでもハルカでもなかった。 ふたりの背後から聞こえてきた女の声だ。 「この声、どこかで……」 振り返りながら、アカツキはこの声に聞き覚えがあるような気がした。 そして、振り返ると、そこには…… 三人組の男女がいつの間にやら立っていた。 「バカな、扉にはしっかりと鍵をかけておいたはず。君たちは何者だ?」 そう言ったクスノキの表情こそ冷静だが、声はしっかりと震えていた。 そのことに気づいてか、女は笑みを浮かべた。 背の高い女で、年齢は二十代後半か。 整った顔立ちに艶やかな黒髪が映えて見え、どこか凛々しい貴婦人のように感じられるのだが…… 「目じりに小じわが……もう、おばさんね」 ハルカは小さく漏らした。 アカツキにもクスノキにも聞こえていなかったのだが―― ぴくりっ。 女の顔が微かに引きつったように見えたが、すぐに笑みが戻った。 「気にしてるのね、なにげに」 本気で聞こえていたなどとは思わず、とりあえずそういうことにしておいた。 『女の耳は地獄耳〜♪』と、どこかの歌の歌詞にあったような気がする。 「はじめまして、クスノキ館長。 鍵は、私が開けましたの。そういうのは得意でして」 女は笑みを深め、両脇に立っている男から細長いものを受け取って、クスノキに見せた。 それは針金だった。 使う者が使えば、普通の針金でも扉の鍵を開けることくらいはできる。 さながら盗賊である。 先ほどハルカにおばさん呼ばわりされたことなど、聴こえなかったフリをしている。 ムキになって反撃すれば、認めるようなものだと思っているのかもしれない。 「なるほど……」 「その勢いで我々の要求も分かっていただけるとありがたいんですが」 「なぜここにいる? 私が聞きたいのはそれだ」 「ええ。あなたの傍に寄り添うようにして鎮座している、そのエンジン。 頂きたいと思いましてね」 「なに!?」 女の言葉に、クスノキの柳眉が逆立った。 ――わが子のように思っている、この大切なエンジンを頂くだとぉ!? 「そちらの子供たちには用はありません。 そのエンジンさえ頂ければ、我々はおとなしく引き上げます。 我々としても、穏便にことを進めたいのですよ」 「何のつもりだ? 君たちが何者かは知らないが、このエンジンを搭載できる潜水艇は現在建造中のものだけだ。 使い道はないぞ?」 アカツキとハルカは完全に置き去りにされていた。 それはともかく、アカツキは余裕の笑みを浮かべている女のことが気になって仕方がなかった。 彼女の美貌に見惚れているというわけではない。 目じりに小じわが見える以外はそれなりに美しく見える。 そういうことではなく、その声に聞き覚えがあったからだ。 それに、彼女の脇を固めている男の服装も、どこかで見たような気がする。 赤いフードに、角のような突起。 炎がプリントされた赤い服に、長いズボン。 「警察を呼ぶぞ!!」 唐突に、クスノキは恫喝するような声を出した。 びくっ。 いきなり大声を出されるとは思っていなかったようで、女は一瞬怯んだ。 その隙に机の上にある電話の子機を掠め取るようにして手にとって―― 「無駄です。そのようなこともあろうかと、電話回線を切断しました」 「な……」 一瞬にして、クスノキの顔が青ざめた。 子機を耳に当て、女の言葉が本当であることを知ってしまったからだ。 「というわけですので、そのエンジンを頂けますか? 私のポケモンなら、ここから運び出すことが可能です」 「くっ……」 子機を机に叩きつけ、拳をわなわな震わせるクスノキ。 万事休すか…… ふと脳裏にそんな言葉が浮かぶ。 「君たちは何者だ?」 誰何の声に、女は目を細め、 「マグマ団……と言えば分かっていただけますか?」 「そういうことか」 クスノキはその言葉で何もかも悟ったらしい。 「なに、それ?」 「変な組織だよ」 アカツキはポツリとつぶやいた。 やっと、思い出したのだ。 いつだったか、その組織の人間とポケモンバトルをしたことがあった。 その時の苦い経験が、マグマ団という言葉を脳裏にとどまらせる原因となっていた。 細かいことまでは知らないが、変な組織だというのは、男が身を包んでいるコスチュームからも窺い知れる。 「科学者としても著名な貴方です。 我々の存在だけでなく、我々の崇高な理念もご理解していただけるかと思います」 「…………」 沈黙するクスノキ。 それが肯定の意であると、アカツキは感じ取った。 子供など石ころと同じだと言わんばかりに、女はクスノキを一直線に見やり、いけしゃあしゃあと言い放つ。 「実は我々も巨大な潜水艇を開発中でしてね。 まあ、建造場所は明かせませんが、貴方がたが建造しているものよりも性能はいいと思っていますよ。 現に、これほどのエンジンがあるのです。 我々に使われたことの方が、さぞかし本望でしょう」 「断る」 「……そうですか。 お分かりいただけると思っていたのですが。残念です」 言葉とは裏腹に、全然残念そうに聞こえない。 それどころか、笑みを深める。 まるで、こんな展開を望んでいたかのようだ。 「ですが、貴方が強がっていられるのも今だけです。 博物館には私の部下が入り込んでいましてね」 「……卑怯な」 「いずれ感謝する時が来ますよ」 苦し紛れのつぶやきも、女にとっては誉め言葉でしかなかったらしい。 苦虫を噛み潰したような表情で女を睨みつけるクスノキ。 「貴方だけでなく、そちらの子供たちも少し不幸になってしまいますよ?」 「脅しまで使うか。 そうまでして成し得たい『崇高な理念』とやらは、どうせロクなことでもないのだろうな」 「何とでもお言いください。 警備会社が来るまでの時間稼ぎをしようとしているのは、分かっています。 我々はそれを予期した上で、部下を引き連れてきたのですからね。 今頃、警備会社は郊外で足止めを食らっていることでしょう」 「……………………」 これには沈黙するしかなかった。 ここまで来て、アカツキとハルカは事態が逼迫していることを知った。 「貴方が素直にそのエンジンを渡してくだされば、博物館に展示してある国宝級の品には手を出しません。 渡してくださらないのであれば、我々の研究材料として少々、拝借していくことになりますが」 「ぬぅ……」 弱みを握られたと、クスノキは思った。 博物館は、彼がプロデュースしたといえど、管轄は国にある。 よって、そこで盗難があったとなれば、責任問題になるのは必至。 「ハルカ」 「なに?」 アカツキは小さな声で、ハルカに言った。 「このままじゃまずいよ。 ぼくが何とかするから、キミは外に出て」 「何とかするって、どうやって?」 女はアカツキとハルカがヒソヒソ話していることに気づいていながらも、それを『逃げ出す相談』だとは思っていなかった。 そんな度胸が子供にあるものか。 それに、クスノキの性格を考えれば、もう少し圧力を増せば……渡してくれるだろう、エンジンを。 「ポケモンで何とかする。 そうじゃなきゃ、このエンジン、奪われちゃうよ。 何とかできるのはぼくたちだけだ。何とかしなきゃ」 「そ、そうね」 有無を言わさぬアカツキの口調に、ハルカは頷いた。 不思議と、そうしなくちゃという気持ちが湧き上がってくる。 何とかできるのが自分たちだけ……女の言葉が本当なら、そういうことになる。 いつの間に、傍にいる男の子はここまで成長したのか。でも、正直頼もしく感じた。 クスノキがポケモンを持っている様子はない。 それに引き換え、目の前に立ちはだかっている男女三人組は、その手にそれぞれのパートナーが入ったモンスターボールを持っている。 この状況をどうかできるのは、自分たちだけだと、改めて再認識する。 「ふふふ……」 女は小さく笑った。 「行くよ」 「うん……」 アカツキは腰に手を伸ばし―― 「アリゲイツ、水鉄砲!!」 『……っ!?』 モンスターボールを引っつかみ、投げ放つ!! 刹那、アリゲイツはボールから飛び出して、水鉄砲を吹き出した!! アカツキの意志が伝わっているかのように、迅速な行動だった。 「なっ……うぉぉぉっ!!」 アリゲイツが発射した水鉄砲は男の一人に直撃し、壁に叩きつけた!! ぽてっ。 勢いよく叩きつけられ、男は崩れ落ちた。あっさりと気を失う。 「今だ、ハルカ!!」 「警察呼んでくるから!!」 一瞬の出来事に呆気に取られた隙を突いて、ハルカが素早く残りの男と女の脇をすり抜けて館長室を出て行った。 「おまえたちの相手はぼくだ!!」 ハルカを追わせやしない。 こうすると決めたのは、他ならない自分自身だから。 アカツキは握り拳に力を込め、精一杯の感情を込めて相手を睨みつけた。 男の方は妙な迫力に気圧されていたようだが、女はそうもいかなかった。 口元に浮かぶ笑みは、果てしなく冷たく感じられる。 「やれやれ……威勢がいいのは、いいことかもしれないけど…… さっきの女の子、追いなさい。ここは私が引き受けるわ」 「はっ」 女は淡々と男に命じた。 命じられ、男が館長室を出て行く。 これで一対一。 勝てないバトルじゃない――アカツキはそう思った。 二対三では数の上から不利だが、一対一なら、そうでもない。 相手の力量にもよるが、よほど差がついていない限りは、時間稼ぎをすることができるだろう。 無理に勝つ必要はないのだ。 ハルカが警察を呼んでくるまでの時間さえ稼げれば。 だが、それは彼女を信じていなければとてもできないことだ。 ユウキと同様に、彼女は親友だ。 だから信じる。信じることに理由など要らない。 要るとすれば、そんなのは友情なんかじゃない。 「さて、思い切ったことをしてくれたわね。 子供だと思って侮ったのが失敗だったかしら」 女はあくまでも余裕の態度を崩さない。 アカツキを牽制しているつもりらしいが、さすがにそんな見え見えのものには引っかからない。 「でもね、そんなことしても、私たちをどうにかできるなんて思わないでもらいたいわ」 「だ、大丈夫なのか、本当に?」 クスノキは完全にヒステリーになってしまった。 大変なことが起こりそうな気がする……無論、それは間違いなどではない。 ポケモンバトルなどやられた日には、エンジンが……愛しいエンジンが……!! だが、止める気にならないのは、まんまと奪われてたまるかと思っているからだ。 何とかして欲しいけど、エンジンだけは傷つけないで欲しい。 ポケモンを持っていないくせに、考えることは実に尊大だ。 まあ、大人というのは大概がそういうものなのだが…… それはそれとして。 「君の勇気に免じて、教えてあげましょう。私はカガリ。マグマ団三幹部のひとり……」 「カガリだと……!! バカな、君、勝てるはずがないぞ。どうするつもりだ?」 その名前に聞き覚えがあるようで、クスノキは顔面蒼白。 マグマ団三幹部のひとり…… クスノキが知るところによると、マグマ団の中核を担っているのが、ポケモンバトルと統率力に優れた三人の幹部。 目の前に立ちふさがっている女は、その一人なのだ。 虚勢にしてはあまりに滑稽。つまり、ホンモノだ。 「相手が誰だって、そんなの関係ない!!」 アカツキは声を張り上げた。 クスノキの言い分が気に障ったのだ。 マグマ団の幹部? だから? 勝てない? 「やりもしないのにあきらめるなんて嫌だ。 館長は何もしないで、エンジンを渡すんですか?」 「それは……」 痛いところを突かれ、クスノキは言葉を失った。 エンジンを守るように立っている男の子の言葉は正論だ。言い返せるはずもない。 それに…… 「そうだ、私にも何かできることがあるはずだ」 年端も行かぬ男の子でさえ、直接関係ないエンジンを守ろうとしてくれている。 それなのに、自分は何をしている? 何も、言う資格などあるはずもないのに。 「臆さないのね。 ま、いいでしょう。 やる気なら、徹底的にやらせてもらうわよ。 この前のように、中途半端なところで終わらせないわ。 刃向かう気が失せるまで、何度でも泣かせてあげる……」 「この前……」 「そう、トウカの森で君とバトルしたわね。 あの時は思わぬ邪魔が入ったけど……でも、今回は君一人。 今さら泣いて謝っても遅いわよ」 「そうか……」 アカツキはようやく思い出した。 トウカの森……カナズミシティの途中にある大きな森で、この女とバトルしたのだ。 名前も顔も分からなかったが、今になって理解できた。 「あの時の……」 炎タイプのポケモンを駆使し、相性的に有利なはずのアリゲイツをも苦しめた。 あの時は、傍に友達がいたからどうにかできたが、今は一人だ。 クスノキが戦力になるとは思えない。 でも―― 「ぼくだって、あの時とは違うんだ」 ワカシャモやジグザグマがいる。 だから、気を強く持てる。 「じゃあ、始めましょうか。 あの女の子が警察を連れて戻ってきたら、それこそひとたまりもないからね。 もっとも――」 カガリはモンスターボールを手に、笑みを深めた。 「その可能性は万に一つもないけどね!!」 その言葉に応えるように、女のモンスターボールが口を開き、ポケモンが飛び出してきた!! 「ぐるるるる……」 飛び出してきたポケモンは、血が固まってできたような赤い双眸をアカツキの方に向けながら、低いうなり声を上げた。 「グラエナか……」 ポケモン図鑑を見るまでもなく、知っているポケモンだった。 アリゲイツよりも二周りほど大きいだろうか。灰色と黒の大きな犬といった感じの外見。 ポケモントレーナーズスクールでバトルしたことがあるから、タイプも知っている。 「行くわよ。小さな守護者さん」 カガリの言葉に、アカツキは心の中で緊張感が高まっていくのを嫌でも感じていた。 第33話へと続く……