第36話 さよならは言わないよ -Some other time...- 「はあ、一件落着っと……」 セイジがため息混じりにソファに腰を下ろしたのを横目で見つめ、アカツキはジョーイにマッスグマの入ったモンスターボールを預けた。 とりあえずプラスルとマイナンの一件も解決したし、今日はこのポケモンセンターでゆっくり休んで、明日に備えることにしよう。 ドゴームとのバトルで運悪く戦闘不能に陥ってしまったマッスグマも、一晩あればゆっくり休めるはず。 マッスグマが回復を済ませるまでの間、セイジたちと話しでもしようか。 セイジとミツルが腰掛けているソファへと自然と足が向く。 「どうだ、マッスグマは?」 「うん、大丈夫。ジョーイさんに預けてきた」 「そっか。それならいいんだが」 アカツキの答えに、セイジは納得したように頷いてみせた。 ミツルのマイナンを助けるために、アカツキのマッスグマがドゴームに戦いを挑んだものの、戦闘不能になってしまったのだ。 まあ、せめてもの救いは、マイナンを助け出せたことだろうか。 「アカツキ、ありがとう。おかげでマイナンを助けられたよ」 ニコニコ笑顔で礼を言うミツルに、アカツキは首を振った。 「いいよ、別に」 礼なんて要らない。 そう言わんばかりだったが、ミツルは重ねて礼を言った。 手伝ってくれた友達への、せめてもの感謝の印だ。 彼の気持ちを無駄にするわけにもいかず、アカツキは謝意を受け取っておいた。 「しかし、驚いたな。あんなところに野生のドゴームがいるなんて思わなかった」 「そうだね」 セイジは手にしたモンスターボールを指先で器用に回転させながら唸った。 そのボールの中には、そのドゴームが入っている。 ミツルのプラスルとマイナンが繰り出したW10万ボルトによってノックアウトしたドゴームを、セイジがゲットしたのだ。 ポケモンに人一倍興味を持っているからこそ、ドゴームが気になったのだろう。 「ところで、これからどうするんだ?」 指先を離れ、宙を舞ったボールをつかみ取り、セイジがアカツキに聞いた。 「うん。キンセツシティに行くつもりだよ」 「キンセツシティか。ジムにチャレンジでもするのか?」 アカツキは頷いた。 そして、強いトレーナーになりたいからね、と付け足した。 「ミツルとセイジはどうするの?」 「オレはしばらくこいつと旅でもするさ。ひとりじゃまだ心配だからな」 「セイジ、そんなこと言わなくても……」 セイジが素っ気なく言うと、ミツルが頬を赤らめて反論した。 でも、その口調はどこか弱々しかった。 心配されるほど弱いつもりはないが、身体が丈夫じゃないのは認めなければならない……複雑な胸中が窺い知れる態度だ。 「はは……」 アカツキは小さく笑った。 刹那、セイジとミツルの視線が刃物のように突き刺さり、笑みが消える。 ビックリして、手を振りながら、言い訳をする。 「本当に仲がいいんだなって思って」 「まあな、これでも結構長い付き合いだからな」 許してやると言わんばかりに、セイジは荒い鼻息を吐いた。 仲がいいと言われて気を悪くする人などいないだろう。 「なあ、アカツキ。物は相談なんだけどさ……」 「どうしたの、セイジ?」 控えめな口調で言ってくるセイジを見つめ、アカツキは首を傾げた。 何か言いづらそうな表情をしているが、何かあったのだろうか。 なんて、少し心配を抱いていると―― 「オレのポケモンとおまえのポケモン、トレードしないか?」 「トレード?」 「ああ」 予想外の言葉を投げかけられ、アカツキは訝しげに眉を上下させた。 トレード……その言葉は、トレーナーである以上、もちろん知っている。 スポーツ選手がやるようなものとは意味こそ違うが、根本的に物々交換であるところは変わらない。 ポケモントレーナーが言うところのトレードは、互いのポケモンを交換することを言う。 互いの了承の上、育てたポケモンを交換する。 それがどういう意味か、分からないアカツキではなかった。 途端に表情が曇る。 そうなるであろうことは、セイジも予想していた。 アカツキはトレーナーとしてかなりの器の持ち主だ。 だからこそ、ポケモンに注ぐ愛情も深く、手塩に育てたポケモンが自分から離れることの意味も知っている。 アカツキはしばらく黙りこくっていたが、やがてセイジにポツリと訊ねた。 「セイジは、どのポケモンをトレードしたいの?」 「マッスグマ」 「…………」 一拍の間も置かずに返ってきた回答に、アカツキは押し黙ってしまった。 トレードは、その後のポケモンの人生を大きく変えてしまう可能性のある行為だ。 だから、そう簡単には決められない。 もちろん、セイジがポケモンを乱雑に扱うようなブリーダーでないことは知っている。 だけど…… 「もちろん、すぐに返事をもらえるとは思っていないさ」 「ごめん……」 「いや、いいんだ。 君が戸惑うのも分かる。 手塩にかけて育てたポケモンを、オレに預けることになるんだからな。 イエスでも、ノーでもいい。 明日の朝、返事をくれないか?」 アカツキは返事の代わりに頷いた。 そうすることしかできなかった。 その晩―― あれから、アカツキはずっと部屋に閉じこもってばかりいた。 無論、食事には行ったが、時間をずらしたので、セイジとミツルに会うこともなかった。 しかし、ふたりに会いたくなかったわけではない。 いろいろと考えていることがあり、彼らの表情を見てそれが揺らぐといけないと思っていたからだ。 考えていること――それはもちろんトレードのことだった。 セイジはアカツキに、マッスグマをトレードしようと言ってきた。 彼は「とっておきのポケモン」をトレードすると言っていた。 それがどんなポケモンかは知らないが、もしかしたら……もしかするのかもしれない。 気がつけば、マッスグマのモンスターボールを手にしていた。 部屋を淡く照らし出す蛍光灯を消し、部屋にはわずかな月明かりしか入ってこない。 薄暗い部屋にいながらも、月明かりを照りうけたモンスターボールは、寂しげな輝きを放っていた。 まるで、アカツキの心情を読み取ったかのように。 「マッスグマ……」 離れたくない。 アカツキの気持ちはそれだけだった。 生まれて初めて、自分の力でゲットしたポケモン。ゆえに、思い出がギッシリ詰まっている。 「出てきて」 ポツリつぶやくと、ボールからマッスグマが飛び出した。ベッドの上にたたずむアカツキに、青い目を向けている。 「ぐぐぅ……?」 低く喉を鳴らすマッスグマ。 どうしたの――? そう問いかけているように思えた。 マッスグマの青い目と、哀しげに揺れるアカツキの瞳が合った。 「ねえ、マッスグマ」 どれだけ時間が経っただろう。 アカツキは膝を抱え、じっとマッスグマを見つめながら言った。 「ぼくはキミと離れたくない。ずっとずっと一緒にいたい」 できるなら、トレードには応じたくない。 セイジは「イエスでもノーでもいいから、明日の朝までに考えてほしい」と言っていた。 でも、考えがイエスに傾くはずはなかった。 「だって、初めてゲットしたんだよ?」 今にも泣き出しそうな声で言い、腕を広げる。 アカツキの気持ちが分かっているのか、マッスグマはその胸に飛び込んだ。 ぬくもりが腕から全身へと伝わっていく。 そのぬくもりが、離れたくない気持ちに拍車をかける。 「これからだって、ずっと同じ場所にいて、同じ時間を過ごしたいんだ。 ねえ、マッスグマは?」 自分の都合だけでトレードを行うか断るか、決めることはできなかった。 別れたくない気持ちはありながら、しかし、ポケモンの気持ちも考えるべきだと知っていたからだ。 マッスグマはどう思っているのだろう? 言葉が通じたら、分かるのに……もどかしいとは思いながらも、完全に理解してやれないのも、事実だった。 「マッスグマはぼくと一緒にいたい? それとも……」 「ぐぐぅ……」 マッスグマはアカツキの腕の中で、もぞもぞと動いた。 言葉だったなら、一発で分かる。 でも、ないものねだりをしたところで仕方がない。 マッスグマの気持ちを確かめる手段は皆無に等しいのだ。 断るのは簡単。 セイジに「ノー」と言えば、それでいいのだ。 それだけで、トレードは破談する。 これからもずっとマッスグマと一緒にいられる。 楽しく旅を続けられるのだ。 そんなに簡単なことなのに、どうして躊躇っているのだろう…… アカツキは今になって、煮え切らない気持ちを抱いていることに気づいた。 「ぼく、迷ってる。どうして……? マッスグマとずっと一緒にいられるって、分かるのに……」 トレーナーの主導権は、図らずも自分にある。 断るも、受けるも、自分の気持ちひとつなのに、迷っているんて。 自分のことなのに、よく分からない。 むしろ、自分の内面は見えにくいものだ。 と、ドアをノックする音が聞こえた。 「?」 アカツキは顔を上げ、ドアの方に顔を向けた。 そのタイミングを見計らったかのように、部屋の外から声が聞こえてきた。 「アカツキ、いるか?」 「セイジ?」 アカツキはビックリして、ベッドから降りた。 ドアへ歩み寄り、鍵を開ける。 ぎぃっ、と小さく軋んだ音を立て、ドアが開いた。 「セイジ……どうしたの、こんな夜遅くに……」 「いや、ちょいと話をしたいと思ってな……いいか?」 「うん……」 断る理由はなかった。 アカツキはセイジを部屋の中に招き入れると、ドアを閉めた。 もちろん、鍵までかけて。 「ぐぐーっ?」 部屋に入ってきたアカツキの友達に、マッスグマは不思議な視線を向けていた。 友好的でいて、それでいて敵意を抱いているような…… トレーナーと同じで、定まらない気持ちを表すような、そんな視線だ。 「よ、元気か?」 セイジは知らぬ存ぜぬといった顔でマッスグマに近づき、ベッドに座ってその頭を優しく撫でた。 「話って?」 セイジと同じくベッドに腰を下ろしたアカツキは、横目で彼を見つめた。 当然と言えば当然か、セイジはニコニコしていた。 アカツキほどトレードで悩んでいないのだろうか。 それとも…… 「ああ……キミ、悩んでるみたいだから」 「そりゃ、そうだよ……」 アカツキは頭を振った。 悩まないわけがない。 自分と、ポケモンの運命を変えてしまうかもしれない事象を目の前にしているのだ。 悩まなければ仙人にでもなった方がいい。 「キミが悩むのも分かる。 自分の分身ともいえるポケモンを、赤の他人に渡すことになるんだから。 でも、それはオレにも同じことが言えるんだぜ?」 セイジが軽々しく言うものだから、アカツキは悪いと分かっていても、口調を尖らせた。 「セイジは悩まないの? その顔じゃ、あんま悩んでるようには見えないよ?」 語気を強めたのは、それだけ自分のポケモンを大切に考えているからだ。 アカツキの、トレーナーとしての強い使命感を感じ、セイジは困ったようにふっとため息をついた。 「そうだな…… オレはあんまそーいうの、顔に出さないみたいだからさ。 でも、悩んでる。そうは見えないかもしれないけどな」 本当は、セイジも悩んでいる。 でも、そうは見えないのが事実なのだ。 とんだポーカーフェースだ……セイジは胸中で自身を皮肉ってみせた。 そういう自覚はあるつもりだった。 「オレもさ、育ててきたポケモンを手放すってのには躊躇してる。 でも、キミのマッスグマ、レベル的には結構イイ線行ってたからさ。 バトルだけじゃなく、コンテストにも向いてると思うんだ。 他のポケモンは見てないけど、マッスグマだけでもすごいって分かったよ」 「そうなんだ、ぼくにはよく分からないけど……」 マッスグマの頭を撫で続けているセイジから目を逸らし、アカツキは弱々しくつぶやいた。 自分はトレーナーであって、ブリーダーではない。 だから、ブリーダーのことはよく分からない。 言い訳かもしれないが、事実は事実だ。他人の気持ちを完全に理解することはできない。 「マッスグマ?」 アカツキは不意に気づいた。 マッスグマは、頭を撫で続けられているのに、不快そうな表情をまったく見せていない。 それどころか、笑っているように見える。 セイジに甘えているようにも…… もしかして、マッスグマは―― そう思い始めたところで、話を再開するセイジ。 「このマッスグマ、すっごくイイ毛並みしてるよ。キレイに生え揃ってるし、艶もあって、ポケモンコンテストに向いてる」 「コンテスト?」 「ああ。バトルとコンテストの両方に向いてるポケモンってのも、実際珍しいんだよ」 セイジは優しい目をマッスグマに向けていた。 マッスグマも、セイジの抱く優しい気持ちを感じ取ったように、表情を柔らかくしていた。 「ぼくは別れたくない……でも……」 自分の気持ちと、マッスグマの気持ち。 本来なら天秤にかけることなどできないはずの両者は、その両極において、マッスグマの気持ちがタッチの差で地面についた。 「マッスグマは……セイジと一緒にいたいのかな?」 ブリーダーなら、ポケモンを懐かせる術のひとつやふたつは心得ているのだろう。 「でもさ、オレも、キミから永遠にマッスグマを引き離すつもりなんてないよ」 「え?」 「決まってるだろ?」 意外に思ったアカツキに視線を移し、セイジはやれやれとため息を漏らした。 永続的なトレードにアカツキが納得するはずがないと分かっている。 だから、セイジはこんな提案を持ちかけてきた。 「期間限定でいいんだ。 長くても何年ってことになるんだろうな……キミのマッスグマをオレに育てさせてくれないか?」 「あ……」 改まった言い方をされ、アカツキはとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。 トレードはポケモンの交換。 それはずっと続くものだと思っていた。 でも、そうではなかったのだ。 セイジは、しばらくの間、マッスグマを育てるつもりなのだ。 ブリーダーと言うのは、ポケモンを育てることに誇りを感じる職業。 いつかどこかで聞いたような気がする。 「マッスグマ……キミは、いいの?」 その言葉に、マッスグマはアカツキの方を向いた。 彼(?)の顔に、哀しみはなかった。どこか清々しい表情は、自分がこれからどうなるのか、分かっているかのようだった。 「優しいんだな、キミは」 セイジは目を細めた。 アカツキの優しさが、目に染みる。 思わずもらい泣きしそうになるのを、何とかこらえる。 「ぐぐぅ」 心配しないで。大丈夫だよ。 マッスグマの静かな鳴き声が、アカツキにはそう聞こえた。 それで心が動いたわけではない。 ただ、マッスグマの気持ちが分かったような気がするのだ。 自分でも、不思議だと思わずにはいられない。 「セイジ……マッスグマはキミと一緒にいたいみたい。 ぼくからもお願いするよ。マッスグマを大切に育ててほしいんだ」 「ああ、オレもそのつもりだよ。でも、本当にいいのか?」 「うん。決めたんだ。マッスグマの気持ちを一番に優先するって」 確認のために訊ねた言葉に、アカツキは首を縦に振った。 口調が堂々としていたのは、もう迷いを振り切ったからだ。 マッスグマの気持ちを最優先にする……それがトレーナーというものだ。 「悪いな。なんだか、そうさせちまったみたいで」 「ううん、違うんだ。マッスグマの気持ちを大切にしたいって、そう思っただけだから」 「ありがとな。 マッスグマは大切に育てていく。 キミに返す時が来たら、きっとどのポケモンより強くカッコよくなってるだろうぜ」 「うん、期待してるよ。でも……」 アカツキはマッスグマに顔を向けた。 トレーナーの視線を感じてか、マッスグマは見つめ返してきた。 「今夜だけは、一緒にいたい」 「ああ、分かった。オレはもう寝るよ。明日……出発したいからさ」 「うん。ありがとう」 セイジはマッスグマに微笑みかけると、部屋を出て行った。 再び室内はアカツキとマッスグマだけになった。 「ねえ、マッスグマ」 アカツキはベッドに寝転がり、マッスグマを傍に寄せた。 「ぐぐぅ……」 マッスグマの青い瞳がアカツキに向けられる。 不思議と、別れの淋しさは感じなかった。 またいつか、会えると分かっているから。 今生の別れでないと、セイジが言ってくれたから。 「離れてても、ぼくたちはいつでも友達だよ。そのことだけは忘れないで」 「ぐぐぅ」 かすかに嘶いたマッスグマは、頷いているように見えた。 そして。 翌朝、アカツキとセイジは、ジョーイとミツルの立会いのもと、トレードを行った。 ふたりのモンスターボールが専用の機械にかけられる。 アカツキは迷いも何もかも振り切っていた。 マッスグマが望んだことでもあったし、永遠に会えなくなるわけでもないと分かったから。 なぜか、笑っていられた。 「マッスグマ……」 ポツリ、胸中でつぶやいたところで、機械が始動した。 かすかに金属の身体を震わせると、ボールに光を照射する。 それだけで終わりだ。 アカツキは、マッスグマがいなくなったモンスターボールをつかんだ。 心なしか軽く感じられるのは、すでにセイジのボールに移ってしまったからだろうか。 空虚な気持ちの中を、一陣の風が吹き抜けていく。 チクリとする胸の痛みはなかった。 「トレードは無事に終了しました」 相変わらずの笑顔を浮かべたまま、ジョーイが言った。 「お互いに、交換されたポケモンを大切にしてね」 「はい」 返事に納得したのか、笑みを深めて、カウンターの奥へと戻っていく。 ここからは当人たちの問題ということで、余計な干渉は行わない。 「マッスグマがオレのボールに入ったんだな」 セイジはポツリとつぶやいた。 手にしたボールを感慨深げな目で見ているのは、これからのことに期待を馳せているからだろうか。 そんな彼に、アカツキはおもむろに尋ねた。 「ねえ、セイジ」 「ん?」 「キミがトレードしたポケモンって?」 「バクフーンだよ」 「バクフーン……?」 聞いたことのないポケモンだった。 確かめるために、図鑑を開く。 検索メニューを立ち上げて、種族名で検索をかけると、すぐに見つかった。 「バクフーン。かざんポケモン。ヒノアラシの最終進化形。 背中の炎の大きさは怒りに比例すると言われている。 背中の体毛を超高速で擦り合わせることで、爆風と共に炎を巻き起こすことから、バクフーンの名の由来とされている。 なお、ホウエン地方にはほとんど生息していない。 主にジョウト地方に生息している」 「ふーん……」 アカツキは図鑑の画面に映ったポケモンの姿をただ見つめていた。 ダークグリーンと淡いイエローにきっちり色分けがされた身体と、背中で燃える炎が特徴のポケモンだ。 図鑑上では、実際のサイズがどれほどかは分からないが、最終進化形ということで、かなり大きいのは間違いなさそうだ。 後ろ足で立ち、尖った目つきをしている。 立派な体つきは、威厳さえ漂わせているように見えた。 「ホウエン地方じゃ見かけないんだね」 ミツルがポツリと言うと、セイジは首を縦に振った。 「ああ。 オレさ、親父の仕事の都合でジョウト地方に行ったことがあるんだけどさ。 その時にこいつと出会ったんだ。 ま、そこんとこの経緯は端折るけどよ、キミのマッスグマと釣り合うだけのポケモンはこいつしかいないのさ」 「……釣り合う、って?」 要領を得ていないらしく、アカツキは首を傾げた。 そのままの意味で言われては、分からないだろう。 セイジは半眼で答えた。 「実力さ。キミのマッスグマはなかなか強い。 ハイパーボイスを使うドゴームじゃ相手が悪かったかもしんないけど、結構な実力だって分かったぜ。 育てりゃ、きっと強くなれる。 世界一のブリーダーを目指すこのセイジ様に任せとけ」 「うん」 納得したのか、アカツキは頷いて見せた。 「バクフーン……」 ボールをまじまじと見つめる。 未だ見ぬポケモンが入っている。 マッスグマの代わりに、これから一緒に旅を続けていくポケモンだ。 果たして、自分に懐いてくれるだろうか? 逃げ出したり、炎を吹きかけたりしてこないだろうか? 確かに不安はあるが、それよりは新しい仲間を得たという喜びを考えれば、一概にトレードというのも、悪くはない。 マッスグマも、いつかは戻ってくる。 その時まで共にいる仲間だ。 マイナスよりはプラスに考えよう。 「そうそう。こいつの名前、カエデっていうんだ。ニックネームだな」 「ニックネーム……」 「そ。カエデって呼んでやってくれ。どういうわけかその名前を気に入ってるみたいだからさ」 「う、うん」 ニックネームなんて考えたことがなかった。 アリゲイツはアリゲイツで、それ以外の呼び名など、必要なかったからだ。 しかし、セイジとトレードしたバクフーンはカエデというニックネームを持っている。 アリゲイツやワカシャモのように種族名で間違えて呼んでしまったらどうしようとは思うが、そういうのもいいかもしれない。 元はセイジのポケモンだ。 彼の意志を尊重してやるのもいいだろう。 それに、今さらアリゲイツとワカシャモにニックネームをつける気にはならない。 セイジが愛着を持ってカエデというニックネームをつけたのだから、それだけは大切にしてやりたい。 「カエデか……」 いい名前だとは思う。 どういう根拠でつけられたのかは知らないが。 どうも晴れない表情をしているアカツキを安心させるように、口の端に笑みを浮かべ、優しい口調でセイジは言った。 「ま、心配しなくていいぜ。 カエデは人懐っこい性格してっからさ。 ま、じゃれつくのが好きなじゃじゃ馬なのが、ちょいと悩みなんだけど…… 慣れれば結構楽しくなる。キミの旅のムードメーカーになるだろうさ」 「へえ……」 自信たっぷりに言うセイジ。 アカツキはカエデがマッスグマのいなくなった穴を埋めてもなお余りある力の持ち主だということを感じ取った。 根拠のない自慢など、ただの虚勢。張るだけ虚しくなる。 「そうだ……」 何かを思いついたのか、アカツキはその場にしゃがみ込み、リュックを下ろして中を漁った。 「ん、何かあんのか?」 言葉こそなかったものの、リュックに向けられているセイジの視線がそう物語っていた。 リュックの中は乱雑で、例のものを取り出すのに思ったよりも時間がかかってしまった。 でも、結果オーライ。 「その箱は?」 ミツルはアカツキの傍にしゃがみ込んで、不思議そうな視線を手の平サイズの箱に向けた。 「うん、マッスグマに渡そうと思ってね」 「マッスグマに?」 「うん」 さらにアカツキは紐のついた巾着を取り出した。 どういうわけかナオミが持たせてくれたのだが、まさかこれが役に立つなんて、思いもしなかった。 小さな箱の蓋を開けて、六等分に仕切られた中から、色とりどりのポロックを巾着に移していく。 同じ仕切りの中から移されたポロックは、色や形こそバラバラだが、すべてが同じ味で統一されていた。 すなわち、甘い味。 マッスグマの好きな味だ。進化で好みが変わるなどということがなければ、きっと受け入れてくれるはず。 巾着が膨れるくらいまでポロックを詰め込んで、紐を引っ張る。 きゅっ、と小さな音がして、口が閉じた。 紐は、人間が頭を通して首にかけてもあまるくらいの長さがある。 「セイジ。マッスグマ、出してもらえるかい?」 「ああ、いいぜ」 セイジはアカツキの考えていることを理解したらしく、素直にマッスグマをモンスターボールから出してくれた。 「ぐぐーっ」 アカツキを見つめるマッスグマの目は、まるで変わってはいなかった。 トレーナーが変わっても、今までの記憶がなくなるわけではないのだ。 ただ、別れというのを感じているのだろう、どこか寂しげに青い瞳が揺れる。 「マッスグマ。ほら、キミが大好きな甘い味のポロックだよ」 アカツキは笑みを浮かべ、マッスグマの目の前で、ポロック入りの巾着を左右に揺らしてみせた。 巾着からわずかに漏れてくる匂いに気づいて、マッスグマは鼻を鳴らした。 「キミに持たせておくね」 アカツキはマッスグマの首に巾着をかけた。 「ぐぐぅ……」 途端に、マッスグマの表情が曇る。 アカツキの言葉の意味を理解したからだろうか。 胸が痛んだ。 なんて残酷な別れの告げ方だろうと、どうしてかそんなことを思った。 永遠の別れでないと分かっていても、どうしても、胸が痛い。 アカツキはさっと立ち上がり、リュックを背負うと、足早にその場を走り去った。 セイジやミツルが止める暇もなかった。 ふたりとも、アカツキの気持ちを察していたからだ。 笑顔こそ浮かべていたものの、張り裂けんばかりの胸の痛みを覚えていたであろうことも、手に取るように分かった。 だから、止めなかった。 「またな……」 自動ドアの向こうに消えたアカツキの背中へ、セイジはポツリとつぶやいた。 そして、ずっとその方向を見つめているマッスグマの背中を優しく撫でた。 どれだけの時が経ったか、セイジを見上げたマッスグマの青い瞳は、涙で潤んでいるように見えた。 キンセツシティへと歩を進めるアカツキは、ぼろぼろと涙を流していた。 いくら拭っても、絶え間なく流れ出てくる。 心にぽっかり穴が開いたように、乾いた風が生温く感じられる。 「どうして、どうして泣くんだよぉ、アカツキ……」 立ち止まり、うずくまって問いかける。 誰かの目があっても気にしなかったが、生憎と道を歩いているのはアカツキだけだった。 低い嗚咽が漏れる。 「泣きたくない、泣くな、泣いちゃダメだ……こんなところで……!!」 いくら胸中で言い聞かせても、ダメだった。 理性が『泣く』という行為を抑圧しようとしても、感情がそうさせている。 人間、理性で生きているわけではないという証明だ。 「どうして涙が出てくるの? 永遠の別れじゃないって、分かってるのに……いつか、また会えるのに……なんで……」 分かっているはずなのに、涙が止まらない。 納得した……はずなのに。 無理に納得していたのかもしれない。 トレーナーとして、ポケモンが望む形にしたということで。 マッスグマがセイジに懐いているから。そんなの、言い訳だ。 自惚れてたんだ…… 納得したつもりでいた。 何の後悔も、ないと思っていた。 でも、違った。 マッスグマにポロックを渡した、その瞬間―― こらえていた感情が一気に噴き出した。 「でも、いつか会えるんだよね……」 涙を拭くこともせず、立ち上がる。 未だに涙が枯れることなく流れ落ちては、服を濡らし、地面に滴り落ちていく。 でも、それでもいい。 泣きたいから泣く。 理由はそれだけで十分だ。 所詮、理性は感情に勝てない。そういう風に定まっている。 誰もが知りながら、当たり前のように忘れている。 それだけだ。そう、たったそれだけ……一瞬だけ思い出した。 「少し、離れているだけだよね……」 長くても数年と、セイジは言っていた。 その言葉は信じるに値する。 「うん、大丈夫。いつまでも、泣いちゃいられないから」 いつか涙が枯れるだろう。 そう思い、再び歩き出す。 何十分経ったか――あるいは数時間かもしれない。 アカツキの頬には涙の跡さえ残っていなかった。 涙は枯れ果てて、心にも淋しさの余韻さえ残っていない。 手の届く範囲から失ったものの数だけ、得たものもある。 そう思えば、少しは慰めになる。 アカツキは腰のモンスターボールをひとつひっつかんだ。 新しい仲間の入ったモンスターボール。 セイジが念入りに手入れをしていたことを示すように、『☆』のマークが施されたボールはピカピカに輝いていた。 カエデ。 それが新しい仲間の名前。 ひとつ、別れを乗り越えて。 アカツキは少しだけ、トレーナーとしても、人間としても成長した。 「また会えるから、泣かないって……さよならは言わないって。決めたんだ」 口を真一文字にキュッと結んで、隙あらば台頭してきそうな哀しみを抑えこむ。 ふと見上げた青空は、マッスグマを手放したアカツキを慰め、そして新たな仲間を祝福しているように見えた。 第37話へと続く……