第51話 新しい道筋 -Move on!!- 「あわわわ、高い、高いってば!!」 なぜか悲鳴を上げまくるミツルのすぐ前で、アカツキは吹きつけてくる風を全身に浴びて、透き通ったような気分になっていた。 「ちょっと低くできないの、ねえ!?」 そんな気分に水を差してくるのは、他ならぬミツルだった。 アカツキの腰に回した両手がガタガタ震えているのは、この高さが怖くてたまらないからだ。 というのも…… 「大丈夫だよ。ちゃんとつかまってれば落ちないって。第一、命綱だってついてるわけだし……」 「そういうんじゃなくて……ひゃあ……」 視界に地面が入り、ミツルはみっともない悲鳴を上げた。 手に力を込めて、アカツキにつかまると、固く目を閉じた。 「って、そんなに怖がることかな……?」 アカツキはため息を漏らしながら、眼下に広がる地面に目をやった。 キンセツシティから、ホウエン地方中部に位置する砂漠までを結ぶ111番道路が、真下に見える。 首さえ動かせばその端から端まで見えるのだから、その高さは推して知るべし。 ……というのも、今ふたりがいるのは、空を飛んでいるエアームドの背中である。 エアームドの背中はアカツキとミツルがふたりして乗っても問題ないほど大きかった。 エアームド自体が結構頑丈だし、力もあるので、ふたりを乗せても飛べる。 ということで、エントツ山まではエアームドの背中に乗って行くことにしたのだ。 徒歩よりもスピードがあるので、半日もあれば楽に着いてしまう。 エントツ山が視界のかなりを占めつつあった。 ついさっき、111番道路の中ほどで休憩を取ったので、もう少しで着くはずだ。 エントツ山へ近づくごとに、アカツキの中で『リザードンに会える』という気持ちが高まっていく。 もちろん、自分のポケモンを助けてくれたであろうハヅキに会えることもとてもうれしく思っている。 そのおかげで、数百メートルなどという高さなど、恐るるに足らず。 そりゃ最初はビックリしたが、慣れとは恐ろしいもので―― 「いい風だなぁ」 なんて、吹きつけてくる風に心地よさを感じ、エアームドにスピードアップを要求する始末だ。 「こんなにキレイな景色なのに……もったいない」 鳥ポケモンに乗らなければ、こんな景色は見られない。 そうそう乗れる機会などないだけに、瞼の裏にでも焼き付けておかなければ割に合うまい。 「ホントに何とかならないの!?」 「ならない……って言ったら?」 ミツルの悲鳴に、アカツキはちょっとばかり意地悪な気持ちでそう言った。 すると―― 「ぎゃーっ、やだーっ、下ろしてぇぇぇっ!!」 首を激しく左右に打ち振りながら、さらに喚き立てる。 本人はとても真剣に違いないが、アカツキや第三者から見れば、ハッキリ言って笑い事でしかない。 とはいえ、これ以上からかうと、本気で何をしでかすか分からないので、 「大丈夫。少し高度を下ろすよ。エアームド、少し下がって」 「キエェェッ!!」 アカツキの指示に、エアームドが高度を下げた。 乗っている分にはどれほど高度を下げたのか分からないが、実際は数十メートル下がっている。 「す、少しじゃない、本当に……」 ミツルは辛うじてヒステリーから立ち直ったものの、それでもやはり怖がっていた。 数十メートル程度では、地上を歩く人間の大きさがゴマ粒からアリになった程度。 もちろん、落ちたら即死なのは変わらない。 「うーん……あきらめよう……」 言葉どおり、これ以上高度を下げてもらうことはあきらめようと思った。 下ろしすぎたのでは空を飛ぶ意味はないし……それに…… 「こういうのも、悪くないかもしれないから」 あきらめの境地に入ってからは早かった。 先ほどまでヒステリーに陥っていたことなど、まるでウソのようだ。 まあ、ウソだろうが本当だろうが構わない。 どっちだって同じだから。 「あれ、どうしていきなりおとなしくなったのかな……」 アカツキは訝しげに感じたが、それはそれでよかった。 下手に騒がれると、エアームドがバランスを崩して、地面に真ッ逆さま。 それがなくなっただけでも大きな進歩と呼べるのかもしれない。 「もう少しだって、うれしくなったからかな……こんなに胸が熱くなるのって……」 もうすぐ会える。 大切な『家族』たちと。 期待に胸が弾んで、嫌でも気持ちが高ぶっていくのを感じた。 まるで、落ち着くことを許さないかのように。 「もうすぐ……待っててね、みんな」 視界の先にあるエントツ山は、先ほどよりも大きく見えた。 それから三十分。 少しスピードアップしたので、予想より早くたどり着いた。 一刻も早くみんなに会いたいという気持ちがエアームドに伝わったのだろう、何も言わなくても飛行速度を上げてくれたのだ。 山頂に降り立ってもよかったのだが、生憎と中腹から上は雲にすっぽり覆われていて、突入することはできなかった。 万が一それが雷雲だった場合、目にも当てられない。 ということで、麓のフエンタウンの郊外に降り立つと、エアームドを労ってモンスターボールに戻した。 「で……ここから歩くわけだね?」 「うん。でも、途中まではロープウェイで行くよ。 そこからは歩きになるけど……でも、行けるのかな?」 「行けるって?」 ミツルは首をかしげた。 「うん」 アカツキは首を縦に振って、言った。 「中腹から上は何だか立ち入り禁止らしいんだけど…… よくよく考えればぼくもアスナさんも平気で乗り越えてったっけ。 でも、あんなことがあったんだから、本当に立ち入り禁止にされちゃったかもしれないなって思ったんだよ」 「そっか……そうかもしれないね」 その言葉に、ミツルは表情を曇らせた。 シダケタウンにいた時に、アカツキが話してくれたことを思い出したのだ。 山頂に空いた大穴。 規模からして、フエンタウンの町中でさえも穴の穿たれた音は聞こえただろう。 ということは、警察が大挙して押し寄せる可能性が高い。 ゆえに、本当の意味での立ち入り禁止にされているかもしれない。 だが―― 「だからといってあきらめるつもりはないよ。さ、行こう」 「あ、うん」 力強い言葉を受けて、ふたりはロープウェイ乗り場に歩き出した。 乗り場はフエンタウンから少しばかり離れたところにある。 あまりに近すぎると、ロープウェイのロープが張れなくなってしまうためだとは、さすがに分からなかった。 むしろ、その距離がアカツキの心の中でくすぶって、気持ちの高鳴りを助長する結果になるとは誰も予想しなかっただろう。 「すごく楽しそうだね」 「もちろんだよ。みんなに会えるんだから」 「そうだよね……」 要らぬ質問をしてしまった……ウキウキ気分のアカツキを横目で見ながら、ミツルはため息を漏らした。 聞く必要などなかった。 少しの間であれ、離れ離れになっていた家族と再会できるかもしれない。 そりゃ、当然うれしいに決まっている。 「でもさ、エントツ山って一口に言っても、すごく広いよね」 「うん」 「キミのアリゲイツとかがどこにいるのかって、見当はつけてるの?」 「あ……」 アカツキは言葉を失った。 まさか、そんなことを聞いてくるなんて思っていなかったのだ。 それに、そこまで考えたことなんてなかった。 「もしかして、考えてなかったとか?」 「うん……」 これにはミツルも呆れてしまった。 ちゃんと考えてたとばかり思っていたのだが……どうやら、アカツキはいささかオマヌケなところがあるようだ。 家族に会いに行くのだから、それなりに目星もつけているだろうと思っていたのだ。 だが、十一歳の男の子にそこまでを求めるのは無理な相談だったらしい。 「あははは、キミに言われるまで気づかなかったよ」 「……まあ、いいんだけどさ」 「でも、どこにいたって大丈夫。きっと会えるから。 一番先に、山頂に行きたいんだ。あそこでぼくたち、離れ離れになったから」 「そっか。そこならアリゲイツたちもいるかもしれないね」 ミツルも、アカツキと同じことを思っていた。 それはいわゆる『始まりの場所』なのである。 劇的なきっかけを与えられた場所であり、一番心に残る場所でもあるのだ。 普通の人間の心理からすれば、そこを真っ先に当たるのが当然だ。 「エアームドって仲間が増えたこと、みんなにちゃんと報告しておきたいしさ」 「そうだね。ちゃんと顔を合わせておいた方が、すぐに仲良くなれるもんね」 「うん」 アカツキはエアームドのモンスターボールを手に取った。 今頃はぐっすりと、居心地の良い(……と思われる)ボールの中で休んでいることだろう。 アカツキとミツルのふたりを乗せて、一度休憩を挟んだとは言え、キンセツシティから飛んできたのだ。 態度にこそ出していなかったが、疲れているに違いない。 「ゆっくり休んでてね」 改めてエアームドの苦労を労うと、ボールを腰に戻した。 そう。 アリゲイツたちは、アカツキにエアームドという仲間が増えたことを知らない。 ちゃんと紹介して、早く仲良くなってもらわなくては。 「そういえばさ、キミのポケモンを助けてくれたのは、キミのお兄さんなんだって?」 「うん。ぼくの兄ちゃん……一年も会ってないんだけどね」 思い出したように手を打ちながら問いを投げかけてくるミツルに、アカツキは苦笑混じりに答えた。 母ナオミの話によると、ハヅキがアリゲイツたちを連れてエントツ山で待っているらしい。 一年ぶりに――しかもこんな形で会うことになろうとは、予想もしていなかった。 「どんなお兄さんなの?」 「会えば分かるよ。優しくて、強くて……自慢できる兄ちゃんだよ」 「へえ……」 アカツキにとってハヅキは自慢の兄だ。 兄弟のいないミツルは、そういうのをうらやましく思った。 彼の気持ちなど知る由もないままに歩みを進めていくと、ほどなくロープウェイ乗り場にたどり着いた。 もうすぐ夏も本番。 ハイキングシーズンのせいか、ロープウェイに乗る人はまばらだった。 楽をして登ろうという気がないと、そういった殊勝な心がけの人が多いのであれば、それはそれで誉められるべきことなのだろうが…… 一瞬さえも惜しい今のアカツキには、エアームドに乗る以外でエントツ山の頂上にたどり着ける手段はロープウェイしかなかった。 エアームドももう少しは頑張れるかもしれないが、アカツキとしてはもう十分だった。 無理をしてもらっても、ちっともうれしくなんかないから。 ここまで運んでくれたことだけでも十分だ。 自販機でチケットを買って、ロープウェイに乗り込む。 ブーと音がして、ドアが閉められた。 エンジン音が響き、動き出す。 ロープウェイというのは、楽をして山を登る以外に、空を飛べなければ見られないような景色を見下ろす醍醐味がある。 無論、アカツキはそのどちらも目的として持ち合わせていない。 あくまでもプロセスの一環でしかない。 「うわぁ、キレイ……」 窓ガラスに両手を貼り付けて、外の景色を見つめながら、ミツルが感嘆の声を上げた。 鮮やかな新緑に彩られた山の木々と、白い雲を味方につけた青い空が二分する景色。 美しく、それでいて儚い。半ばありふれた幻想も、アカツキの目には入らなかった。 ただ、はぐれてしまった家族のことを考えているばかりだった。 「ほら、アカツキ。見てよ。鳥ポケモンが飛んでるよ!!」 声を上げてはしゃぐミツルの言葉にも、耳を貸さない。 確かに彼の言うとおり、窓の外ではオオスバメの親子が戯れながら飛んでいくのが見えた。 「アカツキ? どうしたの?」 「うん……みんなのこと、考えてたんだ。 ごめん、景色がキレイじゃないってわけじゃないんだ。 ただ……気になって」 「そうだよね。キミの気持ちも知らないではしゃいでいた僕が悪いんだよね」 「ミツルは悪くないよ。 心配なんてしなくていいって、分かってるはずなのに……そう、ぼくは、心配してるんだ」 「何を?」 ミツルの問いかけに、アカツキは俯いたまま、しばらく答えなかった。 それだけのことでも、不思議とミツルは彼の気持ちを察することができた。 きっと、分かりやすい表情をしていたからだろうと思い、言葉が来るのを待った。 無理に聞き出すようなマネはしない。 アカツキが傷つくだけだと分かっているから。 せっかくの景色が台無しになるような雰囲気を漂わせるアカツキなどお構いなしに、親子連れが外の景色でいろんなことを話している。 特に子供は雰囲気を読むのが下手なのか、はしゃぎまくっている。 「みんなが、ぼくのこと、ちゃんと待っててくれてるかどうかって……」 「どうしたの、いきなり?」 「何日も離れたことなんてなかったから、みんな、捨てられたなんて思ってないかなって…… どうしてか知らないけど、心配になって……」 「大丈夫だよ」 絶え絶えの声でつぶやくアカツキの肩に、ミツルは手を置いた。 「?」 優しい言葉と暖かな手に、弾かれるように顔を上げると、そこには笑顔があった。 「ミツル……」 「あの時――キミのポケモンを見てたけど、そんなことを思うようなポケモンじゃないよ。 セイジだって、そんな風には思ってないと思う。 心配なのは分かるけど、そんなの抱いてたら、せっかくの再会も台無しになっちゃうじゃないか」 「そうだね……馬鹿馬鹿しいよね」 アカツキは頭を振った。 そして笑顔を取り戻す。 「ありがとう、ミツル。ぼく、どうかしてたよ」 「そうだよ。キミには笑顔が似合ってるんだから」 力強い言葉に頷いた。 気持ちを切り替えて、外の景色に目をやる。 先ほどと違って、素直に美しいと思えた。 満開の花々が咲き乱れた花野も、見る人と、その人が懐く気持ちひとつで見える風景が違ってくる。 どうしようもないほど落ち込んでいる時なら、残酷なほどキレイな地獄の花園に見えたり。 すばらしく舞い上がっている時なら、祝福してくれているように見えたり……極端な例としても、多少はそういうことがあるものだ。 「本当にキレイだ……」 アカツキは景色の美しさに思わずため息を漏らしてしまった。 どうしてこの景色を見ずに考え事などしてしまったのだろう……今さらながら悔やまれてならない。 「みんなも同じ景色を見てるのかな……」 この美しい景色を見て、アカツキと同じように、心が洗われる気持ちを抱いているのだろうか。 だとしたら…… 「大丈夫。きっと、みんなもぼくのことを待っててくれてる」 先ほどまで懐いていた不安が、ウソのように消えていく。 「だから、今は胸を張って会いに行けばいいんだ」 きっと、『家族』たちもそれを望んでいるはず。 少なくとも、兄のハヅキは。 ロープウェイでの時間は、思ったよりも短かった。 景色に見惚れていたから、時間間隔が麻痺していたのかもしれない。 それならばそれでよかった。 中腹にたどり着く。 ハイキングコースの終着駅だけあって、それなりに賑わっていた。 「この中にハヅキ兄ちゃんがいるのかな……うーん、見当たらないけど……」 一段高くなっているロープウェイ乗り場の入り口から、広場のようになっている中腹を背伸びして見つめる。 ロープウェイから降りた人以外は、ほとんどハイキングの格好をしていた。 少なくとも、それらの人の中から兄の姿は探し出せなかった。 「いないの?」 「うん」 見間違うはずなどない。そう思いながら頷く。 ハヅキの姿はここにはなかった。 「兄ちゃんはきっと山頂にいるんだ。ぼくはそう思う」 「でも、山頂ってあっちでしょ?」 ミツルの指差した先には、確かに山頂に続く道があった。 しかし―― 立ち入り禁止の看板と、背の高いポールが道の左右に一本ずつ。 ポールの間には、陽光を照り受けて銀色に輝く鎖が幾重にも巻かれていて、道を塞いでいる。 「前はあそこまで厳重じゃなかったけど……」 前も同じように鉄の鎖が巻かれていたが、そこまで厳重ではなかった。 それでさえ人力ではどうにもならないのだが、あの時はそれが切れていたので、その先へと進むことができた。 しかし、今は違う。 鎖は本気で何重にも巻かれており、人力はおろか、並大抵のポケモンではとても破壊できないようなつくりになっている。 その上、ポールのてっぺんにはそれぞれ監視カメラがつけられており、万に一つ通り抜けた時のために稼動している。 どう考えても立ち入り禁止だ。 それはつまり、警察でさえ介入するような大事だったということに他ならない。 「あの先に兄ちゃんが……みんながいるんだな……」 今すぐにエアームドでポールと鎖をぶっ壊して先に進みたいという気持ちでいっぱいだったが、さすがにそれはできなかった。 器物破損というリスクを冒してまですることではないのだろうし、それ以外にも方法が残されているからだ。 本気で立ち入り禁止にするのに、鉄の鎖と監視カメラ程度ではいささか荷が勝ちすぎている。 分不相応と言ってもいい。 あくまでも睨みを利かせる程度の役割でしかないが、普通の人ならそれを乗り越えてまで行こうとは思わないだろう。 本気の本気、超本気でどうにかしたいのなら、山自体を立ち入り禁止にして、ヘリコプターで絶えず巡回していればいいのだ。 「アカツキ。どうやって行くの?」 「エアームドの力を借りるよ。それしか方法、ないだろうから」 「そうだね」 結局はそれしかないと悟って、ミツルはため息を吐いた。 無論、止めても無駄であろうということも。 アカツキはどんな方法で立ち塞がれても平気で実行するだけの気持ちを抱いているのだ。 「でも、人目につくのはさすがに嫌だから……ちょっとこっちに来て」 「うん」 素直に従い、アカツキについていく。 ロープウェイ乗り場に隠れて人目につかない場所に移動してから、アカツキはエアームドをモンスターボールから出した。 疲れなど知らぬ存ぜぬと言わんばかりに、元気に羽ばたいている。 「エアームド。もう少しだけ、頑張ってくれるかな?」 「キエェッ!!」 アカツキの言葉に、任せとけとばかりに大きな声を上げるエアームド。 だが、鳥ポケモンが鳴くことはよくあることと、誰も疑問になど思ってはいなかった。 エアームドは地面に降り立つと、アカツキとミツルを乗せた。 思いのほか静かに羽ばたくエアームドに、誰も気づかない。 「さっきより、少し雲が晴れたかな……」 先ほどまでは雲が立ち込めていた山頂付近も、少しばかりその雲が晴れているように思えた。 今なら、雲の中を突っ切ってでも行けそうな気がする。 エアームドの『特性』は『鋭い目』。 ポケモンバトルの時では、攻撃の命中精度を上げられるが、日常生活でもその恩恵を受けている。 要するに、目がとても良いということだ。 多少の雲程度なら、その隙間から、奥にある地形を読み取ることができるはず。 「エアームド、行こう!! みんなに会いに!!」 アカツキの元気な言葉に、エアームドは勢いよく、雲の向こうにある山頂へと飛び立った。 強風に振り落とされないように、アカツキは両足に力を込めて踏ん張った。 ミツルはどうにも上手くそれができないので、アカツキの腰に両手を回してつかまっていた。 アカツキの気持ちが伝わったのか、エアームドは恐れずに雲の中へと突っ込んでいく。 「うわ……」 蒸せそうな風に、ミツルは思わず咳き込んでしまったが、それはほんのわずかの間だけだった。 エアームドのスピードは思っていたよりも上がっており、瞬く間に、山頂を包んでいた雲を抜けてしまったからだ。 雲の先には、露になった山頂があった。 「あの時と同じ……」 広間のような、平坦な山頂。 火山があったことを思わせるのは、あの時穿たれた大穴のみ。 しかし、それは人的要因によって穿たれたもの。火口などとは明らかに違う。 アカツキは黒々とした穴を見つめ、身震いした。 どこまで続いているかも分からないあの穴に、自分は落ちたのだ。 どういった場所を通ってか、川を流れてシダケタウンにまで流れ着いた。 いくら科学技術が進歩しても、穿たれた穴をすぐに、跡を残さずに埋め戻すことはできない。 万が一誰かが来た時に備えて、子供だましにもならないようなポールと鎖に囲まれているだけだ。 もっとも、そんなところに用などないのだから、それはそれでいい。 アカツキは、山頂に兄の姿を探した。 いくら平坦でも、山頂はそれなりに広い。 隠れるのにもってこいの岩がゴロゴロしていたので、そう簡単には探せなかった。 「エアームド、あそこに降りて」 山頂の一点を指差して、降りるように指示を出す。 エアームドはゆっくりと高度を下げていく。地面に達するまでの間、アカツキはずっと辺りを見渡していた。 それでも、見つからなかった。 「ありがとう、エアームド。ゆっくり休んでて」 山頂に降り立って、アカツキはエアームドをモンスターボールに戻した。 エアームドには頼らないつもりだったが、結局は頼ってしまった。 そうしなければ、ここにたどり着くのが著しく遅れていただろうから、仕方のないことだと割り切れた。 「広いね」 「うん。でも、大丈夫」 アカツキは自信を持って頷いた。アリゲイツたちは必ず山頂の何処かにいる。 漠然とした予感……アカツキにとっては必然以上の効力を持っていた。 不安そうな顔のミツルには構わず、大きく息を吸い込むと―― 「ハヅキ兄ちゃん、ぼくだよ、アカツキだよ!!」 大きな声で呼びかける。 この声が聞こえているなら、きっと出てきてくれるはずだ。 ハヅキを信じているから。信じられるだけの理由があるから。 声が反響し、次第に小さくなっていく中で。 じゃりっ。 小さな音が聞こえ、アカツキは身体ごと振り向いた。 岩陰からゆっくりと出てきたのは、見慣れた顔だった。 「兄ちゃん……」 小さな声でつぶやくと、それが聞こえたのだろう、彼はニッコリ笑って頷いてくれた。 「この人がアカツキのお兄さん……」 ややクセのある茶髪の、背の高い少年だ。 大人びた顔つきで、美少年と呼べなくはない。 どこかアカツキに似ているような雰囲気を放つその少年こそ、アカツキの兄ハヅキだった。 彼はアカツキの目の前まで歩いてくると、 「久しぶりだな、アカツキ」 「うん!!」 柔らかな口調で言われ、アカツキの中の気持ちが爆発した。 一年ぶりに会えたうれしさで胸がいっぱいになる。 思わず涙がこぼれてしまいそうだったが、兄の手前必死にこらえる。 「一年ぶり……かな。 ごめんな、誕生日に戻ってあげられなくて」 「いいよ。兄ちゃんにちゃんと会えたんだから」 「そっか……ところでそっちの子は?」 「うん。ぼくの友達で、ミツルっていうんだ」 「ミツルです。はじめまして」 「はじめまして」 再会の喜びはほどほどに、自己紹介をするハヅキとミツル。 すっかり打ち解けてしまったようだ。 「ところでアカツキ。僕がここにいることは、母さんから聞いたんだろう?」 「うん、そうだけど……」 「なら、僕がここにいるワケも、分かってるんだろう?」 「うん」 淡々と――あるいは冷たく話すハヅキ。 アカツキはなぜか不安になった。 目の前にいるのは確かに、自分のよく知っている兄だ。 一年という時が、子供から大人へと変えていったのだろう。 すっかり大人の顔つきになっている。 話し方も、雰囲気も、少しばかり変わっているような気がする。 もっとも、その分アカツキだって成長した。 「兄ちゃん、いったい……」 不安の正体を確かめようと、口を開いたその時だった。 ハヅキの右手が、アカツキの頬を打った!! 「……っ!!」 避けようがなかった。 完全に不意を打たれ、アカツキはその場に転んでしまった。 上体を起こし、呆然とハヅキの顔を見上げる。 いったいどうして、叩かれなければならないのか。 その理由が分からなかったのだ。 真剣な眼差しを弟に注ぐハヅキ。 ミツルは本気で何が何だか分からなかった。 アカツキ以上に、と言ってもいい。 再会したかと思ったらいきなり頬を叩く。 それも、手加減などしていなかっただろう。明らかに普通じゃない。 頬を突き刺すような痛みと、胸を刃物で抉り取られたような心の痛み。 二重の痛みがアカツキを突風のように襲った。 「に、兄ちゃん……?」 「アカツキ。おまえはトレーナーだろ?」 「…………」 「だったら、どうして僕がおまえを殴ったりしたか、分かるはずだよ」 「…………」 アカツキは何も言わなかった。 言えなかったのかもしれない。 ハヅキからすればどちらでもいい。 ただ、トレーナーとしての心構えを分かってもらえれば、それでよかった。 問答無用で殴ってしまったことは許されないだろう。 後でいくらでも罰は受けるつもりだ。 すべてはアカツキのためを思ってのこと。 言い訳にしかならなくても、それでいい。 言い訳などする気さえないからだ。 アカツキは俯き、今にも消えそうな声でつぶやいた。 兄が怒る理由があるとすれば、ひとつしかない。 「ぼくが……みんなに心配をかけたから……」 「そうだよ」 ハヅキは頷き、膝を折った。 アカツキと同じ目線に立って、弟の目を真っすぐに見つめて。 弟も、兄の目を見つめ返している。 兄弟の間にだけ通じている気持ちで、結ばれている。 「いきなり痛い思いさせてごめんな」 謝り、痛かっただろう……と、優しく頬を撫でる。 アカツキは殴り返したり、罵声を浴びせたりはしなかった。 ハヅキの気持ちが伝わってきたから。 自分が、トレーナーとしてまだまだ未熟だと、そう宣告されただけと知ったから。 「でも、トレーナーはポケモンに心配なんてかけちゃいけないんだ。 たとえ、どんなことがあったとしても。 おまえのポケモンたちは、本当におまえのことを想ってくれてる。 傍にいて、それがよく分かったんだよ」 ハヅキは笑みを浮かべた。 予想したよりも、弟はずっと成長している。 一年も会っていなかったから、測り損ねたのだろう。 「ほら、おまえの『家族』はここにいるんだ。出して、抱いてあげるんだよ」 「うん……」 差し出された三つのモンスターボールを、アカツキは手に取った。 固いものに何度もぶつかったのだろう、ボールは傷だらけだった。 でも、ボールは傷ついても、中身までは傷ついていない。 「みんな……」 アカツキは感慨深げにつぶやいた。 ボールの表面を通して分かる。 みんなが、自分がボールを手に取るのを心待ちにしていたことが。 その気持ちが、嫌というほどに伝わってくる。 「出ておいで、ぼくの家族たち!!」 友達でも、仲間でも、ポケモンでも。 すべてであって、すべてではない。 アカツキにとって、ポケモンたちは家族だ。 三つのモンスターボールを、勢いよく宙に放り投げる!! その時を待っていたかのように、ボールは頂点で口を開き、中からポケモンを放出した!! アリゲイツ、ワカシャモ、カエデ。 アカツキの愛しい家族たち。 ……やっと、会えた。 アカツキは飛び出してきたポケモンたちを、涙をぼろぼろ流しながら力いっぱい抱きしめた!! 「会いたかった……会いたかったよ……」 アリゲイツも、ワカシャモも、カエデも。 愛しきトレーナーと再び会えて感極まったのだろう。 例外なく涙を流しながら、アカツキと抱き合った。 「いいなあ……」 胸がじんとしてくる。 ミツルは思わずもらい泣きしそうになった。 それくらい、うれしい光景だったから。 他人のことなのに、自分のことのように喜びを感じる。不思議でたまらなかった。 「アリゲイツ、ワカシャモ、カエデ……本当に無事でよかったよぉ……」 涙で頬を濡らしながら、それぞれの頭を撫でる。会いたいと言う気持ちが弾けて、喜びに変わる。 「ミツル君……だったね」 「あ、はい」 「ありがとう、アカツキと一緒に来てくれて。 あいつも、ひとりじゃきっとここまで来れなかったと思う。 兄として礼を言うよ。本当に、ありがとう」 「え……」 ミツルは正直戸惑いを隠しきれなかった。 いきなり自分の方に歩いてくるから、何だろうと思っていたら……まさか、礼を言われるなんて。思いもしなかった。 それに―― 「そんな、僕の方こそお礼を言いたいです。 僕がアカツキに連れてってくれって頼んだんですから」 ミツルは慌てて否定するが、それでもハヅキは自分の気持ちを貫いた。 「それでもありがとう。 アカツキはいい友達に恵まれたんだって分かるからね」 ハヅキの笑顔に、ミツルは彼の感謝の意を受け取ることにした。 自分の感謝の気持ちも、ハヅキに十分伝わったと分かったから。 「でも、いいですね。こうやって、家族とまた会えるなんて」 「そうだな。 僕も、まさかアカツキのポケモンがボールに入ったまま川をどんぶらこと流れてきた時には驚いたけど……」 ハヅキは自分の言葉に苦笑した。 人生、予期せぬところで、どこかとどこかがつながっていると思い知らされた。 「ところで……」 ポツリつぶやき、ハヅキは先ほどまでいた岩陰に身体ごと振り向いた。 「そろそろいいですか? いつまでもそこにいてもらうのは、困るんじゃないですか?」 「そうだね。そろそろ登場するとしよう」 彼の言葉に応えたのは、別の声だった。 再会の喜び冷めやらぬまま、涙を流したまま、アカツキは岩陰を見つめた。 そこから出てきたのは、男女。その両方共に、アカツキには見覚えがあった。 「ダイゴさんにアスナさん……そ、そこにいたなんて……」 その姿を見て、急に恥ずかしくなった。 まさか、岩陰に他に人が隠れていたなんて。 知っていたら、ここまで大声で泣いたりしなかったのに……知らず知らずのうちに後悔が膨れ上がっていく。 あんなに声を上げて泣くんじゃなかった…… あー、もう恥ずかしい!! 穴があったら飛び込みたい気持ちになりながらも、大慌てで涙を拭いて、ふたりの方に向き直る。 ふたりとも、満面の笑みを浮かべているものだから、余計に恥ずかしさが増大していく。 どんな気持ちで今のやり取りを見ていたのか……ちょっと考えれば、嫌でも分かってしまう。 もっとも、ふたりとも、そのような人間などでは決してない。 「アカツキ君。久しぶりだね。 君がハヅキ君の弟だって聞いた時には、正直驚いたけど……でも、頷けたよ」 「まったくや。あんたがそうやったとは、あたいも思わへんかったで?」 ダイゴは相変わらずスーツ姿で、肘の辺りには左右ともに鉄だか銀だかの腕輪を填めている。 一方、アスナは開放的なルックスで、本格的な夏の到来を前にして、いち早く戦闘モードと言わんばかり。 ふたりとも元気そうで、アカツキはホッとした。 アスナはどうやら、あの混乱した場所から無事に戻ることができたらしい。 それだけでも十分にうれしかった。 で、ミツルはというと……完全に置き忘れられていた。 場の雰囲気についていけないのである。 突如として現れた、白みがかった髪の青年と、翼のように――炎のように、鮮やかな赤い髪を広げた少女。 もちろん、見覚えなどあるはずもない。 「元気そうでよかったよ。 ハヅキ君から――アスナ君からもだけど、話を聞かされた時には驚いた。 でも、無事で何よりだ」 「まったくやな。あの穴がどこに通じとるかも分からへんかったんや。 無事でホンマに良かったわ」 「うん……」 アカツキは頷いた。 ふたりに余計な心配をかけてしまったことに、多少の罪悪感を覚えた。 それでも、こうして無事な姿を見せられたことで、少しは救われたような気持ちになる。 「まあ、それはともかく……」 コホン。 ダイゴが咳払いをひとつすると、場の雰囲気が変わった。 先ほどまでの、アカツキとポケモンたちとの再会を祝う場面から、真剣な雰囲気漂う場面へと移行する。 おかげで、ミツルはまた置いていかれた。 「だいたいの事情は、アスナから聞いたよ。 マグマ団が炎ポケモンをあちこちから誘拐し、その力を借りてこのエントツ山を噴火させ、陸地を広げるという計画を企てていたこと。 それを阻止するためにアクア団がやってきたこと。 結局のところ君はその二者の戦いに巻き込まれる形であんな目に遭ったわけだから、本当に運が悪いとしか言いようがない」 「はあ……」 淡々と、しかし早口で捲くし立てるようにしゃべるダイゴに相槌を入れる暇さえない。 アカツキにできたのは、間抜けなその答えだけ。 で、次の一瞬にはやはりダイゴの口から言葉が飛び出していた。 真剣な表情をたたえて。 「……が、火山が噴火していないところからすると、マグマ団の計画は失敗に終わったようだ。 アスナは二者の戦いに紛れてフエンタウンに戻ることができたらしいが…… コータスは取り返せなかったのに、どういうわけか彼女の手元に戻っている」 「え?」 アカツキはビックリした。 ダイゴの言葉に矛盾を感じたからだが、無論彼自身がそれに気づかないはずがない。 「そう。君が驚くのはもっともなことだ」 ダイゴと一緒に、ハヅキとアスナまで頷いている。 ハヅキもアスナからその時の話を聞いていたためだ。 「何者かの手によって、アスナ君のもとに、コータスが返された。 マグマ団がそんなことをするとは思えないし、アクア団とてそこまでする義理もないはずだ。 となれば、誰がそれをしたのか? 僕たちが立ち止まっているのはそこなんだよ」 「……誰なんですか?」 「分からない。 だが、アスナ君は自分で持ち帰ったという記憶がないらしい。 となれば、誰かがそっと返したと考えるのが自然だ。 だが、マグマ団、アクア団共にそれをする理由がない。 いや、理由がないだけで、それを実際にやった者がどちらかにいる可能性が高い」 ダイゴは言い終えると、ため息を吐いた。 動機がないのに、それを行ったのが二者のどちらかである可能性が高い。 そういった事象こそ、刑事事件などよりもよほど複雑に絡まった迷宮に違いない。 一般人には単なる矛盾としか思われないのだろうが…… 「ともかく、今のところこの問題は解決しているから、これ以上深く踏み込むつもりはないよ。 拉致されたすべての炎ポケモンがトレーナーのもとに返されたという報告を受けているからね」 「解決なんですね。よかった……」 ちゃんと解決していたということに、アカツキは安堵した。 あんなことが二度と起こって欲しくない。 当事者たちはどうだか知らないが、傷つく人がいるのだ、愚かなその行為で。 使命感に燃えるのはいいことだとは思うが、方法を考えるべきだと思う。 他人を思いやる気持ちがあれば、あんな凶行に走るわけがないのに。 「ただ……」 「ただ?」 アカツキは鸚鵡返しに聞き返した。 ダイゴの、何か煮え切らないものを抱えているような表情が気になったのだ。 何かをまだ確信にまで移せていない……本当にすべてが終わったわけではないと思わせる。 そんな表情に何かを感じた。 「アスナの話だと、君が無事だったのは、とあるポケモンに助けられたからではないかと、そういうことらしい」 「とあるポケモン?」 「そうだよ」 アカツキの脳裏に浮かんだのは『黒いリザードン』だった。 あの時ゴマ粒のようにしか見えなかったが、見紛うはずもない。 だが、答えは違っていたらしい。 「リクヤというマグマ団の幹部は知っているだろう?」 「はい」 その名前に、アカツキは背筋を戦慄が駆け抜けていくのを感じた。 瞬時に彼の顔が頭に浮かぶ。 なぜだか、完全に忘れることができない。忘れることを拒んでいるようだ。 凄腕のトレーナー。 相性が有利なアリゲイツで戦ったのに、サイドンを倒すことができなかった。 それどころか、逆に返り討ちに遭ってしまったのだ。 二度と戦いたくないトレーナーである。 「アスナが見たところによると、彼が君の飛び込んだ穴へ、いつくしみポケモン・ミロカロスを放ったらしい。 僕が思う分に、君はミロカロスに助けられたんだろう」 「どうして……? あの人にぼくを助ける理由なんてないはずなのに……」 「『あいつを死なせるな』……リクヤはそう言っていたらしい。 アクア団の誰かを助ける理由などはないのだろうからね、考えられるのは君だけだよ。 彼はどういうわけか君を助けようとしていた。 子供を巻き込んでしまったという負い目があるのかは分からないけど」 「そうなんですか……」 正直、どちらでもよかった。 助かったのだから、その経緯に関しては知っても、知らなくても。 助かったという事実があれば、それだけで十分だったから。 「でも、どうしてあの人はぼくを助けようとしてくれたんだろう?」 それでも、疑問はなくならない。 リクヤが、一時的とは言え敵対していた自分を助ける理由などないはずだ。 殺しこそすれ、生かしておく理由などないはずだ。 だからといってアスナを疑う気にはなれない。 彼女は信頼できるトレーナーだ。短い間だったが、それはよく分かる。 「とりあえず、僕の話は終わりだよ。 最後に――アカツキ君。 これ以上、マグマ団やアクア団には関わらないでくれ。 君自身の立場が危うくなるからね。 後は僕と、僕の仲間たちが解決していくから。 万が一遭遇した場合は速やかに逃げること。いいね?」 「はい」 アカツキは素直に従った。 ナオミにも言われたことだから、その重みは理解しているつもりだ。 真剣な表情で頷いた男の子に満足してか、ダイゴの顔には笑みが浮かんでいた。 チラリと目に入ったハヅキの表情。 「兄ちゃん?」 いったい何を考えているのだろう? そんな心配を抱かせる兄の表情を見るのは初めてだったから、戸惑った。 アカツキの視線に気づいて、ハヅキはそんな表情を打ち消した。 彼のよく知る兄に戻ったので、何も追求しなかった。 「アスナが君に渡したいものがあるらしいよ」 「え? アスナさんが?」 「そうや」 アスナはアカツキの前におもむろに歩いてくると、ズボンのポケットから何かを取り出した。 それが分からなかったのは、彼女が取り出した手をグーの形にして隠していたからだ。 そうされるとかえって気になる。 おかげで彼女がニヤニヤと笑みを浮かべていることには気づかない。 「あたいな、本当にあんたに感謝しとるんや。 あん時は取り戻せへんかったけど、あんたのおかげでいろいろと助かったんやからな。 それに……あたいに力が足りへんかったばっかりに、あんたをあんな目に遭わせてもうた。 感謝と、せめてものお詫びのしるし。受け取っとくれや」 色濃く感情を宿した声で言い、アスナは握り拳を開いてみせた。 彼女の手の平に輝いていたのは、バッジだった。 一度だけ見たことのあるバッジ。 「ハルカが見せてくれたバッジ。確か……フエンジムの……」 ――あれ、フエンジム? そこで初めて、彼女の顔を見やる。 「って、もしかしてアスナさん、フエンジムのジムリーダーなの!?」 「そうや。気づかへんかったんか、今まで?」 驚きを露にするアカツキとは対照的に、アスナは呆れているようだった。 まさか本気で気づいていなかったとは思ってもいなかったからだ。 それくらい間が抜けていて、でもそこが憎めない男の子。 それがアスナにとってのアカツキだった。 「でも、アスナさん。ぼく、受け取れないよ」 案の定拒否された。 ハヅキもダイゴも、アスナからこうすると聞かされていた時には、素直には受け取らないだろうと思っていたのだ。 だが、そう来るであろうことは、アスナにも予想がついた。 彼女も、アカツキの人となりは理解していたのだ。 仮にもフエンジムのジムリーダーである。人を見る目には長けていなければならない。 「そう言うやろうとは思っとったんや。 でもな、ジムバッジっつーモンは本来、ジムリーダーが認めた相手に対してあげるべきモノなんやで? 一般的にはポケモンバトルで認めた相手にあげるのが一番なんやけど…… でもな、あたいはあんたのことを認めたんや。 短い間やったけど、あんたはあたいのコータスのために、あそこまで必死になってくれた。 あたいはそれがとてもうれしかったんや。 見ず知らずのあんたが、あたいのコータスのために、マグマ団で最強の幹部って言われとるリクヤと戦ってくれた。 それだけで、十分やったんや」 アスナの言葉は、アカツキの胸を打つに十分すぎるだけの力を持っていた。 少しずつ、分かっていく。 アスナの気持ち。 それと、自分の気持ち。 そのふたつを完全に理解できた時、おのずと言葉が出てきた。 「ありがとう、アスナさん。ありがたく、いただきます」 丁重に礼を言い、アカツキはアスナからバッジ――ヒートバッジを受け取った。 四つ目のバッジ。 ジム戦で勝ち取ったバッジではなかったが、ジムリーダーが認めたという点では違いなどなかった。 「うん?」 アカツキが、受け取ったバッジを、リュックから取り出した空色の箱に入れるのを見て、ハヅキは言葉をかけた。 「アカツキ。おまえ、バッジを集めてるのか?」 「え、うん」 アカツキは控えめに答えると、箱をハヅキに手渡した。 リーグバッジを入れておくための箱だということで、トウカジムのジムリーダー・センリからありがたく頂いたものだ。 「そういえばセンリさん……」 ちょうどその名前が出てきたことで、とあることを考える。 センリが言っていたことがある。 それは…… 「おまえもホウエンリーグに出るのか?」 図らずもアカツキの考えにヒビを入れたのは、他ならぬハヅキだった。 さすがに兄の言葉を無視するわけにもいかず、その考えをとりあえず別の場所に置いておく。 「ううん、あんまり出たいとは思ってない。 ぼくはただ、『黒いリザードン』をゲットするための実力が欲しかったから挑戦しただけなんだ」 「そっか……」 単純な動機だった。 夢を手にするだけの力が欲しい。 いかにもアカツキらしいと思い、嘆息する。 まあ、自分の理屈を他人に押し付けたいとは思っていないし……人それぞれの理由があっていいと思う。 だから、そのことについてとやかく言うつもりはない。 「なあ、『黒いリザードン』が見つかってからでも構わない。 ホウエンリーグに出てみないか? 僕はね、トレーナーとして、ホウエンリーグの場で、おまえと戦いたい。 今この時じゃなくて、ホウエンリーグという大舞台でね」 「兄ちゃん……」 ハヅキから箱を返してもらって――そのまま、彼を見つめる。 兄の力強い瞳に、何かを感じ取ったようだ。 「ぼくも、兄ちゃんと戦いたい。 でも、今のぼくじゃ、何があったって兄ちゃんには勝てそうにないな、悔しいけど」 口の端に笑みを浮かべ、ポツリと漏らす。 しばらく顔を伏せたが、やがて顔を上げたアカツキの目には強い決意の色が宿っていた。 「だから、ホウエンリーグに出る時までには、もっともっと強くなるよ。 みんなと一緒に」 「ゲイツ!!」 「バクフーンっ♪」 「シャモぉぉぉぉぉっ!!」 アカツキの言葉に応えるように、声を上げる三体のポケモン。 まるで、歓喜しているかの表情で。 「ああ、それでいいよ。 その時を楽しみにしているよ。それじゃあな、アカツキ。 今度はホウエンリーグで会おう」 「うん!!」 アカツキの元気な声に満足して―― ハヅキは弟に背を向けてその場を去った。 誰も、止めなかった。ましてや、追いかけることなど。 「兄ちゃんとホウエンリーグで戦えるんだ……」 アカツキはすっかりその気になっていた。 『黒いリザードン』をゲットできるくらいの実力を身につけるという理由でジム戦を挑んできた。 だから、彼にとっては、ホウエンリーグ出場ということなど二の次。 それよりも優先順位は下だったのかもしれない。 でも、今は違う。 第二位にグレードアップできた。 「早く見つけなきゃ、黒いリザードンを」 ホウエンリーグが始まるのは十二月一日。 猶予は多めに見積もってもその一ヶ月前まで。 それまでに見つけられなかったら、ホウエンリーグに出るための準備に残りの期間を費やすことにしよう。 同じくらいの目標が屹立している以上、いつかはどちらかをどうにかしなければならない。 今がその時だと、理解できた。 「ところでダイゴさん……」 「うん?」 「兄ちゃんとは知り合いだったんですか?」 「まあね」 肩を竦め、頷くダイゴ。 気づくのが遅すぎるよ……どこかあきらめの漂った笑顔がそう物語っている。 だが、アカツキは素知らぬ顔で、 「じゃあ、ぼくと初めて会った時には分かってたんですか?」 「ああ……今まで黙っていたのは悪かったよ。 でも、あの時それを持ち出していたとして、君には何ができたかな? きっと、何もできなかったと思う。 いや、君のことを馬鹿にしているわけじゃない。 結局変わらなかった。そういうことなんだよ」 ダイゴの言葉に、静かに頷く。 あの時それを予想していたとしても、ダイゴが否定してしまえばどうにもならない。 結局はそういうことなのだ。タイミングと偶然で……決まっていたこと。 余計な詮索さえ何の意味も持たない。 「でもね、君がハヅキ君の弟だって強く確信したのは、名前を聞いた時じゃない。 もちろんそうであることは分かっていた。 君があの時逃げなかったこと……それがハヅキ君の弟らしいと思ったんだ。 それとね……」 「やっと見つけましたわよ、ダイゴさま!!」 彼の言葉を遮って、周囲に響き渡ったのは女性の声だった。 「やれやれ……」 ダイゴが困った顔でため息。 女性は、空から降ってきた。 いや、鳥ポケモンに乗っていた。 ユウキとのバトルで見たことのあるポケモン――オオスバメに乗って降りてきたのだ。 夕映えの炎を思わせる金髪を背中に伸ばし、おとぎ話で出てくるドレスのような服に身を包んでいる、美しくも凛々しい女性だ。 整った表情は、動いていなければ女神の彫像を思わせる。 年の頃はダイゴと同じくらいだろうか。 彼女は困った表情のダイゴに駆け寄ると、恭しく頭を下げた。 いきなり現れたかと思いきや、畏まったりして……何がなんだか分からない。 「ダイゴさま。 そろそろお戻りください。 わたしたちとしても、ダイゴさまがいてくださらなければ、思うように捗りません」 「プリム……」 乞うような口調で言われ、ダイゴは本当に困っているようだった。 アスナはアスナで、口の端に笑みなど浮かべ、半眼でふたりのやり取りを見つめている。 アカツキとミツルは、もはや何が何だか。 ハヅキにダイゴにアスナにプリムと呼ばれた女性。 次から次へとワケの分からない人が出てくる。 イマイチ状況を把握できずにいるのは当然のことだった。 そんなふたりを置いてきぼりに、事態は進んでいった。 「そんなに事態は逼迫しているのかい? 他の三人もいることだし……どうにでもなると思うんだけどね。 いざとなったら『彼女』の力も借りればいいだろうに。 今さら気になる体面など、僕にはないと思うよ」 「そういう問題ではないのです!!」 ピシャリと、炎さえ消せそうな声で叫ぶ。 しかし、ダイゴはそれでも動じなかった。そう来るのが分かっていたかのようだ。 「そろそろ新たな局面を迎えられます。 ダイゴさまに陣頭指揮を執っていただかなければ…… 悔しい話ですが、わたしや他のお三方にもそれは不可能なことです」 「分かったよ」 折れたのはダイゴだった。 これ以上彼女に金切り声を上げられてはたまらないと思っているのだろう。 よくあることだ、これ以上怒られるのが嫌だから、素直に「はいはい」と頷いておく。 それとまったく変わらなかった。 アカツキにも経験があるから、よく分かる。 「あはははは……」 自然と漏れる力なき笑み。 そんなことなど、プリムは意に介していないようだった。 彼女にとってアスナやアカツキ、ミツルの存在はダイゴのオマケでしかなかったためだ。 「状況は戻ってから聞く。三分でいい。時間をくれないか?」 「分かりました。三分ですね」 プリムは渋々了承してくれた。 ダイゴはホッと胸を撫で下ろして、アカツキに向き直った。 彼の視線を追ってプリムもアカツキを見つめてくる。 「アカツキ君。さっき言い忘れていたことがいくつかあるんだ」 「?」 「君にはトレーナーとしての才能がある。 これでも人を見る目はあるつもりだから、それだけは自信を持って言える。 君の信じる道を進んでいけば、きっと夢は叶う。 だから、何があってもあきらめないように……」 「はい」 アカツキは毅然とした態度で頷いた。 ダイゴの言いたいことが伝わってきた。 彼なりの優しさが、余すことなく心と身体を包み込んでいる。 「そうそう。君の探している『黒いリザードン』のことなんだけどね」 「!?」 肝心の部分に触れられ、アカツキの表情が強張った。 ダイゴは何かを知っている。 その口ぶりからそう察することができないとすれば、よほどの馬鹿だな……皮肉りながら、次の言葉を待った。 ダイゴだけを見つめていたからこそ、気づけなかったことがある。 プリムが大きく目を見開き、驚愕の表情をダイゴに向けている。 だが、アカツキもダイゴもそれには気づけなかった。 ミツルかアスナなら表情の変化は理解できたかもしれない。 だが、その心の奥底にあるものまではさすがに理解できないだろう。 「ついさっき、見かけたよ」 「え、本当ですか!?」 「ああ」 今にも食いかかりそうな勢いで、叫ぶように問う。 それを制するように、ダイゴはアカツキの肩に手を置いて言った。 「東の空……そう、こっちの方角だね」 東の空を指差す。 つられるように視線を向けると、雲が同じ方角へ棚引いて行くのが見えた。 ホウエン地方の東部には、カイナシティと肩を並べる規模の港町ミナモシティや、ホウエンリーグ開催の地サイユウシティがある。 まるで、これからの行く末を暗示しているかのような…… ホウエンリーグ出場のために必要なバッジは残り四つ。 そのうち三つは、ホウエン地方の東部にある街のジムでゲットするしかない。 だとするなら…… 「大丈夫。力強い姿だったよ。 きっと、さっきまで君が来るのを待ってたんだと思う。 そして、新しい道筋を示したように思えるよ」 「そうですか……」 「あのリザードンをゲットできるのは、トレーナーとして経験を積んだ者だけだ。 そして、今の君では残念ながらそれはできない。もう少し、頑張ってごらん」 「はい!!」 「良い返事だね……君ならきっとできるよ」 元気の良い返事を返したアカツキに笑みを向けるダイゴ。 と、その時だった。 「ダイゴさま、そろそろお時間です。戻りましょう」 「ああ、分かった。 でも、自他共に厳しい君が十秒もサービスしてくれるなんて思わなかったよ」 「話の腰を折るようなマネはできませんでしたから」 「ああ、ありがとう。それじゃあ、行こうか」 「はい」 ダイゴは腰のモンスターボールから鳥ポケモンを出した。 プリムが乗っていたのと同じ、オオスバメだ。 それぞれのオオスバメの背に乗ると、ふたりは東の方角へと飛び去った。 プリムは哀愁漂う瞳を向けながら、ダイゴは満面の笑みをたたえ、手を振りながら。 「ダイゴさん、ありがとう!!」 アカツキは声を上げ、両手を振って、ダイゴの姿が豆粒くらいになるまで見送った。 やがてその姿が見えなくなって…… 「ごっつええ人やろ、ダイゴさんは」 「うん」 「あの人はいつもそうなんやで。他人に元気を分け与えてくれるんや」 「うん。アスナさん。 ぼく、もう行くね。やりたいことがあるから、立ち止まっちゃいられないんだ」 「ジムバッジを集めながら、黒いリザードンをゲットするんやな?」 アカツキは頷いた。 図らずも、両方の目的を同時に遂行できる唯一の手段を手に入れた。 ジムリーダと戦い、実力を磨きながら、東へと飛び去ったらしき『黒いリザードン』を追いかける。 アカツキにとっては理想と言ってもいい。 ホウエンリーグの舞台で、兄ハヅキと戦えるだけの力を身につけるために。 それから、自分自身が叶えたいと願っている夢のために。 新しい夢がまたひとつ、音を立てて動き出した。 第52話へと続く……