第61話 母の強さ、そして弱さ -Warmth of mother- 目と目が合う。 些細な感情を伝えるにも言葉は必要だが、今この時ばかりはそれも必要なさそうだった。 お互いの言いたいことが手に取るように伝わってくるのである。 アカツキは大好物のハンバーグを食しながら、親子団らんの時を楽しんでいた。 テーブルについているのはアカツキとナオミだけだったが、アリゲイツたちも同じ部屋でそれぞれの食事を楽しんでいる。 ポケモンたちが行儀など置き忘れたような食事をしているが、それだけ楽しんでいるからだろう。 ナオミはポケモンたちの行儀の悪さを窘めることなく、アカツキと向き合っていた。 「大きくなったのね、たった一ヶ月だっていうのに……」 フォークでパスタを絡め取りながら、笑みを浮かべて、懐かしむように言う。 「そう? ぼく、そんなに背が伸びた?」 「少しだけね」 ビックリして訊き返すと、ナオミは笑みを深めて頷いた。 実際のところ、アカツキは背が伸びているという自覚がまるでなかった。 十一歳という成長期真っ只中ではあるのだが、たかだか一ヶ月で数センチも伸びるはずもない。 自分の身体を鏡で見てみても分からないが、ナオミには分かった。 ほんの少しだけ、旅立つ前よりも息子の背は伸びている。 恐らくは数ミリだろうが、それでもゼロでないことくらいは分かる。 母親の観察眼は確かなのである。 「本当に、たくさんの友達に恵まれて、私もうれしいわ」 「うん」 アカツキは頷いて、振り返った。 アリゲイツたち――アカツキの『家族』たちが、和気藹々とした雰囲気の中で食事がてらじゃれ合っている。 行儀など何のその、タイプや種族の違いさえも越えて、ひとつの空気に解け合っている…… それがどれだけすばらしいことか、今頃になって改めて気づかされた。 「こんなに仲がいいなんて……」 トレーナーであるアカツキですら気づかなかった。 自分が思っていたよりも、彼らは固い絆を育んでいたのである。 一堂に会する機会などあまりなかったのだが、短い時間でも大切に過ごしてきたということが分かる。 「ハヅキには会えた?」 「うん。お母さんが言ったとおりに、エントツ山で会えたんだよ」 「そうね。あの子も結構あなたのこと心配してたと思うのよ。 だから……これ以上ね、変なことに首を突っ込んだりはしないでちょうだい」 「うん……」 優しい口調で言われ、アカツキは俯いた。 感情に任せて責められるよりも、むしろ堪えた。 その表情からは、たったひとりの母に心配をかけて申し訳ないという気持ちがにじみ出ているように思える。 「ごめん、お母さん。 ぼく、本当はそんなつもりじゃなかったけど……でも、心配かけちゃったのは本当だもんね。 でも……困った人を見捨てるようなことだけは、ぼくはしたくない」 釈然と顔を上げて、しっかりとした口調で自分の意見を述べる。 「ハヅキに似てきたわね……」 笑顔でその言葉を受け止める。 アカツキは兄ハヅキにどこか似てきたかもしれない。 どこかと訊かれたら即答はできないが、何となく、そう思える。 やはり同じ父親を持って生まれてきただけはあるかもしれない。 無論、ふたりとも自分が腹を痛めて産み落とした愛しい子供であることに変わりない。 「これがきっと成長なんだわ。 私が思ってたよりもずっとずっと大きくなってるわね……たった一ヶ月なのに。 ホントは、トレーナーなんてできるのかって心配だったけど、そんなのは無意味だったのね」 心配ばかりしていた息子も、少しは頼もしく思えるようになってきた。 「お母さんも、分かってくれるよね? ぼくだけのことだったら、関わったりはしないよ。 でも、困ってるような人がいたら……助けてあげたい。 お母さんだって言ってたよね、助けられる人は助けろって。だから……」 「分かってるわ。 今さらだけどね、自分でまいたタネ、だとは思うもの。 あなたがそんな優しい子に育ってくれて、私としてもうれしいわ。 でもね、無茶だけはしないで。いつでも助けてくれる人がいるとは限らないんだから…… 逃げることもね、ひとつの勇気だってことを忘れないでほしいの」 「うん」 アカツキはナオミの熱のこもった言葉を真摯に受け止めた。 今までだって、十分すぎるくらい……いや、それ以上に心配をかけてしまったのだ。 当然許されることとは思っていないし、これ以上余計な心配をさせたくはない。 「どう? 『黒いリザードン』はゲットできそう?」 「今すぐは無理だけど、必ずゲットするよ。 今のぼくの実力じゃ、リザードンには勝てそうにないから」 「そう、頑張りなさいね」 「うん」 アカツキは頷いた。 言われなくてもそのつもりだ。 『黒いリザードン』をゲットするために、トレーナーとして頑張ってきたのだ。 無論、これからも頑張っていくつもりだ。 簡単な道ではないが、その方がやりがいを感じる。 「でも、ぼくは今年のホウエンリーグに出るつもりなんだ」 「え?」 意外なことを言われ、ナオミは唖然とした。 『黒いリザードン』をゲットするという目的がありながら、ホウエンリーグに出るなどと言う。 両立するのはそれこそ簡単なものではないだろう。 もしそれが本当なら、そうのんびりと『黒いリザードン』をゲットするというわけにもいかないではないか。 リーグバッジも集めなければならないのだ。 「どうしてまた…… あなたには『黒いリザードン』をゲットするっていう目的があるんでしょ? ホウエンリーグなんて、あなたにはまだ早すぎるわ。 あそこは年季のあるトレーナーが参加するものよ。 だってほら、旅に出た年にホウエンリーグに出た人なんて、数えるほどしかいないんだから……」 ナオミは心配のつもりで言葉を投げかけた。 というのも、ホウエンリーグで行われるバトルのレベルの高さというのをテレビで見て知っているからだ。 様々な戦略が絡まった戦術から繰り出される技の応酬は、見ている方がハラハラしてしまうほど白熱したものだ。 そんなハイレベルなバトルは、十一歳でトレーナーになりたての息子にはまだ早すぎる。 出たはいいが、すぐに負けるようなことになったら、それこそ自信をなくしてしまうだろう。 華やかに見えて、本当は辛く厳しい祭典なのだ。 「分かってる」 アカツキは凛とした口調で言った。 真剣な表情に、ナオミは何も言い返せなかった。 こんな真剣な表情、今まで見たことがなかったから、驚いているのかもしれない。 「でも、ぼくはホウエンリーグに出たい。 お母さんが心配してくれてるのは分かるよ。 ぼくだって、興味なんてなくて、『黒いリザードン』をゲットするだけの実力が欲しかったから、リーグバッジ集めてた。 だけど、ハヅキ兄ちゃんが言ってたんだ」 「ハヅキが……? 何をあなたに言ったの?」 「『僕はホウエンリーグでアカツキと戦いたい』って。 ぼくも兄ちゃんと戦いたい。兄弟としてじゃなくて、トレーナーとして」 「そう……」 心配する必要などなかったのかもしれない。 ナオミはそう思い、ホッと胸を撫で下ろした。 兄弟としてではなく、トレーナーとしてハヅキと戦いたいという言葉だけで分かる。 心の底から真剣にホウエンリーグに出るということを考えているのだ。 その気持ちがあれば、大丈夫だろう。 無責任とは思いながらも、それも息子を信頼する親心というものだ。 「でも、今のあなたじゃ、ハヅキには勝てないわ。分かるでしょ、それくらい」 「うん。ぼくじゃ勝てないよ。 『今の』ぼくだったら。だから、頑張って兄ちゃんとバトルできるくらい強くなりたいんだ」 「そうね。それしかないわよね」 太陽のように眩い微笑みを浮かべる息子につられるように、ナオミも笑った。 簡単なことではないのに、笑いながら言ってのけてしまう。 頼もしいみたいで、本気でハヅキに似てきたと思える。 「だったら、頑張れるところまで頑張りなさい。 私はあなたのことも、ハヅキのことも応援してるから。 でも、どっちが勝って欲しいなんてことは言わないわ。どっちにも頑張って欲しいから」 「うん!!」 「頼もしい仲間もいるんだから、頑張れるでしょ?」 「もちろんだよ。ね、みんな!!」 「ゲイツ!!」 「シャモぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」 アカツキが呼びかけると、一番大きな声で応えたのは当然だがワカシャモだった。 辛うじてアリゲイツの声だけが拾えた状態で、他のポケモンの声はワカシャモの声に飲み込まれてしまった。 「あらあら……」 ナオミは耳を塞いで苦笑した。 一番大きな声を出したのはワカシャモ。 アチャモの進化形で、新たに格闘タイプを身につけた。 ハヅキが選んだのも同じアチャモだったということもあるが、ナオミもトレーナー時代にアチャモを連れていたからよく分かる。 親子揃ってアチャモを選ぶとは、本気で似ているものだ。 「本当に頼もしいわね。あなたたち、これからもこの子のことをよろしくね」 みんな揃って首を縦に振った。 どのポケモンも、よく懐いているものだ。 見ていればそれくらいのことは分かる。 息子の『友達』なら、彼女にとっては『子供』のようなものだから。 「それなら大丈夫ね」 いい仲間に恵まれた息子は幸せ者だ。 これならどんな困難でも乗り切っていけるだろう。理由はなくても確信できる。 「どう? ハヅキは結構大人っぽくなってたでしょ?」 「うん。一年であんなに大人びちゃうんだね」 「そうなのよ。あの年頃っていうのはそういうもんだからねぇ……」 たった一年。されど一年。 そんな言葉があるように、一年という月日は人を大きく変えてしまう可能性を宿している。 ハヅキは一年という月日でかなり変わってしまった。 「久しぶりに戻ってきたと思ったらね、大人になってて驚いたわ。 私だってあの頃はそんなに大人びてなかったからね。 いろんな人たちに出会って、いろんなことを知ったんだって、そう思ったわ」 「うん……ぼくも兄ちゃんと同じ歳になったら、そうなるのかな?」 「さあ。あなたはあなたなんだし、ハヅキと同じになるなんて、言い切れるわけじゃないわよね」 「うん。でも、兄ちゃんはぼくのあこがれなんだ。 兄ちゃんのような強いトレーナーになりたいんだよ」 「いいことだと思うわ。 目標があるっていうのは、それだけで素敵なことよ」 ナオミはニッコリと微笑んだ。 身近に目標を置く方が、成長できるものだ。 そんな親友がいるから、よく分かる。 「カリンも、そうだったしね……あいつったら、トレーナーやってた時に……」 いろんな想像をめぐらせていると、 「お母さん、ぼくでも頑張れば、ハヅキ兄ちゃんに勝てるかな?」 「え……」 その言葉に、ナオミは押し黙ってしまった。 笑顔が嘘のように消え失せ、どこか余所余所しく目が泳いでいる。 その表情を見ただけで、アカツキにも分かった。 彼女の持つ答えを。 「……無理、なのかな……ぼく、戦うのなら勝ちたい。 実力に差がついてるっていうのは分かるけど……でも……」 「頑張れば……きっと勝てるわよ。勝負に『絶対』なんてないんだから。 あなたにだって勝てる方法はあるわ。私には見つけられないけど…… あなたにはたくさんの仲間がいるわ。彼らを信じて戦い続けなさい。 私が言えるのはそれだけよ」 「うん。ありがとう」 アカツキの表情もどこか明るさが戻ってきた。 適切なアドバイスをもらえたからだろう。 ――彼らを信じて戦い続けなさい―― アカツキはチラリと食事にありついているポケモンたちに目を向けた。 みんな、相変わらず楽しそうにポケモンフーズを食べている。 「みんなを信じて……うん。そうだよね。みんながいればきっと大丈夫だよね」 自分が信じなければ、彼らも信じてくれないだろう。 結局はそういうものなのだ。 自分が変わらなければ、望むように周囲も変わっていかない。 それからしばらく会話が途切れた。 何を話せばいいのか分からず、ただひたすら、食事を摂り続ける。 ハンバーグセットを平らげたところで、タイミングを計ったようにナオミが問いを投げかけてきた。 「ハヅキから誕生日のプレゼントはもらった?」 「ううん」 「そう……今度会う時は必ず渡すって息巻いてたけど……そうなんだ、渡してなかったのね」 「ぼくにプレゼント? エントツ山で会った時はくれなかったよ」 アカツキには身に覚えのないことだった。 ハヅキはそんなこと一言も言っていなかった。 くれる素振りもなかったし、まさかもらえるとも思っていなかった。 「もしかしたら、妙にこだわりを持ってるのかもしれないわね」 ナオミはそう思った。 自分の勝手な想像だが、ハヅキはアカツキへのプレゼントにこだわりを持っているのではなかろうか。 だからこそ、渡さなかった。 ホウエンリーグで戦う時にでも渡すのかもしれない。 結局のところ現時点で確かめる手段はないが、考えられる限りではその可能性が濃厚だ。 「今度連絡があった時には訊いてみようかしら……」 そうしよう。 確かめるには訊くのが一番だ。ハヅキならきっと答えてくれる。 「でも、兄ちゃんがプレゼントなんて……今までくれたことなんてなかったのに、どうして今年に限って……」 「あなたがトレーナーになったから、じゃないかしら」 「トレーナーに?」 「ええ。 十一歳っていうのはね、ホウエン地方の子供にとっては特別な年齢なのよ。 だから、ハヅキもあなたにプレゼントをあげようと思ったんじゃないかしら」 「そうなのかな。ぼくには分からないけど」 アカツキは首をかしげた。 ハヅキのプレゼントが気にはなるが、確かめる手段が今のところないから、それ以上は考えないことにした。 「それからもうひとつ。 あなた、エントツ山でリクヤって男と会ったそうね」 「うん、そうだけど。あ、お母さんもしかして知り合い?」 「ええ……私の友達……だった人よ」 ナオミが表情を曇らせた。 「友達……」 アカツキは思い至った。 トウカの森でリクヤと遭遇(?)した時、彼は言っていた。 「知り合いの息子の名前がアカツキで、ミシロタウン出身」だと。 アカツキは、その知り合いがナオミだと結びつけたのだ。十一歳の想像にしては上出来だろう。 「でも、友達だったらどうして……」 曇った表情のナオミを見つめ、アカツキは喉元まで出かけていた言葉をかき消した。 「どうしてそんな顔してるの?」 言えるはずがなかった。 雰囲気がそれを口にすることを拒んでいる。そう思ったから。 「彼は、カリンと同じで……親友だったわ」 問わず語りに、彼女はポツリポツリと話し始めた。 アカツキは黙って耳を傾けることにした。 「でも、彼はいつの間にか行方不明になっちゃって。 探したけれど……見つからなかった。 あなたをひどい目に遭わせた人のことをこんな風に言うのはおかしいけど…… 私はあの人のことが好きだった」 どうしてそんなことを話しているのか。 アカツキには分かるはずもなかった。 その時のことを懐かしんでいるのだろう、ナオミは時折笑みをのぞかせていた。 夢見る少女のように、三十の齢を重ねた女性とは思えない口調だった。 「でも、あなたから聞いた時には驚いたわ。 まさか、マグマ団の一員になってたなんて思わなかったもの。 彼は元々トレーナーとして優れた素質と力量を持っていたから、カリ……ううん、結構いろんなところに旅に出てたわ。 だから、いつものようにフラリいなくなっていたものと思っていたのよ」 「……カリ……?」 「ううん。何でもないの」 首を横に振るナオミ。 だが、彼女が何かを隠しているのはアカツキにも分かった。 息子として母親を見る目は誤魔化せるものではない、ということだろうか。 「あれから十年以上も経ってるからね。 私は結婚してあなたとハヅキを産んだし、カリンもユウキ君を身ごもったでしょ? だから、自然と彼のことは忘れていったわ。 でも、あなたからあの人の名前を聞くなんてね…… ホント、世の中って変なところでつながっているんだわって……」 「お母さん……」 アカツキには分かった。 ナオミは胸を痛めている。 なぜだか分からないが、これ以上こんな話をしたいという気分にはならなかった。 「もうやめよう。こんな話、しちゃいけない」 そう思って、アカツキは話題を変えようと口を開いて―― 「バクフーンっ!!」 カエデの声が響いた。 ビックリして振り向いてみると、カエデが窓の外に視線をやっていた。 星が瞬く夜の風景が広がっているばかり。 「カエデ、どうしたの? 何か見えた?」 「フーン?」 カエデは首を傾げるばかりだった。 気のせいかしら、とでも言いたげに。 「何でもなかったのかな?」 たまにはそういうこともあるかもしれない。 アカツキはそれくらいで済ませることにした。 カエデが声を上げたから、ちょうどいい機会と捉えたのだろう。 「アカツキ。ごめんね。こんなつまらない話しちゃって」 「ううん。いいよ」 気にしていないと言ったら嘘だが、それでもこれ以上この話をしなくて済むなら、それでいいと思った。 「ねえ、お母さん。 ぼく、ホウエンリーグに出るまではここに帰ってこられないけど…… でも、ちゃんと連絡はするよ。約束する。これ以上、心配はかけないって」 「アカツキ……」 「ぼく、少しは強くなったよね? 大きくなったよね?」 「もちろん……」 ナオミはゆっくりと首を縦に振った。 旅に出すのは心配だが、それを上回るほどの喜びがあるのなら、それも悪くはないのかもしれない。 「きっと、あの人もあなたがこんな風に成長してくれて喜んでると思うわ」 あの人…… それはきっと、生死すら不明の父親のことだろうと思った。 この状況で分からないとすれば、よほどのバカだ。 「お父さんか……生きてるのか、死んでるのかも分からないけど……」 ナオミの夫――つまりアカツキとハヅキの父は、アカツキが四歳の時に行方不明になってしまった。 それからというもの、音信不通で、生死すら分かっていない。 生きているのなら――家族を愛しているのなら――、会いに来るはずだ。 それがないということは……つまりはそういうことだろう。 別に、アカツキは顔もほとんど覚えていない父親に、今さら愛情を懐いているわけではない。 いてもいなくても別に変わらないし、今頃になって名乗り出て可愛がってもらっても、うれしいとは思わない。 自分は愛情を懐いていなくとも、母親は――ナオミは夫に愛情を持っているようだ。 それも、並々ならぬものだ。 自分が口を挟めるわけがないと知ってはいたが、 「ぼくはお父さんのこと、覚えてない。どんな人だったの?」 「本当に覚えていないの?」 「うん」 アカツキは頷いた。 本当に覚えていないのだ。 ただひとつ覚えているのは、暖かい腕に抱かれていたということだけ。 顔は忘れたし、もちろん性格や体つきなども覚えているはずがない。 そんな息子を見て、ナオミは少し寂しくなった。 いないも同然と言っても、父親は父親なのだ。 覚えていないのは仕方ないにしても、父親がいたからこそ、彼はこの世界に生を受けることができた。 切っても切れない絆で結ばれているのだ。 「優しい人だったわ」 哀愁漂う笑みを浮かべながら、ナオミはアカツキに父親のことをひとつひとつ、教え込むように話した。 「私が身重な時には、家事をぜんぶ引き受けてくれた。 自分だって大変だったのに、私のことを一番に考えてくれた人よ。 もちろん、あなたやハヅキのことは愛してくれてた。 でも……」 「でも?」 アカツキは訊き返した。 ナオミが笑みを崩した。今にも泣きそうな表情で俯く。 はっきりと、彼女が傷ついたであろうことが分かった。 愛情溢れる父親でも、欠点の一つやふたつはある、ということだろう。 「何も言わず、あの人は姿を消したわ。 手紙も、何も残さずにね……それ以来、私はあの人と会ってない……あなたが覚えていないのも分かるわね。 そうね、捨てられたって言われたら、その通りかもしれないのよね。 でも、私は信じていたいわ。 あの人の優しさと愛を。 いつかはまた出逢えるって、そう信じているから」 「お母さん……」 ナオミは強がりを浮かべている。 痛いほどにそれがよく分かる。 気丈に振舞って、明日再び旅立つアカツキに憂いを残さないようにしてくれているのが、残酷なくらいに分かってしまうのだ。 だから―― 「お父さんのこと、できたらぼくも探したいな。手がかりとかは……ないの?」 自分にもできることがあるはずだ。 それは、自分の夢の合間に探すこと。 それこそ簡単なことではないだろうが、始める前からあきらめるほどヤワでもない。 「ないわ……それに…… できれば、あなたには関わって欲しくない。 探してくれるのは嬉しいけど……お願い、もう少しだけ……あの人には関わらないで。 嫌な予感がするの。 あの人を探したいけれど、だからってあなたを失ってしまうのは嫌だから……ね? あなたはあなたの夢を追いかけるのに全力を尽くしなさい」 「うん……」 強い口調で言われ、アカツキは首を横には振れなかった。 あの人には関わらないで―― ナオミはきっと何かを知っているのだろう。 手がかりがないと言ったのは、本当に関わって欲しくないと思っているからだろう。 ならば、その言葉に従わないわけにはいかないではないか。 たったひとりの、母親の切実な願いなら。 「でも、いつかは本当のこと、教えてくれるよね。 ぼくだって、いつまでも子供のままじゃないんだから」 「ええ。いつかは必ず……その時までは我慢してね」 「分かったよ」 ナオミはおもむろに立ち上がると、アカツキの傍まで歩いてきた。 「な、なに?」 言葉を発するよりも早く、彼女は両手を伸ばしてきた。 そのまま包み込むように、息子の身体を無言で抱きしめた。 「お母さん?」 一体彼女が何を考えているのか。それは分からない。 でも、ただひとつ、分かることがある。 肩口が冷たい。 服が濡れているのを肌で感じ取れた。 「あなたが私の息子でよかった……あなたまで、あの人のようにいなくならないでね……」 「うん……」 低い嗚咽を漏らしながら紡ぎ出された言葉に、アカツキはただ頷いた。 母親の身体の温もりが全身へと伝わっていき…… これ以上、何があろうと心配だけはさせないと誓った。 「それじゃあお母さん、行って来ます」 「頑張って。ホウエンリーグ、絶対に見るからね」 「うん!! それじゃあ、また!!」 アカツキはモンスターボールから出した『家族』たちを引き連れて、手を振りながらミシロタウンを再び旅立った。 見送りに来てくれたのはナオミとカリンだった。 オダマキ博士はとうとう昨日帰ってこなかったらしい。 帰ってきたらガツンととっちめてやるわ……恐い笑みを浮かべながらそう言っていたのを思い出す。 二度目の旅立ちを祝福するように、ホウエン地方はすっきりと晴れ渡っていた。 アカツキも空の色と同じで、晴れ渡った気持ちで、故郷を後にした。 目指すはヒワマキシティ。 ヒワマキジムに挑戦して、六つ目のバッジをゲットするのだ。 ここからだとまず北のコトキタウンを通って、北東へ進路を取ると、カイナシティとキンセツシティの中間に出る。 さらに北上してキンセツシティに差し掛かったところで次は東。ホウエン地方の東部へと赴くのだ。 「どんな人が待ってたって大丈夫。 ぼくにはみんながいるから、絶対に勝てるよ」 二度目の旅立ちでも、新鮮な気持ちが色褪せることだけはなかった。 「これで本当によかったの、ナオミ?」 「え……?」 アカツキの背中が見えなくなったところで、カリンが白衣のポケットに手を突っ込んだまま、ポツリ問いかけてきた。 「あなた、アカツキ君に本当のことを言わなかったわね。 ハヅキ君には言ったんでしょう。 それなのに、どうして昨日の晩、思い切って言わなかったの? 悪いとは思ったけど、聞かせてもらったわ。 あの子のバクフーンには気づかれそうになったけどね……」 「カリン……」 責め立てるように言われ、返す言葉がない。 確かに、それは本当のことだ。 アカツキには嘘をついた。 でも、それは彼のことを思っての、苦渋の選択だったのだ。 分かってくれとは言わない。騙してしまったのは、本当のことだから。 「人様の家庭の事情に関知する気なんて、あまりないんだけれど…… でも、いくら心配していたからと言っても、かけがえのない息子を騙せるような、そんな女じゃないでしょう」 追及は止まなかった。 止める人が誰もいなかったのが災いして、いよいよカリンの口調も鋭く尖りつつあった。 親友だからこそ、そこにどんな理由があれど、嘘をついて欲しくないと思っていた。 「それは……」 ナオミは俯き、押し黙ってしまった。 カリンに聞かれていたとは思わなかった。 ハヅキが『そのこと』を知っているのは、彼女も承知しているからだ。 責められても仕方がないことだ。 相手がカリンなら、なおのこと。 「アカツキ君も、ハヅキ君も、同じあなたの子供でしょう? 分け隔てなんてしないんじゃなかったの?」 「…………」 分け隔て。 そうね、そうかもしれない……ナオミは胸中で皮肉った。 ふたりとも、自分にとっては愛しい子供たちだ。 兄だから、弟だからといってどちらかだけに特別愛情を持って接したことなどない。 でも…… 「そうね……本当はそうかもね……でも、アカツキが知るにはまだ早いわ。 カリン、あなたにだって分かるはずよ」 「もちろんそのつもりよ。 でも、彼はね、私のブラッキーを相手になかなかいい戦いを演じていたわ。 心配は要らないと思うけど?」 「それでも…… あの子はハヅキほど成長してない……だから、教えるなんてできないわ」 「それであの子が傷ついても?」 「ええ」 ナオミは顔を上げた。 切ない表情をカリンに向けているものの、その瞳には揺るぎない意志が宿っていた。 「やれやれ……」 無意味なことしたかしら…… そんなことを思っていると、 「後であの子に責められても構わないわ。 あの人のことは言えない。あの子に言ったら……きっと会いに行くに決まってる。 それだけは……」 「そうね」 これ以上言わせるわけにはいかない。 カリンはナオミの言葉を遮って、相槌を打った。 親友として失礼なことを言ってしまったのだ、これ以上は…… 「ごめんなさいね、ナオミ。 でも、分かって。私も、あの子のことは心配なの。 あの子がもし知ってしまったら……あの子だけじゃない。彼まで苦しめてしまうわ」 「ええ……だから、カリン……」 「分かった。あの子には言わないわ。 でも、いつまでも誤魔化し続けられないということだけは、覚悟しておいてちょうだい」 「ええ……」 守ってやることだけが母親の愛情ではない。 時には突き放し、成長を促すことも必要なのだ。 分かっている。 もちろん分かっている。 でも、それは今ではないはずだ。 もっとトレーナーとして、人間として成長した時、初めてそうしよう。 「アカツキ、ごめんね……」 何かと理由をつけてそれができない自分の弱さに、ナオミは何も言わずただ涙を流していた。 第62話へと続く……