第63話 どす黒い怒り -Dirty hearts- アカツキは川の辺にある一本の木の下で、昼食のひと時を楽しんでいた。 幸い近くにおいしい果実のなる木があったので、いくつかもぎ取って食べてみたら、これがなかなか美味しかった。 独り占めするのも悪かったから、ポケモンたちも外に出して、一緒に同じ果実を食べた。 彼らにも好評だったようで、特にワカシャモやカエデは何度もおかわりしていた。 その食欲に目を丸くしたものだが、さすがに十五個以上も食べればお腹いっぱいになるようで…… おかわり長者のカエデは木の幹にもたれて昼寝を楽しんでいる。 チルットは空を飛んでいて、エアームドは木の枝に止まって寝ている。 アリゲイツは川で泳ぎ、ワカシャモはこんな時にでも強烈な蹴りを繰り出すためにキックを連発している。 ぽかぽかと暖かな日差しに、心地よい川のせせらぎ。 食後に襲いかかる睡魔の波動と妙にマッチして、ウトウトしてしまう。 「ここは、えっと……」 アカツキは休息がてら、リュックからタウンマップを取り出して現在位置を確認した。 休んでいるとはいっても、旅の途中だ。 今どのあたりにいるかくらいはいつでも知っておかなければならない。 キンセツシティを通り、街の四方に延びている道路のうち、東に進路を取った。 ここからはホウエン地方の東部である。 今まで西部を旅してきたアカツキにとっては未開の地も同然だった。 誤解のないように言っておくが、東部だからって文明レベルが劣っているとか、そういうことはないのであしからず。 むしろ、東部の方がほんの少し進んでいるのだろう。 ホウエン地方最大の港町ミナモシティや、ポケモンリーグ・ホウエン支部のあるサイユウシティと、西部とは違った趣きだ。 「119番道路……あー、結構長いんだなぁ、ヒワマキシティまでは……」 今いるのは119番道路。 キンセツシティを東に進むと、まずは118番道路に差し掛かる。 118番道路はあまり特徴のない道路だったので、どういうところだったのか、よく覚えていない。 それはともかく、ホウエン地方西部から一番近いジムはヒワマキジムである。 ヒワマキジムのあるヒワマキタウンへ行くには、119番道路を北上していけばいい。 道路に沿うような形で川が流れており、途中には『天気研究所』があるそうだ。 よく分からないが、天気を観測する設備でもあるのだろうか。 「面白かったら見ていこうか」 ジムにはまったく関係ないが、何か興味を引くようなものでもあれば見に行くことにしよう。 一方、118番道路を東に進むと、123番道路がある。 こちらは東西に伸びており、送り火山へと続いている。 送り火山とはその呼び名どおり、送り火の山だ。 天寿を全うしたポケモンたちの墓が立ち並ぶ、聖なる山。 少なくとも、今のアカツキには縁のない場所だろう。 「ヒワマキシティまでは……どんくらいかかるのかな」 地図上だと、かなり長く見える。 実際、ホウエン地方の北から南までの距離の半分近くあるのだ。 それを徒歩で踏破するとなると、一週間でも行けるかどうか分からない。 「ま、ホウエンリーグに間に合えばいいんだし。 危なくなったらエアームドに運んでもらえばいいんだから、焦らずに行こう」 切り札はあるのだから、そんなに急ぐ必要もないだろうという結論に至った。 どちらにしろ、旅というのは急ぐものではない。 自分なりのペースで行けばいいのだ。 他人に合わせたりする必要は一切なく、川の流れのように、時に緩やかに、時に激しく、自分なりのペースで行けばいい。 「ヒワマキジムのジムリーダーってどんな人なんだろう……」 今までのジムリーダーは、年齢こそ幅広かったものの、人物的に尊敬できるという共通点があった。 だから、次のジムリーダーも、それ相応の人物に違いない。 「楽しみだなあ、次のジム戦」 ヒワマキシティから遠く離れているこの場所でも、アカツキの胸はドキドキしていた。 温厚な性格とはいえ、ポケモンバトルが嫌いではないのだ。 むしろ、兄ハヅキに憧れてポケモントレーナーになったくらいだから、好きな方だろう。 「ふわぁ……眠くなっちゃったな。 ちょっとだけなら寝ていこうかな……」 食後のひと時。 暖かな日差しを浴びて、心地よいせせらぎを聞きながら休息をとるというのも、悪くはない。 ポケモンセンターはもう少し先だが、夕方には辿り着ける。 その前に、少し休んでいこう。 何も焦る必要はないのだし、そうしなければならない理由もない。 だから、ここは安らかな睡魔に身を任せて、目を閉じて…… 川のせせらぎが子守唄のように、安らかな気分にさせてくれる。 瞬く間に舟を漕ぎ出して―― こんな時に限って、横槍が入った。 「チルッ、チルッ!!」 チルットが激しく嘶く。 それに呼応するように、川がばしゃばしゃと音を立てた。 「……なんだい……?」 アカツキは欠伸を欠き、目を擦った。 一体何があったというのか。 放っておいてこのまま寝るというのも悪くないが、気になったからには最後まで見届けたい。 立ち上がり、音のした方に身体を向けた。 「チルッ、チルッ!!」 チルットが帽子の上にちょこんと留まった。 チルットはきっと何かを見たのだ。だから、それを知らせようとしてくれた。 なんとなく、そう思えた。 トレーナーとしての直感としか言いようのない何か。 アカツキはそれを信じる。 信じて、見つけた。 少し離れたところが何やら騒がしい。 波飛沫が立っている。 「フーン?」 「ゲイツ!!」 アカツキが駆け出した音に、カエデが目を覚ました。 寝ぼけ眼を擦りながら、トレーナーが走っていった方向に目を向ける。 川を泳いでいたアリゲイツは異変を察知したようで、全力でアカツキと同じ方向を目指した。 「あれは……?」 近づいていくにつれて、次第に光景が鮮明になってきた。 赤みがかったポケモンが群れになっているのだ。 すかさず図鑑のセンサーを向けてみる。 ピピッと電子音が鳴り、液晶にその姿が映し出された。 「キバニア。どうもうポケモン。 発達したアゴと鋭く尖った牙は船底を噛み千切る威力を誇る。 非常に縄張り意識が強く、テリトリーを侵す敵には集団で襲いかかり、八つ裂きにする獰猛さを持つ」 「もしかして、サメハダーの……?」 図鑑で説明したポケモンは、キバニア。その進化形は、あのサメハダーだ。 サメハダーというと、正直嫌な思い出しかないので、できれば進化前のポケモンでも相手にはしたくない。 ただ、走り出した以上、行き着く場所まで行きたい。 「アリゲイツ、陸に上がって!!」 図鑑をポケットにしまうと、アカツキは叫んだ。 縄張り意識が強く、集団で襲いかかるというポケモンがいる川でアリゲイツを泳がせるわけにはいかない。 一刻も早く陸に上がってもらわなければ。 いくら獰猛なキバニアでも、水のないところでは羽根をもがれた鳥も同然だ。 トレーナーの的確な指示に、アリゲイツはあっという間に水中を飛び出した。 鮮やかに着地を決めて、アカツキと一緒に走っていく。 その頃には異変を察知したカエデやワカシャモ、エアームドも追いついてきた。 「みんな、来てくれたんだね。ありがとう」 せっかくの休憩を奪ってしまったと思うと、なんだか悪い気がしたのだが、それを言っていても仕方がない。 今はキバニアの群れが何をしているのか、確かめるのが先だ。 あんなに群れているのだから、恐らくは何かをしているのだろう。 チルットの声を信じるなら、何かがある。 「ん、あれは……」 さらに近づくと、キバニアの群れが何かを取り囲んでいるのが見えてきた。 群れの隙間から覗くボロボロの魚のヒレ。 その瞬間、アカツキはおおよその事情を察した。 色褪せた青をしたそのヒレは、キバニアに弄ばれているのか、左右に大きく震えていた。 「助けなきゃ……」 アカツキは奥歯を噛みしめながら、エアームドに目配せをした。 かすかに頷くエアームド。 どうやら、トレーナーの意思を理解してくれたらしい。 「よし……」 一体何が襲われているのかは分からないが、気づいた以上は助けなければ。 ここで見捨ててしまったら、それこそポケモンを扱う資格などあったもんじゃない。 それに……男が廃る!! キバニアは縄張り意識が強く、集団になると凶悪なまでのパワーを発揮するポケモンだ。 要するに、彼らの縄張りに不用意に入り込んでしまったポケモンがいたのだ。 普通の魚なら一体で十分だが、ポケモンとなるとそうもいかない。 見た目が自分より小さくても、スゴイ力を秘めていることだって珍しくないのだ。 だから…… 「エアームド、鋼の翼でなぎ払って!!」 キバニアの群れを指差して叫ぶと、エアームドはスピードを上げて、水面に迫る!! エアームドの翼は鋼の硬度を有しており、普通にぶつかっただけでもかなり痛い。 そこに飛行速度も加われば、衝撃力は膨大なものとなるだろう。 大木をなぎ倒すことだって難しいことではない。 ……で、結果はもちろん予想通りだった。 エアームドの鋼の翼一発で、キバニアたちはあっさり弾き飛ばされ、そそくさとその場から逃げ去ってしまったのであった。 「やっぱりエアームドは強いねえ……」 ゲットに苦労したことが今になって報われたような気がして、アカツキは感慨深げにつぶやいた。 まあ、昔話に浸るのはそれくらいにしておいて―― あっさりと逃げていったキバニアたちが囲んでいたのは、魚の形をしたポケモンだった。 キバニアたちに襲われて傷ついたのか、何とも言いようがないほどボロボロだった。 見るに見かねて、アカツキはそのポケモンに近づいたのだが…… 「こんなになっちゃって……大丈夫、おびえなくていいんだよ」 慌てて逃げようとした。 見たこともない人間が、笑顔で(そういう認識があったのかは不明だが)近寄ってくる。 先ほどのキバニアのように、自分を食べようとしているのではないか。 ボロボロの身体で、必死に逃げようとしているが、どうにも思うようにその身体は水面を滑らない。 あちこち傷だらけで、酷いというよりはみすぼらしい感じの方が強いだろうか。 だが、アカツキはどんなポケモンだろうと選り好みはしなかった。 「ぼくはキミを助けたいんだから……ね、大丈夫。ポケモンを食べたりなんかしないって」 腕が、服が濡れるのも気にせずに、アカツキはそのポケモンを水から掬い上げた。 チルットとそう変わらない大きさのポケモンは、ヒレはおろか、全身傷だらけではないか。 水面から出たことによって露になった部分に刻まれた傷を見て、アカツキは驚きを隠しきれなかった。 こんなになるまでどうして放っておかれたのだろう。 その姿はあまりに痛々しかった。 キバニアたちに襲われたのも、一度や二度ではなかったはずだ。 「どうしてこんなになったんだろう……でも、このポケモンは……?」 右腕で抱きかかえるようにして胸元に寄せると、左手でポケモン図鑑を取り出して、センサーを向けた。 見たことのない機械に興味があるのか、ポケモンは目を見開いて図鑑のセンサーを見つめた。 「ヒンバス。さかなポケモン。 生まれつきヒレがボロボロで、みっともないために誰にも相手にされないポケモン。 海と川、どちらでも生活できる身体を持ちながらも、ノロマなのですぐにつかまってしまう」 「ヒンバス……これが……」 アカツキは図鑑に映し出された姿と、腕に抱えているポケモンを見比べた。 傷だらけの身体は、生まれつきのものでもあったらしい。それだけでもあまりに哀しすぎる。 どうして、傷を持って生まれてくるのだろう。 それがポケモンの種族としての『運命(さだめ)』であるのなら、哀しすぎる。 「なんで、こんなに……」 なんでこんなに傷ついているのだろう。 傷口は治るどころか、ところどころ化膿しているようにも見える。 触れてみると、ぬるっとした粘着質の感触。 ヒンバスは傷口に触れられても気にならないのだろうか、バタバタもがくこともしなかった。 ただ、哀しそうな表情のアカツキを見上げているばかり。 煮るなり焼くなり好きにしろと、観念しているのだろうか。 「ユウキが言ってたっけ……ヒンバスも捨てたモンじゃないって」 いつか親友からそう聞いたことがある。 その時は――いや、今もその意味は分からない。 「今はそれどころじゃない。早くポケモンセンターに……」 ヒンバスをこのままにしてはいけない。 ポケモンセンターでジョーイに診てもらおう。 たとえ誰からも相手にされないようなポケモンでも、関係ない。 ポケモンの病院はポケモンセンターなのだ。 閉じた図鑑をポケットに滑り込ませて、アカツキは腕に抱えたヒンバスをカエデに渡した。 ぬるっとした粘着質の液体が指についていることなど、気にしているヒマすらない。 リュックからタウンマップを取り出すと、両手で広げた。 「えっと、ぼくがいるのはだいたいこのあたりだから……ポケモンセンターは……」 もう少し先にある。 エアームドに乗れば、さほど時間をかけずに行けるだろう。 タウンマップによると、ログハウスのような佇まいらしく、緑あふれる119番道路ではかなり目立つ存在だ。 「みんな、戻って!!」 アカツキはワカシャモ、カエデ、アリゲイツをモンスターボールに戻した。 チルットは頭の上に載ったままでいい。 ちょっとえこひいきのような気もするのだが、この際四の五の言っても始まらない。 「エアームド、ぼくをポケモンセンターに運んで!!」 「キエェッ!!」 エアームドはアカツキの声に応えて、彼のすぐ傍に降り立った。 「窮屈かもしれないけど、入ってて。一番安全なところだから。ね……?」 モンスターボールを見つめ、ヒンバスは頷いているように思えた。 それを了承と受け取って、アカツキはボールをヒンバスに軽くタッチした。 捕獲光線が発射され、ヒンバスの姿がボールに吸い込まれる。 ヒボールが揺れていないところを見ると、抵抗する力すら残っていなかったのかもしれない。 だから、本意か不本意かは分からない。 それでも、キバニアが棲むような川に取り残すようなことだけはできない。 たとえ形だけであったとしても、ヒンバスはモンスターボールに入った。 つまり、ゲットしたということになる。 そんなことにすら、今のアカツキは気が回らなかった。 ヒンバスのモンスターボールを片手に、アカツキはエアームドの背に乗った。 確かな重みを感じ、エアームドが飛び立つ!! 振り落とされないように、しっかりつかまりながら、空からポケモンセンターを探す。 「エアームド、こっちの方角だよ!!」 エントツ山を左手に臨む方角。つまり、ここからだと真北に当たる。 指示を下すと、エアームドは慌てず急ぐようなスピードで空を駆けた。 「でも、どうしてヒンバスはあんなところにいたのかな……」 そんなことを考えていると、視界に茶色い建物が入った。 天気研究所はかなり先にあるので、その建物こそがポケモンセンターに間違いない。 「ヒンバスだってポケモンなんだ…… キバニアがたくさん棲んでるってことくらい、知ってるはずだよね……」 ポケモンはおよそ人間よりも五感に優れている。 いかなヒンバスであっても、それは例外ではない。 なら、本能的に危険を感じ取っているはずだ。 これ以上先に進んだらキバニアか他のポケモンに襲われるかもしれないと。 だから、自ら危険地帯に踏み込むような真似だけはしない。 その謎を解くのはずいぶん先になりそうだ――ポケモンセンターの入り口に、エアームドは降り立った。 トレーナーに対する配慮だろう、着地の際、衝撃はほとんどなかった。 「エアームド、ありがとう。 後でまた来るから、それまでゆっくりしてていいよ」 「キエェェッ!!」 ゆっくり羽を伸ばしていい(文字通りに?)ということで、エアームドはすぐに空へと飛び上がった。 鳥ポケモンだけあって、空を飛ぶのが大好きなのだろう。 「チルッ」 「チルットも行く?」 「チルッ」 チルットもエアームドと同じように空へ飛んでいった。 綿毛を少しずつ撒き散らす様は、雪の降る空を思わせる。 当然、そんなものに見惚れているヒマなどあるはずもない。 アカツキはポケモンセンターの玄関をくぐり、一直線にジョーイのいるカウンターを目指した。 ログハウスのような外観と同様に、中も木目調が目立っていた。 ゆったりしたスペースには暖炉があって、鮮やかなクロスがかけられたテーブルを囲むようにしてソファが並んでいる。 そこには同じ年頃の少年がふたり座って何やら話に興じている。 何がなんだか分からない言葉を小耳に挟みつつ、カウンターに駆け寄った。 「ジョーイさん、助けてください!!」 ヒンバスのモンスターボールを叩きつけるようにカウンターに置くと、アカツキは声を上げた。 ただならぬその様子に何か感じたのだろう、職業病の笑みを振りまいているジョーイも、すぐにその表情を豹変させた。 笑みが影を潜め、代わりに出てきたのは真剣な眼差しと、引き締まった表情。 「何があったのですか?」 「それが……キバニアたちに襲われてたポケモンを助けたんですけど、ひどい怪我で…… お願いです、助けてください!!」 「分かりました。お預かりしましょう」 ジョーイは頷くと、カウンターの上のモンスターボールを手に取った。 命の重みがひしひしと伝わってくる。 どんなポケモンであれ、助けなければならない。 ポケモンセンターのジョーイとはそういった存在だった。 「しばらくソファで待っていてください。 時間がかかるかもしれませんが、その時はお知らせします」 「はい……」 アカツキは縋るような想いでヒンバスをジョーイに託すと、彼女に言われたとおり、テーブルを囲むソファで待つことにした。 ポケモンセンターまで運べたのだから、ここから先はジョーイに任せるしかない。 自分はベストを尽くしたのだ、あとはジョーイに託すしか…… 悔しいが、そうするしかないのだ。 ソファに腰を下ろすと、アカツキは手のひらで額を覆った。 言い知れない悔しさを噛み殺す。 「もっと早く助けられたら……」 あんなにヒドイ姿にはならずに済んだのかもしれない。 今もまだ手に残っている。 化膿しかかっていた傷口のぬるりとしたあの感触。 もうあんな風にはなって欲しくない。 たとえノロマで、生まれつき容姿に恵まれていないポケモンであっても、それは同じだ。 「助かりますように……」 いるかいないかも分からないような神様を信じているわけではないが、この時ばかりはいてくれることを信じたかった。 祈る気持ちでいるアカツキの耳に信じられない言葉が飛び込んできたのは、ちょうどその時だった。 運命とは酷なことをすると、第三者がこの場にいたらそう言っていたかもしれない。 それほどに、信じられない言葉だった。 「あのヒンバス、そろそろくたばってる頃じゃないのか?」 「……え……?」 声の主は、先ほどから隣り合って何やら話に興じている少年の片方だった。 両方とも黒髪で、顔立ちもどこか似ている。 兄弟か何かだろうか。 まあ、他人のことだから大して関係ないだろうが…… 「さあな。あの川にキバニアが棲んでるっておまえが教えてくれたからだろ」 「そりゃそうだ」 そばかすの目立った少年が半眼で言うと、ゲラゲラと下品に笑いながら目つきの鋭い少年が応じた。 アカツキが漏らした声はあまりに小さかったから、耳に入っていないのだろう。 周囲なんて関係ないと言わんばかりに、周囲に気を配ることもなく話している。 「まったく…… あのノロマでマヌケで品がなくて弱っちぃヒンバスがミロカロスに進化するって聞いたから、せっかくゲットしたのによ」 「とんだハズレだったってことだろ」 「早い話がそういうこった」 そばかすの少年が荒い息を吐いた。 清々すると言わんばかりだ。 「もしかして、そのヒンバスって……」 まさかと思いながらも、アカツキは彼らの話に黙って耳を傾けていた。 そんなはずはない……いくらなんでも、偶然にしては出来すぎている。 「でも、ヒンバスがミロカロスに進化するなんて……」 いつくしみポケモン・ミロカロス。 一、二回しか実物を見たことがないが、とにかく美しいポケモンだった。 誰にも相手にされないようなみっともないポケモンが、一番美しいポケモンに進化するのだ。 劇的な、いや……九回裏のツーアウト満塁でサヨナラ逆転ホームランを打つバッターのような……そんな奇跡的な進化なのだ。 アカツキの心情など置き去りにして、少年たちの会話は進んだ。 「いつまで経っても進化しやがらない。 ポケモンフーズだってやったし、バトルもさせた。 ま、バトルで一度も勝ったためしはねえけどな」 「そりゃそうだ。ありゃコイキングにも勝てるかどうか分からないもんな」 「ポケモンならポケモンらしく、さっさと進化すりゃいいんだよ。 あの時ミロカロスに進化してりゃ、キバニアだらけの川に捨てることもなかったんだ。 バカなヤツだよな、チャンスを棒に振るようなポケモンなんだ。 そんなヤツには、お似合いの末路かもな」 「あははははは」 虫をも殺さぬ顔で無邪気に笑う。 まるで、悪気すらない。 ぷちっ。 アカツキの心の中でそんな音がした。 致命的な何か――たとえるなら心のヒューズだろうか――が切れた音。 一粒の火種が油のような感情に落とされ、激しく燃え上がる!! 「ぼくが助けたヒンバスは……捨てられたのか!!」 身体が震える。 虫をも殺さぬ笑顔でポケモンを捨てた少年に対する戦慄か。 それとも、本来パートナーであるべきポケモンを捨てるという行動に対する怒りか。 分からなかったが、言えるのは、アカツキが普段の穏やかな気持ちを忘れてしまったということだけだ。 怒りの炎が狭い胸で荒れ狂う。 昂った感情が行き場を求めて彷徨う。 胸が――痛い。 「でも、このことはヒンバスに言えない……」 怒りに狂いそうになりながらも、最低限、自分を律する心だけは忘れなかった。 「でも、あいつには捨てたなんて言わなかったろ。 ちょっと待ってろって、そう言って川に放したんだもんな」 「そうでもしなきゃ、ついてきただろ?」 「言えてる。単細胞らしくしぶといもんな」 「な……」 あまりに自分勝手な理屈に、声も出ない。 ヒンバスにこの現実を突きつけるのはあまりに残酷すぎる。 だから、黙っていようと思った。何があろうとも。 「どうしてそんなことができるんだ……ポケモンはトレーナーの道具なんかじゃない。 家族なのに、かけがえのない大切なパートナーなのに……どうして……!!」 人間がすべて聖人君子のようなタイプでないことくらいは知っている。 ニュースで毎日垂れ流しにされている現実。 子を殺す親、親を殺す子供。 無関係の人間やポケモンを巻き込む犯罪の数々。 そんなものなど、屁にもならないような言葉が、同じロビーにいる少年から発せられている。 できるなら、ヒンバスをあんな目に遭わせたトレーナーを縊り殺したいという気持ちさえ湧き上がってきた。 でも、そんなことはできるはずもない。 それに、ここで騒ぎ立てることも。 ヒンバスを、身勝手な理屈ばかり並び立てている少年に突きつけたらどうなるだろう? 想像するだけで思わず笑みがこぼれてくる。 青い顔をして、懺悔でもするだろうか? それとも―― 「ここで騒いだって、返せって言われたら……」 本人が『捨てていない』と一言でも主張すれば、それで通るのだ。 だが、ヒンバスはアカツキのモンスターボールに入った。 本当は知っていたのかもしれない。捨てられたことに。 だからこそ、アカツキのモンスターボールに入ったのではないだろうか。 新しいトレーナーについていこうと決めていたのかもしれない。 「ヒンバスがそう決めたなら、ぼくはなにも言わない……」 少年たちに対する怒りは依然強いものがあったが、それでもヒンバスのことを想い、必死に感情を押し殺した。 そうたやすく消えるほどヤワな怒りではなかった。 心の風圧(あつりょく)で抑制しても、くすぶっている。 いつかこの気持ちを忘れられるだろうか。 今まで抱いたこともない、醜く、そしてどす黒い気持ちを。 自分自身を失いかけそうなほどの烈しい怒り。 一瞬、自分が自分でなくなったような、そんな気がした。 だけど、それはヒンバスを想っているが故のことだった。 真っ白な純情も、墨をこぼした紙片のように、あっさりと黒く染まってしまうのだ。 「大人になったら、こんな風になっちゃうのかな……」 炎のごとく昂ぶっていた激情が一瞬にして冷めた。 夜の砂漠のように、氷点下にまで心が凍てつく。 「どうかしちゃいそうだ……」 アカツキが抱く『痛み』になど気づかず、少年たちは席を立った。 彼らの背に呪詛めいた言葉を投げかけなかったのは、そんなことをしたところでどうにもならないと悟ったからだ。 「こんなに人を恨んだり、憎んだり……そんな気持ち、はじめてだ……」 アカツキは頭を抱えた。 自分が自分でなくなる感覚。 憎悪にすら似た異形の感情。 十一歳の子供の心をあっさりと黒く染めてしまった。 今まで感じたことのない気持ちに、何をどうすればいいのか分からず、嵐の中の小船のように、翻弄されてしまっているのだ。 「本当にぼくだったのかな……」 別人が自分の意識に入り込んで、そんな風になったのではないか。 あまりに幼すぎる心には刺激が強すぎるシロモノだったのである。 と、感じたことのない感情に戸惑いを隠しきれずにいると、不意に視界に影が差した。 顔を上げると、ニコニコ笑顔のジョーイが立っていた。 「あなたのヒンバスは大丈夫です。 怪我はしていますが、それほど重傷というわけでもありませんでした」 「え……」 思いもよらない吉報に、黒ずんだ気持ちもあっさり吹き飛んでいく。 「でも、ぬるっとした……」 「あれは治りかけの傷を体液で覆って黴菌が入らないようにしているだけです。 とりあえず、処置はしておきましたので、明日の朝まで私たちに預けていただければ完治できると思いますが」 「お願いします」 アカツキはふっと息を漏らすと、安堵の表情で頭を下げた。 ジョーイが来てくれたおかげで、嫌な気持ちもすっと消えてくれたようだ。 でも、覚えている。 自分が自分でなくなるような、嫌な喪失感。 それでいて怒りに心までもが焦がれてしまいそうな焦燥感と言い知れぬ怒り。 怒りの対象となるべき人間はすでに部屋に引き上げてしまったようだから、噴火するほどの怒りはどこかへ消えてしまったが。 「それでは今晩は泊まっていかれるとよろしいでしょう。鍵はこちらになります」 「ありがとうございます、ジョーイさん。 ヒンバスを……お願いします」 「かしこまりました」 職業病の笑顔を浮かべ、ジョーイはアカツキにルームキーを渡すと、カウンターへと戻っていった。 その職業病が、今のアカツキには天使の微笑みのように思え、人知れず感謝していた。 ヒンバスの容態も安定しているようだし、嫌なことも少しずつではあるが忘れられそうだ。 ヒンバスがモンスターボールに入ってくれた以上、もはや自分の『家族』だ。 たとえ世間様から嫌われていようと、みっともなかろうと、大切にしていかなければならない。 無論、ぞんざいに扱う気などない。 進化するとか、しないとか……そんな問題じゃない。 そんなものはそのポケモン自身が望むか望まないかであって、それ以上でもそれ以下でもない。 進化しないから、なんていう自分勝手な理由でポケモンを捨てた。 そんな人間がいること自体許せないが、ヒンバスとてその事実を認識しているのだろう。 だからこそ、アカツキの『家族』となることを選んだのだ。 それはもう多大な傷を負っているに違いない。 海よりも深く、闇よりも暗い哀しみが渦巻いているのだろう。 ならば、その哀しみを取り除いてやりたいと思う。 アカツキはルームキーに記された部屋へと向かいながら、これからのことを考えた。 なるべくなら、ヒンバスを捨てた少年と接触のないようにしなければならない。 もしその顔を見たら、さっきのように嫌な気持ちで胸を黒く染めてしまいそうな気がするのだ。 次は止められないかもしれない。 いつでも誰かの呼びかけがあるとは限らないしのだ。 「二度とあんな気持ちにはなりたくないな……」 部屋に入ると、荷物をテーブルに置いて、ベッドに倒れこんだ。 身体は疲れていないのに、休息を要求している。 気持ちが昂ぶって、神経をすり減らしてしまったからだろうか。 とはいえ…… 身体にどっと圧し掛かってくる疲労感に抗うことも、できそうにない。 「ヒンバスのことはジョーイさんに任せて、ぼくはもう休もう……疲れちゃったよ」 汚い心とオサラバするために、今は眠ろう。 眠って、起きた時には別の気持ちに切り替えよう。 そうするのが一番だと、漠然とそう思い、目を閉じた。 第64話へと続く……