第77話 拭えぬ不安 -What can't wipe off- ――ああ、俺は一体何をしているのだ……? 彼は、何度目かになるか分からないため息を漏らした。 深く深いため息。 ――仕損じただけではなく、捕虜などにされるとは……情けない。 今、球体の中にいる。 外に出ようと思えば出られるのだろうが、それだけの気力すら湧いてこない。いろいろとありすぎて、疲れている。 自分のやるべきこと。 分かっていても、失敗した自分に何をほざく権利があろう。 経緯はどうあれ、失敗は失敗。 この結果が、自分と仲間たちをどこへ導くのか。 それは分からないが、なるようにしかなるまい。 敗者となった彼には、失敗という結果を受け入れるしかなかった。 アカツキはポケモンセンターに戻ると、すぐさまジム戦とアブソルをゲットするのに頑張ってくれたポケモンたちの回復を頼んだ。 回復が終わるまで、ふたりはロビーに腰を落ち着けた。 「あの、ダイゴさん」 「なんだい?」 アカツキはリュックから鮮やかなオレンジ色の、手のひらほどの大きさの石を取り出した。 それを見て、ダイゴの目つきが変わった。 「確か、こういう石を集めてるんでしたよね?」 「そうだけど……これは炎の石だね」 「はい。よかったらダイゴさんに差し上げます」 「……いいのか?」 「はい」 アカツキは迷うことなく、ダイゴの手に炎の石を置いた。 とある人物からもらったのはいいが、使い道がなくて困っていたところだったのだ。 そういえば……と思い出して、ダイゴにプレゼントすることにしたのだ。 宝の持ち腐れとはまさにこのことだ。 「しかし、君はこれからたくさんのポケモンをゲットしていくことだろう」 ダイゴは神妙な面持ちで、手の上にある炎の石を見つめながら問いかけてきた。 「時に進化の石が必要となるポケモンをゲットすることもあるかもしれない。 その時、この石がなければ進化できないんだ。 ポケモンが進化を望んでも、石がなければどうにもならないこともある。 それでもいいのかい?」 「今はまだいないですし。 それに、未来のこと心配してても仕方ないかなって……」 「軽薄なのか大胆なのか分からないね」 あっけらかんと言ってのけるアカツキに呆れたような眼差しを向けながら、ダイゴは小さくため息をついた。 どこか責められているように聴こえて、アカツキは唖然とした。 「えっと……ごめんなさい。 ダイゴさんの言いたいことは分かるんです。 でも、今ぼくが持ってても何の役にも立たないし、それならダイゴさんに持っててもらった方がいいかなって思って」 「そうか……」 ダイゴは深々とため息を漏らした。 心配する必要などなかったのかもしれない。 隣の男の子は、それなりにいろいろなことを考えているようだ。 自分が考えているよりも、よほど多くのことを。 「それならありがたくいただくよ。 でも、必要な時が来たら、その時は遠慮なく相談してくれ。 君のポケモンにピッタリな石をプレゼントしよう」 「その時は、お願いします」 「ふふ……」 無邪気な笑顔で応じてくるアカツキに、ダイゴもつられるように笑みを浮かべた。 ダイゴはストーンコレクター。進化の石に代表される珍しい石の収集家だ。 現時点で進化の石は全種類自宅の床の間に飾ってあるが、世界各地にはその他にたくさんの珍しい石があるという。 捨て値で捌いても家一軒が庭と家財道具つきで買える価値を持つ石や、値段という意味での価値をつけられないほど希少な石など。 それらすべてを手元に集めるのが彼の夢。 大人にもなって……と思われることはよくあるし、それを面と向かって言われたこともある。 だが、何の夢も抱かず、ただ漫然と単調な日々の繰り返しを生きるよりはよほど立派なことだと、ダイゴは常々そう思う。 夢や目標があるからこそ、人は頑張れる。 多少の困難も乗り切ろうと思えるのだ。 「ところで、ゲットしたアブソルはどうするつもりだい? 君の『ボックス』に送られていると思うけれど」 「みんなと顔を合わせたいって思ってます」 「いいことだと思うよ。 早く慣れさせるには、それが一番だ。 仲間を仲間と認められれば、それだけで絆は育まれていくものだからね」 「でも、誰かをおじさんの研究所に送らないといけないんですよね。 ぼく、六体ポケモンを持ってるから」 「悩むだろう?」 アカツキは首肯した。 現時点で六体のポケモンが手元にある以上、アブソルを手持ちに加える手段はひとつしかない。 手持ちの一体を、『ボックス』に送らなければならないのだ。 苦楽を共にした仲間たちとの一時的な別れであるから、できればどのポケモンも送りたくはない。 しかし、送らなければアブソルを新たな仲間としてお目通りすることもできないのだ。 ここは心を鬼にして、誰かを送り出さなければ。 分かってはいるのだが、そう簡単に踏ん切りがつくものではない。 年甲斐もなく眉間にシワなど寄せて悩んでいるアカツキに、ダイゴがアドバイスをしてくれた。 「こういうのはね、定期的に交代でポケモンを『ボックス』に預けるといいよ。 ローテーションを組んで、みんなが同じように君と触れ合える環境を作るんだ。 そういうのも、トレーナーとして大切なことだよ。やってごらん」 「そう……ですね」 表情が晴れていく。 みんなが同じように触れ合える環境を作ること……その一言に、悩みが嘘のように吹き飛んでいく。打ち上げ花火のように散る。 「そうしてみます」 「アブソルが早く君たちに慣れてくれるといいね」 「はい」 笑顔で頷いた時、ジョーイに呼ばれた。 カウンターへ走っていくと、彼女は職業病とも呼べる笑顔でモンスターボールを三つ、渡してくれた。 「ありがとうございます、ジョーイさん」 三つのボールを腰に装着して礼を言う。 それから間を置かずにロビーの脇に数台設置してあるテレビ電話へと向かう。 「決断力はまあまあ……実行力はかなりのものだな……」 受話器を取り、手馴れた様子でダイヤルを押して行くアカツキの後ろ姿を見つめながら、ダイゴは微笑みを隠そうともしなかった。 誰にも見られていないというのもあるだろうが、こういう男の子を見ると、つい昔の自分の姿を重ねてしまう。 「懐かしいね。僕にもこういう頃があったんだから……」 ダイゴも十一歳になったその日に、キモリをもらって家を飛び出した。 トレーナーとして頑張るために、修行の旅へと出たのである。 様々なものを見て、聞いて、触れて、時には涙も流して、そうして積み上げられた経験が今の自分を形作っているのだ。 ポケモンリーグ・ホウエン支部を支えるひとりの人間として、その時の経験が何度役に立ったことか。 辛いことも、いつかは笑って話せる日がアカツキにも訪れることを切に祈るばかりだった。 なんてセンチメンタルなことをダイゴが考えているとは露知らず、アカツキは画面に映った人物と話に興じていた。 無精髭を生やしたオダマキ博士は、旅に出る前と何ら変わってはいなかった。 相変わらず白衣を着崩しているあたり、得意のフィールドワークを続けているのがよく分かる。 「おじさん。さっきぼくのポケモンが送られませんでしたか?」 世間話はそこそこに、アカツキはいきなり本題に入った。 あまり長話をしては、オダマキ博士も迷惑だろう。 彼の仕事は、論文を書くとか顕微鏡を覗いてはメモを取るというものではない。 刻一刻と変わるポケモンの生態を、身近な場所でつぶさに観察するというのが彼の仕事。 アクティブな仕事ゆえ、一秒でも長く引き止めるのは気が引けた。 「ああ、来たよ。カリンが喜んでいたぞ。 『やっとアカツキ君からポケモンが送られてきたわ♪ さあ、頑張って研究しなくちゃね♪』 なんてことを言いながらモンスターボールを顕微鏡にセットしていたが……」 「そうなんですか……」 あまりに意外なカリンの性格を聞かされ、アカツキはげんなりした。 彼女はオダマキ博士とは対照的に、インドアの研究者なので、モンスターボール片手に唸るのが好きなタイプなのだ。 しかし、実の息子にすら『博士になる前はトレーナーでした』ということを隠している。 さらには、『ずいぶん前にトレーナーはやめたから、その時の実力が残ってるかどうか分からない』などと平気で言う。 実際そのポケモンが恐ろしいくらい強かったりと、得体の知れない部分は旅に出てから顕著になっていたが…… そういう側面も持ち合わせていたとは驚きである。 「もしかすると、そのポケモンが必要なのかな?」 「はい」 アカツキは頷くと、理由を説明した。 説明などしなくてもオダマキ博士なら二つ返事で了承してくれただろうが、自分の考えは伝えておきたい。 「みんなと早く慣れさせたいなって思って。 ぼく、ホウエンリーグに出るから、自分のポケモンの強さくらいは知っておかなくちゃいけないなって…… だから、送ってほしいんです」 「そうか……」 オダマキ博士は画面越しに伝わったアカツキの想いを咀嚼するように何度も頷いた。 確かにホウエンリーグに出るのであれば、それは必要な措置だろう。 予選、本選とを共に戦い抜くベストメンバーを選抜するには欠かせないものだ。 「分かった。今持ってくるから、少し待っていてくれないか?」 「その必要はないわよ」 オダマキ博士が席を離れようとしたタイミングを見計らったように、カリンが笑顔で画面に登場した。 「は〜い、アカツキ君。元気してたかなぁ?」 「あ、おばさん。こんにちは」 脈絡のない登場の仕方に、アカツキはなんだか力が抜けていくのを感じた。 何から何まで、彼女には敵いそうにない。 そんなことを思っていると、カリンがオダマキ博士に鋭い眼差しを向けた。 「あなた、ジャマ。さっさとどきなさいよ」 「あ、うん……」 うるさいハエでも追い払うような口調と仕草と共に、オダマキ博士は画面外へと追いやられてしまった。 あっという間の政権交代に、アカツキが口を挟むヒマさえなかった。 まあ、するつもりもなかったが。 「しっかし、久しぶりねぇ。ユウキから聞いたわよ。いろいろ大変だったって」 「あ、うん、まあ……」 すっかり井戸端会議しているおばさん口調に変わったので、アカツキはついていくのがやっとだった。 どうもこういう雰囲気で話しかけられると、応じづらい。 彼女も暇ではないだろうから、長話はやめようと思った。 アカツキの表情が微かに変化したことを的確に捉えたのか、カリンはストレートに切り出してきた。 「さて。 このアブソルをこちらから転送するから、君もポケモンを一体、こちらに送ってちょうだい。 誰にするかは決めたかしら?」 「えっと……」 なぜか嬉々とした表情のカリンから目をそらし、アカツキは視線を腰のモンスターボールに向けた。 誰を研究所に送ろうか。 明日にでも最後のバッジのあるルネシティに向かいたいところなので、戦力を落とすわけにはいかない。 まずはそれが最優先課題だ。 あるいは、タイプを分散させることも必要となる。 同じタイプのポケモンを二体以上連れていると、弱点を突かれた時に苦しくなりかねない。 バランスよく、それでいてたくさんのタイプで手勢を固めておいた方が無難である。 とまあ、バトルの諸要素を勘案しつつ、誰を研究所に送ろうか徐々に構想を固めてゆく。 カリンは笑顔のまま、促すわけでもなく待っていてくれた。 と、そこへ―― 「あら、ダイゴ君じゃない。お久しぶりね」 「え?」 アカツキは振り返った。 笑みを浮かべたダイゴが目の前に立っていた。 彼の視線はカリンに向けられていた。 「そうですね、カリンさん。 しばらくぶりですが、元気にしておられましたか?」 「ええ、変わりないわ。 しかし、あなたがこの子と一緒にいるなんて思わなかったわね」 「たまにはプリムから解放されたいと思う時もあるんですよ。 彼女のことは、まあ……嫌いではありませんが、あまり口うるさくされると、僕としても困ってしまいます。 ああ、今アカツキ君と僕がいるのはトクサネシティなんですよ。 あなたもご存知の通り、僕のホームタウンでしてね」 「ええ、そうだったわね」 カリンは笑みを深めた。 久々に再会に気を良くしているのかと、アカツキはそう思ったが、それは間違いだった。 ざっ。 「あ……」 小さな足音と共に、ダイゴの背後に金髪の女性が現れたのである。 エントツ山でダイゴを迎えに来た、プリムという女性に間違いない。 あの時と同じような服装をしており、貴婦人を思わせるような出で立ちではあるのだが…… 「あれ、もしかして怒ってるのかな?」 美人を台無しにするような仏頂面で、目元などどこか引きつらせながら、ダイゴの背中を睨みつけている。 どうやら、先ほどのダイゴの発言を耳にして、頭に血が昇っているらしい。 「それはそうと、ダイゴ君。 あまり彼女のことを悪く言わない方がいいわね。 彼女はあなたのためを思ってそうしているんだから…… ほら、現に今も君を迎えにわざわざサイユウシティからオオスバメに乗って飛んできているじゃないの」 「そうですか? って……」 応じかけて、ダイゴは顔を引きつらせた。 カリンの言葉の意味を反芻し、恐る恐る振り返る。 魔王が目の前に立っていた。 「ぷ、プリム、いつの間にそこに!?」 「先ほどから居りましたわ。ダイゴさま」 目つきを緩めることもなく、低い声でわざとらしく言うプリム。 ダイゴが慌てているのは、プリムが怒っているのを察したからだ。 「どこをふらついておられるのかと思えば、またしてもハヅキ君の弟君とつるんでおられたとは、よい御身分で。 わたくしやゲンジ殿、フヨウ、カゲツ殿が苦労しているのも知らず、ぬけぬけとカリンさまとお話などと…… そんなに今のお仕事に不満がおありですか」 「それは誤解だ、プリム」 「誤解?」 「そう!!」 ダイゴは額にびっしりと大粒の汗を浮かべながら、必死に弁解した。 ポケモンリーグの役員ともなると、それなりに忙しいのだろう。 なのに、ダイゴはこんなところで油を売っているから、プリムはそれを見かねて連れ戻しにやってきたのだ。 ダイゴの弁明虚しく、プリムは眉を動かすことも、相槌を打つこともしなかった。 「寝言は寝て言えと申しますわね。 詳しいお話はサイユウシティで聞かせていただきますので」 表情を変えずに言うと、ダイゴの耳を思いっきり引っ張った。 「あいたたた……プリム、乱暴はよしたまえ!!」 ダイゴは徐々にプリムに引っ張られてテレビ電話から遠ざかっていく。 女性とは思えない怪力の持ち主だ。 「そ、それではごきげんよう。 アカツキ君も、頑張ってバッジを集めて……おわーっ!!」 この期に及んで話などするものだから、プリムは本気で手加減しなかった。 最後には走って引きずられる始末。 「あ……あれって……」 ダイゴとプリムの姿がロビーから消えて、アカツキは唖然とした表情を隠そうともせずにつぶやいた。 「恋する乙女は龍を片手で縊り殺しちゃうものなのよ」 カリンは微笑ましいものでも見るような眼差しをしながら言ったが、アカツキには何のことか分からなかった。 「なに、それ?」 「君にはまだ早いわね。さ、準備できたかな?」 「えっと……」 上手にはぐらかされたことにも気づかなかったのは、転送の準備ができたかと言われたからだった。 残念ながら、アカツキはそれに一生気づくことはなかったが…… 「じゃあ……」 アカツキは決めた。 モンスターボールをひとつ手に取ると、電話の傍にある転送装置にセットした。 「オッケーです」 「分かったわ。それじゃ、転送スタート♪」 カリン女史の言葉が終わると同時に、転送装置の先端にある電極が光を帯びた。 一直線にモンスターボール目がけて、電極から発せられた光が落下する。 装置全体が淡い光を帯び、じじじじじ、と電気の擬音が鳴る。 ボールが一瞬その姿を消したが、次の瞬間には何事もなかったかのように転送装置に腰を落ち着けた。 と、そこで光が消えた。 転送を行う前と何ら変わらない状態へ戻ったのである。 「あ、来た来た♪」 カリンは心底楽しそうに、送られてきたボールを手に取ると、愛しそうに頬擦りなどしたではないか。 「どんなポケモンを送ってくれたのかな?」 「チルット……って知ってるよね」 「キレイ好きなポケモンね。私、チルット大好きなの。 ありがとうね。心行くまで研究して…… ああ、もちろんちゃんと責任を持ってお世話するから。心配しないでね」 「あ、ありがとう……」 本当にそれでいいのかな……? アカツキは一抹の不安を抱かずにはいられなかった。 チルットが好きかどうかはともかく、心行くまで研究って、一体何をどうするというのだろう……? 想像の域を超えていたので、脳裏の考えを打ち切った。 なんか、ずぶずぶ泥沼にはまっていきそうでコワイ。 「それじゃあアカツキ君。ごきげんよう♪」 「あ、おばさんも元気でね」 「うふふふふ♪」 ぶつっ、と耳障りな音を立てて回線が切れる。 通話は終わった。 終わり際のカリンの笑顔が恐ろしく見えたが、気のせいだろう。 とりあえず緊急逃避的に決め付けて、考えを切り替える。 「でも、アブソルがこうしてぼくの元に来たんだから……」 チルットを預けて、その代わりに、アブソルが手持ちに加わったのだ。 ワカシャモ相手にかなりの激闘を繰り広げていたので、その実力はかなりのものに違いない。 地面を抉りながら飛んでくるカマイタチの威力は凄まじいし、即戦力として十分に期待できる逸材であろう。 アブソルと仲良くなれるということで、アカツキの期待は嫌でも高まっていった。 その晩、アカツキは夕食を摂り終えると、すぐさまポケモンセンター敷地内にある庭へと飛び出した。 数え切れないほどの星が広がる広大な夜空をバックに、六つのモンスターボールを手にすると、アカツキは一気に空へ投げ放った!! 「みんな、出てきて!!」 トレーナーの意思に応え、ボールの口が開き、次々にポケモンが飛び出してきた!! 夜空を切り裂かんばかりの閃光が迸り、地面に突き刺さるとポケモンのシルエットを縁取って光が消える。 「バクフーンっ!!」 カエデを筆頭に、広大な世界に飛び出したポケモンたちは一斉に嘶いた。 バトルで傷ついたアリゲイツ、ミロカロス、ワカシャモの回復具合は完璧で、元気そうな様子だった。 アカツキは元気そうなポケモンたちの顔を順番に見渡して―― 最後に目を留めたのは、言うまでもなく新参者であるアブソルだった。 ゲットしたてということで、アカツキたちに慣れていないのだろう、居辛さそうな雰囲気を放っていた。 トレーナーと目を合わそうともせず、そっぽを向いてしまっている。 それも、誰もいない方に顔を向けているので、どんな表情をしているのかは分からない。 ただ…… 「ぼくのこと、嫌いなのかな……」 期待が一転、不安に転落した。 「あ、あのさ、アブソル……」 何もしないままではいけないと思って、声をかけてみた。 しかし、アブソルは見事にその声を聞き流してしまった。 「えーっと……」 まさか無視されるとは思っていなかったので、本気で言葉を失った。 ここまでコミュニケーションを拒否されるとは…… だが、だからといって仲良くなろうという気持ちが萎えたりはしない。 むしろ、こういう相手だからこそ、絶対に仲良くなろうと強く思える。 「アブソル……」 アカツキは穏やかな声音でつぶやくと、ゆっくりとアブソルに近寄った。 言葉で通じないのなら、肌と肌の触れ合いでコミュニケーションを取るしかないではないか。 ざっ…… 草を踏み分ける音が聞こえてか、アブソルはゆっくりと振り向いてきた。 真っ赤な瞳に宿る眼光は鋭く尖っていた。 「アブルルル……」 低い唸り声が聞こえ、アカツキは思わず足を止めた。 「……アブソル?」 バトルした時とぜんぜん変わっていない雰囲気を放つアブソルがそこにいた。 アカツキに対して敵対心にも似た感情を抱いているのが、唸り声と雰囲気と、口の端からのぞいた牙から窺い知れた。 「どうして、そんなに……」 どうしてそんな風に見られるのだろう。 アカツキが疑問を抱いたのは当然だった。 生暖かい風が妙に冷たく感じられたのは、アブソルが敵意を見せていたからかもしれない。 「アブルルル……ガウッ!!」 アブソルは獰猛な声を上げると、アカツキに飛び掛ってきた!! ゲットされたのに、懐いているどころか、敵意を剥き出しにしているではないか。 「な……」 いきなり飛び掛ってくるとは思わなかったためか、反応が遅れる。 身を避わそうとしたが、とても間に合わない!! ほのかな月明かりを浴びて鈍く光る脚の爪。 「うわぁっ!!」 身体を丸め、その場にうずくまる。 と、そこへ―― 「ギャウッ!!」 聞こえてきたのはアブソルの悲鳴だった。 続いて、地面に叩きつけられる音が二回。一度叩きつけられた後で、バウンドしたのだろう。 「え……?」 アブソルの悲鳴と認識して、アカツキは立ち上がった。 目の前にカエデが立っていた。 アカツキに背を向けているあたり、彼女がアブソルを吹き飛ばしたのだろう。 その背の炎が、天を突かんばかりに激しく燃え上がっている。 感情が昂ぶっているのが、熱気から伝わってきた。 カエデのみならず、他の四体のポケモンも、緊迫した雰囲気を漂わせ、鋭く尖った目つきでアブソルを睨みつけている。 アブソルはゆっくりと立ち上がると、さらに敵意を膨らませた。 一触即発の危険性が高まった。 嫌でもそんな雰囲気が伝わり、アカツキはカエデとアブソルの間に飛び出した!! 「!?」 いきなり飛び出され、アブソルは瞳を見開いた。 何をするつもりなのか、分からなかったのかもしれない。 「カエデ、みんな。 お願いだからアブソルにひどいことはしないで。ぼくたちの、新しい仲間なんだよ?」 腕を真横に広げ、カエデを牽制する。 彼女なら……アカツキを守るためならどんなことだってするだろう。 それくらい純情で、トレーナー想いのポケモンなのだ。 想ってくれているのはもちろんうれしいが、だからといって仲間に危害を加えていいという理由にはならない。 アカツキの言葉に、アブソルをのぞいたポケモンの敵意が消え去った。 いざとなれば一斉に攻撃できると思ったのかもしれない。 「ねえ、アブソル」 アカツキはゆっくりと、もう一度アブソルの元へと歩み寄った。 アブソルは低い唸り声で威嚇するものの、そんなもので足を止めたりはしない。 「アブソルはまだぼくたちに慣れてないから、あんなことしたんだよ。 でも、大丈夫。ぼくがちゃんと仲良くするから……」 アカツキの手がアブソルの頬にかかった。 月明かりの下、元から黒ずんでいるその肌はさらにその黒味を増したが、黒という色から連想されるような冷たさはなかった。 確かな体温が手を伝って身体に流れ込んだ。 「アブルルル……」 「ねえ、アブソル」 アカツキはアブソルの頬に触れたまま、しゃがみ込んだ。 アブソルと同じ目線に立つ。 と、アブソルが低い唸り声を上げるのをやめた。 心なしか、刺々しい雰囲気も影を潜めたように思える。 「ぼく、キミと仲良くなりたいんだ」 糸を張り詰めたような雰囲気が周囲を包み込んだ。 潮騒だけが遠くで聞こえる。 「ぼくのこと、あんまり好きじゃないってのは分かるけど……ぼくはキミと仲良くなりたい」 アカツキは物怖じすることなく、自分の気持ちを正直に伝えた。 さして大きくなかった声。そこに秘められた想いはホンモノだった。 「すぐには無理かもしれないけれど…… でもね、ちゃんと分かり合えるって信じてるよ。 ぼくも努力する。キミと仲良くなれるように」 いつ攻撃されるか分からないのは確かに怖かった。 だけど、怖いなんて理由をつけて、腫れ物に触るようにアブソルを見ていれば、余計に嫌われるに決まっている。 思い切って近づいていかなければ、本心でぶつかり合えない。 お互いに抱いている気持ちを伝えられないではないか。 「だから、ぼくと友達になろう。 みんな、すごくいい人ばかりだから」 言い終えて、はたと気づく。 「あ、ポケモンって人とは違うんだっけ……でも、みんなぼくの友達。 ぼくの大切な家族なんだよ。もちろんキミも」 慌てて訂正するが、アブソルは不思議そうな目でアカツキを見ていた。 あまりに隙だらけな男の子に対して、しかしアブソルは攻撃を仕掛けようという気にならなかった。 先ほどはそんな気にもならなかったのに。 不思議なものだと思った。 自分の意志で襲おうと決めたのに、その相手に心を許しかけている自分に気がついたからだ。 「アブルルル……」 低い唸り声から敵意が薄れていくことに気づき、アカツキは顔を喜びにほころばせた。 少しは……受け入れ始めているのかもしれない。自分と……仲間たちを。 だったら、粘り強く接していけば、いつかは必ず心を開いてくれるはずだ。 その時が来るのを信じて、自分にできることをひとつひとつやっていけばいい。 「みんな、アブソルと仲良くしてあげてね」 笑顔でアブソルの頭を撫でてやると、心なしか、赤い双眸が揺らめいたように見えた。 不思議なものにでも魅せられたような表情で、笑顔の男の子を見やる。 それでも、アブソルの心の中では、拭い去れない不安のようなものが霧のように立ち込めていた。 アカツキはそんなものに気づけるはずもなかった。 ただ、新しい仲間を得たという喜びと、少しだけでも自分たちのことを受け入れてくれたという想いに、胸躍らせるだけだった。 ――俺は何をしているのだ? 彼は夜空を見上げながら思った。 失敗者となった自分。 それだけなら、屈辱も甘んじて受けよう。 仲間なら、失敗したという理由で罰したりはしないだろうが、それは彼のプライドが許さなかった。 失敗には相応の罰を。 そして挽回の機会を。 ――俺は何をしているのだ? 重ねて、自身の心に問う。 考えるまでもない。 彼の傍には、種族こそ違えど、同胞たちが無防備な姿をさらして横になっている。 甘い、甘すぎる……寝首を掻こうと思えば、いくらでもできそうなほどだ。 だが、自分もその甘い同胞と同じ立場になってしまっている。 嫌でもそれは認めなければなるまい。 同胞に囲まれ、ベッドでは年端も行かぬと思われるニンゲンが横たわり、寝息を立てている。 ニンゲンのことなどよく分からないが、子供より大きいのが大人で、シワが深いほど歳を取っていることだけは知っている。 大きいと言うほど大きいわけでもないし、シワがあるわけでもない。 だから、ベッドで眠っているのは子供なのだろう。 ――俺の役目は、ここでこうしてじっとしていることではないはずだ。だが…… むしろ、今がチャンスなのだ。 同胞は自分に警戒心など抱くことなく眠りにつき、自分だけが活動可能な状態にある。 千載一遇の機会とはこのことだが、彼は行動を起こそうとさえ思わなくなっていた。 自分のするべきことは分かっているが、本当にそれでいいのかと…… 攻撃されながらも、敵意を向けることなく、それどころか自分と対決しようとした同胞との間に割って入る。 弱小な力しか持ち合わせぬクセに、自分たちが世界の支配者だと言わんばかりに傲慢なニンゲン。 子供なのに、どうしてそこまでのことができるのか。 一歩間違えば、ケガどころでは済まなかったかもしれないのに。 ――俺もあいつも、間違っているとは思わない。ただ…… 自分の役目は、ベッドで眠っているニンゲンを傷つけ、仲間の元へ連れていくことだ。 それを忘れたわけではない。 しかし、本当にそれでいいのか。 結局、自分たちもあのニンゲンと変わらない。 力を以って相手を征す。 自然界の掟は時に、傲慢にもなる。 それでは、自分たちの生活を脅かすあのニンゲンと同じではないか。 いくら相手が憎くとも、そこまで落ちぶれるつもりは、彼にはなかった。 ――俺が失敗すれば、あいつは次の手を打つだろうか……? 今頃、仲間は自分が失敗したことを知り、次の手を打っている頃だろう。 どちらにせよ、失敗者となった自分が携わることはできまい。 ――ならば、俺はこのニンゲンと共にいよう。いずれ、あそこに帰れるのなら。 ベッドで眠っているニンゲンは、とても不思議だった。 自分たちの敵であるニンゲンと同じモノを持ちながらも、まったく違う。 彼となら、少しの間なら、一緒にいてもいいかもしれない。 夜空には三日月。 どこか寂しげに輝く三日月は、彼の額に生えた、少しねじれた形の角と酷似していた。 ――俺も、同じと言うことか…… 同じ? 誰と? 自身の問いに、彼は答えることができなかった。 どうでもいいと思っていたからかもしれないが、今の自分の立場を弁えれば、待遇に意見することなどおこがましい。 ――ならば、共に行こうか。 失敗者である自分は、自分を征した相手に従うのみ。 ――いつか帰る。その時まで、どうか…… 彼は三日月を眺めながら、その日最後のため息をついた。 第78話へと続く……