第80話 決戦前夜 -Calm before the storm- 中天にかかる月をただ見上げながら、アカツキは夜風に当たっていた。 なんとも言えない気分が、さして広くもない胸の中を這い回っている。 あれだけスケールの大きい話を聞かされたら、それも仕方のないことかもしれない。 ホウエンリーグ四天王というとっても偉い人に言われたのは、およそ一人の男の子の手に余るような事象だった。 「マグマ団は大いなる大地の気高きしもべと言われているグラードンを蘇らせることで陸地を広げようとしている。 一方、アクア団は母なる海の雄々しきしもべと言われているカイオーガを蘇らせることで海洋を広げようとしている。 方法こそ違うが、両者とも、人類救済などというものを成し遂げようとしているのだ」 苦々しげにそんなことを言ったのは、ホウエンリーグ四天王の長老的存在・ドラゴン使いのゲンジだった。 年齢に見合った貫禄を漂わせていた彼の言葉は、それをウソと断言するのを躊躇わせるだけの何かが宿っていた。 「だが、それは人類救済などというものではない。 神話として伝わっているのは、二つのポケモンが遥か遠い昔に死闘を繰り広げ、ホウエン地方を一瞬にして焼き尽くしたということだ。 誇張されている部分があるにしても、それに匹敵するほどの力がぶつかり合えば、地形が変わるほどの影響は避けられんだろう」 想像の域を超えているスケールに、アカツキは破城槌で頭を殴られたような衝撃に襲われた。 立っているのがやっとで、頭が空っぽになってしまったみたいに、しばらくは何も考えられなかった。 時が経つに連れて、冷静に言葉を咀嚼して意味を確かめられるようになったのがせめてもの救いだったかもしれない。 だからこそ、余計にスケールの大きさに飲み込まれそうになったのも、また事実ではあったが。 「マグマ団もアクア団もそれぞれの救世主と呼べるポケモンを蘇らせるだろう。 それを避けなければならない。 我々ホウエンリーグは、その野望を潰すために裏で調査などしながら機が熟すのを待っていたのだが…… 結果として、ポケモン復活のために必要とされている『珠』をまんまと奪われてしまった。 こうなっては、残る手段はひとつしかない。 二つのポケモンが蘇る前に『珠』を取り戻し、この祠へ戻すこと。 そうすれば、少なくとも無意味な衝突は避けられる。 正直言って、我々だけではマグマ団・アクア団の全員を敵に回すのは苦しい。 そこで、力を借りたいのだ」 ゲンジは、その場に居合わせたカリンとハヅキに、力を貸してほしいと持ちかけてきた。 アカツキは、ハヅキはともかくどうしてカリンにまで話を持ちかけてきたのか、まるで分からなかった。 アカツキの疑問を余所に、二人とも首を縦に振った。 その場から一人だけ逃げ出すわけにもいかず……アカツキもふたりと同じように、力を貸すことになった。 ホウエンリーグ四天王と、それを統括するチャンピオンと、親友の母親と、自分の兄と…… 彼らに任せて自分だけトレーナーとして旅を続けるなど、アカツキにはとても考えられなかったのだ。 必死に頼み込んで、ようやく了承を得た。 ただし、決して無理はしないことという条件付きで。 決めたからには後悔などしたくはなかったのだが、今になって猛烈に膨れ上がってくるのは果たして…… 「ぼくに何ができるのかな……」 ポツリつぶやいた声は吹き付ける風にあっさり溶けてしまうほど弱々しかった。 それだけ悩んでいる、ということなのだろう。 「ぼくはみんなよりも弱いし……もしかしたら、アクア団の人にも勝てないかもしれない。 みんなの足手まといになってしまうかもしれない。 でも……」 プリムが言ってくれた言葉を思い出す。 心に沁みるような温かみはなかったが、冷徹と言えるほど突き放すような口調ではなかった。 「あなたはハヅキ君と同じように……彼らを止められるだけの『何か』を持っているのですよ」 そう言ってくれた。 アカツキは当然『何か』とは何か、訊ねた。 プリムは答えてくれなかったが、それだけで救われたような気がした。 「ぼくにだって、何かできることがひとつくらいはあるんだよね」 夜風が頬を撫でていく。 送り火山の頂上……昼間の激戦によって荒らされてはいるが、大切な祠だけは無事だった。 祠の傍にある石段に腰を下ろし、アカツキはモヤモヤした気持ちを整理しようと足掻いていた。 あれからアカツキたちは送り火山の中腹にある山小屋を本拠とした。 リクヤのキノガッサが発したキノコの胞子によって眠らされたダイゴが目を覚まさないので、行動を控えようということになったのだ。 なにしろ、ダイゴはゲンジたちホウエンリーグ四天王を統括するチャンピオン。 言い換えれば、彼らの大黒柱でありリーダー。 プリム曰く、 「マグマ団もアクア団もいきなりグラードンとカイオーガを復活させようとは思わないでしょう。 いろいろと下準備などが必要となるはずです。 今はダイゴさまが目を覚ますのを待ちましょう」 証拠も根拠もあったものではないが、なぜかそれが鶴の一声となって、今晩は山小屋で一夜を過ごすことになった。 プリム、ゲンジと同じくポケモン四天王であるモヒカン男カゲツ。 見境なしにハヅキをモノにしようとする女色魔(笑)フヨウ。 二人とも話をして、少しはお互いのことを理解し合えたような気がする。 カゲツは見た目こそ不良をそのまま大人にしたような感じだが、根は気さくで優しかった。 フヨウはアカツキのことをあからさまに子ども扱いしていたが、だからといって不快感を覚えるほどでもなかった。 和気藹々とした雰囲気でいろいろと話をするうち、外は宵闇に沈み込んでいた。 夕食を摂って、近くを流れている小川で身体を洗って、その後で……今こうして月を見上げている。 グラードン、カイオーガの復活を阻止するためにマグマ団、アクア団と戦わなければならないことは分かっている。 だが、それは言い換えれば人に向けてポケモンを使うということになるのだ。 ポケモンリーグの承認を得ていることとはいえ、それでも理性で躊躇ってしまう。 人間がポケモンの技を生身で受けるその痛みは、アカツキ自身がよく知っている。 いつか10万ボルトをその身で受けたあの痛みは忘れない。 それを同じ人間に味わわせるのだ。 だから、そんなことできるわけがない。 「分かり合えないのかな……今からでも……」 「それは無理だと思うわ」 アカツキの漏らしたつぶやきに応じたのは、カリンだった。 顔を下ろすと、月をバックに、白衣のポケットに手を突っ込んだカリンと、ハヅキとダイゴの姿があった。 「ダイゴさん……気がついたんですか?」 「ああ。少し前にね……」 ダイゴは微笑んでみせた。 強がっているようには見えないから、具合はかなり良くなってきたのだろう。 「分かり合うことが無理だから敵対し、この場で『珠』を奪い合ったの。 君にはまだ分からないかもしれないけれど…… 大人と言うのはね、自分の間違いをなかなか認められない生き物なの。 私も、ダイゴ君も……」 カリンは両脇をハヅキとダイゴに抱えられるようにして、淋しげに笑いながら歩いてきた。 「カリンおばさん……」 アカツキは立ち上がり、なぜか潤んでいる彼女の瞳を見つめた。 「君に話があって来たの。 私だけじゃない。ハヅキ君も、ダイゴ君も。君に話があるから、一緒に来たのよ」 「兄ちゃんとダイゴさんも?」 「うん」 ダイゴは頷いた。 「君には謝らなくてはいけないね。 僕は君に、ホウエンリーグのチャンピオンであることを隠し続けていた」 「でも、それが分かったって、ぼくにはどうしようもなかったと思うから…… 驚いたのは本当のことだけど、ぼくはダイゴさんがチャンピオンだろうとなんだろうと、ダイゴさんはダイゴさんだと思ってます」 「ありがとう……」 どこか大人びた言葉に驚きながらも、ダイゴはアカツキの素直な気持ちを感じ取って、深々と頭を下げた。 やはり、ハヅキの弟らしいと思った。 こういうところは良く似ている。 子供に見えて、でもどこか大人らしい部分が見え隠れしているのは。 「僕たちがグラードンとカイオーガ復活を阻止しなければならないことは分かっていると思う」 「はい」 「片方ずつ止めようとしても、それは恐らく無理だろう。 決して上策とは言えないけれど、僕たちは戦力を二つに分けることにしたんだ」 「グラードンとカイオーガ。 それぞれの地点に振り分けることで、両方を同時に阻止しよう、ってワケ」 「そういうことさ」 少々難しい言葉で彩られた内容を、カリンが噛み砕いて分かりやすくしてくれた。 「僕とプリム、ハヅキ君と、そして君でグラードンの眠る『目覚めの祠』に向かうんだ。 カゲツとフヨウ、ゲンジさんとカリンさんでカイオーガの眠る『深海洞窟』へ向かってもらうことになる。 戦力のバランスを考えると、それが一番だろうからね」 「でも……兄ちゃんはともかく、ぼくは足手まといになるんじゃ……」 「いや、君の力は必要だ」 「!?」 君の力は必要だ…… そう言われ、アカツキは息を呑んだ。 ダイゴの目は真剣だ。 本当に、ハヅキよりも弱い自分のことを必要としてくれていると分かって、驚くのと同時にうれしかった。 理由なんて分からなくてもいい。 必要としてくれているというだけでうれしかったのだ。 何かの役に立てるという喜びが胸を静かに満たしていく。 「僕は……できればおまえには関わってほしくない。 今からでも遅くはないよ、立ち去ってほしいと思っている」 ハヅキの言葉に、アカツキは喜びが色褪せていくのを感じた。 正直な気持ちをそのまま口にしたのは、それだけ弟の身を案じているからだと、アカツキには痛いほどよく分かったから。 仮にもこれから相手にしなくてはならないのは、大陸を押し広げるだけの力を持つポケモンだ。 そんなポケモンを相手に、無事に帰れる保証がないから、なおさら不安で仕方がないのだろう。 だが―― 「大丈夫だよ、兄ちゃん。ぼくは無茶なんてしない。 足手まといにならない程度には頑張るけど……」 「いいか。 危ないと思ったら僕のことはどうでもいい。おまえだけでも逃げるんだ」 「うん……分かった」 そんなことを言うのは、きっと信じてくれていないからだと思った。 正直、淋しいけれど……でも、無理はないと自分で分かっていた。 無理はしないなんて今まで何度も言ったけれど、でも、自分は無理してきた。 ヒンバスを守るために10万ボルトを受けたことも、無理をしたということなのだから。 きっと、無理をしなかったことなどない。 「ハヅキ君の気持ちも分かってあげて。 彼は君のことが心配なの。 君に傷付いてほしくないと思っているから、そんなことを言ったのよ。 それだけは分かってあげて」 「うん。おばさん……」 アカツキは力強く頷いた。言われるまでもなく分かっている。 「あ、そうだ」 ……と、アカツキは何か思いついたように手を叩いた。 「なに?」 「おばさん、カゲツさんとずいぶん親しそうにしていたけど……知り合いなの?」 「まあね……」 カリンは笑みを隠しきれないように、声を立てて笑った。 懐かしい思い出を記憶のタンスから引っ張り出してきたのだろう、屈託のない笑みはまるで少女だった。 とても三十路を過ぎた淑女とは思えないほど若く見えるから、それは当然のことかもしれない。 「彼は私がトレーナーだった頃に一緒に修行した仲間だったの」 「君は知らないだろうけど……」 昔気分に浸るようにうっとりした表情のカリンを横目でチラリと覗き込みながら、ダイゴは言った。 「カリンさんは、遥か遠くのジョウト地方で、一時期ジョウトリーグ四天王を務めていたこともあるんだよ」 「ええっ!?」 さも当然と言わんばかりの口調で言ってくるダイゴに、アカツキは地の果てまで届くような素っ頓狂な叫び声を上げた。 幾重にも声は反響し、徐々に弱まっていくが、それが完全に消え失せるまでにはずいぶんと時間がかかった。 「おばさん、四天王なんてやってたの!?」 「まあ、一年もなかったけどね…… ああいう場所はあまり合わないって分かったから、昔から夢みていたように、博士になることにしたのよ」 「そうなんだ……知らなかった」 アカツキは唸った。 オダマキ博士の研究所の庭でカリンとバトルした時のことを思い出す。 彼女はブラッキーを繰り出してきたが、恐るべき戦術でじわじわと弄るように攻めてきた。 ありとあらゆる状態異常を駆使して、優位にバトルを進めていたのだ。 実に嫌らしいやり口ではあったが、それもポケモンバトルを進める上では大切なこと。 どう考えてもただのトレーナーではなかったが、まさか四天王をやっていた頃があったとは……これは驚きだ。 四天王ほどのトレーナーなら、あれくらいの戦術を流れるように、鮮やかに、計算づくで出すこともできるだろう。 「あの人にもユウキにも隠していることなんだけどね……いつかはちゃんと伝えるつもりよ。それまでは君も黙っていてね」 「うん」 そうするつもりははじめからなかった。 言わなかったということは、言う必要がなかったということだ。 言う必要がないのだから、自分がわざわざ他人の秘密を明かす必要もない。 「さてと……」 ふっと息を吐いて、カリンはダイゴと目を合わせた。 視線の意味を悟ってか、ダイゴは小さく頷いた。 「私は彼といろいろと話をしたいから、そろそろお暇するわ。 兄弟水入らずの時間を邪魔するっていうのも、野暮だしね」 「まあ、そういうことかな。そういうわけでハヅキ君。存分に話をするといいよ」 「え、あの……」 「それじゃあ」 なぜか驚くハヅキを尻目に、ダイゴとカリンは笑みを残してその場を立ち去った。 見せ付けるように腕を組みながら。 「兄ちゃん、どうしたの?」 「いや、なんでもない」 弟に醜態を見せたと言う自覚はあるようで、ハヅキは何もかも忘れるように首を横に打ち振った。 いつもの兄に戻っていた。 穏やかな物腰と、暖かな瞳。 「隣、いいかな?」 「あ、うん」 アカツキは少し横に動いた。 祠の石段は、女性ならふたり並んで座るくらいの幅はある。 だから、アカツキとハヅキが並んで座ることはできるのだ。 ハヅキはアカツキの隣にやってくると、腰を下ろした。 「立ったまま話すっていうのもなんだから、おまえも座りなよ」 「うん、そうするよ」 アカツキも腰を下ろした。 改めて身長の差というのを思い知らされる。 頭一個分とまでは行かないが、今でもずいぶんと差があるものだ。 まあ、背の高いハヅキに憧れているから、それも苦にはならない。 「きれいな月だな」 「うん……」 ハヅキの視線を追って、再び月を見上げた。 少し動いたような気がする。 地球が自転しているから、時間の経過と共に月の位置が変わる。 そんな当たり前のことだけど、なんだか心が揺り動かされる。 「あの、兄ちゃん……」 「うん?」 「ごめんなさい」 「……マグマ団やアクア団に関わってしまったことを謝ってるのか?」 「うん……」 普段と変わらぬ口調で問いかけてくるハヅキに、アカツキは俯いてしまった。 ダイゴからも、ナオミからも関わるなと念を押されているのに、不可抗力とはいえ関わってしまった。 ここまで深く関わってしまったからには、今さら言い訳などしても、とても許されることではないのだろう。 でも、アカツキは一言謝っておきたかった。 自分がしてしまったことに対して責任は持ちたい。 だから…… 「お母さんにも言われたのに、ぼくは……」 「それ以上言わなくてもいい」 「お母さんはぼくを失いたくないって言ってたよ。 あの人たちと関わると、ぼくは家に帰れなくなっちゃうのかな……?」 泣きながら、懇願するような口調で縋りついてきた母親の姿を月に重ね、アカツキは切なくなった。 忘れもしない。 母があんな姿を見せたのは初めてだった。 父親がいないから、彼女はいつも自分を強く持っていた。 強い母親を演じていた。 演じていたということを思わせるように、強い母親像というのが崩れていった。 いくら強がっていても、やはり伴侶がいない寂しさは埋められないのだ。 「アカツキ、もう何も言わなくていいよ。 今さら変えられることじゃない」 「でも、兄ちゃんに心配かけちゃったんだよ?」 「仕方のないことなんだ」 「…………?」 有無を言わさぬ厳しい口調に、アカツキは訝しげに首を傾げるばかりで、何も言い返せなかった。 どうしてだろう、何も言えない。 「おまえがここまで関わってしまったのは、仕方のないことだよ。 今さら過去を変えるなんてできないんだから。 でも、これからは変えられるはずさ。 無茶しないこと。 危なくなったらちゃんと逃げること。 それさえ守れれば、今のおまえならきっと大丈夫」 「本当に……?」 恐る恐る、アカツキは言葉を発した。 まるで怯えた子猫のように――事実、そうだったのかもしれない。 兄に嫌われてしまうかもしれないと内心ビクビクしていた。 だが、ハヅキはそんなアカツキを優しい言葉で抱きしめてくれた。 「ああ」 笑みを深めながら、アカツキの頬に触れる。 凍てつきそうだった心が、氷解していく。 兄の優しさというのに心の奥底から触れて、モヤモヤしていた気持ちが青空のように晴れていくのを感じた。 「ねえ、兄ちゃん」 「なんだい?」 「兄ちゃんはリクヤって人と会ったこと、あるの?」 「……あるけど……それがどうかしたのか?」 単純な疑問を口にすると、なぜかハヅキはひどく驚いた。 アカツキにも分かるほど顔に驚きが出ていたから、それを不審がるのは当然だった。 リクヤはハヅキに一度会ったことがあると言っていた。 それが本当のことか、確かめただけなのに、どうしてこんなに驚くのだろう。 アカツキの表情から自分がとんでもない表情をしていることに気づき、ハヅキは慌てて表情を取り繕った。 笑みを貼り付けるが、それはどうにも心許なかった。 自分でもそれが分かっているから、相当動揺していたのだろう。 内心の動揺を押し隠すように、わざと明るい声で言う。 「確かにあの人には会ったことがあるよ。 母さんの大切な友達だって。 あの人が……マグマ団なんて組織に属してるなんて、僕は信じたくないな。 あれほどの人があんな馬鹿げたことをする理由なんてないだろうから……」 「うん……」 あれほどの人…… リクヤは確かにトレーナーとして、また人間としてとても強いと言えるだろう。 時には優しく、そして冷酷になることで、必要なものだけを手に入れることができる強さを持っている。 だが、アカツキにとってその強さは求めるべきものとは違っていた。 誰かを怯えさせるような……何でも躊躇いなく捨てられるような強さなんて要らない。 強くなくてもいい。 ただ……大切なものを守れるだけの、大切な人に安心を与えられるだけの強さでいい。 だから、リクヤはアカツキにとって別に特別な人間でもなかった。 「兄ちゃんは違うの?」 ハヅキの表情から読み取るのは実に簡単だった。 こんなに簡単にボロを出すなんてらしくないと思った。 しかし、それはハヅキがリクヤと一度きりの対面とやらで、何か特別なことがあったのだろう。 だけど、それを確かめる気にはならなかった。 触れてはいけないもののような気がして、一言の疑問が躊躇われた。 「ぼく、あの人に会ったよ。トウカの森で」 「え?」 アカツキはしかし躊躇うことなく、自分の体験談を話した。 ハヅキには聞いてほしかった。それだけの理由があるから。 「エントツ山でぼくをひどい目に遭わせたこと、ごめんって謝ってくれた」 「え……本当、なのか?」 「ウソでそんなこと言わないよ」 瞳を大きく見開いて、ハヅキは信じられないものでも見るようにアカツキを見つめていた。 アカツキとリクヤが自分の知らないところで会っていたことに対してか。 あるいはリクヤがアカツキに謝ったということに対してか。 どちらかは分からないが、驚いているのは間違いないだろう。 驚いていることを隠すように、ハヅキはアカツキの興味を引く言葉を発した。 「なあ、アカツキ」 「なに?」 「父さんのこと、覚えてるか?」 「お父さん?」 「ああ……」 突然父親の話をされ、アカツキはきょとんとした顔をハヅキに向けた。 一体どうして話を変えたのかは分からない。 でも、ハヅキがリクヤに対して何か感情を抱いていることは分かった。 それを暴き立てようなどとは思わない。 アカツキは素直に答えた。 「覚えてない」 首を横に振る。 生死すら不明な父親。ナオミは突然いなくなったと言っていた。 本当かウソかはともかくとしても、アカツキの父は彼が四歳の頃に突然失踪した。 だから、アカツキが父親のことを何一つ覚えていないのも、無理のない話だった。 「兄ちゃんは覚えてるの?」 「優しい人だった」 「お母さんも言ってた。優しい人だって」 「ああ……でも、今じゃどこにいるのかも分からない。 僕は、父さんが生きて僕たちのことを見てくれてると信じてるよ」 「……!?」 アカツキは息を呑んだ。 ハヅキの言葉のように考えたことは一度もなかった。 生きて僕たちのことを見てくれてる…… 生きていようと死んでいようと、別にそんなことはどうでもいいと思った。 母と兄、そしてアリゲイツと生活して、父のいない寂しさなど感じることはほとんどなかった。 十一歳になって、今さら顔を見せても、戻ってきても、アカツキにはどうでもいいことに思える。 今になって愛情を振りまかれても、そんなの他人にすら劣ると思っているから。 生きているのなら、ずっと傍にいてほしかった。ナオミを支えてほしかった。 女手一つで男の子をふたり育ててきたその中では、苦労が絶えなかっただろう。 本当に家族を愛しているのなら、いなくなったりなんかしないはずだ。 アカツキは父親に愛情など微塵も感じていなかった。 でも…… 「お父さんはぼくのことをどこかで見ててくれてるのかな……?」 どうでもいいと思っていた父親への想いが急に溢れてくるのを感じて、思わず胸が熱くなる。 「僕はトレーナーとしての実力を磨くために旅をしているけど、本当はもうひとつ目的があるんだ」 「もう一つ?」 「そう。 僕はお父さんを探して連れ戻したいと思ってる。 おまえや母さんのためにも……そのために、一年以上も戻れなかった。 誕生日、一緒に祝えなくてごめんな」 「いいよ、もう……」 誕生日を一緒に過ごせなかったのは確かに淋しかったが、今こうしてすぐ傍にいてくれる。 アカツキはそれだけで十分だった。 それに…… 「兄ちゃんはぼくたちのために、お父さんを探してくれていたんだ……」 一年以上戻ってこないのは、トレーナーとして頑張っているからだとばかり思っていた。 だが、同時に父親を探していてくれていたのだ。 両立はとても大変なことだろう。 それが分かるから、頭の下がる思いがした。 「実はさ……おまえに渡そうと思ったプレゼント、今ここに持ってきてるんだ」 「プレゼント?」 「ああ」 ハヅキはズボンのポケットから、白い縁取りの小さな機械らしきものを取り出した。 キョトンとしているアカツキの手を取って、その上にそっと乗せた。 「これは?」 アカツキは不思議そうな目で、自分の手のひらに乗ったものを見つめた。 白く縁取られた青いそれは機械で、形状としては少し尖った二等辺三角形 折りたたまれた形状らしく、開くと、小さな液晶とボタン。 「トレーナーになるのなら、これくらいは持ってておかなくちゃな」 微笑みながら、ハヅキは説明してくれた。 この機械はポケナビ――正式名称をポケモントレーナーズ・ナビゲーションという。 ボタン操作により、GPSで現在位置を知ることができたり、近くの町までの距離を割り出してくれたりもする。 あるいは、ポケモンのコンディションを確かめることもできるし、電話もかけられるといった優れものだ。 言うまでもなくデボンコーポレーション製で、一般に出回ったのはつい最近のこと。 ハヅキはこつこつとお小遣いを貯めて、アカツキに最新鋭の機械をプレゼントしてくれたのだ。 トレーナーとして旅立つ弟へのプレゼント。 いや、今は一人前のトレーナーとなった弟へのプレゼントになるだろう。 アカツキは素直に喜んだ。 こんなにいい機械をプレゼントしてくれて、とてもうれしかった。 トレーナーとして必要な『情報』を扱う機械だけに、ハヅキの心遣いが心の奥底にまで伝わってくる。 弟には不自由ない旅をさせたかったのだろう。 「ありがとう、兄ちゃん。絶対に大切にする!!」 「ああ」 期待に満ちた瞳でポケナビを見つめるアカツキ。 ハヅキの笑みはさらに深まった。 こんなに喜んでくれるとは思わなかった。 できるならエントツ山で渡したかったのだが、その時はそういう雰囲気ではなかった。 いきなり出会い頭に殴ってしまったのだ。 その後にプレゼントをしても……と躊躇ってしまった。 でも、結果として渡せて良かった。 エントツ山で会った時よりも、弟は確実にトレーナーとして、人間として成長している。 それがよく分かるのだ。 理屈じゃない。 感情が、心が、そう訴えかけている。 「僕の知らないアカツキか……そういうのもいいかもな。 ホウエンリーグでどれだけ強くなったのか、確かめるのもいいかもしれない……」 ハヅキは正直、こんなことを思っていた。 「アカツキの方が……僕よりもトレーナーとしては素質がある。 今はまだ弱くても……きっといつか僕を追い抜く日が来るはずだ。 その時を楽しみに待っていよう」 本当のことかどうかは分からない。 でも、トレーナーとして弟に期待を寄せるのは、悪いことではあるまい。 「アカツキ」 「?」 「ホウエンリーグが終わって、おまえが探してる『黒いリザードン』が見つかったら…… その時は一緒に、父さんを探しに行かないか?」 「お父さんを……?」 「ああ」 唖然と見つめてくる弟に頷きかけ、ハヅキは優しく頭を撫でてやった。 「父さんはきっとどこかで生きてると思う。 だから、僕たちで探しに行こう。 お父さんに会って、一緒に家に帰ろう。母さんも、きっと父さんに会いたがってるはずだから」 「…………」 ハヅキの提案に、しかしアカツキは黙り込んでしまった。 音信不通の父親を探す。 一緒に家に帰る。 家族四人で一緒に暮らす。楽しく。幸せに…… アカツキだって、できればそうしたいと思っている。 でも…… 「割り切れないか……? 今まで音沙汰なしで、いきなり探しに行くなんて」 「うん……」 アカツキは隠すことなく、素直な気持ちをハヅキにぶつけた。 くすぶっている想いと迷いを断ち切るかのように。 「ぼくだってお父さんに会いたい。 けど……生きてるんなら、どうして今までぼくたちのことをほったらかしにしてたんだろうって。 もしかしたら、ぼくたちのこと、愛してなかったんじゃないかなって…… 怖いんだ……もしかしたら、会いたくないって言われるかもしれないって、そう思ったら……」 ほとんど覚えていないからこそ、不安になる。 父親がどんな性格をしているのか分からない。 こちらが会いたいと願っても、向こうがそれを突っぱねてくる可能性だって少なからず存在するのだ。 もしそうなってしまったら…… アカツキはそれが恐ろしかった。 実の父親に拒絶されるかもしれないという、漠然とした、でも確かな不安。 「そうだな……」 一頻り言葉の意味を考え通して……ハヅキは言った。 「今すぐには割り切れなくても当然だけど…… でもさ、父さんは父さんなんだ。僕たちの親だよ。 拒絶されたって、それが何だって言うんだい? やる前から失敗を恐れるなんて、おまえらしくないよ」 「あ……」 肝心なことを言われ、アカツキは唖然とした。 やる前から失敗を恐れるなんておまえらしくない…… そうだ。 失敗を恐れて何もしないのでは、父親に会うことすらできないではないか。 拒絶されることすらないではないか。 あきらめるのが嫌いな自分らしくもない考えを抱いていたことが、急に恥ずかしくなってきた。 同時に、情けなくなってきた。 ポケモンバトルじゃ絶対にあきらめないくせに、どうして父親に会うというだけのことでこんなにも不安を感じているのだろう。 やる前から失敗した時のことなんて信じないって、ずっとずっと前から決めていたのに…… 自分自身のことになると、途端に臆病になってしまう。 だけど、それは無理もないことかもしれない。 顔も覚えていない父親に会いに行くのだから。 もしかしたら、自分と同じように、父親も息子のことを忘れたのかもしれない。 もしかしたら…… という無意味な仮定が無意味に膨らんで、どんどん崖っぷちに追い込まれていくようだ。 「明日はさ…… 自分にできることをやればいいんだ」 「うん……」 不安を隠しきれないアカツキに、ハヅキはわざと明るい口調で言った。 「おまえはおまえが思ってるほど弱い人間でも、トレーナーでもないさ。 おまえのポケモンを見てれば、それくらいのことは分かる……僕はもう寝るよ。 おまえも、遅くならないうちにちゃんと休むんだぞ」 「うん」 ハヅキは立ち上がると、ゆったりとした足取りで山頂を後にした。 ひとり祠の前に取り残されたアカツキはしばらく、ハヅキが歩いていった方向を見つめていた。 名前も知らない星が夜空に瞬き―― 「あ……」 一瞬、星が流れるのを見た。 「流れ星……!?」 気づいた時には遅かった。 願いを叶えるという星はすでに燃え尽きた後だった。 アカツキは目を閉じると、胸の前で手を組んだ。 「お父さんが見つかりますように…… あと……誰も傷付かないで済みますように……」 ポツリつぶやいた願いは果たして聞き届けられたのか。それは分からない。 不気味なまでに静まり返った山頂で、アカツキはしばらく星空を見上げていた。 嵐の前の静けさという言葉がよく似合うくらい、とにかく静まり返っていた。 「兄ちゃん、ありがとう……」 最後に励ましてくれた兄に、アカツキは感謝の言葉を口に出した。 聞こえていなくても、別にいい。 ただ、少しは心が落ち着けたような気がしたから。 彼の人生でもっとも長い一日となる明日を目前に、それを理解していていたからか。 アカツキはなかなか眠る気にはなれなかった。 第81話へと続く……