第84話 自分で決めたこと -My will- 慈愛の感情を宿した双眸が、ベッドの上で眠っている男の子に注がれ始めてから、一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。 ミロカロスは主人(トレーナー)から言い付かった指示をちゃんと守り続けていた。 「僕はもう行くが、何があってもこの子を祠に近づけさせないように」 ミクリはミロカロスに熱中症で倒れた男の子を託すと、そう言って祠へと舞い戻った。 それから時間が過ぎて……太陽は沈み、夜の闇が世界を包み込んだ。 わずかな月明かりだけが室内を照らし出している状況だが、ミロカロスは困ることなどなかった。 目はいいし、今確たる意識を抱いているのは自分だけだから。 ベッドに横たわる男の子はあれから一度も目を覚ましていない。 そんな彼をただ見ているだけ、というわけではない。 額に氷の塊が入ったビニール袋を置いたりして、解熱の手助けもしていた。 こんなこともあろうkと、一応主人にやり方は教わったので、苦労なくできた。 男の子の荷物はテーブルの上に置いてある。 モンスターボールが六つ。 だが、そのうちふたつにはポケモンが入っていない。 今もまだ戦い続けているのだろう。男の子の分まで。 それよりもミロカロスが気になったのは、ミクリがチラリと最後に男の子を振り返ってつぶやいた一言だった。 「君ならあの男を止められると思ったのだけどね……」 その言葉の意味を確かめられないまま、時間だけが過ぎていく。 ミロカロスは身動きもほとんどせずに、ただ男の子を見守っていた。 意識が戻ったのは、身体にこもる熱を感じ取ったからだった。 アカツキはうっすらと目を開けた。 柔らかな感触が全身を包み込んでいる。 ベッドか布団か……どちらにしても寝かされていたということはすぐに分かった。 目だけを動かして室内を見回したが、見覚えのない場所だった。 「ここ、どこ……?」 確かめるようにつぶやくその声は、今にも掻き消えてしまいそうなほど弱々しかった。 なんだか身体が熱い。 起き上がろうという意志に反して、身体は思うように動いてくれなかった。 それでも時間をかけて、ゆっくりと起き上がった。 窓の外から差し込む月明かりがぼんやりと室内を照らし出している。 知らない一室のベッドに寝かされていたらしい。 だが、ベッドの傍にあるソファーで首を擡げて自分を見つめているミロカロスの視線に気がついて、意識がそちらを向いた。 少し遅れて身体が反応する。 ミロカロスの慈愛に満ちた双眸が視界に入ってきた。 「……ミクリさんのミロカロス?」 ポツリと漏らしたつぶやきに、ミロカロスは小さく頷いたように見えた。 アカツキのミロカロスとうりふたつの外見だが、どこか雰囲気が違っていた。 「ぼくは……あれからどうしたんだろう……」 特にすることも見当たらなくて、アカツキは天井を見上げ、考えをめぐらせた。 なぜか頭がぼーっとする。 起きたばかりで思ったように身体が動いてくれないということもあるが、どうにも身体に熱がこもっているような気がする。 もしかしたら熱が出たのかもしれない。 思うように考えがまとまらないのは、そのせいだろう。 時刻はすでに夜。 太陽が沈んで、夜の闇が窓の外に広がっている。 恐ろしいほどの沈黙に包まれて、突然、不安に襲われた。 世界の片隅にひとり取り残されてしまったような気がした。 そんな不安から逃れるように、無理に考えてみる。 目覚めの祠で気を失って――気がついたらベッドに寝かされていた。 記憶の糸を辿ってみるように、思い出してみる。 「ぼくは……もう少しで死んじゃうところだったんだ……」 鮮明に覚えている。 ぼんやりしていた自分に、グラードンが灼熱の炎を吹きかけてきたのだ。 死の恐怖に怯えて足が竦み、逃げることもできなかった。 そんな絶体絶命の危機を救ってくれたのは…… 「見間違えたりなんて、するもんか……」 思い出し、アカツキは掛け布団をギュッと握った。 気を失う寸前に確かに見たその姿。 幼い頃、家族とはぐれて雪山にひとり取り残された自分を助けてくれたその姿を見間違えたりするはずがない。 二度も助けられた――命の恩人を。 「『黒いリザードン』……また、ぼくを助けてくれた……」 アカツキは再び会えたという喜びに胸を高鳴らせた。 かぁっ、と身体が熱を帯びる。 だが、その喜びはすぐに消え去った。まるで蜃気楼のようだった。 「でも、リザードンは……ダイゴさんのポケモンだったんだ」 野生のポケモンがあんな場所に好んで近寄るはずがない。 激しい戦いに巻き込まれて怪我をするのがオチだ。 人間よりも感覚に数段優れているポケモンがその危険を感じ取れないことなどありえないのだ。 だから、分かった。 『黒いリザードン』は、その場にいた誰かのポケモンだと。 消去法で決めるのに時間はかからなかった。 プリムのポケモンは、移動手段として用いているオオスバメを除けば残りはすべて氷タイプだ。 ミクリはジムリーダーとして、扱うポケモンのタイプをひとつに絞っている。 マグマ団の三人とハヅキははじめから除外するとして……残されたのはダイゴだけだった。 どういうわけか彼は五体しかポケモンを出していなかった。 最後の一体を切り札として温存しておくつもりだったのだろう。 だが、それがかえってアカツキの疑問を紐解く鍵となった。 ダイゴこそが『黒いリザードン』のトレーナーだったのだ。 十年前、アカツキを助けてくれたあの時には、すでにダイゴのポケモンになっていたのだろう。 今まで…… アカツキは『黒いリザードン』にもう一度会って、ポケモントレーナーとして『黒いリザードン』をゲットするのを夢みてきた。 だけど…… 「もう、ゲットできない……?」 不安が脳裏をよぎった。 一度ダイゴのモンスターボールに入ったリザードンは、普通にポケモンをゲットする方法では他人のモンスターボールに入らない。 だから、アカツキが目指していた、トレーナーとして『黒いリザードン』をゲットすることはもうできない。 「あきらめたくなんか、ないな……」 窓の向こうに広がる、四角い形に切り取られた夜空をぼんやりと眺めながら、アカツキはつぶやいた。 普通にゲットできなくても、何らかの方法でゲットする方法はあるはずだった。 熱のせいで思うように物事を考えられない自分が嫌になるが、嫌になったところでその方法が見つかるはずもない。 「そんなに簡単に夢を捨てられないよ」 その程度の夢だった……なんて思いたくはなかった。 何年もゆっくりと醸成して、トレーナーとして旅に出て…… でも、その結果が、『黒いリザードン』はダイゴのポケモンだった。 まさか彼から奪うわけにもいかないし……何らかの方法で譲ってくれることを願っても、そう簡単には首を縦に振ってくれないだろう。 「どうにかならないのかなぁ……」 アカツキはふっと軽く息を漏らすと、急に身体から力が抜けてきた。 身体に正直にまた横になって目を閉じる。 どうにも、ベッドから降りられる程度にもなっていないらしい…… 結局ここにいることしかできないことに気がついて、深い眠りに就いた。 夢の中ではなんでもできた。 『黒いリザードン』の背にまたがって、ホウエン地方を我が物顔で飛びまわる。 ポケモンバトルでは得意の炎技で獅子奮迅の活躍を見せてくれる。 他のみんなと同じように、深く強い絆で結ばれて、家族として一緒の時間を過ごせる…… そんなことありえない。 分かってはいても、アカツキは夢の心地よさから脱け出すことができなかった。 その夢が思い描いたものと同じだったから…… 抗うこともせず、ただ流れに身を任せるように、その中でまどろんでいた。 結局、その晩、ミクリたちは帰ってこなかった。 住人のいないルネシティは静寂に包まれたまま、夜明けを迎えた。 太陽がルネシティを囲む山の稜線から顔をのぞかせて――窓から差し込む日差しに、アカツキは眠りから呼び覚まされた。 身体の熱さも、少しはマシになってきた。 目を見開くと、意識がハッキリしてきた。 昨夜のように目のピントがずれていたり、意識がぼやけていることもない。 額が冷たい。 手を触れてみると、何かの塊に当たった。 感触と温度から、それが氷嚢であることに気がついた。 氷がビニール袋に詰められた状態で、額に宛がわれていたのだ。氷嚢をつかんで視界に運ぶと、氷は半分ほど溶けていた。 「ミロカロス。君がやっててくれたの?」 身を起こし、ソファーでとぐろを巻いて眠っているミロカロスにつぶやきかけるが、返事はなかった。 一晩中アカツキのために氷を取り替えてくれていたのだろう。 疲れて眠っているようだった。 「そういえば、ミクリさんたちはどうしたんだろう……」 周囲を見回してみるが、他には誰の姿もなかった。 ミクリやダイゴはともかく、ハヅキならここにいてくれてもいいはずだ。 それがないというのは…… 「まさか、まだ戦ってる?」 鳥のさえずりも聞こえず…… 恐ろしいほどの静寂が室内を包み込んでいた。 もしかすると、グラードンとの戦いはまだ続いているのだろか? それとも……ダイゴたちは負けてしまったのだろうか……考えてみて、それはないと気づいた。 ダイゴたちが負けたなら、ルネシティが無事であるはずがないのだ。 とはいえ、勝ったとも思えない。 彼らが勝利したのであれば、まず間違いなく誰かがここにいてくれるはずだ。 どちらでもない答えはひとつしかない。 間違いない。 ダイゴたちはまだグラードンと戦い続けている。昼夜を通じて戦い続けながらも、未だ決着はついていないのだ。 「ぼくはひとりで、ここで寝てたのか……?」 布団を剥いで、ベッドから降り立つ。 フローリングのひんやりした感触が足の裏から電撃のように背筋を這い上がっていく。 ぶるっ、と身体を震わせ、窓枠に身を乗り出した。 周囲に広がる湖に陽光が当たり、煌めく。 穏やかな夜明けだった。 普段なら、もう朝かと欠伸なんてしながら、だけど新しい一日の始まりを喜ぶのだろう。 だが、今のアカツキはそういう気にはなれなかった。 ダイゴたちが、まだあの場所でグラードンと世界の命運を賭けて戦っているのなら、気分が晴れるはずもないではないか。 何をすべきなのか……冷静に考えてみる。 「今すぐ行かなくちゃ……」 考えるまでもない。 答えはもう手にしていた。 アカツキは机に置かれていた荷物を手に取ると、眠っているミロカロスを起こさないよう、静かに部屋を後にした。 見覚えのある廊下に出て、この建物がルネジムであることが分かった。 出入り口の位置はハッキリしていたので、迷うことなくジムを出ることができた。 すり鉢状の底部に位置するルネジムからは、ルネシティの全景が窺えたが、戸口はすべて閉ざされていて、出歩いている人はいなかった。 改心した(と思われる)マグマ団がこの街の住人をどこかへと避難させてくれたからだろう。 無言でジムの裏手に回り、目覚めの祠へと通じている細い道を駆け出す。 と、そこへ―― 「ろぉぉぉぉぉぉぉんっ!!」 朝の空気を震わせて耳に届いた声に、アカツキは足を止め振り返った。 「ミロカロス?」 ジムを飛び越してアカツキの前にやってきたのは、ミロカロスだった。 慈しみという二つ名が嘘であるような、怒りに似た雰囲気を双眸に漂わせながら、じっとアカツキを見つめてきた。 「ど、どうしたの?」 「ろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!」 驚くアカツキを尻目に、ミロカロスは口を開いて水の奔流を吹きかけてきた!! 不意を突かれ、避けることができなかった。 猛烈な水流を浴びて、その場に転倒した。 一瞬でずぶ濡れになってしまったが、アカツキはすぐに起き上がると、 「いきなり何するんだよ!!」 声を上げて怒った。 ミロカロスはいきなり水鉄砲で攻撃してきたのだ。転倒する程度で済んだのは、ミロカロスが手加減してくれていたためだろう。 「ろぉぉぉんっ!!」 ミロカロスは問答無用と言わんばかりに叫ぶと、蛇のような身体でアカツキの足に巻きついた!! 「うわわっ!!」 足をとられ、再び転倒する。 泥が飛び跳ねて顔にかかった。 立ち上がろうとするが、それはできなかった。 ミロカロスが、見た目からは想像もできないような力で、アカツキの足に巻きついたまま彼をぐいぐい引っ張っていくのだ。 それも、ジムのある方向へ。 アカツキはミロカロスがどうしてそんなことをするのか分からなかった。 大方ミクリから何か言われたのだろうが、その真意が知れない。 罪人のごとく引きずられていきながら、しかしアカツキは地面に突き立てた指先に力を込めた。 精一杯の抵抗のつもりだったが、人間とポケモンでは力の差は如何ともしがたいものがあった。 顔を上げれば、少しずつ目覚めの祠から遠ざかっていくと言う事実を嫌でも認識させられる。 「このままじゃジムに連れ戻される……?」 アカツキは歯を食いしばり、さらに力を込めた。 だけど、それだけでは力不足だった。 服が、身体が泥と土に塗れていく中、アカツキは身体を捻ると、ミロカロスの背中を睨みつけると…… 「ミロカロス。キミがミクリさんから何言われたかなんてぼくには分からないよ!! でも、なんでぼくを止めるのさ!!」 悲鳴めいた声を背後から投げかけられ、ミロカロスがぴくりと身体を震わせた。 動きを止め、振り返る。 ここぞとばかりにアカツキは自分の気持ちをミロカロスに伝えた。 「みんな、まだ戦ってるんでしょ!? ぼくひとりだけ休んでなんかいられないんだよ!!」 ダイゴたちはまだグラードンと戦い続けている。 睡眠の時間すら惜しんで、ホウエン地方の存亡を賭けて、神話の存在であるグラードンと戦い続けているのだ。 彼らが敗北すれば、アカツキも、ミロカロスも、等しく滅びにさらされるだろう。 だったら、ダイゴたちと一緒に戦って、少しでも勝率を上げたい。 自分だけ安全な場所で、ダイゴたちの戦いを見守るなんて、そんなのは耐えられない。 昨日は短い間だったが、共に戦ったのだ。 「ぼくはみんなと一緒に戦っちゃいけないの!? 子供だっていう理由で除け者にされるの!? キミやミクリさんがどうだか知らないけど、兄ちゃんやダイゴさんはそんなことでぼくを撥ね付けたりなんかしないよ!! お願いだよ、ぼくを止めないで!!」 ミロカロスはじーっとアカツキの目を見つめたまま、その話を聞いていた。 懇願するように気持ちを伝えてくる男の子は、あまりにも健気だった。 抵抗の域を抜けることのない些細な抵抗で、未だ戦いが行われている地に赴こうとしているのだ。 ミロカロスは――もちろんアカツキ本人もだろうが――、彼の体調が万全でないことを察していた。 その状態でサウナのような熱気が漂うあの場所へ行こうものなら、昨日の状態に逆戻りするのは間違いない。 だから、そんなところに行かせることはできない。 ミロカロスがミクリから受けた指示はただひとつ。 「何があってもこの子を祠に近づけさせないように」 ミロカロスはその指示にしたがっているだけだった。 決して、アカツキを傷つけようと思っているわけではない。 ただ、素直に従ってくれそうになかったから、強硬手段を採っているに過ぎないのだ。 「それに、キミは平気なの!? ミクリさん、まだ戦ってるんだよ? ぼくを引き止めるためだけにここにいて、キミはミクリさんのこと心配じゃないの!? 一緒に戦いたいって、そう思ってるんでしょ!?」 半ば投げやりとも受け取れる言葉。 しかし、ミロカロスはその言葉を斬り捨ててアカツキをジムに連れ戻すことができなかった。 一理あると、心のどこかで思ってしまったから。 確かに―― ミロカロスはミクリのことが心配でたまらない。 昨晩、アカツキのことをずっと見守っていた時も、グラードンとの戦いに戻ろうかと何度も思ったものだ。 だが、ミクリのことを信じているからこそ、ミロカロスは敢えて彼の言いつけを守り続けていた。 それを今、穿り返されたような気がした。 「ぼくはカエデやアリゲイツのことが心配なんだ!! だから、少しくらい熱っぽくたって、行かなくちゃいけないんだ!!」 泥に塗れながら、しかしその表情は真剣で壮絶だった。 とても十一歳の男の子とは思えないような……そんな雰囲気に、ミロカロスはミクリに責められるのを覚悟した。 (もう、止めるのはやめよう……無理に止めたって……) アカツキの足から離れ、嘶く。 「ミロカロス……ありがとう」 アカツキは顔の泥を手の甲で払いのけると、立ち上がった。 「一緒に行こう!! ぼくたちもみんなと一緒に戦うんだ」 「ろぉぉぉぉぉんっ!!」 地面を蹴って、駆け出した。 その後をミロカロスが音もなく宙に浮かびながらついてきた。 目覚めの祠へと通じる細い道を駆けていく中で、身体が熱くなってきた。 ただでさえ本調子でない上に、ミロカロスの水鉄砲によって低下した体温を補うために、身体が過剰に熱を放ち始めたのだ。 「それでも、ぼくは行かなくちゃ……」 でも、アカツキは奥歯を食いしばり、身体の熱っぽさに耐えた。 カエデとアリゲイツが、まだあの場所で戦っている…… あの熱気にずっとさらされ続けて、カエデはともかく、アリゲイツはさぞ辛いことだろう。 それでも戦い続けているアリゲイツたちを余所に、自分だけノンビリ休んでいるわけにはいかない!! ポケモンが戦ってるのに、トレーナーが戦わずして逃げてどうするというのか。 普段以上にペースが落ちて、祠の入り口に辿り着くのにも時間がかかった。 祠に入って、階段に差し掛かったところで、 「う……!?」 不意に目眩が襲った。 階段の段が幾重にもブレて見え、思わず前のめりに倒れそうになったのを、ミロカロスが支えてくれて難を逃れた。 「ありがと、ミロカロス……」 アカツキはバランスを取り戻すと、ミロカロスに礼を言った。 それから一歩ずつ、壁に手をかけながらゆっくりと階段を下りていった。 「みんな、大丈夫かな……」 そんなことを思いながら階段を下りるうち、次第に息苦しくなってきた。 指先まで熱を帯びて、このまま蒸発してしまうのではないかと思ってしまった。 「兄ちゃんもカエデもアリゲイツも、無茶してなければいいけど……」 しかしそれは無理な相談だった。 そう思えるほど、頭は冷静じゃなかった。脳がヒートアップして、思うように物事を考えられなくなってきた。 でも、やるべきことは忘れない。 身体に刻まれているかのようだ。 ミロカロスは時に転びそうになるアカツキの身体を支えながら、共にゆっくりとあの場所へ向かう。 「おまえが行って……それで何になるというんだ?」 「!?」 聞き覚えのある声に、アカツキは足を止めた。 五段ほど前に、リクヤが無表情で立っていた。 だが、それは幻だった。 声もエコーに過ぎなかった。 だが、満足に頭を働かせられないアカツキには、それが現実のものか、ただの幻か、区別がつかなかった。 もっとも、頭の働き云々だけではなかっただろうが…… 「ダイゴも、ミクリも……おまえとは比べ物にならないトレーナーだ。 あいつらに任せられないのは、おまえがあいつらのことを信じられないからではないのか」 「ち、違う……」 「違わない」 リクヤの幻は、しかし妙に現実味を帯びた仕草で、アカツキの言葉を斬って捨てた。 幻聴は、アカツキの心のどこかにある猜疑心がそう聞こえさせていただけだった。 要するに、これはアカツキの心の問題だ。 解決できるのは本人だけ。 ミロカロスは、「こいつはいったい何をしているんだ?」と言わんばかりの視線をアカツキに向けていた。 「おまえがあいつらのことを本当に信じているのであれば、ジムで休んでいればよかったのだ。 あいつらとて、それを望んだからこそ、ミロカロスを残したはずだ……」 「そ、それは……」 アカツキは何も言い返せなかった。 その言葉が正論だったからだ。 ミクリがミロカロスをジムに残したのは、アカツキをジムから出さないためだった。 アカツキにもそれは分かっていた。 「だけど…… ぼくだけ休んでるわけにはいかないんだ!!」 アカツキは視界に映るリクヤの幻影に向けて、声を上げて言い放った。 目の前にいるのが誰であろうと、自分は進まなければならない。 洞窟の壁に片手をついて、もう片方の手で虚空をなぎ払いながら、言った。 「みんな必死になって戦ってるのに、ぼくだけ休んでるなんて、そんなの嫌だよ!!」 「その理由はおまえが一番分かっているはずだ」 当然だが、リクヤは平然としていた。 ただの幻が動揺などするはずもない。 「あの面々の中におまえが飛び込んでいったところで、足手まとい以上にはならない。 トレーナーとしてかなり成長したハヅキはともかくとしても、新米のおまえが役に立つなど、それは不可能なことだ」 「そんなのやってみなくちゃわからないよ!!」 リクヤの身勝手な言い分に、アカツキは頭の血管を何本か切らせながら叫んだ。 だが、それは彼自身の心にある気持ちが具現化したに過ぎなかった。 足手まといかもしれない……役に立たないかもしれない……事実として心の海に横たわっている。 そして、それをさせているのは…… ミロカロスは何も言わず、成り行きを見守ることにした。 「役に立つとか、立たないとか。 そんな問題じゃないんだ……!!」 役に立ちたくて。 足手まといじゃないって証明したくて。 そんな理由でこの先へ進もうとしているわけではない。 自分だけ安全な場所でノンビリするのが嫌だったから。 カエデやアリゲイツが戦っているのに、トレーナーである自分が戦わなくてどうするのか。 「ぼくは……」 アカツキは肩で息をしながら、ゆっくりと、一歩ずつ前へ進んでいった。 リクヤとの距離が詰まる。 だが、彼は身じろぎ一つしなかった。 アカツキはそれを怪訝に思いながら、それでも自分の決めたことは曲げたくない。 自分の気持ちに正直になって生きていきたい。 「みんなが戦ってるのに、ひとりだけ、子供だって理由で……除け者にされるのがイヤなんだ。 せっかく、夢がすぐ近くにやってきたのに……黙って見過ごしたりなんか、できないよ!!」 リクヤの目の前まで歩いていくと、アカツキは腕に力を込めて彼を払い除けようと振るった。 手ごたえは――なかった。 気がつけばリクヤの姿は消え、何の飾りもない洞窟の景色が広がっているばかりだった。 「え、どういうこと……?」 アカツキは目を見張った。 確かにリクヤの声が聞こえ、姿が目の前にあったはずだ。 払い除けたと思えば、風を切るように何の手ごたえもない。 一体なんだったというのか…… 「幻……?」 今さらになって、やっと気がついた。 リクヤは幻だったのだ。 でも、確かに聞こえてきた声は一体なんだったのか。 理解などできるはずもなかった。 そもそも、そんなヒマすらない。 一秒だって惜しいのだ。 「どうでもいい…… ぼくは、この先に行くだけなんだから……」 ミロカロスに肩を支えられながら、アカツキは一歩ずつ先へと進んで行った。 それからどれくらいの時間が過ぎたのかは分からない。 奥から吹き付けてくる熱気に思わず顔を上げ、転ばぬように足下に向けていた視線を前方に据える。 激しい戦いが繰り広げられていた。 「……!!」 身体を焼くような熱に飲み込まれそうになっていた意識が不意に浮上する。 炎を吐いたり巨大な爪を振りかざすグラードンに対し、ダイゴとプリムとミクリが戦っている!! アカツキは無意識のうちにハヅキの姿を探した。 「アカツキ……? どうして、ここに来たんだ……?」 「兄ちゃん……!!」 ハヅキの方から声をかけてきたので、アカツキはビックリした。 彼はすぐ傍にいたのだ。 階段を降りきった所の壁にもたれかかって、休んでいたのだ。 さすがに一日近く戦っているととてつもなく疲れるのだろう。 アカツキを見上げるハヅキの目は、どこか怒りにすら似た感情が浮かんでいるように思えた。 口調こそ穏やかだったが、それは口に出して怒れるほどの体力が残っていなかったということに他ならない。 「ぼくだけ、休んでるわけにはいかないでしょ……?」 「それは、そうだけど……」 ハヅキは呻くように漏らすと、肩を落とした。 弟の性格は分かっているつもりだった。 恐らくここに来るだろうと思っていた。 だからこそ、ミクリはミロカロスを残していったのだ。 だが、結局はそれも無駄になったらしい。 アカツキの目が虚ろなところを見ると、どうやら熱中症が完治したというわけではないようだ。 それなのに、ここに来るなんて…… 「ぼくは足手まといなんかじゃない……子供だからって除け者にされるなんて、そんなのイヤだよ……」 今にも泣き出しそうな声で言い、アカツキは足を踏み出した。 戦いが行なわれている大地に。 トレーナーの気配に気づいたか、端の方で膝を突いていたカエデとアリゲイツがアカツキの方を向いた。 その瞳が輝きを取り戻すのを、アカツキは確かに見た。 戻ってきてくれた…… アリゲイツたちがそう思っているであろうことも……手に取るように分かった。 「ぼくは逃げたくない…… みんなと一緒に戦いたい……ぼくが、決めたんだ……」 ここに来たのは自分の意志…… アカツキはダイゴたちのポケモンと激しい戦いを繰り広げているグラードンを睨みつけ、自分で決めたことだと確認した。 第85話へと続く……