第89話 今の自分にできること -Thinking what I need- 空は闇のカーテンに覆われ、無数の星が殺風景な空に彩りを添えている。 アカツキはどれだけの時間が経ったのか分からないくらい、ただひとつのことに集中していた。 「カエデ……頑張って」 疲労をにじませた声で励ましながら、傍で横になっているカエデの身体を、お湯を染み込ませた布でさすり続けた。 アカツキたちは、焚き火を囲んで一堂に会していたが、誰もがカエデの方を見ていた。 いつもなら背中で激しく燃え盛っているはずの炎は一片もなく、カエデは寒さに耐えるように身体を縮めていた。 事実、カエデは昼過ぎにプリムのオニゴーリとのバトルで氷漬けにされてしまったのだ。 氷を溶かしたのはそれから三十分くらいしてからだが、今になっても不思議に思うことがある。 どうしてそんなに時間がかかったのか。 いろいろとありすぎてパニックになってしまったからなのだが……そんなものは言い訳にすらならなかった。 炎ポケモンとは思えないくらい、カエデは寒さに震えていた。 時に、悪夢でも見ているようにうなされていたり…… 一刻も早く体温を取り戻すために今できるのは、カエデの身体をさすって暖めてやることだけだ。 だから、アカツキは食事することも忘れていた。 身体を暖めるというだけであれば、ワカシャモの火炎放射をぶつけるのが一番のはずだ。 ワカシャモもそう主張したが、アカツキはそれを断った。 急激に体温を上げるというのは、炎ポケモンといえど身体にあまり良くないのではないかと思ったのだ。 いつの間にやらダイゴとプリムは姿を消し…… 気がつけば、残ったのは自分と氷漬けになったカエデだけ。 「カエデ、ごめんね。 ぼくがもっとちゃんとしてたら、こんなことにはならなかったのに……」 アカツキは胸中でずっとカエデに詫び続けた。 あの時、感情的にならずバトルなんてしなければ……こんなことにはならなかったはずだ。 そう思うと、無様に思えてならない。 思い知らされたのは決定的な実力差。 相性さえ易々と覆してみせるポケモンの強さ。 ホウエンリーグ四天王という肩書きは伊達ではなかったのである。 これが普通のトレーナーなら楽に勝てていたことだろう。 今回ばかりは相手が悪かったとしか言いようがない。 ダイゴに、『黒いリザードン』に相応しいだけのポケモンを持っているということを証明したかった。 ただそれだけだった。 ゴチャゴチャしたところは覚えていないが、結果としてプリムとバトルすることになり、あっさりと負けてしまった。 結局ダイゴはどこかへ行ってしまい、話は終わった。 『黒いリザードン』が手の届かない場所へ行ってしまったように思えた。 「今のぼくには無理なのかな……」 話を『聞いている』ということを覚えていないのに、ダイゴが話していた言葉はなぜか覚えている。 「君にとってそのバクフーンがかけがえのない『家族』の一員であるように、僕にとってリザードンは、君と同じくらいの存在なんだよ。 だから、僕はリザードンを手放したくないんだ。 今の君に託すことはできない……」 「ダイゴさんにとっても、リザードンは家族だったんだ……」 脳裏に唐突に浮かぶ映像。 ダイゴと『黒いリザードン』が楽しそうに戯れ、彼がその背に乗って空を駆ける様子。 それは、アカツキが夢みているのと同じものだった。 だから、なんとなく辛い。 道理でダイゴが嘘なんてつくわけだ。 かけがえのない家族と離れたくないから。 アカツキにとって、ポケモンは家族と呼ぶしかない存在だった。 この場にいる六体のポケモンと、今頃はオダマキ博士の研究所でカリンに可愛がられているであろうチルット。 何を犠牲にしても失いたくない、大切な存在。 その気持ちはアカツキにも分かる。 家族と離れ離れになりたいなんて思うはずもない。 「でも……あきらめたくはないな」 『黒いリザードン』をゲットするためにトレーナーになり、今まで旅をしてきた。 辛いこともあったし、くじけそうになったことも一度や二度ではない。 頑張ってこれたのも、『黒いリザードン』のおかげなのだ。 会いたくて、ゲットしたくて……その想いがあったから、頑張れた。 何があってもあきらめたくはない。 でも、どうしたらいいのか、答えを導き出すのに時間がかかった。 「仮に僕が君のポケモンの誰かとトレードを了承したとしよう。 だけど、僕のリザードンは、今の君には従わないよ。 その背に乗って飛ぶことも、バトルで活躍させることも……『家族』として接することもできないと思う」 トレード。 それは『黒いリザードン』をゲットする唯一の手段。 無理矢理奪い取るなんてことはできるはずもないし、やるつもりもない。 だが、ダイゴはトレードに応じてくれなかった。今のアカツキには無理だと頭から否定したのだ。 否定されて当然の実力だと、アカツキはプリムとのバトルで思い知らされた。 いや、あれはバトルだったのかどうかも分からない。 勝手に突っ掛かって行ったのを返り討ちにされただけだ。 それに…… 「ダイゴさんの言うとおりなのかもしれないし…… リザードンがぼくの言葉を聞いてくれるかどうかって、考えたこともなかった」 妄信的だった。 『黒いリザードン』をゲットして、その背中に乗ってホウエン地方の空を飛びまわる。 結果論ばかりが一人歩きして、その経緯をすっ飛ばしてしまっていた。 『黒いリザードン』が自分の言うことを聞いてくれるか、というところまでは気が回らなかった。 言い換えれば、それだけ夢に向かってまっしぐらだったというわけで…… 今頃になって気づくなんて、遅すぎたのかもしれない。 「聞いてくれなかったらどうしようなんて、考えることできなかったよね……」 胸中でつぶやく。 リザードンという種のポケモンは一般的に気高く、それでいて気性の荒い性格だ。 自分のトレーナーに相応しいと認めた人間には忠実だが、それ以外の人間には基本的に懐かない。 それどころか、認めるに値しない相手に対しては炎を吹きかけてくるわ、言うことは聞かないわ…… ダイゴは、もしかしたらそのことを心配していたのか。 考えがどんどん横道に逸れていくことに気づいて、アカツキは頭を振った。 「ぼくがもっと強くならなきゃいけないってことなのかな。 トレーナーとしても、ひとりの人間としても」 『黒いリザードン』を操るに相応しいだけのトレーナーになれば、ダイゴも少しは考えを改めてくれるのだろうか? 淡い希望かもしれない、 手に触れた瞬間に砕け散ってしまうような、ただの幻かもしれない。 それでも、縋るしかないではないか。 夢を叶えるための唯一の手段なら。 「でも……」 アカツキは、ダイゴが最後に残した言葉に至り、壁にぶち当たったみたいにそこから先を考えることができなかった。 「君と僕がトレードすることの意味を考えてごらん。 もう少し冷静になって……君が『家族』を本当に大切にしたいと思うなら、結論を急ぐべきではないよ」 トレード。 互いのポケモンを交換する。 ポケモントレーナーやブリーダーのみならず、普通の人ならその意味をまず知っていて当然というほどありふれた言葉だ。 もちろん、アカツキだって知っている。 「でも、トレードって……」 手が止まった。 今まで考えてこなかったこと。 それが今目の前にある。 飛び越えるのが不可能なくらいに、高くそびえる壁として。 アカツキは半ば無意識に、焚き火を囲んでいる自分のポケモンたちを見回した。 アリゲイツ、ワカシャモ、エアームド、ミロカロス、アブソル、そしてカエデ。 分け隔てなんてできないくらい、みんな大切な仲間であり、同じ時間を共に過ごせる『家族』だ。 ダイゴにとって『黒いリザードン』は、アカツキのそれと同じように家族の一員である。 だから、彼がトレードに関して恐ろしいほど消極的なのは、彼自身の保身というためだけではないような気がしている。 「トレードするってことは…… ぼくも、誰かをダイゴさんに託さなきゃいけないってことだもん」 きっと、ダイゴはアカツキにそれをさせたくなかったのだ。『家族』と別れるという辛い経験をさせたくなかったのだ。 今になって気づいて、どうしようかと迷いが生じた。 「みんなの中からひとりを出すなんて、そんなの……」 できるはずもなかった。 どんな手段であっても『黒いリザードン』をゲットしたいと思っていた。 野生ならポケモンバトルで弱らせてゲットする。誰かのポケモンならトレードする。 実際思いついた手段はこのふたつだけだったが、どちらでも選べると思っていた。 でも…… 「ぼくにはできないよ」 かけがえのない『家族』と引き換えに夢を叶えるなんて、そんなことはできない。 『家族』以上に大切なものは、アカツキにはなかったから。 「ゲイツ?」 アリゲイツが傍に歩み寄ってきて、首を傾げながらアカツキの顔を見上げた。 「え?」 見つめられて初めて考えた。 どんな表情をしていたのだろうと。 改めてみんなの顔を見てみれば、一様になんだか心配そうな目を向けている。 悲しい顔でもしていたに違いない。だから、みんなに心配をかけてしまった。 「大丈夫。大丈夫だから。ね」 アカツキは無理矢理笑みを作って、アリゲイツの頭を撫でた。 こうするしか、みんなの心配を取り除く方法が見当たらなかった。 「どうすればいいのかな……? トレードじゃ、ぼくもダイゴさんも、大切な『家族』を交換することになる。 だからといってあきらめたくはないし……」 アカツキはため息を漏らした。 ダイゴが今のアカツキにリザードンは相応しくないと判断したとしても、そうでないとしても。 『家族』と離れ離れになるということを嫌がったのは間違いない。 だけど、アカツキにとって『黒いリザードン』は夢の存在だ。 そう簡単にあきらめたくない。 『黒いリザードン』のことを考えなくなったとしたら、いったい何のためにトレーナーになって、今まで旅をしてきたのだろう。 今までのことが無価値になってしまいそうな気がして、あきらめることなんてできなかった。 「ぼくがダイゴさんに認められればいいのかな。 『黒いリザードン』を任せても大丈夫だって胸を張れるくらい、強くなれば……」 何度か同じことを考えて…… やっと分かった。 ダイゴは冷静になれと言っていた。 それは、自分に今できることをひとつひとつやっていけという意味ではなかったのか。 都合のいい解釈かもしれない。 だが、結局はそれしかできないのだ。 「ぼくにできることは……」 想像の点がいくつも結ばれて線になる。 やるべきことが明確なヴィジョンとして、アカツキの視界に映った。 弾かれたように顔を上げ、 「今のぼくにできるのは、ホウエンリーグで戦えるように頑張ることだけだ」 声に出して、今できること、やるべきことを言った。 みんなの表情が変わった。 一言で言えば、どこか明るくなったような……トレーナーのやる気に反応しているようだった。 「そうと決まったら……」 焚き火に当たっていながら身体を震わせているカエデに目をやり、アカツキは止めていた手を動かした。 カエデには一刻も早く元気になってもらわなくてはならない。 アカツキは何も言わず、一心不乱にカエデの身体をさすり続けた。 白々と夜が明けて―― 水平線の彼方から昇ってきた太陽の光に気づいて、カエデはうっすらと目を開けた。 「バクフーン?」 横になっている自分にもたれかかり、目を閉じている男の子の姿に気がついて、何があったのか、すぐに分かった。 きっと、あたしの身体を暖めてくれてたんだ…… カエデは覚えている。 自分の身体が氷に閉ざされたその瞬間を。 骨の髄まで凍りついたように、恐ろしい冷たさに襲われて、成す術もなかった。 普通のポケモンが放つ吹雪であれば、氷漬けにされたところで背中の炎を燃え上がらせて氷を溶かすことができたはずだ。 だが、相手は炎すら役に立たないような超氷点下の氷に閉ざしたのだ。 想像だけど、当たっているという確信はあった。 「バクフーン……」 カエデは疲れて眠っている男の子の顔を舐めた。 ありがとうという、せめてもの感謝の印だった。 こんなにも自分のことを想ってくれている男の子は、カエデにとって家族よりももっと大切な存在になっていた。 時は移り、アカツキは自分の目の前にいる六体のポケモンを前に、自分の決意を語った。 「みんな、ぼくはホウエンリーグに出るよ。 あの場所で兄ちゃんと戦いたい。 だけど、今のぼくたちじゃ、きっと勝てないと思う。 だから、ホウエンリーグが始まるまで、みんな一緒に頑張っていこう!! 今できることをしていけば、きっと『黒いリザードン』にまた会えるって信じてるから!!」 「バクフーンっ!!」 「ゲイツ!!」 歓声が上がった。 カエデはすっかり元気になり、背中から炎を吹き出した。 歓声だけでは感情を抑え切れなかったのか、カエデはアカツキの手を取ると、 「え……?」 一体何をしようというのか。 分からずに一瞬戸惑ったが―― 「バクフーンッ(みんなで頑張るのよーっ)!!」 アカツキの手を高々と上げて、カエデは咆えた。 その言葉の意味を理解したほかのポケモンたちは、さらに声を大きくした。 「みんなもやる気になってくれたってことなのかな……?」 アカツキは困惑した表情を見せながらも、口元には笑みを浮かべていた。 みんなと心がひとつになれたような気がして、そのことを素直に喜んでいた。 第90話へと続く……