第94話 明日に向けて -Complicated feeling- 「すごかったじゃないかアカツキ。本選進出だよ」 「ありがとう、兄ちゃん」 ポケモンセンターでアカツキを出迎えてくれたのは、ハヅキだった。 自分と同じくホウエンリーグの本選に駒を進めてくれたことがうれしいのだろう、満面の笑みを湛えていた。 「これで兄ちゃんと同じ場所に立ったんだよね」 「ああ、そうだよ」 時間が経つにつれて勝利の喜びというのを実感したのだろう、アカツキも釣られるようにして笑みを浮かべた。 予選の最終戦において、アカツキはミキヤと激戦を繰り広げ、首の皮一枚の勝利をつかんだ。 ホウエンリーグの本選で、ハヅキと戦うということも夢ではなくなったのだ。 「話は後でいいかな。今はみんなを休ませなくちゃ」 「ああ、そうしなよ」 アカツキはハヅキの脇をすり抜け、カウンターへと駆け寄った。 「ジョーイさん。お願いします」 モンスターボールをカウンターに乗せると、ジョーイはいつもの笑みで「分かりました」と頷いて、ボールを回復装置にかけた。 回復が終わるまでは少し時間がかかるので、アカツキはロビーの脇に並べられている長椅子に腰を下ろした。 ふう…… 無意識にため息が漏れる。 さっきのバトルは、昨日、一昨日と経験してきたバトルとはワケが違う。 激戦に次ぐ激戦だっただけに、いろいろと疲れてしまった。 身体にあまり力が入らず、アカツキは動く気にならなかった。 バトルで疲れている弟に気を遣っているのだろう、ハヅキは自分から歩いてきて、アカツキの隣に腰を下ろした。 同じようにカウンターに目を向け、ふっと微笑む。 「兄ちゃんが見てたから、負けるわけにはいかなかったよ」 「うん、そうだな……」 アカツキの言葉に、ハヅキは頷いた。 自分が見ていなくても、アカツキは負けなかったはずだ。 同じ舞台に立って戦おうと約束したのだから。 なぜなら、ハヅキはアカツキが約束を破る男の子でないことを知っている。 「おまえはいつも、僕と交わした約束は守ってくれたからな。今回も勝つと信じていたよ」 「うん……」 アカツキは今さらのように思い返していた。 確かに、ハヅキと交わした約束を破ったことは一度もなかった。 その時のことが頭に浮かんで、思わず笑みがこぼれた。 「ミキヤさんって言ったっけ。 あの人、ホントに強かった……負けるんじゃないかって、怖かったよ」 「ああ、あの人は強いからね…… そういえば、おまえはあの人と初めて会ったみたいだけど」 「初めてって……兄ちゃんは知ってるの?」 「ああ、知ってるよ。何度か会ったことがあるからね」 アカツキは驚きを隠しきれなかった。 先ほど戦った相手がハヅキの知り合いだったとは思わなかったからだ。 そんな雰囲気ではなかったし、たとえ相手が誰であろうと勝つだけと決めていた。 ただ、そのことを知ってしまったからには、気になってしまう。 「あの人はね、ミクリさんの弟さんなんだよ」 「ああ、そうなんだ……」 ハヅキの言葉にアカツキは深く頷きかけて……ハッと気づいて動きを止めた。 「って、えぇぇぇぇっ!? ミクリさんの弟っ!? あの人が!?」 止める間もなく、アカツキは声を大にして叫んでいた。 「ちょっと、声大きいって……!!」 「あ……」 ハヅキの制止と、周囲の人の少し怒ったような視線を受けて、アカツキは縮こまってしまった。 いくらポケモンセンターであっても、ここはホウエンリーグの会場内である。 特に選手は神経質になっているから、少しの刺激でも見過ごせないのだろう。 「ご、ごめん……」 「まあ、驚く気持ちも分かるけれど」 声を小さく潜めて謝るアカツキを見つめ、ハヅキはため息を漏らした。 驚くだろうとは思っていたが、いくらなんでもこれは極端すぎるのではないか。 まあ、過ぎたことだからほじくり返したところで仕方ないのだろうが……次からはこうならないことを祈りたい。 「でも、ミクリさんの弟だったなんて……確かに似ていたような気がする。どこか……」 アカツキは対戦相手の顔を思い浮かべた。 意志の強い瞳をした青年だった。 確かに髪の色はミクリと同じだったし、心なしか表情も似ていたような気がする。 「ハイドロカノンって言ってただろ。 あれはミクリさんが編み出した水タイプ、真の最強技だよ。 ミキヤさんはそれを見てたから、カメックスに覚えさせたんだろうね。 まあ、ミキヤさんはミクリさんのことあまり好きじゃないみたいだけど……」 「兄弟なのに?」 「僕とおまえのように、仲がいい兄弟ばかりじゃないってことだよ」 「ふーん……」 アカツキは他人事のように返した。 でも、胸中では驚きの嵐が巻き起こっていた。 ハイドロカノンという技。 どこかで聞いたことがあるかと思ったら、それはルネジムのジムリーダー・ミクリが最後に使ってきた技だ。 凄まじい威力で、あわや戦闘不能に陥るかと思われるほどだ。 ミキヤが彼の弟だから、その技の名前を知っていた。 そう考えるとつじつまが合う。 アカツキは合点が行ったように何度も頷いた。 道理で強いわけで……でも、なんとか勝てた。 今まで頑張ってきた努力が報われたなと思った。 それだけ強い相手だったのに、どうして仲が悪いのだろう? 「ミクリさんの何が気に入らないのかなあ?」 アカツキがポツリ漏らした言葉に、ハヅキの眉が動いた。 そもそも、アカツキは「仲の悪い兄弟」というのを知らないから、疑問に思うのも無理はなかった。 「ミクリさんは、エンターテイナーとしても華麗に活躍してるっていうのは知ってるだろ。 でも、ミキヤさんはそういうチャラチャラしたのが気に入らなかったみたいなんだよ。 ジムリーダーはジムリーダーらしく、謹んでチャレンジャーの相手をして自分を高めていればいいんだって」 「そうなんだ……」 「僕もその言い分は理解できるけど、ジムリーダーだからっていう理由でそんなに縛り付けちゃいけないと思うんだ」 「うん、そうだよね」 何かと理由をつけて縛り付けることに、アカツキは否定的な考えを示した。 誰だってそんなつまらない理由で縛られるのなんて望んではいない。 アカツキだって、ハヅキの弟というだけの理由で特別扱いされたりするのは嫌だ。 だから、嫌われているミクリの気持ちは分かる。 それに……ミキヤの気持ちもある程度は理解できる。 華々しい活躍ができるのはいいが、本業であるジムリーダーの仕事が疎かになるのではないかと。 「それが分かるようになったってだけでも、おまえは大人になったってことなんだろうな」 「えへへ」 頭に手を置かれて、アカツキは顔を赤くして笑った。 素直に褒められているのだかよく分からないが、兄にこうしてもらうというのは気分が悪いものではない。 少しは大人になったと、人に言われて初めて実感できる。 自分ではどこから先が大人だと、線引きが極めて曖昧だから。 自分のことは自分が一番知っているように見えて、実はそうではない。 極めて近しい誰かが一番知っている。 アカツキにとってそれは兄のハヅキだった。 「しかし、おまえが勝ち上がって、本選で戦えると思うと、正直うれしいよ。 身体がウズウズしてるんだ。早く戦いたいって」 「うん。ぼくも同じだよ。早く兄ちゃんと戦いたいな」 兄弟感情なんて一切合財捨てて、広大なバトルフィールドで、同じトレーナーとして激しく火花を散らして戦いたい。 それが叶って、アカツキもとてもうれしかった。 ただ、本選の組み合わせはコンピューターでランダムに決まるので、そう都合よくバトルできるとは限らない。 どっちにしても、アカツキはハヅキと戦える場所まで勝ち進むつもりだ。 「ぼくも兄ちゃんも本選に行けるんだから、きっとハルカも……」 「ああ。彼女なら大丈夫だろう。 センリさんの娘だし……トレーナーとしても輝いて見えるから」 期待に拳をギュッと握りしめるアカツキに、ハヅキは頷きかけた。 アカツキと同じ日に旅立った親友の少女ハルカ。 彼女もホウエンリーグに出ているが、今は予選の最終戦を行っている最中だ。 勝敗はリアルタイムでロビー脇の掲示板に示されるが、ハルカに関する情報は表示されていない。 本選進出を勝ち取るため、激戦を繰り広げているのだろう。 アカツキは兄ハヅキだけではなく、ハルカとも戦いたいと思っている。 実際そうなると、どちらかに勝たなければ、もう一方と戦えないわけだから、結構キツイのかもしれない。 せっかく参加したのだから、ぜひ勝ってもらいたい。 アカツキとしては負け越しているので、ここで雪辱戦をしたいところなのだ。 カイナシティの砂浜で戦った時は引き分け、ミナモデパートでは負けて……白星がないので、ぜひこの舞台で一勝を飾りたいところだった。 「それはそうと、本選は明日から行われるからね……少し休んだらどうだ? 勝敗は後で知らせに行くよ。 それに、組み合わせが決まるまではもう少し時間があるから」 「うん、そうするよ。 でも、それはみんなの回復が終わってからね」 「ああ、そうだな」 ポケモンの回復を待たずに休むほど疲れているわけではないだろう。 自分だけ先に休むなんて、きっとプライドのような何かが許さないのだろう。 だとしたら…… 「十一歳とは思えないくらい、成長したんだな。いろんなモノを見て……感じて」 今までの旅はきっと無駄ではなかったのだろう。 様々なものを吸収して、また一歩、大人への階段を昇るのだ。 「きっと、僕よりも楽しい旅をしてきたんだろうな。うらやましいよ、本当に……」 純粋に夢だけを追いかけて、がむしゃらに頑張ってきたのだろう。 だから、自分とは違うと思う。 「僕は……おまえのように輝けない理由があるから…… 僕自身のための、おまえのための、母さんのための……」 アカツキは、ハヅキが旅を続けている理由を知らない。 教えていないのだから知っているはずがないのだが、時が来るまで教えるつもりはない。 今はホウエンリーグを精一杯楽しむとしよう。 そんな重苦しいのは、隅のゴミ箱にでも捨てて。 「本当におまえは大きくなったな。ただ僕についてくるだけの頃が懐かしいよ」 「そ、そうだったの?」 「ああ、そうだよ」 アカツキは赤面した。 そんな頃があったのかと思って唖然とした。 旅に出る前のハヅキの後についてちょこちょこ歩いていた頃があったなんて。 記憶になかったから、言われてドキリとした。 その顔があまりにかわいくて、ハヅキは笑みを深めたのだった。 それから三時間が過ぎた。 ロビーの奥にある特別室に、予選を勝ち上がった三十二人のトレーナーが集められた。 その中には、アカツキと兄のハヅキ、ハルカの姿もあった。 先ほど聞いたところによると、かなりの激戦だったらしく、アカツキと同じくらい危ない状況だったらしい。 まあ、結果オーライなのだから、経緯はいいとしよう。 「ドキドキするねっ!!」 「あ、うん……」 本選の一回戦の組み合わせが決まるまであとわずか。 ハルカは何が楽しいのかじっとしていられない様子だが、アカツキは緊張に固まって動けずにいた。 返す言葉も仕草もどこかぎこちなく、表情は本当に固かった。 ハヅキは壁に背をもたれて目を閉じていた。 どんな組み合わせだろうと構わない、という気持ちのあらわれだろうか。 だとしたら、うらやましい限りである。 激しい予選を勝ち上がったトレーナー達の表情は引き締まり、歴戦の戦士を思わせる雰囲気を漂わせている。 だから、その中でのほほんと鷹揚に構えることなんてできない。 特別室を包み込む刃のような雰囲気に飲み込まれそうだった。 まだ組み合わせが決まっていないのに、どうしても気になって視線を部屋の奥に向けた。 壁にかけられているスクリーンには、トーナメントの図が描かれていた。 一番下――三十二本の線の下には細長い四角の枠があって、そこにトレーナーの顔写真が入るという仕組みらしい。 そんなことを気にするほどの余裕を、この場の誰もが持ち合わせていなかった。 気になるのは対戦相手だけなのだ。 「もしかしたら、いきなりあたしとキミが戦っちゃったりして……!!」 殺伐とした雰囲気の中にいながら、しかしハルカは瞳をキラキラ輝かせ、アカツキの顔を覗き込んできた。 あまりの雰囲気の違いに、アカツキはビックリして声も出なかった。 どうしたらこんなに騒げるのだろう。 緊張感はどこへ行ったのだろう。 いろんな疑問が頭をよぎるが、直接ぶつけるわけにもいかなかった。 ただ黙って下を向くだけ。 「あ、あれ……?」 素っ気ないアカツキの様子に、ハルカも拍子抜けしたようだった。 緊張感のまるでない少女と、緊張に凝り固まった男の子。 ある意味美しい対比に、ハヅキは目を開いて笑った。 能天気すぎるのもよくないが、かといって緊張のしすぎというのもよくない。 大切なのはこうやっておおらかに構えること。 誰が相手だろうと戦い抜くというだけの決心と覚悟。 それが分かれば、必要以上に騒がないし、寡黙になったりもしない。 そう……これが自然体。この場所であるべき姿。 「緊張してるんだよね、ごめん。騒いだりして……」 「ううん……きっと緊張しすぎなんだと思う」 アカツキは首を横に振った。 緊張しすぎなんだって、自分でも分かっている。 ただ、どうにもできなくて、持て余しているだけだ。 何の得にもならない緊張感なんて、捨てたいけれど、それもできない。 誰と戦うことになったって、全力でぶつかって、勝てるように最大限の努力をする。 それだけなんだと言い聞かせて、今にも震え出してしまいそうな身体を自制え込む。 「でもさ、誰と戦うんだろう。気になって仕方ないよ」 アカツキはポツリと言った。 ハルカが少し緊張を解してくれたような気がして、何となく気持ちに余裕ができた。 気になってポケナビの時計を見てみたら、組み合わせ決定まであと一分を切っていた。 嫌でも、あと一分経てば、相手が決まる。 「大丈夫。誰だってきっと勝てるから……」 不自然に速い鼓動を刻む胸に手を当て、アカツキは大きく深呼吸した。 誰が立ち塞がろうと勝つのだ。 トレーナーとして戦い抜くだけだ。 そんな当たり前のことが重荷にすら感じられるのは、緊張の為せる技だったのかもしれない。 時間になると、実行委員はピンと背筋を伸ばして朗々と声を張り上げた。 「これより、本選に進出された皆様の第一回戦の組み合わせを発表いたします。 スクリーンをご覧ください」 穏やかな声音に、全員の視線がスクリーンに向いた。 「コンピューターが無作為に決定した組み合わせとなります。 左から順に顔写真が表示されます」 その言葉が終わると同時に、左から順に顔写真が表示されていく。 見慣れない顔が十ほど出たあたりで、不意に変化が訪れた。 「あ……!!」 アカツキは驚きで言葉を失ってしまった。 言うまでもないことだが、自分の顔写真が出てきたことに驚いているわけではない。 いつかは出てくるのだから、驚く必要などないはずだ。 何もかもを砕いてしまいそうな衝撃が身体を駆け巡っていく。 雷が落ちたみたいに、アカツキは動けなかった。 というのも、あまりに唐突過ぎたからだ。 「え、え、どーいうこと!?」 アカツキが言葉を失っているのと対照的に、ハルカは全身で驚きを表していた。 ハルカだけではない。 ハヅキもこれには驚きを隠しきれなかった。 アカツキの隣に表示されたのは、ハヅキだったのだ。 単なる隣であればまだ良かったのだろう。 だが、トーナメントの一回戦で戦うことを示す線が二人の顔写真を結んでいるというのは無情とも呼べた。 「一回戦の相手、アカツキとハヅキさんなの!? ウソウソウソっ!!」 ハルカの声に、アカツキとハヅキは顔を見合わせた。 お互いに驚いている表情。 でも、どこか安心したような……瞳の輝き。 アカツキは認めなくてはならなかった。 よりによって、ホウエンリーグ本選の初バトルで戦う相手が兄だということを。 しかしそれは今さらどうにもならない。 コンピューターがランダムに決めたのだ。確率がゼロより上なら、こうならないとも限らないのだ。 「兄ちゃんと大きな舞台で戦いたい……ぼくは……」 願いが叶ったという気持ちと、どうしていきなり……という驚きの気持ちが複雑に絡み合い、アカツキは他に何も考えられなくなっていた。 組み合わせがすべて決定し、バトルのルールなどが説明されて解散になるその時まで、アカツキはハヅキの顔をずっと見ているだけだった。 我に返ったのは、ハヅキが肩に手を置いた温もりを感じたからだった。 その晩。 アカツキはどうしても眠れなくて、ポケモンセンターの屋上で夜風に当たっていた。 入り口の壁にもたれて腰を下ろし、満点の星空を見上げる。 暦の上では冬だというのに、生暖かい風が吹く。 ホウエン地方は一年を通して温暖で穏やかな気候に恵まれており、平地では夜でも十五度以下になることは珍しい。 だが、そんなことは何の関係もない。 気持ちが落ち着かない。 メトロノームのように両極に揺れて、じっとしていられない。 兄と戦わなければならないという事実。 壁のように立ち塞がって、道を譲らない。 「兄ちゃんと戦わなきゃいけないのか……」 「嫌かい?」 「……?」 独り言のつもりがなぜか言葉を返され、アカツキは入り口を振り仰いだ。 ハヅキが立っていた。 入り口は開けたままにしておいたから、おかしいとでも思ったのか。 それとも…… 「ううん……」 アカツキは兄から目を逸らし、首を横に振った。 視線を再び満点の星空に向ける。 ハヅキは何も言わず、アカツキの隣に腰を下ろすと、同じように星空を見上げる。 少し気になってその横顔を見てみたら、笑みが浮かんでいた。 「ぼくは……」 アカツキは誰に促されるわけでもなく話し始めた。 昂ぶる気持ちが持つ熱量を放出するように。 「兄ちゃんと戦いたいって思ってきたよ。 リーグバッジを集めて、みんなと一緒に頑張ってきたんだ。 ホウエンリーグで戦いたいって、そう言ってたから。 トレーナーとして戦いたいって……」 「ああ……そうだね。 いつかはトレーナーとして旅に出るおまえと戦いたいと、ずっと思っていたよ」 「うん……兄ちゃんも眠れないからここに来たの?」 「おまえと同じだろうね」 顔を見合わせ、小さく笑う。 気持ちが昂ぶって、寝付けないあたりは兄弟よく似ている。 まあ、似ているからこそ兄弟なのだろうが…… 「僕に似てきたのかな……」 ハヅキはふと思った。 幼い頃とはまるで違う。 今はトレーナーが板についてきたようだし、彼のポケモンもすっかり懐いている。 ただ自分についてきていただけの頃とは違うのだ。 自分で考え、自分の足で歩き出したトレーナーだからこそ、戦いたいと思う。 「寝ようって思ったんだけど……ダメだったんだ。 みんなはもう寝てるけど……やっぱりぼくは冷静にはなれないんだよね。 今日の疲れを明日に持ち越して、全力で戦えなかったのを言い訳にしたくないのにさ……」 「それを言われたら僕も困るけれど……お互いに辛いものだね」 自分に向けられた言葉のように思えて、ハヅキは苦笑した。 確かに一理ある。 「いつかは兄ちゃんと戦うんだなあって思ってた。 でも、いきなりだなんて、心の準備ができてなかったんだ……情けないよね。 兄ちゃんは迷いも何もないっていうのに」 「…………」 「さっきはいきなり発表されて驚いちゃったけど、今はそうでもないよ。 兄ちゃんと戦えるってことがうれしいんだ。だから落ち着けなくて……」 「ふふ……」 お互いこの気持ちを持て余している様子だ。 アカツキは迷いも何もないと言ったが……そんなことはない。 ハヅキだって、本選の第一回戦でいきなりバトルすることになるとは予想していなかった。 心の準備が完全にできていたかと言えば、そうではなかった。 では、なぜ否定しなかったのか。 否定しても、それすらもまた否定されると思っていたから。 アカツキにとってハヅキは憧れの存在であり、トレーナーとしての先輩だから。 きっと信じてはくれないだろう。 「おまえは今まで頑張ってきたんだよな。辛いこととかいっぱいあったと思う」 「うん。兄ちゃんと比べたらこれっぽっちだけど」 アカツキは頷くと、親指と人差し指で「これっぽっち」ということを示した。 それは謙虚でも過小でもなく、明らかな事実だった。 ハヅキのバトルを観ていると、自分とは明らかに違う。 予定されていたように、計算づくのバトルを展開していた。 危なげないバトル運びで、楽に勝ち上がってきたようにさえ見えた。 激戦に次ぐ激戦という自分とは違う。 それだけでキャリアの差というのを思い知らされる。 でも…… 「おまえは今まで旅をしてきて、何を見てきた? トレーナーとして様々なバトルを戦ってきて、何を感じた?」 「兄ちゃん?」 神妙な面持ちで訊いてくる兄に顔を向け、アカツキは首を傾げた。 一体何を言っているのだろう。 正直理解できなかった。 「明日のバトルではそれを僕にぶつけて欲しい。 今までおまえがトレーナーとして頑張ってきた努力を僕にぶつけるんだ。 もちろん僕も全力で戦うよ」 「うん。それはそうだけど……悔いが残らないようにね」 「ああ」 アカツキの言葉に満足したのか、ハヅキの表情は笑みに戻った。 悔いが残らないように、全力で戦うという決意。 物静かな瞳の中に宿った確かな決意。 それを見て取れて、ハヅキは本心から満足していた。 気持ちを落ち着けようと思ってここに来たのに、逆に興奮が高まってしまった。 これでは何の意味もないではないか……そう思うと、笑わずにはいられなくなる。 人知れず笑みを深めていると、アカツキが話しかけてきた。 「兄ちゃん」 「なんだい?」 「ぼくは兄ちゃんに勝てるとは思ってないよ」 「どうしたんだ、いきなり」 ハヅキは眉をひそめた。 アカツキが興奮で頭をおかしくしてしまったのではないかと、余計な心配を抱いてしまう。 そう思わせてしまうような言葉だったのだ。 いきなり「勝てるとは思ってない」なんて。 だいたい、バトルするからには勝つという意気込みでここまで頑張ってきたのではないのか。 悔いを残さないように全力で戦うと言ったばかりではないか……なのに、どうして…… そう思っていると、アカツキは言葉を継ぎ足してきた。 「本当のことなんだ。 今のぼくじゃ、兄ちゃんには勝てないと思ってる。 飾り立てたって、そんなの兄ちゃんには通用しないでしょ? だから、正直に言いたいんだ」 「アカツキ、おまえ……」 ハヅキはアカツキの顔を見つめた。 兄を真剣な眼差しで見つめる弟には、嘘偽りが入り込む余地すらないように思えた。 「勝てないかもしれない。 だけどね、ぼくは全力で兄ちゃんと戦うよ。 負けたって悔いが残らないように。 トレーナーとして頑張ってきたこと、兄ちゃんに知って欲しいから」 「ああ……そうだな」 ハヅキはおもむろに立ち上がり、アカツキに背を向けた。 じんと目頭が熱くなってきた。 トレーナーとして旅に出て半年の弟にそんなことを言われるなんて想像もしていなかった。 「明日はお互いに頑張ろう。どちらが勝っても、笑えるように」 「うん」 「早く寝ろよ。もう、夜も遅いんだから」 ハヅキは足早に屋上を後にした。 姿が見えなくなってしばらく経ってから、アカツキは星空を見上げた。 気のせいか、流れ星が夜空を翔けたような気がしたが……一瞬で消えて、何がなんだか分からなかった。 「そうだね。 悔いが残らないバトルができたら……きっと最後には笑えるんだって、ぼくはそう思っているから」 誰もその言葉を聞いていなくても、別に構わなかった。 自分自身に言い聞かせたかっただけだから。 大きく深呼吸してみた。 少しだけ、気持ちが落ち着いたような気がする。 言いたいことを言って、少しは気が晴れたのかもしれない。 今ならゆっくり眠れそうだ。 不思議な気分がしていた。 「今までぼくがやってきたことを全部、ぶつけるだけだよ。 それがきっと、ぼくのホウエンリーグなんじゃないかって、そう思うから。 それに…… どこかできっと、ぼくたちのお父さんが見てるかもしれないし。 ぼくたちが元気でやってるってこと、生きてるなら伝えたいんだ……」 迷いを吹っ切ったような言葉とは裏腹に、アカツキの胸中は複雑に入り乱れていたのであった。 第95話へと続く……