The Advanced Adventures 外伝:Penetrate 「こらーっ!! いつまで寝てんの!! 早く起きなさ〜いっ!!」 その日もまた、火山が噴火するような絶叫が響き渡った。 ドアを強引に開けて――そのせいでカギが壊れてしまったのだが、それすらも気にせずに部屋に押し入ったのは、茶髪を背中に伸ばした女性だった。 美人と呼ばれるのが当たり前なくらいに整った顔立ちも、憤怒の仮面を張り付けているせいで台無しになり、怒った肩で荒々しく息を繰り返している。 見た目こそうら若き女性だが、実年齢は三十の齢を数えていたりもする。 まあ……それはともかく。 彼女はベッドで仰向けになって寝息を立てている十歳くらいの少年を睨みつけながら、大股で歩み寄った。 はちきれんばかりの大声で怒鳴り散らしたというのに、少年は起きるどころか高いびきを立てている。 「怒鳴っても寝てるなんて、神経が太いというか……あの人にそっくりだわ」 もはや怒りを通り越して呆れてしまう。 少年は彼女が拳をグーに固めていることや、カーテンが開けられて部屋に朝の日差しが差し込んできたことにも気づいていない。 ここまで来ると、神経が太いというレベルの問題ではないのかもしれない。 「でも、今はわたしがちゃんとしなきゃいけないのよ」 夫は今、海外出張中である。 帰ってくるのは半年後だ。 それまでは、自分がこのやんちゃ盛りの息子をきっちりと育てていかなければならない。 責任は重大だ。 だからこそ、多少の荒事も必要となる。 「今、何時だと思ってるのかしら……」 不安も何もない穏やかな寝顔を見やり、ため息をひとつ。 壁にかけられた時計に目をやると、すでに九時を回っていた。 朝と呼ぶには過ぎた時間で、かといって昼と呼ぶにはまだ早い時間だ。 どちらにしても、やんちゃ盛りの子供が寝ているような時間ではあるまい。 時刻を見て再びため息を漏らし、寝息を立てている少年に向き直る。 膝をかがめて、グーに固めた拳で少年の額を軽く叩く。 身体に直接叩き込まれた衝撃に少年の身体がかすかに震えたのを横目で確認しつつ、耳元で声を張り上げた。 「リュウト!! いつまで寝てんの!! さっさと起きてさっさとご飯食べちゃいなさい!! わたしだって、暇じゃないんだからね!!」 「うわっ!!」 すぐ傍から聞こえた怒鳴り声に、少年はたまらず飛び起きた。 ビックリした表情で、目の前に顔を近づけてきた母親を見つめる。 憤怒の仮面は脱ぎ捨てたものの、むしろ彼が恐れていたのは、母親のニコニコ笑顔の方だったりするのだ。 あからさまに怒っていると分かれば、それなりに謝って許してもらえる。 だが、笑顔の時は喜んでいるのか怒っているのかの区別がつかないのだ。 少なくとも、笑顔で怒ってくることもあったし、何かよからぬことを企んでいることだってあった。 尊敬できる相手の笑顔とはいえ、油断できないシロモノなのだ。 「毎日毎日こうやらないと起きないなんて、あんたって寝起きが悪いのねえ……ホント、誰に似たのかしら」 「うぅ……」 針でチクチク刺すような嫌味に、少年は顔をしかめた。 寝起きが悪いのは元々で、こればかりはどうしようもない。 それをネタにして父親と比較されるのは嫌だが、こんな時間まで寝ていれば注意されて当然だと、壁の時計を見上げながら思った。 そのほかに、目覚まし時計が一個。 床に叩きつけられてバネが飛び出したりネジが別の場所に転がっていたりするその目覚まし時計は、まともに使えるものではなくなってしまった。 もちろん、壊したのは少年自身なのだが…… これで何台目だろう。 一月前に似たような時計を投げて壊して――もちろん意図してやったものではない――、渋々買ってもらったのに、また壊してしまった。 今度の目覚まし時計は、母親の大声と鉄拳制裁だろうか。 などと戦々恐々としていると、母親が笑みを深めて言ってきた。 「ほら、そうやってボーっとしてないで、さっさと顔洗ってご飯食べなさい。 トレーナーとして頑張るんでしょ。 だったら、時間を大切にしなきゃね」 「うん、わかった」 背を向ける母親に、少年は小さく頷きかけた。 寝ぼけ眼を擦り、ベッドから降りる。 寝相が悪かったのか、パジャマはシワがたくさん刻まれ、シーツもぐしゃぐしゃになっている。 バタンと、わざとらしく大きな音を立ててドアを閉める母親。 「はあ……」 聞かれていたら何をされるか分かったものではない。 少年は母親の姿が見えなくなってから、ようやっとため息を漏らしたのだった。 少年の名はリュウト。 十歳だが、十一歳の誕生日まで、あと五日。 自然豊かと言われているホウエン地方の北西部、都会として発展著しいカナズミシティで生まれ育った。 将来の夢は、両親のようなすごいトレーナーになることだ。 寝起きが悪く、そのためかノンビリ屋さんな性格で、毎朝母親をヤキモキさせている。 母親曰く、 「あんたはお父さんに似てるの」 だとか。 どこがどう似ているのか、本人に分かるはずもないのだが、母親として、トレーナーとして尊敬している彼女がそう断言するのだから、 それは間違いないのだろう。 「あー、急がなきゃ……!! 本気で朝メシ抜きにされちゃうよ!!」 リュウトは慌てて着替えを始めた。 ぐちゃぐちゃになっているベッドを元に戻すのは後だ。 タンスの引き出しを引いて、中身をひっくり返して服を探す。 手近な服を着ればいいのだろうが、朝ごはんを抜かれるかもしれないという恐怖に、まともな判断力が期待できるはずもない。 適当に見繕い、着替え始める。 とりあえず着替え終わって、母親と同じ茶髪を適当にいじくる。 寝癖を櫛で何度も梳いて、強引に髪を整えるが、終えた傍から空気を含んで小さく立ってしまう。 一通り身だしなみを整えたところで、机の上に置いてあるモンスターボールをひったくるように手に取って、部屋を飛び出した。 短い廊下を抜けた先がリビングだが、その前にエチケットを整えておかなければならない。 歯を磨き、顔を洗い、申し訳程度に整えた髪をもう一度ちゃんと整える。 リビングに急ぐと、テーブルには申し訳なさそうに一人分の料理だけが並んでいた。 「あら、意外と早かったのね。驚いちゃった」 走ってきたリュウトに笑みを向け、母親が笑う。 食器を洗いながら、「早く食べちゃいなさい」と言った。 「いただきま〜す」 椅子に座って、リュウトは猛烈な勢いで朝食を平らげていった。 香ばしいコーンスープも、程よい弾力と甘さのスクランブルエッグ、シャキシャキとした歯ごたえのサラダを三分と経たずに平らげてしまう。 すごい食べっぷりに目を丸くしながらも、母親は息子のそんな様子に微笑ましい視線を向けていた。 「やっぱり男の子ねえ……行儀なんてあったモンじゃないけど、それくらい豪快に食べてくれた方が、作った方もうれしくなるわ」 彼女は小さく笑い、リュウトが運んできた食器を洗い始めた。 母の名はアヤカ。 見た目は二十代だが、実年齢は三十代も半ばだ。 一児の母とは思えない見た目もあって、街を歩くと若い男性に声をかけられることも多い。 息子を連れていても、「弟?」と訊かれることが多いくらい、母親とは思われない。 そんな彼女は、凄腕のポケモントレーナー。 一般トレーナーの憧れであるホウエンリーグ四天王に匹敵するほどの力を持ち、並のジムリーダーなど歯牙にもかけない。 もっとも、そんな実力を知っているのはごく一部の人間に限られるが。 母親であり、凄腕のポケモントレーナーでもあるアヤカのことを、リュウトは世界の誰よりも大好きで、尊敬している。 大急ぎで洗い終えた食器を乾燥機にセットしたアヤカはエプロンを脱いで、椅子にかけた。 「それじゃあ、始めるわよ。 今日もビシビシ行くからね。覚悟しなさい」 「うん!! 大丈夫!!」 楽しそうな声音で言うアヤカに触発されるように、リュウトも笑顔で大きく応えた。 リュウトの部屋に続いている廊下とは反対側にも廊下があり、その廊下を抜けた先には、スタジアムを思わせる空間が広がっている。 大小様々な岩が乱立したフィールドを取り囲むように、観客席が設けられている。 ここは、バトルを行うフィールドだ。 一般の家に、このようなフィールドがあるはずもない。 何を隠そう、ここはカナズミジムなのだ。 ホウエンリーグ出場を目指すポケモントレーナーが、リーグバッジを手に入れようとジムリーダーに勝負を挑む場所。 午前十時までは挑戦を受け付けないので、それまでの間は、アヤカがリュウトを特訓するのに使っている。 「じゃ、今日は今まで教えたことをフルに使って、わたしとバトルしてもらうわよ」 「ええっ!?」 アヤカの言葉に、リュウトが仰天する。 当然のことだった。 まだ正式なトレーナーとして認められていない半人前の自分が、どうやったら凄腕トレーナーの母親とまともにバトルができるというのか。 実力差は火を見るよりも明らかだから、手加減くらいはしてくれるだろう。 だが、手加減されてもなお勝てる相手かと言われれば、とてもイエスとは答えられない。 それでも、やらないわけにはいかないのだ。 十一歳になれば、少年少女は正式なポケモントレーナーとして認められ、またポケモンを一体与えられて旅に出ることが許される。 リュウトは、あと五日で十一歳を迎えるのだ。 そして、十一歳の誕生日に、生まれ育った街を旅立って、アヤカのような凄腕トレーナーになるべく修行する。 必要なことはアヤカから一通りみっちり叩き込まれており、旅立ちに際しての不安はない。 ただ…… 「ええっ、じゃないの」 息子の気持ちは重々承知している。 だが、旅立った先で、いつ「勝ち目のないバトル」に遭遇するかは分からない。 手も足も出ないまま負けたのでは、何の意味もないのだ。 一矢報いることができるだけの実力はあるのだし、リュウトに足りないのは、負け戦でも最後まで戦い抜くという気概だ。 それを身につけるためにも、一度は散々に負けた方がいい。 人は時に、敗北から新しい何かを見出すことがあるのだ。 「ポケモントレーナーとして旅に出るんでしょ。 だったら、今までの総仕上げってことで、ちゃんと復習をやっておかないと。 何事もね、基本が大事なの」 耳にタコができるくらい、言い方を変えて何度も説明する。 リュウトは、また始まった……と言いたげな表情を見せたが、すぐに引き締めた。 「だいたい、バトルには親子の情なんてモノはないの。 そうじゃなくたって、格下の相手だからって、手加減してたら返り討ちにされちゃうことだってあるの。 窮鼠猫を噛むって言葉があるでしょ。 だから、全力でぶつかってきなさい。 広い世界に旅立って、いろんな経験をしてくるんだから、それくらいの意気込みを見せてもらわないと、心配で送り出せないわ」 「……うん……」 リュウトは頷いた。 穏やかな口調とは裏腹に、内容はかなり厳しい。 でも、だからこそアヤカが自分のことをそういう風に思ってくれていることが身に沁みるほどによく分かる。 だから…… 「全力でやる……!!」 ぐっと拳を握りしめる。 駆け出しトレーナーの自分と、凄腕トレーナーの母親。 実力の差は如何ともしがたいものがあり、どう考えても勝ち目はない。 だからといってやる前から投げ出すのは嫌だ。 半年ほど前、このカナズミジムを訪れたポケモントレーナーから、こんな言葉を投げかけられた。 「自分の限界を知るのって大事なことだと思う。 不必要に無茶しなくて済むようにするには、とても大切なことなんだけどね。 だけど、まだ頑張れる力があるのに、そこで限界だなんて自分で決めちゃったら…… 先に進めなくなっちゃうんだよ」 その頃は今ほど強くもなくて、思ったとおりに行かないことが多かったから、自暴自棄(ヤケ)になっていた。 ちょっと早い反抗期で、アヤカに対してヒドイことを言ったりもした。 何をやってもダメなんだと、半ば投げやりにもなっていた。 そんな時だった。 アヤカの知り合いだというポケモントレーナーが、このジムを訪ねてきたのは。 なんていう名前だったか……もう、忘れてしまった。 だが、姿は覚えている。 二十歳すぎの青年で、背はそれほど高くなかった。 前後逆さにかぶった帽子の下から、一房だけ前髪が飛び出して刎ねていた。言うまでもなく、一番の特徴は、その刎ねた髪だった。 いかにも温和そうな性格で、引き連れていたオーダイルは、駆け出しトレーナーのリュウトですら一目見て分かるほど、強そうだった。 久しぶりに訪ねてきた青年の成長ぶりに、アヤカが素直に喜んでいたのを覚えている。 後で聞いたところによると、八年ぶりの再会だったそうだ。 八年も前と言うと、少年と呼べる年頃だったのだろうと思った。 彼は、自暴自棄になっていたリュウトに粘り強く接した。 最初は反発するばかりで、言葉に耳を貸そうともしなかった少年を前にしても、顔色一つ変えることも、サジを投げ出すことも、 怒ることもなく自然な笑顔さえ浮かべながら接してくれた。 青年の真摯な態度と言葉が、頑なに拒んでいたリュウトの心のドアを少しずつ開いていき、話し始めてから一時間が経って、 ようやっと青年の言葉に理解を示すようになった。 それからは、各地を旅して様々な経験をし、見聞を広めた青年にいろんなことを尋ねるようになり、 反発するだけでワガママだったことが嘘だったかのように素直になった。 最後に、またどこかに旅に出るという青年から、 「自分の限界を知るのって大事なことだと思う。 不必要に無茶しなくて済むようにするには、とても大切なことなんだけどね。 だけど、まだ頑張れる力があるのに、そこで限界だなんて自分で決めちゃったら…… 先に進めなくなっちゃうんだよ」 と言われた。 その言葉は深く心に刻み込まれた。 そして、 「次に会う時は、リュウトも僕と同じでポケモントレーナーになってると思うから、全力でバトルしようよ。 楽しみにしてるからさ、頑張って」 そう言って、青年はカナズミジムを後にした。 それから彼がどこへ行ったのか……それはリュウトもアヤカも知らなかった。 リュウトはぐっと拳を握りしめたまま、スポットに立った。 スポットとは、バトルフィールドの外側に設けられた、トレーナーが立ってポケモンに指示を出す場所を言う。 フィールドを挟んだ反対側のスポットには、口元に笑みを浮かべ、腕を組んだアヤカがスタンバイしている。 「リュウト、これがわたしの最終試験。 行くのよ、ボスゴドラ!!」 アヤカは腰に差したモンスターボールをフィールドに投げ入れた!! 相手が息子であろうと、格が下の相手であろうと、手加減はしない。 ――獅子はウサギを狩るにも全力を尽くす。 そういう言葉があるように、勝負の世界では手加減などしない。 されるのが嫌だから、しないのだ。 それに、手加減というのは相手に対して失礼でもある。 手加減されてもなお勝てなかったというのは、とても傷つくことなのだ。 「手加減されて負けるよりは、全力でぶつかって負けた方が、気持ちもスッキリするしね」 そんな経験があるからこそ、勝負はいつでも全力投球だ。 勝負の世界には、そういった非情なところもあるが、だからこそ本気でやり遂げようと思えるのではないか。 リュウトには、そういった楽しさも知ってもらいたい。 辛いことはたくさんあるだろうが、その中にどれだけの喜びを見出すことができるのか……それこそが、ポケモントレーナーの醍醐味なのだ。 岩のフィールドに着弾したボールは口を開き、中からボスゴドラが飛び出してきた!! 「ごぉぉぉぉっ!!」 ボスゴドラの雄たけびに、空気が震える。 二メートルは超えるであろう巨体が発する威圧感と、空気を震わす雄たけび。 鋼鉄の鎧をまとったようなその姿は、まさに怪獣と呼ぶに相応しい外見だ。 「くぅっ……」 雄たけびは空気の振動となって、身体に叩きつけてくる。 リュウトは小さく呻いて、一歩後ずさりした。 やる気満々の怪獣を見ていると、ただそれだけで気圧されてしまう。本当の意味でのバトルに慣れていない、素人だからこその反応だ。 「これが、母さんのボスゴドラ……? 普段と別人みたいだ……」 リュウトはごくりと唾を飲み下した。 母のボスゴドラは、フィールドの片付けや日常生活で必要となる大工作業をよく手伝ってくれる、心の優しいポケモンだ。 出張中でほとんど家に帰れない父親――ダイゴの代わりに、リュウトを頭の上に乗せて、肩車みたいなことをやってくれたし、 リュウトにとってボスゴドラは家族と言っても良かった。 だが、今はまったく違う。 家族ではなく、戦う相手として対峙した今。 ボスゴドラがこれほどまでの存在だと思い知らされる。 ボスゴドラのタイプは岩と鋼。 物理防御力はトップクラスで、並大抵の攻撃ならダメージをほとんど負わない。 単なる防御型かと思いきや、物理攻撃力もかなりのもの。 付け入る隙があるとすれば、岩と鋼の共通した弱点である格闘タイプの技で攻めるか、あるいは巨体ならではのスピードの低さを突いて、 素早い動きで撹乱しながら攻めていくか…… だが、戦う前であっても、それが容易ではないことくらい、リュウトにだって分かる。 「お、落ち着かなきゃ……戦う前からこれじゃあ、ダメだって、母さんだって言ってたじゃないか」 ボスゴドラに気圧されて、冷静さを失くしかけている自分を奮い立たせる。 アヤカがリュウトに教えたことの一つで、バトルの時は、どんな窮地に追い込まれても、冷静さを失くしてはならないというものがある。 バトルでは、いかに自分のペースを乱されずに、相手のペースを乱して戦っていくか、という駆け引きが常に展開されているのだ。 駆け引き上手=バトル上手とも言われている。 だから、戦う前からいきなり冷静さを失くしてしまうようでは、勝敗は火を見るより明らかなのだ。 必死に心を落ち着けようとするが、十歳の少年の思い通りにいくはずがない。 なにしろ、相手は怪力を誇り、鉄壁の防御を擁するボスゴドラなのだ。 たとえアヤカが手加減してくれたとしても、リュウトの手持ちで勝てるのか…… 「ぼくの手持ちは……」 心を落ち着かせながら、腰のモンスターボールをつかんで、目の前に持ってくる。 モンスターボールに入っているのは、キノガッサ。 草タイプと格闘タイプを持ち合わせる、軽いフットワークのポケモンだ。 ボスゴドラの最大の弱点である格闘タイプの技を使える。 「でも、進化したばかりで、マッハパンチくらいしか使えないし。 マッハパンチって、先制できるけど威力は低いから、ボスゴドラの鉄壁を破れるのかな……?」 キノガッサの最大の武器は格闘タイプの技。 いくら相手の弱点を突けると言っても、相手は強豪ボスゴドラ。一度や二度の攻撃がヒットしたとしても、耐え凌ぐだろう。 「でも、やるしか……」 アヤカがこうしてバトルを挑んできたのは、自分の成長を促すためだ。分かっているからこそ、リュウトは最初から投げ出すつもりなどなかった。 「やるしかない……!!」 相手がいかに強大であろうと、戦う前から闘志を失うようでは、トレーナーとして失格だ。 「さあ、どこからでもかかってらっしゃい」 やる気になったリュウトの顔を見やり、アヤカは口元の笑みを深めた。 リュウトは手加減してくれると思っているかもしれない。 だが、生憎と手加減などしない。 相手が息子であろうと、赤の他人であろうと同じことだ。 とりあえずは、相手の攻撃を見てみよう。 今まで自分が教えたことを、どれだけ我が物にしたのか……初手で、ある程度は見極められる。 「キノガッサ、Go!!」 リュウトがモンスターボールをフィールドに投げ入れる!! ボスゴドラの時と同じように、着弾した瞬間に口を開いたボールから、キノガッサが飛び出した!! 「キノーッ!!」 フィールドに現れたキノガッサは、ボスゴドラの迫力に気怖じすることなく、静かな――しかし闘志を讃えた瞳を強大な怪獣に向けていた。 格闘タイプの持ち主だけあって、非常に好戦的な性格をしているのだ。 キノガッサはリュウトよりも五センチほど背が低く、ボスゴドラから見てみれば、大人と子供くらいの身長差があるだろう。 キノコのカサのようなものを頭にかぶっていて(一応、それも身体の一部)、 カサの左右についた噴火口のような突起から胞子を噴出して、相手を眠らせることができる。 後ろ脚が発達したおかげで二本脚で立つことができ、フリーになった前脚で強烈なパンチを相手に見舞うのだ。 瞬時に数十センチの伸び縮みを可能とする前脚から繰り出されるパンチは、大きな岩すら砕くことができると言うが、 リュウトのキノガッサがそれを現実にするのはもう少し先のことになるだろう。 というのも、キノココから進化したばかりで、今の身体に慣れていないのだ。 ボスゴドラに対して効果が高い格闘タイプの技も、使えるのはマッハパンチのみ。 ここは、どう考えてもマッハパンチを軸に、他の技を絡めながら攻撃していくしかないだろう。 「スピードで勝負……!!」 リュウトは決意を固めた。 城砦のごとき鉄壁の守備をどこまで崩して、相手にダメージを与えられるか……勝敗ではなく、アヤカは自分の戦い方を見るはずだ。 だったら、無理に勝とうと思わなくていい。 今の自分にできる精一杯の戦いをすればいいのだ。 ふと、そう思うだけで心が軽くなるのを感じた。 そんな息子の、わずかに緩んだ表情を見て、アヤカは笑みを深めた。 「なかなかどうして、いい顔をするようになったじゃない……」 トレーナーとして最低限必要なことは教えてきたつもりだ。 それをこの場でどう活かせるのか……判断材料は、そこにある。 「先手は譲ってあげるわ。 それくらいしなきゃ、フェアじゃないもの」 アヤカが手招きする。 実力差のある相手には先手を譲ってもいい。 それくらいしなければ、バトルにもならないだろう。 「じゃあ……マッハパンチ!!」 リュウトは早速キノガッサに指示を出した。 キノガッサが身体から余計な力を抜いて、矢のような勢いで駆け出した!! マッハパンチは先制を取るための技であり、威力は高くない。 ここで一気に相手の懐に飛び込んで、スピードで撹乱しつつダメージを与えていくしかない。 攻撃と防御に関しては、ボスゴドラの方が圧倒的に上。対抗するなら、巨体が災いして低下したスピードだ。 相性はこちらの方が有利なのだから、強気に攻めていけばいい。 キノガッサは瞬く間にバトルフィールドのセンターラインを越えて、ボスゴドラに迫る!! 「ふーん、なかなかのスピードね……」 マッハパンチで来ることは予想していた。 強大なパワーを持つボスゴドラに対抗するには、どうしてもスピードに頼らざるを得ない。 自分のポケモンの弱点が分かっていれば、相手がその弱点を突いて攻撃してくるであろうことも、当然把握している。 「でも、この砦は易々と突破させないわよ……」 これがポケモントレーナーだ、というところを見せてやろう。 迫るキノガッサに目をやり、アヤカが指示を出す。 「ボスゴドラ、アイアンテールでなぎ払いなさい!!」 指示を受けたボスゴドラは、闘志むき出しの目つきで迫り来るキノガッサを睨みつけながら、地面につけていた尻尾を浮かせた。 アイアンテールは、一時的に鋼鉄の硬度を得た尻尾で相手を叩きつける技だ。 元から硬くて丈夫なボスゴドラがアイアンテールを使えば、その威力は並の相手の比ではない。 進化したことで全体的に能力が上がったと言っても、キノガッサがその一撃をまともに食らえば、 それだけで戦闘不能に陥ってしまうのは間違いない。 キノガッサは相手の攻撃に臆することなく、突っ込んでいく!! ボスゴドラが攻撃のモーションを示しても、キノガッサの表情に怯えはない。 「キノ〜ッ!!」 ボスゴドラの眼前まで迫ったキノガッサが、伸縮自在の前脚を瞬時に伸ばして、強烈なパンチを繰り出す!! ボスゴドラの腹が、がら空きになっている。 攻撃を誘っているようにしか見えないが、かといって別の場所を攻撃するだけの時間的余裕はなかった。 キノガッサのマッハパンチが、ボスゴドラの腹に突き刺さる!! 鋼タイプと岩タイプを併せ持ち、格闘タイプの技にはめっぽう弱いボスゴドラだが、一撃を食らった程度では大したダメージにはならない。 わずかに仰け反ったものの、三百キロを優に超えた巨体を一ミリも後退させることはなかった。 何事もなかったようなボスゴドラの表情に、リュウトは唖然とした。 「そんな、効いてない!?」 「いいえ、効いてるわ」 思わず動揺を口に出してしまったが、律儀にもアヤカはちゃんと答えてくれた。 バトルの最中は、トレーナーが動揺してはならない。 冷静さを失えば、直接戦っているポケモンにそれが伝わってしまう。 ポケモンは、トレーナーの指示を信じて戦うのだ。 動揺した状態で出された指示を、素直に信じられるだろうか。 だから、トレーナーは可能な限り動揺しないこと……冷静さを保ち続けることが必要なのだ。 さすがに、それを駆け出しのトレーナーであり、心身共に未熟なリュウトに求めるのは酷だろうが。 「効いてるけど、ボスゴドラの防御力は圧倒的に高い。 弱点だからって、一発や二発で軽々と倒せるなんて思わないことね」 アヤカの言葉が終わるが早いか、ボスゴドラは巨体の鈍重さを感じさせない動きで身体を横に捻り、 浮いた尻尾でキノガッサにアイアンテールを繰り出した!! キノガッサの視界に、銀の一閃が飛び込んできた瞬間―― どごぉんっ!! 凄まじい音と共に、キノガッサは吹き飛ばされていた!! 「き……キノガッサ!!」 アイアンテールの一撃をまともに食らったキノガッサは、運悪くフィールドに突き出た岩に激突!! だが、それだけでは勢いがなくならなかったらしく、その岩を粉砕し、さらに奥の岩に叩きつけられて、やっと止まった。 ずるずると地面に落ちるキノガッサ。 リュウトは胸が締め付けられるような想いがした。 「…………これが、バトルなんだ……」 自分が思っていたバトルなんかより、よっぽど過酷で厳しいものではないか。 今のボスゴドラの一撃を見て、素人目にも分かる。 「母さんは手加減なんてしてない……」 手加減してくれると思っていた自分の浅はかさが恨めしい。 今までにもバトルは経験してきた。 だが、それはあくまでも模擬的なものであって、全力でぶつかり合うというものではなかった。 技を使うタイミングを教えたり、相手のどこを狙えばダメージをより多く与えられるかといった実践的な講義みたいなもので、 実際のバトル――相手を倒すという意味のものでは決してなかった。 しかし、今…… 自分がやっているのは、勝つか負けるかという真剣そのもののバトルだ。 相手を倒すのに手加減などしていては、倒されてしまう危険がある。誰だって、負けるよりは勝ちたいと願うだろう。 アヤカは敬愛すべき母親であり、同時に乗り越えなければならない壁でもある。 ましてや、バトルフィールドに立った以上、そこにいるのは母親などではない。アヤカという名の凄腕トレーナーだ。 「ぼく、大切なこと、忘れてたんだ……」 今までの講義と一緒にしていた部分がなかったとは思わない。 手加減してくれるなどと、どうして思えたのか…… トレーナーとして未熟だということを、嫌というほど思い知らされる。 「母さんのようなトレーナーと戦うことがあったら……今のぼくじゃ、何もできずに負けてしまう」 旅に出れば、実力の開いた相手とバトルすることもあるだろう。 もちろん、それくらいは想像していた。 しかし、想像と現実は時に大きな隔たりがある。 想像という、どこか妥協して生温いシロモノに成り果てたものではない。現実はもっと厳しい。 リュウトは悔しさを噛みしめた。 ぐっと握った拳も、爪が食い込んで痛い。 自分が未熟だって言うことは分かっている。 ボスゴドラの一撃を食らって倒れたキノガッサを見て、偶然そうなったのだと否定できるなら、それは自惚れ以外の何者でもない。 「でも……」 キノガッサはぎこちない動きながらも、立ち上がった。 大ダメージを受けて、今にも倒れてしまいそうに見えるが、それでもキノガッサの目から闘志は消えていない。 むしろ、追い詰められてからが本当の勝負だと、瞳に宿った闘志はさらに燃え上がらんとしているように、リュウトには見えた。 「キノガッサはあきらめてない。 ぼくが先にあきらめちゃ、いけないんだよね……」 トレーナーはポケモンを戦わせる。だからこそ、最後まであきらめず、戦い続けなければならないという責任を負うのだ。 「ほら、わたしがあなたに教えてのはその程度のことなの!? 迷ってる暇があったら、かかってきなさい!!」 アヤカが真剣な面持ちで劇を飛ばす。 リュウトはビクッと身体を震わせた。 今までにだって、悪戯をしてこっぴどく叱られたことはある。 言葉も表情も厳しかったし、お尻を思いっきり叩かれたことだってある。 だが、今の一言はそんな生温いレベルのものではなかった。 母親として、相対するトレーナーとしての真剣な言葉だったのだ。 「…………」 リュウトは唇を噛みしめた。 キノガッサはまだまだやる気だ。気力だけで立っているのかもしれない。 だが、本人がやる気なら、トレーナーが先にバトルを放棄してはならない。 もちろん、それも時と場合によるが、今回は放棄してはならない方だ。 「まだまだ……ぼくが母さんから教えてもらったことは、まだまだたくさんあるんだ!! キノガッサ、もう一度マッハパンチ!!」 リュウトは声を張り上げ、キノガッサに指示を出した。 たかだかマッハパンチ一発分しか、トレーナーとしての心構えを教わってきたわけではない。 時に優しく、時に厳しく教え込まれたことは、まだまだたくさんある。 負けるにしても、それらをすべて出し切ってからだ。 リュウトのやる気が乗り移ったかのように、キノガッサは先ほどとほとんど変わらない素早い動きでボスゴドラに迫る!! 「ダメージを受けたのに、これほどの動きを出せるなんて、さすがにわたしの息子は違うわね…… あー、こういうとこはやっぱりあの人似ね」 アヤカは胸中でつぶやいた。 息子だからといって贔屓しているわけではない。 むしろ、ようやく分かってきた……トレーナーとして大切なことが何か。 それが分かれば、相手が息子であろうとなかろうと、そんなことは関係ない。 「そう……大切なのは、トレーナーが最後まであきらめないこと。 戦っているのはポケモンだけじゃないの。 指示を出す側として、トレーナーも一緒に戦ってるんだってことを、忘れたらそこでおしまいよ」 身体を使って戦うのがポケモンなら、頭を使って戦うのがトレーナーだ。 どちらか一方のエゴで、バラバラに行動していたら、勝てるバトルも勝てなくなってしまうだろう。 「同じ手が二度も通用するとは思わないことね。 ボスゴドラ、地震!!」 アヤカは容赦なくボスゴドラに指示を出す。 マッハパンチを十発食らったところで、ボスゴドラは倒れない。 だが、バトルの厳しさというものは、一度心に植え込まれれば、トレーナーとして大切なものを手放させない楔になるのだ。 ボスゴドラは咆哮を上げると、尻尾を激しく地面に叩き付けた!! 刹那、激しい揺れがフィールド全体を襲う!! 「うわっ!!」 突然の揺れに、リュウトは尻餅を突いてしまった。 キノガッサも、揺れに足を取られてその場に転倒してしまったが、すぐに起き上がってボスゴドラに迫る!! 地震は、地面タイプの強力な技で、フィールド全体に効果を及ぼす。 ダブルバトルという形式では、仲間にすらダメージを与えかねない大技だけに、使いどころが難しい。 「……そうだ、さっきと同じじゃ、アイアンテールを食らって、今度こそ戦闘不能になる……!!」 ――同じ手が二度も通用するとは思わないことね。 アヤカの厳しい言葉が、胸に突き刺さる。 リュウトは立ち上がりながら、キノガッサに指示を出した。 「キノガッサ、キノコの胞子!!」 「……!!」 アヤカの表情が怪訝に歪む。 キノガッサは大きく跳躍すると、頭のカサの突起から、無数の胞子を放出した!! キノコの胞子は、胞子の毒性によって相手を確実に眠らせることができる技だ。 ただし、ポケモンが持つ身体的特徴である『特性』や、神秘の守りといった技で無効化されることがあり―― 言い換えれば、無効化されなければ確実に効果を発揮する。 「なかなか考えるようになったわね。 搦め手から攻めるのも、立派な戦い方だと、あなたにはちゃんと教えた覚えがあるもの。 でも……」 いくらキノコの胞子が強力でも、それを食らわなければいいのだ。 「ボスゴドラ、吹雪!!」 アヤカの指示に、ボスゴドラが口から吹雪を吐き出した!! 氷点下の風が大粒の雪を運び、叩きつけるようにキノガッサに襲いかかる!! 「ああっ、キノガッサ!!」 キノコの胞子はあっという間に吹き散らされて、吹雪がキノガッサを襲う!! 草タイプのキノガッサは、氷タイプの技である吹雪によって大ダメージを受けてしまう。 ただでさえアイアンテールで大ダメージを受けているのに、ここで弱点の攻撃を受ければ、ひとたまりもない。 だが、いかに氷点下の吹雪であっても、キノガッサの闘志まで凍てつかせることはできなかった。 「キノ〜ッ!!」 キノガッサは残った力を振り絞って叫ぶと、吹雪を突き破って、ボスゴドラに迫る!! 「なかなかやるじゃない!! 見せてみなさい、あなたの力を!!」 「よーし、マッハパンチだ!!」 キノガッサが、渾身の力を込めてマッハパンチを放つ!! ごっ!! またしてもボスゴドラの腹にパンチが突き刺さり、ボスゴドラはわずかに仰け反った。 ダメージとしては小さいものではないが、深刻に受け止めなければならないほど大きなものでもない。 ボスゴドラにパンチを放ったままの体勢で、キノガッサの動きが止まる。 「…………」 力尽きたキノガッサは、そのままボスゴドラにもたれかかる形でその場に倒れこんだ。 「キノガッサ!!」 居ても立ってもいられず、リュウトはキノガッサの名を叫んで、駆け寄った。 もう決着はついた。アヤカなら、これ以上相手に攻撃を加えることはないだろう…… アヤカも、倒れたキノガッサに駆け寄った。 「キノガッサ、大丈夫……?」 「キノ〜……」 リュウトが抱き上げて声をかけると、キノガッサはうっすらと目を開き、満足げに頷いた。 敗北の悲しみよりも、精一杯戦ったという満足感の方が圧倒的に大きいといった様子だ。 「よく頑張ったね。ありがとう……ゆっくり休んでてよ」 リュウトは頭のカサをゆっくりと撫でて、キノガッサをモンスターボールに戻した。 「あー……やっぱり負けた。 母さんのボスゴドラは強すぎるよ」 「当たり前じゃない。あなたのポケモンに負けるようじゃ、それこそ情けないわ」 リュウトが拗ねたように言うと、アヤカはニッコリ微笑んだ。 息子のポケモンに負けるようでは、凄腕トレーナーとしての名折れだ。 いずれは自分を超える時が来るだろう……だが、それまでは、簡単に超えさせない壁としてその前に立ちはだかろう。 「でも、あなたはわたしが教えたことを見事に出し切ったわ。 これなら、トレーナーとして旅に出ても十分通用するはずよ」 「え、本当!?」 「ええ、本当よ」 喜びに表情を輝かせて見上げてくるリュウトに、アヤカは大きく頷いた。 「まあ、上を見ればキリがないんだけど……当分は大丈夫かもね」 欲を言えば、それこそキリがなくなるだろうが、当面はこの調子で頑張ってもらえればいいだろう。 「でも、努力は怠らないこと。 明日の自分は、今日の自分より少しでも強くなること。 どんな形だっていいわ。 いつまでも同じままじゃ、絶対に先に進めなくなるからね」 「うん!!」 「いい返事ね。やっぱりわたしの息子だわ」 旅には危険がつきものだ。 心配な気持ちはあるが、それよりも、息子がこれからどんな風に成長してゆくのかを想像すると、むしろ期待が大きく膨らんでいく。 「それより……」 このままここで何をするわけでもなく時間を過ごすのは無駄だと思い、アヤカはリュウトに言った。 「キノガッサを回復させてあげなさい。 精一杯戦った仲間を労わるのも、トレーナーとして大切なことよ」 「うん」 リュウトは頷くと、フィールドの端に申し訳なさそうに佇む中型の機械に駆け寄った。 様々なボタンがついた台には六つの窪みが穿たれ、それぞれの窪みに、モンスターボールをはめ込むことができる。 新型の回復装置で、戦いで傷ついたポケモンの体力を回復させることができるのだ。 ボールをセットして、真ん中の赤いボタンを押すと、装置が唸りを上げて作動した。 生物が本来持つ新陳代謝を超加速させて、治癒力を極限まで高めることで、一分とかからずに傷を癒し、体力を回復させることができる。 ただ、治癒力を無理に高めることで生ずる弊害はあるが、人間や他の動植物よりも生物的に屈強なポケモンなら、影響は一切ない。 唸りを上げて作動した装置を背に、リュウトはバトルフィールドに身体を向けた。 このジムで生まれ、このジムで育った少年にとっては見慣れた場所でしかない。 だが、もうすぐこのジムを発つことを考えると、ありふれた場所のありふれた景色がいかに大切なものであるかと気づかされる。 「…………」 一度旅に出てしまえば、すぐに戻ってくることはないだろう。 旅先でこの景色に想いを馳せたら、ホームシックになってしまうかもしれない。 地面から迫り出した岩の柱をじっと見ていると、アヤカがボスゴドラを連れて歩いてきた。 「ほらほら、もうすぐ広い世界に旅立とうとする若人が、なんて顔してんの」 からかうように言って、息子の額を軽く指で弾いた。俗に言うデコピンである。 「……そんな顔してたの?」 「まったく……」 リュウトは言われるまで、自分がどんな表情をしていたかなど、気にも留めていなかったらしい。 これには、怒るどころか呆れてしまう。 お世辞にも、これから広い世界へ旅立とうとする、希望と不安に満ちた表情ではない。 むしろ…… 「住み慣れた家を追われる人みたいじゃない……」 アヤカは言葉にこそしなかったものの、胸中でつぶやいてため息を漏らした。 少なくとも、自分が旅立った時は、そんな腑抜けた表情は見せなかった。 今でこそ離れ小島で隠居生活を楽しんでいるものの、彼女の親はとても厳しく、腑抜けた表情など微塵でも見せようものなら、 掌が唸りをあげて飛んでくる。 正直、いい思い出はそんなに多くない。 とはいえ、自分も親のようにそこまで厳しくしようとは思わないが。 「キノガッサの回復が終わったら、あなたにお遣いを頼みたいんだけど、聞いてくれる?」 「うん。どんなお遣い?」 リュウトは興味深げな眼差しをアヤカに向けた。 お遣いといえば、買い物だとか、ご近所さんに届け物だとか、といった程度のものが多かったのだが、 最近は街の北西部に壮麗な本社ビルを構えるデボンコーポレーションに、大切な書類を届けに行くという、重要な任務が多くなってきた。 「大切なものだから、途中で落としちゃダメよ」 初めてデボンコーポレーションの本社ビルにお遣いを頼まれた時は、分厚い書類の束が詰まった茶封筒を渡されて、 そんなことを延々と念を押すように言われたものだ。 だが、何度かそういったお遣いをこなしていくと、慣れというのは実に恐ろしいもので、 大切なことであるにもかかわらず、次はどんなことをするんだろうという期待とドキドキで楽しみになる。 「今回のお遣いはね……」 リュウトが楽しみにしているのを見て、アヤカは笑みを深めた。 「ちょっと遠いところまで行ってもらおうかと思ってるんだけど……」 「遠いところ……って、どこ?」 「ミシロタウンまで行ってもらおうかな」 「え? ミシロタウン!?」 予期せぬ町の名を出され、リュウトは飛び上がらんばかりに驚愕した。 せいぜいが隣町のシダケタウンやトウカシティだと思っていたのだが、母親の口から飛び出したのは、 徒歩なら往復で十日はかかろうかという距離にある町なのだ。 生まれてこの方、旅行でもしなければ、この街を出ることもなかったのに、お遣いで別の町に赴くことになろうとは…… 「オダマキ博士って知ってるでしょ。三ヶ月くらい前に電話で話したの、覚えてると思うけど」 「うん……髭生やしたおじさんだよね」 「……まあ、そうね」 アヤカは一瞬、表情を引きつらせたが、リュウトが気づく前に笑顔に戻った。 オダマキ博士と言えば、ホウエン地方のオーキド博士と呼ばれているほどの優秀な研究者である。 妻であり同じく研究者のカリン女史と、様々な分野の研究を行っている人物なのだが…… 「髭生やしたおじさんって……まあ、確かにそんな印象なんだけど、だからって何もそんな言葉で表さなくても……」 リュウトが口走った一言は、確かにオダマキ博士という人物の第一印象ではあるのだが、 さすがにそこは子供と言うべきか、実に単純明快な表現方法である。 無精髭を生やし、白衣に短パン、サンダルといった出で立ちで、 愛用のバギーを走らせてはフィールドワークに勤しんでいるという逸話は有名だ。 インドア派が圧倒的多数を占める中、フィールドワークを専門とする異質な存在であり、研究者らしからぬ出で立ちは、さらに目立ってしまう。 だから、リュウトが『髭生やしたおじさん』と言ってしまうのも、あながち理解できないことではない。 「ミシロタウンに住んでるんだよね、オダマキ博士って」 「そうよ。 で、お遣いっていうのは、そのオダマキ博士に届け物をして欲しいのよ。 ダーリンから預かった小包なんだけど、手違いでこっちに届いちゃったらしくてさ…… かといって、今さらダーリンに送り返すわけにも行かないから、どうせならあなたに届けてもらおうと思ってね」 「え、父さんが? 間違えるんだね、そういうとこ……」 リュウトは意外に思った。 ミシロタウンという、彼にとっては未知なる場所だけに、冒険心をくすぐられるお遣いではあるのだが、 今はそれよりも、今は父親が届け物の送り先を間違えるようなポカミスをするのだということの方が不思議でたまらなかった。 というのも、リュウトの父ダイゴは、ホウエンリーグの頂点に立つチャンピオンだったのだ。 様々な大会に来賓として招かれたり、他の地方の役員と懇談を行ったりと、給金に見合った多忙な業務を日々こなしていた。 後進に道を譲ると言って、華々しい世界から身を退いたのが五年前。 その頃は、公式大会であるホウエンリーグに出場するのがブームになっていて、若き逸材が続々と誕生した時期でもあった。 そのため、チャンピオンを退いてもなお、様々な場所から講演依頼が舞い込んだり、実技指導の講師を頼まれたりと、 チャンピオンだった頃と大して変わらない日々を送り、今に至る。 たまに帰ってきては、息子のリュウトと二、三日一緒にいたかと思うと、すぐに飛行機で別の地方へと旅立ってしまう。 ある意味どうしようもない父親ではあるが、リュウトは父の強さと優しさに強い尊敬を抱いている。 父親としてどうかは分からないが、少なくともチャンピオンとしてはパーフェクトな姿をテレビで見てきたこともあって、 父親が手違いをするということが信じられなかった。 あんぐりと口を大きく開けたリュウトに、アヤカが諭すように言った。 「誰にだって間違いはあるわ。 わたしだって、あなたがお腹の中にいる時にジム戦をしちゃったから、危うく流産しそうになったのよ」 「げ……」 突きつけられた言葉に、リュウトは表情を引きつらせた。 驚愕で固まったリュウトを、それ見たことかとボスゴドラがニヤニヤしながら見つめている。 「まあ、それは確かに反省すべきところだし…… だからね、あの人がミスをすることだって、そんなに珍しいことじゃないの。そこんとこは勘違いしちゃダメよ」 「う、うん……」 知らなかった。 危うく流産するところだったとは……笑い事ではないが、それを笑って済ませる母親の豪胆さには平伏してしまう。 下手をすれば生まれていなかったと言われ、脳天に槌を振り下ろされたような衝撃に襲われた。 完全に唖然とした息子にデコピンを食らわせて、アヤカが言った。 「それはそれとして……オダマキ博士に届けてもらいたいものがあるわけ」 「うん」 ようやっと立ち直ったリュウトは、ぎこちない仕草で頷いた。 あまりに衝撃的なことを言われて、表情が引きつったままだ。 「ほら、さっきも言ったでしょ」 そんな表情を見るに見かねて、アヤカがリュウトの頬をパンパンと軽く叩く。 「これから広い世界に旅立とう!! ……っていう若人が、そんなシケた顔しちゃダメだって。 さっきも言ったばっかでしょ」 「あ、う、うん……!!」 リュウトは慌てて表情を引き締めた。 「さすがに歩いていくのは遠いから、今回はわたしのフライゴンを貸してあげる」 「え、フライゴンに乗っていいの?」 「今回だけは特別よ。用事で行くんだからね」 キラキラ目を輝かせる息子に、アヤカは神妙な面持ちで釘を刺した。 一言も注意しなかったら、フライゴンの背に乗って、地平線の彼方まで飛んでいってしまうかもしれない。 ちなみに、フライゴンはアヤカのポケモンで、空を飛ぶことができる唯一の手持ちだ。 「一人で行かせて大丈夫かしら……」 リュウトはフライゴンが大のお気に入りで、アヤカがモンスターボールから外に出すたびに、背中に乗せろと騒いだり駄々を捏ねたりする。 実際にその背に乗って空を飛んだことがあるから分かるのだが、確かに爽快だ。 風と一体になれたような気がして、どこまでも飛んでいきたいと思うのは当然なのだが…… リュウトはのんびり屋な一面とは裏腹に、一旦物事に集中し出すと、なかなかやめない粘着質な性格なのだ。 「じゃあ、早速行こう!!」 リュウトは拳をギュッと握って頭上に掲げて、「おーっ!!」と自分でかけ声まで発したのだが、 「キノガッサを置いていくわけ?」 「あ、いけね……そうだった……」 アヤカに突っ込まれて、慌てて回復装置からキノガッサのモンスターボールを取り出した。 ああでもない、こうでもないと話している間に、キノガッサは回復を終えていたのだ。 言われなければ、危うく忘れるところだった。 「やれやれ、さすがにまだ子供ね……」 アヤカはため息を隠そうともしなかった。 すぐに周りが見えなくなるのは、悪い癖だ。 旅をしたら、その癖も少しはマシになるだろうか……そう思いつつ、 「フライゴン、出てきなさい」 フライゴンのモンスターボールを頭上に投げた。 天上のライトと重なった瞬間にボールは口を開き、中からフライゴンが飛び出してきた。 「あ、フライゴン!!」 「ごぉぉぉ……」 リュウトはフライゴンが飛び出すなり、思いっきり抱きついた。 フライゴンは迷惑するかと思ったら、飛び込んできたリュウトをガッチリと前脚で抱きしめている。 リュウトがフライゴンを気に入っているように、フライゴンもやんちゃ盛りのリュウトのことを気に入っているのだ。 トレーナーの息子ということもあって、自分の息子みたいに見ている節すらある。 「困ったものね……」 じゃれ合うリュウトとフライゴンの様子を見ながら、アヤカは肩をすくめた。 肩越しにボスゴドラを見やると、ボスゴドラも大げさに肩をすくめるポーズを見せた。 「今からその届け物を持ってくるから、そこで待ってなさい」 「はーい」 フライゴンにじゃれ付いたまま、リュウトは返事をした。 気のせいか、生返事に聞こえたので、アヤカはフライゴンにも釘を刺しておいた。 「フライゴン、リュウトにせがまれたからって飛んじゃダメよ。 ボスゴドラの冷凍ビームが飛ぶわよ、忘れないでちょうだい」 「ごぉぉぉ……」 にこやかに脅迫され、フライゴンはビクッと身体を震わせると、何度も何度も頷いた。 これだけ言っておけば大丈夫だろう。 アヤカは監視役のボスゴドラをその場に残し、リビングに取って返した。 届け物は子供でも持てるほどの大きさだ。 フライゴンなら、落とさずに届けてくれるだろう。 アヤカが戻っていくと、リュウトはフライゴンの柔らかくて暖かなお腹から顔を離し、リビングへ続く通路を振り返った。 だが、通路の脇にはボスゴドラが仁王立ちして、じっとこちらを見つめている。 妙なマネをしないように、見張っているのだ。 「はあ……母さんもやりすぎだよ。いきなり飛んだりしないのに」 リュウトはため息混じりに漏らした。 ボスゴドラを監視役にしなくても、建物の中でフライゴンが満足に飛べるはずなどない。 それでも心配だから、ボスゴドラを残したのだろう。 「でも、またフライゴンの背中に乗って飛べるね」 「ごぉぉ……」 リュウトのキラキラした眼差しを受けて、フライゴンもうれしそうな表情になった。 人を乗せて飛ぶのが大好きなポケモンだったりするのである。 ドラゴンタイプを持つだけあって、体格は立派なものだ。 ボスゴドラの隆々しさと比べれば細身だが、それでも普通のポケモンと比べれば雲泥の差。 赤い縁取りがされた二枚の翼は、軽く羽ばたいただけで風を起こし、砂嵐を生むことができると言われている。 また、目は赤い膜で覆われていて、砂が入らないようになっているのだ。 ほどなく、アヤカが小包を手に戻ってきた。 「これがお届け物?」 「そうよ」 駆け寄ってきたリュウトに、アヤカが小包を渡す。 二十センチ四方の小包で、それほど重くない。 小包に目を落とし、何が入っているのだろうと想像する。 何かの資料だろうかと思ったが、それならB4やA4の定形だろう。かといって、金属の物体が入っているとも思えない。 いろいろと想像を巡らせていると、頭上から言葉が飛んできた。 「気になるのは分かるけど、開けちゃダメだからね」 「分かってるよ」 いかにも子ども扱いな言葉に、リュウトは顔を上げて反論したが、アヤカの表情はニコニコのまま変わらなかった。 確かに自分は子供である……リュウトにもそれくらいの自覚はあるのだが、不必要に子ども扱いされるのは嫌だ。 「これをオダマキ博士に届ければいいんだね」 「そうよ」 「じゃあ、行ってきます!!」 「行ってらっしゃい」 アヤカは駆け出すリュウトに手を振った。 ズボンのポケットからリモコンを取り出すと、天井に向けて、ボタンを押す。 すると、天井が音を立てて左右に開き、青空が頭上に広がっていくではないか。ジムの屋根はリモコンで開閉できるようになっているのだ。 フライゴンの背に乗ったリュウトが、指示を出す。 「フライゴン、飛んで!!」 「ごぉぉ!!」 嘶くと、フライゴンは頭上を見上げた。 雲ひとつない青空が広がっている。 翼を広げ、思い切り羽ばたくと、その身体が少しずつ舞い上がっていく。 「オダマキ博士によろしく伝えといてね!!」 「うん、わかった!!」 リュウトは手を振るアヤカに大きく頷いた。 あっという間に屋根を飛び越えて、北西に見えるデボンコーポレーション・本社ビルが誇る壮麗なオベリスクと同じ目線に立つ。 ここまで来ると、カナズミシティを一望することができるし、街の外――西に広がる海や、北東の死火山、東の港まで見渡せる。 「フライゴン、目的地はあっちだよ!! Ready Go!!」 リュウトは南東を指差した。 その先には、空前の発展を遂げるカナズミシティとは比べ物にならないような田舎の景色が広がっている。 これから向かうミシロタウンは、ホウエン地方でも一、二を争う田舎町だ。 もちろん、これは悪口以外のなんでもない。 南に港を擁しているが、あくまでも船着場程度のもので、実質的には港でもなんでもない。 定期船が往来する程度で、その頻度も数日に一便程度。 そんな田舎町だが、不必要にうるさい都会よりは居心地の良さを感じる。 フライゴンが翼を水平に広げ、空を滑り出す。 「うーん、気持ちいい!!」 リュウトは小包を両手でつかんだまま、大きく息を吸った。 都会の空気は新鮮なものではなく、むしろどこか暑苦しさや息苦しさを覚えるもの。 久しぶりに上空の新鮮な空気を吸い込んで、リフレッシュした気分だ。 ゆっくりとカナズミシティから遠ざかっていく。 フライゴンが本気で飛んだなら、リュウトなどあっさりと振り落とされてしまうだろう。 速度は落ちてしまうが、大事な『息子』を遥か眼下の地面に落としてしまうわけにはいかない。 フライゴンはフライゴンなりにリュウトに気を遣って、ゆっくりと、優雅に空の旅を楽しんでもらおうと決め込んでいた。 一方リュウトは、眼下に広がる景色に目を輝かせていた。 カナズミシティの南には、トウカの森と呼ばれる森林地帯が広がっている。虫や草タイプのポケモンが多く住んでいる場所だ。 旅に出れば、いずれはこういった場所にも足を踏み入れることになる。 「早く旅に出たいなあ……」 幼い頃から一緒にいたキノガッサと、広い世界に旅立ってみたい。 いろんな人と出会ったり、バトルしたりと、やってみたいことは星の数ほどもある。 このお遣いが終わったら、五日後には旅に出られるのだ。 目前まで迫った、トレーナーとしてのスタートラインを見やり、リュウトは期待で表情を輝かせるばかりであった。 眼下に広がる自然豊かな大地を見下ろし、フライゴンの背で風を感じる空の旅は、瞬く間に終わりを告げた。 正午過ぎに、ミシロタウンに到着した。 「ここがミシロタウンかぁ……やっぱり、カナズミシティと比べると小さいなあ……」 リュウトは周囲に広がる色濃い自然に、感嘆のつぶやきを漏らした。 後半の件を町の人に聞かれていたら、問答無用で拳骨を喰らいそうだったが、幸いなことに、周囲に人の姿はなかった。 とはいえ、リュウトが『小さい』と言いたくなるのも分かる。 目の前にある道は、土をローラーで踏み固めたようなもので、アスファルトによる舗装はされていない。 カナズミシティと比べるなら、メインストリートのように、赤レンガを敷き詰めてもいない。 普通に歩いて、普通に車が走れれば問題ない、といった程度のつくりだが、むしろそれが周囲の緑と合わさって、自然で素朴な印象を引き立てている。 建ち並ぶ家屋は小ぢんまりとして、自然の中でひっそりと生きているような雰囲気をかもし出す。 「でも、風が気持ちいい〜」 吹き抜けるそよ風が、肌に気持ちよかった。 カナズミシティの、妙に生温くてねっとりとした風とは明らかに違う。 都会と違った新鮮な空気を満喫しながらも、リュウトは周囲を見渡し、とあるコトに気づいた。 「あ、そういえば、どこがオダマキ博士の研究所なんだろう……」 オダマキ博士に小包を渡せと言われてやって来たのはいいが、肝心のお届け先を聞くのを忘れてしまった。 携帯電話など持たせてもらっていないから、アヤカと連絡を取るのは無理だし、かといって今からカナズミシティに戻るなど、とても考えられない。 「誰かに訊くしかないなあ……」 同じ町の住人なら、研究所がどこにあるのかくらい知っているだろう。 そう思って道を見てみると、ちょうど若い女性が通りかかった。 「あの、すいません」 「……?」 駆け寄って声をかけると、女性は振り向いてきた。 リュウトとフライゴンを交互に見つめながら、見慣れない顔ね……と、女性の目が物語っている。 「オダマキ博士の研究所ってどこですか?」 「ああ、研究所はあっち」 リュウトの問いに、女性は右手を指差した。 顔を向けると、小高い丘へと向かって道が続いているのが見えた。 「あのまま進んでいけば、研究所が見えてくるよ。 建物は一戸しかないから、見間違うことはないと思うけど……それより、そのフライゴンは坊やの?」 「ううん、母さんのフライゴンなの」 「ふーん……そうなんだ……」 女性はなにやら懐かしげな眼差しをフライゴンに向けていたが、やがて顔を逸らし、 「じゃ、あたしはこれで……」 「ありがとうございました!!」 指差した方向とは逆に歩き出す直前、女性はニコッと微笑んだ。 リュウトの元気のよさに感心しているようにも見えたが、すぐに背中を向けて歩き出したから、その理由を訊ねることもできなかった。 「なんか、すっごい美人だったなあ……母さんも、ぼくを産む前はあんな美人だったんだろうな……」 遠くなっていく後ろ姿を見つめながら、リュウトは思った。 美人と一言で形容しても、中身については様々なジャンルがある。 知的とか、ワイルドとか……だが、今の女性は気立てがよさそうな印象を受けた。 アヤカは今でも十分に若いが、目の前の女性と比べれば、少々負けているのかもしれない。 もっとも、そのようなことを面と向かって口にしようものなら、本気でお尻を引っ叩かれてしまうだろう。 やがて女性は道の向こうに姿を消し、リュウトはポツンとその場に取り残された。 元々人口の少ない町であり、真っ昼間ということを考えれば、それほど人が多く出ているはずもない。 「とりあえず場所は分かったし、行こう、フライゴン」 「ごごぉ……」 フライゴンは大きく嘶くと、翼を広げて舞い上がった。 意気揚々と道を歩き出したリュウトの傍にピタリとついて、音もなく翼を動かす。 丈夫な翼はそれなりに重量があり、羽ばたく時にはどうしても音が立ってしまうものだが、 アヤカのフライゴンに限っては、無音飛行を可能とする。 それだけよく育てられているということだが、リュウトはフライゴンが羽音を立てていないのを不思議とは感じなかった。 女性に教えられた道を五分ほど歩いていくと、少し大きな民家が見えてきた。 ただ、一目見ただけでも、それが普通の民家だとは思わなかった。 見間違うことはないと女性は言っていたが、まさに一目見て、それが研究所だと分かる佇まいだった。 屋外にコンプレッサのような機械が置かれ、何かのイキモノの角らしき突起が屋根から生えていたりと、明らかに普通の民家ではない。 「あそこがオダマキ博士の研究所なんだな……」 研究所というのは、みんなこういう風に見た目が変わったものばかりなのだろうか。 小高い丘の傍に研究所を望みながら、不意にオダマキ博士の研究者らしからぬルックスを思い出し、 研究者って変わった人が多いのかも……と思った。 フライゴンがついている状態で、小包を取ろうなどと思う輩などいないのだが、リュウトは小包を両手でしっかり握りしめていた。 そうやって歩いていくと、研究所にたどり着いた。 「ここに来るのって初めてだけど、やっぱりいろんなポケモンがいるのかな……?」 研究所とは言っても、家が二棟合わさった程度の大きさでしかない。敷地は広いのかもしれないが、周囲にポケモンの姿は見られない。 野外に放すより、モンスターボールに入れているのかもしれないと思った。 リュウトは手を伸ばして、インターホンを押した。 呼び出し音が聞こえ、少しずつ小さくなっていく。 完全に消えるか消えないかといったところで、中から返事が来た。 「はーい、今行きま〜す」 妙に間延びした男性の声だ。 聞き覚えはあるのだが、誰だったのか思い出せない。ドアを間に挟んでいるせいか、くぐもって聞こえたのだ。 「誰だろ……でも、研究所の人だよね、きっと」 リュウトは無理に思い出そうとせず、近づいてくる足音に、背筋をピッとまっすぐに伸ばした。 いくら子供とはいえ、礼儀は大切だと、アヤカからみっちり仕込まれてきたのだ。 足音は大きくなり、すぐ傍で止まった。 カギを開けて、ドアが押し開かれる。 「あ……」 「お……?」 ドアの向こうに立っていたのは、白衣をまとった二十歳過ぎの青年だった。 短く刈られた白い髪――これは元々こういう色だったらしく、白髪というわけではないらしい――に、 美形とは言えないが、それなりに整った顔立ちをしている。 白衣もそれなりに似合っているが、今時のファッションを身につけさせても、似合うのかもしれない。 「よお、坊主。元気にしてたか?」 青年は友達に会ったような気さくな口調で話しかけてくると、身をかがめてリュウトの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。 「坊主じゃないよ、もうすぐトレーナーになるんだから!!」 あからさまに子ども扱いされて、面白いはずがない。 リュウトは口を尖らせ、背伸びしながら言葉を返した。 子ども扱いするが、悪気があるわけではない。 それが分かっているから、必要以上に言葉を返せなかったのだが…… 知ってか知らずか、青年は「はっはっは」と肩を鳴らして笑った。 「まあ、そりゃいいとして……どうしたんだ、いきなりやってきて。 そのフライゴン、アヤカさんのだろ。 一人で来たのか?」 「うん」 リュウトは頷いて、青年の視線を追う形でフライゴンに振り返った。 「ん〜、やっぱりよく育てられてるよな。 おまえのようなやんちゃ坊主をちゃんとここまで運んでくるんだから」 「むーっ、また坊主って言った〜!!」 冗談のつもりで言った青年に、リュウトは頬を膨らませて反論した。 坊主、坊主と呪文のように連呼されると、さすがにいい気分はしない。 冗談だと分かっていても、それは同じことだ。 自分の半分ほどしか生きていないやんちゃ盛りの少年が地団太を踏んでいきり立っているのを見やりながら、ふっと息を吐いた。 「少なくとも、俺がこいつと同じくらいの年の頃は、もっと素直で理知的だったんだがな……誰に似たんだか」 口に出しては言えないことも、心の中でなら誰にはばかることなく自由に言える。 それでも、昔の自分を見ているような気がして、知らず知らずに笑顔になる。 「…………」 なぜ笑顔を向けられているのか分からず、リュウトは怪訝そうな顔で首をかしげた。 十歳の子供には、昔の自分を見ているという感覚がまるで理解できていなかったのだ。 「ま、いいや。 それより、ホント久しぶりだよなあ。一年ぶりくらいか。一年も経つと、それなりに背も伸びるんだよなあ……」 「うん。ぼくは大きくなったけど、ユウキ兄ちゃんはあんまり変わってないね」 「そりゃ、大人だからな……おまえのように育ち盛りな時期はとっくに過ぎちまったんだよ」 ユウキと呼ばれた青年は、リュウトのさり気ない嫌味――本人も意図して言ったものではないらしい――をサラリと避わしてみせた。 二十三歳の彼は、白衣をまとっているところからして、研究者である。 何を研究しているかと言うと、父親のオダマキ博士と、母親のカリン女史の三人で、ポケモンに関する研究を行っている。 四十を過ぎてもなお、オダマキ博士の探究心と体力は衰えを知らないらしく、ほぼ毎日のように愛車のバギーを駆って、 フィールドワークに勤しんでいる。 もっとも、若い頃からそういった精力的な活動をこなしてきたからこそ、体力の衰えがないのかもしれないが…… 対するカリン女史は、インドアワークを得意とする研究者だ。 一般的な研究者はインドア派で、オダマキ博士のようにフィールドワークを専門とする研究者は圧倒的に少数だ。 インドアとフィールドという正反対の分野を得意とする両親の血を受け継いだらしく、 ユウキはどちらも卒なくこなすだけの素養と実力を備えている。 特に知識に関しては、三倍以上生きているであろう研究者とも対等に渡り合えるほど豊富で、両親も鼻が高いという。 「で、わざわざこんなトコまで来て、どうしたんだ?」 「うん。これをオダマキ博士に届けに来たんだ」 促され、リュウトは手に持った小包を渡した。 「これを親父に……?」 ユウキは小包を上から右から下から見やり、首をかしげた。 差出人は、リュウトの父親でダイゴとなっているが、宛先がカナズミジムになっている。 折り目正しいような人格者とは思えない乱れた字体から見て、大方、慌てて書いたため宛先を間違えたというところだろう。 どうでもいいことだと思いながら、小包を軽く握り拳で叩いてみる。 手ごたえから、中身が分かった。 「なるほど、そういうことか」 「え、何が? どうしたの?」 ニヤリと笑みを浮かべるユウキに、リュウトが問いかけた。 何がどうしたというのか、まるで分からない。 興味津々といった様子の少年に、ユウキが一言。 「ダイゴさんからのプレゼントって感じがしてさ……こりゃ親父も喜ぶだろ」 「プレゼント……父さんがプレゼントするの? オダマキ博士に?」 「まあ、そんなモンだ」 リュウトも、父親がオダマキ博士からかなり世話になっていることくらいは知っている。 だから、お礼にとプレゼントを贈るのも、分からなくもない。 「親父宛だっていうんなら、これはちゃんと親父に渡しとこう」 「……オダマキ博士、いないの?」 「ああ。三十分くらい前にバギー走らせて103番道路に行っちまってさ。 詳しい話は聞かなかったんだが、何でも『毛色の違うポチエナを見た』って情報があったとかなかったとか…… まあ、そんなわけで親父は当分帰ってこないんだ」 「そうなんだ……」 リュウトはガクリと肩を落とした。 久しぶりに髭のおじさんこと、オダマキ博士に会えると思ったのに、ついさっき出て行って、入れ違いになったとは…… ユウキは残念がるリュウトの肩に手を置いた。 思わず見上げた青年の顔には、陽気な笑みが浮かんでいた。 「でも、せっかくここまで来てくれたんだ、上がっていけよ。 子供が大好きなお菓子くらい、ウチにもあるからさ」 「また子供って!!」 「はっはっは。ほら、来いよ」 肩を怒らせて声を上げるリュウトに豪快な笑みを向けたまま、ユウキは研究所兼自宅に入っていった。 「……むぅ……」 どうやら、反論すればするほど、調子に乗って『コドモコドモ』と言わせてしまうのかもしれない…… やっと、リュウトはそのことに気づいた。 そうやって無理に背伸びするから、子供だと呼ばれるということも。 「それってもしかして、ユウキ兄ちゃんなりの誉め言葉……なのかな?」 不意に思う。 ユウキはリュウトが子供だからといって、あからさまにバカにしているわけではない。 むしろ、同じ目線に立って、昔から知っているような――事実、彼はアヤカと十年来の知り合いだ――口調で話しかけてくれる。 まるで、友達みたいな感覚だ。 年上のお兄さんで、研究者となれば、ずいぶんと堅苦しいのではないか…… という先入観を抱かれることも少なくはないと、ユウキはよく笑いながら話してくれた。 なんて、いろいろと考えを巡らせていると、開けたままのドアの向こうから顔だけを出して、ユウキが急かしてきた。 「おーい、早く来ないとお菓子食っちまうぞ〜」 「分かったよぉ!! フライゴン、適当にくつろいでて。帰る時になったら、呼ぶからさ」 お菓子を食べられてはたまらない。 リュウトは慌ててフライゴンに言葉をかけると、屋内に入った。 「やっぱガキだよなあ……あんな手に引っかかるなんて」 出迎えたユウキが、ニヤニヤと笑っていた。 本気でお菓子を食べようと思っていたわけではない。 むしろ、甘すぎるお菓子は苦手だ。 背伸びする子供を引っ掛けるのには、それくらいしか手段が思いつかなかっただけ。 リュウトが靴を脱いで、ちゃんと揃える様子を見て、目を細める。 「へえ、ちゃんと礼儀は弁えてるんだな……偉い、偉い」 今時の子供は、脱いだ靴など揃えることさえしない。 親が子供に、礼儀についてちゃんと教えないのが一番の原因だろう。 「んじゃ、行こうぜ」 「うんっ」 リュウトが立ち上がるのを待って、歩き出す。 フローリング張りの、いかにも洋風でモダンな廊下を歩いていくと、リビングに出る。整理整頓がなされたリビングには誰の姿もない。 一家全員が研究者なのだから、研究に没頭している時は食事だって忘れてしまうことだってあるかもしれない。 その割にはずいぶんと小奇麗なリビングを抜けて、さらに別の廊下を進んでいくと、研究室にたどり着く。 半分ほどが意味不明な機械と、モンスターボールが並べられた棚によって占拠された一室。 研究室と呼ぶにはあまりに狭い部屋だが、住人はその狭さを気にしている様子すらない。 鼻歌など交えながら、楽しそうにパソコンと向き合っている。 「母さん、珍しいお客さんが来たぜ」 ユウキは凄まじい勢いでキーボードを叩いている女性に声をかけた。 「うん? 珍しいお客さん? 一体……」 ユウキと同じく白みがかった髪を背中で束ねた、同じく白衣の女性がユラリと振り返ってくる。 顔の右半分が見えたところで一気に振り返り、 「だ〜れ、だっ!?」 「うわっ……!!」 お化けのような表情で、それっぽい声を出しながら振り返ってきたものだから、リュウトは思わず腰を抜かして、尻餅を突いてしまった。 「あはははは、ゴメンゴメン……」 お化けのような表情で振り返った女性は、ニコッと笑みを浮かべながら、謝る気などサラサラなさそうな声で謝ってきた。 「おばさん、ひどいよ……」 本気で涙目になりながら、リュウトは食ってかかるように声を出した。 悪びれる様子などないのは、見ても明らかだ。 親子で揃って、悪戯が好きらしい。 「でも、リュウトくん。久しぶりねえ。一年ぶりくらい? 結構大きくなったわねえ……前に会った時はこれくらいだったのに」 女性――カリンは、一年前に会った時のリュウトの身長を手で示しながら、気さくに話しかけてきた。 見た目は二十代後半から三十代前半といった風貌だが、実際は四十歳以上である。 本当の年齢は知らないが、四十以上であることは、アヤカから聞いていた。 さすがに、本人に直接「おばさん、歳いくつ?」などということを訊くだけの度胸はないが。 「で……」 カリンは周囲にアヤカの姿を探したが、当然いるはずもない。 「アヤカちゃんはどうしたの? まさか一人で来たとか?」 「うん、一応……でも、母さんのフライゴンを借りたんだ」 「あらまあ……偉いわねえ」 十歳の少年が、親のフライゴンを借りたとはいえ、一人でここまでやってくるのは大したものだと、カリンは素直に思った。 カナズミシティからミシロタウンに来るには、徒歩だと最低でも五日はかかる。 「一人でここまで来るなんてねえ……男の子って、ちょっと見ない間にたくましくなっちゃうんだもん。ホント、可愛いわ」 「何人目だよ、そんなこと言うの……だいたい、あいつにだって同じコト言ってたろ」 色っぽい視線をリュウトに投げかける母親に、呆れたような顔を向けたのはユウキだった。 若い男の子が相手だと、そうやって取って食おうとする姿勢を見せるのだ。 とはいえ、リュウトはその姿勢を理解するにはあまりに幼すぎて、何がなんだかよく分からなかったりするのだが…… むしろ、その方が幸せなのかもしれないと、ユウキは人知れずため息を漏らした。 いつだったか、なんでそういうことをするのかとマジメに訊ねたことがあったのだが、カリンはこんな風に答えていた。 「若い頃からの習性よ、習性。 そう簡単に直せるモノじゃないんだもん。しょうがないじゃな〜い」 悪びれる様子などカケラほども見せない。 自分で習性などと言ってのけるところからして、これから先も止めるつもりはないのだろうと思い、 ユウキはそれ以後、そんな母親を止めようとはしなかった。 「一人でここまで来るなんて、一体どうしたの?」 「親父が頼んでたアレを持ってきてくれたんだってさ」 「へえ、なるほど、アレをね……」 カリンはリュウトに訊ねたが、答えたのはユウキだった。 先ほどリュウトから受け取った小包を手渡す。 「アレ……? 一体、なに?」 リュウトは背伸びして、カリンがしげしげと眺めている小包を見やった。 研究者なら知っているようなものなのだろうか。 答えを待ったが、 「君にはまだ早いものなの。 そうねえ、あと五年くらい経ったら、見せてあげてもいいわよ」 「え〜、何、それ……」 あっさりと避わされて、ガッカリする。 そういうところは昔から変わっていない。 掴みどころがなくて、取って食うようなよく分からない性格……一年前も同じだったし、それ以前もそうだった。 ある意味、子供の扱いには慣れていると言った方がいいのかもしれない。 子供の頃から頭の良かった息子をあやしてきたのだ、それなりに脳が鍛えられているのかもしれなかった。 「でも、ここまで来てくれてうれしいわ。 ありがとう、リュウトくん」 「あ……はい」 突然ニコッと微笑みかけられて、リュウトはドキッとしながら、オイルが切れた機械のようなぎこちない動きで頷いた。 「やっぱり、おばさんはおばさんなんだな……」 掴みどころのない性格でも、優しい女性なのだ。 リュウトはホッと胸を撫で下ろした。 「せっかく来てくれたんだもん。お茶でも淹れるわ。ちょっと待っててね」 カリンは言うなり再び椅子に腰掛けて、ものすごいスピードでキーボードを叩き始めた。 「…………」 画面を凝視し、手元になど一切視線を落としていない。 ほとんど指の感覚だけでキーの位置を覚えて、思い描いたとおりの内容を入力していく……ここまで来ると、もはや神業だ。 リュウトは呆然としながら、カリンの超絶テクニックを見つめているしかなかった。 アヤカもジムの経理などでパソコンを使うことがあるのだが、目の前で繰り広げられている超絶テクニックに比べれば、 児戯もいいところかもしれない。 一応、ブラインドタッチはこなす。 それでも、カリンと比べるのは酷だろう。 「おばさん、すごい……」 川が流れるように、ディスプレイに文字が流れていく。 その様子に感動さえ抱いていると、肩を叩かれた。 振り返ると、ユウキが困ったような笑みを浮かべていた。 「先に行ってようぜ。 こうなると、止まらないんだ……茶くらいなら俺でも淹れられるし。いろいろと話も聞きたいからさ」 「うん……いいの?」 肩越しに振り返る。 ユウキとの会話など耳に入っていないと言わんばかりに、華麗なるブラインドタッチを披露している。 確かに、もう止まりそうにない。 穏やかな川も、いつの間にやら荒々しく猛り、岩をも押し流し砕く激流へと変わっていた。 いよいよキーボードを叩く音が大きくなり、叩くフリして壊すつもりではないのかと思わせるほどだ。 「いいんだよ。 ほれ、行くぞ、坊主」 「あー、なんで坊主坊主って言うんだよ〜!!」 いつの間にやら廊下に移動していたユウキが、ニヤニヤしながら言葉を投げかけてくる。 リュウトはここがどこかも忘れて大声を上げると、大股でユウキの後を追って、研究室を飛び出した。 「そりゃ、そうでも言わなきゃ、おまえは母さんのこと気にするだろうからな……」 「あ……」 どうして坊主なんて言うのかと問いただそうとした矢先、ユウキから言葉が飛んできて、喉元まで出かけた言葉も、そこで止まった。 「ま、からかい半分ってコトもあるからさ、いちいち恩なんて感じなくていいぞ」 「そうなんだ……って、やっぱりそういうことだったの!?」 「ははははは。ほら、行くぜ」 肩を怒らせるリュウトを軽く往なして、ユウキは歩き出した。 「うー……」 あっさり無視され、リュウトは頬を膨らませて、恨めしそうにユウキの背中を見つめていたが、 どう考えたところで勝ち目などないと悟り、渋々といった表情で彼を追いかけた。 場所をリビングに移し、リュウトはユウキに促されて、椅子に座った。 何をするでもなく、整理されたリビングを見渡しながら、足をぶらぶらさせる。 棚に整然と収められた食器類。 アイボリーのテーブルクロスは染み一つなく、上に置かれた花瓶の鮮やかな青さを引き立てているようにも見える。 壁際の観葉植物は天井に届きそうだが、葉っぱは青々としていて、とても瑞々しい。 そろそろ目のやり場に困って、紅茶を淹れているユウキを見やる。 「ユウキ兄ちゃんがお茶を淹れるなんて、想像もしなかったなあ……」 リュウトの視線など気にする様子もなく、ユウキはニコニコ笑顔で、鼻歌など交えながら紅茶を淹れている。 今までのイメージだと、研究者というのは研究が人生のすべてみたいなもので 、他のこと――たとえば、自分の身のまわりのことすらまともにできないような人が多いという風に思っていたのだが、とんでもない。 ユウキは、一通りの家事はこなせる。 炊事、洗濯、掃除と、いろいろと忙しいカリンに代わって、家事を担当することがあるのだ。 「でも、なんだかとっても似合ってる。活き活きしてる」 ユウキの晴々した様子を見ながら、ふと思う。 慣れた手つきで紅茶をティーカップに注ぎ、カップとお揃いのソーサーに銀のスプーンを添える。 瞬く間に、三組のティーセットをテーブルに運んできた。 「ほれ、飲みな」 「うん。いただきます」 「おう」 湯気を立てるカップに鼻を近づけると、甘いような渋いような……両方が入り混じったような匂いがした。 ユウキは流儀も慣れたもので、カップを指でつまんで、紅茶を口に含んだ。 「うーん、イマイチだなあ……もうちょっと濃くしても良かったかな」 一口飲んで、テーブルに置いたカップの中身を見ながら、ポツリつぶやく。 「……兄ちゃん、味って分かるの?」 「ん? まあな。これでも、結構こだわる方なんだ」 ユウキは口の端を吊り上げた。 自慢ではないが、これでもお茶にはこだわるタイプだ。自分で飲むお茶はもちろん、客に出すものには特にうるさい。 リュウトも一口含んでみたが、熱くて飲めなかった。 淹れてくれた人には悪いが、もうちょっと冷めてからでなければ飲めない。 その間、退屈しそうだったので、ユウキと話をすることにした。 どのみち、カリンが来るまでは帰るわけにもいかないだろうし…… 「ユウキ兄ちゃんは、トレーナーとして旅してた頃があったんでしょ?」 「ああ、ずいぶんと前になるな。十年くらい……おまえと同じくらいの年頃さ」 リュウトの問いに、ユウキは遠い目をしながら答えた。 ポケモントレーナーとしてホウエン地方を旅していたのは十年以上も前のことだが、昨日のことのように思い出せる。 あの頃は結構無茶をした。 格の違う相手にバトルを挑んだり(そこのところは今でも不可抗力だと思っているが)、 ミナモシティの研究所に、見習い研究員ということで留学したり…… 泣いたことだってあるし、逃げ出したくなったことだってある。 それらのことを乗り越えた今だからこそ、笑って話せる。 「同じ日に、ここから三人で旅立ったんだ」 「三人って……あとの二人って、友達?」 「まあな。そんな堅苦しい言い方もなんだけど……実際は親友(ダチ)ってヤツさ」 同じ日に、同じ町から複数の少年少女がトレーナーとして旅立つことなど、それほど珍しいことではない。 友達の誕生日に合わせて一緒に旅立つことだってあるし、たまたま偶然タイミングが重なってそうなっただけということもある。 どちらにしても、ユウキは友達と一緒にこの町を旅立っていったのだ。 「いいなあ……」 リュウトは友達と一緒に旅立てたユウキがうらやましかった。 というのも、リュウトの友達はすでに十一歳の誕生日を迎え、トレーナーとして旅立っていた。 他に誕生日の近い友達はいないし(誤解のないよう言っておくが、友達が少ないという意味ではない)、 誕生日にさっさと旅立っていったのだ。 「一緒に旅に出よう!!」 と、約束をしたわけでもないのだから、その友達を責めることなんてできない。 誕生日に旅立ったのは、それだけトレーナーに憧れを抱いていたからなのだ。 ちょっとだけ湧き上がった淋しさを埋めようと、リュウトは口を開いた。 「兄ちゃんは誰を選んだの?」 「キモリだよ」 「へえ、キモリかあ……」 ユウキの答えに、リュウトは期待に胸を膨らませた。 淋しさなんてあっという間に埋もれてしまう。 十一歳になった少年少女は、トレーナーとして旅立つことが許される。 旅立つ時に支給されるポケモンは、初心者にも扱いやすいとされている三体の中から選ぶ。 そのポケモンは地方によって違うらしいが、ホウエン地方の場合、炎タイプのアチャモ、水タイプのミズゴロウ、草タイプのキモリの三体だ。 いずれのポケモンも人懐っこくて、進化するととても強くなる。 初心者には扱いやすく、それでいて強くなるのだから、最初の一体として推奨されるのも当然というものだ。 ユウキが選んだのはキモリ。 後ろ足で立つ緑色のトカゲのようなポケモンで、三体の中でもっとも素早い。 体力的には進化前ということもあって劣っているが、素早い動きから繰り出される攻撃は、かなり強烈だとか。 それぞれの特徴を頭の中に思い浮かべていると、ユウキが頬杖つきながら、 お世辞にも行儀がいいとは言えない態度でリュウトに言葉を投げかけてきた。 「で、おまえは誰を選ぶつもりなんだ?」 「え? ぼく?」 前触れもなく言われ、リュウトはビックリした。 「そうだよ。だって、おまえももうすぐ十一になるんだろ。 だったら、最初の一体は決めとかなきゃな」 だが、ユウキの言葉はもっともな内容だった。 一週間後には、リュウトもトレーナーとして広い世界へ旅立つのだ。 十一歳の少年に計画性を求めるのは筋違いだとして…… 百歩譲ったとしても、最初のパートナーとして選ぶ一体は事前に決めておくべきだ。 「うーん……」 リュウトは険しい表情で、腕など組みながら、眉間にシワも寄せて、唸っている。 カップの水面に映し出された自分の顔は、まるで別人だ。 ただ、そんなことを疑問に思う余裕など、あるはずもない。 最初の一体を事前に決めておけと、アヤカから何度も言われてきた。 その場では「うん」といい返事をするものの、すぐに考えることが面倒になり、先延ばしを続けてきたのだ。 もしかしたら、今こうして真剣に考え込んでいるのは、先延ばしにし続けた問題のツケなのかもしれない。 「……そこまで悩まなくてもいいんじゃないか」 首をかしげ、「ああでもない、こうでもない」と唸っている少年を呆れたように見つめながら、ユウキが言葉をかけた。 最初のパートナーだ、悩むのも分かる。 ユウキはそれほど悩まなかったが、普通の少年少女なら、それなりに頭を悩ませるところだろう。 後々になって考えてみれば、誰を選んだところで大差ないのだ。 「そういや……おまえ、キノガッサを持ってるんだろ?」 「え、うん、そうだけど……」 リュウトは弾かれたように顔を上げて、小さく頷いた。 キノガッサは草と格闘タイプの持ち主だ。 ゲットしたわけではないが、幼少期から一緒にいることもあって、家族的な付き合いだ。 「ちなみに、おまえは誰を選ぶつもりなんだ?」 「アチャモがいいかなあって思ってるんだけど……まずいのかな?」 「いや……」 恐る恐るといった様子で意見を口にするリュウトに、ユウキは頭を振った。 「まずいって言うより、そうした方がいいってことかな。 俺の考えを無理に押し付けるつもりはねえけど、キノガッサを持ってるってことを考えれば、アチャモを選ぶのが正解ってところさ」 自分の主観とリュウトの意見が合致したのはあくまでも偶然だと、ユウキはそれを前提にしていると付け足した。 「今はまだ一体だけど、最終的には六体のポケモンでチームを組むことになる。 そうした時に、一番重要になることって、なんだか分かるか?」 「ううん、分かんない」 リュウトは首を横に振った。 ユウキの話は少し難しくて、すぐに理解するのは無理だった。 ただ、今はキノガッサしかいない。 最終的には手持ちとして許される最大限度の六体でチームを組むことになる、ということくらいは理解していた。 答えは分からないけれど…… ユウキはリュウトを急かしたりしなかった。 無理に答えを聞きだしたところで、リュウトにとっても苦痛でしかないのだ。 だから、じっくり考えてから答えさせる方が良い。 ただ、それにも限度があって、三分ほど唸ったところでタイムアップ。 「簡単さ。 いくら強いヤツばっかでチームを組んでも、そいつらの弱点が重なりまくってたら、相手に弱点を突かれて、次々に倒されちまう。 それは分かるだろ?」 「うん」 リュウトは頷いた。 バトルに『絶対』はない――という格言が生まれたのは、それほど遠い昔でもない。 アヤカから耳にタコができるくらい、よく聞かされた言葉だった。 どんなに強いポケモンでも、弱点がある。 たとえば、タイプの相性による弱点。 どんなに能力が高くても、タイプの相性から来る弱点を突かれれば、大ダメージを受けてしまうし、戦闘不能に陥ってしまうこともある。 「だから、母さんのボスゴドラだって……」 リュウトはアヤカのボスゴドラを脳裏に思い描いた。 見た目からして超体育系で、タフでパワフル、とにかく硬い。 確かに、タイプも岩と鋼を併せ持ち、物理攻撃に関する防御力なら、数多のポケモンの中でも五本の指に入るだろう。 だが、比類なき防御力の高さを持ってしても、弱点である地面、格闘タイプの技を喰らえば、大ダメージを受ける。 特にこの二種類は、岩、鋼の両方の弱点と重なっているため、他の弱点……水タイプの技を受ける時よりも大ダメージを受ける。 いわゆる『最大の弱点』と言われているものだ。 『絶対はない』とは、どんなに手強い相手にも弱点があるということから、状況が不利であっても、 勝率はゼロにはならないということを示している。 逆に、必ず勝てるバトルというのも存在しない。 能力の低さ、相性の悪さを覆して勝利を収めることもある。 技の使い方によっては、不利なバトルを勝利に導くことだってできるのだ。 『絶対』のないバトルの世界。 シビアでスリリングだからこそ、病み付きになる。 「ちっと、話がそれちまったな…… キノガッサの弱点って分かるだろ?」 「うん。氷タイプでしょ、飛行にエスパー、毒、あとは炎タイプかな……」 「正解。そこんとこは勉強してるんだな、偉いぞ」 「えへへ……」 おだてられて、リュウトも満更じゃない表情を見せた。 何かにつけて誉められると、やっぱりうれしくなる年頃なのだ。 「じゃあ、アチャモの弱点は?」 「えっと……」 誉められて舞い上がっているところに、一本の矢が飛んできた。リュウトはビックリして言葉に詰まってしまった。 「やれやれ、そこんとこはまだまだだな」 ユウキはため息を漏らした。 「水、岩、地面。 ポケモンのタイプから、弱点をすぐに割り出せなきゃ、一人前とは言えないぜ。もちっと、勉強しとけよ」 「う、うん……」 チクチク言われて、リュウトはぎこちない動きで首を振った。 トレーナーとして各地を旅して回るとなれば、数え切れないほどのバトルを経験することになる。 相手のポケモンの弱点は何なのか……とっさの判断で指示を出さなければならなくなることもあるだろう。 その時のために、今のうちに勉強しておけと、ユウキはそう言ったのだ。 「さて、アチャモの弱点はさっき話した三つのタイプだ。 なんでアチャモを選んだ方がいいかって、分かるか?」 「えっと……」 さすがに即答できなかった。 タイプの相性は一通り教え込まれたが、それを応用する段階までは至っていないのだ。 アヤカも、まだ旅に出ていない少年にそこまで教えなくてもいいと思っていたのかもしれない。 まあ、そこのところは旅に出てから、追々覚えてゆけば良いだけの話。 今から焦らせたところでしょうがない。 「アチャモの弱点を、キノガッサがすべてカバーできることさ。 ほら、よく考えてみな。 水も岩も地面も、草タイプの技に弱い」 「あっ……!!」 時間切れということで、ユウキが答えを述べる。 皆まで言われて、リュウトは小さく声を上げた。 いろいろと考えてはみたのだが、解答を導き出すには至らなかったらしい。 だが、言われてみると、喉に痞えた小骨が取れたように、スッキリとした。 「ポケモンの弱点が重ならないように考えて、なおかつ相手がどのタイプのポケモンを出してきても戦える布陣にすること…… それが、六体のポケモンでチームを組む時に大切になってくる」 「うん」 リュウトは真剣な表情で頷いた。 六体のポケモンの弱点が重ならないようにしつつ、相手がどのタイプのポケモンを出してきても戦えるようにする。 口で言うのは簡単だが、実際にそれが簡単でないことくらい、十歳の少年にでも分かる。 「まあ、大概は二体くらいかぶっちまうんだが、それはしょうがない。 弱点が重なっても、自分の信じたポケモンたちなら、相性の一つや二つはひっくり返せることもあるからな」 実際、相性をひっくり返した例を見てきた。 特に、各地のジムでリーグバッジを八つ以上手にしたトレーナーのみが出場を許される公式大会――ホウエンリーグでは、 不利な相性を覆して相手を倒すことなど、頻繁に起こっているのだ。 「おまえがどのポケモンを選ぶのかは、おまえ自身が決めればいい。 ただ、旅を始めてから、無計画にポケモンをゲットしまくって、後で困るようなことにだけは、なってほしくないんだよな」 ユウキは残った紅茶を飲み干し、ポットからもう一杯注いだ。 仲間を増やすのはいいことだ。 苦難を分かち合える仲間がいればこそ、辛いことや悲しいことも乗り越えられる。 だが、無秩序に仲間を増やしても、後で混乱するだけだ。 先にパーティの最終形を考えて、必要となるポケモンだけをゲットしていけばいいと、ユウキはリュウトにアドバイスした。 先輩からのありがたいアドバイスに、リュウトの表情が明るくなる。 「うん、頑張ってみる。 すぐにはできないかもしれないけど……」 「まあ、それでいいのさ。 誰だってすぐにはできることじゃない。 ……っていうのはいいんだが……」 リュウトの力強い言葉に気をよくしたのか、ユウキはニコッと笑みを浮かべたのだが、すぐに曇った。 「母さん、まだ来ないようだな……そんなに忙しいのか……?」 ちょっと待っててねと言っていた割には、十分が経ってもやってくる気配がない。 不審に思ったユウキは席を立ち、リビングの扉を開きかけ…… ズガガガガガッ!! ドリルでアスファルトの道路をかち割っているような轟音が家中に響き渡り、ユウキは慌てて扉を閉めた。 途端に、音が聞こえなくなった。 「…………」 「…………」 どちらともなく顔を合わせる二人。 視線で、 「聞かなかったことにしよう」 と合図を送る。 道路工事をやってるわけでもないのに、どうしたらあんな轟音を立てられるのか。 その発生源がカリンだと確信しているからこそ、逆に生まれる疑問もあるのだが…… 今回は、それも気づかなかったことにしよう。 「な、なんなんだろう、今の……?」 「さあ……」 リュウトが不安そうな顔でユウキに問うが、ユウキは頭を振るだけで、答えようとはしなかった。 その代わり、 「せっかく来てくれたんだ、今日は泊まってけよ」 「え……?」 思ってもいなかった申し出に、リュウトは声を上げた。 目を丸くして驚く少年に苦笑を向けながら、ユウキが言う。 「今から帰るのも大変だろうし、母さんとも話してないだろ。 アヤカさんには俺から話しとくから、今日はゆっくりしていけよ」 「いいの?」 「ああ、別に構わない。母さんだってそうして欲しいって思ってるのかもしれないし」 「……うーん」 リュウトは唸った。 本当に泊まっていっていいものか。 ユウキやカリンが厚意でそう言ってくれているのは分かるが、アヤカを独りぼっちにしてしまっていいものかどうか、戸惑った。 たった一日とはいえ、母親と離れて過ごすのは初めてなのだ。 煮え切らない態度のリュウトに苛立つ様子もなく、ユウキはニコニコ笑顔で言葉を付け足してきた。 「おや? ママが恋しくなったのか?」 「なっ……!!」 赤面。 リュウトは身体が熱を帯びていくのを感じ、顔を真っ赤に染めた。 別に、母親が恋しくなったわけではない。 ただ…… どうにかして反論しなければ、としどろもどろになっていると、 「冗談だよ。 トレーナーとして旅に出りゃ、一人で過ごすことだってあるんだ。 その練習だって思えばいい」 「うー……そりゃそうだけど……」 悪びれる様子もなく、ユウキが笑う。 「おまえ、もう少しで十一歳なんだろ? どうせだったら、今日のうちに最初の一体を決めちまえよ。 明日の朝には連れて行けるように、手続きとかしといてやるからさ」 「え……ホント!?」 「ホント。 な? 泊まってけよ」 「うんっ!!」 一転、リュウトは瞳も表情もキラキラ輝かせて、テーブルに頭をぶつけるのではないかと思わせるような勢いで頷いた。 元気いっぱいのその様子に、ユウキは笑みを深めた。 「だからね、これがこうなってるから、あっちはそれに比例して大きくなるんだってあの人が主張するものだから、 わたしとしては逆に反比例の方だって説得したんだけど、あの人たったら、なかなか納得してくれなくて…… 徹夜で議論したら、朝方になってやっとわたしの説明に納得してくれたってワケ」 「…………」 嬉々とした表情で話すカリンから顔を逸らし、リュウトは視線でユウキに助けを求めた。 夕食を終えて、デザートのフルーツポンチを前に、何を思ったか、いきなり話し始めたのだ。 それだけならまだ良かったのだが、話の中身がリュウトにはチンプンカンプンだった。 ユウキは時々相槌を打っていたが、本気で話に耳を傾けているわけではなかった。 それくらいは、いかにも眠たそうな表情を見れば一目瞭然。 饒舌で、悦に入っているような表情のカリンは、相手が話を聞いているのかいないのかを確かめることがなかったものだから、 リュウトとユウキは顔を近づけて、小声で話した。 「……こうなると止めるのが大変だぞ。おまえが止めろよ」 「えーっ、ぼくが止めるの?」 厄介ごとを丸々押し付けられた心地がして、リュウトは不満げな表情で漏らした。 「半端に話が分かる俺が口出ししてみろ。 引きこまれるに決まってる。母さん、そういうとこは本気で遠慮を知らない人だから」 「いや…… ぼくも引き込まれちゃうんじゃ……」 「それはないだろ。 ガキ相手に意味不明な話するほど耄碌(モウロク)しちゃいない」 軽い冗談(ジョーク)のつもりで口にした一言が、リュウトの逆鱗に触れた。 「あーっ、またガキって言ったーっ!!」 「お、おい、声が大き……」 慌ててリュウトの口を抑えるユウキだったが、遅かった。 「ちょっと、そこ!! 話ちゃんと聞きなさいよ!!」 途中で話を中断されたのが気に障ったようで、カリンは眉毛を十時十分の形に吊り上げて声を張り上げ、ビシッと人差し指を突きつけてきた。 「いや、それはその……」 ユウキは視線をあちこちに泳がせながら、怒ってしまった母親を鎮める方法はないものかと考えを巡らせたが、その間も追及は止まらない。 「だいたい、あなたはどう思ってるわけ!? 最少因子を抽出すればそれだけでゲノムの構造まで全部理解できるなんて寝言を本気で信じてるわけじゃないんでしょ!? それじゃあいくらなんでも情報量少なすぎだし。 どうせ同じ量を使うなら、因子にかかわらず染色体情報のコピーを『でっち上げて』しまった方が、 よっぽど確実で手間も掛からないと思うのよね。 そりゃまあ、科学がすべてじゃないでしょうから、必ずしも最少因子にこだわる必要もないわけだけど……」 「…………?」 口を抑えられながらも、リュウトはユウキの手を叩いて、その手を振り払おうとした。 噛みつこうと思えば噛みつけたのだが、それだけはしたくなかった。 「…………」 手の甲に鈍い痛みを感じて、ユウキは慌ててリュウトの口から手をどかした。 「あなただって一端の研究者なんだから、持論の一つや二つはストックしとかないと、学会で議論する時に困るわよ。 いいこと? わたしの話の受け売りでもいいから、頭に蓄えておきなさい。 研究者に必要なのは、体力、知力、時の運と、たくさんの脳ミソのシワなんだからね!!」 「あの……おばさん……」 これ以上意味不明な話をされてはたまらないという一心で、リュウトが恐る恐るカリンに言葉をかける。 と、猟犬のような顔をユウキに近づけていたカリンの動きが止まった。 途端に表情が柔らかくなって、リュウトの目をまっすぐに見つめてきた。 息子には容赦がなくても、知り合いの息子となれば、話は別らしい。 「あら、なに? リュウトくん」 「……明日になれば、アチャモを連れて行けるって聞いたんだけど……」 「ええ、もちろんよ。 ユウキが手続きをしてくれたからね。 明日の朝には、アチャモを渡すわ」 「うん、ありがとう」 上手くまとまらない考えを口にすると、話はトントン拍子に進んで、あっという間にカリンのペースから解放された。 ホッと、二人して人知れずため息を漏らす。 「でもさ、ホントにアチャモで良かったのか? おまえが決めたんなら、文句は言わねえけど……考え直すんだったら、今のうちだぜ」 これ以上カリンのペースに乗せられるわけにはいかないと、ユウキがここぞとばかりに話を盛り立てる。 リュウトは知ってか知らずか、大きく頷いて…… 「ううん、アチャモに決めたから。 他のポケモンには乗り換えないよ」 何があってもアチャモに決めたようだ。 アチャモの弱点をすべて補えるのがキノガッサ。 ポケモンの弱点を補い合うような組み合わせでパーティを組むことが大切だと言われて、最初の一体にアチャモを選ぶ決心がついたのだ。 というのも、リュウトはアチャモの写真を見て、純粋に可愛いと思った。 他の二体が可愛くなかったわけではないが、アチャモが一番可愛かった。 だから、一緒に旅をしてみたいと思っていたのだが……今になって思えば、ずいぶんと軽はずみな理由だったのかもしれない。 リュウトの決意に満ちた表情に、カリンが目を細めた。 「うふふ、やっぱりダイゴの息子ねえ……一度決めたことは梃子でも曲げない。 君がアチャモを連れて行きたいんだったら、わたしは止めないわよ」 トレーナーとして、あるいは研究者としての見地から考えても、 キノガッサを持っているトレーナーがアチャモを選ぶのは至極当然のことと言える。 「それはそうと…… リュウトくんの夢って、何なの? 今まで考えてみれば、面と向かってそんなこと、話したこともないでしょう?」 「え、うん……」 将来の夢は何だ、と両親と叔母以外の人に――つまりは親族以外に聞かれるのは初めてで、リュウトは驚きを隠しきれなかった。 それだけ、ちゃんとしたベースを固めていないということを表情で露呈した形になるのだが、当然本人が気づいているはずもない。 だが、一度思い描いた夢を簡単に忘れられるわけがない。 リュウトは拳をぐっと握り、問いを投げかけてきたカリンの目をまっすぐに見返した。 「誰よりも強いトレーナーになることなんだ」 「じゃあ……アヤカちゃんや、ダイゴよりも?」 「うん!!」 リュウトの夢。 それは、誰よりも強いトレーナーになるということ。 言い換えれば最強のトレーナーだが、最強という言葉の意味もよく分からないので、 あくまでも『誰よりも強い』という簡単な言葉を使っているに過ぎない。 だが、誰よりも強いトレーナーになるということの意味は、その言葉以上の重みを持ち合わせている。 少年がそれに気づいているのかは分からない。 いずれは気づく時が来るだろうが、大丈夫だろうと、ユウキは半ば無責任な期待を抱いた。 「だったら、いつかはおまえの両親とも戦う日が来るってことだよな……勝てそうか?」 「今は無理だけど……その時は絶対に勝つよ!!」 「うん、その意気だ」 その重みの一つは、優れたトレーナーである両親を乗り越えなければならないということ。 もし、リュウトがダイゴの息子だと知れれば、親の七光りと世間から指を差されることがあるかもしれない。 本人にとっては、リュウトとして見てもらえない……ダイゴの息子としてばかり見られるのは辛いだろう。 だが、またしても無責任な期待で、乗り越えられるだろうと思ってみたりもする。 親の七光りというバッシングを乗り越えたとしても、ユウキ自身が言ったように、いずれは両親を超えなければならない日が来る。 最強のトレーナーになるというのは、そういうことだ。 親しい人とも戦って、勝利を収めなければならない。 そんな時、相手が親だからといってやりにくさを感じるようでは、夢など叶うまい。 ダイゴは今でこそ普通の(中身は凄腕)トレーナーだが、かつてはホウエンリーグのチャンピオンだったのだ。 ホウエンリーグのチャンピオンとは、ホウエン地方最強のトレーナーを意味する。 事実、この国のトレーナーの中で、五本の指に入るほどの実力は、今でもまったく衰えていないだろう。 新進気鋭の若手トレーナーの手前、あまりひけらかしたりはしないのだろうが。 アヤカも、チャンピオンが統率するジムリーダー以上の実力者『四天王』に匹敵するほどの実力の持ち主だ。 いずれ、リュウトはその二人を相手に戦わなければならない。 今はただそう『思う』だけであっても、実際にその時が訪れたら、苦悩するだろう。 それだけ、両親はあまりに強大すぎる壁なのだ。 「俺にもそれは分かるんだけどな……とはいえ、この分だとあいつとも戦うことになるんだろうな。 あいつ、子供相手でも絶対に手加減しねえからなあ」 やる気で瞳を輝かせているリュウトから顔を背け、ユウキは小さくため息を漏らした。 相手が両親というのは、トレーナーのみならず、研究者としても厄介なしがらみになりうるのだ。 というのも、ユウキは研究者としても、一人の人間としても両親を尊敬しているし、彼らのようになりたいと思っている。 研究者としては『同志』だが、それは同時に、乗り越えなければならない壁でもある。 いつか違う意見を持った時、言葉の剣で戦うことになるのだ。 子供の頃からコツコツと勉強を続けてきたおかげで、研究者になれた。 それも、両親を超える研究者になるためのステップの一つに過ぎない。 まだまだ両親から学ぶことは数多い。 「なあ、ひとつ聞いていいか?」 「なに?」 ユウキは試すつもりで、リュウトに質問を投げかけた。 「いつかは、アヤカさんやダイゴさんと戦う時が来るだろうけど、両親が相手だってことになったら、やりにくいとかって思わないか?」 自分も感じていること。 だが、違う答えが胸の中にはある。 リュウトが同じ答えを今抱いているなら、何の心配も必要ない。 ただ、それだけを確かめたかった。 素直に口には出せないから、ちょっと言い回しを変えただけだ。 リュウトは眉間にシワなど寄せ、腕組をしてなにやら唸っているが、すぐに答えを返してきた。 「やりにくいだろうなぁ……って思うけど、やっぱりそれ以上に、相手が父さんや母さんだって思えば、 何がなんでも勝たなくちゃって、やる気になると思うよ」 「いい答えだな」 訊くまでもなかったと、ユウキは肩をすくめた。 バトルという真剣勝負の場において、親子や親友の情など、何の意味も為さない。 むしろ、情を持ち込むことこそが弊害になる。 親子という柵は棄てきれなくとも、それはそれ、これはこれと割り切れればそれでいい。 十歳の少年なりに、いろいろと考えているようだ。 見た目はどちらかというと元気いっぱいで何も考えていないようには見えるが、人間、見た目と中身は必ずしも一致しないものだ。 「こりゃ案外、大物になるかもな……」 ユウキはユウキでリュウトの将来に期待を馳せ、 「大きくならないうちに、先行投資しちゃおうかしら……」 一方、カリンはカリンで、とんでもないことを考えていた。 二人が考えをめぐらせていることなど露知らず、リュウトはいつか来る戦いの時へと心を飛ばしていた。 翌日。 カリンが、リュウトに真新しいモンスターボールを手渡した。 「この中にアチャモがいるんだね?」 「ええ、そうよ」 期待に胸弾ませながら、食い入るようにモンスターボールを見やるリュウトに、カリンとユウキの表情が和らいだ。 「俺はここまでオーバーじゃなかったが……やっぱり、最初の一体をもらった時はうれしかったな」 研究者というのは、単に知識があればいいというものではない。 実戦経験というものも必要なのだ。 経験に裏打ちされた自信と根拠こそ、学会において力を振るうものだ。 だから、ユウキもトレーナーとして旅に出て、いろんなものを見て、経験してきた。 リュウトの夢は、誰よりも強いトレーナーになること。 最初の一体を手にしたことで、一歩前進したと言えるだろうが、本当の始まりは、十一歳の誕生日だ。 とはいえ…… 「外に出してみていい?」 少なくともウズウズしている様子を見る限り、本人にその自覚があるのかは分からない。 「ええ、いいわよ」 アチャモを写真などで見ることはあっても、実際に手を触れたり接したりするのは初めてなのだ。 一緒に旅をするパートナーになったからには、早速仲良くならなければ。 「出てきて、アチャモ!!」 リュウトは呼びかけながら、モンスターボールを軽く頭上に放り投げた。 急激な放物線を描いてフローリングの床に落ちたボールが、コツンと音を立てて弾んだ瞬間、 ボールの口が開き、閃光に包まれながらアチャモが飛び出してきた!! 「チャモ〜っ……」 モンスターボールから飛び出してきたアチャモは、可愛らしい鳴き声を上げて、周囲を見渡した。 研究所内の景色は見知っているようで、すぐに見知らぬ存在――トレーナーとなるリュウトに視線を移した。 円らな瞳で見つめられ、リュウトの心はぐいっと引き寄せられた。まるで、磁石か引力かと見紛うばかりの、不思議な力だと思わずにはいられない。 というのも…… 「うっわ〜、やっぱホンモノってカワイイ……!!」 テレビや本で見たアチャモももちろん可愛かったが、やはりホンモノが一番だ。 ひよこポケモンという分類をされているだけに、見た目はヒヨコに似ていた。 頭でっかちな印象を受けるが、それもまた愛嬌があって、良い方に引き立っている。 全身が薄いオレンジ色で、頭上のトサカはさらに色が薄い。 首筋に襟のようなフサフサした毛の突起があるが、全身ももちろんフサフサな毛で覆われている。 「チャモ〜!!」 アチャモはうれしそうにぴょんぴょん飛び跳ねると、リュウトの胸に飛び込んできた。 「わっ……と」 リュウトは慌ててアチャモを受け止めた。 身長が三十センチ弱と言っても、ポケモンはポケモンである。 小柄な身体には、千度近い炎を吐き出すための器官があるのだ。 「あらあら、もう懐かれちゃってるわね」 リュウトにじゃれ付くアチャモを見つめる目を細め、カリンが微笑む。 「…………」 リュウトはアチャモに視線を落とした。 初対面だというのに、どうしてここまで心を許せるのか。 うれしい反面、やはり戸惑いがあった。 だが、それ以上にやはり喜びが勝っていた。 「アチャモ」 リュウトは胸に頭を埋めては身体をくねくね動かしているアチャモに、静かに話しかけた。 まるでマーキング(においを植えつけるような行為)でもしているような仕草を見せながらも、アチャモが顔を上げる。 ぱちくりと、つぶらな黒い瞳が瞬く。 「ぼくはリュウト。キミのトレーナーだよ。一緒に旅をすることになるんだけど、よろしくね」 つぶらな瞳に吸い込まれそうになりながらも、これから一緒にやっていこうと伝えると、アチャモの表情がパッと輝く。 おとなしくしていたのも束の間、再び身体をくねくねと動かしては、リュウトに甘えるようなポーズを見せた。 「あはは、くすぐったいってば……」 首下の突起毛が脇をくすぐり、リュウトは思わず笑ってしまった。 アチャモの人懐っこさは天下一品だ。 無論、アチャモのみならず、リュウトが選ばなかったミズゴロウやキモリも、人懐っこい性格の持ち主なのだが、 やはりアチャモが一番か……と、カリンもユウキも揃ってそんなことを思っていた。 「アチャモは君に懐いてるようだし、このままボールの外に出しておいてあげた方がいいかもしれないわね」 「うん、そうするよ。離れそうにないし」 リュウトはカリンの提案を受け入れた。 これほど懐いているアチャモをわざわざモンスターボールに戻すのは、かえって逆効果だ。 些細とはいえ、悪い印象を持たれるのは良くない。 普段はボールの外に出して、極力一緒に過ごすようにしよう。 常にスキンシップを図っていれば、それだけ信頼される。 それはバトルのみならず、他の方面にまで良い影響を及ぼすのだ。 トレーナーとポケモン。 互いに信頼し合えるからこそ、バトルも、どんな困難も乗り越えていけるのだ。 それは、アヤカから口うるさく聞いたことでもあるし、本当にそう思っていることでもある。 「旅に出ると……こんな出会いがいっぱい待ってるのかな? だったら、すっごい楽しみだ!!」 一緒にいろんなものを見たり聞いたりして、同じ時間を過ごせる仲間と出会う冒険の旅に、 十一歳の誕生日を数日後に控えたリュウトの心は、早くもヒートアップ寸前に弾んでいたのだった。 本人も気づかないうちに瞳には燃えさかる炎が浮かび、冒険の旅に思いを馳せる少年を見つめるカリンとユウキの顔には、 困ったような笑みが浮かんでいた。 ユウキの目には、リュウトが十年以上前、旅立ちを前にはしゃいでいた親友と重なって見えた。 「なあ……もうすぐ、新しいトレーナーが誕生するぜ。 いつかおまえとも戦う日が来るんだろうな。 アヤカさんとダイゴさんの息子なんだから、いくらおまえでも悠長に加減なんてできなくなるかもしれねえな…… どうせなら、その場面を見てみたいところだ」 四日後。 この日もまた、カナズミジムでは火山が噴火したような絶叫が響き渡った。 近所の住人は「またあそこか」とすっかり慣れているようで、特に誰も気には留めなかった。 「こいつは……まだ、寝てる、かッ!!」 毎度のことだが、アヤカは息子の部屋の扉を『荒ぶる龍をも片手で縊り殺せるような母親パワー(?)』でこじ開けて、 もちろん五日前に業者に取り替えてもらったばかりの鍵もまた壊して、だけどそんなことは一切気に留めず、 乗り込んできた母親の気持ちを知らないリュウトの寝顔を睨みつけ、今日もまた憤怒の仮面を貼り付けて、 一歩一歩、大きな足音を立てながらベッドへと歩いていく。 「今日がどんな日か、分からないわけじゃあるまいし……!!」 夜叉も鬼も一目で逃げ出すような形相のアヤカは、ベッドの前で仁王立ちになった。 まるで、これから判決を下す裁判官のようだ。 矢のような視線を射かけられても、リュウトはベッドの上で布団に包まって、寝息を立てていた。 ミノムシのようにも見える姿は、滑稽ですらあったが…… 無論、アヤカの顔に笑みなどない。 今日という大切な記念日ですら、十時過ぎまで平気で寝ていられる神経の図太さは、うらやましいを通り越して、 怒りの導火線に火をつけるほどだ。 チラリと壁際の時計を見やる。 十時十分。 アヤカの眉の形も、ちょうどそれと同じだ。 そんなことが分かったところで、ちっともうれしくないのだが。 「…………」 アヤカはいよいよ眼差しを槍の穂先のごとく尖らせて、リュウトを睨みつけた。 さて、どうしてくれようか。 とりあえず、手始めに大声で怒鳴りつけることにしよう。 反対者がいるはずもないから、あっさりと方針が決まって、アヤカは大きく息を吸い込んだ。 「リュウトぉぉぉぉぉぉぉっ!! いい加減起きなさい!! 今日がどんな日か、分からないわけじゃないでしょォォォォォッ!!」 半ば恐竜の咆哮と化した怒鳴り声を耳元で出されて、次の瞬間。 リュウトの目はパッチリ開いて、文字通り、跳ね起きた。 「うわ……な、なに、一体……うっ……」 いきなり怒鳴られて文句の一つも言いたいところだが、布団を退かして見上げたアヤカの顔は、感情がすっかり抜け落ちてしまったように見えた。 怒っている…… 怒鳴り声のみならず、こうやってどちらとも判別がつかないような表情をしているということは、 どう考えても怒っているのだと、リュウトは今までの経験から判断するしかなかった。 それ以外の判断材料が見当たらなかったのも要因だが、こればかりは不問に処する。 「……わたしがなんで怒ってるのか、分かるわね?」 「……はい」 凪の海を思わせる平坦な声音で言ってくるアヤカに、リュウトは改まった口調で返し、頷いた。 気づかぬうちにベッドの上で正座までしているのは、怒られるという覚悟が決まったからだ。 「今、何時かしら」 顎をしゃくり、リュウトに壁の時計を見るように促す。 「……十時、十分」 「いい子は何時に起きるものかしら」 「八時くらいには……」 「何時間過ぎたかしら」 「二時間……くらい」 「目覚まし時計はセットしなかったかしら」 「したと思う……二つくらい」 どんな感情を抱いているのか読めぬ声音で延々と問いかけられるのは、正直言って辛い。 怒っているのだろうが、少なくとも声音で判断できない以上、迂闊な返答は木の棒による『尻百叩きの刑』の執行を意味する。 リュウトはアヤカの足元に目を落とした。 壊れて動かなくなった目覚まし時計が二つ、転がっていた。 二つの時計が揃って指し示している時刻は、先ほどリュウトが返答したとおり、八時過ぎだった。 「なんで壊しちゃったのかしらね」 平坦な口調とはウラハラに、空爆のような激しさを秘めた言葉に、リュウトは髪を引っ張られたように顔を上げた。 「……ぼくが投げちゃったから」 「確か、五日前も壊したわよね。余計な経費かかるの、分かってるわよね」 「……うん」 「まさかと思うけど、旅に出てからもこんな調子だって言うんじゃ、わたしは安心して送り出せないわ。 キノガッサやアチャモに起こしてもらうつもりなら、手加減なしの気合パンチや火の粉で起こすように、 ボスゴドラを使って頼むことになるんだけど」 「…………」 冗談めいた言葉。 だが、それが本気であると、リュウトは嫌でも感じ取らざるを得なかった。 アヤカは、本気になればどんなことだってやってのけるだろう。 その気になった女性は、垂直に切り立った崖すら駆け上がってしまうだけのパワーを発揮するのだ。 「…………」 互いに何も言わぬまま、時間だけが過ぎていく。 「……ごめんなさい」 結局悪いのは自分なのだと、リュウトは素直に謝った。 いくら寝起きが悪いと言っても、十時過ぎまで寝ているのは異常だし、言い訳以上にはならないと分かっているのだ。 その上で、目覚まし時計を壊さないようにする措置を怠ったのだから、自分が悪いと考えるより他はない。 「まあ、いいわ……今に始まったことじゃないし。 でも、それなりの対策を施してから、寝なさい。 そうじゃないと、ホントに頼むことになるからね」 「……うん」 真摯に反省している様子のリュウトを見下ろし、アヤカはため息を漏らした。 これ以上叱りつけても、無意味だと判断した。 子供を叱るのは大切なことだ。善悪の判断をつけさせるためには有効な手段だし、謝らせることで相手の気持ちを慮ることも知る。 だが、それも度が過ぎると、かえって子供のためにならないのだ。 「とりあえず、誕生日おめでとう。 今日からトレーナーとして旅に出られるわよ」 「うん、ありがとう」 怒りが解けたと知って、リュウトはニコッと笑みを浮かべた。 「……まったく、調子いいんだから……」 アヤカは再びため息を漏らしたが、怒りがフェードアウトしてしまった以上、今さらぶり返すのも気が引ける。 「朝食……って言っても、この時間じゃランチになっちゃうけど、準備を整えてから来なさい」 「はーい」 微妙に気のない返事を背に、アヤカは壊れた扉の鍵を拾いながら、部屋を出て行った。 部屋に一人残されたリュウトは、一分ほどノンビリと窓の外を見ていたが、気持ちを切り替えて、ベッドを降りて着替え始めた。 クローゼットを開き、手前にかけられた真新しい服に袖を通す。 鏡を前に気取ったポーズを取ってみたり、腕を広げてみたりと、子供らしい仕草を見せながら、着替える。 「うーん、やっぱり決まってる〜♪」 やはり、新しい服に袖を通すのはいい気分だった。 薄茶色の長袖のシャツに、灰色と黒のストラップが入った長ズボン。 鮮やかなイエローのベストに、アクセントとして頭に青いバンドを巻く。 チョイスしてくれたのは当然アヤカだ。 旅立ちの服装に着替えたリュウトは、叱られたことなど気にならないような、清々しい笑顔を鏡に向けた。 鏡に映ったこの笑顔を保存できたらいいのにと贅沢なことを思いつつ、旅立つ準備を進めていく。 「えっと……」 机の上でくたびれているリュックを手に取り、この日のために準備してきた道具をひとつひとつ詰め込んでいく。 人間とポケモンの両方に使える傷薬に、各種状態異常を回復する薬、非常食に、寝袋。 予備のモンスターボールなど、アヤカが揃えてくれた道具だ。 だが、それ以上の道具は用意してくれなかった。 アヤカ曰く、 「必要なものがあるのなら、お小遣いはちゃんと渡すから、その中から買い足しなさい。 必要なものか、そうでないものなのか、見極めるのもトレーナーとして必要な判断力よ」 とのことで、必要最低限の道具しか用意してくれなかった。 当然といえば当然のことだったので、リュウトは何も言い返さなかったが。 その時の光景が脳裏にありありと過ぎって、思わず胸が熱くなった。 「母さんは、ぼくのことを一番に考えてくれてるんだ。 だから、ぼくが父さんのような立派なトレーナーになるってことが、母さんへの恩返しになるんだ」 そんなことを思いながら、道具を詰め込んだリュックのチャックを閉じて、背負う。 必要最低限の道具しか詰めていないが、それなりに重く、立ち上がった時には思わずよろけてしまったが、すぐにその重さにも慣れた。 リュックのベルトには、手のひらサイズの機械が取り付けられている。 メタリックシルバーが鮮やかなその機械は、『P☆DA』と呼ばれている。 それは通称で、正式名称は『ポケット・デジタル・アシスタント』と言う。 その名の通り、携帯型の機械で、地図や時計、電話機といった機能を兼ね備えた、トレーナーの旅には必要不可欠なアイテムだ。 発売されて一年と経っていないこともあって、かなり高価だったそうだが、ヘソクリから奮発して買ってくれたとか何とか。 結局、何から何までアヤカの世話になりっぱなしだったことを自覚して、リュウトは同時にそれを反省した。 トレーナーとして旅に出たら、母親に頼ってなどいられない。 自分と、仲間たちの力だけで道を切り拓いていかなければならないのだ。 今までのように、黙っていても食事が出たり、洗濯してくれたり、といったことはない。 野宿することになれば、食事だって自分で用意しなければならないし、火を起こすための薪も自分で取ってこなければならない。 何から何まで自分たちでやらなければならないのだから、それなりに大変なのは間違いないが、 だからといって目前に迫った旅立ちに足が竦んでいるというわけでもない。 服装もバッチリ決めて、リュウトは部屋を後にした。 一歩廊下に出たところで足を止め、振り返る。 「……当分、戻ってこれないよね。 でも……ぼくは行かなきゃ」 頭を振り、歩き出す。 いつまでも眺めていたら、名残惜しくて旅立てなくなるかもしれない。 途中で顔を洗い、歯を磨いて、エチケットを整えてからリビングへ。 リビングに入るなり、いつもの香ばしい香りが鼻にかかった。 「あらあら……」 湯気を立てる皿をテーブルに運びながら、アヤカはニコッと微笑んだ。 「やっぱりバシッと決まってるわねぇ。 『馬子にも衣装』って言うけれど、やっぱり似合ってるわよ、リュウト」 「やっぱり似合う? ありがとう!! でも、『孫にも衣装』って……ぼく、孫じゃないと思うけど。それを言うならおばあちゃんなんじゃ……」 誉められてうれしいことはうれしいのだが……難しいことを言われ、頭の中で糸がこんがらがってきた。 「まあ、そんなことはどうでもいいじゃない」 説明するのが面倒くさいと言わんばかりに、アヤカはリュウトの肩をぽんぽんと軽い調子で叩いて、席に着くよう促した。 「腕によりをかけて作ったんだから、ちゃんと食べてよ」 「うん!!」 席に着いたリュウトは、テーブルに並んだ料理を、片っ端から食べ始めた。 ホクホク感がたまらないスクランブルエッグと、じっくりコトコト煮込んでスープの味が具に染み込んだミネストローネ、 カリッとキツネ色に揚がった衣がまぶしいフライドチキンと、朝食にしては豪華だが、それも旅立ちを控えた息子に対する、 母親の精一杯の愛情だった。 いつもよりもワンランク上の食事を心から楽しんでいるようなリュウトの様子に、向かいの椅子に腰を下ろしたアヤカは笑みを深めた。 しばらくは、こうやって食欲旺盛な姿は見られないのかと思うと、なんだかとても淋しくて切ない。 「でも、男の子はいつかこうやって旅に出るんだもんね」 いつまでも子供が自分の傍にいてくれるわけではない。 遅かれ早かれ、巣立ってゆくものだ。 世間というものを知らない子供だし、送り出すには若干の不安が残るが、それ以上の可能性があるのだから、ここは自分が我慢すべきだ。 美味しそうに食事を平らげてく息子の顔を見ながら、アヤカはいろいろと考えをめぐらせた。 そうしているうちに、あっという間に食事タイムは終わりを告げる。 テーブルには空になった皿が並ぶ。 「まさか全部食べちゃうなんて……よっぽどお腹空いてたのね……」 口では呆れたように言うけれど、本当はとてもうれしかった。 無理をして食べたとも思えないから、空腹も頂点に達していたということだろうか。 それでも、腕によりをかけて作った甲斐があったというものだ。 「ごちそーさま!!」 リュウトは元気な声で言うと、席を立ってリュックを背負った。 食べたばかりだというのに、もう旅立つつもりらしい。 未知の世界に対する不安など微塵も感じられない、輝いた笑顔。 「まあ、片付けは後でいいわね……」 アヤカはため息混じりにそんなことを思った。 本人が行く気満々になっているところに水を差すのは、いかがなものか。 「じゃあ母さん、行ってくるよ!!」 「もう行くの?」 訊くだけ無駄だと思いつつ、それでも言葉が口を突いて出る。 「淋しくなるわね……やんちゃ盛りで食っちゃ寝のお調子者でも、大事な大事な一人息子だし」 淋しい気持ちなど、表に出せるものではない。 息子が広い世界へ旅立つのを、いつもと同じような表情で見送らなければならない。 それが、母親としての責任だと、弱気になりかけている心を奮い立たせる。 「うん、少しでも早く、母さんのような立派なトレーナーになりたいんだ!!」 向かい風さえ吹き飛ばせそうな力強い言葉に、アヤカは思わず胸が熱くなった。 ……らしくない、と思いつつも、一度芽生えた暖かい気持ちは簡単に冷めなかった。 「じゃあ、こんなところで油売ってる暇なんて、ないわね。 さあ、行きなさい。 広い世界が、あなたを待ってるわ」 「うん、行ってきます!!」 アヤカの言葉に大きく頷いて、リュウトはカナズミジムを飛び出していった。 土煙でも立ちそうな勢いだったが、それだけパワーが有り余っているということなのだろう。 本当なら玄関先まで見送るべきかもしれない。 だが…… 「あの子のそういうところが、わたしは好きなんだよね……あなたにそっくり」 アヤカは振り返り、食器棚の傍に置かれた写真に目を留めた。 彼女と夫のダイゴと、赤ん坊のリュウトが映っている写真だ。 「でもさ……P☆DAがあなたからの誕生日プレゼントだって、やっぱり素直に言った方がよかったと思うな。 今さらって感じするけど」 微笑んでいる夫の写真に、アヤカは小さく話しかけた。 海外出張中の夫にその言葉が届くはずもないが、それでも彼の意図を確かめざるを得なかった。 カナズミジムを飛び出したリュウトは、赤レンガが敷き詰められたカナズミシティのメインストリートを全力疾走していた。 この時間に子供が出歩くことは珍しく、通りを行く大人たちは物珍しげに見ていたが、当の本人がその視線を意に介していたはずもなく。 「ぼくも、ポケモントレーナーなんだ!! ここから、どこにだって行けるんだ!!」 都会の空は聳え立つビルに切り取られて狭く、空気もミシロタウンと比べると新鮮とは言いがたい。 だけど、見上げた空の青さは変わらないし、果てなく続いていくであろうことも、疑う余地すらない。 ポケモントレーナーとしての冒険がここから始まる。 カナズミシティの南ゲートの向こうには、リュウトの知らない世界が口を開けて、手招きして待っている。 不安なんて、ドキドキとワクワクに握りつぶされて、どこにも残ってない。 だから、言える。 「ぼくは絶対、誰よりも強いトレーナーになる!!」 南ゲートをくぐり、104番道路に出る。 明確な目的地は決めていないから、どこへ行くにも自分で自由に決められる。気の向くまま、足の向くままという旅も悪くない。 それでも、強いトレーナーになるための努力を怠るつもりはない。 いずれは、思い描いていたあの場所へとたどり着ければ、どこを通ってもいいんだと思っている。 「アチャモ、キノガッサ、出ておいで!!」 リュウトは百メートルほど走ったところで立ち止まり、腰に差したモンスターボールを頭上に放り投げた。 一番高いところで口を開いたモンスターボールから、アチャモとキノガッサが飛び出してきた。 「チャモ〜」 「キノ……」 アチャモは相変わらずリュウトに甘えっぱなしで、飛び出してくるなり擦り寄ってきた。 対照的に、キノガッサは見慣れない景色に戸惑いながらも、自分が今ここにいる理由をすぐに察して、いつもどおりの表情をリュウトに向ける。 格闘タイプのポケモンだけあって、恐れというのをあまり知らないのだ。 「アチャモ、キノガッサ」 リュウトは足元のアチャモを抱き上げて、キノガッサの前に降ろした。 それから、共に旅をしてゆく大切なパートナー達に言った。 「これからいろんな場所に行って、いろんな人と出会って、いろんなバトルをするよ。 ぼくはまだ弱くて頼りないかもしれないけど、一緒に頑張ろう!!」 当然、ポケモンたちがイエスと言わないはずがなかった。 頭上の雲を吹き飛ばすほどの大きな声で嘶き―― そして、新たなトレーナーの冒険が、幕を開ける。 了 勢いで書いてしまった外伝ですが、とりあえず後書きです。 タイトルは「Penetrate(ペネトレイト)」。当初考えたタイトルとはずいぶんと違いますが、まあそれはお約束ということで。 読んでくださった方はお分かりかと思いますが、外伝の主人公はアヤカとダイゴの一人息子リュウトです。 The Advanced Adventures本編が終了してから12年後という舞台設定です。 おかげで、ユウキが大人になっていたり、回想シーンでは大人びた○○○○が出てきたりと、やりたい放題の内容になっています。 ダイゴはすでにチャンピオンの座を退き、今は若いトレーナーがチャンピオンとして頑張っているそうです。 それが誰なのかは、読んでくださった方次第だと思います(自分の中では○○○○だったりするんですけどね…… もちろん、それを直接書いたりはしませんけど)。 ともあれ、The Advanced Adventuresプロジェクト(仮称)はこれで終了です。 ……って、終了してから(仮称)ってのはないですよね。あははは…… 最後に、登場人物の総括で締めくくります。 リュウト 年齢:10歳(終了時は11歳) 出身:カナズミシティ アヤカとダイゴの間に生まれた少年。 トレーナーとしての素質には恵まれているが、少し控えめな性格。 寝起きが悪いのは、どうやら父親の影響らしい。 母親には頭が上がらないが、毎日恐竜の咆哮と鉄拳制裁を食らっているからというだけの理由ではないらしい。 アヤカ 年齢:30歳代 出身:カナズミシティ リュウトの母親にして、カナズミジムのジムリーダー。 息子に対して容赦ない言動が目立つが、それもすべては息子を立派に育て上げようとする愛情の裏返し。 本編ではボスゴドラはダイゴのポケモンだったが、今はアヤカに懐いている。 ユウキ 年齢:23歳 出身:ミシロタウン オダマキ博士の息子で、新進気鋭の研究者。 The Advanced Adventuresでは主人公の親友だったが、現在は研究者として親友とは違う道を歩いている。 リュウトのことを弟のように思っており、ことあるごとに背伸びするリュウトをからかって、むくれた顔を見るのが楽しみらしい。 カリン 年齢:40歳代 出身:???? ユウキの母親で、ポケモン学の研究者。 以前にも増して容赦のない言動が目立ってきたが、その理由はアヤカと大差ない。 ???? 年齢:23歳 出身:ミシロタウン リュウトの回想シーンに登場するポケモントレーナー。 屈強なオーダイルを連れており、特徴は前後逆にかぶった帽子と、帽子からはみ出した一房の前髪。 風貌から察するに、どうやら○○○○のようだが……現在はどこで何をしているのか不明。 一説(不肖ガーネットの妄想世界)によると、チャンピオンの座に就いたとか、就いていないとか…… ……実は、チャンピオンです。 ユウキが人知れずつぶやいたのが最大のヒント。