カントー編Vol.15 リラックス〜それぞれの過ごし方 「せっかくのサーティーエイトのアイスクリームだっていうのに、もったいないよね。来ないなんてさ……」 「そうですねぇ。 ですが、アカツキさんにっも事情があるのでしょうから、そう口を尖らせるものではありませんよ」 不満げに口を尖らせるナミを諌めるように、エリカが穏やかな口調で言った。 舌に乗せたアイスクリームが体温でとろけて、何とも言えない甘さが口の中にほわぁ……と広がっていく。 「分かってるけど……じゃあ、アカツキにもお土産に買っていけばいいよね」 「そうして差し上げるとよろしいですわ。きっと、喜ぶと思いますよ」 「うん。それじゃあ、決まりだね」 カップに残ったアイスクリームをすごい勢いで平らげると、ナミはカップを置いてカウンターへ向かった。 エリカはその背を見つめ、微笑んだ。 今二人がいるのはカントー地方一の規模と言われるタマムシデパートの屋上。 百数十席のラウンジは、お年頃から妙齢の女性まで、ほとんどの座席が埋まっていた。 というのも、世界的にも有名なアイスクリームメーカー『サーティーエイト』の直売店のブースが設けられているのだ。 健康志向が叫ばれるようになった昨今、普通のアイスクリームは『太る』という印象から女性には敬遠されている。 しかし、カロリーが従来の半分以下という画期的なアイスクリームを発明した『サーティーエイト』のブースには黒山の人だかり。 デザートは別腹などと都合のいいように捉えられているが、ダイエットの天敵であるカロリーが半分以下と聞けば、 少しくらいは……という気持ちが働くのかもしれない。 そういった意味で、『サーティーエイト』はダイエットと健康志向という両極に揺れる女心を巧みに掴んだと言えるだろう。 ナミはブースに長く連なる列の最後尾に並び、自分の番がめぐってくるのをドキドキしながら待っているようだった。 太陽のように輝く笑顔が、期待の大きさと従姉弟への想いを如実に物語る。 エリカはアイスクリームのコーンをかじりながら、タマムシデパートが誇る360度の大パノラマを見渡した。 実際のところ、タマムシシティにはこのデパートより高い高層ビルがたくさんある。 だが、それは中心街に限っての話で、少し離れたこのデパートの周囲ではパノラマを妨げるものはない。 広がる青空を見上げながら、エリカは「はぁ……」とため息なんだか感嘆の吐息なんだか分からないような息をついた。 「今日はいい勝負ができたような気がしますわ。 負けたというのに、こんなに気持ちが晴れているなんて…… 今までのわたくしなら、そういう風に受け止めることができなかったと思います」 蒼穹を悠然と、当たり前のように流れてゆく雲を眺め、目を細めた。 今でこそショッピングを楽しんでいられるものの、ほんの一時間前までは、 ジムリーダーとしてレインボーバッジを賭けたジム戦を行っていたのだ。 その時と今の心境の差はかなりのものだが、それを素直に受け入れられる自分に驚きを感じずにはいられない。 相手にしたのは、『サーティーエイト』のブースに続く列に並んでいるナミと、彼女の従兄妹という少年アカツキ。 二人を相手にした変則ルールのバトルで、エリカは力及ばず敗北を喫してしまった。 プライベートのポケモンを使っていいというルールなら、間違いなく勝っていただろうが、それではジム戦とは呼べない。 ともあれ、ジムリーダーの役割は果たしたつもりだし、悔いはないのだが、やはり負けたことは悔しかった。 いい勝負ができたと思う反面、自分の足りないものも少しだけ分かってきた。 「無茶だとは思いましたが……ですが、やってよかったと思っていますわ。後悔はしていませんもの」 自分でも無茶なルールを設定したと思ったが、それを悔やむつもりは毛頭ない。 対戦相手は二人だが、それぞれが一体ずつのポケモンを持ち寄り、自分は二体のポケモンを扱う。 単純な図式ではポケモンが二体ずつのバトルとなっているが、恐らくはどのジムでも導入されていない変則ルールだ。 お互いにある程度のアドバンテージを確保している状態でのバトルだったが、やはり相手の方が一枚上手だったようだ。 負けたということもあって、エリカは今の自分に満足していなかった。 ジムリーダーとしても、ポケモントレーナーとしても、壁にぶつかっているように感じていた。 だから、その先へ進むために、敢えて自分に厳しい条件でのルールを申し込んだのだ。 『気が向けばなんでもオッケ〜っ♪』というナミはともかく、彼女の従兄妹であるアカツキは当初、難色を示していた。 フェアなルールではないと主張されたが、粘り強く交渉した結果、そのルールを受け入れてくれた。 その上、自分のポケモンのタイプまで教えたのだから、彼らに与えたアドバンテージは相当なものだったに違いない。 とはいえ――少しやりすぎたかもしれない。 そう思ったものの、それを負けた理由として掲げたところで、自分が惨めになるだけである。 負けは負けと素直に認め、今の自分に足りないものを見つけていけばいいだけのことだ。 起こってしまった出来事を悔やむより、先を見据えた建設的な考えこそが、人を強くするのだ。 自分のポケモンのタイプを草タイプだと教えたのは、さらに自分を苦境に立たせるのと、 タイプの相性を相手が考え、それに対して優位なポケモンを出させるという狙いがあった。 案の定、彼らは炎タイプのポケモンで攻めてきた。 エリカは草タイプに強いどのタイプのポケモンを出されても対抗できるよう、事前に作戦を立てていたのだが、それでも勝てなかった。 炎タイプだけでなく、氷、毒、虫、飛行……どんなタイプを出されても問題ないように策をめぐらせていたが、 恐らくは、どのタイプで来られても同じ結果になっていたに違いない。 冷静になった今だからこそ、なんとなく、そんな風に思える。 彼らとポケモンとの絆が想像以上に固かったことと、少年の戦い方が、エリカの予想の範疇を遥かに超えていたからだ。 「同士討ちと見せて……実は強化する機会を狙っていたんですからね。 普通はそんなこと、誰も考えつきませんよ」 エリカ自身が、誤爆によって被害を受けた少年のポケモンの『特性』を理解しきれていなかったのも否めない。 炎タイプのポケモンとはいえ、まさか炎を受ければ自分の炎タイプの技が強化されるなど……勉強不足だということを思い知らされた。 わざわざ誤爆するように仕向けたというのに、少年はそれすら見事に利用してポケモンの強化を果たしたのだ。 「ですが……」 エリカは思う。 さっきのバトルで少年が見せた実力は、まだまだ序の口に過ぎないのではないか……と。 それは単なる思い過ごしかもしれないが、そう思いたい。不思議な気持ちだ。 ナミよりも思慮深く大人っぽい雰囲気を持ちながら、従兄妹に見せる表情は歳相応の少年のものだ。 両者のギャップが、エリカに何かを感じさせた。 そういえば、自分はまだ彼らについてほとんど知らないのではないか。 名前と出身くらいしか訊いていないし、深く踏み込むのも失礼だと思っていた。 社会通念上、他人の家庭に土足で上がりこむというのは失礼だし、そうしないのが常識だ。 「彼はきっといいトレーナーになれると思いますわ。 わたくしの観測にしか過ぎませんけど……こういうのを『女の勘』と言うのでしょうか」 常識的に考えてそれは違うのだろうが、ナミに似て少々頭がお花畑なエリカに細かな違いは分からなかった。 で…… 列に並んだナミは、アカツキへのお土産以外に、もう一個自分でもアイスクリームを食べようかと思い始めていた。 さすがは『サーティーエイト』のアイスクリーム。 上品な甘さで、しかしくどくなく、アッサリした口解けが『もう一個』と思わせるのだ。 現にナミはその心理にどっぷりとはまり込んでいる。 こんな風にメーカー側の販売戦略にまんまとはまった女性がいるから、売り上げは右肩上がりを続けているのだ。 「あたしもアカツキも頑張ったんだし……いつも頼りにしてるわけだから、たまにはこういうのもアリだよね」 こういうの……というのは他でもない。 アカツキに対する土産だ。 いつだったか、甘いものは好きでも嫌いでもないと言っていたが、土産なら悪い顔をされることもないだろう。 「ナンダカンダ言って、アカツキってかわいいんだもん……」 ナミはジム戦に勝利した時のことを思い返した。 うれしさのあまり忘我してアカツキに抱きついたのだが、その時彼は強引に振りほどきさえしなかった。 普段なら顔を真っ赤にして悪びれながら振り払うのだから、結構その気があるんじゃないかと思った。 だが、それはもちろんナミの勘違いに過ぎなかった。 エリカや審判の女性の視線を感じて、そういう風な行動に打って出られなかっただけなのだ。 もしかすると、ナミの感じていたところも多少はあったかもしれないが…… 「アカツキにはいつも助けられっぱなしだもんなあ……今回も、ラズリーちゃん大活躍だったし」 ラズリー。 出会った当時は、ある意味どうしようもないほど臆病だった。 ガーネットやラッシーにさえ人見知り(ポケモン見知り)するほどだったが、ある期を境に勇敢な性格に豹変した。 進化を果たし、強力な炎技と物理攻撃という二本の刃を手に入れたからだろう。 ポケモンバトルでは、物理攻撃と特殊攻撃を両方使いこなすポケモンが珍重されるケースが多い。 ブースターに進化したラズリーはまさにそのタイプだ。 同じイーブイから進化したトパーズは、スピードと電気タイプの技が得意であって、物理攻撃には長けていない。 ラズリーよりもスピードは優れているが、単純な攻撃能力だけを見れば、到底敵う相手ではない。 「ガーネットもラズリーちゃんを目指して頑張ってもらわなくちゃ。 だって、まだリザードンに進化できるわけだし……」 ナミはガーネットがこれから進化するリザードンの姿を思い浮かべた。 ガッチリした体格で、口から炎を吐き、炎の灯るシッポで相手をなぎ倒す。 そして、背に生えた一対の翼で優雅に空を舞う……誇り高く勇敢な姿に、ナミはあっという間に心酔した。 自分でも気付かない間に、表情が緩んでいた。 「あぁ……ガーネットがリザードンに進化できたら、あたしって最高に幸せ♪かも」 進化したガーネットの背に乗って、カントー地方の空を我が物顔で飛び回るのだ。 いつの間にやらそんなことまで考え始めるようになり、バッグからバッジケースを取り出して、しげしげと眺め出す。 左から、ゲットした順に並ぶ五つのバッジ。 改めて振り返るまでもなく、どのジム戦も簡単なものではなかった。 ジムリーダーは総じてポケモンバトルに手慣れており、一筋縄で勝てる相手ではなかった。 しかし、努力と根性と幸運と……その他の諸要素で何とか勝利を勝ち取ってきた。 苦労があっただけに、ゲットできた時の喜びは一入だ。 「あと三つでカントーリーグに出場できるんだね。頑張らなくっちゃ♪」 と、決意を新たに我に返った時、掌からバッジケースが消えていた。 「あ……あれ?」 一瞬にして消え失せたバッジケース。 ナミは唖然としながら、足元を探った。 もしかしたら、気づかない間に落としたのかもしれない。 だが、どこにもなかった。バッグの中も探してみたが、同じだった。 「あれ〜……どうなってるの?」 まさか神隠しに遭ったのか……そんな空想まで膨らませながら周囲に視線をやると、一人の青年と目が合った。 「それって……」 思わず青年が手に持つモノを指差した。 すると、青年は表情を強張らせ、それをズボンのポケットに押し込んだ。 そして踵を返して、ナミから遠ざかっていく。 その瞬間、ナミの中ですべてがつながった。 ナミが忘我していた隙を突いて、青年がバッジごとケースを盗み取っていたのだ。 「ドロボーっ!!」 ナミは怒り心頭だった。 腹の底から声を振り絞って叫び、逃げていく青年を追いかけた。 今までの苦労をなんだと思っているのか。 バッジをゲットするのに、ずいぶんと苦労してきたのだ。 その苦労を……青年は一瞬で掠め取った。 何をするつもりかは知らないが、絶対に許すわけにはいかない。 黒い髪を背中に伸ばし、無精ひげの生えた、どこにでもいるような顔と服装の青年だ。 どんな理由があろうと、半殺しは決定である。 「いい、ナミ? 今でこそ女性の権利ってのは確立されているけれど、それまではずいぶんと大変だったの。 女は家庭さえ守っていればいいなんて、どうしようもない言い方をされていたし、夫から暴力(DV)を受けて泣いてた人もいたわ。 強くなくちゃ、生きていけなかったの。 時代は変わってゆくけれど、これだけは覚えておいて。 ――恨みは倍にして返すのよ!! ――恨みは倍にして返すのよ!! 場合によっては三倍や四倍でも……あなたが返したいと思う倍率で返して差し上げなさい。 さあ、一緒に叫ぶのよ」 ――恨みは倍にして返すのよ!! ――恨みは倍にして返すのよ!! ――恨みは倍にして返すのよ!! ――場合によっては三倍や四倍でも!! いつか母と交わした言葉が脳裏を過ぎり……完全に半殺し決定である。 恨みを倍にして返すと単刀直入に言ったところで、盗み返すだけでは芸がない。 ならば、今までの苦労を味わわせてやれば良いのだ。 ガーネットは今ポケモンセンターで回復中だから、トパーズとサファイアの全力の一撃を食らわしてやるのが相応の処分だろう。 今までの苦労を思えば、むしろそれでも寛大なくらいだ。 『サーティーエイト』のアイスクリームも大切だが、今までの苦労が一瞬で水泡に帰す方がよほど重要に決まっている。 アイスクリームは逃げないが、バッジケースは逃げているのだ。 「くぉら〜、待てぇぇぇ〜っ!!」 ナミは全速力で青年を追いかけたが、子供の足では大人に追いつくことなど到底不可能だった。 デパートの中に入る頃には差もかなり開き、エスカレーター一階分になっていたが、それでもあきらめるつもりはない。 ナミの叫び声を聞いて、エリカは振り仰いだ。 彼女が怒り心頭の形相で、青年を追いかけているのが見えた。 「これはもしや……」 ただ事ではない……そう感じたエリカは、アイスクリームのコーンを全部口に押し込んで噛み砕くと、椅子を蹴って立ち上がった。 脳みそにお花畑が咲いているナミがここまで怒り心頭なのだから、よほどのことがあったのは疑いようがない。 エリカは着物に下駄という出で立ちではあったが、器用に走り、ナミに追いつくのにそれほど時間はかからなかった。 「何がありました?」 「バッジケースを盗まれたの!! 今までゲットしてきた五つのバッジ……全部あそこに入ってて……」 「まあ……」 ナミから事情を聞き、エリカは顔を真っ赤に染めた。 リーグバッジが入ったケースを盗むとは、言語道断。 リーグバッジの重みというものを誰よりも知るジムリーダーだからこそ、憤りを感じずにはいられなかったのだ。 どんな手段を使ってでも、犯人(ホシ)を挙げなければ。 とはいえ、ここはデパートの中である。 犯人を追い詰めるためだといって、問答無用でポケモンを繰り出し攻撃を仕掛けるわけにはいかない。 ならば…… ナミに併走して犯人を追いかけながら、エリカは懐からモンスターボールを取り出した。 「ガーディ。出番ですよ。ナミさんのにおいを追いかけて、盗まれたリーグバッジを取り返してください」 そっとささやきかけ、エリカはボールをデパートの中央に広がる吹き抜けへと投げ落とした。 「えっ!?」 荒唐無稽なやり方に、ナミは自分の置かれた立場すら忘れて声をあげた。 タマムシデパートは地上十階建てであり、今いる九階から地上までは三十メートル以上の高低差があるのだ。 いくらモンスターボールが丈夫にできていても、三十メートル以上の高さから自由落下して耐えられる保証はない。 重力加速度を受けて、徐々に増加する落下速度。 地上に激突する頃には、秒速数十メートルになっていたとしても何ら不思議ではないのだが…… 細かい理屈は抜きにしても、ナミは心配を抱かずにはいられなかった。 しかし、彼女の気持ちとは裏腹に、地上に落下していくボールは途中で口を開き、中から赤い身体の犬のようなポケモンが飛び出した。 ガーディというポケモンで、人懐っこく縄張り意識の強い性格だ。 警察犬にも用いられるほどの勇敢さも兼ね備えており、エリカはボディーガードとジムの警備を兼ねて、プライベートに育てていたのだ。 ジム戦用のラフレシアやキレイハナにこそ及ばないが、かなりの実力の持ち主。 ナミのにおいを追いかけて青年を捉えることくらい、造作もないだろう。 ガーディは三階あたりからボールから飛び出して吹き抜けを落ちていったが、 ちょっとした段差を飛び降りるように軽やかに着地を決めると、周囲を見渡しながら鼻を鳴らした。 「わんっ!!」 何か見つけたのか、一点で視線を止めると、咆えながら駆け出す。 ナミはガーディが着地した地点を眺めつつ、通行人を掻き分け、エスカレーターを駆け下りて行った。 本当にガーディだけに任せて大丈夫だろうか……心配していると、エリカが横からそっと声をかけてくれた。 「大丈夫、ガーディはちゃんと見つけ出しますよ。わたくしのポケモンですから。安心してくださいな」 「……うん、そうだね。ありがとう、エリカさん」 不安と心配の雲が、心の青空から少しだけ取り払われたような気がして、ナミは俄然やる気が湧いてきた。 青年がどんな理由でバッジケースを盗んだのかは知らないし、知りたくもない。 ただ、返してもらうだけだ。 その時に半殺しにしちゃうかもしれないけど、それは因果応報……当然の報いということで。 一階に降りた時、周囲は騒然としていた。 ポケモンが突然空から降ってきて、咆えながらデパートを飛び出していったのだ。 吹き抜けを遠巻きに囲む人たちの興味本心の眼差しが、ナミとエリカに向けられる。 血相を変えた女性二人と、空から降ってきたポケモンを関連付けるのに理由は要らなかったのだろう。 つくづく、人というのはこじ付けが好きなのだ。それも、外野なら好き勝手に言っていられる。 人々の中には店員の姿も見受けられた。 ナミたちとガーディを関連付けた中年の男性店員が、ごつい顔を活かすような足取りで二人の傍へ駆け寄ってきた。 前を塞ぎ、手を広げた男性店員の前で、ナミとエリカは立ち止まらざるを得なかった。 「お客様。当デパートの中ではポケモンをモンスターボールから出してはならない決まりになっております。 事情をうかがいたいので、申し訳ございませんが事務室の方へお越しに……」 決まり文句を投げかけてくる。 とことんマニュアルどおりにしか行動できないようである。 コンビニの店員じゃないのだから、少しは寛大な処置を施してくれてもいいのに……ナミはそんなことを思った。 本当はこんなところで立ち止まっている暇はないのだ。 嗅覚に優れたガーディが青年を捕まえてくれているのだろうが、自分の目でそれを確認しない限りは安心できない。 他人からの情報を鵜呑みにするほど、バカな女の子ではないのだ。 「仕方ありませんね……」 マニュアルどおりの言葉しか投げかけられないのは仕方がない。 それが『規律(ルール)』であり、『組織(コミューン)』というものだ。 ポケモンリーグもこれに似ているが、むしろそちらの方がキツイかもしれない。 エリカは懐から黒革の手帳を取り出し、開いてみせた。 「わたくしはタマムシジムのジムリーダー・エリカです。 火急の事態ゆえポケモンを出しました。 事情聴取は後で存分にしていただいて結構ですから、今は道を開けてくださいますか。 一人のトレーナーの血の滲むような努力が水泡に帰そうとしているのです」 その言葉に、手帳を見つめる男性店員の顔色が変わり、周囲からどよめきが起こった。 手帳の表紙の裏にはエリカの顔写真と、ポケモンリーグ公認ジムリーダーという印が押されていた。 これはジムリーダーの身分証で、これを持つジムリーダーは公共の場においてこれを使用することが許されている。 つまり、今のように差し迫った状態で見せれば、効果覿面というわけである。 「わ、わかりました。どうぞお通り下さい」 「ありがとうございます。ご協力、感謝いたします」 エリカは道を譲った店員に丁寧に深々と頭を下げると、さっと表情で駆け出した。 半歩遅れてナミも駆け出す。 タマムシデパートを飛び出した二人は、メインストリートを東へと向かった。エリカに先導される形で、ナミが続く。 「エリカさん、すごいね。なんか、黄門様の印籠みたい」 「そうでもありませんわ。必要なら、ああいうこともしなければなりません。 ジムリーダーというのは、単にトレーナーの挑戦を受けてリーグバッジを授けることだけが仕事ではないのですよ。 その地域の活性化も一翼として担わなければなりませんし、先ほどのように警察の真似事だってすることもあります」 ナミの言葉に、エリカは卒なく答えてのけた。 とはいえ、実際に手帳を出して緊急時だと周囲に知らせるのは初めてだったので、少し緊張していた。 今後も必要なら手帳を出すことになるのだろう。 そのいいリハーサルになったと思った方がいいのだろう。 「しかし、ずいぶんと離れてしまったようですね。 わたくしたちがデパートで足止めを食らっている間に、差がついてしまったようです」 「うん」 メインストリートを東へ走っていくが、一向に青年の影も形も見当たらない。 エリカは妙に冷静に言ってのけるが、さすがのナミも心配になってきた。 女の足で大人の男に追いつくのが難しいというのは分かっているが、デパートの店員が邪魔立てしたのが響いたに違いない。 エリカが手帳を出してくれなかったら、差は数十秒では済まなかっただろう。 その数十秒が明暗を分ける致命的な要素になるのではないか…… そんな難しい言葉でこそないものの、そのような不安が芽生えているのは確かだった。 それに、エリカは迷いもせずにメインストリートを東へ向かっている。 ついていっている自分が思うのもおかしな話だが、彼女は一体何を基準に東を目指しているのだろうか? デパートを出た時点で、選択肢は西と東にあったわけで、もしかしたら青年は西へ逃げて行ったのかもしれないのだ。 もしそうなら、デパートを出てから今までの数分が完全に致命的なミスとなる。 最悪、捕まらずにリーグバッジを盗み去られ、カントーリーグに出場できなくなる恐れすらあるのだ。 そうなったら、今まで旅をしてきたことの意味すら、揺らいでしまう。 足元が崩れてしまいそうな不安に襲われ、ナミは気が気ではなくなっていた。 「ねえ……なんでこっちだって分かるの?」 不安を紛らわすためには、確かめてみるのが一番だ。 そう思って、ナミは思い切ってエリカに訊ねた。 しかし、彼女は答えるより前にジムへ続いている道を曲がってしまった。 一瞬たりとも、迷いもせずに。 「これですよ」 「……?」 エリカは懐から緑に塗られた小石のようなものを取り出し、ナミに見せた。 「わたくしのガーディは追跡の途中にこれを落とすんです。 もちろんそうなるように訓練を積ませました。 ほら、あそこにも落ちているでしょう?」 ナミはなんだか分からないままに、エリカが指差した辺りに目をやると、彼女の掌の上にあるものと同じものが落ちているのが見えた。 「ああ、なるほど……そーいうことか」 やっと合点が行った。 エリカは非常時に備えて、ガーディに訓練を積ませていたのである。 彼女の指示に対し、ガーディは犯人を追跡する際、緑の小石のようなものを一定の間隔で落としていたのだ。 後からやってくるトレーナーが迷わないように。 分かれ道となるところでは、進む方に多く落とすという仕掛けだ。 ナミの心に宿る不安が完全に晴れ――彼女の表情はぱっと明るさを取り戻した。 「やはり、あなたには笑顔が似合っていますよ」 エリカは胸中でつぶやいた。 ナミは塞ぎこんでいるようなタイプではない。明るい笑顔で周囲を盛り上げていく、いわばムードメーカーとなるようなタイプなのだ。 何があっても明るく振る舞うのが似合っている。 それから二人は言葉少なめに、地面に落ちている目印を頼りに走っていき、とある細い路地の前までやってきた。 「この先?」 「そのようですね。心して行きましょう。必要とあらばポケモンを使っても構いませんよ。 責任はわたくしが取ります」 「うん」 ナミはごくりと唾を飲み、腰のモンスターボールを手に取った。 ガーディが落とした緑の小石が周囲に散乱しているのを見れば、犯人がこの先に逃げ込んだのは間違いない。 「では、参りましょう」 エリカが先陣を切って路地に足を踏み入れた――ちょうどその時、 「うわぁぁぁっ!! なんだ、止めてくれぇっ!!」 出し抜けに、悲鳴が聞こえてきた。 突然のことにナミは驚いたが、エリカは駆け出した。 少し遅れてその後を追う。 路地は大人が二人並んで通るのがやっとという狭さで、ところどころにゴミなどが落ちていることもあって、歩きにくかった。 だが、そんなことを気にしていても仕方がない。 ポテトチップスの袋やつぶれた缶といったものは構わずに踏みつけて、走る。 それほど時間もかからずに、一本道の路地の行き止まりに突き当たった。 そこには、ガーディに襲われて周囲に助けを求めているみっともない青年の姿があった。 「あ、この人だ!!」 ナミは恐怖に顔を引きつらせている青年を指差した。 間違いない、リーグバッジのケースを盗んで行った犯人だ。 万が一にも見間違いはありえない。 大切な思い出を盗んでいった、鬼畜にすら劣る行為をした相手だ。 「この方ですか……」 エリカは呆れるように言うと、冷ややかな視線を青年に向けた。 表情こそ普段と変わらず穏やかなものだが、相当に怒っているのだろう。 助けを求める青年に手を差し伸べる素振りは、当然見せるはずもない。 言うなれば彼は窃盗犯である。 刑事裁判にかけられれば懲役十年以下の実刑を受けることだろう。 そんな相手に情けなど必要ないのだ。 「そ、そこの麗しいお姉さん!!」 「……?」 青年はエリカの姿を認め、容赦なく引っかいたり噛み付いてくるガーディから逃れるべく助けを求めた。 Yの字を模したロゴが印象的な有名ブランドの服も、ガーディの攻撃で無残にもズタズタに引き裂かれてしまっている。 髪もボサボサで、ガーディが容赦なく痛めつけているのが見て取れる。 みすぼらしくなってしまった青年の言葉に、エリカの眉がかすかに動く。 「そう、そこのお姉さんです!! このポケモンを何とかしてくださいよ!! うわっ、な、何するんだ!!」 反応してくれたということで期待したのだろうが、いつまで経ってもエリカはガーディをモンスターボールに戻さなかった。 いい気味である。 ナミが苦労して集めたリーグバッジを盗んでいく輩だ、これくらいヒドイ目に遭うべきなのだ。 言うなれば社会的(?)な制裁で、これは認められるべき行為だ。 仮に訴えられたとしても、窃盗という証拠を突きつけてやれば、それで相手も沈黙するだけの話。 「ちょっとそこのお兄さん!!」 ナミはかっと胸が熱くなったのを感じ、居ても立ってもいられなくなって青年の傍へと大股で歩み寄った。 「げげっ……!!」 エリカに助けを求める時には目に入らなかったようで…… 仁王のごとく怒りに顔を染めたナミを見つめ、青年は驚愕に目を大きく見開いた。 もはやこうなれば言い逃れはできない。 見覚えのある相手だからこそ、こういう反応を見せたのだ。 「あたしのリーグバッジ返して!! あれは大切なものなんだから!!」 凄むナミだが、青年はガーディに苦慮するばかりで、全然聞いていないようだった。 あるいは無視しているようにすら見えた。 「な、なんのことだよ……」 それどころか、シラを切るではないか。 子供に凄まれても怖くないと威勢を張っているものの、ガーディに襲われて完全に怯えているようだ。 声が裏返っていることにも気づいていない。 「な、なあお姉さん。 いきなりこのポケモンが襲ってきたんだ。本当だよ!! 何の恨みがあって……いてっ!!」 青年は何食わぬ口調で言ってのけたが、エリカがそんな言葉をまともに耳に入れているはずがない。 「それにしては、先ほど彼女を見た時に表情が変わりましたね。 さて、どう言い訳をするおつもりですの?」 鈴音のような声で青年に問い掛けた。 すると、呆れた答えが返ってきた。 「いや、あれはその……そうだ、知り合いの妹に似てて…… その知り合いの妹は身体が弱くて、ひとりじゃこんなところにまで来られないから、ビックリして……」 「ほう……そうですか」 「そうなんだ!! 分かったら頼む、助けて……!!」 「分かりました…… なんて言い訳が通用すると思ったら大間違いですよ。ガーディ、助ける必要はありません。もっと痛めつけてあげてください」 「うわーっ!!」 エリカがガーディに指示を下すと、いよいよガーディは激しく暴れ立て、青年の悲鳴が細い路地にこだました。 この期に及んでシラを切り通すとはいい根性である。 もちろん誉めるつもりはないが、その根性をもっと別の場所で発揮すればいいのだ。 そうすれば、こんな風にジムリーダーのプライベートなポケモンに襲われることもない。 「お兄さん!! これ以上イタイイタイって騒ぎたくなかったら、さっさと返してよ!! あれは本当に大切なものなんだから……アカツキと一緒に旅をして、一緒に頑張って手に入れた宝物なんだからっ!!」 ナミはうっすらと涙すら滲ませながら叫んだ。 そう…… リーグバッジは努力の結晶であり、ナミにとってはかけがえのない宝物なのだ。 それを盗んだ相手を許すわけにはいかない。 だが、正直に返してくれれば、水に流してもいいと思っている。 青年が何を思ってリーグバッジを盗んだかなど、知る気もなければ知りたくもない。 ただ、返してくれればそれでいいのだ。 「返してくれなかったら……」 ナミは手にしたモンスターボールを高々と掲げた。 「わーっ!! 返す、返すよ!!」 もう一体ポケモンが追加されたら、今以上にひどい目に遭う……さすがにそれくらいは分かるのか、青年はやっと素直になった。 ズボンのポケットからリーグバッジが入ったケースを慌てた様子で取り出し、ナミに放り投げた。 ナミは受け取り、中身を確認した。 ちゃんと五つのバッジがある。 途中で摩り替えたという可能性も考えて念のためにエリカにも見せたが、本物だと確認できた。 「はじめからそうすればいいのに……どうして嘘ついたの? まあ、あたしにとってはどうでもいいんだけどね」 親身になって問い掛けるフリをして、ナミは口の端に笑みを浮かべた。 素直に返してくれたことはうれしい。 だが、煮えたぎるこの気持ちとは別物だ。切り離して考えるべきだ。 青年の顔が青ざめた。 ナミが浮かべた笑みに、彼女が何をするつもりなのか、悟ったからだ。 「ちょ……ちょっと待て……ちゃんと返したんだぞ、許してくれよう……」 「トパーズ、出てきて〜」 低い腰で許しを乞う青年に一瞥くれて、高々と掲げられたボールからトパーズが飛び出した。 トレーナーの意を汲み取ったのか、トパーズはゆっくりと青年の前まで歩いて行った。 「エリカさん、ガーディを戻してくれる?」 「ええ、分かりました」 ナミの言葉に、エリカはガーディをモンスターボールに戻した。 一難去って、また一難。 今の青年の状況はまさにその言葉がピタリと合った。 エリカも、ナミが何をするつもりなのか分かった。 しかし、止めに入る気にはならない。一度だけなら、いい薬だ。 それくらいのことは大目に見るつもりでいた。 「トパーズ……レディ(準備は)?」 ナミは青年を指差し、ポツリと指示を出す。 準備できたと言わんばかりに頷くトパーズ。 「レッツ(じゃ)、10万ボルトっ♪」 刹那、トパーズが全身の体毛を針のように逆立て、電撃を撃ち出した!! 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 青年の史上最大級の悲鳴が、大気を震わせた。 両脇の建物の屋根に留まっていた鳥たちが、一斉に羽ばたいた。 「はあ……」 気づけば漏れるため息。 これで何度目だろうと思う。 オレはふかふかのベッドに寝そべりながら、クリーム色の天井を見上げていた。 ここはポケモンセンターの一室。 今日なら部屋が空いているとジョーイさんが言っていたのを思い出して、ジム戦の後急いでやってきたんだ。 全力で突っ走ってきたのが幸いして、辛うじて最後の一部屋をゲットできた。 ナミとは相部屋になってしまうけど、それは仕方がない。 野宿に比べれば楽だし、少しくらいなら抵抗もないから。 そのナミは今ごろ、エリカさんとタマムシデパートでショッピングを楽しんでいるだろう。 まあ、二人揃ってそういうのが好きらしいから、心行くまで楽しんでくれればいい。 ナミにとっても、いい気分転換になるだろう。 で、オレはこうして今晩の宿に確保したポケモンセンターの一室でノンビリすることにしたんだ。 今日のジム戦は今までとバトルの形式が違っていたせいか、とても疲れた。 ガーネットとラズリーのモンスターボールをジョーイさんに預け、オレはこの部屋にやってきた。 そして、倒れこむようにベッドに横になったんだ。 ラズリーの特性『もらい火』を活かせなければ、たぶん負けていただろう。 ポケモンバトルにとって相性が重要だということは分かったけど、それだけがバトルに勝利する要素じゃない。 エリカさんの草ポケモンは育て抜かれていて、危うく負けてしまうところだった。 いつも使っていたコンボを逆に使われて、ちょっと慌ててたってこともあったかな。 ガーネットの火炎放射がラズリーにヒットした時にはハッキリ言ってビックリしたけど…… 次の瞬間には、これをチャンスにするしかないと思ったんだ。 いくらエリカさんでも、炎でダメージを受けないとは考えないと思ったからな。 ある意味賭けで、成功してよかった。 かくして五つ目のバッジをゲットできたわけだけど、カントーリーグに出場するのに必要なのはあと三つ。 これからの道筋を考えてみると、こんな風になる。 タマムシシティの西にある、オーシャンビューが自慢で潮風を感じながら楽しめるサイクリングロード。 悠々と自転車に乗りながら通って南のセキチクシティへ向かい、そこで六つ目のバッジをゲット。 六つ目のバッジをゲットしたら、セキチクシティの南にある船着場から、南西のグレン島に向かう。 初めての船旅を楽しみつつ英気を養い、グレンジムでのジム戦で七つ目をゲット。 グレン島から船に乗ってマサラタウンの南の港へ。 そこからマサラタウンに一時的に戻って、すぐにトキワシティへと出発する。 最後のジムはトキワジムだ。 日程的に一番短くて、無駄のない移動ルートを考えるとこうなるんだけど、言い換えれば急ぎ足ってことになる。 街と街を移動する間にポケモンを鍛えておかないと、結構大変なことになりそうな気がするんだよな。 ポケモンをゲットできるチャンスも限られてくるだろう。 見つけて「イイ」と思ったら速攻でゲットするくらいの意気込みがないと難しい。 ある程度は運の要素もあるんだろうけど。 オレのポケモンは四体。ナミは三体。 カントーリーグに出場するには六体以上のポケモンがいなければならない。 カントーリーグが始まるのは八ヶ月もあるけど、八ヶ月で足りるかどうか…… なるべくなら早い段階でカントーリーグにエントリーするポケモンを決めて、重点的に育てていかなくちゃいけない。 無駄な時間なんて本当は一秒もないんだろうけど、休める時に休んでおかないと、後々響きかねない。 そこんとこの釣り合いというのが難しいところだなあ…… マサラタウンを旅立って、一ヶ月がもうすぐ経とうとしている。 でも、一ヶ月足らずで六つも街を回り、五つもバッジをゲットできたんだから、自分で言うのもなんだけど大したモンだ。 急ぎ足にしてはしっかりと足元を固めてたってことになるからね。 「サトシとシゲルは結構時間かけてジムを巡ってたって聞いたけど、オレたち、急ぎすぎてるのかなあ……」 ふと、サトシとシゲルの顔が脳裏に浮かんだ。 どういうわけかその顔は自信に満ち溢れているように見えた。 でも、オレにとってあいつらのイメージがそういう風だってことなんだろうな。 二人とも去年のカントーリーグに出て、本選にまで勝ち進んだんだ。 旅立った年に出場して本選まで駒を進めるっていうのは、じいちゃんに言わせれば「大変なこと」なんだそうだ。 トレーナー歴の長い人もいるって聞くけれど、二人が本選にまで進めたのは運だけじゃなかったに違いない。 二人ともそれぞれのポケモンを信じ、ポケモンと共に戦っていた。 テレビ越しにも、それがよく伝わってきたよ。 その時ばかりはサトシのことを素直にトレーナーとして認めることができた。 だって、サトシったらガキの頃からオレやシゲルのことを猛烈にライバル視して、事あるごとに張り合おうとしてたんだから。 シゲルはサトシの神経を逆撫でするような言葉で挑発しまくって楽しんでたけど、オレはほとんど聞いてないフリをしてたっけ。 ああいうタイプとつるんでる暇が惜しいって言うか……いや、面倒くさかっただけだな。 そう思っていたら、オレはあっさりとサトシに追い抜かれていた。 トレーナーとして勝負したら、たぶん今のオレじゃ勝てないかもしれない。 そう思わせるくらい、サトシのポケモンは育てられてたんだ。 ジョウトリーグの本選でシゲルとバトルした時も、進化形が勢ぞろいしたシゲルのポケモンたちを打ち負かした。 サトシのポケモンには進化前のポケモンが多かったけど、トレーナーとの信頼の絆が能力の差など跳ね返して勝利を引き寄せたんだ。 ラッシーの『状態異常の粉+葉っぱカッターコンボ』なら何とかなるかと思ったけど、素直に引っかかってくれるかどうか…… ハッキリ言って自信がないな。 サトシと同じキャリアになったら、勝てるんだろうけどさ。 サトシは八つのバッジを集めてカントーリーグ出場権を獲得してから開催されるまで、マサラタウンで修行をしていた。 オレはじいちゃんの研究所からその様子をたまに眺めていたけど、あれって修行よりも遊びって言った方がいい。 根詰めてやるよりは、ノビノビとやった方がポケモンも落ち着けるってことなんだろう。 さすがにそれを見習う気はないけど、厳しい修行の合間にリラックスするというのは大切なことだと思う。 「オレもあいつらには負けられないからな…… 最強のトレーナーになるってことは、あいつらを倒さなきゃいけない日が来るってことだ」 オレは夢への決意を示すように、一人っきりの部屋でつぶやいた。 オレの夢は言うまでもなく最強のトレーナーと最高のブリーダーだ。 『最強=ナンバー・ワン』だから、いつかはサトシやシゲルと戦う日も来るだろう。 その時までにオレたちがどれだけ強くなっているかっていうことだ。 何があっても負けられない。 あいつらと戦うのが先か、あるいは親父を倒してオレの道をつかみ取るのが先か。 どっちにしたって、両方に負けるつもりはないんだから。 シゲルは今トレーナーじゃなくて博士としてバリバリ働いてるからいいとして、問題はサトシだ。 ホウエン地方で、未知のポケモンと共に様々なことを吸収しているはずだ。 カントー地方では見られなかったものを見て、感じられなかったものを感じて、成長を続けているはずだ。 オレもカントーリーグが始まるまでの間に、別の地方を巡ってみるのもいいかもしれない。 カントーのポケモンは知り尽くしたと思ってるし、ありふれたポケモンを見ても何の刺激も感じられなくなっているからさ。 なんていうか……マンネリって感じ? サトシは最初のパートナーであるピカチュウだけを連れてホウエン地方へ旅立った。 ヘラクロスやらワニノコやらヒノアラシやらベイリーフはじいちゃんの研究所で預かっている。 オレもじいちゃんやケンジ、ナナミ姉ちゃんの手伝いで面倒を見ることがある。 そんな中、一度だけサトシのベイリーフに触れる機会があった。 ベイリーフは素直な性格で、いつも世話をしているじいちゃんたちだけじゃなく、オレにも愛想良く接してくれた。 また、ある意味甘えん坊で、じゃれ付くつもりでのしかかってきたこともあった。 押し倒されて四苦八苦しながらも、サトシのポケモンらしいなって思ったもんだ。 だけど、サトシの決意が並大抵のモノじゃないのは、そんなことがなくても分かったよ。 愛情を受けて育ったポケモンたちを置いてまで、ホウエン地方という未知の世界へ飛び込んだんだから。 でもな、オレはサトシに負けてるつもりはないんだ。 ポケモンに注ぐ愛情は誰よりもたくさんあって、深いものだと思ってる。 誰にも負けないって思ってる。 必要なのは、オレがポケモンの力を最大限に引き出せるような強いトレーナーになるということだけだ。 ラッシー、ラズリー、リッピー、リンリ……いずれも高い潜在能力を持っているポケモンだ。 愛すべき仲間たちだから、彼らを見る目が曇っていると思われるかもしれない。 でも、オレには分かるんだ。 オレがもっとトレーナーとして強くなれたら、彼らもきっとオレの期待に応えてくれると。 「もっと頑張らなくちゃな」 やるべきことはたくさんあるんだ。 今まで以上にポケモンのことを知ることとか、技の効力と特性を関連付けた新しいコンボの開発。 それに、ポケモン同士のコンビネーションの強化…… 途方もない数が浮かぶけど、だからこそ遣り甲斐っていうのを感じられると思うんだ。 「まずはバッジを集めることだ。 ジムリーダーとのバトルをこなすたびに、オレは新しい何かを身につけたような気になれる……」 タケシ、カスミ、ナツメ、マチス、エリカさん…… 五人のジムリーダーと戦ってきて、オレは今までとは違うと気づいたことがある。 戦い方や、ポケモンバトルに対する考え方さ。 旅立つ前とは何かが違う。でも、明らかに『違い』が分かるんだ。 それを言葉で言い表すのは難しいかもしれない。 なにしろ適当な言葉が思い浮かばないんだ。 だけど、確実な変化をかすかな流れとして感じている。 八つのバッジをゲットする頃には、それは大きな流れや「うねり」となってオレの前に現れてくるんだろう。 今のオレにできるのは、数少ない機会を確実に『モノ』にしていくとか、その機会をなるべく増やすとか…… そんなことくらいだけど、何もしないよりは断然マシなはずだ。 「トキワジムに行く時に、マサラタウンに一度戻ることになるんだよな……」 不意に、故郷のことが懐かしくなった。 勘違いしてもらっちゃ困るんだけど、別にお家が恋しくなったってことじゃない。 何が悲しくて、あんな親父がいるかもしれない家を恋しく思うものか。 ただ、最短ルートでは必ず通ることになるってだけさ。 グレン島からはセキチクシティとマサラタウンの南の港の二箇所にしか船が出ない。 わざわざセキチクシティに戻っても、やたらと遠回りになるだけだ。 今までの思い出を振り返りながらトキワシティに向かうっていう手もあるけど、時間の無駄遣い。 とはいえ、そんなにマサラタウンを通りたくないってワケじゃないんだ。 むしろ、親父が学会とかで家を空けているんなら、戻ってもいいと思っている。 要するにアキレス腱が親父ってだけで、それ以外に嫌な要素はない。 むしろじいちゃんにオレたちのポケモンを観てもらうっていうステキな選択肢もあるくらいだ。 じいちゃんは元気にしてるだろうか? 考えるだけヤボなことかもしれないと、じいちゃんの顔を思い浮かべてから気づいたよ。 大好きなポケモンたちに囲まれた暮らしを心の底から楽しんでるんだから、そりゃ元気でないはずがない。 ただ、ずいぶんと歳だから、無茶してなければいいなって思うんだ。 それに…… 「たまには、母さんにも電話してやらなくちゃいけないよな。 本当なら元気な顔を見せるのが一番なんだけど……」 よくよく考えてみれば、今の今まで連絡の一つもしたことがなかったっけ。 カントーリーグに出ることとかで頭がいっぱいで、気がつけば取り落としてたって感じなんだよな。 オレは、母さんのことは好きだよ。 親父の肩を持つことが多いことさえ除いたら、世界で最高の母親だって思ってるんだ。 だから、オレのこと心配してるのかもしれない。それなのに連絡の一つも入れてないなんて、親不孝なことなんだろう。 「部屋も確保したし、母さんに電話してやろうかな」 思い立ったが吉日。 ……ってワケじゃないんだけど、マサラタウンを通るまで音沙汰なしっていうのも、なんか気味悪い。 母さん、あれで結構思い込みが強い性格なんだよ。 ガキの頃、連日の学会通いで親父の帰りが遅くなったり外泊したこともあったから、母さんは親父が浮気してるんじゃないかって思ったらしい。 思い込みが強いってことはそれがすぐに確信に変わったということで、母さんは親父が帰って来た途端にケンカ腰で詰め寄ったんだって。 さすがの親父も、浮気なんてする気もないのにそんなことを高圧的に言われたものだからプツンと来て、夫婦ゲンカが勃発。 罵詈雑言なんぞかわいい方で、皿が飛ぶわ花瓶が舞うわ招き猫は粉々に割れるわ…… 世界大戦に匹敵するような大戦争にまで発展したものだから、物心つかないオレは何がなんだか分からなくなって、 火がついたように泣き出したってことがあったらしい。 オレはあんまり覚えてないんだけど、ナナミ姉ちゃんやシゲルがからかい半分で話してくれた。 あんまり覚えてないからと言って、鵜呑みにする気はない。 だけど、母さんが思い込みの強い性格だってのを考えれば、あながち嘘でもないんだろう。 ある意味とんでもない夫婦の子供に生まれたもんだと思ったけど、 まあそのおかげでオーキド・ユキナリ博士がじいちゃんなんだから、悪いことばかりでもないかな。 オレが何か危険な事件とかに巻き込まれてないかって心配になったら、 マサラタウンを飛び出してでもオレのこと探しにやってきそうな気がするんだ。 あんまりそこまでされるのも面倒だから、っていう意味もある。 オレは身を起こすと、ルームキーだけを持って部屋を出て行った。 確保した部屋は三階の廊下の突き当たりに位置していて、自然公園を一望できるんだ。 人工物に満たされた街の中にあって、最高のロケーションと言える。 大都市のポケモンセンターだけあって、廊下は広く、それでいて豪華に見えた。 マサラタウンのポケモンセンターに比べれば雲泥の差なのは言うまでもないんだけど、まあそれは仕方がない。 大都市なのにマサラタウンと同じ規模や材質でできてたら、手抜きだって思われたりするんだろうし。 窓枠にもたれかかりながら話に興じているトレーナーの脇を通り抜け、スロープつきの階段を駆け下りる。 ジム戦で勝利し、五つ目のバッジがゲットされた直後ということもあって、オレの心はまだ昂ぶっていた。 母さんにオレの元気な顔を見せてあげられると思ったからかな……自分のことなのに、よく分かんないや。 あっという間にロビーに到着し、隅に何台か据えつけられてあるテレビ電話の受話器を取った。 耳に当てて「プー」という音が聞こえたのを確認して、電話をかける。 母さんが出るまでの間、逸る心を抑えるように、オレはロビーを見渡した。 数百もある椅子の半分ほどがポケモンとトレーナーによって埋まっていた。 大きなポケモンなんかは一つじゃ飽き足らず、二つも三つも使ってるけど……それでもまだ余裕はあるだろう。 カウンターではジョーイさんがラッキーを総動員して、忙しく動いている。 次々とモンスターボールを回復の機械に入れたり取り出したり。利用するトレーナーが多いから、大変なんだろう。 どんなポケモンセンターでもジョーイさんは一人なんだ。 マサラタウンだろうとタマムシシティだろうと、それは変わらないらしい。 仕事量に明らかな差はあるけれど、ジョーイさんを手伝うラッキーはポケモンセンターの規模に応じて増員されるとか。 それでも指示を出すのはジョーイさんなんだから、大変なものは大変なんだろう。 てきぱきと動かなきゃ捌ききれないくらいの仕事量があるに違いない。 何度目かの呼び出し音の後で、受話器から母さんの声が聞こえた。 オレは電話の液晶画面に顔を向けた。 「あ、母さん。オレだよ」 「アカツキ。元気そうで何よりだわ」 液晶画面の向こうにいる母さんはニコニコしていた。オレの顔を見れたのがうれしいんだろう。 旅に出る前とまったく変わっていない。 この歳(少なくとも三十路は確定)になると、たかだか一ヶ月じゃ変わらないんだろうな。 「ちょっと大きくなったわね。 顔も少しだけ大人っぽくなってきたし……いろいろとあったんでしょ」 母さんは世間話でもするような他愛ない口調で、友達と話すように言ってきた。 それなりに楽しんでるのがバレバレな表情だ。 「でも、今まで電話の一つもかけてくれなかったから、本当に大丈夫かなって心配だったのよ」 「ごめん。忘れてたわけじゃないんだ。結構忙しくてさ」 「ふーん……」 何気にキツイ言葉にドキッとしながらも言葉を返したけど、母さんは口の端の笑みを深めると、目を細めた。 うわ……絶対に見抜かれてるよ。 「忘れてた」なんて口が裂けても言えないから、適当に言い繕ったんだけど……こりゃダメかも。 おとなしく認めようかと思ったけど、追及してこなかったら何事もなかったかのようにしよう。 必要以上に心配をかけないためにも、曖昧にしておいた方がいいんだろう、きっと。 オレがそう思っているのも見抜いているように、母さんは素知らぬ顔をして、続けた。 「でもね、ちゃんと顔を見せてくれただけで安心したわ。 元気そうだし……ちょっと凛々しくなったかな」 「え、ホント?」 「冗談でそんなこと言わないわよ」 「そうかな……あんまり分かんないよ」 「そういうものよ」 母さんの言葉を、オレは理解できなかった。 凛々しくって……オレ、十一歳だぞ? そんなことはないと思うんだけどな……でも、冗談のつもりで言ったわけじゃないんだろう。 じいちゃんなら同じこと言うのかな? 「まあ、いいわ。それより今、どこにいるの?」 「タマムシシティだよ。マサラタウンからはあんまり遠くないけど……いろんな街を回ってきたんだ」 「そうみたいね。 でも、もうタマムシシティまで行ってたなんてね……結構急いでたのかしら」 「そんなつもりはないんだけど……あんまり一箇所に留まるようなことをしなかったってだけだよ」 「あなたらしいわ」 「ホントに?」 「ホント」 母さんの言葉に、オレは訝しげに眉根を寄せた。 急いでたとは思わないな。 ただ、ゆっくりしたくないっていう気持ちは強かったよ。 端から見れば急いでるように見えるのかな……? なんて思っていると、母さんは笑みを深めて首を傾けた。 「ナミちゃんは一緒じゃないの?」 「今はタマムシデパートに行ってる」 「一緒じゃなくて良かったの? あの子を一人ぼっちにして大丈夫?」 う…… オレは言葉を詰まらせた。 ナミを一人ぼっちにして、変なトラブルが起こったりしないか? 母さんは暗にそう言ってるんだ。 ま、まあ…… 確かにナミを一人にしたら何が起こっても不思議じゃないんだよな。 でも、今はエリカさんがナミの面倒を見てくれているはずだ。 よもや意気投合して二人でトラブルを起こしているとは思えないんだけど……ああ、言われて初めて不安になるよ。 「冗談よ」 「……それ、すっごく心臓に悪いんだけど。できれば止めてほしいなあ」 「ふふふ……」 母さんは完全に楽しんでいるようだった。 冗談なのか本気なのか、まったく分からない。 ここまで性悪だったっけ、母さんって……意外な一面を思い知ったような気がするよ。 「この街で知り合った人がいてさ……その人と一緒にいるから大丈夫。信頼の置ける人だから」 「あなたがそこまで言うんだから、大丈夫なんでしょ」 「言わなくてもそうなんだよ」 「そうね」 オレがちゃんとこういう風に言わなかったら、どうなってたんだろう。 いや、言わなくても分かってたんだろうな。 ちぇっ、子供だからってからかっちゃってさ…… オレが不快感を表情に出しているのに気がついたようで、母さんは柔和な笑みを深めた。 かわいいなんて思ってるんだろうか……気にはなるけど、訊けなかった。 そうよ、なんて答えられたらどうしようと思ってたんだから。 「母さんはどう? いつもと変わってない?」 モヤモヤした気持ちは、まるでフライパンにこびり付いた焦げ目みたいな感じだった。 有害じゃないけど、だからといって身体にいいワケでもない。 単に気に障る程度だけど、気にはなる。 気持ちを切り替えようと、話を変えた。 「変わってないわよ。この歳になると、成長しないからね。老化しかしないわ」 「いや、そういう意味じゃないんだけど……」 一転真顔で答える母さんに、オレは手を振った。 いきなりそんな深刻そうに言わなくても。 そんなつもりで訊ねたわけじゃないんだからさ。 「分かってるわ」 「ホントに?」 「ホントよ」 「……ならいいんだけど……じいちゃんやナナミ姉ちゃんも元気そうかな?」 どうにも参ってしまいそうな気分を摩り替えるべく、またしても話を変えた。 話を変えるたびに参ってしまうんじゃないかって考えは、幸か不幸か頭に浮かばなかった。 「それはもう元気よ。 この間なんか、ゴルバットを追いかけていたわよ。 ケンジ君やナナミちゃんも一緒だったわ。悪戦苦闘していたけど、とても楽しそうだったわ」 「そっか。それならいいんだ」 ……どういう意味だ? ツッコミを入れたくなるのを我慢するのに、オレはなぜか必死になっていた。 悪戦苦闘していたけど楽しそうって……しかも、あのゴルバットが相手だろ? じいちゃんの敷地には、やんちゃが過ぎたゴルバットがいるんだ。 手の焼けるところがまたカワイイと言って、じいちゃんもナナミ姉ちゃんも気にかけている。 またあいつが面倒を起こしたのか……またツッコミどころを見つけてしまって、思わず喉元にまで上がりかけてきた。 無理に飲み下したけど、なんだか痛い。 だけど、じいちゃんたちも元気そうで良かったよ。 もう少ししたら、じいちゃんの研究所にも電話を入れようかな。 「そういえば、シゲル君が結構珍しいポケモンを捕まえたとかで、おじいちゃんの研究所にいっぱい転送されてきたって」 「シゲルが?」 「ええ」 思わぬタイミングでシゲルの名前が飛び出したものだから、オレは驚きを禁じ得なかった。 ツッコミを押し殺そうと必死になっていたのが嘘のように、何の言葉も出てこない。 「あの子、博士を目指して頑張ってるみたいだけど、トレーナーの方も頑張ってるみたいよ。 二束の草鞋っていう意味じゃ、あなたと同じね。トレーナーとブリーダーなんだもの」 「そうだな……」 オレは適当に相槌を打ったけど、シゲルが何を考えているのかくらいは予想がつく。 博士を本命に据えていながらも、研究に役立つから……とトレーナーも続けてるってことなんだろう。 シゲルらしい考えと言えばそうなんだけど、オレも同じなんだよな。 トレーナーとブリーダー。 二束の草鞋って言っても、いつかはどちらかに決めなくちゃいけない。 シゲルは迷うことなく博士になるって決めてる。 でも、オレはまだ決めていない。決められるほど簡単なものじゃないんだ。 この旅は、オレが進むべき道を決めるためのものでもある。 簡単には決められないだろうけど、それでも何もしないままじゃ、絶対に悔いが残る。 進むべき道を決めた時に、悔いを残したくないから、いろんなものを見たり聞いたり感じたりしてるんだ。 「どうなの? どっちかに本命を据えられそう?」 「ううん。まだ無理。よく考えてみてくれよ、まだ旅立って一ヶ月しか経ってないんだよ? そう簡単に決められたら、今ごろこうやってノンビリしてないって」 「そう言われればそうね。揚げ足を取るのが上手になったわね」 「あのねえ……」 呆れながらも、オレはやっぱり母さんは母さんなんだと思った。 揚げ足取るのが上手になったと言われても、オレよりも母さんの方がよっぽど上手だ。 煮ても焼いても食えないような親父と夫婦喧嘩を繰り広げるようなスゴイ奥様だ。 揚げ足の一つや二つを取るくらいは造作もないんだろう。 はあ……やっぱりオレの生みの親だけのことはあるよな。 何もかも見透かされてるような気になる。 「でも、いつかはちゃんと決めなくちゃダメよ。 お父さんがね、トレーナーか博士かって決めるのに悩んだって聞いたことがあるから……」 「親父が……悩んだのか? 信じられないよ」 オレは頭を振った。 いきなり親父を引き合いに出されたのは癪だけど……でも、意外な気がした。 親父って言えば初志貫徹みたいなイメージがあるから。 これと決めたら二束の草鞋だろうがなんだろうが平気で突っ走っていくんだろうと思っていたけれど…… 親父でも悩むことあるんだ。 「……!!」 なんとなく親父に同情的になっていた自分自身に気がついて、オレは頭を激しく左右に打ち振った。 なんであんな親父に同情なんかしなくちゃいけないんだよ!! オレの夢をつぶそうとしてるような、ロクデナシに!! 気づけば目つきも鋭く尖り、犬歯をむき出しにしかけていたようで、母さんは複雑な表情を見せた。 「ねえ、アカツキ」 「なんだい?」 オレは昂ぶる気持ちを押さえ込んだつもりだったけど、ダメだった。 口調まで刺々しくなってる。 ごめん、母さん…… どうにもならなくて、オレは心の中で母さんに謝った。母さんが悪いわけじゃないのに、なんてことをしてしまったんだろう。 親父め……間接的に母さんを傷つけてしまうなんて、どこまでもロクデナシなんだ……!! 親父に対する憤りが沸々と湧きあがるのを感じずにはいられない。 「言いにくいんだけど……あなたがお父さんのこと嫌ってるのは分かってるわ。 でもね、お父さんにもお父さんなりの考えがあるってことだけは理解してあげて。 無理に受け入れなくたっていいの。反発したっていい。 あなたにもあなたなりの考えがあるってことも、お父さんはちゃんと分かっているから……」 母さんは冗談を連発していた時の勢いがまったく感じられない、弱々しい口調で、今にも消えそうな声で言った。 何かを訴えかけてくるような言葉に、オレは不思議と親父に対する憤りが少しずつ薄れていくのを感じた。 オレにとってどんなに嫌な親父だろうと、母さんは親父のこと今でも愛してるんだもんな。 愛し合ってなきゃ、結婚だってしなかったし、オレも産んでくれなかっただろう。 「親父が何を考えてるかは分かんないよ。 でも、オレは親父の考えを押し付けられるのだけはゴメンだ。 親父はオレをじいちゃんのような博士にしたがってるけどさ……なんでなんだろう? 理由、教えてもらったことがないから、余計に反発しちゃうんだ」 オレは素直に打ち明けた。 親父はオレに博士になれってしつこく言うけれど、その理由は教えてくれなかった。 ただ「なれ、なれ」って連呼されるだけで理由も教えてもらえないんじゃ、反発するに決まってる。 誰だって自分の進む道を強制されるのは嫌だし、その真意も分からない以上は従う気にはならない。 シゲルは旅に出る前にオレにこう言った。 「君にはポケモンの知識があるからね。普通の研究者だって真っ青さ」 ポケモンの知識がある……それだけの理由で博士になれって言われるのは納得いかない。 その知識をどういう形で活かそうと、それはオレの勝手であって、誰かに口出しされる筋合いなんかないんだ。 増してや、口出しする相手が実の父親なんだから……これほど腹立たしいこともないだろう。 これが他人なら、頑とした口調で突っぱねてやれば後腐れもなく終わるんだろうけど。 オレの夢は最強のトレーナーと最高のブリーダーだって、親父にだって何度も説明してきた。 口げんかをしながら、吐き捨てるように言ったことだってある。 親父はオレの言葉を受け止めても、それでも博士になれと迫ってくる。 別に……博士っていう職業が嫌いなわけじゃない。 ただ、博士よりもトレーナーやブリーダーの方に魅力を感じるんだ。 だから博士という道を選ばない。それだけのことなのに。 親父はどうあってもオレの進むべき道を博士に固定したいらしい。 あの手この手で、オレの夢をつぶしにかかってきてるんだ。 あちこちに影響力を持つ親父なら、それも不可能じゃない。 やろうと思えばいつだってできるのに、今すぐそれを実行してこないのも妙に腹が立つ。 オレのことを舐めてるのか、それともじわじわと弄るようにしていくつもりなのか。 どっちにしたって腹が立つのは間違いない。 「アカツキ。 わたしはね、あなた自身が決めた道を歩んでほしいと思ってるの。 お父さんに博士になれって言われたからって、気にする必要はないわ。 きっと、何か考えがあってそんなことを言ってるんだと思うから」 母さんはオレの感情を意識してか、言葉を選んでいるようだった。 目を伏せているのも、オレと親父に対して後ろめたい気持ちがあるからだ。 どっちの肩も持ってやりたいけど、それができないっていうのが辛いんだろうな。 「一度お父さんに聞いてみたの。 でも、教えてくれなかった。 あなたはまだ十一歳だけど、ポケモンの知識なら研究者だって真っ青なくらい持ってるんだもの。 お父さんがそれを勿体ないと思ったから博士になれって言ってるんじゃないかって思ったんだけど…… お父さんの態度を見てると、なんだかそうじゃないような気がしてきたわ。 思い過ごしかもしれないけどね…… でも、女の勘っていうのは意外と当たるものなのよ」 「当てにならないものの代名詞って呼ばれてるけど?」 「確率はゼロじゃないわ。完全に否定する理由にはならないでしょ?」 「……そりゃそうだけど……母さんは親父のこと全然分かってない」 「どういう意味?」 あ…… 言い終えてから、オレは気づいた。 母さんにだけは言っちゃいけない言葉だったんだ。 ――親父のこと全然分かってない。 親父にとっての最大の理解者は母さんであり、その逆もまた然り。 そんな母さんに、全然分かってないなんて言ったら…… 怒られる……!! そう思って思わず身構えてしまったけど、母さんが見せたのは沈痛な表情だった。 傷つけてしまったのは明らかだ。 「あ……ごめん、母さん。オレ、言っちゃいけないこと……」 オレは慌てて謝った。 上辺だけじゃない、本当に悪いって思った。 でも、母さんは無理に口の端に笑みを浮かべて、強がりとしか思えない言葉を漏らした。 「そうかもしれないわね。自分で一番分かってるって思い込んでただけかもしれない。 わたしは、家にいるお父さんしか知らないから…… あなたが旅立ってから一度だけ家に戻ってきたの。 だけど、最近は学会が忙しいとかで全然連絡もくれないから、何をしているのかも分からないけど…… もしかしたら、あなたに会っていたことだってあるんじゃないかと思うのよ」 「…………」 オレは本当のことを言うべきかどうか迷った。 でも、今の母さんを見ていると、言っちゃいけないって思った。 親父もオレも家にいなくて、母さんは家の中じゃ一人ぼっちなんだから。 誰よりも孤独を感じていて、本当は家族の暖かい言葉を待ち望んでいるのに…… 分かってたんだ。 でも、元気そうだって思ったから、油断してた。 こればかりはオレの迂闊だよ。 オレだって、母さんのこと分かってるようで全然分かってなかったんだ。 明らかに傷ついてる母さんに、親父がオレの夢を壊そうとしてるなんて言えるはずがない。 言ったら、母さんはもっと深く傷ついてしまうから。 それだけじゃない。 じいちゃんの耳に入ったら……じいちゃんも悲しむだろう。 オレの不用意な一言で母さんがここまで傷ついたのを見せ付けられると、何も言えなくなってしまいそうだ。 「会ったことがあるって顔をしてるわね。 隠したって無駄よ。 ……隠してるようにも見えないけど」 母さんの一言で、緊張の糸が呆気なく切れた。 ナンダカンダ言って、これもまた見破られてるのか。 オレ、そんな顔してたんだ……自分じゃよく分からなかったけどさ。 だけど、母さんには、オレの顔が「親父に会ったことがある」っていう風に見えたんだろう。 だったら隠したって無駄に決まってる。むしろ隠す方が母さんを傷つけてしまうんだろう。 「三回ばっかり会ったかな。 相変わらずだったよ。オレに考えを押し付けてくるばっかりだった」 「三回も……そう……」 母さんはしみじみとした口調でつぶやくと、何度も頷いてみせた。 そんなに意外だったんだろうか? まあ、親父はいろいろと学会が忙しげで、その合間を縫ってまでわざわざオレに会いに来たみたいだし…… 研究者気質の強い親父だから、確かに意外といえば意外か。 でも、その動機があんまりに不純で、怒りを覚えずにはいられない。 なにせオレの夢を壊すためにやってきたんだから。 わざわざ嫌われにやってくるなんてさ、理解に苦しむね。 「あなたがお父さんのことを嫌いに思う理由は分かってるつもりだわ」 母さんは釈然と顔を上げ、そう前置きして言った。 「あなたにとっては道を押し付けるだけのお父さんなんだもの。 でも、わたしもお父さんも、あなたの幸せを願っているわ。 子供の幸せを願わない親なんていないのよ。 だって、幸せになってほしいって思わなかったら、子供なんて産まないはずだわ」 「そりゃそうだろうけど……」 母さんの言葉には妙な説得力があって、オレは返す言葉が見当たらず、口ごもるしかなかった。 子供の幸せを願わない親はいない……か。 幸せになってほしいと思わないのなら、産まないはずだ……確かにそうかもしれない。 でも、オレにとっての親父はそんな大層な親じゃない。 オレの幸せは、オレの望む道を歩いて、思い描く夢を手にすることなんだ。 まったく逆のことをして、どうして幸せを願ってるなんて言えるのか。オレには分からない。 母さんが前置きをしたのも、オレがそう思ってるのを察していたからなんだろう。 「あなたはお父さんに似てるわ。 お父さん、自分じゃ頭いいって思ってるみたいだけど、本当は不器用なの。 思ってることを素直に伝えられないところがあるのよ」 「本当に? 親父、平気でオレを傷つけること言ったんだ それでも不器用なのか? 子供を傷つけるのが不器用だって言うんなら、オレは一生そんな身勝手を許さないよ」 「……ほら、やっぱり似てる」 思わず語気を強めた言葉にも、母さんは心の余裕を感じさせるような笑みを浮かべていた。 「冗談言わないでくれ。 オレ、あんな親父に似てるなんて全ッ然思ってないんだからさ。 似てるなんて、冗談じゃない。まっぴらだよ」 「いつかあなたが父親になる日が来たら……きっとお父さんの気持ちが分かると思うの。 今はいくら嫌ってもいいわ。 母親がそんなことを言っちゃいけないのかもしれないけど…… でも、あなたは自分の気持ちに嘘をつく必要はないし、いくらお父さんに強要されても、素直に従う必要だってないと思う。 大切なのはね、あなたが自分の気持ちに最後まで正直であるってことなのよ」 「オレの気持ちに最後まで正直であるってこと……?」 「そうよ」 母さんは断言した。 笑みは消え、真剣な眼差しをオレに向けている。 と、その時、チャイムの音が鳴った。 母さんは目元で笑ってみせた。 「誰かが来たみたいだわ。 アカツキ、これで切るけど、また連絡ちょうだいね。 わたしはあなたの夢を応援してるわ。それじゃあ」 「あ、うん……ありがとう」 プツッ。 耳障りな音を立てて、電話は切れた。 受話器を置き、立ち上がる。 なんていうか……スッキリしたような気がするよ。 無意識に深呼吸をしていたのに気がついて、少しは肩の荷が下りたのを感じられた。 「…………」 そうだよな。 誰が何と言おうと、オレはオレの道を歩いていけばいいんだよな。 耳を貸す必要も、別の道を選ぶ必要もないんだよな。 当たり前なことなのに、なんで思い悩んでたんだろう。 親父の戯言になんか惑わされる理由なんか、はじめからなかったんだ。 オレのことを応援してくれてる人がいるってことも。 その人たちのために……なんて大層な御託を並べるつもりはないよ。 でも、背中を押してくれる人がいるから、オレは道を踏み外さずにちゃんと歩いていけるんだ。 「よ〜し……気分もスッキリしたことだし、いっちょポケモンバトルでも……」 部屋に戻ってモンスターボールを持ってこよう。 そして、ポケモンセンターの屋上にあるバトルフィールドで、誰でもいいからバトルをして、もっともっと自分とポケモンを鍛えよう。 そう思って身を翻した時、やたらと間の抜けた声が聞こえてきた。 「アカツキ〜。たっだいま〜っ!!」 「…………」 思わず肩の力が抜けて、足が一歩も進まなかった。 「ナミか……やたら早いな」 声の方に振り向くと、ナミがニコニコ笑顔で片手を振りながらスキップなんかしてくるじゃないか。 振ってない方の手に、ビニール袋を提げて。 しかし、もう戻ってくるなんて……正直舌打ちのひとつでもしたい気分だった。 ナミはオレの傍にやってくると、 「じゃ〜ん」 なんて言って、手に持った箱を差し出してきた。 遠目には分からなかったけど、袋越しにサーティーエイトのマークが透けて見えた。 なるほど……中身はアイスクリームか。 「アカツキにお土産だよ」 「ああ、ありがとう」 オレは素直に受け取ることにした。 せっかくのお土産を無駄にする理由はないし……甘いものでも食べれば、頭も冴えてくるだろうから。 袋を手に取ると、中にある箱の隙間から冷気が漏れ出てくるのを感じた。 ドライアイスを大量に詰め込んでるんだろうか、アイスクリームの割には妙に重い気がするし。 「しかし、早かったんだな。 タマムシデパートはつまらなかったのか?」 「ううん。ちょっといろいろあって。でも、楽しかったよ」 「そっか。そりゃ良かった」 ナミの笑顔に釣られるように、オレも自然と笑みを浮かべた。 エリカさんと一緒にショッピングを楽しんだってのがよく分かる表情だった。 でも、それだけじゃないような気がするんだけど……気のせいかな? 「なあ、ナミ」 「なあに?」 「これからちょいとポケモンバトルの特訓したいんだけど、付き合ってくれるか?」 オレの言葉に、ナミは待ってましたとばかりに大きく頷くと、 「もちろん!! あたしもそうしたい気分だったの!!」 ――ウソつけ。 思わず突っ込みたくなるところだったけど、不思議とそんな気分にはならなかった。 「じゃ、決まりだな」 「今回は負けないんだからね」 話もまとまったところで、ナミは握り拳をオレの目の前に持ってきて、不敵な笑みを浮かべた。 「おいおい、特訓だっての。勝負するってワケじゃ……」 「手加減なんてしないんでしょ?」 「そりゃそうだな」 「だったら勝負と同じだよ」 「…………」 勝負と特訓は違うと思うんだけど…… ナミは全身からやる気を漲らせていて、止めるだけ無駄だってすぐに理解できた。 オレはあくまでも特訓をしたいんであって、何も勝負をしたいわけじゃない。 まあ、手加減するつもりはないから、それってある意味勝負と言えないこともない。 あはは……結局はどっちもどっちだったってことか。 だったら話は早い。徹底的にやらせてもらうさ。オレの気分が変わらないうちに。 「行こうぜ」 「オッケー」 オレはナミに手を差し出した。 差し出された手を何秒かじっと見つめた後、ナミはギュッと握ってくれた。 その手を優しく握り返すと、ナミを連れて歩き出した。 知らず知らずのうちに、足取りもどこか軽やかになっていることに気づいた。 To Be Continued…