カントー編Vol.21 船上にて 「わ〜、潮風が気持ちいいね〜」 「気をつけろよ。落ちちまったら、助けるのめんどくさいから」 「分かってる分かってるぅ」 「…………」 柵にもたれかかって潮風と一面の海景色を堪能しているナミに注意を投げかける。 だけど、多分聞いてないんだろうって、どこかで醒めた見方をしてたりするオレ。 ……こいつに注意ってのは、馬の耳に念仏とか、豚に真珠とか、犬にキャットフードとか、そういった言葉と同義だ。 そんなつまんないことさえ、いつの間にやら忘れてたよ。 それくらい、この風が気持ちいいってことなのかな。 進行方向の反対――左側に顔を向けると、遠くに陸が見える。 霧がかかっているのか、おぼろげに見えているのはセキチクシティだ。 オレたちは次のジムがあるグレン島へ向かう定期船に乗ってるんだ。 途中で双子島を遠くに臨んで、一面の海を見渡す船旅……夕方にはグレン島に着く予定になっている。 海は穏やかで、結構大きな定期船は船体で海を切り、小さな波を立てながら進んでいる。 サイクリングロードで見た景色とはまた違っていて、これがもう格別なんだな。 「ホントの海だ!!」 ……って感じさ。 だって、サイクリングロードじゃ、海の上にいるっていう感じがしないんだよ。 なにせ人工地盤の上だし、自転車に乗ってるんだから。 でも、今は船の上。 一面の海と空と雲。 生まれて初めて船に乗るけれど、これがホントの海なんだって思えるんだ。 これでも、心はワクワクドキドキの渦中なんだぜ? 髪を、頬を優しく撫でてゆく風は暖かくも冷たくもなく、それでいてとても優しい。 「オレ、ちょっとブラブラしてくる」 「うん」 オレはナミに断ってから、甲板をブラブラすることにした。 定期船は漁船とは比べ物にならないくらい大きいけど、だからといって宿泊施設があるってワケじゃない。 元々セキチクシティとグレンジムを結ぶ定期船として造られたもので、半日程度で済む航海に、宿泊施設は不要。 その分人をたくさん乗せられるから、船賃はかなり安かった。 海を進めるようなポケモンを持ってないオレたちにとっては、この定期船がグレン島へ向かう唯一の手段なんだ。 旅する身にとって、船賃が安いってことが一番ありがたいんだよな。 それはそうと、定期船にはいろんな人たちが乗っていた。 今オレがいる甲板だけでも、百人近くはいるだろうか。 トレーナーやブリーダーはもちろん、人類の敵と公言しても抗議が上がらないであろうバカップルや、 スーツケースを傍に置いたビジネスマンの姿も見受けられる。 グレン島は活火山で、その麓にジムやポケモンセンターといった施設がある街なんだ。 カントー地方有数の避暑地として、夏場は結構賑わうらしい。 そんな街だから、いろんな目的を持った人たちが定期船やポケモンの背に乗って向かっていくんだろう。 オレのようにジム戦のために行くっていう人がこの中に何人いるのかな? ……なんてことを考えてしまったよ。 いろんな人のいろんな想いを乗せて、船はゆっくりと、流れるように海原を進んでゆくんだ。 オレは甲板の中央にある階段を降りて、サロンに入った。 たくさんの椅子が並べられ、そこにはたくさんの人が座ってくつろいでいる。 前方には巨大なスクリーンがかけられ、年代モノの渋い映画が上映されている。 出てる俳優とかは知らないけど、なんて映画かは分かる。 恋する男女が結ばれない恋と知りながらも愛し合うっていう結構切ない映画だ。 タイトルは確か……『流れゆく波と時間と恋心』って言ったっけ。 じいちゃんがよくDVDで見てるから、オレも何度か見せられたんだよな…… おかげでどういうストーリーなのか、あらすじから結末まで、紙に書き出すことすらできてしまう。 じいちゃんが若かった頃に流行っていた映画だけあって、スクリーンに映る映像はモノクロトーン。 白と黒の間にある灰色の色調(トーン)ですべてが表現されている。 今時の、色とりどりで、CGばかり使って、あんまり目に良くなさそうな、派手な演出だけで中身の薄い映画とは違う。 そう……なんていうか、奥深さが感じられるんだよな。 別に古いのが好きってワケじゃないんだけどさ。 派手な演出しか見所のない映画よりは、見ていてずっと楽しいと思えるんだよ、こういう年代モノの方が。 「……退屈しのぎに見るのもいいんだけど、正直見飽きちまったんだよな……やめとくか」 定期船で夕方まで過ごすわけだから、退屈する人もそれなりに出てくる。 だから、退屈を紛らわすのに映画を上映したり、演奏会をやってたりするんだってさ。 永遠に結ばれることのない恋人の名を何度も繰り返し呼ぶ女の声を背に、オレはすぐ傍の階段を降りた。 アコーディオンの穏やかな旋律が耳に入ってきた。 ピアノとアコーディオンをバックにつけたコーラスが広間のような空間にじっくりと浸透する。 酒場のような佇まいの最下層には、たくさんのテーブルと椅子が並べられていて、 そこではたくさんの人が酒を飲んだり話したりポーカーに興じたりして、思い思いの時間を過ごしている。 ……って言ってもほとんど満席状態だったりするんだけど。 いろんなことを考えてたせいか、なんか喉が渇いてきた。 ここでジュース片手にノンビリくつろぐっていうのも、なかなか風流でいいかもしれない。 なにせ窓は全面ガラス張りで、甲板から見たのと同じような景色を座りながらにして目にすることができる。 いっそ最初っからここにいればよかったなんて思うけれど、今からだって間に合うはずだ。 オレはほぼ満席のテーブルの中から空席を探し出そうと視線をめぐらせた。 「お?」 こういう時は何気に冴えてるな、オレ。 とかなんとか思いつつ、空席を見つけることができた。 バーデンのいるカウンターからは一番遠いけれど、だからこそ誰も見向きさえしなかったに違いない。 よし、早速ゲットだ!! 意気込んで、オレはテーブルと椅子の合間を縫ってそのテーブルに急いだ。 実際はそんなに急ぐ必要もなかったんだけど、何とかゲットできた。 テーブルを挟んで向かい合う形で椅子がふたつ並んでるけど、後でナミを呼んでくればいいだろう。 たまにはあいつから解放されたいって思う気持ちも、正直なところ結構あったりするんだよな。 そもそも当初の予定では悠々自適なひとり旅ってのを楽しんでるはずだったんだ。 マイペースをひたすら貫いて、無理のない旅をしてるはずだったんだけど…… いつの間にやらナミのペースにはまり込んでたり、親父の妨害があったり…… 思い描いていたのと明らかに違うレールを歩んでる気がしてならない。 だから、少しくらいは一人でノンビリするっていうリゾート気分を味わったって罰は当たらないはずだ。 パノラマのガラス窓の向こうには、海がどこまでも広がっている。 穏やかに波打つその様は、オレの心の中にある平穏が目に見える形になって現れたかのようだ。 隣のテーブルでくつろぐおばさんの下品な笑い声も、そのまた隣のテーブルでポーカーに負けて頭を抱えてるおっちゃんの声も、 今のオレには遠い世界の出来事のように感じられる……はあ、やっとリラックスできる。 今まで、あんまり落ち着く機会ってなかったような気がするよ。 親父の執拗な妨害で心がささくれ立ってたって、今ならよく分かるし……でも、やっぱ何か気に入らない。 親父なら、わざわざオレの前に現れたりしなくても、コネ使って旅を続けられなくしたりといった陰険な手段も採れるはずなんだ。 わざとらしいけど、それでも親父がオレの夢を叩き潰そうと画策してるのは疑いようのない事実だ。 これだけはちゃんと認識しておかないと…… こんな時にまで魔手を伸ばしてくる親父の影。なんと憎らしいことか。 せっかくの気分も、台無しだ。 でも、この場にいないだけ、救いなのかもしれない。 目の前に現れたら、絶対にグーで殴ってやるところだ。 大人と子供の力の差で、ケンカなら勝てないんだろうけど、勝ち負けなんかお構いなし。 ムカムカするから、一発殴って気持ちをスッキリさせたいだけさ。 だけど…… 今のオレじゃ何を取っても親父に勝てそうにない。 力に訴えかけるケンカも、トレーナーとしての技術も、ポケモンの知識だって。 でも、考えてみれば勝てるものが一つだけあった。 それは、自分のポケモンを信じる気持ち。思いやる気持ち、愛する気持ちだ。 親父にだって……いや、誰にだって負けないって思ってる。 ま、それをぶつけて勝てるような相手なら苦労はしないんだけど。 「でも……」 オレは腰に差したモンスターボールに手を触れた。 ひんやりとした感触。 でも、このボールの中には、かけがえのない仲間がいて、いつもオレの傍にいてくれるんだ。 みんながいるから今のオレがあって、頑張ってこられた。 オレとラッシーとラズリーだけだったら、今ここにいなかったかもしれない。 そう思うと、とても心強いかな。 「みんながいれば、オレは絶対に負けない」 バトルでは負けたって、心まで折れたりはしないんだ。 トレーナーとしてのオレを信じて戦ってくれたみんなを裏切れないから、何があってもあきらめないって思える。 心が暖かくなるのを感じていると、視界に影が差した。 顔を向けると、ブロンドの女性が向かいの椅子の傍に立っていた。 見覚えのない顔だけど、彼女はじっとオレの顔を見つめている。 ……なんかオレの顔についてるんだろうか? 恥ずかしくて訊けないような言葉を舌の上で転がしていると、女性は微笑みかけてきた。 「同席させていただいてよろしいですか? 空いているのがここだけでして……」 「あ、ああ……構いませんけど……」 「それではお言葉に甘えて」 彼女は微笑んだまま小さく頭を下げると、向かいの椅子に腰を下ろした。 なんだ、座りたかっただけか。 変なこと考えて損しちゃった……舌の上で転がしていた言葉を喉の奥に放り込んで消し去る。 オレは手を上げウェイトレスを呼ぶ女性をじっと見つめた。 見たところ二十代半ばといったところで、美人と呼ぶに相応しい顔立ちをしていた。 一見すると地味な服装だけど、どこか洗練されたような物腰が、ペルシアンのような優雅さを醸し出している。 思い込みかな? それにしては、周囲の男性の視線が集まってたりするし。 その視線は、 「スゲェ美人……」 「オレのテーブルに来てくれればいいのに……」 「なんでガキのところになんて……」 「どう口説こうか……」 なんて、賞賛から嫉妬まで色とりどりだった。 ま、どうでもいいんだけど。 ため息で男どもの視線を一蹴していると、ウェイトレスがやってきた。 「カルーアミルクを一杯。 それと……何か飲まれますか? ここで会ったのも何かの縁でしょうし。 同席させていただきましたから、一杯ご馳走させていただきますよ」 「じゃあ……コーラを」 「コーラ。以上でお願いします」 「かしこまりました」 注文を受けたウェイトレスは一礼すると、踊るような足取りでカウンターの方へ歩いていった。 「すいません。ご馳走になっちゃって」 「構いませんよ。一人で退屈していたところでもありますし……」 小さく頭を下げると、女性は笑みを深めた。 ……そういうことか。 単に席が空いてなかったからってだけじゃなくて、話し相手になってくれってことか。 まあ、ご馳走になるんだから、それくらいはお返しにやっとかないと失礼だろう。 「ところであなたは……トレーナーですか?」 「はい、そうです」 問いに、オレは首を縦に振った。 モンスターボールがテーブルの下に隠れてる状態でも、オレの格好を見て「トレーナーですか?」って訊くのが普通だろう。 知り合いに会いに行く格好だなんて、自分でも思ってるわけじゃないからさ。 「そうですか……まだ若いのに、しっかりしていらっしゃいますね。 さぞいいお仲間に恵まれているのでしょうね」 「ええ、まあ……」 当然っ!! さすがにそこまでは言えなかったけどさ……どんなポケモンだって、オレはいい仲間だって思えるよ。 たとえ人に嫌われているようなポケモンであっても。 同じ時間を過ごし、明日へ向かって手を繋いで歩いてゆく仲間だからさ。 「でも、今年トレーナーになったばかりの新米(ヒヨっ子)ですけど……」 「キャリアは関係ありませんよ」 女性はキッパリと言い切った。 いや、思いきり関係ある気がするんですけど。 断言してるあたり、それなりの根拠があるんだろう。オレは何も言い返せなかった。 微笑みを浮かべながらオレを見つめる女性の瞳に、懐かしさに似た何かを見たような気がする。 オレを親しい誰かと重ね合わせているかのような……でも、まさかね。 「わたくし、プリムと申します。あなたのお名前は?」 「アカツキっていいます。マサラタウンから来ました」 「そう……アカツキさんとおっしゃるのね」 名乗ると、女性――プリムさんの表情がかすかに曇った。 懐かしさから切なさへと、季節が移り変わるかのように。 オレの名前に聞き覚えでもあるんだろうか? まあ、アカツキって名前のヤツなんか、それこそ掃いて捨てるほどいる。 その中の一人が、プリムさんの知り合いなのかもしれない。 オレの勝手な想像だけどさ…… でも、どこか辛そう。 見てる方が胸を締め付けられるような気がして、オレは思い切って口を開いた。 「プリムさんもトレーナーなんですか?」 「ええ、一応。今は各地を転々としていますが……」 道理で洗練された身のこなしだと思ったら……トレーナーだったんだ。 オレよりもキャリアが長いのは言うまでもないだろう。 関係ないなんて断言してのけるほどだから。 でも、見た目はトレーナーって感じがしないんだよな。良家のお嬢様って感じさ。 「出会って早々、不躾かと存じますが……」 なんて前置きをして、プリムさんは質問を投げかけてきた。 「あなたはポケモンのためなら夢を捨てられますか?」 「え……」 あまりに予期せぬ中身だったので、オレは即答できなかった。 稲妻に打たれたような衝撃が身体中を、心までも駆け巡った。 ……って、ホントに不躾だし。 呆気に取られて、ツッコミすら入れられない。 それくらい、オレは考え込んでしまった。 ポケモンのためなら夢を捨てられるか……なんてさ。 そんな質問、今まで誰からもされたことなかったな。 まあ、普通はしないだろ。 何も言えずにいるオレに、プリムさんはさらに言葉を継ぎ足してきた。 「ポケモンのために夢を捨てるか。 それとも、夢を手にするためにポケモンを犠牲にするか。極端な二択ですけれど」 余計ドツボにはまりそうな言葉だなあ…… ポケモンのために夢を捨てるか。 夢のためにポケモンを捨てるか。 そんな二択、この世に用意されてるのか? 正直ありえねぇ二択を突きつけてくるプリムさんの神経が知れなかった。 だけど、よくよく考えてみれば、それって誰もがぶち当たる壁なんじゃないだろうか? そう簡単に選べるはずがない。 むしろ、どっちも選びたくないよな。 でも、ここはどっちかを選ばなきゃいけないんだろう。 いっそウソでプリムさんをごまかすか……なんて思ったけれど、自分の気持ちにウソをついたところで後々苦しいだけ。 偽って損をするのは自分自身だ。 やっぱり、本音で勝負するしかないのか。 「お待たせいたしました〜」 このテーブルを包む真剣な雰囲気をぶち壊すような陽気な声と共に、先ほどのウェイトレスが飲み物を運んできた。 プリムさんの目の前には、小さめのカップの半ばまで注がれたコーヒー牛乳のような飲み物。 これがカルーアミルクとかいう飲み物らしい。 オレの目の前には、シューッ、っていう音を立てるコーラ。 「オレは……」 なんて言おう……オレは口ごもった。 心のどこかで迷いがあるのが自分でもよく分かる。 人間にゃ欲ってモンがあるから、それは気持ちと切り離せるようなシロモノじゃない。 だからこそ迷いを抱かずにはいられないんだ。 だけど……!! オレは再びモンスターボールに手を触れた。 共に時を刻む大切な仲間たち。 みんながオレのことを信じてついてきてくれているように、オレもみんなのことを信じて頑張ろうと思えるんだ。 そんなみんなを、どうして捨てられるだろう? 大の大人から見れば、オレの考えなんて所詮は『子供の絵空事』なのかもしれない。 でも、それでもオレは『子供の絵空事』を信じていたい。 答えは自然と導かれた。 目の前に立ちはだかる扉を開くためのカギは、すでに手の中にあったんだ。 立ち止まっていたのは、本当にそれでいいのかっていう自信が持てなかったから。 オレ、自分に自信を持ってなかったんだな…… ポケモンの知識なら並の研究者に負けないって誇れるけれど、それも強がりでしかなかったのかもしれない。 そう思うと物憂げな空みたいに曇ってくるけれど、みんなの存在が太陽のように雲間を裂いて降り注ぎ、 物憂げに曇る空を照らし出している。 「オレは……やっぱり、みんなを捨ててまで夢を叶えようとは思えないです。 今だからそう言えるだけかもしれないけど。 でも、今のオレがいるのはみんなのおかげだし……」 なぜか上手に言えないけれど、オレはありのままの気持ちを言葉にしてプリムさんに伝えた。 彼女は笑顔で受け止めてくれた。 「みんなに辛い想いをさせるくらいなら、オレが傷ついた方がいいかなって。 痛いのは嫌ですけど……みんなが傷つくより、オレ自身が傷ついた方がよっぽど軽いって思えるんです。 みんなが、オレが傷つくことを辛いと思ってるのなら、それはそれでどうしようもないことだと思うんですけど……」 さらけ出すような言葉。 でも、ホントのことだよ。 いつかラッシーをかばってポケモンの攻撃を食らった時のことが頭に浮かんだ。 あの時は無我夢中で、モンスターボールに戻すという最善の策すら考えられなかった。 ラッシーをこれ以上傷つけちゃいけないっていう一心で、飛び出したんだ。 ……痛かったな。 生身の人間がポケモンの攻撃を食らうって、話に聞いたことはあったけど、いざ体験するのは初めてのことだったから。 骨が折れるかと思ったけれど、実際は傷らしい傷もなく、ただ痛かっただけだった。 だけどみんなはバトルの時、そういった痛みを感じてるんだ。 無傷で勝てるバトルなんてほとんどないから、多少なりとも攻撃を受ける。 人間よりも丈夫なポケモンでも、痛みは感じるはずだ。 オレほどのものじゃないにしても、痛いと感じているはずなんだ。 そんな想いをしてまで戦ってくれるみんなを裏切ることが、どうしてできるだろうか? みんなはオレを信じてくれているから、そんな想いをしてまで戦ってくれるんだ。 オレもみんなのことを信じてバトルに送り出してる。お互いに信じ合っているからこそ、支え合うことができる。 一方的にそれを捨てて夢や栄光をつかもうなんて、オレにはとてもできそうにない。 理性がブレーキをかけるに決まってる。 究極の二択を投げかけたプリムさんは、オレにそういったことを考えて欲しかったのかもしれない。 トレーナーとしていつかは直面するであろう問題に、今のうちから向き合うべきなんだって思ってたのかもしれない。 「いい答えだと思います。無理に片方を選ぶ必要はありませんが…… ですが、トレーナーはポケモンを、ポケモンはトレーナーを、お互いに信じ合っているからこそ、成り立っているものなのです。 あなたは新米トレーナーだとご自分でおっしゃいましたけど、決してそうではありませんわ。 あなたの気持ちはきっと、大切な仲間に届いているはずです。 だからこそ、力の限界を突き破ってでもあなたのために戦ってくれている…… わたくしには、あなたのポケモンが戦っている様子が頭に浮かんでくるようです」 プリムさんは満足げに笑みを深めた。 やっぱり……オレのことを思って、わざとあんな質問を投げてきたんだ。 だけど、どうしてだろう? 行きずりで出会っただけのオレに、なんでそこまでしてくれたんだろう? 気にはなるけど、訊いちゃいけない気がする。プリムさんの厚意を足蹴にするのと同じことだって思うから。 プリムさんはカルーアミルクを一口含んだ。 「……いただきます」 「どうぞ」 オレは断ってからコーラを飲んだ。 弾ける炭酸の気泡が口の中を震わせる。 この感覚が好きだから、コーラって飲むの止められないんだよな…… 半分ほど飲んだところで、コップを置いた。 一気に飲むとゲップが出る……女性の前でそんなマネはできないからさ。 「オレはみんなのことを誇りに思うし、何があっても裏切れないって思えるんです。 たとえみんながオレのことを裏切ったとしても……オレは絶対に最後まで信じ続ける。 それこそ『子供の絵空事』だって笑われるかもしれないですけど」 「そんなことはありませんよ。 大人があなたの抱いた高い志を『子供の絵空事』だと嘲う(わらう)なら、むしろあなたはそれを誇るべきなのです。 大人というのは厄介な生き物でしてね。 自分にないモノを他人が持っていれば、それを嫉妬せずにはいられない……そんなものです。 過ちを過ちと認めることを恐れているものですよ」 「…………」 そうなんですかって訊き返そうと思ったけど、言葉は出てこなかった。 浮かべた笑みが、彼女自身に向けられたもののように思えたから。 気のせいじゃない。 きっと、プリムさんはそうせざるを得ないような何かに見舞われたんだ。 さすがにそこまで口を出すのは気が引けるから、曖昧なままにしておくけれど…… でも、『子供の絵空事』だと思っていたこの気持ちを誇るべきだって言われたのは初めてだったよ。 そうだよな…… 嫉妬するのは、自分がそれを持っていないから。 むしろ嫉妬を誉め言葉と受け止めろっていうことなんだ。 やっぱり、亀の甲より年の功ってヤツなんだなあ。 人生経験豊富な人が言うと、どんと箔がつくよ。重みがまるで違う。 「アカツキさん。あなたはグレン島でジム戦に挑むのですか?」 「はい、そのつもりです」 ジム戦……そうだな。真っ先に挑んでやりたい気持ちはあるけれど、グレン島に到着するのは夕暮れ時。 ジムも門を閉ざしているだろう。 今日はポケモンセンターで明日に向けていろいろと戦略を練ったりするしかない。 「いざ戦うまで、相手のタイプが分からないこともあるでしょう。 たとえ自分のポケモンが皆そのタイプに不利なタイプであったとして…… 最後まであきらめずに戦いを続ける強い意思が、あなたの瞳から感じられます」 「そんな、大げさですよ」 「いいえ」 プリムさんはまたしても断言してのけた。 大げさだって自分でも思うよ。 どんな窮地であっても、オレは最後まであきらめない。 戦いを続けるって言えばそうなんだろうけど、ただそれだけのことだ。 強い意思かどうかなんて、正直なところ、自分じゃ判断のしようがないんだよね。 「あなたはきっと、誰よりも強いトレーナーになれると思いますよ。 もちろん、弛まぬ努力と研鑽があってこそのものですが」 「努力は惜しみません。オレには負けられないヤツがたくさんいますから」 「そうですね。ライバルというのはいいものですよ。 お互いに負けられないと思うからこそ、力を伸ばすことができる…… わたくしにも、そういった人がいました。今は顔も合わせられませんが」 「……すいません」 プリムさんの表情がどことなく辛そうで、オレは詫びた。 辛く悲しい記憶を呼び覚ましてしまったであろうことは、オレにとって不覚でしかない。 けれど、プリムさんは首を横に振った。 「いいえ、わたくしの不覚だっただけのこと。 あなたのせいではありません。どうか気に病まぬ様……」 そう言われると余計に気に病むと思うな。 プリムさんは他人に気を遣いすぎてるのかもしれない。 知らず知らず自分のこと傷つけてる。 でもさ……この人、普通のトレーナーとは明らかに違う。 奇麗事にしか聴こえない言葉も、この人の口から発せられるのなら、それ相応の重みや意味があるように思える。 とはいえ、あなたは一体何者ですかって訊ねるのも、それこそ不躾だし。 何を言っていいのか分からずにいろいろ考えをめぐらせていると、プリムさんが話を変えてきた。 「マサラタウンというのは……静かな町だと聞いていますが……」 「ええ、まあ……」 知らん振りを装い、相槌を打つオレ。 それでも表情が晴れない彼女を見ていると、何やってるんだろうって思えてくる。 知らん振りしてることなんか、見抜かれてるんだ。 だけど、このままじゃなんか気分悪いな…… 何ともなしに口を開き、マサラタウンの自慢話をしてみる。 「マサラタウンは片田舎だなんて陰口叩く人もいますけど……でも、とても静かで環境がいいんです。 みんな優しくて、オレ、あの町に生まれてよかったって思えるくらいなんです」 「そうですか……いいですね。 わたくし、そういった場所に住んでみたいと思っておりますの」 プリムさんが少し笑った。 自慢話でもこういう風に役に立つのかと思うと、少しは報われるのかなって…… それくらい、プリムさんは落ち込んでるっぽかった。 「わたくし、一月前まで別の地方で働いていましたの」 何を思ってか、プリムさんはまっすぐに正面を見据え、遠い瞳で窓の外の景色を眺めながらポツリ漏らした。 身の上話か……なんて思っていたけど、そんなことを考えてると分かったら、余計に落ち込むかもしれない。 出会ったばかりの人だけど、落ち込ませちゃマズイ。 とはいえ…… カントー地方の出身者じゃないよな、どう考えても。 マサラタウンのことをわざわざ訊ねてくるあたり、余所の地方からやってきた人だってのは分かるんだ。 どの地方からやってきたのかってのは気になるけれど。 「いい上司や仲間にも恵まれていました。 緑豊かな地方で、海は宝石のように蒼くたゆたい、ここがわたくしの第二の故郷になるのかと思いました」 「じゃあ、どうしてカントー地方に?」 オレはつい口を挟んでしまった。 悪いとは思ったけど、口に出した以上は後の祭りだ。彼女の反応を待つしかない。 第二の故郷になるのかと思いました……なんてことを言うくらいだ。 居心地もさぞ良かったことだろう。 なのに、どうして各地を転々としているんだろう。 現状に満足していないか、あるいは居心地のいい地方で何か心に傷を負うようなことがあったのか。 今までの言葉を聞いている分に、後者でないかと勝手に推測してみる。 「わたくしの役目が終わったと感じたからですわ」 プリムさんは言うなり、長い息をついた。 手に持ったカップを傾け、一気に中身を飲み干す。 自棄酒にすら見えてくるのは気のせいだろうか? 「やれるだけのことはやりました。 だから、わたくしは次の場所へ向かうことにしたのです。 もっとも、なんでもできると思い込んで、いざ飛び出してみたら、どこへ向かえばいいのかも分からず、こうして各地を転々としておりますの」 「…………」 やっぱり、何かあったんだ。 オレは自分で分かるほど表情を引きつらせていたよ。 見ず知らずの子供(ガキ)にこんなことを話すなんて、よっぽど辛い出来事があったんだろうな。 だから、こうして話すだけでも少しは楽になるんだろう。 こういう人には何も言えないな……何を言っても逆効果になってしまう気がして。 励ますつもりが、落ち込ませたりするんだ。 「わたくしの、トレーナーとしての技術を広めることができれば、それで上々だと思っていますわ。 これでも腕には覚えがあるのです」 「そうなんですか……」 戦ったことがないから、どれほどの実力か、正確には分からないけど、少なくとも今のオレよりは強いだろう。 それだけは分かる。 トレーナーを職業にしてたんだろう。 でも、何か辛いことがあって、仲間と別れて一人で旅をしている。 なんだか、ドラマとかでよくやる失恋みたいな感じだけど、まさかな…… 「もしかしたら……」 プリムさんがオレの目を真っすぐに見つめてきた。 「もしかしたら…… あなたにはわたくしの持てる技術を教えて上げられるのではないかと思いましたが、その必要もなさそうですね。 あなたはわたくしが思っていたよりもずっとずっと高い志をお持ちです。 わたくしになど頼らずとも十分にやっていけるでしょう」 「はあ……」 オレに近づいてきたのは、トレーナーとしてのオレに何かを感じたからだろうか……? 今となってはどうでもいい動機なんだけどさ。 「それに……」 プリムさんは目を細めた。 懐かしいものを見るように。 「わたくしがあなたの前にやってきたのは、わたくしの知る『ある人』にあなたが似ていたからかもしれません。 トレーナーとしての表情や雰囲気……そして胸の裡も……」 そうなんだ…… オレが誰かに似てるから、昔の面影を知らず知らず追いかけてたんだ。 傷ついて弱った心には、とても優しく暖かく感じられたのかもしれない。 悪い気分はしないよ。 プリムさんには大切なこと教えられたような気がするし。 きっと、お互い様さ。 「自分勝手で不純な動機で申し訳ありません」 「そんなことないですよ。プリムさんの役に立てたんだから、悪い気分はしてません」 「そう言っていただけると心が安らぎます」 プリムさんは口の端に笑みを浮かべた。 ほら、こういう風に笑ってくれるのって、悪い気分はしないよ。 「そろそろどこか腰の落ち着ける場所を探してみようかしら……」 「だったら、マサラタウンに住みませんか?」 「え?」 ……って。 プリムさんの驚いた顔を見て、オレは自分が何を言ったのか、今さらのように気がついた。 なんで、マサラタウンに住まないかなんて、ナンパ男のようなセリフを口にしたんだろう……あー、恥ずいっ!! 身体が火照ったように熱を帯び、穴があったらどこでもいいから飛び込みたい気分になる。 この際ガラス窓突き破って海に飛び込んで、火照った身体を冷やしてもいいかもしれない。 熱を帯びてまともに働かなくなった頭でそう思っていると、プリムさんは声を立てて笑った。 「……えっと……」 一体何がどうなってるのか。 何にも分かんなくなってしまった。 とてもうれしそうに笑うプリムさんは、少女のようにすら見えてくる。 ウソのように身体の熱が引いていく。 「ウソでもうれしいですわ。一瞬、本気で考えてしまいました」 プリムさんはクスクスと笑いながら言った。 「でも、わたくしはもうしばらく旅を続けることにいたします。 どこかに、わたくしが役に立てる場所があるかもしれない…… あなたを見ていると、なんとなくですが、そんなことを思えるのです」 「そうですよ。 プリムさんはオレにトレーナーとして大切なことを教えてくれました。 だから、プリムさんはどこに行っても大丈夫ですよ。 何があったのかは分かりませんが、きっと大丈夫です。保証してもいいくらいです」 「ありがとう。 大切な人の気持ちにすら気付けなかったわたくしですが、これからは自分のために生きようと思えます。 ウェイトレスさん。ご注文よろしいですか?」 プリムさんはウェイトレスを呼びつけると、もう一杯カルーアミルクを注文した。 オレはまだコーラが半分ほど残っているから、追加を頼む必要はなかったけど。 向き直った彼女の表情はこれからの日々に期待を抱いているのが分かるほど輝いて見えた。 先ほどの落ち込みようがウソであるかのように。 しかし…… 大切な人の気持ちに気付けなかったって……やっぱり失恋だったのかな。 こればかりはオレが立ち入っていい問題じゃないな、そっとしとこう。 「アカツキさん。あなたにはあなたの夢があります。 共に時を過ごす存在であるポケモンを愛し、慈しむ気持ちを忘れずにいたら、あなたはきっと夢を叶えられるでしょう。 わたくしには、あなたの未来が見えているようです……」 「プリムさんも、頑張ればどうにでもなりますよ。 それじゃ、お互いに新しい門出ってワケで乾杯しましょうか?」 「いいですね。そうしましょう」 ジャストタイミングでカルーアミルクが運ばれてきた。 それぞれのコップを高々と掲げ、カチンと音を立てて乾杯を交わす。 プリムさんが何者であろうと、今のオレには関係ない。 大切なことを思い起こしてくれただけで、それだけで十分だから。 上の階でやってた映画…… 『流れゆく波と時間と恋心』って、もしかしたらついさっきまでのプリムさんのことだったんじゃないか……? 今になってなんとなくそんなことを思うよ。 そういえば…… オレは天井を――その向こうにある映画のスクリーンを心の目で見やった。 そろそろあの映画、終わる頃だったかな。 スタッフロールが流れ、「THE END」の表示がされた瞬間、プリムさんの新しい旅が始まるんだろう。 これからプリムさんはどんな道を歩いて、どこへ行くのだろう? 気にはなるけど、オレにはそれを知る術がない。プリムさんがオレの行方を知らないのと同じように。 プリムさんは心に一点の曇りもないような清々しい表情でカルーアミルクを一気に飲み干した。 オレも、コーラを飲み干した。 そこへ、せっかくの雰囲気をぶち壊す声が響いてきた。 「あ〜、いたいた〜、アカツキ〜♪」 「う……」 今はあんまり聞きたくない声が耳に入る。 一瞬、身体が震えたのが分かる。 知らん振りしようかと思ったけど……その前にプリムさんがニコッと笑った。 「お連れさんが参られたようですね。 わたくしはこれにて退散いたしますわ。あなたとお話ができて、本当によかった……」 プリムさんは小さく頭を下げると、ウェイトレスさんにカルーアミルク二杯とコーラの代金を支払って、席を立った。 彼女の後ろ姿と入れ替わる形で、ナミがやってきた。 「ねえ、今の人だあれ?」 「誰って……おまえ、なんでそんな顔してんだ?」 「なんでって……」 ナミの顔は引きつっていた。 オレが見知らぬ女性と話をしていたのが気に入らなかったのか。 それとも、今まで放っておかれたことが気に入らなかったのか。 よく分かんないけど、どうでもいいや。 「そりゃ、大人の女性(ひと)と話するのを見てたら少しくらいはヤキモチ妬くし。 今までどこに行ってたのかもわかんないし……なんだかワケわかんなくて」 ホントに分かってないみたいだった。 勢いに任せて一息で言ってるあたり、相当思い込んでたんだなあ……ほんのちょっとだけ悪いかもって思った。 「いいじゃないか。 オレも少しくらいは息抜きしたいって思ってたんだから。 おまえだって、ただっ広い海見てリラックスしてたんだろ。だったらお互い様じゃないか」 「まあ、そりゃそうだけど……あ、オレンジジュースくださ〜い♪」 ナミは席につくなり、オレンジジュースを注文した。 それなりに気にしてたようだけど、すぐに機嫌が直ったみたいだ。 やっぱ、ナミはこうでなくちゃな。 プリムさんの姿を探してみるけど、このフロアにはなかった。 「ねえ、さっきの人、誰?」 「不思議な人さ」 プリムさんが消えた階段に目を向け、オレはポツリつぶやいた。 そう、不思議な人さ。 オレに大切なことを教えてくれた……いわば恩人かな。 「それより、海の景色に飽きたのか?」 「うん。やっぱり、アカツキと一緒にいる方が楽しいよ」 「……なかなかうれしいこと言ってくれるじゃないか」 なんて笑ってみせたけど、やっぱり海の景色に飽きてたんじゃねえか。 ま、延々と何もない海を見てるだけってのも、ある意味辛いんだろう。 オレのことを探して、わざわざここまでやってきてくれたわけだし……悪くは言えないよな。 運ばれてきたオレンジジュースをごくごくと飲むナミ。 一緒についてきたストローを使わないあたり、よっぽど喉が渇いてたんだなあ…… 「なあ、ナミ。一つ聞いていいか?」 「なあに?」 オレは、プリムさんから投げかけられたのと同じ質問をしてやろう、なんて意地悪なことを思った。 「ポケモンと夢と、どっちかを犠牲にしなきゃいけない時が来たら……おまえはどっちを選ぶ?」 「な、なによいきなり……」 「ポケモンを犠牲にして夢をつかむか、夢を犠牲にしてポケモンと共に生きるか。どっちを選ぶ?」 「え〜、なにその質問……?」 ナミはオレの意図を測りかねているようで、顔をしかめた。 やっぱ、少しは悩んでるみたいだ。 「オレさ、その質問をさっきの人にされたよ。 結構考えたな。当たり前の答えでも、すぐにはたどり着けなかった」 「え〜、意地悪〜」 ナミからは大ブーイング。 そりゃ意地悪って言いたくなるのも分かるけど……でも、いつかはナミもぶつかる壁なんだって思うよ。 今からその答を用意しているのといないのとじゃ、結構違ってくると思うんだけどな。 「なあ、ナミ。 いつかはおまえにだってそういう時が来ると思うぜ。 『いつか』『いつか』って思ってばかりいたら、その時になって何も考えられなくなるってこともあるんじゃないか?」 「そりゃそうかもしれないけど……いきなり聞かなくたっていいじゃない、そーゆーことを」 やっぱりどこかで不満が残ってるんだな。 まあ、無理に答えてもらおうとは思ってないさ。 いつかそういう時が来るってことを分かってもらえればいい。それだけでも結構違うはずだ。 「今のことばかり考えてちゃダメだってことだよ」 そうさ。 今のことばかり考えてたら……自分のやりたいことばかりやってたら、未来の自分を見失っちゃうから。 ちゃんとした考え(ビジョン)をもって、それに基づいていかなきゃいけない。 プリムさんがオレに教えてくれたのはまさにそのことだったんだ。 教えたって、罰は当たらないだろう。 ナミはしばし考え込む様子を見せていたけど、やがて顔を上げ、 「で、さっきの人と何話してたの?」 いきなり本質に入ってきやがったし……やっぱ、すごく気になってたんだな。 ナミにとっちゃ、どこの馬の骨かも知れないような女性とオレが話をしてたんだから。 もしかして嫉妬してるんだろうかって思ったけど、ナミの表情からはそういった類の感情は読み取れなかった。 「いろんなことさ」 「何よ、それ……」 オレの答えに気分を害したのか、ナミの眉が十時十分の形に近づいた。 一番簡単で分かりやすい解答だと思うんだけどなあ。 それで納得しないんだから、ナミもそれなりに大人(?)になったってことなんだろうか? いや、ありえねぇな、それだけは。 心の中でいろいろと考えていると、ナミの表情が変わった。 信じられないものでも見るように目を大きく見開いて、 「まさか、歯の浮いたセリフでナンパしかけてたとか?」 「どう考えたらそうなるんだよ。だいたいオレまだ十一歳だぞ。そういう趣味ねえっつーの……」 120%ありえねぇ可能性をちらつかせるナミに、オレは呆れ顔を向けるしかなかった。 どう考えたらそうなるんだ? 想像っていうより、妄想だろ、それ。 だいたいオレにそういう趣味があるなんて、どうやったらそんな風に考えられるんだか。 やっぱり、ナミはプリムさんに嫉妬してるんだろう。 ナミ自身は気づいてないだけかもしれないけれど。 「じゃあ……誘惑されてたとか?」 「そういう方面から抜け出そうとは思わないわけ?」 「だってぇ……」 上目遣いでオレを見ながら、身体をくねらせるナミ。 なんでそういういかがわしい方ばっか向いてんだ? オレがそっち方面に興味あるだなんて、本気で思ってるわけじゃないだろうけど…… なんかこれ以上こいつに話させるとややこしい方に転落し続けるような気がして、やむを得ず会話の一部を説明した。 「あの人、プリムさんって言うんだけどさ。 トレーナーだって言うんで、さっきのような質問を投げかけられたり、いろいろとポケモンのことを話したりしたんだよ。 本当にそれだけさ」 「……そうなんだ」 オレの説明を聞いて、ナミは怒りかけた肩を落とした。 分かってくれたようである。 「……なんだか、アカツキとても楽しそうにしてたから。 あの人の色気に呑みこまれちゃったんじゃないかって思っちゃって。 ゴメンね……」 「分かってくれりゃいいさ。色気ってところが気になるけど」 プリムさんは色気なんて漂わせてなかったぞ。 むしろ大人の女性としての気品の方が色気を遥かに上回ってる感さえあったんだ。 もしも彼女にその気があったとしたら……オレ、ナミの言葉どおりの展開になってたのかもしれない。 あー、考えるだけでなんかコワイな。 ナミにはプリムさんが色気ムンムンの大人の女性に見えてたんだろう。 だから、ありもしない妄想を膨らませてたんだ。 思い込みが激しいっていうか、なんていうか……まあ、いいだろ。 「ナミ、マサラタウンって町は好きか?」 「決まってるじゃない。大好きだよ」 オレの投げかけた問いに、ナミは間髪いれずに返してきた。 今さら何訊いてるの、と言わんばかりの顔と口調で。 「そっか、安心した」 「なあに? そんなこと訊くなんて……」 「いや、こっちの話だ」 でも、ホントに安心したよ。 ナミも、やっぱり生まれ育った町が大好きなんだ。 そりゃそうだよな。 静かで環境に恵まれてて……何より、オレやシゲルやじいちゃんやみんながいた場所だからな。好きじゃないわけないさ。 シゲルもサトシも……今は別の場所にいる。 オレたちだって同じだ。 でも、いつだって戻ることができる。 故郷って、離れてみてそのありがたみっていうのが分かるものだって、誰かの名言として聞いたことがあるんだ。 本当にそんな感じ。 第二の故郷と呼べるような地方を捨てて各地を旅しているというプリムさんの心境。 如何ばかりのものだったんだろうか……? いつでも帰れる場所を失くして……落ち込まなかったはずがない。 忘れたいと思わなかったはずがない。でも、プリムさんはぜんぶ受け入れて、それでも前に進もうとしてた。 やっぱり、強い人だと思う。 プリムさんは潮風に当たってるんだろうか。 それとも、上の階で映画を観てるんだろうか……そう思っていると、声をかけられた。 「ねえ、アカツキ」 「ん?」 「グレンジムのジムリーダーって、どんなポケモンを使ってくるんだろうね? あたし、楽しみで仕方ないの」 「どんなポケモンだろうな。 ま、どんなポケモンだろうとオレたちは勝たなきゃいけないんだ。相性のいいタイプだってことを祈るだけさ」 結局は戦ってみなくちゃ分かんない。 ジムリーダーが、運良くオレの手持ちのポケモンと相性のいいタイプのポケモンを出してきたら、少しだけ楽になるってだけだ。 苦手なタイプの相手に勝つための方法っていうのも、ちゃんと考えてるだろうから。 「うん、そうだね」 オレの言葉を受けて、ナミはニッコリ微笑んだ。 少しは励みになったってことか? だったら、悪い気はしないけどな。 それからいろいろと話に花を咲かせている間に時間は過ぎ―― 夕焼けに空が染まり、太陽が彼方の水平線に沈みかけた頃、定期船の前方に島が見えてきた。 「あ、グレン島ってあそこだよね!?」 「ああ」 息巻くナミが指差した先には、三角形に近い島影。 グレン島――今も活動している火山の島。その麓にできた街だ。 甲板を吹き抜ける風は少しだけ冷たい。 船が水面を切って進むにつれて、島影が鮮明になり、次第に大きくなっていった。 それから程なく定期船はグレン島の埠頭に接岸し、半日足らずの船旅は終わった。 オレたちもグレン島に足を踏み入れ、今晩の宿となるポケモンセンターへと向かうことになった。 埠頭から街中に入るところで、オレは一度だけ立ち止まり、振り返った。 船から下りる人の中にプリムさんの姿を探した。 でも、彼女の姿はどこにもなかった。泡になって消えた人魚のようだった。 「…………」 「どしたの?」 「いや、なんでもない。行こうか」 「うんっ」 心配してたんだろう。ナミはオレの言葉を聞いて、元気よく頷いた。 それから、どちらともなく手を繋いで、ポケモンセンターへ向けて歩き出した。 街の中へと歩いていく少年と少女の姿を埠頭の隅からじっと見つめ、プリムは目を細めた。 仲睦まじく見える二人の姿はすぐに街の雑踏に掻き消えた。 「あなた方の未来が明るく輝くものになるよう、わたくしも影ながら応援していますよ」 聞こえるはずが、伝わるはずがないと知りながらも、そう口にせざるを得ないほど、彼女は少年との話の中で何かを得た。 それが何であるかは、彼女にしか分からないだろう。 プリムは夕陽を照り受けた海に向き直ると、懐からモンスターボールを取り出し、軽く投げ放った。 ボールは夕陽と重なった瞬間に口を開き、中から彼女のポケモンが飛び出し、海に飛び込んだ。 白いヒゲと大きな牙が印象的な青いトドのようなポケモンだ。 顔を水面から出して、埠頭に立つトレーナーを見上げている。 「トドゼルガ、わたくしたちも行きましょう」 プリムの言葉に、青いトドのようなポケモン――トドゼルガは頷くと、身体の向きを変え、広い背中を水面から出した。 プリムはトドゼルガの背に飛び乗ると、沈みかけの夕陽を指差した。 「今はどこよりも遠い場所へ……行きましょう、トドゼルガ」 プリムを乗せたトドゼルガは、ゆっくりと泳ぎ出した。 夕陽を追いかけながら旅をするのもいいかもしれない。 プリムは明日への期待を胸に確かに抱きながら、そんなことを思った。 To Be Continued…