ホウエン編Vol.02 友達 <前編> ホウエン地方で最初に夜を過ごすことになった場所は、オダマキ博士の研究所兼住居でも、ポケモンセンターでもなかった。 オダマキ博士の研究所で知り合い、バトルの後で友達になったアカツキの家だったんだ。 ポケモンセンターで一泊しようかと思ったけど、アカツキに――というよりは、ルースのことを好きになったカエデに引きずられる形で連れてこられた。 まあ、なんつーか…… 結構、居心地は良かったりするんだな。 アカツキのお母さんは優しくて、よく笑う女性(ひと)だ。 ノリがいいって言うか、来客(自分で言うのも変だけど……)のオレにもアカツキと同じように接してくれる。 一言で言えば、度量の広い肝っ玉母さんって感じだ。 でも、体格は細身で、カリンさんと同じようなしなやかなボディラインの持ち主。 あっという間に意気投合しちゃって、アカツキも交えて三人で夕食の席を囲んだ時には、他愛ない話でも、意外なほど盛り上がったんだ。 いきなり家に泊まらせてもらうなんて、正直気が引けたんだけど、今は彼の家に泊まれて良かったと思ってるんだ。 オレが一晩を過ごすことになったのは二階にある一室で、アカツキの部屋と廊下を挟んだ向かい側に位置している。 アカツキのお兄さんの部屋だってことだけど、そのお兄さんはあんまり家に帰ってこないらしくて、ほとんど使われていない状態だとか。 そのおかげで、こうして寝泊りに使わせてもらえることになったんだけどな。 部屋は整理整頓が徹底されていて、ゴミ一つ落ちていない。 その上、本棚に収められた本は一段一段きっちりと高さが揃っていて、ジャンルまで区分けされてある徹底ぶり。 それもアカツキのお母さんが毎日掃除を欠かさないからこその成果なんだろうけど。 だからこそ、こういう部屋に泊まっていいんだろうかという思いもあるんだよなぁ…… まあ、当の本人がいいと言ってくれたんだから、ご厚意に甘えないのも失礼だよな。 というわけで、オレはありがたく泊まらせてもらうことにしたんだ。 机の上に置かれた目覚まし時計の針は、午後九時ちょうどを差している。 風呂は済んだけど、寝るにはまだ早い時間だ。 アカツキは自室に閉じこもって何かやってるようだし、彼のお母さんもリビングのソファーに腰掛けて二時間ドラマを見てたりするから、 二人の邪魔をするわけにはいかない。 いざここでひっそりできることを考えてみると、結構制限がかけられたりしてるんだよ。 ポケモンセンターならそんなに気兼ねなくいろんなことができるんだけど……今さら考えたって仕方ないか。 虚しくなってなんとも言えず、オレは四角い窓枠の向こうに浮かぶ月に目をやった。 当然と言えば当然だけど、カントー地方で見る月とまったく変わらない。 同じものなんだから、そんなの考えるまでもないことだ。 それでも考えちゃうってことは…… これからの日々に期待と不安を感じてるってことじゃないか――ちょっとだけ気持ちが不安定だからじゃないかと思う。 なんでだかは分かんない。 ただ、いろんな気持ちが胸のうちで交錯してるのは分かる。 だって、上陸初日にあんなバトルができて、相手トレーナーと友達になれたんだから。 ホウエン地方を旅する途中で、もっとバトルして、友達もできて、交流を深めて行くんだろうなあ。 そう思うと、なんともいえない感じなんだよ。 「ナミはどうしてるかなあ……」 ベッドに身体をあずけ、オレはぼーっと月を見つめながら、ナミのことを思い返した。 『おまえのためだ』と言って、半ば強引に説得して振り切ってきたけど……あいつ、淋しい思いしてないだろうか? 旅に出る前はほとんど毎日一緒につるんでたし、旅に出てからもほとんど一緒に各地を巡ってた。 あいつにとっては『オレのいる毎日』が当たり前になってるんじゃないかって思うと、どうにも気になってしまう。 かくいうオレ自身はというと、あいつと同じ図式が当てはまらないと思ってる。 あいつがいなくても別に旅は続けていけるし、目標にだって突き進んで行けるからさ。 「あいつなら大丈夫って、割り切ったつもりなんだけど……」 やっぱり心のどこかで割り切れてない部分がまた残ってる。 気にするだけ無駄だって、ホントは分かってるんだけど。 「でも、なんで気になるんだ? 従兄妹……だからか? いや、違う。そんなんじゃない……分かんないや」 ナミは従兄妹。それ以上でもそれ以下でもない。 強いて挙げれば、トレーナーとしてはライバルってことになるんだろうけど、サトシやシゲルやユウキと比べると、ライバルとしての影が薄いのは確実。 ……ナミならやって行ける。 ガーネットやトパーズといった頼りになるパートナーだっているし、マサラタウンにはアキヒトおじさんとハルエおばさんもいる。 心配する要素はひとつとして存在していないのに、心配……っていうより気になってるだけなんだろうな。 気にする必要も、今はほとんどないわけだけど。 「なんか、考えれば考えるほど深みにはまって行くような気がするな……ここいらで退いとく方がいいかな」 ため息混じりに言葉を漏らす。 これ以上考えたところで、オレの将来のためにはなるまい。 それよりも今考えなければならないのは、ここからどういう風にホウエン地方を旅して行くか、である。 いっそ足の向くままぶらり一人旅ってのも悪くはないけど、それじゃあ無目的っていうのと変わらない。 だからといって、全土をゆるりと旅して時間的な余裕があるのかと突きつけられると、それも避けたいところ。 「どうしたもんかねえ……」 考えても答えが出ずに困っているところへ、ドアをノックする音が聞こえてきた。 ……アカツキか? そう思っていると、ドア越しにアカツキの声が聞こえてきた。 「アカツキ、寝てたらごめん。起きてる?」 「ああ、起きてるよ」 オレは起き上がって、足を床につけた。 「入るね」 「ああ、どうぞ」 ちゃんと断りを入れてから、アカツキは部屋に入ってきた。 パジャマ姿だけど、昼間と比べてもそんなに差はないように見える。申し訳程度の月明かりじゃ、そう見えるんだろうか。 なんて思ってると、アカツキは机の傍にある椅子を引き出して、腰を下ろした。 「眠れなかったの?」 「いや、そういうわけじゃないんだけど……寝るのにはまだ早いかなって。そう思ってただけ」 「ふーん」 ふーん……って。 むしろ、アカツキの方が寝る気満々に見えるのは気のせいだろうか? 「でも、どうしたんだ? アカツキの方こそ眠れないのか?」 「ううん、そういうわけじゃないよ」 パジャマ姿で言われても、あんまり説得力ないんだけどな。 オレもパジャマだけど、アカツキも同じことを考えてたんだろうか? 「昼間はカエデがちょっかい出してごめんね。ルース、ずいぶんと怖がってたから……一言、謝りたくて」 「いいよ、別に。そんなに気にしなくても。 ルースだって、嫌われるよりは好かれる方がいいって思ってくれたみたいだし」 オレはアカツキの言葉にかぶりを振った。 なんだ、こんな夜遅くにやってきたのは、カエデがルースにちょっかい出したことを謝りに来ただけってワケじゃないと思うけど。 でも、ありうるって思っちゃうのはどうしてだろう? アカツキがまとう雰囲気が、そう思わせているのかもしれない。 「そう言ってもらえると助かるよ」 ニコッと笑うアカツキ。 オレがそういう言葉を返すことも、分かってたってことか。 まったく……抜け目がないのはバトルと同じだな。 思わず苦笑していると、 「アカツキのポケモンってみんな個性的だけど、とても仲がいいんだね」 「ああ。個性が強いからな」 リッピーはいつでもマイペースだし、ルースは臆病だし、ルーシーは子煩悩だし。 ラッシーはフシギソウの時こそやんちゃを絵に描いたような性格だった。 だけど、フシギバナに進化して思うように動けなくなってからは、ちょっと大人っぽく振る舞うようになった。 むしろ、オレの方がガキなんじゃないかって思っちゃうくらい。 なんか淋しい気もするんだけど、成長しているラッシーに負けてられないっていう気持ちの方がどっちかというと強いかな。 それに、個性って言えば…… 「そういえばさ、気になったんだけど……アカツキのリザードン、色違いなんだろ?」 「うん」 そう。 オレが今一番気になっているのは、アカツキがバトルで繰り出した『色違い』のリザードンのことだ。 普通のリザードンは炎のように赤味を帯びたオレンジの身体だけど、アカツキのリザードンはほとんど黒に近い紫のような色をしていた。 色違いのポケモンは突然変異から生じる存在だけに個体数が少なく、見つけられればラッキー。 さらにゲットまでできちゃったら、笑いが止まらなくなるほどハッピーな気分になったりもする。 野生のリザードンはとても珍しいから、色違いのリザードンをゲットしたアカツキは恐ろしい強運の持ち主ってことになるんだろうな。 でも、その背景には何かがあったんじゃないかってことも、容易に想像がつくんだ。 「しかもブラストバーンまで使うんだ、普通にゲットしたんじゃないって思ったんだけど。 そこんとこ、どうなんだ?」 色違いで、強い。 ここまで来ると、ラッキーとかハッピーとかって運の良さで競えるような次元の話じゃなくなってくる。 ブラストバーンという技がある。 アカツキのリザードンがラッシーに使ってきた、大文字やオーバーヒートといった最強クラスの技すら凌ぐ、真に最強の炎技。 親父のリザードンが使ってきたことがあったけど、あれは普通のリザードンじゃないからオッケー。 でも、オレより一つ年上なだけのアカツキがゲットしたリザードンがあんな技を覚えてるなんて、普通のゲットじゃまず考えられない。 そこんとこが妙に引っかかるんだ。 アカツキは複雑な面持ちで、窓の外に浮かぶ月を見つめていた。 「答えたくないなら、無理に答えなくていいよ。 オレの方こそ、無責任なこと聞いちゃったかもしれないし……」 どう答えようかと考えているアカツキに、オレは言葉をかけた。 その様子だけで、それ相応の事情があることは読み取れた。 「ううん、アカツキになら話してもいいかな」 振り返り、アカツキはニコッと笑った。 オレになら……か。 今まで、あんまりリザードンのことを人に話してこなかったってことなのかな。そうだとしたら、なんだかちょっと悪い気がする。 「キミが相手だったから……ラッシーが強かったから、あそこはリザードンじゃなきゃ勝てないって思ったんだ」 「そうなんだ……」 相手がラッシーだったから……か。 それならカエデを出してもいいはずなんだけどな。 ルースをあそこまで怯えさせたんだから、それなりに強いはずだし。 スピードで掻き回すことだってできたはずなんだ。 でも、アカツキはリザードンじゃなきゃ勝てないって思ってたんだ。 それくらいラッシーのことが脅威だったってことだろう。相性を度外視しても。 「リザードンはバトルでゲットしたんじゃなくて、ある人とトレードしてゲットしたんだ」 「トレードか……」 「うん」 トレードと言われても、すぐにはピンと来なかった。 というのも、あれほどのリザードンと釣り合うだけのポケモンは、そうはいない。 一体どんなポケモンとトレードしたんだろう? アカツキとしても、リザードンをゲットできるとはいえ、そのポケモンを手放すのは辛かったはずだ。 トレードっていうのはそういうモンなんだ。 それまで一緒に過ごしてきたポケモンと引き換えに、新しいポケモンを仲間として迎え入れる。 言葉尻だけ見てみれば、野球とかでよくあることだけど、実際に自分のポケモンをトレードに出すっていうのは、とても辛いことなんだ。 トレードしたことのないオレには、その時のアカツキの辛さが分からなかったけど。 「ぼくがトレードしたのはエアームド。 リザードンとじゃ、とても釣り合いなんて取れないって分かってたんだけど……」 エアームドじゃな……強いエアームドだとしても、あれほどのリザードンとは釣り合いなんて取れないだろう。 エアームドは鋼と飛行タイプを持ち合わせるポケモンで、物理攻撃に対する防御力がとても高い。 弱点の攻撃じゃないとなかなか倒せないタフさを持ち合わせてるけど、攻撃力は中の上くらい。 他の鳥ポケモンと比べると素早さも低めだけど、一癖も二癖もある技を覚える。 ブラストバーンなんか食らった日には、エアームドなら一撃でノックアウトされるだろう。 相手も、よくエアームドとトレードする気になったもんだ。 言っちゃなんだけど、オレだったら絶対断るし。 「トレードしてくれた人、ダイゴさんって言うんだけど、エアームドでいいって言ってくれたんだ。 鋼タイプを極めたいって言ってたから」 「なるほど……」 それでようやく納得が行った。 相手が釣り合いの取れないトレードを受けた理由も。 ――鋼タイプのポケモンを極める。 自分の好きなタイプをトコトンまで極めるってのは、言葉では簡単なことだけど、実際にやってみると、とっても難しい。 手持ちのポケモンを同じ鋼タイプで固めると、氷や岩タイプを主軸とする相手には無類の強さを発揮するんだ。 半面、格闘や炎タイプの相手とは相性が最悪。 一度弱点を突かれると脆い。 そのままドツボにはまって全滅ってことだって少なくないはずだ。 やるまでもなく分かりそうなことだけど、そういったリスクを背負ってでも鋼タイプを極めようというその心意気は実に男らしくて憧れるなぁ。 それに、ダイゴってどう考えても男の名前だし。 「それだけ、アカツキのエアームドに惹かれるところがあったってことなんだろうな。なんか、羨ましいよ」 「ありがとう。 ホントはね、ぼく、あのリザードンをゲットすることが夢だったんだ。もう、一つ叶っちゃったんだよね」 「夢? もう叶ったって……」 言ってる意味が分からなくて、オレは思わず鸚鵡返しに言った。 リザードンをゲットするのが夢って…… アカツキの口ぶりからすると、普通のリザードンじゃなくて、『色違い』のリザードンをゲットするのが夢って聞こえるんだけど。 オレの視線を「教えろ」と解釈したのか、アカツキは困ったような表情で、 「ぼく、子供の頃にあのリザードンに助けられたんだ。 それで、あのリザードンに会いたくて、ゲットしたくて、トレーナーになった」 アカツキは『色違いのリザードン』をゲットしたいと思うようになった経緯を大ざっぱに話してくれた。 幼い頃に登山をしていた時に家族とはぐれて一人ぼっちになってしまったアカツキを、『色違いのリザードン』が助けてくれたそうだ。 その時のことが忘れられなくて、トレーナーになってもう一度あのリザードンに会おう、できればゲットしようと思うようになった。 実際にトレーナーになってホウエン地方各地を旅した中で、『色違いのリザードン』のトレーナーと出会った。 それからはいろいろとあって――そこんとこは言葉を濁していた――、エアームドとのトレードでゲットし、今に至る。 アカツキはとても懐かしそうに言ってた。 ゲットした時の喜びや興奮が伝わってくるような気がした。 「その夢は叶ったけど、次の夢はまだ叶ってない」 「次の夢?」 「うん。立派なフィールドワーカーになること。それが今のぼくの夢なんだ」 「フィールドワーカーか……」 瞳を輝かせるアカツキ。 オレは目を細めた。 フィールドワーカーは、オダマキ博士のように野外でポケモンと触れ合って研究する職業だ。 研究者と違うのは、学会とかに出席しないことと、つまらない『研究者のルール』に縛られずに、 気の向くまま足の向くままに旅をしながら研究を続けられるってところだ。 アカツキには意外とよく似合う職業かもしれない。 オレが言うのもなんだけど、学会とかの『異質』な雰囲気には溶け込めそうにないし。本人に言ったら失礼だろうなあ。 「そういうアカツキの夢は?」 「オレは最強のトレーナーと最高のブリーダーだよ。両立できれば言うことないよな」 「へえ……そういうのもいいね」 てっきり『我がまま』とか『大丈夫?』とか言われるんじゃないかと思ってただけに、アカツキの反応は意外なものだった。 夢を同時に二つ持つことなんて、考えたこともなかったんだろう。 まあ、フィールドワーカーとトレーナーなら両立できるからな。 アカツキなら、すぐに『二束の草鞋』を履くことを選ぶかもしれない。 オレだって、トレーナーとブリーダーの両立が可能だと思っているから、両方の頂点を目指そうと旅に出たわけで…… 「お互いに頑張らなきゃね」 アカツキは微笑みながら言うと、席を立った。 椅子を元に戻すと、扉の前に歩いていった。 「明日にはマサラタウンを発つんでしょ?」 「そのつもりだよ」 振り返りざま、投げかけられた質問に、オレは小さく頷いた。 「それじゃあ、遅くまで話すわけにはいかないね。おやすみ、アカツキ」 「ああ、おやすみ」 オレの言葉を背に受けて、アカツキは部屋を後にした。 扉が閉まってすぐ、廊下の向かいのアカツキの部屋の扉が開き、閉まる音が聞こえた。 何をするあてもなく、オレは机の上の時計に目をやった。 九時十五分。 あれだけ内容の濃い話をしても、まだ十五分しか経ってなかったのか……こういう風に気になる時ほど、時間の流れって遅く感じられるんだな。 楽しいことをしてる時は、時間が過ぎることなんて忘れてしまうけど。 だからといって、アカツキと話していたことが楽しくなかったというワケじゃない。 むしろ、お互いに夢を叶えるために頑張ろうって、意思統一(大げさ?)することができたからさ。 それなりに満足もできたところで、ちょっと早いけど、そろそろ寝よう。 明日はこの町を発って、新しい地方での第一歩(これがホントの第一歩)を踏み出すんだ。 横になり、足元で折りたたまれた布団をかぶって目を閉じる。 それからすぐに、意外なほどあっさりと、睡魔は訪れた。 翌朝―― アカツキの家の軒先で、オレはアカツキと彼のお母さんに見送られることになった。 そこまでしてもらうのは悪いってことで、最初は断ったんだけど……ナンダカンダ言われて押し切られちゃったんだ。 二人して押し切られたものだから、そこまで来ると断る方が悪いと思っちゃうんだよな。 「お世話になりました」 オレはアカツキのお母さんに向き直って、深々と頭を下げた。 雰囲気が母さんに似てるだけに、母さんに頭を下げてるような気になるけど、それでも見た目はあんまり似てない。 「いいのよ、別に。可愛い息子のお友達なんだから。また何かあったら気軽に寄ってってね」 頭を上げたオレに、ニコニコ微笑みかけながら、つとめて明るい口調で、言葉どおり気軽に言ってくれた。 息子と同じ名前で同年代ということもあってか、オレのことも実の子のように思ってくれてる部分もあるみたいだ。 「そうだよ。アカツキはぼくの大事な友達なんだから、遠慮なんてしなくていいって」 母親と同じく、ニコニコと笑みを浮かべながら言葉を継ぐアカツキ。 新しい友達ができて、本人が一番うれしいと思ってるんだろう。 言い換えれば、それだけユウキのことを大切に思っていたから、彼がミナモシティに行ってしまった寂しさを際立ててることになる。 暗に比べられてるから、そこんとこを気にするとあんまりいい気分はしないけど……それでも、友達っていうのはいいモンだよ。 「ありがとう」 オレはアカツキに礼を言い――言葉だけでなく、何かお礼を形にできないかと考えた。 言葉だけじゃ、なんか失礼な気がしたんだ。 アカツキや彼のお母さんなら、それでも十分だって思っててくれるかもしれない。 でも、オレ自身が納得しきれてない部分があるのが問題なんだ。 「あ、そうだ」 オレにできそうなことといえば、これくらいのものだと思いついたのは…… リュックを下ろして、中からポケモンフーズの瓶を取り出し、中身を別の小瓶に移し変えて、アカツキに手渡した。 「これは?」 アカツキは訝しげな視線を小瓶の中身に向けていた。 ポケモンフーズを見るのが初めてってワケじゃないだろうけど。 「オレが作ったポケモンフーズなんだ。甘い味が好きなポケモンがいたら、食べさせてやってくれよ」 「君が作ったの?」 オレの手作りだと聞いて、アカツキは目を丸くした。 危うく小瓶を取り落としそうになって、慌てて両手でつかむ。 「まあ、ブリーダーをやるからには、自分のポケモンのコンディションを整えるのに市販のポケモンフーズに頼るわけにはいかないんだ」 「そうね。その心がけは立派なことだと思うわ」 頷いたのはアカツキじゃなくて、お母さんだった。 「ねえ、一つ聞いていいかしら。君にとってポケモンってどんな存在なの?」 「『家族』だったり『仲間』だったり……上手い言い方は見つからないんですけど、一番近いのは家族、かな」 「そう……ウチの子と同じね。ここまで同じなんて、本当に珍しいわ」 オレの答えに満足そうに笑みを深めると、お母さんはアカツキに顔を向けた。 アカツキも、ポケモンのことを家族だって思ってるんだ。 そうじゃなきゃ、オーダイルをモンスターボールから出して一緒に過ごしたりはしないだろう。 ちなみに、オーダイルは今カリンさんのところで数ヶ月に一度の身体検査を受けているんだとか。 「いつまでもこうやって話してたら、君も行きづらくなるわね」 「ええ、まあ……」 話し続けていたら、行きづらくなる。 アカツキのお母さんは、オレの心理状態をちゃんと見抜いていた。 亀の甲より年の功(女性に対しては失礼かな?)ってことなんだろうな。 「ホウエン地方での旅が、君にとって大きな収穫になるといいわね。 それじゃあ、行ってらっしゃい」 「はい。それじゃあ……」 その言葉に背中を押され、オレは小さく頭を下げると、二人に背を向けて歩き出した。 どこへ行こうかなんて、明確な目的地はまだ決まっちゃいないけど……時間の許す限り、ホウエン地方の各地を巡ってみようと思う。 アカツキの家から少し離れたところで足を止めて振り返る。 お母さんはすでに家の中に入っていたけど、アカツキはこっちを向いていた。 オレの視線に気づくと、手を振ってくれた。 思わず手を振り返すオレ。 ああ…… やっぱり、オレのことを大切な友達なんだって、思ってくれてるんだ。 シゲルもナミも、友達とはまた違った関係だし、サトシは幼なじみで、友達っていう感じもあんまりしない。 学校での友達は、トレーナーとしてだとずいぶんと感じが違う。 だからかもしれない。 オレも、アカツキのことを大切な友達だって、心からそう思えるのは。 適当なところで手を振るのを止めて、再び歩き出す。 ほどなく町を南北に貫くメインストリートに出ると、進路を北に採る。 このまま町を出ると、北にあるコトキタウンに行けるって、アカツキから聞いた。 コトキタウンに行かないと、陸路では他の街には行けないってことも。 そこまで聞いて、オレはミシロタウンがマサラタウンと地理的によく似てるなって思ったんだ。 マサラタウンから陸路で他の街へ行こうとすれば、トキワシティに出ないと、 ニビシティにも、カントーリーグが開催されるセキエイ高原にも行けないからさ。 ともあれ、ここからホウエン地方での新しい冒険が始まるんだ。 周囲を見渡して、『始まりの地』であるこの町の景色を目に焼きつける。 マサラタウンとほとんど変わらない町並み。 通りを行く人たちの素朴な雰囲気に、周囲の地理。一見するとマサラタウンに帰って来たような錯覚を覚えてしまう。 北の入り口にあるゲートをくぐると、その先はコトキタウンへと続く道路。 これもアカツキに聞いたところによると、101番道路っていう名前がついているとか。 アスファルトで舗装されているわけじゃなくて、土を固めて見た目を多少マシにしてる程度。 だけど、道の両脇に延々と植えられている木々と雰囲気が合うのは、アスファルトで舗装されてない道だよ。 自然の雰囲気をそのまま残してるような気がして、どことなく落ち着くんだよな。 「さあて……」 オレは足を止め、遥か彼方まで延々と続いているような道の先を見据えた。 コトキタウンはここから半日ほど歩いていけばたどり着くことができるらしいけど、当然道の先に街らしい影は見当たらない。 当然といえば当然だけど、街を行き来する人の姿も見当たらない。 ミシロタウンは言わば『陸の孤島』状態で、片田舎であることも手伝って、あんまり人が訪れないんだろう。 そこんトコは本気でマサラタウンと似てるから、妙なくらい親近感が湧いてくるんだけども。 「人もいないことだし、レキと一緒に行ってみるか」 オレは周囲に人の姿がないことを改めて確認し、モンスターボールを手に取った。 前方に軽く投げ放つ。 カツンと乾いた音を立ててバウンドした直後、口が開いて中からレキが飛び出してきた。 「ゴロっ!!」 モンスターボールの中は窮屈だとアピールするように、レキはオレの顔を見上げ、大きな声で嘶いた。 やっぱり、外の空気の方が――それも自然の色濃い場所の方が気持ちいいんだろう。 「レキ、一緒に次の町まで行こうな」 「ゴロっ!!」 膝を折り、レキの目の高さに合わせる。 レキは元気よく頷くと、オレの胸に飛び込んできた。 「よしよし」 オレは左右に揺れる、レキの頭上のヒレを優しく撫でた。 犬は楽しいことがあるとシッポを揺らすんだけど、レキの場合は頭上のヒレがその代わりを果たすらしい。 感情を表に出すアンテナみたいなものなんだろう。 新入りのポケモンだけに、一刻も早くオレやみんなに慣れてもらいたい。 まあ、持ち前の明るい性格があれば、それも難しいことではないと思うけどさ。 それでも、できるだけオレと直に接する時間を多く取りたいと思ってるんだ。 ラッシーや他のみんなが見たら、たぶん妬くと思うけど、それは仕方のないことだ。 ちゃんと説明すれば分かってくれるはず。 だから、オレは何も言わず、レキだけをモンスターボールから出したんだ。 もしも野生のポケモンとバトルすることがあったなら、その時はレキの実力を測るのに絶好の機会だ、という意味も込めて。 まあ、進化前ということもあって、ラッシーやルースほどの実力を期待するのは酷だろう。そこんとこは、まあ深く考えない方向で。 とりあえずは基本的な実力を見て、どういう風に性格づけして育てて行くかというのを見ることができれば、それでいい。 「それじゃあレキ。行こうな」 オレはレキを地面に下ろすと、コトキタウン目指して101番道路を歩き出そうとした――その時だった。 「ゴロっ!!」 レキが、道の右側の木立に身体を向けて、声を発したのは。 声に当てられるように、オレは動かしかけた足を止め、レキの視線を追いかけた。 特記すべきこともない、どこにでもあるような木立と、茂みがあるばかり。 オレには何もないように感じられたけど、レキは何かを見つけたのかもしれない。ポケモンって、総じて人間よりも感覚が発達しているから。 なによりも、オレはレキが何か見つけたんだって信じてるからさ。 「何かあったのか?」 オレは木立に目をやったまま、レキに問いかけた。 町のすぐ傍とはいえ、何が出てくるか分からないんだ、トレーナーであるオレが警戒を怠るわけにはいかない。 ……自分で言ってて虚しくなるんだけど、ポケモンが感じ取れないような危険なら、オレが同じように感じることなんてできるはずないんだよな。 でも、何もしないよりはマシなはずだ。 「ゴロ、ゴロっ!!」 こっちだ。 レキは吠え立てるように嘶くと――でも、その声は吠えるっていう表現が似合わないほど可愛さに満ちていた――、木立めがけて走り出した。 「おい、レキ!! ちょっと待てよ!!」 止める間もなかっただけに、オレは慌ててレキの後を追った。 レキは木立の真ん中で足を止めると、すぐ傍の木に向かって何度も何度も吠えていた。 「木……? いや、違う」 オレはレキが『木に』向かって吠えてるんじゃないと、直感的に理解した。 オレから見て、その木の向こうに何かがあるってことなんだ。レキが逃げ出さないほどの、脅威にもならないような何かが。 オレはレキの後ろで足を止めた。 木の方に振り向くと…… 「あ……」 人が木にもたれかかって倒れていた。 そっか。 レキは人が倒れてるのを感じて、オレに知らせてくれたんだ。 出会って一日と経ってないのに、オレにそんなことまで教えてくれるなんて…… レキってやっぱり旅に出られてうれしいって、オレのことを信頼してくれてるんだな。 喜びに浸りたいのは山々だけど、今はそんなことしてる場合じゃなかったんだ。 倒れていたのは三十代と思しき男性で、女形のような整った顔立ちを、男にしてはやや長めの銀髪で囲っている。 全体的にスラリと引き締まった体格で、倒れてさえいなければ、結構な威圧感を放っているようにすら感じられた。 はて……? オレは男性の顔に注目した。 どこかで会ったことがあるような気がするんだけどなあ。 気のせいか。 初対面のはずだし。 この人と似てる人にどこかで会ったってだけかもしれない。 人間の記憶ってのは、そう都合よくはできてないものだと割り切って、オレは男性に駆け寄った。 「もしも〜し、大丈夫ですか?」 声をかけ、身体を揺さぶってみる。 でも、男性はまったく目を覚ます様子を見せず、揺さぶられるがままだった。 これじゃあ、操り人形と変わらない……胸のうちで毒づくも、男性の胸元が規則正しく上下していることがせめてもの救いだと思った。 眠ってるというよりも、何らかの理由で気を失ってるってところだろう。 自然に目を覚ますのを待って、オレたちはコトキタウンへ急ぐという選択肢も、一瞬脳裏を過ぎった。 だけど、レキがこの男性のことをオレに教えてくれたのを水泡に帰すようなマネだけはできなかった。 つまらない選択肢を即座に抹消する。 「一体、なんでこんなところで倒れてるんだ?」 オレは周囲を見渡した。 木々が折れてたり、足元に生い茂る草が焦げてたり……そんなことはなかった。 「もしかして、行き倒れ?」 その割には、何も持っていないというのが不自然だ。 しかも、町のすぐ傍じゃないか。 思いつく可能性を、片っ端から撃沈する。 ……要は、真相にたどり着くような可能性が思い浮かびそうにない、ということだけは確かだった。 「ゴロ、ゴロっ!!」 レキは定期的に声をかけるけど、オレの時と同じで、男性はまったく反応しない。 こりゃ、相当深く眠り込んでるな…… 街の近くだから、強い野生ポケモンは棲んでないと思うけど、だからといってここに放置するというのも、人間としていかがなものかと思う。 「……仕方ない。一度ミシロタウンに戻ろう」 病院か警察署に運べば、あとはお医者さんやジュンサーさんが何とかしてくれるはずだ。 発見者ということで多少は事情も聞かれるだろうけど、それはそれで正直に答えればいいだけの話。 それほど時間がかからないと、頭の中で計算を終えて、オレはもうひとつモンスターボールを手に取った。 「ルーシー、来てくれ!!」 オレの呼びかけに応え、ボールは口を開いた。 閃光が迸り、中からルーシーが飛び出した。 「ゴロ、ゴロっ!!」 頼りになるおばさんと思ってるんだろう、レキはすかさずルーシーにじゃれ付いた。 ルーシーのお腹のポケットがもぞもぞと動いて、子供が首を出した。 「がるぅぅぅっ……」 お友達であるレキの姿を確認し、ポケットから飛び降りて駆け寄る子供。 『二人』の『子供』の頭を、笑顔で順番に撫でるルーシー。母親としての気配りは忘れない。 ……って、そんなことより。 ほのぼのしてる雰囲気から、オレは現実に戻った。 「ルーシー、この人を担げるか?」 「ガーっ」 オレの言葉にルーシーは任せとけと言わんばかりに、易々と男性を肩に担ぎ上げてみせた。 「おおっ」 思ったよりも簡単にやってのけたものだから、オレは思わず感嘆のつぶやきを漏らした。 「ガーっ」 ルーシーはレキと遊んでいる子供に呼びかけた。 どういう意味の言葉かは分からないけど、子供は耳を欹てると、すぐに母親のポケットの中に戻っていった。 危ないから戻ってなさい、とでも言ったんだろう。 その言葉の意味を理解してか、レキは何も言わず、ポケットから首だけを出す子供に視線を向けた。 「よし、一旦ミシロタウンに戻ろう」 この際仕方がない。 倒れてる人を見捨てて先に進めるほど、オレは薄情じゃないつもりだからさ。 オレはルーシーを先導する形で真っ先に歩き出した。 ミシロタウンに入り、一番目立つであろう建物――警察署を探す。 町で一番目立つのはポケモンセンターだ、という意見も確かにあるけど、それよりも警察署の方が目立つ。 悪さをするヤツに睨みを利かせるという意味でも、警察署は町で一番目立つ佇まいをしているんだ。 「えっと、警察署警察署……と」 オレはゲートをくぐると、すぐ近くにあった案内板に駆け寄って、警察署を探した。 町を南北に貫いているのがメインストリートで、今オレたちがいるのはその北端……町の北のゲートのすぐ傍。 南へ行くと、オダマキ博士の研究所に続いてる道と交差する。警察署は、大きな交差点の西側にあった。 「よし……ルーシー、ついてきて」 オレは再び歩き出した。 メインストリートを南に下り、東西を結ぶ大きな道と交差する。 いくら片田舎といっても、多少は人の行き来はある。 だから、ポケモンに男性を担がせるトレーナー(オレのことだよ、一応……)は結構目立つんだ。 現に、道の端っこでは、近所のおばさんらしき女性数人が、こちらに視線を向けながら内緒話をしている。 オレが睨むと、明後日の方を向いて、何も見てない、何も知らないと装う。 まあ、そんなおばさん連中になんか構っちゃいられない。 警察署に行かないと…… 交差点で進路を西に取ろうとした矢先、甲高い笛の音がけたたましく周囲に鳴り響いた。 「……!?」 一体何が起こったんだ? 慌てて周囲を見回すオレの視線に止まったのは、パトライトを光らせたバイクにまたがって向かってくるジュンサーさんの姿だった。 警察署に行く前に警察の人が来るなんて、なんて親切な町なんだろう……なんて思ったのはほんの一瞬だ。 ここに来るまでの間に、オレたちを見た誰かが通報したんだろう。 そうでなけりゃ、こんな早く駆けつけてはこないはずだ。 頭の中で推測のパズルを組み立てていると、バイクはオレの目の前で急停止し、ジュンサーさんが険しい顔つきで降りてきた。 「キミね。男の人をポケモンに担がせてるっていうのは」 オレとルーシー――とりわけその肩に担がれている男性を見つめ、ジュンサーさんは鋭い口調で言葉を投げかけてきた。 「ちょっと事情を聴かせてもらえるかしら?」 「ちょうどよかった。ジョーイさん、これから警察署に行こうと思ってたところなんですよ」 「え?」 機先を制するように、オレはジュンサーさんの言葉が終わった瞬間に口を開いた。 呆気に取られたような、警察官としてあるまじき(?)表情を見せるジュンサーさん。 事情を聴かせてもらえるかしら?――って。 訊かれる前に話すつもりでいたから、別にどうでもいいんだけどさ。 「実は、町のすぐ傍でこの人が倒れてて……病院か警察署に連れて行けばいいかなって思ってたんです。 見つけたのはレキなんですけどね」 うわあ……なんか、自分でも思うんだけど、思いっきりウソっぽいな〜。 ホントのことを言ってるのに、妙に作り話のように聞こえてしまう。 「ゴロっ、ゴロっ!!」 そう思いつつ視線をレキに向けると、ジュンサーさんがオレの視線を追った。 ニコニコ笑顔でジュンサーさんを見上げるレキ。 ――この人の言ってることは本当だよ。信じてあげて。 ……って言ってるように思えるのは、気のせいかな? ジュンサーさんは神妙な面持ちでレキと向き合い―― 「……キミの言葉を信じましょう」 先に視線を逸らしたのはジュンサーさんだった。 レキの純真さに中てられたようで、困ったような顔をオレに向けてきた。 言葉どおり、オレの言葉を信じてくれたようだ。 そこまで行けば、あとは警察が後を引き継いでくれるだろう。 最後の一仕事に、警察署まで同行して事情聴取、くらいのオプションはあるかもしれないけど。 「一応、警察署まで来てもらえる? この人の身元調査や、発見時の状況といった事情聴取もしなきゃいけないし。 やっかいついでに、キミのそのポケモンに連れてきてもらいましょう」 「分かりました」 思ったとおり、警察署での一仕事。 でも、発見時の状況を説明するくらいなら、そう時間はかからない。 この一件を片付けた後で、コトキタウンへ向かえばいい。 一時間くらい遅れると考えても、今日中に確実にたどり着ける。 「こっちよ」 ジュンサーさんはバイクにまたがると、パトライトを消した。何でもないということを住民に知らせるためだろう。 オレたちはジュンサーさんに先導される形で、警察署に向かった。 ジュンサーさんと一緒にいるということで、何気に目立つんだけど、人の視線は好奇のものだ。 そんなに気にするまでもなく、ほどなくたどり着く。 通されたのは、だだっ広いロビーの隅っこだった。 一対のソファーと、間に挟まれるようにしてテーブルがある。簡易の応接間といったところか。 「では、まずはキミの名前と出身から聞かせてもらいましょう」 テーブルを挟んだ向こう側のソファーに腰を下ろすと、テーブルに備えつけられているメモ用紙を目の前に置き、ペンを取るジュンサーさん。 あー、なんか事務的な手続きになってきたな〜。 まあ、ちゃんと答えればすぐに終わるんだろうから、わざわざヘソ曲げる必要もないんだけど。 「アカツキ。カントー地方のマサラタウンから来ました。これが身分証明です」 一通り名乗ってから、オレはポケモン図鑑を取り出した。 物珍しそうに図鑑を見つめるジュンサーさんの視線は意に介さず、ボタンを二、三回押す。 「よし……」 目当ての画面が表示されたので、図鑑をジュンサーさんに差し出した。 「……これは、オーキド博士ですね。なるほど……」 オレの身分証明となる画面を見て、ジュンサーさんは納得してくれた。 ペンを走らせ、オレの名前と出身をささっ、と書き取る。 「ありがとう。お返しします」 一頻り確かめた後で、ジュンサーさんは図鑑を返してきた。 「この人を発見した当時の状況を聞かせてください」 オレはルーシーが肩に担いでいる男性を発見した時の状況を説明した。 詳しく、って言うほどのこともないから、ありのままを話した。 「なるほど……何もないところに倒れてたってわけね」 「はい。疑いたくなりそうですけど、一応本当のことなんです」 「キミのことを疑っているわけじゃないわ」 念を押すオレに、ジュンサーさんは肩をすくめてみせた。 逆にこっちが疑ってると受け取ったんだろう。 まあ、確かにそれはそうなんだけど。 胸中で毒づいていると、ジュンサーさんはオレが説明した通りに紙に書き記して、ペンを置いた。 「じゃあ、その人をソファーにかけさせてあげてください。いつまでもそのままでは、可哀想です」 「そうですね。ルーシー」 オレはルーシーの方を向いた。 ルーシーは「分かっている」と言わんばかりに無言で頷くと、男性をオレの横に下ろした。 ルーシーの手が離れると、糸の切れた人形のように、オレとは反対側に倒れ込んだ。 ジュンサーさんは控えめに言ったけど、実際のところは顔を見たいんだろう。 あんまり考えたくはないんだけど、この人が前歴者かどうか、職務上確かめなきゃいけないってことなんだろうな。 それが仕事だって言うんなら、しょうがないけどさ。 「……!!」 男性の顔に目をやったジュンサーさんは、驚愕に表情を引きつらせた。 「ん……?」 せっかくの美人を台無しにするような表情だけど、本人は気づいている様子もない。 ただ、男性の顔に視線を留めたまま、瞳を揺らしている。 この人に見覚えがあるってことか? オレも男性に目をやった。 目を覚ませばそれ相応の雰囲気を漂わせるであろう彼も、眠っている今は呆れるほど無防備で無造作に見えた。 ジュンサーさんがこの人を知っているのなら、むしろ話は早い。 そう思って視線を彼女に戻すと…… 「この人は指名手配犯です」 「ええっ!?」 控えめな声で、しかし信じられない言葉を投げかけられ、オレは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。 「しっ、声が大きいわよ」 慌ててオレの口に手を宛がうジュンサーさん。彼女と一緒に周囲を見回すと、ロビーにいる人のほとんどがこっちを向いてくる。 ジュンサーさんは「なんでもありませんのでご心配なく」と無理に繕った笑みを浮かべながらにこやかに言ってその場をごまかした。 「す、すいません……」 「構わないわ。当然の反応よ」 明らかにオレの失態だけど、ジュンサーさんは笑って許してくれた。 でも……信じられない。 指名手配犯があんなところで無防備な姿をさらして――あまつさえ、穏やかな表情で眠ってなどいられるものだろうか? オレのイメージだと…… 指名手配犯っていうと殺人とか強盗とか放火を犯した凶悪犯で、顔つきとか雰囲気とかはトゲを生やしてるような感じ。 少なくとも、目の前で無防備に眠っているような人のことじゃない。 だからこそ、余計に信じられなかった。 もちろん、ジュンサーさんがそんなつまんないウソをつくとも思ってないけど。 「一年半ほど前に指名手配されたんだけど、今の今まで見つからなかった人なの。 でもまさか、この町のすぐ傍にいたなんて……『灯台下暗し』って、このことを言うのね」 なんか違うと思いマス。 悔しさを噛みしめるように神妙な面持ちでつぶやくジュンサーさんにツッコミを入れたくなった。 「でも、こうして見つかったわけだから、逮捕も時間の問題ね。 キミからすれば思いもよらない展開でしょうけど、私達にとっては実にありがたいことだわ。捜査の協力、感謝します」 「はあ……」 確かに思いもよらない展開だ。 倒れてる人を放っておけなくて、町に連れて来てみれば、まさか指名手配犯とは……誰がこんな展開を予想しただろう。 「とりあえず、この人の身柄は確保させてもらうけど」 「はあ……」 確保されてもらうって……言われなくても、判明したからにはそのつもりだったんだろう。 どうせ、ここで義理は果たしたからサヨウナラ……のつもりだったんで、別に問題ないです。 「実は、この人の家族が、この町に住んでるの。 ポケモンも持ってないみたいだし、逃げ出したとしてもすぐに逮捕できるから、そんなに警戒する必要もないわね。 まずは家族に連絡を……申し訳ないんだけど、私が戻ってくるまで、この人のこと見張っておいてくれるかしら? 頼りになるポケモンもいるみたいだし」 ジュンサーさんはオレに口を挟ませないような勢いで捲くし立てると、立ち上がってカウンターの方へ歩いていった。 「家族……」 オレは三度男性に視線を移した。 この人の家族、この町に住んでるのか……偶然なのかな。 それとも、家族の住む町を目指して、警察の目を逃れながら歩き続けてきたんだろうか? なんて、らしくないことを考えてしまうけど、生憎と、ジュンサーさんの言葉からはそんな想像しか生まれてこなかった。 「この人の家族って、連絡したら、ここまで来るんだろうか? 本人確認? まさか」 ジュンサーさんが何のために『家族に連絡を……』なんて口走ったのか。余計なことと知りつつも、オレは勘繰ってしまった。 まあ、ルーシーがいれば指名手配犯もイチコロだろう。 オレはカウンターで電話をかけてるジュンサーさんに目をやった。 背中を向けているから、どんな表情をしているのかは分からないけど……雰囲気からして、どうにも明るいものではなさそうだ。 まあ、指名手配犯の家族に連絡を取るんだから、せいぜいが『身柄を確保しました』ってところだろ。 連絡された方としては、明るい気分ではいられないだろうし。 でも、オレは他人だし…… そんなに関係があるわけじゃないから、いざとなれば風のようにさっといなくなってしまえばいい。 思っていると、ジュンサーさんは電話を切って、こっちに向かってきた。 慌てて視線を近くにある観葉植物に向けて、何事もなかったように装う。 「これで事情説明は終わりになるわ。いろいろと協力してくれてありがとう」 「それじゃあ……ルーシー、レキ。行くぜ」 とりあえずはこれでお役御免――コトキタウンへ向かえるわけだ。 オレは席を立ち、ルーシーをモンスターボールに戻した。 「ゴロっ!!」 やっと行けるんだね。 レキは大きく嘶くと、オレの傍にピタリと寄り添ってきた。 余計なゴタゴタに巻き込まれたけど、そんなに時間かかんなくて良かったぜ。 指名手配犯なんて言葉を聞いた時はどうなることかと思ったけど。 「やれやれだ……あとは警察に任せりゃオッケーだな。これでやっと、コトキタウンへ行ける」 妙に清々しい気分で、入り口の自動ドアをくぐろうとした時だった。 わずかに早くドアが開いて、その向こう側に二人の人が……って!! 「あれ、アカツキ?」 「はぁ!?」 オレとアカツキは驚きの表情を突き合わせていた。 というのも、自動ドアの向こうにいたのは、アカツキと彼のお母さんだったからだ。 でも、なんでこの二人が警察署なんかに…… 「あら、アカツキ君。奇遇ね。こんなところで会うなんて」 肝っ玉母さんは、息子と違ってまったく動じていなかった。 人生経験が豊富だと、ちょっとのことでは慌てなくなるものなんだろうか。ちょっとだけ羨ましく思った。 「どうしてこんなところにいるの?」 「それはオレのセリフだって」 およそ警察署という三文字に――こんな場所には縁のない家族だろ、目の前にいるのは。 閉まらない自動ドアを挟んで、向き合うオレとアカツキ。 「それは……その……」 アカツキは口ごもると、辛そうな表情になった。 オレにそんな表情を見られるのが嫌なのか、すぐに顔をそむけてしまった。 ……一体、どうしたんだ? まあ、警察署っていう、およそ殺伐とした雰囲気が漂う場所に来たから、それなりに緊張でもしてるんだろうか? 答えを求めるようにアカツキのお母さんを見やる。 それを「説明しろ」と受け取ったのか、お母さんは渋々口を開いた。 「ジュンサーさんに呼ばれたのよ。見てほしい人がいるって。 ……忙しくなかったから、断らなかったんだけど」 「……ジュンサーさんに……」 嫌な予感が背筋を駆け抜けていくのを、オレは嫌でも感じなければならなかった。 まさか…… オレは振り返った。 視線の先には、ジュンサーさんに見つめられながらも、まるで気にする様子もなく眠っている、先ほどの男性。 ジュンサーさんが呼んだ『家族』って、もしかして…… 視線をアカツキに戻そうとした矢先、 「あなた!!」 アカツキのお母さんは声を上げると、オレの脇をすり抜け、一目散に男性の元へ駆け出した。 数歩遅れて、アカツキも走り出す。 「……あんまり考えたくはなかったけど」 ジュンサーさんって名前が出た時点で、想像はしてたんだ。 嫌な予感ほどよく当たると、昔の人はうまいこと言ったもんだと、皮肉めいたアナウンスが心ん中に流れる。 ロビーを駆けていくアカツキと彼のお母さんは、男性が眠っているソファーの傍で、ジュンサーさんに出迎えられた。 これが何を意味しているのか分からないほど、オレはバカじゃないつもりだった。 「ゴロっ?」 ただ一人、現状を理解しきれていないレキだけが、陽気な声を漏らしていた。 オレはただ、レキの無神経さ――もとい神経の太さを羨ましいと思うしかなかった。 「あのさ……なんて言えばいいのかな……」 アカツキは気まずそうな顔を見せながらも、オレと目を合わせようとしなかった。 その視線の先には、何も入っていないゴミ箱。 ほかに目のやり場がなかったのか、それは定かじゃないけど…… ただ一つ分かっているのは、アカツキがどうしようもなく居たたまれない気持ちになっているということだけだった。 あれから―― オレはその場を立ち去る気にもなれず、アカツキと彼のお母さん、それと眠り込んだままの男性と共に、アカツキの家にやってきた。 お母さんは何も言わず、オレを中に入れてくれた。 何も考えられなかったのかもしれない。 憔悴しきったような表情に、かけてあげられる言葉も見当たらなかった。 判明したのは、オレがミシロタウンのすぐ近くで助けた男性が、アカツキの親父さんであるということだった。 まさか、指名手配犯とジュンサーさんに言わしめるほどの人が父親だなんて、そりゃ気まずくもなるだろう。 オレに――せっかくできた友達に知られたとなれば、なおさら。 でも、オレはそんなことを気にしちゃいない。 驚いたのは確かだけど……だからって、アカツキまで悪い人なのかってことにはならないからさ。 友達は友達。オレがトコトンまで信じてやれなくてどうするんだ。 「えっと……」 アカツキは言葉を選んでいるようだった。 オレは待つことにした。 無理に急かしたところで、アカツキの複雑な心境を掻き混ぜるだけの結果になると分かってたから。 親子っていう割には、あんまり似てない気もするけど……でも、納得もしてた。 あの人に会った時、誰かに似てると思った理由。 アカツキに似てたんだ。 ただ、髪の色と年代が邪魔して、そうだと思わなかっただけ。 盲点としか言いようがない。 「あの人、ぼくのお父さんなんだ。 ……アカツキ、見つけてくれて、助けてくれてありがとう。本当に感謝してる」 「…………」 アカツキ自身も、何を言っているのか分かってないんだろう。 視線はあちこちに泳いでて、激しく動揺していることを隠そうともしない。 普通っていうと語弊があるかもしれないけど、友達とかライバルとか家族とか、そういった人には弱いところなんて見せたくないって思うはずだ。 オレだったら、親父とかナミとかシゲルとかには、絶対に泣き顔とか情けないところとか、見せられないな。 アカツキは……きっと、隠そうとしないんじゃなくて、隠せないほどの衝撃を受けてるんだ。 どうしようもない気持ちを持て余して、それをどうすればいいのか分からずに困っているように見える。 だから、かな。 余計にこの場を立ち去ろうという気になれないのは。 ホントは、家族の問題だからと、オレはこの場を去るのが正しいのかもしれない。 だけど、困っている友達を見捨てることなんてできない。 もしかすると…… アカツキのお母さんは、居たたまれない気持ちでいっぱいになっているアカツキを助けてほしくて、オレを家に招き入れたのかもしれない。 そんな風にも思えてくるんだ。 我ながら、都合のいい自己解釈だとは思っているけれど。 でも、少しでも力になってあげられるなら、何もしないよりはずっとずっとマシなはずだ。 できる、できないという結果論の問題じゃない。 やるか、やらないかという問題なんだ。 「なあ……」 オレはアカツキに声をかけた。 「お節介なことだって、オレ自身も分かってるんだけど、訊いていいか? アカツキにとっての親父さんって、どんな人なんだ?」 今の彼にとっては辛い言葉かもしれない。 でも、本当の気持ちっていうか、そういうのをさらけ出してもらえないことには、アカツキのことを理解することはできない。 傷口に塩を塗りたぐるほど辛くて痛いかもしれないけど…… アカツキは目を伏せた。 「……今は、ずっと一緒にいてほしいって、思ってる」 ボソリと、小さくつぶやく。 今はずっと……か。 アカツキと彼のお母さんと警察署で会うまでは、オレは親父さんが単身赴任で離れてるだけだと思ってた。 アカツキもお母さんも何も言わなかったし、オレもそれを詮索しようとしなかったからだ。 まさか、指名手配されてるとは思わなかったけど。 ここに来る前、ジュンサーさんから聞いた。 ホウエン地方中に指名手配されていた親父さんも、この町だけは顔入りのポスターを張り出していなかった。 家族が住んでいるから……せめてもの配慮だと言っていた。 アカツキのお母さんからすれば、指名手配だろうとなんだろうと、世界で誰よりも愛している人だってことに変わりはない。 ロビーのソファーで眠っていた夫に、涙を隠そうともせずに名前を呼び続けていたから。 だけど、アカツキはちょっと違ってた。 少しだけ距離を置いているように感じられたんだ。 どうしてだか分からないけど。 「ぼく、二年くらい前まで、お父さんは行方不明だって思ってた。生きてるか死んでるかも分からないって聞かされてきたんだよ」 アカツキはどこか躊躇いながらも、ポツリポツリと語り始めた。 黙っているよりも、話すことで気持ちを楽にする方を選んだんだ。それに、誰かに聞いてもらいたいと思ってるのかもしれない。 どちらにしても、聞き役に徹する方が、アカツキも少しは気持ちを落ち着けられるはずだ。 「でも、あの人がお父さんだって知った時には、すごく驚いた」 アカツキが話すところによると、『黒いリザードン』に会うためにトレーナーとして旅立った後、何度か親父さんに会ったそうだ。 その時は『悪い人』と思っただけで、自分の父親とは気づかなかったらしい。 幼い頃から父親はいないものだと思っていれば、よもや自分の目の前に父親がいると思うはずがない。 「あれからいろいろあって……前々回のホウエンリーグが終わった後で、ぼくと兄ちゃんはお父さんと……」 そこで言葉を切るアカツキ。 ここから先を話していいものかどうか、考えているようだ。 言いにくいだけのことがあったんだって、この状況で分からなければただのバカだ。 このまま話させていいものかと思ったけど、話すか話さないかはアカツキが決めることだ。 それに、アカツキと親父さんの間に何があったのかも、正直なところ、結構気になってる。 オレが向けた視線をリクエストと捉えたか、アカツキは顔を上げ、まっすぐにオレの目を見つめてきた。 「お父さんと戦った。ぼくたちと、お父さんが考えてる『幸せ』が違っていたから」 「……!!」 戦った……何気ない一言に込められた悲しみを突きつけられて、オレは言葉を失った。 アカツキの母親――ナオミはリビングの隣の寝室にいた。 ベッドで安らかな寝息を立てている男性――愛する夫の寝顔を見つめていた。 彼が警察から……ポケモンリーグ・ホウエン支部から追われている身であることは、ずっとずっと前から知っていた。 しかし、どんな罪を犯したとしても、目の前にいるのは自分が世界で一番愛している男性だ。そのことに変わりはない。 ポケモンも持っていない状態では逃げたところですぐに捕まえられるとの判断で、家に連れて帰ることを許された。 「今までどこにいたの? あなたなら……すぐに帰ってくること、できたはずなのに」 濡れたタオルで、夫の額を優しく拭う。 彼は優れた実力を持つトレーナーだ。 その気になれば、警察やホウエンリーグの四天王やチャンピオンの追跡を受けていても、ここに戻ってくることくらいはできるはずだ。 しかし、今の今まで……一年以上も姿を晦ましていた。 そこには何かしらの深い事情があるのだろう。 ナオミにもそれくらいは分かっていたが、分かっているからこそ辛くなる。 今ごろ、息子のアカツキは、同じ名前の友達と、いろいろと話をしているだろう。 「アカツキもわたしも、結構辛かったんだよ」 ナオミは目を細め、愛する夫にそっとつぶやいた。 アカツキにはあまり父親のことは話していない。 『あの事件』があってから、むしろアカツキの方がその話題に触れることを避けていたように思える。 「でも、これからはずっと一緒だからね」 警察は、取調べが行われるまでは自宅で過ごして良いと許可を与えてくれた。 それが一時間後か、それとも数日後のことか……いかほどの時間にしても、一緒にいられる時を大切にしたいと思っている。 と、その時、 「う……ん……?」 小さく呻き、夫がうっすらと目を開けた。 「……!! あなた……!!」 ナオミは椅子を蹴って立ち上がると、真上から夫の顔を覗き込んだ。 焦点の定まらない虚ろな視線を天井に据えたまま、彼は目を覚ました。 「……ここは?」 少し経って、目の前にいるのが女性であると認識した彼は、小さく声をあげた。 でも、ナオミが知る『彼』とは明らかに違う、どこか弱々しい声だった。 「別の場所で目を覚ましたから、驚いているんだわ」 息子の友達が、マサラタウンの外れで見つけたと言っていた。 恐らくはそこで眠ってしまったのだろう。 別の場所で目を覚ませば、驚くのも頷ける。驚きのあまり、声を小さくしてしまうことも。 「よかった、気がついたのね、リクヤ」 ナオミは感涙を浮かべた。 一年半……いや、それは『あの事件』があってからの年月だ。 実際は八年にもなる。夫――リクヤが彼女の前から姿を消したのは。 愛する夫との別れは、一秒であっても身を裂かれるほど辛い。 ましてや、八年ともなると、その辛さ、寂しさは想像するに余りあるほどのものとなるだろう。 起きたてということもあってか、リクヤはどこか気の抜けた顔をしていた。 ナオミにはそんなこと、まったく気にならなかった。 愛する夫が目の前にいる。それだけで十分だった。 「長いこと離れてたから、忘れちゃったのね」 ナオミは口の端に笑みを浮かべた。 「ここはわたしたちの家よ。あなたは戻ってきたの」 「俺の家……」 「そうよ」 棒読みで返すリクヤに頷きかける。 八年も離れていたら、家のリフォームも多少は異なる。 その目に映る天井も、彼が家を出て行ってから、色を塗り替えたのだ。 自宅であることが分からなくても、仕方のないことだと、ナオミは思った。 愛する人が目の前にいる……それだけで、心が暖かくなる。誰にでも優しくなれそうな気すらしている。 対照的に、リクヤは困惑気味だった。 そんなことなど露知らず、ナオミは続ける。 「ずっと待ってたんだから。アカツキやハヅキだって、あなたが戻ってくるの、ずっとずっと待ってたの」 笑みを浮かべたまま、涙をボロボロ流す。 嬉し涙だ、隠す必要もない。 人前では涙など見せない『強き母』も、愛する夫の前では一人の女性に戻るのだ。 「俺のことを待っていた……」 イマイチ実感が沸かないのか、リクヤは声をひそめた。 そして、ナオミを天国から地獄へ突き落とす言葉がその口から飛び出す。 「その、言いにくいことだが……俺のことを知っているのか? 君は……俺は誰なんだ?」 「……!!」 ナオミは息を呑んだ。 驚愕に目を大きく見開き、愛する夫を凝視した。 後編へと続く……