ホウエン編Vol.10 雨のち晴れ <後編> 「ちぇっ、雨が降ってきやがったよ……」 ポツリポツリと降り始めた雨。 オレは木陰に身を隠し、茂る木の葉の合間から覗く灰色の空を見上げてつぶやいた。 つぶやきというよりは愚痴に近いけど、この際それは言わないことにしよう。 さっきまでは雲一つない青空が広がっていたのに、変な風でも吹いたのか、灰色の雲が来るわ来るわで、あっという間に雨が降り始めた。 雲の色や形を見る分に、局地的な大雨にはならないけど、その分長く降り続くかもしれない。 「ラッシーは大丈夫かな……」 みんなもオレと同じ木の下で雨宿り。 ルースはさっきまで明るい表情をしてたのに、空の色と同じで、憂鬱なものに変わっていた。 水タイプのレキと、いつでもどこでも陽気なリッピーは楽しそうにしてるけど、リーベルとロータスは何も言わずにじっとしている。 オレたちと別行動しているラッシーは今頃何をしてるんだろう。 この島のどこかにいるはずだけど、どこにいるのかは分からない。 一人でノンビリしたいって風に見えたから、どこに行くのかまでは訊かなかったし、後も追わなかった。 森の中で拓けたあの場所に戻れば、オレの帰りを待っててくれてるんだろうか? 生い茂る木の葉の傘に隠れながら歩いていけば、そんなに濡れずに戻れるかな。 まだ昼過ぎだけど、行きと比べて時間がかかることを考えれば、そろそろ戻ってみるのもいいかもしれない。 強まった雨音に背中を押されるように、オレはラッシーと別行動することにしたあの場所に戻ることにした。 「みんな、こんな天気で悪いけど、戻ろうか」 言葉をかけると、みんな揃って頷いてくれたから、オレは濡れないように気をつけながら歩き出した。 ゾロゾロと一列になってついてくるみんな。 だけど、唯一濡れても平気なのはレキ。 踊るような足取りで、オレの前や横をぴょんぴょん飛び跳ねている。 雨よ降れ降れって感じで楽しそうだけど…… まあ、レキは水タイプのポケモンだし、雨に濡れたって別に平気だもんな。 むしろ、濡れた方が元気になるのかもしれない。 ポケモン図鑑の説明には、身体を覆う薄い粘膜が乾くと弱っちゃうっていう一文があったっけ。 レキが弱っちゃう様子なんて想像もつかないんだけど、生体的なところは本人の意志とは関係ないからな。 行きと同じで道らしい道じゃないけど、特徴的な形をした木や茂みに見覚えがある。 それらを辿っていけば、意外と簡単に戻れそうだ。 木漏れ日もあまり射し込まない森は、元から明るかったわけじゃないけど、雨が降ったことで、ますます暗くなったように感じられる。 鬱蒼としてるっていうか、ジャングルっていうのはこんな感じなのかなあって、そんな風に思うんだ。 「雨が降るなんて、何か嫌なことでも起こらなきゃいいんだけど……」 突然の雨。 空が曇ってると、こっちの気持ちまで曇ってしまいそうだ。 変なこと考えちゃうのは、きっとそのせいだろう。 「早く船に戻りたいぜ」 憂鬱な気持ちが口を突く。 雨が降るって分かってたら、ラッシーと別行動することもなかっただろうし、もっと早く戻る予定を立てられたはずだ。 天気予報を見なかったのはオレが悪いわけだし、今さら弁明の余地もないんだろうけど。 こうなったら船の自室でノンビリくつろぐに限る。 差し当たっての問題は、ラッシーがあの場所に戻ったかどうかってことだな。 もし戻ってなかったら、探しに行くだけだ。 ま、ラッシーなら心配ないと思うけど。 目の前に広がる森のような気持ちを持て余しながら、ぬかるんだ地面を踏みしめて歩く。 泥が飛び撥ねてズボンに茶色い染みを作るけど、そんなことを気にしてたら歩くに歩けない。 船に戻ったら洗濯機を使って洗えばいい。 それくらいの時間はあるだろう。 さっきリーベルの背中に乗って跳び越した崖をゆっくりと滑り降りる。 またズボンが汚れたけど、これは仕方がない。 崖を降りてから、また見覚えのある木を目印に獣道を戻る。 そこから二十分ほど歩いたんだけど、どういうわけかあの場所に戻れない。 「あれ〜? そろそろ着くと思うんだけどなあ……」 強く降りしきる雨に進軍速度が低下しているのは仕方がないとしても、そろそろ着いてもいい頃なんだ。 なのに、それらしい場所は見当たらない。 視界が悪いから、余計そう思えるだけかもしれないけど…… 「バクぅ〜?」 ルースも不安そうな声をあげる。 後ろ髪を引かれる気持ちで立ち止まり、振り返る。 みんなも立ち止まり、オレの目線を追って、ルースに視線が集まった。 「どうしたんだ、ルース?」 声をかけると、ルースは弾かれたように顔を上げた。 「…………」 どこか落ち着かない様子で、忙しなく周囲を見渡す。 どうしたんだろう……? 何か気になるものでも見つけたんだろうか。 ルースに釣られるように、みんなも周囲に視線を向けた。 ルースだけなら、気のせいだと思えるんだろうけど……みんなもルースと同じように何かを感じ取ったのかもしれない。 だったら、それを単なる気のせいだとか偶然だとかと決め付けるのは愚かしいことだ。 何を見つけたにしても、無視するわけにはいかない。 むやみに動くのは、みんなが結論を出してからでも遅くないだろう。 と、一分くらい経っただろうか。 雨音が耳に染み付いて、あんまり時間が経ったって感じがしないんだけど、みんなの視線が一点に集中した。 慌ててそちらに身体を向ける。 これから向かおうとしている方向の斜め右の茂み。 みんなの視線はそこに集まっていた。 野生ポケモンでも隠れてるんだろうか。 敵意でもカケラでも見せようものなら、みんなが総攻撃を仕掛けるだろう。 みんなが見つめる茂みを注視する。 なにせ人界未踏の無人島。何が飛び出すか分かったモンじゃない。 オレたちの視線に耐えかねたのか、茂みを揺らして、奥に隠れていたものが姿を現した。 「のーむ……」 なんて、妙に間延びした声を発しながらオレたちの前に出てきたのは、ナマズのようなヒゲを生やした、紫色の身体を持つ奇妙な生物だった。 ポケモンだろうか? オレと同じくらいの背丈で、丸っこい身体の持ち主。 つぶらな瞳と、丸っこい身体がのほほんとした雰囲気を演出していて、どこか憎めない印象を受ける。 ヘドロポケモン・ベトベトンに似てる気がする。 亜種かな……と思ったんだけど、ベトベトンだったらお腹のあたりに黒いダイヤのような模様がついてたりはしないだろう。 気になるんで、図鑑を取り出して調べてみた。 センサーが反応し、ピピッと電子音を立てる。 「マルノーム。どくぶくろポケモン。ゴクリンの進化形。 強力な胃酸でなんでも消化してしまう。 消化できないのはこの世に唯一、マルノームの胃袋だけと言われている。 口を大きく開いて、自分と同じ大きさの相手でも丸飲みにしてしまう」 「うわ……」 のほほんと、どっちかっていうとファンシーな雰囲気放ってる割には、図鑑から流れる説明は結構エグいんだな。 見た目どおりタイプは毒。 ベトベトンに似てるけど、違う種類のポケモンなんだな。 図鑑の説明――ポケモンの生態みたいなものも、ベトベトンとは異なっている。 「マルノームっていうのか……でも、なんでこんなとこに?」 図鑑をしまい、みんなの注目の的になっているマルノームに目を向けた。 野生ポケモンの割には、ずいぶんと人懐っこい雰囲気を持ってるみたいだ。 みんなは警戒してるみたいだけど、少なくともオレにはマルノームから敵意のような雰囲気は感じられなかった。 だけど、人間、見た目と中身が一致するとは限らないという言葉もあるように、それがポケモンにも当然当てはまるのだと思い知らされた。 「のー……」 マルノームがゼリー状の身体を後ろに反らした。 何かやるんだろうか。 そう思ってじっと見ていたら…… 「むっ!!」 気勢と共に開いた口から濁流のようなヘドロが噴き出した!! 「なにぃっ!?」 ヘドロ爆弾っ!? 気づいた時には遅かった。 視界一面にヘドロ爆弾が押し寄せ、オレの胸元で破裂した!! 「うわぁっ!!」 激痛ってほどじゃないけど、爆弾って言う名前がついてるだけあって、結構痛かった。 突然の攻撃に、オレはその場に倒れ込んだ。 やられた…… ポケモンにも「そういう性格」のヤツがいるんだって、さすがに思いもしなかった。 「くぅっ……」 服はヘドロ塗れ。 地面に倒れ込んだ衝撃で頬にもべっとりとついてしまった。 「バクっ!!」 ルースが慌ててしゃがみ込んでオレの身体を起こした。 その表情には心配と強い怯えの色。突然の攻撃に気が動転してしまっているようだ。 でも、他のみんなの対応は早かった。 「マクロぉっ!!」 レキが怒声と共にマッドショットを発射し、 「がうっ!!」 リーベルが身体を翻してアイアンテールを放ち、 「ごぉっ!!」 ロータスが突進し、 「ピッ!!」 リッピーが10万ボルトを繰り出す!! 至近距離から立て続けに放たれた攻撃を避けきれず、マルノームは現れた茂みを突き破るほどの勢いで吹っ飛ばされた!! 「や、やるなあ……」 ヘドロ爆弾が破裂した衝撃で受けた痛みを堪えながら、マルノームが揺らした茂みをじっと見やる。 こっちも至近距離の攻撃を受けたけど、思いのほか痛みはひどくない。 むしろ、痛みよりも気になるのがヘドロの染み。 服にすっかり染み込んで、肌にもぬるぬるした感触を覚えていた。 あー、気持ち悪い……ラッシーと合流して、さっさと船に戻って洗濯しよう。 これは時間が経てば経つほどこびり付いて落ちなくなっちゃうタイプの染みだ。 みんな、オレが攻撃されたと知るや否や、一糸乱れぬチームワークで相手を倒してのけた。 うれしいやら悲しいやら……よく分かんないけど、さっさと戻ろう。 「みんな、戻るぞ。 早く戻らないと……さすがにこういうのがいるとなると、ラッシーの方も心配だからな」 オレはルースの助けを借りながら立ち上がると、マルノームが吹っ飛んだ茂みに背を向け、歩き出した。 胸がチクリと痛むけど、歩く分にはそんなに支障はない。 正直、あの程度のヘドロ爆弾で良かったよ。 サトシのベトベトンが放つヘドロ爆弾は、こんな威力じゃない。人間よりも身体が強いポケモンでさえ大ダメージを被るほどだ。 今のマルノームと比べたら、それこそ天地ほどの差はあるだろう。 まあ、ヘドロ爆弾を生身で食らったってのは良くないけど、今はラッシーの方が心配だ。 もしかしたら、この島にはこういうマルノームがウヨウヨしているのかもしれない。 性悪っていうか、なんていうか……見た目の無害さを利用して相手を油断させ、予期せぬ一撃を加える。 いくらラッシーでも、そんなのが大挙して押し寄せて来たら、かなり苦しい戦いを強いられるかもしれない。 そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。 シャツ越しに触れるヘドロのヌメヌメ感と格闘しながら、みんなを連れて駆け出す。 ヘドロに濡れてるっていうこともあってか、今さら雨に濡れることなんて気にならなかった。 ただ、臭いだけはかなりキツイ。 それは後ろを行くみんなも同じはずだ。 オレよりも嗅覚が発達しているから、それだけその臭いを強く嗅いでいるはずだ。 でも、みんな何も言わず、黙々とついて来ている。 みんなをまとめるオレが真っ先に音を上げるなんてさ……できるわけないじゃん。 心なしか、身体が熱い。 何分走っても、ラッシーと別れた場所にたどり着けなかった。 どうなってるんだろう…… ……ヘドロ爆弾はポケモンに毒を浴びせる効果を持つ。 そんな当たり前なことに気付いたのは、果たしていつのことだったか。 「毒……」 その言葉が口を突いて出て―― 「あっ」 視界がゆがんだ。 足腰から急激に力が抜けて、オレはその場に倒れ込んでしまった。 盛大に泥飛沫を上げたけど、そんなことを気にするほどの余裕なんてなかった。 下がった体温を補うために身体が過剰に熱を放つように、身体がとても熱い。 炎の中にいるような……オーバーな表現かもしれないけど、サウナにずっと閉じ込められているかのような…… そんな熱が身体全体を余すことなく包んでいる。 「ヘドロ……爆弾の……」 ヘドロ爆弾の効果か…… 「バクっ!? バクぅぅっ!!」 ルースの悲痛な声が空から降ってきた。 身体の感覚がなくなって、顔を上げることもできない。 ヘドロ爆弾に込められた毒に……やられたってことか。 具体的にどんな症状が出るのかは分からないけど……まずい、このままじゃ…… みんなが慌てふためいているのを、心のどこかで感じ取り。 「ら……ラッシー……」 ラッシーは一人で大丈夫だろうか……そんなことを思いながら、オレは身体を包む熱に抗おうと、気を強く持った。 身体の感覚がないから、誰かが身体を背中を揺さぶったとしてもまったく気付いてやることができない。 仮に気付けたとしても、反応することもできないだろう。 「ちく……しょう……」 生身で毒を食らうっていうのがどういうことか……分かるような気がした。 ポケモンバトルでは、ポケモンの体力が徐々に奪われていくんだけど……実際にはそんな生温いものじゃないってことを。 身体から力が抜けたり、発熱したり…… なんとかしなきゃいけない。 心では分かっているけど、身体が動いてくれない。 意識の方にもカーテンがかかり始めたように、視界がぼやけ、霞み、気持ちが沈んでいく。 早く、ラッシーと合流しなきゃ…… みんなに指示を出したい。言葉だってすでに決まってる。なのに、唇は動かない。 「ラッシー……」 熱でおかしくなりそうな頭の片隅に、ラッシーの顔が浮かんだ。 君だけは…… ――意識が弾けた。 「バクっ、バクバクっ(どうしよう)!?」 ルースは慌てふためいていた。 完全にパニック状態だ。 トレーナーがいきなり倒れたかと思ったら、そのまま気を失ってしまったのだ。 管制官がいなくなって離着陸できなくなった旅客機のごとく、右往左往するばかり。 とはいえ、慌てていたのはルースだけではない。 アカツキが口を訊けなくなってしまったので、皆が不安に陥ってしまっている。 だが、何をどうすればいいのか、それだけはちゃんと共有していた。 互いに視線を交わすだけで、自ずと役割分担がなされる。 それだけで十分だった。 皆、何も言われずとも自らの役割を認識し、行動に移した。 リッピーとレキ、リーベルとロータスがペアになって、それぞれが違う方向に散った。 「バクぅ(しっかりしてよ、アカツキ)……」 一人その場に残されたルースは、雨がかからぬよう身を挺してアカツキをかばいながら、小さく声を漏らした。 ルースの役割は、皆がラッシーを連れ戻すまで、この場に留まってアカツキを守ることだ。 視線のやり取りで、それぞれの能力に見合った役割が即座に決定した。 ラッシーを除けば、この場で一番強いのはルースだ。 彼がアカツキを守るという役割を与えられたのは当然のことだったし、ルースもそれを遂行しようと思っている。 だが…… 「バクぅ(大丈夫かなあ……)」 ルースは心細さに押し潰されそうだった。 単純な戦闘能力だけを見れば、ラッシーを探しに行った他の四人を上回っている。 ただ、それは性格や種族的な慣習を除いた、純粋な戦闘能力を測定した場合の話。 ルースは臆病で、ちょっとしたことでも驚いたりしてしまう。 もっとも、トレーナーが倒れてしまった異常時に、そこまで気を配っていられるだけの余裕がなかったのは事実で、それは仕方のない話だった。 身を挺して雨から守り続けることにも限度がある。 ルースは雨がわずかに弱まったタイミングを見計らって、近くの木陰にアカツキを運んで、木の幹に背中をもたれさせた。 「バク……」 アカツキの身体は普段よりも熱くなっていた。 下がった体温を補おうと、身体が過剰に熱を放っているのだが、実際に彼の身体が冷えているのかというと、そうではない。 マルノームのヘドロ爆弾から染み出した毒が、アカツキの身体を蝕んでいたのだ。 身体の出来上がっていない少年の身体はその毒をまともに浴びて、風邪に似た症状を引き起こしていた。 身体はそれを「体温が下がった」と勘違いして、過剰に熱を放っているのだ。 「う……」 悪い夢にうなされているのか、アカツキが小さく呻き声を上げる。 「ラッシー……ラッシー……」 ラッシーの名前をうわ言のように何度も呼び続ける。 「バク、バクぅ(ラッシーがいなくて心配なんだ)……」 ルースはアカツキの気持ちが少しだけ理解できた。 さっきのマルノームの性悪さといったら、下手な人間よりもよっぽどタチが悪い。 そんなマルノームがこの島にはたくさんいるのかもしれない。 だから、アカツキはラッシーのことを心配しているのだ。 みんながラッシーを探しに行ったのは、アカツキが倒れてしまったということを報せに行くためだ。 せめてあの場にラッシーがいれば、あのマルノームに遅れを取るようなことはなかったかもしれない。 そう思うと悔やまれてならないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。 無防備なアカツキを狙おうと、さっきのマルノームが再びやってくるかもしれない。 あるいは別のポケモンが襲ってくるかもしれない。 ルースは周囲に気を配りながら、皆がラッシーを連れて戻ってくるのを待った。 一人ぼっちで心細いけれど、だからといって弱気になってはいられないのだ。 皆は自分を信じて、アカツキを守ってくれると信じて、ラッシーを探しに行ったのだ。 皆の信頼を裏切るわけにはいかないし、何よりも…… 自分を助けてくれたこの少年に、どこの馬の骨とも知れぬ野生ポケモンに指一本触れさせるわけにはいかない。 「バクぅぅぅ(しっかりして)……」 小さくつぶやくその声が届いているとしても――その逆であっても、声をかけないわけにはいかないのだ。 敏感な神経で周囲の様子を探りながら、皆が戻ってくるのを待つ。 十分、二十分…… 三十分が経っても、誰一人戻って来ない。 まさか、野生ポケモンにやられてしまったのではないか……? ルースの背中を悪寒に似た何かが這い上がって行った。 だが、身体を振ってそれを否定する。 そんなはずはない。 リッピーたちなら、どんな困難だって切り抜けられるはずだ。 まして、タッグを組んで行ったのだから、そう易々と野生ポケモンにやられたりはしない。 今はただ、与えられた役割を黙ってこなすだけ。 「バクっ(早く戻ってきて、ラッシー)」 ルースはラッシーに一目置いていた。 いや、それは皆同じで、ラッシーをリーダーと認めている。 バトルでの実力はもちろん、アカツキと一番仲が良く、ポケモンとトレーナーの橋渡しを務めている一面も持ち合わせているからだ。 いわば良き相談役であり、頼りになるリーダーでもある。 ラッシーが戻ってきてくれたら、すぐにでもこの事態は打開できるだろう。 だから、それまでは自分たちが最先頭に立って頑張らなければ。 使命感に燃えるルースとは裏腹に、雨足はますます強くなり、滝が流れ落ちるような激しい雨音が周囲に響き始めた。 雨音に包まれながら、皆が戻ってくるのをひたすら待つ。 一時間(ルースの感覚ではそれくらいの時間だった)が過ぎても、誰も戻ってこなかった。 「バク(早く戻ってきて……誰でもいいから)……」 ルースの不安は頂点に達しようとしていた。 一人ぼっちほど辛いことはない。 せめて、アカツキが言葉をかけてくれるなら、笑ってくれるなら……寂しさも不安も吹き飛ぶ。 でも、それが無理なのは傍にいるルースが一番良く分かっていることだ。 分かっているから、その無情さが余計に辛い。 「ラッシー……うう……」 その声に、ルースは顔を向けた。 顔中に汗を浮かべ、アカツキは苦しそうに表情を歪ませている。 ヘドロ爆弾から染み出した毒は、徐々に、しかし確実に彼の身体を蝕んでいる。 生命の危機と結びつけることはできないだろうが、それでもこの状態が長引けば、どうなるかは分からない。 「バク(ど、どうしよう)……」 誰も頼れるものはいない。 皆は戻ってこないし、当のアカツキは受け答えなどとてもできるような状態ではない。 一人で待ち続けるのは不安で、孤独で、恐ろしい。 もしも野生ポケモンが大挙して押しよせたら、果たしてそのすべてを返り討ちにすることができるだろうか。 激しく降りしきる雨は、ルース自慢の炎の威力を弱めてしまう。 かといって、肉弾戦は得意じゃない。 アカツキの呼吸はだんだん荒くなり、顔色も悪くなっていく。 果たして、本当にこのまま待ち続けていいのかどうか、ルースには分からなくなった。 リーベルのような律儀な性格の持ち主なら、何時間経とうとこの場から動かず、皆が戻ってくるのをひたすら待ち続けるだろう。 だが、生憎とルースはそこまで神経が太くない。 か細くて、両側から力を込めて引っ張れば、すぐにでも千切れてしまいそうなのだ。 もし、アカツキの身に何かあったら……皆には申し訳ないし、自分は何をしていたのだろうと、自分が嫌になってしまうだろう。 何もしないで待つのはとても辛いことだ。 苦しそうに呻いているトレーナーの顔を直視するのは、弱点のハイドロポンプを何発も同時に受けるよりもよほど辛い。 いっそここから逃げられたら、どれだけ楽だろうと、雨模様の空を見上げながら思った。 もちろん逃げるつもりなどないのだが。 逃げるにしても、ここは無人島である。 どこまで逃げたって逃げ切れたことにはならないし、人目を忍んで生きていくのは嫌だ。 何もしないのも嫌だし、かといってアカツキを見捨てて逃げるのも嫌だ。 じゃあ、何をすればいいのか…… 「バクっ……」 待つ、逃げる以外の第三の選択肢。 それは唯一と言ってもよかった。 (僕がラッシーを探せばいいんだ) 一時間近く経っても、誰も戻って来ない。 ラッシーを探すのに難儀しているのか、それともラッシーが人目につかないような場所でノンビリしているのか。 どちらにしても、待っていても事態が進展しそうにない、ということだけは確かだった。 「バクっ……バクぅっ!!」 ルースは意を決し、咆えた。 降りしきる雨の音に負けない声は、確かにルース自身の心を震わせた。 いつ戻ってくるかもしれないラッシーを待つより、アカツキを背負いながらでも探しに行った方がいい。 ルースは妙に人間くさい仕草でアカツキを背負った。 背中から炎を出さないように自制しつつ、駆け出した!! ラッシーはどこにいるのか分からない。 だが、探すしかない。 レキたちと違う方向に行く。 茂みを掻き分け、倒木をなぎ倒し、小川を飛び越え。 自分にこんな力があったのかと思わせる勢いで進んでいく。 途中で危害を加えられると勘違いしたポケモンに襲われたりもしたが、軽く振り払ってラッシーの捜索を続行する。 アカツキを背負いながらだと思うように行かないのだが、だからといって一人置き去りにするわけにはいかない。 意識があれば一人にしても問題ないだろうが、何も出来ない状態ではポケモンの格好の餌食になってしまうだろう。 さすがにそれだけは考えられなかった。 「バクぅ、バクぅぅっ(ラッシー、どこ)!?」 ラッシーの名を呼び続ける。 悲痛ささえ漂う声が雨の森に響き渡る。 気がつけばラッシーと別れた場所に戻っていた。 どういう道を通ったのかは分からないが、そんなことはどうでもいい。 ちゃんと戻れたのだから、ここからならラッシーを探せるはずだ。 ラッシーが向かった方に足を向ける。 と、ちょうど出っ張った石につまずいて、前のめりに倒れ込む。 「バクっ(痛いっ)!!」 泥まじりの水たまりに突っ込み、派手に飛沫を上げた。 どさっ。 倒れ込んだ勢いで、アカツキがルースの背中から落ちた。 そこそこの勢いがあって、結構痛いはずなのだが、痛みに反応することすらできなかった。 「……っ!!」 痛みに反応できないほど毒に蝕まれていると気付いて、ルースは愕然とした。 意識がない、という程度の問題ではない。 額にはビッシリと大粒の汗が浮かび、衝撃を受けたように、時折身体を痙攣させる。 傍目に見ても、かなり危ない状態であることは疑いようがない。 「バクっ、バクバクっ(アカツキ、しっかりして)!!」 呼びかけたところで無駄だと思いつつ、それでも声をかけずにはいられなかった。 ルースはアカツキを背負いなおすと、再び駆け出した。 野生ポケモンに引っかかれたり噛みつかれたり葉っぱカッターを食らったりした箇所がズキズキと痛み出すが、構っているヒマはない。 痛みを堪え、持てる力のすべてを振り絞り、ひたすら前へ前へと進む。 途中、獣道を塞いでいた岩が粉々に粉砕され、カケラが周囲に散乱した現場に出くわした。 何らかの強い力が加わって砕かれたと思しき岩のカケラを見やり、ルースはラッシーがここを通ったのだと確信した。 足跡やにおいは雨に流されて辿りようがないが、それでも分かる。 ラッシーほどの力があれば、岩を粉砕するなど造作もない。 どれだけの時間が経ったのか、ルースには分からない。 一心不乱に走り続ける彼の頭は真っ白と言っても良かった。 アカツキを助けたい。 そのためにはラッシーの力が必要だ……だから、自分にできることをしているだけ。 時間のことを考えるだけの余裕はない。 水辺を越え、ゴツゴツと突き出した岩場をアカツキを落とさないように慎重に進むうち、雨に霞む森を見下ろす高台までやってきた。 「バクぅぅぅぅぅっ(ラッシーっ)!!」 ここからなら、どこにいてもラッシーに声が届くはずだ。 そう思い、ルースははちきれんばかりに声を張り上げた。 高らかに見下ろす森に――無人島全体に、ルースの声が響き渡った。 悲鳴とも、鳴き声とも受け取れる、切なく辛い心を体現する声。 声は十秒ほど周囲に反響すると、尾を引くことなくすぐに消えた。 「バクぅ(もう、ダメ)……」 ルースはその場に倒れ込んだ。 アカツキを傍らにゆっくりと横たえる。 ポケモンの攻撃を受けても立ち止まることなく走り続け、ルースの体力は限界を遥かに超えていた。 一度立ち止まったら、身体が立ち上がることを拒んでしまう。 身体は必要以上に傷つかないように、無意識のうちに動きを抑制するのだ。 そして、何よりも素直であった。 傍らで雨に打たれているアカツキは、息をしていないようにすら見えた。 熱にうなされることはなくなったが、だからこそこのまま動かなくなってしまうのではないかという不安が首を擡げた。 どうすればいいのだろう。 あちこちを駆けずり回ったのに、ラッシーの姿はない。気配も感じられない。 もしかしたら、他の誰かがラッシーを探し出し、ルースにアカツキを任せた場所に戻っているのかもしれない。 だとしたら……自分の頑張りはまったくの無駄で、やってはならない最低の行為だったのではないかという思いすら脳裏を掠めた。 「バク……」 でも、だからといって何もしないでいることの方が、ルースには辛い。 自分には待つ以外にもできることがあるはずなのだ。 このまま冷たい雨に打たれ続けていれば、アカツキは言うまでもなく、ルースでさえかなり危険な状態に陥るだろう。 それも、そう遠くないうちに。 身を挺してアカツキを打ち付けるような雨から守ってあげたい。 それなのに、身体は石になったように動いてはくれなかった。 「バク……バクぅぅぅ……」 やるべきことがあって、それが目の前にあるのにできないもどかしさ、やるせなさがルースの心を押し潰さんとしていた。 「…………」 せめてこの場にリッピーだけでもいてくれたら…… ルースはそう思いながら、意識が薄れていくのを自覚した。 身体は休息を求めている。 睡眠という名の、最高で甘美な休息だ。眠ってしまえば何も考える必要はない。 辛いことも、悲しいことも。 だが、ここで自分が意識を失くしたら……ルースは前脚の爪を頬に突きたてた。 痛みが意識を覚醒させるが、それも一時しのぎでしかない。 すぐに眠気が押しよせ、意識を飲み込もうとする。 (ここで僕が眠ったら……アカツキが……アカツキが……!!) 自分を助けてくれた人間の少年が、もしかしたら二度と起き上がれなくなるかもしれない。 それは嫌だ。 まだ、助けてくれた恩を返していない。 今度は自分が助ける番なのだ。 それなのに…… 身体は一ミリも動かない。 もっと自分に力があったら……と悔やまれて仕方ない。 ルースの目から、涙がこぼれた。 すぐに雨に混じって、見た目にはまったく分からないが、ルースは小さく泣いていた。 肝心な時に、肝心なことができない自分に腹も立った。 それがどうしようもないことだと分かっているのに。 どうしようもないことに苛立つ自分に気付く。 自分はどうなってもいい。 だから、せめてアカツキだけでも助けてほしい。神様でもなんでもいいから、縋りたい気持ちだった。 せめぎあう雨雲にわずかな隙間が生まれ、空からまぶしい光が差し込んできた。 そして、救いの手は差し伸べられた。 「バーナーっ……」 聞き慣れた頼もしい声を背中に受け、ルースは慌てて振り返った。 まだこんな力が残っていたのかと驚いたが、それ以上に目の前に現れた姿に、ルースは安堵を覚えずにはいられなかった。 「バク……バクぅ……」 ルースは必死に、今までの経緯をラッシーに説明した。 ラッシーはあまり素早く動けない身体を引きずるように、ルースとアカツキの前までやってきた。 ルースの傍らで、毒に蝕まれ、意識を失っているアカツキに目をやる。 「……!!」 ラッシーは愕然とした。 アカツキはどうしてしまったというのだ。 ピクリとも動かず、かといって単に眠っているだけでもない。 服は毒々しい色に塗れ、雨や泥ですっかり元の色を失っていた。 顔も手も足も、擦り傷が無数にあった。 ここまで来るのに、ルースもアカツキもひどく傷ついていたのだ。 「バーナーっ……」 自分は何をしていたのだろう。 ラッシーは自問した。 アカツキが自分の気持ちを分かってくれないと、拗ねていた。 憂さを晴らすように、道中の岩を粉砕し、木の実を頬張り……そしてここにたどり着いて。 一人でじっとしていた。 雨が降ってきて、すぐ近くの洞穴に身を潜め、雨が通り過ぎるのを待った。 その間に、アカツキは傷つき、意識まで失っていた。他の皆も、自分を探しに奔走している…… 自分だけが何もしなかった。 自分の力が必要なのだと、皆必死になって探していたのに、気づくこともなく。 とんでもない自己嫌悪に襲われた。 しかし…… アカツキは何度も何度も、熱にうなされ、うわ言のようにラッシーの名前を呼び続けていた。 本当に自分のことを必要としてくれていた。 自分が一番じゃなきゃ嫌だというワガママを、恐らくは気づきもしていなかったのだろう。 だから、そうやって何度も名前を呼び続けていたのではないか…… 結局は独りよがり。 自分のつまらない意地のために、アカツキを傷つけ、皆を奔走させ……その挙句がこれだ。 このまま消えてしまいたいという気持ちになった。 だが、アカツキをこのままにはしておけない。 「バーナーっ……」 ラッシーはそっとアカツキに呼びかけ、蔓の鞭でその頬を軽く叩いた。 だが、返事はない。 代わりに―― 「ラッ……シー……」 小さく漏れた声。 それはもしかしたら息が掠れてそう聞こえただけかもしれない。 だけど、ラッシーには確かに自分の名前に聞こえた。 アカツキも、皆も、自分のことを一番に頼りにしてくれていたのだ。 それを、『前に比べて自分に構ってくれなくなった』と思ってしまった。 リーベルやロータスは皆に慣れてもらいたいからと何も言わなかったが、他の皆にもアカツキは同じように接していた。 ラッシーの最高のパートナーは、皆等しく接していたのだ。 どうしてそれに気づけなかったのか……同じ高さに切り揃えられた草では満足できなかったのだ。 だが、ラッシーはただ唖然としているだけではなかった。 毒に苦しむアカツキのためにやるべきことを見つけ、それを躊躇せずに実行した。 「バーナーっ!!」 腹の底から声を振り絞り、叫ぶ。 王者の咆哮が島中に轟いた。 声が一頻り響いたところで、ラッシーは蔓の鞭を伸ばして、アカツキのリュックを開けた。 ルースが手伝ってくれたので、思いのほか簡単に進んだ。 蔓の鞭の先端の感触だけで、木の実が入った容器を当てて、ゆっくりと取り出した。 大き目のタッパーには、色とりどりの木の実が、蔕のついたまま詰まっている。 回して開けるタイプの蓋は、ルースが何も言わずに時計回りに開けた。 ラッシーはいつかアカツキが言っていたことを思い出した。 毒に効くという木の実。 何色だっただろう。 オレンジや青、ピンク、緑……実に様々な色と形をした木の実の中に、毒に効く木の実があるはずだ。 見た目やにおいや味で判断することができないだけに、ラッシーはどの木の実を取り出せばいいのか分からなかった。 ルースがタッパーをひっくり返して、中身を出した。 「バク……?」 この中から毒に効きそうなものを探すのだ、ということはルースにも分かったが、果たしてどれなのか。 アカツキのことだから、食べて害になるようなものは入れていないのだろうが…… だからといって手当たり次第に食べさせても、効果が薄くなったり、最悪、相殺される恐れがある。 せめて意識があったら、どの木の実か教えてくれるのだろうが…… 「バーナーっ……」 ラッシーは散乱した木の実を左から順に見やった。 青、オレンジ、ピンク…… アカツキが言っていた木の実は何色だったか。 名前は確か……レモンだかモモンだか……そんな感じだったか。 何分か考えるうち、ラッシーは完全に思い出した。 そう、ピンク色の木の実……モモンの実だ。 ポケモンが毒に冒された時に、食べさせると毒をキレイに浄化してくれるという。 あと、緑色の実も、同じような効果があったか。 ラムの実と言って、毒や火傷、麻痺など、様々な状態異常に効果を発揮するという木の実だ。 しかし、効果が強すぎて、ラッシーほど育ったポケモンでなければ副作用でしばらく身体がだるくなることがあるという。 ラッシーはモモンの実だけを蔓の鞭で取り分け、ルースの傍に転がした。 ルースは傍に転がってきたモモンの実と、ルースを交互に見やった。 「バク?」 「バーナーっ」 ルースの疑問に答えるラッシー。 そう、この実でいいのだ。 主にポケモンに食べさせる木の実だが、人間が食べても問題はない。 と、モモンの実が十個ほどルースの前に転がったところに、リッピーたちが大慌てでやってきた。 四人揃ってやってきたのは、ラッシーの声を頼りにしてきたからだ。 皆ルースと同じで身体を傷つけていたが、同じように野生ポケモンに襲われたからだ。 「ピっ……?」 リッピーはいつもの笑顔を忘れたように、心配と不安が入り乱れた表情でアカツキの傍らへやってきた。 毒に冒された少年は、大切な仲間たちがやってきたことにすら気づけないほど、意識を失っていた。 呻きもせず、うなされもせず……何の反応を見せないことほど、不安を掻き立てるものはない。 リッピーの不安が伝染したように、レキもリーベルも沈痛な面持ちをアカツキに向けた。 (いけない……) 皆が不安に囚われようとしている。 不安が先に立って、あれこれと行動や思考を制限するのだ。 今こそ、リーダーシップを発揮する時。 アカツキの期待に応える時だ。 「バーナーっ……!!」 感情を押し殺したような声に、皆がラッシーに注目した。 何かを決意した瞳に、皆の不安は一気に吹き飛んだ。 ラッシーと一緒なら、大丈夫。アカツキを助けることができる。 期待のこもった眼差しを受け、ラッシーはそれぞれに指示を出した。 指示を受けたポケモンはそれぞれの役割を果たした。 リーベルはルースの目前に転がるモモンの実を前脚の鋭い爪で小さく切り分けた。 ルースは切り分けられた実を手のひらに乗せて、もう片方の手でアカツキの身体を起こした。 リッピーはアカツキの口を半ば強引に開いて、ルースの手のひらの木の実を口の中に次々に放り込んだ。 意識はなくとも身体は抵抗しているらしく、リッピーが手に込めた力はバトルの時並みだった。 続いてレキが手加減した水鉄砲(オモチャ程度の水量と勢いで)をアカツキの口の中に発射した。 純粋な水とは呼べないが、それでもそこいらに溜まった雨水よりはよほど衛生的だろう。 最後にロータスがアカツキの背中を軽く叩いて、口の中に入った木の実と水を飲み込ませる。 背中を叩かれた衝撃で、アカツキは咳き込みながらも口の中のものを飲み込んだ。 息の合った見事な連係プレーであるが、それもラッシーの指示があったからこそだ。 それぞれに見合った役割を分担し、実行させる。 最高のリーダーだと、皆が思った。 アカツキがちゃんと木の実を飲み込んだことを確認してから、ルースはその身体を静かに横たえた。 毒に効くというモモンの実があれば、助かるはずだ。 即効性はないだろうが、それでもいい。 やるべきことはやった。 あとは機が熟するのを――アカツキが目を覚ますのを待てばいい。 「バーナーっ……」 ラッシーの声に、皆が再び注目する。一様に明るい表情で。 でも、ラッシーの表情だけはどこか沈んでいた。雨模様の暗い空のように、心に翳りが差しているのかもしれない。 「バーナーっ……」 ラッシーは言った。 オレがリーダーでいいのか、と。 皆は何を言い出すのかと驚いたが、その間にラッシーは続ける。 「バーナー、バナバーナーっ……」 みんなに、アカツキに嫉妬して、彼の危機にも気づけず、ここで何もせずノンビリしていた自分は、リーダーに相応しくないかもしれないと。 誰も言葉を返すことはできなかった。 ラッシーの言葉には妙な迫力があったし、それは事実だったからだ。 死に物狂いで探していた相手は、ここでノンビリしていた。 野生ポケモンに襲われて傷を負いながらも探した相手がやっていたことを考えれば、文句の一つもぶつけてやりたいところだ。 だが、ラッシーの手際は実に見事だった。 毒に効くモモンの実を選り分け、皆に適切な指示を下した。 誰もが、自分ではそこまですることはできないと思った。 リーダーにはなれない。 ラッシー以外に、リーダーは務まらない。 誰も何も言わないことを、ラッシーは半分肯定の意味と受け取った。 皆が何を思っているのか……手に取るように分かる。 これもリーダーの特権だろうかと思っていると…… 「バクっ!!」 ルースが声を荒げた。 すぐ傍にいたリッピーは大げさとも思える驚き方をしていたが、雨雲を吹き飛ばさんばかりの大声に驚くのはリーベルやレキも同じだった。 「バク、バクバク、バクっ!?」 ルースは臆病な性格とは思えないほど、早口で捲くし立てた。 気持ちをぶつけるように、大声で思っていることをラッシーに伝えた。皆の総意でもある気持ちだ。 ――みんな、ラッシーのことをリーダーだって思ってるし、とても頼りにしてる。 ラッシーがいてくれなかったら、アカツキを助けることだってできなかったんだよ。 ラッシーがいてくれるだけで、みんなとても心強いし、気持ちだって落ち着ける。 ねえ、それだけじゃダメなの? 胸が痛くなった。 肉体的な痛みではない。 心を打つ言葉だった。 皆の真剣な眼差しが、それが総意であると告げていた。 疑うつもりはないけれど、本当に自分でいいのか……解決の扉に手をかけていながらも、最後の一押しができずに、ラッシーは立ち止まった。 皆の気持ちを受け取れば、それで済むだけの話なのだ。 その場で足踏みを続けているのは、アカツキを毒塗れにしてしまったことや、それに気づけなかったという負い目があるからだ。 皆はそれを踏まえた上で、ラッシーがリーダーなのだと認めてくれている。 ラッシーは傍らに横たわるアカツキに視線を向けた。 容態が落ち着いてきたのか、呼吸も大分安定してきたように見えるのだが、いかんせん体内で何が起こっているのかは分からない。 ……確かに、自分が音頭を取らなかったら、アカツキにモモンの実を飲ませることはできなかっただろう。 それで十分なのだと、ルースは言った。 何も特別である必要はない。 皆が傍にいるということを感じて、一人で何もかも抱え込む必要はない。 「バク、バクバク、バクぅ?」 苦しいなら苦しいと言ってほしい。 辛いなら辛いと、自分たちを頼ってほしい。 一緒に悩んでほしい。 ルースの言葉は――皆の総意は、ラッシーの心の何かをソフトに突き動かした。 「…………」 そういえば…… 今までラッシーは、バトルで苦しい時も、アカツキがくじけそうになっている辛い時も、誰にも弱音など吐かなかった。 自分はリーダーだから……皆をまとめ上げる立場だから、弱音など吐けば、士気が落ちるだろう。 そうなったら、余計に状況が悪化する。 最悪の状態を避けるため……という理由で自分を無理に抑えつけてきたのかもしれない。 自分にとって、ルースたちはどういう存在なのか。 (仲間……) リーダーというのはあくまでも形式に過ぎない。 皆同じ立場で、同じようにアカツキに接している。 そう、仲間だ。 仲間を頼ることも、一緒に悩むこともしなかった。 「…………」 つまらない意地を張って、挙句の果てにはこんな風にアカツキを傷つけてしまった。 今からでも……まだやり直せるだろうか? アカツキの表情はとても穏やかで、ラッシーの抱える葛藤や、悩みや……皆とこうしてやり取りをしていることすら知らない。 ……知らせるべきじゃない。 眠っている間に、皆で解決しなければならない。 だから…… 「バーナー……バーナバナー……」 ――こんな自分で良ければ、これからもアカツキと一緒に歩いていってほしい。 ラッシーは力強い声で、決意を伝えた。 自分には仲間がいる。 傷ついてまで探しに来てくれる。一緒に悩ませてくれと、そう言ってくれた仲間がいる。 「バクぅ……」 「ピッ」 ルースとリッピーがうれしそうに嘶き、頷く。 ホウエン地方に来てから仲間に加わったレキ、リーベル、ロータスも一呼吸遅れて頷いてくれた。 これ以上は、どんな言葉も要らなかった。 胸にこみ上げる、この暖かな気持ちを皆が共有していると、絆を感じることができるのだ。 それ以上に何が必要だと言うのだろう。 「…………」 (ごめんね、アカツキ。君がオレのこと信じるって言ってくれたのに、信じてあげられなくて。でも、これからは何があっても信じるから……) ラッシーは胸中でアカツキにつぶやきかけた。 その言葉が届いていなくても、構わない。 アカツキは何があっても自分を信じてくれるだろう。 最高のパートナーとして、信頼を結び続けてくれるだろう。 雨雲の隙間から射しこむ陽光は次第にその輝きを増し、降りしきる雨も少しずつではあるが弱まりつつあった。 「バーナーっ……」 ラッシーは皆の方を振り向いて、船に戻ろうと言った。 皆はリーダーの頼もしい言葉に、表情を明るくして頷いた。 一時間後…… ラッシーたちは入り江に停泊している船に戻った。 船と砂浜を渡す板の傍に立っていた船員が、ゾロゾロとポケモンがやってきたことに気づいて表情を強張らせたが…… 「ん……その子、確か……」 ルースが背負っているアカツキに気がついて、目を留めた。 意気揚々と探索に繰り出した少年だと記憶していたが、どういうわけか顔は泥まみれで、ポケモンの背で眠っていた。 「バーナー……バナ、バーナー……」 ラッシーは船員に訴えた。 言葉は通じないかもしれない。 アカツキなら、言葉は通じなくとも意味は感じ取ってくれるかもしれない。 だが、目の前にいる体格のいい船員は話をしたこともない赤の他人だ。 アカツキの置かれた状況を理解してくれれば、後は処置をしてくれるはずだ。 「バーナー……」 「バクっ」 ラッシーの指示に、ルースは渡し板にアカツキを仰向けに横たえた。 「……っ!?」 横たえられた少年を見、船員は思わず身体を震わせた。 顔だけじゃない。 服もズボンも泥だらけで、鋭利な刃物で切ったのか、数箇所ほど服に切れ込みが入っていた。 特に胸元の汚れがひどく、すでに繊維まで染みこんでいるのが見た目から明らかだった。 ただ眠っているだけにも見えたが、わざわざポケモンが背負ってきたところを見ると、島の奥地で何かがあったのは間違いない。 「こりゃ大変だ……医者を呼んでくるから、ちょっと待っててくれよ!!」 船員は慌てて船内に医者を呼びに走った。 大げさとも思えるような慌てよう。 ラッシーたちは呆れ顔だったが、少なくともアカツキの置かれた状況は理解してくれたようなので、正直ホッとしていた。 それから五分後、船員は船医を引き連れて戻ってきた。 白衣をまといメガネをかけた、いかにも『それらしい』格好の男の船医だ。 彼はアカツキの傍らに固まっているポケモンたちを一瞥すると、すぐにアカツキの診察を始めた。 服をはだけて胸元を露にする。 泥を塗りたくったような色の胸を見て、目を細める。 「ど、どうなんですか……?」 落ち着きのない態度でソワソワしているのは、ラッシーたちでも、船医でもない。 船員だった。 ここで何かあったら自分の責任にされると思って、アタフタしているのかもしれないが、ラッシーたちにとってはどうでもいいことだった。 船医は落ち着き払った態度で、聴診器をアカツキの胸に宛がっていた。一箇所ではなく、数箇所に宛がって、心音を確かめる。 続いて、額に手を置く。 雨に濡れたようだが、風邪を引いている様子はない。 呼吸も落ち着いていて、少なくとも命に関わるような状態でないことは確かだ。 「大丈夫。数日休めば元気になるでしょう」 一通り診察を終え、船医は聴診器をバッグにしまいながら、事も無げにそう言った。 素っ気ない言い方だったが、ラッシーたちには分かった。 ――アカツキは大丈夫だ、と。 「はあ、良かった……」 船医もホッと胸を撫で下ろした。 「何があったか知らないが、君たちお手柄だな。ちゃんとトレーナーを連れてくるなんて……」 「じゃ、私はこれで……船室で休ませてやってください。 特に薬を与える必要はありませんが、濡れタオルを額に宛がってやると治りが早くなるでしょう」 船医はそう言うと、船内に戻って行った。 (しかし……毒にやられた割には処置がされていたように見えたな。 あのポケモンたちがやったのか? まあ、別状がないということで問題ないだろうが……) 船医が疑問を浮かべていることなど、この場の誰も知る由はなく。 「どうも、お疲れさまでした」 船員は彼の姿が見えなくなるまで、頭を下げ続けていた。 よほどありがたい裁定を下してくれたらしい。 表情、緩みっぱなしだった。 「さて……確かこの子、船倉の方で見かけたな。よし、運んでいこう」 船員はアカツキの身体を軽々と背負ってみせた。 海の男は力強くなければ、とても海の仕事など務まらない。 「……君ら、この子のポケモン?」 「バーナー……」 船員の言葉に頷くラッシー。 「ああ、でも船内はポケモンを出しちゃいけないっていう決まりがあるんだよなあ……船室なら問題ないんだが……うーん……」 アカツキを背負ったまま、船員はなにやら悩み始めた。 チケットの裏に明記されている、定期船を利用するにあたって守ってほしい事項。 いわゆる『規則』に、船室と甲板以外の場所でポケモンを出すのは禁止、というものがある。 さらに船員の頭を悩ませているのは、無断で客の部屋に入ってはいけない、という船員用の規則だ。 異常時にはその限りではないが、この状況を異常時と呼べるかどうかがポイントだろう。 否と判断されれば、規則違反で罰せられる。 かといってポケモンたちに運ばせたところで、規則違反を見逃し、あまつさえ幇助したとして、同じように罰せられる。 「はあ……後で船長にちゃんと話しときゃ大丈夫だろ。よし……」 船員は考えをまとめて、アカツキの腰のモンスターボールを手に取った。 これでも少年時代はポケモントレーナーをやっていたので、モンスターボールの扱いには慣れている。 「モンスターボールに戻っててもらっていいかな。規則で引っかかるからさ。オッケー?」 「バーナー……」 船員の遠慮しいしい言葉に、ラッシーは迷うことなく頷いた。 規則だのなんだのと、ラッシーたちにはよく分からないものだったが、船員が困っている様子を見たら、何をしたいのかくらいは分かる。 船員はラッシーを戻し、次にリッピーを戻した。 続いてレキ、リーベル、ロータスを戻して…… 「バクっ?」 最後に残ったルースは……戻さなかった。 ルースは怪訝そうな顔を船員に向け、前脚の指で自分自身を指差した。 ――僕は? 戻らなくていいの? 「ああ、君は大丈夫」 船員はそれだけ言うと、アカツキを背負ったまま船内に入った。 「バクっ……?」 一体何がなんだか……分からないが、ルースは船員の後について歩き出した。 階段を降りて、船倉に近いエリアに入る。 すれ違う人からは好奇の視線を向けられ、ルースは心臓がばくんばくんと鼓動を速めているのを嫌でも感じずにはいられなかった。 ――どうしたんだろう、あのポケモン。あんなに泥だらけで…… ――船内でポケモンなんていいのかな。でも、船員さんもいるみたいだから、いいのかも。 好奇の視線にさらされながら歩くこと三分。 ルースには一時間以上にすら感じられたが、それはたくさんの人に見られて緊張していたからかもしれない。 船員は鍵のかかっていない船室のドアを開け、中に入った。 ルースは慌てて入って、ドアを叩きつけるように閉めた。ここまで来れば大丈夫だろう……ドアに背を預け、大きくため息。 あんな風に人の視線を浴びたのはずいぶんと久しぶりだ。 たぶん、アカツキと出会う前だろうと思っていると、船員の声が聞こえた。 「これでよし……と」 顔を上げると、船員は丁寧にもアカツキを船室備えつけのパジャマに着替えさせ、ベッドに寝かせていた。 妙に慣れた手つきだったが、今までにも何度か人間の介護を行ったことがあるのかもしれない。 雨と泥とヘドロ爆弾で汚れた服を脇に抱え、船員はルースを手招きした。 「……?」 疑問に思いつつ足を運ぶと、船員は柔和な笑みを浮かべ、ルースに言った。 「この子が目を覚ますまで、傍についててあげてくれるか? 俺は汚れた服を洗濯してくるから」 「バクっ」 大まかな意味は分かったので、ルースは大きく頷いた。 船室は狭く、全員をモンスターボールから出すことができない。 船員がルースだけをボールに戻さなかったのは、他の五人の代わりにアカツキを見ていてほしかったからだ。 今頃になって気づいた。 「じゃあ、頼んだぞ」 船員は頷きかけると、船室を出て行った。 ドアの閉め切られた音を合図に、ルースはベッドの傍の机から椅子を引き出して、腰掛けた。 体格的に人間と同じ動作がある程度可能なので、椅子に腰掛けることくらいなら造作もない。 ルースはその状態で、ベッドで眠っているアカツキに顔を向けた。 落ち着いた表情で、もしかしたら何か楽しい夢でも見ているのかもしれない。 時折唇を動かして、何かをつぶやいているように見えた。 「バクぅ……」 ルースはホッと胸を撫で下ろした。 お医者さんもちゃんと診てくれたことだし、この分なら心配要らないだろう。 ラッシーや他のみんなを出すだけのスペースがないから、ここは自分がちゃんとアカツキのことを見ておかなければ。 「…………」 窓の外には、陽光を受けてきらめく海が広がっている。 雨は完全に止んで、波はとても穏やかだ。 ルースはアカツキの寝顔を見やり、思い返した。 初めて彼と出会った時のことを。 あの時は、人間から逃げることしか頭になく、猛烈な勢いで追いすがってきた暴走族を火炎放射で思わず返り討ちにしてしまったのだが…… それからの記憶はどうも曖昧だ。 思い出したくないと、無意識のうちに記憶に鍵をかけてしまっているのかもしれないが、別に無理に思い出したいと思えるものでもない。 海に落ちた自分を支えてくれた、アカツキの腕の温もりが、今もまだ身体に残っている。 「バクっ……バクぅ……」 ――僕、君に助けてもらって……いつかその恩を返したいって思ってたけど……こうして返すことができたんだね。 ルースは満足していた。 アカツキは自分を助けてくれた。 人間から逃げるということから。 いつまでも逃げ続けられるわけではないと分かっていたが、歯止めが利かない自分を止めてくれた。 自分を助けてくれたアカツキに恩返しをしたいと思っていた。 そして今、その恩を返せた。 でも、だからといってここでいなくなるようなマネはしない。むしろアカツキたちとずっとずっと一緒に旅を続けたいと思っている。 だから…… 「バクぅ……」 ――ゆっくり休んで、また元気な顔を見せてね。 ルースは心の底から、アカツキが元気になってくれることを祈った。 「ん……うーん……」 光が閉じたまぶたの裏にまで射しこんできたような刺激を覚えて、オレは目を開けた。 まず目に入ったのは空のように鮮やかな青に塗られた天井。 見覚えのない場所……なのは間違いなさそうだ。 ここがどこか知ろうと思ったよりも早く、耳に馴染んだ声が聞こえてきた。 「バクぅぅっ!!」 ルースの声だと知覚した瞬間、その顔が視界にすっと入ってきた。 うれしそうな、輝く笑顔でオレを見つめてきた。 「ルース……」 ルースがいるってことは…… でも、ここはどこなんだろう……? ゆっくりと上体を起こした時、もう一人、見覚えのある女性の姿がルースの傍にあることに気づいた。 「あら、お目覚め? 気分はいかが〜?」 なんてお茶目な口調で言葉をかけてきたのは、アカツキの家でダイゴさんと共にいた女性だった。 褐色の肌と、ワイルドカットが印象的な女性(ひと)だ。 お年頃の女性が好むような服に身を包み、悪戯坊主を思わせるような笑顔をオレに向けている。 「……なんでここに……?」 「質問で質問で返すのって感心しないわよぉ。あたしは、気分はいかがって聞いたんだけど」 笑みとは裏腹に、鋭い切れ味のツッコミを返してきた。 「…………」 出る杭は打たれるっていうか、出鼻を挫かれたような気がして、オレは何も言い返せなかった。 もしかして、ルースと一緒にいてくれたんだろうか。 いや、そうじゃなきゃ、わざわざオレの目が覚めるのを待つ理由にはならないだろ。 ともあれ、ずっとルースと一緒にいてくれたことに対する礼は、言っとかなきゃいけないな。 「とても気持ちいいです。ゆっくり寝てたみたいで……」 「そうよねぇ」 言葉を返すと、彼女は満足げに何度も頷いてみせた。 まるで自分のことのように喜んでいる……って見えるのは気のせいだろうか? なんて彼女に目を向けていると…… 「バクぅっ!!」 「うわっ!?」 ルースがいきなり抱きついてきて、顔をオレの胸に擦りつけてきた。 「お、おいルース。一体どうしたんだ!?」 尋常じゃないその様子に、オレはルースを抱きとめながら問いかけた。 いきなり抱きつくなんて、ラッシーじゃあるまいし、一体どうしたんだか。 「バクぅぅぅぅぅぅ……」 でも、なんだか分かったような気がした。 ルース、オレの胸で震えてたんだ。 オレのこと、とっても心配してくれてたんだって、気持ちが流れ込んだみたいに伝わってくるのを感じずにはいられなかった。 そういえばオレ……あれからどうなったんだろう? オレは周囲を見渡した。 ベッドに寝かされていたらしく、ここは六畳ほどの室内だった。 ありきたりな家具が並んでいる、どこにでもありそうな部屋だけど、家具の配置や雰囲気から、ここがポケモンセンターだとすぐに分かった。 「ん、ポケモンセンター?」 どこのポケモンセンターだろう。 確か、オレは無人島探検してた時にマルノームのヘドロ爆弾をまともに食らって……それからどうなったんだっけ? ベッドの上にいるってことは、あれからすぐに意識を失くしたってことだろう。 だったら、結構ヤバイことになってるんじゃないかと思ったんだけど…… 他のみんなの姿は見当たらない。 ルースがいるんだから、他のみんなも近くにはいるんだろう。 ただ、何がどうなってるんだか分かんない。 「あの……」 彼女ならいろいろと知ってるかもしれない。 なんて無責任な期待を抱きつつ、オレは問いかけた。 「ここ、どこですか?」 「ん。カイナシティのポケモンセンターだよ」 「……!? カイナシティ!?」 「そ。カイナシティ」 思いもよらない――でもある意味当たり前な――地名に驚くオレに、彼女はさも当然と言わんばかりの口調で言葉を返し、頷いた。 ここがカイナシティだっていうんなら、謎は解けたも同然だ。 オレが倒れてから、ルースたちが一生懸命オレを連れて定期船に戻ってくれたんだ。 エンジントラブルも解決した定期船は、結構遅れたけどカイナシティに到着して、オレはポケモンセンターに運ばれた。 病院じゃなかったのは、大方オレの身体に異常がなかったから、ってところだろう。 「キミ、よく眠ってたみたいね。 カイナシティに来たのは昨日の夕方……今日はキミたちがムロ島を出航した翌々日に当たるわ」 「一日近く寝てたんですか、オレ……」 ヘドロ爆弾って強力なんだなぁ……思わず天を仰いで、オレは驚嘆した。 ヘドロ爆弾の毒にやられてたんだろうか、もしかして。 そこんとこの記憶がないから、どうとも言えないんだな。 ルースたちなら知ってるかもしれないけど、それをわざわざ訊ねる気にはなれなかった。 その時のこと、あんまり思い返させたくないんだ。 震えてるルースを見ると、そういうことだったんだってこと、よく分かるから。 「ルース、オレを連れて船に戻ってくれたんだな。ありがと。 あと、心配かけて悪かったな」 オレはルースの背を撫でながら、言葉をかけた。 船に連れ戻してくれた感謝と、心配をかけてしまったことに対する謝罪。 後でラッシーたちを出して、みんなにもちゃんと同じことを言おう。 「バクっ……」 ルースは顔を上げると、ニコッと微笑んでくれた。 オレが元気になったこと、心の底から喜んでくれてるんだ。 これからも同じような想いをさせるわけにはいかないな……大変だけど、頑張らなきゃ。 トレーナーとして、ポケモンに必要以上に心配をかけるのはよくないからさ。 「ルースとずっと一緒にいてくれたんですね。ありがとうございます」 それより、彼女にちゃんと礼を言っておかなきゃいけない。 頭を下げると、彼女は首を横に振って、 「キミがポケモンセンターに運ばれてくところを見てね。 いい夢みてるみたいに安らかな顔で寝てたから、大丈夫かなとは思ったんだけど、一応心配になって、一緒に来てみたのよ。 別に感謝してくれなくてもいいの。 仕事も一段落ついて、一週間ばっかし休暇もらっちゃってね。 正直、どこで何をしようか、宛もなくブラブラしてた口なんだから」 妙に饒舌な口振りで言った。 「それでも、ありがとう。あなたがいてくれたから、ルースも不安にならずに済んだと思うんです」 「そうかもね。そのバクフーン……ルースって言うのね。この子、すごく不安げにしてたわ」 彼女は肩をすくめた。 一週間の休暇って……今の時期、祝日が続いてるとかってことはないわけだし、大きなプロジェクトでもカタがついたってところだろうか。 でも…… 「あの……お名前は?」 「あたしはフヨウ。見てのとおり、そこいらにはいないような美女……ビューティフル・レディーだよ」 「…………」 普通に名前を聞くつもりだったんだけど、すげぇオチのついた自己紹介をされた。 これにはオレの方がどんな反応をすればいいものか、戸惑ってしまった。 確かに美女といえば美女なんだけど……何も自分でそこまで言う必要はないだろうに。 まあ、自慢しちゃいたくなるようなボディラインは確かだから、別に否定はしないけど…… アカツキの家で会った時は、ハイビスカスの髪飾りをつけて、 服だか布だか分かんないような薄物だけをまとった、どっか危ないおねーさんみたいな雰囲気をぷんぷん漂わせてた。 でも、こうしてバッチリ決まったファッションを見てると、あの時の服装がウソみたいに思えてくる。 「キミはダイゴやミクリたちと一緒に行った家にいたんだよね。 ああ、名前は聞いてるよ。キミもあの子と同じでアカツキって言うんだよね」 なんだ、ちゃんと知ってるんじゃないですか。 オレは胸中で彼女――フヨウさんにツッコミを入れていた。 ダイゴさんから聞いたんだろう。 でも、ミクリって誰? 口振りからすると、アカツキの家にいた、ダイゴさん以外の三人のうちの誰かってことなんだろうけど…… まあ、別に知らなくてもいいことだろう。 ついでに言うと、彼女がダイゴさんたちと何をしてるのか、気にはなるんだけど、それを訊ねるのは失礼だろうし。 「フヨウさん、ありがとう。 あなたがいてくれなかったら、オレたち、どうなってたか分からなかったかもしれない」 「そんな、オオゲサだねえ。 あたしがいたか、いなかったか、じゃないのよ。 頑張ったのはこの子なんだからさ。あたしの分まで誉めてあげてちょうだいよ」 重ねて礼を言うと、フヨウさんはオレに抱きついたままのルースに視線を送った。 「……そうですね。そうします。ありがと、ルース。良く頑張ってくれたな」 確かに正論だった。 顔はまだどこかあどけなさを残してるけど、考え方はやっぱり大人なんだなあ、って思わせるよ。 優しくて思いやりがあって、さすがはダイゴさんの知り合いだけのことはある。 そういえば、ダイゴさんってアヤカさんのご主人だし、アヤカさんも何がなんだか分かんないけどとにかくすごい人だった。 アヤカさんと大して歳は変わらないんだろうけど、フヨウさんは彼女と比べると、ちょっとだけ子供っぽい感じがする。 もちろん、オレから比べれば圧倒的に大人だけどさ。 「身体の具合はどんな感じ? だるかったりとかしない?」 「大丈夫です。良く眠ってたみたいで、疲れとかも全然残ってなくて」 フヨウさんの問いかけに、オレは軽く肩を回しながら答えた。 一日も眠れば、疲れなんて吹っ飛んじゃうものらしい。 オレはルースを離して、ベッドから降りた。 真正面の壁にかけられた服に着替えるんだけど…… 「あの、フヨウさん」 「ん、なあに?」 「着替えたいんで、ちょっと外に出ててもらえます?」 「着替えるの?」 「はい」 フヨウさんは椅子から立ち上がろうともせず、オレに視線を向けてきた。 「…………」 なんか、嫌な予感がするんだな。 女性がらみの嫌な予感ってのは、まず外したことがないって言うか。 こうして不安に思えば思うほど、それが現実味を帯びてくる感じがして、なんかとっても嫌。 「別に気を遣わなくてもいいのよ。そこで着替えたら?」 「…………」 ほら。 嫌な予感って、ホントに嫌になるくらいよく当たるんです。 フヨウさん、オレの着替えを見てるって宣言したんだ。 男の子の着替えを見るのって、女性として恥ずかしくないんだろうか? 恥じらいとか、感じてないんだろうか。 こういうとこ、ナミにそっくりだなあ、って思うんだけど。 「あの……フヨウさんはそれでいいかもしれないんですけど、オレの方が恥ずかしいんですよね」 フヨウさんが開き直るのは結構だけど、むしろ問題なのはオレ自身だ。 女性に着替えを見られる……ってのは、なんだか恥ずかしい。 相手がナミなら別にそんなに気を遣う必要もないだろうけど。 会うのがこれで二度目っていう、あんまり親密じゃない相手に見られるのって、やっぱり気になる。 「恥ずかしいの?」 「え……」 オレは耳を疑った。 デリカシーのカケラも漂わせていない言葉に、それこそミサイルを撃沈されたように何も言えなかった。 いや、恥ずかしいの、ってあんた……恥ずかしいに決まってるでしょーが!! さすがに大声で怒鳴りたてるわけにもいかず、オレはできるだけ声を潜めて、 「お願いしますから、着替えてる間だけでも部屋出ててもらえます? このままじゃ、着替えられないんで……」 とてもじゃないが、こんな状態で着替えようとは思えない。 ナミならオレが見てても平気で着替えちゃうんだろうけど……それはそれで別にいい。 相手はオレなんだから。 でも、今回はぜんぜん違う。 相手は大人の女性だ。ナミなんかと一緒にしちゃ失礼ってモンだろ!! だから、出ててもらいたいの!! オレの熱意が伝わったのか、フヨウさんはなんだかつまんないような表情で頷くと、席を立った。 「キミのほかのポケモンは、この部屋に入りきらなかったから、庭であたしのポケモンと遊ばせてるわ。 着替え終わったら、庭にいらっしゃい」 「はい……」 そんなことを言って、部屋を出て行った。 ラッシーたち、フヨウさんのポケモンと庭で遊んでるのか……だったら、早く着替えなきゃいけないな。 オレは布団を畳むと、脱いだパジャマを丁寧に折りたたんでその上に置いた。 これが、ポケモンセンターとジョーイさんに対する感謝のしるしなんだ。 壁にかけられた服に、汚れはなかった。 雨の中を走って、ズボンなんか特に泥だらけになったんじゃないかと思ったんだけど、ちゃんとクリーニングしてくれたらしい。 袖を通すと、ふっくらしてて、まるで高い服を着たような感触だった。 「よし……これでバッチリだ」 いつもの服に着替えて、机の上にリュックと共に置かれていた帽子をかぶる。 何はともあれ、ちゃんとカイナシティにたどり着けたんだ。 みんなに心配かけちゃった分、これからもっともっと頑張らなくちゃな。 全身がすっぽり入るような縦長の鏡でちゃんと身だしなみをチェックして、オレはリュックを背負った。 「ルース、行こうぜ!!」 「バクっ!!」 ルースの力強い言葉を背に、オレはドアを開けた。 ちょうど廊下の窓から陽が差し込んできていたようで、開けたドアから眩いばかりの光が飛び込んできた。 眩しさに目を細めつつも、オレはその光に飛び込んだ。 To Be Continued…