転機編・1 -Mysterious Changing- 「う……ん……」 なんだか身体中が熱い。 オレは朦朧とした意識の中、目を覚ました。 とはいえ、あまり良くは眠れなかったのだけど……あんまりまともに働かない頭をフル回転させて考えれば、なんとなくは分かる。 連日の徹夜作業によって体力を消耗して、風邪を拗らせてしまったんだ。 下がった体温を補おうと、身体の免疫機能が過剰に熱を放ち、全身を気だるさと熱っぽさが交互に行き来する。 お世辞にも快感とは言えないんだけど、意識が朦朧としてるだけあって、普段ならパニックになりそうな身体の異常も、少し控えめに感じられた。 「もう少し寝ているんじゃ。風邪は治りかけが肝心と言うじゃろう」 オレが目を覚ましたのを見て、じいちゃんが声をかけてきた。 すぐに霞む視界にじいちゃんの笑顔が飛び込んでくる。 そっと、オレの額に濡れたタオルを置いてくれた。 氷水に浸されたタオルは冷たくて、額の熱を吸い取ってくれる。 一分も経つと、すぐに額の温度と同じになって、あたかも同化したように思えてくる。 ああ、まともに判断できてないなって、それだけでも十分すぎるほど理解できる。 オレ、じいちゃんの足を引っ張ってる…… 猛烈な後悔が脳裏を過ぎるけれど、だからといってそれらをどうにもできない。 気だるさと熱に支配された身体は思うように動かなくて、じいちゃんに言葉をかけることもできない。 ありがとう……でも、ごめん…… オレはじいちゃんの研究所で、じいちゃんと二人三脚で、『月のカケラ』という不思議な鉱石の研究をしてるんだ。 研究を始めて一週間。研究というのは朝も夜もない。 昼間、機械にかけた『月のカケラ』の成分が判明するのは真夜中。 ちょうどいい結果が出たり、特殊な波長の光線を浴びせて変化が起きるのがその時間帯だけと決まっているらしくて、 オレもじいちゃんも、ほとんど寝ずに研究を続けてたんだ。 そりゃ辛くて大変だけど、だからといって投げ出す気にはなれなかった。 自分から志願したんだ……真っ先に音を上げるなんて、みっともないったら、ありゃしない。 だから、眠くて辛くてダルい時間帯も、目を擦ったり、膝に爪を突きたてたりして、必死に起きてた。 何日もそれが続くと、恐ろしいことに身体が少しずつ慣れてくるんだ。 次第にそんなに辛くなくなって、昨日の明け方過ぎに、あと一日なら寝なくても大丈夫かも…… なんて、とんでもないことを考え始めてた。 今になって思えば、その時点ですでに神経がおかしくなってたんだろう。 恐ろしいのは、それが『普通だと思えてた』ことだ。 何日も徹夜作業を続けていれば、当然身体にいいはずがない。 当然のように免疫機能が低下して、風邪のウイルスの侵入を許してしまった。 風邪をこじらせて、オレはこうして研究所のベッドに寝込むハメになってしまったんだ。 あー、こっちの方がよっぽどみっともない…… とはいえ、思うように動かない身体と、思うように物事を考えられない頭を使ったところで、足を引っ張るに決まっている。 止む無く、研究は中断。 遅れならいつでも取り戻せると、じいちゃんが笑顔で言ってくれたのが胸にチクリと突き刺さって、痛い…… ちなみに、風邪をこじらせてしまったのは昨日の昼過ぎ。 たぶん、一日くらい経ったんだと思うけど、時間間隔が麻痺した状態じゃ、本当に一日が経ったのかは疑わしい。 下手をすれば半日程度しか経ってなかったりするのかもしれないけど、それを確かめることすら億劫に思えてきた。 完全に病気だ……完治するまでは、こうしてじっとしてるしかない。 やることがなくて退屈だけど、しょうがない。不完全な状態で研究に復帰しても、またベッド送りになるだけだ。 これ以上じいちゃんの足を引っ張らないようにするには、仕方がないんだ。 仕方がないんだ……オレは自分自身にそう言い聞かせて、目を閉じた。 どうせなら、目をつぶっていよう。そのうち睡魔が訪れて、眠りの世界へと誘ってくれるだろう。 次はいい夢見られるだろうか……なんて思いながら、次第に意識を睡魔が乗っ取っていくのを感じていた。 「ふむ……ようやく寝付いたようじゃな……」 オーキド博士は、安堵のため息を漏らした。 ベッドの上で安らかな寝息を立てている孫の頬をそっと撫でる。 風邪をこじらせて倒れた時にはどうなることかと思って、それこそ心臓を鷲づかみにされるような恐怖を覚えたものだが、 ただの風邪だと分かって、拍子抜けしたのもまた事実だった。 それから、額のタオルを取り替える。氷水に浸して、水を絞ってから、冷たさが残っているうちに再び孫の額にタオルを置いた。 少しは容態も安定してきたようだし、あとはちゃんと眠って、栄養のあるものでも食べさせれば、明日か明後日には治るだろう。 少しでもよく寝られるように、ここはそっと退散するとしよう。 オーキド博士は孫に笑みを向けて、席を立った。物音を立てないように、そっと部屋を後にする。 扉を閉めたところで、背後から声をかけられた。 振り返ると、心配そうな表情をした孫のナナミが立っていた。 「あの、おじいちゃん……アカツキ、大丈夫ですか?」 従兄妹とはいえ、寝込んでしまっている少年は彼女にとって実の弟のような存在なのだ。 オーキド博士ほどの反応は見せなかったが、それでも心配で心配で、ため息ばかり漏らしていた。 オーキド博士はそんなナナミに、笑みを向けた。 「大丈夫じゃ。あとはゆっくり休んでいれば良い。ところで……」 安心させようと言葉をかけて、彼女が手にしているビンを指差す。 「そのビンは? 薬か?」 「ええ、漢方薬にもなるというパラセクトの胞子と、アーボックの毒針から抽出した弱い毒素と、 ミルタンクが絞る良質のミルクと、とある寒い朝にサボネアの頭上のトサカについた朝露……それと……」 ナナミは頷くと、自信満々といった表情でビンの成分について説明を始めた。 「ヌマクローが吐いた泥に含まれる良質なミネラル分、ライボルトの電撃で電気分解した海洋深層水を混ぜた液体に、 ロゼリアのアロマセラピーによって生まれた成分を配合した、効能の高い薬です。 風邪はおろか、万病に効くと、WHOが発表した新処方のお薬なんです」 「ほ、ほう……」 妙に嬉々としたナナミの様子に、オーキド博士は思わず一歩引いてしまった。 彼女は研究熱心で、将来を嘱望されているが、一度何かにのめり込むと、なかなか他のことに目が行かなくなる。 彼女が手にしたビンに、並々と満たされた液体。WHOが発表したというのだから、あながちウソではないのだろうが…… だからといって、見るからに不気味なその液体をアカツキに飲ませようとは、どうしても思えない。 だから、一抹の不安は、どうしても消えてくれない。 ナナミが口にした成分は、確かに病人に効果のあるものばかりなのだが、化学反応というのは、予期せぬ副作用をもたらすことがある。 AとBという成分を普通に化学反応させても、普通にCという成分にしかならないこともあれば、 そこにある条件が加わればまったく別の、Dという副作用の強い成分に変わってしまうことさえあるのだ。 だからこそ、それだけたくさんの成分が複雑に絡み合って反応し合ったシロモノを飲ませることが、 たとえ有効でも危険なのか……それは嫌でも分かる。 「だから、これをアカツキに飲ませてあげれば……きっと、元気になってくれるはずです」 「じゃ、じゃが……今アカツキは眠ったところでな……」 ナナミは『弟』に良くなって欲しい一心なのだろう。 ビンに満たされた、紫とも淡い緑とも判断のつかない斑点が無数に浮いている液体を飲ませようとしている。 それは、彼女の様子を見れば嫌でも分かる。 だが、嫌な予感がするのだ。根拠も何もない、ただの予感だ。 だだ、虫の報せとでも言うのか、根拠がないからこその嫌な予感だったりもする。 オーキド博士は後ろ手にドアノブをしっかり握りしめながら、 新処方のお薬とやらをアカツキに飲ませようとするナナミを通すまいと必死に抵抗した。 「ようやく眠ったところなのじゃ。だから、今はゆっくり寝かせてやってはくれんか?」 「……分かりました」 オーキド博士の必死の説得に、ナナミはあきらめたように、だけどどこかガッカリしたように小さく頷いた。 眠ったところだと言われれば、その眠りを邪魔するわけにもいかない。 だが、さすがはオーキド博士の孫。ただでは退かない。 「じゃあ、目を覚ました時に飲んでもらうよう、書置きを残しましょう」 「う……」 そういう形を取られれば、断ることができない。 さすがのオーキド博士も、瞬時に切り返すことができず―― 生まれた一瞬の隙を、ナナミは見逃さなかった。 素早くオーキド博士の横に回りこみ、握られたドアノブから手をどかす。 「大丈夫。音は立てませんから」 「いや、そういう問題ではなくて……あぁ……」 あっという間にドアを開けて、部屋に入ってしまった。こうなってしまっては、後の祭りだ。 ナナミは優しく気立てのいい性格だが、一度のめり込んだことに関してはすぐに手を離さない粘着質な一面もある。 もはや止められないと悟って、オーキド博士は、小さく開いたドアの隙間から、室内の様子を覗きこんだ。 ナナミが、ベッドの傍の机にビンを置き、ペンを手になにやら便箋に書き込んでいる。 内容は見ずとも分かる。いや、むしろ見たくない。 ナナミはペンを置き、重石を置くように、ビンを便箋の上に乗せて、そっと部屋から出てきた。 あっという間だった。 「これで大丈夫です。明日には、アカツキの元気な姿が見られますよ」 ニコニコ笑顔で、オーキド博士に言葉をかけてきた。 「うむ……それなら良いのじゃが」 笑顔を向けられても、やっぱり不安は消えない。 こうなってしまっては、もはやどうすることもできないのだろうが。 「おじいちゃん」 ナナミはオーキド博士が抱いている不安など知らないようだった。 気づかないフリをしているのではなく、本当に知らないといった表情だ。 「そろそろ、ポケモンの体調チェックの時間です。ケンジがスタンバイしていますよ」 「うむ……もう、そんな時間か……」 腕時計に目線を落とすと、確かにそんな時間になっていた。 「では、行くとしよう」 「はい」 オーキド博士は歩き出した。 アカツキのことは心配だが、今はポケモンの体調チェックを行わなければならない。 定期的なチェックゆえに、一度でも欠かすと、生態的なデータに誤差が生じてしまう恐れがある。 それに…… 「今これ以上時間をかければ、不自然に思われるじゃろう。後でこっそり摩り替えれば良い」 アカツキは寝入ったばかりだ。目を覚ますのは少なくとも数時間後だろう。 それまでにポケモンの体調チェックを終わらせればいい。普通にやれば、それまでには十分に終わる。 だが、オーキド博士の目論みは、脆くも崩れ去るのだった。 次に目を覚ました時、さっきよりもずいぶんと身体が軽くて、熱っぽさも引いているように思えた。 寝起きで感覚がおかしくなっているだけだろうと思いつつ、オレはゆっくり身を起こした。 「ふう……」 首を動かして、壁にかけられた時計に目を留める。 『AM 9:00』……朝の九時だ。 なんだ、一日は経ってなかったんだ……呆れながら、でも、少し安心した。 あんまりじいちゃんの足を長い間引っ張っていたくはない。 だから、こういう時は時の流れが遅くなればいいのにと思わずにはいられない。 じいちゃんは……無意識にじいちゃんの姿を探して、部屋を見渡す。 ああ、そういえば……今になって思い返した。 ……やっぱり、寝起きで頭がまともに働かない。 今の時間、ナナミ姉ちゃんとケンジと三人で、ポケモンの体調チェックを行っているんだろう。 ここにいないのは当然だ。 思いながらも、だけどじいちゃんに傍にいて欲しいという気持ちが強かったのは間違いない。 でも、それが無理であることも分かっている。 じいちゃんは忙しいんだ。いろんな仕事がある。オレの面倒ばかり見てられないだろう。 それはナナミ姉ちゃんもケンジも同じことだ。 誰もヒマじゃない。オレが一人でこうしてここにいるのも、考えてみれば当然なんだ。 何を無駄なこと考えてたんだろう…… また、寝よう。 そう思って、視線を落とす。 ……と、机の上に茶色のビンが置いてあるのが見えて、そこで視線を留めた。 ビンの下に敷かれた便箋には、ナナミ姉ちゃんの字でオレを案じる一文が認められていた。 「これを飲めってことか……?」 WHOも認めた世界的な処方薬で、風邪や熱はもちろん、マラリアや脚気にも効くとかなんとか…… あんまり難しい表現をしてある部分は無意識に飛ばしたけれど。 ナナミ姉ちゃんの言葉を直訳すれば、これを飲みなさい、みたいなことが書かれてあった。 「姉ちゃん……」 オレはビンを手に取った。 なんだか不気味な斑点が浮いてるけど、気のせいだろう。光の加減で、中に溶け込んだ成分がそう見えるだけかもしれない。 思いつつ、オレはビンの蓋を開けた。途端に、凄まじい臭いが鼻をついた。 「げっ……」 生ゴミの臭さを凝縮したような臭いに、オレはとっさに蓋を閉めようとして――不意に、ナナミ姉ちゃんの顔が浮かんで、手を止めた。 姉ちゃんはオレに元気になって欲しくて、わざわざ薬を差し入れしてくれたんだ。 それなのに、臭いがキツイからっていうつまんない理由で知らん振りして寝ちゃっていいんだろうか? でも、普通に考えれば、臭いでこんなキツイんだ。 味は一体どんな風になってるのか……醜悪な集合体だったりするのかもしれない。 だけど……早く元気になるには、この薬を飲むしかない。 普通に寝て、普通に栄養のあるモノを摂取することでも風邪は治るけれど、いつ治るかなんて知れない。 「……飲んでやる……姉ちゃんの好意を無駄にするわけにはいかない」 オレは意を決して、ビンを口元に近づけた。 さっきよりも臭いがキツくなる。 じいちゃんの足を引っ張り続けるのは嫌だ。 一分でも、一秒でも、一瞬でも……早く、研究に復帰したい。 そのためにも、これくらいの障害で立ち止まっちゃいられない。 オレは息を止め、ビンの縁に口をつけ、そのまま一気に傾けて、中身を口の中に流し込んだ。 うっ…… 砂糖を過剰に混ぜ込んだケーキのような甘ったるい味がしたかと思うと、次の瞬間には恐るべき苦味が口の中に広がっていった。 ……一瞬、頭の中が真っ白になったような気がした。 それくらい、味もきつかった。 我慢できないことはない。 でも、できれば二度と味わいたくない風味だ。 この世のあらゆる食物の苦味を凝縮したような味。 『良薬、口に苦し』っていう言葉を体現したような味に、オレは顔をしかめずにはいられなかった。 これで少しでも味を忘れられるなら、いくらでもしかめてやると、少し捻くれた考えさえ脳裏に思い浮かんだ。 「に、苦ぇ……」 オレはビンを机に置いて、舌を出して唸った。 少しずつ味は薄れていくんだけど、舌がピリピリと痺れるような感じは粘っこく残っている。 いつまでもしつこい苦味だけど、その苦味の分だけ効果が強い薬なんだと考えれば、少しは慰めにもなる。 「こんなの、庶民ウケしないっての……」 オレは苦い料理だって我慢して食う方だけど、この薬は嫌だな。 特に子供やお年寄りはこういうキツイ薬は絶対飲まないだろう。 本気で売り出すつもりなら、この味をまずはどうにかしなきゃいけないだろう。 なんて、どうでもいいことを思い浮かべていると、不意に頭が軽くなったような感覚を覚えた。 「……?」 じわじわと、胸の奥底から睡魔が湧き上がってくるのを感じる。 瞬く間に苦味が睡魔に飲み込まれていく。 「ホントに効くかも……」 オレは押しよせてきた睡魔に対抗することなく、身体をベッドに横たえ、布団をかけて、目を閉じた。 あっという間に眠りに堕ちた。 ふわりふわり。 「…………?」 妙な浮遊感に、オレは眠りから引き戻された。 よく眠れたような気がするんだけど、妙な違和感が残っている。その正体を確かめようと目を開く。 ボケて焦点の定まらない視界に、ぼんやりと浮かぶのは、この部屋の天井。 なんてことはない。ごく普通の景色だ。 だけど、どういうわけかそれでも違和感は消えない。 ついこの間……一週間前、オレはとある事故の巻き添えを食らって、五十五年後の未来にタイムスリップしたんだ。 こうやって元の時代に戻ってくることができたんだけど…… その時にも似たような違和感……と言えばいいんだろうか? でも、さすがに今回はタイムスリップなんてしてないだろう。 記憶を辿ると、眠りに堕ちる前に、ナナミ姉ちゃんのくれた苦い薬を飲んだ。 それでタイムスリップなんてするはずがない。 アンビリーバボー。運命の神様もビックリだ。 オレはおぼろげな意識を集中させて、違和感の正体を探った。 少しずつピントが合ってきて、視界が鮮明になる。景色に違いはない。 じゃあ、一体なんだろう? そんなに時間をかけずに、オレは違和感の正体を突き止めた。 そう、身体だ。何か変なんだ。 普通に眠ってて、今は仰向けになっている。 平坦なベッドに眠っていたはずなのに、身体が弓のように反り返ってるんだ。 背中とお尻の間に何かが挟まっているような……そんな感覚。 知らないうちに毛布でも挟み込んだんだろうか、と思った。 なんだか邪魔だし、挟まった何かを取り払おうと手を動かして―― 「…………?」 あれ? 手が思うように動かない。 麻痺したとか、そういう類の問題じゃない。 腕自体が短くなったように、届かないんだ。 力を入れて動かしたけど、身体を反り返らせる原因となっている何かに届かない。 一体どうなってるんだ? これは夢なのか? いくら頑張っても届かないから、身体を起こして確かめてみればいい。 そう思うのに、やけに時間がかかった。 やっぱり、寝起きで心がボケてるんだろう。 オレはゆっくりと身を起こし―― 「…………?」 さらなる違和感が、今度は視界から飛び込んできた。 あれ……? 見間違いかと思って目を擦るけど、変わらなかった。 どうなってるんだ……? ベッドがバカみたいに長い。オレの背丈の三倍以上はあるだろうか……違和感はそれだけに留まらなかった。 部屋のすべてが、大きくなっていた。 ナナミ姉ちゃんがくれた薬が入ってたビンも、壁の時計も、扉も、机も……オレ以外の何もかもが、大きくなっていたんだ。 いや……みんなが大きくなったのか。 それとも、小人の世界に迷い込んだように、オレ自身が小さくなったのか。 ……夢だろう。そんなこと、あるはずがない。 そう思って頬を抓ってみる。 痛かった…… 夢じゃないらしい。 夢じゃないとなると、現実になるわけだけど…… そうなると、身体が縮んでしまったんだろうか? 仮にそう考えてみれば、背中に手が届かなかった理由も説明が……つかなかった。 身体全体の縮尺自体は変わらないんだから、それはありえない。 となると、一体どうなっている? 身を起こしても、背中とお尻の間の違和感は消えない。触ろうと思っても触れない。 今になって気づいたんだけど、横になってた時に身体が弓みたく反り返ってたのは、何かが挟まってたからじゃない。 背中とお尻の間にシッポみたいな何かがついてるんだ。確かにそんな感覚がある。 だから、いや……どうなってる? 余計に解せない。 オレは人間だぞ。シッポなんて生えるわけない。ポケモンじゃあるまいし…… 手を伸ばしても確かめられないなら、ベッドを降りて、扉の脇に置かれた鏡を見てみればいい。 身体が小さくなってるのか、それともシッポみたいな何かがついてるのか。 オレは意を決して、立ち上がった。ベッドの縁まで歩いて、恐る恐る床を見下ろす。 普段ならそんなに恐れるほどの高さじゃないんだけど、やっぱり身体が小さくなってるらしい。 いや、あるいは単なるオレの感覚が麻痺してるだけなのかもしれないけど、三階の窓から地面を見下ろしてるように思えた。 鏡を見ればすべてがハッキリするのは、どうやら間違いないらしい。 身体が縮んだのか、それともオレの勘違いか……覚悟を決めて、ベッドから飛び降りる。 思ったほど着地はきつくなかった。 いつもよりも足裏に伝わる衝撃が大きかったように感じられたけど、気のせいと言っても差し支えない程度の誤差だ。 鏡の前に立つ直前、オレは目を閉じた。 たぶん、オレの感覚がおかしくなってるだけだろう。 あの薬の効果は強力みたいだし、一種の神経麻痺成分が含まれていたとしてもおかしくない。 そのせいで、ちょっと頭がおかしくなってるだけだと言い聞かせながら、鏡の前に立つ。 でも、もしかしたら……嫌な予感は消えない。 目を開けば、それも消えると確信し、オレは目を開いて―― げ…… そこに映ったのは、ありえない姿だった。 ヒトカゲだ。 唖然とするオレの前で、鏡に映ったヒトカゲが身じろぎ一つせずに、目を瞬かせる。 シッポの先に灯った炎がユラユラ揺らめいている。 やっぱり、視神経がイカレてるんだろうか……? 薬の副作用だろう。 いくらなんでも、そんなはず…… オレはふっと息を吐いて、頬を掻いて―― ……え? 鏡に映ったヒトカゲも、オレと同じ動作をした。疲れたような顔でため息を吐き、頬を掻く。 「…………」 「…………」 まさか。 でも、そんなはず。 いや、もしかしたら。 いくらなんでもありえない。 否定に否定を重ねながら、オレはじっとヒトカゲの姿を見つめ続けた。 ヒトカゲもオレをじっと見つめている。一度も視線を逸らさない。 それはオレもヒトカゲも同じだった。 まさかと思いながら、オレは右手を挙げた。同時に、ヒトカゲも右手を挙げた。 口を開いてみると、ヒトカゲも口を開く。牙と呼ぶには頼りないけど、歯は少し尖っている。 右手を下ろし、今度は左手を挙げる。 『赤挙げて、白下げないで、赤下げない』 どっかのゲームで流れるワンフレーズが脳裏にひらめく。 オレとヒトカゲは鏡を介して、まったく同じ動きをしている。目がおかしいのか。 それとも…… 最悪な想像が脳裏を過ぎる。 そんなことが……オレは戦慄した。 鏡に映ったヒトカゲは、オレの心を写し取っているように、驚愕と恐怖に満ちた表情を浮かべている。 オレも、たぶんそんな表情なんだろう。想像しなくても分かる。 視神経がやられておかしくなってるなら、身体に触ってみればいい。 身体の感覚までおかしくなっていることはないはずだ。 そう思ってオレは視線を足元に落とし、両手を合わせてみる。 ヒトカゲと人間の相違点をひとつずつ確かめてみる。 たとえば、爪。 ヒトカゲの爪は、人間と比べてとても鋭い。 右手の爪を、左の手のひらに突きたててみる。 「…………」 ヤバイかもしんない。頭の片隅でそんな声を確かに聴いた。 爪の先端が尖っているのを、感じずにはいられなかったからだ。 オレはあまり爪が長くならないうちに切り揃えている。 長い爪は、みっともないものだって母さんから言われ続けてきたから、爪は常に短くしてるんだ。 それなのに、爪の先端が尖ってる。 普通に考えりゃありえないよ。 改めて視線を鏡に向ける。ヒトカゲがじっとオレを見つめている。 ま、まさか…… オレは恐る恐る、振り返った。 シッポが……あった。音もなくその先端で燃えている炎。 もう一度。 鏡に映ったヒトカゲはじっとオレを見つめている。 オレが瞬くと、同時に円らな瞳を瞬かせる。 手を振ったり、口を開いたり、跳び上がったり。 オレとヒトカゲはまったく同じ行動を、まったく同じタイミングで取っていた。 頭が真っ白になった。 ど……どぉなってるんだーっ!! 一体何がどうなってるのか分からずに叫び声を上げる。 「カゲーっ!!」 これまた同時にヒトカゲの叫び声が部屋に響く。 そして、オレは愕然とした。その叫び声が、オレ自身の喉から発せられているのだと気づいて。 一体どうなってるんだ? 何でもいい。適当に言葉を出そうと口を開く。 オレが選んだ言葉は…… 「カーっ……カゲーっ」 げ…… 単なる薬の副作用。 そう口にしたはずなのに、声となって出てきたのは、ヒトカゲの声。 またしても、オレ自身の喉からその声が出てきてる。 まさかとは思うんだが…… 人間のオレが、ヒトカゲになってしまった、なんてことは……いや、ありえないよな。 嫌な想像を否定する。 そんなこと、あってたまるか。 ポケモンが人間にならないように、人間がポケモンになることだってないんだ。 仮にそういう進化の形があったとしても、進化っていうのは気の遠くなるような長い年月をかけて、 少しずつ生物としての形を変えてゆくものなんだ。 でも、背中とお尻の間にある重みは、シッポのものだ。 視神経だけじゃなくて、声や耳までおかしくなってるんだろうか? その原因は、間違いなくあの薬。 ナナミ姉ちゃんかじいちゃんが来てくれれば、嫌でもすべてがはっきりするんだろうけど…… なんて、無責任な期待を抱いた時だった。 本当に足音が聴こえてきた。 廊下をドタバタ走るその足音は少しずつ大きくなり、ドアの前でピタリと止まる。 どっちにしても……構わない。 オレの姿を見て、オレの言葉が分かるなら、オレは人間のままなんだから。 ドアに向き直ったところで、コンコンとノックする音。 「アカツキ、どうしたの?」 ナナミ姉ちゃんの声だ。 妙に切羽詰っているように聴こえるのは、さっき叫んでしまったからだろうか。 オレの様子が気になって、飛んできたってところだろう。 「入るわよ?」 返事がないことを不審に思ってか、ドアノブがかちゃりと回る音がした。 オレは一瞬、どこかに隠れようかと思ったけれど…… 逆に考えれば、姉ちゃんに見てもらえば、オレが変わってしまったのかどうかが分かる。 だから、オレはその場に留まり、ドアを見上げた。 そのタイミングを待っていたかのように、ドアが開く。 切羽詰ってたような声の割には、表情は明るかった。 姉ちゃんは部屋に一歩足を踏み入れるなり周囲を見渡し――すぐに、足元のオレに目を留めた。 「あら、なんでこんなところにヒトカゲが?」 がーん。 姉ちゃんが発した何気ない一言。 やっぱり…… オレ、ヒトカゲになっちまったんだ。 嫌でも悟らざるを得なかった。 なぜなら、薬を飲んでしまたのはオレであり、姉ちゃんは心身共に至って健全だ。 その姉ちゃんがオレを見て「なんでこんなところにヒトカゲが?」なんて言葉を発した時点で、 やはりオレが変わってしまったんだという確証が成り立つ。 「それに……アカツキはどこに行ってしまったのかしら?」 ベッドはもぬけの殻。 改めて姉ちゃんは室内を見渡し―― 「窓は開かないようになってるし、かといってドアから外に出ると、ペルシアンが待ち構えてて絶対に出られないようにしてるし……」 げ…… そこまでしてたのか。 オレは姉ちゃんの手際の良さ(もちろん悪い意味での)に思わず漏らした。 とはいえ、口を突いて飛び出した声は、 「カーっ……」 ……っていう、なんとも貧相で頼りないものだったのだけれど。 「ねえ、ヒトカゲ」 姉ちゃんは膝を屈め、オレに問いかけてきた。 オレのこと、完全にヒトカゲだと思ってるな。 冗談でヒトカゲ呼ばわりするには、ポケモンの種類はあまりに多すぎる。 ゼニガメやフシギダネになっていたかもしれないし、ヒトカゲだと当てるには、オレ自身がその姿をしていなければならない。 なんて、頭の中じゃ冷静に分析してたりするけど、内心すっげぇ焦ってます。 どこをどうやったら、人間がヒトカゲになっちまうんだか。 やっぱ、薬の副作用って線が濃厚だろうか。それ以外の原因は考えられない。 WHOが認めた世界的なお薬。 効果が強いということは、それなりに強い成分が含まれているってことだ。 薬は時に毒となり、毒は時に薬となる……つまり、毒さえも入っている可能性が高いんだ。 そういうのが変に混ざり合ったせいで、常識では考えられないような身体の変化なんて結果が生まれたんじゃないだろうか。 「アカツキを知らない? あなたも見たことあると思うんだけど」 オレは研究所のヒトカゲだと認識されてるようだ。 確かに、マサラタウンを旅立つトレーナーのファーストポケモンであるヒトカゲは、研究所に何体かストックされている。 そのうちの一体だと考えても、不思議じゃない。 「カーっ……カーっ、カーっ、カゲーっ!!(オレがアカツキだ!! 姉ちゃん!!)」 このままじゃオレは脱走犯……もとい、行方不明にされてしまう。 ただでさえ未来に飛んでたこともあったし、これ以上厄介なことになるのはごめんだ。 身体がヒトカゲになってる時点で厄介ごとに首突っ込んでるようなものなんだけど……起こってしまったことは仕方がない。 大切なのは、これから先、余計なものを背負い込まないように道を踏みはずさないことだ。 オレは必死に主張するけど、言葉の通じない姉ちゃんがまともに取り合ってくれるわけがない。 「…………? どうしたの? お腹が痛むの?」 姉ちゃんは笑顔だった。 人間とポケモンじゃ、言葉が通じない。 オレはラッシーや他のみんなの表面上の気持ち……その断片を理解することはできるけど、 みんなが何を言いたいのか、何を言ってるのかってところまでは分からないんだ。 理解しようにも、人間とポケモンの壁は思った以上に分厚くて、簡単に壊せるものじゃない。 実際にこの状況を突きつけられて、それが嫌と言うほど身に沁みたよ。 でも、だからってこのままポケモンとして生きていくのはごめんだ。なんとかしてもらわないと……!! だから、オレは身振り手振りを交えて姉ちゃんに説明した。 ヒトカゲの言葉で。ヒトカゲの仕草で。 やっぱり、人間だった頃の――っていうか、少し前までは人間だったんだけど――クセが抜け切らないせいで、 危うくバランスを崩しそうになったりと、悪戦苦闘。 身体が小さくなったのはしょうがないことだとしても、シッポが生えたせいで、上手く動けないんだ。 シッポの重さを無視して動こうとすると、転倒しそうになる。 それを気力でどうにか踏ん張って声を上げ続けるけど、やっぱり無理だった。 「うーん……」 ついに姉ちゃんが困ったような顔になる。 オレの言わんとしていることを理解しようとは思ってるんだろう。 でも、その術が見つからないんだ。 それに、ここまで来るとオレを行方不明だと思うしかないんだろうか……って思案しているようにも思える。 「薬は……飲んでくれたみたいだけど」 姉ちゃんの視線の先には、空になったビン。 その薬を飲んだせいでこんなことになったんだって言いたいんだけど、今はそれどころじゃない。 なんとしても人間の姿に戻らないと!! 「逃げたってワケでもなさそうね。じゃあ、どこ行ったのかしら? アカツキ、どこにいるの?」 姉ちゃんは、ヒトカゲがオレだと気づく様子もなく、ベッドの下やクローゼットの中など、 人が隠れられそうな場所を覗き込んでオレの姿を探すけれど、当然オレを見つけることなどできない。 「おかしいわねえ……」 一通り探しても、オレの姿がなくて、姉ちゃんが肩を落とした。 「ペルシアンにはきつく言ってるんだけど……外に出てきても、アカツキを部屋に押し戻せって……」 ヲイ…… 姉ちゃんの一言にオレはツッコミを入れようとしたけれど、声に出たのは「カーっ」だった。 これじゃあ、ツッコミにすらならない。 落胆したいのはオレも同じだった。ポケモンに門番させるなんて、姉ちゃんらしからぬやり口だ。 オレを外に出そうとしなかったのも、早く元気になって欲しいからだって思うんだけど……いや、そう思いたいです。 と、ともかく、今はなんとしても、オレがここにいることを理解してもらわないと!! 「カーッ、カーッ、カゲーっ、カゲーっ!!(姉ちゃん、オレはここだ!! オレがアカツキなんだ!! 信じてよ!!)」 オレはあきらめることなく声を上げ続けた。 姉ちゃんは、なぜヒトカゲがこんなに喚くのか分からない。聞き分けのない子供を見るような視線でオレを見つめている。 「あなたは何か知ってるの? ……知ってるって顔してるわよね」 当たり前だ。 オレがアカツキなんだから。自分がどこにいるかくらいは知ってる。 ただ、人間としての言葉を発せないから、この気持ちが伝わらないだけだ。 それだけのことなのに、とてももどかしい!! 「アカツキは薬を飲んで……ペルシアンが外にいるし、窓も開かないから、外には出られないし。 おかしなマネをしたら天井裏に張り付いてるアリアドスがいろいろやってくれる算段に……」 そこまでしてたのか。 ペルシアンだけじゃ飽き足らず、アリアドスにまでオレを監視させるとは…… ここまで来ると暴挙もいいとこだ。 それでも、姉ちゃんの『オレに元気になってもらいたい』という気持ちがホンモノである以上、糾弾することもできそうにない。 「ってことは……」 姉ちゃんはああでもない、こうでもないと一頻り唸った後、オレにピタリと視線を留めた。 やっと分かってくれたらしい。 血の気が引いて、死人のように青ざめた表情を見れば、今姉ちゃんが何を考えてるのかくらいは分かる。 「まさかと思うけど……あなたがアカツキ、なんてことは……」 「カゲーっ!!」 待ちわびたその言葉に、オレは大きく嘶いて、姉ちゃんの胸に飛び込んでいった。 そうだよ!! オレがアカツキだ!! オレはここにいるんだ!! 姉ちゃんは驚きながらも、飛び込んできたオレをちゃんと受け止めてくれた。 「その様子……さっきの様子も見て、やっぱり……」 やっと気づいてくれた…… 事態の根本的な解決にはなってないんだけど、一歩前進したことに変わりはない。この調子で頑張れば、元の姿に戻れるはずだ。 「でも、まさかそんな……なんで、人間がポケモンになってしまうの?」 そりゃ誰もが感じる疑問だろう。 だって、いくら効き目の強い薬でも、身体の細胞単位に影響を及ぼして姿形を変じるなんてことはできないはずだ。 増してや、人間とはまったく違う性質の身体を持つポケモンになんて…… いや、別にポケモンになってしまったことをどうこう言うつもりはない。 なっちゃったんだからしょうがないんだけど、それでもやっぱり原因はハッキリして欲しいと思う。 そうじゃなきゃ、不気味じゃないか。 「カーっ、カーっ……」 オレは姉ちゃんに事の次第を説明するのに、言葉じゃなくてジェスチャーを選んだ。 その方が、鳴き声よりもよっぽど単純で、正確に伝わるはずだと確信して。 身体を捩り姉ちゃんの胸から飛び出して、ベッドに乗っかった。 「…………?」 何をするつもりなのかと、姉ちゃんが怪訝な表情を向けてくる。 オレはシッポの炎がシーツに引火しないように気を配りながら、机の上のビンを手にとって、中身を飲むフリをした。 げ…… 中身がなくても、あの強烈な臭いは健在で、鼻がひん曲がるかと思った。 だって、ポケモンの嗅覚は人間のそれを遥かに凌駕してるから、より薄い臭いでも、ちゃんと感じ取ることができる。 逆に言えば、強い臭いをより強く感じ取ってしまうんだ。 だから、さっきよりも何倍も、何十倍も強烈だった。 いっそ殺せと言いたくなりたくなるような臭いに顔をしかめながらも耐えて、ビンを元の位置に戻す。 それから、ベッドに横たわって眠るフリ。 起きて、身体の変化に驚きながらもベッドを降りて鏡の前に立って―― そこでオシマイ。 「…………」 姉ちゃんはもはや、オレに疑いの視線など向けてはいなかった。 これが事実なんだと、煮え切らない何かを感じながらも、受け入れている。 「ああ、どうしてこんなことに……アカツキ……」 姉ちゃんは手を伸ばし、オレを抱き寄せた。 こういう形で姉ちゃんに抱かれるってのもいいかなって一瞬思ったけど、 ポケモンのまま生きてかなきゃいけないのかと思うと、そんなつまんない欲望はあっさりと燃え尽きた。 「カーっ……」 ヒトカゲの言葉しか話せないことが、とてももどかしい。 早く人間に戻らないと……そのためにも…… オレも姉ちゃんも、考えてることは同じらしかった。 オレを抱えたまま立ち上がり、部屋を飛び出す。 ドアの傍にはペルシアンがノンビリとくつろいでたけど、ナナミ姉ちゃんに一瞥くれただけで、特別な行動は取らなかった。 知らん振りでもしてるんだろうか? 遠ざかっていくペルシアンの背中を見つめながら、オレは思った。 確か、あのペルシアンは……記憶の糸を辿り、行き着く。 お高く留まったお嬢さまで、何気に薄情な性格だったっけ。 研究所の敷地で起こった騒動だって目をつぶって知らん振りを通してたし、自分から関わり合いになることを避けてた。 当然な行動だけど、やっぱりオレから見ると薄情なんだよな…… 平民になんて興味はありませんわ、なんて見下してるようにも思えるし…… 廊下の角を曲がって、ペルシアンの背中が消える。 すぐ傍のドアを引きちぎるように強引に開けて、姉ちゃんはその一室に飛び込んだ。 ポケモンのデータを記録したデータベースがある、データ庫だ。 「あれ、ナナミさん……どうしたんですか?」 サーバーに向き合って椅子に座っていたケンジが、振り返ってきた。 ただならぬナナミ姉ちゃんの様子を見て、すぐに表情を引き締めるけれど、何が起こったのかまでは理解していない。 「ケンジくん!! おじいちゃんはどこ!?」 「え、オーキド博士ですか? 先ほど敷地に出て行かれましたが……あの、何かあったんですか? ……って、ナナミさん!?」 ケンジの言葉の途中で、姉ちゃんは踵を返して駆け出した。 驚いたケンジの声が虚しく吸い込まれていく。 この様子じゃ、オレがヒトカゲになっちまったんだって分かったら、白目をむいて気絶するほど驚くんだろうな…… 姉ちゃんが素直に言わなかったのは、幸運だった。 まずはじいちゃんに会わせる……対応はそれからだ。オレも姉ちゃんも考えてることは同じだ。 姉ちゃんは体当たりで扉を開いて、敷地に飛び出した。 青々とした草が生い茂る敷地を、凄まじいスピードで駆けてゆく。 サンダースもビックリするくらいのスピードで、ノンビリと草を食んでたり昼寝を楽しんでるミルタンクたちの合間を縫ってゆく。 ごめん、ミルタンク。 オレは胸中で謝った。 何しろ、姉ちゃんの表情は鬼気迫るものと悲愴なものが入り混じったような有様で、とても謝ってるだけの余裕があるとは思えなかった。 そりゃ、従兄妹がポケモンになってしまいました、なんて、研究者としての視点からでも信じられない出来事だろうし、放置しておくわけにもいかないだろう。 姉ちゃんはあっという間にじいちゃんの姿を見つけ、猛ダッシュ!! 川すら走って渡れそうな勢いで走ってきた姉ちゃんに、じいちゃんはあからさまに驚いた表情を向けていた。 けれど、オレの視線に気づいてか、すぐに表情を和らげ、オレの頭を撫でてくれた。 ポケモンになっても、じいちゃんに頭を撫でてもらうのはうれしい。 なんて喜びを噛みしめていると、 「な、ナナミ……どうしたんじゃ、すごい剣幕で……」 じいちゃんが諌めるような口調で姉ちゃんに切り出した。 「おじいちゃん!! 落ち着いてる場合じゃありません!!」 姉ちゃんは半ば金切り声のように叫んだ。唖然とするじいちゃんに向かって、事実を突きつける。 「アカツキが、アカツキが……!!」 身体に振動が伝わってきた。姉ちゃんの身体が震えてるんだ。 刹那、じいちゃんの表情が曇る。 この様子で、オレの名前を出されて、さすがにただ事ではないと理解してくれたようだ。 「アカツキが……どうしたんじゃ?」 口調こそ平静を装っているけれど、心の中じゃ周波数を正弦波の波形にしたようにジェットコースター状態なんだろう。 ポケモンになったせいだろうか、そういうことまでなぜか手に取るように分かってしまう。 姉ちゃんはオレをじいちゃんの眼前に突き出して、 「アカツキが、ヒトカゲになってしまったんです!!」 「な、なんじゃと!?」 じいちゃんは仰天した。 白目を剥いて気絶するんじゃないかと思ったけど、じいちゃんは強かった。 膝が砕けて倒れ込みそうになったり、失神しそうにはなるけど、倒れることはなかった。 でも、その驚きたるや、今までに見せたことがないほど凄まじかった。 「ナナミ、それは本当なんじゃろうな? よもや、そのヒトカゲがアカツキなどと……」 「本当です!! そうじゃなきゃ、ペルシアンとアリアドスを配した部屋から忽然と消える理由が説明できません!!」 じいちゃんがオレに驚きの視線を向けてくる。 オレがヒトカゲになってしまったということに驚いているようだ。 ペルシアンとアリアドスを門番代わりに置いたことには、まったく驚いていない。 姉ちゃんがそういう性格の持ち主だと知っているからだろうか。もちろん、オレはそんなのついさっき知ったけど。 「ま、まさか……」 じいちゃんの声はカラカラに乾いていた。 「本当に、アカツキなのか……?」 信じたくない気持ちが悲愴なまでに混じった声音でオレに問いかけてくる。 オレは……じいちゃんの気持ちを踏みにじるようなことをしたくない。 けれど、これが現実なんだ。オレはヒトカゲになっちまった。 だから…… 「カーっ!!」 声を上げ、大きく頷いた。 がしゃーん。 ガラスが割れるような、雷が落ちるような、どちらともつかない擬音が聴こえたような気がした。 聴こえたのだとしたら、それはじいちゃんの心の中で鳴ったものなんだろうと思った。 じいちゃんが放心状態で立ち尽くしている。 人間がポケモンになってしまうなど、研究者生活の長いじいちゃんでも、一度も扱ったことのないタイトルに違いない。 でも、意外とあっさり立ち直って、 「……うぅむ……」 唸り、顎に手を当てながら、じっとオレの目を見据える。オレもじいちゃんの目を見つめ続けた。 オレだってことを分かってもらいたい。そのためにも、ここで視線を逸らすわけにはいかなかったんだ。 「どうやら、そのようじゃな……」 ため息混じりに漏らす。 それでもまだ信じたくない気持ちが残っているようだ。 「じゃが、どうしてこのようなことに……?」 「推測なんですが……あの薬を飲んだせいではないかと……」 「…………」 ナナミ姉ちゃんが申し訳なさそうに言うものだから、じいちゃんとしても強く問い詰めることができなかったんだろう。 渋面でオレをじっと見つめるばかり。 WHOとやらが認めたっていう処方薬。 結果だけ見てみれば、これは世間に広まったらとんでもないことになりかねない劇薬だ。 「ご、ごめんなさい。私のせいで……」 姉ちゃんは本当に申し訳なさそうに謝った。 直前にオレの向きをくるりと変えて、オレとじいちゃんに向かって謝る格好だ。 とはいえ……オレは思った。 百万歩譲って姉ちゃんが悪いのだとしても、姉ちゃんはオレに元気になって欲しくてあの薬を取り寄せたわけで、 姉ちゃんの気持ちを悪だと断じることはできない。 多少行き過ぎた厚意はあるにしても、だ。 もしも相手が姉ちゃんじゃなくてケンジだったり赤の他人だったりしたら、もれなく火炎放射をプレゼントしてるところだけど…… 「ナナミ」 じいちゃんは頭を下げる姉ちゃんの肩に手を置き、優しく声をかけた。 恐る恐るといった風に、姉ちゃんが顔を上げる。 頬を流れ落ちた一筋の涙に、姉ちゃんを責めようという気持ちが一瞬で消え去る。 怒りがないわけじゃない。 姉ちゃんにしては軽はずみな行動だと思うけど、その気持ちを考えると、ここで怒り出したところで仕方がない。 後味が悪くなるに決まっている。 「今は謝っている場合ではない。なんとしても、アカツキを元の姿に戻さなければ。 ショウゴやトモコに知られたら……わしらは確実に殺されるぞ」 「……はい、そうですね」 一瞬、じいちゃんの言葉は冗談かと思った。 でも、頷く姉ちゃんは真顔。 えっと…… オレは何をどう突っ込んでやればいいのか分からず、ただ二人の顔を交互に見やりながら目を瞬かせることしかできなかった。 親父や母さんに知られたら殺されるって、いくらなんでもオーバーな。 確かに烈火のごとく怒るかもしれない。 だけど、いくらなんでもじいちゃんや姉ちゃんを半殺しにはしないだろう。 もちろん、殺すなんて物騒なコトも含めて。 母さんは思い込みが激しい人だから、姉ちゃんの首を締上げるくらいはするかもしれないけど……それ以上にはならないだろう。 「じゃ、じゃあ……」 姉ちゃんの声は震えていた。 本当に親父や母さんに殺されるとでも思ってるんだろうか? 冗談にしては、いくらなんでも手が震えすぎている。 これは本気だ……少なくとも、姉ちゃんは本気で殺されるんだと思い込んでる。 そんな心配をしなくて済むように、早く元の姿に戻らないと……親父や母さんに知られる前に。 もっとも、親父は今出張中で、マサラタウンに戻ってくるのは早くて数ヵ月後だから、そっちは心配ない。 それに、母さんの方も、オレが研究所に詰めて研究に没頭してるって承知してるから、余計な連絡はしてこないだろう。 むしろ、こっちが変なことを仕出かしたりしなければ、バレる可能性は少ない。時間的には余裕があるんだけども…… 「うむ。まずはWHOに事の次第を報告し、協力を仰ぐことじゃ」 じいちゃんの提案は、至極当然のものだった。 どこの製薬会社が作ったかは知らないが、この薬を認めたのはWHOだ。 世界的な機関に協力を要請すれば、事態が動くと踏んでるんだろう。 確かに、じいちゃんの名前はそういった方面にも広く知られているから、協力を取り付けるのはそんなに難しくない。 WHOの協力を取り付けた上で、圧力をかけるなりして製薬会社に方策を求めるのは妥当な策だと思った。 オレがじいちゃんの立場に立ったなら、同じとまでは行かなくとも、似たような方法を選ぶだろう。 「では、私が……」 「いや、わしがやろう。話を通しやすい」 焦る姉ちゃんを諌めるじいちゃん。 「私は何をすれば……」 「誰にも知られぬよう、いつもと変わらぬ様子でアカツキの傍にいてやってもらいたい」 「でも、それではおじいちゃんが……」 オレは姉ちゃんの顔を見上げた。 じいちゃんが大がかりに動くと言うのに、自分がそんなことをしていていいのか……? 他にもやるべきことがあるのではないかと、じいちゃんに視線で訴えかけている。 「わしは構わん。 じゃが、おまえやアカツキには将来があるじゃろう。わしは、我が身よりもそちらの方がよっぽど大切だと思っておるよ。 だから、ここはわしが一肌脱がねばならんのだ」 だけど、じいちゃんも退かない。 強い口調で言う。そこまで言われては、姉ちゃんとしても返す言葉がなかった。 「……分かりました」 「カーっ(姉ちゃん)……」 姉ちゃんは唇をきつく噛みしめていた。悔しさを押し殺すかのように。 こんな時、慰めるべきなんだろう。 だけど、この姿になっては、そうすることもできない。 心配そうに声をかけるのが精一杯だったけど、姉ちゃんはオレの気持ちを感じてくれたようだった。 「大丈夫……私はできるだけのことをする。それが大人の責任だもの」 姉ちゃんはニコッと笑って、オレに話しかけてくれた。 姉ちゃん…… 笑みなんて言っても、ナミみたいな明るいものじゃない。 むしろ悲愴さを際立たせるような……同じ名前の曲を聞かせたら、それだけで三途の川を渡っちゃいそうなほどに見えた。 「さっそく、WHOの知り合いに電話をかけるとしよう……」 じいちゃんがゆっくりと踵を返し、研究所へ向かって歩き出そうとした時だった。 どどどどどど…… どこからともなく地鳴りに似た轟音が聞こえてきた。 「カーっ……?」 オレは音のした方に顔を向けた。姉ちゃんもじいちゃんも音に気づいている様子を見せない。 いや……違う。聴こえてないんだ。 よくよく考えれば、人間とポケモンの聴力は天と地ほどの差はある。だから、気づかなくてもそれは仕方のないことだ。 でも、音は次第に大きくなり、やがて姉ちゃんもじいちゃんも気づきだした。 「ん……?」 数歩歩いたところで立ち止まり、音のした方に身体を向けるじいちゃんと姉ちゃん。 その視線の先には―― 濛々と土煙を上げながら、何かが凄まじい勢いでこちらに向かってくる!! ……って。 「は、ハルエ!?」 じいちゃんが怯えた声で叫ぶ。 というのも、土煙を上げながら突っ走ってくるのはハルエおばさんだ。 姉ちゃんがじいちゃんのところにやってきた時のような勢いだけど、おばさんの目つきは刃物のように尖り、 眉など十時十分どころか、十一時五分の形に吊り上がっているではないか。 これはただ事ではない…… ポケモンとしての感覚が働くせいか、いつもより危機的に物事を捉えている自分に気付く。 それと、ポケモンとしての視力が、おばさんの腕に抱えられているモノを捉えた。 ゼニガメだ。 おばさんの放つ殺気にも似た雰囲気をまるで感じ取っていないらしく、ゼニガメは腕の中、ニコニコ笑顔で腕を振っているではないか。 一体、なんなんだ……? オレはナナミ姉ちゃんの腕に抱かれたまま、呆然とおばさんが迫ってくるのを見ていた。 一難去って、また一難。 あっという間におばさんはオレたちの前にやってきて―― 息を切らしているのか、肩など怒らせながら、射抜くような眼差しで姉ちゃんを睨みつける。 一瞬、姉ちゃんはびくりと震え…… 「ナナミ……」 地獄の底から響くような……亡者の怨嗟すら思わせる声で、おばさんが言う。 「あなた、ナミに何を飲ませたの?」 言い終えて、ゼニガメを突き出す。 相変わらず、ゼニガメは場の雰囲気を理解していないらしく、ニコニコ笑顔を振り撒くばかり。 鈍いところといい、ニコニコ笑顔といい、まるでナミみたいだ…… そんな風に思ったんだけど…… 「ま、まさか……」 じいちゃんが小さく息を呑む。 まさか、そのゼニガメは、『ナミのようなゼニガメ』じゃあなくて…… 「私の目の前でこんな姿になっちゃったのよ!! あの薬は一体何!? 説明しなさい!!」 すごい剣幕で怒鳴るおばさん。 ゼニガメは……ナミ!? 雷に貫かれたように、オレは呆然とするしかなかった。 ハルエおばさんに抱かれたゼニガメは、その場の雰囲気など意に介していない。 ずっと、ニコニコしているばかりだった。 ハルエおばさんに抱かれたゼニガメがナミ? 様子を見る限り、そう判断せざるを得ないんだけど。 でもなんで…… 恐らくはオレと同じ薬を飲んだんだろうが……経緯がよく分からない以上、考えたところでしょうがないところだけど。 「まさかアカツキの風邪が感染る(うつる)なんて思ってなかったわ。 でも、WHOも認めた処方薬だと聞かされたから、黙ってナミに飲ませたのに!! 風邪が治るどころか、ゼニガメになってしまうなんて!! ちょっと、どうなってるの!!」 おばさんはヤケクソ気味に声を張り上げた。 そりゃ、目の前で愛娘がゼニガメになったなんて、衝撃的すぎて、天地がひっくり返るようなものだっただろう。 だからこそ、こうして凄まじい勢いで乗り込んできたんだ。 いやぁ…… 本気になった女性ってここまでパワーアップするんだなあ。 ゲームのラスボスなんて、片手で縊り殺せちゃうくらいのパワーはあるのかも…… なんて思いつつも、オレは胸中で戦々恐々としていた。 ここで、もしもオレがヒトカゲになったなんてことを聞かされたら、それこそ姉ちゃんに何をするか分かったものではない。 下手なことは言えないし、じいちゃんはこの場をどう切り抜けるつもりなのか…… オレが言うのもなんだけど、姉ちゃんじゃハルエおばさんをどうにかできない。 おばさんは天をも恐れない度胸の持ち主だ。姉ちゃんならあっさり押し切られるに決まってる。 「ハルエ、落ち着いて聞いてもらいたい」 「…………」 じいちゃんの穏やかな声音に神経を逆撫でされたのか、ハルエおばさんの刃物のような視線がじいちゃんに移った。 それでも、じいちゃんは一歩も退くことなく、強気に打って出た。 「あれはWHOが認めた処方薬じゃ。 じゃが、効能が強すぎたせいで、身体に予期せぬ影響を及ぼしてしまったのじゃろう。 わしにも分からぬのじゃが、何らかの理由で細胞に働きかけて、身体が変わってしまったとしか……じゃが、中身はナミなのじゃろう?」 「そうなんだけど……」 おばさんの声がトーンダウンする。 自分の力ではどうしようもないことを知っているから。頼るべきなのはじいちゃんしかいないからだ。 愛娘が目の前でポケモンになったりしたら、そりゃ親なら誰だって驚くし、その原因を作ったと思われる相手にも詰め寄るだろう。 でも、八つ当たりしたところで解決しないことも当然分かっている…… ようやく、おばさんも落ち着いてきたようだ。 「元には戻せるの? ナミはあんまり気にしてないみたいだけど、やっぱりポケモンのまま生きて行くのは無理だと思う。いくらなんでも……」 「うむ……確かにそうじゃな。元は人間じゃったのだし、元に戻さなければならん。それは、ナミに限ったことではない」 おばさんの悲痛な声に頷き、じいちゃんはオレの方に振り向いた。 釣られるように、おばさんとゼニガメ――ナミもこっちを向いた。 「このヒトカゲは、アカツキじゃ。ナミと同じ薬を飲んで、こうなってしまった」 「なんてこと……」 これにはさすがのハルエおばさんも息を飲んだ。 表情に出すまいと努めているけれど、心に芽生えた動揺は簡単に隠せない。 ポケモンから見れば、些細な変化すら大きく捉えられる。 そんなことが分かったところで、面白くもないんだけど。 「ゼニィ〜っ(わーい、アカツキだ〜)!!」 誰も何も言えずにいると、おばさんの腕から這い出てきたゼニガメ……じゃなかった、ナミがオレに飛びついてきた。 「カゲっ(うわっ)!!」 互いにポケモンになったせいか、単なる鳴き声でも、言葉として聴こえる。 ポケモン同士で会話を交わせるのを実感できるなんて、さすがに夢にも思わなかったことだけど。 ナミに飛びつかれて姉ちゃんは驚き、その勢いでオレを手放してしまう。 うわっ……!! いきなり放り出されたけど、ポケモンの反射神経は人間のそれと比べ物にならない。ちゃんと着地を決めたところに、ナミが飛びついてくる。 着地で重心が不安定になっているところに飛びつかれては、さすがにひとたまりもない。 オレは青々とした芝生に押し倒された。 「…………」 まさかナミに押し倒されようとは、それこそ夢にも思わなかったぞ。 「ゼニゼニィ〜っ(アカツキもポケモンになったんだね)!! ゼニィっ(わ〜い、お揃い〜っ)!!」 「…………」 ポケモンになったっていうのに、その陽気さは相変わらずか。 道理で、ハルエおばさんの殺気なんて感じなかったわけだ。 ……っていうか、むしろポケモンになったんだから、そういうところもちゃんと感じられるようになったと思うんだけど。 ナミに限ってそれはないか。 でも、こうしてポケモンになってしまった以上、ナミと力を合わせてこの事態を乗り切って行かなければならない。 とりあえず、ナミが風邪をこじらせた原因を訊いてみよう。 幸い、ポケモン同士ということもあって、ハルエおばさんやじいちゃんに会話を聞かれても問題ない状態だ。 だけど、その前に…… 「カゲーっ(その前に)……カー、カゲーっ(どいてくれ)……」 「ゼニィ〜(うん、分かった)!!」 オレの言葉に、ナミはおとなしく退いてくれた。 ちゃんと言葉が通じるのなら、何とかならないこともないか……オレはこれからの道行きに、かすかな希望を見出した。 その希望を消さないためにも、オレは経緯を知りたかった。 一寸先が見えない状態なんだ、だから、せめて足元を固めておきたい。 オレとナミはその場に座り込んだ。 「カーっ(とりあえず)……カー、カー、カカーッ、カゲカゲーっ(どうして風邪が伝染ったんだ)? カーっ、カー、カー、カゲーっ、カーっ(やっぱり、オレが寝てるところにやってきたのか)?」 「ゼニィ〜、ガメガメ〜(うん、そうだよ)」 「カーっ(そういうことか)……」 思ったとおりだった。 風邪が移るのは、オレと接したからだ。 オレがあの薬を飲んで寝入っている間に、ナミはオレの部屋を訪ねてきてたんだ。 そうでもしなきゃ、風邪が移る理由はない。 「ゼニ(でも)……ゼニゼニィ〜、ゼニ、ゼニゼニガ〜(アカツキとこうやって話せるなんて、とても楽しいよ)!!」 「カゲーっ(おまえなあ)……」 ポケモンになってしまったことに対して、まったく後ろ向きな考えを抱いてないナミに、オレは呆れるしかなかった。 けれど……ナミはナミなりに、この生活を楽しんでいるらしかった。 傍目には、ただ鳴き合っているようにしか見えない光景。オレとナミの間だけで成立する会話。 こういうのも悪くないか…… 何日かはこうやってポケモンとして過ごしていかなければならないわけだし…… 変に思いつめて考えるよりは、せっかくポケモンになれたんだから、人間の時にはできなかったことでもやって、時間を潰そうか。 少しは前向きにならなきゃな……悔しいが、ナミに励まされた。 「カーっ(まあ、いいや)」 オレは立ち上がり、ナミに手を伸ばした。手っていうより、前脚なんだけど。 ま、この際どっちでもいいか。 「カーっ、カゲーっ、カゲカゲカゲーっ(せっかくポケモンになったことだし)…… カーっ、カゲーっ、カゲーっ、カーカーカーっ(一緒に楽しむとしようぜ)」 「ゼニィ〜っ(うん)!!」 ナミも立ち上がって、オレが差し出した手をギュッと握ってきた。 「話がまとまったようじゃな……」 雰囲気で察してか、じいちゃんが言葉をかけてきた。 孫が二人してポケモンになったって言うのに、オレたちの明るい雰囲気に触発されるように笑顔になっていた。 ナナミ姉ちゃんも、ハルエおばさんも。 「ハルエ。このことは内密に頼むぞ。アキヒト君はもちろん、ケンジやショウゴ、トモコにも知らせないように」 「分かってるわ……知られたらどうなるか、分かったモノじゃないものね」 じいちゃんの言葉に、おばさんは観念したように肩をすくめた。 ……って。 本当に、親父や母さんに知られたらまずいことになるんだろうか? いや、信じたくはないんだが…… 「では、一度研究所に戻るとしよう。いろいろと手を打っておく必要がある」 「分かりました」 「そうね……」 ナナミ姉ちゃんがオレを、ハルエおばさんがナミを、それぞれ抱き上げた。 研究所に戻るくらいなら、自分でも歩いていけるのに…… 不可抗力とはいえせっかくポケモンの身体になったんだし、自分の力で、自分の足で歩いてみたい。 オレもナミも二人の手を振り払って、地面に降り立った。 無駄だと悟ってか、二人ともオレたちの身体を抱き上げようとはしなかった。 草を踏みしめる感触は、人間の時とはかなり違っていた。 時々は素足で敷地に繰り出すこともあるけれど、ポケモンと人間の『感覚』の違いをまざまざと見せ付けられるような感じだ。 なんていうか……気持ちいいんだ。草の柔らかさ、適度に湿気を含んだ具合まで、足の裏から伝わってくる。 人間の数百倍、あるいはそれ以上に敏感なポケモンの身体だから、そういう風に感じられるんだろう。 「ゼニィ〜、ゼニゼニガーッ(あー、とっても気持ちイイ)!!」 現に、ナミもニコニコ笑顔で、遠足に行く園児のように手なんて振りながら歩いてたりする。 やっぱり、気のせいじゃないんだ。 みんなはいつもこの感覚を味わいながら研究所ライフを過ごしてるってことなんだろう。 なんだか、羨ましい。 いっそこのままポケモンとして生きてみるか、なんて一瞬だけ思ったけど、すぐにそんな考えをかき消す。 いくらなんでも、それはまずい。 親父や母さんがそのことを知ったらどうなるのか…… じいちゃんやハルエおばさんやナナミ姉ちゃんが恐れてるところを見ると、 もしかしたら本格的にヤバイことなのかもしれないけど、オレにとっては別問題だ。 肝心なのは、オレが研究所で過ごしているラッシーたちとどういう風に接していくのか、ってことなんだよ。 ずっとポケモンのままだったら、トレーナーとしてなんてとても旅を続けられないし、夢だって叶いやしない。 できれば…… できれば、オレがポケモンになったなんてことは知らせたくない。 無理なら、しょうがないんだけど…… 少なくとも、ラッシーならオレの窮状を受け入れてくれるんだけど……まあ、一応頭の中で、そうなってしまった時の対策は立ててある。 「…………?」 と、オレは脳裏に疑問符を浮かべた。 研究所が視界の中で少しずつ大きくなっていくのを意識の片隅に捉えつつ、考えは疑問を紐解こうとしていた。 期せずしてポケモンの身体になってしまったわけだけど、どうしてこういう風に人間らしい考え方ができるんだろうか……と。 ポケモンは人間に匹敵するだけの頭脳を持つ種類だっているし、それなりにいろんなことを考えられる生き物だ。 だけど、実際にポケモンになってみて……はじめて、疑問が沸いた。 だって、そうだろ? ポケモンになっても、今までと変わらない考え方ができる……それは一体どういうことなのかって。 元の姿に戻ったら、じいちゃんにそのことを話してみようか。 たぶん、じいちゃんなら興味津々って感じで食いついてくるんだろうけど。 こればかりは今考えたところで解決できそうにない。 疑問が頭の中に浮かんだまま生活するっていうのはやっぱり違和感あるけど、しょうがないだろう。 ポケモンライフを楽しみながら、ゆっくりと紐解いてゆくとしよう。 ヒトカゲの身体で歩いて、風を感じて、今までとはまるで違った視点で景色を見つめて。 たったそれだけのことだけど、なんだか楽しい。 鼻歌(?)らしい何かを口ずさみながら隣を歩くナミ。 オレの気持ちを明るくしてくれているのかもしれないと思いながら歩くうち、研究所にたどり着いた。 そこで待っていたのは…… 「あ、オーキド博士。どちらに行かれてたんですか? 捜したんですよ」 「う、うむ……」 ドアを開けて入るなり、ケンジが不満げに頬を膨らませながら詰め寄ってきた。 いきなりケンジに見つかるとは…… たぶん、乗り切れるとは思うんだけど……一瞬気まずそうな顔でたじろぐじいちゃんを見上げ、オレはなぜか不安になった。 もしもケンジが、オレとナミがポケモンになってしまったと知ったら、どういう反応を見せるだろうかと、考えてみた。 持ち前のウォッチャー根性丸出しにして、姉ちゃんやおばさんからオレたちを預かって、 一日中、面倒看ながらスケッチしたり話しかけたりしてくる。 臭い演技とすら思えるようなオオゲサな驚きを見せて、その場で白目を剥いて気絶する。 突然のことにパニックになって、親父や母さんに連絡を取ろうとする。 もちろん、じいちゃんたちに取り押さえられて未遂に終わる。 その後は軟禁状態で、外との連絡は一切取れない状況に置かれる。 パッと考えついたのはその三つだけど、蓋を開けてみれば、そのどれにもならなかった。 というのも、じいちゃんは何食わぬ顔で、いつもの調子で言葉を投げかけたからだ。 「うむ、すまん。少々気がかりなことがあって、敷地に行っておったのじゃ」 「気がかりなこと……そのヒトカゲとゼニガメですか?」 「うむ。一人ではいろいろと時間がかかると思って、ナナミとハルエに助力を願って、この二体を捕まえてきたというわけじゃ」 「そうだったんですか……」 口から出まかせなのに、ケンジはあっさりと納得した。 それだけじいちゃんのことを信頼してるんだろう。ここまで来ると、妄信と言ってもいい。 ケンジには悪いけど、ここはこのウソで納得してもらうしかないだろう。 じいちゃんとしても、信じてくれている彼を裏切るような発言をして、胸が痛まないはずがない。 「カーっ……?」 オレはケンジの靴下を引っ張った。 変なところからバレないように、ポケモンになりきってしまえばいいんだ。 「うん、どうしたの、ヒトカゲ?」 ケンジは靴下を引っ張るヒトカゲ――オレを抱き上げた。 オレとケンジの目線の高さがピタリと合う。 「カーッ、カーッ」 手足をバタバタ振って、笑顔になったりして、ケンジに懐いてるフリをしてみる。 すると、ナミも同じようにはしゃぎ出した。 「ゼニィ〜ッ(あたしも〜)!!」 オレだけが可愛がられてるのはフェアじゃないと言いたげで、ナミもケンジの靴下を引っ張った。 「あ……ゼニガメまで……」 敷地のポケモンに懐かれることなんて、ケンジとしては珍しいことでもない。 だけど、ここまで陽気に姦しく接されては、どこか戸惑い気味だ。 よし、いいぞ、ナミ。オレは胸中でナミを誉めた。 ポケモンらしく振る舞えば、ケンジがいても大丈夫だと、じいちゃんも安心できるだろう。 場の雰囲気が和む。その雰囲気に便乗するように――あるいは、オレの意図に気づいたらしく、じいちゃんがポツリとケンジに伝えた。 「ほう、もう懐かれておるとは……さすがはケンジじゃ。 じゃが、この二体はしばらくわしが預かることにする。いろいろと知りたいこともあるのでな」 「分かりました。食事はどうします?」 ケンジは頷いて、オレを地面に下ろすと、ナミの頭を笑顔で撫でた。 「ナナミに頼むことにしよう。きみも忙しいじゃろう。良いな、ナナミ?」 「え、ええ……構いませんが……」 むしろ、話を振られたナナミ姉ちゃんの方が戸惑い気味だ。 本当にこれで良いのかと、困惑しているようにも見えるけど、ハルエおばさんに肩を叩かれて、すぐに表情を戻す。 とりあえず、これでケンジはごまかせた。 まあ、あとはオレの部屋に近づかないようにとじいちゃんが念を押してくれれば、それでバレることはないだろう。 もちろん、じいちゃんはその一言を付け足しておいてくれた。 「ナナミ、ハルエ。二人はケンジの手伝いをしてやってくれぬか。わしもいろいろと手が離せぬのでな。 それではヒトカゲ、ゼニガメ。行くとしようか」 「カーっ」 「ゼニィっ!!」 じいちゃんの言葉にオレとナミは大きく頷いて、歩き出した。 ケンジはそれから何も言わなかった。 問題を一つ、大事の前の小事ってところだけど、解決できて良かった。 ケンジにバレるか、バレないかってことで、結構違ってくるんだ。 秘密を知ってるのは、じいちゃんとナナミ姉ちゃんと、ハルエおばさんの三人だけ。 人数が増えない限りは、数ヶ月単位でどうにかごまかすことができるだろう。 それに、ナナミ姉ちゃんとハルエおばさんは人手不足を理由に、ケンジの手伝いをする傍ら、監視役も務める。 そこんとこは抜かりないってところなんだけど…… 根本的な解決になってないのは、言うまでもない。 そのせいか、モンスターボール保管庫にたどり着いたオレたちに、じいちゃんが投げかけた言葉は…… 「ヒトカゲ、ゼニガメ。見た目では他のポケモンと区別がつかぬから、これをつけていてもらおう」 孫の名前ではなく、ポケモンの種族名。 一つ屋根の下でケンジと暮らしてるわけだから、オレとナミの名前を出したところを聞かれてたら、後々ややこしくなる。 そこんとこは、じいちゃんもちゃんと承知してくれているらしい。 そりゃ、そうだよな。 オレでも考えつくようなことだ。 じいちゃんの頭脳が見逃すことなんて、まずありえない。 じいちゃんは机から赤と青のスカーフを取り出すと、オレとナミの首に巻いてくれた。 オレには赤、ナミには青。 他のポケモンと一目で区別がつくようにという、じいちゃんなりの目印なんだろう。 首に巻いてもらったといっても、動きにくいなんてことはないし、あんまり気にならない。 そこんとこは、ポケモンのことをたくさん知ってるじいちゃんらしい手際の良さだ。 じいちゃんは窓の外を見やった。元の身体なら、窓の外に何があるのか分かったんだろうけど…… この身体じゃ、どうにも視点が低くて仕方ない。 何かを確かめるように目を細めて、それからオレたちに視線を戻す。 「とりあえず…… ケンジは何とかごまかせたが、おまえたちが元の身体に戻れないことには根本的な解決にはならん」 ケンジがハルエおばさんとナナミ姉ちゃんを伴って外に出て行ったのを確認していたらしい。 そうでもなければ、核心的な部分に触れたりはしない。ああ見えても、じいちゃんは結構慎重なタイプなんだ。 「カーっ」 オレは小さく頷いた。 少しでもポケモンらしく見せておかなければ…… じいちゃんたちだって、オレたちがポケモンになってしまったことを誰にも知られまいと全力を尽くしてくれてるんだ。 オレたちだって、何もしないわけにはいかない。 少しはポケモンらしく振る舞っておかないと。少しでもじいちゃんたちの負担を軽減させるために。 そんなオレの気持ちを察してか、じいちゃんが小さく微笑みかけてくれた。 「短くても数日……長くなれば、それこそいつになるかは分からんが、おまえたちにはその身体で何とか生きていてもらうよりない」 「ゼニィっ!!」 頷くナミ。 結構深刻な話なんだけど、やっぱり雰囲気を読んでない。ナミは相変わらずニコニコ笑顔で陽気さを振り撒いている。 まあ、それはそれでポケモンらしいのかもしれないけど…… オレが口を挟む間もなく、じいちゃんが続ける。 「ここに来るまでの間、わしなりにいろいろと考えたのじゃが…… 原因があの薬にある以上、自然回復を見込むのは筋違いではないかと思ってな。 これからすぐにWHOに掛け合って協力を仰いでみるが、恐らく、同じ成分の薬を飲まなければ回復しないのではないかと思っておる」 本当かどうか、オレにはよく分からないんだけど、こればかりはじいちゃんの言葉を信じるしかない。 オレは黙って耳を傾けていた。 「まだ世間には出回っていない薬ゆえ、ストックがあるとは限らない。 かなりの時間がかかることが予想されるが…… その間、ポケモンバトルといった複雑な動きをするもの、あるいはそれに準じたことはしないように。 下手にバトルをして進化などしてしまったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまうかもしれないからな。 分かったか?」 「カーっ」 「ゼニィっ!!」 ポケモンになっても陽気で姦しいナミはともかく……少なくともオレは、じいちゃんの言いたいことは分かる。 あの薬のせいで細胞単位で変化して、人間の身体がポケモンの身体になってしまったんだ。 だから、同じ薬を飲めば、元の姿に戻るという考え方だ。 それまでの間、バトルなんかして、進化と言う形でさらに身体の細胞を組み替えてしまったら、 下手をすれば元に戻れなくなるかもしれないってことなんだ。 意識はそのままでも、身体はポケモンのものだ。 だから、バトルによって進化してしまうことがあるかもしれない。 これ以上細胞が変わってしまえば、元に戻るどころか、ポケモンとして生きてかなきゃならなくなるかもしれない。 それだけはオレとしても嫌だから、できるだけバトルやそれに準じたことは避けるようにしよう。 分かってるんだか分かってないんだかビミョーに怪しい態度のナミに、後でキッチリ言い聞かせないとな…… こいつ、調子に乗ってバトルとかやりそうだし。 カメールに進化したら、元に戻れないくらいのことを言ってやれば、分かると思うんだけど。 「それを守ってくれれば、わしとしては、おまえたちの行動を制限する気はない。 わしが言うのもなんだが……せっかくポケモンの身体になれたのだ、少しは楽しむと良いじゃろう。 アカツキ、おまえのことじゃから、わしらの手を煩わせないようにいろいろと気を遣ってくれているじゃろう。 じゃが、今回ばかりは任せっきりにしてもらっても大丈夫じゃ。おまえなりに楽しむと良い」 「カーっ……カーッ……」 オレは小さく頭を下げた。 妙に人間くさい仕草だけど、本当に頭が下がる思いだったんだ。 やっぱり、じいちゃんにはオレの思ってることが分かるんだな…… 悔しいけど、今回ばかりはオレが余計な気を遣うことこそが、じいちゃんの足を引っ張ることになるんだろう。 じいちゃんが直接『少しは楽しむと良い』と言ってくれた以上、今回はその言葉に甘えさせてもらうしかない。 その分は、人間に戻った後で、粉骨砕身の、そして獅子奮迅の働きで取り返してみせる。 オレは決意を固め、グッと手を握った。 「カーっ(ナミ)」 「ゼニィ(な〜に)?」 オレはナミの手を取って、保管庫を後にした。 「ゼニゼニガ〜ッ(外行くの)?」 「カーっ(そうだよ)」 オレはナミを連れて研究所の敷地に繰り出した。 To Be Continued...